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長崎旅行 その2 軍艦島、観音寺(脇岬町)

まずはこの写真を見て頂こう。
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灯台が立っているから海に近いところであろうが、この峩々たる岩山の上に見える建造物は、何かの遺跡のようである。古代のものだろうか。あるいはギリシャにあるという、孤絶した山の上の中世の修道院だろうか。次に、この写真はいかがであろうか。
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これも何かの遺跡であろう。ローマにある古代ローマ帝国時代の公共建築の遺跡、フォロ・ロマーノでこのような光景を見たように思う。いずれにせよ、どこかの地中海の遺跡であると見える。・・・などと書いているが、これらはいずれも私が最近長崎県で撮影した写真。そう、近代産業遺産として今やユネスコの世界遺産にも登録された、かつての炭鉱の島である端島(はしま)、通常「軍艦島」である。このポスターが分かりやすいであろうか。
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この軍艦島、私が初めてその名を知ったのはいつのことだったろうか。この島は要するに、炭鉱の閉鎖とともに打ち捨てられた海上の廃墟であり、つまりは近代の遺構なのである。だが冒頭に書いたように、この場所はまるで古代や中世の遺跡を思わせるところから、美的な観点からの関心の対象となる。そもそも古代の遺跡というものは、ほぼことごとくが廃墟なのであって、それゆえに神秘的なのだ。人がこの島に抱く言い知れぬ神秘感は、あたかもそれら古代の遺跡に感じる神秘感と近いものがあるのだと思う。だが、それだけでは充分ではないだろう。人が本能的に廃墟に感じる興味の根幹にあるものはまた、巨大工場の夜景を楽しむ感性にも似ている。つまり、何か巨大であり、明らかに人為の結果でありながら、人の姿の見えない建造物。そこには人を畏怖させると同時に、何か怖いもの見たさで気になって仕方ない、そんな感覚を覚えるものだ。その神秘感を言葉で説明するのは難しい。だが、美術好きなら、例えばカスパール・ダヴィット・フリードリヒや、もっとマニアックなところではモンス・デジデリオ、また、ジョセフ・ガンディの名前が挙がるだろうか。廃墟はひとつの美的テーマなのである。私の書棚には、これらの画家の画集が並んでいるのはもちろんのこと、廃墟自体をテーマにした本という意味では、1997年に発行された谷川渥(たにがわ あつし)監修になる「廃墟大全」がある。その中では様々な廃墟的美術が論じられていて楽しいのであるが、今確認したところ、軍艦島への言及はなさそうだ。ところがもう1冊、2002年発行の栗原亨 (くりはら とおる)監修になる「廃墟の歩き方 探索篇」になると、もう表紙からして軍艦島なのである(笑)。
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この本は本当に実践的な(?)書物であり、廃墟に入るときの注意事項や守るべきマナーが詳細に書いてある。さすがに私は、この本を読んだときにそこまでやる勇気も大胆さもなかったし、今もないが、このような本が出るということは、要するに世に廃墟好きは意外と多く存在しているということであろう。軍艦島とは、そのような廃墟の中でも、まさしくとびきりの王者的存在であったのだ。確か、別の本だと思ったが、どうやって地元の船にお願いしてこの島に上陸できるかを書いてある文章を読んだ記憶もある。だが、さすがに一般公開されておらず、崩壊の危険のある場所に出向くような大胆な行動は想定外であり、その後の私は、軍艦島だけの写真集とか、ワンダーJAPANという奇妙な雑誌を時々購入したりして渇を癒しながら、この廃墟に対する愛慕の念(?)を育んできたのだ。映画でも、「007 スカイフォール」や「進撃の巨人」でここがロケ地として使われているのを、複雑な思いで見ていたものだ。ところがである。昨年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつとして世界遺産に登録。これを受けて、ついに一般の人々にも公開されるようになったのだ。いつか行きたいとは思っていたが、前の記事に書いた通り、思わぬところで家人と意気投合。早速軍艦島上陸ツアーをネット検索してみた。ところが、予定日の1ヶ月くらい前であるにもかかわらず、周辺の週末はすべて満員。改めて軍艦島人気を実感したのだが、さて、どうしたものか。思いを持って出かけた場所に悔いを残さないためには、とにかくあきらめずに手段を探すことである。キャンセルが出ないか、あるいはオークションの対象にでもなっていないかと、何度も何度も軍艦島ツアーを調べているうちに、ふとしたことで、ほかとは違って少人数で運航しているツアーがあるのを発見。ガイドブックとかメジャーなサイトには出ていない会社であるが、ダメモトで問い合わせてみると、土曜は一杯だが、日曜の午前の便なら未だ空きがあるとのこと。その回答に、PCの前でひとりガッツポーズだ。これは執念の勝利である。本当に何後も諦めずにトライすれば、道は拓けるのである。

ツアーの内容に入る前に、この軍艦島の概要について記しておこう。正式名称を端島ということは上にも書いたが、もともと無人島で、最初に1810年に石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採掘を江戸時代から行っていたが、1890年に三菱合資会社の経営となり、何度も埋め立てを繰り返して、徐々に拡大して行った。以下が軍艦島ツアーのパンフレットに載っている埋め立ての歴史と、海底炭鉱のトンネルの様子。要するに、この島が開発される途上で、ここに人々は暮らし始めたが、炭鉱は海底にあることから、島の内部を掘るのでなく、島から一旦地下に潜っては、周辺に海底坑道を掘り進んだということである。常に危険の伴う仕事であり、島の挨拶は「ご安全に」であったそうだ。
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「軍艦島」という異名は、三菱の長崎造船所で建造していた軍艦「土佐」に似ているところからつけられたらしい。この「土佐」について調べてみると、「長門」の拡大改良型とのことだが、ワシントン海軍軍縮条約によって建造中止となり、1921年に自沈処分となったとのこと。なるほど、勇ましい軍艦の進む姿ではなく、哀れに煙を吐いているところがこの炭鉱の島との共通点と見做されたのもしれない。
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この軍艦島、今からちょうど100年前の1916年に日本最初の鉄筋コンクリート作りのマンションができるなど、未来の島と言われていたらしい。その後最盛期には5,000人を超える人々が暮らし、頻繁な上映会が催される映画館あり、本土にも未だ珍しい時代にスーパーマーケットもあり、神社やスナックもあって、ないのは墓だけだと言われたらしい。だが、エネルギー政策の転換により石炭産業が斜陽化したことで徐々に衰退。1974年に炭鉱が閉鎖され、多くの人々の生活の痕跡を残したまま無人島に還ってしまった(石炭を取りつくしたということではないらしい)。日本人がこの軍艦島に惹かれるのは、ただの廃墟だから興味深いということではなく、日本全体に活気があった高度成長期へのノスタルジーもあるのだと思う。

さて、その憧れの軍艦島ツアー。私が乗船したのは「アイランド号」という船であるが、ほかの大規模ツアーが長崎港から出るのに対し、この船は長崎半島を市内から20km弱南下した場所、軍艦島のすぐ近くから出る。なので、海を見ながらの乗船所までのドライブとなったのだが、これが返って気持ちよい。海沿いの国道の小高いところから、遠くに軍艦島がその姿を現したときには、「あぁっ!!」と叫んでしまいましたよ。左が軍艦島、右が中ノ島。軍艦島には墓がないと書いたが、実は島で亡くなった人たちはこの隣の中ノ島で荼毘に付されたらしい。
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しばらく行くと、夫婦岩がある。国道沿いに車を停めるスペースも設けられており、写真を撮るには最適だ。岩の間に見える軍艦島が、ひときわ神秘的に見えるではないか。
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そうして到着したのは、野母崎という場所にあるAlega軍艦島という施設。温泉もあり、ここに泊まることもできるようだ。中の売店で軍艦島グッズなどの土産物も買えるし、乗船前のトイレも済ませることができて便利。それから、昔の新聞記事の拡大コピーがあれこれ貼ってあって、その中には災害に関するものもある。この島に住めば上質な暮らしが保証されていたとはいえ、やはり炭鉱の仕事の危険性に加え、台風等の被害も何度もあったようである。今の軍艦島が廃墟として美しいのは、このような苦難の歴史を経てきていることも一因かもしれない。
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そして海の方に降りて行くと、ありましたありました。アイランド号が我々を待っています。ツアー客12名という小さい規模である。
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私たちが乗った船は10時に出航し、10分後くらいには島の沿岸に到着。だが、別の船がその時間帯には停泊し、ツアー客が上陸しているので、同時には上陸できない。従って、上陸準備が整う10時半までの間を利用して、島の回りをぐるっと一周してもらえるという。実はこの軍艦島、人々が退去した際には一連の建物は全く壊さずに出て行ったため、その後の風雨にさらされ放題で、以前見た映像では、アパートの各部屋には、さまざまな電化製品や家具がずっと放置されているのだ。それがまた廃墟好きの心を刺激するのであるが、その状態の意味するところは、住居エリアは崩壊の可能性が常にあって、人の立ち入りは危険だということだ。以下はまた乗船時にもらったパンフレット記載の見取り図だが、上陸できるのは、図の下側と左側の赤線の引いてある部分だけで、多くの建物が存在している中央部から右側は、立ち入り禁止なのである。そうであればこそ、立ち入ることのできない島の反対側を、船の上から眺めることができるだけでも貴重なのだ。
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さあ、船は快調に飛ばし、どんどん島に近づいて行く。案内の海の男たち。煙草など吸って、カッコいいですねぇ。そういえば、秋以降は海が荒れることも多く、上陸できないケースもかなりあるとのこと。これだけの晴天に恵まれた我々は実にラッキーだ。やはり日ごろの行いがよいせいですな(笑)。
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そして、ついに近くに見えてきた軍艦島。やはり、遂に来た!!という感動が体を駆け巡る。冒頭に掲げた写真の通り、まるで岩山の上の古代神殿のようだ。また、神社の本殿(これは本物の宗教施設)は、高いところに築かれているので、長い足が危なっかしく、よく残っているなぁと感嘆する。
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そして船は居住区の横を通って左に旋回して行く。この凄まじい荒れようは、想像していた通りである。
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すると、あ、なにやらへりの部分から釣り糸を垂れる人が数名。船の人に、「あそこには入ってはいけなんですよね」と訊くと、「よかと」との返事。なんでも、このツアー船の主催者は釣りのアレンジもしていて、事前の許可を取得して軍艦島で釣りを楽しむ人たちもいるらしい。へぇー、何か特別な魚でも釣れるのでしょうか。
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そして我々の乗った船は、ついに軍艦島がその名を持つに至ったその姿を、我々に見せてくれる。本当に軍艦のようだ。
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ちなみにこれが、他社のツアー船。なんでも、200名規模とか。正直なところ、そんな規模ではゆっくり説明も聞けないし、質問もできない。また、あとで分かったことには、我々の船のガイドの方は、もとこの島の住民であったそうで、貴重な話を沢山聞くことができて、大変有意義であった。このあたり、たまたま大規模ツアーが軒並み満員だったことによる怪我の功名、結果オーライ。好きな言葉である(笑)。
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さて、いよいよ上陸だ。ワクワクする。桟橋から砦のような遺構の中を通って入ってみると、なにやらコンクリートの棒が立ち並んでいて、ギリシャの古代神殿かと思うが、これはボタ(捨て石)を運ぶベルトコンベアーの跡。この上をボタが運ばれ、海に廃棄されていたのだ。
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これは確か炭鉱へ降りるケージを吊ったロープの巻き上げを行う場所の壁。クノッソス宮殿かと思ってしまいました。
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これは食堂や風呂場などがあった施設の階段。炭鉱は24時間稼働していて、8時間ずつの3交代であったので、風呂も常に沸いていて、作業服ごと石炭を落とす場所、体を洗う場所、湯船など、何段階かに分かれていたとのこと。当時の写真を使った説明がリアルだ。
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電気は海底からこの隙間を通して送電線を引いている。今でも使えると聞いた。
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通路を進むと、左手にコンクリートで床を固めた場所が出てくるが、これは25mプール。海水を入れて泳いでいたらしい。
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これが、築100年(笑)の、日本最初の鉄筋コンクリート作りのマンション。この建物の前が目抜き通りであったらしい。
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ここで行き止まりなので、また桟橋の方に向かう。これは事務員の住居で、労働者の部屋と違って部屋に風呂、トイレがあるという当時としては珍しい高級住宅であった由。だが、今ではベランダが崩落寸前だ。この建物の下の壁面に緑色が塗ってあるが、これは、当初植物が全くない島であったので、そのように塗っていたものとか。
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これは学校。かつての学びの屋は、建物の向こうの空の青が透けて見えるほどがらんどうだ。
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予想はしていたが、実際に目にしてみると、まさに凄まじい廃墟である。この島は台風になると大きな被害を受けるそうで、このような大きなコンクリートの塊が飛んだり倒れたりすることもあるという。今や世界遺産。一体どのように保存して行くのか、大きな課題であろう。
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軍艦島の写真集を見ていると、住居内に様々なものが残されているのが大変不思議であった。何も災害で急に避難したわけでなし、なぜに身の回りのものを整理して島から出なかったのか。その疑問に対する答えは、意外に単純なものであった。実際に閉山までここで働いていたというガイドさんによると、退職金が非常に恵まれていたので、家電品などをわざわざ持ち出す経済的必要がなかったのだそうだ。なるほど、それゆえに、人々の日常の暮らしの断片があちこちにリアルに残ったまま朽ちて行くという、軍艦島独特の風情が生まれたわけである。廃墟に対する美的な意味での興味と、近代の産業化時代の世相、また、特殊な環境下で暮らした人々の悲喜こもごもに思いを馳せながら、軍艦島をあとにした。陸に戻ってきたのは11時半頃。1時間半のタイムトラベルでした。
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さて、私の参加したツアーは、長崎港ではなくかなり南の方から出航すると上で書いたが、そこまで足を延ばすメリットがいくつかある。ひとつは、最近できたばかりの軍艦島資料館が近いこと。展示物はさほど多くないものの、地元の人たちの軍艦島を大事にする思いが伝わってくる。石炭採掘当時のジオラマもあって、往時の活気を偲ぶことができる。
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尚、この資料館の向かいにある喫茶店では、軍艦島カレーなる限定食が食べられる。午前の便に乗られた方、下船後のランチにお薦めです。
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さて、もうひとつある。実は事前に長崎の文化財を調べたところ、観音寺というお寺に重要文化財に指定された平安時代の千手観音があることを知ったのだが、寺院の名称としてはありふれたものだし、場所も調べる時間がなかった。ところがである。このお寺、長崎半島の南端近く、ツアーの乗船/下船場所のすぐ近くであったのだ!!ただ、ご本尊の千手観音は秘仏と書いてあったので、まあ行くだけ行ってみようと思ったら、なんとなんと、本堂は開いていて、御簾越しとはいえ拝観できたし、江戸時代の洋画家、川原慶賀の描いた本堂の天井画も見ることができたのである。これも何かのご縁である。以下、お寺の風景と、ネットで見つけてきたご本尊(なかなか堂々たる仏様だ)と天井画(保存状態が悪いのが残念)の写真を掲載する。
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アイランド号で軍艦島ツアーに参加される方、是非この由緒正しい古寺に足を運んでみて下さい。その土地の歴史について、何か発見があるものと思います。

さて、この日は軍艦島から戻って、観音寺にお参りしても、まだ正午過ぎ。午後は長崎の中心地へ移動のこととした。海沿いの、じゃなかった、川沿いのラプソディ長崎編、まだ続きます。

by yokohama7474 | 2016-11-14 01:39 | 美術・旅行 | Comments(0)

長崎旅行 その1 平戸市 / 田平教会、鄭成功出生地、宝亀教会、紐差教会、切支丹資料館、平戸城、平戸ザビエル教会、最教寺、オランダ商館跡

ある週末、長崎に遊ぶこととなった。その理由は、その土曜日が家人の誕生日であったことである。このブログで散々書き連ねている通り、私の週末は大抵の場合、オペラやコンサートや美術館通いで予定が埋まっており、特に秋のシーズンには文化行事が多い。だが、やはり家庭円満は社会人としての生活の基本である。ということで、この週末は家族サービスに充てようと決意。どこに行きたいかと家人に尋ねると、軍艦島だという。おぉ、つい先ごろ近代産業遺産としてユネスコの世界遺産に登録されたとはいえ、もともと廃墟好きの私にとっては、もちろん行先として異論があるはずもない。であれば、日帰りでなく一泊して、これも私の長年の強い興味の対象であるかの地の教会を巡りたい。実は長崎には30年ほども前に一度行ったことがあるのだが、既に記憶が曖昧であるし、そもそも島原・天草には行ったが平戸には行っていない。そんなわけで、土曜の早朝に羽田を発って長崎に向かったのである。我が家の旅行はのんびりゆったりという雰囲気とは縁遠く、いつも時間と体力の限界に挑戦するような鬼の観光スケジュールとなるのだが、今回もしかり。見どころ、考えどころ満載で、実に感慨深い旅となった。文化に興味を持つ人たちには何らかの参考になろうかと思うので、以下、記憶を辿りながら旅を再現してみよう。

まず、長崎県の地図(壱岐、五島列島、対馬は除く)は以下の通り。今回は初日に北の端の平戸市(赤丸の地点)に行き、翌日には南の端、長崎半島の突端近く(青丸の地点)まで行くことになった。ほとんど長崎県縦断旅行というわけである。実際に踏破してみると、結構な距離であった。尚、以下の文章においては、教会の外見は私が撮影した写真を使うが、内部は原則として撮影禁止なので、内部の写真は出版物等からの借用である。
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長崎空港は、県の南北の中心あたりにある大村市に位置しており、レンタカーを借りて北上すると、天気にも恵まれてなかなかに気持ちよい。高速と一般道を走ること1時15分ほどで、最初の目的地である田平(たびら)天主堂に到着。
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一見して分かる通り、この教会は煉瓦作り。五島生まれの名棟梁で数々の教会を設計した鉄川与助によって、1918年に建てられた。このような神々しい内部を見ると、とても日本の教会とは思われないほどである。
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周知の通り、長崎・平戸地域には、哀しい隠れキリスタンの逸話が数多く残っている。明治維新後はこのような教会も各地に建てられるようになったものの、現地を訪れて改めて感じるのは、キリスト教に篤い信仰心を抱き、脈々とその信仰を受け継いできた名もなき人々の思いが、このようなかたちで結実したことの意味するところは、いかに天国への遥かな憧れがこの地に存在してきたかということだ。これから順に見て行くが、ひとつひとつの教会は驚くほど異なる個性を持っていて、建物の建設や維持、あるいは教団の活動維持には、計り知れない苦労があることだろう。ただ単に美しい教会建築に酔いしれるのではなく、現実にこれらを可能にした、あるいはこうせざるを得なかった人間の思いにこそ、学ぶべきものはあるはずだ。古くからの日本人のひとつの特性は、外来のものでもうまく取り込むことである。この田平天主堂の横には墓地があって、墓石自体は純日本風であるにもかかわらず、なんとその上に十字架が設置されているのだ。大変興味深い光景ではないか。
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さてこの田平天主堂は平戸市ではあるが、平戸島ではない。九州本土から平戸島には、平戸大橋という巨大な赤い吊り橋が架かっていて、スムーズに行き来できるようになっている。
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平戸島に入り、海沿いに南に向かっていると、なにやら記念像が海の方を向いて立っている。旅で少しでも有意義な体験をしたかったら、目に入ったものに興味を惹かれたときにそれが何であるかを確認することだ。というわけで、車を停めて行ってみると、それは鄭成功(ていせいこう)の彫像であった。
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鄭成功と言っても、最近の若者は知らないであろうし、私とても、歴史の授業で習った範囲、つまり、中国の明王朝滅亡の際に、中国人の父と日本人の母を持つこの人物が明朝復興のために力を尽くし、後世「国姓爺(こくせんや)」として歌舞伎などで英雄視されているということしか知らない。そういえば彼は平戸の生まれであると読んだことがあったのだが、まさかキリスト教会探訪の旅の途上、ここで鄭成功の事績に触れることになろうとは。ここには、いくつか彼にゆかりの場所がある。まず、海の中(潮が引くと地上に出てくるのだろうか)に、「鄭成功誕生石」というものがある。潮干狩りに来ていた彼の母がこの場所で産気づき、この石にもたれてて鄭成功を生んだという伝承がある由。
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それから、彼を祀る廟。これは比較的最近のものであるようだ。
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さらに行くと、海側から住宅街に入った、鄭成功の生家跡と言われる場所に、小さな記念館が建っている。もちろん、当時の建物がいかなるものであったのかは分からないので、想像による復元だ。また、母である田川マツと少年鄭成功の彫刻が立っている。
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鄭成功の父は鄭芝龍(ていしりゅう)という復権省出身の貿易商人(但し自衛のために武力を所持した海賊的側面もあり)で、平戸藩主、松浦隆信の信任厚く、この平戸の地に駐留。田川マツを娶ったという。鄭成功は長じて、清朝に滅ぼされる明朝のために力を尽くし、一時は台湾からオランダ人を駆逐する活躍を見せた。それがゆえにこの人物は、中国本土、台湾の双方から英雄視されており、いわば東アジア地区全体で尊敬されているのである。記念館には中国・台湾から贈られた展示品も多く、また地元の方が説明をして下さったところでは、よく中国・台湾の人たちが、英雄のふるさとを見たいということでこの地を訪れるとのこと。また、「彼らは皆日本人の能力に期待していて、日本が国際社会で活躍して欲しいと願っていますよ。日本、もっと頑張れって言われますよ」との興味深い説明もあった。鄭成功は東アジア共栄のシンボル。このような民間の国際交流が活発であることは、大変よいことだと思う。

教会巡りに戻ろう。次に訪れたのは、宝亀(ほうき)教会堂。
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この教会は1898年の建立で、平戸最古の教会。マタラ神父という人の指導で、地元の棟梁たちによって建てられた。一見煉瓦作り風に見えるが、それは正面の壁と玄関部分だけで、主体構造は木造。上の写真にもある通り、側面にテラスがあって、さながらコロニアル建築(17-18世紀頃にヨーロッパ諸国の植民地に建てられた建築)のようだ。内部はこのように柱に色が塗られていて、美しい。
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続いて向かったのは、紐差(ひもさし)教会。
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鉄川与助の設計により1929年に完成したもので、鉄筋コンクリート作りだ。これは、関東大震災で多くの煉瓦作りの建物が倒壊したのを見た鉄川の考案によるものとのことで、規模もかなり大きい。長崎市の旧浦上天主堂が原爆で倒壊した後、再建されるまでの期間は、日本で最大の教会であったとのこと。上の写真の通り、シンプルなデザインのステンドグラスが時々刻々美しい表情を堂内に与えている。内部の全体像はこんな感じで、舟底天井もシンプルながらなんとも美麗である。
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この近く、平戸島のちょうど真ん中あたりなのだが、平戸市切支丹資料館がある。少し古いが、この土地の持つ独特な風土を知るには貴重な場所である。様々な隠れキリシタンについての資料が展示されているが、珍しいのは、この地区の人々が信仰を隠すために神棚や仏壇も併設した納戸(「納戸神」と呼ばれる)が復元、展示されていること。
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館の受付をやっている初老の女性が、問わず語りに説明して下さったことには、古い習慣もかなり減って来ていて、先祖代々の貴重な遺品も散逸しそうであったのでこの資料館が出来たが、近年まで続いてきた隠れキリシタンの維持組織も、後継者不足によって1992年に解散したとのこと。時代の流れは致し方ないものの、せめてこれからも、ここを訪れる人たちが、かつてそのように必死で信仰を守ろうとした人たちがいたことに思いを馳せることができる場所であって欲しい。ところでこの資料館、「おろくにん様」(六人の殉教者たち)が祀られる、ウシワキの森という場所のすぐ横に存在しているのであるが、その森に行ってみると、何やら未だに霊気漂う不思議な場所である。年老いた男女が一心不乱に塚に手を合わせていて、こちらも襟を正したくなったものである。尚この日訪れた教会のうちのいくつかでも、若者であったり老人であったりが祈りを捧げるところも何度か目にした。やはり信仰は未だに生き続けているのである。
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ここからまた平戸島の北部に戻る道を取り、訪れたのは平戸城。この地を治めた松浦(まつら)氏の居城で、現在の天守閣は戦後の再建だが、海を臨む岬の突端に建っていて、平戸の街中から見ると大変絵になる。
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城からの眺めも、なかなかだ。平戸大橋も見えるが、私がなぜか興味を惹かれたのは、眼下に見える無人島とおぼしき島に祀られた神社である。以下、2枚目の写真の左側に見える亀の甲羅のような島で、3枚目はそこの神社を望遠で撮ったもの。
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それから、平戸ザビエル記念教会に向かった。1931年完成で、高い丘の上に建つ姿は美しいが、よく見ると、正面向かって左側にある塔が、右側にはない。これは資金難によるものである由。本当に信者たちの浄財によってできた教会なのである。教会の後ろの雲は、まるでオランダの風景画のような風情で、何か不思議な気がする。
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内部はマーブル模様の柱が立ち並び、清々しい美しさである。
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さてこの教会の裏側を左手に行くと、いくつか仏教のお寺が並んでおり、なんとも風情のある石段を下りる道がある。これは、「寺院と教会の見える道」と名付けられていて、振り返れば寺院の屋根越しに教会の尖塔が見えるという、いかにも平戸らしい風景を満喫することができる。うーん、この文化の混淆、いろんな意味で均一性の高い日本という国においては面白い風景ではあるが、この場所でその意義を大いに実感する必要があるだろう。
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また、光明寺・瑞雲寺というお寺の境内からは海が見え、つい先刻登ってきた平戸城の天守閣も、なかなか見事な姿を見せている。
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さて平戸の街中には、まだまだ面白いものがいろいろある。実に1702年に建造された石の橋、幸橋は重要文化財だが、未だに歩行者が通っている。
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吉田松陰も平戸に滞在したことがあって、その宿、紙屋の跡地には石碑が立っている。でもなぜアンパンマン???
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さて、普通の人ならこのあたりでかなりバテていると思うが(笑)、我々の観光旅行は貪欲だ。ちゃんと各施設の閉館時刻を調べ、あと2ヶ所を訪れることとした。最初は、最教寺。実に弘法大師空海が806年、唐から帰朝後に最初に日本で密教の護摩を焚いたところと言われる聖地で、西の高野山と呼ばれているらしい。古い建物は残っていないが、霊宝館にある重要文化財の涅槃図のほか、近年建てられたらしい三重大塔が興味を惹く。天気は晴れたり曇ったりだが、時折西日が差すと、石仏が神々しく輝いて神秘的だ。
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また、三重大塔の地下では、胎蔵界めぐりを行うことができる。これは、真の暗闇の中、壁に沿って手探りで歩き、一周すると仏が現れるというもので、長野の善光寺等、時折お寺にはあるものだ。なかなか面白い体験だったが、寺のパンフレットにあるこのキッチュな絵を見て、さらに気分は高揚する(笑)。
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最教寺を辞し、最後の目的地である旧オランダ商館へ。ここは港のすぐ横であり、長崎の出島にできる前に、最初にオランダ商館が置かれた場所であるという。行ってみると、オランダ人たちが住んだ地域の塀や、商館の跡地、井戸など、生活の痕跡が残っていて楽しい。
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そしてこのあたりからもすぐ、平戸城が見える。あ、それから、城から見ていて気になっていた神社のある無人島は、港のすぐ近く。もしかすると航海の神、金毘羅さんを祀っていたりするのだろうか。日本の神様は親切だから、異国人であってもご利益があったのかもしれない(笑)。
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この場所には、1637年に築造された倉庫が復元されている。但し、資料が少ないため、多分に想像によって復元しているらしい。それにしても、またこの空はオランダ絵画のようではないか。かつてここに暮らしたオランダ人たちも、このような光景を見て、遥か彼方の母国を思ったものであろうか。
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ここには大変興味深い展示物があれこれ並んでいる。例えばこれは聖書であるが、日本で禁制とされたポルトガルの旧教(カトリック)ではなく、新教(プロテスタント)であることを幕府に訴えたらしい。本当にその違いを幕府が理解したか否か疑わしいが、江戸時代を通じてオランダとの通商は維持されたということは、ちゃんと違いが認識されたということだろう。もちろん、布教活動をせずに貿易だけやっていたという事実こそが何より大事であったろうが。
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これは、反射で少し分かりにくいが、船首飾りである。なんとも素朴。
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これは南蛮甲冑。日本の甲冑をもとに、1630年代にオランダで作られたという。このような独特な文化の混淆に、私は限りない興味をそそられるのである。
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そしてこの場所は倉庫の復元なので、このような滑車も取り付けられていて、往時を偲ぶことができる。
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このように長崎での一日目は、平戸における東西文明の混淆、融合、衝突と破壊という様々な局面を体験することとなった。見上げると、丘の上のザビエル教会の尖塔が夕日を浴びている。信じる神は違えども、この地球で過ぎて行く一日一日の時間の貴重さを、このような光景から感じることができるのが人間だ。
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その日は長崎市の中心地で一泊し、いよいよ翌日は軍艦島、そして長崎市内観光だ。乞うご期待。

by yokohama7474 | 2016-11-13 16:03 | 美術・旅行 | Comments(0)

ウィーン国立歌劇場来日公演 ワーグナー : 楽劇「ワルキューレ」(指揮 : アダム・フィッシャー / 演出 : スヴェン=エリック・ベヒトルフ) 2016年11月12日 東京文化会館

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現在来日中のウィーン国立歌劇場、3つの演目のうち2つまでこのブログで採り上げたが、これが最後の演目。とは言っても、3回の公演のうち私が見たのは最後のもの。別項で採り上げた「フィガロの結婚」よりも早く始まっていた演目である。ワーグナーの超大作「ニーゲルングの指環」4部作のうちの2作目、「ワルキューレ」である。この作品、知らぬ者とてない第3幕への前奏曲、「ワルキューレの騎行」だけではなく、極めてドラマティックな音楽の連続であり、「指環」全4作の中でも、世界的に見て最も演奏頻度が高いものであろうと思う。

と言いながら、かつて日本にやってきたオペラハウスにおいては、あの最強のワーグナー指揮者であるダニエル・バレンボイムを擁するベルリン州立歌劇場や、かつて「指環」のツィクルス日本初演を行い、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのクリスティアン・ティーレマンを一時期擁したベルリン・ドイツ・オペラ、そして、ウォルフガンク・サヴァリッシュやズービン・メータを過去の音楽監督に持つバイエルン州立歌劇場が、数々のワーグナー作品を演奏して来た。さてそんな中、もちろんワーグナー作品を中核に持つウィーン国立歌劇場が過去に日本でワーグナーを演奏した記憶は、意外にもそれほど多くない。今、手元で調べがついた限りでは、1986年の「トリスタンとイゾルデ」、1989年の「パルシファル」(いずれも指揮はハインリヒ・ホルライザー) くらいではないか(ほかにご存知の方、教えて下さい。私も「日本オペラ史」という2分冊の本をアマゾンでちょうど注文したばかりで、それが届けばもっと正確な情報を書けるのですが...)。そういう意味では、ウィーンの「指環」を東京にいながらにして聴くことのできる特権に、改めて思い至る。余談ながら、先般新国立劇場でこの作品を指揮したばかりの(私は聴けなかったが)飯守泰次郎も客席に姿を見せていた。

単刀直入に私の感想を一言でまとめると、これだけの高水準のワーグナーを極東の日本で聴くことができるとは、まさに素晴らしいこととしか言いようがない、ということ。この日の演奏の最大の立役者は、私の見るところ、指揮のアダム・フィッシャーだ。1949年生まれのハンガリーの指揮者。2歳年下のイヴァン・フィッシャーも指揮者であり、それぞれに充実した活躍をしている。
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私は寡聞にして彼の指揮ぶりをつぶさに知るものではないが、それでも彼の労作、ハイドンの交響曲全集のCD 33枚組(!!)を持っている。このウィーン国立歌劇場とは長い付き合いのはずだし、70歳を間近に迎えて、指揮者として脂の乗った活動を展開しているようだ。いやそれにしても、これほどとは思わなかった。作曲者であり台本作者でもあるワーグナー自身が「楽劇」と呼んだ一連の作品においては、オーケストラが雄弁に語ることが必然的に求められているが、今回の演奏ほどの出来であれば、作曲者の真意も想像できようというものだ。このオペラの冒頭は、何度聴いても凄まじい嵐の表現なのであるが、いきなりフィッシャーの指揮のもと迸る熱い音。これはきっと楽団員も燃える音楽ではないだろうか。こうして始まった5時間のオペラ体験(休憩を含む)は、本当に忘れがたいものとなったのである。このアダム・フィッシャー、過去にN響を振ったことはあるようではあるが、これまでのところ、あまり日本に来る機会がないように思う。是非日本でオーケストラコンサートも開いて欲しいものだ。

この上演の演出は、先にご紹介したリヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」と同じスヴェン=エリック・ベヒトルフである。現在ザルツブルク音楽祭の総監督である彼は、一時期ドイツで流行ったような、衣装や舞台装置を現代や未来に置き換えるようなことはせず、概してオーソドックスに、またシンプルな装置を使って、効率的な舞台を作り出している。音楽の持つ力を邪魔しない演出と言ってよいと思う。何せ、この作品の1幕でジークムントが魔術を持つ剣、ノートゥングを引き抜く場面では、今時珍しいことに、ちゃんと台本通りトネリコの幹に刺さっているのである(笑)。
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ただ、全体を通して非常にスタティックな舞台であったと思う。多くの演出において激しい動きが見られる「ワルキューレの騎行」のシーンでは、もちろん8人のワルキューレたち(主役の一人であるブリュンヒルデを除く)は慌ただしく舞台を駆け巡るが、背後に置かれた9頭の馬の彫像が、揺るぎない安定感を示していた。
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それから面白かったのは第2幕冒頭で、通常なら天空を駆け巡っているはずのブリュンヒルデが、その後の炎に囲まれる事態の先取りよろしく、上部を平らにした岩の上に横たわっているのである。そして岩の上には、遠目にはよく見えなかったものの、何やら人の顔の仮面のようなものが。これはヴォータンとその妻フリッカ。
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思い返してみると、これは非常に演劇的な演出であったと思う。その演劇性に加え、アダム・フィッシャーの非凡な指揮によって、進行する劇の時々において、様々な登場人物の心理が抉り出されていたのである。歌手陣もそれぞれ熱演であったが、私が最も感心したのは、ヴォータン役のポーランド人歌手、トマス・コニエチュニー。
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この作品におけるヴォータンは、本当に長丁場をこなす必要のある大変な役なのであるが、彼はその出番のところどころで、極めて演劇的な歌唱を聴かせたのであった。例えば、第2幕でブリュンヒルデにその出自を語る場面では、歌というよりは朗誦のような表現であった。今、ワーグナー自身の台本を手元に持ってきて確かめると、ここにはト書きでまず「非常に声を落として」とあり、その後は「完全に声をひそめて」とある。なるほど。その通りの歌唱であり演技であった。もちろん、第3幕の大詰めも大変素晴らしい説得力であった(ただ、せっかくの聴かせどころで誰かの携帯電話が鳴ってしまったのは本当に残念であった)。

それから、現代最高のブリュンヒルデ歌いである、スウェーデン人のニーナ・シュテンメ。
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先日仕事の関係でスウェーデン人と話した際、同国が輩出した名歌手として、もちろんビルギッテ・ニルソンが最初に出たが(あ、実のところ、それより前に出た名前はアバだったのであるが...。はい、私も大好きです。アバ。笑)、それからアンネ・ゾフィー・フォン・オッターに続いて出た名前が、このシュテンメであった。「有名になってしまって、ストックホルムで歌う機会が最近ではほとんどない」と嘆いていたものだ。それだけ世界で活躍しているということだが、少し厳しく言ってしまうと、今回の演奏では多少不安定な箇所も何度かあったように思う。まぁそれだけ難しい役なのであろう。その他、ジークムント役のクリストファー・ヴェントリス(英国人で、パルシファルを当たり役にしている)、フンディング役のアイン・アンガー(エストニア人で、ウィーンでは実に様々なバスの役を歌っている)、ジークリンデ役のペトラ・ラング(バイロイトでは随分以前から歌っているはず)、フリッカ役のミヒャエラ・シュースター(ドイツ系の劇場で様々なドラマティックな役柄を歌っている)、いずれも声量充分、さすがウィーンの引っ越し公演だと聴衆を唸らせた。

さて、そのように素晴らしい公演であればこそ、私の心はウィーンに飛ぶのである。東京にいてこれを聴ける特権は絶対に貴重なものなのであるが、年間300回もの公演をこなしているこのウィーンのオペラハウス、本当に世界でも稀有な場所なのだ。私の心のふるさと、ウィーンにまた還れる日を夢見て、頑張って日々を生きて行きたいと思う。
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by yokohama7474 | 2016-11-13 01:22 | 音楽 (Live) | Comments(2)

鈴木其一 江戸琳派の旗手 サントリー美術館

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もう恒例になっているような気もするが、まず最初にお断りしておく。私がこれから採り上げるこの展覧会、東京での会期は既に終了してしまっている。だが、この素晴らしい展覧会をどうしても見たいという方は、12月15日までなら姫路で見ることができ、年明けになれば京都の細見美術館で見ることができるのだ。なかなかタイムリーに記事をアップできないことは私としても忸怩たる思いなのだが、せめてこの展覧会の意義をこの記事で広く訴えたいと考える次第。

そもそも家人から、「キイツの展覧会やってるよ」と聞いたとき、私の頭に浮かんだのは、25歳で世を去った英国ロマン派の夭折の詩人、ジョン・キーツ(1795-1821)であった。ロンドンではハムステッドにある彼の旧居に行ったこともある。彼の詩集も今手元にあるが、「エンディミオン」という作品の冒頭、"A thing of beauty is a joy for ever." (美しきものはとこしえに歓びである)に心震える思いである。だが、そんな私の妄想を打ち砕く家人の声。「琳派だよね」・・・むむむ、キーツはリンパ炎で亡くなったのだろうか・・・などとあらぬことを考えているうちに気付いたのだ。おお、これは琳派の鈴木其一(すずき きいつ)の展覧会だったのだ。

そのような私の思いをギャグだと思われる方には、以下の事実を申し上げよう。詩人キーツの生年は上記の通り1795年だが、江戸琳派を酒井抱一とともに代表する鈴木其一の生年は1796年(没年は幕末の1858年)。なんと、西洋のキーツと東洋のキイツは、1歳違いの、ほぼ同い年なのだ。事実は小説より奇なり。夭折の天才キーツの死後まもなく描かれた肖像画はこれだ。
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一方で日本のキイツの方は肖像画は残っていないようである。だが、きっと彼も「美しきものはとこしえに歓びである」とつぶやいたことがあったかもしれない。そのような其一を生んだ環境と、近代性溢れる彼の作品を見て行くこととしよう。まずおさらいであるが、琳派とは、江戸初期に京都で活躍した尾形光琳、乾山兄弟と、それに先立つこと恐らく百年くらい(限定できないのは生没年不詳であるからだが)前に活躍した俵屋宗達に代表される美学のことで、光琳よりもさらに百年くらい後に活躍した抱一、其一師弟の活躍の舞台は江戸であった。ゆえに、この抱一、其一ら一派のことを江戸琳派と呼んでいるのである。展覧会は、其一の師匠であった抱一の作品から始まる。
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これは抱一の「桜に小禽図」(右)と「雪中檜に小禽図」(左)。なんともきっちりした絵ではないか。右の絵では木の幹がぼやっとしていて、花曇りの感じが出ているのに対して、左の絵では木の輪郭がきりっとしていて、雪の中の空気感まで描かれている。こんな素晴らしい作品を残した師匠の肖像を、其一が残している。酒井抱一は姫路藩主の家柄で(あ、だからこの展覧会は今姫路で開かれているのか!!)、なかなかに高貴な血の人なのであるが、この肖像を見るとまるで商人のような佇まいである。
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この作品はその師弟が共演したもの。つまり、其一が絵を描き、抱一が賛(上部の書き込み)をした「有掛絵ふ字尽くし図(うけえふじずくしず)」(1822年、つまり英国でキーツが天に召された翌年だ)。有掛(うけ)とは、十二年ごとに巡ってくる幸運な時期のことで、誰かが有掛に入るときには「ふ」の字のつくものを七種類贈る習慣があったらしい。ここでは、富士、湖面の逆さ富士、船、「ふ」の字をなした鳥三羽、船人で七つだそうだ。なんとも粋ではないですか。
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それから、これも面白い。抱一と其一のほか、谷文晁や渡辺崋山ら、合計72名の絵師や書家の作品を集めた、文政三年諸家寄合描図(1820年)。当時の文化人の間を回覧して作成されたものらしく、一説には抱一の還暦祝いとも言われている。其一は真ん中左の蟹を描いている。当時の文化度の高さを思い知らされる作品だが、この中には抱一が吉原から身請けした遊女の漢詩なるものもあるという。うーん、遊女も漢詩を書くことができたとは、やはり文化度が高かったということだろう。
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その他、抱一、其一近辺の画家の作品の展示もあるが、やはりここから先は其一の作品が見たい。その筆致は千変万化の鮮やかなもので、驚くべき作品に出会うことができる。まずこの「雪月花三美人図」のうちの一幅においては、手堅い美人画の手腕を発揮している。
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この活き活きとした群像図は、吉原大門図。この粋な遊びも文化ですなぁ。本当に楽しそうだ。
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そして、見る人誰もが圧倒されるに違いない、根津美術館所蔵の「夏秋渓流図屏風」。色使いが異常なまでに鮮やかである上、いかにも琳派を継承する様式的な川の流れは、実に大胆だ。
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大胆な構図は、とても江戸時代のものとは思われない近代性をまとっている。いつまでもその前に佇んで眺めていたい逸品だ。
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そして、琳派と言えば風神・雷神。其一もそれを描いているが、雲の描き方が奔放で、伝統に新たな息吹を与えることを自負しているかのような描き方ではないか。見ていて楽しくなってくる。
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かと思うとこの「松島図小襖」の、様式化された波の模様も素晴らしい。これぞまさに琳派的装飾性であろう。
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これも装飾性が高いと言ってもよいだろうが、毛色が全く違う。乾山描くところの茶碗の模様のようではないか。「芒野図屏風」である。装飾的でいて、漂う霧の雰囲気がリアルに出てもいる。
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其一の作品にはまた、若冲かと見紛うばかりの精緻な動植物も多い。この「蔬菜群虫図」に描かれた、動きさえ感じさせる蔓は、西洋画を思わせる。
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もちろんなんでもできる其一のことだから、当然水墨画も描いている。この「昇龍図」は、力強くもまたユーモラス。垂直に登る龍をこんな風に背中から描いた画家は、ほかにいないのではないか。
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そしてこれは、メトロポリタン美術館が所蔵する其一の代表作のひとつ、「朝顔図屏風」。ほんの一部分の写真だが、双幅の屏風全体を並べてみると、風神・雷神の構図を模倣しているとも言われる理由が分かる。それだけ生命力に満ち、動きさえ感じさせる朝顔なのだ。
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これは「林檎図」。この写実性にはなんとも気品があり、花も実も、いやみにならない範囲での存在感をたたえている。これも近代的だ。
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この「雪中竹梅小禽図」は、積もった雪の重さまでリアル感じさせる一方で、自らの重みに耐えかね地面に落ちる雪は様式化されており、美しい。
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これも面白いのだが、集まった人々の非日常的な瞬間が活き活きと伝わってくる。「大原雑魚寝図」と題されており、節分の夜、京都・大原の江文(えふみ)神社で行われた雑魚寝の風習を描いたもの。いわゆる無礼講であるようで、真ん中の若者は、あろうことか、男性、女性、双方から誘惑されて困っているようだ(笑)。
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これはまたユニークな美の表現。「富士千鳥筑波白鷺図屏風」から富士山の方(もうひとつは筑波山を描いている)。うーん。近代の日本画のようではないか。モダンな感覚に痺れる思いだ。
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この「達磨図凧」は、江戸時代の凧がそのまま残っている貴重な例であるらしく、糸も残っているので実際に使われていたらしい。其一は仏画もよくしたが、この太い線で描かれた達磨の絵には、繊細さと力強さが同居しているように思う。消耗品の凧にまで貪欲に活動範囲を広げた其一の制作意欲には恐れ入る。
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かと思うと、神社に奉納された絵馬もある。これは、「神功皇后図絵馬」(1845年)。埼玉県行田市(私も訪れ、今年の6月26日に記事を書いた)の行田八幡神社に奉納されたもので、1989年まで実際に拝殿に掲げられていたものらしい。絵馬なので多少荒い作風になるのは致し方ないが、背景の波の様子など、いかにも琳派の継承者であると思わせる。
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ご紹介した以外にもまだまだ沢山の素晴らしい作品が展示され、思わず唸ってしまう瞬間も多く訪れる。「美しきものはとこしえに歓びである」・・・西洋のキーツの言葉が、日本のキイツの作品には本当にふさわしいと思う。この地上に生きているときには顔を合わせることがなかった同世代の二人が、今やあの世で言葉の壁を乗り越えて話しているのではないかと想像するのも楽しいものだ。鈴木其一、江戸琳派とまとめてしまうのはもったいない、素晴らしい手腕を持った画家であった。

by yokohama7474 | 2016-11-12 01:28 | 美術・旅行 | Comments(6)

ウィーン国立歌劇場来日公演 モーツァルト : 歌劇「フィガロの結婚」(指揮 : リッカルド・ムーティ / 演出 : ジャン=ピエール・ポネル) 2016年11月10日 神奈川県民ホール

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= 頂いたコメントを受けて、若干改訂しています。=

現在9度目の来日公演中の世界最高峰のオペラハウス、ウィーン国立歌劇場は、先にご紹介したリヒャルト・シュトラウスの「ナクソス島のアリアドネ」のあと、11月に入ってからは6日(日)と9日(水)にワーグナーの「ワルキューレ」を上野の東京文化会館で上演し、そして10日(木)には会場を横浜の神奈川県民ホールに移して、モーツァルトの名作「フィガロの結婚」の初回上演を行った。この作品は1786年にウィーンのブルク劇場(現在も同名の劇場は存在するし、若き日のクリムトの壁画などもあるが、演劇専門劇場になっている)で初演されたもの。当時この作品が初めて大人気を得たのはプラハでの上演であった(それが続く「ドン・ジョヴァンニ」初演につながる)とはいえ、ウィーンの歌劇場にとってはまさに看板に当たる曲目。指揮を執るのは現代指揮界のこれまた最高峰、今年75歳になるイタリアの巨匠リッカルド・ムーティである。
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この上演、どこから話を始めようか。ウィーン国立歌劇場の過去の「フィガロ」の上演についての記述からにしようか。手元で分かる限り、このオペラハウスの来日公演でこの作品が演奏されるのは今回が実に6回目。9回の来日で6回だから、来日機会の2/3はこのオペラを演奏していることになる。これまで演奏されたのは、以下のようなプロダクションだ。
 1980年 カール・ベーム、ハイリヒ・ホルライザー指揮、ヘルゲ・トーマ演出
 1986年 シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ指揮 ウォルフガンク・ウェーバー演出
 1994年 クラウディオ・アバド指揮 ジョナサン・ミラー演出
 2004年 小澤征爾指揮 ジャン=ピエール・ポネル演出
 2012年 ペーター・シュナイダー指揮 ジャン=ピエール・ポネル演出
 2016年 リッカルド・ムーティ指揮 ジャン=ピエール・ポネル演出

なるほど。今回は2004年、2012年に続くポネル演出の舞台ということだ。同じオペラハウスが数年ごとに違うプロダクションを制作することはさほど驚かないものの、それにしても、途中3つの違う演出のあと、古いポネルの演出を連続して上演するというのは興味深い。それだけ人気のあるプロダクションということだろう。また面白いことに、この演出家ポネルは、このオペラハウスの1980年の初来日時に指揮を取った当時のオーストリアの人間国宝的存在、カール・ベームが、その4年前の1976年にウィーン・フィルを指揮して演奏した映画版の「フィガロ」における演出を担当しているのだ。帰宅してから手元で映像を確認してみたところ、映画版なので少しアレンジはあるが、基本的に今回の舞台と同じ演出だ。もし現在ウィーンでこのオペラを見ると、どの演出が採用されているのだろうか。あるいは複数の演出が入れ替わりで上演されているようなこともあるのであろうか。尚、1980年の上演においても、ポネルは衣装担当に名を連ねている。

演出家ジャン=ピエール・ポネルは、上記の通り40年前に既に大活躍していた人で、今となっては懐かしい名前である。1932年生まれのフランス人で、1988年に亡くなっている。私がオペラなるものに接するようになった1980年代半ばは、まさに彼の活動の全盛期であって、天才演出家としての名前を欲しいままにしていた。アーノンクールと組んだモンテヴェルディや、バイロイトでのバレンボイム指揮の「トリスタン」の素晴らしさは当時耳にしたし、私自身がザルツブルクやウィーンで実演に接した彼の演出は、過激な内容のシェーンベルクの「モーゼとアロン」や、抱腹絶倒の「アルジェのイタリア女」であった。ドミンゴらが出演したドキュメンタリーも面白かった。そんな、いわば伝説の天才の舞台を今日本で見ることができるとは、嬉しい驚きである。
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だがその一方で、これはオペラにとってよいことなのか悪いことなのか、少し考えてしまう面もある。オペラという特殊な芸術が生き残って行くためには、古いものを大事にしているより、常に演劇面で最新のものを取り込む必要があるのではないか。それとも、質の高い演出は、これから先まだ何十年も、あるいは百年も上演され続けて行くのであろうか。こんなことを書いているのは、この演出が時代遅れだからではない。実際にはその正反対で、大変に面白く、作品の意図を素晴らしく舞台化していると高く評価されるのだ。この「フィガロ」というオペラは大変にポピュラーではあるのだが、実は小ネタが満載で結構複雑な作品なのである。それはストーリーの展開においてもそうだし、登場人物の歌う内容にも、あれこれ細かい心理的ニュアンスが込められていて、それらをつぶさに舞台で表現することは相当困難なことだと思う。それをこのポネル演出は細部に至るまで見事に描き切っているのだ。今回指揮を執ったムーティはもともと、オペラにおける主役は指揮者であるという明確な信念の持主で、歌手の横暴を毛嫌いする人であるが、同時に演出に関しても厳しい目を持っているに違いない。このポネル版の「フィガロ」、ウィーンで現在舞台にかかることがあるのかのか否かは分からないが、ムーティも納得の演出なのであろうと思う。これはポネル版の映画から、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウのアルマヴィーヴァ伯爵とミレッラ・フレーニのスザンナ(す、すごい組み合わせだ!!)。
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そのような優れた演出に恵まれた今回の公演、音楽面での成果を一言で感想を述べるならば、さすがムーティの統率力ということになろうか。実は冒頭の序曲と、最初のシーンでのフィガロとスザンナのやりとりくらいまでは、絶妙な演奏というところまでには至っておらず、少し不安であったのだが、曲が進むにつれて充実感が増して行き、客席の高揚感も上がっていたのである。「もう飛ぶまいぞこの蝶々」「恋とはどんなものかしら」といった有名アリアの伴奏で、ムーティの指揮は生き物のように柔軟に歌手の声を包むかと思うと、ある場合には低弦が、またあるときにはファゴットが、素晴らしい自発性を発揮して舞台自体をリードした。伯爵夫人の2つのアリアは非常に美しくまた深いものであるが、ここでのムーティの伴奏は実に念の入った鳴り方をしており、これまでに接したこの作品の数々の実演においてもちょっとないほどの充実したオーケストラパートの響きであったと思う。私にとってのムーティは、以前の記事にも書いた通りだが、「若獅子」などというキャッチフレーズで華々しく登場してきた40歳前後の頃の華やかな印象が未だに鮮やかなのであるが、これまでミラノやローマのオペラハウスとの来日で聴くことのできたイタリアオペラの数々とは異なる、このような古典的レパートリーにおける充実の指揮ぶりに、改めて75歳という円熟の年齢を感じることとなった。

歌手陣も、総じて優れた出来だったとは思うが、いわゆる名の知れた歌手といえば、アルマヴィーヴァ伯爵を歌ったイルデブラント・ダルカンジェロくらいか。彼は昨年の英国ロイヤル・オペラの来日公演で、同じモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の主役を歌っていた。
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その他、フィガロ役のアレッサンドロ・ルオンゴ、スザンナ役のローザ・フェオーラ、ケルビーノ役のマルガリータ・グリシュコヴァ(昨年のザルツブルク音楽祭でのダン・エッティンガー指揮ウィーン・フィルの「フィガロ」でも同じ役を歌っている)、いずれも若い歌手で見た目もよく、歌唱も安定していて素晴らしい。
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・・・だが。だがである。上に書いたベームの映画版においては、フィッシャー=ディースカウとフレーニに加えて、ヘルマン・プライやキリ・テ・カナワという綺羅星のごとき面々が出演しており、それに比べると、いかんせん今回の歌手たちは小粒であることは否めない。またさらに遡って、この曲の名盤の誉れ高いエーリヒ・クライバー指揮のウィーン・フィルのディスクにおける、リーザ・デラ・カーザやヒルデ・ギューデン、チェーザレ・シエピといった伝説のアンサンブルを考えると、現代の歌手陣は皆、おしなべてお利口さんのような気もして来てしまうのである。オペラの大詰めで、「狂乱の一日」が終わって徐々に朝の光が差してくるという細かい演出に感心しながらも、圧倒的なスター歌手を懐かしいと思う気持ちを抑えることができなかったのもまた、事実である。

ひとつ付記しておきたいのは、この演奏の第4幕で、これまで接した演奏では聴いた記憶がない曲が2曲あった。ひとつはこの幕の冒頭近く、親子と分かったフィガロとマルチェリーナのやりとりの後にマルチェリーナが歌う「牝山羊と牡山羊は決して喧嘩なんてしません」というアリア。もうひとつは、フィガロが仲間たちに「口笛を吹いたら集まって下さい」と言ったあと、バジーリオとバルトロがその場に残って会話し、その後バジーリオが危機管理について(?)歌うアリアだ。早速帰宅して、音楽之友社のオペラ対訳シリーズ(昭和38年第1刷発行)を開いてみると、あ、ちゃんと歌詞として載っている(それぞれ第24曲と第25曲)。なので、最近の研究で追加されたわけではなく、古くから作品の一部に認定されている箇所なのである。そこで興味を持って調べてみると、上記のベームの映画版や、昨年のザルツブルクでのエッティンガー指揮の上演では両曲ともカットされている。慣習的なカットなのであろう。一方、2014年にアーノンクールがアン・デア・ウィーン劇場で演奏した際の映像では、両曲とも含まれている。ということは、原典主義の指揮者の場合はこれらの曲をカットせずに演奏するのであろう。そう思って上述のエーリヒ・クライバーの昔の録音(1955年)を調べると、そんなに古い録音なのできっとカットしているだろうとの予想に反し、両曲とも演奏されている!!こういうところからもそれぞれの指揮者の美学が分かるのであるが、ある意味で極端な原典主義者とも言えるムーティがこれらの曲をカットせずに演奏しているのは当然であろうとも思われる。偉大なる父クライバーの録音のジャケットはこれだ。
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さて、これまで何度もこのオペラを見てきたにも関わらず、今回改めて思ったことは、本当によくできた作品であるということである。フランス人のボーマルシェの原作、イタリア人のダ・ポンテの脚本、オーストリア人のモーツァルトの作曲、そして舞台はスペインと、この作品の出自はヨーロッパ各地にあるわけであるが、初演は1786年、つまりヨーロッパを震撼させ、新たな時代に入るきっかけとなったフランス革命の、たった3年前だ。原作よりはオペラの方が貴族制への批判が和らげられているそうだが、それでもなかなかに刺激的な内容だ。なので、その刺激を嫌がるムードは当時あったに違いない。だがそのような作品が時代を超えて今日まで残ったのは、やはりなんといってもモーツァルトの音楽の素晴らしさであろう。実際ここでモーツァルトは、登場人物たちそれぞれの人間性を巧まずして表現しているのみならず、絶えず流れて行く音楽の中に、聴衆の感情の深いところに訴えかけるものを散りばめている。いわば、時代の制約を振りほどこうとする表現力が横溢していると言えるのではないか。例えば第4幕冒頭でバルバリーナがピンを探している場面の音楽に、私はいつも、遥か後年のチャイコフスキーを想起させるほどの抒情性を感じる。この音楽は貴族の娯楽のために書かれてはいない。激動の時代の中で、音楽の持つ表現力をひたすら追求したモーツァルトは、その短い生涯において本当に恐ろしいほどの熱意をもってその才能を昇華させたのだなと、改めて思ったものである。曲の本当の意義を認識させるのが音楽家の本懐であろうから、ムーティは今回、そのような次元に達した音楽家であることを見事に証明して見せたのであった。2019年には手兵シカゴ交響楽団と来日してオハコのヴェルディのレクイエムを演奏することが発表されているが、それ以外の機会にも、是非日本でその円熟の音楽を聴かせてほしいものだ。
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by yokohama7474 | 2016-11-11 00:51 | 音楽 (Live) | Comments(2)

インフェルノ (ロン・ハワード監督 / 原題 : Inferno)

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気が付くと今年も残り2ヶ月を切ってしまっているが、後世から見て、2016年は一体どういった年であったと評価されるであろうか。今これを書いている11月9日深夜から半日ほど前に決定した米国大統領選の結果は、間違いなくこの年の大事件であると記憶されるであろうし、それに数ヶ月先立って世界に衝撃を与えたBREXITも、もちろん後世に語り継がれる大事件であろう。このブログは私の政治的信条を述べる場ではないので、これらの点について深入りはしないが、今世界で一体何が起こっているのかという、名状しようのない不安に駆られることは事実である。それはトランプ大統領の誕生が不安だという単純な意味ではなく、先進国における民衆の判断が、「まさかこんなことが」と思う結果になること自体が不安だという意味だ。世界の人口は73憶。富の分配はどうなっているのか。安定的な国際秩序は取り戻せるのか。そして将来の世界はどのようになって行くのか。

軽口三昧の私がいつになく神妙に書いているのは、つい最近この映画を見たせいでもある。「ダ・ヴィンチ・コード」「天使と悪魔」に続くダン・ブラウン原作、ロン・ハワード監督、ロバート・ラングドン教授を演じるトム・ハンクス主演のミステリー、「インフェルノ」。この言葉はもちろん「地獄」という意味で、古くからのホラーファンなら、1980年のダリオ・アルジェント監督のホラーと同じ題名であることを知っているかもしれない。だがこれは、そのホラー映画とは全く違う内容である。既によく知られていることと思うが、この「インフェルノ」は、ダンテの「神曲」の「地獄篇」を意味するからだ。なるほど、ロバート・ラングドン物にふさわしい題材ではないか。これはボッティチェリ描くところのダンテ。
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ダンテは1265年生まれ、1321年没だから、ボッティチェリらルネサンスの時代からでもざっと150~200年ほども前の人。因みに私よりもぴったり700歳年上だ(笑)。だが彼の代表作「神曲」はルネサンス文化に大きな影響を与えたほか、さらに後世のロマン主義音楽においても、リストやチャイコフスキーなど、文学的素養のある作曲家の手によって音楽化されている。まさに西洋文明の根幹をなす文学作品であると言えるだろう。この映画では、そのダンテに関連するイメージを使いながら、ラングドン教授がフィレンツェ、ヴェネツィア、イスタンブールを舞台に駆け巡るという内容。登場する場所はかなり有名なものが多く、例えば「ダ・ヴィンチ・コード」のサン・シュルピス教会やロスリン礼拝堂などのマニアックな場所は出て来ない。その意味で、この映画に刺激を受けてロケ地を旅行するのはさほど難しくない。尚、私はこの映画の原作本をしばらく前に購入しているが、ほかの沢山の本と同様、未だ手をつけておらず、床に積んであるのだが、その本は普通の版ではなく、「ヴィジュアル愛蔵版」なのだ。
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文化好きならこの雰囲気に興味を惹かれない人はいないだろう。実際この本は、「神曲」に関係する絵画作品や、小説の舞台になっている場所のなど、オールカラーで写真が沢山入っており、パラパラ見ているだけでも悦に入ってしまうのである。その他私の手元には「神曲」が二種類あって、ひとつはギュスターヴ・ドレの挿画による抜粋版、もうひとつは「完全版」と称するもので、やはりドレの挿画が入っている。ドレの挿画はドレもみな、素晴らしいのである。
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そしてこの映画で謎の鍵を握る絵画として出てくるのが、ボッティチェリが描いた「地獄の見取り図」(ヴァチカン図書館蔵の「神曲」の挿画のひとつ)である。
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これだけでは分かりにくいかもしれないが、地獄の各層にいる死者や怪物を描いている。私はこのボッティチェリの手になる「神曲」の挿画について詳しく知るところではないが、この画家のいつもの精緻で華麗な筆遣いはあまり感じられず、むしろ稚拙なまでに惨たらしいヴィジョンを描いていて、それが却って鬼気迫るものになっている。映画の中では、壁に投影されるこの絵の中に最初のヒントが隠されていて、それをもとにラングドンと、彼と病院で知り合った女医であるシエナ・ブルックスの決死の冒険が始まるのである。
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いつもの通りネタバレは避けるが、ストーリー自体はさほど複雑ではない。人口が膨れ上がり、温暖化が進み、社会不安が募り、絶滅する動物種が急増しているこの地球において、現時点で人口を半分にすれば、むしろ人類の滅亡は防げるのだ、という過激な思想の持主の科学者が生物兵器を作り、それを巡って起こる争いを描いている。突然襲撃されたために過去48時間の記憶が明確でないラングドンに、容赦なく襲い掛かる危機また危機、そして深まる謎また謎というわけだ。クライマックスに至るまでに、いくつかのミスダイレクションが鮮やかに解きほぐされ、真相に驚愕のあまり呆然とするほどではないが、「お、なるほどそう来たか」と思わせる展開が心地よい。誰が敵で誰が味方なのか、見ている方は映画の描写に素直に沿って考えて行けばよいだろう。騙されるのも楽しいくらいの余裕を持って見るべきだ。

それにしても、この映画でラングドンは最初から最後まで、かなりひどい目に遭うのだが、最近「ハドソン川の奇跡」で重厚かつ存在感のある演技を見せたばかりのトム・ハンクスが、ここでは一転して、知的でもあり人間味あるユーモアも持つラングドン教授を喜々として演じているのを見るのは楽しい。いや、繰り返しだが、かなりひどい目には遭うのであるが(笑)。
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共演のシエナ役のフェリシティ・ジョーンズは、英国出身の33歳。どこかで見た顔だと思ったら、今劇場で予告編が流れている「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のヒロイン役だ。このシエナ役、大変に難しいと思うのだが、なかなか頑張って演じている。それほど美形ではないが、何か一生懸命さを感じさせて、印象は悪くない。
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そして私が感心するのは、名匠ロン・ハワードのスピーディかつ要領を得た演出である。上記の通りのミス・ダイレクションの数々を活かすには、登場人物たちの細かい表情や仕草が重要になり、また、カット割りを含めた全体の大きな流れが出来ていないと成功しないと思うが、この監督の優れた手腕によって、非常に手慣れた感じに仕上がっている。時にはアップを多用し、また時には観光名所を美しく撮り、主人公たちが襲撃されるシーンの迫真性も素晴らしい。ハードなシーンも多い映画だが、きっと撮影現場にはこんな感じで和やかさもあったのではないかと推測する。でも、トム・ハンクスは本当にひどい目に遭うんですけどね(笑)。
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このように、高く評価できる作品であったのだが、さて、私の憂鬱はまた戻ってくる。実際の世界は、これから一体どうなるのか。まさか本当に人類の半分を殺してしまうような超強力な生物兵器が簡単にできるとは思わないが、すべての人が幸福に暮らせるユートピアの実現もまた難しい。だが、ともあれ絶望に打ちひしがれるのではなく、未来に希望を持つことがまず大事であろう。唐突な例かもしれないが、私は、高校生の頃に新聞の不鮮明な写真でイスタンブールのシスターン(地下貯水池)にある、柱の下に刻まれたメデューサの像を見て、まさに鳥肌立つ興奮を感じ、いつかそれを見たいと念じていたところ、幸いにもこれまでの人生で2度、その地を訪れることができた。希望を持てば叶うこともあるのだ。そのメデューサ像の神秘的な雰囲気は、まさに期待通りであって、私の心に深く刻まれている。「007 ロシアより愛をこめて」でもロケ地として使われているが、この「インフェルノ」でも、映画の雰囲気作りに大きく貢献する場所として登場するのである。以下の写真で、手前のメデューサの首はさかさまに、奥のものは横向きになっていて、その理由は未だ判明していない。なんという神秘。
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世界にはこのような神秘的な歴史遺産が数多く残されている。政治の世界がどうであれ、このような場所にこれからも行くことを励みにすると、人生に希望が持てようというものだし、またそのような刺激を与えてくれる映画を、これからも見て行きたい。恐ろしい内容の「インフェルノ」から希望を探すという無謀な試みも、実際に現実世界で起こっている奇想天外さに比べれば、さほど奇異なものではないはずだ!!

by yokohama7474 | 2016-11-10 01:48 | 映画 | Comments(2)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 バンベルク交響楽団 2016年11月4日 東京オペラシティコンサートホール

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前日に続き、万難を排して聴きに行った、スウェーデンの巨匠ヘルベルト・ブロムシュテット指揮のバンベルク交響楽団の演奏会。私がこれに行きたかった理由は、なんといってもその曲目である。上のチラシにある通り、メインはブルックナーの大作、演奏時間70分の交響曲第7番ホ長調。そしてその前に、ベートーヴェンの「エグモント」序曲が置かれていて、しかも注意事項として、「本公演には休憩がございません。予めご了承ください」とある。へー、なるほど。10分ほどで駆け抜ける「エグモント」序曲をまず演奏し、多少の楽員の追加を持って、緊張感を持続したまま、あの崇高なブルックナーの世界に入れるとは、なんとも粋な計らいではないか。そのように思ったのだ。ところが前日にサントリーホールのコンサートで購入したプログラムを見てびっくり。曲目が以下のように記載されていた。
 モーツァルト : 交響曲第34番ハ長調K.338
 ブルックナー : 交響曲第7番ホ長調(ノヴァーク版)

なんと、前座の曲が変わっているではないか。しかも、モーツァルトの34番は、3楽章の曲とはいえ、演奏には20分ほどかかる。よって、この2曲を休憩なしに続けることはありえない。恐らくは指揮者ブロムシュテットの中で、何かがこの変更を促したのであろう。会場には以下のような掲示があり、指揮者自身のコメントとして、「東京オペラシティでのコンサートをできるだけ豊かにしたい」と書かれている。なんという音楽的な理由(笑)。
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私の勝手な解釈だが、これに先立つ2日間、「エグモント」序曲をアンコールとして演奏することとしたゆえに、東京におけるリピート客を飽きさせない、あるいは、楽員に新鮮な気持ちで演奏させる、そういった配慮もあるのかと思う。なぜなら、今回のブロムシュテットとバンベルク響の韓国・日本公演の9回のコンサートにおいて、モーツァルト34番が演奏されたのは、この日だけであったからだ。ついでに、この89歳の指揮者がどのようなハードなスケジュールをこなしたか(いや、まだあと1日残っているのだが・・・)、ここに書いておこう。
 10/26(水) ソウル
 10/27(木) ソウル
 10/29(土) 福岡
 10/30(日) 宮崎
 11/1(火)  名古屋
 11/2(水)  東京
 11/3(木)  東京
 11/4(金)  東京
 11/5(土)  京都
この中で、大曲ブルックナー7番の指揮は、ソウル、宮崎、東京の3回である。これは1970年代であろうか、ベートーヴェンの録音のジャケットにおけるブロムシュテット。さすがに若々しいが、音楽は当時と変わらないというか、むしろ、より清新になって行っているかもしれない。
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そのブロムシュテットが初台の東京オペラシティコンサートホールのために選んだモーツァルト34番。一般にモーツァルトの交響曲でポピュラーなのは、いわゆる後期六大交響曲と言われる、第35番から41番(37番は欠番)。34番はその前に書かれた曲であるが、人気度から言えば、むしろその前に書かれた31番、32番、33番の後塵を拝しているように思う。だが、例えばリッカルド・ムーティはこの曲をそれなりの頻度で実演でも採り上げているし、実は大変楽しめる曲なのである。そして今回のブロムシュテットとバンベルクの演奏、いや実に美麗の一言。ここでも弦楽器はヴィブラートを排し、ティンパニは太鼓2つの硬い音のものを使用していて、古楽風の響きが追求されていたが、問題は要するに音楽の中身であって、これだけ流麗で各セクションが敏感に反応しあう演奏は、そうそう聴けるものではないだろう。指揮者の意図通り、このホールの音響を生かした素晴らしいモーツァルトであり、いつまでも聴いていたいとさえ思ったものだ。

だが、このコンサートの真の価値は、やはりメインのブルックナーであっただろう。このホールでかつて鳴り響いたブルックナーには、ギュンター・ヴァントと北ドイツ放送響の9番とか、以前このブログでも採り上げた、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮の読響による8番とか、既に伝説になっているものがあるが、今回の演奏も間違いなく同様の伝説として残るであろう。冒頭のチェロから、もうその清々しくも強く伸びる音に仰天。やはりこのオケは、自分たちの出している音や同僚の鳴らしている音に、非常に敏感であると思う。延々と続くオーストリアの丘陵地帯のような音楽は、その情景を刻一刻と変えて行くが、決して煽り立てることはなく、だが、ここぞという時には強靭で雄弁な音を引き出してみせるマエストロの手腕には愕然とする。そういえば、ちょうど1年ほどまえ、昨年11月8日に聴いたダニエル・ハーディング指揮新日本フィルによる同じ曲の記事においては、なぜと充分説明できないが、ブルックナーに必要な「何か」が足りなかったと書いた。その意味では、まさに今回の演奏こそ、その必要な「何か」に満たされた演奏であって、その「何か」は、最初から最後まで、それこそ横溢していたのだ。前日のシューベルトとベートーヴェンの演奏にはなかった、滔々とした大河のような音楽的情景がここには沢山出てくる。ここでは弦楽器もたっぷりとヴィブラートをかけて弾いていて、木管もそれぞれ抜けのよい美しい音であるが、だがその一方で金管楽器の音色は、意外と素朴なのである。このそれぞれのパートが一体となって鳴り響く音の大伽藍の崇高さは、実際にその場に身を置いた者でないと分からないだろう。この演奏が録音・録画されなかったことは、大きな文化的損失なのではないだろうか。

このブロムシュテットが1970-80年代に当時の手兵、ドレスデン・シュターツカペレと残した録音の中でも、私はこのブルックナー7番を愛聴していて、ブルックナーに親しみ始めた高校生の頃、ベームやカラヤンの録音よりも親しんだ記憶がある。ブロムシュテットとドレスデンの、その柔らかい響きに魅了されたものだが、今回の演奏はそこからさらに数段上がったところにある、ほとんど天上の音楽と呼んでもよいものであったと思う。この人は非常に禁欲的で自分に厳しい人らしいが、かといって他人に対して高圧的では全くない。このような人がこのような充実した音楽活動を経た末に、このような高い境地に達するという事実を目の当たりにすると、人間の持つ能力のすごさに、改めて感動する。今回私の聴いた2回のコンサートにおいて、彼はすべて立って指揮をしたどころか、演奏終了後にステージから袖に引き上げた後の様子も私の席からよく見えたのだが、椅子に腰かけることもなく、ずっと立ったままであった。それから、必ず譜面台に楽譜を置いているものの、どの曲でも一度も開くことなく、暗譜で振ってみせた。そして今回のブルックナー、盛大な拍手に応えて、譜面台のスコアをポンポンと叩き、「私じゃなくてこの曲がすごいんです」と謙遜していたのである。心から尊敬すべき老巨匠。ブルックナーもきっと喜んでいると思う。以下の写真は、確か昔、上で触れたブロムシュテットとドレスデン・シュターツカペレのブルックナー7番のレコードのジャケットに使われていたはずの、ウィーン市民公園の彫像。ただ私の記憶では、ブルックナーの下に、裸の女性の彫刻がまとわりついていたと思うのだが、崇高なブルックナーの音楽のイメージとの兼ね合いで、いつの間にか撤去されたものか???
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そのような歴史に残る素晴らしいブルックナー演奏であったのだが、ひとつだけ疑問点。上のチラシにも、あるいはこの演奏会のプログラムを見ても、ブルックナー7番の使用楽譜をノヴァーク版としている。音楽ファンは既にご存知の通り、ブルックナーの交響曲は、本人や弟子による改訂が繰り返されたので、沢山の版が存在する。その中で、ノヴァーク版とハース版が有名であるが、特にこの曲に顕著なのは、ノヴァーク版とハース版の違いとして、第2楽章アダージョの頂点で、前者では打楽器(ティンパニ、シンバル、トライアングル)が盛大に鳴り響くのに、後者にはそれがないということなのだ。だが今日の演奏、打楽器は入っていなかったので、これはハース版ではないのか。そもそもブルックナーを得意とした指揮者(日本の朝比奈隆はその代表だが)は、ノヴァーク版よりもハース版を好む傾向があり、調べてみたところ、1980年のブロムシュテットとドレスデンの録音も、やはりハース版であった。このあたり、主催者には正確を期してもらいたい。

今後日本で聴けるブロムシュテットの演奏であるが、まず来月はN響でベートーヴェンの第9を5回演奏する(嬉しいことにそのうち1回はサントリーホールでのものだ)。そして、招聘元であるKAJIMOTOの発表では、なんとなんと1年後、来年11月には、かつての手兵、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団との来日が予定されている。そのとき90歳になっているマエストロの音楽は、さらに深化しているのであろうか。心して待つこととしたい。「待ってろよ」という顔つきですね(笑)。
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by yokohama7474 | 2016-11-05 01:09 | 音楽 (Live) | Comments(2)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 バンベルク交響楽団 2016年11月3日 サントリーホール

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前項の川崎での東響のコンサートを聴いたあと、美術館に一軒寄って、向かった先はサントリーホール。これは今年の秋の数多い来日演奏家たちの中でも、目玉のひとつと私が考えるもの。今年実に89歳!!の巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットと、彼が終身名誉指揮者を務めるドイツの名門、バンベルク交響楽団の演奏会だ。
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ブロムシュテットは、その名前の響きや、これまで活動して来た場所が、ドレスデン、ライプツィヒ、ハンブルクや、このバンベルク等、ドイツが多いので、ドイツ人かと思われがちかもしれないが、実際はスウェーデン人であり、しかも生まれは米国マサチューセッツ州なのである。もちろん、若い頃は北欧でもキャリアを積んだだけでなく、今でもデンマーク放送響とスウェーデン放送響の名誉指揮者の称号を持ち、米国でもサンフランシスコ交響楽団(奇しくも今月やはり来日する)を率いたこともある。また日本では、NHK交響楽団(通称「N響」)の名誉指揮者として親しまれている。このように列挙すると、本当に多くの楽団と実り多い仕事をして来た人なのである。今回のツアーのプログラムを見てみると、この高齢でありながら、10月26日から11月5日までの10日間に、実に9回のコンサートの指揮をする。しかも、日本ばかりでなく、そのうち2回はソウルでの公演だ。そしてこの指揮者、未だに立って指揮をするのだ。恐るべき89歳。

さてこのバンベルク交響楽団というオーケストラ、クラシックファンには先刻おなじみであるが、そうでない方のために簡単に説明すると、もともとチェコのプラハに存在したプラハ・ドイツ・フィルというドイツ系の人たちによるオケのメンバーが、第二次大戦後ソ連の占領から逃れてドイツに移住し、1946年に結成したオーケストラである。今年創立70年であるので、ちょうど前項で採り上げた東京交響楽団と同じということになる。奇しくも、バンベルク響を今年まで率いていたのは英国人のジョナサン・ノット。彼は今では東響の音楽監督である。このバンベルク響、もともとドイツの伝統的な音色をその特色としているが、ノットが率いた16年の間に、レパートリーも広がり、オケの柔軟性が増したと言われている。因みにバンベルクという街、私も昨年、バイロイト音楽祭に出かけた際に訪問しているので、ご興味おありの向きは、参考までに以下の記事をご覧下さい。
http://culturemk.exblog.jp/23563803/

この日の演奏会の曲目は以下の通り。
 シューベルト : 交響曲第7番ロ短調D.759「未完成」
 ベートーヴェン : 交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」

これはもうドイツ音楽の王道であり、このコンビで聴くには最適の曲目であると言えるだろう。因みにプログラムによると、バンベルク響とN響の共同で東京においてベートーヴェンの交響曲ツィクルスが進行中とあり、なに、そんな話聞いていないなと思いながら、近年(2010年以降)のブロムシュテットの東京でのベートーヴェン演奏を、ちょっと調べてみた。尚、N響に関しては定期演奏会だけしか調べていないので、それ以外のコンサートで演奏されている場合はここから抜けていることになる。
 2010年 : 3番(N響)
 2011年 : なし(N響への登壇はあり)
 2012年 : 3番、7番(バンベルク響) (N響への登壇はなし)
 2013年 : なし(N響への登壇はあり)
 2014年 : なし(N響への登壇はあり)
 2015年 : 1番、2番、3番(N響)
 2016年 : 5番、6番(バンベルク響)、9番(N響、12月の予定)

ツィクルスの始まりがいつであるのか分からないが、仮に前回のバンベルク響の来日公演の2012年とすると、残るは4番と8番だけとなる。3番「英雄」だけは、既に3回演奏されているのだが。

ともあれ、今回の演奏は、ある意味で予想通り、音楽の素晴らしさを改めて実感させてくれる稀有な体験となった。ブロムシュテットはヴァイオリンの左右対抗配置を取り、近年は確か指揮棒も持たないと記憶するが、今回もそうであったのみならず、驚いたのはなんと、弦楽器はほぼ完全なノン・ヴィブラートなのである!!つまり、時代がかったロマン性を徹底的に排除したクリアな音質で、曲の書かれた時代のスタイルを持つ音楽を、活き活きと再現していたのだ。また、「未完成」では通常のティンパニ(太鼓4つ)を使用していたところ、「田園」では、太鼓2つで硬い音のする別のセットのティンパニを利用するという凝りよう(ちょうど先日のジョナサン・ノットと東響が、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲とショスタコーヴィチの交響曲でティンパニを使い分けていたのと同様)。いかに芸術家が常に新たなチャレンジを求める職業であるとはいえ、89にもなれば、しかもドイツ的な音楽云々と言われるこのオケとの協演であれば、面倒な新しいことをやるのでなく、昔懐かしいロマン的な響きに浸ろうかという思いに駆られるものではないか。ブロムシュテットという人はそうではないのだ。決して奇をてらわず、まっすぐに音楽に向き合うので、紡ぎ出される音は新鮮でありながらも、そこにあるべき陰影もまた、素晴らしい。興味深いことに、技術的な課題はいくつもあった。「未完成」の冒頭ではヴィオラにずれが生じたし、「田園」の第2楽章の最後、鳥が鳴きかわす場面ではフルートにひずみがあり、ファゴットは入りを間違えた。だがそれらが一体なんだというのだ。高潔でいて、まさに耳が洗われるような音の流れは、200年も前に書かれた音楽を未だに聴いているという事実を、完全に忘れさせてくれるものであった。そもそも、バンベルク響の音色が「ドイツ的」というが、その言葉をどう定義すればよいのだろう。私は今でも、ヨーゼフ・カイルベルトやオイゲン・ヨッフム(来日公演の伝説的なブルックナー8番は私も聴いた)や、あるいはホルスト・シュタインの指揮したこのオケのドイツ音楽のCDを自宅で聴くことがあるが、それは過去の遺物であり、伝統を大事にするということは、彼ら偉大な先達の築いたものに、いかにして未来をつなげるかということなのではないか。その意味で、今回のブロムシュテットの演奏は、衝撃的なまでに、伝統を未来につなげる意識を持ったものであった。これは、頑張っている日本のオケを聴いて応援したくなるのとはまた別の、クラシック音楽の醍醐味であろうと思う。居ながらにしてこのような音楽を聴くことができる我々は、本当に恵まれている。

実は今回、会場のCD売り場では、終演後にサイン会があるとの表示はなかった。どうやら前日の演奏会のあとにはサイン会があったようで、「今日はやらないの?」と尋ねる人がいて、係の人の返事は、「なにせご高齢ですから、休憩時間の様子を見て決めます」とのこと。そして休憩時間には館内放送で、終演後のサイン会実行が告げられたのだ。そんなわけで、至福の「田園」が終わったらさっさとサイン会場に向かおうかと思った私の目に、アンコールに向けて準備する楽員の姿が目に入った。そして、ブロムシュテットが勢いよく振り始めたのは、ベートーヴェンの「エグモント」序曲だ!!これまた透明感がありながら激しく前に進む凄まじい演奏。指揮者の年齢がどうのということではなく、ただそこで鳴っている音楽の感動的であったこと。

そして、終演後のサイン会は、サントリーホールではちょっと見たことのないような長蛇の列。巨匠はさほど時間を置かずに、着替えさえせずに燕尾服のまま出て来て、ひとりひとり丁寧にサインをしてくれた。私はプログラムにサインを頂いたが、目を見て "Thank you very much!" というと、"You are welcome!"と返して下さる気さくかつ、礼儀正しい人である。このサイン、書くのに5秒くらいかけていましたよ。一生の宝物だ。
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実は今回のアンコールで「エグモント」序曲が演奏されたことは、次の記事につながるネタなのである。続きをお楽しみに。

by yokohama7474 | 2016-11-04 02:11 | 音楽 (Live) | Comments(4)

シモーネ・ヤング指揮 東京交響楽団 (チェロ : アリサ・ワイラースタイン) 2016年11月3日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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東京交響楽団(通称「東響」)は、今年楽団創立70周年を迎え、先頃ヨーロッパ5都市での演奏旅行を音楽監督ジョナサン・ノットのもとで成功裏に終了した。楽団のSNSで各地の模様を見ることができ、それぞれに非常な盛況であった様子が伺える。楽員の方々にとっても、より一層励みになったことであろう。お疲れ様です。これはウィーンの楽友協会でのリハーサルの様子。
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その欧州楽旅から戻った東響が最初の演奏会で指揮を委ねるのはこの人、シモーネ・ヤングである。
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人類には(主として?)二種類あって、それぞれ男性と女性と呼ばれる。ヤングはその分類では、実は後者に属する人。そんなことは見れば分かるとお思いかもしれないが(笑)、私がここで揶揄しているのは、以下のようなことだ。つまり、音楽家の中で、歌手はもちろん、ピアニストやヴァイオリニストでも、女性演奏家は数多い。だが指揮者に限ってみると、未だに女性の数は非常に少ないのが現状だ。指揮者が自分では音を出さない音楽家であればこそ、別に物理的な力においてハンディのある女性でもこなせそうなものだが、実態はその逆なのである。これは一体どういうわけか。ここでその考察を始めるときりがないのでやめておくが、事実として、指揮界においては女性の進出は者は未だに課題だということは言える。だが日本には優秀な女性指揮者が何人もいるし、世界的に見ても、片手くらいは信頼できそうな女性指揮者の名を挙げることができる。その中でも、世間一般の評価において、このシモーネ・ヤングこそが世界最高の女性指揮者と見做されていることは、ほぼ確実と言えるだろう。なにせ、名門ハンブルク州立歌劇場とその専属オーケストラであるハンブルク・フィルの音楽監督を去年まで10年間務めていたのだ(後任はケント・ナガノ)。また、これまでにベルリン・フィルとウィーン・フィル双方の指揮台に立っており、これは女性指揮者としては恐らく唯一の例ではないだろうか。1961年、オーストラリア生まれの55歳(女性に対して年齢は失礼という考えはやめておこう。指揮者にとって年齢や経験は、ある場合には有用な情報になる)。経歴を見ると、コンクールでの優勝歴は見当たらず、主としてオペラハウスでたたき上げのキャリアを築いて来た人のようである。これまで日本ではNHK交響楽団を指揮したことはあるようだが、東響とは初共演ではないだろうか。曲目は以下の通り。
 ドヴォルザーク : チェロ協奏曲ロ短調作品104 (チェロ : アリサ・ワイラースタイン)
 ブラームス : 交響曲第4番ホ短調作品98

うわぁ、これ、秋にぴったりの組み合わせですねぇ。もっとも、既に11月に入り、最近は寒くなってきたとはいえ、この日の気候はかなりよい天気で、会場のミューザ川崎では、Tシャツ1枚で来ている人の姿も見られ、錦秋というイメージのこれらの曲も、あまりこの季節にふさわしいという感じではなくなってしまっている。余談だが、私は日本人の美意識を育んだのは、明確な四季(これがある国は意外と多くないのだ)であると思っているのだが、最近、秋が存在していないように感じることがあり、我々の美意識も変容を余儀なくされるのでは、と思うことがある。と嘆いていると、おっと、リハーサルを指揮するヤングも、半袖である(笑)。
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ともあれ、最初のドヴォルザークである。これはチェロ協奏曲としては音楽史上最も有名な曲で、ドラマティックでかつロマンティック、どこか郷愁をそそるメロディは、万人に愛される要素を持っている。ソロを務めるのは米国人のアリサ・ワイラースタイン。
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ええっと、彼女も人類の分類でいうと、女性ということになろう(笑)。ダニエル・バレンボイムの秘蔵っ子などというコピーで最近宣伝されているが、うーん、それが本人にとってよいコピーなのかどうか。私は2001年に初めて彼女の生演奏を聴いているが、そのときは未だコロンビア大学で学びながら、ジュリアード音楽院でも教師についている(同時にできるのか否か分からないが、当時のプログラムにそう書いてある)、弱冠19歳の若者であったのだ。この時彼女が弾いたのは、エルガーの協奏曲で、伴奏はやはり東響、指揮は当時の音楽監督、秋山和慶であった。
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その後2010年にバレンボイムとベルリン・フィルの伴奏でもエルガーを演奏(私は、確かオックスフォードでのいわゆる「ヨーロッパ・コンサート」の演奏が放送されたのを見た記憶がある)。2014年に同じバレンボイム指揮で同曲を録音、それが彼女の名声を高めた模様。ここでも余談だが、バレンボイムが伴奏するエルガーのチェロ協奏曲と言えば、昔の彼の夫人であり、難病で若くして世を去った不世出のチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレのことを連想しないわけにはいかない。そうなると、ワイラースタインはデュ・プレの再来かということになる。久しぶりにこのワイラースタインを聴いて、確かに情感豊かな素晴らしい演奏だとは思った。だが、申し訳ないが、まだ何かが欠けているような気がして仕方がない。情感表現はよいのだが、力強さには物足りないものを感じたと申し上げておこう。28歳の若さで引退したデュ・プレは、今聴いても異常なほどの集中力を持った演奏の数々を残していて、それはちょっとほかに例のないほどのものだ。ワイラースタインは既にその年を越えてしまっているが、演奏家とは年とともに変貌するもの。彼女の場合、キャリアを築いて行くのはまだまだこれからではないかと思う。一方でこのドヴォルザークの協奏曲でのヤングと東響の伴奏は、それはそれは丁寧なもの。特に最近好調である東響の木管の表現力は、演奏全体をきりっと引き締めていた。ワイラースタインは、チェロのアンコールの定番である、バッハの無伴奏組曲第3番のサラバンドを弾いたが、これは内省的なしみじみとした演奏で、秋の雰囲気をたたえたコンサートにはぴったりの選曲ではあった。

そして後半のブラームス。ヤングが音楽監督を務めたハンブルクは、この作曲家の生誕地。私も一度だけ出張で行ったことがあるが、確かにどんよりとした気候の港町だ。この作曲家独特の重厚さを、そのハンブルクで活躍した指揮者がどのように表現するか、誠に楽しみであったのだが、なかなかに充実した演奏になった。驚いたのは、これは実はドヴォルザークでもそうだったのだが、情感が高まるとどんどんテンポを上げるという、最近珍しいタイプの指揮者であるということ。このブラームスの第1楽章大詰めでは、フルトヴェングラーかと思うくらい、急速にテンポを上げた後にまたブレーキをかけて大見得を切る。そのストレートな表現意欲には圧倒的なものを感じた。また、このブログでも過去に書いたことがあると思うが、ブラームスの交響曲はどれも、最高の音質で一貫しないと素晴らしく響かない難物なのであるが、今の東響は、完璧とは言わないが、かなりいいところまで行っていると思う。何度も、「お、これは美しい」「音が深い」「先へ進む力がある」と思わせてくれたものだ。ヤングの指揮は一貫して自由な感性を発揮したもので、第2楽章は冒頭のホルンとその直後の木管合奏の比重が同じで、過度の感傷が避けられていたし、第3楽章はかなりの急速で駆け抜ると思うと、第4楽章の冒頭の荘重さは目を見張るものであった。曲が進むほど弦楽器も練れて来て、最後は全員懸命の貢献によって音楽は天に昇って行ったのである。なるほど、この指揮者は個性的で面白いし、女性だの男性だのということは、音楽を聴く上では全く関係ないことを改めて実感した。今回は未だオケと指揮者の間に隙間のある点があるように思ったが、共演を重ねれば、また新たな名演を聴くことができるのではないか。

このヤングと東響、この曲目であと2回の演奏会をこなした後、大仕事に入る。東京二期会の上演で、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」である。先にウィーン国立歌劇場の来日公演をご紹介したが、このヤングと東響が一体どこまで肉薄できるか、今から楽しみである。あ、そうだ。今回の曲目は秋のイメージと言ったが、今回演奏された両曲の共通点は、打楽器が、ティンパニ以外にはトライアングルしか使われていなかったこと。シュトラウスのオペラではその点、小編成とはいえ、さらに多彩な音響を聴くことができるので楽しみだ。もちろんトライアングルも、いいんですけどね(笑)。
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by yokohama7474 | 2016-11-04 00:39 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち 国立新美術館

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世界には様々な都市があり、それぞれの顔を持つが、その中でも、ちょっとほかにないだろうという独自性を持つ都市がいくつかある。ニューヨークや香港や、あるいはパリはそのような都市であると言って間違いないだろう。だがそれらはいずれも、現在においても経済活動も盛んで、それゆえの人の往来がある街。だがここに、専らその文化的価値を持って世界で唯一と言える街がある。ヴェネツィアがそれである。かつて東方貿易で栄えたこの街は、陽光がないわけでは決してないが、水の上に築かれた危うさもあって、どこか退廃の気配が漂っており、世界のほかの場所にはない味わいを持っているのだ。
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などと偉そうなことを言っているが(笑)、私はこれまで一度しかヴェネツィアに行ったことがなく、しかも、その観光のひとつの目玉であるべきアカデミア美術館に行こうとしたところ、閉館していたのだ。理由は分からない。ただ閉館していたのであって、イタリアでそんなことがあっても怒ってはいけない。かの地では、閉まっているものは閉まっているのである。なのでこの展覧会の広告を見たとき、これはよいチャンスだと思ったのである。そのヴァネツィアのアカデミア美術館から、ヴェネツィア・ルネサンスの名品がやってくる!! 是非見たい・・・と思っているうちに、気が付くと10月10日。東京でのこの展覧会の最終日である。そんなわけで、いつもながらに後手後手に回ってしまって大変申し訳ないのだが、今から3週間半前に見たこの展覧会を、今頃採り上げることとする。なので、これを見てご興味を抱かれる方も、既に東京六本木の国立新美術館での展覧会は既に終了していることをご承知されたい。だが、ひとつの朗報は、大阪の国立国際美術館では、年明けの1月15日まで開催中なのである。という言い訳をしておいて、私がこの展覧会に行ったときの国立新美術館の写真がこれだ。
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なるほど、ダリ展と同時開催であったわけだ。実際のところ、ダリ展は入場15分待ちであったところ、このヴェネツィア・ルネサンス展は待ち時間なし。会場内はガラガラとは言わないが、それなりに余裕のある状態で、それだけ東京の人は、ヴェネツィア・ルネサンスへの関心が低いということかと思ったものだ。なので、微力ながらこの記事で、その素晴らしさについて少し言及してみることとしたい。

そもそも、イタリアにおけるルネサンスといえば、フィレンツェじゃないんかい、と思う人も多いかもしれない。もちろんフィレンツェも、世界にただひとつの特別な街。イタリアの場合、それぞれの都市が覇を競っていた頃、経済の隆盛に応じて文化も発達したという点では、フィレンツェもヴェネツィアも変わりはない。だが、それぞれの都市の原動力となった経済の様相同様、それぞれの都市が生み出した美術には、かなりの違いがあると言ってもよい。フィレンツェの華麗さに比してヴェネツィアの場合は、色合いは少しくすみ、楽天性も少ないが、時に凄まじい劇性を持っていると言ってしまってもよいのではないか。

いわゆるヴェネツィア・ルネサンスの画家として歴史上最初に出てくる一派は、ベッリーニ家である。ヴェネツィア派の創始者といわれるヤーコポ・ベッリーニと、その息子たち(近年では諸説あるようだが、一般にはそう理解されている)、ジェンティーレ・ベッリーニとジョヴァンニ・ベッリーニらがそれだ。この展覧会も、ジョヴァンニ・ベッリーニ(1424/28? - 1516)の作品から始まる。聖母子(1485-90年作)である。
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制作年を調べると、フィレンツェではちょうどボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」やダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」「最後の晩餐」の頃ということになる (ラファエロやミケランジェロは未だ子供である)。それらフィレンツェ絵画の人間性や明るい色彩に比べると、やや地味な印象はぬぐえないが、それでもこの母と子の深い感情をたたえた表情はどうだ。全体に静けさが支配している。そして、少し毛色は異なるが、このような作品にも同様の静けさが見られる。
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その生涯については判明していないことが多い、だがヴェネツィアに大きな工房を持っていたと考えられているラッザロ・バスティアーニという画家の「聖ヒエロニムスの葬儀」(1470-80年)。面白いのは、線の硬さに現代性を感じることができることで、特に、真ん中の修道士たちのマンガ的な顔は印象に残る。
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この硬い線と、抑制されながらある意味で装飾的な色使いには、どこかに見覚えがある。そうだ、私の大好きな画家で、世界の美術館でその作品を見てはいつも狂喜乱舞している、カルロ・クリヴェッリ(1430/35頃 - 1495)である。彼はヴェネツィア出身ではあるが、姦通の罪で同地を追放されたという。なるほど、怪しい美しさを放つ彼の作風は、同時代のヴェネツィアがはらんでいた何かから来ているわけか。これは「聖セバスティアヌス」と「福者ヤコポ・デッラ・マルカ」(1480-90年)。クリヴェッリらしい静謐で神秘的な絵だ。
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クリヴェッリは日本ではさほど知られた画家ではなく、関連書籍も多くないが、私の手元にはトレヴィルの画集(このシリーズの高い趣味性には本当に心躍るものがあった)と、石井 曉子という研究者の著した評伝がある。前者は既に絶版になっているのかもしれないが、中古市場ではそれほど高くない値段で手に入る。ただ美しいだけのルネサンス絵画に飽き足らない方には、強烈にお薦めしておこう。尚、この画集の表紙に使われているクリヴェッリの作品、創元推理文庫に入っているサラ・ウォーターズのミステリー小説「半身」の表紙にも使われている。
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さて、展覧会に戻ろう。これはヴィットーレ・カルパッチョ(1460頃 - 1526)の手になる「聖母マリアのエリザベト訪問」(1504-08年作)。カルパッチョといえば、「聖ウルズラの生涯」の連作が有名で、このヴェネツィアのアカデミア美術館の至宝とされている。この作品はそれに比べると面白みを欠くが、注目したいのはこの赤だ。生の肉や魚を薄切りにしたカルパッチョという料理は、この画家の赤に因んで名づけられたそうである。なるほど。
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展覧会にはその他いくつかの15世紀末頃の宗教画が並んでいるが、正直なところ、フィレンツェの絵画ほどの躍動感はない。だがこの街独特のくすんだ色合いの絵画の全盛期は16世紀に入ってから訪れる。ジョルジョーネ(1477/78頃 - 1510)、ティツィアーノ(1488/90頃 - 1576)、そしてヤコポ・バッサーノ(1515頃 - 1592)、ヤコポ・ティントレット(1519-1594)、パウロ・ヴェロネーゼ(1528-1588)らの輩出によるものだ。これはボニファーチョ・ヴェロネーゼ(1487頃 - 1553、パウロ・ヴェロネーゼとは別人)の「嬰児虐殺」(1537年頃作)。ここでは色彩は鮮やかで、激しい動きはルネサンスというよりもマニエリスム風だが、人体を誇張して長く伸ばすという手法は取っていない。
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これも同じ画家の晩年の作、「父なる神のサン・マルコ広場への顕現」(1543-53年作)。今も全く変わらない聖マルコ寺院と鐘楼の姿が描かれているが、カナレットらによってヴェネツィアの風景が盛んに描かれたのは18世紀のことで、これはそれに200年も先立つ貴重な例であるとのこと。
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この展覧会にはジョルジョーネの作品は展示されていないが、彼の「テンペスタ」は、謎めいた風景画として、やはりアカデミア美術館の至宝となっている。その代わりと言うべきか、ヴェネツィア絵画黄金期を築いたもうひとりの雄、ティツィアーノ・ヴェチェッリオと彼の工房による作品が3点、展示されている。これは「聖母子」(1560年頃作)。深い感情をたたえた素晴らしい作品だ。
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そして今回の展覧会の目玉である「受胎告知」(1563-65年作)。これはアカデミア美術館の所有ではなく、ヴェネツィアのサン・サルヴァドール聖堂というところに飾られている祭壇画である。幅240cm、高さ410cmの大作で、ティツィアーノ晩年の傑作だ。
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現役の教会の祭壇画が日本まで運ばれてくるというのは珍しく、その経緯についての説明はないが、恐らくは修復のために祭壇から降ろしたというような事情でもあったものだろうか。ただ、会場ではライティングがあまりよくなく、反射で画面がよく見えないもどかしさがあった。大阪での展示ではその点が改善されているとよいのだが。こうして見ると、素晴らしい劇性が表現されているのが分かる。
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次の巨匠は、ティントレットである。本名はヤコポ・ロブステイといい、この通称は、父親が染色職人(ティントーレ)であったことに由来するとのこと。このティントレット、ヴェネツィアの政治の中心、パラッツォ・ドゥカーレの大壁画「天国」や、サン・ロッコ同信会館の天井画など、劇的で壮大な作品で知られる。この展覧会で展示されている「聖母被昇天」(1550年頃作)も、複雑な空間構成を見事にまとめた素晴らしい作品。
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私はこの画家が好きなので、えこひいきであと2枚ご紹介する。「動物の創造」と、「アベルを殺害するカイン」(ともに1550-53年頃作)。創世記に材を取った連作である。うーん、ヴェネツィアらしい影のある色彩ながら、そのドラマ性には胸躍るものがある。
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ちなみにここでも、上のクリヴェッリ同様、トレヴィルの画集シリーズで以前出ていたティントレットの巻をご紹介する。内容は、上にも言及した、サン・ロッコ同信会館の壮絶な天井画である。現地に行ってみると、天井を見上げてばかりいると首が疲れるので、鏡で天井画を見ることができるようになっていたと記憶する。
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次にパオロ・ヴェロネーゼの作品をご紹介する。「レパントの海戦の寓意」(1572-73年頃)。史上有名なレパントの海戦は、1571年、オスマン・トルコをローマ教皇・スペイン・ヴェネツィア連合軍が破った戦いで、その後ヨーロッパのキリスト教国が地中海の制海権を奪回するきっかけとなったとされるものである。この作品は海戦の勝利を記念して教会に寄進されたものらしいが、制作年を見ると、まさに海戦の勝利直後ということになる。その時代、ヨーロッパ側がいかにこの勝利を喜んだかということが分かる。細部もまた、非常に手の込んだリアリティが追求されている。
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尚、またまた余談であるが、先日仕事でバルセロナを訪れた際、海洋博物館というところでレセプションが開かれたのだが、その博物館には、このレパントの海戦でスペインが使用したという戦艦の実物大模型が展示されていた。やはり今でもこの海戦はヨーロッパ人にとって大きな意味を持つものなのだと実感した次第。
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さて、得意の寄り道はこのくらいにして(笑)、先を急ごう。ヴェロネーゼだが、このような迫力ある戦闘場面だけではなく、宗教的な内面性の表現にも長けている。これは「改悛する聖ヒエロニムス」(1580年頃作)。細部のリアリティは海戦の絵と通じるが、左腕の筋や、握りしめた右手に、聖人の内面がにじみ出ていると思う。
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この作品は、ヤコポ・ティントレットの次男であるドメニコ・ティントレット(1560-1635)の、「キリストの復活」(1580-90年頃作)。父ティントレットより時代が下るだけあって、その表現の多彩さは顕著である。ただ、やはり父の壮大なヴィジョンよりも少し平明なものになっている点は否めまい。
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最後に、ヴェネツィア絵画のひとつの伝統である肖像画を一点ご紹介しよう。これもドメニコ・ティントレットによる「サン・マルコ財務官の肖像」(1600年頃)。人間の内面を感じさせる作品であるが、この都市では、要職に就いた人たちのこのような肖像画が今でも数多く残っており、昔日の栄光を無言で語っている。ゴンドラから響く舟歌を耳に、夥しい死者の群像とともにあるヴェネツィアの歴史に思いを馳せる日を、また近く持ちたいものだと思う。
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ところで、このドメニコ・ティントレットであるが、最近発見されて話題になった、あの天正遣欧使節団の伊東マンショの肖像画の作者でもある。この展覧会に展示されているわけではないが、せっかくなのでその作品の写真も掲載しておこう。私は天正遣欧使節団には多大なる興味を抱いているのだが、今年東京国立博物館でこの絵が展示されたのを見に行くことはできず、その後、宮崎や長崎での展示があったことも知っているが、残念ながら見ることはできていない。いつかどこかで、実物を拝めることを切に希望する。
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そんなわけで、いつも通り寄り道三昧の展覧会案内でした。

by yokohama7474 | 2016-11-03 12:33 | 美術・旅行 | Comments(8)