<   2015年 07月 ( 33 )   > この月の画像一覧

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あれは 2009年、ということはもう 6年も前のことになるが、「このミステリーがすごい ! 海外版第 1位」という本の帯が目に入った。「このミステリーがすごい!」についてご存じない方は以下をご覧頂くとして、ミステリーを読もうと思うときには結構な信頼度をおけると思われるランキングで、私のような無節操な乱読家にはありがたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%8C%E3%81%99%E3%81%94%E3%81%84!

本との出会いには、題名とか装丁とか、そのときの自分の興味とか、いくつかの要素が関係するが、このときには、さらに以下の文言が決め手となった。「リドリー・スコット監督で映画化決定」--- その本が、上下 2冊に分かれた、トム・ロブ・スミスの「チャイルド44」であった。旧ソ連のスターリン時代を舞台とした、なんとも後味の悪い作品だが、ここで描かれた人間心理は、犯罪者の側のそれよりも、犯罪を解明する側のそれに重点が置かれており、心胆寒からしめるものがあった。衝撃的な内容であったので、読み終えたあと、回りの人たちにも一読を薦めた覚えがある。

ところが、その後待てど暮らせどリドリー・スコットが映画化したという話は聞かなかった。時々、「あれはどうなっているのかなぁ」とは思っていたが、そろそろその思いも薄れつつある頃、この映画の宣伝を目にした。結局、リドリー・スコットは監督は務めず、製作者のひとりだ。ただ、この映画のプログラムによると、リドリー・スコットがいち早く原作に目をつけたのは本当のことらしい。作者はこれが処女作、しかも、スコットのアプローチは原作の出版前のことというから恐れ入る。そして監督として起用されたダニエル・エスピノーサはスウェーデン人で、「イメージマネー」なる日本未公開なるも同国映画史上最も興業成績を挙げた作品でデビュー、その後、デンゼル・ワシントン主演の「デンジャラス・ラン」がヒットしたという。

一言で言うとこの映画のテーマは、圧政の中で反体制者を始末する義務を負った警察が、都合の悪い事実に目を覆いながら、連続殺人 (44人の子供) の犯人を真剣に追うことをせず、適当に犯人をでっちあげて次々に逮捕していたという事態の異常性と恐ろしさである。そこには、スターリン時代に社会を覆っていた恐怖が色濃く表れている。人々は社会への忠誠を試され、反体制派は、発見されれば裁判も受けずに射殺される。人としての感情を押し殺して職務遂行を是とする者や、自分勝手な欲望を取り繕って他人を出し抜く者が跋扈する。そのような中では、連続殺人事件の犯人を放置することは国家への反逆とみなされるため、警察は、とにかく真犯人など誰でもよいから捕まえて自白させ、処刑するのだ。実話をもとにしているため、原作はロシアでは発禁らしい。

さて、映画そのものについて語りたいのだが、さて何を語ろうか。このブログでご紹介する映画では既に 3本目の主演作となるトム・ハーディは素晴らしい。ここでの彼の役回りは、エリート警察官で、組織への忠誠心は充分にあるのだが、不正を看過することのできない誠実な性格で、妻や友人への思いやりの心があるがゆえに、自らを危険かつ不利な環境に追い込んでしまう、そんな人間だ。爽やかさはほとんどなく、善玉か悪玉かすら、すぐには分からないような役柄だ。それから、旧ソ連を舞台にした映画ということで、まるでロシア語のような不明瞭な英語を喋る点も、演技の一環なのであろう。
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ところでこの俳優、バットマンシリーズの「ダークナイトライジング」に出演していたらしい。うーん、覚えがないなぁと思って調べてみると、ベインという悪役だった。
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こりゃ分からんって (笑)。ただ、今回も協演しているゲイリー・オールドマンとは、そこでも同じ映画に出ていたのですな。協演シーンがあったか否かは覚えていないが・・・。この人、もともと様々な役柄をこなす怪優であるが、最近は演じるキャラクターの傾向が決まってきたような気もしますね。今回はトム・ハーディが左遷される地方の警察の上司で、人当りは決してよくないものの、信念を持つ男の姿を渋く演じている。でも、この人が出ると、まともな役でもなんだか怪しく見えるんだよねぇ(笑)。
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原作の詳細は覚えていないものの、映画はおおむね原作に忠実なようだ。但し、犯人像の設定でひとつ大きな違いがあり、こればかりは私も、映画を見ながらすぐに気づいた。原作の方が呵責ないとも言えるが、実は映画の方が、一般的な人々の内に潜む狂気を浮彫にして残酷であるとも考えられる。ソ連時代、地方で飢餓が発生すると、極度の食料不足から、人の肉を食うという事態まで発生したと聞く。なんとも痛ましい限りだが、この映画の背景がそういう時代であったという認識があるとないでは、映画の持つ重みが格段に異なる。その一方で、この映画があらわにする人間の狂気とは、実は我々の何気ない日常の裏にも潜んでいるものであると思う。

思考停止、真実に目をそむけた上司への盲従、メンツの偏重、都合の悪い話の隠蔽等々、間違った自分に気づいたら、深呼吸してこの映画を思い出そう。

by yokohama7474 | 2015-07-30 22:44 | 映画 | Comments(2)

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最近、街の本屋さんの数が減ってしまって、ぶらっと立ち読みする楽しみが減ってしまったが、それでも大規模書店に行けばその楽しみは未だに存在している。こう暑くなってくると、子供の頃、長い夏休みにすることがなくて、本屋に涼みがてらでかけ、あれこれつまみ読みした思い出が甦ってくる。もっともその頃は、今ほど暑くはなかったような気がするが・・・。

話が脱線してしまったが、ある時本屋に積んであった本の帯に、「夢中で読めた。紛うことなき徹夜本だ。」というコピーが見えた。手に取ってみると、男か女か分からない、見慣れない作者名。なじみのない題名。時々私がそうするように、この時もそのままこの本を持って、レジに向かったものだ。帰宅してふと気づいたことには、これ、昔斉藤由貴が主演していた、相米 慎二監督の映画の原作ではないか!! ということは、最近の本ではない。本を開いてみると、1975年の作とのこと。それは古い。作者は北海道在住の女性作家であるが、2005年に 56歳で急逝しているとのこと。この作品は、ロシアの童話、マルシャークの「森は生きている」に着想を得て書かれたもので、孤児である女の子が青年に育てられる過程が描かれているが、途中で起こる毒殺が物語の大きな転換点となるというもの。

創元推理文庫だし、当然ミステリーと思って手に取った私は、徹夜本という触れ込みにもかかわらず、想定外の大変な忍耐を強いられつつ読み進んだが、なかなか殺人事件は起こらないし、起こったあとも物語は牛歩のごとき進展のなさだ。結局、何週間も放置するような事態に陥り、徹夜どころか、読み終わるのに 2ヶ月ほど要してしまった。結局これは、ミステリーではないし、殺人事件に驚くべきトリックがあるわけでもない。描かれた少女の心理を追うべき書物なのであろう。・・・ということは、大変申し訳ないが、私にとっては本来 No Thank You の分野の本である。何より、登場人物の発想、発言、行動にリアリティがない。こういう人が本当にいるなら、ちょっと会ってみたい。もちろん、文学はリアリティなくとも成立しはするが、この書物の手法では、どうであろうか。リアリティのないことは美点になるとは思えない。登場人物たちの会話が、どこまで行ってもきれいごとに見えてしまうのだ。

比較すること自体酷かもしれないが、同じ孤児を主人公とした名作に、シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」がある。あれはまさに強烈な作品で、読んでいて何か血がかぁっと熱くなる経験をしたものだが、大変残念ながら、もし日本に同等の天才がいたとしても、同じレヴェルの作品を書くことはできないと思う。それは、自己と他者という対立関係において、言語というかたちで形成されるコミュニケーションの方法が、日本人と欧米人 (日本語とラテン語系言語) では決定的に異なるからだろう。やはり日本語の文学は、日本人が宿命的に追っている曖昧な自己表現を前提として書かれるべきではないか。

この作者は現在再評価が進んでいるとのことらしく、否定的なことを書くのは気が引けるが、この本をミステリーと思って手に取ることさえなければ、また違った読み方もあったのかもしれないなと思う。因みに、斉藤由貴主演の映画も、見ておりません。あしからず。


by yokohama7474 | 2015-07-30 01:06 | 書物 | Comments(2)

お知らせ

このブログの初期の記事から写真が消えてしまっていて、大変気になっていたのですが、すべて修復の上、ところどころ微修正を加えました。今まで、「写真がないじゃないか!」とイライラされていた方、「そんなんならやめちまぇー」と甲高い声で怒っておられた方、「別に見せたくないなら興味ないからいいよ」と突き放しておられた方、もしよろしければご覧下さい。今後とも是非、当ブログに時々お立ち寄り頂きたく、よろしくお願い申し上げます。
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by yokohama7474 | 2015-07-30 00:29 | その他 | Comments(0)

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「兵士の物語」は言うまでもなく、ストラヴィンスキー作曲による 1時間程度の曲。語り手がいて、小編成 (7名) のオーケストラがいて、登場人物たちは音楽に合わせて踊るのだ。「語られ、演じられ、踊られる」と作曲者は副題をつけた。このような曲であるがゆえに、通常のオーケストラコンサートで取り上げられるレパートリーではなく、小劇場での役者やダンサーによる公演が、日本でも様々に行われて来た。今回、スターダンサー、アダム・クーパー (奇抜な演出家マシュー・ボーンが「白鳥の湖」に起用して大人気となった) の主演で、以前英国ロイヤル・オペラで上演されたプロダクションの、日本独自の再演として今回上演された。主役たちは全員、ロイヤル・バレエ出身者だ。

私は古典的なバレエにはとんと興味がなく、多少なりともコンテンポラリーな要素があるパフォーマンスのみ興味の対象としているので、この公演に足を運んでみた。2階席のチケットを購入していたが、演出の都合とのことで 2階は閉鎖され、1階の席に振り分けられた。中には客席ではなくステージ上に設けられた席を振り当てられた観客たちもいた。薄暗い劇場風のセットをしつらえた舞台上にも狭めの丸テーブルがいくつか置かれていて、その雰囲気に、昔ニューヨークで見たミュージカル「キャバレー」を少し思い出した。

さて、内容であるが、さすがにそれぞれのダンサーが無駄のない動きで見事な流れを見せる。特にアダム・クーパー。舞台における存在感は抜群だ。
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宣伝文句には、衝撃のラストと謳っているが、まあ原作通り。ただ、確かにその表現は若干刺激的だ。ここに出てくる悪魔は、西洋においてはおなじみの、人の希望に付け込んで魂を奪って行く邪悪な存在であって、人のよい兵士ヨセフは、案の定というべきか、悪魔にとらえられるということだ。とはいえ、それほど後味が悪いということもない。そのひとつの理由は、オケがあまりに小さい編成で、かつ新古典主義に入りつつあった当時の作曲者の洒脱な、あるいはとぼけた雰囲気が横溢しているからだろう。

というわけで、会場はアダム・クーパー人気で大混雑かと思いきや、意外とそうでもなかった。率直なところ、1時間と少しで休憩もなく終わってしまう短い上演にしては、チケットのお値段がいささか高い。そんなわけだろう。会場では、リピータ―割引と称して、別の日の公演を半額で売っていたが、うーん、残念ながら、ストーリーが複雑であるわけでなし、もう 1回観ようという人は限られてしまうのではないか。

優れた舞台芸術といえども、本拠地を離れて大成功続きというわけにはなかなか行くまい。ただその中で、東京で見ることのできる舞台芸術の選択肢は膨大で、そのことにはともあれ深く感謝しよう。金と時間は、かかってしまいますがネ。

by yokohama7474 | 2015-07-28 00:21 | 演劇 | Comments(0)

デニス・ラッセル・デイヴィス。ちょっと通好みの指揮者である。彼が 2013年の年末の第九以来、読響の指揮台に返ってきた。
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曲目は以下の通り。

ブラームス : ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調作品102
ホルスト : 組曲「惑星」作品32

D・R・デイヴィスの名前は、昔 FM でライヴ録音をせっせとエアチェックしているときに、主に現代音楽の分野でよく耳にした。もう 30年以上前であろうか、20世紀最高のピアニストのひとり、アルフレート・ブレンデルがベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を演奏した際、ライヴ録音でディスクとして発売されたのは、レヴァイン指揮シカゴ交響楽団がバックであったが、もうひとつ、ベルリン・フィルとの連続演奏で指揮者を務めたのが、この R・デイヴィスであった。その頃以来、息の長い活躍である。

ブラームスの 2人のソリストのうち、ヴァイオリンのダニエル・ゲーデはもとウィーン・フィルのコンサートマスターで、今はこの読響のコンマスを務める。ただ、正直言うと、今の読響でのポジションの前任に当たるのだろうか、元ロンドン・フィルのコンマスであったデイヴィッド・ノーランほどには貢献しているようには見受けられない。一方のチェロのグスタフ・リヴィニウスは、ドイツ人のソリストだ。このブラームスの演奏は、もちろん一定レヴェルではあったものの、聴衆を熱狂させるには至らなかった。

ところが、後半の「惑星」は、まさに鬼才 R・デイヴィスの面目躍如。大変面白かった。この曲、その際立った色彩感でクラシック音楽の人気曲目のひとつであるが、存外生演奏に接する機会は多くない。そのひとつの理由は、50分の大曲のうち、最後のほんの数分だけのために女声合唱 (今回は児童合唱であった) が必要だという経済的理由もあるだろう。だが、雄大なドラマ性を持つこのような曲こそ、生で聴く価値がある。もしかすると通なクラシックファンからは過小評価されているのではないだろうか。そんな曲を通好みの指揮者が振るという、なんとも逆説的な楽しみ (笑)。第 1曲、作曲者が迫りくる第 1次大戦を予感して書いたと言われる「火星、戦争の神」は、ゆっくりとしたテンポで始まり、怒涛の音楽の奔流を築いた。また、最も有名な第 4曲「木星、快楽の神」は、逆に早めのテンポで飛び交う音の線をくっきりと描き出した。いやなんとも、見事な音楽の描き分け。またそれを見事に音にする読響。素晴らしい演奏であった。このクラスの指揮者が入れ替わり立ち代わり指揮台に立つ日本のオーケストラ、やはりこまめに聴きたいものであるとの思いを新たにした。

ところで、読響の首席チェロ奏者、毛利伯郎が今回の演奏会をもって引退したのだが、彼のインタビューがプログラムに載っていて、その「惑星」について、「かつてロリン・マゼールの指揮でやったことがあるんですよ」と語っているが、はいはいそうでした。マゼールらしい切れ味の鋭い演奏だった。プログラムはすぐ出ますよ。あれは確か 10年くらい前・・・ややや、1992年とある。実に 23年も経っている。うーむ。竜宮城で鯛やヒラメの舞踊りを楽しんだ記憶はないのだが、いつのまにそんなに時間が・・・。
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by yokohama7474 | 2015-07-27 23:39 | 音楽 (Live) | Comments(0)

夏休みということもあり、家族連れで楽しめ、かつ少し納涼も期待できる展覧会ということだろうか、魔女についての展覧会が名古屋で開かれている。既に大阪、新潟を回り、このあとは浜松と広島を巡回する予定である。名古屋での会場は、名古屋市博物館。いささか古めかしいと言ってもよい建物だが、この展覧会の入り口はお化け屋敷風に設営され、さて一体何が見られるのかと、訪問者をワクワクさせる。
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魔女というと日本では、昔からアニメにもキャラクターがあり、最近は美魔女などという言葉もあって、人を魅了する魔法の使い手として、なにか可愛らしく不思議な存在というイメージであるが、この展覧会は一味違う。2009年にドイツ・プファルツ歴史博物館が企画開催した展覧会がベースになっているという。それを聞いて私は、この展覧会の性質になんとなく思い至った。主催者の方々を邪魔する意図は毛頭ないが、これは家族用の企画ではない。人類の歴史の暗黒面について考えさせられる、大変に重い内容の展覧会だ。

プファルツ地方は南ドイツ、ライン川沿い。シュパイヤーという街が中心。そう言えば随分以前に、このシュパイヤーの大聖堂でゲオルク・ショルティが珍しくシュトゥットガルト放送響を指揮したブルックナー 2番を NHK が放送していた。また、セルジュ・チェリビダッケがライン・プファルツ管弦楽団なるオケを指揮したバルトークの映像も手元にある。ドイツの中でも、この地域には一般に知られた観光地があるようには思えず、重苦しい音楽の似合う地域という勝手なイメージがある。ただ、どんな地域であるかは全く知識がなかったので、あれこれ思って調べてみると、なんと、魔女という言葉は南ドイツで生まれていて、なおかつ驚くべきことには、欧州では 15世紀半ばからの 300年間で実に 6万人 (!) が魔女として処刑されており、その半分以上がドイツ (当時の神聖ローマ帝国) の領域内で起こったということを知るに至った。宗教裁判といえば、反宗教改革としてカトリック圏、特にスペインで行われた火あぶり等を思い浮かべるが、なんのことはない、プロテスタントのお膝元であるドイツが最大の悲劇の舞台だったとは。自国で発生した残虐事件については、ナチスでもう手一杯かと思われたドイツが、独を、いや毒を食らわば皿までと企画したのがこの展覧会であろうか。ことほどさように、とてもとても家族で楽しく見られるような内容ではない。

展示品には様々な神秘的なものがある。最初は魔除けの処方箋やお守り、人形やメダルなどだ。これは、ランツフートという場所で発行された「飲むお守り」。この聖母像を一体ずつちぎって水で飲んだという。邪悪なるものを追い払いたいという人間の切なる願いを知ることができる。
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それから、錬金術についての展示がある。大規模なペストの流行や相次ぐ戦争で人心が動揺し、形容しがたい不安が欧州中を覆った時代についての展示がある。ここで鑑賞者は気づくのだ。生きることが困難であったからこそ生じた、人知を超えた不可思議な力への憧れと畏れ、またそれゆえにこそ生じた社会の中でのスケープゴートの必要性を。これこそが欧州が魔女を生み出した原動力とするならば、それは人間が万能ではなく弱い存在である以上、歴史の中でいついかなる時代にも生まれる狂気の産物こそが魔女なのだ。

そこに追い打ちをかける発見があった。ルネサンス 3大発明のひとつと言われる、印刷術だ。そういえば、この時代に生まれたグーテンベルクの印刷術。その発明はどこで生まれたか。ドイツではないか。ルターの宗教改革を支えた印刷術はまた、人々が求めるスケープゴートのイメージの流布に大きく貢献したわけだ。デューラーのような叡智に満ちた人物さえ、このような魔女のイメージ (1500 - 1503年) で、人々の恐怖心を煽ったのであろう。
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展覧会はまさにクライマックスで、拷問道具や魔女が着せられたシャツの複製、また死刑執行人のマスクなどが登場する。なんとも身震いする展示品だ。罪もない多くの人々が自白を強要され、無実を訴えながら処刑されていった。
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最後に執行された魔女の処刑は、1795年ポーランドでのことらしい。近代文明の発展とともに魔女狩りは姿を消したと言ってもよいわけだが、我々はその後の人類の歴史において、ナチスによるホロコーストはもとより、戦後ハリウッドでは赤狩りが、スターリン時代には粛清が、毛沢東時代の中国では文化大革命が起こったことを知っている。魔女狩りこそは人間の本性にひそむ、本当の魔であることに思い至るのである。

それにしても、さすがドイツの歴史博物館、自分たちの歴史のダークサイドを直視する勇気はすごい。現代の我々は、このような展覧会を見る機会によって、そのことを肝に銘じる必要がある。なので、名古屋のお父さんお母さん方、そこんとこ、よろしくお願いします。

by yokohama7474 | 2015-07-27 22:50 | 美術 | Comments(0)

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元来、演劇に分類される伝統芸能 (能、文楽、歌舞伎) には興味のある方である。しかしながら、最近は特に日本のオーケストラを聴きに行く機会が増えたこともあり、残念ながらこちら方面にはなかなか足が向かない。今回、大阪訪問の機会に是非文楽を見たいと思いたち、久方ぶりに渇望を癒すことになった。調べてみると、前回の文楽鑑賞は、東京の国立劇場で平成 24年だから、実に 3年ぶりの文楽ということになる。

周知の通り、文楽 (人形浄瑠璃) は近年、橋下大阪市長の方針により、厳しい環境に置かれている。種々議論はあるだろうが、効率的な興業マネジメントの観点は、いかにユネスコ文化遺産であろうと必要であり、昨今の経緯によってさまざまな自助努力がなされたのなら、それは意義のあることだ。ただ一方で、1つの人形に 2人も 3人も人形遣いが必要で、かつ習熟にこれだけ時間のかかる人形劇というものも世界に例がないと思われ、要するに商業ベースに乗ることなど所詮は無理ではないか。オペラも大変な金食い虫なので、本場イタリアの歌劇場でも予算削減が深刻な問題になっている。経済のないところに文化はなく、もちろん人間の生活が最優先とはいえ、人間たるもの、文化なくしては生きて行けないのもまた真実。金額的なインパクトを冷静に考えながら、かけがえのない文化遺産を守って行きたいものだ。

さて、伝統文化の継承には、その時代時代の観客にアピールすることがいちばん。大阪で文楽を見るのはかなり久しぶりではあったが、劇場も雰囲気が明るくなり、字幕導入をはじめとする様々な工夫により、客席はほぼ満員の大盛況だ。劇場には小さいながら資料館も併設されていて、なかなかためになる。
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また、客席に向かうエスカレーターを昇る際に、今回の演目「生写朝顔話 (しょううつしあさがおばなし)」の主要登場人物の写真が、垂れ幕として大きく展示されている。
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今回は、夏休み期間中に 3つの演目が上演されているうち、第 2部だけを見たのだが、上演時間は、2回の休憩を挟んで 3時間半近い。それでもこの「生写朝顔話」の、恐らくは半分程度の上演であろう。第 3部で続きが上演されるものの、最後の段がいくつか省略されるし、今回の第 2部も、その前の部分を省略しての上演だ。これはワーグナーも真っ青、全編上演は、文字通りまる一日仕事ということだ。もちろんそれだけ長い話なので、あれこれ複雑ではあるのだが、かいつまんでストーリーを説明すると以下の通り。儒学者 宮城 阿曽次郎 (みやぎ あそじろう) は、武士の娘 深雪 (みゆき) と出会い、扇に朝顔の歌をしたためて愛の証とする。ところがこの 2人、運命の波に弄ばれ、なかなか再開することができない。深雪に横恋慕する医者 萩の祐仙や、人買い 輪抜 吉兵衛などの脇役が聴衆の笑いや怒りを買うが、朝顔の歌が二人を結びつけるよすがとなり、曲折を経て最後は結ばれるというもの。飄々とした笑いの場もあり、まさに断腸の思いで登場人物たちが呻吟する情念の場もあり、まさに人生の様々な感情が凝縮された芝居である。どうやら中国の物語に想を得ているということらしいが、同じ題材による読本、歌舞伎の成立のあと、1832年 (天保 3年) に文楽として初演されたとのこと。

この日の上演のクライマックスは、浜松小屋の段である。矜持ある武士の娘たる深雪が人買いにさらわれ、郭に出ることを拒んで脱出するが、つらい運命に悲嘆の涙を流しすぎたあまり (!!) 失明し、子供たちからもいじめられる落ちぶれた境遇。そんな彼女をようやく探し出した乳母の浅香が、折から深雪を追ってきた人買いの輪抜 吉兵衛と刺し違えて絶命するのだが、その表現がすごい。吉田 蓑助の操る深雪の細微な動きから流れ出る情念たるや、尋常ではない。人間の演じる哀しみの表現とは異なり、ここにはより純化した感情が立ち現われていると思う。リアリティを越えた何かがあって、人の心の奥深くにそのまま食い込んでくる。私の周りでは何人もの人が、この場面でハンカチを目に当てていた。このような並外れた Emotion を表現できる演劇形態が、世界にどのくらいあるであろうか。まさに文楽、恐るべしである。

このブログをご覧の方で、もしまだ文楽経験のない方がおられたら、是非一度ご覧頂くことをお奨めする。人生変わるかもしれません。

最後に、文楽人気向上にかけた関係者の努力の例を 2つ。ひとつはこれ。大阪名物、くいだおれ人形である。なぜこんなところに、と思ってあとで調べてみると、なんとこの人形、文楽人形製作者の二代目由良亀 (淡路島出身で、谷崎の「蓼食う虫」の中にも登場するらしい) の手になるものらしい。なんとまあ、こんなところにも大阪の文楽の伝統が生きていたのだ。
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そして、次がこれ。ちょうど今公開されている、「ターミネーター 新起動」のパロイディだ。画面の反射で見にくくなってしまっているが、ターミネーターのポスターに書いてある文句を逐一パロディとしていて、なかなかに凝っている。
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このような前向きな発想によって、日本の誇るすばらしい伝統芸能が、より一層発展しますように!!

by yokohama7474 | 2015-07-26 22:45 | 演劇 | Comments(0)

テレマン室内オーケストラは、指揮者 延原 武春 (のぶはら たけはる) によって、実に 1963年 (半世紀以上前だ!!) に大阪で設立された。今日では古楽器専門オケとして著名な存在だ。実際、一般に知られている日本の古楽オケは、バッハ・コレギウム・ジャパンと、このテレマン室内オーケストラくらいではないか。両方とも関西の組織であることには、何か意味があるのだろうか。

指揮者の延原 武春は、1943年大阪生まれの 72歳。以前大阪フィルを指揮した演奏会を聴いたことがあり、そのコテコテの難波のオッサンぶりと、演奏する音楽のペダンティシズムのギャップがすごかったので、いつか手兵であるテレマンとの演奏を聴きたいと思っていた。ましてや、その演奏を大阪倶楽部で行っているのを NHK BS で見て、思いは募るばかりであった。その間、武原とテレマンのベートーヴェン交響曲全曲の CD を購入したし、中野順哉著の「小説・延原武春」も読んだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%80%B6%E6%A5%BD%E9%83%A8

延原のことをコテコテの難波のオッサンと書いたが、よく見ると財界人のようにも見える。伊藤忠商事の岡藤社長 (やはりコテコテの難波のオッサンらしい) と比べてみよう。上がマエストロ延原。下が岡藤社長。なんとそっくりではないか。
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さて、今回の演奏会は、大阪を代表するモダニズム建築として重要文化財に指定されている、中之島中央公会堂だ。株式仲買人であった岩本 栄之助の寄付をもとに、岡田 信一郎の案を、明治時代を代表する建築家、辰野金吾が実質的に率いて 1918年に完成した。その頃の大阪は、未だ東京を寄せ付けない日本最大の経済規模を誇る都市であったはずだ。
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1999年から 2002年の間に保存・再生工事がなされたとのことで、建物内部には資料館があるのみならず、各所に当時の建築技法を紹介する説明板が設置されている。最も興味深かったのは、土台となっている杭であった。ちゃんと詳しい説明もある。へー。まるでヴェネツィアかサンクトペテルブルクだ。大正モダニズムの技術恐るべし。
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さて、寄り道も楽しいものであるが、今回の演奏会について触れよう。曲目は以下の通り。

モーツァルト : 交響曲第 29番イ長調 K.201/186a
ハイドン : ピアノ協奏曲ニ長調
ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ロ長調作品55 「英雄」

会場となった中会議室は、レトロ感覚満載だ。
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まるでヨーロッパの宮殿のような優雅な雰囲気。実際、音響効果も素晴らしく、なかなか味わうことのできない雰囲気だ。

初めて生で聴くテレマンは、コンサートミストレスの浅井 咲乃率いる弦楽器がニュアンス満点。管楽器は時々苦労が見られたが、元来が音程の取りにくい古楽器で、しかも湿気の多い時期ということで、むしろミスも微笑ましいと言ってもよいだろう。全体として、どの曲も大変勢いのある演奏であった。
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メインのエロイカは、ベートーヴェンのメトロノーム記号に忠実に則った演奏とのことで、モダンオケではなかなか難しい快速テンポであったが、なんとも胸のすく快演であった。第 1楽章コーダ手前の、例のトランペット行方不明の箇所 (オーケストラ全体が盛り上がって、本来ならトランペットが高々と英雄のテーマを奏でるはずのところ、後半突然トランペットが抜けてしまい、木管のリズムを刻む音が妙に耳につく箇所。昔の指揮者は構わず英雄のテーマを最後まで吹かせたが、原典ばやりの昨今、それをやれば指揮者のインテリジェンスが疑われるようなことになっている) は、当然オリジナル通り、行方不明の演奏であったが、近代オーケストラの、音量が大きく輝かしいトランペットではなく、このように当時を彷彿とさせる楽器での演奏だと、この「行方不明」はさほど目立つこともない。ベートーヴェンの真意が、当時の楽器の技術的限界による妥協か、それとも何かほかにあるのか分からぬが、当時の楽器であれば、それなりに音楽が流れて行く箇所であることを確認できた。

ところで、この指揮者とこのオケは、東京公演はあまりないものと思うが、関西では大変活発な活動を行っていることを知り、驚いた。会場で配布されていたチラシで分かる範囲での延原の今後の予定は以下の通り。

7/25 (土) 池田市 バッハ : コーヒー・カンタータ
8/7 (金) 大阪フェスティバルホール スメタナ : わが祖国
8/23 (日) ザ・シンフォニーホール メンデルスゾーン : オラトリオ「聖パウロ」
8/29 (土) 川西市 ヴィヴァルディ : ヴァイオリン協奏曲「ムガール大帝」ほか
8/30 (日) 羽曳野市 音楽絵巻 羽曳野戦記中、バロック音楽の演奏
10/10 (土) いずみホール バッハ : マタイ受難曲
12/19 (土) ザ・シンフォニーホール 第九及びバロック名品集

実に多忙である。大阪の方は、このうちのどれかでもお聴きになってはいかがだろうか。よろしおまっせ。

by yokohama7474 | 2015-07-26 01:55 | 音楽 (Live) | Comments(0)

東京と比較して大阪は、意表を突く建築が多いと思う。なんちゅうかその、エライこっちゃーという感じの、トラブルを楽しむ難波気質がそこここに充溢している。実は私自身、生まれは大阪。この感覚は分からなくはない。ただ、その大阪でも、この建築には度肝を抜かれた。
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梅田スカイビル。ふたつの高層ビル (= タワー) を結ぶ中間に、何やら基地のようなエリアが。これは一体何事か。建築家 原 広司の設計により 1993年に完成したビルだ。地上 173m だから、高さでは東京スカイツリーには及びもつかないけれど、その姿のユニークなことは類を見ない。事実、英国を代表する新聞 The Times が 2008年に、世界を代表する建築 20選 (ほかにはパルテノン神殿やタージマハール、ローマのコロッセオなど!!) のひとつに選んだとのこと。設計者の原 広司は、もちろん日本を代表する建築家だが、一般によく知られているほかの代表作は、JR 京都駅だろう。今回、彼自身の代表作である梅田スカイビルで、建築家自身が書き写した古今の書物の一部が展示されている。
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うーむ、表示がほとんど英語なのは、何か意味があるのだろうか。そういえばこのビル、最近外人観光客がうなぎ上りだそうだ。
http://matome.naver.jp/odai/2138435364131654801

この展覧会では、建築家自身「写経」と称した、手書きの原稿が展示されている。古くはホメロス、ウパニシャッドから、アリストテレス、法華経、鴨長明から道元、はたまたダンテやデカルトを経て、最後は大江 健三郎 (この建築家の近しい友人らしい) に至る。面白いとは思ったが、私個人にとっては、他人の写経を見るよりも、自分で書物を読みたいと思い、早々にその場を離れて、このビルの売り物である空中庭園へ。上記の通りこのビルは、東西二つのタワーの真ん中を、空中でつなげている部分があるのだ。下から見るとこんな感じ。私にとっては今回が二度目の訪問。
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うおー、あの上までどうやって昇るのか。エレベーターで一挙に 35階へ。シースルーのエレベーターなので、高所恐怖症にとっては、なかなかにハードルが高い。35階から屋上の空中庭園につながる 40階までは、上の写真でも見える、空中を渡るエスカレーターに乗るのだ。おー、こわ。
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あー、もうチビリそう。ただ、頂上までたどり着くと、ちゃんと防護柵もあり、それほど危険な感じはない。通ってきた、また帰りには通るエスカレーターも、余裕で見下ろすことになる。
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大阪中を見渡しても、ニューヨークでエンパイア・ステイト・ビルから見るような絶景はない。ただ、アベノハルカスをはじめとする大阪のユニークな建築群を、その中でもとりわけユニークな場所から見る快感は、なかなかのものだ。もしまだこの景色をご覧になっていない方がおられたら、是非一度行かれることをお奨めする。おもろいでー。

by yokohama7474 | 2015-07-26 00:41 | 美術・旅行 | Comments(0)

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2014年のカンヌ映画祭で最高賞パルムドールを受賞したトルコ映画である。公開された当初は東京の 2館のみでの上映であったが、今では名古屋、京都、大阪、福岡等の大都市にある小劇場系 (?) 映画館でも見ることができる。

そもそもトルコ映画と聞いて、出てくる名前はユルマズ・ギュネイくらいであるが、そのギュネイにしても、「路」という作品がやはりカンヌの最高賞を取ったことから知られている程度で、その他の作品は日本でどのくらい公開されているのであろうか。もちろん、映画は別に各国を代表して作られているわけではないので、よい映画はよい、悪い映画は悪いということにしかならないのだが、その一方で、この映画のように、かかわったスタッフ・キャストが全員トルコ人 (多分・・・あ、間違えた。日本人の脇役が 2人出演していましたね。エンドタイトルでバッチリチェックしたところ、日本人の名前であった) である場合には、その国の役者の演技とか、照明音響美術等々のレヴェルに、その国の映画産業の在り方がおのずから表れることも事実であろう。その観点からは、この映画の出来具合で我々観客の今後のトルコ映画への期待も変わってくると言える。

上記ポスターにある通り、この作品は、奇景で知られるトルコの世界遺産、カッパドキアの洞窟ホテルを舞台とする、上映時間 3時間16分という大作。「愛すること、赦すこと --- もがきながらも探し求める、魂の雪解け」というコピーに雪のカッパドキアの写真を見ると、どんなに壮大な叙事詩が展開されるのかと思ってしまうが、実はこの映画、究極の室内劇である。戦争もなければ宇宙人との遭遇もない。誘拐も暴行もない。そもそも、3時間を超える映画で、一人も人が死なないのだ。今日び、どうやってそれで映画を作るのか。カンヌの審査員のひとりであったジェーン・カンピオン (私がこよなく尊敬する監督) は、「物語が始まった途端に魅了されてしまった。あと 2時間は座って観ていられたでしょう」と語ったらしいが、まさにその通り。この映画で数少ない劇的 (?) なシーン、子供が車に向かって石を投げるシーンは、冒頭まもなくであって、それから後はほとんどが室内劇であるにもかかわらず、飽きることは全くなかった。これは一体どういうことなのか。

この映画の中で、延々と口論が続くシーンが 3つある。ひとつは、主人公 (もと舞台俳優で、遺産として譲り受けた洞窟ホテルを営む裕福な初老の男) とその妹、2つめは、主人公とその若く美しい妻。3つめは、主人公とその友人たち 2名である。換言すれば、主人公が相手とシチュエーションを変えて、延々と口論する。その合計だけで、30分は優に超えているだろう。そのいずれもが圧巻なのだ。プログラムを読むと、基本的に書かれたシナリオ通りの演技を俳優にさせたとのことだが、彼らの口論の様子はあまりに長く、また作られた感じがしない自然な流れなので、相当部分即興ではないかと思ったのだ。これを演技としてできてしまうトルコの俳優たちは恐るべきではないか。もちろん、監督のインタビューでも、一部は即興で足したと言っているので、特に主人公とその妹のシーンなどは、即興の部分がそれなりにあるように見受けられるが。いずれにせよ、人生を圧縮した瞬間がこれらのシーンに詰め込まれていて、看過できないリアリティがあるのだ。

ここで使用されている音楽は、シューベルトの最後から 2番目のピアノ・ソナタ (第 20番イ長調D.959) の第 2楽章。シューベルトは晩年 (と言っても、たかだか 38歳だ!!)、曲を肥大化させる傾向があり、ピアノ・ソナタの分野では、最後の第 21番変ロ長調 D.960 が、本当に底知れぬ深淵を覗くような音楽であるのに対し、同じ死の年、1828年に書かれたこのソナタは、少しは分かりやすい要素を持っている。この映画で使われているのは、第 2楽章の冒頭のテーマであり、中間部で感情の炸裂があるのであるが、その部分は周到に避けられている。これはこれで、人生の機微を淡々と描くこの映画にふさわしいとも言える。プログラムの監督インタビューによると、かつてブレッソンの「バルタザールどこへ行く」という映画 (1966) で使われていた由。私の世代ではブレッソンは、最後の作品「ラルジャン」にぎりぎり間に合ったくらいで、この作品については知識がない。まあそれにしても、海外のマスコミにはマニアックな人がいますなぁ。

この作品の呵責なさはまさに特筆すべきものがあるが、脚本においてはチェーホフやドストエフスキーに負うところが多いらしい。監督自身、チェーホフの 3作に着想を得ているとの発言があるが、特定はしていない。プログラムに寄稿しているロシア文学者の沼野 充義は、そのうち 2作にしか言及していない。ということは、残る 1作は自分で探すしかないということか。

誠にトルコ映画、恐るべしである。

by yokohama7474 | 2015-07-25 23:53 | 映画 | Comments(0)