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東京二期会公演 リヒャルト・シュトラウス作曲 楽劇「ばらの騎士」 (指揮 : セバスティアン・ヴァイグレ / 演出 : リチャード・ジョーンズ) 2017年 7月30日 東京文化会館

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このブログはクラシック音楽に普段縁のない方にも楽しんで頂けるように、それなりには工夫して書いているつもりであるが、曲についての面倒な説明や、固有名詞があれこれ出てくると、どうやら難易度が上がるらしい。ということで、今回はかなりくだけた始まりとすることにした。オペラには様々な作品があり、その味わいもまさに千差万別。だが、もし「涙腺が刺激されるオペラ」には何があるかと問われればどう答えよう。私の場合、2つのオペラが真っ先に頭の中に浮かんでくる。私がいかに心のすさんだ冷たい人間であっても (いや、そうだと宣言しているわけではないですよ。たとえそうであってもの話)、この 2つのオペラには涙腺が刺激されずにはいられない。まずひとつは、プッチーニの「ラ・ボエーム」。大詰めの音楽ではなく、第 1幕のミミとロドルフォの出会いの場面、つまり、「私の名はミミ」と、それに先立つ「冷たい手を」である。オペラ通の方にはバカにされるかもしれないが、実際そうなのだから仕方がない。そしてもうひとつ泣けるオペラは、ほかでもないこの「ばらの騎士」なのである。

18世紀、マリア・テレジアの時代のウィーンの貴族が婚約者に銀製のばらを送るという架空の習慣を題名に持つこのオペラは、豊麗な音響に包まれた作品であるが、その内容はいわばドタバタ喜劇。聴いたことのない人は、どこに泣ける要素があるのかといぶかるかもしれない。ところがあるんです。終幕の大騒ぎのあとの 3重唱と、それに続く 2重唱。音楽の力はこんなにすごいものかと思うほど、泣けてくるのである。だから、もし初めてこのオペラを DVD などで見る人は、登場人物の行動がけしからんとか品がないとか思って途中でやめてしまってはいけない。最後の最後に、この世のものとも思えない音楽と出会う瞬間、それまでのドタバタがあったがゆえに人は心から感動を覚えるのであるから。シュトラウスという大天才がものした、信じがたいほど素晴らしい音楽なのである。これが比較的若い頃のシュトラウス。
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今年の東京では、私の知る限り、この「ばらの騎士」が 2種類上演される。ひとつは、11月から 12月にかけて、外国人歌手を主役級の役柄に迎えて行われる、新国立劇場の公演。そしてもうひとつは、今回私が鑑賞したもの。この公演は、二期会創立 65周年、財団設立 40周年を記念して行われるもので、英国の名門音楽祭、グラインドボーン音楽祭との提携公演であるらしい。二期会の公演はこのブログでも何度も採り上げている通り、ワーグナー、シュトラウスというドイツものを採り上げることが多いが、ひとつの大事な点は、多くの場合、キャストがすべて日本人であることだ。今回のこの「ばらの騎士」は、音楽だけで正味 3時間、休憩を含めると 4時間を要する大作で、登場人物も大変に多い。だがキャスト表を見てみると、見事に全員日本人で、しかもかなりの脇役に至るまでダブル・キャストが組まれているのだ。
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以前も書いたと思うが、世界の大都市の大部分においては、オペラハウスがひとつだけ (もちろん、ウィーンやベルリンは例外) あって、ほぼすべてのオペラ公演がそこで上演される。ところが東京の場合、オペラハウスでの公演以外に、この二期会や藤原歌劇団が年に何演目も公演を打っている。加えて、ホール (日生劇場など) の主催公演もあり、そして、欧米各地のメジャーマイナー入り乱れてのオペラハウスの引っ越し公演が頻繁にある。そう、オーケストラコンサートの数同様、オペラの上演回数に関しても、東京は、控えめに表現しても世界有数、もしかしたら世界一かもしれないのである。そしてさらに驚くべきは、この二期会の公演のように、キャストが全員日本人ということも多いのだ。こんなことが東京以外で起こっているとは思えない。もちろん、すべての上演が世界最高水準ではないかもしれない。だが、若い歌手でも舞台に立つチャンスが与えられることで、どんな大作・難曲でもレパートリーとして定着して行く。それこそがまさに文化の発展である。今回の公演では、そのことの価値を改めて実感することとなった。

但し、歌手 (とオーケストラ団員のほとんど) が日本人であっても、今回の指揮者と演出家は外国人だ。今回ピットに入るオーケストラ、読売日本交響楽団 (通称「読響」) のコンサートも振ったことがあるドイツの指揮者、セバスティアン・ヴァイグレ (1961年生まれ) は、現在フランクフルト歌劇場の音楽監督として気を吐いている。演出のリチャード・ジョーンズも、英国ロイヤル・オペラのみならず、スカラ座や MET などでも仕事をしているほか、通常の演劇の演出も行っている。今回の記者会見時の様子がこちら。興味深いことに、今回の上演は、東京のあと、名古屋 (愛知県芸術劇場)、大分 (iichiko 総合文化センター) にも巡回するという。尚、名古屋と大分では、これも名指揮者であるラルフ・ワイケルトが指揮を取る。
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東京での公演は 4回で、私が見たのはその最後のもの。上記の写真の通り、7/26 (水)・29 (土) のキャストと、7/27 (木)、30 (日) のキャストは完全に異なるもの。これだけの数の歌手たちがドイツ語の作品をきっちりと歌いこなすのを見て聴いて、きっと指揮者も演出家も、日本の歌手の水準の高さに目を見張ったものであろう。私の見なかった方の回には林正子、妻屋秀和、幸田浩子というおなじみの人たちが出ていて、キャストの知名度の点ではそちらの組の方が正直なところ高かったようだが、私の場合、新たな歌手に接して感動する喜びに価値を見出すタイプなので、むしろこの組の方に期待をもって見に行ったのである。

まず特筆すべきは、ヴァイグレ指揮の読響による雄弁な音楽。冒頭部分は、情事を表現したと言われている、活力と艶美さを兼ね備えた音楽で、ここは勢いよくきれいな音で走り出さないといけないところ、実に堂に入った滑り出し。それから第 2幕冒頭は早馬であるが、そのギャロップの楽しくまたしっかりしたこと。第 3幕では、オックス男爵を驚かすための仕掛けを試しているわけで、ガシャガシャと不協和音が響くが、そのいたずらぶりが充分に表現されていた。ヴァイグレの指揮は実に巧みで、優美な箇所は絶妙の呼吸で音の艶を引き出し、騒音をかきわけるような箇所でも、オケが乱れることはまずない。「ばらの騎士」の音楽は実に手の込んだ複雑なものであるが、これだけ鳴っていれば申し分ない。

歌手陣も総じて安定した出来。舞台にはプロンプターボックスが見当たらず、この長丁場をどの歌手も余裕で歌いこなした。特に元帥夫人役の森谷真理 (もりや まり) は、この役に必要な、適度な色気と大人の分別を充分に表現していて見事。2016年12月23日のヤクブ・フルシャ指揮東京都響の第九の記事で紹介した通り、ウィーン在住で、レヴァイン指揮のもと MET で「魔笛」の夜の女王を歌った経験もある人だ。
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オクタヴィアンの澤村翔子は、あとで述べるように、演出によってパンツ役としての個性が少し抑えられてしまったようにも思うが、演技も含めて熱演。ゾフィーの山口清子は未だ若い歌手のようで、声量には課題があったが、声の質は美しいと思った。多少残念だったのはオックス男爵の大塚博章で、この役の粗雑さ (それゆえに憎めない) には少し合わないタイプの歌手だと思った。

演出について少し述べると、最近の傾向に沿うように、舞台装置は概して簡単なものであり、巡業を行うという現実的な要求を満たしている。役者にも結構細かい演技をさせ、音楽に合わせた動きなどもあって、この千変万化の音楽にうまく乗るものであったと思う。ただ一方で、そこに何かポンと膝を打つような新たな発見もないように思った。冒頭でいきなり、舞台奥で元帥夫人が全裸 (もちろん肌色のスーツ) でシャワーを浴びているのを見て、これは結構過激に走るのでは、と思ったことからすれば、やや拍子抜けと言ってもよいかもしれない (あ、裸を期待したわけではないので念のため 笑)。第 1幕ではこのような長いソファの上で物語が展開する。壁の時計は開始時には 8時30分を指していて、実際に 70分間の演奏時間中、針は進んで行く。ここで通常と違ったのは、オクタヴィアンは最初に登場して来たときから女性の長い髪を束ねておらず、その姿はどう見ても女性なのである。この役の面白みは、「フィガロの結婚」におけるケルビーノ同様、女性が男を演じる役において、劇中でその男役が女を演じるというジェンダー・パニックなのであるが、何かあえてそのような要素を消してしまったように思われた。
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第 2幕は、最初はこのような前景で進み (ゾフィが結婚の衣装を着せられているところ)、壁が開くと、奥に水の流れるファーニナル邸の玄関が現れる。その後は今度は長いテーブルが現れて、ゾフィはその上に登らされる羽目になる。歌手たちの動きに変化をつけようという意図だったのか。
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第 3幕は終始このような屋根裏部屋のような場所でストーリーが展開する。オックスの下心に応じて (?) 照明が変わるのが面白い。だが、細部の小道具にはあまり説得力が感じられず、また、通常はオックスのズラは、騒ぎの中ではがされてしまうのだが、この演出では自分で堂々と取っており、これもあまり必然性を感じない (笑)。この写真の場面はもちろん最後の 3重唱で、ここでは天井の高い部屋でじっくりと歌われるこの名曲に、やはり今回も酔いしれることとなった。
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この作品が作曲されたのは 1910年で、作曲者 46歳のとき。今日でも頻繁に演奏される一連の交響詩群を書き終え、オペラに移行して行く時代の作品であるが、この作品は未だ作曲者 5曲目のオペラであったわけで、しかもその前が「エレクトラ」、さらにその前が「サロメ」と、既に超絶的な作品を書いていたことを思うと、空恐ろしいような気がする。ホフマンスタールという一流の作家との共同作業ということもあって、まさしく世紀の傑作のひとつである。考えてみれば、若い頃からの盟友であったマーラーが亡くなったのは、このオペラが初演された 1911年。時代の過渡期である。もちろん世界情勢も明らかな過渡期であり、3年後に勃発した第一次世界大戦によって大ハプスブルク帝国は崩壊してしまうわけだ。上記の 3重唱で元帥夫人が語る「何事にも終わりがある」という言葉は、その意味では大変に象徴的なのであるが、そんな思いもあって、奇跡の 3重唱が壮大な夕焼けのように響くのを聴くと、いつも私の涙腺は緩んでしまうのである・・・。

このように、課題も成果もそれぞれに楽しい上演であったのだが、実は私には、第 3幕で壁にかかっていた絵画について、なかなか思い出せないというオマケがついた。これはヴィーナスであって、画家の名前には確か「ネル」がついたはず・・・。うーん、でもそれ以上思い出せない・・・。呻吟しながらネットで「ネル ヴィーナス」と検索すると、なんということ、画家の名前はアレクサンドル・カバネル (1823 - 1889)、オルセー美術館所蔵の「ヴィーナスの誕生」(1863年作) であると確認でき、溜飲を下げたのである。便利な時代になったものだ!! カバネルは 19世紀フランスのアカデミーの画家である。
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この「ばらの騎士」という作品の持つ力は、とても簡単に語りつくせるものではないが、もしこれまでこの作品をご存じなく、今後名古屋か大分でご覧になろうという方は、是非是非、最後の 3重唱で涙腺が緩む経験をして頂きたい。その経験をする前と後とでは、シュトラウスの音楽について、ロマン派の美学の究極について、また、戦争に突入して行ったヨーロッパの歴史について、実感できるものが変わってくることと思いますよ。それはすぐれて文化的な出来事と言えると思う。

by yokohama7474 | 2017-07-31 00:24 | 音楽 (Live) | Comments(4)

すみだサマーコンサート 2017 指揮とピアノ : 上岡敏之 新日本フィル 2017年 7月29日 すみだトリフォニーホール

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このブログで何度もご紹介して来ている通り、新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日フィル」) は、錦糸町駅近くのすみだトリフォニーホールを本拠地としている。このホールは墨田区によって建設されたものであるが、とかく土地に不足する東京において、オーケストラが本拠地で練習もでき、そのままそこでコンサートもできるという環境は極めて稀だ。東京に並み居るオケの中で初めてそのような稀なことを成し遂げたのが、この新日フィル。このすみだトリフォニーホールのオープンは今からちょうど 20年前。そのことについては、今年 3月11日付の記事の中でも触れておいたが、実際のところ、過去 20年間のこのオケの躍進ぶりには目を見張るものがある。誤解を恐れずに言えば、小澤征爾と朝比奈隆をかなりの頻度で聴くことができるオケとして人気を博した頃よりもさらに充実した状態にあると思う。今回、ちょうど隅田川の花火大会の日に私が出かけたこのコンサート、副題が「わが街のコンサート」となっていて、墨田区が音楽の力で地域を活性化したいという意図でこのホールを建設し、20年に亘って音楽活動を展開してきたことを記念するもの。ただ単に一流の演奏家を外から呼んできて演奏してもらうのではなく、そこに暮らす人たち自身の力で音楽を創り出し、それによって街の活性化を図るという試みは、本当に貴重なものなのである。

そして今回のコンサートはまた、新日本フィルの音楽監督上岡敏之 (かみおか としゆき) の就任シーズンの締めくくりの演奏会でもある。今年 9月からの新シーズンにおいては大変盛り沢山の面白いコンサートが予定されているが、とりあえずは今シーズンの締めくくりということで、オケの皆さんの気合もまたひとしおであろう。これがマエストロ上岡。どんなときもニコニコしておられる (笑)。
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さて、今回の曲目は一風変わっている。
 アルヴォ・ペルト (1935 - ) : 子どもの頃からの歌 --- 少年少女合唱とピアノのための
 オルフ : カルミナ・ブラーナ

後半のカルミナ・ブラーナは人気曲であるが、前半のペルトの曲はいかなるものか。実はこの曲、副題にある通り、少年少女合唱とピアノのための曲であって、オーケストラは登場しない。少年少女合唱は、すみだ少年少女合唱団で、それを指揮するのは甲田潤という指揮者。そして、それを伴奏するピアノを弾くのが、なんとマエストロ上岡なのだ。だが驚いてはいけない。確か以前も書いたことがあるが、上岡はピアノの名手でもあり、新日フィルのメンバーと室内楽を演奏することはもちろん、ピアノ・ソロのアルバムも出しているし、なんと、音楽史上最も難しいとも言われるラフマニノフのピアノ協奏曲第 3番のソリストを務めたこともある。私の知る限り、日本でそんな芸当ができるのは彼ひとりであろう。これが彼のアルバムのジャケット。
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1曲目の作曲家アルヴォ・ペルトは、既にそれなりの知名度があると思うが、現代を代表する作曲家で、バルト三国のエストニア出身。私としても、過去 30年くらい深く愛好する作曲家である。既に 82歳になった。
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もし現代音楽にあまり関心がないが、何かヒーリング効果のある曲を聴いてみたいと思う人がいれば、だまされたと思ってこの人の音楽を聴いてみて欲しい。例えば「フラトレス」など大いにお薦めである。その様式は一種のミニマルともみなしうるが、「鐘の音」(ティンティナブリ) 様式という自身の命名が、この作曲家の作風を端的に表しいている。だが今回演奏された「子どもの頃からの歌」はちょっと異色の作品で、彼が若い頃に舞台やアニメーション用に書いた平易な音楽を実に 15曲集めたもの。2015年に発表され、自身の母に捧げられていて、演奏時間は約 30分。今回の演奏で見事な歌を披露したすみだ少年少女合唱団は、小学生から高校生から成る合唱団で、これこそ、音楽における街の活性化の大きな成果であろう。舞台手前、真ん中に置かれたピアノの左右にそれぞれ 30名ほどが陣取り、曲によってはソリストたちが舞台手前に出てくる。この曲の歌詞はドイツ語であるが、驚いたことに、年長者の数名以外は皆、譜面を持たない暗譜での歌唱である!! 相当に準備を重ねたのであろうし、彼ら彼女らにとっては、一生忘れることのできない経験になったに違いない。但し、60名ほどのメンバーのうち、男の子はほんの数名。私が数えた限りにおいては、4名だったと思う (スカートをはいていた男の子がいないという前提。笑)。やっぱり男の子の場合は、合唱なんて女の子がやるものだという意識があるのであろうか。そんなことはないですよ、歌だって体力が要るし、表現力だって要る。墨田区の男の子たちには、これから合唱を頑張ってもらいたい。ところでこの曲のピアノ伴奏は、曲の性格からして、それほど奇抜な音は出てこないものの、それなりにいたずらっぽい刺激的な箇所も時々あり、今回の上岡の演奏は、さすが!! の一言。これを聴いたことで、指揮者としての彼のテンペラメントをよりよく理解できたと思う。こんな練習風景の写真があるが、この「探偵」というゆるキャラらしきものは一体・・・(笑)。
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さて後半のカルミナ・ブラーナであるが、これまたいつもの通り、上岡の個性の刻印が明確に捺されたものになった。そもそもこの曲の冒頭は、迫力ある映画やテレビのシーンで BGM として使われることが多く、今ならちょうど劇場でかかっている映画「関ヶ原」の予告編の音楽だといえば、知らない人でも、あぁあれか、ということになると思う。だが上岡の手にかかるとこの曲は、ただがなりたてる曲ではなく、細部において非常に繊細な部分を持つダイナミックレンジの広い曲として再現される。テンポの速い箇所は、オケや合唱 (栗友会合唱団と、上記のすみだ少年少女合唱団) がついて行くのに若干苦労するような印象であったが、その一方で、非常に丁寧に曲の起伏を描き出そうとする意図は明白であり、その点に指揮者の個性が表れていたと思う。願わくば、さらに切り込みの鋭い、また音の重量が感じられる、そんな演奏になればもっと感動的になるのでは。歌手陣は、二期会のメンバーであるバリトンの青山貴と安井陽子は見事。焼かれる白鳥をカンターテナーで歌った絹川文仁 (開成高校の歌唱講師を務めているらしい。うーん、そうなのか) は、ちょっとご愛敬のような熱演ぶり。全体を通して、シーズンを締めくくり、また墨田区の音楽行政の成果を確かめるには恰好の演奏会であった。

終演後、サイン会があったので参加した。来シーズンのはじめ、9月にはマーラー 5番をメインとしたプログラムが予定されているので、「9月のマーラー、楽しみにしています」と声をかけると、「あぁ、ありがとうございます」と、大変丁寧に答えて下さり、こちらが恐縮するほどだった。上岡と新日フィルのコンビ、さらに知名度を上げて行ってもらうべきと思うので、私はささやかながらこのブログで声援を送り続けることとしたい。
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さて、最後にもうひとつ興味深い話題を。新日フィルの演奏会では、開演前に楽員数名がホワイエでプレ・コンサートを行うのが通例となっていて、今回もそれがあった。だが、結構混み合っていたので、私はその場所に足を運ばなかったのである。だが休憩時に見ると、このような絵画作品が、墨痕 (と言ってよいのか分からぬが) 鮮やかに展示されているではないか。
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むむ、この筆致はどこかで見たことがあるぞ。そうだ、来シーズンの新日フィルの定期演奏会のパンフレットである。この表紙、妙に印象に残るし、個別のコンサートのチラシも、同じようなデザインで既に作成されている。
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案の定これは、角田晴美というアーティストが、その場で曲の演奏とともに描き上げたものであることが分かった。なぜ分かったかというと、そこにいた真っ白い涼し気な和服を来た美人にピンと来て、オッサン特有の厚かましさで「あの、これ、先刻描かれたんですか」と質問すると、「はいそうです。10分くらいで」と返事があったからだ。因みに、演奏された曲はルクレールの 2つのヴァイオリンのためのソナタ第 3番とのこと。この絵画作品は、ルクレールの音楽とともに描かれたにしては若干情念過多とも思われるが (笑)、なかなかに印象的だ。帰宅して調べてみると、この角田さんは地元墨田区在住で、画家でありながら不動産屋。宅地建物取引士の資格を持っているという。「下町レトロ & リノベ物件サイト すみだの住みか」というサイトで、古い家屋を改造して活用するという、彼女の活動を見ることができる。こんな方です。
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そんなわけで、様々な意味で墨田区の文化行政に触れることのできる、大変貴重なコンサートであった。地域に根差した音楽を推進するには、なかなか大変なことも多いと思うが、下町ならではの活気をエネルギーにして、新日フィルさんにはますます頑張って頂きたい。あ、角田さんも頑張って下さい。

by yokohama7474 | 2017-07-30 01:03 | 音楽 (Live) | Comments(0)

エリアフ・インバル指揮 大阪フィル 2017年 7月28日 大阪・フェスティバルホール

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つい先だっての記事で、イスラエル出身、今年 81歳の名指揮者エリアフ・インバルが指揮する東京都交響楽団によるマーラーをご紹介し、世界有数のマーラー指揮者であるインバルのマーラーをまた聴きたい!! と絶唱 (?) したのであるが、そのチャンスは意外と早く巡ってきた。東京以外に本拠を置く日本のオケとしては有数の歴史と実力を誇る大阪フィルハーモニー交響楽団 (通称「大フィル」) が、その定期演奏会の指揮台にインバルを招き、しかもその曲目は以下の通りだ。
 マーラー : 交響曲第 6番イ短調「悲劇的」

大フィルの演奏会には以前からなかなか興味深い指揮者と曲目の組み合わせがあるので、聴いてみたいなぁと思うことが結構ある。だが、このオケの定期演奏会は木・金に行われており、週末はないのである。東京在住者としては、なかなか聴くチャンスがないのだ。だが。だがである。ちょっと待て。現在日本政府はライフ・ワーク・バランスに鑑みて、毎月最終金曜をプレミアム・フライデーと称して、早めに退社するように強く薦めているではないか。実際、私が日常的に関係のある省庁の人と 7/28 (金) の午後、打ち合わせをしようと打診すると、「その日はプレミアム・フライデーだからダメです」との回答。むむむ、そういうことなら話は簡単。15時過ぎの新幹線に乗って、一路大阪へ。かくして、インバルの指揮するマーラーをこの日本で再度楽しむことができた私は、本当に幸せ者なのである。ええっと、ここで白状すると、7/15 (土) に井上道義指揮大フィルの演奏会、バーンスタインのミサを聴いたときに、既にチケットを購入したものであった。ライフ・ワーク・バランスなら任せて欲しい (笑)。
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クラシック・ファンの方々には今更紹介するまでもなく、インバルは過去 30年以上に亘り、マーラー演奏の大家として揺るぎない地位を保っている。海外オケとの来日以外にも、NHK 交響楽団、読売日本交響楽団等といった在京オケとの顔合わせで精力的な演奏活動を日本でも繰り広げて来た。その中でも、2008年から 2014年までプリンシパル・コンダクター (日本語の意味は首席指揮者) を務めた東京都交響楽団との顔合わせは、数々のレコーディングもあり、世界に誇れるクオリティの演奏なのであるが、そのレパートリーの中心は、なんと言ってもマーラーである。それゆえに先日の交響詩「葬礼」と「大地の歌」の名演も、その流れの中にあった。指揮者にはいくつかのタイプがあり、活発に多くのオケとの共演を展開する人もいれば、気心の知れたオケと集中的に演奏に取り組む人もいる。インバルのキャリアを見ていると、基本的には後者であると思うのだが、それでも、80を超えてなお、新しいオケとの演奏を行っている点も驚異的なのである。そう、昨年 9月に初めて東京以外の日本のオケを指揮したインバルが、この大フィルとともに演奏した曲は、モーツァルト 25番とマーラー 5番。それから 1年を経ずして大フィルの指揮台に帰ってきたインバルは、やはりマーラーの大曲で勝負したのである。日本人のマーラー好きをよく知っているのであろうし、また日本でのマーラー演奏を楽しんでいるのであろうと思う。

先の都響との演奏会と同様、2本の指揮棒を持って現れたインバルは、いつものように譜面をめくりながらの指揮。冒頭の低弦は、少し呼吸が揃わないきらいがあったが、ズッズッズッと刻むリズムの重さは充分だ。今回のコンサートマスターは、大フィルの首席客演コンサートマスター、崔文洙 (チェ・ムンス) である。彼はまた新日本フィルのソロ・コンサートマスターでもあるのだが、今回の演奏では、まず第 1楽章のいわゆる「アルマの主題」を強く歌うところで、ほぼ中腰になって持てる力すべてをもってという様相を呈する演奏ぶりだ。つまり、中腰というか、ほぼ椅子から立ち上がりかかった姿勢での演奏であったのだ。その後も全曲を通して、全身全霊をもって大フィルの弦楽器をリードするという気概に圧倒された。素晴らしいコンマスなのである。
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今回の演奏、大フィルによる熱演であったことは間違いない。技術的なミスはほぼ皆無であった。だが。だがである。東京でしのぎを削るオケの数々においても、その音の充実感で東京一、つまり日本一を争う、あの都響を聴いた後では、さすがに分が悪いことを否定できない。どこがどうというのは難しいのだが、全体的に、私がよく使う言葉で言えば、音の緊密さを少し欠いていたように思うのである。もちろん、例えば今から 20年前なら日本のどこのオケでもフゥフゥ言いながら演奏していたこのとてつもない難曲を、技術的な破綻なく通して演奏するだけでも大変なもの。なので私は大フィルの健闘には拍手を送りたいのであるが、都響と比べて云々という評価方法にはひとつの意義があって、つまりは日本のオケ全体のレヴェルが、過去 20年間の間に急速に上がってきているということなのである。それゆえ、終演後のインバルはここでもまた、満足そうな表情を浮かべていた。実は今回インバルは、第 1楽章と第 2楽章、そして第 3楽章と第 4楽章 (ちなみに、第 2楽章と第 3楽章の順番は、伝統的な順番、つまりはスケルツォ - アンダンテ) の間をほとんど空けずに、いわゆるアタッカで演奏した。私が過去に何度か経験したこの指揮者のマーラー 6番ではどうだったか、にわかには思い出せないが、ここで勝手な推測を述べてしまうと、インバルの意図は、オケの集中力を途切れさせることなく、全曲をひとつの大きな弧として連続性をもって表現することで、音の緊密さを少しでも高めようとしたものではないか。弦はもっともっと歌ってもよい。金管はもっともっと炸裂してもよい。そして木管は、もっともっと目立ってもよい。そのようなインバルの思いが伝わってくるような指揮ぶりであったと思う。

繰り返しだが、私は今回の演奏を充分に堪能した。だがその上で、東京以外のオケの雄である大フィルには、まだまだ上を目指すことができると思うがゆえに、率直な感想を書いてみた。私は、オーケストラ音楽のいちファンとして常々思うことには、地方オケをもっともっと聴いてみたい。東京のオケの地位を脅かすような、充実の演奏を期待したいものだ。この大フィルに関して言えば、現在の井上道義体制から来年発足する尾高忠明体制に向けて、さらに意欲的な演奏を行っていって欲しいものだ。以前も書いたが、この中の島のフェスティバルホールは、キャパが大きい割には音響がよい。もちろん、大阪にはまた、素晴らしい音響のザ・シンフォニーホールもあって、音楽的な環境は既に贅沢なほど整っているのである。これがフェスティバルホールでの大フィルの演奏風景。
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今後の大フィルのスケジュールを見ていると、面白そうな演奏会がいくつかある。東京から聴きに行くのは決して楽ではないが、願わくばまたプレミアム・フライデーの恩恵をこうむって、素晴らしい演奏会を大阪で体験してみたい。

by yokohama7474 | 2017-07-29 23:11 | 音楽 (Live) | Comments(4)

残像 (アンジェイ・ワイダ監督 / 英題 : Afterimage)

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前回の記事で採り上げた「セールスマン」は、いくつかの劇場で公開されたが、最後は Bunkamura ル・シネマのみでの上映となってから終了した。一方この映画は、正真正銘、最初から単館ロードショーであり、しかも上映終了は今日、7/28 (金)。これはさすがにギリギリでのご紹介で、大変に申し訳ない。だが、ちょうど今日は、日本政府が旗振りするプレミアム・フライデーである。最後の上映に間に合うかもしれないではないか!! もしこの記事をご覧になって劇場に走る方が一人でもおられれば、ブロガー冥利に尽きようというもの。是非そうあって欲しいものである。さてそれではこの映画を上映している劇場はどこか。答えは、神保町の岩波ホール。なるほど、長らく存続している芸術映画のメッカである。昔は同様の芸術系映画の単館ロードショーを行う劇場は幾つかあったものの、もう今ではこの岩波ホールくらいになってしまった (上記の Bunkamura ル・シネマは、そこでしか見られない作品の上映もあると思うが、すべての作品が単館上映というわけではない)。なので、この岩波ホールの硬派さは、現代において非常に貴重なのである。だが、かく言う私も、最近この劇場に足を運ぶ機会がめっきり減ってしまった。学生時代はなんといってもルキノ・ヴィスコンティの映画はこの劇場の独壇場であったし、ブニュエル、タルコフスキー、あるいはアンゲロプロス、ベルイマン、そして、そうだ、アンジェイ・ワイダ。この映画「残像」も、昨年 10月に 90歳で亡くなったポーランドの巨匠監督で、日本でもよく知られたアンジェイ・ワイダの遺作なのである。岩波ホールで見るには、まさに恰好の芸術映画であると言えるだろう。岩波ホールの壁には、開場した 1974年以降ここで上映された映画のチラシがすべて貼ってあって壮観である。
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この映画は、実在のポーランド人アーティスト、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキが、第二次大戦後のスターリン時代に反骨精神を発揮し、様々な苦難に遭遇して壮絶な人生を送るという内容。実際のところ私は、特に熱心なワイダ・ファンではないものの、90歳、全く死の直前にしてこれだけの力作を作ったこの監督の力量と情熱に、完全に脱帽である。これはただものではない映画なのである。これが実在のストゥシェミンスキ (1893 - 1952) の肖像。
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そしてこれが、ポーランドの映画スターであるらしいボグスワフ・リンダの演じるストゥシェミンスキ。
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一見して分かることには、本人の写真にも役者の写真にも、左手は映っていない。また、役者の写真では松葉杖が映っているのである。実はこの画家、左手右足を失っているのである。その理由について劇中では多くは語られず (画家本人が語りたがらないという設定)、詳細は不明ながら、劇中のセリフによって、第一次大戦に従軍した際の負傷によるものだと判明する。このようなハンディが事実である以上、作中でこの設定がいかなる意味を持っているかを検索する意味はあまりないものと思うが、彼の芸術家としての矜持、また不屈の闘志が、背負ったハンディを生きる活力に転化せしめていたということだろう。私は寡聞にしてこの作家の作品を知らなかったのであるが、どうやらこのような鮮やかな色遣いの、ちょっとバウハウスの潮流を組むような前衛性を帯びた作品を制作したようである。また、劇中でも触れられる通り、離婚した妻もまた芸術家であり、共同製作なども行っていたらしい。
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映画では、スターリン体制下において、今となっては悪名高い社会主義的リアリズムを強制される芸術家たちの中で、頑として自らの信念を変えることなく制作を続けたストゥシェミンスキの姿が描かれている。主役であるボグスワフ・リンダの熱演によって、ストゥシェミンスキの激しい闘いが非常にリアルに描かれていて、圧巻である。実際、ワイダが 90歳を迎えても、これだけ破綻のない映像の蓄積を行う手腕を持っていたことは驚異的だ。ここにはいくつもの印象的なシーンがある。例えば冒頭ではこんなのどかな風景の中で、ストゥシェミンスキが学生たちを教えているのであるが、ここに登場する女性の紹介の仕方によって、その女性のその後のストーリー展開における重要性が理解できるし、また、この後ストゥシェミンスキが見せる思わぬひょうきんな行為から、いかに彼が学生たちに慕われているかが示されるのである。鮮やかな手腕ではないか。
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この映画は、見ていて決して楽しいものではなく、むしろスターリン時代の共産圏に存在した息詰まるような陰鬱さと、人々が生きるために取らねばならなかった手段の様子から、何か常に重いものを感じながらの鑑賞となる。だがしかし、上記の戸外のシーンを含め、主人公の人間性の発露に触れてほっとする部分もあって、決して陰鬱さ一辺倒ではない、複雑な味わいがある。例えば主人公の娘ニカは、決して可愛らしさがないわけでなく、性格も悪いわけではないのだが、両親の離婚というつらい環境において、自分を過度に主張することのない、陰のある女の子になっている。彼女はまた、相当な父思いの娘ではあるものの、父に甘える術を知らないかわいそうな子で、父に思いを寄せているらしい女性の学生の様子を見て、突発的な行動に出たりもする。2002年生まれのブロニスワヴァ・ザマホフスカは、実際の両親ともに俳優らしく、その若さに似ない成熟した演技を見せている。ワイダの遺作にこれだけ重要な役で出演したことは、きっと今後の彼女の役者人生において大きな糧となるだろう。
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平和な日本に住む我々は、もちろん様々なレヴェルの問題を抱えた社会に身を置いているとは言えるものの、この映画で描かれているような、自由闊達な思想や行動を阻む社会で懸命に生きていた人たちの生活を、到底理解できないだろう。舞台がポーランドという、歴史的な悲劇に何度も見舞われた国であればなおさらだ。ヒトラーに蹂躙されたあと、スターリンの統制下に置かれたこの国の国民の真情を、現代日本の我々がどうやって理解できるというのか。だが、この映画のように社会的良心に裏打ちされ、技術的にもしっかりした作品に触れることで、その歴史的事実に対する切実なイメージを持つことはくらいはできるだろう。この映画は、今後長きに亘って人々に強いメッセージを発し続けるはずで、それこそワイダの映画が持つ生命力なのだと思う。願わくば、ポーランドでもほかの国でもよいが、彼の業績を受け継いで行くような社会性の強い映画作家が、今後も出てきますように。いつもは軽口を叩く私も、このような映画の前では厳粛な気分になるのであった。

ところで、この映画のプログラムを見ていると、音楽担当者としてアンジェイ・パヌフニクの名前があった。パヌフニクは私もそれなりに知っているポーランドの現代音楽作曲家であるが、さすがにもう死んでいるはず。プログラムにも、1914年生まれ 1991年没とある。ということは、この映画で使われている音楽はオリジナルではなく、既存のものであろう。私がこの作曲家に出会ったのは既に 35年も前。1982年、ボストン交響楽団が創立 100周年を祝って彼に作品を委嘱し、当時の音楽監督小澤征爾が初演したシンフォニア・ヴォティヴァによってである。この曲は同じ機会に作曲されたロジャー・セッションズの管弦楽のための協奏曲とともに録音され、私の手元には未だにそのアナログ盤がある。
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だが、作曲者がパヌフニクであることは分かっても、劇中に流れるピアノソロや、そこに小編成のオケが絡む音楽 (どうやらピアノ協奏曲か?) や、陰鬱な情緒の弦楽器の曲などは、なじみのないものであった。プログラムにも曲名は記載されていない。そこでエンドタイトルで英語表記があることを期待してよく見ていると、出て来た出て来た。英語で 4 - 5曲の作品名がそこにあり、ひとつは確かにピアノ協奏曲。それ以外に見えたのは「夜想曲」とか「秋の音楽」などのタイトル。そこで帰宅してから我が家の CD 棚を確認すると、あったあった。パヌフニクの作品集が 2枚。1枚はヤッシャ・ホーレンシュタインと作曲者自身の指揮。もう 1枚は作曲者のみの指揮である。この 2枚に、ピアノ協奏曲も「夜想曲」も「秋の音楽」もすべて含まれていた。手元の CD のジャケットの写真を掲げるので、ご興味おありの方は (・・・いないかも 笑)、是非ご参考に。
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例によって映画の本質から離れたところに行ってしまったが (笑)、とにかく私はこれを偉大な映画だと思うので、歴史や文化に関心のある方々には、今回岩波ホールでの鑑賞は無理でも、今後なんらかの方法で、是非ご覧頂きたいのである。そして、パヌフニクの音楽なども聴いてみてはいかがだろうか。岩波ホールが今後も文化的な良心に基づいて貴重な映画を上映して行ってくれることを切に願いながら。

by yokohama7474 | 2017-07-28 00:46 | 映画 | Comments(0)

セールスマン (アスガー・ファルハディ監督 / 原題 : Forushande)

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最初にお断りしておくと、この記事で採り上げる映画は、もともと大々的に公開されていたわけではなく、私が見たときには既に単館上映となっていたが、それも既に終了していて、今この瞬間は見ることが叶わない映画である。だがそれでも、将来的にはネット配信や DVD / BD などで鑑賞の手段があるであろうから、ここに感想を記しておくのもあながち意味のないことではないだろう。もちろん映画好きの方なら既にご存じの映画であろうし、上のチラシにもある通り、今年のアカデミー賞で外国語映画賞を獲得しており、その前に昨年のカンヌ映画祭で脚本賞と男優賞を受賞したほか、多くの映画祭で様々な賞を得ている作品である。

まず興味を惹くのは、これがイランの映画であるということだ。イランは、国際ビジネスの観点からはなかなかに難しい国。つまり、米国の経済制裁は既に解除されているにもかかわらず、未だドル決済ができず、トランプ政権の態度もよく見えないため、ビジネスを展開するには不安定な要素が多い国なのである。とは言っても、イランからは我々にも既になじみのある大映画監督が輩出している。その名はアッバス・キアロスタミ。惜しくも昨年 76歳で亡くなったが、小津安二郎を心から尊敬すると言っていたこの監督の手腕は、国際的にも高く評価されていた。私が劇場で見ることができたのは「桜桃の味」だけであったが、なかなかブラックな面のある、一筋縄ではいかない大変な傑作であった。あとは、今調べてみて分かったのだが、「カンダハール」という面白い映画を撮ったのも、イラン人であるモフセン・マフマルバフ。なるほど、イランでは既にこのような傑作が生まれているわけで、この「セールスマン」が突然変異というわけではないわけだ。これが、この映画の監督アスガー・ファルハディがオスカーを受賞したところ。
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題名の「セールスマン」(原題の "Forushande" は、恐らくはこの言葉を意味するペルシャ語の、アルファベット表記であるように思われる) は、アーサー・ミラーの有名な戯曲「セールスマンの死」(1949年作) に由来する。この映画の主人公である夫婦は、ともに地元のアマチュア劇団に所属して、この戯曲の舞台上演に連日出演している。その上演期間中にあるトラブルが起こるので、映画の中では物語の進行とともに「セールスマンの死」の舞台が何度も登場する。その意味で、戯曲「セールスマンの死」はこの映画の発想となんらかの関係があるはずだ。私は若い頃素人演劇にかかわったこともあるので、この戯曲のことは当然よく知っている・・・はずなのであるが、恥ずかしながら、実際の上演を見たことはなく、また、以前手元にあったはずのアーサー・ミラー戯曲集も、今書棚に見つからない。なので、残念ながら「セールスマンの死」について知ったように語ることができない。そこでプログラムに掲載されている監督の言葉をここで要約すると、「セールスマンの死」は、ある社会階級が崩壊して行く時代の社会批判であり、急速な近代化に適応できない人々が崩壊する様子を描いている。その状況は今のイランの状況と似ており、急速な変化における選択肢は、「適応」か「死」である。本作の主人公であるエマッドとラナという夫婦は、舞台上でもセールスマンとその妻を演じていることから、実際の生活においても、セールスマンとその家族に直面して、運命の選択を迫られる。・・・なるほど、そういう発想でできた映画なのである。その点についてのイメージを持たないと、この映画にすっきりしないものを感じて本質を見失うことにもなりかねないだろう。ところでアーサー・ミラーはよく知られたように、一時期マリリン・モンローと結婚していて、彼女のために「荒馬と女」の脚本を書いている。このあたりについて語り始めると、またぞろ順調に脱線してしまうので (笑)、ここではモンローとミラーのツー・ショットだけ掲げておこう。
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この映画の感想を簡単に述べると、登場人物同士のかなり微妙で複雑な関係をなかなかうまく表現していて、面白い映画だと思う。ストーリーそのものだけ見ても、先を読ませない展開であり、その意味でもドラマとしての完成度は評価できる。その一方で、手持ちカメラを多用して動きのある映像が若干雑な作りに思えることもあって、緻密さを感じさせることがあまりない。そのために、せっかくうまく作られたドラマ性が、もうひとつ観客の心をわしづかみにしないもどかしさがあるのではないか。正直、主人公の男が、トラブルから一体何を感じ、それに対してどのように対処したいのか、分かりにくい作りになっていると思う。だが、そのような欠点を認めても、私としてはこの映画を高く評価したい。それは、舞台と実生活の間に存在する共通性と相違性を、生のままに描き出したというその創作態度によって、なにか人間の本質的なところを突いているからである。この夫婦は上の写真の夫婦とは異なり、世界的な意味での地位も名声も富もないが、様々な感情を持ち、自らが属する社会の中における確固たる位置を持っている。
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夫婦の間に起こるトラブルとは、こういうものだ。それまで住んでいた建物が、隣の土地の工事のために傾いてしまい、中古マンションへの転居を余儀なくされる夫婦であるが、ある日夫が帰宅してみると、妻が額から血を流してシャワーで倒れている。彼女がシャワーを浴びている間に呼び鈴がなり、てっきり夫だと思った彼女がロックを解除してシャワーに戻ったところ、入ってきたのは別の人物で、その人物に暴行を受けてしまったのだ。実はそのマンションの以前の居住者は、部屋に男を入れていかがわしい商売をする女性 (その女性は画面に登場しない点、評価したい) で、事件はどうやらそのことと関係しているらしい。二人はつらい思いを抱えながらも「セールスマンの死」への出演を続け、夫は真相解明に向けてひとりで動き出す、というもの。私が評価したいのは、この夫婦それぞれの人間像。夫は実は高校教師であり、生徒からはかなり慕われている。また、最初のシーンでは、傾いたマンションからの脱出の際、寝たきりの人の移動に手を貸すなど、良心を行動で表すタイプ。一方妻の方は、かなりおとなしい性格であり、自分がどんな被害に遭ったのかを語ろうとはしない (よって、彼女の受けた暴行が、ただ殴られただけなのか、性的なものを含んでいたのかは、最後まで明らかにならない)。後半に至って、その優しい性格から神経が参ってしまうシーンも出てくる。そしてこの 2人の間には、お互いへの遠慮に起因する気まずい雰囲気がつきまとい、少なくとも夫婦で揃って犯罪行為を糾弾するということにはならない。ほら、こんな感じで妻はこっそり夫の様子を見るのである (笑)。
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面白いのは、正義感が強く頼りがいのある男として描かれた夫が、犯人憎しの感情にとらわれ、かなり暴走してしまうという点である。これこそ人間の赤裸々な姿であり、これほど極端なケースでなくとも、誰にでも日常生活で起こりうることではないか。そして最後の展開は息詰まるものであり、ドラマは一気に渦を巻く。ネタバレはしないが、私はこのようなシーンを思い出すと、胸が苦しくなってしまうのだ。往々にして悲劇と喜劇が背中合わせになっており、難局を乗り切ったと思ったら次の難局が待っているのが人生。いつ何時、あなたがこの老人のように、ちょっとした過ちから危機的な状況に陥らないとは限らない。心してこのシーンを見る必要があるのである。
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その他印象に残ったシーンを挙げると、子供のいない夫婦が友人の息子を預かって、3人で夕食を取るシーンである。このメガネの少年がなんとも可愛らしく、この陰鬱なドラマの中で、何かちょっとほっとするシーンであるとともに、家族というもののあるべき姿を、疑似家族を通して表現している優れたシーンでもある。この少年がイノセントでピュアであればあるほど、現実世界で起こることの醜さが浮き彫りになる。そのようなことを、陳腐になることなく描き出す監督の手腕は、確かなものであると思った。可愛いでしょ? (笑)
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繰り返しだが、この映画の展開自体は洗練の極という感じではないので、流れの悪い映画だなと思われる方もおられよう。だが、「セールスマンの死」を題材として使用した点を含め、この映画のヴィジョンは非常に明快であるので、細部の不備にとらわれて映画全体の表現力を見ないことになると、大変にもったいないと思う。イランという、我々に日常なじみのない国から届いたこのような人間社会へのメッセージを、真摯に受け止めたいものである。また、小規模な公開であったとはいえ、このような映画を見ることができる東京の文化的環境を、誇りに思いたい。

by yokohama7474 | 2017-07-27 00:37 | 映画 | Comments(0)

キング・アーサー (ガイ・リッチー監督 / 原題 : King Arthur : Legend of the Sword)

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このブログで映画を採り上げる際には、つまり私が劇場で映画を見る際には、いくつかの見たいと思うポイントがあって、その中でも最大の要素は監督であるということは、ここで映画関連の記事を読んで頂いている方にはご理解頂けよう。例えばこの作品は、監督がガイ・リッチーであるがゆえに、私にとっては必見の作品であったわけである。この監督の作品としては、2015年12月 2日の記事で「コードネーム U.N.C.L.E.」を採り上げ、その際に私のこの監督への敬意を明確に表しておいたのであるが、今自分で読み返してみて、ちょっと興味深い表現を発見した。それは、その映画の入りがよくないことに触れた後の、「この監督の次回作、大丈夫だろうか・・・」というくだり。いや、大丈夫。ガイ・リッチーは無事、この新作を撮って世に問うた。だが。だがである。封切から 3週間くらいでほとんどの劇場からこの作品は姿を消し、現在でも上映しているのは、東京の丸の内ピカデリーと、それから長野の長野千石劇場というところの、全国でもたったの 2ヶ所だけなのである!! ネット上の評価を見てみても、そこそこ誉めているものもあれば、手抜きだの、ストーリーに必然性がないの、本当のアーサー王伝説とは違うのと、手厳しいものも多い。もちろん映画は見る人によって様々な見方があってしかるべきだし、それが映画の面白いところだから、私は他人様の評価をとやかく言う気はない。だが、もし映画を文化的文脈に沿って作家主義の立場で語るなら、ガイ・リッチーこそは現代における代表的な監督と位置づけ、何はともあれ劇場にかけつけるべきであろう。なので私は、どんな映画館か全く知らない長野千石劇場さんの英断を支持するし、東京の方には丸の内ピカデリーに駆けつけて欲しいのと同様、長野及び中部地方の方には、この作品が上映されているうちに千石劇場に駆けつけて欲しいと言わせて頂こう。

さてこの映画についての基本を確認しておきたい。題名の通り、イングランドの伝説であるアーサー王の物語。この伝説はもちろん広く人口に膾炙したものであり、これまでにも様々なイメージが創造されてきた。映画においては、「エクスカリバー」や、クライヴ・オーウェンとキーラ・ナイトレイ共演の 2004年の「キング・アーサー」という作品があったし (あ、もちろん、「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」もありました)、音楽においてはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」や「パルシファル」がこの伝説と関連している。英国には実際、アーサー王とその妃グイネヴィアの遺骨が掘り出されたとも言われるグランストンベリや、アーサー王生誕の地とも伝わるティンタジェル城など、興味深い場所があれこれある。そのイメージは常になにやら神秘的なのであるが、その一方で、魔術との関係や、円卓の騎士のひとりランスロットとグイネヴィアとの恋愛関係など、アーサー王関連のイメージの神秘性は、輝かしさ一辺倒の英雄の姿でない点にもあると思う。だからまず、アーサー王の人物像とはもともと複雑であるという前提で、物事を考え始めよう。因みにこれが、ほかのサイトからお借りしてきた、コーンウォール半島 (ワーグナー好きにはおなじみですね!!) のティンタジェル城の写真。我が家もロンドンから犬を連れてドライブでこの地を訪れたことを懐かしく思い出すが、なんとも荒涼とした場所であった。なんでも昨年、この地域で 5~ 7世紀のものと見られる遺跡が新たに発見されたとかで、アーサー王伝説もあながち非現実的な話ではないと、専門家もコメントしているという。
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実はこのガイ・リッチーのアーサー王シリーズは全 6作の予定で、今回が第 1作。監督のみならず、製作・脚本もリッチー本人が担当している。ということは、彼としてもこの作品に相当な思い入れがあるに違いないし、今回興行成績がコケてしまうと、この先の製作に暗雲が垂れ込めるかもしれないという由々しき事態に陥る恐れがある。これは、マドンナと結婚していた頃のガイ・リッチー。
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では映画について語ろう。私の見るところ、確かにこれは、誰もが絶賛を惜しまない傑作とは言えないと思う。また、新たなアーサー王像を作ろうという意欲が空回りしている部分も、あるかもしれない。だが、素直に見て、ここにはあの長編デビュー先「ロック、ストック & トゥー・スモーキング・バレルズ」(1998年) から変わりない彼の冴えた映像センスが感じられて、ファンとしては嬉しい限り。もっとも、デビュー時期に比べると CG も当然格段に進化しているし、それをふんだんに使えるだけの予算を取れる監督になっているという事情もあろう。だがこの 360度回転カメラのシーンで、吹っ飛ぶ敵たち、舞い上がる小石、輝く刀身というイメージが時に速く時に遅く、ときにストップモーションとなって目まぐるしく動くのを見るのは、素直に楽しい。最新のオモチャで遊んでいるという印象もあるが、それこそガイ・リッチー。そうして彼の描き出す、まさに「スラムのガキから王になる人物」の成長ぶりは、やはり只者ではない。聖剣エクスカリバーを抜くシーンも遊び心いっぱいで、私はよいと思いましたよ。
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後で知ったことには、このシーンで悪役を演じているのは、あのベッカムなのだ。大根役者と酷評されているようだが、でもこのルックスは悪役でもイケると思う。
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もしこの映画で人々の共感を得られない点があるとすると、話の流れが分かりにくいことと、それから、ナポレオンへの言及などに見られる不可解な時代設定だ。前者の点は確かに致し方ないかもしれない。登場人物が多く、敵なのか味方なのか分からない人もいるし、なぜここでこの人がアーサーを助けるか、という点で納得いかないことも起こるからだ。だが、その一方で、アーサーが度々見る父の映像や、そこに佇む異形の者の姿は極めてイメージをつかむことが容易であり、物語は何かというとそこに返って行くので、細部に惑わされることなくアーサーの言動を中心に見て行くべきではないだろか。その一方、時代錯誤的なセリフについては謎なのだが、ネット上での評価の中に、これは 19世紀の英国に舞台を変えているというのだという解釈があって面白かった。後半に出てくる政府による娼婦の暗殺は、切り裂きジャック事件だというのだ。なるほど、その解釈もありかもしれない (私は切り裂きジャックには随分と興味があり、何冊も本を読んでいるばかりか、真犯人ではないかと言われる画家ウォルター・シッカートの画集まで、しっかーりと持っている)。だが、視覚的にはどう見ても舞台の設定は 19世紀ではなく、中世以前である。なのでこの時代錯誤にもあまり囚われることなく、部分的な設定にリッチーの遊び心が発揮されている例であると私は思いたい。

どうやらひいきの引き倒しの感も否めないが (笑)、私としてはこの小ネタ満載の映画を大変楽しんだということである。大規模な作品においてこれだけ自己のテイストを明確に盛り込む手腕を持つ監督が、現在何人いるだろうかと思うのである。また、上記のベッカムはさておき (笑)、主要な役を演じたのは素晴らしい役者たちである点は特筆できよう。まず主役のチャーリー・ハナム。ハリウッド製の怪獣 vs ロボット映画「パシフィック・リム」の主演であったとのことだが、はて、全く覚えていない。だがここでの役は、まさにスラム街に育った、どこの誰とも知れない男 (決して若者といえる年ではない) が、実は前王の息子であったという設定なので、あまりメジャーな役者でない方がよいし、その一方で、高い身体能力及び、陰のある英雄を演じられる演技力が必要。その意味では適役だったと思うし、身体性に富んだ凄みのある演技を見ることができる。
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それから、亡き父、前王を演じるエリック・バナが素晴らしい。昔ハルクを演じていた若者が、今や悲劇の王を堂々と演じているのは感慨深い。
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それから私が注目したのは、魔術師マーリンの部下として、様々な魔術を操るメイジを演じるアストリッド・ベルジュ=フリスベだ。スペイン人の父とフランス系アメリカ人の母を持つため、スペイン語やフランス語にも堪能とのこと。この不思議な役を演じるには適材適所だと思った。だが、ちょっとネットで調べてみると、この役がこのシリーズで今後重要になっていくらしいことが判明する。彼女の今後の変貌やいかに。
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あと、敵の王役にはおなじみのジュード・ロウ (というファミリーネームの表記が日本では定着しているが、綴りは "Law" なので、正しい表記は「ロー」だろう)。もちろん熱演であるとは思うものの、正直なところ、この役者はこれまでのキャリアの中で、その豊かな才能に見合うだけの重要な役柄を、未だほとんど演じていないように思う。この程度の悪役では、満足したとは言いたくないのが素直な感想である。今後の作品に期待したい。
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とまあ、私としても手放しで絶賛する傑作とは思わないものの、しつこい繰り返しで恐縮ながら、ガイ・リッチーの映画としてその捻りを楽しみたいという観客にとっては、見応えはかなりあるものだと思う。願わくば、予定されている 6作が無事すべて映画化されますように!! 遠い日本の地における長野千石劇場の英断に、作り手たちも是非報いて欲しいものである。

by yokohama7474 | 2017-07-25 23:49 | 映画 | Comments(2)

ライフ (ダニエル・エスピノーサ監督 / 原題 : LIFE)

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この映画の題名は「ライフ」、つまりは「生命」という意味である。なるほど、この地球上にあまた存在し、躍動するあの生命のことだ。つまりこの映画は、生命の尊さを訴え、この地上に平和で穏やかな日々が続くように祈ろうという内容なのか。あるいは、「ライフ」のもうひとつの意味である「生活」を意味するなら、新たな自分を求めて頑張ろうという積極的なメッセージを伝えるものなのかもしれない。または、貧しくつらい日々の生活の中にも笑いありペーソスありの、家族愛による心温まる物語なのであろうか。・・・でもそれなら、こんなポスターのはず。
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うーん、何かちょっと違うようだぞ。なぜなら、冒頭に掲げたポスターの謳い文句は、「人類の夢も未来も砕かれる」というなんとも物騒なものであり、どう見ても、地球上の生命や人々の生活の尊さを訴える内容ではなさそうだ (笑)。そう、正直なところ、私の意見としては、この映画の題名はよくない。私のように、ブラックで怪奇で邪悪なものを愛する人間にとっては、題名だけで映画をチェックするならば、見落としてしまうではないか。この、優れてブラックで怪奇で邪悪な映画を (笑)。実際、予告編も見る機会がなかったので、シネコンのスケジュールをチェックした時には危うくこの作品をスルーするところであったが、念のためと思って解説を見ることとし、その本質を理解すると、早速いつ見に行くかの検討に入ったのである。危うくこんな面白い映画を見落とすところであったのだ。危ない危ない。

ストーリーは簡単。6人の乗組員の乗る宇宙船が火星に到達し、そこで採取した土壌に原始的な生命体を発見する。最初はただの小さな細胞であったその生命体に対し、かつて地球で起こったような生命活動のための様々な要因を整える環境を作ると、それは徐々に活動を始める。そしてそのものは急速に成長・進化し、ついには人間を襲い始めるのである。そうして閉ざされた宇宙船の中は、逃げ場のない壮絶な闘いの場となる。この生命体を絶対に地球に届かせてはいけない!! というもの。うーん、これは面白い。もちろん昔の名作「エイリアン」とも共通する設定なのであるが、当時と比べて現在の映画技術における無重力表現のリアルさには、本当に舌を巻く。この迫真のリアリティあってこその、究極の密室ホラーなのである。
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もちろん、これからご覧になる方のためにいつもの通りネタバレは避けるが、培養によって育ってきた火星生物 (ここではカルヴィンと名付けられる) は、最初はこんな感じ。何やらイカの刺身のようである (笑)。
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さぁ、ここからいかに物語は進展するのか。白状すると、私はもう、心臓バクバクものでスクリーンに見入ることとなった。フィクションとは分かっていても、もし異星の生命体が発見されて、それが成長すれば、まさに完全な未知との遭遇であって、ドキドキするに決まっている。そして、もしあらすじを事前に知っていなくても、このイカの刺身がいずれ人間を襲うようになるという予感は、画面のそこここから漂っているので、なんとも息苦しく落ち着かないのである。この感じ、「エイリアン」を含むほかの映画ではこれまでに味わったことのないほど強烈な、何か人間の本能に訴えかける恐怖感だ。この生命体は高い知能を持っていて、道具を使ったり、あるいは何か物事が起こったらその結果として起こることも予測した上で行動を取る。最初の方こそゴキブリ退治感覚で見ていても、すぐにエイリアン的世界に突入、これはヤバいぞ、ヤバいぞ、と心の中でつぶやきつつ、拳を握りしめながら事の次第を見守ることとなる。もちろん乗組員たちの何人かは犠牲になるのだが、例えば船内に浮かぶ人物の口からゴボゴボッと出て来る血が大小の不定形な塊となって宙に漂うシーンや、生存者たちが無重力の船内を進んで逃げる際に、先に犠牲になったほかの乗組員の死骸が未だそこに浮いているシーンには、やはりそのリアリティによって、本能的な恐怖を掻き立てられたものである。だから本当にこの映画は怖い。そして、ストーリーが単純であればこそ、先の読めない展開に翻弄されてしまうのだ。ふとここで考えるのは、私の場合は題名によって本来パスすべきところを、内容をチェックしてから見ることにしたため、まだある程度の覚悟はできていたものの、その逆のケースはどうなるのかということだ。つまり、清く正しく美しい映画を好む人が、この題名だけを見て、これを清く正しく美しい映画だと勘違いして劇場に入った場合である。きっと驚きのあまり全身の毛は逆立ち、目は飛び出て、悶絶することであろう。それはまさにこの映画と同じくらい、怖い (笑)。

この映画はまた、出演している役者たちがよい。まずは、ジェイク・ギレンホール。様々な作品に出ていて、一度見たら忘れない顔だが、もうひとつ代表作と呼べるものがない (私が見ていない「ブロークバック・マウンテン」はきっと違うのだろうが) ように思う。ここでも少し特殊な役なのであるが、人生に対して少し投げやりな態度を示し、だが非常に真摯な情熱を持った人物像に仕上がっている。諦観とは表裏一体の、そこはかとないユーモアも見て取れる。この映画をこれからご覧になる方、是非彼の最後のセリフにおける、無限のニュアンスを聞いてみて頂きたい。それは、最高に悲劇的で、かつ最高に喜劇的なシーンなのである。なぜなら、人類の夢も未来も砕かれるなら、もう笑うしかないではないか。
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そして、レベッカ・ファーガソン。このブログで彼女の出演作をご紹介するのはこれで 3度目だが、スウェーデンの女優で、1作ごとに違った顔を見せてくれている。ここでは宇宙飛行士らしい凛とした強さを持ちながら、人間としての感情に溢れた難役を極めて印象深く演じていて素晴らしい。
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そして、ライアン・レイノルズ。言わずと知れた「デッドプール」の主役だが、その役にも通じる、軽口は叩くものの、いざというときには頼りになる役を演じている。ところで今調べて知ったことには、この人、一時期スカーレット・ヨハンソンと結婚していたらしい。
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それから、真田広之。もちろん、日本人の宇宙飛行士がいてもよいので自然な設定ではあるが、ここでもやはり、ハリウッド映画における「日本人」であることが前提の役で、それはつまり、寡黙で目立たないが、静かな情熱と家族への愛を持った人物ということなのである。その前提においては、なかなかよい演技を披露していると評価できるだろう。
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そして監督は、スウェーデン人のダニエル・エスピノーサ。このブログでは以前、トム・ハーディ主演の「チャイルド 44 森に消えた子供たち」をご紹介した。現在 40歳で、スウェーデン国外で国際的なキャストを使って撮った作品は、これがまだ 3作目。今回のような単純なストーリーを退屈せずに見せる手腕は大変なものだと思うので、今後も活躍の場を広げて行って欲しいものだ。
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この映画の大詰め、まさにこの異形で凶暴な地球外生命体が地球に到達するのか否かという瀬戸際の演出は、今思い出してもハラハラする。「ど、ど、どっちだ???」と叫びたくなるあの焦燥感。結末が分かっていても、もう一度見てみたい。それにしてもこの火星人カルヴィン、実に憎たらしいしグロテスクなのだが、実はちょっとかわいいところもあると思うのは私だけだろうか。そう、彼は必死に生き延びようとしているだけ。彼のライフにも、ほかの生物同様の尊い価値があるはずではないか。・・・とこう考えるだけで、既にブラックで怪奇で邪悪なものに毒されてしまっているのかもしれませんがね (笑)。

by yokohama7474 | 2017-07-24 21:48 | 映画 | Comments(0)

チョン・ミョンフン指揮 東京フィル 2017年 7月23日 Bunkamura オーチャードホール

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一週間ほど前にジョナサン・ノット指揮東京交響楽団による熱演をレポートしたマーラーの交響曲第 2番「復活」であるが、その演奏と相前後して、その第 1楽章の原型となった交響詩「葬礼」の素晴らしい演奏を、エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団が披露した。そして、7/21 (金) とこの日 7/23 (日) の 2回に亘って、今度はチョン・ミョンフン指揮東京フィル (通称「東フィル」) によって、また「復活」が演奏されるという事態。東京は時ならぬ「復活祭り」(?) に沸いているのであるが、 せっかくならこのお祭りに参加しないと損ではないか。現在は東フィルの名誉桂冠指揮者という地位にある世界的指揮者のチョンであるが、上のチラシにある通り、彼がこのオケで「復活」を振るのは 2001年以来実に 16年ぶりとのこと。日本のオケの指揮台に立つ名指揮者たちの中でも、このチョン・ミョンフンはもちろん、世界楽壇における地位もトップ中のトップであるが、私の感じるところ、その音楽の「凄み」という点において、他の追随を許さないレヴェルに達している人である。そんな彼の振る「復活」に、期待するなという方が無理というもの。
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今回、チョンと東フィルはこの「復活」を合計 3回演奏するのであるが、その日程と会場が面白い。まずは東京オペラシティで 7/21 (金) に行っており、そして今回の Bunkamura オーチャードホールでの演奏、そして 3回目はなんと夏休みを越えて、9/15 (金) に、改装なったサントリーホールで演奏される予定になっているのだ (ソリスト、合唱団もすべて同じ)。そもそも世界的指揮者が 2ヶ月を挟んで東京で同じ曲、しかもこんな大曲を指揮するとは極めて珍しいことであるが、東京を代表する 3つの異なるホールで「復活」を演奏するこのコンビには、何かの決意があるということだろうか。実は前回、2001年にチョンと東フィルがこの「復活」を演奏したのは、新星日本交響楽団との合併を経た「新生」東フィルとしての最初の定期演奏会であったとのこと。興味深いことに、合併前の旧・東フィルとしての最後の定期演奏会も、沼尻竜介の指揮でこの曲が演奏され、合併 5年後の 2006年にはダニエル・ハーディングの指揮で、10年目の 2010年には当時常任指揮者に就任したばかりのダン・エッティンガーの指揮で、この曲が演奏されているという。こうなってくると私もひとつ情報を付け加えたくなる (笑)。合併前の新星日響も、当時の大指揮者のもとでこの曲を演奏していて、それは 1986年、朝比奈隆によるもの。高揚感ある演奏だったのを覚えている。これは当日のプログラムからの写真。
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思い起こしてみれば、チョンが合併後の東フィルのミュージック・アドバイザーに就任するというニュースには、本当に驚いたものだ。もちろんそれに先立って N 響ではシャルル・デュトワが常任指揮者、そして音楽監督としての活動を行っていて、それまでの日本のオケの在り方が変わろうという流れはあった。だが東フィルの場合、合併前に音楽監督であった大野和士が非常に大胆なオペラ・コンチェルタンテ・シリーズなどで気を吐いていたので、その手作り感あふれる状態から、一気に世界のメジャー指揮者を指揮台に迎えることには、素直に喜べない気がしたのである。チョンほどの大物を高いギャラを払って連れて来ても、それは一時的なトレーニング目的であって、きっと長年に亘って振ってくれることはないだろうと、私は勝手に思い込んでいたのであった。ところが、それから早いもので 16年。私の思い込みは嬉しいことに間違っており、チョンは今も頻繁に東フィルの指揮台に立ってくれている。そう思うと、過去 20年ほどの日本のオケの飛躍を象徴するコンビのひとつが、チョン・ミョンフンと東フィルと言っても過言ではないだろう。

演奏開始前にステージを見渡すと、コントラバスが 10本の大編成である。最近このような大曲でも、通常サイズの 8本で演奏することが多いと思うが、ここは大規模所帯の東フィルならではの贅沢か。いつもの通り暗譜で指揮を始めたチョンであるが、上に書いた「凄み」は、その呼吸から来ている。気負いすぎることなくごく自然にキューを出して開始した冒頭部は、驚くほどの切れ味でもなかったものの、それに続く低弦の唸りには、凄みを抉り出すチョンの真骨頂が、早くも見えた。総奏に入っても、音楽は過剰な熱を帯びることはなく、迫力はあるものの、ある意味では淡々と進んで行く。逆説的かもしれないが、この淡々とした感覚こそが、チョンの紡ぎ出す凄みの秘訣なのだと思う。どういうことかと言うと、淡々としているかと思えた第 1主題に対して、第 2主題では一転、通常よりもぐっと遅いテンポで纏綿と旋律を歌い抜く。そのときに聴き手は、何か新しい世界が展開したように感じるのである。これはその後も全曲を通して聴かれた傾向で、例えば第 3楽章スケルツォでは的確なリズム感が諧謔味を強調していたし、終楽章の長い長い起伏の中で、オケの爆発の前、あるいは合唱が入ってくる前という要所要所では、遅いテンポでの祈りのような音楽が奏された。このようなメリハリによって聴き手は、ある時には突き放されることもあれば、ある時には纏綿たる情緒に溺れることとなる。チョンが大きな呼吸で指揮棒を振るとき、そこに生じる音楽の凄みが、徐々に深みを帯びて行くのである。既にお互いをよく理解している指揮者とオケのコンビであるから、音の呼吸も自然なのであるが、もし今回の演奏で僭越ながら課題を挙げるとするなら、金管の弱音部の細かいニュアンスではなかったろうか。ところで以前も書いたが、上記のようなチョンの音楽の特性は、彼の師匠であるカルロ・マリア・ジュリーニと共通する点があるのではないか。ジュリーニの手掛けたマーラーは、私の記憶する限り、1番、大地の歌、9番だけである。だが、もしジュリーニが「復活」を振ったらこんな演奏になってのではないか、などと想像しながら聴いていたものである。

今回の独唱者は二期会の人たちで、ソプラノの安井陽子とメゾ・ソプラノの山下牧子。合唱は新国立歌劇場合唱団であった。第 4楽章で独唱を歌うメゾの山下は、なんとも深々とした情緒を伴う声。どこかで聴いたと思ったら、今年 2月に新宿文化センターで行われたアンドレア・バッティストーニ指揮の同じ東フィルによるヴェルディのレクイエムであった。これが山下さん。
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そういえば新国立劇場合唱団は、前日 (土曜日) もフルシャ指揮東京都交響楽団の演奏会で、スークの「人生の実り」を歌っており、それは 2回の「復活」の演奏会 (金曜日・日曜日) の間だったことになる。既に新国立劇場でのオペラのシーズンは終わっているとはいえ、大変な日程である。もっとも「人生の実り」の方は女声合唱だけであり、歌詞のないハミングのみなので、それほど負担ではなかったということか。あるいは、そもそも 2組に分けての別々の歌手たちの出演であったのだろうか。ただ、合唱指揮は同じ冨平恭平。連続した日程で全く別の曲を聴くのに、同じ合唱指揮者が連続でステージで挨拶するのを見るというのも珍しいことだ。また、ここでひとつ思い出したことには、今回の演奏では、メゾの山下を除くソリスト・合唱団のメンバーは、全員譜面を見ながらの歌唱であった。最近の東京での声楽付きの大曲の演奏では、合唱団も暗譜ということも多いが、もともとヨーロッパでは、宗教的な内容の曲の場合には譜面を見るのが普通で、それは神に捧げる言葉、あるいは神がら授かった言葉を歌うからだ。「復活」はミサなどの純然たる宗教曲ではないものの、終楽章の歌詞は明らかに宗教性のあるもの。そのような背景に鑑みて、指揮者が譜面使用を指示したものではないかと、私は想像したくなるのである。

この曲の終盤は、それはもう凄まじい音響の嵐となるので、どんな演奏でも感動するのだが、今回のチョンと東フィルの演奏も、まさに鳥肌もの。この曲の優れた演奏では、合唱の盛大な盛り上がりに対して指揮者の身振りが返って小さくなることが多く、それこそがこの曲の凄みを引き出すひとつの要因かとも思うが、もちろん、「凄み」の指揮者チョン・ミョンフンは、最小限の身振りで最大限の壮絶な音量を炸裂させて、全曲を終了した。この曲の終楽章では舞台裏でトランペットとホルンとティンパニの別動隊が演奏をして、大団円ではそれらの奏者 (あ、もちろんティンパニは除く) もステージに合流して大音響に貢献するという方法が一般的だが、前述の通りこのオケはほかのオケよりも規模が大きいので、それはないかと思っていたら、なんのことはない、最後の最後に何人かの若い奏者 (多分学生のエキストラではないか) が舞台に合流した。数えてみると、トランペットは (起立の 4名を含む) 10名、ホルンは 11名であった。若い奏者たちにとっても、このような経験は本当に生涯の宝になることだろう。

高揚した気分でホールから出ようとすると、たまたま会社の先輩とばったり出くわした。中学生くらいの息子さんと一緒で、なんでも息子さんはホルンを演奏するという。「じゃあ、早くマーラーの演奏会に、エキストラとして出れるといいね」と冷やかすと、「はい」と照れながら答えてくれたのが微笑ましかった。現在ドヴォルザーク 8番を練習中とのことだったので、「ここは大変だねー」と、終楽章のアクロバティックなホルンの箇所を歌うと、我が意を得たりとうなずいてくれたのだが、こちらは演奏せず、ただ口で歌うだけだから気楽なもの (笑)。若い奏者の皆さんにとっては、東京は様々なオケを実際に耳にできる恵まれた環境なのである。プロのオケマンの皆さん、是非未来を信じて、さらに素晴らしい演奏を展開して行って頂きたい。

by yokohama7474 | 2017-07-24 00:32 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヤクブ・フルシャ指揮 東京都交響楽団 2017年 7月22日 東京芸術劇場

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この日の 14時からのコンサートにはいくつかの選択肢があった。まず、すみだトリフォニーホールでは、上岡敏之が手兵新日本フィルを指揮して、幻想交響曲などを演奏する。東京オペラシティコンサートホールでは、藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルが、エルガー 1番などを演奏。これも面白そうだ。いやいや、本命はやはり、ミューザ川崎シンフォニーホールでの、ジョナサン・ノット指揮東京響であろう。なぜなら曲目は、シェーンベルクの浄夜とストラヴィンスキーの春の祭典という意欲的なものであるからだ!! これらはいずれも是非聴いてみたいものばかりであるが、残念ながら体はひとつ。涙を呑んで私が選んだのは、これらとは違うコンサート。東京都交響楽団 (通称「都響」) を、首席客演指揮者のヤクブ・フルシャが指揮するものだ。実のところ、今月都響は 3種類のプログラムを演奏するが、そのうちの 2種類は既にこのブログでご報告済。マルク・ミンコフスキ指揮の演奏会とエリアフ・インバル指揮の演奏会で、いずれも大絶賛した。そうなると残るもうひとつのプログラムも、聴かざるを得ないではないか (笑)。もちろん、世界の指揮界における若手のホープ、フルシャの指揮ということは大きなポイントであるが、曲目がまた素晴らしい。以下のようなもの。
 ブラームス : 交響曲第 3番ヘ長調作品90
 スーク : 交響詩「人生の実り」作品34
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ちょっと渋いと言えばそうかもしれないが、注目はやはり、フルシャの故郷であるチェコを代表する作曲家のひとり、ヨゼフ・スーク (1874 - 1918) の代表作、「人生の実り」であろう。私の世代でヨゼフ・スークと言えばもちろんあのチェコの名ヴァイオリニスト (1929 - 2011) を連想するが、彼はこの作曲家の同名の孫にあたる。チェコ人の音楽に対する情熱については、このブログでも過去に何度か紹介しているが、チェコ音楽史におけるこのスーク家の実績は、その中でも特筆すべきものではないか。以下、祖父スーク (作曲家として歴史に名を残しているが、孫同様に優れたヴァイオリニストでもあった) と孫スークの肖像。面影には共通するものがある。
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とこのように書きながらも、私にとって作曲家ヨゼフ・スークが身近な存在かと言えば、正直、決してそうではない。だがスークは、チェコ音楽における最大の作曲家であるドヴォルザークの娘と結婚しており、またプラハ音楽院教授としては、次の世代のチェコを代表する作曲家、ボフスラフ・マルティヌーを教えたという点で、チェコ音楽史の系譜の中で、極めて重要な人なのである。そしてその作風は、非常に豊麗な後期ロマン派風。生年を見るとそれは明らかで、ドイツ系の作曲家で言えば、リヒャルト・シュトラウスよりも 10歳下、ツェムリンスキーよりも 3歳下。その一方で、同じ東欧 / ロシア系の作曲家で見てみると、ハンガリーのバルトークより 7歳上、ロシアのストラヴィンスキーよりも 8歳上である。チェコ人の音楽性はかなり保守的であると言ってよいであろうから、スークの作風は、後期ロマン派の残影の中にあって、バルトークやストラヴィンスキーのような 20世紀の前衛とは一線を画するものである。また、音楽好きなら既にお分かりの通り、1874年生まれということは、過激な前衛音楽を切り拓いたオーストリア人シェーンベルクとは同い年。もっともシェーンベルクの場合も、初期には非常に後期ロマン派的な曲を書いていたので、その点での共通点はあると言えるかもしれない。

さて今回の演奏会では、指揮者フルシャが演奏前にステージに現れ、20分に亘りプレ・トークを行った。日本では演奏されることが稀なこのスークの作品について、どうしても語りたかったということだろう。いわく、彼が 17歳のときにプラハの楽譜店の前を通りかかったときに大きなスコアが安く売られているのを見て購入。自宅で勉強してみると、内容は安いどころの話ではなく、めくるめく世界であり、魅了された。17歳や 18歳でこの曲の内容が分かったとは言えないだろうが、素晴らしい芸術がそうであるように、知れば知るほどに、録音で聴けば聴くほどに魅了される。そして、いつの日かこの曲を指揮することを夢見るようになった。40分ほど切れ目なしに演奏される曲であるが、それは例えてみれば、寄せては返す海の波のようであり、また延々と流れゆく河のようでもある。「人生の実り」とは、英語では "Ripening" であるが、ここには人生の様々な要素が表現されていて、「実り」とは成熟した「状態」を指すのではなく、むしろそこに至る「過程」を表している。曲の内容について様々な研究者による様々な説があるが、自分としては初演者であるチェコの大指揮者ヴァーツラフ・ターリヒが唱えた、6つの部分に分ける説を支持したい。いずれにせよ、音楽の流れをよく聴いて欲しい。あ、それから、前半のブラームスもお楽しみ下さい!! と述べて、この若手指揮者のトークは終了した。つまりこの「人生の実り」という曲は、若き日のフルシャが音楽家になる決心をするきっかけの曲であったということだろう。ところで、フルシャの話の中に、彼の師であり、先般惜しくも亡くなったイルジー・ビエロフラーヴェクについての言葉があるかと思ったのだが、それはなかった。

さて、そんなスークの作品の前に演奏されたのは、指揮者が楽しんで下さいと言った、天下の名曲、ブラームス 3番。ここでは都響の今の充実が如実に表れており、なんとも味わい深い名演が展開した。「前座」としてはもったいないような演奏において、都響の実力を引き出したのは、もちろんフルシャの高い力量によるものであろう。実際、ブラームスの 4曲の交響曲の中でも最も渋いこの 3番を、こんなふうにじっくりと聴かせてくれる指揮者が、未だ 36歳の若手とは信じがたいような思いである。この演奏の中で、時折聴き手をはっとさせるように耳に入ってきた地を這うような低音は、コントラファゴットである。以前このブログでも、サイモン・ラトルがベートーヴェン 7番の演奏で、オリジナルの楽譜にはないコントラファゴットを使用しているという発見について書いたが、調べてみたところブラームスの交響曲 4曲のうち、2番を除く 3曲で、この楽器が使われている。まあ確かに 2番はブラームスにしては異例の明るい曲だから、コントラファゴットを含まない楽器編成も、分かるような気がする (だが実は、2番では唯一チューバが使われているという意外性もあるのだが)。ともあれ、昨年からドイツの名門バンベルク交響楽団の首席指揮者を務めるフルシャとしては、ブラームスで充実した演奏をできることは必須の条件であろう。今年 12月にはまた都響で、ブラームスの 1番と 2番を演奏することになっていて、今から楽しみである。これは過去のフルシャと都響の演奏風景。
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メインの「人生の実り」という曲について、実は私はそれほどに思い入れがあるわけではなかった。スークの作品としては、アスラエル交響曲とか「夏の物語」とともに、この曲もこれまでに録音では何度か聴いたことはあり、確かに滔々とした流れはあるものの、R. シュトラウスほどの超絶的なドラマ性があるわけではなく、もうひとつつかみにくい曲と思っていたのである。だが今回のフルシャの指揮ぶりを見ていると、プレトークで感じられたこの曲への思い入れがはっきりと感じられ、移り変わる音楽的情景において、常に確信をもってオケをリードする姿には、素直に感動した。実際、弦楽器の分奏も多く、全曲に切れ目はないのに曲想の変化は多い。また、随所で活躍するティンパニも拍を数えるのに真剣であって、技術的にはかなりの挑戦であったと思うが、最近の都響であればそのくらいの挑戦は軽々と克服できるということを実感した。このオケがマーラーを中心に刻んできた激闘の歴史が、ここにまた新たな歩みを実現したように思い、大変感動したのである。実はこの曲には、別動隊のトランペット 6本 (ステージ奥のオルガンの前に配置) と、女声合唱 (今回は新国立劇場合唱団) が入り、いずれも終盤に登場して曲を彩るのであるが、視覚的にもそれらの要素が大変効果的であった。まさに人生の実りに向かう道のりを、会場に集った聴衆たちは耳にすることができたのである。

実のところ、このブログで以前採り上げた、マーラーの「巨人」におけるフルシャと都響の演奏に接して、もしかするとこの指揮者は、最近の世界的活躍ぶりで疲弊しているのでは、と危惧したものであった。だが今回の充実した演奏を聴いて、彼の音楽がまさに実りつつあることが実感できて、安心した。都響との首席客演指揮者としての契約は今年で終了してしまい、その後はなかなか日本までやってくることはないかもしれない。だが、以前フルシャ自身が口にしていた都響への信頼を維持してもらえれば、我々には今後もチャンスがあるだろう。是非これからのフルシャのさらなる進化を、実際のステージで体験したいものだと思った。

by yokohama7474 | 2017-07-23 00:55 | 音楽 (Live) | Comments(0)

レナード・スラットキン指揮 デトロイト交響楽団 (ヴァイオリン : 諏訪内晶子) 2017年 7月19日 東京オペラシティコンサートホール

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ヴァイオリニスト諏訪内晶子が主催する国際音楽祭 NIPPON については、先般、諏訪内自身のヴァイオリン・リサイタルの記事でご紹介した。実は今年、この音楽祭に参加する指揮者とオーケストラがあって、それが今回私が聴いた、米国の名指揮者レナード・スラットキンとデトロイト交響楽団なのである。今年 73歳になるこの指揮者の演奏としてかつてこのブログでは、NHK 交響楽団を指揮したものと、フランス国立リヨン管弦楽団を指揮したものとを採り上げた。私はこのスラットキンという指揮者になんとも言えない愛着と信頼感を持っていて、その明快な指揮ぶりには毎度楽しませてもらっているのである。もともとセントルイス交響楽団の音楽監督として名を上げた人だが、父もフェリックス・スラットキンという指揮者であった。私も若い頃、父スラットキンがハリウッドボウル交響楽団を指揮した初期ステレオ LP を、中古レコード屋で見つけてはせっせと買っていた時期がある。私の興味の対象は、高踏的な大芸術だけではなく、庶民的というか、あえて言ってしまえば低俗ギリギリの文化分野にも及ぶので、彼の父の歴史的役割とともに、レナード・スラットキンの活動が大変に気になるのだ。
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一方のデトロイト交響楽団は、なんといってもハンガリーの巨匠アンタル・ドラティが 1977年から 4年間音楽監督を務めた際に、デッカに録音したストラヴィンスキーやバルトークやシマノフスキが忘れがたい。その後、ギュンター・ヘルビヒ、ネーメ・ヤルヴィを経て、2008年からこのスラットキンが音楽監督を務めている。私は生で聴くのが今回が初めてだが、大変興味深い曲目なのである。
 武満徹 : 遠い呼び声の彼方へ! (ヴァイオリン : 諏訪内晶子)
 コルンゴルト : ヴァイリン協奏曲ニ長調作品35 (ヴァイオリン : 諏訪内晶子)
 チャイコフスキー : 交響曲第 4番ヘ短調作品36

なるほど、メインのチャイコフスキー 4番は、スラットキンなら豪快に聴かせてくれそうだ。また、中間のコルンゴルトは私の愛好する曲であり、本当に楽しみ。そして最初の武満は、スラットキンのレパートリーとしては一見異色だが、彼は別の作品 (彼自身が世界初演した「系図 (ファミリー・トゥリー)」) を N 響とも演奏していたこともあり、期待できるのではないか。

まず最初の武満だが、諏訪内はこの曲を一度録音している。それは 2001年、N 響創立 75周年を祝う録音で、指揮はシャルル・デュトワ。確か国外ツアーの曲目でもあったのではないか。名門デッカによる録音であった (この CD でもメインはチャイコフスキー 4番という偶然)。
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早いもので、それから既に 16年が経過しているが、私は昨今の諏訪内はどんどん進化していると思っていて、今回の演奏でも、停滞した歌謡性とでも言うべき特異な武満の音楽を、過剰な気負いなくきれいに響かせていて、素晴らしいと思ったものだ。スラットキンとデトロイト響も、充分に美しい響きでその諏訪内のヴァイオリンに応えていた。予想通りオケのパートは、繊細さや陰鬱さが強調されるのではなく、明確で前向きな音楽に仕上がっていて、アメリカ風武満というものがあってもよいではないかと思った。これこそが音楽が世界語たるゆえんだろう。

さあそして、コルンゴルドである。この作曲家については後で少し書きたいが、このヴァイオリン協奏曲は 1945年の作。一聴して誰もが、古いハリウッドの映画音楽のようだと思うだろう。それもそのはず、このオーストリア生まれのエーリヒ・ウォルフガンク・コルンゴルト (1897 - 1957) は、戦前からハリウッドで映画音楽を書いていた人なのだ。だが、それはある意味で思わぬ運命のいたずらによるもの。もともと彼は幼くしてオペラで成功し、欧州全土で神童の名を欲しいままにした。9歳にしてマーラーから天才と称賛され、12歳で書いたピアノ・ソナタはリヒャルト・シュトラウスを恐れさせ、14歳にしてベルリン・フィルの指揮者ニキシュから作曲の委嘱を受ける。そして 23歳の年、1920年にオペラ「死の都」を書いて、欧州楽壇を席巻するのである。その後 1930年代からハリウッドで映画音楽を書き始めるが、ユダヤ系であったため、1938年のナチスによるオーストリア統合で母国に帰れなくなり、米国に亡命した。その意味で、「死の都」という傑作をものしてから、その先に行かなかった作曲家とも言えるが、上記の通り高踏的でない芸術も大好きな私にとっては、大いなる興味の対象なのである。なお、日本ではいろんな本が出版されており、「コルンゴルトとその時代」というみすず書房の書物で彼の人生を知ることができて、大変面白い。
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そもそもこのコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲は、私が初めて聴いたこの作曲家の曲であり、演奏はイツァーク・パールマンで、伴奏はアンドレ・プレヴィン指揮のピッツバーグ交響楽団。高校生の頃、この録音をアナログ・レコードで何度も何度も聴いた私はその後、この協奏曲を 1947年に初演したのがあの超絶的な天才ヤッシャ・ハイフェッツであることを知り、もちろんハイフェッツの録音も聴くに及び、その耽美的な曲想に酔いしれた。第 1楽章は特に素晴らしい音楽なのだが、今でも実演ではそれほど演奏頻度が多くないので、今回のような機会は非常に貴重なのである。実際、もし今回の演奏会の曲目がメンデルスゾーンかチャイコフスキーかシベリウスのコンチェルトだったなら、きっと私は行かなかったことだろう (笑)。現在の諏訪内によるこの甘美な協奏曲に大いなる期待をし、そしてその期待は充分に報われた。甘美な節回しを聴いていると、コルンゴルトと武満には意外と共通性があるとまで思えてくるから不思議である。もちろんこの演奏は、甘美な部分だけではなく、疾走する部分も充分に美しいし説得力がある。・・・と考えていてふと思い出したのだが、現在諏訪内が弾いている楽器はストラディヴァリウスで、「ドルフィン」の愛称を持つ。楽器の先端の部分が丸くなっていて、それがイルカを連想させるからだという。
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そしてこの楽器 (1714年製)、以前使用していたのが、ほかならぬハイフェッツなのである!! 写真で見比べてみよう。
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ドルフィンも、かつての所有者のオハコを、現代の日本において再び奏でられることに喜びを覚えていたのではないか。そうだ、今の諏訪内の演奏には、なんとも言えない自由さがある。ここで私がさらに思い出したことには、1999年に、スラットキンが当時の手兵、ワシントン・ナショナル交響楽団と来日した際にやはり諏訪内と共演し、チャイコフスキーのコンチェルトが演奏された。だが私の記憶では、このときの諏訪内は全く精彩を欠き、それを察したスラットキンが途中から指揮棒を置いて、素手の指揮でしっかりサポートしていた。それを思うと今回の演奏は、まさに新境地と言えるのではないか。コルンゴルトをコルンゴルトらしく演奏できるのは、やはり名演奏家だけであろうし、それには楽器とのコミュニケーションも関係しているに違いない。加えて、スラットキンの両親がハリウッドで音楽家をしていた頃、ちょうどコルンゴルトが活躍していたので、きっとこの作曲家の映画音楽をスラットキンの両親は弾いていたに違いないというゆかりもあるのである。それらのことに気づいて満足した私は、今回は諏訪内がアンコールを弾かなかったことに妙に納得したのである。

そして後半のチャイコフスキー 4番では、オケのパワーが炸裂した。スラットキンはもともとあまりテンポを揺らしたり何か奇抜なことをやる人ではなく、ここでもオーソドックスな指揮ぶりであったが、何よりも明快で解放感があるのがよい。デトロイト響は音量も大きく、いわゆる昔ながらの米国の優秀なオケという印象だ。冒頭のホルンのファンファーレだけでも大変な厚みで、やはり日本のオケのクオリティが上がったと言っても金管は課題だなぁ・・・と嘆息した次第。ともあれ、途中退屈することは一切なく、最後の熱狂も素直に聴くことができて、素晴らしいチャイコフスキーであった。

そしてアンコールが 2曲。1曲目は意外な選曲で、指揮者自身が「ハナワサク」と日本語で紹介したが、例の震災復興のテーマソング「花は咲く」である。恐らくは、国際音楽祭 NIPPON が震災復興もひとつのテーマとしていることによる選曲だろう。ここではいかにもゴージャスなオーケストレーションとなっていて (ひょっとしてスラットキン自身によるもの???)、聴く者すべての胸に迫る。まるで古くよきアメリカ音楽のように響いていた。そして 2曲目は、これは本当に古きよきアメリカ音楽で、でもこちらはテンポのよい、「悪魔の夢」という曲。スラットキンは「米国西部の伝統的な歌」と言っていたが、その調子は、コープランドの「ロデオ」の終曲「ホーダウン」にそっくりだ。聴衆にも拍手を求めるノリノリの演奏であった。帰りがけの表示で知ったことには、これはスラットキンの父フェリックスの編曲 (あるいは作曲か???) になるもの。充実した演奏会を景気よく締めくくった。ここで父フェリックス・スラットキンの写真を掲載しておこう。
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さて、最後にもうひとつ、コルンゴルトについて。私のこの作曲家のヴァイオリン協奏曲との出会いは上述の通りだが、実はそれより少し後、ある本を読んで私はコルンゴルトに夢中になった。その本はこれである。私の手元にあるのは、1985年の初版第一刷。
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この中に、「放浪の音楽家 映画的健忘症を克服する」という章があり、そこにコルンゴルトについて触れられた箇所がある。著者は、このブログでは度々その名前に触れてきている蓮實重彦である。ここで詳細を述べることはしないが、コルンゴルトが書いた映画音楽の雰囲気は今日にまで多大な影響を与えていると紹介されている。例えば「スター・ウォーズ」の音楽はまさにコルンゴルト的であると。私はそれまで、ホルストの「惑星」が「スター・ウォーズ」に影響を与えていることは理解していたが、コルンゴルトの映画音楽を知らなかったので、何枚かレコードを買ってみたものである。「シー・ホーク」「ロビンフッドの冒険」・・・なるほど、血沸き肉躍る音楽とはこのことか。それから私のコルンゴルト探訪が始まったのだが、実はこの本にはもう 1箇所、重要な記述があった。ダニエル・シュミット監督の「ラ・パルマ」という映画で、コルンゴルトの代表作であるオペラ「死の都」の中の、この上なく甘美なメロディが流れることについてである。これはまさに世紀末の雰囲気をたたえた耽美的な曲であり、映画音楽と併せて、一般にはあまり知られていないこの作曲家への道程を知ることとなった。ここで重要なのは、音楽についての知識を映画についての本で知ったということだ。このブログで、様々な文化の分野を自由に渉猟しているのは、私のそのような経験から来ているものであることを、ここで明らかにしておきましょう。狭い分野だけにこもっていては、新たな世界は開けない。自由な感性を持って、高踏的な芸術と大衆的な文化の双方を楽しむこと。そうすれば人生、なかなか刺激に満ちた楽しいものになると、私は思っているのであります。

by yokohama7474 | 2017-07-20 01:16 | 音楽 (Live) | Comments(0)