<   2017年 04月 ( 21 )   > この月の画像一覧

e0345320_22303808.jpg
フィリップ・K・ディック (1928 - 1982) は言うまでもなく、SF 界で圧倒的にカルトな人気を誇る作家である。私の知人でも何人かはいわゆる SF マニアという人たちがいて、あらゆる SF 物を渉猟している (いた?)。もちろん私などはその足元にも及ばないのであるが、そんな私ですら、ディックの作品は特別な意味を持っていて、名作映画「ブレードランナー」の原作として知られる「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を含めた数冊のディック作品を読んで、驚愕してきた口である。そんな私が大変久しぶりにディック作品を読みたいと思ったにはわけがある。そのわけは、追ってまたこのブログの記事でご紹介するとして、この「高い城の男」について語ろうではないか。これがディックの肖像写真。
e0345320_22561801.jpg
この「高い城の男」は、ディックの作品の中では初期のものである。この作品が1963年にヒューゴー賞という栄えある賞を受賞したことで、彼の名は一躍知れ渡ったらしい。ときにディックは既に 37歳。彼の充実した創作活動は、その後に彼に残された 20年弱の間に主になされたものだということだ。それにしても、1963年ということは、ケネディ暗殺の年。未だヴェトナム戦争は継続中であり、東西冷戦真っ盛りである。そんなときにディックの書いたこの作品の想定は極めてユニーク。それは、第二次世界大戦で連合国ではなく枢軸国、つまり、ドイツ・日本・イタリアが勝利した世界を舞台にしているのである。つまり、当時ガッチリ世界を支配していた現実の戦後秩序から全く離れた世界を、この作家は夢想していたことになる。これは今我々が考えるより数倍も難しいことであり、超弩級の想像力がないとできないことであったろう。それゆえこの作品は、未だに異色を放っているのである。 

と言いながらこの作品、決して読みながら手に汗握るサスペンスがあるわけではない。あえて言ってしまえば、登場人物が多い割には展開が遅い、それゆえにストーリーを追いにくい作品だと言ってもよいであろう。敗戦によって 3つの地域に分割された米国。西海岸は「戦勝国」日本の傀儡である「アメリカ太平洋岸連邦」、東海岸はドイツの傀儡である「アメリカ合衆国」、その間は緩衝地帯である「ロッキー山脈連邦」。ちょっと小さくて見にくいが、以下の地図が本作において想定された世界の勢力地図。赤はドイツの権力が及ぶ地域、緑は日本のテリトリー、水色はカナダなのである。
e0345320_23181225.png
上述の通り、この本を読んでいても、人間関係がもうひとつよく分からない点には結構忍耐を強いられる。しかも、何か大事件が起こるわけではなく、強いて言えば危険書物 (つまり、第二次大戦でもし連合国が勝っていたら、という「想定」に基づく物語) の作者、彼がつまり高い城の男なのであるが、その彼に暗殺の危機が迫るということくらいである。だがそれとても、突き進んで行くストーリーではなく、大変に錯綜した登場人物たちの思惑が徐々に収斂して行くというタイプのものであり、しかも、結局はなんらのサスペンスも起こらないのである。それから、登場人物たちの何人かが易経に凝っているという設定であり、それに関する様々な細かい描写があって、西洋人が読むと東洋の神秘というイメージで流すことができるのかもしれないが、私としては正直、その点もかなり冗長だと感じる結果となってしまった。だが、あえて言ってしまえば、当時文字通り世界をリードしていた偉大なる米国の作家が、その米国がもし先の戦争に敗れて、現実世界におけるドイツさながらの分断国家になっていたらどうなるかという空想を抱き、このようなリアリティを持って世界を描いたこと自体が、現実を遥か超えて行く未知の領域であったことだろう。読みながら情景を心に思い浮かべると、当時の観点で夢想した未来、決してバラ色ではなく、空には黒い雲がかかった未来に思いを馳せることができる。その意味でこれはやはり、歴史的な書物なのであろう。興味深いのは、この中で、同じ「戦勝国」でも、ドイツは独裁国家で暴力的な国、日本はドイツと微妙な距離を保つ慇懃無礼な国、そしてイタリアは、要するに弱小でドイツの尻に敷かれているという設定。なんだか分かる気がするではないか (笑)。

さてこの「高い城の男」、最近米国でテレビドラマ化され、日本でも配信されたようだ。私はそれを見ていないが、なんと製作総指揮があの (そう、あの「ブレードランナー」の) リドリー・スコット。このような分かりやすい映像が使われていたようだ。
e0345320_23563300.jpg
長らく世界の秩序は、先の大戦で勝利したか敗北したかによって決定づけられてきた。だが、そろそろそのような「分かりやすい」時代は終わろうとしているのではないだろうか。ある意味で、このディックの「高い城の男」のような世界なら、まだ分かりやすかったであろうが、今や世界の秩序はどんどん分断化され、見えにくくなっている。これが半世紀以上前に書かれた歴史的書物であればこそ、我々は真摯にその設定に向き合うことができる。さて、今から半世紀後、世界の秩序はどうなっていて、この書物はどのように読まれることであろうか。もし未来の人がこの記事を読んで、未だインターネットというものが存在していれば、是非コメントをお願いします!! (笑)

by yokohama7474 | 2017-04-28 00:05 | 書物 | Comments(0)

e0345320_22410981.jpg
この映画のポスターを見て誰しもが抱く感想があるだろう。まず、グレートウォールというからには、万里の長城についての物語だろう。実際ポスターの下の方には、「万里の長城が造られた目的が、ついに明かされる」とある。だが、主演は現在ハリウッドのトップ俳優のひとりであるマット・デイモン。アクションから繊細な演技まで、なんでもできてしまう彼のことだから、ここでは何食わぬ顔をして中国人を演じているのか??? ともかく、仲間とともに何かと戦うという設定の物語であることは確かだろう。もちろん万里の長城の建設に着手したのは、あの秦の始皇帝。紀元前 200年頃の話だ。そんな古代を舞台とするなら、西洋人を登場させるのは無理があるだろう。いや、とはいえ、ユーラシア大陸は陸続き。人類はその後シルクロードなる陸上の交易路を確立させ、アジアとヨーロッパには密なる交流が生まれるのだ。でも、秦の時代とは・・・。

とまぁ、余計なことを考えていたのだが、4/14 (金) の公開だから未だ 2週間足らずなのに、既にシネコンでの上映頻度が低くなっているのを発見して、これがいかなる物語であろうとも、劇場に急がねば、と思って見に行ったもの。もちろんそう思う理由は、この人だ。
e0345320_22560028.jpg
現代映画界の巨匠監督、チャン・イーモウ (張 芸謀) 65歳。そう、この映画は彼のすべきハリウッド第 1作なのだ (但し、中国と米国の合作映画であるが)。この監督については、北京オリンピックの開会式・閉会式の演出を手掛けたことで知られていると言ってもよいし、あるいはオペラ・ファンなら、ズービン・メータとフィレンツェ五月祭音楽祭が紫禁城で上演したプッチーニの「トゥーランドット」の演出家であることを挙げてもよい。だがやはり、初期の「赤いコーリャン」「菊豆」、あとなんと言ってもツァン・ツィイーがなんとも可愛らしかった「初恋のきた道」などのヒューマンな作風が忘れがたく、最近では「妻への家路」が深く心に残っている。その一方で、一般的に彼の知名度を上げたのは「HERO」と「LOVERS」というアクション大作であったろう。それから私として是非お奨めしておきたいのは、これも私が心から敬愛するコーエン兄弟の「ブラッド・シンプル」をリメイクした「女と銃と荒野の麺屋」。あまり知られていない映画かもしれないが、ご存じない方には、「ブラッド・シンプル」と併せて是非是非ご覧頂きたい。面白いです。さてそんなチャン・イーモウがこれまでハリウッド資本で映画を撮っていなかったとは意外である。というのも、同世代の中国の映画監督でもうひとりのビッグネーム、チェン・カイコー (陳 凱歌) は随分以前、調べてみると 2002年に、「キリング・ミー・ソフトリー」というサスペンス映画でハリウッドデビューしているからだ (ちょっと残念な出来ではあったものの)。ともあれ、チャン・イーモウがマット・デイモンを得て世に問う新作の出来栄えや、いかに。
e0345320_23180033.jpg
えぇっと、なんと書こうかな (笑)。私がもし一言でこの映画をまとめるとすると、珍作という言葉を選ぶかもしれない。ネタバレはいつもの通りしないようにするが、でもこれを言わないと話が進まないことには、なんとなんとこれは、私がつい最近見て記事も書いた、「キングコング 髑髏島の巨神」と同系列、つまりは怪獣映画なのである!! 舞台は秦の時代ではなく、12世紀、宋の時代。万里の長城が防ごうとしているのは、大量に攻め寄せる敵。その敵とは、60年に一度やってくる怪物、饕餮 (どんな字だかさっぱり分からないが、「とうてつ」と読む) の大群であり、その怪物たちは知恵があって、人間の裏をかいてどんどん攻め方を発達させているらしい。因みにこの饕餮という怪物、Wiki で調べてみると、殷や周と言った古代の時代から中国の青銅器や玉器に彫られているという。あぁなるほど、例えば出光美術館のコレクションにあるような青銅器類に、よく見かける文様だ。
e0345320_23291693.jpg
映画の中ではこんな感じ。
e0345320_23305012.jpg
あらら、この記事は「キングコング 髑髏島の巨神」について書いているのではありませんよね? (笑) いえいえ、ちゃんと「グレートウォール」であります。この映画でこの怪物が恐るべき大群で現れるシーンは、少し前なら「スターシップ・トゥルーパーズ」(私の大好きな映画なのである)、比較的最近なら「ワールド・ウォーZ」と比較されるだろう。だがこの映画、不思議なことに、そんな圧倒的な数の敵に襲われる人間側の描き方に、あまり絶望感がないのである。マット・デイモンと、もうひとり、ペドロ・パスカルというチリ人俳優の演じるコンビは、傭兵として各地を渡り歩き、火薬を求めて中国にやってきたならず者たちであり、腕に覚えの彼らは、なんのためらいもなく怪物との戦いに身を投じる (因みに、ヨーロッパでルネサンス三大革命と言われた火薬・羅針盤・活版印刷は、すべて中国が先立って発明していたというのは有名な話)。正直なところ、人間を描く名人であるチャン・イーモウともあろう人が、いかにも CG CG した動きを見せる怪物の集団を、こんなにイージーに見せてしまってよいものであろうかという印象を拭うことはできない。決戦を間近に控えた人間は、それこそ「七人の侍」が秀逸に描いている通り、不安な思いをかき消すべく、生きている証拠を探して、例えば自暴自棄な男女の愛に走ったりするものではなかろうか。その点、この映画のヒロインには、爽やかなまでにその気配がない (笑)。
e0345320_23490224.jpg
この中国人女優さんの名は、ジン・ティエン。実は以前の記事ではあえて書かなかったのだが、「キングコング 髑髏島の巨神」にも出演しており、英語のセリフもそこそこある役であった。だが正直、その映画における彼女の役の必然性には納得できる要素が少なく、製作会社レジェンダリー・エンターテインメントが中国資本に買収されたことと何か関係があるのかなぁと、漠然と考えていた。そして実は、この「グレートウォール」もレジェンダリーによる製作なのである。これがコング映画における彼女の勇姿。私が立て続けに見た二本の怪獣映画のいずれにも出演していたということになる。
e0345320_23523590.jpg
彼女の顔は文句なしに美形であり、英語もまぁまぁ頑張ってはいるが、正直なところ、世界に羽ばたく素晴らしい女優かと訊かれれば、まだまだこれからでしょうと答えると思う。この映画における、決してフレンドリーではないとは言わないが、どうにも血の通ったところがあまり感じられない女将軍役を見ていると、例えば「スターウォーズ」の 1作目、エピソード 4 なども、王女と飛び入り兵士の話であったわけだが、あの映画にはなんだか夢があったなぁと思う次第。この映画、時代の要請なのか、あるいは作り手の側に何らかの意図があるのか分からないが、言葉を選ばずに言ってしまえば、あまり感興を感じない残念な設定なのである。

怪物との戦いの成り行きや、クライマックスの作り方も、昨今のあれこれの映画の中では、まあ特にどうということもない。ひとつ言えることは、決定的な悪役が全く出てこないということか。怪物の側の論理 (?) は描かれていないが、ただ人間と敵対している存在ということでしかなく、人間ドラマはそこには期待できないのである。出演している役者の中には、ウィレム・デフォーとかアンディ・ラウといった才能豊かな人たちもいるわけだが、彼らの登場シーンでもドラマ性は希薄で、あまり個性的には描かれていない。もちろん、この映画のストーリーや映像が全く面白くないという気はなく、何気なく見ていればそれなりに面白いと言ってもよいが、あのチャン・イーモウのハリウッド・デビューで、かつマット・デイモン主演と来れば、この出来はいささか残念である。だから私は思うのである。これはもしかしたら、才能ある人たちが作り上げたヘンな映画として、人々の記憶に残るのではないかと。最初の方で珍作と申し上げたのは、そのような意味だったのである。
e0345320_00143656.jpg
さてそうなるとこの映画、何か現代的なテーマでも隠されているのかと勘繰りたくもなってくる。東洋と西洋の優劣関係の揺らぎと「信頼」の重要性、富に向かって我も我もと押し寄せる中国の人口問題、会話の通じない独裁者 (この映画の怪物にも中心がいる) が指導する国家と対峙する緊張感、外から境界を超えてやってくる移民たち、平和実現のためには犠牲もやむないと冷静に考える姿勢・・・そんな諸々の要素がここで隠喩されているとしたら? はい、もしそうならそうでもよいのだが、「もし弾道ミサイルが飛んできたらこうしましょう」という注意事項が職場で喚起されるような物騒な現実の前では、隠喩の意味を考えていても埒があかない (笑)。娯楽は娯楽として、感情移入できるものであって欲しい。これが大監督チャン・イーモウの気まぐれなのか、あるいは今後変わって行く契機となるのかは、また次回作で確認してみたいと思う。

by yokohama7474 | 2017-04-27 00:24 | 映画 | Comments(0)

e0345320_23274042.jpg
つい 2日前のアラン・ギルバート指揮東京都交響楽団の記事で、会場となった大阪のフェスティバルホールに私は何度か言及し、「次のフェスティバルホール体験はいつになるだろうか・・・」とつぶやいて記事を終えたが、あろうことか、その舌の根も乾かぬうちに同ホールを再訪している私 (笑)。全く人が悪いというか悪運が強いというか、一体なんなんだと思われる方もおられよう。種明かしをすると、前回の演奏会で聴くことのできたこのホールの音響が非常に気に入ったので、帰りがけにチケット売り場によって、ほとんど売切れに近かったこの公演のチケットを購入したというのが真相。ちょっとほかに大阪に用があり、有給休暇を取れる算段だったという事情もあるが、第一の理由はもちろん、期近のこのホールでの公演を調べて、おっと思うような魅力的なコンサートが見つかったからである。つまり、私の敬愛するマエストロ大植英次が、かつて音楽監督を務め、現在では桂冠指揮者という地位にある大阪フィルハーモニー交響楽団 (通称「大フィル」) を振る。最近大植を東京で聴く機会がなかった (去年府中で東京交響楽団を指揮するなどの機会もあったが、聴けなかった) ので、これは本当に貴重な機会。しかも後述の通り、その曲目が特別なのである。
e0345320_00135719.jpg
さて、新フェスティバルホールの第 2回の経験だが、前回は 14時からのコンサートであったところ、今回は 19時開演。ホワイエは薄暗く、なかなかにシックな感じだ。その名も中之島という、川と川の間の中州に建っているホールであり、建物に何本も刻まれたスリットから外を見ると、川とオフィスビルの組み合わせも都会的。大阪という大都会ではあるが、いつも見慣れた東京のホールの雰囲気とはまた違っていて、なんだか楽しくなってくる。以前からの私の夢は、定年退職したら、欧米各地に加えて日本でも、各都市にあるホールでその土地のオーケストラを聴いて回りたいというもの。その意味では、ここ大阪でその練習をしていると言ってもよい (笑)。コーヒーを飲むためのテーブルには、ロウソク風の卓上照明があり、目を上げるとホワイエに設置された電球が星々のようで美しい。
e0345320_00001117.jpg
では、私としては久しぶりに聴くこととなったこのコンビの今回の曲目、一体いかなるものであったのか。
 ベートーヴェン : 交響曲第 7番イ長調作品 72
 オルフ : 世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」

うーん、これは凄い。熱狂的な力を持つ大植の音楽が、最初から最後までリズムに乗って躍動するのが聞こえるようだ。そもそも、超のつく名曲であって、普通はメインに置かれるベートーヴェン 7番を前座にするとはなんと大胆な。もちろん、過去にも例えばマタチッチの最後の NHK 交響楽団への登壇の際 (メインはブラームス 1番) とか、確かシノーポリとフィルハーモニア管の来日公演でも (メインは「英雄」) 例があったと記憶するが、いずれにせよ大変異例。メインの曲目によほど自信がないとできない選曲であろう。もちろんベートーヴェンはこのオケにとって、育ての親であった朝比奈隆が生涯真摯に向き合った重要なレパートリーのひとつであるが、既に時代は移り、あのような重厚な音でベートーヴェンを演奏することはもはやなくなってしまった。だが、実際に充実した音が鳴っている限りは、演奏スタイルなど些末なこと。とにかく説得力のある音楽を聴きたい。その点今回の大植の演奏は、このコンビの持ち味を充分出したものであったと言えると思う。冒頭の和音からして弦楽器の響き合いが美しく耳をとらえ、そしてとにかく、この曲に必要な推進力に重点が置かれて演奏が進んで行った。編成はコントラバス 6本で、ヴァイオリンの左右対抗配置を取るという、昨今のスタンダードというべきスタイルであり、過剰な情緒を排してテンポも堅実であった。だが、そこには常に前に進む意志が感じられ、第 1楽章・第 4楽章とも提示部の反復がなされなかったのは、昨今では珍しいくらいだが、それも音楽の推進力を維持するためだったと解釈したい。それから興味深かったのは、第 1楽章の後半、リズムに乗りながら音楽が熱して行く箇所で、大植が指揮棒を使わず、素手で指揮したことだ。そもそもこの人、演奏中に突然指揮棒が姿を消したりまた現れたりと、魔術的なことがよく起こるのであるが (笑)、きっとあの独特の上着の袖の部分に、指揮棒が収納できるスペースが設けてあるのだろう。いずれにせよ、通常なら、リズムが勝った箇所ではなく、歌をオケから引き出すべき箇所において、指揮棒を使わない指揮者が多い (例えば小澤征爾は、現在では全く指揮棒を使わなくなってしまったが、若い頃は、オケから歌を引き出す箇所では必ず素手で指揮していたものだ)。その意味では今回大植が素手で指揮した箇所は、若干異例であったと思うが、オケから出る音全体を、なんというか、より高みに引き上げたいという意図の現れであったのではないか。それとは対照的に、指揮棒なしで演奏したくなるような、それこそ歌が必要な箇所である第 2楽章冒頭など、中音域を担うヴィオラのよく練れた表情を、きっちりと指揮棒を持って引き出していた。全体を通して、ホルンなどに若干の課題がないではないと思ったが、冒頭の和音から終楽章のヴァイオリンの手に汗握る掛け合いまで、大植の強いリードが、現在の大フィルの、これはこれで大変充実したベートーヴェンを実現していたと思う。

そして後半、ドイツのカール・オルフ (1895 - 1982) の「カルミナ・ブラーナ」(1937年初演) であるが、これはまた本当に血沸き肉躍る傑作なのである。中世ラテン語の歌から作曲者が歌詞を集めてきており、大規模な混声合唱と児童合唱を縦横に駆使した作品なのであるが、そのいちばんの特徴は、執拗なリズムなのである。炸裂する大オーケストラと合唱の音響を彩るそのリズムは、一度聴いたら絶対に忘れないし、何か呪術的なものさえ持ち合わせる曲。私はリッカルド・ムーティが若い頃に録音した、これ以上ないほどキレのよい演奏でこの曲に親しんだのだが、そのジャケットが曲のイメージをよく伝えているので、ここに写真を掲げておく。
e0345320_01384130.jpg
このメインの大曲で大植は、ベートーヴェンでの配置と異なり、第 1ヴァイオリンと第 2ヴァイオリンを向かって左に並べ、指揮者の右側にはヴィオラが陣取った。このような劇的な曲は前半のベートーヴェン以上に大植のテンペラメントに合っていると私は思うし、実際、最初の「おお、運命の女神よ」から流れ出た音の奔流には、圧倒されるばかり。細部にまで目の届いた実に輝かしい名演で、ここでは大胆にテンポを落としたり少し煽ったりする箇所も聴かれて、明らかにベートーヴェンを演奏するスタイルとは異なっていた。そのような違ったスタイルを使い分けることができるのも、気心のあったオケであるからだろう。そして、大フィル専属の大阪フィルハーモニー合唱団も、この曲に必要な野性味を充分に発揮して素晴らしかったし、暗譜で歌った大阪すみよし少年少女合唱団も熱演。さらに加えて、3人のソリスト、すなわち、ソプラノの森 麻季、カウンターテナーの藤木 大地、バリトンの与那城 敬も、それぞれ達者で、楽しめた。特に森の変わらぬ高音の美声には拍手。ただ、髪はこの写真よりもはるかにキンキンで、まるで人形の金髪のようであったが (笑)。
e0345320_01474877.jpg
振り返ってみて、まさにリズムの饗宴という曲目ではあったものの、残ったイメージはむしろ、何か大きな山が動いたような充実感だ。オーケストラ音楽の場合、リズムはリズムだけで終わらず、つまりその場で飛び跳ねるのではなく、常に前に進んで行くパワーとなる。今回のこのコンビの演奏で、そのことに気づかされたような気がする。そしてもうひとつ。「カルミナ・ブラーナ」の歌詞には下品であったりエロティックであったり、あるいは自暴自棄や皮肉などの、人間的な感情があちこちに散りばめられている。なにせ歌詞が中世ラテン語という特殊言語だから、子供たちでも照れずに歌えるという面もあるかもしれない (笑)。だが私はこの曲がこの大きなホールで響いているのを聴いていて、個々の人々の人生の集合がここで響いているのだなぁと思うと、なんとも高揚した気分になったのである。大阪の街で、大阪の人たち (と、若干数 ? の訪問者たち) が音楽に耳を傾けることの意義。教養とか文化とかいう能書きはなくとも、その音楽を楽しむことはできるが、平和や一定の経済力がないとそうはいかない。だから、このような音楽を実際に体験できる我々は、本当に幸せなのである。そしてこのホールは、大阪の人々にそのような幸せを与える、貴重な場所なのだ。

この大フィル、今後も素晴らしい指揮者陣が登場する。これが会場に貼ってあったポスターだが、左から、5月に登場するウラディーミル・フェドセーエフ (チャイコフスキー 5番など)、6月の準・メルクル (「ペトルーシュカ」など)、7月のエリアフ・インバル (マーラー 6番!!)、そして、写真では暗くて見えないが、9月はユベール・スダーン (シューベルト) だ。錚々たる顔ぶれではないか。
e0345320_01575910.jpg
普段なかなか体験できない大フィルの定期演奏会を堪能したので、ちょっと味をしめて、また次回はどうしようなどと考え始めている私。首尾よく行けば、またこのブログでご紹介します。井上道義体制から尾高忠明体制への音楽監督移行も注視したい。

by yokohama7474 | 2017-04-25 23:29 | 音楽 (Live) | Comments(2)

e0345320_23292596.jpg
私はこのブログで映画を紹介するときには、かなりの頻度でその映画を予告編で見たときの印象を記している。それは、予告編にはその映画の興行成績にも直結しうる凝縮されたメッセージが入っているケースが多く、大げさに言えばその映画と対面するときの大事な「顔」であると思うからだ。そして、この映画の予告編を見たときに真っ先に私の頭が理解したことには、これは怪獣映画であるということだ。もちろん、誰もがすぐに理解する通り、キングコングの映画であるから、一般的には「モンスター映画」という呼称がふさわしいように思うが、なんのなんの、怪獣好きにはすぐに分かるこの「怪獣映画」の匂い (笑)。だからこの映画は私の中では、封切当初から見たい映画一覧表のかなり上位を占めることとなったのである。ところが、あろうことかこの数週間、結構忙しくて、なかなか映画を見る時間がない。ああ私はこのまま、仕事とか接待メシとか歓送迎会に時間を取られたまま、この映画を見る機会を逃してしまうのではないか・・・と神に罪を告白する思いで天を仰いでいたのであるが、ようやく先週末、なんとか朝の回に見に行くことができたのである。

さあ、そんなわけで、これが新たなる怪獣映画の傑作との出会いとなったことは、誠に喜ばしい。私の世代でキングコング映画と言えば、もちろん最初の作品 (1933) は RKO 製作映画のリヴァイヴァル特集上映で劇場で見ているものの、ジェシカ・ラングの出たジョン・ギラーミン監督作品 (1976) は劇場では見ていない一方、ナオミ・ワッツの出たピーター・ジャクソン監督作品 (2005) はもちろん見ている。あ、あと、米国のテレビアニメ物は、日本語の主題歌を今でもよく覚えている。だが東宝映画の「キングコング対ゴジラ」(1962) は、テレビでも見た記憶がない。でもこんなポスター、レトロでよいではないか。著作権の緩やかな大らかな時代の産物と思っていたが、今回調べて分かったことには、ちゃんと米国のプロダクションから東宝が権利を購入して制作したらしい。なるほど、題名においてゴジラよりもキングコングを先に出すことまで、契約で決まっていたのだろうか (笑)。まあ、こんな対決はもう二度と実現しないだろう。
e0345320_23135638.jpg
さて、21世紀のキングコングは、こんなに素朴ではない。第一今回の映画、予告編を裏切るキングコングの登場シーンがなんとも小気味よいのである。つまり、大抵の人は予告編でこのシーンを見て、岸壁に血で手形を残した巨大生物の存在におののく人間たち、しかしその正体は未だ現れず、不気味な謎に包まれている・・・と思うではないか。
e0345320_23201864.jpg
ところがそうではなくて、今回のコングは、かなり唐突にその姿を堂々と現すのだ。これからご覧になる方には、コングの初登場シーンにご注目、と言っておこう。いやー、楽しいなぁ。おっと、こんなに激しく牙をむかれては、その存在意義を誤解されてしまいます。
e0345320_23235929.jpg
そう、この映画においては、この凶暴極まりないコングが善玉なのか悪玉なのか、この点がかなり重要となってきて、これはいわゆるモンスター映画の常道でもあろう。だが上述の通り、これはただのモンスター映画ではなく、様々な怪獣たちが出て来る点にこそ重要性がある。そんな中でコングの位置づけも、それほどもったいつけることなくストレートに描かれることとなる。実に小気味よい。これがこの島に住む怪獣たちの例。
e0345320_23311816.jpg
e0345320_23313446.jpg
e0345320_23314891.jpg
e0345320_23320072.jpg
よく見ると最初に掲げたポスターに、これらの怪獣たちの姿があしらわれていて、だからこれが怪獣映画であることは、やはり最初から明らかなのであるが、少し難点を挙げると、これらの怪獣の出番がちょっと少なくはないだろうか。実際のところこの映画におけるコングの闘いは、最初は人間と、そして最後は宿敵スカル・クローラー (上に掲げた写真のうちのひとつ) と、ということに絞られるのだ。だが、それとても難点というほどでもない。なんと言ってもヘリコプターを縦横無尽につかんでは投げるシーンは凄まじい迫力だし、クライマックスのスカル・クローラーとの闘いにおいては、霊長類(?)たるコングが他の巨大生物と違う点は、道具を使うことができる点だと実感し、胸が熱くなるのである (笑)。そのシーンもやはり非常によくできていて、とにかくすごい迫力なのだが、実はその闘いは、2014年のハリウッド版「Godzilla ゴジラ」におけるゴジラとムートーの闘いを思わせる点もある。・・・ではゴジラとキングコングが闘ったら、何が起こるのだろう。いやいや、上述の通り、そんなことはもう起こらないのだが。

改めて思い返してみると、この映画では随所に冴えた演出のセンスが見られるのだが、端的な長所を挙げると、観客が登場人物たちをきっちり区別できるように作られていること。このブログでも過去に何度か、戦闘ものにおける一群の登場人物たちの区別が難しい作品を採り上げたが、その点この映画は本当によくできていて、多くの登場人物たちが探索や戦闘に加わっているにもかかわらず、主要な役は全員識別できるようにできている。これは稀有なことで、監督の手腕であると称賛しよう。そしてそんな中、このような豪華な顔ぶれが顔を突き合わせるのである。
e0345320_23471406.jpg
e0345320_23473050.jpg
そう、ジョン・グッドマンとサミュエル・L・ジャクソンだ。どんなに豪華な怪獣映画やねん (笑)。そして、実質的な主役はこの人、今最高にカッコよい、トム・ヒドルスマン。私は彼の演技を見て失望したことはない。
e0345320_23534068.jpg
そして、伝統的なキングコングもののヒロイン役を包含する (?) 逞しい女性カメラマンを演じるのは、ブリー・ラーソン。うーん、まあ正直それほどよい女優さんとも思わないが、未だ 27歳ながら、2015年の「ルーム」という映画で、なんとアカデミー主演女優賞に輝いているのだ。お見それしました。
e0345320_23593233.jpg
という大変充実したキャストをまとめた才人監督は誰かというと、なんと、インディーズ系出身でこれがメジャー長編デビューとなるジョーダン・ヴォート=ロバーツ。
e0345320_00085063.jpg
この特異な髭によって年齢不詳に見えるが、きっとまだ若いのだろう。芸術系の映画はもちろん好きだが、日本のアニメやゲームも大好きであるとのこと。さもありなん。またこの映画では、密林を舞台にしているということで、コッポラの「地獄の黙示録」へのオマージュを感じさせるシーンも多い。私の見るところ、この作品は正しい監督を得ることによって、素晴らしい成功作になったのだと思う。
e0345320_00102623.jpg
さて、これからこの映画をご覧になる方は、エンドタイトルが終わるまでちゃんと席にいなければならない。実際そこでは、私が上で書いたことが大嘘であることが判明するのである。嘘をついて失礼しました。実は、この映画のプログラムにも記載はあるし、ネット上にも様々な情報が溢れているので既にネタバレではないと確信して書くが、実は近い将来、キングコングはやはり、あのゴジラとの再決戦に臨むことになるのである!! 実はこの映画、「モンスターバース = Monster Verse」(Verse とは韻文とか詩作のこと) というシリーズの 2作目。1作目は、上でも触れた、ギャレス・エドワース監督の「Godzilla ゴジラ」なのである。そして、3作目は 2019年公開予定の "Godzilla ; King of Monsters"、4作目は 2020年公開予定の "Godzilla vs Kong" となる予定。このシリーズは、レジェンダリー・エンターテインメント社が東宝と提携して制作し、ワーナー・ブラザーズが配給しているらしい。なるほど、ゴジラは日本では「怪獣王」であったが、このシリーズでも他の怪獣をなぎ倒し、最後はキングコングと対決するわけか。それにしても、上の方で掲げた昔の東宝映画の題名では、キングコングの名が先に出ていたが、今回のハリウッド映画は、ゴジラの名が先に出るわけか。ゴジラの世界的名声も確立されたわけで、ご同慶の至りである (笑)。昨年日本で異常なほどヒットした「シン・ゴジラ」は、私の見るところでは、ハリウッド版ゴジラへのアンチテーゼであったわけだが、今後公開されるこれらのハリウッド映画に対して、日本側としても何か対抗策を取らなくてよいのだろうか。それとも、この Monster Verse シリーズには東宝も携わっているので、それでよしとするのだろうか。国際社会における日本の地位に影響するかもしれない大問題ではないか (笑)。でもこのコングの表情の多彩さは、さすがに恐竜タイプのゴジラでは出せないなぁ・・・。本当によくできている。いずれにせよ、対決を楽しみにしておりますよ。
e0345320_00301490.png
e0345320_00302931.png


by yokohama7474 | 2017-04-25 00:31 | 映画 | Comments(0)

e0345320_21175945.jpg
4月19日の記事で、米国の名指揮者アラン・ギルバートと東京都交響楽団 (通称「都響」) との意欲的な演奏をご紹介したが、このコンビが今回取り組んだもうひとつのプログラムは、東京では昨日、4月22 (土) に東京芸術劇場で行われた。あいにく私はそのとき、NHK ホールでファビオ・ルイージ指揮の NHK 交響楽団の演奏会を聴いていたので、聴くことができなかった。だが、物事やはり様々な可能性を試してみることが何よりも大事である。今回、同じ曲目でのコンサートが大阪で開かれると知って、では大阪まで行くしかないでしょうと、実に単純な決断をしたのである。会場は中之島にあるフェスティバルホール。この名称は、大阪国際フェスティバルという音楽祭の会場になることによっており、このフェスティバルでは、なんと言っても 1967年にバイロイト音楽祭の引っ越し公演が実現したことや、1970年の大阪万博の際には、カラヤンとベルリン・フィル、バーンスタインとニューヨーク・フィル、ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団などが登場し、そのことは、日本の西洋音楽史に燦然と輝く業績なのである。但し、これは本当の意味で欧米のいわゆる音楽祭のように、短い期間に集中的に世界的な音楽家が登場するという催しではなく、少なくとも現在では、数ヶ月のうちにいくつかの公演があるという形態であり、フェスティバルというよりも、個々の演奏会の内容で勝負している印象がある。実は今回のアラン・ギルバートと都響の演奏会も、フェスティバル提携公演という位置づけである。そうそう、書き忘れたが、このホールは、もともと大きい (2,700席) 割には音がよいと言われていたが、老朽化のために建て替えられ、現在のものは 2012年にオープンした新しいもの。私は以前のホールには何度か行ったことがあったが、新しく建て替えられてからは今回が初めてで、その興味も大きかったのである。これが現在フェスティバルホールの入っている中之島フェスティバルタワー。
e0345320_21445444.jpg
さて、現在ニューヨーク・フィルの音楽監督という、音楽界における世界トップの地位のひとつにいる指揮者アラン・ギルバートが採り上げた曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : 劇付随音楽「エグモント」序曲 作品84
 ラフマニノフ : パガニーニの主題による狂詩曲 作品43 (ピアノ : イノン・バルナタン)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調「英雄」作品55

なるほど、ドイツ古典派のベートーヴェンの名作 2曲 (当初発表では「エグモント」序曲は入っていなかったところ、追加されたらしい) の間に、ロシアロマン派のラフマニノフが挟まっているという構成だ。これは私の勝手な想像だが、この真ん中のラフマニノフは、ギルバートが、日本では未だになじみのない今回のソリストの本領を発揮させるレパートリーとして、あえて挟んだものではないのか。そう思った理由は後述する。

さて、最初の「エグモント」序曲だが、颯爽と駆け抜けるというよりも、かなり重心の低い音色による堂々たるベートーヴェンであったと思う。冒頭の長い和音から音楽はドクドクと息づき、不安や情熱を絡みつかせながら、悲劇的な様相を帯びて進んで行く。都響の弦は明らかにほかのパートをよく聴きながら、有機的に伸びていた。実に素晴らしい反応力。ギルバートほどの実績ある指揮者にも臆することなく (むしろオケを臆させない点こそがギルバートの持ち味と言ってもよいのかもしれない)、持てる力をフルに音楽に乗せたという印象。コントラバス 6本 (これはメインの「エロイカ」でも同じ) で、今日のベートーヴェン演奏の基準というべき通常の規模であったが、ヴァイオリンの対抗配置は取らず、ヴィブラートも過剰にならない程度にはかかっていて、昔風という言うと当たっていないだろうが、古楽の影響を過度に受けた教条的な演奏とは全く異なる、活きたベートーヴェンであった。

そして、2曲目のラフマニノフを弾いたソリストは、イスラエルのピアニスト、イノン・バルナタン。1979年生まれというから、今年 38歳。既に、若手というより中堅というべき年齢である。
e0345320_22335088.jpg
経歴を見ても、○○コンクール優勝という説明がない。実際、最近の若手や中堅の演奏家は、コンクール歴がなくとも素晴らしく個性的な人が多くいるので、特に驚かない、というよりも、コンクール歴なしで世界で活躍しているとするなら、むしろその才能が本物である証拠ではないかと思いたくなる。実際彼は、ギルバートが音楽監督を務めるニューヨーク・フィルの初代アーティスト・イン・アソシエーション (日本語にするとつまり、ともに音楽を作り上げるパートナーとしての音楽家ということか) に指名されているという。ニューヨーク・フィル以外にも米国の名門オケの数々と共演していて、ヨーロッパにも活動を広げているようだ。実は都響にも過去に一度出演していて、それは、2016年 1月、やはりギルバートの指揮で、曲はベートーヴェンの 3番のコンチェルトであった。そのときのメインはやはりベートーヴェンの 7番で、うーん、そんなコンサートに私はなぜ行かなかったのかと思って調べてみると、山田和樹指揮日本フィルのマーラー・ツィクルスの第 4番と重なっていたのであった。それはそれでやむなかったのであるが、それにしても今回聴けてよかった。彼は、ちょっとないような素晴らしく個性的なピアノを弾く音楽家であることが分かったからだ。きっとその実力を知るギルバートが、前回のベートーヴェンとは異なるレパートリーで日本に再度紹介したかったのではないか。大変小柄な人なのであるが、その音楽の自由闊達なことは無類。そもそもこのラフマニノフの曲は、狂詩曲 (そう、このブログの題名と同じ、「ラプソディ」です!!) というだけあって音楽は勝手気ままに流れ、途中に誰もが知る超絶的に美しい抒情的な箇所 (第 18変奏) がある以外は、ピアノがのべつ好き勝手に飛び跳ねているような曲。もちろん、パガニーニが使用し、ラフマニノフ自身も様々な作品で引用したグレゴリオ聖歌の「怒りの日」(死者を弔う音楽の一節) をテーマとしている以上、そこに終末的な思想があるわけだが、むしろ死をあざけ嗤うような曲なのである。だがこの音楽は正直なところ、すべての小節が心に響いてくることにはならず、実演では結構退屈するようなこともある。それなのに、今回のバルナタンの演奏は実に見事で、聴いていて飽きることがない。もしこのような音楽を奏でるピアニストをほかに探すとすると、クラシックのピアニストではなく、例えばキース・ジャレットではないか。都会的な美音でありながら、そこに安住せず、常に自由さを忘れずに飛翔する。そのようなイメージである。もちろんそのピアノの質の高さによって、有名な第 18変奏では、ギルバートが唸りながら引き出した弦楽合奏の美しさがより一層増したことは言うまでもない。素晴らしい演奏であり、聴衆の拍手はなかなか鳴りやまなかったが、アンコールは演奏されずに休憩に入った。

そしてメインの「エロイカ」も、冒頭の「エグモント」と同様、実に堂々たるベートーヴェンで、もしかするとギルバート自身が新たな次元に入っているのではないかと思わせるような充実感を感じることとなった。ここでも都響の弦はいつもの芯のあるずっしりしたもので、もともとベートーヴェンへの適性はあると思うが、その音を充分に引き出した指揮者の手腕もさすがのものである。解釈において奇をてらったところは皆無であり、まさに正攻法。やはりよい音楽は、このようなストレートな表現によって活きるのだということを改めて実感した。終演後、既に聴衆たちの退場が始まっているときに、客席から「コントラバス、本当にうまかったぞ!!」と大きな声を舞台にかけた男性がいて、ちょっとびっくりではあったが (笑)、いやいや実にその通り。コントラバスが安定していたからこそ、弦全体のうねりが生まれたものと思う。

都響の大阪公演はさほど頻繁に行われているとは思えないが、この 2,700席のホールがきっしり満員。今後も、例えば音楽監督の大野和士とも大阪公演を行ってみてはいかがか (先日名古屋公演は行っていることでもあり)。私が今回聴いたのは 1階席のかなり前の方であったが、その音響は大変満足のできるものであり、大阪のホールとして、あの素晴らしいザ・シンフォニーホール (収容人数 1,700人) を忘れることはできないが、このフェスティバルホールでも充分素晴らしい音楽体験ができることを理解した。私の場合は、東京の音楽活動だけで既に手一杯状態ではあるものの、極力時間を作って、ほかの都市でも頑張って音楽を聴きたいものだ。さて、次のフェスティバルホール体験はいつになるだろうか・・・。
e0345320_23125827.jpg

by yokohama7474 | 2017-04-23 23:14 | 音楽 (Live) | Comments(0)

e0345320_20081861.jpg
イタリアの名指揮者、ファビオ・ルイージ指揮による今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期演奏会の 2つ目のプログラム。今回の曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 1番ハ長調作品 15 (ピアノ : ベアトリーチェ・ラナ)
 ブラームス : 交響曲第 4番ホ短調作品 98

なるほど、今回は王道のドイツ音楽一本で勝負するルイージである。但し、4月16日にご紹介した前回のルイージと N 響の演奏会も、実はすべての演目がドイツ・オーストリアの曲目であったのである。なるほどなるほど。今回彼が採り上げた 2つのプログラムは、すべてドイツ・オーストリア系。これまでのキャリアでドイツ語圏のシュターツカペレ・ドレスデンやウィーン交響楽団を率いてきたルイージと、元来ドイツ物をバリバリ弾くという持ち味で勝負して来た N 響。これは面白いことになりそうだ。

まず 1曲目、ベートーヴェンの 1番のピアノ・コンチェルトを弾いたのは、イタリアの若手女流、弱冠 24歳のベアトリーチェ・ラナ。N 響には初登場だ。
e0345320_22403332.jpg
日本のオケには様々なソリストが登場して、大家もいれば中堅もおり、若手もいる。このような機会に新たな演奏家と出会うことは、コンサート愛好者の特権なのである。さしずめ今回のラナなどは、そのような特権を感じさせてくれる素晴らしいピアニストであったと言えると思う。彼女の経歴を見てみると、2011年、18歳でモントリオール国際コンクールで優勝、2013年にはヴァン・クライバーン国際コンクールで 2位ということで、これはこれで素晴らしいのだが、どのようなピアニストであるのかは、実際に聴いてみないと分からない。そして、実際に聴いてみて分かったことには、非常にクリアな音で鍵盤を駆け抜ける素晴らしいピアニストだということだったのである。このベートーヴェンのコンチェルトは、本当に溌剌とした元気の出る曲であり、それをこのように演奏してもらえれば、聴き手としてはまず第一に、曲の素晴らしさを感じることができるわけで、それこそが音楽の醍醐味なのだと思う。第 2楽章で彼女のピアノは、まるでバッハを弾くかのような透明感をもって、感傷的になることなく、だが大変に美しくて平穏な世界を紡ぎ出した。この楽章の終盤に出てくるクラリネットとの絡みも実に見事で、本当にいい音楽なのだと実感したのである。いつも私がこのブログで主張していることは、演奏家が若いか年寄りかは、音楽を聴く上では重要な要素ではなく、それぞれの演奏家はそれぞれのキャリアがあるのであって、若い時にピークを迎える人もいれば、老年に至って真価を発揮する人もいる。さらに言えば、何をもってその演奏家のキャリアのピークであるかは、誰にも分からないのである。その意味で今回のラナは、今の彼女の持てる力を巧まずして発揮することで、ベートーヴェンの若書きの音楽の素晴らしさを表現したと言えると思うし、彼女の音楽がまた今後変わって行くことがあるにせよ、今の彼女の音楽は充分に魅力的だということだ。そして彼女が演奏したアンコールは、ドビュッシーの「ピアノのために」の第 1曲。うーん、ベートーヴェンの後にドビュッシーを弾ける感性は素晴らしいと思うし、実際、常に輝きを保ちながら鍵盤を縦横に駆け巡った彼女には、聴衆が聴き惚れるものがあった。因みに、以前誰かが書いていたが、ドビュッシーは「ピアノのために」という曲をフォルテで始めているのである (笑)。ラナの溌剌とした演奏を聴くと、そんなこともどうでもよくなって来るのである。

そして後半、天下の名曲ブラームス 4番。これは事前の予想通り、ルイージらしいタメの効いた演奏。冒頭の滴り落ちるような音型は、うぅーんっとカーブを描いて絞り出されたが、そこはさすが N 響。ルイージの要求によく応え、音楽的情景の移り変わりを実に充実した音で描き出していた。弦楽器が重層的で深い音色を出していたのは当然で、また木管奏者のそれぞれが、実によい音で鳴っていたのである。だがルイージの音楽は、昔のドイツの巨匠のような重い音にはならず、第 2楽章で深々と歌う箇所でも、推進力のあるキレのよい音で一貫していた。終楽章ではオーボエが入りを間違えるハプニングもあったものの、その後見事に挽回。寂しげなフルートも実に表情豊かで、終演後に指揮者が真っ先に立たせたのも納得できよう。なるほどこれが、イタリアの魂を持ったドイツ音楽なのである。美しくも爆発力のある音楽は、まさにルイージの明確な個性であると思う。ルイージと N 響には今後も長い共同作業を続けてもらい、日本において新時代のクラシック音楽の水準を打ち立ててもらいたい。先頃発表された N 響の来シーズン (今年 9月から) の定期演奏会の指揮者陣にはルイージの名前はないが、またその次のシーズンを心待ちにしている。この写真は、上に掲げた今回のプログラムで使われたルイージの写真。眠そうに見えないこともないが、大丈夫。ひとたび指揮を始めると、マジカルな手腕が発揮されるのである (笑)。
e0345320_23181258.jpg

by yokohama7474 | 2017-04-22 23:22 | 音楽 (Live) | Comments(0)

e0345320_09544998.jpg
テオドール・シャセリオー (1819 - 1856)。見覚えのある名前であり、どこかの美術館で作品に触れているはずだが、明確には思い出せない。確か昔、大学で文学部の講義を選択して、フランスのロマン主義と新古典主義から印象派に至る流れを一通り学んだ際にも、その名が出て来たような気がする。このポスターに使われている女性の肖像画を見ると、描き方自体には古典的な要素を持ちながらも、どこかに憧憬をたたえたその女性の表情には、型通りの写実を超えた、どこかなじみがあるようなないような、不思議な感覚を覚える。いずれにせよ、一般にはほとんど知られていない、37歳で夭折したこの画家の初めての展覧会が、上野の西洋美術館で開催中である。なかなかに貴重な機会と思い、ちょっと覗いてみた。

シャセリオーは、カリブ海のイスパニョーラ島 (現在は2/3がドミニカ共和国に、1/3がハイチに所属) で、フランス人の父と現地生まれの入植者 (いわゆるクレオール) の母の間に生まれた。現代の、しかも極東の島国に住む我々にとってはこのあたりは感覚的にちょっと分かりにくいが、当時ヨーロッパ列強諸国はいずれも植民地を持ち、自国から遠く離れた中南米にも、多くのヨーロッパ人たちが進出していたわけである。ドミニカも、スペインとフランスが取り合いをしていたようであり、複雑な歴史を持つ。シャセリオーの父も、もともとはナポレオンが送った (そ、そうなんだ!!) イスパニョーラ島への遠征軍に参加して現地に住みついたらしく、その後パナマやコロンビア独立のために奔走し、投獄されたこともあるという、行動の人であった。シャセリオーが 2歳のときに一家はパリに移住する。そこで絵の勉強を始めたシャセリオーは、11歳のときに、当時新古典主義の大家であったドミニク・アングルの弟子となることを認められた。早熟の天才であったわけだ。これは、1835年、16歳のときの自画像。彼は決して美男ではなかったという記録があるようだが、ここで見る若い男性は、確かに美形ではないものの、神経質さを感じさせる一方で、何か自分の中に存在する芸術への思いを冷静に見つめているようである。なるほど、早熟の天才である。
e0345320_10185057.jpg
これは、「16世紀スペイン女性の肖像の模写」。制作年は 1834 - 50年頃となっているので、正確なところは分からないのであろう。これが誰の姿で、誰の作品の模写であろうと、垂れ下がった首飾りをぐっとつかんだ左手が異様に逞しく、見る者をどきっとさせる点において、極めてユニークな作品と言えるのではないだろうか。
e0345320_11014334.jpg
これは、1837-38年頃の「黒人男性像の習作」。これは、師であるアングルが「キリストの誘惑」という作品を描こうとして、そこに登場するサタンの習作を描くようにシャセリオーに指示が出たことによって制作されたもので、現在でもアングル美術館所蔵になる。私が面白いと思うのは、この白々しいまでに青い空だ。黒い肌で描かれた堕天使の背景としては、なかなかのセンスではないか。右下に描かれた、握ったり開いたりする手も、表情があって面白い。
e0345320_11480671.jpg
アングルからシャセリオーに出された指示も展示されているが、こちらの方は平板な表情になっているので、10代にしてシャセリオーが、師の指示を超えるような想像力に富んだ制作を行っていたことの証明になるのではないだろうか。
e0345320_11551127.jpg
これは「アクタイオンに驚くディアナ」(1840年)。未だ 20歳そこそこだが、世間ではアングルの後継者と目されていたところ、本人は師と袂を別つ決意をし始めていたらしい。そのせいか、この作品はこの年のサロンに落選し、酷評を受けたという。芸術家の歩む道のりは、もちろん本人の意志次第でありながらも、時として運命的な要素に左右される。早熟であったシャセリオーが選んだ道は、歴史的な評価という点では必ずしも最善の策ではなかったのかもしれないが、だがそれゆえに、150年以上を経ても人々に訴える力を持つのかもしれない。この作品を見て私が連想するのは、英国で活躍したスイス人画家、フュースリ (「夢魔」で有名) である。また、右の後ろの方で女性が 2人並んでいるところなど、シュールなまでの不思議な雰囲気である。極めてユニークではないか。
e0345320_11561579.jpg
これも同じ 1840年の「石碑にすがって泣く娘 (思い出)」。後ろの木が、女性の哀しみに同調するように身をよじっている。このタッチは、もうダリに近いとすら言えるようなシュールなものだと思うのは、私だけであろうか。
e0345320_12053399.jpg
彼はその後イタリアへ旅をし、帰国した 1841年、パリのサン・メリ聖堂の礼拝堂の注文を得る。これはその習作、水彩で描かれた「エジプトの聖マリアの生涯」(1841 - 43年)。英国のラファエロ前派を予感させるようなタッチではないか。
e0345320_12073328.jpg
当時ギリシャ神話はポピュラーな題材であったが、シャセリオーは、いわゆる文学性を伴う絵画表現に傾くことで、新古典主義からロマン主義に鞍替えしたとされる。私は以前から、この 2派が、当時区別されたようには明確な差があるとはとても思えず、画家のメンタリティには通底する部分があると思っているのだが、この 1845年に描かれた「アポロンとダフネ」を見ると、ロマン主義を超えてむしろ象徴主義に近づいていると思う。
e0345320_12112728.jpg
それを証明するかのように、展覧会には象徴主義の代表選手であるギュスタヴ・モロー (1826 - 98) の同じ主題の作品が展示されている。これは制作年は不詳とのことだが、モローは、7歳上のシャセリオーから大いなる影響を受けたという。
e0345320_12143141.jpg
シャセリオーの文学趣味のひとつの表れとして、シェイクスピアの「オセロ」の版画の連作が挙げられる。1844年の初版はごく少数しか刷られなかったが、ロマン主義の大家であるドラクロワはそれを所持していたという。これは、「もし私があなたより先に死んだら・・・」。言うまでもなく、デズデモナとその侍女であろう。
e0345320_12203976.jpg
そしてこれは、「気絶したマゼッパを見つけるコサックの娘」(1851年)。マゼッパと言えば、バイロンが詩にしており、また音楽の分野ではリストやチャイコフスキーが題材にしていて、典型的なロマン派のテーマである。主人公マゼッパは、有力者の妻と不倫を犯し、馬の背中に縛り付けられて荒野に放たれるというワイルドな物語である。ここには異国趣味も色濃く出ていて、それもロマン派の典型例なのである。
e0345320_00161019.jpg
さらに、文学的でロマン派的な作品の好例がある。「マクベスと3人の美女」(1855年)。言うまでもなくシェイクスピアに題材を採っている。いわゆる器用な作品という感じはあまりせず、文学に表れた人間的な要素をキャンバスに描き出すことが画家の意図であるように思われる。
e0345320_00220143.jpg
次は「泉のほとりで眠るニンフ」(1850年)。泉と言えば、師のアングルの作品が有名だが、ここで横たわる美女の描き方は、アングルのそれとは全く違う。挑発するようにあけっぴろげになっている脇の下に毛が描かれているという事柄だけでも、師の新古典主義とは大きく異なるシャセリオーの感性が分かろうというものだ。この作品のモデルは、当代一の美女と謳われた女優のアリス・オジーという人らしく、文豪のヴィクトル・ユゴーは彼女に入れ込んで、あろうことか、彼女を巡って息子と争ったという。全くフランス人は・・・(笑)。
e0345320_00250077.jpg
シャセリオーの画業はこのような神話を題材にした作品だけでなく、同時代の人々の肖像画にも見るべきものがある。これは「アレクシ・ド・トクヴィル」(1850年)。由緒ある貴族の家に生まれたこのトクヴィルは、政治家であり法学者であって、シャセリオーと家族ぐるみのつきあいをしていたという。若干神経質なようでいて、だが同時に意志の強そうな表情が印象に残る。
e0345320_00315619.jpg
余談だが、この展覧会の会場には、高山裕二という人が書いた「トクヴィルの憂鬱」という本を売っていて、面白そうなので買ってしまった。トクヴィルを例に取って、19世紀フランスロマン主義の青年論について語った本である。
e0345320_00404664.jpg
肖像画の名品をもう一点。展覧会のポスターにもなっている「カバリュス嬢の肖像」(1848年)。モデルとなったマリー=テレーズ・カバリュスは、名門の家に生まれ、当時のパリで最も美しい女性の一人に数えられたとのこと。当時 23歳。知的でありながら人間味あふれる肖像画ではないか。
e0345320_00410518.jpg
19世紀のフランスの画家にとってはオリエント世界はエキゾチズム溢れる場所であったが、ロマン主義の泰斗であるドラクロワがモロッコ旅行で色彩に目覚めたことはよく知られている。シャセリオーもアルジェリアに滞在して、かの地の光のもとで様々なスケッチを残している。これは「バブーシュ (室内履き) の 6つの習作」(1846年頃)。溢れる好奇心でスケッチしている画家の姿が目に浮かぶ。
e0345320_00450640.jpg
これも同じ頃の「床に座るアルジェのユダヤ人女性」。油彩画よりもなだらかなタッチで描かれた水彩画で、完全に色を塗り切らない点にゆとりが見られて面白い。
e0345320_00471740.jpg
さて、シャセリオーが手掛けた畢生の大作は、1842年に完成した会計検査院の壁画である。このような立派な建物であったらしい。
e0345320_00505049.jpg
シャセリオーが描いたのは総面積 270平米の壁大小 15面で、「戦争」「平和」を中心的テーマとしており、描かれた人物は 230人以上。当時のフランスにおいて、独力で描かれた壁画としては最大のものであったらしい。これが当時描かれた版画。
e0345320_00524522.jpg
だが残念なことに、この壁画は1871年のパリ・コミューンの騒乱 (普仏戦争敗北後に勃発した市民の蜂起) の際に建物ごと焼かれてしまい、今では断片がルーヴル美術館に残るのみらしい。これが焼かれてしまった壁画の様子。
e0345320_00555954.jpg
なんとももったいない話だが、歴史の歯車が大きく動いた時代。貴重な絵画の犠牲もやむないことであったのかもしれない。この展覧会では、スケッチや古い写真でその壁画を偲ぶことができる。これは「母親と老人の間に立つ『平和』」と、「戦支度を調えさせる『秩序』」。
e0345320_01011330.jpg
e0345320_01035515.jpg
これは、焼かれた後に撮られた写真で、「力と秩序」。
e0345320_01044625.jpg
フランス 19世紀の壁画と言えば、もちろんピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ (1824 - 1898) が有名で、私も 2年前にパリの記事を書いた際に言及したが、そのピュヴィス・ド・シャヴァンヌは、5歳上のシャセリオーから大きな影響を受けたという。上記の通りの、モローへの影響と並んでピュヴィス・ド・シャヴァンヌへの影響こそが、シャセリオーの短い人生の軌跡を永遠のものにしているのではないだろうか。展覧会にはまた、彼が晩年に手掛けた、パリのサン = ロック教会というところの壁画の習作も展示されている。これは「インド人に洗礼を施す聖ザビエル」(1852 - 53年)。初期から変わらぬ鮮やかな青が印象的だ。
e0345320_01202577.jpg
そしてシャセリオーは、1856年、37歳の若さで亡くなってしまう。展覧会の図録を見ても、その死因については「正確な病名は知られていない」とある。もともと虚弱な体質であったらしい。死後の見舞客の署名には、モローやピュヴィス・ド・シャヴァンヌも含まれているという。いかなる天才も死は免れないが、150年以上経ってから、このように遠い日本の地で展覧会が開かれていることを知ると、本人もさぞや驚くであろう。短い人生でスタイルを変えて自己の芸術を探求したその姿から、時代の雰囲気を色濃く感じることができて、大変興味深い展覧会であった。

by yokohama7474 | 2017-04-22 01:31 | 美術・旅行 | Comments(4)

e0345320_23180239.jpg
世界に冠たる名門オーケストラ、ニューヨーク・フィルの音楽監督。それが今日の指揮者が現在持つタイトルである。米国では文句なしにナンバーワンの輝かしい栄光の歴史を誇り、設立もあのウィーン・フィルと同じという古さを持つニューヨーク・フィルの音楽監督ともなれば、それはそのままで世界超一流を意味する。その指揮者の名前はアラン・ギルバート。ともにニューヨーク・フィルの楽員であった米国人の父と日本人の母の間に生まれた 50歳。今まさに脂の乗り切った世代であるわけだが、2017-18年のシーズンでニューヨーク・フィルのポストを降りることが決定しており、その後の去就が注目されるところ。そんな中、昨年に続き今年も来日して、東京都交響楽団 (通称「都響」) の指揮台に立つ。このブログでも、昨年 1月26日と 7月25日の同じコンビによる演奏をご紹介したが、今回は 2種類のプログラムによる 4回の演奏会 (うち 1回は大阪でのもの) が実現する。私が敬愛するギルバートと都響の組み合わせは、実のところこれまでは、課題もちらほら感じるような出来が多かったと個人的には思っているが、とにかく共演を重ねることで、関係を練り上げてもらい、東京の音楽界に大いなる刺激を与えてもらいたい。その意味で今回の演奏は、何かこのコンビとしても大きな飛躍のきっかけとなるようなものだったと言えるのではないか。
e0345320_23400737.jpg
曲目は以下の通り。
 ラヴェル : バレエ音楽「マ・メール・ロワ」全曲
 ジョン・アダムズ : シェエラザード .2 - ヴァイオリンと管弦楽のための劇的交響曲 (ヴァイオリン : リーラ・ジョセフォウィッツ、日本初演)

なるほど、前半には 20世紀前半を代表する精緻を極めるフランス音楽、メインには現代を代表する米国作曲家の近年の大作という、かなり意欲的なプログラムである。まず前半の「マ・メール・ロワ」は、マザー・グースを題材にしたメルヘン物で、まさにラヴェルならではの繊細でキラキラしたオーケストレーションを聴くべき曲。冒頭の木管のハーモニーにごく僅かなずれを感じたが、その後音色は修正されて、スムーズな進行のうちに 30分の演奏を終えた。もともと都響の弦楽器は、このブログでも再三述べているように、何か芯が入ったような重量感のある音が鳴り、得意のマーラー等の後期ロマン派ではその音色が最大限生きるのであるが、この「マ・メール・ロワ」の終曲の最後の和音の響きには、そのずっしりとした音が中空にすぅっと伸びて行くような感覚があり、これはこれで実に後味のよい演奏であった。都響がマーラーの響きのみに偏っているという気は毛頭なく、当然ながら、フランス音楽にも柔軟性を持って対処できる優れたオケであることを再確認できて、大変有意義であった。さて今回私は、舞台を見渡せる席に座ったのであるが、チェレスタの横に、もう少し小型のやはり鍵盤楽器があるのに気が付いた。終曲のキラキラした響きの中に、奏者がこの楽器を懸命に叩いている音が含まれていることを知ったが、これは一体何という楽器だろう。プログラムを見て分かった答えは、ジュ・ドゥ・タンブル。
e0345320_23571690.jpg
これは鍵盤の形態を取ったグロッケンシュピール (いわゆる鉄琴ですな) であるそうな。珍しい楽器なので、通常のグロッケンシュピールで代用することも多いようだが、今回はオリジナル通りの編成での演奏であったわけだ。指揮者のこだわりが分かる。

さて、今回のメインは一風変わった曲。上記のポスターにもある通り、「世界各地で話題の新作、待望の日本初演」なのである。また、これは会場で撮影した別のポスター。現在短髪にしているギルバートの姿と、後ろには東京オペラシティのオープン 20周年のシールも見えて、将来見返したら貴重な写真になりそうだが (笑)、ここにも、「世界中で初演ラッシュ! 待望の日本初演」とある。
e0345320_00035350.jpg
作曲者のジョン・アダムズ (1947 - ) は、このブログでも何度かは名前に触れたが、一般的にはミニマル音楽に分類されることが多い米国の作曲家。だが最近の作品はいわゆるミニマルの範疇には入らない語法の作品を書いていて、これもそのひとつ。もちろん、ミニマル風な要素が皆無というわけではなく、例えば、寄せては返す音の波のような劇的な箇所が多く聴かれるのは、その名残りではないだろうか。いずれにせよ、私にとっては大変になじみ深く、興味を惹かれる作曲家なのである。だがその私も、この作品が「世界で初演ラッシュ」とは知らなかった (笑)。どんな作品なのだろう。これがジョン・アダムズの肖像。
e0345320_00122288.jpg
題名の「シェエラザード」はもちろん、ロシアのニコライ・リムスキー=コルサコフの手になる絢爛豪華な交響組曲が有名だが、そう言えばほかに、ラヴェルの歌曲もある。題材はアラビアン・ナイトで、荒れ狂う王を前にして面白い話を毎晩語り続けたことで命をつないだ賢い王妃、シェエラザードの物語。今回のアダムズの作品は、作曲者自身の発音によれば、「シェラザード・ドット・ツー」ということになるらしい。この作品では、アラブの男性社会で虐げられている女性の姿をシェエラザードになぞらえているとのこと。なるほど、社会派の顔も持つアダムズらしい発想だ。2015年 3月に、今回のソリスト、リーラ・ジョセフォウィッツとアラン・ギルバート指揮ニューヨーク・フィルによって世界初演されたこの曲は、実質的なヴァイオリン協奏曲で、全 4楽章、演奏時間 50分に達する大作だ。これが、近現代のレパートリーを得意とするカナダのヴァイオリニスト、ジョセフォウィッツ。2015年 9月25日の記事で、オリヴァー・ナッセンが指揮するやはり都響との共演を採り上げた。
e0345320_00205633.jpg
この曲の印象は、上記の通り、寄せては返す波のようで、静かで瞑想的な部分と、激しく高揚する部分とが交互に現れる。初めて聴く人にも耳になじみやすい曲だとは思うが、R=コルサコフの「シェエラザード」のように、女主人公を表す独奏ヴァイオリンが時々入るのではなく、最初から最後まで、ほぼのべつまくなしに近い状況で演奏し続けるのだから大変だ。ジョセフォウィッツは、その大変なヴァイオリンソロを全曲暗譜で弾き通し、場面場面で曲想に応じて、時にのびやかにまた時に激しく、全身で音楽を表現し尽くした。オケの音に自らの体を投げ込むような仕草で挑んで行く姿は、あたかも野生動物のようで、彼女のこれまでの音楽家人生の集大成ではないかとすら思われた。これは推測だが、初演者として、きっと作曲過程にも深く関与したのではないか。そうだとすると、それほど演奏家冥利に尽きることもないだろう。つまり今回我々は、米国を代表する作曲家の力強い新作を、その初演者たちによる渾身の演奏で聴くことができたわけである。いわば芸術音楽の世界における最前線を体験できたわけだ。これは、モーツァルトやベートーヴェンやブルックナーやマーラーの名演を体験すること以上に、現代を生きる我々にとっての社会的な意味を感じさせる体験だ。もちろん都響も集中力のある熱演で、指揮者とヴァイオリニストに応えたのであり、そのことも大変素晴らしいことだと思う。尚ジョセフォウィッツは既にこの曲を、デイヴィッド・ロバートソン指揮のセント・ルイス交響楽団と録音している。
e0345320_00294977.jpg
さて、最後にこの曲の楽器編成について少し書いておこう。ヴァイオリンと並んでソロとしてフルに活躍するのは、ハンガリーでよく使われる楽器、ツィンバロン。ハンマーで弦を叩く構造で、いわばピアノの元祖だが、独特の郷愁を感じさせる音が鳴る。クラシックのレパートリーでは、コダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」が有名である。
e0345320_00392819.jpg
今回は生頼 (おうらい) まゆみというマリンバとツィンバロンの専門奏者が演奏した。いやーお疲れ様でした。
e0345320_00423317.jpg
その他、興味深い奏法もいくつかあって、例えば、グロッケンシュピールの横の部分を弦楽器の弓ですーっと擦る奏法。だがこれは実際には時々見る。それよりも珍しかったのは、一人の奏者がドラの表と裏を同時に叩くというもの。これはちょっと見たことないですねぇ (笑)。それから、楽器としては、大小様々なドラ (?) を沢山吊るしたものが大変面白かった。あれだけ巨大な楽器は、運搬も演奏も大変だろう (昔見た、中国古代の「曽侯乙墓」から出土した巨大な鐘を沢山吊るした楽器を思い出してしまった)。かと思うと実はこの曲、ティンパニは使っていないのだ。通常ティンパニに委ねられる、いざというときに音楽のベースとなるべきリズムは、弦楽器が激しく刻むことで表現されていたということか。ところで客席で、日本の作曲界の大御所を 2人発見。一人は一柳慧で、もう一人は池辺晋一郎だ。いずれの作曲家の作品も、このブログで紹介したことがあるが、彼らはこのアダムズの作品をどのように聴いたのだろうか。実は、休憩時間のあと (アダムズの作品の演奏前)、前者が後者に何やら話しかけているのが見えた。芸術音楽と現代社会の厳しい切り結び方についての議論であったのか、はたまた、ただの世間話であったのかは、知る由もない (笑)。

このような、様々な刺激に満ちた演奏会であった。ギルバートと都響の演奏が、これを機会に一層の深まりを見せてくれることを祈りたい。このコンビが演奏するもうひとつのプログラムは、これは名曲中の名曲、ベートーヴェンの「英雄」をメインに据えたもの。そちらにもなんとか出かけたいものだと考えているが・・・。果たせるか否か、乞うご期待。

by yokohama7474 | 2017-04-19 00:56 | 音楽 (Live) | Comments(0)

e0345320_20081861.jpg
今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の指揮台に立つのは、イタリアの名指揮者、ファビオ・ルイージ。1959年生まれなので、今年 58歳という、指揮者として最も脂の乗る世代。このブログでも、毎年夏に開かれるセイジ・オザワ松本フェスティバルの記事で一昨年、昨年と、マーラーの演奏などをご紹介している。ルイージはまさに世界の第一線での活躍を続ける素晴らしい指揮者なのであるが、N 響とも 2001年の初共演以来何度も顔を合わせている。今月も 2つのプログラムでこのオケの定期に登場するが、まずその 1つめの今回の演奏会、曲目は以下の通り。
 アイネム : カプリッチョ 作品 2
 メンデルスゾーン : ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品 64 (ヴァイオリン : ニコライ・ズナイダー)
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」

さて、ルイージについて語りたいのをぐっと抑えて、まずはソリストのズナイダーから話を始めたいと思う。1975年デンマーク生まれ。だが、今回初めて知ったことには、両親はポーランド人なのだそうだ。国際的なコンクール歴としては、1997年、エリーザベト王妃コンクールに優勝している。だが、もうそんなことはどうでもよい。経歴が何であれ、彼こそ、今世界で最も傾聴すべき素晴らしいヴァイオリニストであるからだ。
e0345320_20361124.jpg
以前このブログでも、ギリシャのレオニダス・カヴァコスと並んでこのズナイダーを、現代の最も優れたヴァイオリニストとして挙げたことがあるが、今回久しぶりに実演に触れて、そのことを再認識した。今回彼が演奏したメンデルスゾーンのコンチェルトは、演奏によってはなんとも甘ったるい調子となってしまうのだが、冒頭のズナイダーの節回しは、つっけんどんにすら聞こえるほどそっけないもの。だが、よく耳を澄ませると、昔の巨匠たち、例えばハイフェッツやオイストラフをすら思わせるような、素晴らしく艶やかな美音なのである!! つまり、その音は文句なく美しいのだが、聴き手に媚びることが全くないので、その表面上の美しさではなく、音楽そのものの純粋な力だけが、巧まずして聴き手に迫ってくると言えばよいだろうか。だから私はこの演奏を聴いているうちに、ヴァイオリン協奏曲というよりは、メンデルスゾーンの無垢な魂が歌として響いているような気がしてきて、危うく涙すら浮かべそうになってしまった。この曲でこのような経験は少ない。彼はかなりの長身であり、ヴァイオリンを弾く姿には余裕すら漂っているが、当然ながら大変な研鑽を積んでこの境地に達したのであろう。演奏家における天才とは、練習せずに音をうまく弾ける人のことを言うのではない。血の出るような努力をして、自分の持てる表現力を誰にでも分かるかたちで音にできるようになった人、それを天才というのである。このズナイダーは、まさにそのような天才であり、曲の個々の部分の音色がどうの音程がどうのテンポがどうの、ということは気にならない。なかなか出会うことのない、実に素晴らしい演奏であった。アンコールでは、指揮者ルイージもステージ奥の椅子に腰かける中、「アリガトウゴザイマス」と日本語で聴衆を笑わせ、「2つめの知っている日本語は、コンニチハ。3つめは、『バッハ』です」(と、"Bach" の独特な日本語での発音のことを言っていると想像した。舞台近くの人しか聞き取れないほどの小さな声だったが) と言って、バッハの無伴奏パルティータ第 2番のパルティータを演奏した。これまた、感傷もなく誇張もない、とにかくまっすぐなバッハであり、演奏する長身の立ち姿が神々しくすら思われる、崇高な音楽であった。今回ズナイダーは、4月18日 (火) に浜離宮朝日ホールで、4月20日 (木) には横浜のフィリアホールで、それぞれリサイタルを開くが、私は聴きに行くことができない。この記事をご覧の首都圏の方々には、是非にとお勧めしておこう。

さて、1曲目に戻って、オーストリアの作曲家ゴットフリート・フォン・アイネム (1918 - 1996) の、「カプリッチョ」である。アイネムと言えば、私がクラシックを聴き出した 40年近く前でも、代表作であるオペラ「ダントンの死」は、いろんな書物に採り上げられていたし、若き日のズービン・メータがウィーン・フィルを指揮したフィラデルフィア交響曲 (もともとはユージン・オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団のために書かれた曲) の録音で、その名はある程度知られていた。それ以外にも、ザルツブルク音楽祭で重要な役割を果たしたということも、一応知識としては知っている。だが、名前が有名な割にはその作品を聴く機会は少なく、この「カプリッチョ」(もちろん「奇想曲」 = 「気まぐれ」という意味だ) も今回初めて耳にした。1943年、作曲者 25歳のときの作品で、作品 2という若い番号が示す通り、実質的な楽壇デビュー曲であるらしい。めまぐるしく曲想が変わる曲だが、なかなかモダンで楽しめる (書かれているのは戦争中なのだが)。ここでのルイジは、ギアをしきりと切り替えながら、素晴らしい精度で曲の持ち味を表現したと思う。この「ギアの切り替え」、あるいは「アクセルとブレーキの踏み替え」という言葉が私のルイージ感を表していて、昨年、一昨年の松本での彼の演奏についての自分の記事を読み返してみても、同じようなことを何度も言っている。なんだ、じゃあもう一度感想を言う必要ないじゃないの (笑)。だが実際のところ、これだけ自在に音楽をコントロールできれば、いかなる曲にも対処できようし、その指揮者の要求に鮮やかに応える N 響も素晴らしい洗練度である。これは比較的若い頃のアイネムの写真。
e0345320_22031782.jpg
そして最後の「巨人」である。ルイージは夏のセイジオザワ松本フェスティバルでもマーラーのシリーズを連続で手掛けていて、5番・2番に続いて今年は大作 9番を振るが、今回の N 響では 1番と、比較的取り組みやすい (?) 作品だ。実際私もつい先週、シルヴァン・カンブルランと読響の名演に接したばかりであり、その比較が楽しみであった。結果的には、ここでもルイージの緩急を心得た自在な音楽運びが顕著であり、イタリア風に歌心があるというのとは一味異なる多彩な表情が聴かれ、そして例によって最後に起立するホルン奏者全員 (と、トランペット、トロンボーン各 1人) の姿を見て、鳥肌立ってしまった。実はこの箇所でホルンが起立しても、曲が終わる前にまた座ってしまう演奏も多いのだが、今回は最後まで起立。大いに盛り上がる演奏であった。但し、細部を見て行くと、それなりに課題もあったかなという気もする。管楽器のごくわずかなミスには目くじら立てる必要はないだろうが、マッスとして鳴っているオケの音自体に、N 響ならさらに緊張感が出せるのではないかと思う瞬間が何度かあった。例えば第 2楽章冒頭の頻繁な「ギアの切り替え」では、指揮者の指示を待ちきれない部分もあったように思い、さらに凄みが出るとよいのに、と感じてしまったものである。一方、第 3楽章では途中で曲想の変化に応じたテンポの変化が誇張され、ここでは面白い効果が出ていた。全体を通した燃焼度は、また今後の共演を経て上がって行くものと期待したい。

ところで今回の演奏では、第 3楽章の冒頭のコントラバスがソロではなく合奏であり、最近時々そのような演奏を聴くなぁと思って調べたら、1992年に出版された新全集版ではそうなっているとのこと。慣れの問題もあるかもしれないが、個人的にはここは、ちょっと調子が外れたようなソロで聴きたいものである。そうそう、この第 3楽章の冒頭部分は、黒澤明の「乱」の予告編で使用されていた。「乱」本編の音楽における黒澤と、音楽担当の武満徹の確執など、面白い話はいろいろとあるし、黒澤ファンとして「乱」という作品自体について語りたいこともいろいろあるが、長くなるので割愛し、懐かしのイメージのみ掲げておく。
e0345320_22245859.jpg
例によって話があらぬ方向に行ってしまったが (笑)、ルイージのような名指揮者を日本で頻繁に聴けるのはありがたいこと。今年の松本には行けるか否か分からないが、N 響とは是非、密なる共演を重ねて頂きたい。その巧みなギアの切り替えに、今後一層磨きがかかりますように!!
e0345320_22281997.jpg

by yokohama7474 | 2017-04-16 22:36 | 音楽 (Live) | Comments(2)

e0345320_11204307.jpg
フランスの名指揮者シルヴァン・カンブルランと、彼が常任指揮者を務める読売日本交響楽団 (通称「読響」) の演奏会は、先週のマーラー「巨人」をメインに据えたものをご紹介したばかりだが、今回はまたなんとも意欲的な曲目で勝負をかけてきた。以下のようなものである。
 メシアン : 忘れられた捧げ物
 ドビュッシー : 「聖セバスティアンの殉教」交響的断章
 バルトーク : 歌劇「青ひげ公の城」(演奏会形式)

今の東京でこのような曲目を演奏するコンビとして最も期待できるのは、やはりカンブルランと読響ではないか。このブログでなるべくタイムリーにご紹介している在京の 7つのメジャー・オケの動向はますます面白くなって来ており、登場する指揮者の顔ぶれも、楽団ごとにかなり住み分けができているので (コバケンのような例外もいるが 笑)、各楽団とも、主要指揮者陣の個性に合わせた非常に意欲的なチャレンジができていると思う。やはり競争があるのは、聴き手にとっては歓迎すべきことである。時間のやりくりだけは、なかなか厳しくなって来ているが (笑)、今回のような演奏を聴くと、今後もなんとか時間をやりくりして、できるだけ多くの生演奏に触れたいと切に思う次第である。
e0345320_01124315.jpg
さて今回のプログラム、大変によく考えられている。前半のメシアンとドビュッシーはフランス音楽であるが、同じフランス音楽とは言っても、ラヴェル的、あるいは六人組的な明快さや洒脱さはなく、神秘的、瞑想的な雰囲気をたたえた曲であり、組み合わせて聴いてみると、書かれた時代は異なる (メシアンが 1930年、ドビュッシーが 1911年で、その間には第一次世界大戦が起こっている) ものの、その精神には近いものがあることが分かる。その意味では、後半に演奏されたバルトークの傑作「青ひげ公の城」は、宗教性こそないものの、おとぎ話の中にある残酷さや、人間心理の不可思議さを覚えさせるという点で、やはり作品の精神には共通点があるのである。また、大変興味深いことに、この「青ひげ公の城」が書かれたのは、前半で演奏されたドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」と同じ 1911年。この 2作品に世紀末的、象徴主義的な雰囲気が共通するには、同時代性という理由があるのだ。

まず最初の「忘れられた捧げ物」は、今年 1月にも秋山和慶指揮東京交響楽団で聴いていて、それも見事な演奏であったが、今回のカンブルランと読響の演奏も、甲乙つけがたい名演であった。カンブルランの手にかかると読響の柔軟性は最大限発揮され、金管の輝きや木管の点滅も、素晴らしいニュアンスである。全く何の不安もなく聴いていられる演奏で、小品、かつ作曲者の実質的なデビュー曲ながら、メシアンの音宇宙はそこに紛れもなく存在していた。

ドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」はもちろん、ローマの親衛隊長で、木に縛り付けられて矢で射られて殉教する聖者、聖セバスティヌスを題材にしており、もともとは戯曲につけられた音楽である。前項で、ストラヴィンスキーの「ペルセフォネ」に触れた際にその名を挙げた伝説のバレエ・ダンサー、イダ・ルビンシュテインのために、イタリア人作家ガブリエーレ・ダヌンツィオが書いた戯曲。作曲には曲折あったようだが、上演時間 4時間以上と言われる戯曲において、音楽が使われる箇所は 1時間程度。今回演奏された交響的断章は、ドビュッシーの友人カプレによる編曲で、4曲からなり、演奏時間は 25分程度。今回はそこに、第 3幕のファンファーレが最初に演奏された (ファンファーレは 2曲と発表されたが、予定変更で 1曲のみ演奏)。この曲、私も CD (ミュンシュ盤とは長いつきあいだ) や実演 (確か若杉弘は音楽を全曲演奏した) で何度か聴いているが、あまり印象的なメロディもなく、さほど親しんでいるわけではない。だが、あの聖セバスティアヌスの殉教というストーリーにもともとある耽美性は音楽から立ち昇ってきて、聴いていて蠱惑的な気分に襲われることは事実。カンブルランと読響の演奏は常にクリアで、実に見事であった。ところでこのダヌンツィオのフランス語の戯曲を、フランス語が充分できないのに一生懸命和訳した人がいる。ヒントはこの絵だ。
e0345320_01503595.jpg
そう、グィド・レーニの描く「聖セバスティアンの殉教」。もちろん三島由紀夫が「仮面の告白」で採り上げている絵である。聖セバスティアヌスに魅せられていた三島はこのダヌンツィオの戯曲を、池田弘太郎というフランス文学者に教えを乞いながら、共訳した。今試みに、私の手元にある新潮社の三島由紀夫全集 (1975年刊行) を調べてみると、第 24巻「戯曲 (5)」に収録されていた。せっかくなので、ちょっと雰囲気だけでもどうぞ (笑)。
e0345320_02001012.jpg
さて、今回のメイン、バルトークの「青ひげ公の城」であるが、20世紀の名作オペラとされてはいるものの、上演には常に大きな問題がある。それは、歌詞がハンガリー語というマイナーな言語であることだ。その音楽はしかし、演奏者をしてそのようなハンディを乗り越えようと思わしめるに充分な、いかにもバルトークらしい夜の雰囲気たっぷりの深い味わいのもの。幸いなことに (?)、登場人物は主人公の青ひげとその妻ユディットの 2人だけなので、メゾ・ソプラノとバスの男女 2名の素晴らしい歌手さえいれば、成功の第一条件をクリアできる。そして今回舞台に立ったのは、ユディット役がドイツ人のイリス・フェルミリオン。青ひげ役はハンガリー人のバリント・ザボ。このうちフェルミリオンの方は、インバル指揮のマーラーの交響曲や歌曲でよく歌っているようだし、もともとアーノンクール指揮の「フィガロ」でケルビーノを、「コシ・ファン・トゥッテ」でドラベッラを歌って国際的に注目された歌手。一方のザボは、スカラ座やバイエルン国立歌劇場に出演歴もあり、中でもこの「青ひげ」は、ハンガリー語を母国語とするだけあって、当たり役にしているらしい。演奏会形式だったので、双方ともドレスやタキシードで登場したが、このザボは譜面を持ってくることもなく、全曲暗譜での歌唱であった。
e0345320_02094463.jpg
e0345320_02105093.jpg
ここでもカンブルランと読響の演奏は極めて高度な水準を誇り、暗い城の中の不気味に濡れた壁の触感から、拷問道具の血のしたたり、財宝の輝き、広大な領土を見晴るかすさまなどが、縦横無尽に描きつくされた。第 5の扉を開けるシーンでは金管のバンダ (別動隊) が入って圧巻なのだが、実は今回初めて知ったことには、そこにはオルガンも入るのだ。またオルガンは、終結部近くでも登場する。千変万化するオーケストラの響きを視覚的にも追うことができるのは、演奏会形式ならでは。ベラ・バラージュ (映画の歴史に詳しい方なら、その名を映画理論家としてもご存じだろう) の書いた台本が不気味に物語を進めて行くに際し、オーケストラの表現力が不可欠な要素として随所に駆使されていることを、改めて思い知る。もちろん 2人の歌手も、オケと一体となった音響を作り出して、この不気味な物語を雄弁に語ったのである。いつ聴いても楽しい曲では全くないが (笑)、人間の根源的な何かに迫る、類例のない音楽である。当然聴衆の人々は、この演奏の価値を知っているから、客席は大いに沸いたものである。夜の音楽を書き続けたバルトークも、このような演奏を聴くと満足するであろう。
e0345320_02294489.jpg
カンブルランが読響の常任指揮者に就任して、早 8年目。よくよく検討してみると、東京の主要オケとそのシェフのコンビを考えたときに、このカンブルランと読響は、プログラムの明確なコンセプトや、音の鳴り方の個性、また、実現している演奏水準の点を総合的に勘案すると、もしかするとナンバー・ワンかもしれない。少なくとも、ナンバー・ワンの一角を占めていることは間違いないであろう。今シーズンも楽しみな演奏会が沢山あるので、ピリリと辛口で知性あるアプローチに、ますます期待である。

by yokohama7474 | 2017-04-16 02:31 | 音楽 (Live) | Comments(0)