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第九 アンドレア・バッティストーニ指揮 東京フィル 2015年12月19日 サントリーホール

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毎年繰り返していることであるが、ふと気づくともう今年も残りわずか。冗談じゃない、まだまだやり残したことがいっぱいあるのに、と思いながら、12月中旬以降のクラシックの演奏会は、第九に占拠されてしまい、その演奏会に足を運ぶと、おのずと年末モードに追いやられてしまうのだ。あ、念のためであるが、ここで言う第九 (だいく) とは、ベートーヴェン作曲交響曲第 9番ニ短調「合唱付」作品125のことだ。この破天荒な「楽聖」が書いた最後の交響曲。大規模な声楽を導入した永遠のアヴァンギャルドだ。私は今年は 5種類の第九演奏を体験することになっていて、まあせっかく今年からブログも始めたことだし、つれづれなるままにその印象でも綴って行こう。

年末の第九として今年最初に私が楽しんだのは、イタリアの俊英、アンドレア・バッティストーニ指揮の東京フィルの演奏だ。今年の一連の第九演奏会の比較ができるように、いくつかのポイントを箇条書きにして、それぞれの演奏会ごとにチェックして行こう。早速今回の演奏会だ。

・第九以外の演奏曲
  ベートーヴェン : 序曲「レオノーレ」第3番作品72
・コントラバス本数
  6本
・ヴァイオリン対抗配置
  なし
・譜面使用の有無
  指揮者 : なし (但し「レオノーレ」3番はあり)
  独唱者 : あり
  合唱団 : なし
・指揮棒の有無
  あり
・第 2楽章提示部の反復
  あり
・独唱者たちの入場
  第 2楽章と第 3楽章の間
・独唱者たちの位置
  合唱団の前 (オケの後ろ)
・第 3楽章と第 4楽章の間のアタッカ
  なし

クラシックの好きな人なら、このデータだけで、この日の演奏についてなんらかのイメージを持つことができよう。と言えば言い過ぎか (笑)。今回の演奏はこのイタリア人俊英指揮者にとって初の第九の指揮であったとのことであるが、そのことがこれから 20年、30年先に価値のあることになるだろうか。現時点ではなんとも言えないが、非常な熱演であったことは間違いない。現在弱冠 28歳のバッティストーニは、今年から東フィルの首席客演指揮者を務めている。ふと考えてみたのだが、日本のオケでイタリアで歌劇場のポストを持った人を主要なポジションにつけた例が、果たしてあっただろうか。いわゆるシンフォニーの指揮者なら、日本のオケの発展向上に寄与した世界的指揮者たち、特にドイツ系のマエストロが何人もいる。だが、オペラ指揮者が日本のオケを鍛えたのは、例えばこの東フィルが以前名誉指揮者に迎えていたアルジェオ・クワドリという渋い例があるくらいではないか。その意味で、まだ若いバッティストーニがオペラとシンフォニーの両面で東フィルと結びつきを深めつつあるということは、本当に画期的なことではないか。

演奏を思い出してみよう。まず最初の「レオノーレ」3番であるが、冒頭の和音は、ドイツ系の指揮者なら往々にしてズドーンと重く腹に来るところ、今回の演奏ではむしろ天に舞い上がるような音であった。この曲は周知のように、ベートーヴェンが唯一のオペラ「フィデリオ」の序曲として何度も書き直した末に到達した高度なオーケストラ曲で、今日では、このオペラの大詰めの場の前に演奏されることが多い・・・と言いながら、原典主義が進めば進むほど、オペラの中でこの曲が演奏される機会は減っていて、純粋な管弦楽曲として扱われる傾向が強くなってきている。だが、今回の演奏を聴いて私が改めて思ったことには、この曲には、政治犯としてはかりならずも獄中の人となったフローレスタンの苦悩と、明るい日の光のもとに彼を解放しようとする愛妻レオノーレの姿、もしくはそれらを多少抽象化したものが描写されているのではないか。つまり、冒頭の和音の後にヴァイオリンが長い音を奏でる際、ヴィブラートはほとんど使われず、でも一方でチェロにはヴィブラートが充分かかっていたことから、高音と低音の間に何かギャップがあるようであった。つまり、フロレスタンの置かれた過酷な状況と、そこからの解放というドラマが、この冒頭の静かな箇所から現れているように感じられた。それから音楽は劇的な様相を呈して、そして大臣の到着を告げる舞台裏のトランペットに至る。私の席からは下手のステージドアがよく見えたのであるが、このトランペットのファンファーレ、最初の 1回はステージドアを閉めたまま、2回目はドアを開けて演奏されていた。きっと、大臣の進軍が近づいてきていることを示したのであろうが、聴衆が聴き取れるか否かも定かではない細かい配慮である。

メインの第九は、一言でまとめれば、大変に早いテンポで駆け抜けながら、随所に細かい配慮を見せた名演であったと言えよう。但し、その快速テンポは、東フィルにとって技術的には対応可能であったにせよ、さらに迫真の演奏ができる可能性も残したと思う。第 1楽章の中間あたりの壮絶な盛り上がりと、駆け抜けるチェロは、この曲の大きな聴きどころであるが、さらに鬼気迫る表現が可能ではなかったか。第 2楽章スケルツォは破綻なく進んだが、第 3楽章アダージョは、この速いテンポでは充分歌いきるわけには行くまい。だが、ふと気づくのはトランペットの表現力だ。随所で弦の海の中から響いてくるトランペットの歌。これこそ、日本の主要オケが未だかつて充分に薫陶を受けていないイタリアのオペラ指揮者の紡ぎ出す歌ではないのか。実際に声楽が入ってくる第 4楽章で、この演奏は真の輝きを増したのはそれゆえだろう。これは紛れもなくオペラ指揮者の作り出す音のドラマ。きっと日本でこれまでに鳴り響いた無数の第九の中でも、際立ってオペラ的な演奏ではなかったろうか。オペラを書いても器楽的と言われるベートーヴェンのオペラ的演奏とは逆説的だが、大変刺激的な演奏であった。

独唱者と合唱団を記しておこう。
 ソプラノ : 安井 陽子
 アルト : 竹本 節子
 テノール : アンドレアス・シャーガー
 バリトン : 萩原 潤
 合唱 : 東京オペラシンガーズ

この中で圧巻だったのは、テノールのアンドレアス・シャーガーだ。ウィーンで学んでおり、バレンボイム指揮の「神々の黄昏」でジークフリートを歌った実績があるという。また 2013年のチョン・ミョンフン指揮の東京フィルでの演奏会形式の「トリスタンとイゾルデ」(私はどうしてもチケットが手に入らず、泣く泣くあきらめた公演) ではトリスタンを歌ったようだ。今回の演奏では、独唱のトルコ行進曲で音楽全体を牽引し、コーダ手前の四重唱でも存在感を存分に発揮して、演奏全体を大いに引き締めることとなった。
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面白かったのはカーテンコールで、普通なら最初に合唱指揮者が出てくるのに、全く出てこない。プログラムを確認すると、合唱を務めた東京オペラシンガーズの合唱指揮者については記載がないではないか! 指導者は当然いるものと思うが、私の目には、これもオペラ的と映ったものだ。実際、オペラの終演時に合唱指揮者が出てくることはまずないではないか。バッティスティーニは、初めての第九ということで、合唱の指導まである程度は自分で行ったのであろうか。並々ならぬ熱意から、そのようなこともあるのかもしれないと考えた。

さて会場には、今年 5月にバッティステーニが演奏会形式で採り上げたプッチーニの「トゥーランドット」の CD が売られていて、先着順で直筆サイン入りポストカードがついてくるという。私もこの演奏会に行って大興奮であったので、早速 CD を購入。
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東京フィルは、前の常任指揮者のダン・エッティンガーが現在は桂冠指揮者のひとりということになるのだが、来年度のプログラムを見てみると、このバッティスティーニと、特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフ、そして桂冠名誉指揮者のチョン・ミョンフンの 3人に、ほとんどの演奏会の指揮が任される。正直なところ、私はエッティンガーはあまり高く買っていなかったので、今後はこのバッティスティーニにこのオケを強力に引っ張ってもらう必要がある。まだ若い今のうちなら、常任指揮者を引き受けてもらえないものだろうか。もしそうなれば、いとう呉服店以来 100年以上の歴史を持つこのオケに、新鮮この上ない風が吹くことであろうに。

by yokohama7474 | 2015-12-20 01:46 | 音楽 (Live) | Comments(0)

黄金のアデーレ 名画の帰還 (サイモン・カーティス監督 / 原題 : Woman in Gold)

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今公開中の映画でどうしても見たいものが少ない中、この映画がシネコンでも上映していることを知り、見に行くことにした。ところが今日12月18日は、「スター・ウォーズ」の新作の封切日である。いや、日どころか、18時30分という封切時刻まで全国一斉。私がとあるシネコンでこのアデーレの映画を見ようと思ったのはその時刻の直前で、劇場はごった返しており、ライトセーバーを構えて写真を撮る人などが実に楽しそうにしていた。混雑を蛇より嫌う私としては、まあいつかどこかでスター・ウォーズは必ず見るが、今日この時ではないだろう。ということで、集団を潜り抜けて到達した劇場は、予想に反してそれなりの入りだ。

今月の自分のブログの記事一覧を見ると、やたら金色が多いことに気づく。オペラ「金閣寺」、デュトワ / N 響の「サロメ」、美術展「黄金伝説」といった具合だ。まあそうなると映画分野でも黄金が欲しくなるということで (笑)、まさに題名に黄金が含まれているこの作品を採り上げることになった。たまたまとはいえ、黄金続きはゴージャスな感じがしてなかなか気分がいい。ところがこの映画が扱っている題材は、気分がいいどころではない。ナチがユダヤの裕福な家庭から強奪した絵画。それを法的な手段で取り戻す婦人とその弁護士の話。うーん、そういう意味では、やはり最近のこのブログで採り上げたジョージ・クルーニーの「ミケランジェロ・プロジェクト」とは見事にテーマが一致する (もちろん、ナチの暴挙への対応という方法論では大いに異なるが)。そして、私にとっては尋常でなく興味のあるテーマ。というのも、ここで扱われている名画とは、グスタフ・クリムトの「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像 I」(I とついているからには、ほかに II も存在する) なのである。クリムトは私が敬愛する画家。もちろん彼の活躍した世紀末ウィーンの文化全般こそが、私が生涯かけて研究し味わって行きたい分野であるからで、これは好きとか嫌いとかいうレヴェルの問題ではない。ともあれ、この絵画を見て頂こう。
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この記事は飽くまでも映画を対象としているので、この絵についてあれこれ語りたいのをグッとこらえて、簡単に触れるにとどめよう。この絵は現在ニューヨークのノイエ・ギャラリー (ドイツ語の Neue は英語の New という意味) に展示されているが、このギャラリーがオープンした 2006年、私はたまたまニューヨーク駐在で、もちろんこの絵を見に行ったものだ。セントラルパークにほど近い場所のごく小さいスペースだが、それほど混雑もしておらず、じっくり鑑賞することができた。この絵の来歴について、New York Times にも詳しく書かれていたが、私にとっては来歴よりも作品そのものに興味があった。もちろん、ニューヨークに移される前は、ウィーンにおける世紀末絵画の宝庫、ベルヴェデーレ宮殿に飾られていたので、その時にも何度も対面していたわけであるが。

映画は、この作品が米国にやって来るまでの経緯を、奪還に向けた行動が開始される1998年以降の状況と、主人公であるマリア (絵画のモデルであるアデーレ・ブロッホ・バウアーの姪) の幼時からナチの迫害を逃れて故国オーストリアを脱出する頃の状況とを交えて描いている。あえて言ってしまえば、半ばドキュメンタリーに近いくらいの淡々とした描き方で、戦争が巻き起こした悲劇という社会的メッセージが必ずしも常に表面に出てきているわけではない。だが、マリアの弁護士がウィーンのホロコースト慰霊碑を見たあとの場面で、感情の高まりが描かれる。ただ、そこはまだ比較的冷静な表現であるが、ラスト近くの回想シーンでマリアが両親と今生の別れをする場面では、断腸の思いが観客の心にストレートに入ってくる、強い表現力が発揮されている。その結果、劇場内では鼻水をすする音がそこここで聞かれるという次第だ。このイギリス人監督、なかなかの手腕である。

主役マリアを演じるのは英国の名優、ヘレン・ミレン。
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私がこれまでに見た彼女の映画は、「ヒッチコック」の妻役くらいで、その昔「コックと泥棒、その妻と愛人」に出ていたと言っても、ちょっと覚えていないし、エリザベス女王役でアカデミー賞を取った「クイーン」は見ていない。この映画では、どことなく気品がありながらも素朴な面もある可愛らしいおばあちゃんであり、一方で大変頑固で、かと思うとユーモアのセンスにあふれる人物像が求められている。この場合の「頑固」には、自らが家族とともに体験した幸福な幼時と、それゆえに一層悲惨な戦争への絶望的な思いが根底にあって、納得できないことにはおかしいと声高に言う勇気がありながらも、前向きになろうとするほどに過去の悲惨な思いを極力封じ込め、祖国のことなど忘れてしまおうとする、複雑な感情が渦巻いている。このような大変難しいキャラクターを自然体で演じるヘレン・ミレンはさすがである。

彼女の弁護士、ランドル (ランディ)・シェーンベルクを演じるのは、ライアン・レイノルズ。
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「ウルヴァリン X-Men Zero」でデッドプールという悪役を演じたマッチョ派のようであるが、ここでは若い真面目な弁護士役に大変好感が持てる。ところで実在のこのシェーンベルク弁護士が、この名画のオーストリアからの奪還に大きな力を発揮したようである。彼があたかもこの感動的な逸話の語り部のようで、この映画の前に製作されたドキュメンタリー映画には、本人が出演している模様。このシェーンベルクという名前。あの世紀末から両大戦間のウィーンを彩る超ビッグネームのひとつ、作曲家アーノルト・シェーンベルクの孫だそうだ。うーむなるほど。シェーンベルクはユダヤ人で、米国に亡命してカリフォルニアに住んでいた。この映画でも主要な舞台は陽光あふれるカリフォルニアだ。ランディはそのカリフォルニアで生まれ育った人間として過去のナチの悪行など興味の範囲外であったが、クリムトの絵画の金銭的価値に惹かれてマリアの弁護を引き受ける。だが、交渉に赴いたウィーンで自らのルーツに目覚め、むしろマリアを強引にリードして最後には勝利を勝ち取るのだ。劇中には、ランディがウィーンの主要なコンサートホールのひとつであるコンツェルトハウスで祖父の初期の代表作、「浄夜」の演奏 (オリジナル通り弦楽六重奏だ!) を聴くシーンもあり、音楽の分かる人なら、この映画の Emotion の大きな要素をそこに感じることができるだろう (結局シェーンベルクは、このように叙情溢れる音楽を生涯二度と書かなかった)。ほかの出演者では、「ラッシュ / プライドと友情」でニキ・ラウダ役を演じたダニエル・ブリュールがいい味を出している。ランディの妻役は、実生活での前の旦那のおかげで有名になった (?) ケイティ・ホームズだが、私はこの人はちょっとどうも・・・

音楽の話題が出たので、ついでにもうひとつ、どうでもよいことを書こう (興味のない方は読み飛ばして下さい)。映画の中でマリアが旦那とともにオーストリアを脱出するシーンは 1938年のことだが、空港の係員に、「ケルンで歌手のキャンセルが出たから急に行く。カラヤンの指揮だ」と告げるシーンがある。1938年と言えば、カラヤン 30歳。アーヘンの音楽監督には就任していたものの、未だそれほど知名度があるわけではなかったろう。それに、ケルンには当時オペラハウスがあったのだろうか。確か今あるものは戦後にできた劇場であるはず。また、カラヤンは当時ナチ党員であったかもしれないが、そのこと自体が広く知られてはいなかっただろう。という意味で、ここの発言は係員をケムに巻くという以上の意味はないようだ。・・・と言いながら、気になるとどうしても調べないではいられないたちの私の目の前には、カラヤンの生涯全演奏記録 (John Hunt 編纂) がある。1938年はと・・・。オペラ上演はもっぱらアーヘンだ。それ以外の活動で目立つのは以下の通り。
 1月23日 アムステルダムでコンセルトヘボウ管を指揮 (曲目不明)
 2月1日・7日 ストックホルム放送響を指揮。7日の曲目は、なんとシベリウスの 6番と、Ulfrstad というノルウェイの作曲家 (1890 - 1968) のピアノ協奏曲 
 2月20日 ブリュッセルでアーヘン歌劇場管とバッハのマタイ受難曲
 4月 8日 ベルリン・フィルにデビュー! 曲目はモーツァルト33番、ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲、ブラームス4番
 6月24日 アーヘンでR・シュトラウスの「エレクトラ」
 9月30日 ベルリン国立歌劇場にデビュー! 曲目は「フィデリオ」
 12月 初のレコーディング 曲目は「魔笛」序曲
それ以外にもいろいろ活動しているが、こうして見てみると、カラヤンのキャリアにとって飛躍の年であったことが分かる。一方、この近辺の年でカラヤンがケルンで演奏した記録はというと・・・お、1935年から36年にかけて、ケルン放送響を指揮して「カルメン」とか「リゴレット」を演奏している。してみると、この映画の台詞も、あながち見当はずれというわけではないかもしれない。

いつも以上に脱線しまくりになっていますが、ともあれこの映画、戦争の悲劇という大きなテーマを扱ってはいるものの、描かれている人間像にリアリティがあるので、大仰に作られたお涙ちょうだいものとは一線を画している。それゆえに、上で触れたような感情が爆発するシーンは数えるほどしかないものの、そのようなシーンが心に迫るようにできている。クリムトに興味のある人もない人も、見ればきっと感動すると思うし、1938年のカラヤンの活動に知識がなくても大丈夫!!

by yokohama7474 | 2015-12-19 01:14 | 映画 | Comments(2)

マルク・ミンコフスキ指揮 東京都交響楽団 2015年12月15日 サントリーホール

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全く参った。東京は一体どういう街なのだ。東京都交響楽団、通称都響のプログラムは、このブログでもいくつかご紹介して来たように、最近とみにマニアックなのであるが、その中でも相当にマニアックな内容のコンサートがほぼ満席、しかも、在京のオケで起こる頻度は非常に低いと思われる、楽団員が引き上げたあとも拍手が鳴りやまずに指揮者だけが再登場するという事態 (朝比奈隆の晩年以降、本当にどのくらいあることだろうか) が発生するという、この日のコンサートであった。一体どのような内容であったのか。

まず、指揮者は上にある通り、マルク・ミンコフスキ。この名前はそこそこのクラシック音楽ファンなら知っている名前であろう。フランスのルーヴル宮音楽隊という楽団を率いて、古楽器でバロックや古典派を録音している指揮者である。日本でもレコード・アカデミー賞 (私は正直、全然興味ないのであるが) を何度か受賞しているので、それなりの知名度であるはず。都響には去年の夏一度客演していて、オール・ビゼー・プログラムを指揮して大変素晴らしかった。今回が二度目の共演であるが、さて、曲目は一体何だろう。

 ルーセル : バレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」作品43 第1組曲・第2組曲
 ブルックナー : 交響曲第 0番ニ短調

なぬ?! 上述の通り、ミンコフスキは日本では古楽の演奏家として名を上げた人。それなのに今回は、フランス近代音楽とオーストリアの後期ロマン派の、しかもどちらも決して演奏頻度が高いとは言えない曲だ。いやいや、一緒に食べたら消化不良を起こすような組み合わせではないか (笑)。しかし。しかしである。マニアックとはいえ、これこそ聴くに値する素晴らしい演奏会だ。というのも、このような曲目では演奏の質が大きく問われるからだ。

アルベール・ルーセル (1869 - 1937) はフランス近代を代表する作曲家のひとりだが、知られている作品はそれほど多くない。以前このブログでも、ステファヌ・ドゥヌーヴ指揮 NHK 交響楽団が演奏した彼の 3番の交響曲を採り上げたが、多分それが彼の最も有名な曲。そして、それに次いで 2曲のバレエ曲、すなわち、この「バッカスとアリアーヌ」と「蜘蛛の饗宴」が比較的有名だ。しかし、前者は演奏される場合もほとんどが第 2組曲で、今回のように第 1組曲が演奏されるのは珍しい。この第 2組曲、フランス人指揮者ならほとんどがレパートリーに持っている曲で、代表はなんと言ってもシャルル・ミュンシュだが、ジャン・マルティノンとかジャン・フルネも得意としていたし、珍しいところでは、ベルギーの往年の巨匠、アンドレ・古い箪笥、いやクリュイタンスがこの曲の大詰めを鬼気迫る表情で指揮している映像もある。また、高齢のせいか最近活動を聴かなくなってしまったフランスの名指揮者、セルジュ・ボドが読売日本響を指揮した白熱の熱演では、隣に座っていた若い男性が反対隣の彼女に、「スゲー!! 人生変わった!!」と興奮して話しかけているのを目撃した。今思い立って、「日本の交響楽団 1927 - 1981」という演奏記録を引っ張り出して見てみると、記録にある 1927年以降で初めてこの曲が日本のオケによって演奏されたのは、1961年の日フィルで、指揮はなんとなんと、あの作曲家ブルーノ・マデルナだ・それに続き、同じ日フィルで翌年にはあの悪魔的巨匠、ミュンシュが演奏している。だがこの記録でも、第 1組曲の演奏記録は 1981年までは皆無である。

というわけで、今回のルーセルであるが、ミンコフスキは指揮台に登壇すると、振り返りざま、すぐに演奏を始めた。この人、気持ちを作ると非常にストレートに音楽にのめり込むタイプで、前回のビゼーもそのような名演であったが、今回の都響は、そのミンコフスキの厳しい要求に楽々応えて行く。実はこの曲、第 1組曲と第 2組曲を合わせてバレエ音楽の全曲なのであるが、とにかく最初から最後まで指揮者はせわしなく動き回らなければならない忙しい曲なのだ。この指揮者、このようなずんぐりむっくりな体型だが、その身体能力の高いこと。相変わらず芯のしっかりした都響の響きを縦横に捌いて、見事の一言。ここで彼は、古楽演奏にとどまらない、フランス指揮者としての出自を明らかにした。私がふるいつきたいくらい好きな終結部の盛り上がりも、まあ人生が変わるほどではなかったにせよ、実に颯爽と駆け抜けた。
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さて、後半のブルックナーである。この作曲家はもちろん数々の荘厳な大作交響曲で知られているが、番号つきの交響曲は、未完を含めて 9曲だ。ところが今回演奏されたのは、「0番」である。よくご存じない方は驚かれるであろう。だって普通、作品を作ったら 1番から始めますよね! (笑)。実はこの曲、順番としては第 1交響曲の後 (1869年) に作曲されたが、どうやら気に入らなかったようで、楽譜は (自筆譜表紙に「交響曲第 2番」と書いていたにもかかわらず) 完成後も放置され、その次に書かれた交響曲に 2番のナンバリングをしてしまった。ところが晩年になって作曲者はこの楽譜を引っ張り出して来て、手書きの「第 2番」を消して「無効」と書き換えた。そして、「0番 (ドイツ語で Nullte = ヌルテ) 」として生地リンツの博物館に寄贈したという。尚、ブルックナーには 1番より前にもう 1曲習作の交響曲があり、それは「00番」と呼ばれる。野球選手の背番号ではないが、覚えやすいとは言えますな。この0番、しかしながら、作曲者が破棄せずに博物館に楽譜を寄贈したということは、やはり愛着があったのではないか。それは聴いてみれば明らかだ。初期の作とはいえ、ブルックナー以外の何物でもない音楽だからだ。録音もそれなりに沢山あり、ブルックナーの権威朝比奈隆、日本で実演も披露したスクロヴァチェフスキや、その他メジャーな指揮者では、ショルティ、マゼール、インバル、シャイーらが録音している。

今回のミンコフスキの演奏は驚くべき水準であり、曲の再評価を促すようなものになった。ヴァイオリンを対抗配置 (向かって左に第 1ヴァイオリン、向かって右に第 2ヴァイオリン) にしていたのだが、この曲にはその配置が大きな効果を発揮した。冒頭すぐに旋律を弾くのは第 2ヴァイオリンだけ。それがとにかく、強くて艶のある、いい音だ。そしてそれを受けて第 1ヴァイオリンが演奏する際には、分奏、つまり半分ずつ違う音形を弾くのである。もちろんその第 1、第 2ヴァイオリンの間にヴィオラとチェロがいて、右奥にはコントラバスがいる。指揮者はその弦楽器群に対して大きく弧を描く身振りで、壮麗な音を弾き出していた。あたかも後年のブルックナーの交響曲で音の大伽藍が立ち現われる前、ロマネスクの聖堂というと語弊があるが、豪快というよりはきめ細かい、しかし絶妙のハーモニーを作り出す音の建造物という印象だ。以前、ハーディングの指揮するブルックナー 7番の感想で、その曲は弦楽器があたかも滔々と流れる川で、そこに管楽器が浮かぶようだと書いたが、この 0番は全く違う印象で、弦楽器同士は鋭い音形で絡み合い、木管が活躍しだすと弦が黙ってしまう箇所もある。でもそれが非常に新鮮に響き、ブルックナーの創作の原点を考えさせる結果となったのである。ミンコフスキは楽章の間でも指揮棒を構えたままで、曲の推進力を重視していた。全曲が終了したときに彼は譜面台からスコアを採り上げ、抱きしめながら、「これこれ」と指差した。「あまりなじみがなかったかもしれないけど、素晴らしい音楽でしょ!」という意味であったろう。そして指揮台から下りると、コンサートマスターの矢部達哉をハグして両頬にキスだ。それからカーテンコールの間、終始嬉しそうで、楽団員からの拍手を受けて再び指揮台に登ったときに出た聴衆からのブラヴォーの声に、自分の右耳を差して、次に右手親指をグッと突き出したのだ。「ブラヴォー、聞こえましたよ。アンタ、分かってるね!」という意味だと解釈した。そして、冒頭に記した通り、楽団員が引き上げても拍手は鳴りやまず、指揮者ひとりを再度ステージに呼び戻したのである。

そんなすごい演奏であったのだが、このミンコフスキ、誰かに似ていないか。そう、ほかでもないブルックナーだ。この肖像画は上の写真と角度が似ているので、分かりやすいだろう。古楽の専門家と思っていた指揮者は、実は現代のブルックナーであったのだ!!
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というわけで、今回も都響の演奏に圧倒されたわけだが、このオケは今年創立 50周年。ということは、私と同い年ではないか。近い将来、記事に書くことになる見込みがあるのだが、考えてみれば、私が初めて聴いた生のオーケストラは、実はこの都響であったのだ。今回の会場であるサントリーホールには、このような自立式ポスターが展示されていた。素晴らしい歴代の指揮者たち。存亡の危機を乗り越えて、今日の高度な演奏水準に辿り着いた道程を思うと、感慨しきりである。大野和士音楽監督のもと、さらなる飛躍を期待しております。東京の文化シーンを熱くするマニアックプログラム、大歓迎!!
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by yokohama7474 | 2015-12-16 00:33 | 音楽 (Live) | Comments(0)

クリスティアン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル 2015年12月13日 愛知県芸術劇場コンサートホール

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もし、世界のピアニストの中で、誰をいちばん聴きたいかと訊かれたら、ポリーニにしようかどうしようかと考え、迷った末に多分この人を選ぶと思う。クリスティアン・ツィメルマン。1956年生まれのポーランド人。まさに現代最高のピアニストだ。1975年、弱冠 19歳でショパン・コンクールを制した若者は、その後 1980年代、カラヤンやバーンスタインという巨匠と次々と協演、レコーディングも盛んに行った。当時の彼の録音のジャケットはこんな感じだった。
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まさに美男を絵に描いたような若いピアニストであったわけだが、少なくとも日本ではアイドル風に騒がれたという記憶がない。その当時から、内容で聴かせる芸術家であったというわけか。実演を初めて聴いたのは、小澤征爾指揮の新日本フィルが伴奏するブラームスの 2番の協奏曲であった。その後しばらく実演に接する機会がなかったが、10年以上前になるだろうか、スイス、ジュネーヴのヴィクトリア・ホール (あのスイス・ロマンド管弦楽団の本拠地である美しいホール) で彼のリサイタルを聴いて衝撃を受けた。ブラームスをメインにしたプログラムであったが、全く軽はずみなところのないピアノに、楽器自体の限界を超えて深いところから響き出す強い音楽を聴き取ることができ、心の底から感動したのだ。それ以来、私にとって現代最高のピアニストは彼になったのである。また録音では、ショパン没後 150年を記念して彼が自らポーランドのオケを振って演奏した 2曲のピアノ協奏曲が、後期ロマン派の作品かと思うくらい強烈な表現力に溢れた凄演であった。

そのツィメルマンも、既に60歳手前。上のポスターにあるよりも、実際には白髪が多くなっており、髪も髭も、すべて真っ白だ。激しく陶酔するのではなく、静かにピアノを弾いている姿を見ると、哲学者のようにも見える。信念をもって音楽の道を進む求道者であると言ってもよい。実は私は、先月倉敷を旅行した際、ツィメルマンの演奏会のポスターを見かけた。その時点で私の持っている彼のリサイタルのチケットは来年 1月10日の横浜公演のものだったから、2ヶ月も日本に滞在して演奏旅行をするのかと、大変驚いたものだ。今回名古屋で購入したツアーのプログラムを見ると、確かに最初は 11月19日の倉敷。それから来年 1月18日の武蔵野市での公演まで、2ヶ月の間に13公演が予定されており、名古屋はその真ん中あたり、6公演目だ。クリスマスと年末年始は公演は予定されていないが、それを割り引いても、一流音楽家のこのような長期に亘る日本ツアーは異例だ。プログラムに載っている文章には、「ツィメルマンが東京にも拠点を設けて、既にかれこれ十年」とある。これはどういうことなのだろうか。彼は、通常のピアニストと違い、ツアーでも自分のピアノを持ち歩く (あ、ヴァイオリンではあるまいし、持ち歩くとは正しい表現ではないですね 笑) と聞いたことがある。確か、911 テロ後に米国の通関で彼のピアノが危険物と誤解されて破壊されたことがあって、「文化を解さないこんな野蛮な国にはもう来ない」という発表をしたと記憶する。それ以来本当に米国で演奏していないのか否か分からないが、彼ならそうしているかもしれない。そうすると、東京に拠点を設けるとは、彼が許可したピアノが東京には保管されているという意味なのであろうか。ご存じの方、教えて下さい。

ともあれ、徹底したこだわりを感じさせるのは今回の日本ツアーの曲目だ。13公演すべて、メインはシューベルトの最後のピアノ・ソナタ、第21番変ロ長調 D.960 だ。前半には、今回の名古屋を含む 3回だけは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第 31番変イ長調作品110、ほかの 10回はすべてシューベルトで、7つの陽気な変奏曲と、ピアノ・ソナタ第 20番である。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタは全部で 32曲。長いもの短いもの、陽気なもの深刻なもの、抒情的なもの劇的なもの。様々であるが、最後の 3つのソナタ、作品番号でいえば 109、110、111は、まさに孤高という言葉がふさわしい、神秘的で深遠な内容を持つ。この 3曲のどれかひとつでも弾くには、相当な覚悟が必要であろう。かつて日本でもアルフレート・ブレンデルがこの 3曲を一晩で演奏したが、儀式的と言ってもよいような厳粛な演奏会になった。今回のツィメルマンは、ブレンデルのような透明感のあるタッチではなく、もっと太い音で、ドラマを内包しながら進んで行く。そうだ、私がジュネーヴで聴いたブラームスと同じような音だ。音の流れは途切れることなく、人々の心にそのまま迫ってくるようだ。やはり晩年のベートーヴェンの名曲、ミサ・ソレムニス (荘厳ミサ曲) に作曲者が書いたという、「心から出でて心に至らんことを」という言葉を思い出す。いささか月並みな表現とも思いがちだが、このような音楽を言葉で表現するとなると、ほかに手段がない。言葉の無力を思い知る。

そして、後半のシューベルトも、まさにこの世とあの世の境のような音楽で、相当な確信がないと演奏できないタイプの曲であろう。そもそもピアノ・ソナタで 50分を要するという規模に驚く。私が初めてこの曲を知ったのは、高校生の頃、ルドルフ・ゼルキンの録音だった。ゼルキンはタイプとしては上記のブレンデルと近い、澄んだ音で聴かせた人 (特に晩年は) であったが、第 1楽章で深く沈んで行くような音楽に空恐ろしいものを感じたのをよく覚えている。もしこの曲をご存じない方に説明するとすると、以下のような感じだろう。まず、あなたは広い野原で青空を仰いでいる。安らかな思いで平易なメロディが口を突いて出る。その平易さはラジオ体操のようだ。気持ちのよい体操の時間だ。深呼吸。とその時、遠くでゴロゴロと雷鳴が響く。あなたは不安を振り切ってラジオ体操を続けようとするが、段々に気持ちが高まり、天を仰ぐ。黒雲に心乱され、叫びたくなる。でも大丈夫、ラジオ体操の時間がまた戻ってくる。あなたはじっと自分の心の中を覗き、そこにあるものを認識する。・・・孤独である。
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あ、ツィメルマンとは関係ないイメージショットに走ってしまいました。これは邪道です (笑)。ともあれ、ツィメルマンの演奏は、決して枯淡の境地というわけではない。ベートーヴェンの第 2楽章でも、シューベルトの第 3楽章でも、テンポはむしろ早めで、強い音が鳴っていた。また緩やかな箇所でも、凛とした表現力が常に存在しており、いたずらに感傷に流れることは皆無であった。これこそが彼の真骨頂だ。孤独に沈んで世をはかなむのではなく、声高に叫んで煽動するのでもない、信念のある芸術家の姿に、人は大いに勇気づけられるであろう。それこそがツィメルマンが若い頃から続けて来た音楽なのだと思う。

予想はしていたが、アンコールは演奏されず、開始から 1時間 30分でコンサートは終わった。でも、会場を後にする人たちは皆、ずっしりと重い感銘を胸に、帰路についたことであろう。人々の心にこのような感銘を与えられるピアニストが、そうそういるとは思えない。それゆえ、彼は現代最高のピアニストなのである。

by yokohama7474 | 2015-12-14 00:36 | 音楽 (Live) | Comments(0)

名古屋 揚輝荘 / 覚王山 日泰寺

名古屋とその近辺には、近世から近代の文化遺産がいろいろある。もちろん、明治村のような大規模な場所もあり、犬山城のような国宝建造物も存在する。だが名古屋市内にも、見どころはあれこれあるのだ。この地区が、近世の三英傑を生み出したのみならず、近代における産業発展に寄与して来たことを実感する。今回はそのような場所のひとつをご紹介する。前から行きたかった、揚輝荘 (ようきそう) だ。名古屋市千種区にあり、駅で言うと、地下鉄東山線の覚王山駅が最寄りだ。名古屋以外の人には聞きなれない場所かもしれないが、誰もが知るデパート松坂屋の初代社長、伊藤 次郎左衛門 祐民 (いとう じろうざえもん すけたみ 1878 - 1940) が築いた別邸だ。
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伊藤次郎左衛門家とは、江戸時代から続く名古屋の商家で、祐民はその第 15代。尾張藩御用達の呉服屋であったが、先代 祐昌のときに銀行も開設。伊藤銀行はのちの東海銀行の前身のひとつであるという。祐民は 1909 (明治 42) 年に渋沢栄一を団長として行われた渡米実業団に、その伊藤銀行の取締役として参加。その際に米国で見たデパートに刺激を受け、翌 1910年に株式会社いとう呉服店を設立し、名古屋の栄地区に新たなデパートとして開店した。既にその 3年前、東京の上野に、いとう松坂屋を開店していたが、その店舗も 1916年に洋館として改装した。

この揚輝荘の造営は 1918 (大正 7) 年に開始。移築と新築、改築を続けるうちに皇族、華族、文化人などが頻繁にやってくるようになった。すべての完成を見た 1939 (昭和14) 年には、実に一万坪の敷地内に 30以上の建物が立ち並び、池泉回遊式庭園とともに威容を誇っていたということだ。今ではその 1/3 程度の規模の敷地であるが、よく復元・管理され、非常に興味深い場所になっている。今では北庭園と南庭園に分かれていて、北庭園は特別に申し込まない限り庭園内の散策のみ、南庭園は聴松閣という建物に入ることができる。その聴松閣、このような外見をしている。ハーフティンバーの山荘風外見をした迎賓館だ。
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車寄せの前では、虎が伸びをしている。なんでも、中国南北朝時代、西暦 488年の銘があるとか。うーん、さすがに複製をおみやげとして中国から買ってきたということでしょうか。
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中に入ると随所に工夫が凝らされており、純日本風でもなければヨーロッパ風でもない、不思議な折衷感覚満載だ。内部は写真撮影 OK というのも嬉しい。最初の部屋に、往時の揚輝荘の広大な敷地のジオラマがある。定期的に係員の案内があって、その説明を聞きながら観覧すると大変に興味深い。
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1階の食堂は今は喫茶店となっているが、ノミの跡をあちこちに残した荒々しいながらも手の込んだ作り。作り付けの食器棚には「いとう」の文字が。
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面白いのは暖炉で、いろいろな古い瓦をはめ込んである。左側には京都の東寺、右側には、こちらは既になくなってしまった西寺の瓦があるほか、唐招提寺や興福寺や善光寺の瓦。飛鳥時代の瓦。また一際大きい瓦には、豊臣の桐の紋が。伏見城か聚楽第の瓦か???
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2階に上がる。豪華な装飾はないものの、細かい細工があちこちに見られる。書斎や応接室はシンプルながらモダンなデザイン。中国風装飾の部屋もある。
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さて、面白いのは地下 1階だ。ここは完全にインド風の作りになっているのだ。この揚輝閣は各国からの留学生を受け入れていたらしく、インド人留学生が壁画を描いた。まあ、日本のアジャンターとまでは言いませんが、大変にエキゾチックですな。
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なんでも祐民自身、1934年にインド・東南アジアを旅行していて、地下をインド風に設計したのは彼の指示によるものらしい。小さいながら舞台もあり、この場所は今でも講演会等に使われているようだ。また、カンボジアのアンコールワット風の装飾もある。狭い地下空間だけに、ちょっと日常と違う感覚に襲われる。
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さてこの聴松閣の中には、祐民の実業活動についての資料があれこれ展示されているのが、それを見ている間、私の中に何やらもぞもぞ動く記憶がある。さて、一体なんだろう。「いとう呉服店」・・・。松坂屋の前身・・・。聞いたことがある。そして私の目に飛び込んできたのがこの写真だ。
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あっ、東京フィルではないか‼ このオケが数年前に創立 100年を迎えたとき、実は日本最古のオケであることを知った(N 響ではないのだ)。尾高忠明の指揮でシェーンベルクの「グレの歌」を 100年記念で演奏しようとしたところ、震災で延期になったのだから、2011年のことだ。ということは、この東フィルの前身、いとう呉服店少年音楽隊の結成は 1911年か。上の写真は、東フィルの演奏会のプログラムで見たことがある。大オーケストラのルーツが呉服屋の少年音楽隊とは、なんとも面白いではないか。そして私の脳の中のモヤモヤも、これで解消だ。

さて、揚輝荘を出て、マンションの横を通り、北庭園へ。その脇に、何やら苔むした大きな石が。半分埋もれているが、おおこれは、松坂屋のロゴではないか。昔は庭園のどこかに置かれていたものであろうか。
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さて、これが北庭園の入り口。「揚輝荘」の名前の入った空色のヴェストを着ている方々は、この文化遺産を管理する財団の人たちだろう。皆さん大変親切で、私が解説本 (1,300円) を買おうとすると、「えっ、いいんですか?」と訊かれてしまった。「あ、いや、自宅でもっとゆっくり勉強したいので」と、なぜかこちらがしどろもどろになってしまった (笑)。
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この庭園は非常にきれいで、維持管理も本当に大変だと思う。無料で散策できるのだが、入るだけでお金を取ってはいかがでしょうか。その価値はあると思う。
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この北庭園の中心的な建物は、伴華楼 (ばんがろう) だ。もちろんバンガローのもじりを建物名にしている。鈴木 禎次 (すずき ていじ 1870 - 1941) の設計になるもの。この建築家の名前は聞いたことがある。夏目漱石の義理の弟で、名古屋地区では鶴舞公園の噴水や、豊田喜一郎邸などを設計した人だ。
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この建物の中には事前申し込みなしには入れないが、覗いてみると、伊藤祐民の胸像などがある。
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庭園はさほど広くないが、いろいろな建造物がある。豊彦稲荷は、松坂屋本店にある稲荷と同様、もともと京都の仙洞御所にあった稲荷社を勧請したもの。
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池に浮かぶこの屋根つきの橋は白雲橋。修学院離宮の千歳橋を模したものという。
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この橋は通行止めになっているが、入口すぐの天井に墨で龍の絵が描いてあるのが見える。これは伊藤祐民自身の作と言われているが、前回の辰年、ということは 2012年のカレンダー用に撮影した人が、龍の顔を逆さまにすると王冠をかぶった女性の顔に見えることを発見。ユーモアのセンスがあったという祐民ならありうると地元中日新聞で報道されたらしい。うーん、どうでしょうか。私にはただの偶然に見えます (笑)。
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それから、池のある場所からは、隣接する日泰寺の五重塔が、ちょうど橋のたもとに映って見える。曇っていて見えにくいが、天気のよい日はさぞやと思われる。
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このように見どころ満載の揚輝荘であるが、昔の実業家のスケールに改めて感じ入る。保存は大変だと思うが、財団の方々、陰ながら応援しております。1,300円で買ってきた解説本も読みますよ!!

さて、上述の通り、この揚輝荘のすぐ隣には、ユニークな寺がある。その名も、覚王山 日泰寺。1900年に当時のシャム国から日本に贈られた仏舎利 (釈迦の骨) を安置するため、1904年に創建された (その時の名前は日暹寺。にっせんじと読み、暹はシャムのこと)。1949年、シャムのタイへの改名に伴い、寺名を日泰寺と改めた。この仏舎利というのは、もともと仏教の塔というものはそれを安置する目的の建造物を起源とするので、大体が水晶だったりするのだが、なんでもこの仏舎利は 1898年に北インド、ピルラーワーで英国人ウィリアム・ペッペが発掘したもの。骨壺に刻まれた古代文字の解読で、本当の釈迦の骨と判明したとか。へぇー、その経緯など詳しく書いた本などあれば読んでみたい。ともあれこの日泰寺、そのような経緯による近代の創建なので、日本で唯一、宗派のない寺なのだとか。山門は改修中だが、平成 9年に建てられたという五重塔もすっきりと美しい。
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そしてご本尊も、仏舎利と同時にタイから贈られた古い仏像である。近年になって、タイ語で釈迦牟尼仏と書いた額が奉納された。大きな本堂には荘厳な雰囲気が漂う。尚、本尊の左右には高山辰夫の壁画が飾られている。
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様々ある名古屋の顔、なんとも興味深いではないですか。

by yokohama7474 | 2015-12-13 23:21 | 美術・旅行 | Comments(0)

シャルル・デュトワ指揮 NHK 交響楽団 2015年12月12日 NHK ホール

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N 響の名誉音楽監督のデュトワは、今年も 12月に来日して、3種類の定期演奏会を指揮した。そのうちのオペラ「サロメ」は既に採り上げたが、この日演奏したのはこれまた大作、マーラーの交響曲第 3番ニ短調だ。以前にも書いた通り、この曲は演奏に 100分を要する桁違いの長さの交響曲で、以前はギネス・ブックにも載っていた。そんな大作を実際に聴く機会はどのくらいあるのだろうか。統計があるわけではないが、私の経験から独断に基づいて申し上げると、世界の主要都市、ニューヨークやロンドンやパリや、そこに北京やシンガポールや香港を加えてもよいが、どの都市でもどんなに多くてもせいぜい年に 1回か、かなりの確率で数年に 1回であろう。この曲は長いだけではなく、アルト独唱、女声合唱に、児童合唱まで必要で、しかもその声楽陣の出番は、全曲の 1/10 くらいだろう。なんと不経済な。そうそう演奏できる曲ではないのだ。ところが。ところがである。今年の東京では、私が聴いただけでも在京のオケがこの曲を演奏するのは 4回目だ。まず、2月の山田和樹指揮日本フィル (この演奏はこのブログを始める前なので記事を書いていない)、6月のテミルカーノフ指揮読売日本響、9月のノット指揮東京響、そして今回のデュトワ指揮 NHK 響だ。こんな都市、世界中を探してもほかにあるだろうか。しかも、どの演奏会も満員だ。おそるべし東京。

デュトワのレパートリーの中でマーラーは、決して重い比重を占めているわけではない。だが、その華やかなオーケストラの能力の最大限の活用は、デュトワの持ち味にかなり合うのではないか。特に、世界苦を背負って絶叫するような後期の作品ではない、この 3番なぞ、かなり彼には適性がありそうだ。今回のアルト歌手はドイツ人のビルギット・レンメルト。
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世界的に活躍しているようだが、調べてみると、私が経験した演奏としては、2011年に新国立劇場で上演されたドヴォルザークの「ルサルカ」の魔法使いの役がある。ラトルとウィーン・フィルのベートーヴェン 9番の録音でもソリストを務めている。また合唱は、女声が東京音楽大学、児童合唱が NHK 東京児童合唱団だ。歌手・合唱団は全員暗譜での演奏。そのあたりも東京らしい執着ぶりだ。

演奏は、期待にたがわぬ充実したものになった。いかにマーラーが日本でよく演奏されると言っても、この長い曲を終始緊張感を持って演奏するのは並大抵のことではないはず。デュトワの指揮は、「サロメ」の記事でも書いた通り、纏綿と歌うところもないし、クライマックスでテンポを落として大見得を切るところもない。楽譜が着実に音になって行くという感じだ。それが物足りないと言う人はいるかもしれない。だが、これだけあれこれのレパートリーをこれだけの安定感で指揮できる人もそうは多くないと思う。この指揮者は本当に音楽の道程がよく分かっている人だなといつも感心するのだ。今回興味深かったのは、終楽章 (第 6楽章) を、指揮棒を持たずに素手で指揮したこと。デュトワの演奏会には随分来ているが、指揮棒を持たない姿は思い出せない。これはやはり、オケから柔らかい歌を引き出そうということであろうが、このなんとも美しい楽章の、特に大詰めに向けての波のような盛り上がりを巧まずして演出していた。それからこの曲の最後では、2対のティンパニが堂々と鳴って、あたかも巨人の歩みのように巨大な響きを沸き起こすのであるが、この最後の最後の大詰めで、2対のティンパニがほんのわずかでもずれてしまうと、画竜点睛を欠くということになってしまうので、いつもハラハラするのであるが、今日は面白いものを目にした。第 1ティンパニ奏者は指揮者を見て叩き、第 2ティンパニ奏者は指揮者でなく、第 1ティンパニ奏者を見ながら叩くのだ。つまり、2人のティンパニ奏者がそれぞれ指揮者を見てしまうと、ごくわずか呼吸が合わない可能性があるところ、この方法なら、合わせることの難易度がぐっと減るからだ。おかげで、ラストの盛り上がりは大変よくまとまり、かつ感動的なものとなった。

このデュトワという指揮者、大変な巧者であるがゆえに、音作りでも非常に現実的な方法を取るように思われる。上記のティンパニの例が指揮者の指示なのか否か分からぬが、その可能性は高いだろう。また、通常は切れ目なしに演奏されることでこの曲の奥行きを増すことになる第 3楽章以下も、今回は数秒ずつの切れ目があった。特に、第 5楽章の「ビム・バム」の合唱の余韻が残っている間に、あの無限の感情を湛えた安らかな第 6楽章に移る際の微妙な呼吸は、この曲の醍醐味のひとつだが、デュトワは第 5楽章が終わると合唱団を座らせ、それから第 6楽章を始めたのである。さすがに東京の聴衆はこの曲をよく知っているのであろう、そのような楽章間で咳をする人は少なかったが、もしゴホゴホ咳をされれば、指揮者のコントロール外で危うく音楽の流れが痛むところだったかもしれない。でも、これがデュトワの実務的な手腕なのであろう。気を取り直して (?) 始めた終楽章は、感傷的ではないが、充分抒情的であったのだ。このデュトワが東京のクラシック音楽シーンを面白くしてくれていることは論を俟たない。来年も 12月に N 響の指揮台に登場するが、未だ曲目は発表されていない。来年も楽しみにしていますよ。

ところで、マーラー (1860 - 1911) がこの交響曲を作曲したのは 1895 - 96年の頃。ザルツブルク近郊のアッター湖の作曲小屋で、夏休みを使って集中的に作曲した。シーズン中は指揮者として忙しかったからだ。この写真は 1892年のものなので、近い頃の肖像だ。当時まだ 32歳。ほぅ、そんなに若くは見えませんがね。
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私の世代は、若い頃に一流のマーラー演奏を、東京に居ながらにして生であれこれ聴けた幸福な世代。もちろん、先に見た通り、今でも東京は巨大マーラー消費市場であるが、そのような状態への礎を築いたのが、やはりバブル期の熱狂的なマーラーブームであったと思う。今、2015年になって、もはやマーラーは特別な作曲家ではなく、東京のオケなら弾きこなす必要のあるメジャーな存在だ。そうであればこそ、最高の音質を最高のホールで聴くことこそが、東京の音楽ファンの願いであり、当然の大前提だ。今日のような熱演こそ、NHK ホールという巨大な体育館では、本当にもったいない。早く N 響を素晴らしい残響の中で日常的に聴ける日が来ることを切望します。同じことを何度も言っているとお叱りを受けるかもしれないが、このブログの記事はすべて、私の率直な思いをぶつけているので、今後も同じことを言い続けると思います。

by yokohama7474 | 2015-12-13 00:09 | 音楽 (Live) | Comments(0)

シカゴ・ウェストン・コレクション 肉筆浮世絵 - 美の競艶 上野の森美術館

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11月下旬。上野の東京都美術館でモネ展を見た。その内容は既に記事を書いた通りで、大変に素晴らしい展覧会だったのだが、朝、開館後間もない時間に出掛けたにも関わらず、会場内は押すな押すなの大混雑。どっと疲れを感じてしまった。美術館を出て、ようやく解放された気分で上野公園をそぞろ歩き、せっかくの機会なのでほかの美術館も回ってみようと考え、ふと目に付いたのがこのポスター。ああそういえばこんなのもあったねと思い、どうせそんなに混雑していないだろうから、ちょっと息抜きに覗いてみるかと考えたのである。美人画の展覧会は、まあそれほど悪くないだろうと気軽に入ってみたが、確かに会場はすいていた。ガラガラと言ってもよかった。ところが、そのガラガラの館内で、寸刻も経たないうちに私の背筋は伸び、心は高揚し、衝撃を受けることとなった。忘れられない素晴らしい美との出会い。一体どのような内容であったのか。

この展覧会は、個人コレクションとしては世界有数の規模と質を誇るシカゴの日本美術収集家ロジャー・ウェストン所蔵の肉筆浮世絵約 130点からなる。江戸初期から明治に至る、50人以上の絵師たちの作品が展示されている。浮世絵と言えば色鮮やかな版画を思い浮かべるのが通常だが、ここに並ぶ作品はすべて肉筆画。もちろん版画の浮世絵も素晴らしいが、肉筆ともなると世界で一点しかないわけで、そこには画家の真剣勝負の軌跡が明確に残っているものだ。また、保存状態のよい浮世絵は、日本国内よりも海外に残っているケースが多いようだ。それは、西洋人が浮世絵の美しさに感嘆したために、その価値に相応しい敬意を持って大切に維持保存したという事情によるものだろう。日本人はどうも自分たちの持てる能力を客観的に評価することを苦手としていると思われてならない。最近では少し変わってきているようにも思われるが、でもやはり、浮世絵展よりモネ展の方が圧倒的に人気が高い点を思うと、やっぱりまだまだ西洋崇拝は根強く残っているのだろう。だが、よく知られているように、モネは浮世絵から多大な影響を受けているわけで、浮世絵がなければ、我々の知るモネもなかったわけである。・・・まあこの話を始めると長くなるのでこの辺で気分を切り替え、この展覧会の作品について感想を書いて行こう。

そもそも浮世絵とは、浮世、つまり現実世界の営みを描いたものであり、描かれる対象は非常に広い。もちろん版画によって一般庶民に広く普及したものであろうが、その代表的な画家と認識されている歌麿や北斎は、一方で沢山の肉筆画を残している。また、一般に浮世絵の祖と言われる菱川 師宣 (ひしかわ もろのぶ 1618? - 1694) の代表作、「見返り美人」は実は肉筆画なのである。このように、江戸時代を通して肉筆浮世絵は描かれ続けたのだが、この展覧会は、その浮世絵の源流から始まる。もともと 16世紀前半 (つまり戦国時代だ) に京都を中心とした上方で、現実世界の題材が描かれ始める。そして江戸時代に入り、寛永 (1624 - 44)・寛文 (1661 - 73) 頃には富裕な民間層の依頼によって歌舞伎や遊里が描かれるようになった。寛文美人図と呼ぶらしいが、主として寛文年間に描かれた、主として一人立ちの美人図のジャンルがある。この展覧会では、LED 照明によって極めて鮮やかに浮かび上がる寛文美人図の数々が、まず訪問者の目を射る。こんな具合だ。
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この絵も、それから以下に掲げるほかの寛文美人図も、無款なので作者は分からないが、その描き方の微細なこと、また表情の活き活きとしていること。
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これなどはなんとも粋だ。立ち女ではなく、若衆である。画賛には、狩場の鹿は明日をも知れない命ので、「戯れ遊べ夢の浮世に」とあるらしい。なんちゅう自堕落な (笑)。でも粋だなぁ。もともと江戸の侍文化 (組織を縛るという意味で今のサラリーマン文化にまでつながっている) が日本人をガチガチに抑え込んでしまう前には、こんなに自由な気風が日本、特に古い歴史を持つ上方にはあったのだ。
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これは「明形 (みんけい) 」の印があるが、画家のことはよく分からないらしい。お気づきだろうが、いわゆる版画の浮世絵で女性の顔のスタイルが画一化される前、このような表情豊かな作品があったわけだ。これは日本美術史上重要なことではないだろうか。強いてこれに近い人間的な女性の肖像画を考えてみると、遥か上代の高松塚古墳の壁画とか、正倉院御物の鳥毛立女屏風が思い浮かぶ。1,000年間流れ続ける日本的 (あるいは東アジア的) 美意識の水脈が、戦国時代から江戸初期に、突然地表に表れて来たと言えば言い過ぎになるだろうか。
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さて展覧会はその後、件の菱川師宣の登場を経て江戸で発達して行く浮世絵の変遷を辿る。これは「江戸風俗図巻」という巻物で、元禄年間というから、師宣晩年、17世紀末の作だ。さすが天下泰平の元禄期、描かれている人々の行動も勝手気ままで楽しそうなら、それを絵筆で活き活きと再現する師宣の手腕も素晴らしいものだ。
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以下の作品は、京都の西川 祐信 (にしかわ すけのぶ 1671 - 1750) の「観月舟遊図」。遊女たちが舟に乗って月見をしているところだが、この川の流れなどは、版画よりも肉筆画の方がより豊かな表現力を可能にするだろう。
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これは東川堂 里風 (とうせんどう りふう 18世紀前半、正徳・享保期に活躍) の「立姿遊女図」。この頃の立女図は懐月堂派という一派をなしていて、この画家もそこに分類されるらしい。衣類の輪郭をなんと金色の太い線で迷いなく描いている。全体的に、なんとも大らかさを感じさせるとともに、顔などは明治期以降の日本画すら思わせるモダンささえ湛えている。
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宮川 一笑 (みやかわ いっしょう 1689 - 1779) の作品を 2つ。「七福神正月図」と「鍾馗と遊女図」。この人を食った名前と、このあっけらかんとした作風を見ると、相当にユーモアのある人だったのかと思う。宮川長春を祖とする宮川派のひとりであるが、1750年に日光の修復御用の報酬を巡って宮川一門が狩野家に討ち入りするという物騒なことがあったらしく、その責によって一笑は伊豆新島に流され、そこで 91年の長い生涯を終えたという。多分、それでもユーモア感覚を忘れなかった人であったのではないか。
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奥村 政信 (おくむら まさのぶ 1686 - 1764) の「やつし琴高仙人図」。中国の琴高 (きんこう) 仙人の逸話によるが、大きな鯉に乗った遊女がなじみの客からの文を読んでいるところか。これもユーモラスな内容をきっちり描いていて面白い。
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そろそろ 19世紀に入ってきて、水野 廬朝 (みずの ろちょう 1748 - 1836) の「見立三酸図」。これも中国の逸話で、道教・儒教・仏教を代表する人物が酢を舐め、一様に顔をしかめることで、三者は違いはあるが目指すところは同じというもの。ここでは三者が、真ん中が吉原の遊女 (正面を向いている顔が珍しくも印象的)、左が芸者、右が一般の夫人になっており、甕には「醉」とある。これは酢ではなく酒であるようだ。これまたなんともユーモラスではないか。
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同じ三人の女性を描いても、それぞれに異なる画家の個性が現れる。二代目喜多川 歌麿による文化年間 (1804 - 1818) の作品、「三美人音曲図」。華やかな着物は美しいが、顔が著しく縦長になっていて、一度見たら忘れない。全体のバランスも絶妙で、絵画作品として細心の注意が払われていることが分かる。
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初代 歌川 豊国 (1769 - 1825) の 1816年の連作、「時世粧百姿図 (じせいそうひゃくしず)」、全24図がすべて展示されている。いろいろな階層の女性を描いたものだ。これなど、三味線を練習する若い女性のなんとなくだらけた感じと、後ろで飯を炊いている爺さんの真面目さの対比が面白い。
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ここで大御所登場。葛飾 北斎 (1760 - 1849) の「京伝賛遊女図」だ。この京伝とは、有名な戯作者、山東京伝のこと。彼が賛を書いている遊女の図ということだ。さささっと片づけた、筆のすさびという感じの作品だが、なんとも洒脱で、かつ実在感がある。すべての画一化から自由な、近代的な作品と言ってもよい。
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展覧会の出口近くに、最後の浮世絵師とも言われ、明治の文明開化の風景を抒情的な版画で残した小林 清親 (1847 - 1915) の珍しい作品がある。「頼豪阿闍梨」と題されている。頼豪 (らいごう) とは、平安時代の天台宗の僧侶で、園城寺に戒壇 (僧侶に戒律を授ける場所) を開設すべく天皇に直訴したところ、ライヴァルの延暦寺に邪魔されて実現せず、断食して命を絶ち、鉄鼠に化して延暦寺の経典を食い破ったという伝説があるらしい。なんとも凄まじい執念だが、この絵は不動明王が頼豪の悪事を戒めるために火を放っているところ。私が大好きな叙情的な清親はここにはなく、あたかも昔の少年探偵ものの挿絵のような作品で、これはこれで誠に面白い。
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とまあ、展示品のごく一部を駆け足でご紹介してきたが、驚くのは、どの作品も保存状態が最高で、それを素晴らしい環境で堪能できる、素晴らしい展覧会だ。考えてみれば、このブログでも採り上げているような江戸時代の画家の回顧展の場合、保存のよいものと悪いものがどうしても混じってしまって、この展覧会のように、どれを見ても最高のコンディションのものということは、まずあり得ない。また、一人の画家の画業を辿るのとは違い、有名無名を取り混ぜて様々な画家の作品を見ることで、日本美術の時代変遷や表現の幅を知ることができ、大変貴重だ。それにしても、これらの絵の来歴は様々であろうが、米国人がコレクションできるということは、美術マーケットで流通しているということなのだろうが、あるいは、一部は旧家の所蔵品がまとめて処分されたようなこともあったのだろうか。いずれにせよ、このような心あるコレクターによって散逸を免れ、大事に保存されていることは素晴らしいことであり、在外の日本美術を日本で見る機会を、是非今後も頻繁に持ちたいものだ。日本人自身が日本人の作り出した美を充分に認識し、誇りを持てるようになるべきだと思う。他者を尊敬するにはまず、己を知らなければならない。国際文化交流の意味は、自国の文化を知ることにもあると、改めて実感した。この美術館、年末年始は元日のみが休みであるようなので、この記事をご覧になった方は、12/31 でも 1/2 でも、足を運んでみられることをお奨めします。

by yokohama7474 | 2015-12-12 19:22 | 美術・旅行 | Comments(2)

黄金伝説展 古代地中海世界の秘宝 国立西洋美術館

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この展覧会のポスターを見たとき、一体いかなる内容か分からなかった。宣伝文句の中には、「黄金を愛した権力者たちもこれだけの傑作は目にできなかった」とあり、なおさらハテナマークである。金細工など各地にあって、ポスターの写真を見ても、そんなに驚くような内容とは思えない。まあ、ツタンカーメンの黄金のマスクが来ているなら興味も沸くが、気をつけないとそれも実際にはチッコイものかもしれない。もう騙されないぞ!!

という堅い決意を持って入ってみたこの展覧会、結論から言ってしまえば、最初から最後まで驚きの連続とは言わないが、一部展示品にはビックリ仰天のものがあり、もし人生でこの機会を逃すと次回はなかなか難しいと思われる。それを見るだけでも大いに意味はある。展覧会の構成は、第 1章 : 世界最古の金、第 2章 : 古代ギリシャ、第 3章 : トラキア、第 4章 : エトルリアと古代ローマ。なるほど、第 1章はどこのことやら分からないが、展覧会の副題にある通り、「古代地中海世界の秘宝」ということのようだ。

人類にとって黄金とは、古代からの憧れの的。ギリシャ神話にも、触るものみな黄金に変えたミダス王の話や、ゼウスが黄金の雨に変身してわが物としたダナエ (この 2人を強引に結びつけたのが、以前の記事で採り上げたリヒャルト・シュトラウスのオペラ「ダナエの愛」だ)、また、アルゴー船に乗って金の羊毛を探しに行ったイアソンの話などがある。この展覧会はまず、そのようなギリシャ神話を描いた絵画や、ギリシャ時代の壺などから始まる。私の大好きなモローの「イアソン」が、はるばるオルセーから出品されている。
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ただ、ギリシャ神話関連の展示ならほかの機会にも見ることができる。第 1章の目玉は、人類史上最古の金細工だ。もちろん日本初公開だろう。
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1972年、ブルガリアの黒海沿岸のリゾート地、ヴァルナの建設現場で偶然発掘された約 300基の古代人の集団墓地のそこここから、多くの金製品が出土した。その年代は、驚くなかれ、今から 6,000年以上前なのだ!! このヴァルナで発掘された金は、同時代のエジプトやメソポタミアで発掘された金をかき集めたよりも遥かに多い量だという。このヴァルナという場所、私は以前ブルガリア人と仕事をしたときに、相手の会社の社長が、平日は首都ソフィアで暮らしていて、週末になるとヴァルナの別荘でのんびりするのだという話を聞いたことがあるので、たまたま名前は知っている。だが、ほとんどの日本人にとっては、聞いたこともない場所であろう。一体どこにあるのだろう。以下の地図で、黒海の西岸、黒い星印のあたりだ。
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よく、黒海は大きな湖ではないのかという疑問が呈されるが、地中海とつながっている海である。だがギリシャから黒海に辿り着くには、ボスポラス海峡の手前にあるダーダネルス海峡という狭い箇所を通り抜ける必要があり、相当な難所であったらしい。ところが一旦黒海に出てしまうと、そこには広く静かな海が広がっているのだ。つまり古代ギリシャ人にとっては、豊富な金を持つ黒海地域は、あたかも金の羊毛を求めたイアソンが艱難辛苦を超えて辿り着く楽園のようなイメージであったのかもしれない。すなわち、アルゴー船の冒険譚は、大昔から存在したヴァルナの黄金伝説を追い求める物語であったのではないか。と、ここで脱線するが、アルゴー船と言えば黙ってはいられない。あのクレイメーション (粘土を使って怪物のミニチュアを動かす特撮の一種) の巨匠、レイ・ハレーハウゼンの「アルゴ探検隊の大冒険」(1963) という映画だ。昔からよくテレビでも放送していたのでご存じかもしれぬが、こんなレトロな感じ。イアソンの向かう先は、ヴァルナなのだろうか。あ、もちろん、ベン・アフレックの映画「アルゴ」の題名も、この神話に由来するのであろう。
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というわけで、人類最古の金の加工品だが、もちろんその作りは非常に単純であり、上の写真で分かる通り、大きなものは少ない。だが、額のあたりに金製品が乗っており、腕輪やネックレスもあり、また、右手は石の斧を握っている。6,000年前ですよ。すごいことだ。

さて、第 2章は古代ギリシャだが、正直、ここは早足で通り過ぎてもよいと思う。展示物が細かいのだ。もちろんよく見ると素晴らしい細工である。例えばこれなど、紀元前475年から450年という時代の耳飾り。まあ確かにすごい。早足はもったいない (笑)。
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この展覧会の真の驚きは、第 3章、トラキアだ。トラキアとは古代民族の名で、現在の場所はまたしてもブルガリア。今回来日したのは、同国の至宝、ヴァルチトラン遺宝とパナギュリシュテ遺宝の 2つだ。まずヴァルチトラン遺宝だが、その発見には興味深いエピソードがある。1924年のある日、ぶどう畑で働いていた兄弟が偶然に複数の蓋付容器 (汚れていて真鍮製に見えた) を掘り出した。すわ、お宝発見かと、農夫たちとともに中を改めたが、容器はいずれも空であり、「なーんだ、ただの真鍮の容器か」とがっかりした兄弟のひとりは、発掘された中の大きなボウルは取っ手がついていて便利であったので、豚の飼い葉桶として利用することにした。ところが、腹をすかせた豚がボウルを舐めまわした結果、23金の輝きが現れたのだ!! その価値が分かったことで関係者間の争いが始まり、一部は切り刻まれてしまったらしい。警察と博物館が仲裁に入り、なんとか 13点、総重量 12.425 kg の遺宝を守ることができたとのこと。この写真がそうだが、合金成分は金 88.15%、銀 9.7%、銅 1.74%、鉄 0.4%。素朴ながら、どっしりとした見事な存在感だ。
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制作年代については諸説あるようだが、紀元前 14世紀後半から 13世紀初頭という説が有力とのこと。気が遠くなる。
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さて、もうひとつのトラキアの黄金は、さらにすごい。パナギュリシュテ遺宝。これは 1949年、やはり地元の兄弟によって偶然発見されたものだ。この豪華絢爛さはどうだ。上で見たヴァルチトラン遺宝からは 1,000年くらい降ると言われて、なんだよそんなに最近なのかと思って冷静に考えてみると、紀元前 4世紀から 3世紀だ。いやメチャメチャ古いだろ、それ (笑)。
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私は、通常なら黄金とか宝石には特に心惹かれることもないのだが、これは別格だ。8点のリュトン (角杯) と 1点のフィアレ (皿) という合計 9点からなっており、饗宴で酒食を楽しむための食器セットなのである。ガラスケースの回りを一周し、息でガラスが曇るほど近くで、貼りつかんばかりにマジマジと眺め入ったが、2,300年も 2,400年も前にこんなものを作ったのはどんな人たちかと思うと、またしても気が遠くなった。このクオリティは、近代ヨーロッパの作品に全く劣っていない。これはアンフォラ (よくワインなどを入れて保管するようなとんがった形の容器) 形リュトン。取っ手にはケンタウロス、胴体には古代ギリシャ神話の「テーバイ攻めの七将」が浮き彫りされている。ギリシャ神話を題材にして近世や近代に作られた容器はあっても、この場合には神話が作られたその時代のものだと考えると、なんとも不思議な気がする。つまり、ケンタウロスがこんな格好だったとは、後世の人間の創作ではなく、ケンタウロスは古代ギリシャ時代からケンタウロスだったのである。
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そしてこれがまたすごい。フィアレと呼ばれる皿だが、ここに表されているのは、黒人の顔だ。コップに顔があってもいいじゃないかと言ったのは岡本太郎だが、金の皿に黒人の顔があってもいいじゃないかと言った人はいないと思う。かなりリアルに作られているので、実際のモデルを見て製作されたのであろうか。しかも、同心円状に 3重になっている (その内側はどんぐり)。でもなんでこんなに黒人の顔を並べたのか。納得の行く説明を聞くまでは死ねない。
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これは女神をかたどったリュトン。女神アテナであり、頭の上にはスフィンクスが乗っている。この見事な造形美には心底驚かされる。
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そしてこれは、鹿をかたどったリュトン。ワインを飲むためのものだそうである。まあそれにしても、実用性の高いリュトンをわざわざ高級な金で作り、しかもその形を鹿の顔にするとは、一体誰が考えたのか。ただ飲むだけなら、コップ形でよいではないか。2,000年以上前にこのような究極の遊び心を持っていたトラキアの人たちに果てしない興味を覚える。
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そして最後の第 4章は、エトルリアと古代ローマ。ここではトラキアのコーナーほど驚くものはないが、それでもユニークな金細工があれこれ展示されている。例えばこれは、動物模様のある留め金。紀元前 7世紀第 1四半期の作。ちょっと分かりにくいが、架空の動物キマイラやセイレン、スフィンクスと、ライオンや馬といった動物が、合計で 131体配されているとのこと。副葬品で、遺骨の頭部近くで出土した外套の留め金と考えられている。紀元前 7世紀ですよ。おそるべし。エトルリア人は死後の世界を重視して、高度な技術を要する金細工を惜しみなく墓に入れたらしい。
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これは、裸体女性像が表された飾り板。紀元前 650年頃のものだそうだ。ベルトの装飾品と考えられていて、この女性たちは、実は玉座に座っているところだという。こんな時代に人の姿をこのように表すのは面白い。
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この展覧会、細かい金細工をじっくり見るとかなり時間がかかってしまう。もし行かれる方は (因みに、東京のあと、仙台と名古屋を巡回)、トラキアのコーナーに辿り着く前に消耗しないようにご留意されたい。本当に今回を逃したら、ブルガリアに出掛けて行かない限り、次はいつ見ることができるか分からない。古代の黄金への欲望に表された古代地中海世界の豊かな文明に触れ、気持ちだけでもリッチになる機会というのも悪くない。

by yokohama7474 | 2015-12-12 01:18 | 美術・旅行 | Comments(0)

東京 芝 増上寺 (宝物展示室、徳川家墓所ほか)

何を隠そう、関西出身である。小学生の頃に関西の古寺を一通り回り、古き日本の神秘性に得体の知れない感動を覚えるという妙なガキであった。満 12歳で親元離れて単身東京に出てきて、東京の寺についての本など読んでみたが、たかだか 300年や 400年の歴史など、一桁少ないよ (笑) という思いに駆られていた。まあせいぜい鎌倉まで足を伸ばすと、800年くらい前まで遡るものの、建造物としては当時のものは数えるほどしか残っていない。そんなことから、関東の寺についてはあまり心ときめくものがなかったのである。だが、長じるに及んで歴史の重層に意識が及び、300年前、400年前がいかに古いかということに気が付いたのだ。そのように心を入れ替えてから (?) 東京、芝の増上寺にはこれまでにも何度か足を運んで来たのであるが、つい先日も、ふと思い立って散策してきた。増上寺といえば、この三門で有名だ。江戸時代初期、1622年の建造で、都内でも有数の古い建物だ。1608年建立の池上本門寺 (以前このブログでもご紹介した) の五重塔に次ぐ古さではないだろうか。
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増上寺のユニークさはまた、この東京タワーをバックにした不思議な風景によっても印象づけられる。近世とモダンのコンビネーションがなんとも絵になる。ヒュー・ジャックマン主演の映画「ウルヴァリン X-Men Zero」では、エキゾチックな雰囲気の葬式の場面でロケ地になっていたが、ある種のキッチュな感じになんともいえない魅力を感じる。
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この寺は戦争で大きな被害を被っているのだが、上記の三門をはじめ、奇跡的に残った建造物や宝物を見ていると、400年という長い (と、今となっては実感する 笑)時の流れに胸を打たれる。自分がかつて顧みなかったものの価値を改めて知るのは、大きな喜びだ。

本堂の左隣には光摂殿という建物があり、私が訪れたときにはその大広間の天井画を特別公開中であった。
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この建物は通常僧侶の修行の場として使われており、1997年から 120名の日本画家が天井画を奉納してきたとのこと。多くは一般には名前を知られていない画家たちであるが、文化勲章受章者や文化功労者の作品もある。以下に掲げたのは小倉遊亀の作品で、それ以外にも、上村松篁、奥田元宋、加山又造などの作品が含まれる。厳しい修行の場と言うよりは、心穏やかになれる空間だ。
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さて、実は今回ここを訪れた最大の目的は、徳川家康没後 400年を記念して今年本堂下にオープンした宝物展示室を見ることであった。このような看板の横から地下に入って行く。さて、いかなる展示物があるのだろうか。
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現在の特別展として、江戸時代末期の画家、狩野 一信 (かのう かずのぶ 1816 - 1863) の畢生の大作、五百羅漢図が順番に公開されている。これが必見なのである。
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この五百羅漢図は、1幅に 5人の羅漢を描いたものが 100幅で総勢 500人の羅漢をなしている。その作風はグロテスクと言うべき強烈なもので、ありきたりの教科書的美術に飽き足らない私にとっては、かなりドストライクなシリーズである。もちろん、これだけの数であるから作品の出来にむらがあるのは致し方なく、また一信は最後まで仕上げることなく世を去っているので、最後の 4幅は弟子が補筆しているのであるが、とにかく戦争で 1枚も失われることなく現代に伝わっていることがすごい。明治の頃には増上寺の境内にこのシリーズを常時展示している建物があり、一信の未亡人が解説をしていたと聞いたことがある。それから長らく忘れられていたが、埋もれた近代日本絵画の発掘の第一人者とでも言うべき山下裕二 明治学院大学教授の肝いりで、2011年に江戸東京博物館で全幅が展示された。私もワクワクしてその展覧会を見たし、芸術新潮の特集号も舐めるように読んだが、本当に破天荒な、並ぶもののないユニークな作品群で、また見たいなぁと思っていたところ、この場所で見ることができると聞いて、思わずガッツポーズを決めたのであった。新築の増上寺宝物展示室は大変落ち着いた鑑賞の出来る空間で、これらの作品との再会は誠に気持ちのよい環境で実現した。展示スペースが充分でないため、20幅ずつ入れ替えで展示するらしい。あらゆる点でユニークなこの連作であるが、100幅がずらりと並んでいるよりも、少しずつの方が、より集中して見ることができるという利点がある。今回の展示作品 (12/27 まで) から、その強烈なヴィジョンをご覧頂こう。ただ、写真ではその迫力は伝わらない。是非至近距離でじっくり鑑賞して頂きたい。
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ところが、それだけではない。この宝物展示室には、ほかにも私の心を激しく揺さぶる展示物があったのだ。これはびっくりだ。あ、しかも、以下の写真 (私の撮影ではなく、報道機関によるもの) で左手に写っている髭の仁は、ほかならぬ山下裕二先生ではないか。
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これは一体何だろう。実はこれは、戦争で失われてしまった国宝建築の 1/10 スケールの極めて精工なミニチュア。なんだ、模型かと侮るなかれ。もともと 1910年にロンドンで開催された日英博覧会に展示するために当時の職人技術の粋を集めて作られたもので、これはもう建築と呼ぶべきものだ。彫刻家の高村光雲も監修者のひとりであった。英国王室に献呈されたものなので、現在でもロイヤル・コレクションのひとつだが、最近までは死蔵されたまま、英国では修復のあてもなく損傷が進んでいた。それが最近になって増上寺に送り返されてきて修復がなされ、今般晴れて一般公開にこぎつけたものだ。但し、増上寺に所有権が移ったわけではなく、英国王室からの長期貸与とのことだ。あまりに見事な出来なので、じっくりと鑑賞できるよう、内部は別の展示ケースに入っている。
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この建物のオリジナルは、では一体何なのか。1632年、ときの将軍徳川家光が、父である 2代将軍秀忠の墓所として増上寺内に建立した、台徳院殿霊廟 (だいとくいんでんれいびょう) なのである。この建物は日光東照宮に先立つ造営で、その絢爛さは東照宮にも負けないものであったようだ。内部の様子は、残されたモノクロの古い写真でしか偲ぶことができない。それゆえに、この精巧な模型には絶大な価値があるのだ。
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この台徳院殿の所在地は、増上寺正面に向かって左手であった。実は今でも、奇跡的に霊廟の門 (惣門と呼ぶ) だけが現存している。仁王像は埼玉の寺から移してきたもので、港区の有形文化財。
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この門の奥は現在ではプリンスホテルのタワーの敷地のようだが、このような水路跡なども見ることができる。
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このような気持ちのよい芝生であるが、ここに秀忠が眠る豪華な廟があったとは、今となっては想像するのも困難だ。
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ここで掲載しているモノクロ写真は、宝物展示室の観覧券を購入した際に特典としてもらった絵葉書セットを撮影したもの。大変貴重な写真である。この台徳院殿霊廟の惣門の古い写真もある。門自体は今と同じだが、そのすぐ奥に霊廟とおぼしき建物が見える。永遠に消えてしまった風景だ。
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さて、増上寺と言えば、将軍家の菩提寺である。ここには 6人の将軍が埋葬された。ほかの 6人は上野寛永寺。家康と家光は日光に葬られた。徳川は 15代なので、おっともうひとりいるはず。それは最後の将軍慶喜で、彼は谷中墓地に眠る。では、ここ増上寺の徳川家墓所へ行ってみよう。実はこの場所、つい最近までは一年のうち限られた期間しか一般公開されていなかったが、この宝物展示室の開館とともにであろうか、今では随時見ることができるようになったようだ。
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このような青銅の門がかろうじて現存している。ここは戦火で焼けるまでは将軍家の霊廟が立ち並んでいる壮麗な場所であったというが、この門でわずかに往時を偲ぶしかない。
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中に入ると、数々の石塔が立ち並んでいて、それはそれで今でもやはり荘厳な雰囲気だ。戦火によって霊廟の木造建築はことごとく焼失したものの、将軍とその妻たちが葬られた石塔はかろうじて残った。戦後になってその土地に東京プリンスホテルができるに及んで、残った石塔をこの地区に移築したものであるらしい。1964年の東京オリンピック開催に向けたホテル整備の一環という時代の波があったようだ。ここに祀られている将軍は以下の通り。
 2代 秀忠
 6代 家宣
 7代 家継
 9代 家重
 12代 家慶
 14代 家茂
石塔の例をご覧頂こう。これは 2代秀忠。上述の通り秀忠の豪華な霊廟は焼けてしまったので、正室、お江の方の石塔に一緒に祀られている。
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9代家重。実は女性だったという説のある人だ。
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これらの石塔の下には、実際に将軍の遺体が埋葬されていた。1958年から 1960年にかけて、上述の通りこれらの墓の移転がなされたが、その際に将軍やその妻たちの遺体は詳しく調べられ、桐ケ谷斎場で荼毘に付されたという。これらの石塔の下には従って、現在では骨壺が収められているらしい。と、知ったようなことを言っている私の知識の源は、現地港区のボランティアのガイドさんの説明だ。この墓所にはこんな説明看板があり、その前で 30分程度、1日 4回、説明がある。
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もしこの場所に行かれる場合には、是非このボランティアの方の説明をお聴きになることをお奨めする。ただ石塔を眺めているだけでは分からない、いろいろなことを面白おかしく教えてくれる。墓の下の遺体の埋葬状況についても、この通り、分かりやすい説明だ。
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さて、ここには将軍以外に正室・側室も葬られていて、上に見る秀忠のように正室と一緒に納められているケースが多いようだ。だが一人だけ、正室が堂々たる墓を持っており、将軍のそれよりも立派だというケースがある。それは、14代家茂。彼の正室は皇女和宮。孝明天皇の妹である。和宮が亡くなったのは明治 10年で、逝去時にこの墓が作られた際、将軍家は既に過去のものであり、時の天皇である明治天皇のおばにあたる和宮の墓を豪華に飾り立てることは、明治新政府にとって必要なことであった。しかも、ちょうど西南戦争勃発の年。不安定な新政府としては、皇室の威厳を強調する必要があったのだろう。家茂と和宮の墓を比べてみよう。家茂のものは石であるのに対し、和宮のものは青銅製。しかも菊の御紋つきだ。
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時代背景を考えされられるこのような事柄は、ボランティアの方の説明あればこそ。400年の歴史は数知れないドラマを生み、現代の日本人にまで直接つながっているからこそ面白い。私は特に歴史オタクということではなく、大河ドラマなどもさっぱり見ないのだが、自分の目でこのような遺物を見て想像の翼を広げることで、随分と豊かな気持ちになる。江戸時代ほど面白い時代はちょっとない。

増上寺は江戸幕府にとって大変神聖な場所であったわけであるが、人間の歴史とは面白いもので、聖なる場所は昔から聖なる場所であるのだ。増上寺に隣接している公園は、駅の名前にもなっている芝公園というのだが、ここに足を踏み入れるとこんな感じなのだ。
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この感じ、いつかどこかで味わったような・・・。森閑とした山の雰囲気がありながら、石段があり、でも木洩れ日に何か厳粛な空気を感じる。お、そうだ。これは古墳の雰囲気満点だ。と思うとやはり、このような石碑が。
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芝丸山古墳。全長 106mと都内最大級の古墳。被葬者は不明だが、5世紀の築造とされている。関東には 400年の歴史しかないと思っていた昔の自分が恥ずかしい。遥か古代からの神聖な場所は、形が変わったり戦争で焼かれても、不思議な生命力を保ち続けるものなのだろう。

この古墳のすぐ脇には、家康を祀る芝東照宮もある。あまり知られていないかもしれないが、やはり神聖な雰囲気だ。
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ところで、上で 9代家重が女性であったという説があると書いた。それは、その名もずばり、「九代将軍は女だった!」という新書を読んだことで知っているのであるが、その本を引っ張り出してきて改めてパラパラめくってみると、この徳川家墓所の移転の際に行われた将軍家の人々の遺体の調査を、現代の医学で分析した結果に基づく説とのこと。ボランティアの方の説明を聴いていて、その将軍家の遺体調査結果について大変興味が沸いてきたので、何か読める本はないかと探してみると、あったあった。当時の東大理学部教授で調査の中心人物であった鈴木尚という先生が、「増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体」という専門書を執筆している。但し、この本を今手に入れようとすると、3万円くらいする。さすがにこれでは手が出にくい。だが、一般書として出版された「骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと」という本なら、一桁小さい金額で手に入る。早速それをオーダーして、正月にでも読んでみるとするか。正月早々死体の本とは、縁起でもないが (笑)。

by yokohama7474 | 2015-12-11 00:23 | 美術・旅行 | Comments(0)

Foujita (小栗康平監督)

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このブログではこれまでにも何度か、画家 藤田 嗣治 (ふじた つぐはる 1886 - 1968) について触れる機会があった。私にとっては、日本と西洋の関係を考える上でも大変重要な画家であり、まあそれほど構えずとも、その繊細な作風に心惹かれると単純に言ってしまってもよいであろう。この映画は、その藤田が署名にも使った Foujita という名前の表記を題名にしており、文字通り藤田の人生の二つの側面を描く作品で、主演はオダギリ・ジョー、脚本・監督は小栗康平だ。まずは、本当の藤田の写真、そしてこの映画におけるオダギリ・ジョー演じる藤田の写真をご覧頂こう。
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小栗の作品と言えば、高校生の頃、現国の教師に、「今晩テレビで放送があるから是非見るように」と薦められて見たデビュー作「泥の河」しか知らない。暗い内容であったが、そのセピア色の静謐な画面では人間の営みのやるせなさが淡々と描かれており、「貧乏くさいなぁ」と思いつつ (笑)、なんとも心に残る映画であったことは間違いない。だが、その後の「伽倻子のために」「死の棘」「眠る男」「埋もれ木」は見る機会なく、彼の 6本目の作品である本作は、私が初めて劇場で見る小栗監督の映画であるのだ。30年以上経っても未だにはっきりと記憶している「泥の河」で見られた静謐さが、この映画においても全編を貫いていることが印象深い。冒頭の数ショットは動きのない風景 (パリの藤田のアトリエ) であるが、かつての小津映画すら想起させる画面の安定感と静けさ、そして何よりも、いるべきものがそこにいない神秘感を感じさせるのだ。そして約 2時間の全編のうち、前半は華やかな 1920年代パリ、後半は何もかもが戦争に巻き込まれている 1940年代の日本が舞台である (従ってオダギリ・ジョーの台詞の半分はフランス語だ)。中間部ではパリの喧騒や軍部の焦燥感が描かれるが、最後の部分ではタルコフスキーすら思わせる水の流れが現れ、戦争を浄化するような、やはり非常に静謐な画面に回帰して終わる。ここで描かれているのは藤田の画業の全貌ではなく、その評価についての説教じみた箇所もなければ、画家自身がが独白で胸中を吐露するシーンもない。従ってこれは決して藤田の伝記映画ではなく、藤田という芸術家に対する小栗監督のオマージュと呼ぶべきだろう。

とは言いながら、やはり藤田の芸術を愛する者にとっては、映画を見ながらやはり藤田という画家がいかなる人であったのか、またいかなる思いで絵を描き続けたのかということを考えてしまうのもまた、無理からぬことだろう。11月22日の記事で藤田の戦争画について採り上げたが、この映画においては、戦時中の彼の行動が淡々と描かれていて、物事を考えるヒントになる。ひとつのシーンで藤田とともに出て来る画家は宮本三郎。彼は山下奉文がシンガポールを占領したときに英国の司令官パーシヴァルと講和交渉をした際の絵で有名だ。
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この絵は戦争画として最も有名なものであるし、この映画の中でも、模範的な戦争画として軍部から称揚される。だが劇中の宮本と藤田たち自身は、一体戦争画として何を描くのべきなかについて、心の奥底では迷っている状況で描かれている。その時代の画家たちにとって、戦争画との関わりは様々だが、一見時流におもねていても、実際には持てる技術の発揮の場という思いが強かったのではなかろうか。ちなみにこの宮本三郎の作品だけを集めた小さな美術館が、世田谷美術館分館として東急九品仏駅近くに存在している。そこへ行くとこの画家のより本質的な特色を知ることができるので、戦争画のみで宮本をご存じの方には、一度行ってみることをお奨めする。あ、上記の戦争画は近代美術館の保管であり、その美術館には展示していないので念のため。

さて、前半のパリの喧騒とは異なり、この映画の後半は、ひたすら沈んだ色調だ。室内でもライティングをせずに撮影しているシーンがほとんどで、暗さに段々目が慣れていくような気がする。そして舞台は、藤田が疎開する日本の郊外になる。史実では疎開先は相模湖近くの藤野村だそうだが、この映画ではどこか架空の村のような印象だ。ラスト近く、切り通しにおける奇抜なライティングの変化などを使って、小栗は藤田を幻想の土地に踏み込ませる。そこは現実か夢かも分からない霞のかかった山の中で、キツネが人をばかすのである。海外での盛名も画家としての矜持も、また巧まずして身に着けた処世術も、そこではただ霞の中でどこかに消えて行ってしまう。そこでの藤田は、なんとも幸福そうなのである。
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音楽を担当している佐藤聰明 (さとう そうめい) は、昔アジアン・テイストのレコードなど聴いたことがあり、いわゆる現代音楽の作曲家としても、堅苦しい芸術然としたものでない、むしろサブカルチャー的な前衛音楽の作り手というイメージがある。この映画では、武満徹を思わせる静謐な弦の響きが見事だ。大概この種の映画では、音楽に関して東京コンサーツという団体がクレジットに出て来るものだが、今回もあたりだ。これは音楽マネジメント会社のようですな。

このように、なかなかに手の込んだ作りであり、芸術的雰囲気は大変よいのだが、強いて多少の違和感を挙げるとすると、実在の芸術家を採り上げる際には、何かもうひとつ、その芸術家の精神に肉薄する方が感銘が深まるのではないか。藤田の目は狂乱の 1920年代パリをエトランゼとしてどう見ていたのか。戦争の歯車に巻き込まれる 1940年代の日本を当事者としてどう感じていたのか。この映画はそれらの点において語ることがなく、あまありにもイマジネーションに頼り過ぎのようにも思われる。それから、前半のパリのシーンに出て来る女優たち。私が大変興味を持っていて、以前伝記まで読んだことのあるキキの役にしても、藤田の伴侶たちの役にしても、残念ながら輝くものを感じない。プログラムを調べると、それなりに実績のあるちゃんとした役者さんたちのようであるが、やはり言葉の壁があったのか、それぞれの役柄に求められる個性を感じることができない。後半に出て来る中谷 美紀が素晴らしい出来なので、その対照でよけいそのように感じたのかもしれないが。

最後に、これぞ藤田という作品をご紹介しよう。この映画の中に製作風景の出て来る「五人の裸婦」(1923)。東京国立近代美術館所蔵である。
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これは藤田がパリのクリュニー美術館にある有名な一角獣のタペストリーからヒントを得て、五感のそれぞれを表す女性たちを描いたもの。このタペストリーについては、この映画の中でも、それを鑑賞する藤田が描かれるし、このブログでも 6月21日の記事で触れている。興味深かったのは、映画の中で藤田は、モデルを前にしながら、手元では歌麿の浮世絵を見ながら筆を走らせていたことだ。彼がパリで大人気を博したのは、西洋にはなかったこの女性の白い肌の表現によるところが大きい。もちろん日本的なイメージとしての浮世絵に倣うという作戦はしたたかだと言えるが、その乳白色をいかに出したかという点は長らく謎であったらしい。ところが、やはり藤田の作品を多く所蔵する箱根のポーラ美術館に行った際に、その色の秘密についての解説展示を見ることができた。どうやら、ベビーパウダーを絵の具に混ぜていたらしいのだ。さーすが、女性の美を追求する高級化粧品会社の美術館の展示であると感心したものだ (笑)。決定的な証拠は、あの偉大な写真家、土門 拳が撮った藤田の製作現場の写真に写っていたことらしいので、この藤田という人、自分の企業秘密に関して、神経質に見えて意外と大らかだったのかもしれない。まだまだ知らない藤田の顔が沢山あるので、この映画は映画として評価しつつも、藤田の絵画作品は絵画作品として坦懐に見ることで、自分なりの理解を深めたいと思う。

by yokohama7474 | 2015-12-09 00:39 | 映画 | Comments(2)