<   2017年 01月 ( 23 )   > この月の画像一覧

e0345320_22293138.jpg
NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の本年初の定期演奏会である。上の写真は、今月の N 響定期のプログラムの表紙であるが、3人の指揮者の写真があしらわれている。このオケの定期は毎月 3プログラムあるので、今月はそれぞれ違う指揮者が指揮するということだ。右上は日本人の下野竜也。それ以外の二人は、実はいずれもスペイン人なのである。左側に見えるのは、去年二期会で「トリスタンとイゾルデ」の名演を繰り広げた名匠ヘスス・ロペス = コボス。今回の N 響とのレスピーギ・プログラムを是非聴きたいものだが、残念ながら仕事の都合でそれは叶わない。その代わりに今回私が聴くことができたのは、右下に写っている指揮者、ファンホ・メナ。むむむ、いかにもスペイン風の名前だが、今までに聞いたことのない名前である。調べてみると、私と同じ 1965年生まれだ。どんな若手指揮者であろうか。
e0345320_22371446.jpg
おっと、既に 51歳である。若手とは言えないであろう。えっ、ということは、私も 51歳か。立派なオッサンである。ちょっとは自覚しないと (笑)。ともあれこのメナ、現在のポストは英国マンチェスターの BBC フィルの首席指揮者。ということはあのイタリアの名指揮者、ジャナンドレア・ノセダ (一時期よく東京交響楽団やこの N 響を振りに来ていたが最近はご無沙汰だ) の後任ということである。既にニューヨーク・フィルやボストン響、ロサンゼルス・フィル等米国の名門を指揮しており、昨シーズンにはスペイン物を指揮してベルリン・フィルにもデビューしたという。スペイン人指揮者には優秀な人は何人もいるのだが、真に国際的な巨匠という扱いを受けた人は、実はそれほど多くない。ロペス=コボスなどはまさに、スペイン人指揮者としての新たな地平をこれから開いてくれるかもしれない人だが、彼よりも一世代下のこのメナは今回が N 響デビューであり、ひょっとしたら日本デビューなのかもしれない。最近の活躍ぶりを知ると、スペイン人指揮者の範疇を超えた優秀な音楽家であることを期待したくなる。

今回のプログラムは以下の通り、まさにスペイン・プロである。
 ファリャ : 歌劇「はかない人生」から間奏曲とスペイン舞曲
 ロドリーゴ : アランフェス協奏曲 (ギター : カニサレス)
 ドビュッシー : 管弦楽のための「映像」から「イベリア」
 ファリャ : バレエ組曲「三角帽子」第 1部、第 2部

上記の通り、スペイン人指揮者が真の国際的巨匠とみなされにくいひとつの理由は、非常に独自性の高い「スペイン物」というジャンルの存在にあるだろう。ヨーロッパの中で唯一イスラム教から「奪回」された地域であるイベリア半島は、独特のエキゾチズムの存在する場所であるがゆえに、かの地の音楽には、その東洋的要素のある粘っこい旋律や、憂いを帯びながらも激しさを持つリズムにおいて、他のヨーロッパ地域にない神秘性があるようだ。ところが、スペインの作曲家はそれほど沢山いないので、勢い同じような曲がスペイン物として尊重されるか、もしくはドビュッシーやラヴェルというフランスの作曲家の作品でスペインを題材にしたものが演奏されることとなる。今回のプログラムはまさにそうしたもの。一体日本のオケが、どのくらいスペイン情緒を表現できるのか。これは、マドリッドでも有数のフラメンコを鑑賞できるカフェ・デ・チニータスの舞台。私も何度も行きましたよ。深夜 0時くらいから盛り上がり始めるのです。
e0345320_23183954.gif
そして、このコンサートを聴いた結果を一言で言うならば、実に楽しい!! この音楽がどこの国で生まれたものであるにせよ、今回 NHK ホールではじけ飛んだ溌剌とした音たちが描き出したものは、要するに音楽の素晴らしさ。スペイン独特の情緒はあるにせよ、どこの国の音楽であれ、聴き手が純粋に音楽として楽しめるか否かこそが大事なのであって、その意味で今回のメナと N 響の演奏は、音楽そのものが雄弁に語っていた点が素晴らしい。そもそも N 響のように長らくドイツ系の音楽を中心に演奏してきた団体にラテンの風を吹き込んだのは、現在の名誉音楽監督であるシャルル・デュトワ。以前も書いたことがあるが、デュトワ時代以降の N 響のあらゆるタイプの音楽への順応力はまさに瞠目すべきものであり、今回のような演奏に接するとそのことを再認識する。指揮者メナ自身も、今回の演奏にきっと満足したことだろう。とにかく冒頭の「はかない人生」間奏曲から、その音のクリアなこと。この演奏会を通して、クライマックスに向かって盛り上がって行く熱気は、常にこのクリアな音が基礎をなしていたと思う。一方で、ドビュッシーの「イベリア」の第 2曲「夜のかおり」などは、なんともアンニュイな雰囲気で、こうなるとスペイン音楽ではなく、完全にフランス音楽なのである。プログラムによるとこのメナは、巨匠セルジュ・チェリビダッケに、晩年師事したらしい。言うまでもなくこの「イベリア」はチェリの得意のレパートリー。今回ここで聴かれた音楽そのものの淀みとそこからの飛翔は、師から弟子へと続く国籍を超えた音楽の表現力の伝達こそが可能にしたものであろうと思う。だが実際、指揮台の角で飛び跳ねる指揮者を見て、指揮台から転げ落ちるのではないかとハラハラする経験も、視覚的な刺激に満ちたもの (笑)。その指揮者の情熱をきっちり音にした N 響には拍手を送りたい。

そういえばこのメナは、スペインはスペインでも、バスク地方の出身であるとのこと。フランスとの国境に位置するピレネー山脈あたり。最近ではほかの地域における地政学的問題が大きいので、バスク問題を意識する機会は少ないが、長らく独立運動が盛んな土地である。ちなみに、フランスの作曲家の 2大巨星であるドビュッシーとラヴェルは、ともにスペイン情緒ある曲を書いているが、そこには決定的な違いがあって、ラヴェルの場合は母親がバスク人であり、よりスペインに対する皮膚感覚のシンパシーがあったものと思われる。その一方、生涯でたった一日しかスペインに足を踏み込まなかった (!) ドビュッシーが、この「イベリア」で見事なスペイン情緒を描き出したのは、パリで親交のあったファリャのおかげであると、メナは考えているという。これがファリャの肖像。
e0345320_23425713.jpg
今回ギターソロを弾いたカニサレスは、あのフラメンコの巨匠パコ・デ・ルシアのグループにいたギタリスト。1966年バルセロナ生まれ。彼もまた、サイモン・ラトル指揮のベルリン・フィルと、今回と同じアランフェス協奏曲を最近演奏している。
e0345320_23442294.jpg
ロドリーゴのアランフェス協奏曲は、もちろん古今随一のギター協奏曲の名曲であるが、NHK ホールのような大きなホールでのギターソロの響きには限界があるので、今回は若干ながら PA を利用していた。演奏はもちろんよかったものの、アンコールとして演奏されたカニサレス自作の「時への憧れ」という曲は、さらに様々なギターの表現力の可能性を追求したもので、正直なところ、より感動的であったと思う。

このように大変充実したコンサートであったので、この指揮者の今後の活動には是非注目したいと思う。最近はブルックナーに力を入れているとのことで、まあ今回は名刺代わりのスペイン物であったにせよ、次回は是非、そのブルックナーなど、また違ったレパートリーを聴かせて欲しい。一方の N 響も、スペイン音楽をきっと楽しんだことと思う。と書いていて思い出したのは、随分以前にこのオケはやはりファリャの「三角帽子」を、稀代の名指揮者の下で演奏している。それは、エルネスト・アンセルメ。この曲の世界初演者である。この N 響への客演は1964年のことだから、ファンホ・メナも、それから私自身も、未だ生まれる前のこと。手元に引っ張り出して来た CD はこれだ。
e0345320_23541798.jpg
そんなに前の時代の (もちろんデュトワ時代の遥か前の)演奏だし、重厚なドイツ物に慣れていた N 響のこと、もしかしたら腰の重い演奏かもと思って久しぶりに聴き直してみると、これがなかなかのノリなのである。N 響の演奏能力が半世紀以上から高かったことを再確認し、今後に対する期待が高まる。今年 2月から 3月にかけて、首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィとともにヨーロッパ主要 7都市に遠征する N 響。その多様な能力をヨーロッパの聴衆にもアピールすべく、ぜひ頑張って頂きたい。

by yokohama7474 | 2017-01-14 23:56 | 音楽 (Live) | Comments(0)

e0345320_23070990.jpg
興福寺は言うまでもなく奈良の観光メッカのひとつ。古く 669年に藤原鎌足によって建てられた山階寺がその起源であり、藤原氏の氏寺として幾星霜を経てきた由緒正しい古寺であり、薬師寺と並んで法相宗 (ほっそうしゅう) の総本山である。権力と結びつき、自らも武力を有した時期もあるため、その歴史は戦乱に翻弄され、また火事にも何度も見舞われてきた。その長い歴史の中で失われた貴重な文化財はもちろん数知れずであるが、それでも信じられないほど素晴らしい仏教美術の宝庫なのである。命をかけてこれらの文化財を守ってきた人たちがいたからこそ、現在の我々がこのような美の規範を知ることができるのである。そしてその興福寺は現在伽藍の復興中であり、近く達成されるひとつの大きな成果は、中金堂の再建である。興福寺には今でも東金堂という室町時代の国宝建造物はあるが、以前存在した西金堂は既になく、最も重要な建物であるべき中金堂の位置には、長らく粗末な仮金堂が存在してきた。江戸時代後期に建てられたその建物は既に解体され、現在は新たな中金堂の建設が進んでいる。私が昨年 9月に足を運び、10月 1日付の記事にも掲載した現在の中金堂の建築現場はこのような状況。
e0345320_23245338.jpg
平成 30年落慶予定ということは、もう来年である。元号は今度どうなるか分からないが、ひとつの可能性として、平成最後の年になるかもしれないと言われている平成 30年 = 2018年に、ここ興福寺の新たな歴史が生まれるのである。この寺は中金堂再建のためにここ何年も資金集めに奔走しており、この寺の代表選手である阿修羅像は、東京にも出張しなければならなかったし、仮金堂での展示も行われ、いずれも大変な集客を達成して資金集めに大きく貢献したのであった。ともあれ、来年の完成が見えてきていることは本当に喜ばしい限りだが、その中に展示されるのは、日本画家、畠中光亨による「法相祖師画」という作品であり、既に完成しているその絵の中金堂への安置を前にして、全国でお披露目の展覧会が始まった。現在は日本橋高島屋で開催中。
e0345320_23342330.jpg
公式サイトには、主要な展示物と各地での開催予定が記されている。
http://kohfukuji-hatanaka.exhn.jp/

前置きが長くなったが、この中金堂の再建及び法相祖師画の全国巡回の機会に、興福寺側の厚意により、大変興味深い特別展示が東京青山の根津美術館で実現した。タイトルに「再会」とあるが、これはつまり以下のような意味である。現在興福寺国宝館に安置されている重要文化財の梵天 (ぼんてん) 像と、それと本来一対であった根津美術館所蔵の帝釈天 (たいしゃくてん) 像が、112年ぶりに再会するのである。これが興福寺の梵天像。
e0345320_23500458.jpg
そしてこれが根津美術館の帝釈天像。
e0345320_23491292.jpg
これら二体はいずれも興福寺東金堂に安置されていた鎌倉時代の仏像であるが、明治期に帝釈天の方が流出してしまったということらしい。明治期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐によってさしもの名刹興福寺も無事では済まなかったことは歴史的事実であるが、この像の流出の場合は幸いというべきか、ちゃんとした素性の人に引き取られたようである。それは、三井財閥を支えた実業家であり、茶人でもあった益田鈍翁。展覧会の案内によると、当時帝釈天像は一部破損しており、興福寺の維持・徒弟教育基金設置に協力した益田に譲られることとなったという。その後修復がなされたのであろう。この帝釈天はきれいな仏さまではあるが、顔の部分はちょっときれいすぎて、横から見ると顔だけ色も違っており、後補であるように私には思われる。文化財指定を受けていないのはそのせいなのであろうか。ともあれこの像はその後、鉄道王と呼ばれた根津嘉一郎の手に渡り、この美術館のコレクションとして展示されるようになった。これは昭和 8年の写真で、自宅でこの像を眺める根津嘉一郎。
e0345320_00050394.jpg
このように数奇な運命に弄ばれた仏像であるが、100年以上の時を経て本来ペアであった二体が揃うというのは、本当に貴重な機会である。実はこの二体の胎内の銘から、ともに大仏師定慶 (じょうけい) の作と判明している。慶の字のつく仏師はいわゆる慶派と呼ばれる流派に属し、あの有名な運慶や快慶がその代表であるが、この定慶については詳しいことは分かっていないらしい (同名のほかの仏師もいたようだ)。だが一般にこの仏師の代表作と言われるのは、やはり興福寺所蔵の、国宝のこの金剛力士像。
e0345320_00142129.jpg
私はこの金剛力士、特に阿形が大好きで、昔「国宝」という美術書シリーズでこの像の写真が使われているのを見てワクワクしたものである。本当に素晴らしい肉体の表現である。また、同じ興福寺の東金堂に安置される維摩居士 (ゆいまこじ) と、それと対になる文殊菩薩も彼の作品らしい。これらも人間性と崇高さを併せ持つ写実的な素晴らしい作品で、やはり国宝。
e0345320_00203072.jpg
これらに比べると今回の二体は、若干衣が重いような気もするが、それでもやはり名品であることは間違いない。写実性よりは天平彫刻に範を採ったような古典性が窺われ、それも鎌倉彫刻のひとつの特徴なのである。根津美術館の展示コーナーの一角での「再会」であり、決して大々的な催しにはなっていないが、首都圏の仏像ファンなら足を運ぶ価値はあるものと申し上げておこう。

by yokohama7474 | 2017-01-14 00:26 | 美術・旅行 | Comments(0)

e0345320_23082243.jpg
世の中には様々な映画が存在して、テーマや言語や描き方のタッチや予算のかけ方や、まあいろんな要素を観客は目にするのであるが、場合によってはたまたま近い時期に似たようなテーマの作品が作られていたり、同じような俳優が出ていることがあって、それらを比較したり、多少こじつけでもよいのでその理由を考えたりするのは、興味深い知的試みである。この映画を知ったとき、まずそのような感想を持った。なぜなら、最近公開される映画には、ナチズムや独裁者を題材としたものが結構多いからである。このブログでも例えば「帰ってきたヒトラー」、「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」、「シークレット・オブ・モンスター」といった比較的最近の映画を採り上げた。中でも「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」は、ここで採り上げる映画と似た題名になっているし、それから、今後公開される映画でも、正確な題名は忘れたが、アイヒマンの名前を使った新作もある。このような傾向は、世界各国で見られる右傾化と何か関係があるのであろうか。

ともあれ、ここで名前が言及されている「アイヒマン」とは、ナチスの親衛隊中佐で、ユダヤ人虐殺において指導的な立場にあったとされるアドルフ・アイヒマン (1906 - 1962)。戦後行方をくらまし、1960年にアルゼンチンに潜伏しているところを捕縛され、イスラエルで裁判にかかり、1962年に絞首刑になった極悪人。
e0345320_23135725.jpg
「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」は、このアイヒマンがイスラエルで裁判にかけられる様子をテレビで世界に中継するために奔走した人たちの物語であったが、この映画はその前の時点、潜伏しているアイヒマンがいかにして捉えられたかという経緯を映画化している。いずれも実話に基づく物語である。「アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち」は BBC の系列会社による制作で、言語も英語であったが、こちらはドイツ映画で、言語もドイツ語。よくドイツ人はナチズムの反省は自主的に行っていると言われるが、昨今の実情は分からないものの (ネオ・ナチの台頭など)、自国の恥部を赤裸々に映画化するこの自己批判精神には感服する。

だがこの映画を見ていると、そのようなドイツの自己批判精神が一体本当なのか分からなくなるし、戦後の世相によっても様相は変遷してきたものであるようにも思えてくる。つまり、この映画の主人公、実在の人物であるヘッセン州検事長フリッツ・バウアーが、自国の罪深い犯罪者であるアイヒマンの居場所を執念で追い求めるのに対し、様々な抵抗勢力がそれを阻もうとする様子が描かれていて、それが大変にショッキングであるからだ。なのでこの映画のドイツ語の原題をそのまま英訳したとおぼしき、"The Peope vs Fritz Bauer" という英題にはかなりストレートなメッセージが込められているのだ。中学校で習う英語の知識によると、People の前に定冠詞 the がついているということは、不特定多数の一般大衆ということではなく、特定の人々のことを指しており、その特定の人々がバウアー検事長の前に立ちふさがったということが示されている。これが実在のバウアー検事と、この映画でバウアーを演じるブルクハルト・クラウスナー。実によく雰囲気が似ている。
e0345320_00042015.jpg
e0345320_23315145.jpg
このバウアーさんはドイツ生まれであるが実はユダヤ人で、戦前からドイツで判事の仕事をしていたが、戦争中はナチスの迫害を逃れて、デンマーク、さらにスウェーデンに逃れていた。戦後ドイツに帰国して地方の判事長として重きをなしたが、とりわけナチスの戦争犯罪を強く弾劾した。ところが当時のドイツ政府には未だに親ナチス勢力 (題名でいうところの "the people" だ) が密かに実権を握っており、あろうことかバウアーの努力を国家反逆罪とみなそうとしている。また若者たちは、ナチズムも戦争も大人たちが無責任に引き起こしたものとして批判的な考えを持ち、国家予算を使ってナチスの残党を探そうという努力には冷ややかだ。そんな環境においてバウアーは、まさに執念と勇気と機知をもって粉骨砕身、ついにアイヒマンを捉えることに成功するのである。但し、アルゼンチンでアイヒマンを捕縛したのはイスラエルの諜報機関であるモサドであって、実は裏でバウアー検事が画策していたということは、バウアー本人の死後 10年が経過した 1978年まで知られていなかったという。この映画で描かれるバウアー像は、全力で犯罪人を追いかける執念の人でありながら、どこか自虐的なところもあり、決して聖人君主ではない。そうなのだ。立派な業績を成し遂げる人は、別に聖人君主である必要はない。ただ人間の弱さを理解し、かつ理不尽なことを容認できないことを原動力として行動を起こす人であるべきだ。バウアーはまさにそういう人であったのだろう。また、実在のバウアーは室内装飾に関しては大変モダンな感覚の持ち主で、ル・コルビュジェによる壁紙やシンプルな家具を使用していたという。確かにこのシーンに見える壁紙は、上の本物のバウアーの写真の背景と同じ模様である。
e0345320_00053712.jpg
この映画の中でリアリティをもって描かれているバウアーの人となりを示すひとつの例として、バウアーが同性愛者であったことを挙げよう。そのようなシーンがあるわけでなく、セリフで表されるだけであるが、ご本人はこの点についてはかなり開き直っている (笑)。舞台となっている1960年代といえば、これもつい最近記事として採り上げたばかりの「ストーンウォール」で描かれている通り、米国でも同性愛者が増え、それゆえに世間から迫害された時代。また「スカラ座 魅惑の神殿」についての記事でも触れた通り、文化人の中にも同性愛者が多く出始めた時代。そうするとやはり、悲惨な戦争の後の解放感と、新たに勃発した世界秩序の危機が、個人的な愛に依拠する同性愛者の増加と、反動としてのそれへの抵抗を生み出したという事情があるのかもしれない。この点については、今後機会あればまた考えて行くこととしたい。

同性愛といえば、劇中に登場するアイヒマンの部下、ロナルト・ツェアフェルトという俳優演じるカール・アンガーマンは架空の人物であるが、重要な役回りである。彼はバウアーと同様、人間らしい面を持っているが、一見飄々としたバウアーが実は非常に強靭な人であるということを、あるトラブルによって結果的に証明することになる。巧みな役柄設定であると思う。
e0345320_23513390.jpg
もうひとり重要な役、ヴィクトリアを演じるのはリリト・シュタンゲンベルク。やはり現在公開中の映画で、ちょっと気になっている「ワイルド 私の中の獣」の主役を演じている女優である。ここでは全く違った役柄であるが、充分に美しい。
e0345320_23564833.jpg
監督のラース・クラウメは 1973年イタリア生まれのドイツ人。主としてテレビドラマで演出を行ってきた経歴の持ち主で、長編映画は未だ数本しか撮っていない。だが本作では脚本も担当し、この作品のテーマに対する相当な思い入れを感じさせる。
e0345320_00150345.jpg
このように歴史のドラマを力強く描いた映画であり、作り手の情熱も感じられて、見応えは充分である。あえて難を言うとすると、娯楽性という点ではあまりサービス精神のあるタイプの映画ではなく、最初から最後まで手に汗握る展開ということではない。また、この映画の現代における意義を考えるには、ある程度ナチズムに対するイメージが必要かもしれず、バウアーという人物の本当の凄みは、ただ漫然と映画を見ているだけでは感じ取れないという人もいるかもしれない。あの忌まわしい世界大戦が終結してから既に 70年以上が経過するが、まだまだ語られていない視点があるはず。その意味で、歴史ドラマの分野においては、今日的な意義を持つ作品が今後も現れてくることを期待してもよいと思う。歴史に学ぶことの意味を認識しながら、これからの世界の動向を注視すること。文化はそのための強いツールになるのである。

by yokohama7474 | 2017-01-13 00:20 | 映画 | Comments(0)

e0345320_23240852.jpg
前日に続く、本年 2度目のコンサートである。前回の記事で、新年はドヴォルザークの「新世界」交響曲の演奏頻度が高いと書いたが、実は今年の 1月の日本のオケのプログラムを見ていると、もうひとつ気づくことがある。それは、なぜかブルックナーのコンサートが多いことだ。ここで採り上げる小泉和裕指揮の東京都交響楽団 (通称「都響」) による 5番以外に、今月後半にはピエタリ・インキネン指揮の日本フィルが 8番を、佐渡裕指揮の東京フィルが 9番を演奏する。また全国を見渡すと、井上道義と大阪フィルも、やはり 5番を予定しているようである。アントン・ブルックナー (1824 - 1896) はオーストリアの作曲家。長らく教会のオルガニストを務め、40歳を越えてから本格的に交響曲の作曲を始めた人であるが、その音楽は実に大規模で荘厳なもの。ちょっとほかに類を見ない特別な作曲家なのである。
e0345320_00103138.jpg
このブログでもしばしば彼の交響曲を採り上げてきたが、それだけ日本でも人気のある作曲家であるということだろう。長大なシンフォニーは、一晩のコンサート分の演奏時間を要する場合が多いし、決して器用な構成で曲を作った人ではないので、とりとめなく長いという評価もある。従ってどうしても、彼の音楽を嫌いな人は大嫌い、好きな人はどうしようもなく好き、ということになる (笑)。私自身はもちろん、これまでの記事で明らかな通り、相当にブルックナーに入れ込んでいる、いやむしろ、熱愛していると言ってもよいことは事実 (家人など、「よくもまあこんな長い、しかも同じ曲の CD をいろんな指揮者で飽きもせず買うよね。前に買ったものをまず聴いてから買ったら?」と文句言うことしきりである)。だがそんな私でも、演奏に共感できないとたちまち、「確かに長い曲だなぁ」と思ってしまうのである。その意味では、暑い時期にブルックナーを聴くのは心理的にも肉体的にもつらいことであることは確かで、聴くならやはり夏よりも冬の時期・・・ということが理由で、1月におけるブルックナーの演奏頻度が高まっているのだろうか (笑)。いずれにせよ、誰でも楽しめるポピュラーな新世界交響曲とはまた違ったレパートリーで新年を寿ぐというのもよいではないか。

さて。今回都響を指揮したのは、1949年生まれの小泉和裕。このオケの終身名誉指揮者の地位にある。
e0345320_00260469.jpg
このブログでマエストロ小泉を採り上げるのは初めてであり、今回久しぶりに彼の実演に接するが、随分以前からこの都響とか新日本フィルで彼の指揮を聴いてきたものである。もう67歳ということだが、40代の若手指揮者の頃と変わらぬ痩身で、永遠の青年指揮者というイメージである。彼のキャリアで特筆すべきは何といっても、1973年のカラヤン・コンクール優勝であろう。この指揮者コンクールは、ベルリン・フィルの音楽監督として世界楽壇に君臨したヘルベルト・フォン・カラヤンが有望な若手指揮者発掘のために自ら立ち上げたもので、この入賞者には、今をときめくマリス・ヤンソンス (1971年、2位) やヴァレリー・ゲルギエフ (1977年、2位) などがいる。だが彼らはいずれも 2位。まあ、1位なしの 2位というケースもあるのだが、小泉の場合は正真正銘の 1位。これは素晴らしいことである。その後当然ベルリン・フィルは指揮しているが、ウィーン・フィルもザルツブルク音楽祭で指揮している。日本人指揮者には優秀な人が沢山いるが、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの両方を振った経歴のある人は果たして何人いるだろうか。この小泉以外には、小澤征爾と岩城宏之くらいではないだろうか (確認したわけではないのでほかにもいるかもしれないが、ベルリン・フィルはともかく、ウィーン・フィルを指揮できる機会は非常にハードルが高い)。そんなわけで、私がクラシックを聴き始めた 1980年代、小泉は日本人指揮者として期待の星であったが、1983年に彼が海外で就いた初のポストはウィニペグ交響楽団の音楽監督。ウィニペグとはカナダの都市で、正直なところ私は、小泉が得たポストによってその都市の名を知ったものであった。その後、彼の実演に触れる機会が何度もあり、いつもキレがよくて一気呵成に駆け抜ける音楽を暗譜で指揮するその姿に喝采を送ってきたものである。だが結局その後彼の活動は、どんどん国内にシフトすることになり、現在ではこの都響の終身名誉指揮者 (これは異例のタイトルである) に加え、九州交響楽団音楽監督、名古屋フィル音楽監督、仙台フィル首席客演指揮者、神奈川フィル特別客演指揮者と、ずらりと国内のタイトルが並ぶ。興味深いことである。高い能力のある指揮者が国内で活動を続けてくれることで、日本の音楽シーンは必ずや何かの収穫を得ることであろう。そこに、他国にはない日本独自の個性が生まれてくることを期待したくなる。

さて今回、小泉と都響が演奏したのは、上記の通りブルックナーの交響曲第 5番変ロ長調。ブルックナーの番号つきの 9曲の交響曲の中でも、その壮大な迫力では恐らくナンバーワンの曲である。昨年の春日本を襲来したダニエル・バレンボイムとシュターツカペレ・ベルリンのブルックナー・ツィクルスにおいてもこの 5番は出色の出来で、私も昨年 2月14日の記事でそのことをわめき散らしたものだが (笑)、今回の小泉の演奏は、少し演奏のスタイルが異なっていた。まず管楽器の規模はほぼスコアの指定通りで、木管は 2本ずつ、金管はホルンとトランペットのみ若干増強。小泉の指揮は相変わらずキレがよく、ブルックナー演奏にありがちな重さを伴ったタメは、あまり聴かれなかった。その指揮ぶりは往年のカラヤンを思わせ、直立した姿勢から両手を前に出してトンと落とすような仕草や、いざというときに左手の掌を、球を握るような形にして宙に突き出すあたりはそっくりである。また、譜面台も置かない暗譜での指揮で、その視線は楽員に注ぐというよりは指揮台に向けられるような感じであるのもカラヤン風。高い集中力だ。結果として、都響の強い音が素晴らしい充実感で鳴り響いており、特に終楽章のクライマックスにおける金管のパワーは出色であった。なるほど、久しぶりに聴くマエストロ小泉の音楽は健在であった。

ただ、もしひとつ気になる部分があるとすると、やはり楽員とのアイコンタクトがもっとあってもよいのではないかということだ。カラヤンも老年に至って、ある時期から目を開けて穏やかな表情で指揮するようになったが、今の小泉は老齢とは言えないまでも、今後そのようになって行くのかもしれないと、勝手に想像している。彼の特徴である大きな身振りは、年齢とともに困難になるであろうし、そして指揮者の凄みとは、年齢を重ねることにより、小さな動きで大きな音響を生み出すようになる点にこそあるものである。国内に軸足を置いて活動する小泉であるからこそ、そのようなさらなる高みに達することを目撃できるのは、日本の音楽ファンの特権ということになると思う。プログラムには、この都響との関係についての小泉のインタビューが掲載されているが、こんな発言がある。

QUOTE
指揮者は入念に準備をして、何かをしなければならないと勢い込んで練習場に乗り込んでくるものです。どれだけ勝手を知っていても、どうしても固くなるものです。そういった状況の時に『安心しなさい、私たちはついて行くから』と伝えてくれました。信頼でつながり、何かを生み出す。それはかけがえのない経験です。これから都響との時間は、もっと大切なものとなると感じています。
UNQUOTE

指揮者という威厳ある職業の人にしては、何とも率直なコメントであるが、そうであるがゆえに、これからの都響との実り多い共演を楽しみにしたいと思う。

ところで、ここに興味深い写真がある。1973年のカラヤン・コンクールでの授賞式であろうか。実はこの年はどうやら小泉と 1位を分け合った指揮者がいて、それは、現在でも大活躍中で、日本のオケのあれこれにも登場しており、モスクワ・フィルやボリショイ劇場の音楽監督を歴任したロシアのヴァシリー・シナイスキー。写真の右端、カラヤンから何かを手渡されている人物だ。その左が小泉。そして、そのまた左は、これはひょっとして、東京交響楽団の前音楽監督、ユベール・スダーンではないだろうか?! 調べてみると彼はこの年の第 2位。なるほど指揮者の世界にもいろんなご縁があるわけであるし、いつも私が主張している通り、これらの指揮者たちが頻繁に登場する日本の音楽シーンを、決して侮ってはいけないのである。
e0345320_01205619.jpg


by yokohama7474 | 2017-01-11 01:28 | 音楽 (Live) | Comments(0)

e0345320_08313539.jpg
2017年最初のコンサート。私の敬愛する秋山和慶が、気心の知れた東京交響楽団 (通称「東響」) を指揮する。日本のニューイヤーコンサートというと、明るく華やかなウィンナ・ワルツが多く、もちろんそれもよいのだが、年の初めであるがゆえに、気持ちの引き締まる名曲の名演奏を聴きたい。そう思って、秋山と東響のニューイヤーコンサートに家人とともに出かけてみることにしたのである。秋山と東響のニューイヤーコンサートは、毎年同じような内容で開かれているのは知っていたが、実際に出かけるのは今回が初めてなのである。

今回の曲目は以下の通り。
 ワーグナー : 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲
 ショパン : ピアノ協奏曲第 1番ホ短調作品11 (ピアノ : 小山実稚恵)
 ドヴォルザーク : 交響曲第 9番ホ短調作品95「新世界より」

極めてオーソドックスだし、新年にふさわしい勢いのある曲ばかり。特に「新世界」は、昨年も大植英次指揮の日本フィルで年明けに聴いたが、今回思い立って調べてみると、様々な日本のオケが新年に演奏する習慣になっているようだ。在京のオケの予定を見回すと、この東響以外にも、NHK 響、東京フィル、日本フィル、そして新日本フィルがこの曲を 1月に演奏する。なるほど、気付かないうちに「年末の第九」に匹敵するとまでは言わないが、徐々にポピュラーになっているのが「年始の新世界」であったのだ。

実はこの東響によるニューイヤーコンサート、1978年から毎年開かれている。そして最初の年から 2014年まで、36年連続 37回という共演を重ねたピアニストは、中村紘子であった。だがこの国民的人気を持ったピアニストは残念ながら昨年 72歳で死去 (ちなみに、彼女の最後のコンサートは、昨年 4月30日、5月 4日に演奏された、この東響 (指揮は飯森範親) とのモーツァルトのピアノ協奏曲第 24番であったらしい)。実はこのニューイヤーコンサートも、当初は中村の出演が発表されていた。癌から一度は復活して演奏活動を再開したことから、また数年は大丈夫だろうと思われていたため、多くの人たちが突然の死には驚いてしまったわけだが、楽団としては代役を探さないといけない。そして白羽の矢が立ったのが、1959年生まれの小山実稚恵 (こやま みちえ)。
e0345320_23554922.jpg
チャイコフスキー・コンクールとショパン・コンクールの双方で入賞歴を持ち、非常に安定したテクニックを持つ優れたピアニストである。なるほど彼女なら、中村紘子の穴を埋められるであろう。今回のショパンも、第 2楽章でほんのわずかなミスタッチこそあれ、抒情豊かで、誰にでも曲の魅力を分からしめる演奏を聴くことができた。実は協奏曲の演奏後に楽団長が舞台に現れ、よいニュースがあるという。その内容は明日の正午にプレス発表するので「ここだけにして下さい」と言われたので内容は書かないが (笑)、小山の今後の演奏活動が真に国民的なものになって行く予感がする。その場で発言を求められたマエストロ秋山も、「小山さんはいろいろレパートリーをお持ちなので、チャイコフスキーやショパンだけでなく、様々な共演の可能性があって楽しみ」と語っていた。是非、モーツァルトやベートーヴェンはもちろん、バルトークやプロコフィエフも演奏して下さい!! そして演奏されたアンコールはなんと、同じショパンのピアノ協奏曲第 2番の第 2楽章。本来はもちろんオーケストラをバックに弾く音楽であるが、小山はここでピアノ・ソロによって演奏した。なるほど、この楽章は冒頭こそオケだけだが、一旦ピアノが入ると、その後はずっとピアノが歌を歌い続けているのである。大変に深い情緒を鳴り響かせた小山には、これから本当の円熟が待っているものと実感した。もちろん中村紘子も素晴らしい音楽家であったが、世間の画一的な期待によるものか、あるいはマネジメントの方針か、レパートリーが狭まって行ってしまったのは残念であった。21世紀の今日、芸術性と大衆性の両立こそが、一流演奏家の目指すべき道ではないだろうか。

今回の秋山の指揮でひとつ気付いたのは、協奏曲を除いてすべて暗譜での指揮であったこと。いつものように譜面台にスコアは必ず乗っているのだが、一度も開くことがない。昨年の第九でも、最初の方はいざ知らず、大詰めでは暗譜であった (もしかして私が気付かなかっただけで、最初から暗譜だったのか??)。もちろん彼ほどのキャリアがあれば、ポピュラー名曲をすべて暗譜で指揮することなど余裕でできるはずだし、暗譜であると否かにかかわらず、よい音楽を演奏してもらえればそれでよいのだが、その堅実な指揮ぶりを裏打ちするように、毎回スコアを見る習慣が彼の個性と私は思っていた。もしそれが変わっているなら、それはそれで大変楽しみなこと。1月 2日に 76歳の誕生日を迎えたマエストロ、これからさらに円熟の新境地を期待したい。今回の演奏では、「マイスタージンガー」は若干遅めのテンポで木管楽器も美しく合奏する演奏であったし、「新世界」も、奇をてらったところは一切ない説得力の高い音楽で、ニューイヤーコンサートらしい楽しい雰囲気に包まれた。
e0345320_00202957.jpg
そしてアンコール。実はホールに入ってステージを見た瞬間から、今日の曲目では使われない小太鼓があるのに気づき、「ははぁ、アンコールはラデツキー行進曲だな」と思ったのだが、果たしてその通り。ニューイヤーコンサートの定番、ヨハン・シュトラウス 1世によるおなじみのマーチが華やかに演奏され、会場からは、これもおなじみの手拍子が。ただこの曲、手拍子が合わない箇所もあり、また盛り上がるべき箇所もあって、指揮者は客席も指揮しなくてはならず、なかなかに大変だ (笑)。でもそれも新年を寿ぐ儀式だと思えばよいのだろう。

そんなニューイヤーコンサートで幕を開けた 2017年。今年も充実したコンサート・ライフを送れますように。

by yokohama7474 | 2017-01-09 23:22 | 音楽 (Live) | Comments(0)

e0345320_08435178.jpg
誰もが知る世界に冠たるイタリアオペラの殿堂、ミラノ・スカラ座。この映画はその魅惑のオペラハウスに関するドキュメンタリーである。2014年12月 7日、当時の音楽監督であったダニエル・バレンボイムの指揮によりベートーヴェンの「フィデリオ」でシーズンを開幕する準備を軸に、このオペラハウスの歴史を縦横無尽に辿り、歴代音楽監督のインタビューやリハーサル映像、錚々たる歌手やバレエダンサーたち、そして芸術監督から裏方に至るまで、様々な人々が、この場所がいかに特別であるかを語る。そしていくつかのシーンでは、役者が過去の人物に扮して過去の事柄をリアルタイムで語るという演技もある。オペラが好きな人には必見のフィルムと言ってよい。以下の出演者紹介は、この映画の公式サイトからコピペさせてもらったもの。いや実に豪華豪華 (但し私はバレエには疎いので、ここに含まれる 2人のダンサーについての知識はありません)。

QUOTE

カルラ・フラッチ

ヨナス・カウフマン

アルトゥーロ・トスカニーニ

ルチアーノ・パヴァロッティ

グレース・ケリー

クラウディオ・アバド

ダニエル・バレンボイム

ヘルベルト・フォン・カラヤン

ロベルト・ボッレ

リッカルド・ムーティ

プラシド・ドミンゴ

レナータ・テバルディ

アーカイヴ映像・写真での出演を含みます。
UNQUOTE


あ、あれ? なんかちょっと変だぞ。明らかに同じ人物が 2回 (撮影時点はかなり違うようだが) 写っていて、しかもそのうちひとつは、明らかに名前が違っていますねー(笑)。公式サイトであるからには、やはり間違いは訂正した方がよいと思います。もし関係者の方がご覧になっていれば、よろしくお願いします。どの表記が間違っているかは常識の範囲なのであえてここでは指摘しませんが、本来なら上で載っているべき人の写真をここに掲げておきます。

e0345320_10202885.jpg
この映画、音楽ファンにとっては実に見ごたえ充分なのであるが、それは言葉を換えて言えば、オペラに関心のない人たちにとっては、残念ながら見ても内容がよく分からない可能性大であるということだ。それゆえか、全国的にも限られた数の劇場でしか上映されていない。東京では、私の見た渋谷の Bunkamura ル・シネマは満員の盛況であったが、もう 1軒の上映館である昭島のシネコンでは、どのくらいの動員が見込まれるだろうか。と書きながらも私は、是非この映画を、クラシックに未だなじみのない人たちにも見て欲しいと思っているのである。というのも、このブログで東京のクラシック音楽シーンを熱く語っている私は、実はヨーロッパの一流オペラハウスの持つ極め付けの価値をよく知っていて、そこには日本人がいくら逆立ちしても獲得できない歴史の積み重なりがあることを実感しているからだ。一方で、西洋音楽の懐の深さに鑑みて、ヨーロッパ人にはできないがむしろ日本人にはできることというものも、きっとあると信じている。すなわち、西洋音楽に敬意を表するなら、いわゆる本場の一流がいかなるものかを知る必要あり、だがそれを盲信または過剰に崇拝することなく、冷静に日本人のできる音楽の可能性を考えることができるはずだと考えている。

ところで、上に掲げたこの映画のポスターでデカデカとその写真が使われている人物は、マリア・カラスである。なるほど、ここでトスカニーニの写真を使うと、怖くて敬遠されてしまうかもしれない (笑)。カラスこそは、オペラ歌手として最も一般的に知られた名前であることは確かだろう。だがこの映画の中ではカラスについての言及は過剰にならずにほどよいバランスに留まっており、その点は大衆に迎合しない姿勢が窺われて好感が持てる。そして、未だ存命の歌手たち、例えばライナ・カバイヴァンスカ (1934年生まれ)、フィオレンツァ・コッソット (1935年生まれ)、ミレッラ・フレーニ (1935年生まれ) らがあれこれ語る内容が滅法面白い。特にフレーニは最近まで活躍していたわりには、ここでの映像を見ると大変太ってしまって (もともと痩せた人ではなかったものの) ちょっと複雑な思いだが、いわばイタリアの人間国宝のような人だから、画面に出てくるだけで感動してしまう。もちろんコッソットもそうだし、カバイヴァンスカはちょっと知名度は落ちるが、ドミンゴともパヴァロッティとも「トスカ」を共演した映像を見たことがあり、やはり大ソプラノなのである。ドミンゴと言えば、ここで少しだけ出てくる当たり役「オテロ」の歌唱に本当に鳥肌が立つし、やはりインタビューで語る現在の彼の姿を見ると、老いたりとはいえ、そこで喋っているだけで心が躍るのである。今年のルネ・フレミングとの来日ジョイント・コンサートには行かないつもりであったが、うーん。心が動くなぁ・・・。

指揮者に関しては、当時の音楽監督バレンボイムがイタリア語で (ただこの人は、どの言語でも滑舌が悪いのは困ったものだが・・・) スカラ座がいかに特別であるかを語り、その後次代音楽監督に指名されたリッカルド・シャイーの物静かなインタビューもある。そしてもちろん、クラウディオ・アバドとリッカルド・ムーティの登場シーンにもそれぞれ興味深いものがあるのだ。中でも、1981年にスカラ座が初めて来日したときの模様が、ミラノの放送局制作らしいニュース映像で出てくるのは、本当に嬉しい。「Tokyo」と書いた T シャツを着たクライバーや、ここでも「オテロ」を演じるためにメイクするドミンゴ、ギャウロフその他の歌手と、ヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」のピアノリハーサルをするアバド。このときには全 4演目と合唱指揮者ロマーノ・ガンドルフィの指揮するロッシーニの小荘厳ミサ曲はすべて FM で生放送され、当時未だオペラは未知の分野であった高校生の私も、その生放送を聴き、テレビでの放映を見ては、興奮し驚愕し感激していたのだ。これはまさに日本の文化史に残る一大イヴェントであった。


それから、ヴェルディやプッチーニという大作曲家たちのこの劇場との関わりとともに、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ (1867 - 1957) の紹介も当然出てくる。彼こそはオペラにおける指揮者の役割を飛躍的に向上させた超人であり、そのヨーロッパにおける主たる活躍の場は、ほかならぬこのミラノ・スカラ座であった。
e0345320_17331406.jpg
彼は戦時中、ムッソリーニの独裁政権を嫌ってヨーロッパを離れ、もっぱら米国で指揮活動を行ったが、戦争中の爆撃によって破壊されたスカラ座が早くも 1946年に再建されたとき、そのオープニングを指揮するためにイタリアに戻って来た。この映画ではその時の到着の際の空港での映像が出てくるが、肝心の指揮のシーンは、これはどう見ても戦時中アメリカで撮影されたヴェルディの「諸国民の賛歌」のものではないだろうか。因みにそのスカラ座復帰演奏会では、ロッシーニ、ヴェルディ、プッチーニの作品が演奏され、締めくくりはアリゴ・ボーイトの歌劇「メフィストフェーレ」のプロローグであった (昨年ムーティが東京・春・音楽祭で演奏した曲)。これがその演奏会のポスターだ (John Hunt によるトスカニーニのディスコグラフィから撮影)。
e0345320_18131002.jpg
尚この演奏会のライヴ録音は CD 化されているので、私の手元にあるその CD からジャケット写真と、解説に載っている当時の新聞記事、そしてやはりイタリアの大指揮者で、当時のスカラ座の音楽監督、ヴィクトル・デ・サバタ (1892 - 1967) と客席で話しているトスカニーニ。
e0345320_23124842.jpg
e0345320_17535137.jpg
e0345320_17540778.jpg
さてこうなってくると、もう映画そっちのけで (笑)、新春特別企画。手元の資料から珍しい写真をご紹介して、音楽ファンの方々にサービスしよう。私が書棚の奥から採り出したのは、以前スカラ座を訪れた際にそこの売店で購入した、イタリアの Umberto Allemandi & C. という出版社の出しているカラヤンの写真集。2008年のカラヤン生誕100年を記念して出版されたものらしい。私はイタリア語は解さないが、"Lo stile di un Mestro" とは、「あるマエストロの流儀」とでもいう意味なのであろうか。あるいは「マエストロの品格」というニュアンスか。カラヤンは 1950-60 年代に様々な足跡をこの歌劇場に残したが、この写真集には、ミラノでの写真だけでなく、幼少時から晩年までの彼の貴重な写真が満載だ。
e0345320_18001454.jpg
この本の中から、カラヤンとスカラ座に関係する珍しい写真を幾つかご紹介しよう。まずこれは、上でトスカニーニと談笑している指揮者デ・サバタとカラヤン。そして左端は、なんとあのグィド・カンテルリではないか。彼についてはまた追って触れるが、1956年に死去しているので、撮られたのはその前。もしかすると、カンテルリの死に近い時期の写真かもしれない。
e0345320_18133141.jpg
次の写真でカラヤンの後ろに写っている痩身の眼鏡の音は、ドイツの作曲家カール・オルフ (1895 - 1982)。1953年 2月14日、スカラ座でカラヤンが演奏した彼の三部作、つまり、有名な「カルミナ・ブラーナ」に加え、「カトゥーリ・カルミナ」「アフロディーテの勝利」の際の写真である。このうち「アフロディーテの勝利」はこのときが世界初演である。カラヤンのオルフと言えば、1973年に珍しくケルン放送響を指揮してやはり世界初演、録音した「時の終わりの劇」が知られているが、私の知る限りこの三部作の録音はない。せめて「カルミナ・ブラーナ」だけでも後年録音して欲しかったものだと思うが・・・。カーテンコールから引き上げるところと見られるこの写真のカラヤンの表情には、充実感が漲っている。
e0345320_18151655.jpg
これは言わずと知れたマリア・カラス。1954年 1月、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」の、恐らくはゲネプロの時のものだろうか。
e0345320_18213831.jpg
これはイタリアの後年の巨匠指揮者、カルロ・マリア・ジュリーニ (1914 - 2005) と。撮影は 1955年 1月18日という日付で、調べてみるとその日カラヤンはビゼーの「カルメン」の抜粋をスカラ座で指揮している。カラヤンとジュリーニの接点はあまり思いつかないが、実は彼はこの頃 (1953年から 56年まで)、デ・サバタの後任としてちょうどスカラ座の音楽監督であったのである。ただこのジュリーニの厳しい表情はどうだろう。このほんの 1ヶ月前、1954年 12月にベルリン・フィルの終身音楽監督の地位を得たばかりのカラヤンを前にしての緊張か、それとも生涯ワーグナーを演奏しなかったという潔癖症のジュリーニには、戦時中ナチ党員であったカラヤンに対する複雑な思いでもあったのだろうか。ところで左端のくわえ煙草の人物は、ニノ・サンツォーニョというイタリアの指揮者 (1911 - 1983)。イタリア・マフィアではありません。
e0345320_18241214.jpg
これはまた極め付きの珍しい写真。戦後、一時期活動停止を余儀なくされたフルトヴェングラーの穴を埋め、ベルリン・フィルの実質的な音楽監督として積極的な活動を展開した、ルーマニア出身の、後の巨匠セルジュ・チェリビダッケ (1912 - 1996) とのツー・ショット。1954年10月23日の日付である。フルトヴェングラーの死去はこの 1ヶ月ほど後の 11月30日。なのでこれは 20世紀後半に、世界最高のオーケストラが誰の手に委ねられるか分からない時の運命的なショットである。因みにこの日、カラヤンがスカラ座で指揮したのはオペラではなく、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団を指揮してのオーケストラコンサート。ケルビーニの「アナクレオン」序曲、ブリテンの「フランク・ブリッジの主題による変奏曲」、R・シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、そしてベートーヴェン 5番というなかなかハードなプログラム。
e0345320_22144213.jpg
このように、カラヤンという指揮者にとってもミラノ・スカラ座での活動がいかに重要であったかは、一連の写真からも明らかだ。ではここで、スカラ座を離れて、昔のカラヤンの昔の写真をもう少しご紹介する。この 2枚の写真をご覧頂こう。
e0345320_22274031.jpg
e0345320_22275338.jpg
上の写真は、あのフランスの詩人ジャン・コクトーと。1958年 6月にウィーンでウィーン・フィルとストラヴィンスキーの「エディプス王」(もちろん台本を書いたのはコクトーだ) を上演したときのもの。そして下の写真は、1959年のザルツブルク音楽祭にて、ギリシャの巨匠ディミトリ・ミトロプーロスと、その弟子筋にあたる、後年カラヤン最大の好敵手とみなされた、あの偉大なるレナード・バーンスタインだ。この 2枚、大変に面白い。というのも、ここに写っているカラヤン以外の 3名の芸術家は、皆ゲイ (またはバイ?) で知られているからだ。だがその彼らに対するカラヤンの仕草の親密なこと!! コクトーとのツー・ショットは、思わず「近い近い近い!!!」と叫びたくなるし、ミトロプーロスにはしっかり手をかけて、しかもその右手がミトロプーロスの右手とシンクロしている。前の記事でご紹介したニューヨークでのストーンウォールの乱の勃発はこの 10年後。もしかして、世界は LGBT に向かって大きく胎動していたのかも、と思いたくなる。

さて、最後に触れるのは夭折の天才指揮者、グィド・カンテルリ (1920 - 1956) だ。
e0345320_22415768.jpg
私は彼の音楽を熱狂的に愛する者であり、残された正規録音や放送録音を、可能な限り集めている。彼の故郷はミラノ郊外のノヴァーラという街。私は数年前にここを訪れ、街を歩いていてたまたま彼の生家前を通りかかり、狂喜したこともある。1956年11月24日に大西洋横断中に飛行機が墜落し、36歳でこの世を去ってしまった。もしその後も生き永らえていれば、音楽史を塗り替えていたであろう天才なのである。今回、この映画の中で、上に掲げたカラヤン、カンテルリ、デ・サバタの 3人の指揮者の写真と違う角度で撮られた写真が登場するが、1956年に、ジュリーニの次のスカラ座の音楽監督の座を継ぐことになったのがこのカンテルリであったのだ。このカンテルリ、生涯最後の演奏会は、スカラ座管弦楽団を指揮したもの。1956年11月17日。実はその前日に音楽監督就任が発表されたばかりであった。演奏会の場所はミラノではなく、カンテルリの出身地ノヴァーラ。これがそのときのポスターである。まさかこれが最後のコンサートになるとは、本人も楽員も夢にも思っていなかったであろうから、これから始まる新時代への期待感が込められたはずのポスターが、何やら物悲しい。
e0345320_22394735.jpg
いかに豊かな才能を持つ天才鬼才でも、様々な運命の糸に動かされている面は必ずある。ミラノ・スカラ座が今日でも世界のオペラハウスの最高峰のひとつとみなされるのは、上で見たようなダイナミックな歴史と、現在活躍する音楽家たち、そしてそれを支える大勢のスタッフやパトロン、聴衆のおかげである。この奥深さは、そう簡単に味わい尽くせるものではない。日本にいながらにして見ることのできるこのような映画を堪能しながら、またかの地でオペラを見る日に向けて、感性を磨いておきたいものだと思う。

e0345320_22563209.jpg


by yokohama7474 | 2017-01-09 22:56 | 映画 | Comments(0)

e0345320_21525643.jpg
この映画の監督は、ローランド・エメリッヒ。そう、あの「インデペンデンス・デイ」シリーズや米国版「ゴジラ」など、ハリウッドのデザスター (災害) 大作映画で知られるドイツ出身の映画監督だ。1955年生まれの 61歳。
e0345320_21590878.jpg
そのようなメジャーな作品の監督作品が、日本でたったひとつのマイナーな劇場でしか見ることができないと、誰が信じられようか。でもそれは本当のことである。この作品を現在上映しているのは、新宿のシネマ・カリテのみ。なぜそんなことになるのだろうか。私は今この瞬間に正しい答えを持ち合わせているのか否か確信はないが、この映画の内容が関係していることは確かであろう。ではこの映画のプログラムから、監督自身の言葉を引用しよう。

QUOTE
この作品を撮ろうと思ったのは、自分自身がゲイだから、すべての疑問に自分が答えられると思ったからだ。自分の人生にも繋がることであり、実際にキャストの一部もゲイ。私たちは今も結婚する権利などを得るために闘い続けている。
UNQUOTE

そうだったのか・・・。芸術家の世界ではゲイは決して珍しいことではないが、やはり世間一般においては少数派。かく言う私も、男子校出身なのでそのような趣味の同級生がいたり、社会人になってからも、カミングアウトした同じ業界の米国人から「恋人」の話を聞いたことは一度にとどまらないものの、ただ申し訳ないことに、その感覚にはどうしても理解が及ばないのであると白状しておこう。だが、いわば文化のひとつとしての同性愛に興味はあるし (例えば「雨月物語」とか、南方熊楠や江戸川乱歩の研究など)、それは動物にはない人間ならではの愛の進化形であるということは、分かっているつもりである。何より、個人の嗜好が差別の対象になってはいけない。時代は既にそれを許さないし、それは人種差別や性差別と変わらないものだと認定されているのだ。

映画の内容に入る前にどうしてもこのような長々した能書きが必要であるという事実が、この映画の公開が限定的であることと関係していよう。だが、そんな予備知識は一旦脇に置いて、この映画について少し語ってみたい。題名のストーンウォールとは、ニューヨークのダウンタウン、グリニッジ・ヴィレッジに実在するバーの名前で、1969年にここでゲイたちが警察に対して暴動を起こしたとのこと。実はこの場所は昨年、オバマ政権のもと、米国のナショナル・モニュメント、日本風に言えばさしずめ「史跡」ということであろうが、それに指定されたのである。英語では LGBT (Lesbian、Gay、Bisexual、Transgender の総称) という言葉があるらしいが、この場所はその LGBT 関連施設として初めてそのような公式な史跡指定を受けたとのこと。これは現在の Stonewall Inn。
e0345320_22461204.jpg
物語の舞台は1960年代後半。まさに世界も米国も波乱に満ちた時代である。インディアナの田舎町からニューヨークに出てくる青年ダニーを演じるのは、あのスピルバーグの「戦火の馬」で少年役を演じたジェレミー・アーヴァイン。大人になったというか、この作品の難しい役柄を自然に演じるだけの成長を果たしたと思う。
e0345320_23421994.jpg
主人公ダニーは故郷で同性愛的指向が発覚することで様々な侮蔑の対象となり、そして当時 LGBT のメッカであったグリニッジ・ヴィレッジに出てくる。これは実話に基づくストーリーであるが、当時の世相を表す言葉が、ダニーの妹から発される。大都会ニューヨークに行ったこともない彼女は、兄からの電話を受けて、かの地の有名人に会ったかと兄に訊くのであるが、字幕に出てくるアンディー・ウォーホル以外に、実際にはジャクリーン・オナシスの名前もその会話の中に出ている。JFK の暗殺は 1963年で、ジャッキーのオナシスとの再婚は 1968年。ヴェトナム戦争がどんどん泥沼に入って行き、ヒッピー文化が盛んになって行く時代。つまりここでは、世界の大きな潮流と個々人の生きざまが激しく交錯していたわけであり、もし何か個人に信念があるとすると、それを堅く信じて暮らすのでないと、どっちを向いて生きて行けばよいのかすら分からないような、不安の時代だったということではないか。現代の感覚では LGBT はもう少し裾野が広がっていると思うが、当時としては本当に、黒人や女性が社会的権利を求めて立ち上がったのと同じ感覚であったのだろう。当時の若者たちは本当に懸命に生きていたのだ。これは映画のシーンと実際の写真の比較。
e0345320_00081155.jpg
e0345320_00102657.jpg
e0345320_00114002.jpg
e0345320_00115403.jpg
ローランド・エメリッヒという監督に対する私自身の多少屈折した思いは、昨年 8月 1日の「インデペンデンス・デイ リサージェンス」の記事に記したが、かつての悪い印象から最近では変わりつつある。それはまず一義的には「もうひとりのシェイクスピア」(2011年) という大変面白い映画を見ていたことによるのであるが、今回の作品 (実は「インデペンデンス・デイ リサージェンス」よりもこちらを先に制作している) も、この監督の内部に渦巻く創造性を実感させるもの。ストーリーもよく練られているし、また大変強い熱意を持った演出になっているのである。なので、これが実話に基づくストーリーであるか否かに関わらず、映画としての見ごたえはかなりのものであると言ってよいと思う。上に何の気なしに書いたことだが、ゲイとは人間だけに可能な進化した愛のかたち。多分この時代の若者たちは、人と人の間のつながりを求めて懸命に生きる中で、このような愛の形に目覚めて行ったということではないか。社会的なムーヴメントとしてのゲイ解放運動には様々な解釈が可能であろうが、恐らくひとつ確かなことは、個性に目覚めた自由人たちが社会に対してアピールしたということだ。そう考えると、翻って現代の我々は、さらに進んだ自由を追い求めているであろうか。どの国でも社会の閉塞感は否定しがたいものがあるように思うし、先が見えにくい時代であると思う。だからといって同性愛に走るべしと唱えるつもりはさらさらないが (笑)、このような過去の事実に目を向けることで、自由とは何かを改めて考えるきっかけにはなると思う。

そういえば、グリニッジ・ヴィレッジと言えば、「最後の一葉」で有名なオー・ヘンリーも暮らした街。もう 100年以上前から芸術家たちが集まる場所であったのだ。でも彼がゲイであったという話は聞いたことがない (やはり短編の名手で 8歳年下の英国の作家サキはそうであったらしいが)。そうすると文化の中のある部分は、常に流行りすたりがあるということだろう。あ、そういえばヴィレッジ・ピープルなどというグループがいましたね。昔は「村の人々」かと思っていたが (笑)、今になって分かることには、この場合の「ヴィレッジ」は、紛れもないグリニッジ・ヴィレッジのことだろう。調べてみると 1977年の結成。今年が実に結成 40周年ということだ。今でも公式サイトがあるので、未だ活動を継続しているようである。こういう息の長いバンド活動を見ると、米国の大衆文化の逞しさを思い知るのである。これも文化の諸相のひとつ (笑)。
e0345320_00340020.jpg
新政権下でも皆さん是非頑張って下さい!!

by yokohama7474 | 2017-01-09 00:35 | 映画 | Comments(0)

e0345320_22483841.jpg
永井荷風 (1879 - 1959) は、日本文壇史上に残る文豪と称される人。荷風の名前を知らない人はほとんどいないと信じたいが、さて。昨今ではこのブログのひとつのキーワードとなっている (?) 「昭和は遠くなりにけり」という感覚に基づけば、荷風などは随分と昔の人であると思われても仕方ない面がある。この本は、荷風が晩年を過ごした千葉県市川市で、生前の荷風を知る人たちに執念でインタビューした内容をまとめたもの。荷風ファンにとっては、それはもう面白くて仕方ないものに仕上がっている。著者の橋本敏男は、1937年生まれ。もともと読売新聞社の記者であるが、定年後にこのような荷風研究をしているらしく、ほかにも何冊か荷風についての著作がある。

私は今でこそ永井荷風を心から尊敬すると言えるが、若い頃は何というかこう、なんとも低俗な場所に出入りしたスケベオヤジのような悪い印象があって、どうにもその作品に踏み込む勇気がなかったものである。
e0345320_22572517.jpg
それでも「墨東綺譚」は若い頃に読んだし、その後「あめりか物語」(1908年)「ふらんす物語」(1909年) と読むにつれて、この作家の懐の深さにようやく気付いた次第。その間にも私は磯田光一による荷風の評伝も読んでいるし、最近では沢山出ている荷風のぶらり東京散策についての書物を何冊も買い込んでいるのだ。また、古本屋で旧かなづかいの古い荷風作品を何冊か購入し、黄ばんだページをめくりながらウームと唸っている。そう、昔はイヤらしいと思っていた人物が、気が付けば並ぶ者のない偉大な存在になっていることなぞ、そうそうあるものではない。

彼は明治12年の生まれであるが、父は日本の近代化間もないその時代に、既にプリンストン大学やボストン大学に留学経験があったというから驚きだ。世間の秩序に逆らう偏屈オヤジの印象が強い荷風であるが、素晴らしい文化的な家庭に生まれたということだ。米国では日本大使館や横浜正金銀行の現地スタッフとして勤務したが、その後コネの力でフランスに渡り、かの地の文化にどっぷり浸ったわけである。クラシック音楽ファンとしての私は、まず「あめりか物語」に驚嘆。この中には、当時未だ没後26年(!!)であったワーグナーの作品についてのあれこれの記述があり、また、真に驚愕すべきは以下の文章だ (表記は原文のママ)。

QUOTE
(初対面の女性相対して) 劈頭第一に、自分はオペラが好きかどうかという意外な質問に会い、つづいて、プッチニの「マダム・バターフライ」の事、今年四、五年目で再び米国の楽壇を狂気せしめたマダム、メルバが事。それから、今年の春初めてアメリカで演奏されたストラウスの「シンフォニヤ、ドメスチカ」の事など、意外な上にも意外な問題に、自分は今までの覚悟は愚か、宛ら百年の知己を得たような心地で、殆ど嬉し涙が溢れて来そうであった。
UNQUOTE

つまり、軽く口説こうとした女性から、思わぬことに当時最先端の音楽の話が出て、大変に感動したということである。ちなみにプッチーニの「蝶々夫人」の初演は 1904年。オーストラリア出身の歌姫ネリー・メルバは 1893年に22歳でニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビューしている。また、リヒャルト・シュトラウスの Sinfonia Domestica、つまり家庭交響曲は 1904年に作曲者自身の指揮で、ニューヨークで世界初演された。「あめりか物語」が書かれた 1908年には、プッチーニは 50歳。シュトラウスは 44歳。バリバリの働き盛りの作曲家たちであったのである!! この驚きがさらに増大するのが、岩波文庫の「ふらんす物語」に付録として収録されている、「西洋音楽最近の傾向」という文章 (1907年にニューヨークで執筆) だ。なんとここでは、若手有望作曲家として、シュトラウスとドビュッシー (シュトラウスより 2歳年上) が比較されていて、彼らの作品のあれこれについて詳細に論じられているのである!! 彼らは当時最先端の現役作曲家であったわけだ。もうクラクラして来てしまう。これが若き日の荷風。
e0345320_23352753.jpg
だが彼の非凡なところは、このような高尚な芸術を論じる一方で、異国の地の女性たちとアヴァンチュールを徹底的に楽しんでいることだ。なんとも先進的ではないか。ただひたすら美を愛する人。このことを頭に入れれば、たとえ彼が老年に至って頑固ジジイになったとしても、我々が払うべき尊敬の念にはいささかも関係しないはず (?)。

戦争中の空襲によって家 (偏奇館、もちろん万巻の蔵書も一緒に) を失った荷風は、東中野、明石、岡山と転々とする。戦後岡山で谷崎潤一郎と食事をして大変感激したという話は知っているが、今回初めて知ったことには、偏奇館を焼け出されてから荷風が頼ったのは、菅原明朗 (すがはら めいろう、1897 - 1998、なんという長命!!) であったのだ。と言ってもこの名前は一般にはあまり知られていないと思うが、作曲家である。私自身もそれほど彼の音楽を知っているわけではないものの、以前 FM のエアチェックで何曲か耳にしたことがあって、名前はよく知っている。調べてみると、長い人生に沢山の作品を残しているのである。菅原と荷風は、浅草オペラの台本と作曲という関係で共演したことがあるらしい。それは 1938年に初演されたオペラ「葛飾情話」。これはそのときの写真で、右端が荷風、左奥が菅原、ほかの 3名は歌手である。一体どんな作品であったのだろうか。
e0345320_00322900.jpg
荷風が市川に居を構えたのは 1946年で、何度か転居しながらも死ぬまで市川に暮らした。最初はほかの人の家に同居であったため、変わり者の荷風はあれこれ問題を起こしたようだ。市川市では、近年になって荷風の記憶を整理して保存しようという動きが起こり、そしてこの本は、その過程における産物なのである。2003年に市川市が荷風生誕 125周年を記念して開いた展覧会の準備において、関係者たちのインタビューが行われたが、その中には新発見の事実もあって大変興味深く、この本の中にその詳細が述べられているのである。実は私はこの本を片手に、市川の荷風ゆかりの場所を年末年始に歩いてみようかと思ったのであるが、既に文学ミュージアムなる市川市の施設が存在していると知り、どうせならそこを見てから街を歩いてみようと考え直した次第。加えて、この地域の古代からの歴史についての本も購入しているので、いずれそちら方面も探訪して記事を書いてみたい。いつになるかは分からないが、市川の知られざる一面に触れることになると思うので、是非ご期待頂きたい。

さてこの本にはもうひとつ、大変に興味深い部分がある。それは、作家の井上ひさし (1934 - 2010) が 2005年にやはり市川で行った講演である。実は彼が若い頃に浅草のフランス座というストリップ劇場 (講演の中で井上は、この表現は誤解を招くとし、「きちんとした劇場です」と説明している) の文芸部に所属していた頃、荷風が何度かそこにやって来たらしいのである。そのあたりの説明がもうそれは抱腹絶倒。私など、読みながら何度も声を上げて笑ってしまいました。晩年の荷風の印象を明確に示すとともに、井上ひさしという人の才能の多彩さも思い知ることができた。私の場合、小学生の頃に井上の「ブンとフン」という作品に入れあげ、その後「モッキンポット師の後始末」「手鎖心中」と読んで行ったが、「子供のくせに心中の本を読んでいるのか」と大人たちにいぶかられたことが原因で (?)、その後彼の作品には疎遠になってしまった。もちろん一般的には「ひょっこりひょうたん島」を代表とする放送作家から、「吉里吉里人」で小説家としてブレイクした人というイメージがあると思うが、そのユーモア感覚には改めて脱帽である。近く私はまた井上作品を読むことになるだろう。だがそれにしても、この人の老年の肖像写真は、荷風と似ているではないか!! まあ、井上がその講演で語っている荷風の歯の汚さは、井上にはなさそうであるが (笑)。実際荷風の肖像写真には、口を堅く結んだものが多く、その理由を、私はこの井上の講演で知ったのである。
e0345320_00082026.jpg
e0345320_00072119.jpg
日本文学には、汲めども尽きぬ豊潤な泉が沢山ある。ここでも先人たちの過去の遺産が、現代においてもなお光り輝いていることを認識するのである。

by yokohama7474 | 2017-01-08 00:11 | 書物 | Comments(0)

e0345320_09284973.jpg
赤瀬川 原平 (あかせがわ げんぺい、1937 - 2014) は大変多才な人であった。よく知られている通り、尾辻克彦のペンネームで芥川賞を受賞している小説家でもあるが、私にとっては彼は一義的には美術家なのである。いわゆるカッコ書きの「美術」の分野においても、若き日のハイ・レッド・センター (高松次郎、中西夏之というすごい連中と組んで、それぞれの苗字の英訳、High=「高」松、Red=「赤」瀬川、Center=「中」西の頭を英語にしたもの) としての活動や、千円札を加工した作品が裁判になったこと、また超芸術トマソンを唱え、路上観察学会の創設をするなどフィールドワークに長けていたこと等々、本当に賑やかな経歴を残した人である。そして彼はその癒し系の外見そのままに、数多くのユーモラスな著作を残した人なのである。
e0345320_21065194.jpg
私が最近読み終えたこの本は、2015年、つまり彼の死後の発行であるが、もともとは1970年代に雑誌に連載していたもの。つまり彼が千円札偽造で罪に問われたあとの時期である (執行猶予付きの有罪判決は 1970年)。もしご存じない方がおられるといけないので紹介しておくと、これが 1963年に赤瀬川が自らの個展、「あいまいな海について」の案内状として制作、発送された千円札のコピー。彼はこの後何度か、千円札を利用した美術作品を制作しており、これが紙幣の偽造として裁判になったもの。うーん。日本の印刷技術では、所詮は美術家が作品として作った簡単なコピーはあまりにずさんで、無害とも思えるが、まぁ、紙幣というものはそれだけ厳格に管理されるべきものというのも、理解はできる (年末に放送された NHK の「探検バクモン」では紙幣の印刷過程が取材対象となっており、大量に印刷される一万円札を見て、経済の根幹について考えることになったのは、ただの偶然であるが・・・)。実は赤瀬川は、この裁判を境に、美術家としての活動を停止しているのである。
e0345320_21222550.jpg
この本に話題を戻すと、これは短編集なのであるが、その乾いたユーモア感覚は、赤瀬川の一側面を明確に表していると思う。一部には下ネタもあり、決して高踏的な作品集ではないのだが、そこに押された作者の烙印は、現実世界で役に立つものではないという理由で、人々の記憶から抹消されるようなものでは決してない。表紙からしてシュールな感覚が満載であるが、ここで明確なことは、人の性質を特徴づけるべき表情を持った顔が、ここから削除されていることだ。この本には赤瀬川自身の手になるイラストが幾つも掲載されているが、以下の通り、やはり人間の顔を正面から描いたものは全くないのである。一時期、マンガ雑誌「ガロ」を発表の場としていたこともある赤瀬川らしいタッチだ。
e0345320_21281132.jpg
e0345320_21283061.jpg
e0345320_21284331.jpg
私は以前にも彼の「新解さんの謎」(三省堂発行の新明解国語辞典 = いや実際面白い辞書である = をネタに突っ込んだ本) など、抱腹絶倒の作品を読んだことがあり、彼のユーモア感覚には一定のイメージがあった。そしてこの短編集はそのイメージ通りの作品であって、改めて赤瀬川の人となりを偲ぶこととなったのである。そのナンセンスぶりを示すために一例を挙げると、やっとのことで銭湯を脱して自分だけの風呂を持った男の話がある (繰り返しだが、舞台は1970年代である)。吉祥寺在住の彼は、なんとか中野に風呂は借りることはできたものの、我が家の風呂場であればそこに続くべき存在である廊下は、まだ手に入れていない。なので、自分の風呂に入りに中野にまで行ったあと、東中野の不動産屋に立ち寄って、ちょうどよい賃貸の廊下がないか否か確認する。予算の関係もあり、いくつかの物件を見たあとにちょうどよい賃貸廊下が見つかった。但し、ほんのちょっとだけ遠くて、それは千葉の我孫子に存在する・・・。吉祥寺からまず我孫子まで行って廊下を渡り、それから中野で風呂に入る、また我孫子に戻って廊下を歩いてから吉祥寺に戻る。つまり、風呂に入って帰ってくるだけで 5 - 6 時間・・・。そんなわけで、彼が帰りの中央線で廊下を借りるべきか否かについて思案を巡らせていると、電車の中で二人の知り合いに会う。ひとりはこれから八王子の台所に行ってお湯を沸かせてカップヌードルに入れ、新宿で夕食。もうひとりは顔面蒼白で体を震わせながら、これから奥多摩の便所まで用を足しに行くという。とまぁ、このような荒唐無稽な設定なのである。バカな話と言ってしまえばそれまでだが、でもここには、何か現代の私たちが忘れてしまった笑いの感覚がありはしないだろうか。もちろんこの本を通して読むと、若干この種のギャグに食傷気味になることもあろうが (笑)、でも昭和の時代に日本が確実に通り過ぎて来た道の、その一端はここに表れていると思う。

今私の手元には、「芸術新潮」誌の2015年 2月号がある。特集名は、「超芸術家 赤瀬川原平の全宇宙」。以前全文を読んだが、改めてパラパラ見返すだけでも面白い。いわゆる「美術」という語の頭に「現代」がついてしまうと、普通は途端に理屈っぽくなるのであるが、赤瀬川のような人が手掛けた現代美術は、同時代性を超えて古びることで、却って今後も長い生命を保つのではないだろうか。大いなる逆説。
e0345320_21473059.jpg
彼の提唱したトマソン芸術をご存じない方のために簡単に説明すると、もっともらしいが全く役に立たない建造物のことを主に差している。トマソンとは、この人に因む命名。
e0345320_21550223.jpg
この人ゲーリー・トマソンは、王貞治引退後の1981年、ジャイアンツに所属した元大リーガー。そう、鳴り物入りで入団したくせに、全く役に立たないと散々揶揄された人である。では、超芸術トマソンの実例にはいかなるものがあるか。以下の写真は記念すべきトマソン第 1号、「四谷の純粋階段」である。確かに、上がって下りるだけのこの階段、存在はするが全く役には立っていない (笑)。現在では既にビルに建て替わっていて、もはや見ることはできないらしい。古びることで価値が出て来た光景なのである。
e0345320_21574974.jpg
このようなことを考え合わせると、赤瀬川原平が発見し記録した数々の不思議な光景は、昭和も終わりに近くなって世の中自体に余裕がなくなってから、継子扱いされたものばかり。彼が世間を茶化しながら発したメッセージは、この日本にかつて存在した、いや、今でも存在する建造物を、時代とともに瞳に焼き付けるべしということなのではないか。役に立たないと思われた建造物は、役に立たないからこそ、そのイメージが後世に伝わって行くのである。うーん、深いではないか。

そんなわけで、赤瀬川の感性に久しぶりに出会うことができ、私はこの本を楽しく読むことができたのである。過ぎ去りし昭和の感覚にしばし戻って、文化的な刺激を得たい方にはお薦めである。

by yokohama7474 | 2017-01-07 22:25 | 書物 | Comments(0)

e0345320_19390570.jpg
私の手元には、かれこれ20年以上に亘り、1冊の大部な本がある。タイトルは、「ヒッチコック / トリュフォー 映画術」。タイトルの上にはデカデカと「定本」と書かれている。これは映画好きなら誰でも知っている本であるが、もし映画にあまり興味のない方でも、アルフレッド・ヒッチコックとフランソワ・トリュフォーという二人の映画監督の名前は知っているだろう。この「映画術」という書物は、そのトリュフォーがヒッチコックに対して行った長時間インタビューをまとめたもの。
e0345320_19465834.jpg
この本はハードカバーの大判、写真掲載も多いとはいえ、3段組で350ページを超える大部な書物であるので、実は私も冒頭の部分以外は網羅的に読んだわけではなく、ヒッチコックの作品を見たときに都度その作品に関係するページを開いて見て、そこで展開される詳細な技術論に、まぁ訊く方も訊く方だが、特定のシーンの細部に至るまで撮影方法を覚えている方も覚えている方だな、と感心する(笑)、そんな用途で付き合ってきた。面白いのは、英国人ヒッチコックはフランス語を解さず、フランス人トリュフォーは英語を解さないのに、これだけの量の会話が成立したということ。無類の映画好きのフランス育ちの米国人女性が通訳を務めたらしいが、インタビューする方もされる方も、ともに映画にかける人並はずれた情熱があったからこそ、このような書物が成立したのであろう。そしてここで私が記事を書こうとする映画は、この書物に採録されたインタビューの一部の音声と、関連するヒッチコック映画の数々のシーン、そして現在活躍中の映画監督 10人のヒッチコック映画に関する思いを語るインタビューからなるドキュメンタリー映画。監督・脚本は1960年生まれの米国人で、評論家、脚本家、そしておもにドキュメンタリーの監督でもある、ケント・ジョーンズ。これは、昨年の東京国際映画祭でこの作品が上映された際に舞台に登壇したそのジョーンズと、この作品の中で語る 10人の映画監督のひとり、黒沢清。
e0345320_22401693.jpg
この映画の見どころはなんと言っても、書物に採録されたトリュフォーとヒッチコックの生の会話を、残されたテープの再生によってそのまま聴けるということに尽きるだろう。本当にトリュフォーが喋るフランス語を、通訳が同時に英語に訳し、それにヒッチコックが英語で答えることで、ほとんど時間のロスなく会話が継続している様子がよく分かる。それから、ヒッチコックは明らかにここではゆっくりと言葉を喋っており、淀みがない。もちろん、使われているのが、日本語に比べて論理性の高い英語であることも関係はあると思うものの、この場合においては使用言語にかかわらず、発言すべきことが明確に頭の中で整理されている証拠であると思う。映画監督という、自らの趣味性を保ちつつ多くの人々を束ねる立場の職業の人はそうでなければならない。ただ、宗教に話題が及ぶとノーコメントの態度を取るところや、俳優について結構侮蔑的な表現を使うところ、また、品のない内容を説明するところなどには、人間ヒッチコックの赤裸々な姿が出ていて興味深い。現代の監督たちのインタビューを含め、この映画はすべてヒッチコック映画の何たるかを様々な角度から再認識する内容で、その意味では、ヒッチコックに興味のない人には無縁の映画であろうが、既にヒッチをよく知っている人、あるいはこれからヒッチの映画を見てみたいと思う人には、大変面白い内容に間違いない。映画史において並ぶ者のないサスペンスの巨匠が残した世界は、まさに汲めども尽きぬイメージの宝庫である。彼の映画の中では、人間の持つ根源的な恐怖、その裏にある人間の弱さ、あるいは運命のいたずらや、犯罪を犯す人間の心理、等々が渦巻くドラマ性を生み出しているわけで、ある意味で、それは過ぎ去ってしまった過去の時代の産物でありながらも、いつまでも色褪せない永遠の映画術(まさに!!)の成果であるとも言えるだろう。

ヒッチコックの残した映画作品 (テレビ用は除く) は56本。かつてトリュフォーがこのインタビューを行った1960年代 (書物では、1966年の「引き裂かれたカーテン」までが対象となっている) においては、見たい作品があっても、封切を逃せば二番館にかかるまでは見ることができない環境であり、いかにパリにはシネマテーク・フランセーズという専門施設があると言っても、そう簡単にヒッチコック作品の数々を頻繁に見ることはできなかったはず。それに比べれば現代はなんとも恵まれた時代で、例えば私の手元にある DVD は、サイレント映画を含めたヒッチの全 56作中、数えてみると実に 52作をカバーしているのである。ないのは、処女作の「快楽の園」(1925年)、2作目の「山鷲」(1926年)、11作目の「エルストリー・コーリング」(1930年)、17作目の「ウィーンからのワルツ」(1933年) の 4本のみ。だが調べてみるとこのうち「山鷲」は、数枚のスチール写真しか現存していないとのこと。そんなわけで、残りの 3作もいずれは手に入れたいが、問題 (?) は、後期の主要作品はほぼ見ているものの、それでも穴があり、前期のイギリス時代の作品に至っては、半分も見ていないということだ。人間、便利な環境に甘やかされるものである。このドキュメンタリー映画を見たことをきっかけに、改めてヒッチコック映画の豊穣な世界に浸りたい!! と切に感じている。しかも彼の誕生日はたまたま私と同じ、8月13日。ヒッチコック、あなたはサイコーだ。
e0345320_23495827.jpg
ついでにと言ってはなんだが、トリュフォーについても少し個人的な思いを述べておこう。私が封切で見ることのできた彼の映画は、遺作となった「日曜日が待ち遠しい!」(1983年) だけである (ファニー・アルダンのコツコツという靴音の鮮明だったこと!!)。実際のところ、私の文化面での趣味は幼時からもっぱら幻想性や怪奇性にあったので (笑)、そのような要素からほど遠いヌーヴェル・ヴァーグに興味を持ったのは大人になってからなのである。トリュフォーという人がいると初めて認識したのは、あの「未知との遭遇」(1977年) の学者役で、どうやら彼が有名な映画監督らしいと聞いてから。
e0345320_23575720.jpg
実際に私は、今に至るもそれほど熱心なトリュフォー・ファンとは言い難いが、唯一忘れられない思い出がある。それは、1984年のある日。当時19歳で浪人生であった私は、とある大学の講義に紛れ込んでいた。今となっては時効であろうから白状すると、それは当時映画評論で時代を席巻していた、フランス文学者で後の東京大学総長、蓮實重彦の映画論の講義であったのだ。入ってきた蓮實先生は、大柄な人であるが、実に悄然と教壇に立っていた。そして彼が学生たちに向かって最初に発した言葉は、「先刻連絡を受け取ったばかりですが、フランソワ・トリュフォーが亡くなりました」というものであった。聴講する学生たちの中から、「えっ」という絞り出すような声があちこちで響いたのをよく覚えている。今調べてみると彼の命日は10月21日。脳腫瘍であったらしい。蓮實重彦はこのトリュフォーやゴダールやエリック・ロメールら、「カイエ・デュ・シネマ」誌に集った映画人たちを称揚し、彼らを積極的に日本に紹介した最大の功労者。当時、自らも「リュミエール」という映画誌を創刊した頃であった。なので、トリュフォーの死を蓮實重彦の口から聞いたという事実は、今となっては歴史的なイヴェントである。そして、トリュフォーたちカイエ・デュ・シネマの論客が強い尊敬の念を表明した監督たちのひとりがヒッチコックであり、上で触れた大部な書物「ヒッチコック / トリュフォー 映画術」も、蓮實と、いわばその同志である山田宏一との手になる翻訳によって日本に紹介された。山田宏一に至っては、今回の映画の字幕まで担当しているという、今に続く深い関与ぶりである。それもそのはず、彼は1960年代にパリに在住し、カイエ・デュ・シネマの同人であったのである。
e0345320_00392537.jpg
蓮實は1936年生まれ、山田は1938年生まれであるが、ともに、ただ映画マニア、あるいは評論家という狭い範疇に留まる人たちではなく、紛れもない第一級の文化人である。1980年代に多感な時代を過ごした我々の世代は、その時代に満ちていた文化的刺激を広く深く享受したし、そのことを一生忘れることがないだろう。だが一方で、あの日あの教室でともにトリュフォーの死を知った人たちは、今どのくらいそのことを覚えているのか、ちょっと知りたくなるのである。日常生活にまみれて、文化にかける若き日の情熱を維持できないことがあっても非難はできないが、現在では気骨ある老人たち (笑) となったこのような文化人たちの背中を見て、少しでも文化的な刺激を思い出したいものだ。これは昨年、三島由紀夫賞の受賞記者会見で、マスコミを手玉に取った蓮實。いや実に見事な快刀乱麻ぶりでした(笑)。
e0345320_00363196.jpg
便利な時代であるからこそ、ヒッチコックの映画のような過去の素晴らしい文化遺産が衰えぬ生命力を保っていることと、それをフランスに日本に、また世界に紹介する情熱を持った先人たちに感謝し、我々の世代にも、文化体験の意義を後世に伝えて行く義務があるのだと、この映画を見て珍しく気分が高揚している私であった。

by yokohama7474 | 2017-01-07 00:41 | 映画 | Comments(0)