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アンドリス・ネルソンス指揮 ボストン交響楽団 (ピアノ : ラルス・フォークト) 2015年10月20日 ニューヨーク、カーネギーホール

出張先のニューヨークで、一日だけ自由になる夜があった。MET では、珍しく多少現代的な「リゴレット」が上演されており、ニューヨーク・フィルの指揮台にはセミヨン・ビシュコフが立つ。それらもよいのだが、私が迷わず選んだのは、カーネギーホールでのこのコンサートである。
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ラトヴィア、リガ出身の俊英指揮者、アンドリス・ネルソンスが、昨年から音楽監督を務める名門ボストン交響楽団を振る。このコンビは未だに来日していないので、これは千載一遇のチャンス。逃してなるものか。

コンサート通いの醍醐味は、名高い巨匠名匠の音楽に生で触れることだけではなく、未だ一般的な人気を獲得しておらずとも、なんとなくピンと来る若手演奏家の実演に触れて、新たな宝を発見することにもある。そのような体験がそれほど頻繁にあるわけではないが、私の場合、過去に何度かそのような機会に恵まれた。例えば、以前記事にも書いた、バーンスタインの代役として颯爽とロンドン響を指揮した大植英次。北欧の名門ストックホルム・フィルを引き連れて日本にやって来た、後のニューヨーク・フィルの音楽監督、アラン・ギルバート。トゥールーズ・キャピタル管弦楽団を率いて最高のニュアンスに富んだ演奏を繰り広げたトゥガン・ソヒエフ (彼については、ベルリン・ドイツ響との来日公演間近なので、近く記事でご紹介する)。そして、2009年、ロンドンの夏の音楽祭、プロムスで手兵バーミンガム市交響楽団を指揮して圧倒的な演奏を聴かせてくれた、このアンドリス・ネルソンス。
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彼は 1978年生まれというから、今年まだ 37歳。指揮者としては、まだまだ若手の方である。にもかかわらず、この名門ボストン響の音楽監督に就任し、また、先に行われたベルリン・フィルの次期音楽監督選びの有力候補のひとりとなり、最近では、2017年からリッカルド・シャイーの跡を継いでライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の楽長に就任することが発表された。まさに指揮界の寵児である。2009年に私がロンドンで彼を聴いたときには未だ 30代前半だったわけだが、その数ヶ月後にロンドンから日本に帰任した際、最も残念なことは、「ネルソンスを本拠地のバーミンガムで聴くことができなかったこと」であった。そのくらい鮮烈な印象を与えてくれたのである。

バルト三国のひとつ、ラトヴィアの首都リガ。一般の人たちには全くイメージないかもしれないが、クラシック音楽ファンにとってみれば、何人もの偉大な音楽家を輩出した街なのである。まず、あの大作曲家ワーグナーが、19世紀に宮廷楽長をしていた。現代では、ヴァイオリンのギドン・クレーメル、チェロのミッシャ・マイスキー、そしてこのネルソンスの師匠にあたるマリス・ヤンソンスがこの街の出身だ。ヤンソンスは、アムステルダムの王立コンセルトヘボウ管とミュンヘンのバイエルン放送響という偉大なオケのシェフとして君臨する現代屈指の名指揮者である。師ヤンソンスの明快で豪放な音楽作りが、このネルソンスに大きな影響を与えたことは一聴して明らかだ。指揮界の若きエースは、あのボストン響の音楽監督として、今後いかなる実績を積み上げて行くのであろうか。

この日の曲目は以下の通り。

 セバスティアン・カリエール (1959年米国生まれ) : 管弦楽のための Divisions (分割) (2014年作、ニューヨーク初演)
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 3番ハ短調作品37 (ピアノ : ラルス・フォークト)
 ブラームス : 交響曲第 2番ニ長調作品77

米国の代表的なオーケストラは皆、このカーネギーホールで年に何度か演奏会を開き、その腕を競い合うのであるが、今回のボストンの演奏会は 3夜連続で、これが初日であった。翌日は、リヒャルト・シュトラウスの楽劇「エレクトラ」の演奏会形式、その次の日は、プロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」とラフマニノフの交響的舞曲という、なんとも多彩なプログラムで勝負をかけている。

1曲目の現代曲の作曲者は、初めて聞く名前であるが、地元ニューヨーク在住の中堅作曲家であるらしい (http://www.sebastiancurrier.com/)。この「分割」という作品は、昨年 2014年に、第一次世界大戦勃発百年を記念して書かれたもの。原題の Divisions は、もちろん主たる意味は分割なのであるが、調べてみると、軍隊の師団という意味もあるらしい。プログラムに作曲者自身が寄せた文章によると、第一次大戦を追想する音楽として何がふさわしいか、友人に尋ねたところ、「それは簡単なことだ。完全な沈黙だよ」と答えたとのこと。なかなか心に残る話だが、完成した音楽はもちろん完全な沈黙ではなく、暴力的な戦争の様子と、それに抗う人々の様子、そして抗争が沈静化して行く様子が描かれていると解釈できる。昨今の作曲界の風潮を反映して、前衛性はあまり感じられず、人間の感情に訴えかける音楽だ。そして、冒頭から明らかなのは、オーケストラの音色のビックリするような鮮やかさだ。あまりにキレイな木管の音に驚いて、その音の元を目で探すと、しわくちゃのお爺さんだったりするのが昔からの (少なくとも小澤時代からの) このオケの特徴であったが、その伝統を見事に継いでいることが確認された (笑)。

2曲目は、ピアノのラルス・フォークトが登場。1970年生まれのドイツ人。何度も来日しているし、着実な音楽性が世界で人気を博しているピアニストだ。
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3番のコンチェルトは、ベートーヴェンのピアノ・コンチェルトの中で唯一短調で書かれていて、ベートーヴェンらしい悲劇性をたたえた素晴らしい曲だ。フォークトの演奏は、弾き飛ばすことなく真摯にその悲劇性と向き合い、聴きごたえがある。但し、個人的にはもう少し破天荒な部分があればもっとよいと思う。まあ、気楽な聴き手の気楽な感想ですがネ。これは終演後の写真。
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さて、瞠目すべき聴きものは、メインのブラームス 2番であった。ときに「ブラームスの田園交響曲」と呼ばれることすらある、ブラームスにしては極めて例外的な、明るい情緒にあふれた曲だ。これぞまさにネルソンスの音にぴったりで、ここでも超絶的に美しいオケの音色が次から次へと耳を通り過ぎて行き、滅多に味わうことのできない最上質の音楽に文字通り酔いしれてしまう。どこまでも続く朗々たるチェロの響き、飛び交う鳥のような木管たち、小川の流れのようなヴァイオリンの音色・・・。そして終楽章では生の歓びが爆発する。私の席からは指揮姿がよく見えたのだが、ネルソンスは指揮台の手すりに体をよりかからせ、音の奔流を受け止めては持ち上げる。決して器用には見えないが、もったいぶったところのない、大変に素直な指揮ぶりだ。これにはオーケストラも乗りやすいのであろう。うーむ。それにしてもまだ 30代の若さで、この最上のオケをこれだけドライブするというのは、やはり只者ではない。こちらも終演後の様子。
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音楽を聴くためには、ある程度の知識は必要であるものの、何よりも感性を全開にして、その場その場の音を坦懐に楽しむべきと常々考えており、その結果として感銘を与えてくれる音楽家こそを尊敬することにしている。そのためには自分の感性を信じる必要があって、もちろん感性というものは正しいとか正しくないという峻別はできないものではあるが、ある程度は世間の評価によって正当化されるものだと思う。その意味では、6年前に一聴してその才能を感じることのできたこの指揮者が、これだけの実力者として活躍の場を広げているのは嬉しい限り。これからも応援したい。

さて、少し長くなってしまっているが、せっかくの機会なので、カーネギーホールを訪れたことのない方々に少し雰囲気を知って頂くために、写真を掲載する。ホールに隣接したちょっとしたサロンに展示されている、カーネギーホールの歴史を物語る資料の数々。このホールは今年が125年目のシーズンとのことだから、1891年に開館していることになるが、そのこけら落とし公演に大物音楽家が登場している。この人だ。
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チャイコフスキー。昔昔の、その名も「カーネギーホール」という白黒の映画をご覧になった方は、このホールでチャイコフスキーが指揮をする映像があったことを覚えておいでであろう。但し、もちろんそれは本物の映像ではなく、役者の演じる姿であったのだが、ステージの袖からその様子を垣間見る子供が、「ちゃんとこれを覚えておけよ。チャイコスフキーが指揮するのを聴いたということを」という大人の言葉に感動するシーンがあったと記憶している。それにしても、写真の上部に何やら汚い字で書きこみがあるが、これはチャイコフスキー自身によるものだろう。ドイツ語のようにも見える。宛先にはウォルター・ダムロッシュとあるが、これはこのホールの設立者であり、当時のニューヨーク・フィルの音楽監督の、あのダムロッシュであろう。うーむ。1891年ですよ。古いなぁ。

それから、ニ十世紀を彩る偉大な音楽家たちの足跡。これはアルトゥーロ・トスカニーニの演奏会のプログラムと、彼の指揮棒。左隣は、作曲家のジョージ・ガーシュウィンだ。ここでもなにやら写真にガーシュウィン直筆の書き込みが見える。
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それから、トスカニーニの娘婿で、このホールで幾多の歴史的演奏を披露した世紀のピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツ。
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もちろん、歴史上最も有名な指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンに関する展示品もある。彼の指揮棒と、おっと、1955年のコンサートのプログラムだ。戦後初めてベルリン・フィルが旧敵国のアメリカに演奏旅行に来た際のもの。前年のフルトヴェングラーの死去に伴って、この楽旅の指揮をとったことをきっかけに、カラヤンはこのオーケストラの終身音楽監督の地位を得た。
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そして、ニューヨークと言えばこの人、レナード・バーンスタイン。私が最も尊敬する指揮者である。そして、左側に見えているクラリネットは、誰あろう、あのベニー・グッドマンが愛奏したものだ。
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私も 2006年から 2007年にかけてはこの街に住んでいて、このホールまでの所要時間は、バスでたったの 15分くらいだった。物理的にニューヨークにいる限り、ごく日常的に通っていた場所なのであるが、一旦離れてしまってから、改めてこのような展示品を見ると、まるでおのぼりさんのように嬉々として写真を撮ってしまうのだ!! (あ、ちゃんと撮影してよいかとスタッフに訊いてから撮影しています) この、何度来てもなくならない高揚感こそがニューヨークだ。

素晴らしいコンサートに心底感動して、その余韻を味わいつつ、ホールからホテルまで 20分ほどの道のりを歩いて帰ることとした。このような夜景が、悔しいけどカッコいいのです、この街は。
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マンハッタンの中では、驚くべきことにオフィスビルやマンションの建設ラッシュとなっており、一方で、昔あったカジュアルな日本めし屋が、残念なことに何軒も閉店していた。この街の好況を実感しつつ、変わりゆく一部の風景へのわずかな寂寥感と、全く変わらない大部分の風景への高揚感に、ポケットに手を入れて少し気取って歩きたくなる私であった。


by yokohama7474 | 2015-10-31 00:25 | 音楽 (Live) | Comments(2)

チョン・ミョンフン指揮 ソウル・フィル (ヴァイオリン : スヴェトリン・ルセヴ、チェロ : ソン・ヨンフン) 2015年10月19日 サントリーホール

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韓国が生んだ大指揮者、チョン・ミョンフン。既に世界各地で偉大なる足跡を印し、日本でも東京フィルの元スペシャル・アーティスティック・アドヴァイザー (現桂冠名誉指揮者) として、また外来オケの指揮者として、幾多の演奏を繰り広げて来た。今回、「サントリーホール・スペシャルステージ2015」と題して開かれる彼の 3回の連続コンサート (ひとつはこのソウル・フィルとのもの、ひとつは東京フィルとのもの、そしてもうひとつは、ピアニストとして室内楽を演奏するもの) は、日韓国交正常化 50周年記念と銘打たれている。お、ということは、ちょうど私の生まれた 1965年 (昭和 40年) に日本と韓国は国交を正常化したことになる。よく、近くて遠い隣人などという表現もあるが、少なくとも民間人同士、あるいはこのような文化芸術分野での交流は、何も特別に国交がどうのこうのと言うレヴェルを超えた交流がなされている。従ってこの一連のコンサートも、公式行事めいたものは何もないらしく、いわゆる通常のコンサートの連続であるようだ。仰々しさのないところに好感が持てる。

韓国のオーケストラ情勢に詳しいわけでは決してなく、これまでにソウルでオーケストラ公演やオペラに行ったことはあるものの、いずれも日本やロシアなど、韓国外の団体によるものであった。今調べてみると、このソウル・フィル (Seoul Phiharmonic Orchestra) は国内名称ではソウル市立交響楽団といい、これとは別に Seoul Philharmonic というオケもあるというからややこしい。ただ、今回来日したソウル・フィルこそが、韓国で最も古く由緒正しい楽団であるということだ。チョン・ミョンフンが 2006年から音楽監督を務めているらしい。

このオーケストラ、今回が確か 3度目の来日であると思うが、最初の来日に関して忘れられない思い出があるので、それは後で記すとして、まずはこの日の曲目から。

 ブラームス : ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調作品 102
 ブラームス : 交響曲第 4番ホ短調作品 98

堂々たるブラームスプログラム。二重協奏曲でソリストを務めるのは、ヴァイオリンが、チョンのもうひとつの手兵であるフランス国立放送フィルのコンサートマスターで、このソウル・フィルの客演コンサートマスターでもあるブルガリア人、スヴェトリン・ルセヴ。チェロが、韓国人ソリスト、ソン・ヨンフン。オケとの呼吸がぴったりの好演であった。
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このオーケストラ、聞くところによると、チョンが音楽監督となってから、演奏水準を上げるために半分以上の楽員が入れ替わったという。最近ではレコーディングも盛んで、1番、2番、9番、そして次に 5番と続くマーラー・シリーズが日本でも高く評価されている。
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ステージをざっと見渡したところ、弦楽器は女性、しかも若い女性の奏者が多く、金管には西洋人の顔も見える。この日の演奏では、二重協奏曲はコントラバス 8本 (ロマン派としては通常編成だが、協奏曲としては少し大型であろう)、交響曲に至っては、昨今珍しい 10本のコントラバスを動員していた大型編成であった。なじみのない方のために念のために申し添えると、オーケストラにおけるコントラバスの数はそのまま弦楽器の人数を表している。つまり、コントラバスが通常より 2本多ければ、チェロ、ヴィオラ、第 2ヴァイオリン、第 1ヴァイオリンと、それぞれ 2本 (1プルト) ずつ多くなるのだ。なので、これからはコンサートに行く度に、「ほぅ、今日はコントラバス 10本だね。大きいねぇ~」と知ったかぶりできるわけです。あ、「どの楽器がコントラバス?」という質問は受け付けないので悪しからず。

寄り道はともかく、このオーケストラ、さすがチョンが手塩にかけただけあって、合奏能力も優れているし、集中力も高い。日本のオケとどうしても比べてしまうが、場面場面では多くの日本のオケを上回るような深みの音を聴くことができた。ただ、特に交響曲では、やはり弦の情緒纏綿とした歌に管楽器が埋もれてしまうのはいかんともしがたい。まあ、これは日本人も近い感覚があるかと思うが、韓国人の情緒の表現には瞠目すべきものがあって、ブラームスの中でもこの 4番には適性があると思った。但しその意味では、フランス音楽の繊細なレパートリーなどはどうなるのかという気もしたものだ (確か前回の来日ではドビュッシーの「海」を演奏していると思うが、私は聴いていない)。しかしながら、オーケストラの持ち味をこのような形で表現したのだととらえれば、非常に聴きごたえのある音楽だったと思う。東京はソウルから近いのだから、日本のオケへの刺激という意味でも、これからも頻繁に来日して欲しいものだ。この日のアンコールは、同じブラームスのハンガリー舞曲第 1番。ブラームスの 4曲の交響曲の中で、この 4番だけが、打楽器にティンパニ以外の楽器が加わっていて、それは実はトライアングルなのだが、一連のハンガリー舞曲の中でも、この 1番はトライアングルがあれば足り、5番や 6番のようにシンバルは必要ないから、この日のアンコールとしては好都合であったろう (笑)。

さて、この演奏会から離れて、このオーケストラの初来日について書いておきたい。それは、2011年 5月10日。何かお気づきにならないだろうか。そう、東日本大震災からほんの 2ヶ月後だ。このときクラシック音楽界では、来日中、または地震直後に来日予定であった演奏家や団体が、次々と演奏会をキャンセルしたものだ。そんな中のひとつが、チェコ・フィルハーモニー。以下のチラシをご覧頂きたい。
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指揮チョン・ミョンフン、ヴァイオリン庄司 紗矢香 (日本が誇る最高の才能!!) で、しかもメインの曲目はブラームス 4番だ。日程が 2011年 3月15日とある。結局このコンサートはキャンセルされたのだが、さすがに震災直後のこのタイミングでは、それも無理からぬものであったろう (確か、楽団は来日したものの、チェコ政府の命令で帰国したのではなかったか)。しかしながら、その後急遽、同じ指揮者、同じソリストで、ソウル・フィルの初来日が発表される。チラシはこれだ。
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彼らのような世界的な音楽家が、2ヶ月後の予定など空いているわけもない。これは明らかに、東日本大震災で心理的にも物理的にも大きな痛手をこうむった日本に対する応援として、スケジュールを無理して調整してくれたのであろう。当時いかなる感情で日々過ごしていたのか、明確には思い出せないが、放射能の恐怖や悲惨な地震と津波の被害が人々の心を苛んでいた頃であり、N 響で第九を振るために駆けつけてくれたズービン・メータとともに、このソウル・フィルの来日は大変な励みになったのだ。

そして、私は忘れない。演奏会が始まる前にチョンが英語で語った言葉を。「私はまず人間であり、次に音楽家であり、そして最後に韓国人だ。今日は人間としてここにいたいと思う」というようなものであった。そして、「我々のソリスト、サヤカさんを紹介しましょう」と言うと、庄司は人々を鼓舞するように、走って舞台に登場したのだ。実はこのときのメインの「悲愴」も、コントラバス 10本の編成であった。確か東京フィルのメンバーを交えた編成であったはず。音楽が人々に勇気を与えることができるという証明となったコンサートであった。ただその時も私は思ったものだ。「東京はソウルから近いのだから、このオケも、このような機会だけでなく、もっと気楽に頻繁にやって来て演奏してくれればいいのに」と。聴き手側も、欧米の有名オケだけではなく、また、震災後のような、あるいは国交 50周年というような、特別な機会だから聴くのではなく、ごく普通のコンサートとしてソウル・フィルを聴くべきだと思う。

ところで、いろんなご縁があるもので、ここで採り上げた 10月19日のチョンとソウル・フィルのコンサートでは、2011年にチェコ・フィルと演奏されるはずであったブラームス 4番が演奏され、たまたま今日 (10月28日) 聴いてきたコンサートでは、庄司紗矢香がそのチェコ・フィルとの日本での協演を果たしたのだ (指揮者と曲目は 2011年のものとは異なるが)。これについてはまた追ってアップのこととします。

by yokohama7474 | 2015-10-29 00:47 | 音楽 (Live) | Comments(0)

大田区観光協会主催 東海道五十三次 品川宿~川崎宿

以前、9月20日付の記事で、大田区が企画した街歩きをご紹介したが、それから約 1ヶ月。やはり大田区が主催する別のツアーに参加した。その名も「東海道五十三次 品川宿~川崎宿」。ここで気づくのは、品川宿は今で言う品川区であろうし、川崎宿は川崎市であろう。大田区はその間に位置する。東海道の出発地点はいわずと知れた日本橋。最初の宿が川崎宿になる。このツアーは、東海道の間の宿 (あいのしゅく) であった大田区の地域を歩いて回ろうというもの。但し今回は前回より長い 7km の道のりを 2時間半かけて踏破する。9月よりは日差しは弱まっているとはいえ、天気予報によると、汗ばむような気候とのこと。無事歩き通せるだろうか。ひとつの注意点は、前回のように途中で足を故障することがないようにすることだ。それに関しては誰のせいでもなく、私自身の責任だ。今回歩くのは以下の白地図に記載されているエリア。
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分かりにくいかもしれないが、JR 大森駅を出て、第一京浜 (国道 15号線) に沿って南下して歩き、最後は京急蒲田駅近くにある PIO (大田観光プラザ) で解散というもの。待ち合わせの大森駅は、ご覧の通りなかなか栄えている。
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今回も、定年後のボランティアとおぼしきガイドの方が案内して下さる。そうそう、申し忘れたが、このツアーの定員は 30名。応募が 54名あったというから、ほぼ 2倍の競争率を勝ち残っての参加ということになる。さて、歩き始めてすぐ。大森駅のすぐ近くで早くも解説だ。一体ここに何があるというのか。これだ。
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これ、道路の横に三角形の中州のような場所があり、その回りをぐるりと囲む部分だけ茶色い道になっている。一見するところ、意味のない場所に見える。これは一体何なのか。答えは、昔の路面電車のターミナル。以下の地図の左端、旧国鉄の線路の横に、わっかのようになった場所が見えるが、それがこの場所なのだ。
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なるほど。土地の記憶というものはそう簡単に消えないのですね。ブラタモリならここで往年の路面電車が CG でガタガタ動き出すところだろう。

さて、そこから商店街を抜けて、鷺 (おおとり) 神社へ。それほど古い神社ではなく、江戸時代の創建らしいが、昔から酉の市 (とりのいち) が有名らしく、今でも大賑わいになるらしい。
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それから第一京浜に出て、密厳院というお寺へ。今回のガイドの方は相当なベテランで、懇切丁寧な解説が非常によかったが、難を言えば、時々説明内容が奔放に発散することで、このときもお寺を通り過ぎてしまい、気が付いて戻ったものだった (笑)。まあ一応私は目的地が分かったので、グループが行き過ぎたのを尻目に、先に写真を撮っていたのであるが (笑)。
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ここでも見ものはふたつ、ひとつは、あの有名な八百屋お七に関するもの。このお地蔵さんだ。
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八百屋お七は、僧侶 (とは限らないのかな、創作の世界では) に一途な恋をし、火事が起これば恋人に会えると思い込んで放火をして、死罪になった少女。西鶴の「好色五人女」に採り上げられ、その後いろいろな歌舞伎や浄瑠璃を通して非常に有名な存在になった。私は学生の頃駒込に住んでいたので、その駒込で本郷通りに面した吉祥寺という寺が、お七ゆかりの寺であることはよく知っている。その寺は彼女が恋人と出会ったところと言われているそうで、今でも駒込吉祥寺には、彼女と恋人吉三の比翼塚なるものがあるのであるが、調べてみるとどうやらそれは史実ではない可能性が高いらしい。まあいずれにせよ、駒込はこの大森界隈からは随分と遠い。ここ密厳院にあるそのお七ゆかりの地蔵とは、一体いかなるものなのだろうか。寺にある説明板は以下の通り。
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鈴ヶ森刑場跡はここからそれほど遠くないが、一夜にして飛来したという伝説が、この切ない恋に殉じた少女の怨念を感じさせて、なにやら凄みがある。ご覧の通り現在でも千羽鶴が奉納されているということは、このお地蔵様に願を掛ける人たちが多いということだろう。250年を経て未だ力を保つ霊験あらたかなお地蔵様である。

もうひとつこのお寺で見るべきは、この阿弥陀様だ。
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これは何かというと、実は庚申 (こうしん) 塔なのだ。江戸時代の風習で庚申講というものがあり、その本尊として祀られたもの。人間の体内には三尸虫 (さんしちゅう) という虫がいて、庚申 (干支のひとつ) の日、人間が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告に行くという道教の考えに基づき、庚申の日には夜通し眠らずに勤行や宴会をした。その本尊は、多くは青面金剛 (しょうめんこんごう) だが、このように阿弥陀を祀る例があったとは知らなかった。1662年に作られており、大田区で二番目に古い庚申供養塔であるそうな。まあそれにしても、徹夜で宴会をする口実としてはなかなか手が込んでいて (笑)、江戸時代の人たちの心の豊かさに思い至る。この磨滅した阿弥陀様も、夜通し続く人々のさんざめきに微笑んでおられたのではないだろうか。

さて次に向かったのは、磐井神社。実に貞観元年 (859年) 開創という古い神社で、その際、武蔵の国の八幡社の総社に定められたという。江戸時代には将軍も何度も参拝したらしい。
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ここには面白い石が二つある。写真撮影は許されなかったが、石に烏のかたちが浮き出た烏石 (うせき)、それに、転がすと鈴のような音を立て、鈴ヶ森の地名の由来となったという鈴石である。いずれも今は屋内に保存されているが、何やら霊的なムードが満点だ。また、この神社の前、第一京浜沿いに、磐井の井戸というものがある。昔はここも神社の境内であったらしい。
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古来東海道の旅人たちに重宝され、霊水と言われてきたとのこと。というのも、ここは昔は海のすぐ脇であったにもかかわらず、この井戸からは真水が出たことによる。ただ、土地の伝説で、この井戸の水を飲む人が心清ければ真水、そうでなければ塩水になると言われているとのこと。一度一般に解放して、人々の心の汚れ具合を試してみるというのはどうでしょうかね。

それからまた第一京浜に沿って歩き出すことになったが、上記の通りそのあたりはいわゆる大森海岸。明治の頃には花街となり、芸妓を置く大きな料亭が立ち並んでいたらしく、それは昭和まで存続した。この写真は、その中のひとつ、料亭 福久良 。なんという規模!!
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その料亭のあった場所には今、会社かマンション ? とおぼしき建物が建っているが、よく見ると、この石垣や奥に見える石組は、当時の料亭のものを残しているのであろう。知らなければ何の気なしに通り過ぎてしまうが、やはりそれぞれの土地には記憶が宿っているのである。
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その並びには、今でも大きい構えの天ぷら屋さんがある。創業明治 30年。以前からここを車で通る度に気になっていた場所だ。磐井神社の中にある稲荷社に、明治の頃の寄進者とおぼしき個人や企業の名前が彫ってあったが、この天仲はそこにも名前があった。
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さてそれからしばらくはものも言わずに歩き、見えてきたのがこの分岐点。
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この右に湾曲している大きな道路が第一京浜であるが、左側の道、一方通行でこちらからは車では入れない道が、旧東海道なのだ。現在の名称は美原 (みはら) 通り。もともとは北原・中原・南原で、三原通りという名前であったものが、いつの時点でか、漢字が変わってしまったもの。
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正直、昔日の面影はほとんど残ってはいないが、多分道幅は昔ながらのものなのであろう。また最近では、江戸時代から続く老舗であれそうでない店であれ、ちょっと江戸風な看板を出すようになっており、それはそれで情緒があるというものだ。
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よく知られている通り、この大森界隈は、もともと海苔の養殖でにぎわっていた。これが最盛期の養殖場と加工工場の写真であるが、その規模には驚かされる。たかが海苔と思うなかれ。
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この美原通りは 1.5km ほど続いているが、途中で小さな橋がある。これはするがや橋 (または内川橋) と呼ばれるもので、昔この橋のたもとに、駿河屋という茶屋があったらしく、ここから左に行けば羽田の方に続いているらしい。この駿河屋、浮世絵にも描かれている。
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この駿河屋が有名なのには理由がある。鶴屋南北の作になる歌舞伎「浮世柄比翼稲妻 (うきよづかひよくのいなずま)」で、白井権八が、「お若けえの、お待ちなせえまし」と呼び止められるのが、この駿河屋の前なのだそうである。この芝居は観たことがないが、現地を見てしまった以上、いつの日にか鑑賞したいものだ。大田区の説明板、以下の通り。
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さて、もう結構歩いてきたので、少し足が疲れているが、同行の年輩の方々が大変元気なので、負けてなるものかと、(目の前の障害物には充分注意しながら) 歩幅も大きく、歩き続ける。そして辿り着いたのが、旧大森区役所跡。大森区は昭和 7年にでき、その後蒲田区と合併して大田区となった。当時の建物は現存せず、今はその場所に大森警察署が建っているが、その建物の横手に面白いものがある。ひとつは西南戦争の、もうひとつは日清戦争の戦没者慰霊碑だ。前者は 1877年、後者は 1894年の勃発なので、いかに古い石碑であるか分かる。両方とも山縣有朋の揮毫になるものだが、大森と何か縁があるのであろうか。
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さて、東海道を辿る旅であるからには、どこかに道しるべのようなものがあってもよいものではないか。このあたりで唯一それがあるのが、第一京浜から東に少し入ったところにある日蓮宗の寺、大林寺だ。
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これが道しるべであるが、日蓮宗の宗徒の手によるものだけに、南無妙法蓮華経と刻んである。大田区には、以前もこのブログで紹介した本門寺という日蓮宗の聖地があり、その本門寺への道を池上道と呼んだらしく、この道標はその池上道にもともとあったものらしい。
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さて、ここから残りは 2kmとのこと。実はこの後に訪れたのは、梅屋敷跡と薭田神社であって、実はこれは前回 9月20日のウォーキングツアーで既に見たので、ここでは省略する。

東京には東海道の面影はほとんど残っていないことを再確認することにはなったものの、土地の記憶は確実に消えずに残っていて、人々がそれを守ろうとしていることに感銘を受けた。特に街道は、人々が行き交う場所であっただけに、人の息吹が活き活きと感じられることを実感した。美原通りなどは、特に目的なくぶらぶらしても面白そうだ。また天気のよい日に散策することとしよう。今回は負傷もなく、無事帰還しました!!


by yokohama7474 | 2015-10-26 00:56 | 旅行 | Comments(6)

小林研一郎指揮 東京フィル (チェロ : 上野 通明) 2015年10月18日 Bunkamura オーチャードホール

しばらく出張に行っており、更新が遅れてしまいました。これからキャッチアップして参ります。今回の記事は、一週間前に出掛けたこのコンサート。
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上のチラシにある通り、「錦秋に響くスラヴの調べ」ということで、いずれもスラヴ系のドヴォルザーク (チェコ) とチャイコフスキー (ロシア) の組み合わせである。いずれも非常によく知られた作曲家の代表的な作品で、指揮者小林研一郎 = コバケンの本領発揮ということになった。もっとも、錦秋というにはまだ気温が高い。日本語は移ろう季節感を表す素晴らしい表現をいろいろ持っているが、どうも最近、気候が変わってきているようなので、新しい表現を発明する必要があるのではないかと思うことがある。「まだ暑い秋」・・・暑秋 (しょしゅう) とか・・・。うーむ、全然情緒がないな、こりゃ。

さて、この日のチェロ独奏は、6月13日の記事でも、やはりコバケンと東フィルとの協演を採り上げた、上野 通明 (みちあき)。まだ 20代の若さで、桐朋のソリストディプロマコース全額免除特待生とのこと。昨年、オーストリアのペルチャッハで開催されたブラームス国際コンクールで優勝しており、既に日本の数々のオーケストラとの協演を果たしている俊英だ。生まれがパラグアイで、幼少期をバルセロナで過ごしたという。
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チェロという楽器は、ヴァイオリンと比較して、深々と雄大に歌うだけでなく、時に高い音での緊張感をも求められる。つまり、ただ技術的に正確に弾く以上に、幅広い呼吸を融通無碍に音にする必要があるわけで、人間的にもスケールが求められよう。この若い上野の性格を知る由もないが (笑)、その経歴から、日本的な優等生を超えたスケールを持っているのではないだろうか。実際、その若さにも関わらず、その音楽は既に成熟を感じさせるもので、チェロ協奏曲として音楽史上随一の内容と人気を誇るこのドヴォルザークの名作を、実に表現力豊かに演奏した。もっとも、音楽家を表現するのに、年齢や出身地や性別を持ち出すのは余計なことであって、同じ演奏家であっても、そのときそのときに持っている表現というものがあるわけなので、それを虚心坦懐に楽しみたいと思う。尚、アンコールではバッハの無伴奏チェロ組曲第 3番からブーレが軽快に演奏された。

聴いていて思い出したことがある。コバケンは伴奏も多く手掛けていて、非常にうまく独奏者を盛り立てるのであるが、私が生まれて初めて生で聴いたコバケンの演奏は、このドヴォルザークのチェロ協奏曲であった。もし、意地悪のように私のブログを読み込んでおられる方がいて、「ウソつけ、6月13日の記事で、『チャイコスフキー 4番が最初に生で聴いたコバケン』と書いていただろう」と思われるとしよう。そんな方はおられないかもしれないが (笑)、もしおられた場合のために、その演奏会のプログラムをここに掲載しよう。
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1982年 9月28日、つまり 33年前、東京交響楽団を指揮し、チェロの巨匠、フランスのアンドレ・ナヴァラ (当時 71歳) を迎えて、前半にドヴォルザークのチェロ協奏曲、後半にチャイコフスキーの 4番というプログラムであったのだ。指揮者の紹介はこちら。
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うーん。この方、変わらない変わらないと思っているが、さすがにこの写真は若い。1940年生まれということは、今年75歳。このとき42歳ということになる。未だ若手であった頃だ。でも、音楽の内容は当時から情熱的で、「炎のコバケン」という形容があったか否か分からないが、既にそのようなイメージの指揮者であったと記憶している。これについてはまたあとで。

さて、この日のメイン、天下の名曲、チャイコフスキー 5番である。コバケンのレパートリーの中核をなす曲と言ってもよいであろう。冒頭のクラリネットが素晴らしい。よく考えるとこの日、前半のドヴォルザークでも、第 1楽章と第 2楽章は木管で始まり、後半のチャイコフスキーの第 1楽章もそうであったわけで、東フィルの木管楽器奏者のレヴェルに瞠目した。コバケンはよく、助走するように少しテンポを落としてから、盛り上がりに向けてダッシュするように指揮棒を細かく振ってオケを煽るが、その呼吸にうまくついて行かないと、音がバラバラになってしまうリスクがあると思う。その点この日の東フィルは心得たもので、指揮者のアクセルとブレーキによくついて行って、輝かしい名演をなし終えた。ただ、75歳を迎えた指揮者としては、その音の「熱」には未だに陰りがなく、換言すると、円熟というイメージとは程遠い。でもそれが、この指揮者の持ち味なのであろう。若い上野について書いたと同様、老齢であるから音楽が枯れなくてはならないという法はない。もちろん、音楽の深みは自然と出てくるものであろうが。
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さて、ここで再び 33年前に戻ることをお許し頂きたい。プログラムに「東響ニュース」NO. 4 (1982年 7月10日発行) という小冊子が挟まっていて、そこにその年の演奏会の予告が記載されている中に、この小林指揮のものもあるのだ。以下に抜粋してみよう。解説は木村 重雄。

QUOTE

4月定期でマーラーの「嘆きの歌」全曲版を日本初演した小林研一郎が、シーズン冒頭に登場してスラヴの大作 2作という、月並みのようでいて実はかなり思い切ったプログラムをとり上げる。(中略) 小林のチャイコフスキーの「第 4交響曲」は、彼のはげしい情念的なかたまりが、作曲者の奔放ともいえる楽想と結びつき、白熱的な好演が望まれる。

UNQUOTE

幾つか興味深い点がある。ひとつは、小林がマーラーの「嘆きの歌」全曲を日本初演したこと!! この曲はマーラーの初期の作品で、民族説話による悲劇性や物悲しい情念という点で、マーラーの音楽が志向する要素をあれこれ持った曲ではあるが、未だにそれほど演奏頻度が高いとは言えない。それをこの、保守的なレパートリーを持つ指揮者が初演していたとは驚きだ。また、いみじくも今回の演奏会と同じ「スラヴの大作 2作」が採り上げられ、この評者自身、「月並みのようでいて」と失礼なことを書きながら (笑)、まあ実際そのように思っている様子がある。でも、最後の一文は、今でもそのまま使えるものではないか。まさに「炎のコバケン」はこの頃からのイメージであったわけだ。

私はコバケンの、短めだがしっかりした指揮棒が好きである。上の写真のように、加速してクライマックスに向かうには、この指揮棒でビートを作り出し、そこに彼言うところの「魂」を吹き込まねばならない。これから、どこまでこの変わらない情熱が昇華して行くか、オケさながらに歯を食いしばってついて行きたいと思う。

by yokohama7474 | 2015-10-25 19:45 | 音楽 (Live) | Comments(2)

FLUX Quartet 現代を生きる音楽 2015年10月17日 神奈川県民ホール小ホール

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この日はもともと別のコンサートが入っていたのであるが、このモノクロのスタイリッシュなチラシを見て、別のコンサートのチケットはネットで売却し、こちらを聴きたいと思ったのだ。神奈川国際芸術フェスティバルのオープニングコンサートとして、フラックス・クァルテットという弦楽四重奏団が一連の現代音楽を採り上げる。しかも、プロデュースは、日本を代表する作曲家で、今や長老となってしまった一柳 慧 (いちやなぎ とし) だ。
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いわゆる日本の現代音楽の分野において、元祖前衛というイメージのある一柳だが、1933年生まれなので、今年実に 82歳!! ということになる。上の写真は最近のものであるはずだが、とてもそんな年には見えない。ジョン・ケージの弟子として、あの衝撃的な「4分33秒」(ご存じの方も多いと思うが、舞台上に演奏家が何人も現れるのに、4分33秒間舞台にいて、全く音楽を演奏せずに去って行く。その間に聴衆が耳にするあらゆる音こそ音楽という禅のような発想で書かれている) を日本に紹介し、オノ・ヨーコの最初の旦那であり、オペラやシンフォニーを含む多くの作品を発表して来た作曲家。この日のコンサートは、その一柳のプロデュースにより、ニューヨークを拠点として現代音楽を専門に採り上げるフラックス・クァルテットが日本初上陸だ。FLUX とは、当然ながら、一柳自身もそこに身を投じた 1960年代の前衛芸術活動、フルクサスに因むものだろう。写真は以下の通り。
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左から、第 1ヴァイオリンのトム・チウ、第 2ヴァイオリンのコンラード・ハリス、ヴィオラのマックス・メンデル、チェロのフェリックス・ファン。今回はここに、ニューヨーク・フィルのピアニストであるエリック・ヒューブナーが加わった。写真のこの 4人。いかにもニューヨークのクァルテットらしく、人種は様々である点、ユニークだ。左端のトム・チウに至っては、私の知り合いの渡辺さんそっくりだ (誰やねん、渡辺さん)。

曲目がこれまた、渡辺さんもびっくりするくらい過激だ。あ、もちろんそれは渡辺さんが現代音楽マニアではないという前提でだが。
 ジョン・ケージ : スピーチ (1955)
 一柳慧 : 弦楽四重奏曲第 3番「インナー・ランドスケイプ」(1994)
 黛敏郎 : プリペアド・ピアノと弦楽のための小品 (1957)
 コンロン・ナンカロウ : 弦楽四重奏曲第 1番 (1945)
 ジョン・アダムス : フリジアン・ゲート (1977-78)
 エリオット・カーター : ピアノ五重奏曲 (1997)
 ジョン・ゾーン : デッドマン (1990)

最初の「スピーチ」がどんな作品かというと、時間の指定に基づいてランダムにラジオの音声を流し、舞台にいる人物が適当に新聞を読むというもの。開演時刻前にふと舞台を見ると、プロデューサーの一柳が舞台にいて、講演台のようなものを前に腰かけている。そして、天気の話や TPP の話や、マイナンバーを巡る厚生労働省の汚職のニュースを断片的に読み上げるのだ。いわゆる音楽は一切なし。でも、これは非常に面白かった。上述の「4分33秒」と同じく、演奏の最中に聞こえる音や、単なるオブジェと化したラジオの音声や、問題山積のはずの現代日本のニュースですら、あたかも空間を包む壁紙のように無機的に聞こえるから不思議だ。初めて聞く一柳の声はいささか甲高く、「ああやっぱり老人の声だな」という感じであった。プログラムを見ると、一柳は「友情出演」とある。ノーギャラにもかかわらず、渾身の熱演 (?) だ。

その他の曲は、おしなべてそれぞれの作曲家の個性がよく出ていた。一柳自身の曲は意外と抒情性があった。黛はやはりジョン・ケージの影響を大きく受けており、ピアノ線に消しゴム等を挟んで、ポロンポロンという音を出すプリペアド・ピアノを使った曲は、いかにも 1950年代、前衛が未だ元気であった頃の作品だ。ナンカロウは、自動ピアノのための作品で知られる作曲家であるが、この弦楽四重奏曲は、確か以前クロノス・クァルテットが録音していたものではあるまいか。錯綜する声部に耳が痛くなる曲だ。その点、後半の最初を飾ったジョン・アダムスのピアノソロのための曲は、彼特有のミニマル調が耳に心地よい。エリオット・カーターは 2012年に104歳で亡くなった作曲家だが、私も 2006年だったか、彼の作品の幾つかをニューヨークで聴き、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」の語り手として登場したのを見たが、ここでの作品は立派に前衛している。89歳のときの作品とは!! そして最後のジョン・ゾーンであるが、いわゆる芸術系の現代音楽の作曲家とは異なるマルチな音楽家で、私も昔、近藤譲の著作など読んで、CD を買ってみた。それはもう、通常の音楽の範囲を超えていて、今回の作品も、弦楽器がバリバリと異様な音をたてまくるファンキーなものだ。

このクァルテットの技術はそれは大変なもので、それなくしてはこれらの現代音楽は成り立たないだろう。鮮烈な日本デビューであり、これからも時々日本でパフォーマンスを見せて欲しい。

さてここでまた、一柳慧である。私にはひとつ、とっておきの面白いネタがあるのだ。数年前に古本屋で、大変昔の「音楽之友」誌が何冊かまとめて売られていたので、買ってみた。その中の 1冊、1950年新年号。今から 65年前のものだ。硫酸紙でカバーされているので、ちょっと見にくいが、もちろん表紙は楽聖ベートーヴェンだ。
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この雑誌に以下のようなページがある。なになに、第 18回音樂コンクール第一位入賞者? お、ヴァイオリンの小林武史、声楽の伊藤京子、作曲一部の石井歓など、その後活躍する人たちが、まだ若い時分に入賞しているわけである。こうしてみると、コンクールというものも捨てたものではない。だが、中でも右の列のいちばん下の眼鏡の少年、なんだかまだ子供のようですよ。
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歴史の流れの中に埋没した才能もいろいろあるだろう。これはなんという人だろうか。
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なになに、作曲二部。いち・・・え??? 一柳慧??? 当時 17歳にもなっていないはずである。まあ面影があるといえばあるが、本当に子供ではないか!! こんな経歴は既に忘れられているのだろうと思って調べてみると、今回のプログラムにはこうある。「高校時代に第18回及び20回毎日音楽コンクール (現日本音楽コンクール) 作曲部門第 1位入賞」!! また、Wikipedia でも、「非常に若い時分から才能を発揮し、青山学院高等部在学中、1949年から1951年にかけて、毎日音楽コンクールで3年連続入賞(うち2回は1位)するなどし、天才少年と謳われた」と書かれている。とすると、この 65年前の雑誌の記事は、記念すべき天才作曲家のデビューの頃の貴重な記録ということになる。

ちなみに、園部三郎という評者の論評は以下の通りで、手厳しいながらも将来を嘱望する様子が伺える。文字づかいは原文のママ。

QUOTE

ピアノ・ソナタでは、私は二位になった中田喜直氏 (注 : これはあの「ちいさい秋みつけた」「めだかの学校」「夏の思い出」等の童謡で知られる、あの中田喜直だろう!!) の作品を一番いいと思った。一位の一柳慧氏はなかなか才能のある人のようだが、まだフランス音樂の温床の中にいて、彼の若さにもかかわらず、上手に作品をまとめあげさせたというだけだ。ドゥビュシーのシュークト・ベルガマスク (注 : 有名な「月の光」を含むベルガマスク組曲のことだろう。Suite をシュークトと発音するとは思えないが) が顔を出したり、その他の近代作曲家の幾人かがきき手の頭をかすめるが、それはともかくとして、和聲法の薄弱さが、ふんい氣の近代性にもかかわらず、この人の作品を至極子供っぽいものにしている。しかし、この人が身につけている作曲するための「手」は、なかなか非凡なものだとおもう。

UNQUOTE

興味深いのは、器楽の演奏と作曲とが同じコンクールの別部門となっていることだ。作曲とはそれだけ当時の音楽の聴き手にとって身近なものであったということか。それにしても、ドビュッシーは 1918年死去だから、この文章が書かれた 32年前までは生きていたことになる。そう思うと、過去から現在、未来と連綿と続く人間の文化活動には、切れ目がないのだなぁと改めて思い知る。ただ、この幼い少年が、その後数年でジョン・ケージだフルクサスだという、最先端の前衛活動に身を投じようとは、この園部という評論家も予想しなかったのではないか。もちろん、私の知り合いの渡辺さんにも想像できなかったであろう (笑)。

そんな中、一柳の名を冠した新たな賞が今般創設される。対象は作曲だけではなく、演奏や評論も入るらしい。
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今や長老になった彼の目には、以前自身が浴びせられたような、「至極子供っぽい」という言葉で形容したくなる音楽活動がいろいろあると思う。そうではあっても、お眼鏡にかなう才能を発掘すれば、それによって文化の連続性は保たれるわけで、このような賞は非常に重要であると思う。今回のフラックス・クァルテットの日本への紹介のような意義深い活動を、末永く続けて頂きたい。渡辺さんも期待しているはずです。って、誰やねん。

by yokohama7474 | 2015-10-19 00:44 | 音楽 (Live) | Comments(0)

宮川香山 眞葛ミュージアム

7月25日の記事で、名古屋のヤマザキマザック美術館で開催されていた宮川 香山 (1842 - 1916) の超絶的な焼き物をご紹介したが、彼の作品を集めた美術館、宮川香山眞葛 (まくず) ミュージアムに出掛けてみた。この美術館が建っているのは、横浜駅からさほど遠からぬ、横浜ポートサイド地区。過去 10年くらいの間に再開発されたエリアで、このようなモダンなタワーマンションが林立している。目指す美術館はその一角にさりげなく佇んでいる。
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まずはひとつ、香山の作品を見て頂こう。
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焼き物の壺なのであるが、そこから鳥が飛び出している。この感覚、ほかの日本の焼き物にあるだろうか。寡聞にして私は、少なくとも江戸時代にこれに類する焼き物が多く焼かれたという印象はない。ということは、明治期になんらかの理由によってこのような造形が頻繁になされたのであろうか。これまでにいくつかの記事でご紹介した明治時代の工芸品の凄まじい職人芸には、何か原動力があったはずだ。

日本人はもともと、自分たちの持っている実力について客観的な評価を下すことを得意としていないように思う。しばらく前に「日本辺境論」という本を読んだことがあるが、日本人はその長い歴史の中で、他国を牽引するような発想を持たずに、何かほかの中心的な存在から離れたところにいるという感覚で暮らしてきたという趣旨の本で、大変興味深かった。外圧を受けると恐れおののき、外国から見ても恥ずかしくないものを作ろうとする、そのようなメンタリティーが日本人には宿っているような気がする。日本の芸術もしかり。浮世絵の価値が海外で認められると分かると、それまで国内では見向きもされなかった浮世絵が、世界の芸術になる。黒澤明がヴェネツィアで賞を取ると、突然世界のクロサワになる。長らく海外で活躍していた小澤征爾がウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任すると、あるいは、大江健三郎がノーベル賞を取ると、慌てて文化勲章を授与する (あ、大江健三郎は拒否したのでしたね)。なんとも可笑しい限り。自分たちのやっていることを自分たち自身で評価できない、憐れな日本人。

明治時代は確かに、日本が海外に目を開き、がむしゃらに先進文明に追いつこうとした時代。そんな頃、欧米で数年おきに万国博覧会が開かれ、日本政府も国の威信をかけて美術・工芸品を出品した。その流れがあるのか否か、同時代の素晴らしい工芸品の数々が輸出用に作られ、国外で評価を高めることとなった。この宮川香山は、そのような時代に活躍し、空前絶後の作品を数々作った人だ。もともと京都の生まれで、若い頃は絵を描いていた。池大雅の弟子の息子に学んだとのことで、このような文人画を描いているが、題材は中国の陶磁器窯だ。若い頃から窯に興味があったものであろうか。
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そして、早くも明治 3年 (1870年)、横浜に輸出用の陶磁器を作るために眞葛窯 (まくずがま) を開いた。これは香山の生まれた京都の眞葛ヶ原に因んだものだろう。彼の作品を集めた美術館が横浜にあるのは、それゆえだと思われる。これは当時の窯の様子を描いたもの。古いですねー。
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当時、香山の作品は、欧米で大層もてはやされたらしい。この美術館が所有する、その華麗な作品の数々を見てみることとしよう。嬉しいことに、ここでは写真撮影が自由となっている。
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見れば見るほどに素晴らしい。だが、このような手法、高浮彫 (たかうきぼり) は、手間に比して経済性はよくなかったのであろう。香山は途中で作風を一変し、釉薬を研究し、清朝の磁器に倣った作品を作るようになった。この美術館には、そのような時代の作品もあれこれ並べられている。
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しかし、香山の遺作というのがこれだ。ここでは質素ながらも一匹の蟹が高浮彫として表されている。制作コストや作品の売れ行きという実務上の課題も多々あったであろうが、やはり香山が目指したのは、ただの焼き物ではなく、そこに命の息吹が存在する高浮彫であったのだと思う。
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このような作品は、フランス世紀末、アールヌーヴォーを代表する工芸家、エミール・ガレに直接影響を与えたのであろう。ガレが模倣したジャポニズムは、江戸時代の美術ではなく、最近まで忘れられていた宮川香山のような同時代の日本の芸術家によるものではなかったか。以下にガレの作品を二つ掲げておく。
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調べてみると、ガレは 1846年生まれ。香山のわずか 4歳年下。完全に同世代である。そのように思うと痛快ではないか。ヨーロッパの先端美術の霊感の源泉が、同時代の日本美術であったとは。日本がこれから成熟国家として存在感を示すには、まずは自分たちの文化的な伝統に気づくことではないか。このような美術館の開館により、我々日本人自身が、自らの文化に目を啓かされることになっている。ほんの小さな美術館ではあるが、リゾート地のガレの美術館に行かれるのであれば、是非横浜のこの美術館にも足をお運び頂きたいと願う次第である。その感覚があれば、「世界のナントカ」と言った表現はなくなって行くはずで、日本が文化国家として胸を張るためには、そのような風潮を醸成する必要があるだろう。頑張れ、ニッポン!! (あーあ。このような掛け声が辺境だっつぅの)。

by yokohama7474 | 2015-10-18 22:47 | 美術・旅行 | Comments(2)

針とアヘン ~ マイルス・デイヴィスとジャン・コクトーの幻影 (作・演出 : ロベール・ルパージュ) 2015年10月11日 世田谷パブリックシアター

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東京、三軒茶屋にある世田谷パブリックシアター。世田谷区の公共施設であるが、なかなかオシャレな場所である。佇まいはこんな感じ。
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キャロットタワーと名付けられたこのビルには行政機能も備わっており、「住民票はこちら」などと書いてあると、ふと世田谷区民のふりをして、受付にいそいそと出かけて行きたくなる (笑)。だがそこをぐっとこらえて、今回は演劇鑑賞だ。以前にもここで芝居 (蒼井優主演の「サド侯爵夫人」、もちろん三島由紀夫のあれだ) を見たことがあり、今回が二度目になる。13時開演ということで、直前にランチをしようと思ったところ、どうやら最上階の 26階に展望レストランがあるとのことだったので、早速行ってみることに。その名もレストラン スカイキャロット。広々としたお店でメニューも豊富、しかも気の効いたことに、窓際のテーブルには 2名で並んで座り、眺望を楽しむことができる。この見晴らし、なかなかです。真ん中に東京タワー、左のずっと奥の方に、見にくいが東京スカイツリーも見える。落ち着いて過ごせる、いいお店です。推薦しておきます。
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さてこの芝居。一風変わった題名である。"Needles and Opium"、つまり「針とアヘン」、副題が「マイルス・デイヴィスとジャン・コクトーの幻影」だ。スタイリッシュなチラシとともに私の興味を惹いたのは、作・演出のロベール・ルパージュという名前。うーん、どこかで聞いたことがある。でもなんだか思い出せないぞ。まあしかし、この手のパフォーマンスは、ピンと来たら 110番。すぐにチケットを購入したのである。その後も結局、ルパージュの名前をどこで聞いたのか思い出せなかったものの、ニューヨークのメトロポリタン・オペラで最近、あのワーグナーの「ニーベルングの指環」4部作を演出していて、その映像作品がディスクでも出ていることが分かった。その内容を見たことはなく、ほとんど事前情報はなかったのだが、それでもピンと来た自分の勘を信じよう。・・・そして勘は見事的中。大変面白い作品であった。チラシの宣伝文句にルパージュのことを映像の魔術師と形容していて、この手の呼び名は眉唾なことも多いのであるが、今回ばかりは正真正銘、映像の魔術師の称号に偽りはない。

マイルスとコクトーの接点についてはすぐには思い当たらなかったが、なるほど、「針とアヘン」、つまりドラッグだ。この作品、1949年に米国人マイルスがパリに出て人気を得、歌手のジュリエット・グレコと恋に落ちたことと、同じ年にフランス人コクトーがニューヨークを訪れ、LIFE 誌の取材を受けたりした、それら歴史的事実に、カナダのケベック州から傷心のままパリに来てテレビ ? のナレーターを務める俳優ロベールの、まるでドラッグ中毒のような幻想を織り交ぜた、極めて夢幻的な作品だ。登場人物はほぼ 2名で、白人と黒人だが、そのうち黒人の方は、マイルスのイメージを演じるだけで台詞はなく、喋るのは専ら白人俳優のみ。もともと1993年に上演された独り芝居であったものを、最新の映像技術を駆使して再構成したものだということらしい。

まず舞台には立方体を斜めに切った半分、つまり 3つの面がそれぞれ垂直に交わっている構造体があって、結局すべてはそこで進行する。最初にアヘン中毒のときのコクトーの自画像を思わせる光の線の往復が男の上に走り、コクトーの米国訪問に関する独白が始まる。
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しばらくすると俳優は宙に浮き始め、あっと思う間もなく、宇宙空間の中にいるように、くるりと背中から一回転する。吊っているのは分かるのだが、その浮遊の自然さに、あっと息を呑む導入だ。それから調子に乗ってぐるぐる回るかというと、さにあらず。もう一度見たいと思う観客を裏切るように、回転は一度だけ。
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私はもともとコクトーが大好きで、あれこれ映画も見たし、自宅の書棚には彼の展覧会のカタログや著作が何冊も並んでいるのであるが、その中から、その名も「阿片」という作品を取り出してみよう。この芝居の冒頭シーンは、この著作の以下の部分を思わせる。訳は堀口 大學である。

QUOTE

阿片を喫む者は、熱空気球 (モンゴルフィエール) のようにゆっくり上昇し、ゆっくり身体の向きを変え、ゆっくり死んだ月の上に降りる。一度降りてしまうと、月の引力が弱いながらも作用するので二度と上昇できない。立ち上がっても、ものを云っても、仕事をしても、交際をしても、外見上生活していても、その身振り、そのもの腰、その肌、そのまなざし、その言葉はすべて、別の薄明と別の重苦しさの法則に左右される生活の反映にしかすぎない。

UNQUOTE

この印象的な冒頭から、件の立方体の半分は、様々な場面の映像を照射され、またそれ自身が回転することで、まさに千変万化である。ドアやベッドも、90度回転してその姿を消したり現したりするのだ。これは、コクトーが窓から身を乗り出しているところ。
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これはマイルスの演奏のイメージ。
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これはパリのホテル。
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それがこんな風に傾いて行く。
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トランペットを組み立てるマイルス。手元のイメージが立方体に投影される。
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時には立方体から下り、トランペットを吹くイメージを示す。
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そして、巨大な注射針に身を投げ出すマイルス。
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実に驚くべき鮮烈なイメージの連続だ。それでいて、時折ユーモラスなシーンもあり、客席から大きな笑いも起こる。幾分高踏的でもあり、一方で人物描写も簡略で的確、パリのイメージやニューヨークのイメージをうまく使いながら、錯綜する時の中にたゆたう居心地のよさを観客に与える。こんな演劇、そうそうあるものではない。

改めてコクトーのことを考えてみる。終生ダンディだった彼は、疑いのないマルチタレントであったが、その洒脱に見える作風の裏には、どうしようもない厭世観が存在しているように思う。戦争という社会的悲劇を体験し、最愛のラディゲを若くして失うという個人的悲劇を体験した近代人として、既に洒脱一辺倒では生きて行けなかった男の、複雑な心理によるものだろう。この芝居の中で、このようなシーンがある。多才ぶりを自ら揶揄するようなシーン。
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これは、よく知られている以下の写真がもとになっている。今回初めて知ったが、実際に 1949年の渡米時に LIFE 誌の求めに応じて撮影されたもの。
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一方のマイルスであるが、マイルスマイルスと、通ぶって知ったように呼んでいるが (笑)、実はそれほど彼の音楽を聴いているわけではない。ただ、有名な "Bitches Brew" ほか何枚かアルバムを持っているし、ある時古本屋で手に取って無性に興味を覚えて購入した、中山 康樹著「マイルスを聴け!」増補改訂版 (あらゆるマイルスの録音を延々紹介した本)、全 640ページも読み通した。あ、そうだ、この芝居にも出てくるルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」でのマイルスの即興演奏、あれには痺れましたね。うーん、やはり、マイルスマイルスと、通ぶった呼び方をしてしまいます (笑)。ジャズってそういう気取りのある音楽なのかもしれない。
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このようにこの芝居には、本当に脱帽した。いずれルパージュ演出になる MET の「指環」のディスクも買って、じっくり鑑賞してみたいとは思うが、またド M になるかと思うと少々癪なので、代わりと言ってはナンだが、久しぶりに「死刑台のエレベーター」でも見ようかなという気になっている。次回のルパージュ演出作品の日本での上演は、2016年 6月下旬から 7月上旬、東京芸術劇場プレイハウスほかにて、「887」なる作品とのこと。見逃してなるものか!!

by yokohama7474 | 2015-10-18 00:26 | 演劇 | Comments(0)

ブルガリア国立歌劇場来日公演 ボロディン : 歌劇「イーゴリ公」(指揮 : グリゴール・パリカロフ / 演出 : プラーメン・カルターロフ) 2015年10月11日 東京文化会館

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まあそれなりの年月、オペラを聴いてきている身としては、一般に名の知れたオペラ作品で未だに生の舞台で見たことがない演目は、それほどないと言える。だが、もちろん奥底の知れないクラシック音楽の世界、聴けども聴けども未知の作品は数知れず。実は今回も、生まれて初めて生の舞台を経験する作品だ。演奏頻度はそれほど高くないが、知名度は高い、そんな作品、ボロディンの「イーゴリ公」である。

ロシアの作曲家、アレクサンドル・ボロディン (1833 - 1887) は、19世紀ロマン派の時代に活躍した、いわゆるロシア五人組のひとり。五人組とは、このボロディン以外に、バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、そしてリムスキー・コルサコフだ。ほぼ同世代のチャイコフスキーが西欧的な洗練を目指したのに対し、よりロシア的な情緒を大事にした (とはいえ、チャイコフスキーだってロシア情緒溢れる曲も沢山あるわけだが)。五人組のもうひとつの特色は、もともと音楽の専門家ではないことで、武官だったり船乗りだったり数学専攻だったりと様々だが、中でもこのボロディンは、化学者兼医者という変わり種だ。特に化学者としては国際的な実績を残した人らしく、自らも「日曜作曲家」と称し、作品数はそれほど多くない。オペラの分野では、この「イーゴリ公」のみが知られるが、中でも、「ダッタン人の踊り」というバレエシーンの伴奏曲が非常に有名だ。サイモン・ラトルとベルリン・フィルの演奏はこちら。様々にアレンジされることもあり、誰もが聴いたことのある曲だと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=Uq984sKqokI&list=RDUq984sKqokI#t=0

今回この公演に出掛けるに当たり、20年以上前に BS から録画したヴィデオテープから焼いたブルーレイ・ディスクを見た。演奏は、最近の記事で採り上げた、ベルナルト・ハイティンク指揮する英国ロイヤル・オペラだ。ディスクを再生しようとしてびっくり。なんとこの曲、4幕からなり、演奏に 3時間半近くを要する超大作なのだ!! うーん、随分以前のインタビューでハイティンクは、共感できない作曲家としてこのボロディンを挙げていたが (「タクトと鵞 (はね) ペン」という本に所収されているバーナード・ジェイコブスンによるインタビュー)、この演奏の頃までには考えが変わっていたものであろうか。

わざわざハイティンクの話を持ち出したのには意味があって、確かにボロディンの作品は、シンフォニーにしてもそうだが、ロシアの土臭い雰囲気をそのまま持っていて、恐らくロシア人以外にはとっつきにくい要素があるように思う。その点、今回来日したブルガリア国立歌劇場は、民族的にも歴史的にもこの作品の根源に近い (と言っては語弊があるかもしれないが、政治的な点を抜きにして考えればやはり事実であろう) だけに、ちょっと見てみたいと感じたものだ。

ところが会場に着いてプログラムを見ると、今回の演奏は 2幕構成で、演奏時間も正味 2時間半くらいになっている。これはどうしたことかと訝っていると、開演前にプレトークがあるという。出てきたのはオペラ研究家の岸 純信と、この歌劇場の総裁で演出家のプラーメン・カルターロフだ。
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このプレトーク、岸の投げかける日本語の質問をブルガリア人通訳がカルターロフに伝え、カルターロフの回答を通訳が日本語にして喋るという方法で進められたが、通訳の日本語が充分にこなれていないため、「これこれこういうことですね」と解きほぐして岸が言うと、それをまた通訳がカルターロフに対して訳して説明する (= 本人にしてみれば、自分の発言がぐるっと回ってまた返ってくるということ) という堂々巡りになってしまった (笑)。とはいえ、理解できた演出家の意図は以下の通り。
・この作品は作曲者の死によって未完成に終わったものを、友人のバラキレフとリムスキー・コルサコフが断片を集めて完成させた。作曲者自身がいかなるエンディングを考えていたのか不明。
・主人公のイーゴリ公は実在の人物で (12世紀にモンゴル人と戦争をして、このオペラの筋書き通り捕虜になっている)、その手記が残っているが、それによると本人は、モンゴル人との戦争は感情に任せて鍛錬のできていない兵士を大量に投入し、多くの犠牲を出してしまったと後悔している。よって、通常の版における演出のように、彼を英雄視するエンディングには疑問がある。
・このオペラのテーマは異民族との友愛であり、有名な「ダッタン人の踊り」を婚礼の宴としてラストに持ってきて盛り上げることで、メッセージがより明確になる。

ということで、不要な 1時間をバッサリとカットし、後半の曲の順番を入れ替えた、新たな「カルターノフ版」をこの劇場では採用しているということらしい。なるほど、その成果やいかに。ところで、プレトークの進行役の岸さん、舞台上でこの「イーゴリ公」の大きなスコアを取り出し、「ではカルターロフさんにサインして頂きましょう」と言ってその場でサインをしてもらったので、てっきり終演後に抽選で聴衆にプレゼントかと思いきや、そんな話は微塵もなく、ちゃっかりご本人のコレクションに入った模様。先の通訳堂々巡りとあわせ、会場のそこここで聴衆のハテナマークがポコポコ浮かんでいたのが、5階客席にいた私からはよく見えた。

ところで、実はこの作品、驚くべきことに台本も作曲者自身が書いているのだ。なんと、ロシア版ワーグナーか?! ところが調子が悪いことに、明らかにドラマとしての流れが悪い。例えば悪漢として描かれる后妃の兄ガリツキー公。女を街から強奪するなど好き放題して、「がっはっは」と高笑いをしているところに「敵が攻めてきた」という知らせが入って、そして・・・そのまま出てこなくなるのだ。おいおいおい、悪い奴はどこかで成敗されるのがお決まりのパターンでしょう。これ、尻切れトンボです。きっとボロディン、化学者としての活動が忙しくて、悪い奴のキャラクターを描くのが面倒だったのではないか。写真は、戦に赴く前のイーゴリ公と、見かけ倒しの悪漢くずれ、ガリツキー公。
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ことほど左様に、確かに話の流れはブツブツ切れ、音楽も、印象に残るドラマティックなメロディーはないこともないが、やはり流れがよいとは決して言えない。もともと弱点の多いオペラなのだ。ただ、有名な「ダッタン人の踊り」だけは、渦巻くエネルギーが凄まじく、名曲の名に恥じないものだ (但し洗練はされていない)。この曲、実は第 2幕の冒頭とラストをつなげたもので、主人公のロシア側から見れば敵方の、モンゴル人陣営での踊りの音楽だ。ちなみに、ダッタン = 韃靼とはタタールのことで、厳密にはこのオペラの敵方はタタール人ではなくポロヴェッツ人と呼ぶのが正しいらしく、この音楽も、「ポロヴェッツ人の踊り」という呼称も増えてきているようだ。うーん、まあでも、こういうことを言うと怒られるかもしれないが、我々日本人にとっては、正直ダッタン人と呼ぶ方がゴロもよいし、曲のイメージにぴったりだと思うのだが・・・。

さて今回のカルターノフ版だが、まあ確かに最後にダッタン人の踊りを持ってくることで、大団円の盛り上がりにはなったものの・・・正直私にはしっくり来なかった。なぜならば、これはバレエ音楽なのだ。オペラなのに大団円がバレエということは、あまりオーソドックスとは思われない。つまり、少しお手軽に盛り上がりを演出したという印象を免れないのだ。たとえ粗削りではあっても、ドラマ構成やラストの説得力に問題はあっても、作曲者に近い人々がまとめた通常版を尊重するのが筋ではなかろうか。そのアマチュアリズムこそが、裏を返せばボロディンの魅力なのだと評価すべきではないか。実際、この大詰め以外の箇所についても、今回の再構成によって、ポンと膝を打つような流れのよさは実現されたとは思えず、やはり台本の弱さは覆いようもない。因みに大団円はこんな感じ。スキンヘッズ軍団がグルグル回ってオペラは終わる。
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このブルガリア国立歌劇場は、同国の首都ソフィアにある。私も一度だけソフィアに出張したことがあるが、普通のオフィスビルの入り口にセキュリティゲートがあって、まあそれだけなら驚かないものの、このマークには驚いたものだ。
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いやいや、そりゃ当たり前でしょう。「お、そうかそうか。銃は禁止ね。しゃーねーな。じゃ、ここに置いておこう」というビジネスマンがいるのだろうか??? ただ、街中は特に怖い感じもなく、なかなかいいところでしたよ。劇場の前も通ったが、残念ながら演奏は体験できなかった。今回初めて知ったのだが、この歌劇場の来日引っ越し公演は、2000年以降の 15年間で実に 6回目になるそうだ!! 日本には明治ブルガリアヨーグルトという力強いスポンサーがいるおかげだろうか (あ、冗談ではなく本当です。以下写真参照)。それとも、超一流どころのオペラハウスの引っ越し公演に比べれば安い価格で見ることができるからだろうか。
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今回の日程を見ても、この「イーゴリ公」を東京以外では西宮と名古屋で、「トゥーランドット」を東京、福岡、福井、三原、岡山で演奏する。「トゥーランドット」と言えば、この国出身の大歌手ゲーナ・ディミトローヴァ (2005年に死去) の当たり役で、この歌劇場の引っ越し公演の初期から日本では取り上げられていたらしい。ところが意外なことに、この歌劇場の来日公演としては、ロシア物の上演は初めてで、これまではすべてイタリアオペラだったという。

今回の演奏自体については、オケも歌手も、正直、それほど感銘を受けることはなかった。ただ、后妃ヤスラーヴナを歌ったガブリエラ・ゲオルギエヴァだけは、スラヴ人らしい力強い声に繊細さも持ち合わせていて、大器の片鱗を見せた。既にウィーンや MET やチューリヒで歌っているらしく、今後の活躍を期待しよう。
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内容についてあまりホジティブには書かなかったものの、遠く東欧から頻繁に日本を訪れて、地方都市でまで公演を行ってくれること自体は、大変に貴重である。そのような体験から日本のオペラ需要がより高まり、ブルガリアヨーグルトの売上も伸びれば、こんなに素晴らしいことはありません!!

by yokohama7474 | 2015-10-17 11:09 | 音楽 (Live) | Comments(0)

早坂文雄 没後60年コンサート 大友直人指揮 東京交響楽団 2015年10月10日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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東京交響楽団の「現代音楽の夕べシリーズ第 18回」と題されたコンサートは、作曲家 早坂 文雄 (1914 - 1955) の没後 60年を記念する演奏会。この生没年を見て気づくのは、昨年生誕 100周年だったということだ。同年生まれで同じ北海道で育った作曲家に伊福部 昭がいるが、昨年は伊福部の生誕 100年関連イヴェントはいろいろあったのに、早坂に関するイヴェントは思い当たらない。長命であった伊福部と、若くして亡くなった早坂。同様に映画音楽を手掛けたとはいえ、大衆にアピールする「ゴジラ」を書いた伊福部と、黒澤、溝口といった巨匠監督に曲を提供した早坂。この違いはいかんともしがたい。従って今回のような機会は、早坂という作曲家の真価を考える上で、大変貴重なものであった。また演奏の質も特筆すべきもので、昭和時代の日本の文化遺産の価値を再認識する機会ともなったのである。

以前何かの本で読んだか、あるいはテレビで見たのかもしれないが、早坂の早すぎる死を巡って、黒澤明と溝口健二の間で諍いがあったと記憶している。今、記憶を辿りつつ、西村 雄一郎の名著「黒澤明・音と音楽」や、黒澤、溝口それぞれの作品を紹介する本を書棚から持ってきてひっくり返しているのであるが、どうも該当の情報が見当たらない。黒澤の「七人の侍」が (ちょうど伊福部が音楽を担当した「ゴジラ」と同じ) 1954年の公開。黒澤の次作「生き物の記録」(1955) の制作途中で早坂は亡くなっているが、その前後に早坂は、溝口の映画では、「近松物語」(1954)、「楊貴妃」(1955)、「新・平家物語」(1955) と立て続けに担当している。確か黒澤が、「近松物語」で溝口が早坂を酷使したので早坂が死んでしまったとなじったという話ではなかっただろうか。もっとも、なじられた溝口自身も、早坂の翌年、1956年に世を去っているのであるが。

もしこれらの邦画にイメージのない方が読んでおられれば、チンプンカンプンの話かもしれない。その場合は、このように認識されたい。日本映画の黄金時代、天才監督に従って音楽・音響設計をしたこの作曲家は、映画音楽の一時代を築いたのみならず、絶対音楽の分野でも傑作を残したものの、結核に侵されて41歳でこの世を去ったのだと。また、この時代には、分野を超えた芸術家たちの高度な共同作業があったのだと。それから、日本が生んだ最高の芸術音楽の作曲家とみなされる武満 徹が、音楽を独学で習得したと言いながら、実は唯一師と仰いだのがこの早坂文雄なのだと。

この日演奏された曲目は、すべて早坂の作品で、詳細は以下の通り。
 映画「羅生門」から 真砂の証言の場面のボレロ
 交響的童話「ムクの木の話し」(アニメーション映像付き)
 交響的組曲「ユーカラ」

最初の「羅生門」の音楽は、この映画を見たクラシックファンなら一度見れば忘れないと思う。You Tube にも音声のみながらアップされているので、ご興味ある方はご一聴を。明らかに、有名なラヴェルのボレロの模倣である (この頃、著作権は大丈夫だったのか???)。
https://www.youtube.com/watch?v=1y_-0r5cgBM

ご承知の通り、「羅生門」(1950) は黒澤の代表作のひとつで、真砂というのは、この映画で京マチ子の演じている役柄。こんな感じだった。
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黒澤明という監督の音楽の趣味は後年に至るまで明らかで、いわゆる西洋の名作への敬意が如実であると思う。いや、音楽だけではなくて、文学の上でも、シェイクスピアやドストエフスキーという歴史上のビッグネームを発想の源泉にしているケースが多い。いわゆる名作主義とでも言おうか。映画マニアの武満徹が「乱」で黒澤に映画音楽を提供したとき (これが初めてではなく、その前に「どですかでん」で組んではいるが、「乱」とは全く毛色の違う作品だ)、マーラーの「巨人」の第 3楽章の葬送行進曲に似た音楽を強要されて困ったという話も、いかにも理解できる。ただ、早坂と黒澤の関係は、まさに火花散る芸術家同士の格闘であったのだろう。これは以前テレビで見たことを明確に覚えているが、「七人の侍」の中で、旗が強い風にはためいてバタバタバタと強烈な音を立てるシーンは、早坂の発案によるものだったという。映像と音楽のせめぎあいについて、鋭敏な感覚を持った作曲家であったようだ。
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今回は横道にそれてしまうことが多いが (笑)、ここで本来の話題に戻そう。2曲目に演奏されたのは、終戦後間もない 1946年に東宝教育映画部が制作したアニメーション映画第 1作、「ムクの木の話し」に早坂がつけた音楽だ。大変珍しいオリジナルの白黒アニメーション映像 (20分程度) が後方客席に設置されたスクリーンに投影され、それに合わせて生演奏がなされるという趣向。戦時中の言論統制を批判した内容で、森の中のムクの木の回りの豊かな世界が、怪物によって一面の氷と化してしまうが、女神が光を放ってその氷を溶かすというもの。当日のプログラムには、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を思わせるとあるが、同じ作曲家のほかのバレエ音楽、つまり「火の鳥」と「春の祭典」を連想させるシーンもあり、それから、露骨にラヴェルの「マ・メール・ロワ」の模倣も聴かれた。当時としては演奏困難なスコアだったのではないか。実は、本編のクレジットに記載された演奏者は、上田 仁指揮の東宝交響楽団 (つまり、この映画は無声映画ではないところ、この演奏会では映像だけの投影を行ったということだ)。おっと、このオケはその名の通り、映画会社の東宝の専属のオケか。そうなのであろうが、より大事なことは、この東宝交響楽団が、今回の演奏団体、東京交響楽団の前身なのだ。しかも、このオケは、この映画の制作と同じ1946年の設立であるようだ。この映画はまさに、戦後すぐに新たな文化的挑戦がなされたときの記念碑的な存在であったのだろう。興味は尽きない。

そして、この日のメイン、交響組曲「ユーカラ」。ユーカラとゆーからには、もとい、言うからには、早坂が幼少の頃を過ごした北海道におけるアイヌの伝説をテーマにしているのであろう。実際その通りなのであるが、そのような標題は実はあまり重要ではなく、この 50分を要する大作において渦巻く音響に虚心坦懐に耳を傾けることこそが重要だ。なにせ、冒頭のプロローグではクラリネットソロが 3分以上、全く無伴奏で演奏するという異例の事態に始まり、メシアンを思わせる神秘的な音響が随所に聴かれるのだ。この曲は 1955年に日比谷公会堂で、やはり上田 仁指揮の東京交響楽団によって初演されたらしいのだが、その演奏に聴衆として居合わせた武満徹は、「これは早坂さんの遺言のようだ」と言って、声を出して泣いたということだ。果たして、病弱な体をおして過酷な創作活動を続けた早坂は、その 5ヶ月後にこの世を去ることになる。

この「ユーカラ」、上記の通りの名曲で、何度も聴き返すだけの価値があると思うのに、なかなか演奏機会に恵まれない。ところが私は以前にも一度、この曲の生演奏を聴いていて、それは今ライヴ CD にもなっている、1986年の山田 一雄指揮日本フィルの演奏だ (前座でベートーヴェンの 5番が演奏され、山田が熱狂のあまり指揮台から平場のステージに落ちてしまったことを鮮明に覚えている 笑)。今回の演奏会前にその CD を引っ張り出して予習して行ったのだが、この録音時から約 30年、日本のオケの進歩は顕著であると、つくづく思う。今回の東響の豊麗な演奏を聴くと、山田のライヴ録音は、残念ながらどこかにすっ飛んでしまうと思う。指揮者の大友も、永遠の爽やか青年のようなイメージだが、これまでに何度も素晴らしい生演奏に接している私としては、さらにアグレッシヴな活躍を期待したいと思ってしまうのだ。
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今回の演奏会でもうひとつ興味深かったのは、客演コンサートマスターを迎えていたこと。なんと、長らく東京フィルのコンサートマスターを務める荒井 英治だ。
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昔から変わらない人である。最近ではモルゴーア・クァルテットという弦楽四重奏団を組織し、自身大好きであるらしいプログレ (ッシブ・ロックです。念のため) の編曲物も、バリバリにこなしている。このジャケット、ご存じだろうか。
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そう、キング・クリムゾンの「キング・クリムゾンの宮殿」のジャケットのパロディで、このモルゴーア・クァルテットのメンバーたちの顔写真のパーツを組み合わせて作っているのだとか。私も持っているが、大変に面白いアルバムだ。ご存じない方は少ないと思うが、念のため、オリジナルのジャケットは以下の通り。ちょっと視線の向きが違いますな (笑)。
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ええっと、何の話でしたっけ。そうそう。客演コンサートマスターだ。面白い試みだと思うので、東京のオケの水準をますます高めて行くためにも、これからも見てみたいし、日本の文化遺産の価値を日本人自身が再発見することにつながればなお結構。次の機会を楽しみに待っています。


by yokohama7474 | 2015-10-17 00:22 | 音楽 (Live) | Comments(0)

プラハ散策

チェコ共和国の首都、プラハ。中世の街並みをそのままに残す、世界遺産の美しい街だ。私はもう 10年以上前に出張でここを訪れ、たまたま (いやホントウです!!) 週を越えてヨーロッパの別の都市に移動することとなったので、土曜日に街を歩き回ったものである。営業担当者における出張とは、自分を通常と違う環境に置いて、まさに相手方と相対して商談を行う勝負の場。心地よい緊張感をもって充実した仕事を達成するには、その街の空気を吸い、その街の歴史を知り、その街の文化に触れることだ。気楽な観光とは一線を画する、そのような異国の街との真剣勝負、それはよりよい仕事のために絶対に必要であると信じる (なんだかしつこいな 笑)。

今回、業界の国際会議 (Conference) に参加するためにこの街を久しぶりに訪れた。重要な打ち合わせがいくつも設定され、夜の会食もビジネスの機会。ホテルに帰ってからも、容赦なく入ってくるメールへの対応。年とともにひどくなる時差ボケに苦しみながらほぼ業務日程をこなし、最終日、余った 2時間ほどを利用して、同僚とともに街を散策した。プラハのランドスケープと言えば、まずこのカレル橋だろう。
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音楽好きの方は、チェコ音楽の父と言われるスメタナが作曲した交響詩「モルダウ」をご存じだろうが、このモルダウというのは川の名前で、現地ではヴルタヴァ川と呼ばれる。この川、ここプラハではかなりの川幅であり、水量も多い。このカレル橋は、そのヴルタヴァ川にかかるいちばん大きな橋で、実に 1402年の完成というから、既に 600年以上経っているわけだ。両側には 30体の聖者たちの彫刻があり、日本人にもおなじみのフランシスコ・ザヴィエルもある。ご覧の通り自動車は通行止めで、涼しくなってきた初秋の気持ちよい気候の中、ここを行き交う人たちは誰もが楽しそうだ。遠くの丘の上に見えるのがプラハ城。もし「モルダウ」をご存じない方は、このカラヤンの演奏で、水源の水の滴りが大河へとうねって行く情景を思い浮かべてみては如何。あるいは、この後の記事を、これを BGM として読んで頂くのも一興かと。
https://www.youtube.com/watch?v=k0DjWBmsYPs

さて今回、私にはどうしても見ておきたい場所があった。それは、旧ユダヤ人墓地。前回の滞在では、定休日 (= ユダヤ教の安息日) である土曜日に当たったために見ることができなかった。そして今回は・・・残念ながらやはり Closed。なんでも、ユダヤ教の祝日に当たっていたようだ。よくよくついていない。ただ、鉄の扉に開けられたガラス窓から、写真だけは撮ることができた。この墓地は 15世紀にできたらしく、現在ではさすがに使われていないが、ユダヤ教では墓地の移転が認められていないことから、狭い敷地内に折り重なるように墓石が建てられたという。なんともすさまじい雰囲気だ。
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私がこの墓地に興味を覚えたのは、子供の頃に読んだ妖怪図鑑に、ユダヤ教の伝説であるゴーレムという土人形が載っていたからである。ゴーレムと墓地を結び付ける要素が何であったか覚えていない。だが、鬼気迫る雰囲気に奇妙なノスタルジアが漂う独特の空間であり、折り重なった無言の墓石たちのそれぞれがゴーレムのように見えてくる。この写真は、無声映画「巨人ゴーレム」から。
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そう。プラハは土人形の街であり、錬金術の街であり、ヴンダーカマーの街であり、不条理の街なのだ。チェコは、芸術的なアニメ映画の伝統を持ち、特に巨匠ヤン・シュワンクマイエル (私は以前から大ファンだ) を生んだ国。また、世界で初めてロボットという言葉を使った作家カレル・チャペックを生んだ国でもあるのだ。命ないものが動く神秘がこの街にはふさわしい。

そのようなプラハの雰囲気において欠かせない有名作家がいる。ほかでもない、フランツ・カフカだ。街中で彼の生家を見かけた。
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この家は、街の中心地である旧市街広場の近くにある。旧市街広場は 13世紀に作られたものらしく、チェコ人が誇りとする宗教改革の先駆者、ヤン・フス (1369 頃 - 1415) の大きな銅像が立っている。
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この広場は大変賑わっており、面白い見世物もある。これ、どういう仕掛けだか分かりますか。360度回って確かめたが、上の人物は明らかに宙に浮いています。おぉ、さすが神秘の街プラハ。ジロジロ見てみると、下の人物の右手は作り物で、棒が地面にまで達して固定されている様子であることが分かった。上の人物は、支柱の上に据え付けられた座面の上に座っているのであろう。ただそれにしても、よくできている。無遠慮にカメラを向ける私に、下の人物が鋭い視線を投げかけて威嚇したので、ちゃんとチップをあげました。ただこれ、このまま静止しているときはいいけど、仕事を終えて帰るときはどうするのだろう。よっこらしょと着物をまくるとカラクリ丸出しではないか。ま、長い布をまとっているのは、その際にカラクリを隠すためなのかも。
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これは街中にデーンと存在する旧火薬庫。1475年建造。下の部分を普通に自動車が通っています。
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それからこれは、ルドルフィヌム (芸術家の家)。この中にドヴォルザーク・ホールがある。立派な建物だ。プラハにはもうひとつ、スメタナ・ホールを擁するやはり美しい建物、市民会館があるが、あの有名な音楽祭「プラハの春」に一度行ってみたい。バイロイトのようなド M なイヴェントとは違って、大変にたおやかで健全な音楽祭であろうと思う。
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プラハ散策の最後は、坂道をせっせと登ってプラハ城へ。門の前からは見晴らしのよい風景が広がっている。
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城内に入るとすぐ目の前に屹立するのが、聖ヴィート大聖堂。14世紀から建てられ始めたが、完成は実に 20世紀とのこと。壮麗な建物で、チェコ出身でパリでポスター作家として一世を風靡したミュシャ (チェコ語ではムハ) も一部装飾に関与しているらしい。ヨーロッパの教会はどこもそうだが、異教徒でも敬虔な思いにさせるこの空間はすごい。
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さて、歩き回って少し疲れたので、再びカレル橋近辺に戻り、ヴルタヴァ川に浮かぶ船がレストランになっている場所へ。少し汗ばんだからだに、チェコ名物ピルスナービールのうまいこと!! 船の先端部分、カレル橋を臨む屋外の席で、疲れ切った日常で蕩尽したエネルギーの充電に励むのは、なんとも素晴らしい体験だ。ぷはー。
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かくして、ヨーロッパ文明におけるこのような意味深い充電が、我々ビジネスマンの明日の活力となり、ひいては日本経済に貢献することとなるのである。けだし、出張に出ては街の空気を味わえ。しつこいって。笑

by yokohama7474 | 2015-10-16 00:09 | 旅行 | Comments(0)