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チョン・ミョンフン指揮 東京フィル 2017年 7月23日 Bunkamura オーチャードホール

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一週間ほど前にジョナサン・ノット指揮東京交響楽団による熱演をレポートしたマーラーの交響曲第 2番「復活」であるが、その演奏と相前後して、その第 1楽章の原型となった交響詩「葬礼」の素晴らしい演奏を、エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団が披露した。そして、7/21 (金) とこの日 7/23 (日) の 2回に亘って、今度はチョン・ミョンフン指揮東京フィル (通称「東フィル」) によって、また「復活」が演奏されるという事態。東京は時ならぬ「復活祭り」(?) に沸いているのであるが、 せっかくならこのお祭りに参加しないと損ではないか。現在は東フィルの名誉桂冠指揮者という地位にある世界的指揮者のチョンであるが、上のチラシにある通り、彼がこのオケで「復活」を振るのは 2001年以来実に 16年ぶりとのこと。日本のオケの指揮台に立つ名指揮者たちの中でも、このチョン・ミョンフンはもちろん、世界楽壇における地位もトップ中のトップであるが、私の感じるところ、その音楽の「凄み」という点において、他の追随を許さないレヴェルに達している人である。そんな彼の振る「復活」に、期待するなという方が無理というもの。
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今回、チョンと東フィルはこの「復活」を合計 3回演奏するのであるが、その日程と会場が面白い。まずは東京オペラシティで 7/21 (金) に行っており、そして今回の Bunkamura オーチャードホールでの演奏、そして 3回目はなんと夏休みを越えて、9/15 (金) に、改装なったサントリーホールで演奏される予定になっているのだ (ソリスト、合唱団もすべて同じ)。そもそも世界的指揮者が 2ヶ月を挟んで東京で同じ曲、しかもこんな大曲を指揮するとは極めて珍しいことであるが、東京を代表する 3つの異なるホールで「復活」を演奏するこのコンビには、何かの決意があるということだろうか。実は前回、2001年にチョンと東フィルがこの「復活」を演奏したのは、新星日本交響楽団との合併を経た「新生」東フィルとしての最初の定期演奏会であったとのこと。興味深いことに、合併前の旧・東フィルとしての最後の定期演奏会も、沼尻竜介の指揮でこの曲が演奏され、合併 5年後の 2006年にはダニエル・ハーディングの指揮で、10年目の 2010年には当時常任指揮者に就任したばかりのダン・エッティンガーの指揮で、この曲が演奏されているという。こうなってくると私もひとつ情報を付け加えたくなる (笑)。合併前の新星日響も、当時の大指揮者のもとでこの曲を演奏していて、それは 1986年、朝比奈隆によるもの。高揚感ある演奏だったのを覚えている。これは当日のプログラムからの写真。
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思い起こしてみれば、チョンが合併後の東フィルのミュージック・アドバイザーに就任するというニュースには、本当に驚いたものだ。もちろんそれに先立って N 響ではシャルル・デュトワが常任指揮者、そして音楽監督としての活動を行っていて、それまでの日本のオケの在り方が変わろうという流れはあった。だが東フィルの場合、合併前に音楽監督であった大野和士が非常に大胆なオペラ・コンチェルタンテ・シリーズなどで気を吐いていたので、その手作り感あふれる状態から、一気に世界のメジャー指揮者を指揮台に迎えることには、素直に喜べない気がしたのである。チョンほどの大物を高いギャラを払って連れて来ても、それは一時的なトレーニング目的であって、きっと長年に亘って振ってくれることはないだろうと、私は勝手に思い込んでいたのであった。ところが、それから早いもので 16年。私の思い込みは嬉しいことに間違っており、チョンは今も頻繁に東フィルの指揮台に立ってくれている。そう思うと、過去 20年ほどの日本のオケの飛躍を象徴するコンビのひとつが、チョン・ミョンフンと東フィルと言っても過言ではないだろう。

演奏開始前にステージを見渡すと、コントラバスが 10本の大編成である。最近このような大曲でも、通常サイズの 8本で演奏することが多いと思うが、ここは大規模所帯の東フィルならではの贅沢か。いつもの通り暗譜で指揮を始めたチョンであるが、上に書いた「凄み」は、その呼吸から来ている。気負いすぎることなくごく自然にキューを出して開始した冒頭部は、驚くほどの切れ味でもなかったものの、それに続く低弦の唸りには、凄みを抉り出すチョンの真骨頂が、早くも見えた。総奏に入っても、音楽は過剰な熱を帯びることはなく、迫力はあるものの、ある意味では淡々と進んで行く。逆説的かもしれないが、この淡々とした感覚こそが、チョンの紡ぎ出す凄みの秘訣なのだと思う。どういうことかと言うと、淡々としているかと思えた第 1主題に対して、第 2主題では一転、通常よりもぐっと遅いテンポで纏綿と旋律を歌い抜く。そのときに聴き手は、何か新しい世界が展開したように感じるのである。これはその後も全曲を通して聴かれた傾向で、例えば第 3楽章スケルツォでは的確なリズム感が諧謔味を強調していたし、終楽章の長い長い起伏の中で、オケの爆発の前、あるいは合唱が入ってくる前という要所要所では、遅いテンポでの祈りのような音楽が奏された。このようなメリハリによって聴き手は、ある時には突き放されることもあれば、ある時には纏綿たる情緒に溺れることとなる。チョンが大きな呼吸で指揮棒を振るとき、そこに生じる音楽の凄みが、徐々に深みを帯びて行くのである。既にお互いをよく理解している指揮者とオケのコンビであるから、音の呼吸も自然なのであるが、もし今回の演奏で僭越ながら課題を挙げるとするなら、金管の弱音部の細かいニュアンスではなかったろうか。ところで以前も書いたが、上記のようなチョンの音楽の特性は、彼の師匠であるカルロ・マリア・ジュリーニと共通する点があるのではないか。ジュリーニの手掛けたマーラーは、私の記憶する限り、1番、大地の歌、9番だけである。だが、もしジュリーニが「復活」を振ったらこんな演奏になってのではないか、などと想像しながら聴いていたものである。

今回の独唱者は二期会の人たちで、ソプラノの安井陽子とメゾ・ソプラノの山下牧子。合唱は新国立歌劇場合唱団であった。第 4楽章で独唱を歌うメゾの山下は、なんとも深々とした情緒を伴う声。どこかで聴いたと思ったら、今年 2月に新宿文化センターで行われたアンドレア・バッティストーニ指揮の同じ東フィルによるヴェルディのレクイエムであった。これが山下さん。
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そういえば新国立劇場合唱団は、前日 (土曜日) もフルシャ指揮東京都交響楽団の演奏会で、スークの「人生の実り」を歌っており、それは 2回の「復活」の演奏会 (金曜日・日曜日) の間だったことになる。既に新国立劇場でのオペラのシーズンは終わっているとはいえ、大変な日程である。もっとも「人生の実り」の方は女声合唱だけであり、歌詞のないハミングのみなので、それほど負担ではなかったということか。あるいは、そもそも 2組に分けての別々の歌手たちの出演であったのだろうか。ただ、合唱指揮は同じ冨平恭平。連続した日程で全く別の曲を聴くのに、同じ合唱指揮者が連続でステージで挨拶するのを見るというのも珍しいことだ。また、ここでひとつ思い出したことには、今回の演奏では、メゾの山下を除くソリスト・合唱団のメンバーは、全員譜面を見ながらの歌唱であった。最近の東京での声楽付きの大曲の演奏では、合唱団も暗譜ということも多いが、もともとヨーロッパでは、宗教的な内容の曲の場合には譜面を見るのが普通で、それは神に捧げる言葉、あるいは神がら授かった言葉を歌うからだ。「復活」はミサなどの純然たる宗教曲ではないものの、終楽章の歌詞は明らかに宗教性のあるもの。そのような背景に鑑みて、指揮者が譜面使用を指示したものではないかと、私は想像したくなるのである。

この曲の終盤は、それはもう凄まじい音響の嵐となるので、どんな演奏でも感動するのだが、今回のチョンと東フィルの演奏も、まさに鳥肌もの。この曲の優れた演奏では、合唱の盛大な盛り上がりに対して指揮者の身振りが返って小さくなることが多く、それこそがこの曲の凄みを引き出すひとつの要因かとも思うが、もちろん、「凄み」の指揮者チョン・ミョンフンは、最小限の身振りで最大限の壮絶な音量を炸裂させて、全曲を終了した。この曲の終楽章では舞台裏でトランペットとホルンとティンパニの別動隊が演奏をして、大団円ではそれらの奏者 (あ、もちろんティンパニは除く) もステージに合流して大音響に貢献するという方法が一般的だが、前述の通りこのオケはほかのオケよりも規模が大きいので、それはないかと思っていたら、なんのことはない、最後の最後に何人かの若い奏者 (多分学生のエキストラではないか) が舞台に合流した。数えてみると、トランペットは (起立の 4名を含む) 10名、ホルンは 11名であった。若い奏者たちにとっても、このような経験は本当に生涯の宝になることだろう。

高揚した気分でホールから出ようとすると、たまたま会社の先輩とばったり出くわした。中学生くらいの息子さんと一緒で、なんでも息子さんはホルンを演奏するという。「じゃあ、早くマーラーの演奏会に、エキストラとして出れるといいね」と冷やかすと、「はい」と照れながら答えてくれたのが微笑ましかった。現在ドヴォルザーク 8番を練習中とのことだったので、「ここは大変だねー」と、終楽章のアクロバティックなホルンの箇所を歌うと、我が意を得たりとうなずいてくれたのだが、こちらは演奏せず、ただ口で歌うだけだから気楽なもの (笑)。若い奏者の皆さんにとっては、東京は様々なオケを実際に耳にできる恵まれた環境なのである。プロのオケマンの皆さん、是非未来を信じて、さらに素晴らしい演奏を展開して行って頂きたい。

by yokohama7474 | 2017-07-24 00:32 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヤクブ・フルシャ指揮 東京都交響楽団 2017年 7月22日 東京芸術劇場

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この日の 14時からのコンサートにはいくつかの選択肢があった。まず、すみだトリフォニーホールでは、上岡敏之が手兵新日本フィルを指揮して、幻想交響曲などを演奏する。東京オペラシティコンサートホールでは、藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルが、エルガー 1番などを演奏。これも面白そうだ。いやいや、本命はやはり、ミューザ川崎シンフォニーホールでの、ジョナサン・ノット指揮東京響であろう。なぜなら曲目は、シェーンベルクの浄夜とストラヴィンスキーの春の祭典という意欲的なものであるからだ!! これらはいずれも是非聴いてみたいものばかりであるが、残念ながら体はひとつ。涙を呑んで私が選んだのは、これらとは違うコンサート。東京都交響楽団 (通称「都響」) を、首席客演指揮者のヤクブ・フルシャが指揮するものだ。実のところ、今月都響は 3種類のプログラムを演奏するが、そのうちの 2種類は既にこのブログでご報告済。マルク・ミンコフスキ指揮の演奏会とエリアフ・インバル指揮の演奏会で、いずれも大絶賛した。そうなると残るもうひとつのプログラムも、聴かざるを得ないではないか (笑)。もちろん、世界の指揮界における若手のホープ、フルシャの指揮ということは大きなポイントであるが、曲目がまた素晴らしい。以下のようなもの。
 ブラームス : 交響曲第 3番ヘ長調作品90
 スーク : 交響詩「人生の実り」作品34
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ちょっと渋いと言えばそうかもしれないが、注目はやはり、フルシャの故郷であるチェコを代表する作曲家のひとり、ヨゼフ・スーク (1874 - 1918) の代表作、「人生の実り」であろう。私の世代でヨゼフ・スークと言えばもちろんあのチェコの名ヴァイオリニスト (1929 - 2011) を連想するが、彼はこの作曲家の同名の孫にあたる。チェコ人の音楽に対する情熱については、このブログでも過去に何度か紹介しているが、チェコ音楽史におけるこのスーク家の実績は、その中でも特筆すべきものではないか。以下、祖父スーク (作曲家として歴史に名を残しているが、孫同様に優れたヴァイオリニストでもあった) と孫スークの肖像。面影には共通するものがある。
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とこのように書きながらも、私にとって作曲家ヨゼフ・スークが身近な存在かと言えば、正直、決してそうではない。だがスークは、チェコ音楽における最大の作曲家であるドヴォルザークの娘と結婚しており、またプラハ音楽院教授としては、次の世代のチェコを代表する作曲家、ボフスラフ・マルティヌーを教えたという点で、チェコ音楽史の系譜の中で、極めて重要な人なのである。そしてその作風は、非常に豊麗な後期ロマン派風。生年を見るとそれは明らかで、ドイツ系の作曲家で言えば、リヒャルト・シュトラウスよりも 10歳下、ツェムリンスキーよりも 3歳下。その一方で、同じ東欧 / ロシア系の作曲家で見てみると、ハンガリーのバルトークより 7歳上、ロシアのストラヴィンスキーよりも 8歳上である。チェコ人の音楽性はかなり保守的であると言ってよいであろうから、スークの作風は、後期ロマン派の残影の中にあって、バルトークやストラヴィンスキーのような 20世紀の前衛とは一線を画するものである。また、音楽好きなら既にお分かりの通り、1874年生まれということは、過激な前衛音楽を切り拓いたオーストリア人シェーンベルクとは同い年。もっともシェーンベルクの場合も、初期には非常に後期ロマン派的な曲を書いていたので、その点での共通点はあると言えるかもしれない。

さて今回の演奏会では、指揮者フルシャが演奏前にステージに現れ、20分に亘りプレ・トークを行った。日本では演奏されることが稀なこのスークの作品について、どうしても語りたかったということだろう。いわく、彼が 17歳のときにプラハの楽譜店の前を通りかかったときに大きなスコアが安く売られているのを見て購入。自宅で勉強してみると、内容は安いどころの話ではなく、めくるめく世界であり、魅了された。17歳や 18歳でこの曲の内容が分かったとは言えないだろうが、素晴らしい芸術がそうであるように、知れば知るほどに、録音で聴けば聴くほどに魅了される。そして、いつの日かこの曲を指揮することを夢見るようになった。40分ほど切れ目なしに演奏される曲であるが、それは例えてみれば、寄せては返す海の波のようであり、また延々と流れゆく河のようでもある。「人生の実り」とは、英語では "Ripening" であるが、ここには人生の様々な要素が表現されていて、「実り」とは成熟した「状態」を指すのではなく、むしろそこに至る「過程」を表している。曲の内容について様々な研究者による様々な説があるが、自分としては初演者であるチェコの大指揮者ヴァーツラフ・ターリヒが唱えた、6つの部分に分ける説を支持したい。いずれにせよ、音楽の流れをよく聴いて欲しい。あ、それから、前半のブラームスもお楽しみ下さい!! と述べて、この若手指揮者のトークは終了した。つまりこの「人生の実り」という曲は、若き日のフルシャが音楽家になる決心をするきっかけの曲であったということだろう。ところで、フルシャの話の中に、彼の師であり、先般惜しくも亡くなったイルジー・ビエロフラーヴェクについての言葉があるかと思ったのだが、それはなかった。

さて、そんなスークの作品の前に演奏されたのは、指揮者が楽しんで下さいと言った、天下の名曲、ブラームス 3番。ここでは都響の今の充実が如実に表れており、なんとも味わい深い名演が展開した。「前座」としてはもったいないような演奏において、都響の実力を引き出したのは、もちろんフルシャの高い力量によるものであろう。実際、ブラームスの 4曲の交響曲の中でも最も渋いこの 3番を、こんなふうにじっくりと聴かせてくれる指揮者が、未だ 36歳の若手とは信じがたいような思いである。この演奏の中で、時折聴き手をはっとさせるように耳に入ってきた地を這うような低音は、コントラファゴットである。以前このブログでも、サイモン・ラトルがベートーヴェン 7番の演奏で、オリジナルの楽譜にはないコントラファゴットを使用しているという発見について書いたが、調べてみたところブラームスの交響曲 4曲のうち、2番を除く 3曲で、この楽器が使われている。まあ確かに 2番はブラームスにしては異例の明るい曲だから、コントラファゴットを含まない楽器編成も、分かるような気がする (だが実は、2番では唯一チューバが使われているという意外性もあるのだが)。ともあれ、昨年からドイツの名門バンベルク交響楽団の首席指揮者を務めるフルシャとしては、ブラームスで充実した演奏をできることは必須の条件であろう。今年 12月にはまた都響で、ブラームスの 1番と 2番を演奏することになっていて、今から楽しみである。これは過去のフルシャと都響の演奏風景。
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メインの「人生の実り」という曲について、実は私はそれほどに思い入れがあるわけではなかった。スークの作品としては、アスラエル交響曲とか「夏の物語」とともに、この曲もこれまでに録音では何度か聴いたことはあり、確かに滔々とした流れはあるものの、R. シュトラウスほどの超絶的なドラマ性があるわけではなく、もうひとつつかみにくい曲と思っていたのである。だが今回のフルシャの指揮ぶりを見ていると、プレトークで感じられたこの曲への思い入れがはっきりと感じられ、移り変わる音楽的情景において、常に確信をもってオケをリードする姿には、素直に感動した。実際、弦楽器の分奏も多く、全曲に切れ目はないのに曲想の変化は多い。また、随所で活躍するティンパニも拍を数えるのに真剣であって、技術的にはかなりの挑戦であったと思うが、最近の都響であればそのくらいの挑戦は軽々と克服できるということを実感した。このオケがマーラーを中心に刻んできた激闘の歴史が、ここにまた新たな歩みを実現したように思い、大変感動したのである。実はこの曲には、別動隊のトランペット 6本 (ステージ奥のオルガンの前に配置) と、女声合唱 (今回は新国立劇場合唱団) が入り、いずれも終盤に登場して曲を彩るのであるが、視覚的にもそれらの要素が大変効果的であった。まさに人生の実りに向かう道のりを、会場に集った聴衆たちは耳にすることができたのである。

実のところ、このブログで以前採り上げた、マーラーの「巨人」におけるフルシャと都響の演奏に接して、もしかするとこの指揮者は、最近の世界的活躍ぶりで疲弊しているのでは、と危惧したものであった。だが今回の充実した演奏を聴いて、彼の音楽がまさに実りつつあることが実感できて、安心した。都響との首席客演指揮者としての契約は今年で終了してしまい、その後はなかなか日本までやってくることはないかもしれない。だが、以前フルシャ自身が口にしていた都響への信頼を維持してもらえれば、我々には今後もチャンスがあるだろう。是非これからのフルシャのさらなる進化を、実際のステージで体験したいものだと思った。

by yokohama7474 | 2017-07-23 00:55 | 音楽 (Live) | Comments(0)

レナード・スラットキン指揮 デトロイト交響楽団 (ヴァイオリン : 諏訪内晶子) 2017年 7月19日 東京オペラシティコンサートホール

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ヴァイオリニスト諏訪内晶子が主催する国際音楽祭 NIPPON については、先般、諏訪内自身のヴァイオリン・リサイタルの記事でご紹介した。実は今年、この音楽祭に参加する指揮者とオーケストラがあって、それが今回私が聴いた、米国の名指揮者レナード・スラットキンとデトロイト交響楽団なのである。今年 73歳になるこの指揮者の演奏としてかつてこのブログでは、NHK 交響楽団を指揮したものと、フランス国立リヨン管弦楽団を指揮したものとを採り上げた。私はこのスラットキンという指揮者になんとも言えない愛着と信頼感を持っていて、その明快な指揮ぶりには毎度楽しませてもらっているのである。もともとセントルイス交響楽団の音楽監督として名を上げた人だが、父もフェリックス・スラットキンという指揮者であった。私も若い頃、父スラットキンがハリウッドボウル交響楽団を指揮した初期ステレオ LP を、中古レコード屋で見つけてはせっせと買っていた時期がある。私の興味の対象は、高踏的な大芸術だけではなく、庶民的というか、あえて言ってしまえば低俗ギリギリの文化分野にも及ぶので、彼の父の歴史的役割とともに、レナード・スラットキンの活動が大変に気になるのだ。
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一方のデトロイト交響楽団は、なんといってもハンガリーの巨匠アンタル・ドラティが 1977年から 4年間音楽監督を務めた際に、デッカに録音したストラヴィンスキーやバルトークやシマノフスキが忘れがたい。その後、ギュンター・ヘルビヒ、ネーメ・ヤルヴィを経て、2008年からこのスラットキンが音楽監督を務めている。私は生で聴くのが今回が初めてだが、大変興味深い曲目なのである。
 武満徹 : 遠い呼び声の彼方へ! (ヴァイオリン : 諏訪内晶子)
 コルンゴルト : ヴァイリン協奏曲ニ長調作品35 (ヴァイオリン : 諏訪内晶子)
 チャイコフスキー : 交響曲第 4番ヘ短調作品36

なるほど、メインのチャイコフスキー 4番は、スラットキンなら豪快に聴かせてくれそうだ。また、中間のコルンゴルトは私の愛好する曲であり、本当に楽しみ。そして最初の武満は、スラットキンのレパートリーとしては一見異色だが、彼は別の作品 (彼自身が世界初演した「系図 (ファミリー・トゥリー)」) を N 響とも演奏していたこともあり、期待できるのではないか。

まず最初の武満だが、諏訪内はこの曲を一度録音している。それは 2001年、N 響創立 75周年を祝う録音で、指揮はシャルル・デュトワ。確か国外ツアーの曲目でもあったのではないか。名門デッカによる録音であった (この CD でもメインはチャイコフスキー 4番という偶然)。
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早いもので、それから既に 16年が経過しているが、私は昨今の諏訪内はどんどん進化していると思っていて、今回の演奏でも、停滞した歌謡性とでも言うべき特異な武満の音楽を、過剰な気負いなくきれいに響かせていて、素晴らしいと思ったものだ。スラットキンとデトロイト響も、充分に美しい響きでその諏訪内のヴァイオリンに応えていた。予想通りオケのパートは、繊細さや陰鬱さが強調されるのではなく、明確で前向きな音楽に仕上がっていて、アメリカ風武満というものがあってもよいではないかと思った。これこそが音楽が世界語たるゆえんだろう。

さあそして、コルンゴルドである。この作曲家については後で少し書きたいが、このヴァイオリン協奏曲は 1945年の作。一聴して誰もが、古いハリウッドの映画音楽のようだと思うだろう。それもそのはず、このオーストリア生まれのエーリヒ・ウォルフガンク・コルンゴルト (1897 - 1957) は、戦前からハリウッドで映画音楽を書いていた人なのだ。だが、それはある意味で思わぬ運命のいたずらによるもの。もともと彼は幼くしてオペラで成功し、欧州全土で神童の名を欲しいままにした。9歳にしてマーラーから天才と称賛され、12歳で書いたピアノ・ソナタはリヒャルト・シュトラウスを恐れさせ、14歳にしてベルリン・フィルの指揮者ニキシュから作曲の委嘱を受ける。そして 23歳の年、1920年にオペラ「死の都」を書いて、欧州楽壇を席巻するのである。その後 1930年代からハリウッドで映画音楽を書き始めるが、ユダヤ系であったため、1938年のナチスによるオーストリア統合で母国に帰れなくなり、米国に亡命した。その意味で、「死の都」という傑作をものしてから、その先に行かなかった作曲家とも言えるが、上記の通り高踏的でない芸術も大好きな私にとっては、大いなる興味の対象なのである。なお、日本ではいろんな本が出版されており、「コルンゴルトとその時代」というみすず書房の書物で彼の人生を知ることができて、大変面白い。
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そもそもこのコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲は、私が初めて聴いたこの作曲家の曲であり、演奏はイツァーク・パールマンで、伴奏はアンドレ・プレヴィン指揮のピッツバーグ交響楽団。高校生の頃、この録音をアナログ・レコードで何度も何度も聴いた私はその後、この協奏曲を 1947年に初演したのがあの超絶的な天才ヤッシャ・ハイフェッツであることを知り、もちろんハイフェッツの録音も聴くに及び、その耽美的な曲想に酔いしれた。第 1楽章は特に素晴らしい音楽なのだが、今でも実演ではそれほど演奏頻度が多くないので、今回のような機会は非常に貴重なのである。実際、もし今回の演奏会の曲目がメンデルスゾーンかチャイコフスキーかシベリウスのコンチェルトだったなら、きっと私は行かなかったことだろう (笑)。現在の諏訪内によるこの甘美な協奏曲に大いなる期待をし、そしてその期待は充分に報われた。甘美な節回しを聴いていると、コルンゴルトと武満には意外と共通性があるとまで思えてくるから不思議である。もちろんこの演奏は、甘美な部分だけではなく、疾走する部分も充分に美しいし説得力がある。・・・と考えていてふと思い出したのだが、現在諏訪内が弾いている楽器はストラディヴァリウスで、「ドルフィン」の愛称を持つ。楽器の先端の部分が丸くなっていて、それがイルカを連想させるからだという。
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そしてこの楽器 (1714年製)、以前使用していたのが、ほかならぬハイフェッツなのである!! 写真で見比べてみよう。
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ドルフィンも、かつての所有者のオハコを、現代の日本において再び奏でられることに喜びを覚えていたのではないか。そうだ、今の諏訪内の演奏には、なんとも言えない自由さがある。ここで私がさらに思い出したことには、1999年に、スラットキンが当時の手兵、ワシントン・ナショナル交響楽団と来日した際にやはり諏訪内と共演し、チャイコフスキーのコンチェルトが演奏された。だが私の記憶では、このときの諏訪内は全く精彩を欠き、それを察したスラットキンが途中から指揮棒を置いて、素手の指揮でしっかりサポートしていた。それを思うと今回の演奏は、まさに新境地と言えるのではないか。コルンゴルトをコルンゴルトらしく演奏できるのは、やはり名演奏家だけであろうし、それには楽器とのコミュニケーションも関係しているに違いない。加えて、スラットキンの両親がハリウッドで音楽家をしていた頃、ちょうどコルンゴルトが活躍していたので、きっとこの作曲家の映画音楽をスラットキンの両親は弾いていたに違いないというゆかりもあるのである。それらのことに気づいて満足した私は、今回は諏訪内がアンコールを弾かなかったことに妙に納得したのである。

そして後半のチャイコフスキー 4番では、オケのパワーが炸裂した。スラットキンはもともとあまりテンポを揺らしたり何か奇抜なことをやる人ではなく、ここでもオーソドックスな指揮ぶりであったが、何よりも明快で解放感があるのがよい。デトロイト響は音量も大きく、いわゆる昔ながらの米国の優秀なオケという印象だ。冒頭のホルンのファンファーレだけでも大変な厚みで、やはり日本のオケのクオリティが上がったと言っても金管は課題だなぁ・・・と嘆息した次第。ともあれ、途中退屈することは一切なく、最後の熱狂も素直に聴くことができて、素晴らしいチャイコフスキーであった。

そしてアンコールが 2曲。1曲目は意外な選曲で、指揮者自身が「ハナワサク」と日本語で紹介したが、例の震災復興のテーマソング「花は咲く」である。恐らくは、国際音楽祭 NIPPON が震災復興もひとつのテーマとしていることによる選曲だろう。ここではいかにもゴージャスなオーケストレーションとなっていて (ひょっとしてスラットキン自身によるもの???)、聴く者すべての胸に迫る。まるで古くよきアメリカ音楽のように響いていた。そして 2曲目は、これは本当に古きよきアメリカ音楽で、でもこちらはテンポのよい、「悪魔の夢」という曲。スラットキンは「米国西部の伝統的な歌」と言っていたが、その調子は、コープランドの「ロデオ」の終曲「ホーダウン」にそっくりだ。聴衆にも拍手を求めるノリノリの演奏であった。帰りがけの表示で知ったことには、これはスラットキンの父フェリックスの編曲 (あるいは作曲か???) になるもの。充実した演奏会を景気よく締めくくった。ここで父フェリックス・スラットキンの写真を掲載しておこう。
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さて、最後にもうひとつ、コルンゴルトについて。私のこの作曲家のヴァイオリン協奏曲との出会いは上述の通りだが、実はそれより少し後、ある本を読んで私はコルンゴルトに夢中になった。その本はこれである。私の手元にあるのは、1985年の初版第一刷。
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この中に、「放浪の音楽家 映画的健忘症を克服する」という章があり、そこにコルンゴルトについて触れられた箇所がある。著者は、このブログでは度々その名前に触れてきている蓮實重彦である。ここで詳細を述べることはしないが、コルンゴルトが書いた映画音楽の雰囲気は今日にまで多大な影響を与えていると紹介されている。例えば「スター・ウォーズ」の音楽はまさにコルンゴルト的であると。私はそれまで、ホルストの「惑星」が「スター・ウォーズ」に影響を与えていることは理解していたが、コルンゴルトの映画音楽を知らなかったので、何枚かレコードを買ってみたものである。「シー・ホーク」「ロビンフッドの冒険」・・・なるほど、血沸き肉躍る音楽とはこのことか。それから私のコルンゴルト探訪が始まったのだが、実はこの本にはもう 1箇所、重要な記述があった。ダニエル・シュミット監督の「ラ・パルマ」という映画で、コルンゴルトの代表作であるオペラ「死の都」の中の、この上なく甘美なメロディが流れることについてである。これはまさに世紀末の雰囲気をたたえた耽美的な曲であり、映画音楽と併せて、一般にはあまり知られていないこの作曲家への道程を知ることとなった。ここで重要なのは、音楽についての知識を映画についての本で知ったということだ。このブログで、様々な文化の分野を自由に渉猟しているのは、私のそのような経験から来ているものであることを、ここで明らかにしておきましょう。狭い分野だけにこもっていては、新たな世界は開けない。自由な感性を持って、高踏的な芸術と大衆的な文化の双方を楽しむこと。そうすれば人生、なかなか刺激に満ちた楽しいものになると、私は思っているのであります。

by yokohama7474 | 2017-07-20 01:16 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」 2017年 7月18日 東急シアターオーブ

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別項で井上道義指揮の大阪フィルの演奏による「ミサ」の上演をご紹介し、その中で、指揮者・作曲家として知らぬ者とてないレナード・バーンスタインの生誕 100年が来年であることに触れた。さすがにバーンスタインクラスになると、様々な記念行事が世界中で開かれるようであるが、この公演もその一環。上のチラシにある通り、「生誕 100年記念ワールドツアー」の日本公演なのである。小編成のオーケストラのメンバーの過半に日本人の名前が並ぶことを除けば、キャスト・スタッフには日本人はゼロ。メンバーの選抜について説明した文章を見つけることができないが、マネージメントはサンダンス・プロダクションズというブロードウェイ・ミュージカルを手掛ける事務所であるので、恐らくはブロードウェイでオーディションを行ったものであろう。つまり、ブロードウェイの引っ越し公演ということになる。このミュージカルのブロードウェイ初演は 1957年で、今年はそれからちょうど 60年ということにもなる。

会場は、東京でも珍しいミュージカル専門劇場、東急シアターオーブ。一応 (?) 東急沿線在住者である私は、この劇場のオープン時からいろいろと宣伝を目にして来ていて、一度行ってみたいなぁと思っていたところへ、この演目である。家人を誘って出かけることとした。聞けば、この劇場のこけら落としはやはりこの「ウエスト・サイド・ストーリー」であったらしく、早くもオープン 5周年になるとのこと。東急は現在、渋谷地区の大規模な再開発を行っていて、シネコン 109 シネマズで映画を見ると、必ず予告編の前に二子玉川あたりの、東急沿線でもオシャレな界隈に住むという設定の若い夫婦と幼い娘さんの幸せそうな様子 (「この緑の植物いいねぇー」「あぁ、いいねぇー」などとやっている) の宣伝が上映されるが、あれも東急なのである。どうでもよいが、その宣伝の中で、夕食が何がよいかを訊かれた女の子の返事が「マルゲリータ」(ピザ) ではなく「マルガリータ」(カクテル) だったら、ちょっとは毒が出て面白くなるのになぁと、ろくでもないことをいつも考える私である (笑)。ま、ともあれ、渋谷駅から直結のビル、渋谷ヒカリエの中に東急シアターオーブは位置している。
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私は、新しいものを追いかける習性は特にないのだが、一度このビルには行ってみたいと思っていたので、今回はその意味でも興味津々。まぁ既にできてから 5年も経っているので、もはやことさら新しい場所と強調する意味もあるまい (笑)。11階にある劇場入り口からさらに昇って行くと、ハチ公前交差点の混雑や山手線のホームを含めて、渋谷一帯を見下ろせる、なかなかのロケーションだ。まだビルが建設途中であった頃に NHK の「ブラタモリ」でこの場所を紹介していたことを思い出した。新宿の高層ビル街もこのようにズラリと並んで見え、壮観。夜景はまた格別だ。
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今回の上演は 7/12 (水) から 7/30 (日) までの間に 23公演。かなりの強行軍だ。私が出向いたのは 7/18 (火) で、平日とはいえ、会場は老若男女で賑わっている。なかなかに大人の雰囲気の劇場で、こういうところに人々が集ってくるとは、東京にも大人の文化が根付いているのだなと、東急の文化への貢献に敬意を表したい気持ちになった。ただ、あえて難点を指摘すると、敷地面積の制約によるものか、ホワイエが狭いこと。また、1階から 2階、3階までの行き来も楽ではないし、何より、バーカウンターが 2階席のホワイエにしかない点は、絶対に改善した方がよい。これでは休憩時間にゆっくりと飲み物を楽しむこともできない。

さて、あまり東急のこととか劇場のことで無駄口ばかり叩いていないで、本題に入ろう。私の「ウエスト・サイド・ストーリー」体験は、最初はもちろんロバート・ワイズと、もともとの舞台の振付をしたジェローム・ロビンズの監督による映画 (1961年) であった。もちろん劇場公開時には未だ生まれていないので、自宅でのヴィデオ鑑賞という形態での体験であった。それから、録音ではもちろん作曲者バーンスタインがホセ・カレーラスとキリ・テ・カナワを主役コンビに据えたものと、その滅法面白いメイキング物 (英語の発音が悪くてバーンスタインに怒られ、頭を抱えて悩むカレーラスがかわいそうだが)。舞台では、2003年にオーチャードホールで見たミラノ・スカラ座版だけだ。この時には主役級はすべてオペラ歌手であったようだが、今回の上演と共通するのは、振付のジョーイ・マクリーニーと指揮のドナルド・チャンである。つまり、今回の上演はミラノ・スカラ座版と共通点があるということだろう。まあこの曲の場合、こんなイメージが定着していますからね。新機軸を狙うのはリスクが高すぎるという事情もあるに違いない。
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さすがブロードウェイ水準の上演だけあって、歌も踊りも、なかなかに楽しめるものであり、全体を鑑賞した印象は大変満足である。だが、実のところ、主役の 2人にはもう少し伸び伸びした歌唱があってもよいかもと思ったのも事実。例えば「トゥナイト」に聴かれる熱情の表現には、もっと曲の途中で盛り上がる要素が欲しいし、「アイ・フィール・プリティ」のフレーズの最後の歌詞 "By a Pretty Wonderful Boy" の部分は、もっときれいな高音で聴きたい。これはなにもオペラ的に歌って欲しいというわけではなく、ミュージカル流儀においても、さらにクリアな表現が可能なはずということを言っているつもり。これはもしかすると、マイクの問題もあったのだろうか。ちょっと歌が近すぎて、響きすぎるために音像がぼやけていたようにも思う。その一方で、圧巻だったのはプエルトリコ移民の女性たちによる「アメリカ」ではなかったか。これは楽しい。もちろん、このミュージカルの特色である、夢の世界ではない 1950年代の現実を感じる場面のひとつがこの「アメリカ」であるのだが、現実がつらいがゆえにそれをしゃれのめすという感覚に、人間の逞しさがある。そんなことを思わせるシーンだった。
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それにしてもこの曲、ミュージカルにしては音楽が難しすぎないか。その後ブロードウェイに現れたほかのメジャーなミュージカル、「ライオン・キング」でも「ミス・サイゴン」でも「オペラ座の怪人」でも「レ・ミゼラブル」でも、あるいは「シカゴ」でも「42nd ストリート」でもよい。いずれも、もっともっと平易な音楽ではないか。稀代の教養人でもあったバーンスタインとしては、自分が世に問うミュージカルとはこのようなものであるというこだわりがあったのであろう。それが今日、遠く離れた日本でもこれだけの聴衆を獲得していることは、考えてみれば素晴らしいこと。作曲者自身が編曲したこのミュージカルの抜粋で、オーケストラコンサート用に作られたシンフォニック・ダンスという組曲があるのだが、実はそこには、このミュージカルで最も有名なナンバー 2曲、つまり「マリア」と「トゥナイト」が入っていない。今回改めて全曲を聴いてみると、バーンスタインがその組曲で伝えたかったのは、夢見る主役たちの甘い思い (最後には悲劇に終わるにせよ) ではなく、貧困の中で逞しく生きる若者たちの姿であったということかと思い至った。ジムでのダンスシーンでのトランペットや、マンボでの掛け声こそ、作曲者が高々と響かせたかった音楽なのであろう。

東京では、来年のバーンスタイン生誕 100年を記念して、この「ウエスト・サイド・ストーリー」の全曲演奏が 2種類行われる。ひとつはなんと、あのパーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団による演奏会形式での上演。もうひとつはバーンスタイン晩年の愛弟子である佐渡裕指揮による、映画全編に生で伴奏音楽をつけるという企画。いずれも絶対に聴きに行くぞ!! と決意を固める私であった。考えてみれば、クラシックの音楽家が全曲を採り上げるミュージカルは、歴史上これと、やはりバーンスタインの手になる「キャンディード」くらいだろう。私は「キャンディード」も心から愛しており、ミュージカルに刺激されて、ヴォルテールによる原作まで読むに至ったので、来年上演がないことはいささか寂しいが、またいずれ舞台にかかることはあるだろう。ところで、クラシックの音楽家が「ウエスト・サイド・ストーリー」を演奏することが一般的になる過程では、上述の作曲者自身による録音の存在が欠かせない。こんなジャケットであった。懐かしいなぁ。
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そんな思いで、2003年の来日公演で見たこの作品のミラノ・スカラ座版のプログラムを引っ張り出してパラパラ見ていたら、大変な発見があった。上述の通り、このときの主要キャストは皆オペラ歌手で、それぞれに世界的なキャリアが紹介されているが、なんと主役のトニーの 3人のキャストのうちのひとりは、今や世界最高のテノールのひとり、ヴィットリオ・グリゴーロではないか!! 私も昨年 7月16日の記事で、ロンドンで見たマスネの「ウェルテル」の上演について書いたことがある。そう思って手元にある「ウエスト・サイド・ストーリー」全曲 CD の幾つかをひっくり返してみると、おっと、あったあった。トニーを歌っている。2007年の録音だ。
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このように、ミュージカルとオペラの中間、あるいはアマルガムとして特異な価値を持つこの作品、これからも多くの優れた演奏に恵まれて行くことだろう。一方で会場の東急シアターオーブも、これから改善できることは改善してもらい、ミュージカル専門劇場としての重要度を一層増して行ってもらいたい。そう言えば私が見た日の公演は、ちょうどオープンから 5年目のその日ということであったらしく、終演後にステージに並んだ歌手と指揮者が、客席にも参加を求めながら、「ハッピー・バースデイ」を歌うこととなり、大いに盛り上がったのである。今後 10年、20年、いや 50年と、7月18日にはこの歌がこの劇場で流れますように。

by yokohama7474 | 2017-07-19 23:26 | 演劇 | Comments(0)

エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団 2017年 7月17日 東京芸術劇場

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7/17 (月) 夜から 7/18 (火) 夕刻にかけて、エキサイトブログのサーバーがメンテナンスのためにアクセス不可となり、その間、記事のアップができない状況であった。コンサートを聴いたらその日中か、無理でも翌朝には記事にすることを基本原則とするこのブログにおいては、本来ならこの記事は、24時間以上前に書いていなければならないものであったが、遅れてしまったことをお詫びしたい。私としてもそれは忸怩たることであって、なぜならば、前々回の記事でジョナサン・ノット指揮東京交響楽団によるマーラーの「復活」の演奏を採り上げたとき、その演奏と相前後して、ほかのコンビによる同じ「復活」の演奏のみならず、その交響曲の原型である交響詩「葬礼」の演奏もあると記述したからであった。炎暑に入りつつある東京の音楽界の賑わいを伝えるには、即時性が大事なのである。ともあれ、7/16 (日)、7/17 (月・祝) の 2日間に亘って池袋の東京芸術劇場で開かれたエリアフ・インバル指揮、東京都交響楽団 (通称「都響」) の演奏会。私が聴いたのは 2回目 (というのも、1回目にはちょうど先の記事でご紹介したノット指揮東京交響楽団を聴いていたからだ) で、曲目は以下の通りであった。
 マーラー : 交響詩「葬礼」
 マーラー : 大地の歌 (テノール : ダニエル・キルヒ / アルト : アンナ・ラーション)

東京のマーラー・ファンならこれは必聴であろう。都響の前プリンシパル・コンダクターで現在は桂冠指揮者、世界的にもマーラー演奏の権威と認められているイスラエルの指揮者エリアフ・インバルが、以前 (2012年 3月で、ライヴ録音にもなっている) にも採り上げたマーラー晩年の傑作、大地の歌を再び指揮することに加え、実演の機会の多くない「葬礼」を採り上げる。今年 81歳のインバルのマーラーは、これから毎回毎回が貴重な機会になるであろうし、ある意味で我々は、インバルと都響のコンビによるマーラー演奏によって、日本の音楽界の発展・進化の歴史に立ち会うと言っても過言ではないからだ。
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ではまず、交響詩「葬礼」から。この曲が書かれたのは 1888年、マーラー 28歳のとき。もともと新たな交響曲の第 1楽章として構想されたが、途中で頓挫してしまった。そこでこの曲は、死者の霊を呼び出す異教的祭礼をテーマとする交響詩として完成された。だが出版にこぎつけることはできず、1893年に再び交響曲としての構想に立ち返ることとなる。そしてマーラーは翌 1894年に、5楽章からなる大作、交響曲第 2番「復活」を完成させた。その過程で「葬礼」は、演奏される主題や曲の大きな流れは維持されたものの、細部においてはかなりの修正を加えられて、その交響曲の第 1楽章とされた。つまりこの「復活」が完成してしまうと、「葬礼」なる交響詩の存在意義がなくなってしまったわけで、結局演奏の機会に恵まれることなく、埋もれて行ってしまった。そんな曲がようやく世界初演されたのは実に 1983年のこと。世はマーラーブームであった。その時の演奏、ヘスス=ロペス・コボス指揮ベルリン放送交響楽団 (現ベルリン・ドイツ交響楽団) による CD は当時西ドイツのシュヴァンというレーベルから発売され、私も発売時に購入して愛聴していた。日本語解説に「世界初録音」とあるのが見えるだろうか。因みに曲名は「葬礼」ではなく「葬送」となっている。尚、今ではほかにも、ブーレーズやシャイーやパーヴォ・ヤルヴィやジョルジュ・プレートルの指揮の CD が手に入る。
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さて、ではこの「葬礼」という曲、日本初演はいつ行われたのか。1990年 3月30日、若杉弘が、今回のコンサートと同じ都響を指揮して行った。これは、文字通り画期的なマーラー・ツィクルスの一環で、第 2番「復活」の演奏の際に、第 1楽章を通常の版ではなくこの交響詩「葬礼」に入れ替えてのものであった (実は私はこの演奏会のチケットを持っていたが、所用で聴けなかったので、これもライヴ収録された CD で喝を癒している)。尚、この若杉のマーラー・ツィクルスのプログラムに、当時既にマーラー演奏の世界的権威であり、後に同じ都響を指揮して何度もマーラーを演奏することになるエリアフ・インバルその人の言葉も載っているので、ご紹介する。
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そのような「葬礼」という曲、インバル自身がこれまで指揮したことがあるのか否か分からないが、もちろん期待は大である。楽員のチューニングが終わり、なぜか 2本の指揮棒を持って舞台に登場したインバルは、1本を譜面台に置いて、精力的に指揮を始めた。そしてその瞬間私が認識したことには、都響は今や東京ナンバーワンのオケではないだろうか。前日のノットと東響の「復活」の演奏では、以前の記事に書いた通り、冒頭には課題を感じたところ、今回のインバルと都響が繰り出した響きは、まさに「死者の霊を呼び出す異教的祭礼」にふさわしい、凄まじいもの。低弦の唸りは、冒頭から容赦なく人々の耳に、深く重く、強い説得力をもって響いたのである。それから始まった 25分間、なんと素晴らしい演奏であったことか。「復活」の最終版では消えてしまった、中音域 (第 2ヴァイオリンやヴィオラ) が呪いの言葉を呟くように唸る箇所があちこちで聴かれ、その流れの深いこと。もちろん、完成版に慣れた耳には粗削りに響く箇所もあり、ブルックナーと違ってマーラーの作曲法には洗練があるので、わざわざ粗削りな版を聴く意味があるかと思わないでもないが、聴いてみるとそれが意外と面白いのである。得体の知れない葬礼を目の前で見ているという不気味さに聴衆は圧倒されることとなった。そして、もともとインバルの指揮ぶりは器用なものではないのだが、81歳とは思えないくらい精力的に指揮棒 (上の写真にある通り、彼が使用しているのは比較的短いもの) を上下していると、突然バキッと音がした。よく見えなかったが、どうやら指揮棒を指揮台にぶつけて折ってしまったようであった!! だが音楽の力はいささかも弱まることなく、指揮者は慌てず騒がず、指揮台にあった予備の一本を取り出して、相変わらず精力的な指揮を続けたのであった。このあたり、わざわざ 2本指揮棒を持ってきたことが功を奏するのも、事前に予感のある、何か神がかった演奏であったということではないか (笑)。

休憩後の「大地の歌」は、因みに指揮棒 1本で登場し、特にトラブルなく全曲を振り終えたのだが (笑)、ここでもオケの表現力には際限がない。漢詩のドイツ語訳を歌詞としているのは有名な話であり、また、歴代の大作曲家が交響曲第 9番を完成したあとに死んでいることから、9番目のこの曲には番号をつけずに発表して、でも結局第 10番を完成しないまま世を去ったという逸話もよく知られている。だが、そのような情報を考えずとも、この練りに練った音楽 (6曲からなるが、第 1楽章ソナタ形式、第 2楽章緩徐楽章、第 3・4・5楽章スケルツォ、第 6楽章フィナーレとみなせば一応交響曲だ) にずっと浸っていたいと思うような演奏であった。最初のホルンの叫びの野性味から、最後の "Ewig (永遠に)" の言葉を取り巻くチェレスタやマンドリンのきらめきの夢幻さまで、充分にマーラーを知り尽くしたコンビが、様々な情景や感情を描き出していたし、今思い出しても終楽章のオケによる間奏部分の緊張感は異様なほどであった。今回はアルト・パートをスウェーデン人のアンナ・ラーション、テノール・パートをドイツ人のダニエル・キルヒが歌ったが、特に前者は (随分以前にアバド指揮ベルリン・フィルの「復活」の録音でソリストを務めていた ... 1996年の日本公演では違う歌手だったが)、暗譜で全曲を歌い、大変に安定した歌唱であった。終楽章では、オケに劣らぬ「練れた」声で感銘を与えてくれた。一方後者も、若干単調と感じないでもなかったが、いかにもドイツ人テノールという真面目な歌いぶりであった。
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終演後のインバルは終始上機嫌で、都響の音のクオリティに満足したことであろう。こうしてインバルと都響は、東京の音楽界に多大なる貢献を果たしつつ、また新たな道を進んで行くことであろう。9月から始まる来シーズンのプログラムを見ると、来年 3月に彼は都響に還ってくる。採り上げるのは、これも楽しみなショスタコーヴィチの大作 7番に加えて、幻想交響曲、悲愴等の名曲が並んでいる。うーん、どれも聴いてみたいが、やはりマーラーもまた聴きたいものである。炸裂する音響の中で折れる指揮棒をまた見てみたい!!

by yokohama7474 | 2017-07-19 03:05 | 音楽 (Live) | Comments(4)

椿貞雄 千葉市美術館

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千葉市美術館は、その日本美術の企画の卓越ぶりにおいてよく知られているが、地方の公立美術館の使命のひとつは、その土地に住んだ画家の作品を展示して再評価を促すことであり、その意味でこの美術館も例外ではない。生まれは山形県米沢市であるが、人生の後半を船橋市で過ごした、この椿貞雄 (1896 - 1957) という画家の没後 60周年を記念して彼の画業を紹介するこの展覧会は、この美術館ならではの企画であり、泰西名画に飽き足らない趣味の方には、足を運んでみて損はないと申し上げておこう。会期は 7/30 (日) までであり、もちろん他の都市への巡回はない。

この画家については、私も全く知識がなかったが、上のチラシに「師・劉生、そして家族とともに」とあることから、岸田劉生 (1891 - 1929) の弟子であるようだ。そういえば自画像とおぼしきこの青年像は劉生風の厚塗りであり、日本的な洋画を描いた人なのかと思われる。だが、チラシを手に取った私の目に入ったのはこのような作品。
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これは東京国立近代美術館の所蔵になる「髪すき図」(1931年作) であるが、この奇妙にシュールなエロティシズムは、私をして即座にあの謎めいたスイスの巨匠、バルチュスを思わせたのである。例えば、バルチュスによるこの「赤い机と日本の女」(1967 - 76年作)。この作品は節子夫人をモデルにしているので日本的であるのは当然であるが、もしこの椿貞雄なる画家に、バルチュスに通じるような怪しい感性があるとするなら、是非見てみたい。椿貞雄、果たして船橋のバルチュスと呼ぶべき画家であったのか。
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さて、答えを急いでしまってはよくないかもしれないが、でもやっぱりはっきりさせておいた方がよいと思うので書いてしまうと、椿はバルチュスとは全く異なる画家でした (笑)。それでも、以下は言えるのではないか。つまり、岸田劉生から高く評価され、師と近しく交流を持った彼は、その作風も師に追随するものでありながら、実は全く違うテンペラメントも潜在させていた。つまり、もし違った経歴を歩んだなら、もしかするとバルチュス的感性に近づいた可能性もあるかもしれないと思うのである。以下、その作品を辿って行こう。

椿は故郷の米沢で旧制中学時代に水彩画を描いており、当時東京で始まっていた岸田劉生らのフュウザン会のポスト印象派活動に憧れていた。1914年に彼は中学校を中退して上京。この作品はその際に初めて油絵具を入手して描いた「落日 (代々木附近)」。ゴッホ風のこのような作風が、椿の憧れたポスト印象派のイメージであったのだろう。
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だが椿は、その頃の劉生の作風が、むしろ北方ルネサンスの細密描写に向かっていることを知った。そして彼は劉生に手紙を送り、自作を携えて劉生の自宅を訪問した。その椿の手紙に対する劉生の返事 (1914年12月29日付) が本展に出展されている。「貴方の挙げられた様な人々と自分をならべられると恐縮します。しかし尊敬をもつて下さる事は嬉しく思ひます。私に解る事だけは御話致しませう。いつでもよい時に御出で下さい」とある。きっと椿は、尊敬する劉生に対して、西洋の大家たちの名前に言及しながら、是非お会いしたいと、熱烈なファンレターを送ったのであろう。年齢は 5歳しか違わないものの、既に中央画壇で気を吐いていた劉生に対する椿の憧れが偲ばれる。
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そのとき椿が劉生のもとに持参したのが、展覧会のポスターにもなっている「自画像」(1915年作) である。
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劉生はこれを見て、椿に展覧会への出展を薦め、その結果この作品は一等なしの二等を受賞。それに対して劉生は、前年に仕上げていた自画像に「椿君に贈る」という文字を英文で書き入れて椿に進呈した。これがその劉生の自画像。下の方にある "Send to Mr. S. Tsubaki" という文字は、確かに北方ルネサンス風である。昨年西洋美術館で開かれた「クラーナハ展」では (私も昨年 12月20日に記事にし、そこでは触れなかったが)、日本におけるクラナッハ受容史の一例として、これに似たスタイルの劉生の作品が展示されていたものだ。
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それ以来椿は劉生の傍らで画家修業に励み、師と同じ場所で写生をしたりするなどして、この大家の影響を大きく受けて行く。椿による北方ルネサンス風の文字の書き込みの例として、1915年作の「八重子像」を挙げよう。妹を描いたものだが、師の作風への私淑は明白である。
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また、その頃の劉生による椿の肖像も残っている。1915年作の「椿君之肖像」。いかつい顔つきである。椿自身の述懐によると、「僕が岸田さんへ手紙を出した時、何しろ椿貞雄なぞと言ふと馬鹿に、やさしい名なので、色白のやさ男で水彩か何かやつている中学生だと思つてゐたら、まるでその正反対で、びつくりしたさうだ」とのこと。だが、この深紅の背景に、上京して絵画修業に燃えている若者のたぎる心を頼もしく思う劉生の気持ちが表れているではないか。
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これなどは、劉生の有名な作品と同じ場所で描いていることは明白だ。「冬枯の道」(1916年作)。
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一方でこれなどは、ちょっとフォーヴの匂いすらする、なかなかの鋭いセンスではないか。「風景 (道)」(1915年)。未だ 20歳にもなっておらず、美術の専門教育も受けていない若者の作品であるとは信じられないほどだ。
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だが、彼の画業を見ているとやはり、師の影響をまずは全身で受け入れることにその基本があったと言えるように思う。これは 1918年作の「雪国の少女」であるが、その背景の濃い赤だけでなく、人物の内面に迫ろうという姿勢も師の劉生に倣っているように思う。
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これは 1920年の「芝川照吉像」。この芝川氏は劉生や青木繁のパトロンであった美術コレクターで、椿も劉生もこの人の肖像を何点も描いていて、この展覧会に出展されている (以下に一点ご紹介する)。因みに芝川家は大阪の実業家の家系で、その子孫 (本家・分家に分かれてはいるようだが) の方とは、私もたまたま面識があったりもするのだが、以前読んだ「大阪の近代建築と企業文化」という本にこの芝川家に関連する建築について詳しく書かれていて、面白かった。愛知の明治村にも、もともと西宮にあった武田五一設計による芝川又右衛門邸が移築・保存されている。
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さて、岸田劉生と言えば誰でも知っているのが、娘をモデルに描いた麗子像のシリーズであるが、椿もまたそれに近い作風の作品を多く残している。これは 1921年作の「童女像 (毛糸の肩掛をした菊子)」。菊子とは椿の妹の娘だが、なんとこれ、重要文化財に指定されている劉生の「麗子微笑」(東京国立博物館蔵) で使われた肩掛を借りて描いている!! 「麗子微笑」はこの展覧会には出品されていないが、参考としてここに写真を掲げよう。はぁー、確かに同じ肩掛だ。
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かと思うと、この菊子をモデルにした全く違う作風の作品もある。「洋装せる菊子立像」(1922年作)。この作品を見ていると、椿の中に芽生える師匠の作風からの脱皮を模索している姿を感じるのは、私だけであろうか。この奇妙な抒情は、既知の画家で強いて探せば、国吉康雄あたりに似てはいまいか。国吉は椿より 3歳上だから同世代だが、当時米国にいた国吉と椿との間に接点があったわけもないだろう。だが、実は芸術家として通じる面もあったのかもしれないと想像するのも楽しい。
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椿は白樺派の芸術家たちと交流を持ったようだが、これは白樺派を代表する作家、武者小路實篤の肖像 (1922年作)。武者小路と言えばお爺さんになってからの写真しか見たことがないような気がするが、当時 37歳。この絵にも「於新しき村」とある。彼が新しき村を開いたのは 1918年。未だ理想に燃えていた頃の肖像であろう。
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さて、日本の洋画家の場合、結構手すさびに日本の伝統的な手法の作品をものしているケースがある。この展覧会には、劉生、椿双方のそのような作品が幾つも展示されていて、油絵とはまた違った味わいがあって面白い。例えばこれは、岸田劉生による「芝川照吉大人肖像」(1922年作)。上で椿による油絵の肖像をご紹介したパトロンだが、ここでは何かくつろいだ感じで、いたずらっぽいとすら見える飄々とした表情を見せている。
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一方でこれは椿貞雄の「昼寝」(1928年作)。へちまの垂れる下で気持ちよさそうに女の子 (娘だろうか?) が昼寝をしている気楽な雰囲気の作品。随分油絵とは雰囲気が違うではないか。
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また、ほかにも興味深い例が紹介されている。江戸時代初期の肉筆浮世絵を、劉生と椿がそれぞれに翻案しているのである。オリジナルは寛政期 (1624 - 1644年)、作者不詳の「犬を連れた禿 (かむろ) 図」。
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その題材を劉生は「狗をひく童女」(1924年作) に、椿は「春夏秋冬図屏風」の「春」(1931年作) に転用している。劉生の場合は麗子をモデルとし、オリジナルの構図を換骨奪胎しているが、椿の場合は完全に画題を分割している。尚この椿の作品はパリで制作されたもの。
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椿は 1929年に船橋に移り住んだが、それは尋常高校の図画教員としてであったとのこと。どのような教師であったのだろうか。これは 1928年に描かれた「入江 (伊豆風景)」。ここでは空も海も建物も強い存在感をたたえていて、この画家が新しい道に入りつつあったことを感じられるような気がする。
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その翌年、1929年12月に、ついに恩師との別れがやってくる。満州からの帰途に立ち寄った山口県の徳山で客死したのである。38歳であった。既に大家ではあったが、あまりにも若い死だ。死因は胃潰瘍と尿毒症。彼は既に 10年以上前に結核の診断を受けていたが、それは誤診であったと言われ、転地療養していた鵠沼では元気だったそうだ。それだけに劉生の死は椿にとってショックであったろう。これは死後の劉生を椿が描いた「柩の中の劉生」。いかつい顔を涙でグシャグシャにしながら描いたであろう椿の姿を想像すると、なんとも胸が詰まるような哀しみを覚える。
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冒頭の方でご紹介した不思議な作品「髪すき図」は、この後、1931年の制作である。上で見た通り、5歳上の師匠に従って必死に絵画修業を続けて来た未だ 30代の画家にとっては、師を失ったあとに自らの方向性を模索する必然性があったのであろう。彼の本来持っている資質の中に、この「髪すき図」や、上記の国吉風の作品などに見られる強い表現力があったことを感じたものと思う。画家は 1932年に渡欧。パリを中心に、オランダ、スペイン、イタリアを訪れた。これは師の影響からの決別であったのであろうか。例えば 1932年のこの「アンドレ裸体」の豊かなモデリングは、これまでの椿の作品にはないものだ。もっとも、モデルの体格が日本人とは違うという要素は確実にあるだろうが (笑)。
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これは同じ年にパリで開いた個展の肉筆ポスター。油絵ではなく軽いタッチの水彩で、日本的な雰囲気を、エキゾチックにならない程度にうまく使っているではないか。パリ生活をエンジョイしたのかと思いきや、椿は早く日本に帰りたいとばかり考えていたらしい。
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欧州滞在はわずか 5ヶ月ほどであったが、帰国してからの彼の作風には、少し大らかな要素があるような気がしないでもない。これは 1934年作の「四季の図」という縦長の作品から上の方と下の方、つまり春のシーンと秋のシーン。重い油絵の世界を忘れたような、邪気のない絵である。
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展覧会には椿の静物画の変遷を辿るコーナーがあり、これがまた大変興味深い。また若い頃に還って、これは 1921年作の「静物 (りんご)」。劉生は、結核と診断された頃から室内での制作に切り替えたため、椿もそれに従って室内で静物画を描いたのだという。この作品は、写実性はそれなりにあるものの、上の作品を見たあとでは、なにやら重苦しく見える。
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同じ題材において、師弟の画風の違いを見てみよう。これは 1926年に劉生が描いた「冬瓜茄子図」。なんとも粋な雰囲気で、モノの実在感というよりは装飾的な印象すら受ける。劉生の意外な一面と言ってもよいかもしれない。
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椿は同じ題材を同じ頃から油彩で描いているが、劉生の死後も表現の模索は続き、1942年に制作した「冬瓜茄子図」では、このようになった。
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劉生との差は一目瞭然で、この作品では、モノの存在感が迫ってくる迫力がある。1949年の「冬瓜図」になると、さらにその存在感はただならぬものに成熟しているのである。描かれる対象ですらもはや、のうのうと安定して座ってはいられない (?) のである。
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もうひとつ、私が素晴らしいと思った椿の静物画はこれだ。1948年の「壺 (黒い壺に南天)」。1943年から 5年間を費やして描かれたものである。ここでついに壺はその存在感のあまりの強さから、ただならぬシュールなものと化している。例えばこれが世界の最後に見る風景であれば、人は安心するであろうか、不安に思うであろうか。ただの壺なのに、そんなことまで思わせるとはなんたること。

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そしてこれもやはり静物画であるが、1957年、絶筆となった「椿花図」。彼の苗字と同じ花を描いたのは何かの因縁であろうか。入院の朝、病院の車が迎えに来る前に一気に描いたものであるとのこと。未だ生きる意欲が衰えない切り花の姿であり、見る者に鮮烈な印象を与える作品である。
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椿の描いた富士山の作品を二つご紹介する。まずは 1940年の「赤富士図」。もちろん北斎の赤富士とは異なり、写実的な光景であるが、私が面白いと思うのは、中腹より下の木々の細かい描き方である。雄大な景色の中、実は木々の内には無数の生命が息づいているのだという印象を受ける。
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その観点でこちらを見ると、ここには生命の息づきからさらに進んで、具体的な生活の要素が描かれていることが分かる。そのスケール感といい、距離感を保ちながらも人間的な作風といい、これまでの椿作品とは随分違う。これは 1954年に描かれた「富士図 (二の宮)」。近いうちに不染鉄 (ふせん てつ) という知られざる画家の展覧会をご紹介するが、その不染の描く富士にも相通じるところのある、強い表現力のある作品なのである。
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さて、展覧会の最後のコーナーには、彼が描いた家族の肖像もあれこれ展示されている。これは 1931年作の「婦人像 (隆子像)」。妻の姿である。またまた冒頭近くの「髪すき図」に戻ると、その絵の中、右側で女性の髪をすいているのがこの人である。昔の日本家庭における献身的な妻というイメージであるが、画家の方もそれほど緊張して描いていないようにも思われる。決して写実的ではないが、画家の信頼が表れた肖像ではないだろうか。
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これが椿家の人たち。1935年の写真で、左端が椿、右端が妻、隆子である。幸せそうな家庭ではないか。奥さんも、むしろ肖像画よりも近代的な美人です (笑)。
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ところでこの写真の左から 2人目に利発そうな女の子が映っているが、彼女は次女の夏子。上の写真の 2年前、1933年の椿による夏子の肖像画はこれだ。おかっぱ頭が活発さを表している。
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この夏子さん、長じて染物のデザインに従事することとなる。師事したのは、あの人間国宝芹沢銈介だ。私も 5月13日の記事で、静岡の登呂遺跡の横にある彼の美術館及び旧居をご紹介したが、独特の抒情ある素晴らしい染物の数々を制作した人。その薫陶を受けた椿夏子が制作した屏風、「愛別離苦」がこれだ。この題名は仏教用語で人間界の八つの苦しみのうちのひとつで、肉親との生別、死別のこと。ここで夏子は、父貞雄の遺愛の焼き物をテーマとして採り上げ、恐らくは父との死別の悲しさを表現しているのであろう。
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本当はほかにもご紹介したい作品がいろいろあるが、上記だけでも、この画家の画業について一通りのイメージは持って頂けるものと思う。岸田劉生への私淑から始まり、その模倣を経て自らの独自な美意識を追い求め、また、日本的なものもうまく取り入れながら、風景や静物や人物を真摯に描き続けた画家であった。もし違った環境にいれば、それこそバルチュスのように、もっと退廃性を感じさせる作風になったかもしれないという可能性も感じさせるが、実際にはそうはならなかった。実生活で常に家族とともにあり、また、心の中に生き続ける師への尊崇の念が、生涯に亘って彼の画風を決めたものであろう。自らの創造意欲に忠実に生きた画家の姿に、芸術家としての誠意を見ることができる、そんな心に残る展覧会であった。

by yokohama7474 | 2017-07-19 01:01 | 美術・旅行 | Comments(0)

ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2017年 7月16日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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マーラーの大作、交響曲第 2番「復活」は、大変ポピュラーな名曲ではあるものの、演奏には一筋縄では行かないエネルギーを必要とするため、そう滅多に演奏されるものではない・・・東京を除いては。というのも、今週から来週にかけて、世界最高クラスの指揮者が 2人、別々の東京のオーケストラを指揮してこの曲を演奏するからだ。ひとつはここでご紹介するジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団 (通称「東響」)。もうひとつは、チョン・ミョンフン指揮の東京フィルである。そしてそこに加えて、この「復活」の第 1楽章の原型となった交響詩「葬礼」もこの時期に演奏されるという賑やかさ。その演奏は現代におけるマーラー演奏の権威であるエリアフ・インバル指揮の東京都交響楽団によるものだ。最近の東京は 7月半ばにして既に 35度を超える猛暑日になっていて、必ずしもこのような熱い大曲を聴くには適当な気象状況とは思えないが、逆に言うと、外気の暑さも吹っ飛ぶような熱演に触れたいものである。まずは期待のジョナサン・ノット指揮の東響の演奏会をここでご紹介しよう。ノットは東響の音楽監督で、現在 54歳の世界的指揮者である。
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普段とは趣向を変えて、まずはコンサート終了時の光景の描写から始めよう。若きマーラーが描き出した、とてつもない高揚感を持つ音絵巻を指揮し終えたノットは、しばし指揮台に立ち尽くしていた。その背中は、両端が肩の線を外れて、まるで無造作に脱ぎかかっているかのようなシワシワの燕尾服に、汗がびっしょり。そうして起こった爆発的な拍手に、放心状態のノットがようやく反応する。2人のソリストの歌手たちもノットの渾身の演奏に賛辞を捧げ、挨拶に登場した合唱指揮者も心なしか目が赤くなっている。そしてノットは、普段しないことを始めた。オケの中に入って行って、木管や金管の奏者を個別に立たせて拍手を受けさせたのである。世界最高クラスの指揮者が本気になって凄まじい音響を統率した、素晴らしいクライマックスであった。

ではここで曲目を紹介しよう。
 細川俊夫 : 嘆き
 マーラー : 交響曲第 2番ハ短調「復活」

なるほど、ノットが「復活」の前に演奏することを選んだのは、現代日本を代表する作曲家、細川俊夫の最近の作品である。現代音楽を得意とするノットらしい選曲だ。細川についてはこのブログでも何度も触れてきているが、静謐で、時に暗い情念を感じさせる音楽を書く人で、管弦楽曲を多く作曲している。この「嘆き」という作品は、ザルツブルク音楽祭の委嘱で作曲され、2013年 8月、シャルル・デュトワ指揮 NHK 交響楽団のザルツブルクでの演奏会で世界初演された。だがその時はソプラノとオーケストラのための作品。その後音域を下げてメゾ・ソプラノ独唱用に書き直された版が作成され、2015年 5月に広上淳一指揮京都市交響楽団によって初演された。今回演奏されたのは、そのメゾ・ソプラノ版であり、ここで独唱を受け持ったのは、日本が世界に誇るメゾ、藤村実穂子であったのだ。藤村は上記の京都市交響楽団による初演時にも歌っており、これはその再演ということになる。
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この曲の内容は決して楽しいものではなく、2011年の東日本大震災の津波による犠牲者に捧げられたもの。歌詞はザルツブルク出身の詩人、ゲオルク・トラークル (1887 - 1914) によるドイツ語である。このトラークルについて私は詳しく知るものではないが、解説によると、表現主義に属する詩人。第一次世界大戦に薬剤師官として従軍したものの、戦場で目にした惨状に絶望し、27歳で自ら命を絶った。これがトラークルの肖像。確かに神経が細い人のように見える。
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この「嘆き」で使われているテキストは、トラークル最晩年 (といっても年齢は若かったわけであるが) の作で、手紙と詩からなっている。プログラムに掲載されているその内容は、ひたすら絶望的。まさに未曾有の災害における津波の犠牲者の悲劇を思わせるものである。この曲は 20分強の長さであるが、オケによる前奏、中奏、後奏の間に、2回歌が入る。細川特有の弦楽器のキュルキュルいう音や、金管楽器が音を出さずに息だけ吐くという奏法もあり、音響的には暗いながらも多彩さがある。開始部と終結部では、風鈴のような鐘の音がある種の日本的情緒を思わせる。ここでノットと東響は、非常に分離のよい音で緊張感を持って全曲を演奏したが、やはり圧巻は藤村の歌唱であろう。呟くような静かな箇所から絶叫に至るまで、まるで一本の線を描くような、破綻の全くない歌いぶりで、さすがの貫禄であった。この曲は今後も彼女のオハコになるかもしれない。作曲者細川は、2階客席から熱演に拍手を送っていた。細川さんはこんな人。小柄な人である。
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さて、メインの「復活」である。上で終演時の熱狂をご紹介したが、それに値する熱演であったことは間違いない。だが、正直なところ、前半においてはこのコンビであればもっとできるような気がしたのも事実。冒頭の稲妻のような弦楽器の切り込みに続いて低弦が長い歌を唸るところでは、少しテンポが落ち着かず、オケに乱れが生じていたし、その後も木管の緊密さに若干の課題を残したように思う。なので、私としては第 1楽章はもうひとつだと思ったのである。ところでこの曲は、第 1楽章終了時に最低 5分間、休憩を取れとの作曲者の指示がある。それは、第 1楽章の描き出す壮絶な闘争の世界と、その後の楽章で描かれる音楽的な情景が異なるからであろうが、ここでノットは、合唱団 (東響コーラス) も独唱者 (ソプラノの天羽明惠とメゾの藤村) もステージに入れることなく第 1楽章を演奏し、第 1楽章と第 2楽章の間に、合唱・独唱全員が登場するという段取りを取った。これによって作曲者の指示に忠実な、楽章間の断絶が生まれることとなり、実際、その後演奏された第 2楽章アンダンテ・モデラートは、ユーモアをたたえたなんとも言えないよい味の演奏になったのである。尚、独唱者たちは指揮者の横でも合唱団の前でもなく、指揮者右手に配置された第 2ヴァイオリンの奥に陣取るという珍しい配置。また、終楽章では合唱団は大詰めまで起立することなく座ったまま歌い、最初にソプラノが登場するときにも、天羽は座ったままの歌唱であった。この 2人のソリストはさすがの出来であり、第 4楽章以降の演奏全体にインスピレーションを与えたと言ってもよいと思う。ノットの指揮はテンポを揺らすことはほとんどなかったが、唯一終楽章の盛り上がりで若干テンポを落としたと聴いたが、その時オケは一瞬分解しそうになって踏みとどまり、それから先、大団円では演奏者全員一丸となった炎の演奏を成し遂げることとなったのである。

このように、最初から最後まで完璧な出来というわけではなかったが、この曲ならではの凄まじい高揚感を存分に味わうことのできる演奏であって、私の隣の席の女性などは、メガネを外して涙を拭いていた。聴衆をしてそのような感動を抱かせる演奏は実に素晴らしいし、細部がどうのこうのとあげつらう意味はないだろう。熱演に拍手を送りたい。ノットと東響はこれからも意欲的かつバランスの取れたプログラムを予定していて、本当に目が離せない。彼らの本拠地であるミューザ川崎の音響は実に素晴らしいし、このような音楽体験を続けて行ける我々はなんと恵まれたことか。ニューヨークでもロンドンでもパリでもどこでもよい。マーラーの「復活」を立て続けに、しかも一流の演奏陣で聴くことができる都市が、ほかにあるだろうか。東京を覆う熱波は、もしかして音楽界の熱気によるものか? などとうそぶくのも楽しいではないか。

by yokohama7474 | 2017-07-17 00:21 | 音楽 (Live) | Comments(2)

バーンスタイン作曲 ミサ 井上道義指揮 大阪フィル 2017年 7月15日 大阪・フェスティバルホール

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20世紀の最も偉大なる音楽家のひとり、レナード・バーンスタインは 1918年生まれ、1990年没。ということは、来年生誕 100年を迎えることになる。指揮者として最も知られているであろうバーンスタインは、もちろん作曲家でありピアニストであり、教師であり、またヒューマニズムの観点における活動家でもあった。このブログで音楽を扱うときには基本的に現在活動している音楽家の演奏を採り上げているので、既に死去してしまった偉大な音楽家について語ることは、いわば何かのついでということになってしまっている。実はこのブログの開設の際、記事のカテゴリーとして「音楽 (Recorded Media)」というものを作り、過去の音楽家が残した遺産についても、随時述べて行くことにしようとしたのであるが、率直なところ、とてもそんな記事を書いている時間がない (笑)。なので、残念ながら今に至るもそのカテゴリーの記事はゼロなのであるが、その代わりと言っては語弊があるものの、思いつくまま文化の諸分野を放浪することを旨とするこのブログでは、話のついでにバーンスタインの業績に触れるようなことがあると、時々暴走してしまうのが常なのである (笑)。それほど私にとってこの音楽家の存在は大きいということなのであるが、そんな私が聴き逃すわけにはいかない公演がこれなのであった。絶好調の井上道義が、手兵である大阪フィル (通称「大フィル」) を指揮して、バーンスタンの問題作、ミサを演奏する。幸いなことに土曜日の公演があったので、大阪まで聴きに行くことができた。これは壮年期のバーンスタインの写真。
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さて、作曲家バーンスタインが好きな人でも、このミサの実演を耳にした人はあまり多くないのではないか。かく言う私も実演では初めて体験することになる。調べてみると、日本初演は名古屋のグリーン・エコーという合唱団が 1975年に果たしていて、その後も 1978年、86年に再演されているとのこと。また、今回の指揮者井上道義自身、1994年に京都市交響楽団を指揮して一度演奏しているらしいが、私はそのいずれも体験していない。ただ曲自体はよく知っていて、大学に入った頃に何かの本で、「ロックバンドも入った型破りなミサ」であるということを知り、大学在学中には、初演と相前後して録音された作曲者自身による演奏に随分と親しむこととなった。特に冒頭間近の「シンプル・ソング」は今でも時々ふと口ずさむ、私にとっては長年に亘るお気に入りの曲 (2016年 6月 4日の映画「グランドフィナーレ」の記事ご参照)。もちろん、このミサの全曲を通して聴いてみて、さながら「アンチ・ミサ」とも言うべき内容に、大きな衝撃を受けたことは言うまでもない。そう、このミサは、まさに型破りで、通常のラテン語のミサ曲の歌詞を使いながらも、バーンスタインの自作の英語の歌詞も様々な歌手によって歌われ、ロックやブルースなどがあちこちに登場し、バレエや児童合唱もという曲なのである。冒頭に掲げたチラシに「これはオペラかミュージカルか」とある通り、通常のミサ曲の範疇に入る曲ではない。もっとも、「オペラかミュージカルか」という題目は、バーンスタインのほかの作品、例えば「ウェストサイド物語」や「キャンディード」についても言われることである。だがこの曲はキリスト教の典礼であるべきミサであって、そのような宗教曲に対して、あろうことかオペラかミュージカルかという同じ疑問が呈されること自体が異常なのである。作曲者自身はこの曲を「歌い手、演奏家そして舞踊手のための劇場用作品」と銘打っており、1971年 9月にワシントン DC のジョン・F・ケネディ・センターのオープニング記念として初演されたもの。実際に舞台に接してみて実感するのは、これは予算的にも内容的にも、上演至難な作品である。2,700人収容の大阪のフェスティバルホールはほぼ満席の大盛況で、多くのファンの関心を引いたことが分かる。尚、Youtube では、今回指揮のみならず演出も請け負った井上道義のインタビューや、大変興味深い熱心なリハーサル風景なども見ることができる。
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要するにこの曲のどこが衝撃的かと言うと、本来は神を称える曲であるべきミサの中に、神への信仰に疑問を抱く人々があれこれ出てきて、不信心な、だが生活感のこもった率直な歌や、なんともだらしない歌や、あろうことか卑猥な歌まで歌ったりして、ミサを執り行おうとする司祭の邪魔だてをする。そしてその司祭自身、最後にはなんたることか儀式用の杯を床に投げて粉々に砕き、祭壇の覆いもはがしてしまい、床に転がって神への不信を呟くのである。この曲の真価を理解するには、芸術家バーンスタインを知る必要があり、また当時の社会情勢を知る必要があるだろう。1971年と言えば、ニクソン政権下、米国はヴェトナム戦争の真っただ中。ヒッピー文化真っ盛りである。私の手元の自作自演 CD から、初演当時の舞台の写真 (ジャケット写真を含む) を何枚かご紹介する。時代の雰囲気が明らかであろう。
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この曲は 17曲から成り、上演時間は正味 2時間もあるのだが、今回の演奏では、第 9曲の後に 20分の休憩が置かれた。開始部分ではオケのチューニングの音すら聴こえず、一旦完全に暗転したかと思うと、照らされたスポットライトの中、司祭役のバリトンの大山大輔が登場して、ジュークボックスにコインを入れる。そうすると、テープに録音された 4人の独唱者による「キリエ・エレイソン」(これを含むテープの部分は、もしかすると初演時と同じ古い録音なのかなと思ったが、さてどうだろう) が、それぞれに全く違った調子で流れ始める。そのあと司祭がギターを持って「シンプルソング」を歌うのであるが、ふと気づくと指揮者の井上は、そのときにはオーケストラ・ピットの中で指揮をしている。そのあと行進曲とともに木管・金管奏者が入ってきて、ピット内ではなく、ステージ左右に陣取る。また、ロックバンドとブルースバンドもその奥、ステージ上に配されている。私の席からはピットの中は見えなかったが、そこにはつまり、弦楽器奏者と打楽器奏者しかいなかったということになる。井上自身による演出はなかなかに凝ったものであり、曲の持つ特殊性をかなり明確に出す大胆なものであったといえようが、さすがに指揮者自身による演出だけあって、音楽的に無意味な行為は何もない。それに輪をかけたのが日本語字幕。これも井上自身によるもので、かなり砕けていながら語感もよいもの。例えば原詞で "no no no!!" とある部分には「何なのののの」という具合。私は以前、もう 15年以上前だが、井上の指揮する東京交響楽団でオルフの「カルミナ・ブラーナ」を聴いた際、同じように井上自身担当した訳詞を見ていて、そのときも音楽の流れと語感に乗っ取った、面白いものであったことを思い出した。いやそれにしても、リズム感といい抒情といい、井上の指揮はまさに自由自在。この曲の真価を引き出してみせる見事な統率ぶりであった。

歌手ではもちろん、司祭を演じた大山大輔が最大の功労者であろう。昨年のミューザ川崎でのジルヴェスター・コンサートでは、井上とよいコンビで客席を沸かせていたが、ここでも堂々たる歌唱。ただ、オペラ的発声を求められない箇所がほとんどであり、時にはもっと遊びがあってもと思うこともあったが、最後の場面の熱唱には大いに感服させられた。ラテン語で英語で、時には日本語で、あるいはヘブライ語まで、歌に語りにと、縦横無尽である。
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さて、この曲に多く登場する歌手たちは、二期会や藤原歌劇団の人たちが多かったが、驚くのは、小川里美や小林沙羅といった、このブログでも過去に何度か名前に触れている日本一流のソリストも、いわゆるストリート・コーラスの一員であるという贅沢さ。このようなリハーサル風景で、その贅沢な布陣による熱心な準備状況が理解されよう。実際、大変複雑な構成を持つこの曲のアンサンブルは、実に見事であった。そういえば、今回舞台に立った歌手の皆さんは、ソリストであれ合唱団であれ児童合唱であれ、全員が暗譜。演奏会形式ではなく、完全にオペラ的な上演であったとも言える。
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因みに今回の上演は、ラテン語の典礼文以外には基本的にはほぼ英語であったが、一部は日本語での語りや歌唱もあった。語りの部分は確かに日本語の方がよいだろうが、歌についてはどうだったろうか。原文歌詞を再チェックしていないのだが、英語ではかなり韻を踏んでいる部分があるはずで、そのような箇所は意味だけ同じ日本語にしても面白くないので、日本語にしてみたということかと想像している。それほど不自然でない感じで言葉の切り替えがなされており、日本での、そして大阪での演奏ということで、歌詞が大阪弁でも大いに結構なのである (笑)。ところで、井上自身による字幕で、「連祷 レント リタニ」という部分があって、きっと多くの方にとっては ??? であったと思うが、そのネタについては、やはり井上道義が指揮をした演奏会についての、この記事をご参照下さい。
http://culturemk.exblog.jp/25242824/

それから、大阪フィルハーモニー合唱団によるコーラスも見事なら、キッズコール OSAKA による児童合唱も見事。ボーイソプラノの込山直樹も、あれだけの大舞台をよくぞ緊張せずに歌い通したものだと思う。終演後のカーテンコールでは、まず最初にマエストロ井上がピットの中を奥に進み、ステージ下に辿り着くと客席の方を向き、よっこらしょとステージに腰かけるかたちとなったと思うと、斜め後ろにでんぐり返しをするような恰好でステージ上に身を置いて、すっくと立ち上がったのである!! 既に 70歳とはいえ、もともとバレエダンサーであった人であるから、それほどは驚かないが、それにしても尊大な指揮者なら、そんなことをしないだろう。そして歌手の挨拶が一巡した際、なぜか肝心の井上の姿が見えないと思ったら、なんと、コンサートマスターの崔文洙以下、大フィルの弦楽器と打楽器のメンバー全員をステージ上に誘導しているところだった (笑)。このあたりもこの指揮者の持ち味が出て、充実した公演に花を添える楽しいパフォーマンスであった。あ、それから、今回の公演には、バーンスタイン晩年の愛弟子である佐渡裕の名が、「ミュージック・パートナー」としてクレジットされている。このように、リハーサルにも参加していたようだ。
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さて、最後にもう少し、この作品について語りたい。この演出を見て明らかであるのは、主役の司祭はバーンスタインその人だということだろう。彼は最初の方ではスコアを見ながら何やら書き込みをしているし、音楽に合わせて指揮もしている。民衆の前で説教するのは、あたかも学生や聴衆の前でレクチャーするがごとくであり、そして最後、祭壇の覆いが取れてしまうと、そこにはピアノが現れるのである。作曲者であり指揮者であり教育者でありピアニストであったバーンスタインの姿を想像することは容易であった。私もきっと、この曲を書いたときの彼には、司祭と自分を一体化して考えるという気持ちが働いていたのではないかと思う。帰宅してから、手元にある何冊かのバーンスタインの伝記を引っ張り出してみて、このミサについての記述をざっと見てみたが、ジョーン・パイザーの「レナード・バーンスタイン」という本には、「この作品がバーンスタイン自身を題材にしていることに気がつけば、多くの謎が氷解する」という記述があって興味深かった。1987年に書かれたこのパイザーの本は、バーンスタインの同性愛癖について暴露する内容を含むもので、当時大変センセーショナルな話題になったものだが、私は 1990年 (つまりバーンスタインの没年) に日本版が出たときにすぐに買って読んだ。内容には確かに衝撃的な部分もあったが、あまりにも巨大なバーンスタインという芸術家の本質に迫る、渾身の伝記であると思ったものだ。今回は図らずもそのことを再確認することとなった。
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ここでの司祭がバーンスタイン自身の似姿であるという前提に基づいて考えると、強く再認識できることがあった。よく、「彼はマーラーと自分を重ねていたが、指揮者としては最高の存在でも、作曲家としてはマーラーのような偉大な存在ではなかった」ということが言われるが、果たしてそうであろうか。マーラーは、世紀末ウィーンの文化の中で、世界苦を抱きながら新奇な音響を開拓した。一方でバーンスタインは、米国という、軍事や経済で世界をリードしながらも歴史の浅い国において、その米国ならではの音楽を創ろうとしたのではないか。巨大オケをドラマティックに使って、あるいは前衛の流れに乗って、新奇な曲を書こうとすればきっと彼にはできたであろう。だが彼が創作したかった世界はそんなものではなく、米国という、多くの人々が暮らすつぎはぎの国における、理念であったり正義感であったり、平易さへの指向であったり大衆性の許容であったり、あるいは現実への絶望感であったのではないか。彼の音楽にはどれも、ヨーロッパ音楽の模倣はない。ひとつの特徴は例えば、この「ミサ」における「シンプル・ソング」。ここにはガーシュウィンやコープランドや、あるいはバーバーやウィリアム・シューマンに共通する情緒と静謐さがある。これは紛れもなくアメリカ音楽であるのだ。そのことの意義は、今後ますます認識されるのではないだろうか。それから、ひとつの切り口として、この「ミサ」と奇妙な共通点のある曲を 2曲挙げたい。ひとつは、ベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」である。それはもちろん、ラテン語の歌詞と英語の歌詞の混淆、あるいはバンダの活用という点が最大の理由であるが、作曲者の同性愛指向という点でも奇妙なつながりがある。バーンスタインの生涯最後のコンサートには、そのブリテンの「ピーター・グライムズ」からの 4つの海の間奏曲が入っていたことも、何か不思議な縁を感じさせるのである。もうひとつの曲は、シェーンベルクの「モーゼとアロン」である。このオペラは第 3幕が未完成に終わったが、第 2幕の終盤には「黄金の子牛の踊り」があり、人々の熱狂がある。この「ミサ」の終盤における人々の狂乱と、どこか似ていないか。「ミサ」のその場面は、「アニュス・デイ」、つまり「神の子羊」であって、子牛と子羊という点も面白い (笑)。よく考えてみると、バーンスタインが指揮したシェーンベルクの作品は、聴いたことがない。同じユダヤ系であっても、その音楽作りの美学は大きく異なっていたわけである (十二音音楽を評価しないのは分かるが、初期の「浄夜」など、当然演奏してしかるべきだったと思うが)。だが、ウィーンに生まれて後年米国に移住したシェーンベルクと、米国に生まれて後年指揮活動の中心をウィーンに置いたバーンスタインとは、奇妙なコントラストを成しているではないか。両方とも、ただの偶然であるかもしれないが、歴史には時折、奇妙な偶然というものがある。そのような偶然を通じて、これらの歴史的作曲家の間に存在する共通点と相違点を認識するのは、大変意味のあることだと思うのである。

などと、想像の翼はこれからもまだまだ広がって行くものと思うが、ともかく今回の上演は、いずれまた是非再演を期待したい。今回は第 55回大阪国際フェスティバルの一環としての公演であったので、同フェスティバルの主催者である朝日新聞 / 朝日放送が、かなり資金援助しているのだろう。実は「ミサ」の中で司祭が、アドリブで人の名前を挙げて神の加護を願う場面があるのだが、今回は確か「大フィルさん、朝日さん、大植さん、ミッチーさん」と言っていた (笑)。・・・と書いてから思ったのだが、この流れだと、「朝日さん」と聞こえたのはもしかして「朝比奈さん」だったのか??? つまり、朝比奈、大植、井上 (ミッチー) とは、歴代の大フィルの音楽監督であるからだ。・・・まあともあれ、神のご加護によりさらなるスポンサーが見つかり、東京でも再演となることを祈っております。"Let us pray!!"

by yokohama7474 | 2017-07-16 03:10 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ハクソー・リッジ (メル・ギブソン監督 / 原題 : Hacksaw Ridge)

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つい最近このブログでご紹介した映画、「ブラッド・ファーザー」は、現代の名優メル・ギブソン主演のなかなか素晴らしい映画であったが、これは同じメル・ギブソンが監督としてメガホンを取った作品。もちろん彼は映画監督として高い名声を誇っていて、中でもアカデミー作品賞、監督賞ほかを受賞したスコットランドの独立運動の壮絶な物語「ブレイブハート」(1995年) は、見る者皆を圧倒する傑作であった。その後も「パッション」(2004年)、「アポカリプト」(2006年) という作品を監督したが、この映画は前作から 10年を経て彼が世に問う作品である。予告編で明らかであったことには、これは戦争映画であり、なんでも、武器を持たずに戦場に出て、傷ついた仲間たちを救った男の物語。驚くべきことに、実話に基づいているという。これは、私の席の隣のオジサンならずとも、是非に見るべき作品だと思って見に行ったのであるが、想像通り、いやそれ以上に重い内容の映画であり、これを見てしまうと、しばらくは虚脱感に見舞われて何もする気にならない人がいてもおかしくないと思うくらいである。これが昨年 9月にヴェネツィア国際映画祭で記者会見に臨んだギブソン。当時 60歳にしては皺が深くて、私が以前「ブラッド・ファーザー」の記事で彼の顔について書いた、「この皺はメイクだろう」という推測は、実は間違っていたようだ。
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この映画のタイトルの意味であるが、Hacksaw は弓状のノコギリのこと。Ridge は尾根のこと。つまり、ノコギリ状に切り立った断崖のことを指している。この写真は、左が実際のハクソー・リッジ。右が映画の中のハクソー・リッジ。
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映画の舞台は、このような断崖を登って攻める米国軍である。時代はどうやら第二次大戦中であるので、戦っている相手は当然日本軍であり、つまり戦いの舞台は太平洋のどこかだ。では、このハクソー・リッジなる断崖は、太平洋のどこにあるのだろう。フィリピンかサイパンか。いやいや、答えは沖縄。この映画は、沖縄戦に関する逸話を扱ったものであったのだ。沖縄戦と言えば、もちろん私たち日本人にとっては、終戦間際の追い詰められた状況での、多大な犠牲を出した凄惨極まりない戦いとして、常に痛恨の思いとともにある戦い。そんな戦いにおける米国軍を描いた映画を、果たして冷静に見ることができるであろうか。

ハクソー・リッジとはもちろん米兵のつけた名前であり、日本名は前田高地。首里城の北側であり、現在は浦添市というところにある。この前田高地の絶壁自体はその後の開発か何かで、現在は既に削られてしまっているようだが、ネット検索すると、沖縄戦の戦跡として訪れる人も結構いるような場所なのである。沖縄戦の悲惨なイメージからすると、日本軍の防御は米国軍 (いや、実際には連合国軍だ) によって軽々と突破されたのかと勝手に思っていたが、そうではなく、追い詰められた日本軍の攻撃は非常に激しくて、前田高地の攻略にあたり、連合国軍は何度も撤退を余儀なくされているのである。主人公デズモンド・ドスが現地に到着したとき、「6度攻めて 6度退却した」というセリフが出て来る。ということはつまり、連合国軍側にも多くの犠牲が出た戦いであったわけだ。そのことがこの映画を理解する大前提となる。どんな戦いにも勝者がいて敗者がいる。だが、勝者の場合にも、そこには必ず死者がいて負傷者がいる。そしてその死者たちや負傷者たちには、それぞれ家族がいて、かげがえのない生を送ってきているのである。いつの時代にも絶えることがない戦争の悲惨さの本質はそこにあるのだということを、この映画は仮借ないリアリティを持って描いているのである。
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主人公ドスは、その信仰上及び個人としての信条から、戦場に赴いても武器を持つことなく、衛生兵として傷ついた戦友たちを救うことを自らの使命にすることを誓う。だが軍隊の訓練においては、銃器を持たないことなど、兵士として許されるわけもない。ドスは周辺や上官からのいじめや罵りに耐え、軍法会議すらも思わぬ助けによって切り抜けて、本当に武器を持たない衛生兵として戦場に赴くのである。映画の前半では、ドスの幼少期に始まり、家族の間の微妙な関係や、ひとめぼれしてプロポーズする看護師との愛情が描かれ、これは実にテンポよくまた無駄がなくて、見ているときにはそれほど重要とは思わなかったが、今思い返してみると、ドラマの流れの中で必要な情報をきっちりと伝えている必要不可欠な部分であったのだ。もしこのようなシーンがなければ、ドスの戦場での行為は単なる美談としてしか描きようがないが、彼の人間としての弱さや家庭の事情、過去のトラブルといった要素が前半に描かれるからこそ、この映画のメッセージの重さ、つまりは人間は決して聖人君主ではないが、いくつかの条件が揃うと、想像もできないような勇気ある行動も取ることができるのだ、ということが理解できるのである。私としては、この前半部分があるゆえに、この映画は傑作であると言いたいのである。これはプロポーズするドス。
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そして後半には、とても正視できないような地獄絵図が延々展開する。上述の通り、ここでは敵が日本軍であることもあり、この戦場のシーンに嫌悪感を持つ人がいてもおかしくないだろう。実際、ここでの日本人は、獰猛であり姑息であり、攻撃を受けない建物の中では場違いなほどくつろいでいたり、一方で敗北を認めると自ら腹を切る、異様な人種として描かれている。その意味では、日本人はここでは米国人から見た「敵」という遠い存在という性格を明確に持っているのである。だが、それでも私は、それをもって日本人がこの映画の価値を低くみるとすれば、かなりもったいないことだと思うのだ。実際のところ、銃弾が縦横に飛び交い、鮮血と肉が激しく飛び散る戦場で、傷ついた味方を助けて避難させるという行為は、これはもうなんとも虚しい行為であるとしか言いようがない。そもそも大多数が死んで行く中で、ごく少数の命を救うことは、それだけで徒労に近い行為とも言えよう。たとえ発見したときに息があっても、次の瞬間にはその息は途絶えているかもしれないし、死ぬ運命の人を助けている間に、より生き残る可能性の高い人が苦しみ続けているかもしれない。あるいは、懸命に担いで救助している途中で、助けている仲間も自分自身も、敵に撃たれて死ぬかもしれない。そのような途方もない徒労感を表すには、敵が敵として脅威の存在である必要があり、何よりも、戦場で戦っていた兵士たち自身がそのように敵を見ていたであろうから、ここでの日本兵たちは、飽くまでそのような「敵」である必要がある。この映画が提示しているのは、だが、敵である日本兵を憎む感情では決してなく、敵も味方も悲惨な状況に陥ってしまうそのどうしようもなさ、つまりは、歴史が人間に強いる抗えない残酷な運命であろう。それゆえ彼が結果として実に 75人の味方の命を救ったという事実は、爽快感としてではなく、徒労感の果ての重い感動として、見る者の胸に迫る。尚、この映画では CG はほとんど使われておらず、爆発シーンは本物の火薬によるものらしい。
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このような役を演じる役者には、ヒーローを演じる力だけでなく、人間的なリアリティを出せる独特の個性が不可欠だ。ここでメル・ギブソンが選んだのは、つい先ごろの「沈黙 - サイレンス -」での熱演も記憶に新しい、アンドリュー・ガーフィールド。もちろん出世作は、「アメイジング・スパイダーマン」の 2作であるが、本当にいい役者に成長したものである。命を奪うためではなく、命を救うために戦場に赴き、途方もないことをやってのけた実在の人物を、このようなリアリティで表現できるとは、素晴らしいことだ。
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ひとつ興味深い偶然がある。彼の前作「沈黙 - サイレンス -」は、悲惨な状況においても敬虔な信者の前に姿を現さない神の「沈黙」をテーマにしたものであったが、実はこの「ハクソー・リッジ」においても、主人公ドスが、この悲惨な戦場において同じような感情に囚われるシーンがあるのである。違うところはその先で、ここでのドスは神の沈黙を跳ねのけるように、狂気とも思える戦場での奔走にその身を捧げるのである。

この映画ではまた、父親役のエージェント・スミス、あ、違った、ヒューゴ・ウィーヴィングや、上官役のサム・ワーシントンなどの役者がそれぞれの味を出していて素晴らしい。妻役のテリーサ・パーマーは、まさに映画における紅一点である (あ、ドスの母親役もいるが・・・)が、目立ち過ぎず、よい存在感である。「聖杯たちの騎士」にも出ていたようであるが、あまり覚えておらず、申し訳ありません (笑)。
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それから、エンドタイトルを見ていて気付いたのは、"In memory of" (つまり、この映画によって追悼の意を捧げる故人) として 2人の名前が出ていたが、そのうちのひとりがジェームズ・ホーナーであった。彼は現代ハリウッドの映画音楽の大家であったが、2015年に 61歳で死去した。自ら操縦していた飛行機の墜落によるもので、私も当時、その死に驚いたものであったが、改めて、彼が音楽を提供した映画のリストを見ると、本当に多彩で素晴らしい。中でもメル・ギブソンとのかかわりは、「ブレイブハート」「アポカリプト」の 2本の監督作に加え、「身代金」のような出演作もある。その他、この映画の出演者であるサム・ワーシントンの出た「アバター」や、アンドリュー・ガーフィールドの出た「アメイジング・スパイダーマン」も含まれている。ホーナーの映画音楽は、例えばジョン・ウィリアムズのように誰の耳にも残るメロディは少ないかもしれないが、間違いなく、現代ハリウッドの映画作りの重要なパートを担った人物であった。私のようにオーケストラ音楽が好きな人間は、映画のタイトルに音楽担当として彼の名前が出て来ると、ワクワクしたものであった。この映画とは直接関係しないが、文化逍遥の一環として、ここで彼の写真を掲げておこう。
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さて、上で触れた通り、昨年のヴェネツィア映画祭でメル・ギブソンはこの作品に関連した記者会見を行ったが、そこでは大変興味深い発言が見られるので、少しだけ要約・引用しよう。

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すべての能力のカギとなるのは、緊張を解いてくつろぐことだ。年齢と共に人は退屈していくから、リラックスする必要がある。自分の受け持つ領域を知ることだ。それが上手くいけば、良くなることができる。だがいつでもそれが起こるわけではなく、時には悪い方向に大きな一歩を踏み出してしまうこともある。私がそうだった。何か良いことをして、その後なぜか、良いとは言えないことをする。多分それが人生なんだ。

スクリーン上で戦闘シーンを描くときに大切なことは、明確であること。混乱しないようにすることだ。混沌と混乱の印象を与えるが、観客に見せたいもの、そして一連のシーンから何を取り出したいのかを、絶対的に明確にしなくてはならない。これが映画監督のすべてだ。演者が誰であるかを知ること。スポーツ競技のように取り組む必要がある。
UNQUOTE

前段は自らのそれと照らし合わせた人生における哲学、後半は映画監督の技術的な側面について語っている。内容は対照的ではあるが、いずれも虚飾のない、素晴らしい言葉ではないか。このような言葉を発することができる人であるから、これだけの内容の映画を作ることができるのである。是非近いうちに次回作を撮ってもらいたいものだと願わずにはいられない。

by yokohama7474 | 2017-07-13 23:37 | 映画 | Comments(0)

マルク・ミンコフスキ指揮 東京都交響楽団 2017年 7月10日 東京文化会館

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今回東京都交響楽団 (通称「都響」) の指揮台に立ったのは、1962年生まれのフランス人指揮者、マルク・ミンコフスキ。このブログでも、前回同じ都響を指揮した際の演奏会と、金沢で指揮をしたロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の演奏会形式上演を絶賛した。このミンコフスキ、私のイメージでは古楽の指揮者として名を上げた人だが、その経歴はウィーン・フィルやベルリン・フィルの指揮を含め、現代楽器の通常オケでも活発な活動を展開しているのである。この都響との共演は今回で 3回目。前回の演奏会は 2015年12月16日付の記事で採り上げたが、その前、つまりは最初の顔合わせのときにも私は聴いていて、いずれの機会においても、この人が現代を代表する素晴らしい指揮者であると実感したものであるのだが、今回またそこに新たな感動が加わった。この演奏会でミンコフスキと都響が採り上げた曲目は以下の通り。
 ハイドン : 交響曲第 102番変ホ長調
 ブルックナー : 交響曲第 3番ニ短調 (ノヴァーク 1873年初稿版)

一言、この人はすごい指揮者である。このような天才の演奏を、今の都響のような練れた音を出すオケで聴くことができるとは、東京の聴衆は本当に恵まれている。だが奇妙なことに、ミンコフスキと都響の共演は今回はこの演奏会 1度きり。もしかするとミンコフスキはどこかの地方オケでも振りに行くのかと思って全国のコンサート予定を調べてみたが、ほかのコンサートは発見できなかった。ということは、本当にこの 1回のコンサートを振るためだけに来日したものであろうか。もしそうなら、都響を気に入っていなければ実現しないこと。演奏後の彼の動作を見ていると、相当にこのオケを高く評価している様子が伺える。大変相性のよいコンビであると思う。
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最初のハイドンでは当然、古楽的なアプローチが聴かれるかと思いきや、ヴァイオリンの左右対抗配置はいつものようにあったものの、冒頭の序奏の部分から弦楽器はヴィブラートをかけて演奏している。いやその音の実に見事なこと!! このような演奏を耳にすると、演奏スタイルなど大した問題ではなく、要するに、よい音楽とそうでない音楽があるだけだと思う。序奏の最後にフルートが響いて鮮やかな主部に入ると音楽は一層充実度を増し、音楽はさらにその先へ。その演奏の素晴らしさは、思い出しても身震いするほどだ。そうして、全休止のあとまたフルートがオケを始動する。その呼吸の素晴らしいこと。正直、聴いているうちに私は何か空恐ろしい感じすらして来た。この曲はハイドン円熟期の傑作のひとつで、いわゆるロンドン・セットという最後の 12曲の交響曲のうちでも、最後から 3番目のもの。あだ名がついていないため、あまり知名度が高くないかもしれない。しかし、疾走感とユーモアに溢れた、いかにもハイドンらしい曲であり、オケにとっては水際立った技術を披露するにはうってつけだが、うまく流れないとかなり悲惨なことになりかねない。ここで私が思い出すのは、この都響のいわば「中興の祖」ともいうべき実績を残した指揮者、若杉弘が、1986年に都響の音楽監督に就任したときに、オケのレパートリーにとってのハイドンの交響曲の大事さを強調していたことだ。その若杉自身も時折ハイドンを採り上げていたが、正直なところ、当時の都響と今の都響とではあらゆる点で違いがある。そう思うと、過去 30年のこのオケの進化には目覚ましいものがあることに改めて思い至る。隅々まで清冽な音で全曲を振り終えたミンコフスキは、まずはフルート、そして木管奏者たち、加えて金管奏者たちまで起立させた。また、見事なソロを聴かせたチェロ奏者にも最大限の敬意を表していたのである。

休憩後のブルックナーは、前回彼が採り上げた第 0番に続き、今回は第 3番。しかも、珍しい初稿による演奏だ。ブルックナーの版の問題は非常に複雑で、正直、私もよく理解していない。だがこの曲の場合には、初稿、第 2稿、第 3稿とあるものの、多くは第 3稿による演奏で、初稿は (第 4番、第 8番の初稿と並んで) ほとんど演奏されないものと整理している。その珍しい初稿によってブルックナー全集を初めて録音したのが、現在この都響の桂冠指揮者であるエリアフ・インバルだ。私も学生時代にこのインバルの録音を衝撃をもって聴いた口だが、この 3番の場合、そもそも曲想に野性的な面があるため、その聴き慣れない版ゆえの衝撃もひとしおであったのを覚えている。こんなジャケットであった。
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そのインバルは日本では、1989年にベルリン放送交響楽団 (現在のベルリン・ドイツ交響楽団) を指揮してこの 3番の初稿を実演で披露し、私も聴きに行ったものである。その後彼は都響でも同じ版を演奏したはずだが (1997年)、そのようなインバルの努力にもかかわらず、この曲のこの版は、日本ではそれほどポピュラーになることなく今日に至っている。録音では、ロジェストヴェンスキー、ティントナー、そして先日読響を指揮したシモーネ・ヤングらによるものがあるが、多分世界的にも未だポピュラーとは言えないだろう。ブルックナー・ファンは既にご存知の通り、この曲は「ワーグナー」交響曲と呼ばれることがあり、それは、ブルックナーが憧れのワーグナーに初めて会ったときに 2番と 3番のスコアを見せ、「トランペットで始まる方」、つまりこの 3番がよいと誉められたため、感激したブルックナーはこの曲をワーグナーに献呈したことによる。私は個人的には、あの尊大なワーグナーが本当に当時無名のブルックナーの交響曲のスコア 2曲に目を通したか否かは疑問に思わないではないのだが (笑)、いずれにせよ、このことによってブルックナーが受けた刺激により、音楽史は、前代未聞の神秘性に入って行くブルックナーの後年の交響曲を得るに至ったとは言えるのではないか。これが、バイロイトにおけるこの 2人の作曲家の出会いをシルエットで描いたもの。
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それから、この第 3交響曲に関しては、初演 (第 2稿による) の際にブルックナー自身がウィーン・フィルを指揮したものの、多くの聴衆は理解できずに演奏の途中で帰ってしまったが、最後まで残って拍手を送ったのが、当時ウィーンでブルックナーの弟子であったグスタフ・マーラーであったというのも、有名な逸話である。さてこの初稿、私も今回久々に耳にしたが、後の版では削除されてしまったワーグナー作品の引用があるという。なるほど、確かに「ワルキューレ」や「タンホイザー」に近い音響を確認することはできたが、これはそのままの引用ではなく、いわばオマージュのようなものだろう。よく指摘されるように、ワーグナーとブルックナーは、その創作指向は (分厚い音を鳴らす以外には) 共通点はほとんどなく、ワーグナーは交響曲をほとんど書かなかったが、ブルックナーはオペラを 1曲も書かなかった。だから私はこの曲が「ワーグナー」と呼ばれることをあまり意味あるとは思っていない。それよりも、この曲でブルックナーがまさに音楽史において前代未聞の境地に入っていったこと、それこそが意味あることだと思うのである。従って、初稿によってこの曲を聴くと、その突然の全休止や、とりとめなく響く頻繁な楽想の変化、そして聖なるものと俗なるものの混在に、実に野性的なものを感じるのである。後年に至っての改編により、音響が整理された第 3稿が、私にとっては大いに耳に馴染みがあるので、この初稿を聴いてみると、メロディや曲の大まかな流れには後の版とほぼ同じであるのに、細部のメリハリや展開の説得力においては、不満が多いという印象が正直なところ。だがそれゆえにこそ、今回のようなミンコフスキと都響のような、隅々まで充分に音が鳴った演奏で聴くことで、ブルックナー本来の音楽というものに迫ることができるのだと思う。オケ全体による大音響の爆発力から、そこに浮かぶ木管の呼吸のよさ、また、後の稿にはない弦楽器の細かい音型の掛け合いに至るまで、どの場面にも演奏家たちの明確な意志が見える。そして終楽章の大詰め、後年の版ではさらに周到に設計されたクライマックスが、ここでは意外とあっさり終わるまで、ミンコフスキはそのずんぐりむっくりしたブルックナーそっくりの体型で必死に棒を振り、全身全霊をもってこの曲を終えたのである。そうして私は、上記の初演のときのエピソードを思い返していた。当時はウィーン・フィルでさえ、オケの技量は曲の真価を明らかにするには充分ではなく、また楽員の曲への理解も浅かったであろう。それに比べて、150年近く経過した今、極東の街に響くこの曲の初稿が、これだけのクオリティを持ち、またそれを聴いた聴衆たちも大喝采を送っている。これは文化の伝播であり進展である。恐らくミンコフスキも、これまでの 3回の都響との共演で、そのことを実感しているのではないか。であれば、今後も是非頻繁に来日し、その素晴らしい手腕を聴かせて欲しいものである。マルク・ミンコフスキ。文化に関心のある方々には覚えて頂きたい名前である。
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by yokohama7474 | 2017-07-11 01:09 | 音楽 (Live) | Comments(0)