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カラヴァッジョ展 国立西洋美術館

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日伊国交樹立 150年を記念して行われている展覧会のひとつ、カラヴァッジョ展。ダ・ヴィンチ、ボッティチェリに続く名前としては申し分ないビッグネームだ。だが、会場に掲げられている駐日イタリア大使のメッセージには、「このイタリアの巨匠はまだ日本ではそれほど知られていないかもしれませんが」とある。いやいや大使、日本を侮って頂いては困ります。過去 30年くらいの間にこの画家の名は広く知られるようになっているはず。有名ですよ、有名。だが、実際にこの画家の個展となるとさすがに多くなく、私が知る限りでは、2001年に東京都庭園美術館で開かれた展覧会くらいではないだろうか。その意味で、この記念の年に幾つかの大変貴重な作品を含むこの展覧会が開かれる意義は大きいだろう。

ミケランジェロ・メリージ・カラヴァッジョ (1571 - 1610) は、いわゆるバロック期の画家として分類されているが、一言で言ってしまうと、その光と影の効果を最大限に利用した劇場的な絵画は、それまでに、いやそれからも、誰もものしたことのない強烈なもので、その独創性はまさに比類ない天才を示していよう。私自身、この画家との出会いをはっきりと思い出すことはできないが、恐らくは英国の鬼才デレク・ジャーマンが監督した「カラヴァッジョ」という映画ではなかったか。調べてみるとこの映画の制作は 1986年。ちょうど私は学生で、深く尊敬する美術史家の若桑みどりが大学の講師であったので、その講義において主としてマニエリスム (定義としては後期ルネサンスからバロックへの移行期と言えようか) を学んでいた頃でもある。若桑先生は惜しくもその後亡くなってしまったが、私の手元にある何冊かの彼女の著作のうち、「薔薇のイコノロジー」という代表作にも、カラヴァッジョのことが少し出てくる。決闘によって殺人まで犯してしまい、その後逃亡生活を送った人なので、かなりの荒くれ者というのが一般のカラヴァッジョの評価であろうが、当時、NHK の日曜美術館で、「この画家はどんな人だったのでしょうね」というアナウンサーの問いかけに、若桑先生がこともなげに「普通の人だったと思いますよ」と答えていたのが強く印象に残っている。人殺しといったエキセントリックな面にだけ光を当てると、返ってカラヴァッジョの歴史的意義に曇りが生じるという信念をお持ちであったのだと思う。この画家とは、先入観を排して正面から向き合わないといけない。
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さて今回の展覧会であるが、カラヴァッジョの作品が 11点展示されていて、残りはカラヴァジェスキと呼ばれる追随者の作品が主だという。うーん。上にも書いた通り、この画家はまさに唯一無二の天才なので、追随者の作品を見る意味が果たしてどのくらいあるのだろうか・・・というのが最初の印象。展覧会には総数で 51点が展示されており、私の最初の印象は、展覧会を見終わったときには、率直なところ当たったと申し上げておこう。だが、ことはそう単純ではない。カラヴァッジョ以外の作品にもいくつか大変興味深いものがあったので、追って触れることとしよう。

今回来日している 11点には、未だ初期の、スタイルを模索している時代の作品も含まれる。例えばこの「女占い師」(1597年) は、画家の 20代の作品。後年のドラマ性はないが、街のどこにでもいる人をモデルにした雰囲気で、しかも題材はカトリック国イタリアとは思えない世俗的なものだ。今回展示されているのは、ローマのカピトリーノ美術館所蔵のもので、カラヴァッジョ真筆と判断されるまでには時間がかかったという。同じ構図の作品がルーヴルにも所蔵されている。
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この「トカゲに噛まれる少年」(1596 - 97年頃) も初期の作品ながら、美しい花の間に潜んでいたトカゲに手を噛まれた少年の様子は、なんらかの比喩としての教訓があるのではないかと思われるほど怪しい。イッテッテ。
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この雰囲気はカラヴァッジョ絵画のひとつの典型となろう。上に掲げたポスターになっている二つの作品、つまり「果物かごを持つ少年」(1593-94年頃) と「バッカス」(1597-98年頃) も、この系列に属する絵画である。あえて言及するまでもなかろうが、かねてよりその同性愛的な嗜好を云々されるカラヴァッジョ (これこそまさに、エイズでこの世を去ったデレク・ジャーマンの生涯のテーマでもあった) の本領発揮の作品と言えるだろう。とにかく、同性愛者でない者までうっとりさせるということは、これらの絵画には時空を超えた力があるということだ。

それからこの絵は、私としては子供の頃に読んだ妖怪図鑑のメドゥーサの欄に載っていたのを見て、怖い怖いと思っていたもの。この禍々しい鮮血のリアルさ、見開いた目に浮かぶ恐怖心と恍惚、我関せずとのた打ち回る蛇たち。・・・だが実は、今回展示されているのは個人蔵の珍しい作品であって、1990年代までは知られていなかった作品らしい。有名な同じ構図の作品はウフィツィ美術館の所蔵されている。いやぁ、貴重な作品を見ることのできるチャンスであったわけだ。しかも赤外線撮影によって、当初の目の位置や表情が異なっていたことも判明している。天才の試行錯誤の軌跡である。
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そして画家はその後、1606年に決闘で人を殺めてしまい、逃亡生活に入るのだ。その 1606年に書かれた「エマオの晩餐」。ミラノのブレラ美術館の所蔵になる。
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ここで遂に、彼特有の光と影のドラマが姿を現す。現代に暮らす我々は、映画において様々なライティングによるドラマティックな映像に慣れているが、今から 400年前、日本で言えば江戸時代最初期に、これだけのドラマ性を持った作品がイタリアで生まれていたことに感嘆の念を禁じ得ない。

そして今回の展覧会の目玉である、同じ 1606年に描かれた「法悦のマグダラのマリア」。これはつい最近カラヴァッジョの真筆と認定され、この展覧会が世界初公開である由。天才がいよいよ並ぶ者のない天才になったことを思い知る。分かったような解説は忘れ、ただひたすらこの絵の前で時間を忘れよう。
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この作品には 15くらいの模写があるとのことだが、近年発見されたこの作は、画家が殺人を犯した年に書かれ、その後の逃亡生活を通じて最後まで手元に取ってあった作品だという。この鬼気迫るただならぬ雰囲気には、天才が命をかけた証を見て取ることができる。長い西洋絵画の歴史においても、そのような作品はそうそうないと思う。と言いながら私の頭の中には、この凄まじい絵に匹敵する法悦を表した彫像が浮かぶ。そう、やはりまぎれもない天才であった彫刻家ベルニーニの「聖テレジアの法悦」(1652年) である。どうだろう。ポーズも表現力も、よく似ているではないか。あ、この作品は教会の中にあるので、今回の展覧会には来ておりません。あしからず。
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今から 20年ほど前、ローマで観光しまくったことがあり、その際にはもちろんカラヴァッジョの祭壇画もあれこれ巡り歩いたが、ベルニーニの彫刻の数々にも舌を巻いたものだ。今このカラヴァッジョ展を見て、改めてバロック絵画の美学の継承を思う。ベルニーニは 1598年生まれだからカラヴァッジョより一世代下。それまで人類が持ち得ていなかった情念の表現は、遥か 450年や 500年を経ても、未だに生命力を保っているのである。

さてここからは、この展覧会で展示されている、カラヴァッジョ以外の画家の作品を見てみよう。ここでは「カラヴァジェスキ」という名称で、カラヴァッジョの追随者という扱いがなされているが、ところがところが、中には注目に値する画家が何人もいるのである。まずこれは、「ハートフォードの静物の画家」と呼ばれる逸名の作者による、「戸外に置かれた果物と野菜」。今となっては信じがたいが、以前はカラヴァッジョの作品とされていたことがあるという。それは、この作品を所有していたガヴァリエーレ・ダルピーノという画家にカラヴァッジョが一時期師事していたことによるらしい。うーん、それにしても果物や野菜が異様な生命力を持つ不思議でシュールな絵である。
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そしてこれは、カラヴァッジョの友人であり、彼から多大な影響を受けたとされる、オラツィオ・ジェンティレスキ (1563 - 1639) による「スピネットを弾く聖カエキリア」。
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まるで近代の作品を思わせるようなリアリティである。バロックから近代までの距離は、意外に短いのかもしれない。そしてこの画家の娘が、当時としては極めて珍しい女流画家、アルテミジア・ジェンテレスキ (1593 - 1654 以前) である。この展覧会には、彼女の手になる「悔悛のマグダラのマリア」が展示されている。
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この裸体の尋常ならぬなまめかしさは、これはもう反則である (笑)。このような反則は、やはりカラヴァッジョという先達がいたからこそ可能になった表現であると思う。この女流画家の生涯が映画になっているのをご存じだろうか。1998年日本公開の映画、その名も「アルテミシア」。
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今手元にこの映画のプログラムを持ってきて確認すると、監督は女流のアニエス・メルレ。主演はヴァレンティナ・チェルヴィ。いずれもその後聞かない名前であり、この映画自体もそれほど印象に残っているわけではないが、歴史の流れの中で血を流しながら芸術に身を捧げた芸術家への敬意は、常に持ち続けているつもりの私である。

それから、これも非常に珍しい絵である。マッシモ・スタンツィオーネ (1585 - 1656) の手になる「アレクサンドリアの聖カタリナの頭部」。この死者の首のリアリティはどうだ。恐らくは画家が実際に目にした生首の写生によるものではないか。カラヴァッジョも切断された首をあれこれ描いたが、そこにはまだロマン性というか空想癖というか、現実と異なる雰囲気が常にあった。だが、彼が時代にもたらした絵画表現上の衝撃は、このような仮借ない表現にまで発展してしまったのだ。
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そしてこれも非常に珍しい作品。タンツィオ・ダ・ヴァラッロ (1582 頃 - 1633) の手になる「長崎におけるフランシスコ会福者たちの殉教」。ミラノのブレラ絵画館の所蔵になるものだ。
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その題名の通り、1597年に秀吉の命によって長崎で処刑された 26人のキリスト者の殉教を描いたもの。実際の出来事から 30年以上経ってからの制作であるようだが、遠く離れた極東の地での殉教は、カトリックの人たちに訴える出来事であったことが知られる。うーん、それにしてもこのアジア人のようでもありトルコ人のようでもある迫害者のキッチュさには、それが真摯であればあるほど、何やら異様な感じが出ている。今回の展覧会の図録にある解説を見て、この作品がジャック・カロの 1627年の同主題の版画に基づくものであると知った。うーむ、カロの版画は以前の展覧会ですべて見たと思っていたが、これは記憶にない。調べてみるとこんな作品だ。なるほど似ている点もあるが、この油絵は、より一層悲惨な情景となっている。このようにして歴史の悲惨は記録されて行くものなのか。
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この展覧会ではその他、ジョルジュ・ラ・トゥール (1593 - 1652) による「煙草を吸う男」も展示されているが、ここまでの才能になると、カラヴァッジョの影響だけでなく、その画家自身の天才的ヴィジョンが結実したものであると実感される。
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このように、様々な切り口からカラヴァッジョの美術史上における功績を知ることができる。ほかの誰にも似ていない天才であったがゆえに、彼が地球上に存在した 38年の間、この男はあたかも空から降ってきて地表に激突した隕石であるかのように、歴史を変えたのである。近年、彼の墓が発見されたというニュースがあったが、そうだ。この画家は生身の人間。死して屍をこの世に残して行ったのである。人類がこのような画家を持ち得たことに感謝しよう。

by yokohama7474 | 2016-04-17 22:32 | 美術・旅行 | Comments(2)

ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2016年 4月16日 東京オペラシティコンサートホール

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東京交響楽団 (通称「東響」) と現在の音楽監督、英国の名指揮者ジョナサン・ノットによる演奏会をこのブログでも何度かご紹介して来ているが、今回もいかにもノットらしい凝りに凝ったプログラムである。私にとっては必聴の内容。なぜならば、以下のような曲目であるからだ。
 リゲティ : アトモスフェール (1961年作)
 パーセル : 4声のファンタジア ト調Z.742、ニ調Z.739
 リゲティ : ロンターノ (1967年作)
 パーセル : 4声のファンタジア ヘ調Z.737、ホ調Z.741
 リゲティ : サンフランシスコ・ポリフォニー (1973-74年作)
 リヒャルト・シュトラウス : 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30

映画好きの方なら一目見てピンと来るであろう、最初のリゲティの「アトモスフェール」と最後の「ツァラトゥストラ」はともに、スタンリー・キューブリック監督の不朽の名作映画「2001年宇宙の旅」で使用されていた曲だ。
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プログラムに掲載されているノットと音楽評論家、舩木篤也の対談によると、もちろんノットはそれを念頭に置いて選曲したとのこと。ただその前に、現代における大作曲家のひとり、ハンガリー出身のジェルジュ・リゲティ (1923 - 2006) の音楽をたくさん聴かせたかったが、それだけでは成功は難しいので、この映画との絡みで「ツァラトゥストラ」との組み合わせを考えた由。なるほどそういうことだったのか。リゲティはもちろん現代音楽のビッグネームではあるものの、一般の音楽ファンに浸透した名前とは言い難い。よって今回の演奏会は、ノットの苦心のプログラミングにも関わらず、実際には空席の目立つ状況となってしまった。だが、それにめげることなく果敢な演奏を展開したノットと東響には、一部の熱心なファンからブラヴォーの声がかかるという、素晴らしいコンサートとなったのである。

上記にツラツラと曲名を記載したが、ラストのツラツララストならぬ「ツァラトゥストラ」以外、つまり前半の 5曲は連続して演奏された。要するに、3曲のリゲティの代表作の間にバロック時代の英国の作曲家、ヘンリー・パーセル (1659 - 1695) による作品を 2曲ずつ 2回に分けて、古楽器であるヴィオラ・ダ・ガンバの四重奏による演奏を挟んだというユニークな構成。ヴィオラ・ダ・ガンバの合奏は、神戸愉樹美 (かんべ ゆきみ) を代表とする合奏団。
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日本にこのような専門的なヴィオラ・ダ・ガンバの合奏団があるとは知らなかったが、30年以上活動を続けている団体であるそうだ。なんともたおやかな響きで、大変耳に心地よい。今回の演奏で彼女らはステージ後方上部のオルガンの横、向かって左側に陣取っており、オケがリゲティを演奏し終わると舞台の照明が落ちて、彼女らのいる箇所に照明が当たるという演出であった。このリゲティとパーセルの組み合わせはなんとも異色であるが、要するに双方ともポリフォニー (複数の声部が同時進行する音楽) を駆使しているという共通点がある。20世紀の、不安に満ち混沌とした音の密集によるポリフォニー (作曲者自身の言葉によれば、ミクロポリフォニー) と、古雅の極みと言えるバロック音楽の対比によって、そのコントラストがくっきりと浮かび上がることとなった。いわば、熱いサウナの後に水風呂に入るようなもので、水風呂に入ることでサウナの熱さを再度実感するという効果を感じることになった。関係ないが、これは水風呂を浴びるカピバラ。
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さて、リゲティの音楽であるが、私もこれまでにあれこれ聴いてきているものの、決して耳障りのよいものではない。ある意味では、戦後の前衛音楽のひとつの特徴である晦渋さを常に纏った音楽を書き続けたとも言えるのではないだろうか。但し、今回演奏された 3曲や「メロディエン」という代表作には、ただ耳で音楽だけ聴いたときには分からない面白さが実演にはあるのだ。このブログでは昨年 11月23日の記事で、やはりノットの採り上げたリゲティの曲について触れたが、それはまだ特殊作品の様相を呈した曲であった。オケがキュウキュウギュルギュルと唸る (?) リゲティ独特の美学は、今回の 3曲ではまさに全開である。不定形のアメーバのような印象もあるが、ただ実際に音が鳴る場に居合わせると、驚くほど表現力のある音楽なのだ。中欧の民族性の遠いエコーを感じる瞬間もある。これがリゲティの肖像だ。笑みなど浮かべて、意外と温厚そうな人でしょう (笑)。カピバラにも負けてはいない。
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今回、ヴァイオリンの左右対抗配置を採り、大きな楽譜を譜面台に置いて指揮棒を取ったノットであるが、その指揮ぶりは極めて明確かつ単純明快。そのような棒さばきから出てくる音であるゆえ、本来の複雑さを備えたまま、どこかに懐かしさがある、あえて言えば美しい音楽になっていたように思う。そうであるからこそ、途中に挟まれたヴィオラ・ダ・ガンバの合奏の妙なる響きの効果がまた絶妙であったわけだ。前半は通しで 1時間くらいを要したが、終了後には客席からのブラヴォーがかかり、オケの面々もほっとした笑顔。そして、演奏会の前半にしては極めて珍しいことだが、起立を促す指揮者に対してオケが椅子に座ったまま指揮者に拍手を送るということになった。東響の演奏能力は今やかなりの水準に達していて、それはノットが音楽監督に就任してからますます上がっていると言えると思う。あ、それから、ポリフォニー音楽を並置するだけなら、ほかのバロックの作曲家でもよかったわけだが、ここでノットがパーセルを選んだのは、もちろん彼の祖国の音楽ということもあろうが、私の勝手な勘繰りでは、やはりキューブリックの代表作「時計じかけのオレンジ」で、パーセルの「メアリー女王の葬送音楽」をワルター・カーロス (その後性転換してウェンディ・カーロスとなった) がシンセサイザーにアレンジした音楽が使われていたことによるのではないか。この演奏会の雰囲気には不気味に合った選曲であったと思う。

そして後半の「ツァラトゥストラ」は、申し分のない名演となった。前半のリゲティの嵐を無事通り過ぎたオケの面々の解放感だろうか、このスペクタキュラーな曲に対して全力で取り組む姿には、凄まじい集中力が感じられたし、リゲティの響きが耳に残っているので、過去を向いたシュトラウスではなく、現代音楽につながるシュトラウスを聴くことができたように思う。誰でも知っている堂々たる導入部からして気合充実。そこから始まる 35分間に目まぐるしく移り行く音楽的情景が、ノットと東響の共同作業によって鮮やかに描かれて行く。ノットは丁寧な指揮ぶりながらも前へ前へと進める推進力が凄まじく、指揮者自身が音楽にのめり込んで行く様を目撃するのはなんとも刺激的で、何度か鳥肌立つ瞬間も訪れた。本当に素晴らしい演奏であった。ただ、この曲にはトランペットの難所が多く、冒頭のファンファーレこそ、「展覧会の絵」とかマーラー 5番のようなソロではなく、4人で吹くのであるが、後半に出てくる、「ハイ、どうぞ」とばかりにうねる弦楽器と甲高いピッコロの上をソロトランペットの高音が響き渡る箇所などは、奏者にとっては、いかにプロであっても心臓バクバクではないかと思う。今回はそのような細部で若干の課題が残りはしたものの、大したことではない。例えばカラヤンとベルリン・フィルの絶頂期のライヴの FM 放送でさえ、冒頭のファンファーレに固唾を飲んで聴き入っていると、トランペットのうち 1本がプゥッ、というなんとも気の抜ける音を出していたのを覚えている。重要なことは細部の不備ではなく、大きな音楽の流れなのであって、今回の演奏には実に素晴らしい流れがあった点、大変に感動的であった。聴いているうちに上を見上げると、そこにあるホールの反響板が、「2001年」のモノリスのように見えてきたものである (笑)。
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ジョナサン・ノットとても、決して万能の指揮者ではない。だが、このようなプログラムではまさに面目躍如である。彼の存在は確実に東京の音楽シーンを熱く彩っている。今後ますます期待が募るのを抑えることができないのである。
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by yokohama7474 | 2016-04-17 00:13 | 音楽 (Live) | Comments(0)

東京・春・音楽祭 ワーグナー作曲 楽劇「ジークフリート」演奏会形式 (マレク・ヤノフスキ指揮 NHK 交響楽団) 2016年 4月10日 東京文化会館

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このブログの記事でもご紹介した、3月16日のリッカルド・ムーティ指揮による日伊国交樹立150周年記念オーケストラのコンサートによって開幕した今年の東京・春・音楽祭。一般的な知名度は分からないが、大変規模の大きい音楽祭で、上野地区を舞台に 50以上の大小のコンサートが開かれる催しなのである。私自身、全体のプログラムを見ながら、できればあれもこれも聴きたいなぁと思うのであるが、なかなか時間の捻出には苦労し、どうしても優先順位をつけざるを得ない。そして今年も、音楽祭の目玉のひとつであるこのシリーズだけは聴きに行かないわけには行かない。2014年に始まったワーグナーの大作オペラ、「ニーベルングの指環」の第 3回目、楽劇「ジークフリート」の公演である。指揮を取るのは 1939年生まれ、今年 77歳を迎えるポーランドの名指揮者、マレク・ヤノフスキ。
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この音楽祭では、ヤノフスキと、名実ともに日本を代表するオーケストラ、NHK 交響楽団 (通称「N 響」) との協演で、毎年 1作ずつ、このワーグナーの「指環」(全 4部作) を演奏しているのである。但し、通常のオペラの舞台上演ではなく、オーケストラがステージに上がり、歌手がその前で出入りしながら歌う、演奏会形式だ。舞台の奥には大きなスクリーンがあって、CG 映像が流れているが、抽象的なものではなく、実際の情景をなぞらえたもので、本当に最小限の情報が音楽に加わるのみである (その演出は田尾下 哲が担当。彼は先般、神奈川県民ホールでの黛敏郎の「金閣寺」を演出していた)。ワーグナーは、スタイルを確立して以降の自らの作品を、歌劇ではなく楽劇と名付けたが、その意味は、オーケストラが主体で奏でられる音楽によって劇が進行するからである。よってここには、アリアと呼べるものは基本的に存在しないし、歌手が拍手喝采を受けるためのオケの休止もない。始まったら最後、1幕 70 - 90分の間、停まることなく音楽が渦巻き、歌手の肉体は歌唱とともに演技に酷使され、聴いている方も否応なくそこにつきあうこととなる、ワーグナー独特のド S な世界。だからこそ、このような演奏会形式でじっくり音楽と対峙することも、作品の真価を知るための有効な手段となる。但し、オケが優秀であればの話だが。その点、その歴史において数々のドイツの名匠 = 極め付けのワーグナー指揮者を指揮台に頂いて来た N 響ほど、この舞台にふさわしい日本のオケはないであろう。しかもこのシリーズ、必ず客演コンサートマスターを迎えている。それは天下のウィーン・フィルのコンサートマスターで、日本でもよく知られたライナー・キュッヒルだ。
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先にこの点だけ書いてしまうと、これまでの 2回にも増して、今回のキュッヒルの貢献は大きかったと思う。彼の豊麗かつ独特のゆるさのあるソロ・ヴァイオリンは、まさにひとりウィーン・フィル。この「ジークフリート」では、森のささやきのシーンでソロ・ヴァイオリンが入るが、その変わらぬつややかな音にほれぼれした。もちろん、ソロにとどまらず、この休憩を含めて 5時間を要する超大作のオーケストラ・パートを、素晴らしい力で彼が牽引したのだ。N 響が燃えていたのは、もちろん一義的には指揮者の功績であろうが、このキュッヒルの貢献も大であったことは明らかだ。実際、今回の演奏によって、このオペラ全体を通じて弦楽器は本当に休む間もないことが視覚によって実感できたし、改めて「指環」のオーケストラ・パートの重要性を再認識した次第。そしてヤノフスキの的確かつ、時にごくわずかテンポを揺らす有機的な指揮に、N 響が本当によくついて行ったと思う。素晴らしい名演であった。

歌手陣も、過去のプログラムと照らし合わせてみると、アルベリヒのトマス・コエニチュニー、ヴォータン (さすらい人) のエギルス・シリンス、ファフナーのシム・インスン (彼は「ワルキューレ」ではフンディングだった) 等、シリーズに一貫して出ている人たちが多い。特別に有名な歌手は今回は出ていないものの、経歴を見ると、それぞれに世界的に活躍している。特に題名役のアンドレアス・シャーガーは、バレンボイムの指揮のもとスカラ座で「神々の黄昏」のジークフリートを歌った実績があり、チョン・ミョンフンが東フィルで「トリスタンとイゾルデ」を採り上げたとき (私はどうしてもチケットが入手できずに断念したが)、トリスタンを歌ったらしい。昨年末のバッティストーニ指揮東京フィルの第九もよかったが、今回も素晴らしい出来で (最後にはさすがにほんのわずかの息切れを感じたものの、人間だから仕方ない 笑)、これからますます活躍の場を広げることであろう。
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とにかく、演奏の質は非常に高く、このシリーズでも白眉であったと思われるが、聴衆の方にも余裕が見え、さすが東京のワーグナーファンは耳が肥えているなという感じ。これはきっと演奏者も感じたことではないか。よい演奏では演奏者と聴衆の間に相互作用があると思うが、今回はそれが実際に起こったと思う。例えば、第 3幕開始前、オケのチューニングを待つタイミングで、誰かが 2回立て続けに大きなクシャミをしたのだが、会場のあちこちから笑いが漏れたのだ。それだけ聴衆もリラックスしていたということだろう。演奏の成功がそのような空気を生み出していたとも考えられる。

さて、指揮者ヤノフスキであるが、今年と来年、ワーグナーの聖地、バイロイトでこの「指環」を指揮することになっている。確認していないが、多分バイロイト・デビューであろう。昨年 8月に私が現地で見た、フランク・カストルフ演出、キリル・ペトレンコ (ベルリン・フィル次期音楽監督) 指揮の演奏は、このブログでも現地で記事を書いたが、まあそれはそれは、衝撃の演出であって、申し訳ないが私はもう二度と見たくない (笑)。ペトレンコの降板は、音楽監督を務めるミュンヘン・オペラのスケジュールとの兼ね合いという説明であるようだが、本音のところは演出に辟易したということがあっても全く不思議ではない。ただ、そんな演出ではあったがオケの鳴りには凄まじいものがあって、さすがバイロイトと唸ったものだ。今年からヤノフスキが指揮者となっても、やはり同じように説得力溢れる音楽と、呆れるような過激な演出という組み合わせになるのであろう。このヤノフスキにとって、「指環」は特別な曲であるはずだ。というのも、彼のレコーディング・デビューがこの作品であったからだ。未だ東独時代のシュターツカペレ・ドレスデンを指揮してデビューした無名の若手指揮者であったが、やはり「指環」の録音で名を上げたショルティの再来という宣伝もあったと記憶する。だが、その録音が世界を席巻したというイメージはなく、ヤノフスキはどちらかというと地味な指揮者として現在に至っている。だが、今にして耳にする彼の指揮ぶりには、もはやドイツの巨匠の雰囲気が漂っているのである (ポーランド人だが若い頃からドイツで生活している)。従って、これからが本当に楽しみな指揮者と言えるだろう。今回会場で売られていた CD で、現在の手兵であるベルリン放送響とも、この「指環」全曲を含む数々のワーグナーを録音していることを知った。実際、バイロイトのライヴ盤以外で 2種類の「指環」の全曲盤を録音した指揮者は、バレンボイムを例外とすると、ほかにいないのではないか。素晴らしいことである。

ちょっと思い立って、レコード芸術誌が毎年付録として作成している、その年に国内で発売された録音・録画をすべてまとめた「レコード・イヤー・ブック」を引っ張り出してみた。私の手元には 1980年以降のものが揃っているが、最近では年々薄くなっているのは致し方ない (笑)。ヤノフスキの「指環」の第 1弾「ラインの黄金」は 1982年に発売されている。「指揮のヤノフスキは現在最も注目を集めているポーランドの新進」と書いてある。
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そして全 4部作の発売は 1984年。なになに、「大作『リング』の CD での初の全曲盤である」とな。歴史を感じますなぁ (笑)。
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そんなわけでヤノフスキにはこの夏、奇天烈な演出に負けない立派な音楽を期待したいと、心から思います!!

by yokohama7474 | 2016-04-11 00:53 | 音楽 (Live) | Comments(2)

マウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル 2016年 4月 9日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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現代のピアノ界において誰もが認める最大の巨匠は、言うまでもなくイタリア人のマウリツィオ・ポリーニ (1942年 1月 5日生まれ) である。今年既に 74歳になったということだ。なに? ポリーニが 74歳??? にわかには信じがたい。私が彼の生演奏を初めて聴いたのは 1986年。ついこの間かと思いきや、なんと。ちょうど 30年前である。NHK ホールでの、「青少年のためのコンサート」と称した低価格のコンサートであった。なにせ彼のチケットの値段は破格であって、その辺の外来オーケストラよりも遥かに高い。今手元に当時のプログラムを持ってきて、その青少年のためのコンサートのチケットが 3,000円均一であったのを確認。30年前とはいえ、これは安い。だが、30年経ってもあまり進歩のない私は、今回も最も安い席であるステージの裏側のチケットをゲットして、ようやくこのコンサートに出掛けることができた (笑)。

いかにチケットが高いとはいえ、数年おきに東京にやってくる彼のリサイタルは、やはり万難を排して聴きたいものだ。先の記事でご紹介した、91歳でかくしゃくと指揮をするネヴィル・マリナーに比べると、70代にしてはちょっと老けているように見える昨今のポリーニ。
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私が前回彼を聴いたのは 2010年。既に 6年を経ており、その間に彼の盟友であったクラウディオ・アバドは世を去り、また彼が深く尊敬する大作曲家、ピエール・ブーレーズも、今年の 1月 5日に 90歳で亡くなってしまった。因みにブーレーズが死去した日は奇しくもポリーニの 74歳の誕生日。恐らくは、言葉にはできないいろいろな思いが彼の内部に渦巻いていることだろう。会場ではこのようなポリーニのメッセージが配布された。今回はリサイタル以外に彼の企画になる室内楽演奏会も 2回予定されており、そこではブーレーズ作品も演奏される。
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今回の曲目は以下の通り。
 ショパン : 前奏曲嬰ハ短調作品45、舟歌嬰ヘ長調作品60、2つのノクターン作品55、子守歌作品57、ポロネーズ第 6番変イ長調作品53「英雄」
 ドビュッシー : 前奏曲集第 2番

実は最初の発表では、ドビュッシーの代わりにシューマンのアレグロ ロ短調作品 8と幻想曲 ハ長調作品17が予定されていて、それらが前半に演奏されるはずであった。そしてショパンは後半、しかも一部曲目と曲順が違っていた。ピアニストの真意は分からないが、ロマン的、夢幻的なシューマンよりも、機知に富み音色の幅の広いドビュッシーの方が、ポリーニを聴くには適していると思うので、私としてはこの曲目変更を歓迎したい。しかもこのポリーニ、ドビュッシーの前奏曲集は、第 1巻の録音はあるが、第 2巻の録音はまだないようだ。第 1巻には「亜麻色の髪の乙女」「沈める寺」といった有名曲が含まれていて、そちらの方がポピュラーであるが、第 2巻も目まぐるしい変化に富んだ名曲。安い席とはいえ (笑)、大変に楽しみだ。もっとも今回の来日プログラムは 2種類で、ドビュッシーの前奏曲集第 2巻は、もうひとつのプログラムではもともと予定されていた曲目なのであるが。

ステージに現れたポリーニは、やはり少し年老いた感じがした。猫背になってしまったように見えるし、足取りもヨボヨボとして見えた。だがこの日の演奏、ある意味では変わらない輝かしいポリーニ、またある意味ではさらに深化したポリーニを聴くことになり、大変に感銘深いものとなったのだ。

ショパンの演奏では、すべて通して演奏するのかと思いきや、ほぼ 2曲ずつ終わる度に拍手を受けて一旦ステージから退出していた。体力的な問題なのかと少し心配になったが、出てくる音は我々のよく知っている、感傷のない、切れ味鋭いポリーニの音であって、その意味では持ち味が健在であったとはいえようか。だが一方で、以前のようなバリバリ弾くイメージは少し減退したようにも見える。曲の選択にもよるのであろうが、甘く華麗なサロン音楽を書いたショパンではなく、自己を厳しく見つめ、望郷の強い思いを譜面に書き連ねたショパンを感じることになった。そのようなショパン像を描くには、今のポリーニは孤高ともいえる高みに達しているのではないだろうか。舟歌など、以前から彼の演奏で聴くと、楽譜に書かれた音以上の引き締まったロマン性 (妙な表現だが・・・) が厳しく立ち現われるのであるが、今回もしかりであり、しかも、孤独感が以前よりも深まってはいなかっただろうか。もともと卓越した技術で世界を席巻した人が、その技術は克己心によって懸命に維持しながらも、従来から目指していた技術の先にあるものを、巧まずしてより明確に表現できるようになってきたと考えられるのではないだろうか。もちろん、前半最後に置かれた「英雄ポロネーズ」だけは華やかな技巧を誇示するように書かれているが、これも以前からそうである通り、ポリーニがショパンのポロネーズを弾くときの姿勢は、とても技巧の誇示というレヴェルではない、あえて言えば魂の飛翔のような燃焼力の高さを伴っていた。今回、決して彼の技巧が衰えたとは思わないし、そもそも彼自身が年齢による技術レヴェルの低下を甘受しているとも思わないが、技術など些細なことだとでも言いたげに聴こえたように思う。つまり、70代半ばにして、技術を越えた何かに孤独に迫るピアニストとして、新たな次元に達しつつある、そのような感銘を覚える演奏であった。

後半のドビュッシーは 12曲連続の演奏。圧巻という表現は少し似合わないが、1曲 1曲の丁寧な磨きこみに、聴衆は皆、固唾を飲んで聴き入ることとなった。「霧」「枯葉」「風変りなラヴーヌ将軍」「水の精」「花火」などという標題があれこれついているものの、ドビュッシーが仕組んだ音の交錯は、ロマン的な西洋音楽の範疇を越えて、多種多様な表現となって結実しているので、標題を過度に気にする必要はないように思われる。ポリーニの演奏は、技術的な破綻は皆無であることはもちろんだが、輝きはあるのに、同時にある種淡々としていて、近代音楽特有の前衛性と、それを現代に生きる我々が聴く意味を、改めて考えさせてくれるようなものであった。ドビュッシーは近代音楽の原点であり、いわゆる現代音楽の元祖でもあるわけだが、それから我々は既に 100年を経過してしまったにもかかわらず、未だにドビュッシーの音にドギマギしているようなところがありはしないか。ポリーニの指からは、ドビュッシーの先にいるブーレーズのポートレートも浮かび上がる。そう、このドビュッシーの視線には、「頼むよ、後世の人たち」という意味が込められているのだ。
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ポリーニの仕事は、それに対して「もちろんです。頑張っていますよ」と答えることだ。その姿にはしかし、やはり孤独がつきまとうのだ。ブーレーズは、「まあまあ、一緒に頑張ろうよ」と言っていたが、先に逝ってしまった・・・。
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終演後、最近では珍しくなった、ステージに花束を届けるファンも 2人いて、客席は大きな拍手に包まれた。そしてアンコールでもドビュッシーとショパンが 1曲ずつ。「沈める寺」と、バラード第 1番だ。今回の演奏会を要約するように、輝かしくまた繊細なタッチの向こうに、遥かな美と孤独を感じることとなった。これからポリーニはどこに向かうのであろう。同時代を生きる偉大な芸術家の姿を、これからもしっかりとフォローしたい。

ところで今回、開演前にステージの反対側から見ていると、主として女性たちが大勢ピアノの前に押し寄せて、何やら熱心に写真を撮っている。25分間の休憩時間にも同じことが起きていたので、ちょっと見に行ってみた。そうすると、ピアノの右側面、客席に面した側に見えるメーカー (Steinway & Sons) の社名の下に、何やら太い金色の文字のサインが。Fabbrini と読める。そして、現代に生きる人間の特権を活かし (?)、その場ですぐにネット検索すると、この方はポリーニ専属の調律師であるらしい。招聘元のサイトにもこんな情報がある。
http://www.kajimotomusic.com/jp/news/k=2440/

へぇー、私はこのアンジェロ・ファブリーニさんのことを恥ずかしながら全然知らなかったが、あれだけ多くの人が写真を撮りに来ていたということは、ポリーニ・ファンにとっては常識なのだろうか。ちょっとびっくりだ。中には、なんだかよく分からずに便乗で撮影した人もいたのでは・・・とはゲスの勘繰り (笑)。でも、皆さん熱心に写真を撮っていたにもかかわらず、その場で実際に調律をしている頭の大きな外人さんには、全く注意を払っていなかったようでしたがね・・・。カジモトのサイトでもシャイなので写真はないと書いてあるが、今検索して、若き日のポリーニとファブリーニの写真を発見。年は取っているが、確かにあの場で調律していた人ではないか。あ、それから、この写真のピアノにも、既に Fabbrini というサインが入っている。
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芸術家の孤独な作業の裏には、必ずこのような協力者がいるものだ。よし、これを覚えておいて、次回の公演では真っ先に写真を撮りに行くぞ!! 安い席から駆け付ける分、ハンディにはなるが・・・。

by yokohama7474 | 2016-04-10 10:29 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団 2016年 4月 9日 東京オペラシティコンサートホール

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サー・ネヴィル・マリナー (1924年 4月15日生まれ) の指揮に関しては、昨年11月28日の記事で、NHK 交響楽団との演奏会を採り上げた。今回の記事を書くにあたり、念のためと思って読み返してみたが、いや、これはまた率直に書いておりますなぁ (笑)。そこでのひとつのテーマは、現在 91歳の (そしてもうすぐ 92歳になる) このマリナーという指揮者の真価を知りたいということである。上に写真を貼ったチラシは、最近の演奏会ではかなり大量にばら撒かれていて、「91歳堂々来日」のコピーでなんとか集客をしたいという主催者の希望がよく表れていた。今回、マリナーと彼が創設したかつての手兵、アカデミー室内管弦楽団との日本での演奏会はこの 1回きり。でも、今回の会場での立ち話で耳にしたところでは、ほかにもマカオや香港 (?) などを含むアジア・ツアーの一環である模様。

ご存じない方のためにこのオケについて簡単にご紹介しよう。日本ではアカデミー室内管弦楽団という名称が定着しているが、英名は Academy of St.-Martin-in-the-Fields である。この St. Martin in the Fields は、恐らくは聖マルティノという聖人に因んだ教会なのであるが、ロンドンにその教会はあるはず。今、充分調べる時間がないが、ナショナル・ギャラリーに面するトラファルガー広場に、その名前の教会があったと記憶する。正しいか否か保証はしかねるが (笑)、私の知識の範囲では、そこを拠点とする室内管弦楽団 (別に部屋の中で演奏するという意味ではなく、室内楽的な小さい編成という意味。あ、念のためです。笑) である。私は昔からこの日本名に違和感を抱いているのだが、まあ確かに聖マルティノが誰だとかどこの教会に属するとかいったことはどうでもよいので、まあ、この名称でも目くじらを立てる必要はないのかもしれない。

マリナーは、1958年にこのアカデミー室内管弦楽団を創設。夥しい数のレコーディングを残し、1978年にはその音楽監督の地位を女性コンサートマスターのアイオナ・ブラウン (最近名前を聞かないが、どうしているだろうか・・・と思って調べたら、昨年逝去したらしい) に譲り、ミネソタ管弦楽団やシュトゥットガルト放送交響楽団という名門を率いた指揮者である。最近の彼はこんな感じ。90 を越えているとは思えないほど元気である。
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一方、今回のプログラムに載っている、設立当初のマリナーとアカデミーのメンバーたちの写真。見るからに勢いがあるではないか。
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この 60年近い結びつきの指揮者とオーケストラを日本で聴ける機会は最後であるとのこと。これは聴きに行く価値があるはずだ。今回の曲目は以下の通り。いかにもこのコンビのよさを出せるプログラムではないか。
 プロコフィエフ : 交響曲第 1番ニ長調「古典交響曲」作品25
 ヴォーン・ウィリアムズ : タリスの主題による幻想曲
 ベートーヴェン : 交響曲第 7番イ長調作品92

簡単に総括すると、なんとも聴きごたえのある、よい演奏であった。明らかにこのオーケストラはこの指揮者のために全身全霊で演奏をし、またある意味の鷹揚さをもってそれを操縦したヴェテラン指揮者の面目躍如たるものがあった。全体を通してテンポは概して速めで、プロコフィエフの終楽章やベートーヴェンの両端楽章では、昨今ではむしろ珍しいことに提示部の反復もなく、とにかく勢いを重視した演奏であったと思う。

プロコフィエフの「古典交響曲」は作曲者 26歳の若書きであるが、なんとも清々しい名作だ。私はマリナーとアカデミーによるこの曲のレコードを学生時代から持っていた (メインはビゼーの交響曲であったと記憶する)。本当に楽しい曲であるが、昔から録音では散々聴いてきたこのオケが現在でも高い水準を保った楽団であることを実感できる、なんとも楽しい演奏であった。楽員の間からも目配せや笑みのこぼれる演奏は、日本のオケではまだほとんど聴くことができない。英国らしいウィットということなのかもしれないが、管も弦も、この曲の持ち味を最大限生かすことを目標としているようで、まさにかゆいところに手が届く演奏だった。

2曲目のヴォーン・ウィリアムズの曲も親しみやすい名曲。私はいつもこの曲を聴いて、久石譲の手になる「風の谷のナウシカ」の音楽を思い出してしまうのだが、一般の人々にとっても耳に心地よい音楽だろう。この作曲家、シンフォニーはあまり面白くないので、この曲と「グリーンスリーヴスによる幻想曲」だけでもまずは楽しみたいと思う。編成は弦楽器だけで、しかも 2群に分かれていたり、弦楽四重奏が出てきたりと、それなりには凝っている。ここで鳴る弦の音は本当に美しい。私はこれまでマリナーの実演では、どうにも平板な印象をぬぐえなかったのであるが、自ら結成したこのオケとの相性がよいのか、それとも曲との相性がよいのか、ここで聴かれる音楽には何か真実の美がある。あぁ、遠く英国から来た演奏者たちが、桜がほぼ散ってしまった東京でこんなにたおやかな演奏をしてくれているのだと思うと、何やら胸が熱くなるのを抑えることができなくなってしまった。

そして最後のベートーヴェン 7番。弦楽器はコントラバス 2本の極小編成。管楽器も各 2本ずつだが、唯一ホルンのみは 4本であった。昨今のオリジナル流行りとはちょっと異なる、ヴァイオリンの左右対抗配置も取らなければ、ヴィブラートもかける演奏であったが、まあスタイルがどうあれ、うーん、90を超えてこれだけ新鮮な音楽を奏でるとは、実際驚きである。この呼吸の良さはなかなかないであろう。こんなことを言うと不謹慎かもしれないが、マリナーが各地の通常オケと行ってきた演奏は、やはり古巣での演奏には叶わないのではないか。もともと彼は大きな身振りで指揮するタイプではないが、この室内オケのメンバーはそのメッセージを最大限理解してニュアンス抜群の音にするのである。もちろん、この激しい曲の終楽章では息が上がるほどの熱狂的な指揮ぶりを示したマリナーであるが、そこには明らかにオケに対する最大限の信頼があったと思う。聴いている方にもその信頼感が伝わってきて、誠に充実感溢れる演奏となった。

このベートーヴェンを聴いている最中から、アンコールがあるとしたら何だろうと考えた。この編成でこの流れなら、最もふさわしいのはモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲であろう。と思っていたら、予想的中。やはりキビキビしたテンポで「フィガロ」が演奏された。ところがこれで終わらない。2曲目のアンコールは、あの「ロンドンデリーの歌」(ダニーボーイ)。これは実に胸に迫る演奏であった。過度に感傷的というわけではないが、マリナーとアカデミーを日本で聴く最後の機会と思うと、いや、そんなことを思わずとも、万人が胸にぐっと来る曲であり演奏である。ほぼ弦楽合奏だが、最後にホルンが入る (このためにホルンを 4本用意した???) あたりで客席を見渡すと、涙をぬぐっている人たちの姿がそこここに見られた。ここで私は実感する。マリナーの「平板」な演奏は、彼の美質の裏側であったのだ。やはり N 響との演奏だけでは分からないことを、今回の演奏で理解することができた。指揮者とオーケストラの不思議な関係は、言葉でなかなか説明できないものの、確実に存在するのだ。このような経験を一度でもすると、今後のマリナーの演奏への接し方が変わって来る。そうだ。これだけ元気な彼のこと。まだまだ来日を続けて欲しい。

終演後にサイン会があった。この手のサイン会は CD の購入者が対象になる場合が多く、今回面白かったのは、終演後に CD 売り場に人々が殺到していたことだ。つまり、演奏を聴いてから CD の購入とサイン会への参加を決めた人が多かったということか。そして驚くべきことに、マリナーのサインを求める人たちは、一方向の列に収まらず、折り返してまた長々と続いたのである。
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そして、ほんの 15分ほどでマエストロ登場。えっ、早くないか。もうすぐ 92歳というスゴい年の指揮者にしては驚異的だ。しかも、服装もコンサートのままなら、なんと指揮棒まで持っている。
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そして長蛇の列の聴衆へのサインに大変丁寧に応じ始めたのだ。
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私がプログラムにもらったサインはこちら。大変丁寧なものであるとお分かり頂けるだろう。あ、ちゃんと CD も買いましたよ (笑)。2013年、ポーランドのポズナン・フィルを指揮したモーツァルトとベートーヴェンのライヴ録音だ。
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時の流れは残酷なものであるが、誰にも平等なものでもある。人によって美しい老後を過ごせる人とそうでない人がいる。芸術家の場合も、その能力のピークにはそれぞれ差異があろう。今回のマリナーのようなケースはなかなかないとは思うものの、人間の持つ力を再認識させてくれるような貴重な機会であったと思う。いや、別に指揮者が老人だからとかいった余分なことはこの際忘れよう。このような音楽なら、是非是非また聴いてみたい。音楽の力から自分自身の生きる力をもらえるからである。マエストロ・マリナー、次の来日をお待ちしておりますぞ。

by yokohama7474 | 2016-04-10 00:49 | 音楽 (Live) | Comments(0)

フランソワ・グザヴィエ・ロト指揮 東京都交響楽団 2016年 4月 7日 サントリーホール

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あれは 2007年のことだったと思う。ロンドンで弁護士と面談していて、なぜか音楽の話になった。彼が言うには、休暇で米国に遊びに行って、ロサンゼルス・フィルの素晴らしい演奏会を聴いたと。指揮者名を問うた私に、しばらく考えてその弁護士が紙に書いた名前は、"François-Xavier Roth"。苗字を「ロト」と発音していた。へー知らないなぁ、フランス人だろうけどスペイン風の響きもあるかなと思い、どうせ大したことのない指揮者が間違ってロス・フィルの指揮台に立ったのだろうと決めつけ、その場では適当に話を切り上げたのである。さて、そして数年。恐らく日本では、ストラヴィンスキーの「春の祭典」初演 100年で沸いた 2013年頃からであろう、彼の新譜 CD が軒並み話題となったのは。ま、とはいえ、所詮はマイナーなクラシックの世界。別に彼について書かれたブログが炎上することもなかっただろうし、連日テレビのバラエティ番組で彼の新譜について芸能人が興奮して語るということもなかったろう。だが、2003年に彼自身が結成したオリジナル楽器 (曲の書かれた時代の楽器) による楽団、「ル・シエクル」(世紀という意味) と録音した「春の祭典」が 2014年の日本レコードアカデミー賞の、しかも大賞 (いわばグランプリだ) を受賞。つまり、その年に発売されたクラシックの CD の中で最優秀と、日本の批評家たちが評価したということだ。既にその前、毎年ゴールデンウィークに開かれるラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンに、2008年に手兵ル・シエクルと共に参加しているほか、その後 SWR バーデン=バーデン・フライブルク交響楽団と来日したり、また N 響に年末の第九を振りに来たり、昨年は読響を振ったりして、来日を重ねている。だが私は、ああなんという怠慢か愚鈍な男か。そのいずれにも足を運ぶことなく、また、クラシック界で話題騒然の彼の CD を 4枚購入しながら、最近に至るまで 1枚も開封することすらなかったのである。そして今回、この東京都交響楽団 (通称「都響」) との演奏会に接して、前非を深く悔いるに至った。こんなに面白い演奏会は、そうそうあるものではない。以下、何がそんなに面白かったのか、書いてみよう。
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フランソワ・グザヴィエ・ロト。1971年パリ生まれのフランス人である。あまり若くは見えないものの、まだ今年 45歳という若手指揮者だ。経歴を調べても、なんとか指揮者コンクールで優勝したという記述は見当たらない。2010年音楽之友社発行の「最新 世界の指揮者名鑑 866」(物故者を含めて 866人の指揮者を紹介した本) を開いても、彼の名前は見当たらない。それだけ過去数年で急速に評価を高めた人なのである。現在、SWR バーデン=バーデン・フライブルク交響楽団の首席指揮者であるとともに、ケルン市音楽総監督として、同地に所在するケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団とケルン・オペラを率いている。それにくわえ、自身が結成したレ・シエクルとともに、いわゆるバロックの古楽演奏だけでなく、20世紀前半のレパートリーを意欲的に演奏・録音しているのである。

今回は都響に初登場であろうか。曲目は以下の通り。

 シューベルト (ウェーベルン編) : ドイツ舞曲 D.820
 リヒャルト・シュトラウス : メタモルフォーゼン
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調「英雄」作品55

先月行われたローター・ツァグロゼク指揮の読響のコンサートでも、似たような組み合わせの曲目が演奏され、「メタモルフォーゼン」を含む演奏会については私も記事を書いた。そう、クラシックファンなら誰でも知っている通り、この「メタモルフォーゼン」は、ベートーヴェンの「英雄 (エロイカ)」交響曲の第 2楽章、葬送行進曲がテーマとなっている。だが、今回のプログラムの凝り方はそれだけではない。プログラム冊子に寄せられているロトのメッセージを要約しよう。いわく、プログラム作成は、組み合わせによって曲が異なって聴こえる機会を作ること。ベートーヴェンが「エロイカ」を作曲したときには未来を見ていただろう。一方、シュトラウスが「メタモルフォーゼン」を作曲したときには過去を見ていただろう。未来へ向かう視点と過去へ向かう視点という異なる時間軸が、今回のプログラムには存在する。加えて、最初のドイツ舞曲は、近代の作曲家ウェーベルンが過去のシューベルトの作品への敬意を持ってモダンにオーケストレーションしたゆえに、ひとつの作品の中に 2つの時間軸がある。・・・なるほど、なんという慧眼。それがどのように音になるのであろうか。

舞台に現れたロトは、指揮棒を持たずにすべて譜面を見ながらの指揮であった。だが、最初の曲とメインの「エロイカ」ではヴァイオリンの左右対称配置を取ったにもかかわらず、「メタモルフォーゼン」ではそうではなく、舞台に向かって左手側に第 1ヴァイオリンと第 2ヴァイオリンを混在させ、真ん中にチェロ、そして右側にヴィオラ。その奥にコントラバスが並ぶという変則的な配置。この曲は敗戦間近のドイツで老巨匠が書いた痛ましい音楽なのであるが、副題に「23の独奏弦楽器のための習作」とある。そう、これは弦楽合奏のための曲ではなく、23人の弦楽ソリストの集合体のための曲なのだ。昔のカラヤンの 2度の録音以来、耳になじんだ曲ではあるが、実演に接したことはさほど多くない。だが今回のロトの演奏で初めて曲の副題の意味を理解することができた。CD で聴いているだけでは分からないし、生演奏でも座席によっては視覚で確認しにくいだろうが、この曲の各パートは、本当にそれぞれが独立しているのだ。例えばコントラバスは 3本だが、3人揃って弾くところもあれば、1人であったり 2人であったり、またその 2人も、組み合わせが異なる場合がある。その他のパートでも、いわゆる首席奏者でない人だけが演奏する箇所もあるのだ。そして最後に現れる「エロイカ」の葬送行進曲のテーマを奏するのは、ヴァイオリンでもチェロでもなく、コントラバス。言うまでもなくベートーヴェンの時代には、この楽器がメインのメロディを演奏することなどないので、原曲の「エロイカ」には出てこない音に集約するのが、このシュトラウスの作品なのだ。ロトの指揮は決して流れがよいわけではないが、この曲のいわばモザイク状の構造を、面白いようにあちらこちらで次々取り出してみせる。聴いているうちに、この切れ切れの音たちは、断ち切られた希望、あるいはバラバラになってしまった文化のようなものではないかと思うようになった。だがその破片たちには、それぞれが夕日を反射しているかのような美しさがある。だからこれは、ただ感傷に沈んで行くような曲なのではなく、滅び行くものが持つ深い美をも表しているのであろう。ロトの指揮によって、初めて曲の本質に触れたような気がしたのだ。

順番が逆になったが、最初のドイツ舞曲も、表面上はなんとも流れの悪いギクシャクした演奏で、そうであるがゆえに、永遠の前衛作曲家アントン・ウェーベルン (1883 - 1945) の目指した極小世界の本質を表すものであろう。いつもながら都響の演奏能力は高く、聴き手をはっとさせるロトの際立った解釈を、見事に音にしていた。そういえばウェーベルンは、戦後の混乱の中、米兵の誤射によって1945年に 61歳で命を落としている。シュトラウスの「メタモルフォーゼン」も戦争末期の所産であるし、また「エロイカ」も、ナポレオン戦争と密接な関係がある。つまりこのプログラム、戦争のイメージも見え隠れしているのだ。これは若い頃のウェーベルン。神経質そうだが、実は非常に感情豊かな人でもあったようだ。
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そして今回のメイン、ベートーヴェンの「エロイカ」だが、この何百回聴いたか分からない曲に、実に新鮮な思いを持って接することができたのは、なんとも嬉しい驚きであった。以前、作曲家の諸井誠だったと思うが、面白いことを言っていた。ベートーヴェンが交響曲第 2番からこの第 3番へ大きな飛躍を達成したことは間違いないが、よく聴いてみると、スフォルツァンド (局部的に音を大きくすること) の多用という点で両者は共通すると。確かに 2番は明るく楽しい曲だが、目まぐるしく動く音楽の中に、痙攣的なアクセントが頻繁に出現する。一方この「エロイカ」は、冒頭の 2つの和音が、いわばその継続の象徴のようであり、全曲においては多くの箇所でやはり痙攣的なアクセントが現れる。確かに雄大なスケールを持つ、音楽史上前代未聞の大作交響曲にはなったものの、曲想にはそのような過去のしっぽが潜んでいる。今回の演奏では、そのような指摘を思い出したのだ。ロトの指揮からは、ありきたりの劇的な交響曲は出現せず、鳴っている音の細かいところまでくっきりと表された、またもやモザイクのような構成が見えるようであった。もちろん迫力に不足することはない。ヴィブラートは最少であったがゼロではなく、音の持つ重みは充分に重視されていたと思う。音の情景は多様で、同じ音型も、立ち現われる度に違う新鮮さを持って迫ってくる。また、終楽章主部開始間近の、通常は弦楽合奏が無窮動的な音形を刻む箇所が、弦楽四重奏 (第 1、第 2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのそれぞれソロ奏者のみ演奏) になっていた。この解釈、以前も聴いたことがあるような気がするが、思い出せない。そのような出版譜もあるのだろうか。

ところでこの曲の終楽章は、ベートーヴェン自身、バレエ音楽「プロメテウスの創造物」にも使用しているテーマによる変奏曲であるが、人類に火をもたらした英雄としてのプロメテウスへの思い入れは、いかにもベートーヴェンらしいと語られることがある。だが今回の演奏で私が想像したのはむしろ、火を盗んだため、ハゲタカに内蔵をむしばまれるという拷問を受けたプロメテウスが、その再生能力によって内臓を復元させることで、果てることのない拷問に苦しんだということだ。そう、英雄プロメテウスの繰り返される苦しみ。テーマが展開するにつれて少しずつ音楽的情景が変わるこの曲は、もしかするとそのような意図で作られているのではないか。ふとそんなことを考えたりした。これはルーベンス描くところのプロメテウス。
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私は音楽の専門家でもなく、演奏家でもないので、音楽の聴き方が情緒的かもしれないし、思い込みも激しいかもしれない。でも、ただどの音が正しいとか美しいとかいうことだけで音楽を語るよりも、演奏家の表現力や曲の文化的背景などを、充分に味わいたい。そのような人間にとって今回のロトの演奏は、凡百のオーケストラ演奏にはない、知的興奮を煽る箇所が多く存在しており、そうは出会えない刺激的なコンサートになったのであった。かくなる上は、心して手元にある彼の CD を聴き、最初に彼の名前を手書きで教えてくれた英国の弁護士に、改めて感謝するとしよう (笑)。ロトと都響の演奏会は、来週 4/12 (火) には、今度はストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」と「火の鳥」全曲という垂涎のプログラムが組まれている。残念ながら私はそれは聴きに行けないが、今後の彼の来日公演には、万難を排して出かけるつもりである。


by yokohama7474 | 2016-04-08 00:55 | 音楽 (Live) | Comments(2)

のぞきめ (三木康一郎監督)

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飲み会もなく、業務過多でもない平日。終業後何か映画でも見ようかなと調べてみると、見たい見たいと思っている「バットマン vs スーパーマン」がちょうどよい時刻に IMAX 3D で上映されている。うーんしかし、上映時間が 3時間近い。ちょっと長いなぁと思ってほかを探してみて、目に留まったのがこの映画だ。元 AKB48 の板野友美主演のホラー。なるほど、「のぞきめ」ということは、何か珍しい魚の種類ではなく、覗いている目のことだな (って、当たり前だ)。なかなか怖そうだし、ひらがなの題名もなかなかよろしいではないか。邦画のホラーと言えば、先般公開された「劇場霊」を見逃した。ホラー好きとしては大変残念なことをした。この映画、まだ封切からわずか 4日目であるが、いつまで上映しているか分からない。というわけで、これを見ることとした。たおやかなイタリア・ルネサンス絵画や江戸時代の肉筆浮世絵や、はたまたフランスオペラについて語ると同時に、日本のホラー映画についても同様に語らずにはいられないのが、私の性なのである (笑)。

実は上のポスターの上部には、デカデカと宣伝文句が書いてあったのだが、あまりに禍々しいので勝手にそこを外してトリミングしてしまいました。関係者の方には申し訳ないが、でも、あらゆる人たちが見るブログにおいては、ちょっと適当でないと思ったのである。・・・などと書くと、何が書いてあったのか余計気になってしまいますね (笑)。この映画、身近に存在しているあらゆる隙間から不気味な目玉に覗かれると、その人間は呪い殺されてしまうという設定で、まあそんなようなことがコピーとして書いてあったのだ。おっと、こわ。
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私は別に AKB ファンでもないし、「ともちん」という愛称以外に板野友美について知っていることは何もないが、普通っぽい顔が多いメンバーの中では目立つ派手な顔だちだなぁと前から思っていたので、ホラー映画で恐怖に歪むにはなかな適性ある顔 (|д゚) なのではないかとの期待があった。彼女は今回が初主演映画。そういえば、前田敦子の初主演映画も「クロユリ団地」というホラーだった (もちろん劇場で見た)。さて、期待通りというべきか、この映画にはこんな感じのシーンが何度か。
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ただ。ただである。やはり演技力ということになると、うーん。まだまだ成長の余地ありということで、ここはさっと流してしまおう (笑)。さりげなさがいい味を出しているシーンがあったことは認めましょう。この映画の、特に後半ではその点がいい効果を出していたと思う。では、この映画がそんなに怖いかというと、さあどうだろう。結構早い段階で化け物の正体が分かるので、その点では得体の知れない恐怖は少ない。もちろん、出るぞ出るぞという雰囲気の箇所は、音響効果も定石通りという感じで、それなりに楽しめる、いや怖がれると言ってもよいだろう。だが、まあその点は、ホラー映画を作るに当たってもさほど難しいことではないだろう。私としては、もう少し登場人物に感情移入できる描き方がされていれば、さらに何か強いインパクトがあったのではないだろうかと思うのだ。映像として私が納得できなかったのは、主人公が恋人のアパートを訪れる幾つかのシーンで、なぜかライティングがほとんど施されていなかったこと。昼のシーンは自然光で撮っているようだったし、深夜のシーンも天井の灯りを消したままで展開した。何か意図があるのかもしれないが、全体として平板な情景になってしまった。ホラーは人間の感情の敏感なところに触れる分野。映像を通じて人間の情がしっかり描かれないと、恐怖そのものが活き活きと伝わってこない。

内容について全く予備知識なしにこの映画を見たわけであるが、上映前にプログラムを見て、原作が三津田 信三 (みつだ しんぞう) であることを知った。以前私は彼の「山魔の如き嗤うもの」という小説を読んだことがあって、なかなか怖かった記憶がある。そしてこの映画を見てみると、なるほどイメージには通じるところがある。映画の題材は日本の田舎に残る古い伝説であり、そのもととなった悲劇なのである(設定自体はもちろんフィクションだが)。こんな舞台挨拶の写真なら大してネタバレにはならないだろう。この目玉ギョロリの少女のキャラクターは、まあそうですな、うまく描けば情念の恐ろしさを喚起したかもしれないが・・・。ユルキャラになってしまってはどうにも締まらない。
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もっとも、気の利いた展開もあるにはあって、特に、主人公の恋人がどのように人生の活路を開くかという点に、ちょっとニヤリとする。それからラストシーンも、ちゃんと途中のセリフの中に伏線がある。決して膝をポンと打つほど鮮やかなラストとは思わないが、なるほどそう来たかという感じ。

ほかの出演者はほとんど知らない人たちばかりだが、ちょっとだけ出ているつぶやきシローが、化け物より怖い (笑)。それから、こんな役者も。
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吉田鋼太郎。テレビでの活躍はあまり知らないが、昨年 9月に記事を書いた蜷川幸雄演出の「マクベス」での演技が素晴らしかった。ただここでは正直、素晴らしい演技というには若干躊躇するものがある。冷やかしでホラーに出ていると断じる気はないが、キャラクター自体がちょっと中途半端な気がする。彼の最後の登場シーンはどういう意味なのか。主人公の運命を知っているということなのだろうか。そのあたりの腑に落ちない感じが、吉田の演技にも影響しているような気がするが、いかがだろうか。

それからもうひとつ気になった点。この映画では登場人物が電話をするとき、必ず右手にスマホを持っている (板野の数度のシーンに加え、東ちづるも) これは何か意味があるのだろうか。いや、実は従前から、電車の中で流れているテレビ CM で、なぜか役者が右手で電話をしているのを見て、不思議な気がしていた。もしかすると、スマホの場合は、右利きの人でも右手で通話をするのが世の中の常識で、私がそれを知らないだけなのか?! 終映後、私のほかに 6人しかいない観客の退場を何気なく見ながら、ふとそのことを思い、今見たばかりの映画よりも、ゾッとしましたよ (笑)。

by yokohama7474 | 2016-04-06 00:38 | 映画 | Comments(0)

そしてまたありがとうございます

昨年 6月にこのブログを始め、10ヶ月が経とうとしています。もう 10ヶ月であり、まだ 10ヶ月です。初期の頃は、訪問者が 1,000人超えた、2,000人超えたということを感謝の記事にしていたのですが、しばらくご無沙汰しました。おかげさまで今日、累計訪問者数が 20,000人を超えました。これはなかなかにびっくりするような数字だと思います。知り合いの方からご挨拶頂いたり、見知らぬ方から親しげなコメントを頂戴したり、散々な悪口を言われたり、思わぬ VIP からコンタクトがあったり、とにかくいろいろあって面白いです。

まあ所詮は川沿いの家に住んでいる一介のサラリーマンが好き勝手なことを書いている場ではありますが、ただ、文化の諸相に単身乗り込んで行こうという意気込みだけはあるつもりですので、ご覧の方々には、今後とも忌憚ないご意見をお寄せ頂ければ幸いです。こんな風にカッコよくは行きませんが、微力を尽くす所存です。機会があれば、また覗いてやっておくんない。
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by yokohama7474 | 2016-04-04 22:02 | その他 | Comments(2)

マスネ作曲 歌劇「ウェルテル」(指揮 : エマニュエル・プラッソン / 演出 : ニコラ・ジョエル) 2016年 4月 3日 新国立劇場

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フランスの作曲家、ジュール・マスネ (1842 - 1912)。いくつかそこそこ知られた管弦楽曲もあるが、最も有名な彼の作品は、ヴァイオリン独奏による「タイスの瞑想曲」だろう。夢見るような旋律が大変美しく、このマスネという作曲家の本質的な資質のよく表れた曲だ。これは実は彼のオペラ「タイス」の間奏曲である。この作曲家、25曲ものオペラを作曲しており、19世紀後半から 20世紀初頭にかけての重要なオペラ作曲家であったのだ。この「ウェルテル」は彼のオペラの中でも、「マノン」と並んで有名な作品であろう。新国立劇場では既にこの 2作に加え、「ドン・キショット」(あの名バリトン、ルッジェロ・ライモンディ主演であった) も既に上演済であり、ヴェルディやワーグナーだけではなく、フランス物にもなかなかの上演実績を誇っているわけだ。しかも今回の「ウェルテル」は、2002年上演のプロジェクトの再演ではなく、新たな演出だ。未だ 20年に満たない歴史しかない新国立劇場が、既にして「ウェルテル」の 2つめのプロダクションを舞台にかける意義を確かめたい。

この「ウェルテル」という作品は、その題名で明らかな通り、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を原作としており、大変劇的で美しい旋律に溢れた名作である。しかしながら、日本ではそれほど多く上演されておらず、なんと上記の 2002年の新国立劇場での前回の上演が原語での初演であった由。私自身はそれは見なかったのであるが、1999年 7月にマドリッドのテアトロ・レアルで、ジュリアス・ルーデル指揮、ラモン・ヴァルガス主演の舞台を見た。また 2009年には、大野和士が手兵のリヨン歌劇場管弦楽団との来日公演で演奏会形式で上演したのも素晴らしい音楽的事件であった。

今回の上演、私にとって最も興味があったのは指揮者である。1933年生まれ、今年 83歳になる現代最高のフランス音楽の解釈者、ミシェル・プラッソン。長らく音楽監督を務めたトゥールーズ・キャピタル管との数々の録音に加え、日本にはドレスデン・フィルと来日したり、単身で N 響を何度か振りに来ているし、二期会でも「ファウストのごう罰」「ホフマン物語」などで素晴らしい音楽を聴かせてくれた名匠。・・・ところが、会場にはこのような貼り紙が。
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主役を演じる予定であったテノールのマルチェロ・ジョルダーニとともに、指揮者も交代になってしまっている。転倒による骨折とは、やはり高齢によるものなのだろうか。心配である。そして代役の指揮者の名は、エマニュエル・プラッソン。
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これはどう見ても息子であろう (笑)。主役と指揮者の交代は随分前から判明していたらしく、プログラムには既に両者の名前も写真も経歴も印刷されている。ま、親子で指揮者という例は珍しくないが、親父のキャンセルを息子が穴埋めするというケースは珍しい。この際、期待を持って臨もうではないか。

この作品のあらすじは至って簡単。ウェルテルという若い男がシャルロットという女性に一目ぼれする。だがシャルロットにはアルベールというフィアンセがいて、彼と結婚してしまう。そして絶望したウェルテルはピストルで自殺。これだけだ。なんという純愛。なんという悲しい情熱。振られた腹いせのストーカー殺人などが人々の気持ちをいやーな気分にさせることも多い現代の日本。たまにはこのような青春の清い情熱に触れて、新鮮な気持ちで人生の意味を見つめ直すのも悪くない。いやもっとも、死んではいけません。失恋くらいで、何も死ぬことはない。私は以前マドリッドでの舞台を見たあとに原作も読んだが、書簡形式のロマン主義的な作品だ。文字で綴る文学という分野なら、情熱の発露という点の表現形態として、最後が主人公の死でも成立しよう (この作品の発表当時、影響を受けて自殺する若者が多かったらしいが、それは 18世紀後半から 19世紀前半の、欧州全体がのべつ戦争に巻き込まれていた時代であったことによる厭世観とも関係しているのでは?)。でもオペラともなると、少し工夫が必要だろう。朗々と歌うだけでは作品にならず、管弦楽がロマン主義的感性を表すべく雄弁に語る必要が、どうしてもあると思う。そしてこのマスネの「ウェルテル」は、まさにそのような曲なのだ。マスネはワーグナーの一世代下だが、楽壇の巨人ワーグナーがパリでも大きな影響力を持っていた時代に生きた。ここで頻繁に聴かれる甘美な音だけ取ってみればワーグナー的ではなくとも、音がドラマを作るという基本構造は、やはりワーグナーなしには考えにくいだろう。

その点、今回のプラッソン息子 (という言い方は失礼だが・・・)、素晴らしい成果を挙げていたと思う。オーケストラは東京フィルであったが、弦楽器がつややかにドラマを歌いあげると同時に、木管楽器が素晴らしい積極性を発揮していて、なんとも表現力豊か。プラッソンの指揮は決して要領がよいようには見えなかったものの、非常に丁寧にオケに指示を与えていて、音楽の大きな流れを創り出していた。これだけ振れるのなら、父の辿った道をさらに超えて、フランス音楽の使徒になってもらいたい。

主役のウェルテルとその相手役シャルロッテは、結果的に両方ロシア人となり、どちらも今回が新国立劇場デビューだ。ウェルテル役のディミトリー・コルチャックは、既に国際的なキャリアを持つテノールで、今回の「ウェルテル」に加え、今年秋のゲルギエフ指揮のマリインスキー歌劇場の来日公演では、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」のレンスキーを歌う。ともに抒情性が重要な役であるが、今回のウェルテル役を聴く限り、レンスキーも大変楽しみだ。最初に舞台に登場したときには少し声量がどうかとも思われたが、歌い進むうちに、今日これだけ美しいリリコもそうはいないだろうと思われた。有名な第3幕のアリア「オシアンの歌」も実に素晴らしく、よくぞこれだけの代役を探し当てたものだ。
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普通テノールの相手方はソプラノが多いわけであるが、ここではメゾ・ソプラノだ。今回シャルロッテを歌ったエレーナ・マクシモワは、やはり世界の主要オペラハウスに出演している歌手で、今回は演技も含めて難しい役柄を、素晴らしい表現力で演じた。来シーズンにはこの新国立劇場で「カルメン」を歌うとのこと。かなり期待できると思う。
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シャルトッテの夫となるアルベールを演じたのは、オーストリア人のアドレアン・エレート。おっと彼は、先日の小澤征爾音楽塾での「こうもり」で、アイゼンシュタインを飄々と演じていたあの人ではないか。ここでは一変して、落ち着いた雰囲気のイヤな奴を見事に歌っていた。あ、もっとも、このオペラのひとつの特色は、本物の悪人がひとりも出てこないこと。このアルベールにしても、ウェルテルの横恋慕に対して、立派に大人の対応ぶり (?) だ。誰も悪人がいないからこそ、青春の情熱が巻き起こす悲劇が、悲劇たらしめられるのであろう。
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その他日本の歌手の皆さん (児童合唱も含め) それぞれに見事で、大変見応えのある舞台であった。歌、オケ、ともに国際水準をクリアした素晴らしい舞台でした。そして演出を担当したのは、フランス人のニコラ・ジョエル。
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このオペラでは、あれこれ余計なことをやられると音楽が活きて来ず、作品のよさを殺してしまうと思うが、その点彼の演出は非常にオーソドックスで無駄な動きもなく、練達の演出であったと言えるであろう。第1幕は木洩れ日の差す屋外、第2幕はアーチの下の半屋外、第3幕は家の中で完全な屋内、そして第4幕は大量の本が並ぶ、天井裏とおぼしきウェルテルの窮屈な部屋で、徐々に狭いところに追い込まれて行くウェルテルの心理をそれとなく暗示していたと思う。以前、藤原歌劇団がグノーの「ロメオとジュリエット」を上演したときも彼の演出であったことを後で知ったが、実は今回、会場でプログラムに彼の名を発見したときに、妙なデジャヴを覚えたのだ。それは、上に記した通り、私がこれまで唯一舞台でこの作品を見た機会であるマドリッドでの公演プログラムを、事前に自宅で引っ張り出して見ていたからだ。
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そこで、休憩時間に早速自宅にいる家人にメールを打ち、そのプログラムのスタッフ表の写真を送ってくれるように依頼。そして送られてきた写真にはしっかりと、ニコラ・ジョエルの名が。
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正直なところ、そのときの演出はよく覚えていないが、今回のものとは別だったと思う。だが同じように無駄のないオーソドックスな演出であったように記憶する。2回しか実演で見ていないオペラの演出家が 2回とも同じとは、妙なご縁もあるものだ。ついでにご紹介すると、スペインと言えば、このウェルテルを当たり役とした偉大なテノールがいた。そう、アルフレード・クラウスだ。このときのプログラムにはクラウスが演じるこの役の写真が小冊子として添付されている。スペイン語なので何が書いてあるが分からないが、この上演の 2ヶ月後、1999年 9月にクラウスは 71歳で死去。当時病床にあった国民的テノールへのオマージュであったのだろうか。
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またこのときマドリッドで主役を歌ったメキシコ人のラモン・ヴァルガスは、ヴェッセローナ・カサロヴァと組んだ録音で名唱を聴かせている。
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このように、実際に見た舞台からあれこれの連想が飛んで、それがまた作品体験に跳ね返ってくる。私にとってそれほど身近でないはずのこのオペラに、様々な発見がある。そこで最後に、作品中で気になるセリフがあるのをご紹介しよう。それはこのオペラに出て来る脇役カップルが口にする言葉だ。名前はブリュークマンとケートヒェン。この作品のあらすじを書いた文章にも、ほとんど出てこない名前だと思うが、実はこの二人、ウェルテルとシャーロッテの分身であるらしい。それは、上記のヴァルガスの CD の解説に出て来る説明で、そういえば確かに、第 1幕でウェルテルとシャーロッテが出会う場面では仲睦まじく、そして別離に至る第 3幕では、男が女を探しているのだ。これらのキャラクターはオペラの創作であろうと思うが、面白いのは、第 1幕で彼らが口にする「クロプシュトック」という言葉。実はこれは、原作ではシャーロッテの呟くセリフ。そして、この響きのよい言葉は、ゲーテよりも一世代上の、18世紀ドイツの詩人の名前なのである。この詩人への敬意を通して二人は情を通わせるという設定だが、またまたこの CD の解説によると、当時の若者にとってこの詩人の名前は、1960年代の若者にとってのビートルズに匹敵しただろうとのこと。もともと原作はゲーテの実体験 (人妻シャルロッテ・ブフへの恋情と、友人カール・イェルーザレムのピストル自殺) が下敷きになっているが、さしづめこのクロプシュトックという名前も、ゲーテ自身の青春の中にあった偉大な憧れであったのであろう。ところでこの詩人の名、クラシックファンにとっては既におなじみのはず。あのマーラーの第 2番「復活」の終楽章、あの感動の合唱によって歌われる歌詞は、クロプシュトックによるものなのである。18世紀に書かれた詩であるが、マーラーの作曲した時代は既に 19世紀後半。文化の諸相に見える絶えざる変化と、時代を超えた不変のものが、ここにも共存している。

そんなわけで、いろいろ考えるヒントをもらった公演となった。新国立劇場の意欲的な上演に改めて拍手を送りたい。

by yokohama7474 | 2016-04-04 00:41 | 音楽 (Live) | Comments(2)

マネー・ショート 華麗なる大逆転 (アダム・マッケイ監督 / 原題 : The Big Short)

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最近は見たいと思った映画を何本も見逃してしまって残念な思いをしていたが、おっと、1ヶ月ほど前に封切られたこの映画。調べてみるとまだ劇場にかかっているではないか。クリスチャン・ベールとかブラピも出演しているとなると、見ないわけにはいかんでしょう。しかも、何やらリーマン・ショックの裏を書いて大逆転した輩どもの痛快ストーリーであるらしい。このブログでは私個人のことを書くことは極力避けているが、何を隠そう、私も金融マンのはしくれ。どんな痛快ストーリーであるか、ちょいと見届けてやろう。監督のアダム・マッケイはコメディを多く手掛けてきた人らしいし、きっとゲラゲラ笑って胸のスカッとする映画に仕上がっているのではないか。
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まず、予備知識のない方々のために念のため、この映画の題名だが、「お金、短い」ではありません (笑)。この場合のショートは、英語の意味は「不足している」ということだが、この映画のキーとなっている「空売り」のこと (従って原題の Big Short とは、「大規模な空売り」という、そのものズバリの題名だ)。しかるべき担保の提供のもと、自分が持っていないポジションを売って将来買い戻すという約束のことで、リスクは大きいが、相場が下がったときに買い戻せば利益が出るということになる。この映画の内容は、全世界を震撼せしめたサブ・プライム問題とその結果としてのリーマン・ショックの裏で、その事態を見越した空売りによって、ウォール街の巨大金融機関を相手に立ち回った 4人の男たち (プラスアルファ) が描かれている。

見終わったあとの感想だが、いやー、痛快どころの話ではない。なんとも深刻な映画なのだ。これは言ってみれば、最近の米国の戦争を生々しく描いた「ゼロ・ダーク・サーティ」や「アメリカン・スナイパー」と同様の分類に属する映画と言ってしまってもよいだろう。登場人物の一部も組織も、多くの実名が使われていて、画面に頻繁に登場するあれこれの主要金融機関のロゴもすべて本物だ。当然当事者の許可あってのことであろうが、その描き方に少しでも行き過ぎがあればすぐに訴えられてしまう世界だ。最新の注意が払われているのであろう。その意味でこの映画は疑似ドキュメンタリーになっていて、明らかにアフレコではなく撮影場所で音声を拾っている箇所や、手持ちカメラが激しく揺れる画面などがあちこちにあり、あえて言えば、プロフェッショナルな映画技術をあまり感じさせないような仕上がりである。登場人物が鑑賞者にそのまま語りかける場面も多い。映画をストーリーではなく映像と音声 / 音響のアマルガムとして鑑賞する私にとっては、この作り方はかなり苦痛。いやそれ以上に、このストーリーの意味する現代社会の深刻な様相に、なんとも憂鬱な気分になったのである。痛快ストーリーだろうと思って劇場に行ったので、なおさらである。

こういうことを書いてしまうと身も蓋もないが、個々人が金を欲しいという素朴な欲求は健全なものであれ、その積み重なりである資本主義の行きつくところ、もはや肥大化して全体像の見えない醜い欲望の塊がうごめいている。世界の中で米国だけが、あるいはさらにニューヨークだけが突出していると言えようが、そのような資本主義の発達が人間にとって幸せなことであるのかどうなのか、この疑似ドキュメンタリーは容赦なく問いかける。それが私の感じた憂鬱の原因なのだ。我ながらあまりに素直な感想だと思うが (笑)、本当だから仕方ない。

このブログは世界経済とか資本主義についての意見を開示する場ではないので (自分の経験から、少しそういうことを語りたい誘惑もあるものの 笑)、話題を変えると、ここで登場する 4人の主要キャラクターの描き方はそれぞれにユニークで、よくできている。特に、ロック好きのファンドマネージャーを演じるクリスチャン・ベール。
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ある種の自閉症であろうが、数字に対するこだわりやその実行力には並々ならぬものがあるというエキセントリックな役柄で、同じ「実業家」と言っても、バットマン・シリーズのブルース・ウェイン役とは大違いの演技である。実にリアリティがあって、見ているものを圧倒する。演技の幅に脱帽だ。

それから、もとバンカーだが現在では個人でブローカーを営むという役柄のブラッド・ピット。
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若い二人組を助ける役柄で、このようにひげを蓄えた物静かな男。登場場面はそれほど多くないが、その抑えた演技が、金融の世界で起こっている救いようのない事態の深刻さを、逆に実感させる。

もうひとり、躁鬱気味で、兄を自殺で失うという悲劇の記憶にとらわれ、周りの顰蹙を買う多動な人物でありながら、その一方で意外なほどの正義感の強さを持つファンド・マネージャーを演じるスティーヴ・カレルが面白かった。このような人物は存在すると思う。彼の行っていることは、周りの人たちにとって迷惑なことなのか、あるいは大いに意味のあることなのか。単純な割り切りでは済まない矛盾を抱えた現代の人間像だ。
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こうなると残りのひとりも紹介せねば (笑)。本作で語り役を務める銀行家役のライアン・ゴズリング。ウォール街の匂いがプンプンという役柄で、ちょっと憎たらしい人物像であるが、このように見てくると、主要キャラクターのバランスという点で、よく考えられていると思う。
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繰り返しだが、実話に基づくこのような物語を、たかだか数年後に映画にしてしまう米国は、本当に侮れない国である。日本にいてこの映画を見る我々は、さて一体これを対岸の火事として見るのか、自分たちもその一部をなしている現代世界の問題として見るのか。答えは見る人によって違ってこよう。だが、目をそむけたくなる戦争の真実を知るのと同様、金融の真実を知ることも、意味のあることではないか。まあでも、もうちょっと痛快ストーリーにしてくれた方がよかったなぁ・・・。なんとも憂鬱な気分に沈む私でありました。


by yokohama7474 | 2016-04-03 12:11 | 映画 | Comments(2)