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村野藤吾の建築 目黒区美術館

この展覧会が開催されていることは知っていた。だが、なかなか都合がつかずに、半ば以上諦めていた。というより、既に意識の中からほとんど消えていた。ところが、世の中には不思議な巡り合いというものがある。ほんの 2日前、金曜日の夕方近くのこと。仕事で日本橋を訪れ、面談先のオフィスを探すのに若干手間取り、迷っているうち、なぜか気になる古いビルが目についた。そこでそのビルにいそいそと近づいて、そこに出ていた説明板を読んだのだ。そこには、「近三ビル」という建物名と、その設計者、村野 藤吾の名前があった。・・・おお、そういえば!! このビルのことは知らなかったが、村野が日本を代表する建築家であることくらいは知っていて、青天の霹靂のようにこの展覧会のことが脳裏をよぎった。ようやくこの展覧会を訪れることができた今日は、奇しくも東京での展覧会の最終日。まあ別に、村野の魂に導かれたなどという大げさなことを言うつもりはないが、街中でも常にアンテナを張り、捨て目を利かせることの重要度を思い知るとともに、ちょっとした情報収集、また、頭の隅に引っかかった記憶というものの組み合わせが、文化の諸相を味わうためには意義を持つのだということを再認識した。
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村野 藤吾 (むらの とうご、1891 - 1984)。その名前は、例えば丹下健三や黒川紀章や磯崎新や、はたまた安藤忠雄ほどの知名度はないかもしれないが、数多くの庁舎やホテル、デパート、オフィスビル等々を手掛けた、文字通り日本を代表する建築家である。
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長命であったこともあってか、彼の手がけた作品は数多く、この展覧会では、その一部について模型が展示されている。東京に現存する建物のうち、知名度の高いものの模型を 3つご紹介しよう。まずは、旧日本興業銀行本店、現在のみずほ銀行だ。写真の右端下部の曲線が大変有名である。
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それから、有楽町駅のすぐ横にある読売会館。もとそごうで、今はビックカメラになっている。ご存じの方も多いはず。
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これは日本生命ビル。以前このブログで、ロッシーニのオペラ「ランスへの旅」(おお! そう言えばまさに今日このあとすぐ、BS プレミアムで放送だ!! なんという偶然!!!) の記事で触れた、日生劇場を含む。
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村野の作品の中には、戦後の建築物として初めて (丹下健三設計の広島平和記念資料館と並んで) 重要文化財に指定された、1953年築の広島の世界平和記念聖堂も含まれる。私は行ったことがないが、写真で見る限り、ヨーロッパ的な造形感覚も感じさせながら、コンクリート打ちっぱなしのモダニズムも併せ持つ、興味深い建築だ。
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一方、私がたまたま発見した近三ビルであるが、正式名称は森五商店東京支店といい、1931年の竣工で、村野のごく初期の建築のうちのひとつ。このような、現在の目から見れば何の変哲もないように見えるビルであるが、逆に言うと、既に築 80年以上を経て、未だ街中に溶け込んでいる点にその先進性が感じられる。何より驚くべきなのは、あのドイツ人建築家ブルーノ・タウト (日本に何度も滞在し、桂離宮の簡潔さの美を大絶賛してその世界的な再評価を実現した人物) が、たまたま通りかかって (私と同じではないか!! 笑) このビルを褒めたということ。より正確には、「婦人の友」誌における「ブルーノ・タウト氏と東京を歩く」という企画の中で、このビルのことを「日本の伝統と現代的価値との驚くべき融合」と述べた由。うーむ、昔の女性雑誌の特集ってそんなに高級だったのか・・・。

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村野の年譜を調べてみると、1933年にはタウトの来日記念講演会で、「日本に於ける折衷主義の功禍」という講演をしているので、世のタウトブームも、彼の知名度向上には大いに貢献したのではないか。また、このビルは今も現役で、このようなサイトもあって興味深い。
http://www.sanko-e.co.jp/read/memory/kinsan

さて、あれこれの村野の作品群を見ていて思ったことがひとつ。我々の国には、1300年も前からの建造物が幾つも残っているものの、近世に至るまでは、社寺建築のみ現存しているわけで、それ以前の宮殿や民家は時代を乗り越えられなかった。もちろん、木造で建造物を作り、これだけ天災の多い国であるし、戦国時代もあったので、やむないことではあるものの、では将来に目を向けて、現代建築は何百年も残るのだろうかと考えたとき、建築自体の強度は古い木造建築よりは強いはずでも、オフィスビルや大規模ホテルなどが何百年残るとは思えない。村野の作品でも、例えば私が直接知っていた、そごう大阪店だとか、磯子の丘の上に建っていた横浜プリンスなどは、今はない。前者は老朽化によって、後者は再開発によるマンション建設によって、取り壊されてしまったわけだ。確かに、そのような規模の建築を、本来の実用目的から離れて文化財保存することは、現実的に考えて無理だろう。では、その一部のみを移築し、明治村よろしく昭和村とか平成村とか称して保存するような日が来るのであろうか。さらに視野を広げると、既に 100年以上の歴史を持つニューヨークのエンパイア・ステイト・ビル、クライスラー・ビル、ロックフェラー・センターなどは、この先一体どうなるのであろうか。私がここで心配してどうなるものでもないのだが、芸術の一分野としての建築の評価とは、「かつてこんな建物がありました」というかたちで継承されるのか、あるいは偉大な建築家たちの業績も風化して行ってしまうのだろうか。

せめて近三ビルは、当分の間現役で頑張って欲しい。その説明板を見ることで、ある文化の一側面に気づく人間が、ほかにもいるであろうから。

by yokohama7474 | 2015-09-13 23:30 | 美術・旅行 | Comments(0)

ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2015年 9月12日 サントリーホール

別項の広上淳一指揮 NHK 響のコンサートのあと、こちらのコンサートにハシゴすることとなった。東京で起こっている文化的イヴェントを少しでも理解するため、時にはこのようなダブルヘッダーも辞さない覚悟が必要だ。なぜなら、これは必聴のコンサート。既に何度もご紹介しているイギリスの名指揮者ジョナサン・ノットと手兵東京交響楽団が、マーラーの大作、交響曲第 3番ニ短調を演奏するからだ。このオケのシーズンは 4月からなので、今回の演奏会はシーズン冒頭ではないが、どのオケにとってもこのような大曲の演奏には特別な思いが込められるものだ。会場に到着すると、以下のようなチラシがプログラムに挟まれている。
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なんと、2025/26 年シーズンまでというと、これから 10年先ではないか!! このクラスの指揮者を日本のオケがそこまで長期に亘って確保するというのは異例の事態だ。オーケストラ側としては、なんとかノットを確保したかったのであろうし、それを指揮者自身が受け入れないと、こういうことにはならないだろう。チラシには、ノットの言葉として以下が掲載されている。

QUOTE
モーツァルトを指揮していて、なんと素晴らしい演奏なのかと、本当に大きな喜びを感じた。
この関係はもっと長く続け、深めていかなければならない。
UNQUOTE

これは、9月 7日に行われた記者会見での言葉のようで、だとすると、ここで言及されているモーツァルトの演奏とは、以前このブログでもご紹介した、9月 6日のモーツァルト・マチネでのものであろう。私ごときが大絶賛しても眉唾に思う人もおられようが (笑)、指揮者自身がこのように発言するということは、やはりあの演奏には相当に満足したということであろう。いやそれにしても、ノットはバンベルク交響楽団に加え、もうすぐ名門スイス・ロマンド管弦楽団の音楽監督にも就任するはずだ。そんな中、東京交響楽団とも長期に亘る関係を続けることになったことは、誠に喜ばしい。これによって、10年計画で、例えばレパートリーの拡充とか、海外演奏旅行とか、そういった重要事項を考えることができる。それなども、以前は有名な先生にお願いして「振ってもらっていた」日本のオケが、今や積極的に指揮者とともに音楽を作って行くという状況にあっていることの証左であろう。

さて、このマーラーの 3番、演奏に 100分を要する。冗談でもなんでもなく、ギネスブック認定の、歴史上最も演奏時間の長い交響曲だ (今の版では消えているらしいが、以前の記述は私も確認したことがある)。正確に言うと、実際には英国のブライアンという作曲家に、さらに長い交響曲 (交響曲第 1番「ゴシック」) があるが、それは特殊なレパートリーであって、一般的なレパートリーの中ではマーラー 3番が最長と、そのように書いてあったはず。因みにこのブライアンの交響曲、今でこそ CD もあるが、私はもう 30年前から、この曲のアナログレコード (巨匠エイドリアン・ボールト指揮) を持っている。どんだけマニアやねん。大したマニアでもないか。

この曲にはアルト独唱と女声合唱、児童合唱が入るが、今回のソリストは、日本が誇る名歌手、藤村 実穂子だ。バイロイトの常連でもある。この写真は若干お笑い系のようにも見えるが (笑)、大変素晴らしい歌手だ。児童合唱は、東京少年少女合唱団。
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冒頭、ホルン 8本によるファンファーレのようなテーマ演奏によってこの曲は始まるが、意外とテンポが遅く、合いの手で入る弦や打楽器が、念を入れるようにズシンズシンと重い感じであったのを聴いて、ノットの気合の入れ具合を感じることができた。ただ、その後全体的に感じたことだが、この日の演奏は金管に比して木管の精度がもうひとつで、時にもどかしい思いがしたのが残念であった。ノットの指揮も、もともと爆演系ではなく、非常に知的で緻密な方であるので、このマーラーの 3番は、ブルックナーよりは相性はよいとは言えようが、マーラーを振るために生まれてきたようなインバルの演奏に慣れている東京の聴衆には、まだまだ改善の余地があるように響いたと言わざるを得ない。

しかしながら、ノットの持つ美意識がよく発揮された箇所もある。それは終楽章、あの天国の音楽のように美しい 30分の緩徐楽章だ。音楽は粘らず、弦の音も深く呼吸するというよりは美麗に流れる。そこに立ち現われた音楽は、マーラーから新ウィーン楽派を経て現代音楽に連なる系譜を思わせるもの。いわば抒情的現代音楽のような様相であったが、それはそれで、なんとも純粋で、かつ感動的であったのだ。私はいつも、この曲の大詰め、ティンパニ 2台がそれぞれに鳴り響き、最後の最後に巨人の両足のようにドン、ドンと音を合わせるところにぐぐーっと胸を締め付けられるのだが、この日の演奏では、巨人は大音響で足を踏み鳴らすのではなく、あたかも間違えて人や動物を踏みつけないようにしようという気遣いを持っているかのように思わせるものであった。その意味では、臓腑をえぐるマーラー、世界苦に呻吟して救いを求めるマーラーではなく、音楽の美しさそのものを追い求め、音と音の絡み合いから純度の高い流れを作り出す、そしてその結果、人間の感情にも訴えかける、現代的なマーラーであったといえようか。

藤村は、第 2楽章と第 3楽章の間で舞台に登場し、第 4楽章、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」からの一部を歌詞とする音楽を、深々と聴かせた。余談だが、ルキノ・ヴィスコンティの名作映画「ベニスに死す」は、同じマーラーの交響曲第 5番の第 4楽章アダージェットで有名だが、実はそれだけでなく、この 3番の第 4楽章も使っているのだ。夜の神秘が霧の中を漂い、人間の孤独がひしひしと感じられる音楽だ。そしてこの後に続けて演奏される第 5楽章は、一転して、児童合唱と女声合唱による「ビム・バム」という鐘を模倣する明るく可愛らしい音楽なのだが、女声合唱団が最初からステージ奥の客席 (P ブロック) に陣取っているのに対し、児童合唱団の姿は全く見えない。第 4楽章が静かに終わったとき、「あー、児童合唱団、キューを忘れたのか、舞台に入って来なかったよ。どうなる!!」と手に汗握ったところで、指揮者がくるりと後ろを振り返って指揮を始めたのだ!! 児童合唱団は客席の中、RB ブロックの後ろの方に陣取っていて、事なきを得たのだ (笑)。この曲の実演にはこれまで多分 15回かそれ以上触れているが、このようなやり方は初めてであった。

これでこの記事を終わりにしようかと思ったが、プログラムに、この交響曲についてのノットのインタビューが載っているのを今見つけた。興味深い発言がいろいろあるが、終楽章についての発言を抜粋しよう。

QUOTE
(やはり美しいアダージョである第 9番の終楽章と比較して) 第 3番の終楽章は、転換をもたらす出来事が何も突発しないまま進んでゆきます。ティンパニや鐘の音がつくる響きも、見せかけのもの、仮象にすぎないように思われます。いつか確認が得られるのではという希望を抱いたものの、それは結局のところ叶わないのです。そういう、本当に悲しい音楽です。・・・深い憂愁を帯びた幕切れです。そもそも作品全体がショーペンハウアー流の行方も定まらぬ盲目の意志との闘いです。この作品でのマーラーには、自分で自分の主張に確信がもてないようなところが、いやそれどころか自分で自分を中傷するようなところがあります。
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なるほど、最後に巨人がドンドンと地響きを立てないのは、そのような感覚があったからなのだ。ただ、彼のこのような知的な分析を東響が完璧に音にするようにできるには、もう少し時間がかかるかもしれない。10年計画、楽しみにしています!!



by yokohama7474 | 2015-09-13 12:41 | 音楽 (Live) | Comments(0)

広上 淳一指揮 NHK 交響楽団 (ピアノ : ニコライ・ルガンスキー) 2015年 9月12日 NHK ホール

N 響のシーズン構成は欧米と同じく 9月からのようなので、2015/16 年度のシーズンが今月始まったことになる。このオケの 3種類の定期演奏会のうち 2つ (A、B プログラム) は巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットが指揮し、C プログラムは広上 淳一の指揮である。
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今回の C シリーズ定期演奏会が、今シーズンの N 響の最初の演奏会となる。今シーズンからは新音楽監督として、あの世界中で大人気のパーヴォ・ヤルヴィを迎え、新たな意気込みが感じられる。例えばロゴもこのようなモダンなものに一新した。なかなかすっきりとしたデザイン。今日び、凝ったデザインを入れて、たとえそれがオリジナルであっても、たまたま運悪く世界のどこかに似たようなものがあれば、パクりだと糾弾されかねない時代。むしろこのようなシンプルなものがよいと思う。
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さて、今回のプログラムは以下の通り。
 ラフマニノフ : ピアノ協奏曲第 3番ニ短調作品30
 ドヴォルザーク : 交響曲第 8番ト長調作品88
ピアノは、ロシアの中堅、ニコライ・ルガンスキーだ。大変長身のピアニスト。
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今回の演奏会、まずは元気印の広上の指揮が、大いに楽員の士気を盛り上げ、成功したと言ってよいであろう。いつもながら、あの小柄な体を一杯に使い、飛び上がってはニコニコとオケに「いいね」サインを出し、山あり谷あり、楽あれば苦あり、ピンチのあとにチャンスあり、人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろの、どんな楽曲も、最後まで導いて行くその献身度には感銘を受ける。N 響は在京オケの中でも、国際的な指揮者陣の顔ぶれからすれば常に No. 1。日本人指揮者としては、定期演奏会に登場の機会に聴衆に印象づけることが大事である。

さて、ラフマニノフのピアノ協奏曲第 3番である。よく、歴史上のピアノ協奏曲の中で最も演奏が難しいと言われる。昔、「シャイン」という映画があったが、ジェフリー・ラッシュ演じる実在のピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットがその演奏に脅迫観念を抱いているのがこの曲だった。話はそれるが私はこのヘルフゴットのリサイタルをロンドンで聴いたことがある。イメージ通りの繊細な人でしたよ。もう 17-18年前かなぁ。
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それはともかく、この曲、そのような余分な神経症的印象を持たされているせいだけではないと思うが、どうも私にはなじめないのだ。同じ作曲家のピアノ協奏曲第 2番は大変抒情的な曲で、そちらはすっきりよく分かるのだが・・・。今回、ルガンスキーは大変見事な演奏をしたが、私の中では、演奏どうこうよりも、この曲についての思いが巡っていた。歴史上のピアニストを思い返してみると、面白いことが分かる。例えば、ホロヴィッツはこの 3番を頻繁に演奏したが、どういうわけか 2番には手をつけていない。一方、ルービンシュタインはその真逆で、2番は演奏したが 3番は演奏していない。あるいは、リヒテルには 2番の録音はあるが、3番を演奏したとは聞いたことがない。ギレリスは奇妙なことにその逆で、3番しか録音していないはずだ。ロシア系以外に目を転じると、コルトーとかシュナーベル、あるいはE・フィッシャーやバックハウスがラフマニノフを演奏したとは思えないし、もっと後の世代のゼルキンとかアラウとか、あるいは現存のブレンデルやポリーニ、内田光子などを考えても然り。ツィメルマンは比較的最近 2番を録音したが、アルゲリチは 3番のみだ。・・・ということは、2番と 3番を両方レパートリーとしている一流ピアニストは、実は大変少ないのだと思う。これは興味深い現象だ。実は最初、ラフマニノフを録音していないであろう歴史的ピアニストとして、シュナーベルの代わりにギーゼキングと書いていたのだが、ある方からのご指摘により、彼はなんと、1940年代に 2番と 3番の両方を録音していたことを知りました!! これは例外中の例外であると実感するとともに、自らの無知を恥じた次第。

今回の演奏を聴いていて思ったのは、ピアニストが見事に弾き切っても、オーケストラの鳴り方がまとまりがないと、作品の曲折がつかみにくいのではないだろうか。その意味で、ピアノの向こうで、指揮台から広上の靴だけがピョンピョン飛び上がるのが見えることによって音楽的感興を味わうという、なかなか得難い経験をしたと言ってもよいだろう (笑)。確かに、終楽章の盛り上がりは異様な感じで、協奏曲 2番や、前日聴いたパガニーニの主題による狂詩曲の抒情性とは全く異なる悪魔的な音の渦を感じることができた。そのような瞬間は、ラフマニノフの作品でもそうそうあるものではないと思う。そういえば、ルガンスキーはアンコールに、同じラフマニノフの前奏曲嬰ト短調作品 32-12 を弾いたが、これは晩年のホロヴィッツが愛奏した曲だ。異形のものが漂うような、そんな曲だ。

後半のドヴォルザークは、演奏が始まる前に、広上ならどんな感じで指揮するか想像してみたのだが、実際に聴いてみると予想通りの演奏であり、隅々まで音が鳴りきった、素晴らしい演奏であった。このような演奏は、できそうでなかなかできないもの。N 響のレヴェルの高さも改めて実感することができた。

今シーズンの N 響、大いに期待しています。ただ、最大の課題はホールであろう。あの巨大な NHK ホールでの演奏がメインとなると、最高の音質で演奏を楽しむことができないので、本当にもったいないし、ほかのオケとの競争上、不利だと思う。一方で、あれだけのホールを満員にする動員力を維持するとなると、2,000人級のホールでは賄いきれないというジレンマがあることは自明。現実的には、例えば NHK ホールのステージをもう少し前にせり出して反響板をつけるとか、そんなようなことでもできないものだろうか。・・・と、心を悩ませるファンがここに 1名。

by yokohama7474 | 2015-09-13 11:31 | 音楽 (Live) | Comments(0)

東京 大田区 池上本門寺 松濤園特別公開ほか

東京都大田区。羽田空港もあれば職人さんが働く蒲田の工場もあるかと思うと田園調布もあり、幾多の文士たちが暮らした馬込もある、まだら模様の不思議な場所だ。そんな大田区の中にはあれこれパワースポットがあるが、中でも指折りの場所が、池上本門寺だ。この寺は、鎌倉時代の超カリスマ、日蓮上人が、暮らしていた身延山から下山し、常盤国に湯治に向かう途中に立ち寄り、その地で死を迎えた場所なのである。都内有数の霊験あらたかな寺院として知られる。この本門寺には、通常は公開していない素晴らしい庭園があるのだ。その名は松濤園。毎年 9月に数日だけ公開される。今年は 9/10 (木) から 9/14 (月) の 5日間。そのうち激しい台風に見舞われた日が 2日あるので、実質的には貴重な 3日間の一般公開だ。
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この庭園は、本門寺の旧本坊の庭園として、あの名高い武士であり作庭家でもあった小堀 遠州 (1579 - 1647) が設計した四千坪の敷地を持つ回遊式庭園である。起伏のある地形を活用し、あたかも深山幽谷のような雰囲気を作り出している。実は我が家は、2009年に海外から帰国した際、池上地区に居を構え、この松濤園の存在を知ったのである。しかしながら、それ以来、転居を経て、今日までこの庭園の一般公開を見ることが叶わなかった。いや、何か特別な事情があるわけではなく、ただ単に毎年ぼぅっとしているうちにいつの間にか公開期間が終わってしまっていただけだ (笑)。そんなわけで、今年は気合を入れてでかけて行ったのである。

朝10時から公開ということであったが、「長蛇の列になるらしい」という家人の情報により、9時半には現地に到着、あたかも大量破壊兵器を求めてイラクに入るアメリカ軍のように、ズンズンと足を踏み鳴らして受付に向かった。あ、あれ? 誰もいないじゃないの。ちょっと早すぎたか、係の人と坊さんが談笑している。油断すまじと、あたりを睥睨する鷹のように競合相手を確認すると、おっと、シニア世代の方々が三々五々集まってくるではないか。先を越されてなるものかと警戒していると、なぜだかサティ作曲のジムノペディ第 1番のオーケストラ版 (当然ドビュッシーの編曲だ) が BGM として流れ始める。この緊張した雰囲気には不似合いだ。と、気が付くと椅子に座ったままついウトウトしてしまっている。おっといかんいかん、ちゃんと目を開いていなければ。と自分を鼓舞するうちに10時きっかりになり、坊さんが挨拶している。これから受付を開始するが、各グループの代表一名が住所氏名を記入せよとのこと。よし、いざ出陣。・・・と、私が腰を上げたその瞬間、一陣の風のように隣を何者かが通り過ぎる。すわ、何やつ、と思うと、これはしたり、わが家人ではないか。私が立ち上がった瞬間には既に受付の机に到達しており、驚いてしまった。もしかして周りのシニアの方々を蹴飛ばしての狼藉ではないかと心配したが、どうやらそういうことではなかったらしい。早っ。

さて、念願叶って松濤園に入ると、なんと素晴らしい。天気がよく、深い緑が目に眩しい。池の真ん中には、作り物と紛うばかりのトキが 1羽留まっていて、「早く写真を撮りなさいよ」と言っているかのようだ。
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もみじが多く、秋の景色もさぞやと思われる。また、小高い丘を登って行くと、そこには豪快な石組が。
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この庭園の中には、松月亭なるあずまやと、浄庵、鈍庵、根庵といった茶室が点在している。そのうち松月亭では、精進アイスなるものが食べられるという。通常の抹茶やいちごや小倉以外に、豆腐やほうじ茶やしょうが等々の種類がある。とりあえず、抹茶と豆腐を選択。ししおどしが風流な音を立てる中、なかなか美味な味わいでしたよ。
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なぜこれが精進アイスと名付けられているかというと、牛乳ではなく豆乳を使っているからだという。なるほど、動物性タンパク質ではなく、植物性だ。・・・だが、帰宅して気づいたことには、そもそも通常のアイスで牛乳を使っていても、それは絞った乳であって、殺生はしていない。なので、「精進」と名乗るのは少々大げさではないか。ま、うまかったからどうでもよいのだが (笑)。

実はこの松濤園、ひとつの歴史的事件の舞台となっている。時は慶応 4年 (1868年) 3月12日、新政府軍が江戸の街に総攻撃をかける一歩手前で、幕府方の代表であった勝 海舟が、当時政府軍の本陣が置かれていたこの池上本門寺に、総大将である西郷 隆盛を訪問した。世に言う江戸無血開城に向けた勝・西郷会談である。勝と西郷は、翌 3月13日には高輪の薩摩下屋敷で、14日には田町蔵屋敷で会談を重ね、遂に江戸の街を焦土と化すことなく、時代の転換を成し遂げたわけである。その一連の会話の最初のものが、ここ松濤園のあずまやにて行われたわけで、大変重要な場所だ。残念ながら当時の建物はすべて戦災で焼失しており、今となってはこのような碑が立つのみ。だが、歴史の重みは充分に感じることができる。
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また、そのそばに、明治初期の日本画家、橋本 雅邦 (1835 - 1908) の筆塚がある。橋本は日蓮宗の宗徒であったらしい。
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このように松濤園は、歴史の息吹溢れる名園であるのだ。年に数日しか公開しないのがもったいない。数年越しの念願叶って大満足。

さて、せっかく久しぶりに本門寺に来たので、境内を散策してみよう。重要文化財の五重塔。1608年の造営で、戦争を生き残った貴重な建物だ。きっとそうだと思って調べてみると、やはり東京で現存する最古の建物だ!! 朱色も眩しく、しゅっと立った姿が美しい。
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そしてこの五重塔の周りは墓地になっているのだが、明らかに江戸時代のものと分かる墓が沢山ある。前田 利家の側室とか、加藤 清正の正室とか、あとは、区切られた一区画に並ぶ松平家の立派な墓の数々が目に付く。この墓地で一般に有名な墓は 3つある。まず、幸田 露伴夫妻。
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それから、力道山。この石碑の揮毫は、あの児玉 誉士夫であり、彫像の発起人は、梶原 一騎、初代タイガーマスク、それから北野 武ほか。
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そして、江戸時代初期の画家、幕府の御用絵師の狩野 探幽。瓢箪形にはどういう意味があるのだろうか。
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とこのように見てくると、およそ共通点のないお 3方だが (笑)、時代とジャンルを超えて、きっとあの世で酒を酌み交わしているのではないか。

さて、もうひとつ、本門寺の重要文化財をご紹介しよう。多宝塔。日蓮の遺体を荼毘に付した場所を記念するため、1828年に建てられたもの。数年前に解体修理され、鮮やかな色彩が甦るとともに、重要文化財の指定を受けた。実はそのとき、修理の現場に入れてもらって、間近で補修作業を見たことがある。なんとも鮮やかで立派な建物だ。建物自体が蓮弁の上に乗っているのも珍しい。
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さて、結構高低差のある境内を歩き回り、少し空腹を覚えた。そこで、駐車場の隣にある食堂で昼食を取ることに。写真は、本門寺そば 1,200円。いろいろ盛りだくさんの具が入ってこのお値段は嬉しい。
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さらに、屋外で焼いている、ぬれ煎餅。うーん、なんとも香ばしい。ただ、気を付けないとタレがポタポタ垂れてしまう。あ、垂れるからタレっていうのか (笑)。
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実は大田区には、ほかにも見どころが沢山ある。また機会あればいろいろとご紹介することとしたい。都内在住の方には、安・近・短の旅としてお奨めです。因みに東急池上線は、たったの 3両編成の、まるで田舎のローカル線で、沿線の商店街も、見事に昭和な雰囲気。これが都内に存在するとは、おそるべし、大田区。
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by yokohama7474 | 2015-09-13 01:14 | 美術・旅行 | Comments(0)

アンドレア・バッティストーニ指揮 東京フィル (ピアノ : 反田 恭平) 2015年 9月11日 東京オペラシティコンサートホール

アンドレア・バッティストーニ。1987年イタリアのヴェローナ生まれなので、今年まだ 28歳。本年より東京フィルハーモニー交響楽団の首席客演指揮者に就任した。
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この指揮者の 1枚の CD が、日本のクラシック界で大変な騒ぎになっている。2013年にサントリーホールでライヴ録音した、レスピーギのいわゆるローマ三部作である。レコード芸術誌では、辛口のベテラン評論家、宇野 功芳までが大絶賛。トスカニーニ以来の名盤という評価もある。実は私はその評価を目にして、そのコンサートを聴き逃したことを後悔したが、CD を買って聴いてみようとは思わなかった。東フィルで聴けるのであれば、是非生で聴いてみよう、そう思った。そして、今年の 5月、プッチーニの「トゥーランドット」(なぜかこのブログにはよく出てくる。先日もミッション・インポッシブルの記事で触れたばかり) のセミ・ステージを聴いて、噂にたがわぬその圧倒的なパワーを目の当たりにして驚愕したものだ。この指揮者、もしかすると大変な存在になるかもしれない。そんな大器をいち早く見つけて日本に紹介し、のみならず、電光石火の早業 (?) で首席客演指揮者に指名してしまった東フィルの慧眼と行動力に、心から感服する。昨年までこのオケの常任指揮者であったダン・エッティンガーは、やはり世界的に活躍する若手指揮者であるが、いかんせん、在京のほかのオケのシェフに比して登壇機会が少なく、また、実演にもムラがあったように思う。その点、このバッティストーニという無限の可能性を持つ若手と、同じく今年からだったと思うが、特別客演指揮者というポストについた、こちらは経験豊富なミハイル・プレトニョフが中心になってこのオケを引っ張って行くのであれば、さらなる高みに到達して東京の音楽シーンを彩ってくれることが期待できよう。

さて今回の演奏会であるが、曲目は以下の通り。
 ヴェルディ : 歌劇「運命の力」序曲
 ラフマニノフ : パガニーニの主題による狂詩曲作品43
 ムソルグスキー (ラヴェル編) : 組曲「展覧会の絵」
一目見て分かることは、これはロシア・プログラムだということだ。え? ヴェルディはイタリア人じゃないの? と思った方。常識として覚えておくべきは、この「運命の力」というオペラは、ロシアのサンクト・ペテルブルクにあるマリインスキー劇場からの委嘱で書かれ、そこで初演されたのだ。

実のところこのコンサートに行けるか否か、ぎりぎりまで分からなかったので、3日前になってようやくチケットを購入した。そのとき既に最前列とか、各階の後ろの方かまたは端っこしかなかったが、まあなんとかチケットをゲット。会場に行ってみると、このような表示が出ていた。
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おー、滑り込みセーフ。よかったよかった。そうして始まったコンサート。実は、最も印象づけられたのは、今日のもうひとりの出演者、ピアニストの反田 恭平 (そりた きょうへい) であるとは、予想外の展開であった。

反田は1994年生まれというから、まだ今年 21歳という若手だ。上のポスターでも使っている写真では、かなりのイケメン風に見える。桐朋に入学するも、途中でモスクワ音楽院に移り、学業と演奏活動を両立させているという。日本でのデビュー・リサイタルは来年 1月だというから、今回のコンサートは、その前哨戦としてのオケとの協演ということだろうか。
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ところが、今日のいでたちはイケメンというよりも、そうだなぁ、時々ラーメン屋で見かけるような、若いけど筋の通った個性的な雰囲気を持つ、長髪を束ねた店主という感じかなぁ (笑)。ステージに登場したとき、少し写真と印象が違ったのです。そしてピアノを弾き出してびっくり。全くアカデミズムの硬直を感じさせない、自由な感性で、即興性もあって、ジャズピアニストのようだが、その一音一音の生命力がなんともすごい。そもそもこのラフマニノフの曲、一応は変奏曲なのだろうが、なんともとりとめのない曲だ。狂詩曲とは、このブログの題名にもしている「ラプソディ」のことで、自由な形式の楽曲のこと (まあメチャクチャなラインナップで延々とりとめのないことを書き殴っているこのブログには、ふさわしい題名と言えましょうなぁ。あっはっは)。ただ。ただである。この曲、大変に有名で、それはそれは美しい箇所があるのだ。第 18変奏。TV CM にもよく使われており、多分誰でも聴いたことのある曲だ。私も大好きで、恥ずかしながら、聴いているだけで毎度毎度、目が潤んできてしまいそうになるのである。このメロディーだ。
https://www.youtube.com/watch?v=V4O_l7CUQcI

反田はこの部分を、感傷を交えずに、ただ曲の美しさを強靭なタッチで弾き抜いた。前かがみの姿勢で強い集中力を持ち、でも気取りは皆無で、ひたすら音楽に入り込むその純粋さに、やはり今回も目が潤みそうになり、あくびをしてごまかした (笑)。素晴らしい演奏。そしてアンコールに、ホロヴィッツの「カルメン幻想曲」を弾いたのだが、カルメンの原曲を奇妙に変形して自らのヴィルトゥオロジーを発揮する場にしてしまったホロヴィッツの悪魔的精神状態が伺われる曲だが、その強烈な表現力は、ホロヴィッツと同類ではなく、情熱の下に、冷静な現代性のような感覚を感じる。たまたま You Tube で彼の演奏するこの曲の映像があったので (本当はそういう音楽の紹介はしたくないのだが)、ご参考まで。但し、実演のアンコールよりも、これはさらに冷静さが勝った演奏に聞こえる。因みにこの反田が弾いているピアノは、ホロヴィッツの愛奏していたものだという。
https://www.youtube.com/watch?v=eLaXJyVYdzI

さて、指揮者について冒頭で持ち上げておいて、ピアニストのことばかり書いている、いつもながらのラプソディぶり (?) であるが、その理由は、今日のバッティストーニは、手放しで大絶賛という出来ではなかったと思うからだ。「運命の力」の冒頭は、金管をきっちり統制しながら力強さもうまく出ていて感心したが、クライマックスに向けてうねり上がって行く熱狂という点では、もっとできるだろうという気がした。後半、全休止 (時々終わりと勘違いして拍手する人がいる箇所 笑) の手前では、一旦ブレーキを踏んですぐにまたアクセルを踏むという細かい演出もあり、オケも危なげなくついて行ってはいたが、その先の追い込みに課題があったと思う。また、「展覧会の絵」では、管楽器に時折細かい傷があり、少し残念であった。いや、それよりも、各曲の性格の描き分けが少し不足していたかなぁ・・・。本当なら最後のクライマックスで鳥肌を立たせてもらうべきところ、熱狂にまでは至らなかったか。

もちろん、どんな演奏家でもよい時悪い時があり、今日の演奏とても、決して悪い出来であったとは思わない。期待が大きすぎただけに、少し厳しく聴いてしまったのかもしれない。次回は年末の第九、この指揮者は初めてこの曲を振るらしい。ちょっと不安はあるが、伝統にとらわれない若さの力が漲る快演を期待したい。

ところで、終演後に指揮者とピアニストのサイン会があり、CD を買えば参加できるとのことであったので、とうとう、冒頭に触れたレスピーギの「ローマ三部作」の CD を買ってしまいました。サイン会の様子。
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そして、ゲットしたバティ (と呼ぶそうだ。バティストゥータみたいだね) のサイン。
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若い演奏家のステージに触れるのは本当にいいものだ、などと老人のような感想を持ってしまったが、ふと冷静に考えると、今年バッティストーニ 28歳。反田 21歳。ということは、私は 2人の年齢を合計したよりも年寄りなのだ!! うげー、参るなぁ。


by yokohama7474 | 2015-09-12 02:06 | 音楽 (Live) | Comments(0)

藤田美術館の至宝 国宝 曜変天目茶碗と日本の美 サントリー美術館

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六本木の東京ミッドタウンにあるサントリー美術館で開催中のこの展覧会のユニークな点は、あるひとつの美術館の所蔵品ばかりからなる展示が、ほかの美術館でなされていることである。海外の美術館の場合、例えば建物が修復されている間にこのような「引っ越し興行」が日本で行われるケースはあるものの、国内同士でのこのような展覧会は珍しい。副題に、「名品ずらり。めっちゃええやん!」とある。えぇー、翻訳しますと、「めっちゃええやん」とは関西の方言で、「大変よいではないですか」の意味です。あ、翻訳必要ないか (笑)。では、次のポイントは、なぜここで関西弁が使われているかということだが、答えは簡単。今回展覧されている美術品はすべて、大阪にある藤田美術館から来ているからだ。
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ご存じの方も多いと思うが、この藤田美術館、藤田財閥の創設者、藤田 傳三郎 (1841 - 1912) のコレクションを中心として 1954年に開館した、東洋美術専門の美術館である。藤田財閥と言っても今となってはあまりイメージがなく、わずかに藤田観光だけが一般的に知名度があるくらいだが、明治初期から建設・土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績等をてがけた関西有数の企業グループである。現在、藤田の大阪本邸 (藤田美術館の正面) は結婚式場の太閤園、東京別邸は椿山荘、箱根別邸は箱根小涌園、京都別邸はホテルフジタ京都になっていると言えば、その往年の規模について少しはイメージが沸こうというものだ。そしてこの美術館、なによりもそのコレクションの質の高さでつとに名高い。なにしろ、国宝 9点、重要文化財 51点を含む数千点を所有していて、個人のコレクションとしては日本有数だ。そして何より名高いのは、曜変天目茶碗!!
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曜変天目茶碗について知識のない人でも、この尋常ならぬ鮮やかで深い青に魅せられない人はいないだろう。まさに宇宙を写し出しているような究極の美がここにある。曜変とは、見る角度によって色彩が様々に変わることをいい、天目茶碗というのは、鉄分を含んだ釉薬を使った中国伝来の茶碗のこと。世の中に天目茶碗は数々あれど、「曜変」と称されるものは、世界にたった 3点しかない (この藤田美術館と、静嘉堂美術館、そして大徳寺龍光院の所蔵)。正確にはもう 1つ、曜変天目と呼んでもよいか否か議論があるものがあるが、写真で見る限り、その茶碗 (MIHO Museum 所蔵) は美しい光沢はあるものの、少し渋めの色をしている。議論の余地なく曜変と呼ばれているものはすべて国宝、議論のあるものは重要文化財に指定されている。

私はこれまで藤田美術館には、3度か 4度訪れており、そこで過去にこの曜変天目茶碗を確か 2度見ている。つい昨年の秋、創立 60周年記念で展示されたときにも見たばかりだ。それでも、今回東京で見ることができるとなると、当然足を運ばすにはいられない。申し遅れたが、この藤田美術館、年に春と秋の限られた期間しか開館しておらず、その時々で膨大な所蔵品の一部が公開されるというシステムだ。因みに、もうひとつの曜変天目茶碗を所蔵する静嘉堂美術館 (三菱のコレクション) も同様の形態を取っており、私はそこでも曜変天目を見たことがある。唯一、大徳寺龍光院だけが (ここはこの茶碗以外にも国宝建造物が幾つかあるのだが) 拝観拒絶の寺となっており、私の知る限り、門戸を開いたことはないようだ。

さて、この藤田美術館、数々の名品を所蔵しているにもかかわらず、なんとも残念なことがある。それは展示施設だ。このあたりは戦争の被害も大きく、藤田の屋敷の中で焼け残った蔵を展示場にしているという。中に入ってみると、そこは明らかに蔵そのもので、開館から 60年を経て、木製の展示ケースは古びてガラスもくたびれた感じであり、照明も、気の利かない昔の蛍光灯だ。格子のはまった窓は開け放たれ、そこを自然の風が通って、空調はあるのかないのか分からない。外の天気がよければ薄暗いというほどではないにせよ、最新の美術館の凝った展示方法や LED 照明に比べると、正直言ってなんとも残念な展示空間であることは否めない。図録に載っている藤田美術館の内部の様子は以下の通り。
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それゆえ、今回のような初の「出張展示」には大きな意義があろう (尚、東京展のあとは、10月6日から11月23日まで、福岡市美術館に巡回)。なにせ、日本有数のイケてるビル、東京ミッドタウンにある、最新設備を備えた美術館である。実際、この曜変天目をはじめ、数々の名品の、活き活きと輝いて見えたこと。展示方法はまさに美術品の真価に関わる問題だ。例えば曜変天目茶碗は、すだれ状のもので他から隔てられた暗い空間に、鮮やかな照明によって浮かび上がるように展示されていた。観客はその場所に足を踏み入れる瞬間、ワクワクした期待を抱き、超一級の美術品との対峙にふさわしい環境に浸ることができるのだ。これは誠に貴重な機会であると言わねばならない。

会場では多くの国宝・重要文化財を見たが、今図録で数えてみると、この美術館の所蔵する国宝 9点はすべて展示されている!! 重要文化財は 30点だ。まさに藤田美術館の名品勢揃い。これは東洋美術ファンには必見の展覧会といえよう。ほかの展示品をいくつかご紹介する。鎌倉時代の名仏師、快慶作の地蔵菩薩立像。快慶には同様の美麗な地蔵や阿弥陀が多くあるが、いかにも快慶らしい端正な作りである。重要文化財。この像も、ガラスケースには入っているものの、照明にくっきりと浮かび上がり、前から横から後ろから、じっくりと鑑賞することができて嬉しい。
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これは、室町時代の春日厨子。藤原氏の氏神である奈良、春日大社の情景を描いた春日曼荼羅を立体表現したもの。今でも奈良のシンボルである鹿が、神の使いとして鏡を頭に乗せる、ユニークな造形。
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工芸品の国宝から、仏功徳蒔絵経箱 (ぶつくどくまきえきょうばこ)。平安時代、11世紀のもので、木製、漆塗の蒔絵である。お経を収める箱であるが、極めて薄手の木でできているにもかかわらず、法華経に取材した絵がよく残っている。こういうものを見ると日本人の器用さと、また、尊いものを守ろうという思いを実感することができる。
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国宝、紫式部日記絵詞。同時代のものではなく、鎌倉時代に描かれたものだが、優雅な王朝文化を美しく描いている。
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そうそう。先日、幽霊画についての記事で、応挙のオーキョドックス、いや、オーソドックスな幽霊画を紹介し、私としては、応挙よりも弟子の長澤 蘆雪 (1754 - 1799) の方が好みであると書いたばかりだが、なんとなんと、それを企画者が知っていたかのように、この展覧会に面白い作品が。これはその蘆雪が描いた三幅画であるが、真ん中がまさに応挙スタイルの幽霊、左が狐の妖怪、白蔵主 (はくぞうす)、右がどくろと戯れる子犬である。これ、よく見ると、いずれも絵から抜け出てきたように描いた、いわゆるだまし絵の一種だ。ここにあふれるユーモアの感覚、どうですか。幽霊のみならず、右側の犬も応挙風だが、その発想たるや、全く独自のユーモアを持っており、あたかも蘆雪が、師匠をからかっているような雰囲気ではないか。
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と、美しいものや珍しいもの、貴重なもの、いろいろあって、確かに「めっちゃええやん!」と叫びたくなる展覧会である。茶道具なども沢山展示されていたが、最後にひとつ、面白いものをご紹介しよう。これは、中国、明から清の時代 (17世紀) のものと思われる、交趾大亀香合 (こうちおおがめこうごう) である。香合とは、茶道具の一種で、香を入れるもの。
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交趾とはヴェトナム北部のこと。愛嬌のある亀の形をしているが、盆が付属しており、その裏に千利休の花押がある。この香合は幕末の番付で東の大関として載り、高い人気があった。藤田傅三郎は長い間この香炉に憧れを抱き、明治 45年、亡くなる直前に念願叶ってこれを入手したという。これが番付。右側最上段右端に、「交趾大亀」とあるのが見える。
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藤田のコレクションには、ただ金にあかせて買い漁ったということではない、美術品への愛情が見えるような気がする。明治の近代化の過程で、廃仏毀釈や旧家の没落などが起こり、多くの名品が海外に流出したが、藤田はそれを憂えて、国内にまとまった規模で美術品が留まるよう、コレクションを決意したとも伝わっている。もちろん、金がなくてはできないことではあるし、金のある人がその金をどう使おうと自由だが、やはり自国の文化を守るという姿勢があったからこそ、後世の人々の心を動かすようなめっちゃええコレクションが形成されたということであろう。価値観も多様化し、このようなことは今後なかなか起きないだろうし、現代の億万長者はまた別の文化貢献の形態があるとも思うが、この藤田の名を冠したコレクションが、末永くその価値にふさわしい扱いを受けるよう、願ってやまない。

by yokohama7474 | 2015-09-12 00:24 | 美術・旅行 | Comments(0)

ミッション:インポッシブル / ローグ・ネイション (クリストファー・マッカリー監督 / 原題 : Mission Impossible - Rogue Nation)

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「ミッション・インポッシブル」(今回気づいたのは、邦題では「インポシブル」ではなく、「インポッシブル」と、不可能さが強調されているのだ!!) シリーズの 5作目だが、このシリーズはこれまで欠かさず見ており、しかも、シリーズ物にしては珍しく、どれも大変面白い。主演のトム・クルーズ、前回はデュバイの超高層ビルに張り付くシーンをスタントを使わずに自ら演じたというが、今回はこのポスターの通り、張り付いたのは飛行機だ。おいおい、これ、CG じゃないの? 違うんです。本当に飛行機に張り付いて (多分、さすがに手でつかまっているだけではないだろうが)、5,000 フィートの高さ (というと、1,500m くらい) まで上昇したという。しかも、それを 8テイク取ったというから恐れ入る。ちょっと変な人だという説もあるが、こんなことをやってのけてしまう役者魂には、誰も文句がつけられまい。彼は 1962年生まれだから、既に 53歳。ここまで来たら、いつまで変わらずにいられるかという記録にチャレンジするくらい、この路線で突っ走って欲しい。

さて、この映画のすごい点は、既に予告編で公開されていたこのシーンを、大胆にも冒頭に持ってきたことだ。そうすると観客は、「あれ、もう出たよこれ。じゃあ、クライマックスは一体どうなるわけ???」と思うわけで、相当な自信がないとできないことだろう。いやはや、効果は絶大だ。

その後のシーンで、何やら IMF が要らないとか言っている。なに??? IMF、International Monetary Fund = 国際通貨基金か? それを滅ぼそうなんて、すわ、これは中国の陰謀か?? とあらぬことを考えてしまったが、この IMF は、Impossible Mission Force、主人公イーサン・ハントたちが属する秘密機関のことだ。ただ、このご時世、なんとなく米国の相対的地位の低下が皮肉っぽく描かれたいるのではと思うのは、考えすぎであろうか。この映画、パラマウントの製作だが、映画開始前の製作会社のロゴには、アリババを含む、明らかに中国 (または香港) 系の会社もあり、そのような妄想をかきたてるのである。あ、そういえば、映画の中で、架空の記事とはいえ、「世界銀行破綻の危機」というものもあった。うーむ。

それからの展開は、驚愕のドンデン返しがそれほど沢山用意されているわけでもなく、苛立ったり戸惑ったりせずに見ていられる。唯一、謎の女性、イルサ・ファウストだけが敵だか味方だか分からない。演じるのはレベッカ・ファーガソンという女優。こういうサービスショット (笑) もあるが、どちらかというと逞しいイメージであり、過度な色気を出すシーンはなく、ひたすら任務として肉弾戦を戦っている。魅力炸裂 (例えば昔、「エントラップメント」でキャサリン・ゼタ・ジョーンズが見せたような) というところまでには行かないが、まずまず好感が持てるといったところか。
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この映画、絶対絶命の危機が何度も訪れるが、その状況からの脱却は、意外と大したことはない。目を見合わせて敵を投げ倒し始めるとか (笑)。でも、それが嫌味にならないあたり、アクションの質やカット割りや装置、照明その他の要素の組み合わせがうまく行っているからではないか。私は大変楽しんだ。

このブログとしてどうしても取り上げなくてはならないのは、オペラのシーンだ。これは明らかに実際のウィーン国立歌劇場で撮影している。階段も、劇場の内部も、間違いなくこのオペラハウスのものだ。
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演じられているオペラは、このブログでも時々話題にしている、プッチーニの「トゥーランドット」だ。但し、開始早々、役人が「北京の民よ」と歌うところからしていきなりアレンジされていて、ちょっとずっこける (笑)。原曲の、短い和音が何度か鳴って、木琴がタッカッタ、タカタカタカタカと響くところ (本当はこれがいいんですけどね) に映像を合わせると間延びするという判断だろうか。その後かなり長く劇場内のシーンでずっと鳴っている音楽は、順番はバラバラだし、幕も自由に行き来し、同じシーンの繰り返しもあって、おいおいおいと思うことは事実で、例えば「ゴッドファーザー パート 3」のオペラハウスのシーンでの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の使われ方とはちょっと違う。でも、まあそれもよいではないか。映画さえ面白ければ。

ほかのロケ地として、ラスト近くのオークション会場になっている、ブレナム宮殿を挙げておこう。ロンドンからさほど遠からぬ世界遺産で、宰相チャーチルが生まれた場所としても知られる。大詰めに向けた雰囲気作りには、なかなか適した場所を選んだと思う。こういうところでフォーマルな会が開かれ、主人公が変装して入り込むなんて、なんとオーソドックス!
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そもそも冷戦が終結して、スパイ物のリアリティがなくなって久しいわけであり、007 シリーズも昔のような単純さよりも、どこか救いがたい暗さをたたえているように思う。このミッション・インポッシブルも、2大勢力の対立という大きな枠がなくなったあとの、秩序なきテロリズムを扱ってはいるものの、基本的には米英が中心となり、その中での裏切りを描いているので、あまり絶望的な感じがしない。最初に書いた中国ネタが正しいかどうか分からないが、いずれにせよそのような新興勢力を克明に描いているわけでない。また、題名の Rouge とは、「ならず者」という意味のようだが、Nation を使うとはどういうことだろうか。調べてみると、米国で公式にも使われている言葉は、Rouge State であるようだ。State と Nation は、日本語にすると同じ「国」ということになるが、私の勝手な邪推では、映画の題名を Rougue State を使ってしまうと、公式声明に出て来る言葉でもあり、最近では Islamic State の連想もあって、シャレにならなくなるからではないか。もしそうなら、その姿勢は、この作品に関しては評価できると思う。これは娯楽映画なのであって、人々の不安を煽るのが目的ではないはずだ。

もうひとつトリビアネタ。このような大規模予算映画のエンドタイトルを追うのはなかなか骨が折れるのだが、今回、音楽は作曲者のジョー・クレーマーが自分で指揮しているようだが、「トゥーランドット」に関しては、なんと、フィリップ・オーギャンの名前があった。もう何年前になるか、東京オペラの森で小澤 征爾が振るはずだった「タンホイザー」を彼が代わりに振って、素晴らしい出来であった。せっかくなので (?)、彼の写真を掲載しておこう。
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このシリーズは、既に次回作製作も発表されているらしい。次はトム・クルーズがどんなインポッッッシブルに挑戦してくれるか、楽しみに待つとしよう。

by yokohama7474 | 2015-09-10 01:32 | 映画 | Comments(0)

さよなら、人類 (ロイ・アンダーソン監督 / 英題 : A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence)

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今年、これまでで最も強く、見たい!! と思った映画。スウェーデン映画 (より正確には、ノルウェイ、フランス、ドイツとの合作) で、原題は、"En duva satt på en gren och funderade på tillvaron"...うーん、さっぱり分からんが、duva はきっと dove (= pigeon) と同じではないかと思うと、どうやら英語の題、"A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence" と同じだと推測できるような気がする (が、保証はしません)。日本語では、「存在について考察する枝の上の鳩」ということになるが、スウェーデン語と同じく、日本語でもなんのことやらさっぱり分からない (笑)。邦題の「さよなら、人類」は、昔たまというグループが歌っていた (某友人の唯一のカラオケレパートリーでもあった) 同じ題名の歌を思い出すが、あれは「さよなら人類」であって、読点はなかった。まあそれはこの際、どうでもよい話であるが、この邦題、ポスターで見るようなとぼけた味わいとは対照的な、終末感漂う原題やこの映画の中身の雰囲気を出そうという腐心の結果であろうか。

さて、スウェーデンには仕事でも遊びでも行ったことがあり、ストックホルム郊外、世界遺産のドロットニングホルム劇場でバロックオペラなど楽しんだことまであるが、すべての人が完璧な英語を喋る国である。よって、旅行者がスウェーデン語なるものを耳にする機会はあまり多くない。従って、この映画で聞く言語に、ほとんどの人が馴染みのなさを感じるのではないか。この映画から感じることのできる終末感は、ひとつにはこの言語の響きがあると思う。もちろん、映画界にはイングマル・ベルイマンという同国の巨匠もいるわけであるが、誰でも知っているポピュラーな存在とは言い難い。「イニェー」だか「ウニェー」だか、それも Yes だか No だが分からぬが (笑)、何やら応答している登場人物たちの曖昧な言葉が、見る人になんとも不思議な孤独感を覚えさせるのである。

ポスターに出ている 2人の男は、向かって右がサム、左がヨナタン。おもしろグッズを売り歩いているセールスマンだ。何がおもしろグッズかというと、まず、吸血鬼の牙。
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それから、笑い袋 (映画で使われたものではなく、あくまでイメージ)。
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そして極め付けが、イチ押しの新製品、「歯抜けオヤジ」のマスク。
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もちろん、どこに行ってもバカ売れ・・・、なわけがなく、人々から白眼視される 2人の周りには常に徒労感と哀愁がつきまとう。そしてこの映画、これら 2人と関係あるのかないのかよく分からない登場人物たちが、何やら同じような場所に出没して、全く関連性のない仕草や会話を続けるというもの。ストーリーは、あるような、ないような。例えて言えば、吉田戦車の不条理マンガか、あるいはだいぶ古いが、ゲバゲバ 90分、またはモンティパイソンのコントのようなもの。もちろん、映画におけるシュールレアリスムの最高の例である、ルイス・ブニュエルを思わせるところも幾分ある。全部で 39シーンあるそうだが、ワンシーンワンカットで成り立っている。見ていて即興性が感じられるが、スタッフのインタビューによると、監督には撮影前にイメージができているものの、セリフを含めた完全な形での脚本はないそうだ。それでいて、適当に早撮りしてしまうわけではなく、この映画は実に撮影に 4年も要しているとのこと!!

シュールな笑いの合間に、時として強烈なシーンが出て来て目を奪う。例えば、サムとヨナタンが、歯抜けオヤジマスクを売り込んでいると、古風ないでたちの軍隊がカフェに突然現れ、馬に乗ったスウェーデン国王カール 12世 (1682 - 1718) が号令をかける。
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この少しあとのシーンでは、戦争に敗れたスウェーデン軍がトボトボ帰還し、戦争のおかげで未亡人になった若い女性が泣き崩れる。

あるいはこんなシーンもある。大きなドラム缶状の容器を横たえた中に黒人奴隷を押し込み (ここだけなぜか軍隊が英語を喋っている)、ドラム缶の回りに火を放って回転させるというもの。なんとも空恐ろしいシーンだ。
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多くの登場人物が (上の写真のヨナタンのように) 顔を白く塗っていて、ゾンビ風にも見えるし、演劇の舞台のようにも見える。いずれにせよ、この映画ではリアリティは追求されておらず、まさに空虚でシュールな、生命感のない世界。何度か登場する将校が、レストラン (冒頭のポスターと同じ場所だ) の前で携帯電話を手にするシーンでは、窓の奥で食事をしている人々が、何度も何度も馬鹿笑いしているが、それは遠い別世界から届いてくるような感覚で、現実のものではないように聴こえる。
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ここに出て来る人たちは、もしかすると、既に死んでしまっているのだろか。そういえば、何人か電話口で、「元気でなにより」という言葉を発するが、いやいや、馴染みのない言葉ということもあり、そのいずれもが、「ご愁傷様」と言っているように聴こえ、一体どこがどう、元気でなによりなのか、という感じで響くのだ!! この感覚、バルチュスの作品に似ている。この街角。この人々の生命感のなさ。でもどこかに漂う哲学的な雰囲気。
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とまぁ、とぼけた味わいの中に不気味さを満々と抱えた映画なのであって、類例を探すのはちょっと難しいし、制作の困難さも想像できる (映画監督とは、集団を動かす仕事であり、共感しない大勢のスタッフを従えて作品を作ることはできない)。私にとっては、かなり好みの映画と言える。この作品の監督、ロイ・アンダーソンは 1943年生まれで、短編も含めてこれまで何度か国際的な映画祭で賞を取っており、本作ではなんと、昨年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しているのだ。なんでも、過去の作品、「散歩する惑星」、「愛おしき隣人」に続く、15年がかりで制作されたリビング・トリロジー (人間についての三部作) の締めくくりとのこと。因みにこの過去の 2作、新宿シネマートで公開とあったので調べてみると、8月初旬の 1週間にレイトショーで上映されただけであった。うーむ、残念。そのうちディスクで発売されるのを待とう。

この映画、まだ劇場にかかってはいるが、全国的に見ても上映館は非常に限られている。もし、このような不思議映画がお好きな方は、すぐに劇場に走った方がよい。Good Luck!

by yokohama7474 | 2015-09-07 21:50 | 映画 | Comments(0)

ワーグナー : 楽劇「トリスタンとイゾルデ」(演奏会形式) シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 2015年 9月 6日

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バイロイトでティーレマンの指揮する「トリスタン」を見てから、ええっと、もう何ヶ月経ったかなぁと思って冷静に考えると、な、なに? まだ 3週間半だ。あっれー、随分昔のような気がするが、まだ 1ヶ月も経っていないわけである。それなのに、また「トリスタン」の全曲だ。今回の演奏は、読売日本交響楽団が、その常任指揮者、フランス人のシルヴァン・カンブルランと挑む、演奏会形式だ。1週間を挟んで 2度の公演があるが、チケットは完売。相変わらずの日本人のワーグナー好きが実感される。私はド M ではないので、別にこれに行かなくてもよいのだが、まあ行きがかり上しょうがない、行くことにした。うむ、実際には松本での小澤指揮のブラームス 4番の日程とダブってしまったのだが、躊躇なくこちらを選んだ。やっぱりド M なのかなぁ・・・。

さて、会場には、新国立劇場の音楽監督でワーグナーを得意とする指揮者、飯守 泰次郎や、音楽評論家数名、いつも見かける一連のコンサート常連おじさんたち、それから、先のバイロイト旅行で見かけた人たちも含めて、東京中のド M が大集合だ。今月の東京での演奏会では、まず注目度 No. 1 と言ってよいだろう。

シルヴァン・カンブルランは、1948年生まれ。南西ドイツ放送響 (バーデン・バーデン & フライブルク) の首席指揮者として、主に現代音楽の分野で頭角を現したが、そのレパートリーは広く、読響とも、2010年の常任指揮者就任以来、古典から前衛まで、あらゆる音楽を手かげている。このポニーテールが特徴。
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実は彼は現在、シュトゥットガルト歌劇場の音楽総監督も務めていて、今回の「トリスタン」は、その劇場での主役歌手を招聘してのもの。シュトゥットガルトには行ったことがないが、この歌劇場はなかなか面白そうだなとは思っていて、今回の演奏会は、日本でポストを持つ一流指揮者の海外の活動の一端が日本に紹介される機会ととらえることができるであろう。

演奏会形式でオペラを上演する場合、少し舞台装置や照明や歌手の演技がある場合もあるし、純粋に音楽だけの場合もある。今回は、ステージ上は通常のオーケストラコンサートよりも照明を落とし、オケはまるでピットにいるかのように、各譜面台に照明をつけての演奏。但し、舞台装置や特殊な照明の類は一切なし。歌手の演技も、視線を合わせるとか、ちょっと死んだマネとかいう、最小限にとどめられた。まさに、正面からワーグナーの音楽に取り組もうという姿勢が明確だ。

これまでカンブルランの指揮には何度も接していて、情緒的でないタイプであることは分かっていたが、その一方で、オケを鳴らすことには長けているので、ワーグナーの楽劇には適性があるものと期待していた。結果的には、その期待は、まずは充分に満たされたものと思う。前奏曲では音の粘りは最小限に、但し弦に対して管が反応する際の細かい神経の使い方は傾聴に値するものであった。読響も、まだ私の耳の底に残っているバイロイトのオケの響きと比較するとさすがに酷であるが、官能性溢れる音楽をニュアンス豊かに演奏したと言えるであろう。この曲、ほかのワーグナーの曲もそうであるが、とにかく言葉が途切れる瞬間が少ないので、指揮者は流れを作るのが大変であって、始終動き続けることになるのだが、このカンブルラン、若干スコアを見る時間の割合が高いようにも思われたが、的確な指揮ぶりではあった。第 2幕の途中で指揮棒を置いて素手で指揮していたのは、長丁場の 2重唱で、オケをうまく流すためであったろうか。歌劇ではなく楽劇とワーグナー自身が呼んだ通り、歌もさることながら、オーケストラのパートが重要なオペラであり、その意味で、読響の演奏は充分作品の要求を満たしたと思う。

一方で歌手はどうか。圧巻であったのは、マルケ王役のアッティラ・ユンである。
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韓国人のバス歌手だが、欧州各地で活躍しており、バイロイトの常連でもある (去年なら、ハーゲンを歌っていたらしい。ということは、やはりこの人も、ジークフリートを、背後からではなく、正々堂々 (?)、正面から金属バットで殴り倒したのだ 笑)。その存在感は素晴らしく、このオペラ、マルケ王の登場する 2つのシーンがとりわけ重要な意味を持っているように思えてくるから不思議である。実際、第 2幕と第 3幕の幕切れ近くでマルケ王の歌う内容は、主役 2人の陶酔と対局にある、物事に対処すべき大人がわきまえているべき分別と、悲劇を浄化する寛大な人間性を表しており、これがなければこのオペラ、全くスカスカなものになってしまうということに、改めて気づかされた。凡庸なバス歌手なら、単なる説教で終わるところ、ユンは、作品の新たな面に気づかせてくれた。

ブランゲーネを歌ったクラウディア・マーンケは、帰宅してから気づいたことには、今年のバイロイトの「指環」でフリッカを歌っていた歌手ではないか!! おー、なんということ。全く分からなかった。では今日の主要歌手 5名 (クルヴェナルまで含めて) のうち 2名が、あの最低演出の経験者か。なにせ、このマーンケさん、今回のプログラムの写真がこんな爽やかなのに、
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バイロイトではこんな感じでしたから。
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本当にオペラ歌手とは大変な職業である。ところで、このバイロイトの「指環」、最低最低と言いながら、最近少し懐かしく思い返すときがある。後追いながら、演出のコンセプトについての解説なども読み、はぁそういうことだったのかという点もないではない。ただ、一度最低と評価したものは、そう簡単に評価を変えてはいけません。ということで、相変わらず最低という整理にしておこう。

話がそれてしまったが、このブランゲーネは、それほど驚くような出来でもなかった。そうなると主役の 2人であるが、イゾルデ役には、もともとシュトゥットガルトで歌ったらしいクリスティアーネ・イーヴェンが病気のため、レイチェル・ニコルズという歌手に変更になった。この名前、聞き覚えがある。多分コヴェントガーデンで聴いたことがあるような気がする。代役で出てきた割には、譜面も見ずに堂々たる歌唱ぶりであった。まずは及第点といえよう (エラそうですみません)。

最後に、トリスタン役のエリン・ケイヴィスであるが、全曲危なげなく歌ったものの、正直なところ、音程、声量とももうひとつであった。まだ若い歌手なので、これからまだ成長して行くのであろう。私は時折思うのだが、本当にオペラ歌手、特にワーグナー歌いを職業に選択しなくてよかった。あれだけ長いドイツ語を覚えてちゃんと歌うなんて、人間業とは思われない。だから、こんな曲を全曲歌えるだけで、本当は拍手喝采なのだが・・・。

聴き終わった感想を一言にするなら、「やはりワーグナーの演奏会形式上演は、長い!!」というもの。この「トリスタン」は、ストーリーが単純であるため、演技があってもなくてもよさそうなものだが、やはりそうではなく、舞台があって初めて音楽が生きると思うのだ。このオペラのストーリーがいかに簡単か、例を採って説明すると、第 2幕の要約はこうだ。
 ブランゲーネ「イゾルデ姫、お気を付けを」
 イゾルデ「いいのいいの。あ、トリスタン様ぁ」
 トリスタン「おー、愛してる愛してる、イゾルデがボクか、トリスタンがキミか分からないくらい」
 イゾルデ 「Me, too」
 メロート「おっと、不倫現場発見!!」
 マルケ「なんちゅうことしてくれんねん」
 トリスタン「お詫びにわざと切られまーす」
これだけの内容を、実に 80分かけて延々歌い続けるのだ。どうですかねこれ。ちょっと長すぎやしませんか!! それから、演奏会形式ということで、歌手は時折水分を補給しながらの歌唱であったが、例えば、第 3幕大詰め、いよいよイゾルデが最後の絶唱、「愛の死」に入る直前に、侍女ブランゲーネが強く呼びかけるシーンがあるのだが、「イゾルデ様! 愛しい姫様! 忠実な侍女の言うことが聞こえませんか?」とド迫力で詰め寄るとき、イゾルデ役の歌手が、それを一切無視して、「さあいよいよ最後よ」とばかり水分をチュウチュウ吸うのを見て、ブランゲーネが、「おい、聞いとんのかい、ワレ!!」とイゾルデをドツくのではないかと、見ていてハラハラしたものだ (笑)。

冗談はさておき、バーンスタインがバイエルン放送響とこのオペラをライヴ録音したとき、確か、各幕で 1回のコンサートであったはず。1日のコンサートで全曲は、ちょっときつかったというのが本音。但し、聴き通す忍耐を持った人間にとっては、なかなかに充実した内容であったと言ってよいと思う。次は舞台で見たい。

by yokohama7474 | 2015-09-07 01:03 | 音楽 (Live) | Comments(0)

モーツァルト・マチネ ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2015年 9月 6日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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私がこのブログを書いているのは、まあひとつは最近物忘れが激しいので、備忘ということもあるのだが (苦笑)、もうひとつ、一応目標としていることがある。それは、大それたことのようだが、東京をはじめとした日本で、その時その時に触れることのできるいろんな文化を書きとめることで、私たちがどのような社会に暮らしているのかについて、ほんの断片的であっても考える材料を提供したいということだ。もちろん、自分に興味のあることしか書けないので、大変偏りがあるのは事実だが、たまたま同じ興味をお持ちの方にご覧頂ければ、少しは「ほー」とか「へー」とか、あるいは「それは違うだろう」と思ってもらえるかなと期待しつつ、日夜執筆に励んでおります。

さて、今回取り上げるのは、東京交響楽団がその本拠地である川崎のミューザで定期的に行っている、「モーツァルト・マチネ」というイヴェントだ。マチネとは、ご存じの通り、昼の公演のこと。このシリーズは、非常にユニークなことに、休日の午前 11時から、休憩なしで 1時間くらいで聴けるお手軽コンサートである。お手軽と書いたが、なんのなんの、演奏者は一流だ。今回はこのオケの音楽監督、名指揮者ジョナサン・ノットが登場した。

このブログでいろいろご紹介している通り、日本のオケは、全般に演奏水準がメキメキ上がっているだけではなく、それぞれにユニークな活動を展開して来ている。川崎という、それなりに賑やかだけど、まあ一般的なイメージでは正直クラシックが似合うとは言い難い庶民の街 (失礼ながら・・・) において、こんな素晴らしいホールでこんな素晴らしい催しがあって、来ている人たちがみなとても楽しんでいるのが、何より嬉しいではないか。在京のオケでも、本拠地といえるホールを持っているのは、この東京交響楽団と、すみだトリフォニーホールを本拠地とする新日本フィルくらいであるが、今日のような演奏会に接すると、本拠地で練習も本番もできるメリットを活かし、地元の人たちに愛好されていることの価値を思い知るのだ。

指揮者のノットについては以前にもご紹介したが、世界各地で大活躍のイギリス人中堅指揮者。
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もともと現代音楽で名を上げたので、今回のような古典はいかがかと思いきや、アンサンブルの基本をしっかり踏まえた、純度の高い Intimate な音楽を聴かせてくれて、なんとも心が豊かになった気がする。曲目はモーツァルトの以下の 2曲。

 ヴァイリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調K.364 (Vn : 水谷 晃 / Vla : 青木 篤子)
 交響曲第25番ト短調K.183

モーツァルトの協奏交響曲は、この弦のものと、管楽器をソリストにしたものがあり、どちらも素晴らしい名曲だ。もっとも、管の方は復元楽譜しかなく、モーツァルトの真作であるか否か分からないとされている。その点、この弦の方がより愛好されている。よくオーケストラの首席奏者 2人がソロを務めて演奏され、今回もそのパターンだ。ソリスト 2人は、ソロの場面以外はオケのパートも弾いており、そのあたりも、気心の知れた仲間の演奏という雰囲気で、なかなかよい。ノットの指揮は予想通り、重く引きずることのない清澄な音できびきびと進められ、パート同士の掛け合いも誠に楽しいものであった。欲を言えば、ソロの 2人がもっと目を合わせ、呼吸を合わせて演奏してくれればもっとよかったが、若い男女なので、ちょっとばかり照れがあったのかも (笑)。

モーツァルトの時代、器楽曲が短調で書かれることは非常に稀で、交響曲では、この 25番と、よく知られた 40番の 2曲。ピアノ協奏曲も、20番と 24番の 2曲のみだ。いずれも最高の名作ばかりだが (もしご存じない方がおられれば、騙されたと思って全部聴いてみて頂きたい)。25番は、29番と並んで中期の交響曲の名作であるが、改めて聴いてみると、その疾走感は、後年の 40番との共通点が多い。但し、40番はさすがに作曲者晩年の神がかり的境地を示すのに対し、この 25番は、若さゆえの夢想された哀しみと、その裏にある安らぎが交錯して、宝石のように美しい。シュトルム・ウント・ドランク (疾風怒濤) とはこの時代の文化を表す用語であり、ハイドンにも短調のシンフォニーの名曲があるが、ハイドンの人間性に比べると、モーツァルトのアポロ性というべきものが際立っているのが分かる。このミューザ川崎の 1階席はすり鉢状になっていて、本当に最高の響きが鳴るのだが、この曲でのヴァイオリンの左右対抗配置を聴いていると、第 2ヴァイオリンが、ある時は第 1ヴァイオリンとハモっていることもあれば、またある時は、第 1ヴァイオリンの奏でる旋律をチェロ・コントラバスと同じ音型で支えることもあることがよく聞き取れ、まさに室内楽のように響く。
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この 2曲の編成には共通点があって、ティンパニとトランペットが使われていないことだ。時代の制約で、もちろんクラリネットやトロンボーンもない。つまり、ホルンとオーボエ、あとは交響曲 25番にファゴットが入るくらいだ。ああなるほど、祝典的な要素の代わりに、気心の知れた者同士での気持ちの通じ合いこそが、このマチネのテーマだったのだ。川崎市は、実はザルツブルク市とは姉妹都市。ザルツブルクに生まれた天才モーツァルトも、遠く離れたこの川崎でこんなに質の高いコンサートが開かれていることを知ったら、さぞや喜ぶことであろう。本当に有意義な日曜の昼になった。

by yokohama7474 | 2015-09-06 23:35 | 音楽 (Live) | Comments(0)