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世界遺産ポンペイの壁画展 森アーツセンターギャラリー

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世界各地の様々な名所旧跡に興味がある私ではあるが、未だに現地を訪れたことがない有名な場所も、当然ながら枚挙にいとまがない。まあそれでこそ頑張って生きて行こうという大いなるモチベーションにはなるのであるが(笑)、いつかその地を訪れることを夢見る場所の筆頭のひとつが、このポンペイであるのだ。そもそも南イタリアには行ったことがないので、ポンペイのみならずナポリもシチリア島も訪れたことがない。なので、私の人生、まだまだこれからなのである。

ここでご紹介する展覧会は、先ごろまで東京六本木の森アーツセンターギャラリーで開かれていたもので、既に東京での会期は終了してしまったが、もうすぐ名古屋市美術館で開かれるはずだし、その後も神戸、山口と、未だ会場と期間は決まっていないようだが福岡にも巡回するので、この記事で興味を持たれた方には、そのいずれかで実物を目にするチャンスを追い求めて頂きたい。これは、昨年来開かれて来た日伊国交樹立150周年を記念する展覧会のひとつ。紀元 79年、ヴェスヴィオ火山の噴火によって埋もれてしまうことで、ローマ帝国時代の人々の日常生活がそのまま保存された奇跡の街、ポンペイから発掘された壁画を並べた興味深い展覧会だ。私はポンペイに行ったことはないと既に書いたが、負け惜しみではないが、これまで日本で開かれた展覧会、すなわち1997年横浜美術館での「ポンペイの壁画展」と2001年江戸東京博物館での「世界遺産ポンペイ展」は見ていて、2000年前のタイムカプセルに残された絵画作品における人間性の異常に豊かなことには、舌を巻いたものである。また、前者の展覧会開催に合わせて芸術新潮が組んだポンペイ特集では、展覧会には出ていない、ちょっとここに書くのが憚られるようなアダルトな内容も紹介されていて、その奔放さにまたびっくり!! それから、近年のハリウッド映画「ポンペイ」はもちろん見たし、さらには、ポンペイのシーンが重要な役割を果たすロベルト・ロッセリーニ監督の「イタリア旅行」(当時の妻イングリッド・バーグマン主演) まで、もちろんリヴァイバルだが昔劇場で見たものだ。
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まあ言い訳はこのくらいにして、この展覧会の内容について語ろう。ナポリ国立考古学博物館の所蔵になる 63点の作品が出展されていて、そのほとんどがポンペイまたは近郊の遺跡から発掘されたフレスコ画(壁面に漆喰を塗り、それが乾く前に絵具で絵を描く方法)である。会場にはまた、運命のその日、ヴェスヴィオ山がどのように噴火し、街をどのような速度で飲み込んでいったのかを再現するCGもあって、実際に起こった自然災害の猛威を想像することができるようになっている。展示は、1. 建築と風景、2. 日常の生活、3.神話、4.神々と信仰というセクションに分かれている。

最初の「建築と風景」コーナーでは、壁画の中に風景として建築を描きこんだような例が紹介されている。しょっぱなから度肝を抜かれることには、この「赤い建築を描いた壁面装飾」には、ちゃんと遠近法があるではないか!! 壁画としてだまし絵風にこのような神殿建築を描いた理由は、一体なんだったのだろう。これはヴェスヴィオ山周辺地域の別荘の壁画であったようである。なんらかの非日常性が表されているのだろうか。
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これは「詩人のタブロー画がある壁画断片」の一部。ポンペイの「黄金の指輪の家」のもので、楽器を演奏するデュオニソスの眷属たちが描かれた部分。この木のリアルな表現や、超人間的な存在の人間的な描き方を、どうやって2000年前のものと信じろと言うのか!!
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そしてこの壁画の中央には、額縁に収まった男女3名のタブローがあって、その左端の男性が、文学コンクールで優勝した男性と解釈されているらしい。ジグゾーパズルのように復元されているが、そこに漂うシュールな感覚は、まさに時空を超えている。
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これは「女のケンタウロス」。ソーラ地区の海浜別荘の個室から出てきた断片から復元された。図柄はいろいろあれど、ジグゾーパズル作業の末、ついにこのような造形を復元することができたときには、発掘に携わった人たちは嬉しかったことであろう。それにしてもこの青の鮮やかなこと!!
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このコーナーにはほかにもコンパスや折尺といった工具、また顔料入りの小皿などが展示されている。さて次の「日常生活」のコーナーだが、ここの目玉は、「カルミアーノの農園別荘」という建物の再現である。
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この別荘は約 400平方メートルの長方形の敷地のほぼ全体が発掘されているという。これが全体の敷地のスケッチだ。
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古代人の生活そのままが詰められた場所だが、居住用の部屋のひとつからは両手を顔に当てて縮こまった骸骨が発見されているとのこと。現代の我々はタイムカプセルだなんだと喜んでいるが、火山灰に埋もれて亡くなった方々には大いに気の毒である (この無常観が、映画「イタリア旅行」のテーマであった)。ま、ともあれ、ここの壁画の見事な出来を褒めることは、死者を貶めることにはならないので、じっくり鑑賞しよう。この別荘ではワイン作りが行われていたようで、酒の神デュオニソスに関連するテーマが描かれているほか、ポセイドンとアニュモネなどが描かれている。わぁ、なんだか現世肯定的だなぁ!!(笑)
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また、これも滅法面白い。犬の絵だが、なんと、上部に "Sincletus" = シュンクレトゥスという名前が刻まれているのだ。2000年の時を経てその肖像画が鑑賞され、名前も判明している犬とは、実に素晴らしい生命力ではないか。
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さてこれはなんでしょう。答えは「選挙広告」。なんでも、「頭巾屋は、ガイウス・ユリウス・ポリュビウスを二人委員に推薦します」と書いてあるらしい。今日で言うとさしずめ、"Stop TRUMP!!" のようなものでしょうか(笑)
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これも何やら異様な迫力。「戦車競走」だ。ローマ時代には映画「ベンハー」で見るような馬で引く戦車が走り回っていたようだが、ポンペイには競技場はなかったようなので、どこかほかの街で見たものを描いたものだろう。この地区の壁画では唯一これだけが戦車競走を主題として扱っているとのこと。
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さて、次の「神話」コーナーにも素晴らしい見ものがある。エルコラーノのアウグステウムという建物の壁画である。これは堂々たるもので、その身体表現は古代ローマのミケランジェロさながらの優れた画家の手になるものだ。この建物は学校であったという説があり、これらには教育的な意味が込められているとも解釈されているらしいが、まあそれにしても素晴らしい表現力ではないか。上が「ケイロンによるアキレウスの教育」。下が「赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス」。
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最後の「神々と信仰」コーナーでは、神秘的な小品のいくつかに出会うこととなる。これは「儀式的場面」。デュオニソス像の前で女性が何かいけにえを供えている。
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これは「イシス女神官のヘルマ柱」。おぉ、イシスというのはエジプトの女神ではないか。キリスト教が支配する前のヨーロッパの大らかさを感じることができる。
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「有翼のウィクトリア」。この色彩の鮮やかさはどうだろう。描かれたときの生命力をそのまま保っている。これはポンペイでしか見ることのできないものであろう。いや、ポンペイでも、これだけ近代的なまでに鮮やかな色使いに出会うことはそうそうあるものではないだろう。
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このように展覧会を振り返ってみると、改めてポンペイとその周辺から発掘された絵画作品の数々が、いかに変化に富んでいるかを実感できる。戦乱で破壊されたり、世界各地に散逸していないことも本当に意義深い。そんなわけで私は、ゴソゴソとこのようなCDを引っ張り出してきて、かの地と亡き巨匠に敬意を表しながら、深夜の音楽鑑賞でも始めようかという思いにとらわれるのである。
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by yokohama7474 | 2016-07-20 23:46 | 美術・旅行 | Comments(0)

マネーモンスター (ジョディ・フォスター監督 / 原題 : Money Monster)

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この映画の予告編は随分といろんなところで見たものであるが、米国の人気財テク (死語かと思ったが、上のポスターでも使われているので、まだ世間一般において通じるのだろう 笑) テレビ番組の生放送中に青年が拳銃を持ってスタジオに乱入、キャスターを人質にとり、そのキャスターの口車に乗ったがゆえに被ってしまった経済的損失の代償を求める。その危機に対して、オペレータールームの女性ディレクターが冷静に対処する。そんなストーリーがよく分かる予告編であった。だが、この危機が一体いかなる結末を迎えるのかは定かではなく、リアリティあるサスペンスとしての期待を高めるような予告編の作りであった。そして名女優ジョディ・フォスターが監督、主演がジョージ・クルーニーとジュリア・ロバーツと来れば、映画ファンとしては見に行かざるを得ないだろう。これは今年のカンヌ映画祭でのシーン。但しこの作品の出品は非コンペティション部門であったようだ。
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この映画、いろいろなところに工夫が凝らされていて、それなりに面白いし、また考えさせられる内容ではあると思う。だが率直なところ、いくつかの点でどうも納得できないところが気になって、残念ながら私にとっては、事前の期待感が充分に満たされたとは正直言い難い。以下、それらの点を考えてみたい。

まず全体的に、なんとなく映像の鮮明さを欠いていたこと。ストーリーのかなりの部分はテレビスタジオの中で展開するものの、疑惑の対象となるIbis Clear Capitalなる会社のCEOやその女性部下であるCCOの登場シーンには、オフィスビルや空港といったいろいろな場所が出てくるという対照は理解できた。だがそれなら一層、その対照を際立たせるため、スタジオ内の緊張をさらに高めるような強烈で息苦しいショットがあってもよかったのではないか。まず視覚から来る刺激という点で、私はどうもリズムに乗れなかった。これがIbis Clear Capitalのお二人。CEOウォルト・ギャンビーを演じるのはドミニク・ウェスト。COOダイアン・レスターを演じるのはカトリーナ・バルフ。あ、どうせこのような上司と部下の関係は何か意味深なのではないかと、すぐにそういう下世話な勘ぐりをする人、いると思います(笑)。ネタバレは避けるが、まあこの辺の設定の巧拙で映画の面白みはかなり違ってこよう。
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さらに言うなら、この男女と対照をなす二人、ジョージ・クルーニー演じるリー・ゲイツと、ジュリア・ロバーツ演じるパティ・フェンであるが、この二人の関係をどう見ようか。キャスターであるゲイツは、耳にイヤホンを仕込んでおり、そこからオペレータールームにいるフェンの指示を聞くことができる。そのおかげで、この非常事態においてもパニックにならずに犯人と対峙することができる。それぞれがプロであるからこそ可能なことだ。そんな二人が、果たして恋愛関係に陥るようなことがあるか否かについて下世話な勘ぐりをする人、いると思います(笑)。作品でもなんら明示はされないし、再びネタバレは避けるが、いずれにせよ、この二人の関係の描き方において、ポンと膝を打つリアリティは、正直あまり感じなかった。
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実際のところ私の最大の不満は、恐らくジョージ・クルーニーにある。軽薄な「財テク」番組のキャスターとしては、もっともっと軽薄に演じて欲しい。実はこの作品に限らず、最近の彼の出演作の中には、どうも「オーシャンズ11」の頃の、人を食ったような突き抜けた迫力がないような気がして、少し物足りないと思うのだが、いかがなものだろうか。そうそう、当時はこんな感じだった。おっとそういえばジュリア・ロバーツは、ここでも共演していましたね。この「マネーモンスター」でも、彼女の演技には好感が持てましたよ。
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私の不満の最後の点は、ストーリー展開である。犯人が意外とピュアで弱い面があるというのはよいし、人質に取られたリー・ゲイツが彼に感情移入する点には、ある程度予測できるところ。だが、ラストに至る場面で、街中を移動するなど、あまりにもリアリティが低く、緊張感が下がってしまう。「財テク」がらみの企てとして描かれるカラクリも、なんだかあまりビックリするような内容でもない。そうだ。我々は既に、リーマンショック時の実話に基づく「マネーショート」という恐ろしい映画を体験してしまった。あの作品で描かれていた仮借ない現代金融の闇の実像の恐怖のリアリティとは、この映画はついに無縁である。いやむしろ、フィクションとして楽しめるという意見もあるかもしれない。だが、ここで犯人カイル・バドウェル役を演じたジャック・オコンネルのインタビューを少し見てみよう。ジョディ・フォスターから脚本を受け取り、スカイプでオーディションに参加したが、それがフォスターとの初対面であった由。

QUOTE
物語については、リアルで説得力があるところに惹かれた。汚い世界の犠牲になったカイルに共感できたんだ。
UNQUOTE

もちろんこれは素直な感想で大変結構だし、「リアルじゃないなぁと思いました」とはインタビューで言わないと思うが(笑)、演技の中に何かもっと狂気を感じるものがあれば、嘘からリアリティが生まれてきたかもしれない・・・と思ってしまうのはないものねだりか。
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このような現場でのジョディ・フォスターの写真を見ると、指導はきっと厳しいのであろうが、メガネにパーカーと、ラフないでたちでの熱血指導に、俳優たちもちょっと遠慮しているのかもしれないなと、余計なことを考えたりする。これまでの彼女の作品についてあまりイメージないものの、もちろんハリウッドの重鎮であることには誰も異論の余地のない存在であり、その彼女がメガホンを取ることの意義は大きいと思う。それだけに、もう少し丁寧かつイマジネーションあふれる内容の映画を見たかったというのが正直な感想なのであります。

と言いながら、この映画を見たときに劇場にサイン入りポスターが貼ってあったので写真に収めてしまった。ハートマークなんて書いている場合かい、と突っ込むのはやめにして、次回作に期待しましょう。
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by yokohama7474 | 2016-07-19 23:09 | 映画 | Comments(0)

ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2016年7月16日 サントリーホール

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今月の東京交響楽団(通称「東響」)の指揮台には、音楽監督ジョナサン・ノットが3回登場する。そのうちの2回、今日と明日、演奏されるのは、ブルックナーの大作交響曲第8番ハ短調である。逃げも隠れもできない、西洋音楽の歴史の中でも指折りの深い内容を持つ巨大な交響曲。全曲演奏にたっぷり80分を要し、当然ながら途中に休憩はない。この日のチケットは既に完売であり、夏休み前の東京のクラシック音楽シーンの大きなイヴェントと位置付けることができるだろう。
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楽団のホームページを見ると、最近のノットの活動としては、6月下旬にダニエレ・ガッティの代役としてウィーン・フィルを指揮、テノールのヨナフ・カウフマンを独唱者としたマーラーの「大地の歌」を録音したという。ウィーン・フィルのフェイスブックには、「ヨナス・カウフマン Only!」とあるので、通常2人の独唱者を必要とするこの曲をひとりで歌い切ったということか?! そんな楽譜があるのだろうか。ともあれノットはその後、16年間常任指揮者を務めたバンベルク交響楽団との最後の演奏会を現地で指揮。2つの演奏会のうちのひとつの曲目が、今回東響でも採り上げる、このブルックナー8番であった由。彼がこれまでこの曲を指揮したことがあるのか否か分からないが(ネットで調べると2002年にルツェルンでは演奏しているようだが)、いずれにせよ、ノットが自らの節目に選んだ特別な曲であると解釈しよう。これは今回のリハーサルの様子。壁面の模様から、場所はミューザ川崎であることが分かる (上のインタビューもそうだが)。
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東京のコンサートは海外と違って、開演前にやたら静かなのが特徴なのであるが、今回は特にそうで、まるで儀式の開始でも待つかのように静まり返っていた。東京の聴衆は既にブルックナーにはおなじみであり、この8番も、多くの聴衆が既によく知っている曲なのであろう。見ていると老若男女、いろいろな人たちが来ている。この曲目でこのような多種多様な聴衆が集まって完売になる街は、東京以外にはあるだろうかと、ふと考える。

さて、そのような中で始まった今回のブルックナーは、いかにもノットらしく流れのよい清潔感のある演奏。東響も、各楽器の間の音楽の受け渡しが素晴らしくスムーズで、力の入り方に無理がなく、強引さが皆無の美しい演奏であった。ノットは譜面台にスコアを置いているものの、前半は全くそれを見る気配もなく、後半にはページはめくっていたものの、目をやっているようにはほとんど感じられなかった。今のジョナサン・ノットの持ち味のすべてが発揮された、好感の持てる演奏であったと言えるだろう。マイクがあちこちに立っていたので、録音として残されることになるようである。

と、ここまで賛辞を連ねておいて、急に留保をつけるのが私の悪い癖(?)なのであるが、これまでに東京で繰り広げられてきた壮絶なブルックナー演奏(中にはオケの技術的限界を超えるものもあった)の流れの中では、少し線が細いような気がしたのは私だけであろうか。このブルックナーという作曲家、このブログの記事でも何度も採り上げてきており、その度に指揮者の適性について思いを述べている。彼は大変特殊な作曲家であり、綺麗な音でなるとか整理が行き届いているだけではどうにもならない神秘性を持っているのだ。若いからダメとか年を取っているからよいという問題でもない。不思議な相性がある場合が多いと思うのである。その点で見れば、ノットのレパートリーとしてブルックナーは、今の時点では最高の相性というわけではないと思っていて、今回の演奏の充実を実感しながらも、この指揮者とオケが今後10年の契約期間のうちに到達するであろう高みに対する期待が、むしろ募ることとなった。考えてみればこの東響は、日本の生んだ奇跡のブルックナー指揮者、朝比奈隆が東京で定期的に指揮したオケのうちのひとつで、このコンビでのブルックナーの録音もある。世界の最前線で活躍する指揮者が、もしかすると日本で独自に発達したブルックナー演奏に学ぼうとしているようなことが起こると面白いなぁ、と勝手に妄想している次第。

この秋、ノットと東響はヨーロッパに演奏旅行に出かける。目的地は、ポーランドのブロツワフ、ザグレブ、ウィーン、ロッテルダム、ドルトムントの5ヶ所。是非是非ヨーロッパの聴衆に自らの音楽をじっくり聴いてもらうような充実した演奏を求めない。このコンビはまだまだこれからすごいことになって行くと思う。
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by yokohama7474 | 2016-07-16 22:39 | 美術・旅行 | Comments(0)

マスネ 作曲 歌劇「ウェルテル」(指揮 : アントニオ・パッパーノ / 演出 : ブノア・ジャコ) 2016年7月13日 ロンドン、Royal Opera House

かつて2年ほど暮らしたことのあるロンドンには、今でも毎年のように出張で訪れてはいるものの、今回は2年ぶりの訪問。しかも、Brexit(英国のEU脱退)の方向が明確になってからは初めての訪問だ。それどころか、私がこのオペラを見た7月13日(水)は、辞任したデイヴィッド・キャメロンからテリーザ・メイに首相の座が移ったまさにその日。街中は移民問題やテロに関して議論百発、ロンドン中にバリケードが築かれ、大規模なデモにおいて警官と民衆のもみ合いが各地で発生、あちこちにピリピリした空気が張り詰めて・・・はおらず、いつもとなんら変わりのない、パブで立ちながらただビールを飲む人たちが溢れる、いつもながらのロンドンだ。もちろん私とても、街の状況をつぶさに見るためにロンドンに出張したわけではないので、世の中の動き全体を把握することは不可能だが、少なくとも、通常の人々の生活には混乱は全くなさそうに見えたことは確か。そんな中、なんとか時間をやりくりして見に行くことができたオペラは、フランス・オペラの傑作、ジュール・マスネ (1842 - 1912) の「ウェルテル」だ。これは、劇場がこのプログラムを映画にもそのまま使えるように作成したイメージ・ポスター。
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このブログでも既に4月4日の記事で、東京の新国立劇場でのこの作品の上演(もちろん全く違うプロダクションだ)を採り上げた。超有名曲に比べればそれほど頻繁に演奏される演目ではないのだが、美しい旋律と滔々と流れる情緒に溢れており、見た人の心に残る作品であろう(まあ、ただフラれただけで自殺してしまうという内容が青臭いと切り捨てる人には、無理にオススメはしませんが 笑)。

コヴェントガーデンというかつて市場のあった場所に位置するロイヤル・オペラ・ハウスは、もちろん欧州でも指折りの名門歌劇場であるが、いかにもロンドンらしく、堂々たる大通りにではなく、せせこましい一方通行の道に沿って建っている。24年前に初めて現地に行ったときには、一体どれがオペラハウスかと探したものである (ちょっと言い過ぎか 笑)。
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オペラハウスに向かって左手にはガラス貼りの建物が隣接していて (以前の市場の建物を 1990年代に再建したもの)、そこにクロークやカフェやボックスオフィスもあるのだが、今回行くと改修中であった。従って、昔のあの狭いロイヤル・オペラとなってしまっている。だがまあよい。肝心なのは演奏の内容だ。
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劇場内には、かつてここで活躍した指揮者、歌手、バレエダンサーなどの肖像が並んでいるが、我々にもなじみがあるのはやはり指揮者であり、かつて音楽監督を務めたコリン・デイヴィスやゲオルク・ショルティの肖像彫刻を見て人々は、「あまり似てないね」とつぶやくことだろう (笑)。
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私がここで好きなのは、劇場内部に入る手前の、入り口向かって右手に見える往年の大指揮者、トーマス・ビーチャムの肖像彫刻だ。肩から上だけの幽霊が空中に現れて指揮しているようである。それぞれの劇場の目的が、時として音楽というよりは芝居にあるように思われるこの街には、この雰囲気はふさわしいと思うのだが、いかがだろうか。
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客席も相変わらずせせこましいが、一応それなりに華やかにはできている。
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さて今回の「ウェルテル」であるが、プログラムによると2004年、2011年に上演されたもののリバイバル。ちなみに過去この劇場でのこの作品の上演歴は以下の通り。
 1894年 英国初演 (大失敗)
 1979年 English National Operaとの共同プロダクション。アフルレート・クラウスのウェルテル、ミシェル・プラッソン指揮。
 1980年 新演出。ホセ・カレーラスのウェルテル、フレテリカ・フォン・シュターデのシャルロット、コリン・デイヴィス指揮。
 1983年 ジャコモ・アラガルのウェルテル、イヴォンヌ・ミントンのシャルロット、ジャック・デラコート指揮。
 1987年 フランシスコ・アライサのウェルテル、アグネス・バルツァのシャルロット。
 2004年 今回の演出。マルセロ・アルヴァレスのウェルテル、アントニオ・パッパーノ指揮。
 2011年 ロランド・ビリャソンのウェルテル、アントニオ・パッパーノ指揮。

さて今回の主役は、イタリア人で最近の活躍が目覚ましいテノール歌手のヴィットリオ・グリゴーロ。
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経歴を見ると、23歳でスカラ座にデビューしているほか、ウィーン、MET、ミュンヘン、ベルリン・ドイツ・オペラなどで「椿姫」のアルフレートや「愛の妙薬」のネモリーノ、「ボエーム」のロドルフォなどを主要なレパートリーにして活躍しているが、非常に抒情的な声(リリコ)であり、このウェルテルへの適性は非常に高いものと聴いた。対する恋人シャルロッテを歌うのは、米国のメゾソプラノ、ジョイス・ディドナート。
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ベル・カントからシュトラウスまでかなり広いレポートリーを持つようだが、昨年このロイヤル・オペラの来日公演でも、「ドン・ジョヴァンニ」においてドンナ・エルヴィーラを歌っていた。このシャルロットという役は結構複雑で難しいと思うのだが、彼女は、最初の登場のシーンでの子供たちの面倒を見る優しさから、後半にかけて深くなって行く苦悩まで、多彩に歌い切ってみせた。

もうひとり心に残ったのは、シャルロットの妹ゾフィー役で、これも米国人、ソプラノのヘザー・インゲブレットソン。その明るさがオペラ全体の悲劇性を際立たせる、実は重要な役なのであるが、屈託なくもよく気の回る役柄を気持ちよく演じていた。
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だが、今回も音楽の主導権を握っていたのは、明らかに指揮者のパッパーノである。抒情的なシーンでの弦の唸りや、心理劇を引き立てる大きな盛り上がりなど、彼のテンペラメントのよいところが作品に大きな力を与えていたと思う。どんなに旬の歌手が登壇しても、その能力を最大限に引き出すのが指揮者の役目であり、その意味でこのロイヤル・オペラがパッパーノのもとで充実した活動を続けていることは素晴らしい。今後の英国の方向性の中でも、変わらぬ質の音楽を聴かせ続けて欲しい。
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尚、今回の演出家はフランス人のブノア・ジャコ。彼は映画監督でもあるらしい。この作品の心理的な閉鎖性を象徴するように、ほとんどのシーンの設定が狭い屋内であり、余分な前衛性はゼロであった点、音楽の邪魔をしない演出であったと評価しよう。この演出であれば、狂言回しの登場にも意味を感じることができたし、ことさらに悲劇性を強調することなく淡々と情景を移して行く手腕は、実はなかなか侮れないものであると思う。
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上演プログラムには、クノップフがブルージュの風景を描いた「見捨てられた街」とか、デンマークの画家ハンマースホイの静謐な作品の写真が掲載されていて興味深い。ただ、周辺の文章を拾い読みしても、これらの絵画作品の写真を掲載した明確な説明は見当たらない。昨年4月1日にフランス作曲界の大御所ピエール・プーレーズ (その後、今年の初めに死去) の新聞でのインタビュー記事で、「子供の頃最初に親しんだ音楽はマスネだった」とされたのが、実はエイプリル・フールの嘘でしたという面白いネタは見つかるのだが(それにしてもフランスのエイプリル・フールはなんと文化的か!!)・・・。ただ、なるほどこのような静かで神秘的な雰囲気のセットの中で、ひとりの人間が襲われる悲劇がこの演出のテーマだと思うと、よく分かるような気もするのである。
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ロンドンでは既にオーケストラのシーズンは終わっていて、オペラも、この「ウェルテル」と、ジャナンドレア・ノセダ指揮の「トロヴァトーレ」でシーズンを終える。その後の夏のクラシック音楽界は、BBC プロムナードコンサートの一連のシリーズ一色である。世界第一級の音楽家たちが多く集まり、最終日には英国人たちが大騒ぎするラスト・ナイトを迎えるのだが、さてBrexitの今年はどのようなことになるのであろうか。文化面でのロンドンの優位性は、願わくばこの後も残って行ってほしいものなのだが。

by yokohama7474 | 2016-07-16 13:27 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ストックホルム ヴァーサ博物館

スウェーデンの首都ストックホルム。ノーベル賞で知られる街。素晴らしい2つのオーケストラ、ストックホルム・フィルとスウェーデン放送交響楽団の本拠地。世界最高の合唱指揮者、エリク・エリクソンの出身地。もう少しご存知の方は、郊外にあって未だスウェーデン国王が起居している世界遺産、ドロットニングホルム宮殿とそこにある18世紀のオペラハウスの意義を唱えてもよい。そして、昨年9月7日の記事で採り上げた不思議な映画、「さよなら人類」もこのスウェーデンで制作されたものである。ちょっと街中に出ると、こんな気持ちよい光景を見ることができる。
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実は今回、久しぶりにこの街を訪れ、仕事の合間に1時間ほど余裕ができたので、宿泊しているホテルから徒歩圏内にあって、世界でも類を見ない素晴らしい場所に出かけることとした。湾内に立ち並ぶヨットの横を歩くと、北欧とは思えないほど鮮やかな陽光が人々の生を輝かしく彩っているのが実感でき、なんとも嬉しくなるのだ。そんな素晴らしい気候の中、私が同僚たちに絶対見せたいと思った場所が、ヴァーサ博物館だ。博物館といえば、いろいろな価値あるものがガラスケースに入っているのを間近で見て、人間の営みに思いを馳せる場所である。ところがこの博物館はちょっと違う。なにせ、展示物は基本的にひとつ。もちろんそれに関連する資料はあるものの、すべてはその展示物のために作られた場所なのだ。その展示物とはこれだ。
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むむむ、よく分からないだろうか。実はこれ、17世紀に建造された木製の戦艦なのである!! その名はヴァーサ号。全長62m、最大幅12m、マスト最上部まで実に50m。その巨大な船が室内いっぱいにデーンと横たわるミュージアム。もちろんこれは完全なかたちで現存する最古の船である。その存在感は異様な迫力。1682年、ドイツでの30年戦争に参戦するためにストックホルムの埠頭から処女航海に出たが、折からの突風に煽られ、未だ港内にいる間にあっけなく沈没してしまった。沈没の原因は未だ不明とされているが、1961年にこの巨大な船の引き揚げがなされ、船の周りに大きな覆いを作ったのがこのヴァーサ博物館だ。300年近く海中に沈んでいたため、腐ることなくそのままの形をとどめることとなった。軍艦とはいえ、様々に豪華な装飾が施されていて、その素晴らしさには文字通り目を奪われる。これは船尾の彫刻。
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色はさすがに落ちてしまっているのでちょっと分かりにくいが、上部の方に施されていた彫刻の復元が展示されている。おー、戦艦にここまで彫刻を施すという情熱は一体どこから来たものか知らないが、とにかくこれは尋常ではない。
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そして、この船全体の当時の姿を復元した模型も展示されている。船腹には多くの大砲が顔を覗かせている。
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この巨大な船を海から引き揚げるのがいかに大変であったか、想像をすることはできる。この博物館にはまた、引き揚げの時の様子が模型で再現されている。なんでも、空気中に上がって来たときに崩壊することを防ぐため、始終船に水をかけ続けての作業であったという。
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これらはいかに写真を掲載しても、実物の迫力には到底及ばない。ストックホルムに行く予定のある方には、是非ご覧になることをお勧めする。また、クラシック音楽ファンの方であれば、ベルリン・フィルが毎年5月1日にヨーロッパの都市で開催するヨーロッパ・コンサートのひとつとして、1998年にこの場所で、当時の音楽監督クラウディオ・アバドの指揮で行った演奏会をご存知であろう。このときには主として海に関係する曲が演奏されたが、上に名前を挙げた名合唱指揮者、エリク・エリクソンの率いるスウェーデン室内合唱団とエリク・エリクソン合唱団も共演していた。
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私は今回二度目の訪問であったが、改めてその迫力に大興奮。この船の小さい模型を購入して、我が家のガラクタ置き場、いや、我が家では「世界遺産コーナー」と命名している (笑)、実際に自分が訪問した世界各地の遺跡や建造物の安物のガジェットを所せましと飾っている場所に加えることとした。と、ところが!! いざパッケージから出して、展示場所を空けるために一旦折り畳み式のベッド (畳んだ状態でちょっと不安定だった) の上に置き、さて飾ろうとすると、その姿が見えないではないか!! 先刻までここにあったのにと思いながら周りをあちこち調べ、ベッドを移動して隙間を覗き込んでみると、なんとなんと、折り畳まれたベッドの隙間に落ち込み、下の方の金属の上にちょこっと乗っかっているではないか!!これが発見時の写真。ヤラセではなく、正真正銘の本物である。スプリングの下、縁の部分の金属の上に奇跡的に乗っかっている!! さすがヴァーサ号の模型。隙間に落ちても、必ず引き揚げられる場所に留まる、不思議な力を持っているのであろう (笑)。いやはや。
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そうして我が家に仲間入りしたミニ・ヴァーサ号は、沈没した1682年という年号の表示とともに、「世界遺産コーナー」のヨーロッパの場所に収まることとなった。真ん中に見える青い屋根の建物が、同じストックホルムで以前購入した市庁舎のガジェットである。この市庁舎、ノーベル賞の授与式の会場として有名である。
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素晴らしきストックホルム。次回は是非オーケストラを聴いてみたいし、地元の人によると、オペラもなかなかの水準らしい。成熟したヨーロッパの神髄がここにある。そしてまたヴァーサ号のように、一旦危機に瀕しても、逞しく這い上がる生命力を持ち続けるために、大変ご利益のある場所であることを確信しました!!

by yokohama7474 | 2016-07-16 00:48 | 美術・旅行 | Comments(0)

美の祝典 III 江戸絵画の華やぎ 出光美術館

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出光美術館の開館 50周年を記念する大展覧会、4月からほぼ月替わりの内容で開催されてきた「美の祝典」もついに大詰め、3回シリーズの最終回。ところでこの連続展覧会が開かれているうちに、と言ってもつい最近のことだが、世間では「出光」という名前がちょっとした騒ぎになっている。つまり、昭和シェル石油との合併に創業家が反対しているというニュースだ。出光興産の創業者と言えば、百田尚樹の小説「海賊と呼ばれた男」のモデルにもなった出光佐三であり、彼の財力と慧眼が可能にしたコレクションが、この美術館の所蔵品であることは、4月30日付の記事で紹介した。この美術館が所蔵する日本美術の名品の数々は圧倒的であり、展示スペースの関係で3回に分かれた開催とはいえ、連続して足を運べば、そのコレクション (それでもまだまだ一部なのであるが・・・例えばこの美術館が所蔵する 1,000点を超える仙厓の作品は、今回全く展示されていない) の名品の数々を見ることができる、大変に貴重な機会であったのである。

第 3回の今回の副題は、「江戸絵画の華やぎ」。実は江戸時代以前の作品も展示されているが、ひとつの特徴はその題名の通り、華やかな作品が選ばれているということだろう。前回の水墨画中心の展示とは対照的だ。だがその展示の紹介の前に、恒例の (?) 国宝「伴大納言絵詞」の、今回展示されている下巻を少し見てみよう。ここでは、ついに罪が明らかになった大納言、伴善男の屋敷に検非違使一行が向かい、大納言が連行されて行くシーンが描かれている。上巻の応天門の火事、中巻の子供の喧嘩のような際立ったシーンはないものの、やはり人間描写のリアルさは圧倒的だ。これは屋敷に向かう検非違使たち。表情には緊張感が漲り、人々は身を寄せ合っている。
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一方これは、その後逮捕を終えて帰路につく検非違使たち。解放感に列はばらけ、心なしか表情も明るい。
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これらの間に、突然の主人の逮捕に泣き崩れる伴大納言の家族たちが描かれている。相変わらずリアルな感情を、マンガさながらの誇張を加えて描く作者の筆の冴えには脱帽だ。
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この国宝の絵巻物が海外流出せずにこの美術館に所蔵されているだけでも、このコレクションの意義の大きさが知れようというものだ。次に実物にお目にかかれるのはいつになるのか分からぬが、当面はこれらの画像を瞼の裏に焼き付けておこう。

その他、いくつか目に留まった面白い作品を紹介して行こう。これは重要文化財の「祇園祭礼図屏風」。桃山時代、慶長年間初期 (16世紀末) の作で、祇園祭を描いた現存最古の作品である。ちょうど今月、京都で行われている祇園祭は、9世紀に起源を持つという驚異的な祭であって、応仁の乱で一時中断したというが (っていつの話ですか 笑)、町衆の力で復活したらしい。私も以前、宵山を一度経験したことがあるが、その深い夏の情緒は言葉にできないくらい素晴らしく、本当に忘れられない経験だ。そんな情緒が 400年前の作品に漂っているとは!! 解説には、祭の賑やかさよりも厳かさを描いているとあるが、確かにそう見える。
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今回展示されている屏風絵はいずれも華やかなものであるが、やはり桃山時代の「南蛮屏風」は私の好きな題材だ。戦乱の後、江戸時代という長期安定状態に入る前のごく限られた期間に、このような「国際交流」が日本でなされていたとは、考えるだけで浮き浮きするではないか。やっぱり好きだなぁ、南蛮屏風。
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そして江戸時代に描かれた、重要文化財「江戸名所図屏風」。八曲一双の、非常に横に長い屏風であり、上野、浅草、日本橋、江戸城から新橋、増上寺、芝浦という江戸中の盛り場の様子が描かれている。びっしりとひしめく人物たちは実に2,000人。こんな感じで、随所で歌ったり踊ったりしている。この種の絵画作品からいつも感じることだが、日本人は本当は社交的で明るい民族なのである。あー、江戸時代に生まれ変わりたい。
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さて、これまでの作品は作者不詳であったが、次は有名な画家の作品。英 一蝶 (はなぶさ いっちょう) だ。重要文化財「四季日待図巻 (しきひまちずかん)」。あーこれもまた楽しそうだ (笑)。
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この英 一蝶、確か中学生のときに国語の教師が「いい名前だねぇ」と言っていたので名前はその頃から鮮烈に記憶にあり、過去に展覧会に出かけたこともあるが、経歴については恥ずかしながらそれほどイメージがなかった。だが今回、自由な創作活動が幕府の不興を買って、12年間も三宅島に流罪になっていたと読んで、ああそうだったそうだったと思い出した次第。実はこの作品は彼が流罪になっていた頃のものであるが、そんなことを少しも感じさせない明るさである。全く、微塵も反省のない画家だ (笑)。楽しすぎるでしょ、これ。ちなみに「日待 (ひまち)」とは元来、特定の日に人々が集まって終夜屋内にこもり、日の出を礼拝するという行事であったが、元禄頃には皆で集まってドンチャン騒ぎをする遊興に変わって流行したらしい。うーん、時代と場所を問わず、人は何かにかこつけて結局飲んで騒ぎたいものなのだ。やっぱり楽しすぎるでしょ、これ。

今回のテーマは「江戸絵画の華やぎ」であって、「宴会絵画の華やぎ」ではない。ということで、ここで趣向を変えて、超大物画家の絶品をご紹介する。喜多川歌麿の円熟期の作品「更衣美人図」、重要文化財である。
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実はこの作品とは以前にも同じ出光美術館で対面していて、それは 3月28日の記事でも採り上げたのだが、再び実物の前に立ってみると、二度採り上げても全く惜しくない出来であることを実感する。その生々しさたるや、ちょっとたじろぐほどなのである。これは版画にはない、肉筆画ならではの存在感だ。そして、次も超有名画家の作品。
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こちらは葛飾北斎の「春秋二美人図」のうちの春の方だ。歌麿に比べると北斎の感覚はまるで近代の画家のようで、身体表現としてはより写実的だと思う。この対比はとても面白い。

さて、華やかな江戸絵画と言えば、なんと言っても尾形光琳であろう。この出光美術館には、MOA 美術館や根津美術館のような絢爛たる国宝大作はないが、興味深い作品がいくつかある。中でもちょっと風変わりなこの作品。「禊図屏風 (みそぎずびょうぶ)」、重要文化財である。
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え? これが光琳? と思われた方、お目が高い・・・というか、間近で見れば誰しもちょっと違う気がするであろう。横浜の三渓園を作った原 三渓の旧蔵で、もとは光琳作と言われ、調査によっても光琳の印章の痕跡が確認されたものの、解説には「光琳の真筆とするにはやや画格が落ちるといわざるをえず、その弟子作と見るべきであろう」とある。だが、この題材と、その描き方が大変面白い。一説によるとこれは、「伊勢物語」に登場する、叶わぬ恋心を洗い清めようと禊をするシーンであるとも言われているらしい。「伊勢物語」と言えば在原業平と思い込んでいたが、作中では主人公の名前は特定されていないらしい。いずれにせよこの作品、不思議な後ろ向きの男の姿に、シュールなまでに形式化された川の水、その勢いで後ろにふわっと舞っている男の衣類と、それから奥の山 (?) の装飾性には、確かに光琳風の粋な感覚を感じることができる。

そして、あっなんだ、仙厓もあるじゃない、と思うと、実はこれは光琳の真筆。弟、乾山のために描いた茶碗絵付け用の絵手本である由。この兄弟は共作も多く、このような気楽な走り書きには、切れ味よく凝った装飾で時代を先駆けた光琳とは異なる顔を見る思いである。
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琳派の作品としては、光琳より 100年ものち、場所も異なる江戸で活躍した酒井抱一と鈴木其一の作品も何点か展示されている。これは其一の「秋草図」。なんとも鮮やかだ。明らかに光琳の時代よりも近代性が強く、細密描写でありながらも形式的な作風だ。
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抱一の「紅白梅図屏風」のうちの白梅。敬愛する光琳の同名の作品とは、あえて違う作風に挑戦しているのであろう。銀の屏風に鋭く切れ込む枝が、独特の生命力を見せる。
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そして、これも抱一の、「風神雷神図屏風」。有名な俵屋宗達の作品を模写した光琳に倣って描かれたもの。以前、この 3作品が一堂に会する展覧会で興味深く比較をしたことがあるが、構図は全く同じでも、端の方の切れ方や、線の引き方、体の周りの墨 (雲?) の形態などに、微妙な違いがある。この抱一の作品は、ほかの 2点より色合いが鮮やかで軽やかに見える。風神雷神に仮託して琳派の継承を高らかに宣言するかのような、意気込みが感じられる。
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このように、今回も名品てんこ盛りのすばらしい出光美術館のコレクション展だ。創業家が現代の出光興産のビジネスに口を出すのがよいことか悪いことか判らないが、これらのコレクションの管理維持だけは、出光の社会的な責務になっているので、その点、ご如才なくことながら、よろしくお願いします。

さて、この記事のあとにもまだいくつかアップすべき記事のネタはあるのだが、しばらく出張に出てしまうので、一週間と少し、ブログの更新はできません。あしからずご了承下さい。


by yokohama7474 | 2016-07-07 01:19 | 美術・旅行 | Comments(0)

デッドプール (ティム・ミラー監督 / 原題 : Deadpool)

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上記はこの映画の米国でのポスターである。よって表記は当然英語だし、封切日も日本のそれとは異なっている。だが、なぜあえてそれを冒頭に掲げたかというと、日本のポスターだとこんな感じになってしまうからだ。
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うーん、なんかこの雰囲気、文化ブログにそぐわないんだよねぇ (笑)。スマホで記事の一覧を見るときなどには写真が並ぶので、あまりふざけていない方がよいと考えたもの。と、そんなこと誰も気にしないという説もありますが・・・。まあともあれこの映画の主人公は、上で明らかな通り、背中に刀を二本差している忍者風コスチュームのヒーローなのである。これは、スパイダーマンやX-Men シリーズ、あるいはアベンジャーズやトランスフォーマーなどで知られるアメリカン・コミックのマーヴェル社のキャラクター。設定は、特殊部隊出身のおしゃべりな傭兵であったウェイド・ウィルソンが不治の病に侵され、その治療と称して受けた医学的処置によって不死身の体になるというもの。通常のヒーロー物と異なる点は、まあなんとも下品かつ人間くさいこと。私はアメコミにおけるこのキャラクターの人気には全く疎いが、1991年の登場以来、かなり人気があるようだ。これが原作における姿。
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このキャラクター、実は2009年から映画化の話はあったとのこと。「ウルヴァリン : X-Men Zero」において、このデッドプールの前身であるウェイド・ウィルソン役を、本作でも主演を務めるライアン・レイノルズが演じていたのが始まりで、X-Men シリーズの派生作品として制作されるはずが一旦棚上げとなったところ、デッドプールのテスト映像がネットに流出し、ファンの大反響があったことから、今般映画化にこぎ着けられたとのこと。なるほど、熱狂的なファンの後押しあって初めて実現した映画であるわけだ。これが件の「ウルヴァリン : X-Men Zero」においてライアン・レイノルズが演じるウェイド・ウィルソン役。なんだ、意外に真面目にやっているではないですか (笑)。
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それから、「デッドプール」という名称だが、この言葉を題名にした映画が以前にもあった。それは「ダーティーハリー 5」の原題。
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実はこの「デッドプール」には様々な映画がコネタとして引用されており、面白いのであるが (言及されているのは、それほどマニアックでない映画が多いせいもあろう)、実は主人公がコスチュームを着て復讐に乗り出す際、名前を決めるときに、この「ダーティーハリー5」の原題に従うことが示される。この言葉の意味は、文字通り死人の掃きだめということであろうか、映画の中では、次に死ぬのは誰かという予想をするゲームのことを意味している。なんとも悪趣味なのであるが、この映画に次々と出てくるネタはお下劣で、文化ブログで扱うには若干気が引けることも事実だが、見ているときにガハハと笑っている自分を否定することなく (笑)、このまま記事を書き進めよう。

予告編でかなりストーリーにイメージが持てるような作りになっていたが、ここで描かれているのは、自分を不死身のヒーローにした代わりに醜い姿に変えてしまった科学者に対して復讐するデッドプールの姿である。このような顔はネタバレでもなんでもなく、予告編でも既に見ることができる。
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それはまぁ派手に敵の一群を撃ち殺しなぎ倒すのであるが、このスピード感あふれる切れ味よい殺陣には、何か特別な技術が使われているのだろうか。テンポ感やメリハリもあって、やけにカッコよい。こんな跳躍 + 銃撃もなかなか決まっている。
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それから、X-Men のメンバーが二人。実に対照的なのだが、一人は CG キャラのコロッサス。怪力で、ロシアなまりの英語がワイルドだ。
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もう一人は。ネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッド (長い名前だなぁ)。身体の周りに膨大なエネルギーを溜めて放射することができる。若い女性だが、このスキンヘッドがなんとも印象的。
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上でこの映画を下品だ下劣だと貶めている割には、実は今、これを書いている私の気分は悪くない。それは、愛する人に対して示す態度や、デッドプールになる前のウェイド・ウィルソンが悪い奴を脅すエピソードにおいて、どうにも憎めないこのデッドプールのキャラクターがはっきり描かれているからであろう。つまりは優等生的なヒーロー像よりも、ダークサイドに入っているこのキャラクターの方が、なぜだか人は、より感情移入できるのだということだろう。うん、そうだ。この映画のような殺戮のような極端なケースではなくとも、ダークサイドの魅力は日常のいろいろなとことにあるものだ。予告編にも出てくる、デッドプールが復讐の殺戮に挑む前に、憎むべき敵のマンガ的肖像を描いているというこのシーンも興味深い。なんともとぼけていながら、一種の切迫感も感じさせる独特の雰囲気を持っているのである。
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それから、敵を取り逃がしたときのこの表情。マスクをしているのに、その慌てぶりがよく分かる (笑)。
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この作品の監督、ティム・ミラーは、これまで CM やゲームの分野で 20年以上の経験を積み、今回が長編映画の第一作。極端な架空のキャラクターを駆使しながらも、人間くささをあちこちに散りばめた面白い映画を作り上げた。最近この記事で採り上げている映画の監督には、たまたま未だキャリアの浅い人たちが多いが、それぞれに想像力を必要とする周辺分野から映画に移って来ているということだろう。所与のキャラクターや題材をもとに、いかに感情移入できる映像を作れるかという点が勝負であろうと思う。

この映画を見て、デッドプールに憧れる人というのはあまりないと思うが (笑)、一時だけでも自由な気分になれれば、それはそれで貴重な時間だと思う。このキャラは、原作でも読者に向かって話しかけるというが、この映画でも観客に話しかけるし、撮影しているカメラが汚れるようなシーンもある。そしてエンドタイトルの後にも人を食ったメッセージがあるのでお見逃しなく。ご存知ない方に申し上げると、ここでデッドプールが言っている「眼帯をしたサミュエル・L・ジャクソン」とは、アベンジャーシリーズに出てくるニック・フューリーのことだろう。出てこない出てこないと言っているが、それだけに次回作 (きっと作られるだろう) に出てくるのではないか・・・と思う次第。いい勝負になるのでは。
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by yokohama7474 | 2016-07-05 23:40 | 映画 | Comments(2)

エクス・マキナ (アレックス・ガーランド監督 / 原題 : Ex Machina)

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最近、報道で AI (Artificial Intelligence = 人工知能) が取り扱われる機会が増えて来ている。やれチェスで人間に勝っただの、展示会で新製品が発表されただの、老齢者が大半を占めるようになる今後の大きな課題であるだの。ある朝、NHK のニュースを見ていたら、今後考えるべき AI に関する問題として、廃棄されたロボットが権利を主張することになる可能性だと解説されていたのを聞いて、ガハハと大声で笑ってしまったのであるが、現在の AI の特徴は、自らが考える能力を備えていること。であれば、お役御免で廃棄されたり、3K労働を強制されたということで人間に対する恨みを抱くロボットという、まさに古くからあるSF的テーマ、いや、SFという分野が成立したまさにその時からある古典的テーマというべきか、それが現実の問題として発生するのはそう遠くないということであろうか。アイザック・アシモフのロボット三原則が国際機関によって明文化され、各国の選挙では立候補者がロボットとの関係に関する公約の内容で人気を競い合うようなことになるのだろうか。

この映画はまさにそのような AI の現状に基づいて作られたスリラーなのであるが、この「エクス・マキナ」とはいかなる意味か。実は、6月28日付の記事で採り上げた現代演劇界の鬼才、ロベール・ルパージュによる一人芝居「887」でも、冒頭に「これはエクス・マキナの制作によるものです」というセリフがあった。そのとき既にこの映画に目をつけていた私は、むむ、この言葉は時代のキーワードなのだろうかと、若干興奮気味になったことを白状しよう (笑)。実はこのエクス・マキナとは、ルパージュが経営するプロダクションの名前であるようだ。そしてこのラテン語の意味は、どうやら「機械による」というものらしく、"Deus Ex Machina" (機械仕掛けの神の意) とは、ギリシャ悲劇由来の演出技法のこと。舞台上で劇の内容が錯綜した際に、天から神が現れて解決するという手法を指すらしい。Wiki を見るとモーツァルトのオペラ「イドメネオ」のラストが例に挙がっている。なるほど、それなら同じモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」とか、さらに言うならヴェルディの「ドン・カルロ」などもそのデウス・エクス・マキナの例ではないのだろうか。

ともあれ、この映画のストーリーは、IT 企業で成功したワンマン社長が山奥にある自宅に抽選で選ばれた若い社員を招待し、このアンドロイド (名前を AVA = エヴァという) の人工知能が正常に機能しているか否かを試させるというもの。そのような行為をチューリング・テストというらしく、英国のアラン・チューリングという科学者に因んで名づけられている。この設定から分かる通り、これは、先日見た「10 クローバーフィールド・レーン」同様、完全な密室劇である。この映画、今年のアカデミー賞の視覚効果賞を受賞している。CGの駆使によっていかなる映像も可能になっている現在、このような賞を取るには、なんらか明確なコンセプトが必要で、それは映画の内容にも必然的に関係してくるものであると思う。つまり、人間とアンドロイドとが織り成す心理ドラマが成功しているがゆえの視覚効果賞受賞であろうと思う。このような密室のシーンの表現力。
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何より、この映画のポスターにおけるエヴァの表情に、何やら興味を惹かれるではないか。この複雑な役を素晴らしく演じた女優は、スウェーデン出身のアリシア・ヴィキャンデル。と書いてから自分で「あーっ」と声を挙げて思い出しているのだが、昨年12月2日の記事で私が大絶賛した、あのガイ・リッチーの「コードネーム U.N.C.L.E」に出ていた女優だ。なるほどそうだったか。その作品ではこんな感じであったが。
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彼女はルイ・ヴィトンの広告のモデルもやっているし、何より「リリーのすべて」で今年アカデミー賞助演女優賞を獲得しているのだ。
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ふと気づくと、冒頭から 4枚、同じ女優さんの写真ばかり続いてしまっていますね (笑)。せっかく AI 問題の社会性について論じていたのに、これではちょっと気が散ってしまうので、映画について少し論評すると、舞台となる社長宅の設定が山奥の緑深い場所であって、しかも水量豊富な川の流れに面しているので、本来あるべき閉塞感を発散させることができる解放感が時折画面に立ち現れ、それが映画に陰影とリズムを与えている。
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社長を演じるのはオスカー・アイザック。
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IT 業界の天才という設定なので、ひげもじゃの不気味な姿だが、どこかで聞いた名前だと思ったら、コーエン兄弟の「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」の主役であり、また、「スター・ウォーズ / フォースの覚醒」ではこんな役で出ていたと言えば、分かる人も多かろう。ウルグアイの出身だ。
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まあしかしこうして見ると、役者という職業はいろいろな人生の (ある場合は人間だけでなくアンドロイドであったりもするわけだが 笑) 様態を違った形で演じ分ける必要のある、大変な職業であることが分かりますな。そうなるともう一人気になるのは、主人公ケイレブを演じるドーナル・グリーソンだ。
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名前からアイルランド人であることは明らかだが、「ハリー・ポッター」シリーズにビル・ウィーズリー役で出ており、またやはり「スター・ウォーズ / フォースの覚醒」でも、ハックス将軍役として出ていたらしいし、「レヴェナント」にも出演していた由。いずれも残念ながらあまり記憶にないが、ここでの彼は、SE らしい冷静さ、したたかさと、一方で初々しさを感じさせる雰囲気のよさで、かなりの好印象を与える演技を披露している。さてそうなるともう一人、セリフのない役で出ている女優を紹介したい。
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ソノヤ・ミズノ。28歳の日系英国人だ。東京生まれ、英国育ち。幼時からロイヤル・バレエ団で研鑽を積み、モデルとしての経歴もある。今回は映画デビューとのことであるが、その目力はなかなかのものがある。この映画ではあまり意味があるとも思えない (?) ダンスシーンで能力の一部を発揮してはいたものの、ちゃんと英語もできるであろうから、次はセリフのある映画への出演を期待したい。

これらの役者のアンサンブルが織り成すスリラーは、展開も読みにくく、なかなか面白い。クライマックスにはそれほど驚愕するわけでもないが、かなりスマートな演出となっていて、見ていて嫌味がない。そうそう、主人公が最初に社長宅の入口を入ったところで流れている BGM は、シューベルトの最後のピアノ・ソナタ、第 21番だ。このブログでも、昨年12月14日のクリスティアン・ツィメルマンのリサイタルの記事で、対照的な2枚の写真を掲載してその曲の複雑な情緒について説明したが、この映画が密室に入って行く冒頭部分で、この不気味さを孕んだ静けさを表現するには最適の曲であったであろう。この場所及び同じBGMは、映画のラスト近くでももう一度出て来るが、その詳細はネタバレになるので避けるにして、両シーンで、この音楽の持つ深淵を感じて頂きたい。エンド・タイトルで確認すると、このシューベルトの演奏は巨匠アルフレート・ブレンデルの録音。また、劇中ほかの場面でやはりBGMとして、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番が流れているが、こちらはヨーヨー・マの録音でしたよ。

ところでこの映画の脚本及び監督を手掛けたアレックス・ガーランドは、1970年生まれの英国人で、これが監督デビューであるとのこと。なかなかのセンスの持ち主であると思う。これまで小説や脚本を手掛けていて、ダニー・ボイルが映画化していたりするようだし、「わたしを離さないで」の脚本にも加わっていたらしい。今後期待の監督だ。
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このように見応え充分の映画であったが、さて、AI が人間を脅かす日は、本当に来るのであろうか。その点について考えていて、ふと思い立ったことがあった。あのスピルバーグが撮った、その名もずばりの「AI」という映画。今から 15年前、2001年の映画だ。主役を演じたのは、当時天才少年と言われたハーレイ・ジョエル・オスメント。その彼は、この「エクス・マキナ」に出ている二人の女優、アリシア・ヴィキャンデル及びソノヤ・ミズノと同じ1988年生まれで、未だ28歳。「AI」出演の頃の彼と最近の彼を、ちょっと比較してみよう。
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うーん。やはりあの時、つまり21世紀初頭の AI は偽物だったか (笑)。面影はないとは言わないが、人間は年を取るものであります。本物の AI との関係は、今後21世紀の半ばに向かう中で考えて行くべき問題なのであろう。

by yokohama7474 | 2016-07-04 01:22 | 映画 | Comments(0)

ダニエル・ハーディング指揮 新日本フィル 2016年 7月 2日 すみだトリフォニーホール

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英国の名指揮者ダニエル・ハーディングは、2010年からこの新日本フィルと緊密な共演を続けてきた。"Music Partner of NJP" (NJP は New Japan Philharmonic、つまり新日本フィルのこと) というユニークなタイトルであったが、彼はこの間、もうひとりの一流指揮者、つまり Conductor in Residence という、やはりユニークなタイトルを持って活動したインゴ・メッツマッハーとともにこのオケを大いに盛り上げたものだ。その間に前音楽監督クリスティアン・アルミンクは退任し、そして今年の秋からのシーズンでは、いよいよ期待の上岡敏之がこのオケの新音楽監督に就任する。それに合わせたのであろう、ハーディングの Music Partner of NJP としての契約期間は満了する。従って、今回の共演は、現在のタイトルでの最後のものになる。彼自身はこの秋から名門パリ管弦楽団の音楽監督に就任し、早速そのコンビでの日本公演も 11月に予定されているが、来シーズンの新日本フィルの演奏会スケジュールを見ても、彼の名前はない。つまり今回行われる 3回の演奏会は、ハーディングと新日本フィルにとってはひとつの区切りということになろう。演奏されたのは、マーラー作曲交響曲第 8番変ホ長調。

ハーディングは 6年間の Music Partner of NJP としての期間中にマーラーの交響曲を積極的に採り上げた。そのタイトルを持っての最初の演奏会では 5番を採り上げたが、その日は 2011年 3月11日。東日本大震災当日のその日は 会場に集まった僅か100名の聴衆を前に演奏したが、その翌日の同じ曲目でのコンサートはキャンセルせざるを得なくなった。だが、そのことでオケとの絆が深まったのだ (NHK がこのあたりの状況について番組を制作していた)。そして 3ヶ月後の 2011年 6月に改めて 5番を演奏。その後 2012年 1月に 9番、5月に 1番、2013年 6月に 6番、11月に 7番、2014年11月に 4番、2015年 7月に 2番、そして今回が 8番だ。そうするとあと演奏していないのは、3番、大地の歌、10番だけということになる。かく言う私も、昨年の 2番をこのブログで大絶賛したほか、5番、9番、6番を聴いている。
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そして、この曲、マーラーの 8番であるが、「1000人の交響曲」というあだ名でも明らかな通り、音楽史上一、二を争う巨大な規模の作品で、そうそう演奏されるものではない。普通こういう場合の「1000人」は比喩である場合が多いが、実際にマーラー自身が 1910年にミュンヘン・フィルを指揮してこの曲を初演した際の演奏者は総勢 1000人を超えていたというから驚きだ。これが初演の時の様子。指揮台にいるマーラー自身!!

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そういう作品であるからして、世界のどんな大都市でも、まあ控えめに見ても 5年に一度以上の頻度では演奏されないだろう・・・東京を除いては。なんということか、ここ東京とその近郊では、毎年というと若干の誇張かもしれないが、それに近いくらいこの曲が演奏されている。今年はこのハーディング / 新日本フィルと、9月にヤルヴィ / NHK 響の 2回が予定されているのだ。私自身は、1985年に初めてこの曲の生演奏を聴いたが、それはズデニェク・コシュラー指揮による東京都交響楽団の創立 20年を記念するもの (今プログラムを引っ張り出してみると、東京都知事 鈴木俊一とあって懐かしい)。それ以来何度もこの曲の実演を聴く機会があったが、聴く度に思うのは、この巨大な規模にもかかわらず、随所に室内楽的な緻密さを求められる曲であるということだ。8名もの独唱者の歌唱も、オペラのように劇の進行と共に歌われるのではなく (第 1部と第 2部では音楽の性格が異なるが)、かといってミサやオラトリオとも違う人間くささがある。この作品独特の夢幻的かつ重層的な世界が常にそこにはあるのだ。

今回のハーディングの演奏、かなり早いテンポで進めていて、オケもそれに食らいついて行くことで、フェアウェルにふさわしい熱気あるものとなった。上記に書いたようなこの曲の特質から考えて、第 1部と第 2部、それぞれの終結部での大音響もさることながら、第 2部の冒頭の静かな部分 (ゲーテの「ファウスト」の第 2部最終場面で、荒涼たる岩山が舞台) の緊張感が非常に大事であると私は思っているが、今回のハーディングの演奏ではその部分の表現力が素晴らしく、弦も徐々に高揚して行って、クライマックスでの力の放射につながっていったと思う。常に明確なハーディングの指揮ぶりは、テンポの溜めはあまりないものの、ストレートな音楽が響いてくる点に好感が持てるのであるが、今回も彼の個性がはっきりと出た指揮ぶりであった。歌手陣では、ソプラノのエミリー・マギーとユリアーネ・バンゼという有名な歌手だけではなく、日本の 3人 (市原愛、加納悦子、中島郁子・・・ちなみに中島はドイツ人の歌手のキャンセルにより急遽代役で登場) も、男声陣 (ニュージーランドのテノールで、バイロイトで「ローエングリン」の主役を歌ったサイモン・オニール、ハンガリーのバリトン、ミヒャエル・ナジ、そして中国のバス、シェンヤン) もいずれも見事な出来。特にシェンヤンの深い声は印象的であったが、彼の経歴を見ると、MET で活躍しているほか、グラインドボーン音楽祭やバイエルン国立歌劇場にも出演、最近では上海フィルを振って指揮者としてもデビューした由。これはヘンデルの「ロデリンダ」を MET で歌うシェンヤン。
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ただ、残念なこともある。それは、クライマックスではバンダ (別動隊) の金管が、通常なら会場の中に陣取って高らかに演奏することで、ホール全体が大きく鳴り響くのがこの曲の醍醐味なのであるが、この演奏ではそれが欠けていた。誤解ないように追記すると、緻密な箇所、静かで緊張感のある箇所がこの曲で重要と言った意味は、ひとえにクライマックスでの壮絶な大音響あってのことなのである。巨大なクライマックスなしには緻密な箇所も活きて来ないという意味だ。ではこの演奏のどこに不満であったかというと、バンダがステージの後ろ、オルガンの横に陣取ったことだ。これではステージのオケと音が混じってしまって、立体的には響かない。栄光の聖母の登場シーンも同様で、合唱団の山 (今回はステージ上に並んだので山にはなっていなかったが) の頂上に忽然と現れるか、客席遥か後方から清らかな声が降ってくるのでなくては。市原愛の声は非常にきれいではあったが、やはりオルガンの横で歌うことで、その効果は残念ながら減少していたと思う。これがすみだトリフォニーホールのステージの制限によるものであれば、7月4日 (月) のサントリーホールでの公演では改善されるのかもしれないが。

とはいえ、この厄介な超大作を、自信と熱情を持って演奏した奏者の方々には最大限の敬意を表しつつ、またハーディングが新日本フィルの指揮台に戻ってきて、残るマーラーのシリーズ、特に彼に適性のありそうな 3番を指揮してくれることを切望します!!

by yokohama7474 | 2016-07-03 11:28 | 音楽 (Live) | Comments(0)

10 クローバーフィールド・レーン (ダン・トラクテンバーグ監督 / 原題 : 10 Cloverfield Lane)

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いつもグダグダと寄り道が多いのがこのブログの売り (?) だと思っているのだが、今回はまず感想から始めよう。この映画、かなり面白い。だがその面白さを誰かに伝えようとすると、どうしてもネタバレになってしまうのだ。なので、まず書くべきは、この映画の先が読めないということであろう。ただ、予告編の雰囲気で、地下室に閉じ込められた男女が外界から遮断された話であることは分かるし、建物の外にはどうやら何か地球外生物がいる様子である。上のポスターを見るだけで明らかなのは、「奴らはあらゆるフォームでやってくる」ということだ。奴らとはこの場合、上の映像にあるように、明らかに地球外生物。女性主人公がそれから走って逃げているということは、やはり地下室に閉じ込められている女性は脱出に成功するということだろうか。

とここで突然話題を変えよう。この作品の題名は、珍しいことに、原題をそのままカタカナにしただけだ。"Cloverfield Lane" の "Lane" とは、細い道のことで、日本語だと、「小路」だろうが、 "Street" と同じ「通り」という言葉で訳してもよいだろう。つまりこの題名は、「クローバーフィールド通り 10番地」という意味なのだ。その住所表示の寂しい印象は、こんな感じで表されている。
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一体「クローバーフィールド通り」とは何なのだろう。実は私もこの映画を見てから知ったのだが、この映画の製作者、J.J. エイブラムス (いろいろ面白い映画に関与しているが、最近の業績と言えば、やはり「スターウォ-ズ / フォースの覚醒」の監督であろう) の経営する会社、バッド・ロボットの所在地の前の通りなのである。なんちゅうマイナーな。
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そしてもうひとつの話題。これも映画を見てから知ったことなのであるが、これは以前公開された映画の続編であるのだ。「クローバーフィールド /Hakaisha」という映画。
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これはやはり J.J. エイブラムスの製作になる映画で、2008年公開。私はこの映画を見ていないのでなんとも言えないが、この首のもげた自由の女神には、なんとも言えない終末感を感じざるを得ない。因みに原題にもある "Hakaisha" はもちろん日本語の「破壊者」で、英語で言うところの "Destroyer" の日本語訳を題名にしたらしい。そしてここには、日本発祥の怪獣 = Kaiju が出てくるらしいのだ。なるほど。それゆえ、この映画のポスターにも怪獣のようなものが描かれているわけだ。

いやそれにしても、繰り返しになるが、先の読めない映画である。予告編では、このような男女が人生ゲームをやっているシーンがある。
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私がこの映画を見たいと思った大きな理由のひとつは、上の写真の左端にいるジョン・グッドマンの出演なのである。「バートンフィンク」をはじめとするコーエン兄弟の映画を特徴づける、「叫ぶデブ」である。
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この映画における彼は、細菌に犯された地球上で、シェルターに籠って生きながらえるための救世主のようにも見えるが、また、頭のおかしい偏執狂のようにも見える。実は映画が終わってもその点は解決されない。この謎めいたキャラクターを演じるには、ジョン・グッドマンは最適と言えるだろう。そして、何やや最初からわけありげのヒロイン、ミシェルを演じるのは、メアリー・エリザベス・ウィンステッド。ここではまさに体当たりの演技と言えるであろう。なにせ、こんなシーンから
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こんなシーンまで。
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あ、表情はあまり変わりませんね (笑)。実際の映画の中では、このふたつのシーンは全く違うのですが。彼女はホラー映画のいくつかに出演し、スクリーム・クイーンとして知られている由。このように活発に活動しながらも、叫ぶべきところで悲鳴を上げることは、スクリーム・クイーンとして必須のことなのでしょうな。そして、この実質的に 3人だけによって密室の中で繰り広げられる映画には、ストーリーはともかく実際の俳優たちにとっては逃げ場のない修羅場なのであろうと思う。こんな感じで、到底逃げられるものではない。
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まあそれにしても、これで 3度目になるが (笑)、本当に先の読めない映画である。ただ、登場人物の必然性はそれぞれにあり、このヒロインが巨大な何者かに立ち向かうには、制作者たちが映画を作るにあたって用意した車やそのキーや、あるいは道路の向かう先までもが、ジグゾーパズルのように絡み合う。そうだ、この映画の作り手は、あたかも神のように登場人物たちの命をもてあそんでいる。その最たるシーンがこれなのであるが、この後何が起こるのかは、ご覧になる方だけのお楽しみ。
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終結部では主人公の決断が描かれるものの、その先の運命については何も語られていない。もしかするとこのシリーズ、これからもどんどん続いて行くのかもしれない。第1作と全く異なり、ストーリー展開に連続性がないらしいこの第2作。そうなると、個々にプロットされた点と点がどこかに線になるのだろうか。機会あれば第1作も見て、この世界の作り手たちの今後の想像力の展開に備えたいものだ。

by yokohama7474 | 2016-07-02 23:48 | 映画 | Comments(0)