<   2017年 06月 ( 23 )   > この月の画像一覧

海辺のリア (小林政広監督)

e0345320_21250177.jpg
この記事は短く終わるだろう。なぜなら、ここで私がしようと思っていることは、日本演劇界の至宝たるべき仲代達矢が齢 80を超えて熱演を果たしたと思われた映画が、誠に遺憾ながら、かくも期待外れであったということのみであるからだ。すべてロケで撮影されたというこの映画、その中身は、あえて言ってしまえば自主映画 (という言葉が未だ存在するのか否か知らないが、私自身が学生時代に 8mmを使った「自主映画」の当事者であったので、この言葉が発する独特のニュアンスを理解する) さながらであり、作り手がこれをどのように自己評価するのかに興味を抱くほどなのである。私としては非常に残念なのであるが。

出演俳優陣の顔ぶれは見事の一言。仲代以外に、原田美枝子、阿部寛、小林薫、黒木華。完全にこれら 5名の俳優のみによって成り立っている映画なのである。だが、どうしたことであろう。黒木華は頑張っている割には全く精彩がないし、夫婦役である原田美枝子と阿部寛は、キャリアの違いから前者がかなり年上であるかのようなイメージがあり (実際には 5歳違いだが)、見ている者は二人の関係を理解するのに時間がかかる。そして小林薫はそれなりにいい味出しているものの、一言もセリフがないのである。ここで認知症の元スター俳優、桑畑兆吉 (もちろん黒澤ファンはこの苗字になじみがあり、この映画でも三船敏郎の名前が言及される) を演じる 84歳の仲代は、本当にこんなことを言って申し訳ないが、思い切って言ってしまうと、かなり滑っているとしか思えない。もし彼が舞台でリア王を演じるなら、もちろんそれは感動的なものになるだろう。だが、ここでは「リア王」のセリフの一部をそのまま引用しながら、舞台設定はその劇とは全く異なるもの。もちろん、こういうやり方があってもよい。もし作り手に、シェイクスピア以上の作劇力があるならば。仲代の演じるリア王と言えば、もちろん、このブログでも以前触れたことのある黒澤明の「乱」という翻案物があるが、それとても私の黒澤感からすれば、大変残念な出来であったのである。いわんやこの映画においてをやである。残念ながら。

先般 NHK の「探検バクモン」で、仲代が主催する無名塾の様子を放映していて、大変興味深かった。そこで初めて見た無名塾の建物、すなわち仲代の自宅の入り口が、この映画で、主役である桑畑の自宅として使われていたのは正直、若干興ざめであった。私にとっての映画は、ドキュメンタリーを除けば、常にかっちりとした虚構の世界。嘘が嘘として通じる映画こそ、優れた映画であると私は信じている。それはつまり、見る者が主人公とそれを演じる役者その人を同一化するように作るのは、時に危険だということであり、残念ながらこの映画は、観客があれれと思って心配して見ているうちに、大胆にもその危険エリアにズカズカと立ち入ってしまったというのが、私の印象である。ちなみに、もうひとつ「探検バクモン」で目にした光景は、高齢に至った仲代は、最近ではセリフを覚える際に、弟子に手伝わせて台本全部を自らの手で書き写すという作業であった。ここにはもちろん役者魂を見ることができて大変興味深かったが、今回私がこの映画を見たテアトル新宿には、そのような手書き原稿の実物が展示してあったのである。これはこれで面白かったが、だからといって映画が面白いわけではない点が、大変残念な問題だ (笑)。ポスターで使われている「あんた、どちらさん?」というセリフが以下でも見ることができる。
e0345320_22072459.jpg
e0345320_22075262.jpg
映画の多くの部分は延々と続く砂浜で展開するが、ええっとすみません、私も学生時代の自主映画で、同じような場所で撮影しました (笑)。もちろんプロの作品であるからして、それなりにまとまっているとは思うが、ではそこに、はっとする瞬間がどのくらいあるかというと、私としては、「残念ながらほとんどない」と答えたくなる。本当に残念である。
e0345320_22105301.jpg
音楽について少し触れようか。ここでは、弦楽四重奏による演奏が時々入り、それなりに叙情性を醸し出している。エンドタイトルで確認したところ、演奏は、N 響のヴァイオリン奏者である齋藤真知亜 (男性です) をリーダーとする Matthias Strings。因みにここで脱線すると、この Matthias という言葉、もちろんリーダーのマチアという名前に由来するものであろうが、美術好きには常識であるように、あの壮絶無比な「イーゼンハイム祭壇画」を描いたマティアス・グリューネヴァルトのファーストネームであり、また音楽好きには、その画家をモデルとして作られたヒンデミットのオペラ (及びそれをもとに作られた交響曲)「画家マティス」を思わせるものであろう。だが私がここで頂けなかったのは、そのような高踏的イメージをまとった名前の演奏家たちが、この映画の中で演奏した既存曲の中に、グリークの「ペール・ギュント」から「オーセの死」と「ソルヴェイグの歌」の両方が入っていたこと。一部の方はもしかするとご記憶かもしれないが、このブログで昨年 12月27日に書いた「聖杯たちの騎士」で、既に全く同じことが起こっていたわけであり、正直、この映画のオリジナリティに疑問を持ってしまうことになったのである。偶然なら申し訳ないのだが、有名な同じ作品から 2曲を選ぶなら、オリジナルを用意した方がよかったのではないか。

というように、飽くまで私の個人的見解なので当然違う感想の方々もおられようが、あちこちで残念な出来であったこの「海辺のリア」。もしかするとこの監督と仲代の次回作では、最後に仲代が観客に語り掛け、「私の魔法は消えました。みなさまのあたたかい言葉だけが私の救い。もはやわが身には、使う妖精もなく、魔法をかける術もなく、絶望のみしかありません。この身の自由を、みなさまにお願いします」などというセリフが発されることになるのかもしれない。そして題名は、「山中のプロスペロー」。ダメですかね。

by yokohama7474 | 2017-06-28 22:37 | 映画 | Comments(0)

怪物はささやく (J.A.バヨナ監督 / 原題 : A Monster Calls)

e0345320_23054450.jpg
この映画のポスターと予告編を見たときにすぐに連想したのは、スペイン映画「パンズ・ラビリンス」であった。その映画については、昨年 2月 2日の「クリムゾン・ピーク」についての記事で触れておいたので、ご興味ある向きはご参照頂きたいが、要するに女の子が怪物の幻影を見て、その裏になんとも切ない事情があるというストーリー。その映画をご存じの方は誰しも、この「怪物はささやく」のイメージに、いわばその男の子版ではないのか、との思いを抱くに違いない。そうして実際に作品を見に行って購入したプログラムで、この映画のプロデューサーが案の定「パンズ・ラビリンス」のプロデューサーと同じベレン・アティエンサという人であると知って、意を強くしたのである。

この映画においては、母親と二人暮らしの少年が主人公である。夜中の 12時 7分になると、少年の家の隣に広がる丘の上の教会の敷地内にある大木が巨人に変身し、ノシノシと家までやってきて少年に話しかける。そして少年はその怪物と会話を交わし、時には恐ろしい幻影を何度も繰り返し見たり、無意識のうちに暴れてしまうことになる。そしてそこには、少年の深層心理のある秘密が隠されていた、という物語。原題にある "Call" はこの場合「呼ぶ」ではなく、「訪れる」という意味だろう。その意味では、原題の直訳は「怪物がやってくる」にでもなるだろうが、ここで「怪物はささやく」としたのは少しひねりが効いていて面白い。ただそれにしても、こんなものがしょっちゅうやってきて、ニューッと顔を出してはハイコンバンワと話しかけるのは、やはりちょっと怖いし、ささやくにしてはデカい声だ (笑)。
e0345320_23224295.jpg
細部に触れる前に映画の感想を言ってしまうと、残念ながら「パンズ・ラビリンス」の感動にはとても及ばなかった。その理由は、少年を取り巻く環境を細かく描きすぎて、怪物の語ることと実際に起こることとの間の連関性が徐々に見えることで、怪物の神秘性が減少してしまったことではないか。もちろん、今思い出してみて、少年の母、祖母、母と離婚した父、既に亡くなった祖父という人たちの人間像にはそれぞれ工夫が見られるし、特に母親の運命が切なく描かれているとは言えると思う。もしかするとこの話は、本で読んだならもっとイメージが広がって感動するのかもしれないが (実は、原作小説の著者が脚本を書いているのだが)、映画としては、映像のショック度で勝負する前に、ストーリーに依拠しすぎているような気がする。例えば、怪物は 3つの話を少年に対して語り、4つ目は少年が自分で語れと言うのだが、それらの怪物の説話はどうやら、人間というものの複雑さを説いているようであり、それ自体はイメージの広がりがあるようでいて、実は少年自身がそれらの説話によって何かに気づくということにはならない。これは上で書いた、「怪物の語ることと実際に起こることとの間の連関性」ということと矛盾するように響くかもしれないが、これらの説話は本筋のストーリーとは全く関連しないものなので、実は矛盾していないのである。

などと書いていると最低の映画のように響くかもしれないが、決してそこまでけなすつもりはありません (笑)。よいところを挙げると、まずは冒頭に登場するイメージはなかなかに鮮烈だ。丘の上に立つ教会がガラガラと崩れ落ち、墓地が陥没する。この映画を通じて何度もこのシーンが出て来て、なんとも寒々とした感覚を覚えさせるのである。舞台になっている場所について明言はないが、多くの人物の喋る英語のアクセントから、米国でないことは明らかで、墓地の十字架がいわゆるケルト十字架であることから、その鬱陶しい気候及び、少年の名前コナー・オマリーを併せて考えると、アイルランドかスコットランドか、ということになるだろうか。だが、巨人が産業革命による工場の建設に言及することから、申し訳ないが前者ではありえない (私はたまたまその国をよく知っているもので・・・)。ケルト十字架はこのようなもの。映画の中に登場するシーンではなく、飽くまでイメージを拝借しました。
e0345320_00101684.jpg
調べてみるとケルト十字架は、英国内ではスコットランドだけではなくイングランドにもあるようなので、まあ、英国のどこかの田舎が舞台と考えればよいだろうか。劇中に海の近くの遊園地に出かけるシーンがあるので、海沿いのどこかだろう。私の知識と経験の中では、ウィットビーなんかが近いかもしれない。作家のブラム・ストーカー (アイルランド人) が名作「吸血鬼ドラキュラ」の構想を練った街で、このような壮絶な廃墟のある、ホラー好きにはたまらない港町なのである。
e0345320_00145049.jpg
実はこの映画のロケは、イングランド北部、マンチェスター、ウェスト・ヨークシャー、ランカシャーあたりで行われたという。上記のウィットビーはノース・ヨークシャーにあるので、イメージとしてはやはり近いと思う。ホラー好きの方、是非お奨めです。

さて、特筆すべきは役者たちである。主役のコナーを演じたのは、撮影当時 12歳のルイス・マクドゥーガル。1000人の中からオーディションで選ばれたという。ほぼ全編出ずっぱりで、様々な感情を演じる必要のある役であり、例えば日本の 12歳の男の子でこんな演技ができる子がいるかと考えると、空恐ろしいほどだ。
e0345320_01081376.png
母親を演じるのはフェリシティ・ジョーンズ。なんとあの、このブログでもご紹介した「インフェルノ」「ローグ・ワン / スター・ウォーズ・ストーリー」の、あの女優さんである。この髪型なので気づくのに時間がかかるが、一方でこの髪型には理由があることも、徐々に分かってくるのである。難しい役だと思うが、見事に演じている。
e0345320_00310803.jpg
それから、モンスター映画と言えばこの人。シガニー・ウィーバーだ!! 少年の祖母を演じていて、実に渋い存在感だ。さすがである。
e0345320_00324224.jpg
そしてもう一人。怪物の声を演じているのは名優リーアム・ニーソン。実は劇中では家族の写真の中に彼の姿があり、それは少年の祖父なのである。それによって、少年にとっては亡き祖父の姿が、巨木の怪物に投影されていることが暗示されている。
e0345320_00370229.jpg
監督は J・A (フアン・アントニオ)・バヨナ。1975年生まれのスペイン人で、これが長編 3作目。前作は、私は見逃してしまった、ナオミ・ワッツとユアン・マクレガー主演の災害映画「インポッシブル」。そして次回作は、なんとなんと、あの「ジュラシックワールド」の続編だという。この映画では、上述の冒頭シーンをはじめ、映像として面白いシーンは幾つもあったので、これからの活躍に期待しよう。
e0345320_00421411.jpg
また、これも上述の通り、この作品は原作小説の作者が脚本も、それから製作総指揮も手掛けている。その人の名はパトリック・ネスといって、1971年生まれの作家である。この「怪物はささやく」を含めた数々の作品によって、これまでに様々な賞を受賞している若手作家であるらしい。作品名を見ていると、「心のナイフ」「問う者、答える者」「人という怪物」「まだなにかある」と、この映画の内容に近いものを連想させるものばかりで、ちょっと興味を惹く。なおこの人は米国生まれだが、現在では英国に移住しているらしい。でも、「パトリック」 (アイルランドの守護聖人で、ニューヨークのセント・パトリック教会で有名) というファースト・ネームも、「ネス」 (もちろんスコットランドのネス湖、ネッシーの棲み処) というファミリー・ネームも、見事にケルトを連想させるではないか!!
e0345320_00505758.jpg
とまあ、最初の方で否定的な評価を書きながらも、「パンズ・ラビリンス」とはまた違った持ち味があり、あちこちに文化的突っ込みを許容する面のある、大変興味深い映画であったというのが私の結論である。これを見て、もし夜中の 12時 7分にこんな奴が現れたらどうしよう!! と心配するようなことになれば、あなたも怪物とコミュニケーションできる素養があるかもしれません。あ、でも、夜中なので、怪物には本当にささやくような声で喋ってもらわないと、近所迷惑なのですが (笑)。
e0345320_00565625.jpg

by yokohama7474 | 2017-06-28 00:57 | 映画 | Comments(0)

山田和樹指揮 日本フィル マーラー・ツィクルス第 9回 2017年 6月25日 Bunkamura オーチャードホール

e0345320_22360027.jpg
足掛け 3年に亘って開催されてきた期待の若手指揮者、山田和樹と日本フィル (通称「日フィル」) によるマーラーの交響曲の全曲演奏も、第 9回である今回が最後。演奏されたのは、以下のような曲目である。
 武満徹 : 弦楽のためのレクイエム
 マーラー : 交響曲第 9番ニ長調

クラシック音楽をよくご存じの方には、この日の曲目には死の影が色濃く浮き立っていることが見て取れよう。マーラー・ツィクルスのフィナーレは華やかなものではなく、暗い死の影と隣り合わせなのである。この日も開演前に山田が登場して (通常はすぐ演奏会に入れるように燕尾服での登場だが、今回はタイなしのスーツ姿である)、プレトークを始めたところによると、8番までは感じることのなかった「これで終わり」という寂しさを今回は感じるという。この武満の曲 (1957年作曲) はこの作曲家の出世作であり、ストラヴィンスキーらに称賛された、という有名な話が披露されたあと、ほぼ専らマーラー 9番について語られることとなった。山田によると、この曲が採用しているニ長調という調性は、音楽史を見渡しても不思議と死と縁があるとのこと。ベートーヴェンがハイリゲンシュタットの遺書を書いた頃に書いていた晴朗な交響曲第 2番がこの調性だし、ハイドンの最後の交響曲、第 104番もしかり。ニ「短」調に視野を広げると、モーツァルトのレクイエムやブルックナー 9番が入ってくると。また山田は、この曲において重要なのは第 2ヴァイオリンであるという。このシリーズにおいて前回までは、指揮者の左手、第 1ヴァイオリンの奥に第 2ヴァイオリンが陣取り、指揮者の右手にはヴィオラがいたところ、今回だけヴィオラと第 2ヴァイオリンを入れ替えて、ヴァイオリンの左右対抗配置とした。それには明確な理由があり、この曲での第 2ヴァイオリンは、モーツァルトやベートーヴェンの曲での役割のように、第 1ヴァイオリンと一緒に演奏してその演奏を支えるという役割を超え、独自の動きをして、その動きが重要だからだという。例えば第 1楽章の冒頭のテーマ (マーラーが既に前作「大地の歌」の最後で「永遠に (ドイツ語で "Ewig")」という歌詞につけた音型を流用) は、通常なら主旋律を担う第 1ヴァイオリンではなく第 2ヴァイオリンが弾くものだし、最終楽章の荘重この上ない終結部も、第 1ヴァイオリンが沈黙したあとも最後まで第 2ヴァイオリンが演奏を続けるということが説明された。もしかすると、第 1ヴァイオリンが現世なら、第 2ヴァイオリンはあの世を表しているのかもしれないとも語られた。そして山田が最後に総括して言うことには、マーラーの楽譜には細かい指示が大変多いが、だからといってどんな指揮者の演奏もそれに忠実に従うあまり、同じような演奏になるかというと、全くそうではなくて、非常に多様である。ある意味でマーラーは、多様な価値を包含する世界性を持っている音楽であり、それこそ、多様な価値観の衝突が起こりがちな現代において必要とされているものではないか、と締めくくり、ともに「戦って来た」日フィルをはじめとする本シリーズの関係者への謝意が述べられた。今回のトークは、一見いつもの通りの飄々とした語り口でありながら、あまり脱線したりジョークを絡めることもなく、この稀代の交響曲に挑む緊張感を感じさせるものであった。
e0345320_21052088.jpg
前半の「弦楽のためのレクイエム」は、文字通り弦楽器 5部からなる 10分弱の曲。当時 27歳の武満が東京交響楽団からの委嘱を受けて書かれたものである。その厳しい音楽は後年の武満の美麗さと通底しながらも反撥しあう。往々にして、暗い絶望の中で揺蕩うように演奏されるが、山田の手にかかるとそれは重苦しい音楽というよりは、様々な線の絡み合いから立ち昇り、どこまでも続いて行く音の連なりのようであり、繊細さの表現に細心の注意を払いながらも時に大胆に聴き手に迫りくる、積極的な音楽であるかのように響いたのではないか。これは小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラによる録音のジャケット。
e0345320_21360600.jpg
そしてメインのマーラー 9番こそ、この畢生の大作に若き指揮者が果敢に挑んだことの結果が大きな説得力とともに鳴り響く、充実の名演となったのである。上記でご紹介した通り、この曲における第 2ヴァイオリン・セクションの重要性は明白である。このブログでも、昨年 11月28日の記事で、マリス・ヤンソンスとバイエルン放送響による同じ曲の演奏を採り上げたが、奇しくもその記事で私は、第 2ヴァイオリンの充実を素晴らしい成果として指摘した。この曲においてマーラーが描き出した、ある意味で単純明白な要素 (死への恐怖、現世への別離) を強調するために、様々に複雑な要素が盛り込まれているというと逆説的だが、今回の山田と日フィルの演奏はその逆説性を仮借なく抉り出した。演奏時間 80分になろうかというこの曲の全体を見通してみると、恐ろしいほどの音響が渦巻く両端楽章と、諧謔味がさく裂する中間 2楽章との間の対比が重要であるところ、今回は中間の第 2・第 3楽章での山田の快刀乱麻ぶりが際立っていたからこそ、もう逃げも隠れもできないほど激しいエモーションを必要とする両端楽章が、強い説得力を持ったのであろう。例えば第 2楽章は三拍子のレントラー舞曲であるが、通常のテンポ、速いテンポ、遅いテンポという切り替えが見事で、快速な場面でのティンパニの強調も決まっていたと思う。第 3楽章ロンド・ブルレスケは、中間部のノスタルジックなトランペット以外は常に動き回る音楽であり、日フィルの技術が大変な冴えを聴かせた。翻って第 1楽章は、私の耳には冒頭が少し硬いかなという気もしたが、丁寧な第 2ヴァイオリンの演奏が陰影を紡ぎ出していたし、終楽章は出色の出来で、中間部で弦楽合奏だけで壮大になる部分では鬼気迫るものを感じた。そして、長い長い時間をかけて「死んで行く」ように終わって行く終結部。このツィクルスを最初から聴いて来た私としては、その最後の最後の音が消えて行く現場に立ち会えたことを、本当にありがたく思ったことである。

東京のマーラー受容には既に充実した歴史があるが、ここに、30代の日本人指揮者として恐らく初めて、9曲の交響曲の全曲演奏を成し遂げた山田和樹は、忙しい海外での活動の傍ら、日本でも意欲的なプログラムが今後目白押しだ。もちろん、年を経ればまた音楽が変わって行くことも充分あるであろうから、同時代に生きる者として、そのような彼の創生・深化・昇華 (今回のマーラー・ツィクルス三期それぞれのテーマ) を是非見て行きたい。ツィクルス完走、まずはお疲れ様でした!!

by yokohama7474 | 2017-06-25 21:55 | 音楽 (Live) | Comments(3)

シモーネ・ヤング指揮 読売日本交響楽団 (ピアノ : ベフゾド・アブドゥライモフ) 2017年 6月24日 東京芸術劇場

e0345320_01313842.jpg
しばらく出張に出て慌ただしい時間を過ごしていたが、こうして週末のコンサートや映画に出かけることによって、何か日常の自分のペースが戻ってきたような気がする。あ、そう言いながらも、そのような個人の趣味の時間も、出張に負けないくらい実は慌ただしいのであるが (笑)。ともあれ、今回読売日本交響楽団 (通称「読響」) の指揮台に初めて登場するのは、今や世界で大活躍のオーストラリア人、シモーネ・ヤングである。昨年 11月には、こちらは東京交響楽団 (通称「東響」) を初めて指揮して、オーケストラ・コンサートを開くほかに、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」を演奏しており、私も記事でそれらを採り上げた。2015年まで務めたハンブルク歌劇場及びハンブルク・フィルの音楽監督を退いてからは、決まったポストはないのであろうか。このような優れた指揮者が日本の複数のオケに客演してくれることで、またまた日本の音楽シーンが楽しくなる。今回はそれを実感できるコンサートであった。
e0345320_01461104.jpg
今回の曲目は以下の通り。
 プロコフィエフ : ピアノ協奏曲第 3番ハ長調作品26 (ピアノ : ベフゾド・アブドゥライモフ)
 リヒャルト・シュトラウス : アルプス交響曲作品64

おめあてはもちろん、シュトラウスの大作、アルプス交響曲なのであるが、この曲は本来そうそう演奏されるものではないはずだが、東京ではやはり昨年 11月、あろうことか、クリスティアン・ティーレマン指揮のシュターツカペレ・ドレスデンと、マリス・ヤンソンス指揮のバイエルン放送交響楽団という世界一流のコンビが数日の差を開けて相次いでこの曲を演奏した。それから半年余り。東京を代表するオケのひとつである読響も、負けじと是非ここでその真価を見せて欲しいものである。だがその前に、前半に演奏されたプロコフィエフでも、なかなかに活きの良い若手ピアニストが登場して会場を沸かせることとなった。1990年生まれのウズベキスタン人、ベフゾド・アブドゥライモフ。様々な民族が暮らす中央アジアの人らしく、ちょっと東洋系の顔立ちである。
e0345320_01530145.jpg
私は今回彼を初めて聴いたが、このプロコフィエフの慌ただしい曲を、少し猫背になりながら集中して弾く姿には、自分をカッコよく見せようという邪心がなく、好感が持てた。さらに技術を誇示してもよいのではないかと思うくらいであったが、見ていて面白かったのはヤングの伴奏で、この人、指揮ぶりはあまり器用には見えないのだが、時折ピアニストに目をやりながらあちこちのパートに指示を出し、第 1楽章や第 3楽章の追い込みではかなりの突っ走り方でピアノと競り合っていた。やはりプロコフィエフの 3番はこうでないと (あ、宇野功芳入ってしまいました。笑)。もちろん、ピアノに異常な迫力があるというわけではなかったので、例えばアルゲリッチの演奏のような白熱には至っていなかったものの、これはこれで優れた演奏と言ってよいであろう。アンコールは私の知らない曲であり、ショパン風に聴こえる瞬間もあるが、さらに抒情的で切ないメロディであったので、何かと思えば、チャイコフスキーの「6つの小品」作品 19の第 4曲、夜想曲であった。プロコフィエフの喧騒のあとの口直しとしては最適であったろう。

そしてメインのアルプス交響曲。冒頭の朝日が昇る場面からして、音が重々しく荘厳だ。そして蠢く低音から徐々に盛り上がり、ついに輝かしい光を放つ箇所では、早くも鳥肌立つような広がりのあるオケの音が全開となった。そしてそれから切れ目なしの 50分、各場面の精妙な描写が連続する中で、常に美しくまた広がりのある音が聴かれ、自然やそれに対峙する人間を描いたこの曲の真価を、存分に楽しむことができた。今回の会場である東京芸術劇場は、概して響きはよいものの、時に木管楽器の音の輪郭が鋭さを欠くように思う。今回もその点が少し気になる瞬間は何度かあったものの、木管も金管も、演奏自体は素晴らしいレヴェルであったし、改めて実感したのは、この曲における弦楽器の滔々たる流れであり、ヴァイオリンの左右対抗配置 (プロコフィエフでもそうだったが) が絶大な効果を発揮していたと思う。上記の通り、ヤングの指揮ぶりはさほど器用なものとは思えないものの、実はここぞというときにはくっきりと音を描き出す技術を持っていて、きっと楽団員もあれなら演奏しやすいのではないだろうか。以前東響で指揮したブラームス 4番では、かなり緩急自在であったと記憶するが、今回のシュトラウスではむしろ堅実に音を引き出している印象であった。高揚感を漲らせる山頂のシーンや、迫力溢れる嵐の場面でも、必要以上にオケを煽り立てることはなく、しかるべき道筋を順々に辿って、楽員が遭難しないように (?) うまく誘導していたと思う。それでいて作為性を感じさせることなく、ごく自然な音楽的感興を常に聴くことができた点、やはり非凡な演奏であったと思う。
e0345320_02250531.jpg
今回のシュトラウスを聴きながら思ったことには、この指揮者は意外とストラヴィンスキーやバルトーク、あるいはラヴェルが面白いのではないか。もちろん前半のプロコフィエフにその適性の片鱗が見えたが、「春の祭典」「管弦楽のための協奏曲」「ダフニスとクロエ」といったレパートリーを聴いてみたい。これまでのレコーディングではブラームスやブルックナーなどのドイツ物が中心だが、この手腕であれば何でもできてしまいそうだ。

そんなわけで、今後東京で再会するのが楽しみな指揮者である。あ、もしかすると、ヤングが女性指揮者として世界有数の実績を誇るということに触れないのかと思う方もおられるかもしれないが、それは以前の記事でも書いたし、写真を見れば女性であることは一目瞭然なので (笑)、そのことには触れる必要はないだろう。性別を話題にする必要もなく、その優れた手腕をこそ、今後も聴いてみたいものだと思っている。

by yokohama7474 | 2017-06-25 02:30 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ブリューゲル「バベルの塔」展 東京都美術館

e0345320_22064189.jpg
何やら、最近ますます大変な混雑になっていると耳にする展覧会。既に 4月から始まっていて、まる 3ヶ月以上の会期の、既に終盤に入っている。私がこの展覧会に出かけたのは、既に 2週間ほど前。そのときにもかなりの混雑であった。これは何の展覧会かというと、上のポスターにある通りの「バベルの塔」の展覧会だ。太古の昔、人間があまりに高い塔を建てたので神の逆鱗に触れ、同じ言葉を話していた人々に別々の言葉を喋るようにして、人間社会を分断したという聖書にある逸話。ネーデルラント (というと今のオランダだが、彼が没したのは現在のベルギー、ブリュッセルである) の画家ピーテル・ブリューゲル (1525/1530 - 1569) の描いた有名な作品が本展の目玉になっている。だが、この展覧会のタイトルをよく見てみよう。頭に「ボイマンス美術館蔵」とあり、後ろの方には、「16世紀ネーデルラントの至宝 - ボスを超えて -」とある。実はこれらの要素が非常に重要なのであって、私としては、この素晴らしい展覧会を、ただ一点「バベルの塔」だけに集約したこの宣伝方法には疑問を禁じ得ない。この展覧会の価値はそれだけで測るにはもったいないのである。以下、何がそれほど素晴らしかったのか見て行くこととしよう。

まずこの展覧会の展示品がひとつの美術館から来ていることに注目しよう。その美術館名は (上のポスターでは短く省略されているが)、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館。
e0345320_22434268.jpg
この美術館はオランダのロッテルダムにあり、私も一度だけだが現地を訪れたことがある。ご当地ものであるネーデルラント、フランドル絵画だけではなく、20世紀の主要な画家の作品も多く所蔵する素晴らしい美術館である。長い館名は、この美術館のコレクションの基礎を作った 2人の収集家に因んでいるが、一人はフランス・ボイマンス (1767 - 1847)、もう一人はダニエル・ヘオルフ・ファン・ベーニンゲン (1877 - 1955)。美術館の開館は 1849年と、驚くほど早い。オランダの文化度の高さを具現するような美術館なのである。展覧会はまず彫刻作品で始まる。これは 1480年頃の作品で、4大ラテン教父、つまり聖アウグスティヌス、聖アンブロジウス、聖ヒエロニムス、聖グレゴリウスである。作者はアルント・ファン・ズヴォレという彫刻家とされている。高さ 74cm ほどの小ぶりなものであるが、その佇まいの清冽さが印象的であり、衣の繊細な処理も、日本の古い木彫を見慣れた私としても、非常に優れた出来であると思う。
e0345320_23112522.jpg
これはまた見事な祭壇彫刻。1500年頃の作とされている「十字架を担うキリスト、磔刑、十字架降下、埋葬のある三連祭壇画」。作者不詳である。この手の木彫りはドイツにも驚くほが見事な作品が多くあるが、地理的に近く、同じプロテスタント地域であるネーデルラントにおいても同様であるようだ。
e0345320_23161868.jpg
このような木彫作品の素晴らしさもさることながら、このネーデルラント / フランドル芸術の特色は、宗教画であっても仮借ない人間の姿が表されていることではないだろうか。例えばこれは、ヤン・プロフォースト (1465頃 - 1529) という画家の手になる「アレクサンドリアの聖カタリナの論争」(1520年頃)。ここに表現されている人体は決して写実的ではなく、それは画家の技術の欠如にもよるのかもしれないが、ただここにはなんとも言えない奇妙な生々しさがある。真ん中右でピンクの衣装を着ている聖カタリナの指の動きの繊細なことは驚くべきだし、その右側に見える正面を向いた少女は天使の化身らしいが、その場違いな落ち着いた表情はどうだろう。その右側にいる人物は真横を向いていて不気味なら、奥の方に見えるのは架空の建築群なのである。
e0345320_23153636.jpg
これも同じ聖カタリナの肖像なのであるが、1500年頃の作で、作者は判明しておらず、「枝葉の刺繍の画家」と呼ばれているらしい。華やかなイタリア・ルネサンスとは全く異なる静謐さを持つこの絵に、遥か後年のベルギーでのシュールレアリズムの萌芽を見るような気がするというと、話を面白くしすぎであろうか。
e0345320_23252832.jpg
同じ祭壇画から、こちらは「聖バルバラ」。うーん、これも大変に美しい。
e0345320_23350147.jpg
さてこれは、ルカス・ファン・レイデン (1489/94 - 1533) 周辺の画家の手になるとされる「女性の肖像」(1520年頃)。ここにも美化されていない人間の姿が表れていて、素晴らしい。
e0345320_23352679.jpg
これは少し時代が遡り、1480年頃の作者不詳の「風景の中の聖母子」と、その裏に描かれた「本と水差し、水盤のある静物画」。この聖母子は、解剖学的には正確ではないようだが、その平穏な雰囲気には何かほっとするものがある。一方で、ネーデルラントでその後伝統が作られて行く静物画であるが、これはトロンプルイユ (だまし絵) 的な表現だが、白いタオルや真鍮の洗面器と水差しは、受胎告知を象徴するという。むむ、ここでも遥か後年、ベルギーで発展した象徴主義 (サンボリズム) につながるものを見てしまいたくなるではないか。
e0345320_23383273.jpg
e0345320_23394963.jpg
ここで初めて知った名の画家と対面する。ハンス・メムリンク (1433頃 - 1494)。「風景の中の二頭の馬」(1490年頃) という作品で、家庭用祭壇画の一部であるらしい。ここでは二頭の馬だけでなく猿も登場して、何か寓意があるらしいが、だがこの破綻のない風景と動物の組み合わせに、高度な洗練を感じるのである。
e0345320_23440527.jpg
これも名の知れた画家の作品。ヨアヒム・パティニール (1480頃 - 1524) の「牧草を食べるロバのいる風景」(1520年頃) である。パティニールについては随分以前、2015年 9月26日の記事で「世界初の風景画家」とご紹介した。だが彼の風景画は、ただ風景だけを描いたものではなく、宗教画の一部なのである。この作品も聖母子の「エジプト逃避途上の休息」を描いた作品の一部であるらしい。だがなんとも気持ちが安らぐ風景ではないか。
e0345320_23490854.jpg
かと思うとこれは、その同じパティニール周辺の画家の手になるとされる「ロトと娘たち」(1520年頃)。これは打って変わって人の心を不安にさせる光景である。私の見るところ、この平穏さと不気味さの交錯が、パティニールより一世代前かと言われるボスや、その影響を強く受けたブリューゲルの作品にも通底していて、ネーデルラント絵画の特異な持ち味を充分に感じさせるのである。
e0345320_23575377.jpg
というわけで、ついに登場するのが、ヒエロニムス・ボス (1450頃 - 1516) である。世界最初の奇想の画家と言ってもよいだろう。後世 (1610年頃) に描かれた、版画による彼の肖像画はこれである。頭の後ろに何やら奇怪な生き物たちが描かれているが、これぞボスからブリューゲルに受け継がれた奇想の数々。
e0345320_00070313.jpg
そして私はここで声高に叫ぼう。この展覧会は何もブリューゲルの「バベルの塔」だけが売りではないはずだ。なぜならここには、世界にも 30点ほどしかないボスの真筆作品のうちのなんと 2点が出品されているからである!! こんな貴重な機会はそうそうあるものではない。未だご覧になっていない方は、とにかく悪いことは言わないから、これらの作品と対面するために上野に馳せ参じるべきである。まずこれは、「放浪者 (行商人)」(1500年頃)。ここにはボスの真骨頂である奇想はない。だが、旅籠か娼家とおぼしき左後ろの建物から去って行くみすぼらしい男の振り返るところ、豚が飼料をむさぼり、男が女を口説き、また別の男は放尿している。そのような猥雑な風景を振り返る中央の男の表情は、名残惜しいようにも見えるし、軽蔑しているようにも見える。ローマ・カトリックの感性ではこのような人物は決して描かれないであろう (ルターの宗教改革は 1517年だが、それ以前に既に、ローマ・カトリックのものとは違う物の見方による表現があったということだろう)。
e0345320_00114011.jpg
e0345320_00115454.jpg
今回出展されているもう一点のボスの作品は、「聖クリストフォロス」(1500年頃)。川を渡る際に背負った赤子が実はキリストで、世界の創造を背負った重さになるという逸話である。このテーマ自体は珍しいものではないものの、左の岸では熊の死骸が吊るされ、右の岸では樹木に不思議な住居が突き刺さっている。控えめとはいえ、まぎれもないボスの指向がはっきりと表れている。
e0345320_00201230.jpg
この展覧会にはまた、ボスの作り出したイメージによる後世の版画も沢山展示されていて、興味が尽きない。以下「樹木人間」、「様々な幻想的な者たち」、「ムール貝」、「二人の盲人のたとえ話」。この画家のブラックなイメージを堪能されたい。
e0345320_00255566.jpg
e0345320_00273078.jpg
e0345320_00280177.jpg
e0345320_00282061.jpg
そしてこの展覧会の主役、ピーター・ブリューゲル (1525/1530 - 1569) である。その子孫たちも画家として実績を残したが、やはり元祖としての地位は揺るぎない。これは死後、1572年の版画による肖像。生年不詳とは言え、40代半ばまでには没していたようであるが、その髭から、大変な老人に見えてしまう。
e0345320_00313310.jpg
日本ではこれまでもブリューゲルとその周辺の画家の展覧会は何度も開かれていて、その中には 1993年に今回と同じ「バベルの塔」が来日したセゾン美術館での展覧会もあるが、あろうことか手元にその図録がなく、もしかしたらその時は見逃したのかもしれない。だが、1989年ブリヂストン美術館での「ピーテル・ブリューゲル全版画」展、1990年国立西洋美術館での「ブリューゲルとネーデルラント風景画」展、1995年東武美術館での「ブリューゲルの世界」展、2010年 Bunkamura ザ・ミュージアムでの「ブリューゲル版画の世界」展の図録は手元にある。中でも最初に挙げた展覧会では、ブリューゲルの全版画を見ているはずだから、今回展示されている版画の数々も、きっと見ているはず。だが、もうこれらは何度見ても飽きることがなく、そのめくるめく奇想には、人間の脳髄を直接刺激するものがあるのである。以下「聖アントニウスの誘惑」、「七つの大罪」から「大食」、「忍耐」、「最後の審判」。
e0345320_00445006.jpg
e0345320_00471490.jpg
e0345320_00483316.jpg
e0345320_00485980.jpg
一方、ブリューゲルの版画においては、正確な細密描写や、夥しい数の人間たちの密集も特徴になっている。以下は「ガレー船を従えた沖合の 3本マストの軍艦」と「農民の婚礼の踊り」。これらを描く技術は、大作「バベルの塔」にそのまま活きていることであろう。
e0345320_00494647.jpg
e0345320_00513603.jpg
その「バベルの塔」(1568年頃) は、展覧会場では特別扱いであり、広い空間に一点だけ、恭しく展示されている。
e0345320_00532311.jpg
今回、芸術新潮や NHK の「日曜美術館」でも、漫画家の大友克洋 (私も深く尊敬している) がこの塔の内部を独自に再現するような試みを披露しており、それはそれで面白いのだが、やはりこの作品自体をじっくり見るべきではないだろうか。ブリューゲルの「バベルの塔」と言えば、この 5年ほど前の作品もあり、ウィーン美術史美術館の所蔵になっているが、こちらのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館所蔵のものはさらに遠近法が強調され、異様さが増している。幻想的でありながら細部の凄まじいリアリティを見ると、ほかのどのブリューゲル作品とも異なる SF 性を感じることができ、一体この人のヴィジョンはどうなっていたのかと、空恐ろしくなるばかりである。このように、絵の中では多くの人たちが塔の建設に携わり、各種機械も設置されているのである。
e0345320_00585019.jpg
e0345320_01004722.jpg
e0345320_01010663.jpg
e0345320_01012556.jpg
このように、もちろん「バベルの塔」の素晴らしさを実感することも重要であると同時に、それ以外に展示されている作品たちの質の高さも、充分に楽しみたい展覧会であり、それゆえ私は、一点豪華主義であるかのようなこの展覧会の宣伝方法には納得できないのである。ともあれ、現地でこれらの作品を目にすると、宣伝がどうのこうのということを忘れてしまうことも事実。素晴らしい内容なのである。さて最後に、私の個人的な思い入れに触れて、この記事を終えることとしよう。実は私にとってボスとブリューゲルの作品集は、私が初めて買った西洋絵画の画集であったのである。最初の画集がマネやモネやゴッホやルノワールではなかった点、私の指向する美術の傾向が明確に表れているのである・・・。今も書庫にあってすぐに手元に出てくるその画集は、集英社の世界美術全集の第 18巻。1978年の発行だから、40年近く前の本で、当時私は中学 1年生だ。あ、なんと表紙には、今回の展覧会に出品されている「放浪者」が採用されているではないか。
e0345320_01110844.jpg
今でもページを開くと、異様な図像の数々と首っ引きで詳細な解説を一生懸命読んだことを思い出すが、この本の主要な執筆者は、驚くべきことに今に至るも日本の誇るボスとブリューゲルの世界的権威である美術史家の森洋子なのである。上のカバーにある通り、1,450円という値段は 40年前のものであっても (笑)、内容は今でも豊かな啓示に満ちたもの。本当に日本においては、西洋絵画を学ぶ文化的土壌はずっと存在しているのであって、いながらにして実物を目にできることと併せて、文化の使途たちはその幸福に感謝を捧げるべきだろう。その思いをもって、会場の混雑を乗り切るべし!! 会期はあと一週間である。

by yokohama7474 | 2017-06-25 01:22 | 美術・旅行 | Comments(6)

トン・コープマン指揮 NHK 交響楽団 2017年 6月14日 NHK ホール

e0345320_23032749.jpg
以前もこのブログで触れたことであるが、東京におけるコンサートのメッカであるサントリーホールは現在改修中。通常定期演奏会をここで行っているオケはそれぞれに、それぞれにほかの会場で定期演奏会を継続中だが、ひとつだけ、本来サントリーホールで行っているべき定期演奏会を取りやめたオケがある。NHK 交響楽団 (通称「N 響」) である。もちろん東京 No.1 オケとしての存在感は未だ健在であるものの、昨今のほかのオケの充実ぶりには目を見張るものがあり、その意味では、このオケが行っている 3つの定期プログラムのうち 2つが、あの巨大な NHK ホールでの演奏であることは、今後 10年の N 響を占う上では、由々しきことなのではないかと私はいつも思っている。なので、サントリーホールが改修中、サントリーホールでの定期を取りやめ、代わりにその NHK ホールでの 3ヶ月だけのシリーズ (と、同じ内容でのミューザ川崎シンフォニーホールでの木曜 15時からのシリーズ) になったことに、複雑な思いを抱くファンは多いことだろう。この 3回シリーズ、上のポスターにある通り、4月は広上淳一、5月はウラディーミル・フェドセーエフが指揮台に立ち、そして今月 6月の最終回は、オランダ出身の古楽専門指揮者、トン・コープマンの登場である。今年73歳。「渋谷・大人の寄り道」をどのように演出してくれるのであろうか。
e0345320_23203402.jpg
実はこの演奏会、発表当初は英国の名指揮者、ネヴィル・マリナーの指揮で予定されていた。だがマリナーは昨年 10月、残念ながら 92歳で大往生。そして代役として選ばれたのがコープマンである。これはなかなかに興味深い。というのも、マリナーはモーツァルトを得意にしていたとはいえ、(研究はともかく実際の演奏活動においては) 飽くまで現代楽器オケを指揮する演奏家であったのに対し、このコープマンは一徹なまでの古楽指揮者。チェンバリスト、オルガニストでもある彼は、1979年に自ら設立したアムステルダム・バロック管弦楽団との演奏活動を積極的に展開して来た。実は彼とそのアムステルダム・バロック管とは、1991年の 5・6月と11月に、開場間もない池袋の東京芸術劇場で、モーツァルトの全交響曲 (番号付き 41曲、もとい 40曲 <なぜなら 37番は欠番なので> + 番号なし数曲) とレクイエムを、全 11回の演奏会で踏破しているのである。それも今となってはバブル時代の歴史的イヴェントと言えようが、加えてすごいのは、そのすべてを 1993年に NHK が BS で放送したこと。当時私はがんばって全 11回をビデオに録画したのだが、実は 1度だけ緊急番組が放送されたために録画し損ねたのである。それは今回調べてみると、第 4回。何の緊急番組であったかというと、元総理大臣、竹下登の証人喚問である (笑)。これもまたバブル時代末期のイヴェントであった。

ともあれそのような古楽のスペシャリスト、コープマンは、その経歴を見ると、王立コンセルトヘボウ管やベルリン・フィル等の一流モダンオケにも客演の実績があるとのこと。今回は N 響との初共演であるが、果たしていかなる結果になるのであろうか。今回の曲目はすべてモーツァルトで、以下の通り。
 歌劇「魔笛」K.620序曲
 フルートとハープのための協奏曲 K.299 (フルート : カール・ハインツ・シュッツ、ハープ : シャルロッテ・バルツェライト)
 交響曲第 41番ハ長調K.551「ジュピター」

実はコープマンと N 響は、同じ曲目で翌 15日 (金) は (しつこいようだが平日の 15時から!!) 川崎で、また 17日 (土) は上田市で、18日 (日) は豊川市で演奏会を開く。私の野心は、そのような地方公演を聴きに行くことであったが、今週土曜日から出張が入ってしまったので、やむなく今回、NHK ホールでの「水曜夜のクラシック」シリーズの一環であるコンサートに出かけることとした。ひとつ興味深いのは、今回もともとマリナーが予定していた曲目は、最初が「フィガロの結婚」序曲、それから 25番の交響曲、次に、これは同じフルートとハープのための協奏曲を経て、最後は 36番「リンツ」というプログラムであったのだ。つまりコープマンに指揮者が変更になって、協奏曲以外の曲目は総入れ替えになってしまった。理由は判然としないが、勝手に解釈すると、協奏曲以外は後期のウィーン時代の作品で揃えたかったということではないのか。その推測には理由があり、今回のフルートとハープのソリストは、いずれもウィーン・フィルの首席奏者。
e0345320_23570526.jpg
それに加え、今回客演コンサートマスターを務めるのは、元ウィーン・フィルのコンサートマスターとしておなじみの、あのライナー・キュッヒルなのである。つまりこのコンサートの主要な演奏家たちは、みなウィーン・フィルの一部ということになる。ウィーンで生まれた曲を演奏したくなるのも無理はない (笑)。
e0345320_00002486.jpg
さて、コンサートの内容であるが、私としてはいくつかの点で複雑な思いを抱くことになった。まずひとつは、やはり会場の大きさ。最近 NHK ホールの音響は、私の気のせいか、以前よりもよくなったような気がするのだが、とはいえ、多分に想像力でその響きを補って聴く必要があるケースが依然として多い。ほかのオケが響きのよいホールで自発性溢れる演奏を自在に展開している今、やはりこの環境が N 響の 10年後にとって重要な意味を持つだろうと、繰り返したい。今回の演奏では、前半がコントラバス 2本、後半が 4本という小さな編成であり、その微妙なニュアンスを聴きとるには、残念ながらこのホールは大きすぎる。それから、キュッヘルであるが、例によってひとりだけ、本当に冒頭の「魔笛」序曲から、音がビンビンと響いてくるのである。これはもちろんよい面もあると思うが、指揮者の志向する音楽はノン・ヴィブラートの古典的プロポーション。ウィーン的な蠱惑的音楽とはかなり異なっている。もっとも、ウィーン・フィルとても最近は多くの古楽系指揮者を指揮台に迎えてはいるものの、「これぞウィーン・フィル」という音はやはりロマン的なものであると思う。だから、キュッヒルの音が飛び出して聴こえてくることは、音楽のスタイルという観点からは、やはりちょっと違和感があったのである。但し、後半の「ジュピター」でキュッヒルの手元をよく見ていると、前半とは異なり、わずかにヴィブラートをかける場面もあるように見受けられ、実際に聴こえてくる音も、尻上がりに均一性が改善したように思えた。音楽とは本当に生き物なのであって、一流のプロといえども、すべて思ったように行くとは限らず、それこそが生演奏の醍醐味だと思うのである。コープマンの指揮自体は、予想した通り、鳥肌立つような霊感に満ち溢れたものとは言えない実直なものであったが、その小柄なからだをせっせと動かし、指揮棒を持たない両手でオケをリードする姿には真摯さが見られて、好感を持つことはできた。その一方で、モーツァルトの交響曲でも「ジュピター」くらいになると、少しはロマン性、と言って悪ければ、音楽の「味」が必要な箇所も多い。これは、以前も例えば、クリストファー・ホグウッドとエンシェント室内管の実演でも感じたことである。今回の演奏では、もう少しその「味」が欲しいような気がした。そしてコープマンが演奏会終了後の拍手に応えて、客席に向かって「モーツァルト!!」と叫んで指揮し始めたのは、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第 1楽章。アンコールでありながら、提示部をきっちり反復するあたりも真面目な印象だが、これは「ジュピター」よりもしっくり来る、N 響のアンサンブルがよく響いた演奏であった。あ、それから、フルートとハープのための協奏曲のソリストたちに関しては、もちろんきっちりとまとまっていたものの、正直、ちょっとおとなしいかなという気がしないでもなかった。彼らはアンコールとして、結果的にこの日唯一のモーツァルト以外の曲目 (笑)、ジャック・イベールの間奏曲を演奏し、これも洗練された優れた演奏であった。

上で書いたことはちょっと否定的に響くかもしれないが、でも私はこの演奏会を結構楽しんだことも事実。いわゆる古楽系の指揮者では、N 響はロジャー・ノリントン (私は彼のことを真の天才だと思う) との共演は多く果たしてきたが、ノリントンは病気も患ったし、既に高齢。この系列の指揮者で新たな可能性を発掘するには、コープマンのような人はなかなかに面白い選択だと思う。N 響の挑戦ということになるものと思うので、また再演があってほしい。やはり、次はバッハではないでしょうかね。まぁまずはその前に、土曜の上田でのコンサート、頑張って頂きたい。どうやら音響のよさそうなホールがあるようだ。上田の人たちが羨ましい (笑)。
e0345320_00270887.jpg

by yokohama7474 | 2017-06-15 00:28 | 音楽 (Live) | Comments(5)

美女と野獣 (ビル・コンドン監督 / 原題 : Beauty and the Beast)

e0345320_19153149.jpg
今年の大ヒット作である。GW 前の公開なのに、未だにシネコンではかなりの頻度で上映されている。私にとって「美女と野獣」は、特集上映の際に劇場で見た1946年のジャン・コクトーによるモノクロ映画、1991年のディズニーによるアニメ映画、そしてブロードウェイで見たミュージカル (ベル役が東洋人であった)、と一通りの経験があり、ないのは劇団四季の日本語版ミュージカルくらいか。今回の実写版はやはりディズニーによるものであるが、なかなかに手の込んだ作りであり、もともとよく知られた内容であることもあって、万人が楽しめる内容であるがゆえに、これだけのヒットになっているのだろう。有名ミュージカルの映画化としては、「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」などもうまくできていたが、この映画もそれらと肩を並べる作品であろうと思う。もちろん、何か人生が変わるような感動を覚えるというものではないかもしれない。だが、なんとも華麗な映像を見るだけでも価値はあろうというものだ。

監督は、1955年生まれの米国人、ビル・コンドン。このブログでは、イアン・マッケランが老いたシャーロック・ホームズを演じた「Mr. ホームズ 名探偵最後の事件」を採り上げたが、およそ CG とは縁のない、今回の映画とはまた全く違うテイストのものであった。だが、その前には「シカゴ」の脚本を書いたり、ビヨンセが出た「ドリームガールズ」の監督などを手掛けていて、ミュージカル映画とのかかわりは深いようだ。
e0345320_00062788.jpg
だがそれにしても私が思い出すのは、コクトー (以前も書いたことがある通り、私は彼の大ファンなのであるが) の古い映画では、主役のベルが野獣の城の中に入ったとき、暗い廊下には燭台を持った手が沢山壁から突き出ていて、それらがにゅーっと動いてベルを驚かすというシーンがあった。もちろん今から 70年前には CG はないから、様々な工夫が監督の才気を感じさせるシーンにはなっていたが、今から見るとなんと素朴なこと (笑)。
e0345320_00100647.jpg
ところが今回の映画では、燭台自身がこのように自在に動き、かつリュミエールというその名前が示す通り、もともとフランス人の召使が魔法によってこの姿に変えられたらしく、フランス語なまりの英語を喋るのである。コクトー映画とのなんたる違い (笑)。
e0345320_00165218.jpg
そして、最後に魔法が解かれたときに現れるこの人の素顔を見ても判別するのは難しいのだが、演じているのはあの英国の名優、ユアン・マクレガーなのである!! こういう凝り方の積み重ねが、映画に奥行を出していることは間違いないだろう。
e0345320_00194651.jpg
いやそれにしても、この映画の出演陣は大変豪華である。上述の「Mr. ホームズ 最後の事件」に続き、イアン・マッケランが時計のコグスワースの役として出ているし、ポット夫人はエマ・トンプソン。また、主人公ベルに言い寄る悪い奴、ガストンを演じるのは、「ドラキュラZERO」や「ハイライズ」、また「ホビット」シリーズで精悍なイメージの強いルーク・エヴァンス。また、ベルの父モーリス役は、「ワンダとダイヤと優しい奴ら」でアカデミー助演男優賞を獲得したケヴィン・クライン (どうでもいいけどこの人、昔懐かしいアイドル女優フィービー・ケイツと結婚しているらしい。16歳差。まあ本当にどうでもいいことなのだけれど)。野獣 / 王子役はダン・スティーヴンスという俳優。彼の顔にはなじみはないが、「ナイト・ミュージアム / エジプト王の秘密」でランスロット役を演じていたり、テレビシリーズ「ダウントン・アビー」に出ていたらしい。
e0345320_00354117.jpg
この映画のひとつの見どころは、野獣の見せる細かい表情である。映像技術の発展によって表現の幅が広がっていることは確実だが、それをいかに使いこなすかはまた別の話。この映画はそのあたり、大変に上質にできている。ほらこの表情、上の役者さんの顔の面影があるでしょう。あごひげのあたりとか (笑)。・・・ところでこの映画の CG で唯一惜しいところは、大詰めで野獣が屋根から屋根へ飛び移るあたりのシーン。これはちょっと古典的ないかにも CG という感じで、リアリティを欠いていた。
e0345320_00374483.jpg
そしてベルを演じるのは、「ハリー・ポッター」シリーズのハーマイオニー役で名を馳せたエマ・ワトソン。既に 27歳になった。
e0345320_00440152.jpg
私は「ハリー・ポッター」の第 1作から、彼女はきっといい女優になるに違いないと思っていた。そして今、この映画に見る彼女は確かに美しく知的で、また勇敢さを持つ役柄でもあり、その意味では何も不満はない。だが正直なところ、彼女はこれまであまり作品に恵まれているようには思われず、本来ならもっとよい仕事をしていてもよさそうなのに、と感じてしまう。昨年「コロニア」というチリのクーデターの話に出演していたので見たいと思ったが、見損ねてしまった。このベルのような優しい役ではなく、もっと強い役を演じてみてはいかがだろうか。今後に期待したい。

それから、今回はベルと野獣の心の通い合いにはシェイクスピアが絡んでいる。「ロメオとジュリエット」はロマンティックで好きではないと主張する野獣が、エマの言葉を引き継いで語る言葉はこのようなもの。

QUOTE
恋は目でものを見るのではない、心で見る、
だから翼もつキューピッドは盲に描かれている。
(小田島雄志訳)
UNQUOTE

これは、同じシェイクスピアの「夏の夜の夢」から。なるほど、この作品のテーマと共通しますな。なかなかに憎い引用だ。

最後にもうひとつ余談。なんでもこの作品、公開前に監督が、「ディズニー映画初の同性愛シーンがある」と宣言し、マレーシアではそのシーンをカットしようとしたため、ディズニーが上映を拒否したということがあったらしい。また、米国アラバマ州は上映禁止を宣言、ロシアでは 16歳以上指定になったという。だがこのニュースには違和感がある。こんなに大ヒットしている映画の一体どこに、そんな騒ぎになるようなシーンがあるというのか。調べてみたところ、どうやらこのル・フウという役に関するものらしい。演じるのはジョシュ・ギャッドという俳優。
e0345320_01095643.jpg
彼はガストンの仲間で、その心酔者のように描かれているが、だからと言って「同性愛」シーンがあったとは到底思えない。では何がいけなかったかというと、どうやら、最後で全員がダンスを踊る際に、男と組んで踊っていることであるようだ。うーん、そうだったかなぁ。そう言われればそうだったかもしれないが、集団の中だし、それほど目立つシーンではなかったはず。もしその程度で大騒ぎした国があったのなら、ちょっと違和感がある。もしかすると、監督が確信犯的に話題作りとしてそのようなニュースを事前に流したのでは・・・と勘繰りたくもなってしまう。逆に、もし「同性愛」シーンを楽しみにして劇場に足を運ぶ人がいたら、きっとがっかりするだろう (笑)。

ともあれ、様々な話題を詰め込んだヒット作。見ないと人生の損とは言わないが、魔女の呪いならぬ現代の映像の魔法に酔いしれるには、なかなかによい作品であろうと思う。

by yokohama7474 | 2017-06-14 01:20 | 映画 | Comments(2)

ステファヌ・ドゥネーヴ指揮 ブリュッセル・フィル (ピアノ : モナ=飛鳥・オット) 2017年 6月11日 東京芸術劇場

e0345320_12091387.jpg
注目のコンビが来日だ。私が深く尊敬する指揮者、ステファヌ・ドゥネーヴが音楽監督を務めるブリュッセル・フィル。この指揮者については、このブログを始めて未だ日も浅かった頃、2015年 6月 8日の記事において、NHK 交響楽団を指揮した演奏会で採り上げて絶賛した。当時の記事は未だ短いものであったのだが、この川沿いブログはその後膨張しており (笑)、様々な寄り道をしながらも、東京で接することのできる文化の隆盛を地方に海外に、また将来に伝えるべく、心してこの記事を書くこととしよう。

まずはベルギーの首都であるブリュッセル。EU の本部がある都市でもあり、先の空港でのテロにも負けじとヨーロッパの誇りを保ち、文化の灯をともし続けて欲しいものである。
e0345320_21100852.jpg
ベルギーは、いわゆるベネルクス 3国 (ベルギー、ネーザーランド (= オランダ)、ルクセンブルク) のひとつ。もちろんドイツやフランスというメジャーな国とは異なり、文化的にも多様なのであるが、それゆえにこそ、真にヨーロッパらしい存在であると言えると思う。私はこれまでに 3回ブリュッセルを訪れており、そのいずれもが、当時かの地のオペラハウス、モネ劇場の音楽監督であった大野和士の指揮を聴くためのものであったのだが、この街の中心にあるグラン=プラスは、かのヴィクトル・ユーゴーが「世界で最も美しい広場」と絶賛した場所であり、そこに身を置くと、本当に時間を忘れるのである。
e0345320_22045034.jpg
さて、ブリュッセルはそのような素晴らしい街なのであるが、では、ベルギーと聞いて人は何を思い出すだろう。ビール。チョコレート。もちろん。だが人物についてはどうだろう。まず思い出すのは、アガサ・クリスティが創作した名探偵、「灰色の脳細胞」を持つエルキュール・ポワロ。それから実在の人物では、もちろんブリューゲルほかのルネサンス期のフランドル絵画の画家たちもおり、世紀末象徴主義のクノップフ、そしてシュールのマグリット。音楽の分野ではなんといっても作曲家セザール・フランク。それから指揮者では、アンドレ・クリュイタンス。こうして並べてみると、フランスでもないドイツでもない、またオランダとも異なる、ベルギーという国の一筋縄では行かない個性を感じることができる。そんな国のオーケストラとしては、もちろん上述のモネ劇場のオケも素晴らしいが、それ以外ではやはり、ベルギー国立管弦楽団に指を屈する必要があるだろう。上に名前の挙がったアンドレ・クリュイタンスが手塩にかけたこのオケは、2003年に、当時未だ 20代で天才ともてはやされた音楽監督ミッコ・フランクのもとで来日した。だが今回、ドゥネーヴとともに初来日を果たしたこのブリュッセル・フィルはそれらとはまた異なるオケであり、1935年にベルギー国立放送のオケとして発足した。ドゥネーヴは 2015年 9月からそこの音楽監督を務めているのである。

ではこのドゥネーヴ、いかなる指揮者であるのか。1971年生まれのフランス人。ゲオルク・ショルティ、ジョルジュ・プレートル、小澤征爾らのアシスタントを務め、このブリュッセル・フィル以外にも、昨年まで名門シュトゥットガルト放送響の首席指揮者を務めたほか、現在はあのフィラデルフィア管弦楽団の首席客演指揮者でもある。私が過去 2回、彼の演奏に接したところで断じてしまうと、この人こそ、時代を担う巨匠になるべき素晴らしい指揮者だ。
e0345320_22291584.jpg
そのようなドゥネーヴとブリュッセル・フィルが今回演奏した曲目は以下の通り。
 ギューム・コネソン (1970 - フランス) : フラメンシュリフト (炎の言葉)
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 5番変ホ長調作品73「皇帝」(ピアノ : モナ=飛鳥・オット)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調作品 55

今回このコンビは全国で 9回のコンサートを開く (東京以外には名古屋、札幌、金沢、姫路、広島、観音寺、福岡) が、そのいずれのコンサートでも、コネソンの「フラメンシュリフト」が冒頭に演奏される。ドゥネーヴとブリュッセル・フィルは最近ドイツ・グラモフォンからこの作曲家の作品集を発売したようで、会場にもその CD のジャケットをあしらったこのような自立式の宣伝が見られた。
e0345320_22372383.jpg
演奏に先立ってドゥネーヴは指揮台でマイクを持ち、このオケの第 2ヴァイオリンの首席である萩原 麻利の通訳で聴衆に語り掛けた。傑作だったのは、開口いちばん、萩原が "Ladies and Gentlemen, good afternoon!" と英語で呼びかけたのに続いて、ドゥネーヴが「ミナサン、コンニチハ」と日本語で喋ったことであった。私はこのようなユーモアのセンスが大好きなので、客席で声を挙げて笑ってしまいました。そしてドゥネーヴが解説することには、このコネソンの曲は、ベートーヴェンとドイツ音楽に捧げられたものであり、冒頭の音型はあの第 5交響曲と同じであるとのこと。そして自分たちが最近コネソンの CD を出したことが述べられ、「終演後にはサインします」との発言もあった (この箇所での萩原の通訳は「終演後に CD をお買い求め頂けます」であったが・・・)。それから、ドゥネーヴが語ることには、来日の直前に難関コンクールとして知られるエリザベート王妃コンクールがブリュッセルで開かれ、チェロ部門で日本人の岡本侑也が 2位に入り、協奏曲の伴奏を自分たちが行ったこと、それから、日本を代表する作曲家、細川俊夫の新作を初演したこと (これは、同コンクールでチェロの課題曲となった「昇華」という曲のことだろう) が述べられた。
e0345320_22571450.jpg
今回の演奏会のプログラムは、ベートーヴェンの作品と、そのベートーヴェンへのオマージュから成っているわけだが、私も今回初めて知ったことには、ベートーヴェンの祖父はブリュッセル近郊の生まれ。彼の名前に入っている van は、確かにオランダあたりに多いもので、生粋のドイツ人のものではない。なるほど、ヨーロッパは誠に一筋縄ではいかないのだ。そして演奏されたコネソンの「フラメンシュリフト」は確かに、フランス的な曖昧模糊としたものではなく、弦がザッザッとリズムを刻むドイツ風の音楽で、かつ華やかさも併せ持つ 10分程度の曲。終演後にドゥネーヴがスコアを抱えて指さしていたのが印象的であった。

次に演奏された「皇帝」では、若手ピアニスト、モナ=飛鳥・オットが登場。1991年生まれだから今年 26歳。3歳年上の姉、アリス=沙良・オットと同じく、ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれている。これは姉妹のツーショットだが、向かって右がモナ。むしろ姉よりも大人びた風貌と言ってもよいのでは。
e0345320_23063732.jpg
だが今回の演奏は、率直なところ、姉アリスの演奏レヴェルにはごくわずか届かないような気がしたのは私だけであろうか。非常にきれいな音で長い指が鍵盤を駆け巡るのであるが、この曲であればもう少し力強さが欲しいし、それに伴う山っ気というか、緩急の使い分けがあった方がよかったと思う。その一方、若い音楽家が自らを信じて疾走することは何よりも素晴らしいことであり、今の彼女にできる演奏であったという点には気持ちよいものを感じさせてもらった。今後の活躍を楽しみにしたい。アンコールとして弾いたリストの「巡礼の年『ヴェネツィアとナポリ』」のカンツォーネは、一転して暗い情緒を感じさせる名演であったことから、このピアニストの様々な可能性を感じることができた。

そしてメインの「エロイカ」であるが、これは快速テンポで駆け抜ける爽快な演奏となった。「皇帝」でもそうであったが、ドゥネーヴは指揮棒を持ち、ヴァイオリンの左右対抗配置も取らないが、弦楽器 (コントラバス 6台編成) にはヴィブラートをかけさせず、キビキビとした現代的なベートーヴェンを描き出した。第 1楽章のコーダでトランペットが「行方不明」になる箇所も、この勢いで聴くと気にならないから不思議である。かと言って無味乾燥な演奏ではなく、時にはごくわずかテンポを落としてみたり、第 3楽章スケルツォの中間部のホルン 3重奏もほのぼのとした味わいのものであった。このオケの性能はかなり高く、この気持ちよい演奏の実現においてその性能はいかんなく発揮されたと思う。ただ 1箇所、第 2楽章葬送行進曲の冒頭すぐに弦が細かく刻む場所でずれてしまい、音楽がギザギザな感じになってしまった点が惜しまれた。

アンコールとして演奏されたのは、(ドゥネーヴの日本語まじりの紹介のあと) シューベルトの「ロザムンデ」間奏曲第 3番。ここでは一転して遅いテンポで極めて抒情的な演奏が聴かれ、いかにもロマン派という雰囲気が醸成された。弦楽器を見ていると、ヴァイオリンはヴィブラートなしだが、チェロの一部は朗々とヴィブラートをかけていた。味わい深い演奏だったので、次は是非ドゥネーヴのドイツ・ロマン派が聴いてみたいものだ。

終演後のサイン会は、ピアニストが先に準備していて、指揮者は遅れてやって来ることとなったが、和気あいあいという大変よい雰囲気であった。モナは姉アリスと同様、日本語には全く問題なく、サインを求める人たちに丁寧に応対し、時折やって来る知り合いの人たちとも楽しそうに会話していた。一方のドゥネーヴはまた、きっちりとファンの目を見てコミュニケーションを図っており、サインをしては「ヴォアラ」(フランス語で「はいどうぞ」の意味) などと言いながら、これまた楽しそうであった。これらの写真で、その楽し気な雰囲気が伝わるとよいのだが。
e0345320_23295030.jpg
e0345320_23300757.jpg
e0345320_23310359.jpg
e0345320_23312190.jpg
e0345320_23313928.jpg
ベルギーからの初来日のオケと若手ピアニストは、これから地方巡業となる。奏者たち自身、是非日本での演奏を楽しんで頂きたいし、ヨーロッパの現在を我々日本人の前で表現して欲しいものだと思う。

by yokohama7474 | 2017-06-11 23:34 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ワーグナー : 楽劇「ジークフリート」(飯守泰次郎指揮 / ゲッツ・フリードリヒ演出) 2017年 6月10日 新国立劇場

e0345320_12073889.jpg
東京初台の新国立劇場が、現在のオペラ部門の芸術監督である飯守泰次郎の指揮のもとで進めている、ワーグナーの超大作「ニーベルングの指環」4部作の 3作目、「ジークフリート」である。初回の「ラインの黄金」は私も見に行って、2015年10月 2日の記事で採り上げた。2作目の「ワルキューレ」は昨年 10月に上演されたが、残念ながら私は見ることができなかった。そして今回の「ジークフリート」である。尚、新国立劇場では来シーズン (2017 - 18) の開幕演目として、今年 10月に最後の「神々の黄昏」を上演し、飯守体制の締めくくり第一弾とすることになる。これについてはまた後で述べることとしよう。

さて、この上演の意義については以前の「ラインの黄金」の記事に一通り書いておいたので、ここでは簡単に触れるにとどめる。ドイツ人ゲッツ・フリードリヒ (1930 - 2000) は、20世紀の後半において主にそのワ-グナー演出で世界を席巻したカリスマ演出家である。今回新国立劇場で上演されているツィクルスは、彼が晩年にフィンランド国立歌劇場で演出したもの。余談だが、先に来日したフィンランド人の名指揮者エサ=ペッカ・サロネンが近く同歌劇場で「指環」ツィクルスを上演するというニュースがあったが、その演出もこれになるのであろうか。そもそもフリードリヒの「指環」というと、ツィクルスとしての日本初演となった 1987年のベルリン・ドイツ・オペラのもの、いわゆる「トンネル・リング」と言われるものが知られている。以下、その「トンネル・リング」の一場面。全 4作を通じ、このようなトンネルが舞台奥にずっと存在しているというコンセプトであるようだ。今回初台で上演されているものは、これに比べれば随分と穏便な演出であると言える。
e0345320_09540924.jpg
この作品について指揮者飯守が語るところや、今回の上演のリハーサル風景などは、新国立劇場のウェブサイトで動画を見ることができるが、会場にもモニターが設置されてその映像が流れている。
e0345320_10085649.jpg
e0345320_10090867.jpg
この飯守リング、世界一流のワーグナー歌手を集めた上演であり、その点こそまずは大きな意義を見出すことができるだろう。今回の主役ジークフリートを歌うのは、テノールのステファン・グールド。ワーグナーファンにとっては既におなじみの名前であろう。
e0345320_10160050.jpg
実はこの人、今回の「指環」4作にすべて出演する。実のところ、これは少し奇異である。「ジークフリート」と「神々の黄昏」でひとりの歌手がジークフリート役を歌うのは普通。また同じ歌手が「ワルキューレ」でジークムントを歌うのも大いにありである。だが、「ラインの黄金」は? そこにはいわゆる英雄的な役、ヘルデン・テノールは登場しないのだ。そしてこのグールドがそこで歌ったのはなんと、狡猾な策士である火の神、ローゲなのである!! 私は以前の「ラインの黄金」の記事でその違和感を述べておいたが、だがしかし、4作すべてに登場する役柄がないこの作品 (ヴォータンですら「神々の黄昏」には登場しない) で、世界的なヘルデンテノールがそのようにしてまで、すべての作品で歌唱を聴かせてくれる東京という街は、恵まれていると解釈しよう。その他の歌手としては、エルダのクリスタ・マイヤー、ブリュンヒルデのリカルダ・メルベートもバイロイト経験豊富なワーグナー歌手たち。
e0345320_10240141.jpg
e0345320_10240989.jpg
それから、ミーメのアンドレアス・コンラッド、アルベリヒのトーマス・ガゼリ、さすらい人 (ヴォータン) のグリア・グリムスレイはいずれもこのシリーズで以前同じ役で出演していて、ツィクルス上演の一貫性があることになる。これは大いに意義のあることである。さてそのような恵まれたキャストを使った今回の公演、私の記憶にある 2年前の「ラインの黄金」よりもさらに優れた成果を挙げたものと高く評価したい。飯守はかつてバイロイトで助手を務めた経験から、日本ではワーグナー指揮者としての確固たる名声を保っているが、その彼も既に 76歳。円熟の年齢である。今回の東京交響楽団 (通称「東響」) を指揮しての演奏には、それぞれの示導動機 (ライトモティーフ) を丁寧に描き出そうという意図が明確に見え、オケの高い力量もあって、それが充分に成功していた。プログラムに掲げられた飯守自身の言葉 (これは奇しくも、やはりプログラムに載っているフリードリヒが残した言葉とも共通するのだが) によると、この「ジークフリート」は交響曲にたとえるとスケルツォ楽章であると。もちろん、古典的な交響曲の構成においては、第 3楽章は諧謔味のあるスケルツォなのであり、ワーグナー自身がどう考えていたかは知らないが、確かにこのオペラの第 1幕では、リズミカルで諧謔味のある個所が続く。だが、これも飯守自身が述べている通り、このオペラはまた同時に「指環」4作の中で最も抒情的な箇所も持つのであって、印象派に影響を与えたとされる「森のささやき」や、作曲者自身が「ジークフリート牧歌」として別の曲を書いた優しい主題は、「指環」のほかの 3作には聴かれないものだ。次作で神々が終末を迎える前に聴かれるこのユーモアや抒情性が、この作品を一筋縄でいかないものとしているのである。それゆえ、最後のジークフリートとブリュンヒルデの二重唱は、「まさに幸せの絶頂にあり、音楽的にもドラマにおいても『指環』四部作全体の一つの頂点である」と同時にまたそこには、「より深い意味を孕んだドラマ」があるとする飯守の解釈は納得性が高い。日本のワーグナー受容にも既に長い歴史があるが、東京の劇場でこれだけ音楽的にも知的にも刺激に満ちた上演がなされるようになったことは、一過性のものではない、東京の文化として将来につながるものになったと思うのである。

演出について少し触れておこう。第 1幕は、このような森の前にある鍛冶屋の小屋で展開する。メルヘン調もありながら、登場人物たち (さすらい人 = ヴォータンは上の森の方から現れ、ミーメと屋外のテーブルで対話する) がうまく動ける機動性もあって、よくまとまっている。
e0345320_10532230.jpg
第 2幕はなんといってもファフナーが変身した大蛇退治がメインだが、この大蛇にはおどろおどろしさは皆無。また、森の小鳥は黄、白、赤、緑、青と 5羽出てくる。このうち歌手が演じるのは 4羽 (日本の若手歌手による)、残りの 1羽、青い鳥だけはダンサーが演じた。
e0345320_10575034.jpg
e0345320_10582719.jpg
第 3幕ではヴォータンとエルダ、ヴォータンとジークフリート、そしてジークフリートとブリュンヒルデというそれぞれの組み合わせの歌唱が、がらんとした空間で展開する。注目すべきはラストの二重唱であり、上記の飯守の言葉にある通り、これはただの幸せな歌ではなく、死に向かう自暴自棄の歌に変わって行くのであるが、そこで 2人の男女はブリュンヒルデの盾や鎧を放り投げ、その自暴自棄ぶりを明確にするのである。
e0345320_11045763.jpg
e0345320_11022792.jpg
e0345320_11085085.jpg
歌手の歌唱はいずれも危うげのないもので、特に出ずっぱりのジークフリート役、ステファン・グールドはさすがであったが、だがそれでもやはり彼も人間、大詰めでは少し疲れが見えたか。しかし、実際に舞台でこのような作品を見ると、むしろそのようなことは当たり前。上演全体を目で耳で味わうことが、オペラの醍醐味なのである。

超大作であるから、45分の休憩を 2回挟んで、5時間45分の上演時間。さすがにこれでは腹が減るので、会場には軽く食べられるものが売られていて、なかなか気が利いていた。ジークフリート限定、サンドウィッチ BOX (1,000円) なるものもあったが、私が食べたのはハッシュドビーフ。名前は「鍛冶屋の歌」。600円とリーズナブルだ。
e0345320_11141509.jpg
このオペラハウスは街中にあって敷地も限られているので、工夫して空間を作っているが、満員の聴衆が休憩時間に思い思いに過ごしているのを見ると、東京におけるオペラの楽しみも定着して来ているなと改めて感じた。来シーズンで開場 20周年。飯守体制最後の年となり、その後はいよいよ大野和士に芸術監督がバトンタッチされる。その飯守体制最後のシーズンのオペラ上演のラインナップは以下の通り。
 ワーグナー : 神々の黄昏
 ヴェルディ : 椿姫
 R・シュトラウス : ばらの騎士
 J・シュトラウス : こうもり
 細川俊夫 : 松風 (日本初演)
 オッフェンバック : ホフマン物語
 ドニゼッティ : 愛の妙薬
 ヴェルディ : アイーダ
 ベートーヴェン : フィデリオ
 プッチーニ : トスカ

なかなかバランスの取れた演目だが、この中で私にとっての注目は、細川の「松風」と、それから新演出の「フィデリオ」だ。この「フィデリオ」は飯守自身の指揮で、ノオノーレはリカルダ・メルベート。フロレスタンはステファン・グールド。そう、今回のジークフリートとブリュンヒルデのコンビである。そして演出はあの、カテリーナ・ワーグナー。むむむ。2015年のバイロイトでの「トリスタン」の演出には正直なところ閉口したが、今回はいかに。今からまだ 1年ほど先になるが、是非見てみたいと思う。あ、もちろん、既にチケットを購入している「神々の黄昏」では、ステファン・グールド以外にもペトラ・ラングのブリュンヒルデや、なんと新国立劇場初登場のヴァルトラウト・マイヤーが歌うヴァルトラウテ (端役だが・・・) も楽しみである。「オペラパレス」との名称を持ったこの新国立劇場が、今後ますます東京の音楽文化において欠かせない場所になって行くことを切に希望する。
e0345320_11343552.jpg

by yokohama7474 | 2017-06-11 11:34 | 音楽 (Live) | Comments(9)

夜に生きる (ベン・アフレック監督 / 原題 : Live by Night)

e0345320_22532688.jpg
ハリウッドを代表する俳優で、監督としても前作「アルゴ」で世界の絶賛を浴びたベン・アフレックの新作である。さぞや大々的に宣伝して大ヒットしているだろうと思いきや、上映している劇場はかなり限られていて、どうも日本ではあまり盛り上がっている気配がない。これは場合によっては、上質な映画を見逃す危険があるのではないかと思い、慌てて劇場に足を運んだのだが、案の定、これほど真摯に作られた映画をもし見逃すなら、それは映画好きとしては由々しき事態。この記事を是非参考として頂き、劇場に足を運ぶことで、ベン・アフレックという稀有な才能が今後も映画を作れるよう、是非応援して頂きたいのである。

この映画の舞台は 1920年代、禁酒法時代の米国である。監督でありながら主役を (ついでに? 脚本と共同製作も) 務めるベン・アフレックの役柄は、警察幹部の息子として生まれながら、第一次世界大戦参戦の際、次々に犠牲になって行く仲間たちを見て厭世的となった若者で、今ではボストンを拠点に数人でつるんで銀行強盗を行っているやさぐれ者である。ボストンではおりしもアイルランド系とイタリア系のギャング同士が反目しあっているが、アフレック演じるジョー・コフリンは、そのようなギャングとは一線を画して、基本的には人殺しはしない方針なのであるが、時代の激動の中で数奇なる運命に弄ばれて行く、という物語。ボストン以外にはフロリダ州タンパが舞台となっている。話は結構陰惨であり、時代背景が日本人にはなじみがない (禁酒法時代を舞台にしたギャング物は結構多いのだが) ことが、大々的に公開されていない理由なのかもしれないが、もしそうだとすると、惜しいことだ。ここでアフレックが描こうとしているものは普遍的な人間の心理なのであり、運命に抗う個人の赤裸々な姿であって、我々が日常を生きる上でヒントになるような事柄も多く含まれている。まずやはり、アフレック自身の姿が、戦争による心の傷のため、世の中に対して斜に構えたところもあり、時には卑劣な手段を用いながらも、激動の時代を懸命に生きる男を強烈に表しており、心に残るのである。彼なりにこだわりがあり、リスクも取りながら野心もあり、また大事なものを守ろうとする姿勢は、いつの時代でも必要なもの。例えばあなたが、集団の中で対立する 2派のどちらかについたとき、その親玉とどのようにつきあうか。相手方の親玉からの接触にどう対処するか。移り変わる状況の中で、人間としての矜持をいかに保つか。これは現代のサラリーマンにとっても、切実な課題になりうる (笑)。アクションもでき、複雑な心理のあやも表現できるこの俳優から、生きるヒントをもらおうではないか。
e0345320_23192416.jpg
この手の映画は、まずセットにかなり金がかかるものだし、服装や髪形など、細部のリアリティも重要になってくるし、映像のトーンもその時代らしさが求められる。私としてはそれらの点においてこの映画はかなり上質な仕上がりであると思うので、まずはその点においては映画としての成功の条件は満たしていると言えるだろう。調べてみると美術は、いずれもコーエン兄弟の作品「トゥルー・グリット」「ヘイル、シーザー!」でアカデミー賞にノミネートされたジェス・ゴンコールという人。そして撮影は、「JFK」「アビエーター」「ヒューゴの不思議な発明」で実に 3度のアカデミー賞に輝くロバート・リチャードソン。なるほど、そういう優秀なスタッフが参加しているだけのことはある。因みに、アフレック自身が共同製作者であることは上述の通りだが、共同製作者のうちのもうひとりは、なんとあの、レオナルド・ディカプリオなのである!! ディカプリオとアフレックの接点はあまり思い当たらないが、探してみたところこんな写真を発見。ディカプリオがぞんざいに (笑) 左手に握っているのはオスカー像である。2015年、第88回アカデミー賞で彼は「レヴェナント 蘇りし者」で主演男優賞を獲得したが、これはそのときのパーティーでのツーショット。時期からして、もしかするとこのときにアフレックがディカプリオにこの映画への出資を打診したと考えてもおかしくないのではないか。
e0345320_23390672.jpg
ともあれこの「夜に生きる」の素晴らしい点は、その美術やカメラワークの質のみならず、一連の役者たちの貢献にあることも間違いない。例えば、アフレックの妻役を演じるこの人。
e0345320_23432394.jpg
そう、ゾーイ・サルダナである。たまたま前の記事に採り上げた「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」でも重要な役柄であったので、このブログでは連続登場ということになるが、あぁよかった、ここでは素顔である (笑)。激動の時代、裏社会にも通じる身であり、自分をしっかり持ちながらも献身的に夫を支える妻の役を、繊細に演じている。それから、またしても私を驚愕させたのはこの女優だ。
e0345320_23475535.jpg
未だ 19歳ながら、その表現力には恐ろしいものすら出て来た、エル・ファニング。このブログでも絶賛した怪作「ネオン・デーモン」での熱演も記憶に新しいが、ここではまた全く違う役柄ながら、大変に重要な役を高い説得力で演じている。この写真は彼女の最初の登場シーンで、そのときはほんの端役かと思うのである。ところがところが、思いもかけない展開によって、彼女の存在が、あれよあれよという間に、この映画のかなめにすらなって行き、そして意外な顛末となるのである。平凡な若い役者であれば、この役自体の重要性を観客に認識させることはできなかったと思う。もはや「ダコタ・ファニングの妹」という呼び方では失礼だろう。末恐ろしい存在である。

また、この映画の原作者が面白い。1965年ボストン生まれの米国の作家、デニス・ルヘイン。この映画での製作総指揮も兼ねている。
e0345320_00102812.jpg
過去の作品を見てみると、「探偵パトリック & アンジー」シリーズというもので知られているようだが、「ミスティック・リバー」「シャッター・アイランド」という映画化された作品もある。そういえば、前者はボストンが舞台であったのははっきり覚えているが、後者も、調べてみるとまたしかりなのである。つまり彼は故郷ボストン (米国屈指の歴史ある街である) にまつわる物語を創造し続けているということか。もっともこの「夜に生きる」のもうひとつの舞台であるフロリダでは、KKK の活動や人種差別、また宗教の問題もこの映画には出てくる。これらは東海岸の問題ではなく、米国の本音と建て前の差が赤裸々に現れる南部の問題であるだろう。その意味で本作には、現在に続く米国の闇の部分がクローズアップされているという面もある。なお、このルヘインの「探偵パトリック & アンジー」シリーズの 1作、「愛しきものはすべて去りゆく」という小説は、やはりベン・アフレックによって「ゴーン・ベイビー・ゴーン」として映画化されているが、日本では未公開であるようだ。

このように興味深い要素が沢山詰まった映画であるがゆえに、見ても絶対損にならないと申し上げておきたい。余談だが、"Live by Night" という原題から私が思い出したのは、学生時代に映像論のゼミでテーマとなっていた 1950年代ハリウッドと赤狩りに関連して見せられた、ニコラス・レイ (1911 - 1979、一般的に知られる代表作は「理由なき反抗」だろう) の作品、"They Live by Night" という映画であった。当時は日本公開されていない映画であったので、字幕なしのビデオを教室のスクリーンに投影しての鑑賞であった。その後 1988年に「夜の人々」という邦題で公開されたようだが、わずかに残る私の印象では、なんとも暗い映画であり、やはり銀行強盗を描いた映画であった。これは 1948年の制作で、ニコラス・レイのデビュー作。この作品と今回のアフレックの「夜に生きる」を関連づけた英語の記事がないかと思って検索してみると、ロサンゼルス・タイムズのレビューがヒットした。ざっと見たところ、役者としてのベン・アフレックは監督としてのベン・アフレックに貢献していない、と厳しい論調で、似たような題名の古い作品でも、レイの「夜の人々」の方がもっと汚くタフだった、とある。これはアフレックの作品を誉めていないということでしょうね (笑)。ただ私としては、アフレックにはいくつもの顔を持って活躍して欲しいし、このロサンゼルス・タイムズの記者が主張するように、最近彼が演じているバットマンが彼に合っているとは、全く思いません!! というわけで、レイの「夜の人々」からの、これだけ見るとあまりタフには見えないショットでこの記事を終えることとしよう。
e0345320_00552871.jpg

by yokohama7474 | 2017-06-11 01:01 | 映画 | Comments(0)