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足掛け 3年に亘って開催されてきた期待の若手指揮者、山田和樹と日本フィル (通称「日フィル」) によるマーラーの交響曲の全曲演奏も、第 9回である今回が最後。演奏されたのは、以下のような曲目である。
 武満徹 : 弦楽のためのレクイエム
 マーラー : 交響曲第 9番ニ長調

クラシック音楽をよくご存じの方には、この日の曲目には死の影が色濃く浮き立っていることが見て取れよう。マーラー・ツィクルスのフィナーレは華やかなものではなく、暗い死の影と隣り合わせなのである。この日も開演前に山田が登場して (通常はすぐ演奏会に入れるように燕尾服での登場だが、今回はタイなしのスーツ姿である)、プレトークを始めたところによると、8番までは感じることのなかった「これで終わり」という寂しさを今回は感じるという。この武満の曲 (1957年作曲) はこの作曲家の出世作であり、ストラヴィンスキーらに称賛された、という有名な話が披露されたあと、ほぼ専らマーラー 9番について語られることとなった。山田によると、この曲が採用しているニ長調という調性は、音楽史を見渡しても不思議と死と縁があるとのこと。ベートーヴェンがハイリゲンシュタットの遺書を書いた頃に書いていた晴朗な交響曲第 2番がこの調性だし、ハイドンの最後の交響曲、第 104番もしかり。ニ「短」調に視野を広げると、モーツァルトのレクイエムやブルックナー 9番が入ってくると。また山田は、この曲において重要なのは第 2ヴァイオリンであるという。このシリーズにおいて前回までは、指揮者の左手、第 1ヴァイオリンの奥に第 2ヴァイオリンが陣取り、指揮者の右手にはヴィオラがいたところ、今回だけヴィオラと第 2ヴァイオリンを入れ替えて、ヴァイオリンの左右対抗配置とした。それには明確な理由があり、この曲での第 2ヴァイオリンは、モーツァルトやベートーヴェンの曲での役割のように、第 1ヴァイオリンと一緒に演奏してその演奏を支えるという役割を超え、独自の動きをして、その動きが重要だからだという。例えば第 1楽章の冒頭のテーマ (マーラーが既に前作「大地の歌」の最後で「永遠に (ドイツ語で "Ewig")」という歌詞につけた音型を流用) は、通常なら主旋律を担う第 1ヴァイオリンではなく第 2ヴァイオリンが弾くものだし、最終楽章の荘重この上ない終結部も、第 1ヴァイオリンが沈黙したあとも最後まで第 2ヴァイオリンが演奏を続けるということが説明された。もしかすると、第 1ヴァイオリンが現世なら、第 2ヴァイオリンはあの世を表しているのかもしれないとも語られた。そして山田が最後に総括して言うことには、マーラーの楽譜には細かい指示が大変多いが、だからといってどんな指揮者の演奏もそれに忠実に従うあまり、同じような演奏になるかというと、全くそうではなくて、非常に多様である。ある意味でマーラーは、多様な価値を包含する世界性を持っている音楽であり、それこそ、多様な価値観の衝突が起こりがちな現代において必要とされているものではないか、と締めくくり、ともに「戦って来た」日フィルをはじめとする本シリーズの関係者への謝意が述べられた。今回のトークは、一見いつもの通りの飄々とした語り口でありながら、あまり脱線したりジョークを絡めることもなく、この稀代の交響曲に挑む緊張感を感じさせるものであった。
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前半の「弦楽のためのレクイエム」は、文字通り弦楽器 5部からなる 10分弱の曲。当時 27歳の武満が東京交響楽団からの委嘱を受けて書かれたものである。その厳しい音楽は後年の武満の美麗さと通底しながらも反撥しあう。往々にして、暗い絶望の中で揺蕩うように演奏されるが、山田の手にかかるとそれは重苦しい音楽というよりは、様々な線の絡み合いから立ち昇り、どこまでも続いて行く音の連なりのようであり、繊細さの表現に細心の注意を払いながらも時に大胆に聴き手に迫りくる、積極的な音楽であるかのように響いたのではないか。これは小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラによる録音のジャケット。
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そしてメインのマーラー 9番こそ、この畢生の大作に若き指揮者が果敢に挑んだことの結果が大きな説得力とともに鳴り響く、充実の名演となったのである。上記でご紹介した通り、この曲における第 2ヴァイオリン・セクションの重要性は明白である。このブログでも、昨年 11月28日の記事で、マリス・ヤンソンスとバイエルン放送響による同じ曲の演奏を採り上げたが、奇しくもその記事で私は、第 2ヴァイオリンの充実を素晴らしい成果として指摘した。この曲においてマーラーが描き出した、ある意味で単純明白な要素 (死への恐怖、現世への別離) を強調するために、様々に複雑な要素が盛り込まれているというと逆説的だが、今回の山田と日フィルの演奏はその逆説性を仮借なく抉り出した。演奏時間 80分になろうかというこの曲の全体を見通してみると、恐ろしいほどの音響が渦巻く両端楽章と、諧謔味がさく裂する中間 2楽章との間の対比が重要であるところ、今回は中間の第 2・第 3楽章での山田の快刀乱麻ぶりが際立っていたからこそ、もう逃げも隠れもできないほど激しいエモーションを必要とする両端楽章が、強い説得力を持ったのであろう。例えば第 2楽章は三拍子のレントラー舞曲であるが、通常のテンポ、速いテンポ、遅いテンポという切り替えが見事で、快速な場面でのティンパニの強調も決まっていたと思う。第 3楽章ロンド・ブルレスケは、中間部のノスタルジックなトランペット以外は常に動き回る音楽であり、日フィルの技術が大変な冴えを聴かせた。翻って第 1楽章は、私の耳には冒頭が少し硬いかなという気もしたが、丁寧な第 2ヴァイオリンの演奏が陰影を紡ぎ出していたし、終楽章は出色の出来で、中間部で弦楽合奏だけで壮大になる部分では鬼気迫るものを感じた。そして、長い長い時間をかけて「死んで行く」ように終わって行く終結部。このツィクルスを最初から聴いて来た私としては、その最後の最後の音が消えて行く現場に立ち会えたことを、本当にありがたく思ったことである。

東京のマーラー受容には既に充実した歴史があるが、ここに、30代の日本人指揮者として恐らく初めて、9曲の交響曲の全曲演奏を成し遂げた山田和樹は、忙しい海外での活動の傍ら、日本でも意欲的なプログラムが今後目白押しだ。もちろん、年を経ればまた音楽が変わって行くことも充分あるであろうから、同時代に生きる者として、そのような彼の創生・深化・昇華 (今回のマーラー・ツィクルス三期それぞれのテーマ) を是非見て行きたい。ツィクルス完走、まずはお疲れ様でした!!

by yokohama7474 | 2017-06-25 21:55 | 音楽 (Live) | Comments(1)

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しばらく出張に出て慌ただしい時間を過ごしていたが、こうして週末のコンサートや映画に出かけることによって、何か日常の自分のペースが戻ってきたような気がする。あ、そう言いながらも、そのような個人の趣味の時間も、出張に負けないくらい実は慌ただしいのであるが (笑)。ともあれ、今回読売日本交響楽団 (通称「読響」) の指揮台に初めて登場するのは、今や世界で大活躍のオーストラリア人、シモーネ・ヤングである。昨年 11月には、こちらは東京交響楽団 (通称「東響」) を初めて指揮して、オーケストラ・コンサートを開くほかに、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」を演奏しており、私も記事でそれらを採り上げた。2015年まで務めたハンブルク歌劇場及びハンブルク・フィルの音楽監督を退いてからは、決まったポストはないのであろうか。このような優れた指揮者が日本の複数のオケに客演してくれることで、またまた日本の音楽シーンが楽しくなる。今回はそれを実感できるコンサートであった。
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今回の曲目は以下の通り。
 プロコフィエフ : ピアノ協奏曲第 3番ハ長調作品26 (ピアノ : ベフゾド・アブドゥライモフ)
 リヒャルト・シュトラウス : アルプス交響曲作品64

おめあてはもちろん、シュトラウスの大作、アルプス交響曲なのであるが、この曲は本来そうそう演奏されるものではないはずだが、東京ではやはり昨年 11月、あろうことか、クリスティアン・ティーレマン指揮のシュターツカペレ・ドレスデンと、マリス・ヤンソンス指揮のバイエルン放送交響楽団という世界一流のコンビが数日の差を開けて相次いでこの曲を演奏した。それから半年余り。東京を代表するオケのひとつである読響も、負けじと是非ここでその真価を見せて欲しいものである。だがその前に、前半に演奏されたプロコフィエフでも、なかなかに活きの良い若手ピアニストが登場して会場を沸かせることとなった。1990年生まれのウズベキスタン人、ベフゾド・アブドゥライモフ。様々な民族が暮らす中央アジアの人らしく、ちょっと東洋系の顔立ちである。
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私は今回彼を初めて聴いたが、このプロコフィエフの慌ただしい曲を、少し猫背になりながら集中して弾く姿には、自分をカッコよく見せようという邪心がなく、好感が持てた。さらに技術を誇示してもよいのではないかと思うくらいであったが、見ていて面白かったのはヤングの伴奏で、この人、指揮ぶりはあまり器用には見えないのだが、時折ピアニストに目をやりながらあちこちのパートに指示を出し、第 1楽章や第 3楽章の追い込みではかなりの突っ走り方でピアノと競り合っていた。やはりプロコフィエフの 3番はこうでないと (あ、宇野功芳入ってしまいました。笑)。もちろん、ピアノに異常な迫力があるというわけではなかったので、例えばアルゲリッチの演奏のような白熱には至っていなかったものの、これはこれで優れた演奏と言ってよいであろう。アンコールは私の知らない曲であり、ショパン風に聴こえる瞬間もあるが、さらに抒情的で切ないメロディであったので、何かと思えば、チャイコフスキーの「6つの小品」作品 19の第 4曲、夜想曲であった。プロコフィエフの喧騒のあとの口直しとしては最適であったろう。

そしてメインのアルプス交響曲。冒頭の朝日が昇る場面からして、音が重々しく荘厳だ。そして蠢く低音から徐々に盛り上がり、ついに輝かしい光を放つ箇所では、早くも鳥肌立つような広がりのあるオケの音が全開となった。そしてそれから切れ目なしの 50分、各場面の精妙な描写が連続する中で、常に美しくまた広がりのある音が聴かれ、自然やそれに対峙する人間を描いたこの曲の真価を、存分に楽しむことができた。今回の会場である東京芸術劇場は、概して響きはよいものの、時に木管楽器の音の輪郭が鋭さを欠くように思う。今回もその点が少し気になる瞬間は何度かあったものの、木管も金管も、演奏自体は素晴らしいレヴェルであったし、改めて実感したのは、この曲における弦楽器の滔々たる流れであり、ヴァイオリンの左右対抗配置 (プロコフィエフでもそうだったが) が絶大な効果を発揮していたと思う。上記の通り、ヤングの指揮ぶりはさほど器用なものとは思えないものの、実はここぞというときにはくっきりと音を描き出す技術を持っていて、きっと楽団員もあれなら演奏しやすいのではないだろうか。以前東響で指揮したブラームス 4番では、かなり緩急自在であったと記憶するが、今回のシュトラウスではむしろ堅実に音を引き出している印象であった。高揚感を漲らせる山頂のシーンや、迫力溢れる嵐の場面でも、必要以上にオケを煽り立てることはなく、しかるべき道筋を順々に辿って、楽員が遭難しないように (?) うまく誘導していたと思う。それでいて作為性を感じさせることなく、ごく自然な音楽的感興を常に聴くことができた点、やはり非凡な演奏であったと思う。
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今回のシュトラウスを聴きながら思ったことには、この指揮者は意外とストラヴィンスキーやバルトーク、あるいはラヴェルが面白いのではないか。もちろん前半のプロコフィエフにその適性の片鱗が見えたが、「春の祭典」「管弦楽のための協奏曲」「ダフニスとクロエ」といったレパートリーを聴いてみたい。これまでのレコーディングではブラームスやブルックナーなどのドイツ物が中心だが、この手腕であれば何でもできてしまいそうだ。

そんなわけで、今後東京で再会するのが楽しみな指揮者である。あ、もしかすると、ヤングが女性指揮者として世界有数の実績を誇るということに触れないのかと思う方もおられるかもしれないが、それは以前の記事でも書いたし、写真を見れば女性であることは一目瞭然なので (笑)、そのことには触れる必要はないだろう。性別を話題にする必要もなく、その優れた手腕をこそ、今後も聴いてみたいものだと思っている。

by yokohama7474 | 2017-06-25 02:30 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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何やら、最近ますます大変な混雑になっていると耳にする展覧会。既に 4月から始まっていて、まる 3ヶ月以上の会期の、既に終盤に入っている。私がこの展覧会に出かけたのは、既に 2週間ほど前。そのときにもかなりの混雑であった。これは何の展覧会かというと、上のポスターにある通りの「バベルの塔」の展覧会だ。太古の昔、人間があまりに高い塔を建てたので神の逆鱗に触れ、同じ言葉を話していた人々に別々の言葉を喋るようにして、人間社会を分断したという聖書にある逸話。ネーデルラント (というと今のオランダだが、彼が没したのは現在のベルギー、ブリュッセルである) の画家ピーテル・ブリューゲル (1525/1530 - 1569) の描いた有名な作品が本展の目玉になっている。だが、この展覧会のタイトルをよく見てみよう。頭に「ボイマンス美術館蔵」とあり、後ろの方には、「16世紀ネーデルラントの至宝 - ボスを超えて -」とある。実はこれらの要素が非常に重要なのであって、私としては、この素晴らしい展覧会を、ただ一点「バベルの塔」だけに集約したこの宣伝方法には疑問を禁じ得ない。この展覧会の価値はそれだけで測るにはもったいないのである。以下、何がそれほど素晴らしかったのか見て行くこととしよう。

まずこの展覧会の展示品がひとつの美術館から来ていることに注目しよう。その美術館名は (上のポスターでは短く省略されているが)、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館。
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この美術館はオランダのロッテルダムにあり、私も一度だけだが現地を訪れたことがある。ご当地ものであるネーデルラント、フランドル絵画だけではなく、20世紀の主要な画家の作品も多く所蔵する素晴らしい美術館である。長い館名は、この美術館のコレクションの基礎を作った 2人の収集家に因んでいるが、一人はフランス・ボイマンス (1767 - 1847)、もう一人はダニエル・ヘオルフ・ファン・ベーニンゲン (1877 - 1955)。美術館の開館は 1849年と、驚くほど早い。オランダの文化度の高さを具現するような美術館なのである。展覧会はまず彫刻作品で始まる。これは 1480年頃の作品で、4大ラテン教父、つまり聖アウグスティヌス、聖アンブロジウス、聖ヒエロニムス、聖グレゴリウスである。作者はアルント・ファン・ズヴォレという彫刻家とされている。高さ 74cm ほどの小ぶりなものであるが、その佇まいの清冽さが印象的であり、衣の繊細な処理も、日本の古い木彫を見慣れた私としても、非常に優れた出来であると思う。
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これはまた見事な祭壇彫刻。1500年頃の作とされている「十字架を担うキリスト、磔刑、十字架降下、埋葬のある三連祭壇画」。作者不詳である。この手の木彫りはドイツにも驚くほが見事な作品が多くあるが、地理的に近く、同じプロテスタント地域であるネーデルラントにおいても同様であるようだ。
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このような木彫作品の素晴らしさもさることながら、このネーデルラント / フランドル芸術の特色は、宗教画であっても仮借ない人間の姿が表されていることではないだろうか。例えばこれは、ヤン・プロフォースト (1465頃 - 1529) という画家の手になる「アレクサンドリアの聖カタリナの論争」(1520年頃)。ここに表現されている人体は決して写実的ではなく、それは画家の技術の欠如にもよるのかもしれないが、ただここにはなんとも言えない奇妙な生々しさがある。真ん中右でピンクの衣装を着ている聖カタリナの指の動きの繊細なことは驚くべきだし、その右側に見える正面を向いた少女は天使の化身らしいが、その場違いな落ち着いた表情はどうだろう。その右側にいる人物は真横を向いていて不気味なら、奥の方に見えるのは架空の建築群なのである。
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これも同じ聖カタリナの肖像なのであるが、1500年頃の作で、作者は判明しておらず、「枝葉の刺繍の画家」と呼ばれているらしい。華やかなイタリア・ルネサンスとは全く異なる静謐さを持つこの絵に、遥か後年のベルギーでのシュールレアリズムの萌芽を見るような気がするというと、話を面白くしすぎであろうか。
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同じ祭壇画から、こちらは「聖バルバラ」。うーん、これも大変に美しい。
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さてこれは、ルカス・ファン・レイデン (1489/94 - 1533) 周辺の画家の手になるとされる「女性の肖像」(1520年頃)。ここにも美化されていない人間の姿が表れていて、素晴らしい。
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これは少し時代が遡り、1480年頃の作者不詳の「風景の中の聖母子」と、その裏に描かれた「本と水差し、水盤のある静物画」。この聖母子は、解剖学的には正確ではないようだが、その平穏な雰囲気には何かほっとするものがある。一方で、ネーデルラントでその後伝統が作られて行く静物画であるが、これはトロンプルイユ (だまし絵) 的な表現だが、白いタオルや真鍮の洗面器と水差しは、受胎告知を象徴するという。むむ、ここでも遥か後年、ベルギーで発展した象徴主義 (サンボリズム) につながるものを見てしまいたくなるではないか。
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ここで初めて知った名の画家と対面する。ハンス・メムリンク (1433頃 - 1494)。「風景の中の二頭の馬」(1490年頃) という作品で、家庭用祭壇画の一部であるらしい。ここでは二頭の馬だけでなく猿も登場して、何か寓意があるらしいが、だがこの破綻のない風景と動物の組み合わせに、高度な洗練を感じるのである。
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これも名の知れた画家の作品。ヨアヒム・パティニール (1480頃 - 1524) の「牧草を食べるロバのいる風景」(1520年頃) である。パティニールについては随分以前、2015年 9月26日の記事で「世界初の風景画家」とご紹介した。だが彼の風景画は、ただ風景だけを描いたものではなく、宗教画の一部なのである。この作品も聖母子の「エジプト逃避途上の休息」を描いた作品の一部であるらしい。だがなんとも気持ちが安らぐ風景ではないか。
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かと思うとこれは、その同じパティニール周辺の画家の手になるとされる「ロトと娘たち」(1520年頃)。これは打って変わって人の心を不安にさせる光景である。私の見るところ、この平穏さと不気味さの交錯が、パティニールより一世代前かと言われるボスや、その影響を強く受けたブリューゲルの作品にも通底していて、ネーデルラント絵画の特異な持ち味を充分に感じさせるのである。
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というわけで、ついに登場するのが、ヒエロニムス・ボス (1450頃 - 1516) である。世界最初の奇想の画家と言ってもよいだろう。後世 (1610年頃) に描かれた、版画による彼の肖像画はこれである。頭の後ろに何やら奇怪な生き物たちが描かれているが、これぞボスからブリューゲルに受け継がれた奇想の数々。
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そして私はここで声高に叫ぼう。この展覧会は何もブリューゲルの「バベルの塔」だけが売りではないはずだ。なぜならここには、世界にも 30点ほどしかないボスの真筆作品のうちのなんと 2点が出品されているからである!! こんな貴重な機会はそうそうあるものではない。未だご覧になっていない方は、とにかく悪いことは言わないから、これらの作品と対面するために上野に馳せ参じるべきである。まずこれは、「放浪者 (行商人)」(1500年頃)。ここにはボスの真骨頂である奇想はない。だが、旅籠か娼家とおぼしき左後ろの建物から去って行くみすぼらしい男の振り返るところ、豚が飼料をむさぼり、男が女を口説き、また別の男は放尿している。そのような猥雑な風景を振り返る中央の男の表情は、名残惜しいようにも見えるし、軽蔑しているようにも見える。ローマ・カトリックの感性ではこのような人物は決して描かれないであろう (ルターの宗教改革は 1517年だが、それ以前に既に、ローマ・カトリックのものとは違う物の見方による表現があったということだろう)。
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今回出展されているもう一点のボスの作品は、「聖クリストフォロス」(1500年頃)。川を渡る際に背負った赤子が実はキリストで、世界の創造を背負った重さになるという逸話である。このテーマ自体は珍しいものではないものの、左の岸では熊の死骸が吊るされ、右の岸では樹木に不思議な住居が突き刺さっている。控えめとはいえ、まぎれもないボスの指向がはっきりと表れている。
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この展覧会にはまた、ボスの作り出したイメージによる後世の版画も沢山展示されていて、興味が尽きない。以下「樹木人間」、「様々な幻想的な者たち」、「ムール貝」、「二人の盲人のたとえ話」。この画家のブラックなイメージを堪能されたい。
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そしてこの展覧会の主役、ピーター・ブリューゲル (1525/1530 - 1569) である。その子孫たちも画家として実績を残したが、やはり元祖としての地位は揺るぎない。これは死後、1572年の版画による肖像。生年不詳とは言え、40代半ばまでには没していたようであるが、その髭から、大変な老人に見えてしまう。
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日本ではこれまでもブリューゲルとその周辺の画家の展覧会は何度も開かれていて、その中には 1993年に今回と同じ「バベルの塔」が来日したセゾン美術館での展覧会もあるが、あろうことか手元にその図録がなく、もしかしたらその時は見逃したのかもしれない。だが、1989年ブリヂストン美術館での「ピーテル・ブリューゲル全版画」展、1990年国立西洋美術館での「ブリューゲルとネーデルラント風景画」展、1995年東武美術館での「ブリューゲルの世界」展、2010年 Bunkamura ザ・ミュージアムでの「ブリューゲル版画の世界」展の図録は手元にある。中でも最初に挙げた展覧会では、ブリューゲルの全版画を見ているはずだから、今回展示されている版画の数々も、きっと見ているはず。だが、もうこれらは何度見ても飽きることがなく、そのめくるめく奇想には、人間の脳髄を直接刺激するものがあるのである。以下「聖アントニウスの誘惑」、「七つの大罪」から「大食」、「忍耐」、「最後の審判」。
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一方、ブリューゲルの版画においては、正確な細密描写や、夥しい数の人間たちの密集も特徴になっている。以下は「ガレー船を従えた沖合の 3本マストの軍艦」と「農民の婚礼の踊り」。これらを描く技術は、大作「バベルの塔」にそのまま活きていることであろう。
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その「バベルの塔」(1568年頃) は、展覧会場では特別扱いであり、広い空間に一点だけ、恭しく展示されている。
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今回、芸術新潮や NHK の「日曜美術館」でも、漫画家の大友克洋 (私も深く尊敬している) がこの塔の内部を独自に再現するような試みを披露しており、それはそれで面白いのだが、やはりこの作品自体をじっくり見るべきではないだろうか。ブリューゲルの「バベルの塔」と言えば、この 5年ほど前の作品もあり、ウィーン美術史美術館の所蔵になっているが、こちらのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館所蔵のものはさらに遠近法が強調され、異様さが増している。幻想的でありながら細部の凄まじいリアリティを見ると、ほかのどのブリューゲル作品とも異なる SF 性を感じることができ、一体この人のヴィジョンはどうなっていたのかと、空恐ろしくなるばかりである。このように、絵の中では多くの人たちが塔の建設に携わり、各種機械も設置されているのである。
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このように、もちろん「バベルの塔」の素晴らしさを実感することも重要であると同時に、それ以外に展示されている作品たちの質の高さも、充分に楽しみたい展覧会であり、それゆえ私は、一点豪華主義であるかのようなこの展覧会の宣伝方法には納得できないのである。ともあれ、現地でこれらの作品を目にすると、宣伝がどうのこうのということを忘れてしまうことも事実。素晴らしい内容なのである。さて最後に、私の個人的な思い入れに触れて、この記事を終えることとしよう。実は私にとってボスとブリューゲルの作品集は、私が初めて買った西洋絵画の画集であったのである。最初の画集がマネやモネやゴッホやルノワールではなかった点、私の指向する美術の傾向が明確に表れているのである・・・。今も書庫にあってすぐに手元に出てくるその画集は、集英社の世界美術全集の第 18巻。1978年の発行だから、40年近く前の本で、当時私は中学 1年生だ。あ、なんと表紙には、今回の展覧会に出品されている「放浪者」が採用されているではないか。
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今でもページを開くと、異様な図像の数々と首っ引きで詳細な解説を一生懸命読んだことを思い出すが、この本の主要な執筆者は、驚くべきことに今に至るも日本の誇るボスとブリューゲルの世界的権威である美術史家の森洋子なのである。上のカバーにある通り、1,450円という値段は 40年前のものであっても (笑)、内容は今でも豊かな啓示に満ちたもの。本当に日本においては、西洋絵画を学ぶ文化的土壌はずっと存在しているのであって、いながらにして実物を目にできることと併せて、文化の使途たちはその幸福に感謝を捧げるべきだろう。その思いをもって、会場の混雑を乗り切るべし!! 会期はあと一週間である。

by yokohama7474 | 2017-06-25 01:22 | 美術・旅行 | Comments(2)

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以前もこのブログで触れたことであるが、東京におけるコンサートのメッカであるサントリーホールは現在改修中。通常定期演奏会をここで行っているオケはそれぞれに、それぞれにほかの会場で定期演奏会を継続中だが、ひとつだけ、本来サントリーホールで行っているべき定期演奏会を取りやめたオケがある。NHK 交響楽団 (通称「N 響」) である。もちろん東京 No.1 オケとしての存在感は未だ健在であるものの、昨今のほかのオケの充実ぶりには目を見張るものがあり、その意味では、このオケが行っている 3つの定期プログラムのうち 2つが、あの巨大な NHK ホールでの演奏であることは、今後 10年の N 響を占う上では、由々しきことなのではないかと私はいつも思っている。なので、サントリーホールが改修中、サントリーホールでの定期を取りやめ、代わりにその NHK ホールでの 3ヶ月だけのシリーズ (と、同じ内容でのミューザ川崎シンフォニーホールでの木曜 15時からのシリーズ) になったことに、複雑な思いを抱くファンは多いことだろう。この 3回シリーズ、上のポスターにある通り、4月は広上淳一、5月はウラディーミル・フェドセーエフが指揮台に立ち、そして今月 6月の最終回は、オランダ出身の古楽専門指揮者、トン・コープマンの登場である。今年73歳。「渋谷・大人の寄り道」をどのように演出してくれるのであろうか。
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実はこの演奏会、発表当初は英国の名指揮者、ネヴィル・マリナーの指揮で予定されていた。だがマリナーは昨年 10月、残念ながら 92歳で大往生。そして代役として選ばれたのがコープマンである。これはなかなかに興味深い。というのも、マリナーはモーツァルトを得意にしていたとはいえ、(研究はともかく実際の演奏活動においては) 飽くまで現代楽器オケを指揮する演奏家であったのに対し、このコープマンは一徹なまでの古楽指揮者。チェンバリスト、オルガニストでもある彼は、1979年に自ら設立したアムステルダム・バロック管弦楽団との演奏活動を積極的に展開して来た。実は彼とそのアムステルダム・バロック管とは、1991年の 5・6月と11月に、開場間もない池袋の東京芸術劇場で、モーツァルトの全交響曲 (番号付き 41曲、もとい 40曲 <なぜなら 37番は欠番なので> + 番号なし数曲) とレクイエムを、全 11回の演奏会で踏破しているのである。それも今となってはバブル時代の歴史的イヴェントと言えようが、加えてすごいのは、そのすべてを 1993年に NHK が BS で放送したこと。当時私はがんばって全 11回をビデオに録画したのだが、実は 1度だけ緊急番組が放送されたために録画し損ねたのである。それは今回調べてみると、第 4回。何の緊急番組であったかというと、元総理大臣、竹下登の証人喚問である (笑)。これもまたバブル時代末期のイヴェントであった。

ともあれそのような古楽のスペシャリスト、コープマンは、その経歴を見ると、王立コンセルトヘボウ管やベルリン・フィル等の一流モダンオケにも客演の実績があるとのこと。今回は N 響との初共演であるが、果たしていかなる結果になるのであろうか。今回の曲目はすべてモーツァルトで、以下の通り。
 歌劇「魔笛」K.620序曲
 フルートとハープのための協奏曲 K.299 (フルート : カール・ハインツ・シュッツ、ハープ : シャルロッテ・バルツェライト)
 交響曲第 41番ハ長調K.551「ジュピター」

実はコープマンと N 響は、同じ曲目で翌 15日 (金) は (しつこいようだが平日の 15時から!!) 川崎で、また 17日 (土) は上田市で、18日 (日) は豊川市で演奏会を開く。私の野心は、そのような地方公演を聴きに行くことであったが、今週土曜日から出張が入ってしまったので、やむなく今回、NHK ホールでの「水曜夜のクラシック」シリーズの一環であるコンサートに出かけることとした。ひとつ興味深いのは、今回もともとマリナーが予定していた曲目は、最初が「フィガロの結婚」序曲、それから 25番の交響曲、次に、これは同じフルートとハープのための協奏曲を経て、最後は 36番「リンツ」というプログラムであったのだ。つまりコープマンに指揮者が変更になって、協奏曲以外の曲目は総入れ替えになってしまった。理由は判然としないが、勝手に解釈すると、協奏曲以外は後期のウィーン時代の作品で揃えたかったということではないのか。その推測には理由があり、今回のフルートとハープのソリストは、いずれもウィーン・フィルの首席奏者。
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それに加え、今回客演コンサートマスターを務めるのは、元ウィーン・フィルのコンサートマスターとしておなじみの、あのライナー・キュッヒルなのである。つまりこのコンサートの主要な演奏家たちは、みなウィーン・フィルの一部ということになる。ウィーンで生まれた曲を演奏したくなるのも無理はない (笑)。
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さて、コンサートの内容であるが、私としてはいくつかの点で複雑な思いを抱くことになった。まずひとつは、やはり会場の大きさ。最近 NHK ホールの音響は、私の気のせいか、以前よりもよくなったような気がするのだが、とはいえ、多分に想像力でその響きを補って聴く必要があるケースが依然として多い。ほかのオケが響きのよいホールで自発性溢れる演奏を自在に展開している今、やはりこの環境が N 響の 10年後にとって重要な意味を持つだろうと、繰り返したい。今回の演奏では、前半がコントラバス 2本、後半が 4本という小さな編成であり、その微妙なニュアンスを聴きとるには、残念ながらこのホールは大きすぎる。それから、キュッヘルであるが、例によってひとりだけ、本当に冒頭の「魔笛」序曲から、音がビンビンと響いてくるのである。これはもちろんよい面もあると思うが、指揮者の志向する音楽はノン・ヴィブラートの古典的プロポーション。ウィーン的な蠱惑的音楽とはかなり異なっている。もっとも、ウィーン・フィルとても最近は多くの古楽系指揮者を指揮台に迎えてはいるものの、「これぞウィーン・フィル」という音はやはりロマン的なものであると思う。だから、キュッヒルの音が飛び出して聴こえてくることは、音楽のスタイルという観点からは、やはりちょっと違和感があったのである。但し、後半の「ジュピター」でキュッヒルの手元をよく見ていると、前半とは異なり、わずかにヴィブラートをかける場面もあるように見受けられ、実際に聴こえてくる音も、尻上がりに均一性が改善したように思えた。音楽とは本当に生き物なのであって、一流のプロといえども、すべて思ったように行くとは限らず、それこそが生演奏の醍醐味だと思うのである。コープマンの指揮自体は、予想した通り、鳥肌立つような霊感に満ち溢れたものとは言えない実直なものであったが、その小柄なからだをせっせと動かし、指揮棒を持たない両手でオケをリードする姿には真摯さが見られて、好感を持つことはできた。その一方で、モーツァルトの交響曲でも「ジュピター」くらいになると、少しはロマン性、と言って悪ければ、音楽の「味」が必要な箇所も多い。これは、以前も例えば、クリストファー・ホグウッドとエンシェント室内管の実演でも感じたことである。今回の演奏では、もう少しその「味」が欲しいような気がした。そしてコープマンが演奏会終了後の拍手に応えて、客席に向かって「モーツァルト!!」と叫んで指揮し始めたのは、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第 1楽章。アンコールでありながら、提示部をきっちり反復するあたりも真面目な印象だが、これは「ジュピター」よりもしっくり来る、N 響のアンサンブルがよく響いた演奏であった。あ、それから、フルートとハープのための協奏曲のソリストたちに関しては、もちろんきっちりとまとまっていたものの、正直、ちょっとおとなしいかなという気がしないでもなかった。彼らはアンコールとして、結果的にこの日唯一のモーツァルト以外の曲目 (笑)、ジャック・イベールの間奏曲を演奏し、これも洗練された優れた演奏であった。

上で書いたことはちょっと否定的に響くかもしれないが、でも私はこの演奏会を結構楽しんだことも事実。いわゆる古楽系の指揮者では、N 響はロジャー・ノリントン (私は彼のことを真の天才だと思う) との共演は多く果たしてきたが、ノリントンは病気も患ったし、既に高齢。この系列の指揮者で新たな可能性を発掘するには、コープマンのような人はなかなかに面白い選択だと思う。N 響の挑戦ということになるものと思うので、また再演があってほしい。やはり、次はバッハではないでしょうかね。まぁまずはその前に、土曜の上田でのコンサート、頑張って頂きたい。どうやら音響のよさそうなホールがあるようだ。上田の人たちが羨ましい (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-06-15 00:28 | 音楽 (Live) | Comments(5)

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今年の大ヒット作である。GW 前の公開なのに、未だにシネコンではかなりの頻度で上映されている。私にとって「美女と野獣」は、特集上映の際に劇場で見た1946年のジャン・コクトーによるモノクロ映画、1991年のディズニーによるアニメ映画、そしてブロードウェイで見たミュージカル (ベル役が東洋人であった)、と一通りの経験があり、ないのは劇団四季の日本語版ミュージカルくらいか。今回の実写版はやはりディズニーによるものであるが、なかなかに手の込んだ作りであり、もともとよく知られた内容であることもあって、万人が楽しめる内容であるがゆえに、これだけのヒットになっているのだろう。有名ミュージカルの映画化としては、「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」などもうまくできていたが、この映画もそれらと肩を並べる作品であろうと思う。もちろん、何か人生が変わるような感動を覚えるというものではないかもしれない。だが、なんとも華麗な映像を見るだけでも価値はあろうというものだ。

監督は、1955年生まれの米国人、ビル・コンドン。このブログでは、イアン・マッケランが老いたシャーロック・ホームズを演じた「Mr. ホームズ 名探偵最後の事件」を採り上げたが、およそ CG とは縁のない、今回の映画とはまた全く違うテイストのものであった。だが、その前には「シカゴ」の脚本を書いたり、ビヨンセが出た「ドリームガールズ」の監督などを手掛けていて、ミュージカル映画とのかかわりは深いようだ。
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だがそれにしても私が思い出すのは、コクトー (以前も書いたことがある通り、私は彼の大ファンなのであるが) の古い映画では、主役のベルが野獣の城の中に入ったとき、暗い廊下には燭台を持った手が沢山壁から突き出ていて、それらがにゅーっと動いてベルを驚かすというシーンがあった。もちろん今から 70年前には CG はないから、様々な工夫が監督の才気を感じさせるシーンにはなっていたが、今から見るとなんと素朴なこと (笑)。
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ところが今回の映画では、燭台自身がこのように自在に動き、かつリュミエールというその名前が示す通り、もともとフランス人の召使が魔法によってこの姿に変えられたらしく、フランス語なまりの英語を喋るのである。コクトー映画とのなんたる違い (笑)。
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そして、最後に魔法が解かれたときに現れるこの人の素顔を見ても判別するのは難しいのだが、演じているのはあの英国の名優、ユアン・マクレガーなのである!! こういう凝り方の積み重ねが、映画に奥行を出していることは間違いないだろう。
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いやそれにしても、この映画の出演陣は大変豪華である。上述の「Mr. ホームズ 最後の事件」に続き、イアン・マッケランが時計のコグスワースの役として出ているし、ポット夫人はエマ・トンプソン。また、主人公ベルに言い寄る悪い奴、ガストンを演じるのは、「ドラキュラZERO」や「ハイライズ」、また「ホビット」シリーズで精悍なイメージの強いルーク・エヴァンス。また、ベルの父モーリス役は、「ワンダとダイヤと優しい奴ら」でアカデミー助演男優賞を獲得したケヴィン・クライン (どうでもいいけどこの人、昔懐かしいアイドル女優フィービー・ケイツと結婚しているらしい。16歳差。まあ本当にどうでもいいことなのだけれど)。野獣 / 王子役はダン・スティーヴンスという俳優。彼の顔にはなじみはないが、「ナイト・ミュージアム / エジプト王の秘密」でランスロット役を演じていたり、テレビシリーズ「ダウントン・アビー」に出ていたらしい。
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この映画のひとつの見どころは、野獣の見せる細かい表情である。映像技術の発展によって表現の幅が広がっていることは確実だが、それをいかに使いこなすかはまた別の話。この映画はそのあたり、大変に上質にできている。ほらこの表情、上の役者さんの顔の面影があるでしょう。あごひげのあたりとか (笑)。・・・ところでこの映画の CG で唯一惜しいところは、大詰めで野獣が屋根から屋根へ飛び移るあたりのシーン。これはちょっと古典的ないかにも CG という感じで、リアリティを欠いていた。
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そしてベルを演じるのは、「ハリー・ポッター」シリーズのハーマイオニー役で名を馳せたエマ・ワトソン。既に 27歳になった。
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私は「ハリー・ポッター」の第 1作から、彼女はきっといい女優になるに違いないと思っていた。そして今、この映画に見る彼女は確かに美しく知的で、また勇敢さを持つ役柄でもあり、その意味では何も不満はない。だが正直なところ、彼女はこれまであまり作品に恵まれているようには思われず、本来ならもっとよい仕事をしていてもよさそうなのに、と感じてしまう。昨年「コロニア」というチリのクーデターの話に出演していたので見たいと思ったが、見損ねてしまった。このベルのような優しい役ではなく、もっと強い役を演じてみてはいかがだろうか。今後に期待したい。

それから、今回はベルと野獣の心の通い合いにはシェイクスピアが絡んでいる。「ロメオとジュリエット」はロマンティックで好きではないと主張する野獣が、エマの言葉を引き継いで語る言葉はこのようなもの。

QUOTE
恋は目でものを見るのではない、心で見る、
だから翼もつキューピッドは盲に描かれている。
(小田島雄志訳)
UNQUOTE

これは、同じシェイクスピアの「夏の夜の夢」から。なるほど、この作品のテーマと共通しますな。なかなかに憎い引用だ。

最後にもうひとつ余談。なんでもこの作品、公開前に監督が、「ディズニー映画初の同性愛シーンがある」と宣言し、マレーシアではそのシーンをカットしようとしたため、ディズニーが上映を拒否したということがあったらしい。また、米国アラバマ州は上映禁止を宣言、ロシアでは 16歳以上指定になったという。だがこのニュースには違和感がある。こんなに大ヒットしている映画の一体どこに、そんな騒ぎになるようなシーンがあるというのか。調べてみたところ、どうやらこのル・フウという役に関するものらしい。演じるのはジョシュ・ギャッドという俳優。
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彼はガストンの仲間で、その心酔者のように描かれているが、だからと言って「同性愛」シーンがあったとは到底思えない。では何がいけなかったかというと、どうやら、最後で全員がダンスを踊る際に、男と組んで踊っていることであるようだ。うーん、そうだったかなぁ。そう言われればそうだったかもしれないが、集団の中だし、それほど目立つシーンではなかったはず。もしその程度で大騒ぎした国があったのなら、ちょっと違和感がある。もしかすると、監督が確信犯的に話題作りとしてそのようなニュースを事前に流したのでは・・・と勘繰りたくもなってしまう。逆に、もし「同性愛」シーンを楽しみにして劇場に足を運ぶ人がいたら、きっとがっかりするだろう (笑)。

ともあれ、様々な話題を詰め込んだヒット作。見ないと人生の損とは言わないが、魔女の呪いならぬ現代の映像の魔法に酔いしれるには、なかなかによい作品であろうと思う。

by yokohama7474 | 2017-06-14 01:20 | 映画 | Comments(2)

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注目のコンビが来日だ。私が深く尊敬する指揮者、ステファヌ・ドゥネーヴが音楽監督を務めるブリュッセル・フィル。この指揮者については、このブログを始めて未だ日も浅かった頃、2015年 6月 8日の記事において、NHK 交響楽団を指揮した演奏会で採り上げて絶賛した。当時の記事は未だ短いものであったのだが、この川沿いブログはその後膨張しており (笑)、様々な寄り道をしながらも、東京で接することのできる文化の隆盛を地方に海外に、また将来に伝えるべく、心してこの記事を書くこととしよう。

まずはベルギーの首都であるブリュッセル。EU の本部がある都市でもあり、先の空港でのテロにも負けじとヨーロッパの誇りを保ち、文化の灯をともし続けて欲しいものである。
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ベルギーは、いわゆるベネルクス 3国 (ベルギー、ネーザーランド (= オランダ)、ルクセンブルク) のひとつ。もちろんドイツやフランスというメジャーな国とは異なり、文化的にも多様なのであるが、それゆえにこそ、真にヨーロッパらしい存在であると言えると思う。私はこれまでに 3回ブリュッセルを訪れており、そのいずれもが、当時かの地のオペラハウス、モネ劇場の音楽監督であった大野和士の指揮を聴くためのものであったのだが、この街の中心にあるグラン=プラスは、かのヴィクトル・ユーゴーが「世界で最も美しい広場」と絶賛した場所であり、そこに身を置くと、本当に時間を忘れるのである。
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さて、ブリュッセルはそのような素晴らしい街なのであるが、では、ベルギーと聞いて人は何を思い出すだろう。ビール。チョコレート。もちろん。だが人物についてはどうだろう。まず思い出すのは、アガサ・クリスティが創作した名探偵、「灰色の脳細胞」を持つエルキュール・ポワロ。それから実在の人物では、もちろんブリューゲルほかのルネサンス期のフランドル絵画の画家たちもおり、世紀末象徴主義のクノップフ、そしてシュールのマグリット。音楽の分野ではなんといっても作曲家セザール・フランク。それから指揮者では、アンドレ・クリュイタンス。こうして並べてみると、フランスでもないドイツでもない、またオランダとも異なる、ベルギーという国の一筋縄では行かない個性を感じることができる。そんな国のオーケストラとしては、もちろん上述のモネ劇場のオケも素晴らしいが、それ以外ではやはり、ベルギー国立管弦楽団に指を屈する必要があるだろう。上に名前の挙がったアンドレ・クリュイタンスが手塩にかけたこのオケは、2003年に、当時未だ 20代で天才ともてはやされた音楽監督ミッコ・フランクのもとで来日した。だが今回、ドゥネーヴとともに初来日を果たしたこのブリュッセル・フィルはそれらとはまた異なるオケであり、1935年にベルギー国立放送のオケとして発足した。ドゥネーヴは 2015年 9月からそこの音楽監督を務めているのである。

ではこのドゥネーヴ、いかなる指揮者であるのか。1971年生まれのフランス人。ゲオルク・ショルティ、ジョルジュ・プレートル、小澤征爾らのアシスタントを務め、このブリュッセル・フィル以外にも、昨年まで名門シュトゥットガルト放送響の首席指揮者を務めたほか、現在はあのフィラデルフィア管弦楽団の首席客演指揮者でもある。私が過去 2回、彼の演奏に接したところで断じてしまうと、この人こそ、時代を担う巨匠になるべき素晴らしい指揮者だ。
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そのようなドゥネーヴとブリュッセル・フィルが今回演奏した曲目は以下の通り。
 ギューム・コネソン (1970 - フランス) : フラメンシュリフト (炎の言葉)
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 5番変ホ長調作品73「皇帝」(ピアノ : モナ=飛鳥・オット)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調作品 55

今回このコンビは全国で 9回のコンサートを開く (東京以外には名古屋、札幌、金沢、姫路、広島、観音寺、福岡) が、そのいずれのコンサートでも、コネソンの「フラメンシュリフト」が冒頭に演奏される。ドゥネーヴとブリュッセル・フィルは最近ドイツ・グラモフォンからこの作曲家の作品集を発売したようで、会場にもその CD のジャケットをあしらったこのような自立式の宣伝が見られた。
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演奏に先立ってドゥネーヴは指揮台でマイクを持ち、このオケの第 2ヴァイオリンの首席である萩原 麻利の通訳で聴衆に語り掛けた。傑作だったのは、開口いちばん、萩原が "Ladies and Gentlemen, good afternoon!" と英語で呼びかけたのに続いて、ドゥネーヴが「ミナサン、コンニチハ」と日本語で喋ったことであった。私はこのようなユーモアのセンスが大好きなので、客席で声を挙げて笑ってしまいました。そしてドゥネーヴが解説することには、このコネソンの曲は、ベートーヴェンとドイツ音楽に捧げられたものであり、冒頭の音型はあの第 5交響曲と同じであるとのこと。そして自分たちが最近コネソンの CD を出したことが述べられ、「終演後にはサインします」との発言もあった (この箇所での萩原の通訳は「終演後に CD をお買い求め頂けます」であったが・・・)。それから、ドゥネーヴが語ることには、来日の直前に難関コンクールとして知られるエリザベート王妃コンクールがブリュッセルで開かれ、チェロ部門で日本人の岡本侑也が 2位に入り、協奏曲の伴奏を自分たちが行ったこと、それから、日本を代表する作曲家、細川俊夫の新作を初演したこと (これは、同コンクールでチェロの課題曲となった「昇華」という曲のことだろう) が述べられた。
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今回の演奏会のプログラムは、ベートーヴェンの作品と、そのベートーヴェンへのオマージュから成っているわけだが、私も今回初めて知ったことには、ベートーヴェンの祖父はブリュッセル近郊の生まれ。彼の名前に入っている van は、確かにオランダあたりに多いもので、生粋のドイツ人のものではない。なるほど、ヨーロッパは誠に一筋縄ではいかないのだ。そして演奏されたコネソンの「フラメンシュリフト」は確かに、フランス的な曖昧模糊としたものではなく、弦がザッザッとリズムを刻むドイツ風の音楽で、かつ華やかさも併せ持つ 10分程度の曲。終演後にドゥネーヴがスコアを抱えて指さしていたのが印象的であった。

次に演奏された「皇帝」では、若手ピアニスト、モナ=飛鳥・オットが登場。1991年生まれだから今年 26歳。3歳年上の姉、アリス=沙良・オットと同じく、ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれている。これは姉妹のツーショットだが、向かって右がモナ。むしろ姉よりも大人びた風貌と言ってもよいのでは。
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だが今回の演奏は、率直なところ、姉アリスの演奏レヴェルにはごくわずか届かないような気がしたのは私だけであろうか。非常にきれいな音で長い指が鍵盤を駆け巡るのであるが、この曲であればもう少し力強さが欲しいし、それに伴う山っ気というか、緩急の使い分けがあった方がよかったと思う。その一方、若い音楽家が自らを信じて疾走することは何よりも素晴らしいことであり、今の彼女にできる演奏であったという点には気持ちよいものを感じさせてもらった。今後の活躍を楽しみにしたい。アンコールとして弾いたリストの「巡礼の年『ヴェネツィアとナポリ』」のカンツォーネは、一転して暗い情緒を感じさせる名演であったことから、このピアニストの様々な可能性を感じることができた。

そしてメインの「エロイカ」であるが、これは快速テンポで駆け抜ける爽快な演奏となった。「皇帝」でもそうであったが、ドゥネーヴは指揮棒を持ち、ヴァイオリンの左右対抗配置も取らないが、弦楽器 (コントラバス 6台編成) にはヴィブラートをかけさせず、キビキビとした現代的なベートーヴェンを描き出した。第 1楽章のコーダでトランペットが「行方不明」になる箇所も、この勢いで聴くと気にならないから不思議である。かと言って無味乾燥な演奏ではなく、時にはごくわずかテンポを落としてみたり、第 3楽章スケルツォの中間部のホルン 3重奏もほのぼのとした味わいのものであった。このオケの性能はかなり高く、この気持ちよい演奏の実現においてその性能はいかんなく発揮されたと思う。ただ 1箇所、第 2楽章葬送行進曲の冒頭すぐに弦が細かく刻む場所でずれてしまい、音楽がギザギザな感じになってしまった点が惜しまれた。

アンコールとして演奏されたのは、(ドゥネーヴの日本語まじりの紹介のあと) シューベルトの「ロザムンデ」間奏曲第 3番。ここでは一転して遅いテンポで極めて抒情的な演奏が聴かれ、いかにもロマン派という雰囲気が醸成された。弦楽器を見ていると、ヴァイオリンはヴィブラートなしだが、チェロの一部は朗々とヴィブラートをかけていた。味わい深い演奏だったので、次は是非ドゥネーヴのドイツ・ロマン派が聴いてみたいものだ。

終演後のサイン会は、ピアニストが先に準備していて、指揮者は遅れてやって来ることとなったが、和気あいあいという大変よい雰囲気であった。モナは姉アリスと同様、日本語には全く問題なく、サインを求める人たちに丁寧に応対し、時折やって来る知り合いの人たちとも楽しそうに会話していた。一方のドゥネーヴはまた、きっちりとファンの目を見てコミュニケーションを図っており、サインをしては「ヴォアラ」(フランス語で「はいどうぞ」の意味) などと言いながら、これまた楽しそうであった。これらの写真で、その楽し気な雰囲気が伝わるとよいのだが。
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ベルギーからの初来日のオケと若手ピアニストは、これから地方巡業となる。奏者たち自身、是非日本での演奏を楽しんで頂きたいし、ヨーロッパの現在を我々日本人の前で表現して欲しいものだと思う。

by yokohama7474 | 2017-06-11 23:34 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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東京初台の新国立劇場が、現在のオペラ部門の芸術監督である飯守泰次郎の指揮のもとで進めている、ワーグナーの超大作「ニーベルングの指環」4部作の 3作目、「ジークフリート」である。初回の「ラインの黄金」は私も見に行って、2015年10月 2日の記事で採り上げた。2作目の「ワルキューレ」は昨年 10月に上演されたが、残念ながら私は見ることができなかった。そして今回の「ジークフリート」である。尚、新国立劇場では来シーズン (2017 - 18) の開幕演目として、今年 10月に最後の「神々の黄昏」を上演し、飯守体制の締めくくり第一弾とすることになる。これについてはまた後で述べることとしよう。

さて、この上演の意義については以前の「ラインの黄金」の記事に一通り書いておいたので、ここでは簡単に触れるにとどめる。ドイツ人ゲッツ・フリードリヒ (1930 - 2000) は、20世紀の後半において主にそのワ-グナー演出で世界を席巻したカリスマ演出家である。今回新国立劇場で上演されているツィクルスは、彼が晩年にフィンランド国立歌劇場で演出したもの。余談だが、先に来日したフィンランド人の名指揮者エサ=ペッカ・サロネンが近く同歌劇場で「指環」ツィクルスを上演するというニュースがあったが、その演出もこれになるのであろうか。そもそもフリードリヒの「指環」というと、ツィクルスとしての日本初演となった 1987年のベルリン・ドイツ・オペラのもの、いわゆる「トンネル・リング」と言われるものが知られている。以下、その「トンネル・リング」の一場面。全 4作を通じ、このようなトンネルが舞台奥にずっと存在しているというコンセプトであるようだ。今回初台で上演されているものは、これに比べれば随分と穏便な演出であると言える。
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この作品について指揮者飯守が語るところや、今回の上演のリハーサル風景などは、新国立劇場のウェブサイトで動画を見ることができるが、会場にもモニターが設置されてその映像が流れている。
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この飯守リング、世界一流のワーグナー歌手を集めた上演であり、その点こそまずは大きな意義を見出すことができるだろう。今回の主役ジークフリートを歌うのは、テノールのステファン・グールド。ワーグナーファンにとっては既におなじみの名前であろう。
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実はこの人、今回の「指環」4作にすべて出演する。実のところ、これは少し奇異である。「ジークフリート」と「神々の黄昏」でひとりの歌手がジークフリート役を歌うのは普通。また同じ歌手が「ワルキューレ」でジークムントを歌うのも大いにありである。だが、「ラインの黄金」は? そこにはいわゆる英雄的な役、ヘルデン・テノールは登場しないのだ。そしてこのグールドがそこで歌ったのはなんと、狡猾な策士である火の神、ローゲなのである!! 私は以前の「ラインの黄金」の記事でその違和感を述べておいたが、だがしかし、4作すべてに登場する役柄がないこの作品 (ヴォータンですら「神々の黄昏」には登場しない) で、世界的なヘルデンテノールがそのようにしてまで、すべての作品で歌唱を聴かせてくれる東京という街は、恵まれていると解釈しよう。その他の歌手としては、エルダのクリスタ・マイヤー、ブリュンヒルデのリカルダ・メルベートもバイロイト経験豊富なワーグナー歌手たち。
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それから、ミーメのアンドレアス・コンラッド、アルベリヒのトーマス・ガゼリ、さすらい人 (ヴォータン) のグリア・グリムスレイはいずれもこのシリーズで以前同じ役で出演していて、ツィクルス上演の一貫性があることになる。これは大いに意義のあることである。さてそのような恵まれたキャストを使った今回の公演、私の記憶にある 2年前の「ラインの黄金」よりもさらに優れた成果を挙げたものと高く評価したい。飯守はかつてバイロイトで助手を務めた経験から、日本ではワーグナー指揮者としての確固たる名声を保っているが、その彼も既に 76歳。円熟の年齢である。今回の東京交響楽団 (通称「東響」) を指揮しての演奏には、それぞれの示導動機 (ライトモティーフ) を丁寧に描き出そうという意図が明確に見え、オケの高い力量もあって、それが充分に成功していた。プログラムに掲げられた飯守自身の言葉 (これは奇しくも、やはりプログラムに載っているフリードリヒが残した言葉とも共通するのだが) によると、この「ジークフリート」は交響曲にたとえるとスケルツォ楽章であると。もちろん、古典的な交響曲の構成においては、第 3楽章は諧謔味のあるスケルツォなのであり、ワーグナー自身がどう考えていたかは知らないが、確かにこのオペラの第 1幕では、リズミカルで諧謔味のある個所が続く。だが、これも飯守自身が述べている通り、このオペラはまた同時に「指環」4作の中で最も抒情的な箇所も持つのであって、印象派に影響を与えたとされる「森のささやき」や、作曲者自身が「ジークフリート牧歌」として別の曲を書いた優しい主題は、「指環」のほかの 3作には聴かれないものだ。次作で神々が終末を迎える前に聴かれるこのユーモアや抒情性が、この作品を一筋縄でいかないものとしているのである。それゆえ、最後のジークフリートとブリュンヒルデの二重唱は、「まさに幸せの絶頂にあり、音楽的にもドラマにおいても『指環』四部作全体の一つの頂点である」と同時にまたそこには、「より深い意味を孕んだドラマ」があるとする飯守の解釈は納得性が高い。日本のワーグナー受容にも既に長い歴史があるが、東京の劇場でこれだけ音楽的にも知的にも刺激に満ちた上演がなされるようになったことは、一過性のものではない、東京の文化として将来につながるものになったと思うのである。

演出について少し触れておこう。第 1幕は、このような森の前にある鍛冶屋の小屋で展開する。メルヘン調もありながら、登場人物たち (さすらい人 = ヴォータンは上の森の方から現れ、ミーメと屋外のテーブルで対話する) がうまく動ける機動性もあって、よくまとまっている。
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第 2幕はなんといってもファフナーが変身した大蛇退治がメインだが、この大蛇にはおどろおどろしさは皆無。また、森の小鳥は黄、白、赤、緑、青と 5羽出てくる。このうち歌手が演じるのは 4羽 (日本の若手歌手による)、残りの 1羽、青い鳥だけはダンサーが演じた。
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第 3幕ではヴォータンとエルダ、ヴォータンとジークフリート、そしてジークフリートとブリュンヒルデというそれぞれの組み合わせの歌唱が、がらんとした空間で展開する。注目すべきはラストの二重唱であり、上記の飯守の言葉にある通り、これはただの幸せな歌ではなく、死に向かう自暴自棄の歌に変わって行くのであるが、そこで 2人の男女はブリュンヒルデの盾や鎧を放り投げ、その自暴自棄ぶりを明確にするのである。
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歌手の歌唱はいずれも危うげのないもので、特に出ずっぱりのジークフリート役、ステファン・グールドはさすがであったが、だがそれでもやはり彼も人間、大詰めでは少し疲れが見えたか。しかし、実際に舞台でこのような作品を見ると、むしろそのようなことは当たり前。上演全体を目で耳で味わうことが、オペラの醍醐味なのである。

超大作であるから、45分の休憩を 2回挟んで、5時間45分の上演時間。さすがにこれでは腹が減るので、会場には軽く食べられるものが売られていて、なかなか気が利いていた。ジークフリート限定、サンドウィッチ BOX (1,000円) なるものもあったが、私が食べたのはハッシュドビーフ。名前は「鍛冶屋の歌」。600円とリーズナブルだ。
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このオペラハウスは街中にあって敷地も限られているので、工夫して空間を作っているが、満員の聴衆が休憩時間に思い思いに過ごしているのを見ると、東京におけるオペラの楽しみも定着して来ているなと改めて感じた。来シーズンで開場 20周年。飯守体制最後の年となり、その後はいよいよ大野和士に芸術監督がバトンタッチされる。その飯守体制最後のシーズンのオペラ上演のラインナップは以下の通り。
 ワーグナー : 神々の黄昏
 ヴェルディ : 椿姫
 R・シュトラウス : ばらの騎士
 J・シュトラウス : こうもり
 細川俊夫 : 松風 (日本初演)
 オッフェンバック : ホフマン物語
 ドニゼッティ : 愛の妙薬
 ヴェルディ : アイーダ
 ベートーヴェン : フィデリオ
 プッチーニ : トスカ

なかなかバランスの取れた演目だが、この中で私にとっての注目は、細川の「松風」と、それから新演出の「フィデリオ」だ。この「フィデリオ」は飯守自身の指揮で、ノオノーレはリカルダ・メルベート。フロレスタンはステファン・グールド。そう、今回のジークフリートとブリュンヒルデのコンビである。そして演出はあの、カテリーナ・ワーグナー。むむむ。2015年のバイロイトでの「トリスタン」の演出には正直なところ閉口したが、今回はいかに。今からまだ 1年ほど先になるが、是非見てみたいと思う。あ、もちろん、既にチケットを購入している「神々の黄昏」では、ステファン・グールド以外にもペトラ・ラングのブリュンヒルデや、なんと新国立劇場初登場のヴァルトラウト・マイヤーが歌うヴァルトラウテ (端役だが・・・) も楽しみである。「オペラパレス」との名称を持ったこの新国立劇場が、今後ますます東京の音楽文化において欠かせない場所になって行くことを切に希望する。
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by yokohama7474 | 2017-06-11 11:34 | 音楽 (Live) | Comments(6)

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ハリウッドを代表する俳優で、監督としても前作「アルゴ」で世界の絶賛を浴びたベン・アフレックの新作である。さぞや大々的に宣伝して大ヒットしているだろうと思いきや、上映している劇場はかなり限られていて、どうも日本ではあまり盛り上がっている気配がない。これは場合によっては、上質な映画を見逃す危険があるのではないかと思い、慌てて劇場に足を運んだのだが、案の定、これほど真摯に作られた映画をもし見逃すなら、それは映画好きとしては由々しき事態。この記事を是非参考として頂き、劇場に足を運ぶことで、ベン・アフレックという稀有な才能が今後も映画を作れるよう、是非応援して頂きたいのである。

この映画の舞台は 1920年代、禁酒法時代の米国である。監督でありながら主役を (ついでに? 脚本と共同製作も) 務めるベン・アフレックの役柄は、警察幹部の息子として生まれながら、第一次世界大戦参戦の際、次々に犠牲になって行く仲間たちを見て厭世的となった若者で、今ではボストンを拠点に数人でつるんで銀行強盗を行っているやさぐれ者である。ボストンではおりしもアイルランド系とイタリア系のギャング同士が反目しあっているが、アフレック演じるジョー・コフリンは、そのようなギャングとは一線を画して、基本的には人殺しはしない方針なのであるが、時代の激動の中で数奇なる運命に弄ばれて行く、という物語。ボストン以外にはフロリダ州タンパが舞台となっている。話は結構陰惨であり、時代背景が日本人にはなじみがない (禁酒法時代を舞台にしたギャング物は結構多いのだが) ことが、大々的に公開されていない理由なのかもしれないが、もしそうだとすると、惜しいことだ。ここでアフレックが描こうとしているものは普遍的な人間の心理なのであり、運命に抗う個人の赤裸々な姿であって、我々が日常を生きる上でヒントになるような事柄も多く含まれている。まずやはり、アフレック自身の姿が、戦争による心の傷のため、世の中に対して斜に構えたところもあり、時には卑劣な手段を用いながらも、激動の時代を懸命に生きる男を強烈に表しており、心に残るのである。彼なりにこだわりがあり、リスクも取りながら野心もあり、また大事なものを守ろうとする姿勢は、いつの時代でも必要なもの。例えばあなたが、集団の中で対立する 2派のどちらかについたとき、その親玉とどのようにつきあうか。相手方の親玉からの接触にどう対処するか。移り変わる状況の中で、人間としての矜持をいかに保つか。これは現代のサラリーマンにとっても、切実な課題になりうる (笑)。アクションもでき、複雑な心理のあやも表現できるこの俳優から、生きるヒントをもらおうではないか。
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この手の映画は、まずセットにかなり金がかかるものだし、服装や髪形など、細部のリアリティも重要になってくるし、映像のトーンもその時代らしさが求められる。私としてはそれらの点においてこの映画はかなり上質な仕上がりであると思うので、まずはその点においては映画としての成功の条件は満たしていると言えるだろう。調べてみると美術は、いずれもコーエン兄弟の作品「トゥルー・グリット」「ヘイル、シーザー!」でアカデミー賞にノミネートされたジェス・ゴンコールという人。そして撮影は、「JFK」「アビエーター」「ヒューゴの不思議な発明」で実に 3度のアカデミー賞に輝くロバート・リチャードソン。なるほど、そういう優秀なスタッフが参加しているだけのことはある。因みに、アフレック自身が共同製作者であることは上述の通りだが、共同製作者のうちのもうひとりは、なんとあの、レオナルド・ディカプリオなのである!! ディカプリオとアフレックの接点はあまり思い当たらないが、探してみたところこんな写真を発見。ディカプリオがぞんざいに (笑) 左手に握っているのはオスカー像である。2015年、第88回アカデミー賞で彼は「レヴェナント 蘇りし者」で主演男優賞を獲得したが、これはそのときのパーティーでのツーショット。時期からして、もしかするとこのときにアフレックがディカプリオにこの映画への出資を打診したと考えてもおかしくないのではないか。
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ともあれこの「夜に生きる」の素晴らしい点は、その美術やカメラワークの質のみならず、一連の役者たちの貢献にあることも間違いない。例えば、アフレックの妻役を演じるこの人。
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そう、ゾーイ・サルダナである。たまたま前の記事に採り上げた「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」でも重要な役柄であったので、このブログでは連続登場ということになるが、あぁよかった、ここでは素顔である (笑)。激動の時代、裏社会にも通じる身であり、自分をしっかり持ちながらも献身的に夫を支える妻の役を、繊細に演じている。それから、またしても私を驚愕させたのはこの女優だ。
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未だ 19歳ながら、その表現力には恐ろしいものすら出て来た、エル・ファニング。このブログでも絶賛した怪作「ネオン・デーモン」での熱演も記憶に新しいが、ここではまた全く違う役柄ながら、大変に重要な役を高い説得力で演じている。この写真は彼女の最初の登場シーンで、そのときはほんの端役かと思うのである。ところがところが、思いもかけない展開によって、彼女の存在が、あれよあれよという間に、この映画のかなめにすらなって行き、そして意外な顛末となるのである。平凡な若い役者であれば、この役自体の重要性を観客に認識させることはできなかったと思う。もはや「ダコタ・ファニングの妹」という呼び方では失礼だろう。末恐ろしい存在である。

また、この映画の原作者が面白い。1965年ボストン生まれの米国の作家、デニス・ルヘイン。この映画での製作総指揮も兼ねている。
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過去の作品を見てみると、「探偵パトリック & アンジー」シリーズというもので知られているようだが、「ミスティック・リバー」「シャッター・アイランド」という映画化された作品もある。そういえば、前者はボストンが舞台であったのははっきり覚えているが、後者も、調べてみるとまたしかりなのである。つまり彼は故郷ボストン (米国屈指の歴史ある街である) にまつわる物語を創造し続けているということか。もっともこの「夜に生きる」のもうひとつの舞台であるフロリダでは、KKK の活動や人種差別、また宗教の問題もこの映画には出てくる。これらは東海岸の問題ではなく、米国の本音と建て前の差が赤裸々に現れる南部の問題であるだろう。その意味で本作には、現在に続く米国の闇の部分がクローズアップされているという面もある。なお、このルヘインの「探偵パトリック & アンジー」シリーズの 1作、「愛しきものはすべて去りゆく」という小説は、やはりベン・アフレックによって「ゴーン・ベイビー・ゴーン」として映画化されているが、日本では未公開であるようだ。

このように興味深い要素が沢山詰まった映画であるがゆえに、見ても絶対損にならないと申し上げておきたい。余談だが、"Live by Night" という原題から私が思い出したのは、学生時代に映像論のゼミでテーマとなっていた 1950年代ハリウッドと赤狩りに関連して見せられた、ニコラス・レイ (1911 - 1979、一般的に知られる代表作は「理由なき反抗」だろう) の作品、"They Live by Night" という映画であった。当時は日本公開されていない映画であったので、字幕なしのビデオを教室のスクリーンに投影しての鑑賞であった。その後 1988年に「夜の人々」という邦題で公開されたようだが、わずかに残る私の印象では、なんとも暗い映画であり、やはり銀行強盗を描いた映画であった。これは 1948年の制作で、ニコラス・レイのデビュー作。この作品と今回のアフレックの「夜に生きる」を関連づけた英語の記事がないかと思って検索してみると、ロサンゼルス・タイムズのレビューがヒットした。ざっと見たところ、役者としてのベン・アフレックは監督としてのベン・アフレックに貢献していない、と厳しい論調で、似たような題名の古い作品でも、レイの「夜の人々」の方がもっと汚くタフだった、とある。これはアフレックの作品を誉めていないということでしょうね (笑)。ただ私としては、アフレックにはいくつもの顔を持って活躍して欲しいし、このロサンゼルス・タイムズの記者が主張するように、最近彼が演じているバットマンが彼に合っているとは、全く思いません!! というわけで、レイの「夜の人々」からの、これだけ見るとあまりタフには見えないショットでこの記事を終えることとしよう。
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by yokohama7474 | 2017-06-11 01:01 | 映画 | Comments(0)

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渋い茶の湯の展覧会の記事のあとにこのような賑やかな映画の記事がくるというのが、このブログの特徴であり、嫌悪感を抱かれる方もおられるかもしれないが、私にしてみれば、あれも文化からこれも文化。茶の湯とアメリカン・コミックの間に、何か一脈通じあう文化的な特性がないと、誰が言えよう・・・ないか (笑)。

この映画、マーヴェル社のアメコミを原作としており、2014年に制作された 1作目に続き、これが 2作目。実は私は、1作目は見ようかどうしようか考えているうちに上映終了となってしまったので、結局見ていないのである。正直なところ、上のポスターにも登場する「銀河の運命は、彼らのノリに託された!」という、まさに軽いノリのトーンが若干鼻につき、果たしてこの映画を見る価値があるのか否か判然としなかったのである。今回も予告編を見ていて同様の迷いを覚えていたのだが、まあでも、見てみると意外と面白いかも、と思って見に行くこととした。そして一言、大変面白かった!! このブログでは様々な分野の異形の存在に対する私の思い入れが随所に出ているが、この映画もまさしく、異形なるものが宿命的に持つ、表面上の明るさと裏腹の、何か極めて人間的な陰の部分に魅かれたと言えようか。・・・ま、そんなことではなく、単純に面白かったと言えばよいのですがね (笑)。

ここには様々な奇妙なキャラクターが登場し、それはもう騒がしいこと。主役のピーター・クイルを演じるのは、最近「パッセンジャー」でもいい味出していた、クリス・プラット。普通の人間の姿をしていて、かなり三の線なのではあるが、実は大変な存在なのであることが、この映画の中で明らかになる。
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そのピーターがひそかに (?) 思いを寄せるガモーラ。演じるのはゾーイ・サルダナ。最新の「スター・トレック」シリーズでも近いイメージの役 (?) を演じているが、まあそちらの方はこんなに顔が緑ではありません (笑)。
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これはドラックス。演じるのは元プロレスラーのデイヴ・バウティスタ。実際の体も立派なのだろうが、これはラバースーツを着用しての演技であったろう。なんでも、前作よりもスーツが進化して、前回は 2時間半かかったメイクが今回は 1時間ほどに短縮して、撮影時にはご機嫌であった由。
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これが凶暴なアライグマのロケット。犬好きには、この真っ黒な鼻がなんともリアルで、どんなに凶暴なことをしても憎めないキャラになっているのである。声を演じているのは、「アメリカン・スナイパー」の、あのブラッドリー・クーパーだ。
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冒頭すぐの戦闘シーンでは、この 4人 (匹?) のガーディアンズ・オブ・ギャラクシーが、巨大なタコのオバケのような怪物と壮絶に戦うのだが、その前でコイツがコードをつなぐと、ピーター・クイルのお好みのナンバーのリミックス版 (?) が大音響で流れ始め、それに合わせてコイツが踊り続けるのだ。私はそのシーンのバトルの壮絶さと裏腹のユーモア、それを演出する華麗なる映像美に完全にノックアウトされ、心の中では拍手喝采なのであった。もう一度見たいシーンだ。
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コイツの名前はグルート。そういえば前作では、大人の大きさの枝人間を予告編で見た記憶があるが、なんでもこのベビー・グルートは、前作で命を犠牲にしたそのグルートが小枝から蘇ったものであるらしい。喋る言葉は "I am Groot." だけなのであるが、実は場面場面で違うことを言っているらしい (笑)。このベビー・グルートが実にかわいくて、その "I am Groot" が妙に耳に残るのだが、声をやっているのがあのマッチョなヴィン・ディーゼルというギャップもおかしい。
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私がこの映画を面白いと思う点は、これらの異形のキャラクターを過剰に使いながらも、あちこちの細部でユーモアのセンスが光っていることと、それから、もうこれは容赦ないまでの圧倒的な映像のマジックである。例えば、オープニングの自動車のシーン以下度々現れるミニチュア感覚にはくらくらする。このような映像効果と、気の利いたセリフとの両立は、実は結構難しいと思うのである。そして、人間の想像力の豊かさを思わせる数々のシーンを見て私の心をよぎったのは、ルネサンス期のフランドルの画家、ヒエロニムス・ボス (1450 頃 - 1516) である。プラド美術館所蔵の有名な「快楽の園」に登場するこの卵人間 (一般には「樹木人間」と呼ばれることが多いが、私にはどうも、樹木よりも卵に近いと見受けられる) を連想させるシーンも出てくる。
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そうそう、キャラクターの中にはほかにも印象に残るものがあって、このアイシャという女王の姿はどうだろう。全身どころか目の中まで黄金で、全く妥協がない徹底ぶりなのである。一度見たら絶対に忘れない。演じる女優はエリザベス・デビッキ。このブログでも「コードネーム U.N.C.L.E」の記事で触れたし、「エベレスト 3D」での演技も印象深い。いやー、確かに言われてみれば分かるが、そう聞かなければ、この女優さんの家族でも判別できないのではないか (笑)。
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それから、予備知識なく見てびっくりしたのはこの人、シルヴェスター・スタローンの出演である!! 出演シーンはそれほど多くないが、それなりに重要な役柄だ。
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もうひとり忘れてはならないのは、カート・ラッセル。このブログでは「ヘイトフル・エイト」の記事で触れたが、私にとってはなんと言っても「遊星からの物体 X」(1982) が未だに忘れがたい。ここでは怪役を演じているが、実に楽しそうである。
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こんな面白い作品を撮ったのは、前作から引き続きジェームズ・ガン。セントルイス生まれの 48歳で、監督作としては本シリーズ以外にはそれほど実績があるわけではないが、脚本や製作も手掛け、本作にも出演している弟ショーンをはじめ、兄弟 5人が映画界で活躍している由。おっと、背中にいるのはロケットか???
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そんなわけでこの映画を大変楽しんだ私は、グルートのキャラクター商品 (コロコロスタンプと言って、紙の上で転がすと "I am Groot" "I am Groot" という言葉が印字される) を購入、早速拙宅のガラクタコーナーに仲間入り。あっ、グルートの右隣には、Bunkamura で以前購入した、ボスの「卵人間」のフィギュアがあるではないか!! こうしてアメコミとフランドル・ルネサンス絵画の強烈な出会いが、川沿いの狭い家の中で実現したのである。
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by yokohama7474 | 2017-06-10 22:45 | 映画 | Comments(0)

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このブログで何度か謝罪して来たことであるが、記事でご紹介する美術展のうちかなりの部分が、既に終了してしまったものなのである。中には東京以外の都市に巡回する展覧会もあるが、そうでないものについては、私が記事にする内容を、実際の展覧会で実物を前に吟味して頂く機会がないということになる。最近特にそのことを考えるようになり、今後はなるべく、充分な残り期間のある展覧会をご紹介したいのであるが、とりあえずの謝罪として申し上げておきたいのは、この茶の湯展と、異常なほどの人出で賑わったミュシャ展 (近日中にアップ予定・・・ならよいのだが 笑) だけは、もはや見る術のない展覧会のご紹介として何卒ご容赦頂きたい。だが、この世に芸術作品のある限り、ここで、あるいはミュシャ展の記事でご紹介するそれらの芸術作品にまた巡り合う可能性はあるわけで、一期一会を期待して生きて行くことはまた、大いに意義のあることである。

まあ能書きはこのくらいにして、展示作品の紹介に移りたいが、さらに言い訳めいた言説を弄するなら、ここで夥しい数 = 250点以上が展示されていた茶器とその関連の作品について、私ごときが何を語れるわけでもないし、とりわけこの分野は、分かる人には分かる、分からぬ人には永遠に分からぬというものであろうから、ここでは出品作のごく一部をご紹介しながら、言葉の無力をご一緒に実感したい (笑)。さて、そんなことで、展覧会は室町時代、足利将軍の茶室を彩った、舶来品、いわゆる「唐物」の茶器や美術品の綺羅星のごとき展示から始まる。しょっぱなに登場するのはこれだ。
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言わずと知れた曜変天目茶碗。静嘉堂の三菱コレクションのひとつである。この展覧会では展示替えもあって、この作品の展示は一定期間のみであったが、それにしてもこの茶碗は、誰が見ても分かる王者の風格である。世界でもたった 3つ、すべて日本に伝来する曜変天目茶碗は、その 3つとも国宝である。但しそのうちひとつ、大徳寺龍光院のものは普通に見られる機会はほとんど皆無。また、最近「開運! なんでも鑑定団」で「発見」された新たな曜変天目との触れ込みの茶碗は、私もテレビで見たが、正直なところ、国宝のそれらとは似ても似つかぬもの。その意味でも、この静嘉堂美術館のものと藤田美術館のものは、このブログではいずれも過去に採り上げているが、主としてそれらを所蔵する美術館ではそれなりに目にする機会がある点、ありがたい。昨年の今頃、2016年 6月11日に書いた静嘉堂美術館での記事では、このような素晴らしい茶碗の展示方法に苦言を呈したが、その意味では、今回の展覧会は最先端を行っていて素晴らしい。何度見ても飽きることのない絶対的な美を味わうには最高の環境であった。そして、名刺代わりの一発のもうひとつは、これだ。
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大阪の東洋陶磁美術館所蔵の、ということはこちらは住友コレクション(正しくは安宅コレクションだが)の、油滴天目茶碗。やはり国宝なのである。上記の曜変天目と同じく南宋時代、12 - 13世紀の作と思われる。油が水をはじくようなこの模様は、見るものを神秘的な感覚に誘う。さてこのような逸品で始まるこの展覧会の最初のコーナーは、上述の通り、足利将軍家の所蔵品。足利将軍家が称揚することで、絵画におけるその後の日本美の一典型とみなされた中国人画家がいる。牧谿 (もっけい、生没年不詳) である。私の知る限り、近年この画家の展覧会が日本で開かれたのは、1996年の五島美術館でのものが唯一で、そのときには会場で図録が売り切れで増刷待ちであったことを、昨日のことのように覚えている。それだけ牧谿の実物に接するのは貴重な機会なのであるが、ここでは、真作か否か判明しないものも含めて、8点の牧谿が展示されていた。これは有名な、大徳寺の「観音猿鶴図」の中の猿。もちろん国宝である。
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これは京都国立博物館が所有する、伝牧谿作の「布袋図」。この飄々とした表現は、典型的な牧谿の作風のイメージとは異なるが、だがその筆致は、上記の猿図と共通するところがあるように思われる。
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その牧谿と並び称される、同じ 13世紀、南宋時代の中国の画家がいる。その名は玉澗 (ぎょくかん)。彼も日本で多大な尊敬を集めた画家だが、多分このような自由な筆さばきはそれ以前には日本には存在せず、足利将軍家の美意識がこのような絵画作品を日本に流布させたものであろうか。その後の水墨画のパターンに鑑みて、それほど特殊には思われないが、これが典型的な日本の水墨画のルーツになっているのだろう。これは (牧谿にも同名の作品があるが) 「遠浦帰帆図」(えんぽきはんず) の一部。京都国立博物館所蔵の重要文化財である。うーん、最小限の表現に詩的な感覚が満載だ。
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次は東京国立博物館所蔵の国宝。李迪 (りてき) の手になる「紅白芙蓉図」である。これも南宋時代、1197年の作である。つまりは描かれてから既に 820年を経過しているということだ。活けるがごとき花の様子が生々しい。
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これは徽宗 (きそう) 作と伝えられる五島美術館所蔵の「鴨図」。徽宗 (1082 - 1135) は宋の皇帝であり、芸術を篤く庇護するとともに自ら絵筆を取った人。真筆ではないという説が有力だが、写実的でありながらも、どこか精神的高潔さを感じさせる作品ではないだろうか。
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これは足利氏ゆかりの栃木、鑁阿寺 (ばんなじ) に伝わる重要文化財の「青磁浮牡丹文花瓶 (せいじうきぼたんもんかへい)」(13~14世紀)。青磁の花瓶と香炉である。香炉は足利尊氏、花瓶は足利義満からの寄進であるという。この青磁というものは、日本人好みのわび・さびの感覚とはちょっと違うが、この独特のツヤのある緑色には、なんとも落ち着くのである。
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そしてこれはなんと、国宝の「青磁下蕪花入 (せいじしもかぶらはないれ)」(13世紀)。アルカンシエール美術財団というところが所蔵している。うーん、まるでモランディの絵画を見ているような静謐さ。実はこれは実業家、原六郎 (1842 - 1933) のコレクションであり、品川にある原美術館は現代美術専門だと思っていたら、実は彼の屋敷跡なのであった。この財団は原家のコレクションを管理する団体であるとのこと。
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これは東京国立博物館所蔵になる、重要文化財の「青磁輪花茶碗 銘 馬蝗絆(せいじりんかわん めい ばこうはん)」(12~13世紀)。「平家物語」の中に、平重盛が中国の高僧から贈られたものと記されており、後に将軍足利義政が所有していたときに、ひびが入ったので中国に送って代わりの品を求めたところ、当時の明王朝ではこれに優るものはできないとして、かすがいを打って送り返して来たと言われる。そのかすがいをイナゴに見立てて、「馬蝗絆」と呼ばれているとのこと。だが、この茶碗が重盛の時代に遡るとは考えられていないとのこと。それに、中国に送ったらこのようにして返してきたというのも、どうも信憑性があるとは思われないが、大胆に修理したものをまた新たな景色として取り入れて伝説を作ることで、茶碗の価値を高めていると考えると面白い。
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これも東京国立博物館所蔵の重要文化財、「柿釉金彩蝶牡丹文碗 (かきゆうきんさいちょうぼたんもんわん)」(11~13世紀)。この渋い色合いは、上で見て来た青磁とは全く異なるもの。これは中国製だが高麗の墓から出土したものらしい。この碗の薄さはまた独特の鋭さを持ち、なんとも言えない枯れた味わいがある。考えてみれば、800年とか 900年前の焼き物がこれだけ多く、割れずに保存されている日本という国は本当にすごい。価値を認めたものには最大限の注意を払って大事にするわけで、それによって守られた対象にも、星霜を経て自然と品格が出てくるということであろうか。
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これは大阪市立東洋陶磁美術館所蔵の重要文化財、「木葉天目 (このはてんもく)」(12~13世紀)。加賀前田家に伝来したもので、実際の木葉を置いて焼き上げたものと言われているらしい。この美的センスには黙るしかないだろう。もしこのような仕上がりを想定して焼かれたものなら、そのセンスには脱帽しかない。
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これは常盤山文庫の所蔵になる、「犀皮水中 (さいひすいちゅう)」(13世紀)。中国 (南宋) 製で、犀皮と名付けられているが、サイの皮ではなく金属の上に漆で模様をつけたもの。これはペルシャから来た形であろうか。色合いは渋いものの、わび・さびとは違ったバタくささ (?) があって、見ていて飽きないのである。
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展覧会には「描かれた茶の湯」というコーナーがあって、いくつかの絵巻物が展示されているが、これは文化庁所蔵になる室町時代の「酒飯論」。酒好き、飯好き、両方好きの諸派 (?) の様子を描いているという面白い絵巻物。当時の日本人の生活を想像できる、ちょっとほかにない作品だ。でも、メシ食ったり酒飲んだりしている様子を描くのを、王朝絵巻のように雲で包む必要はないように思うが (笑)。
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さて、展覧会はその後、「侘茶の誕生」というコーナーに入る。ここにも名品の数々が並んでいて圧巻であったが、これは文化庁所蔵の重要文化財「灰被天目 銘 虹 (はいかつぎてんもく めい にじ)」(14~15世紀)。私は美しく展示されたこの茶碗を、ガラスケースに張り付くようにして見て、手に取ってみたらどんなに心地よいかを想像してみた。だがこれはもともと足利義政の所有になるもので、近代には益田鈍翁の所有であったものとのこと。私ごときが親しく手に取ることなど、夢のまた夢なのだが、それにしてもそのような親しみを感じさせる独特の雰囲気を感じる。
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そしてこのあたりから小さな展示品が増えてくる。侘茶の時代に入り、茶の湯の普及と特定の特権的な名前による権威づけがどんどん進んで行く。戦乱の世にあって茶の湯とは、武士も刀を抜いて行う儀式であるがゆえに、ある異常な緊張状態の中で、時に人の命まで左右するような重みを持つ文化に発展して行ったものと解釈した。これは徳川記念財団の所蔵する重要文化財「唐物肩衝茶入 銘 初花 (からものかたつきちゃいれ めい はつはな) (13~14世紀)。高さわずか 8.8m の、茶を入れる小さな容器であるが、驚くなかれ、信長 、秀吉、家康の手を渡って来た逸品なのである。実は天下の三肩衝 (「かたつき」とは形の名称) と称される茶入があり、この「初花」以外には、「新田」と「楢柴」である。このうち「新田」は、今回は出展されていなかったようであり、もうひとつの「楢柴」は、実は既に現存しない。映画版の「タイムスクープハンター」をご覧になった方は、そこに登場する商人・茶人の今井宗室が、命に代えても守ろうとする小さな茶入があったのを覚えておられようが、それがほかならぬ楢柴であった。茶入とは、人の命よりも大事なものであるのか・・・。今日この茶入をどんなに眺めても、そのような壮絶な歴史を思い起こすのは困難だ。
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展覧会はそれから、高校の教科書にも出てくる村田珠光 (むらた じゅこう 1422/23 - 1502) や武野紹鷗 (たけの じょうおう 1502 - 1555) という人たちに関連する出品物が続く。これは武野紹鷗自作の竹茶杓である。
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16世紀前半より、珠光の流れを継ぐ茶の湯者の間で、侘茶の流行とともに、茶室の中には唐絵だけでなく禅林墨跡が掲げられることになる。これは東京国立博物館所蔵の国宝「無相居士宛 尺牘 (むそうこじあて せきそく)」。12世紀のもので、筆者は南宋の僧、大慧宗杲 (だいえそうこう 1089 - 1163)。かなり硬派な感じである。
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これは高麗茶碗で、京都大徳寺の孤蓬庵所蔵の国宝「大井戸茶碗 喜左衛門井戸」(16世紀)。唐物ではなく、朝鮮半島の日用雑器を茶器として使用したものを井戸茶碗と言うらしく、これはその最高峰と言われるもの。少し大振りであり、雄大なスケールを感じると言ってよいと思う。
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そしてもちろん、茶の湯の大成者であり歴史上その名を知られる千利休 (1522 - 1591) ゆかりの品々が並ぶ。まずこれは、大阪の正木美術館所蔵の重要文化財「千利休像」。1583年、利休の生前の姿を描いた唯一の遺品であり、作者は長谷川等伯と伝わっているが、その点の確証はないようだ。自信に満ちた表情のように見えるがいかがであろうか。
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利休ゆかりの茶入、茶壷、花入などが並んでいるが、私の目を引いたのは、この「耳付籠花入 (みみつきかごはないれ)」(16世紀)。なんの変哲もない籠であっても、利休が所持したというその事実だけで価値が出てくるのが面白い。本来は魚籠であったものを利休が花入れとしたと言われる。そう思ってみると、それぞれの編み目も趣き深く思われてきて面白い。利休は、いわばミダス王のように、なんでもないものに手を触れて貴重なものに変えてしまった。
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利休の時代の代表的な陶芸家、樂焼の創始者、初代長次郎 (? - 1589) の「黒樂茶碗 銘 ムキ栗」(16世紀)。これはなんと、口の部分が四角形になっているという変わり種。樂焼は現代にまで続く焼き物であるが、破天荒一歩手前のこの想像力には脱帽する。LED を利用した会場の展示方法によって、昔の鑑賞法ではありえないほど、繊細で美しい茶碗の姿を堪能することができた。
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さて、古田織部 (1543 - 1615) になってくると、こちらは本当に破天荒な表現力でよく知られるが、これは、その織部の影響と考えられる「伊賀耳付水差 銘 破袋 (いがみみつきみずさし めい やぶれぶくろ)。この、現代陶芸のような自由な発想には本当に驚かされる。
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これは、三井記念美術館所蔵の国宝「志野茶碗 銘 卯花墻 (しのちゃわん めい うのはながき)。白っぽく大振りで、白い釉と左右の茶色い線が独特の風情を作っている。日本で作られた茶碗の国宝は、これともう 1点、本阿弥光悦の白楽茶碗 銘 不二山 (展覧会には出品されておらず) の 2点しかないそうだ。
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そしてこれは、文化庁所蔵の重要文化財、野々村仁清 (生没年不詳) の「色絵若松図茶壷 (いろえわかまつずちゃつぼ)」(17世紀)。仁清らしい華やかな色彩と上部の黒い釉との対照が美しい。そして、ここまで辿ってきた茶の湯を巡る美意識も、いよいよ泰平の江戸時代の空気を反映して来ているように思われる。
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冒頭に述べた通り、膨大な出品物の一部しかご紹介できなかったが、やはり茶の湯が日本人の美意識に与えた決定的な影響を様々に実感できる貴重な展覧会であった。鑑賞者の感性への刺激と、そしてそのモノの持つ謂れの双方がないと、高い評価がつかない分野ではあるが、現代に生きる我々は、それが国宝であろうが文化財指定がなかろうが、自由な視点で気に入った茶碗などをめでる特権を持っている。その特権を使える機会を、また持ちたいものだと思う。

by yokohama7474 | 2017-06-10 03:04 | 美術・旅行 | Comments(0)