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バイエルン国立歌劇場来日公演 ワーグナー : 歌劇「タンホイザー」(キリル・ペトレンコ指揮 / ロメオ・カステルッチ演出) 2017年 9月21日 NHK ホール

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ドイツ南部、バイエルン州の州都ミュンヘンにあるバイエルン国立歌劇場は、ドイツ国内はもちろん、世界的に見てもその歴史と実績において、まぎれもなくトップクラスのオペラハウスである。もちろん、ワーグナーはここバイエルンの国王ルートヴィヒ 2世の庇護を受けたわけだし、リヒャルト・シュトラウスはここミュンヘンの出身である。なので、この 2人の作曲家の作品群は、この歌劇場の宝である。指揮者陣も、ブルーノ・ワルター、ハンス・クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、ゲオルク・ショルティ、ウォルガンク・サヴァリッシュなどの歴史的巨匠たちが大きな貢献を果たして来た。私はこれまでにミュンヘンは 2回訪れていて、アルテとノイエの両ピナコテーク (要するに新旧の絵画館)、レーンバッハ・ハウス、画家フランツ・フォン・シュトゥックの旧宅などは訪問したが、残念ながらオペラもオーケストラコンサートも、ここでは経験したことがない。一度は、スメタナの「売られた花嫁」という、誰もが垂涎の超人気オペラとは思えない作品を見ようと思い、当日気軽にボックスオフィスに出向いたところ、既にソールドアウトで愕然とした。すると、当時このオペラハウスの音楽監督に任命されたばかりだった (と思う) 指揮者ケント・ナガノが、ボックスオフィスのすぐ横を関係者と話しながら通り過ぎて行ったのである。この話、特にオチはないが (笑)、そんなバイエルン国立歌劇場、通称ミュンヘン・オペラの 6年ぶり 7度目の来日公演が始まった。今回の目玉はなんと言ってもこの人、現在の音楽監督であるロシア人、キリル・ペトレンコである。
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既に、9月17日 (日) に東京文化会館で行われた、マーラー 5番をメインとするオーケストラコンサートの様子はこのブログでもご紹介したが、2019年秋にベルリン・フィルの首席指揮者・芸術監督に就任することが決まっているこの指揮者の初来日には、クラシック・ファンなら誰もが興味津々であろう。今回彼が指揮するオペラは、ワーグナーの比較的初期の作品「タンホイザー」である。今回私が聴いた 9/21 (木) が初日で、9/25 (月)、9/28 (木) と 3回の公演が開かれるが、実はすべて 15時開演。ホールと関係者のスケジュールの都合で、平日ばかりになったのは致し方なかったのだろうか。だが、平日のこの時刻ということは、務め人には非常にきつい。事前に調べると、恐らく週末公演がないという事情であろう、どの日もチケットは完売ではなかった。いかにペトレンコの話題性をもってしても、平日に大入り満員とはならなかったわけである。もちろん、海外一流オペラハウスの引っ越し公演の常で、チケットが高額であることも苦戦の要因であることは確かだろう。私はなんとか最安に近い席のチケットをゲットし、前広に有給休暇を取得することで、この公演に出かけることができた。

今回上演される「タンホイザー」は、今年の 5月にミュンヘンでプレミア上演されたばかりの新演出。1960年生まれのイタリア人、ロメオ・カステルッチが、演出のみならず、美術、衣裳、照明まで一手に手掛けるという才人ぶり。なのでこの舞台が面白くなければ、その責任はこの人が一身に背負うことになるのである (笑)。もともと舞台デザインと美術を学んだ人で、1981年から自らの劇団をイタリアで率いていて、オペラ演出を手掛けるようになったのは比較的最近のことらしい。この、ちょっとエゴン・シーレを思わせる (?) 風貌から、何かやってくれそうな気がするではないか。
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このあたりで私の今回の上演についての感想を一言で述べると、ちょっと戸惑った、ということになるだろうか。演出を面白かったと手放しで絶賛する気はないが、つまらなかったと一蹴する気もない。また、歌手陣、それからペトレンコ指揮するオーケストラも、すべて完璧ということではなかったと思うが、興味深い箇所はあれこれあった。全体として成功と評価すべきか失敗と評価すべきか、ちょっと難しいというのが私の率直な感想なのである。

まず演出は、ちょっと驚く場面には枚挙にいとまがない。冒頭、序曲のシーンから動きがある。舞台全面に白い布が下がっているのだが、そのほんの一部分だけ、よく見るとシミのようなものがある。これは実は、その布の向うにある何かのシルエットであるのだ。その後、バッカナール (ワーグナーが本作をパリで上演する際に作曲した、序曲から続くバレエシーン) では、その「何か」が大量に現れて、ほとんどの観客がのけぞるだろう。映画の記事と同じく、ここはネタバレなしで行きたいのだが、ネット上やコンサートのチラシでも、既にこのようなヴィジュアル・イメージがあちこちにばら撒かれている。
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イタリアのデザイナー、フォルナゼッティを思わせる人の顔の一部アップに、何やら針灸のようなものが突き立っている!! と思うと、舞台前面には、弓を引いている女性たちがズラリと並んでいる。しかも、舞台から遥か遠くの私の席からは見えなかったが、彼女らは上半身裸?!とも見える写真がある。ここで印象づけられるこの上演の舞台設定は、神話の世界か、あるいは古代の祭祀 (例えばドルイド教) の世界であって、キリスト教やヨーロッパ中世というイメージとは程遠い。それから、最近の演出で重要な要素になっているのは、機動性というか、有体に言えば、舞台装置をなるべく簡素にすることであるようだが、その点でもこの演出は模範的。舞台装置はほとんどなく、今回もミュンヘンからのセットの運搬費は、それほど高くついていないだろう (笑)。だが、ヴィジュアルの作り方は非常に凝っていて、上の写真で写っている巨大な目は、気が付いたら耳になっているし、そのあとは、木の枝にも見える単色の絵画に変わって行くのである。その流れで行くと、第 2幕のこの映像がすごい。
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1幕の冒頭では月の象徴かに見えた背後の円形に、ここでも何か人体の一部のような映像が投影されているのだが、それが回転して、血のような赤い色が同心円を描いて流れて行く。私が見た線の描かれ方は、上の写真とは違っていたので、何らかの偶然性に任されているのであろう。どのような仕掛けなのか皆目分からないが、視覚的なイメージとしては強烈である。その他の忘れられない映像をいくつか挙げると、このジャバ・ザ・ハットをもっとヌメヌメさせたような (?) ヴェヌス。因みにこのシーンでは舞台前面に紗幕がかかっていて、紗幕を嫌悪する私としては、この点ばかりは苛立たしいことこの上ない。
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第 2幕では、「マグマ大使」に出て来る人間モドキ (古い!!) のような全身タイツの黒子が大勢現れ、一糸乱れぬ組体操 (?) を見せるのだが、これはどうも、バラエティ番組におけるコントのようで、ちょっとどうかと思ったものだ。大きなレースのカーテンが舞台上で何枚も動きながらそよいでいるというイメージは美しいだが、その前で、こらこらアナタたちは一体何をしているの??? という感じ。せっかくの歌の殿堂での大行進曲が台無しではないか!!
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第 3幕は一転して終始暗い中で展開するのだが、なんとも奇妙なことに、タンホイザーやエリーザベトの背後で、2つの台にとっかえひっかえ、死体らしきものが一対ずつ置かれて行く。私の席からは詳細は見えなかったが、これはどうやら、日本でいう九相図のようなものではないか (興味のある方は、是非谷崎潤一郎の「少将滋幹 (しょうしょうしげもと) の母」を読まれたい)。最初は死後間もない死体に始まり、徐々に肉体が崩壊して行って、最後はこの写真のように骨になるまで。無常感を覚える。
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さあ、非常に限定的な舞台装置で展開するこれらの視覚イメージは、いかがであろうか。ひとつ言えることは、ドイツの劇場でのワーグナー上演にありがちな (あるいは、かつてはありがちだった?)、過剰かつ不必要に原作の設定から遠ざける、いわゆる読み替え演出というものとも少し違っていて、音楽の流れを邪魔するには至らないということだ。個々の場面の意味はよく分からないが、そうであっても何か刺激的なものを見ているという感覚はある。なので、その点は評価できるだろう。あとは、この「タンホイザー」という作品のメッセージをどう受け止めるかということではないか。上で見た通り、ここではヴェヌスは美しい魅惑的な女性ではなく醜悪だし、歌の殿堂はさっぱり盛り上がらないし、タンホイザーがローマから失意のうちに戻ってくるときには、既に誰も希望を抱いておらず、友人ヴォルフラムによる「夕星の歌」は、あたかも夜の闇の中で過去を惜しむように響く。どこか常に現実感を欠く印象となってしまっている。だから、面白くない演出とは言わないが、目から鱗ということにも、少なくとも私の場合はならなかった。

一方、歌手たちにも少し課題があったのではないか。なんと言っても主役を歌うクラウス・フロリアン・フォークトは、現在活躍中のテノールで、昨年の新国立劇場でも「ローエングリン」を歌っており、また、来年 4月の東京・春・音楽祭でも再び同じ役を歌うようだ。だが私はどうも彼の線の細い歌唱が苦手で、時に音程までもが怪しくなるように聴こえてならないのだ。美しい箇所もいろいろあるのだが、昔聴いたルネ・コロのような説得力は、残念ながら感じない。エリーザベトのアンネッテ・ダッシュは標準の出来で、まあこれも、バイロイト音楽祭の来日公演 (ジュゼッペ・シノーポリ指揮) でこの役を演じたシェリル・ステューダーが第 2幕で登場したときの衝撃を覚えていると、さすがに分が悪い。よかったのは、もちろんヴォルフラム役のマティアス・ゲルネ (そう言えば先日のマーラー 5番の演奏会では客席で聴いていた) と、領主ヘルマン役のゲオルク・ツェッペンフェルトといった、バス・バリトン陣であったろうか。

そしてペトレンコの指揮するオーケストラであるが、これも正直、ちょっと評価が難しい。冒頭はもっと重く始まるかと思いきや、ハーモニーを重視した意外とスムーズな流れであり、その後バッカナールに入っても、狂乱のイメージはそれほど沸き立ってこない。オーケストラが鳴っていないわけではないのだが、流れをうまくコントロールしようという意図のように聴こえた。また、上記の通り、第 2幕で大いに盛り上がるはずの大行進曲も、視覚的な要素も関係しているのか、推進力に圧倒されるには至らなかった。ただ、第 3幕の暗い舞台を這って行くようなオケの音には、何やら鬼気迫るものがあったと思う。ここには「パルシファル」や「トリスタン」を先取りする雰囲気があって、ペトレンコの指揮は、そのような深い表情に聴くべきものがあったのではないか。

我々は未だこの指揮者を充分体験できていない。今後様々な彼の演奏に触れてから、また今回の「タンホイザー」を思い出すこともあるかもしれない。演出を含め、「あ、あれはこういうことだったのか」と思う日が来るかもしれない。なので、この日の印象を心に留めておきたい。これは今回の記者会見の際の写真であるが、5月に本拠地で初演されたばかりのホヤホヤの演出を、現地と同じメンバーで 4ヶ月後にいながらにして聴くことができる我々東京の聴衆は、実に恵まれていると、改めて思うのである。だからと言ってすべて大絶賛ということではなくて、つまり、過度に有り難がることなく、問題意識をもって見ることができるのが、オペラの醍醐味なのである。あーあ、現地でも見たいなぁ。
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by yokohama7474 | 2017-09-22 01:42 | 音楽 (Live) | Comments(0)

レオナルド × ミケランジェロ展 三菱一号館美術館

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東京、丸の内の三菱一号館美術館で開かれているこの展覧会、会期は 3ヶ月以上あったのだが、ふと気づくと今週末で終了してしまう (東京のあと岐阜市歴史博物館に巡回)。私が訪れてから随分と時間が経ってしまったが、どのような展覧会であったのか、振り返ってみようと思う。

西洋美術史上知らぬ者とてない、いや、西洋美術に興味がなくとも誰もが知る、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ・ブオナローティ、この 2人の巨匠の作品を展示しているということで、そもそもが展示スペースが狭いこの美術館が大混雑になることを恐れつつ、訪問することとした。案の定、最初に訪問した週末には、建物の外にまで人の列ができていた。そこで一計を案じ、政府が推し進める働き方改革のひとつであるプレミアム・フライデー、つまりは毎月の最終金曜日には早く会社を出ようという運動に従って、定時前に会社を退出して美術館を再訪したところ、すいている!! 私の場合はこのプレミアム・フライデーをいつも有効活用しているのであるが、今回も大変に大きな成果があった。東京における経済活動にささやかながら貢献するとともに、自らに文化的刺激を与えることができたのである!! なんとも模範的国民ではないか (笑)。

さて、最近の展覧会ではよく写真撮影 OK のコーナーがあって、入場前にロッカーに手荷物全部を預けると、後で後悔することがあるが、今回もしかり。一旦展覧会を出てから荷物を取り出し、スマホと半券を握りしめて会場に戻り、撮った写真がこれらである。
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この美しい大理石の彫刻は、展覧会の最後に展示されている、ローマ郊外のバッサーノ・ロマーノという都市にあるサン・ヴィンチェンツィオ修道院付属聖堂が所蔵する、ミケランジェロの「十字架を持つキリスト (ジュスティアーニのキリスト)」 の実物である。制作は 1514 - 1516年。ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会のために制作されたが、制作過程で顔に黒い傷が現れたため (確かに上の写真でも写っている) 途中で放棄された。ミネルヴァ教会には今日、ミケランジェロの手になる別の完成作が置かれているが、この未完成の像の方は、依頼主の貴族の子孫によって売りに出され、その後つい最近までは所在が明確でなかったところ、2000年になってから、この像がそのミケランジェロの未完成作を 17世紀の彫刻家が完成させたものであると認定されたという。尚、この像のニックネームにあるジュスティアーニとは、この像が安置される聖堂を建てた、聖職者兼美術収集家の名。実はこの像を完成させた 17世紀の彫刻家とは、当時そのジュスティアーニのもとにいた、若き日のあのバロックの天才ベルニーニであるという、ちょっと出来過ぎの説もあるという。ともあれ、静かな展示室でこのような素晴らしい彫刻と向かい合う時間は、本当に貴重なものである。

この彫刻のほかの展示品にはスケッチなどの小品がほとんどのであるが、もちろんそれは当然のこと。ダ・ヴィンチとミケランジェロのオリジナルの油彩画を持って来るようなことになると、この敷地面積の狭い美術館は人でごった返してしまうだろう。そうではなく、ひとつひとつの紙片に天才たちの息吹が生々しく感じられる距離で接することを楽しむことこそ、この展覧会の醍醐味である。あまりに混雑していては、その貴重な時間を持つことができなくなってしまう。ポスターにあしらわれている 2点を見てみよう。これは、ダ・ヴィンチの「少女の頭部 / 『岩窟の聖母』の天使のための習作」(1483 - 1485年頃)。「この世で最も美しい素描」とも言われているらしい。
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「岩窟の聖母」は、よく知られている通り、ルーヴル美術館にあるものとロンドンのナショナル・ギャラリーにあるものとの 2点が残されているが、このスケッチは前者のもののようである。よく見るとこの 2作において、画面向かって右側にいる天使の顔の角度が (それから、姿勢そのものも) 違っているからだ。以下、上がルーヴル、下がナショナル・ギャラリー (あ、もちろん、どちらもこの展覧会には出品されていません!!)。
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そしてこれは、ミケランジェロの「『レダと白鳥』の頭部のための習作」(1530年頃)。これも美しいが、どうやらモデルは男性で、ミケランジェロの弟子であるらしい。下にはまつ毛を長くしたところを描いていて、より女性らしく見える工夫をしているようだ。この「レダと白鳥」は既に失われてしまった作品であるが、ダ・ヴィンチの同名作と併せ、あとでまた触れることとしたい。
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これも貴重な作品で、ダ・ヴィンチの「天使のための習作」(1470年代)。師であるアンドレア・デル・ヴェロッキオの「キリストの洗礼」(ウフィツィ美術館蔵) の画面左側に、若き日のダ・ヴィンチが描いた天使のスケッチである。
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この天使のあまりの美しさが評判になって、師匠を顔色なからしめたとは有名な話。完成作 (もちろん本展には出品されていません) はこんな感じ。確かに美しい。
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以前、アルチンボルド展の記事でも少し触れたが、ダ・ヴィンチは恐ろしいまでの写実性を持った芸術家であったが、その写実性は、ただ美しいものだけを描くためにあるのではなく、人間心理の真相に迫るような表現にも駆使されている。これは「老人の頭部」(1510 - 1515年頃)。老人の人生がそこに透けて見えるような顔は、実にリアリティがあり、またその一方で、まるでエイリアンのような不気味な顔なのである。
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事物のリアリティを求めるダ・ヴィンチの模索のあとは、膨大な紙片に残されているが、これは「顔と目の比率の研究」(1489 - 1490年頃)。文字はもちろん、鏡文字 (鏡に映して通常の文字になる、つまりは裏返しの文字) で書かれている。
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ダ・ヴィンチに比べるとミケランジェロはより人間くさいところが魅力である。これは「『トンド・ドーニ』の聖母のための頭部習作」(1504年頃)。
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「トンド・ドーニ」とは、ウフィツィ美術館所蔵になる板絵の聖家族の肖像の愛称で、このような、一度見たら絶対忘れないユニークな構図の作品だ。あ、もちろんこれも展覧会には出品されていません!!
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ミケランジェロの素描をあと 2点。「システィーナ礼拝堂天井画『ハマンの懲罰』のための人物習作」(1511 - 1512年頃) と、「背を向けた男性裸体像」(1504 - 1505年)。お得意の筋肉表現は力強いが、常に人間性が感じられる。
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ミケランジェロの小さめの彫刻がいくつか展示されている。これはフレンツェのカーサ・ブオナローティ (日本語では「ミケランジェロの家」と呼ばれる) 所蔵の「河神」(1525年頃)。顔や腕、足の一部を欠くトルソであるが、これでも復元されたものであるという。完成作ではなく「三次元モデル」(大作用に試作するものであろう) であるらしいが、それでもいかにもミケランジェロらしさが見て取れる作品だ。
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これはダ・ヴィンチの「髭のある男性頭部」(1502年頃)。ローマの軍人・政治家であったチェーザレ・ボルジアの肖像かとも言われているが定かではない。ここでもやはりダ・ヴィンチの筆致は容赦なく人間の内面を抉り出している。
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さて、ダ・ヴィンチとミケランジェロはともに、「レダと白鳥」のテーマによる油彩画を作成したが、現在ではいずれも失われてしまっている。だがいずれも模写が多く作成されたことで、今日でもそのイメージを持つことができる。これは作者不詳の「レオナルド・ダ・ヴィンチに基づく『レダと白鳥』」(1505 - 1510年頃)。レダの謎めいた笑みがダ・ヴィンチ風だし、卵から生まれる天使たちの不気味さも面白い。ただ、白鳥はちょっと品がないようにも見える (笑)。
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こちらは、フランチェスコ・ブリーナという画家に帰属する「レダと白鳥 (失われたミケランジェロ作品に基づく)」(1575年頃)。メディチ家礼拝堂の「夜」を思わせる女性の人体表現であるが、健康的なエロスがある。
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両者とも、いわゆる美術のだけでなく、建造物の設計等の実用的な活動を行った。これはミケランジェロの「プラート門の要塞化のための計画案 / 人物習作」(1529 - 1530年頃)。人物像の上に建築プランを書いているようだ。でもその組み合わせが、不思議と彼の創作意欲を実感させるのである。
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こちらはダ・ヴィンチの「大鎌を装備した戦車の二つの案」(1485年頃)。彼は様々な武器や軍事用の機械を考案したが、これは大きな鎌を装備した戦車で、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァに提案されたもの。まるで人形を使ったイメージのように手足を切られる敵の姿を描いている点、諧謔味もあるが、少し冷徹さも感じさせるように思う。
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最後に、両者の手稿をご紹介しよう。これはミケランジェロによるジョヴァンニ・フランチェスコ・ファトゥッチ宛の手紙 (1526年 6月17日)。宛先の人物はローマ駐在のフィレンツェ大聖堂の司祭で、ミケランジェロの友人でもあった。上でも言及したメディチ家礼拝堂のあるサン・ロレンツォ聖堂についての実務的な内容である。力強い作品の数々を残した人であるが、文字は意外と繊細で丁寧に見え、彼の人柄を想像することができる。
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こちらはダ・ヴィンチの「蛾が飛び回る炎を前にする人物像 / 詩文による解釈」(1483 - 1485年頃)。この写真では切れてしまっているが、左上に、座っている女性とその回りを飛んでいる蛾を描き、そこに詩が添えられている。空中を飛ぶ能力にうぬぼれて、蝋燭の光に飛び込んで羽根を燃やしてしまう蛾の愚かしさを歌っているらしい。驚くのは、実利的な記述のみならず、詩作まで鏡文字で書いてしまうことだ。万能の天才には、いかなる文章でも、他人に覗かれたくないという願望があったのだろうか。それとも彼らしく、何か実利的な理由でもあったのであろうか。
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このように、偉大なる 2つの個性に間近で向き合える、素晴らしい展覧会である。既に期日は残り少なく、次のプレミアム・フライデーには東京での展覧会は既に終了してしまっているが、秋の岐阜に出掛けて行くという選択肢もあり、それなら、より静かな環境で鑑賞できる。中部地区の方々はもとより、首都圏の方々も、一考の価値ありではないだろうか。

by yokohama7474 | 2017-09-21 12:02 | 美術・旅行 | Comments(0)

ダンケルク (クリストファー・ノーラン監督 / 原題 : Dunkirk)

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映画を見る際にこだわるポイントは、もちろん人によって様々であろうが、以前からこのブログで述べている通り、私の場合は、見るべき映画の選択において最も重要な要素は、監督なのである。その意味でこの映画は、もちろん必見であることは論を俟たない。なぜなら監督は、あのクリストファー・ノーランであるのだから。私にとって、いや、映画が好きなあらゆる人にとって、彼は間違いなく現代最高の映画監督のひとりである。2000年の出世作「メメント」に驚嘆して以来、私は彼の監督作をすべて見てきたが、およそ失望させられたことがない。これは実に驚異的なことなのであるが、さらに驚くのは、彼が未だ 47歳であること。これからの 30年、40年は、私自身があと何年生きるかは別として (笑)、ノーランの映画が一体どこまで進化するのか、本当に見ものであると思う。
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既に大々的に予告編で上映されていた通り、この作品は、ノーラン監督初の実話もの。1940年、第二次世界大戦の未だ初期、ナチスドイツが破竹の快進撃を続けているときに、フランス北部、ドーヴァー海峡に面した港街ダンケルクに追い詰められて逃げ場を失った 40万人の連合国 (もちろん、英国とフランスがメイン) 兵士たちが体験した絶体絶命のピンチを描いている。これも散々予告編で見たことであるが、この監督は CG は基本的に使わない主義で、本当に病院の建物一棟を爆破したり、空中に吊るした航空機を途中で輪切りにしたり、無重力空間を作り出すために巨大な部屋のセットを作ってそれを回転させたり・・・。そんな監督が戦時中の実話に挑むと、一体どういうことになるのであろうか。桟橋にひしめきあって救援を待つこのような夥しい数の兵士たちは、ダンケルクに追い詰められた全体の人数の中の、ほんの一握りなのである。
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私が見たのは、今時珍しい 35mm フィルムによるヴァージョン。もちろんデジタル映像に慣れた目には、ピントが甘く見える。最初はそれが気になったのであるが、徐々にそれに慣れてくると、あたかも戦場で撮影したようなリアルさがひしひしと感じられ、それによって、見ているのが苦しくなってきた。それにはほかにも理由があって、この映画には気の利いたストーリーテリングはなく、セリフや音楽は最小限。また、時計が時を刻むようなチクタクいう音が最初から最後まで聞こえるのである。ここに登場する兵士たちは、自分たちが大きな危機にさらされていることは皮膚感覚で分かっても、では、いついかなるかたちで絶対的な危機が訪れるのか、あるいは、いかなる手段で自分たちが救出されうるのか、そういったことに想像力を巡らせることができない。それは全くの極限状態であり、人間の生存本能が剥き出しになる状況であろう。今、平和な時代の平和な国に住む我々には、そのような極限状態を理解できると言うなら、それはおこがましいというものだ。だからこそ、この映画で疑似体験することには意味があろうと思うのである。世に言うダンケルク救出作戦の、実際の写真がこれだ。もし自分がこの中にいたら、果たしてどのように行動していただろうかと自問する。
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この映画の顕著な特色のひとつは、敵であるドイツ軍の人間を一切映像で見せていないことだ。メッサーシュミットの戦闘機が飛んだりしている映像はあっても、そこで操縦しているパイロットは映らないし、それ以外のいかなる箇所でも同じこと。つまりここでは、迫り来る敵軍ドイツという想定はあっても、それが人間であるのか、はたまた抽象的な「敵」であるのかすら描かれていない。つまり監督の意図は、敵には敵の事情なり、命を賭けた戦いがあるという事実を描くのではなく、連合国軍兵士たちにとっての、顔の見えない敵の脅威を描くということであったと思う。戦争映画において、敵をいかに描くかは重要な問題であるが、この映画のように、敵を一切描かないことで、兵士の抱いた恐怖をリアルに表現する手法はなかなかに思い切っている。ここで観客は、当日その場にいた兵士たちと同じように、顔も見えず、いつ現れるか分からない敵に怯えつつ、早く戦場を抜け出したい!! と切望するのである。見ていて苦しくなるようなこのリアリティ、さすがクリストファー・ノーランである。

そしてこの映画のキャストは、そのほぼ全員が男性。当然それも、歴史的事実に基づくリアルな設定であろう。ここに登場する様々な兵士たちや、彼らを迎えに行く民間の船に乗った人たちが、それぞれに直面する危機に立ち向かう。時には複数の人物の複数の危機のシーンが同時並行で描かれる。そこにはもちろんノーランの演出の妙はあるのであるが、その地獄絵図の凄まじさに、観客はただスクリーンに釘付けとなるのである。それからもうひとつさすがだと思ったのは、若い兵士たちに新人俳優を多く起用し、観客にとっても、見知らぬ兵士の経験する危機という点でのリアリティが存在することである。しかも、どの俳優も本当に精悍だし、素晴らしい存在感がある。きっと彼らの中から明日のスターが生まれてくるのではないか。これはトミーを演じるフィン・ホワイトヘッド。
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それから、何人かの実績のある俳優たちが、互いに共演することなく、それぞれが素晴らしい存在感を発揮している。まずなんと言っても、使命感に燃え、クールに敵を撃破する空軍パイロット、ファリアを演じるトム・ハーディが最高だ。そして、海から救出される謎の英国兵を演じるキリアン・マーフィー。加えて、もともとのシェイクスピア劇から活動の幅を広げ、今や英国を代表する偉大なる監督 / 俳優であるケネス・ブラナーの演じる海軍中佐。いずれも素晴らしい。繰り返しだが、これらの俳優同士がこの映画の中で出会うことは、決してないのである。
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またここでは、極限状態に置かれた人間たちの弱い部分も仮借なく描かれている。そのような弱い人間を責めるのは簡単だが、自分の命が危ない状況で、一体どこまで命を捨てる覚悟ができるのであろうか。戦争の真実が、結局は人間の真実を赤裸々に暴くのだということは、人間の持って生まれた宿命なのであろうか。決して万人が楽しめる娯楽作にはなっていないこの映画が訴える虚無感には、現代に生きる我々がしっかりと受け止めなくてはならない要素が多々ある。眼と心を大きく開いて、過去の戦争の凄惨な歴史と、立派な行いをした人々の姿を、自らのうちに取り込みたいと思う。そんなことをストレートに思わせる監督の手腕に脱帽しながら。

by yokohama7474 | 2017-09-19 23:56 | 映画 | Comments(0)

チョン・ミョンフン指揮 東京フィル (ピアノ : イム・ジュヒ) 2017年 9月18日 Bunkamura オーチャードホール

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東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) の指揮台を今月、首席指揮者のアンドレア・バッティストーニと分け合うのは、このオケの名誉音楽監督のチョン・ミョンフンである。7月に彼がこのオケと行ったマーラー「復活」の名演についてはこのブログでもご紹介したが、9/15 (金) にはサントリーホールでまたその「復活」を演奏、今回 9/18 (月・祝) と 9/21 (木) の 2回に亘って彼が振るのはベートーヴェンである。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 3番ハ短調作品37 (ピアノ : イム・ジュヒ)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調作品55「英雄」

チョンと東フィルは、2002年にベートーヴェンの交響曲全曲を演奏し、それはライヴ録音になっているが、その初日のメインの曲目がこの「英雄」(エロイカ) であったようだ。そのライヴ録音自体は、私の記憶では、それほど瞠目の名演という印象でもなかったが、それから 15年を経て、この多忙な世界的名指揮者がこれだけ頻繁に東フィルの指揮台に立ってくれている事実や、最近何度も実際に耳にしたこのコンビの充実ぶりから推して、今回の演奏には大変期待ができる。そしてその期待は十二分に満たされたのだが、今回もまた若い優れたピアニストについてまず語ることをお許し頂きたい。今回日本デビューを飾ったピアニストの名前はイム・ジュヒ。名前とこのような外見から、若い韓国の女流ピアニストであることは分かったが、事前に何の情報もないままに会場に足を運んだ。
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そしてプログラムに掲載されたバイオを見てびっくり!! 2000年10月生まれとある。ということは、来月の誕生日でようやく 17歳になるという若さなのである。なんと 9歳のときにゲルギエフとマリインスキー劇場管と共演、2012年にはロンドン響の韓国ツアーのサプライズゲストとして登場、そしてチョン・ミョンフンとは既に何度も共演しているという、天才少女である。プログラムに掲載されている彼女の言葉を引用しよう。

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ベートーヴェンのピアノ協奏曲第 3番は、マエストロ (注 : もちろんチョン・ミョンフンのこと) と 13歳の時に初めて共演しました。沢山の思い出があります。皆さんに楽しんでいただき、思い出を共有していただけたらと思います。
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16歳の少女から思い出について言及あるとは、ちょっと早い気もするが (笑)、ともあれ 10代の音楽家にとって、チョン・ミョンフンとコンチェルトのソリストとして共演するということは、考えられないほどの名誉であろうし、韓国人ピアニストであればなおのこと、通常なら相当緊張するような事態だと思う。だが彼女の今回の演奏ぶりには緊張のかけらも感じられず、驚いた。いや、音楽を行う場に何国人とか何歳だとか性別がどうだとかいう区別が必要ないことは、いつもこのブログで私が主張していることであり、つまりはただその音楽の清冽な生命力に感銘を受けたということである。イムのピアノは本当に溌剌としていて臆するところがなく、明るい音で実にのびのびと音楽を楽しんでいて、このベートーヴェンとしては唯一の短調で書かれたピアノ協奏曲を、その悲劇性よりも生命力に重点を置いて表現した。もちろんミスタッチなど皆無であるだけでなく、この箇所はどう表現しようという迷いすら、一切見られない。これは非凡な演奏であったと言えるであろう。一方のチョンの伴奏は、これまた一切手加減のない強烈なもので、通常の協奏曲演奏なら、指揮台の手すりを取って、ソリストに顔を向けられるように指揮台自体を斜めにすることが多いが、今回はそれらはなく、後半の「エロイカ」と同じ指揮台の位置で、しかも指揮者は譜面台すら置いていない。若いソリストを優しく包むということではなく、丁々発止の勝負である。終楽章の大詰め間際の決め所でのティンパニの連打など、聴いたことのないくらいの迫力だ。そのようにして演奏を終えたイムは、ステージマナーだけは、未だ初々しい 10代のアーティストという感じで微笑ましく、ほんの 2度ほどステージから戻ってきたかと思うと、やおらアンコールを弾き出した。ヨハン・シュトラウスの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」であるが、なんともド派手なピアニズムを持った超絶技巧の曲に編曲されている。これはかつての名ピアニストであるジョルジュ・シフラが編曲したものであると後で知ったが、まさに伸び盛りのピアニストがその腕を存分に見せるという意味で、ここでは演奏者の若さを大いに称賛するべき内容の演奏であったと思う。これは、今回に先立つ文京シビックホールでの、同じプログラムでの演奏会のリハーサルの一コマ。自身名ピアニストであるチョンの薫陶を、若いイムは充分に受けたことであろう。彼女の思い出はまだまだこれから、偉大なものになって行くことは確実である。
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後半の「エロイカ」は、一言でいうと、疾走する荒馬のような音楽に仕上がっていて、凄まじい推進力を持つチョンの音楽が、献身的なオケの努力によって、まざまざとその威力を発揮した。そもそも彼の指揮ぶりには強い集中力があり、その指揮棒が空を切るうちに、徐々に熱を帯びて来るとすら感じられる時がある。今回のような、逃げも隠れもできない名曲において、チョンのような指揮者の真っ向勝負を聴くことは、そのまま音楽の持つ強い力を実感することにほかならない。彼の指揮ぶりは決して愛想のよいものではなく、場合によっては、昔のカラヤンのように、目を閉じてオケと目を合わせないように見えることもある。だが、その凝縮力、推進力は常にマックスに保たれているどころか、流れゆく音楽の場面場面で、オケのメンバーのインスピレーションを強く刺激していることは明らかだ。そして、ここぞという時には、グッと音楽の流れを引き寄せて、あたかも川の底を抉るようにして強い表現力を打ち出すことで、明らかに音楽の視野を広げてみせるのである。やはり、よほどお互いの意思の疎通がよくできる指揮者とオケの関係でなければ、そのような演奏は成立しないと思う。例えば今回の「エロイカ」では、第 1楽章展開部の後半や、第 2楽章後半で、弦が短い音を何度か強く奏する際に、ちょっと驚くような強調がなされることで、この 19世紀初頭に書かれた異形の大シンフォニーの神髄を聴くことができた。そう、この曲は 200年以上前に書かれたもので、オケの編成も至ってシンプル。木管はスタンダード (オーボエ、フルート、クラリネット、ファゴットが各 2本ずつ)、金管は、ホルンは 3本だがトランペット 2本で、当然ながらトロンボーンもチューバも (まだ) ない。打楽器はティンパニだけである。つまり、ハイドンやモーツァルトのシンフォニーと変わらない編成である (弦は、今回の演奏ではコントラバス 6本)。それなのに、音の勢いや、そこに込められた感情も、古典派としては異常なほどの域に達しているわけである。これまでに文字通り数限りなく聴いている曲であるにも関わらず、改めてそんなことを思わせる演奏には、音楽を聴く醍醐味を深く感じることができるとしか言いようがない。
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終演後にはすぐにブラヴォーがかかり、数人のファンはスタンディングオヴェーションを送るに至った。快演に対してチョンも満面の笑みであり、オケの全力演奏を労っていた。プログラムに載っているチョンのインタビューが感慨深い。

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東京フィルは適応性があってフレキシブル。アンサンブルが驚異的に素晴らしい。何度も言っていますが、東京フィルは私の日本の家族です。(中略) 今は、プロの指揮者として働くのではなく、個人的な理由で活動していきたいと思っています。そのオーケストラと特別に温かな関係があるとかでないと、そこには行きません。
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なんという素晴らしいコメントか。これだけの指揮者がこれだけの思い入れをもって東京にやって来て、東フィルを指揮してくれていることには、東京の一聴衆として、本当に感謝したい気持ちである。次のチョンの東フィルへの登場は、来年 1月。モーツァルトの「ジュピター」とベルリオーズの幻想交響曲だ。来年には 3月にインバルと都響も幻想を演奏するので、またまた東京の音楽界には活気が漲ることでしょう!! あ、もちろん、そこに至るまでにも、東京の音楽界は、それはもう大変なことになりますので、なんとか記事にして行きたいと思っています。思い出作りと言うには凄すぎる内容ですよね (笑)。

by yokohama7474 | 2017-09-19 01:29 | 音楽 (Live) | Comments(0)

キリル・ペトレンコ指揮 バイエルン国立管弦楽団 (ピアノ : イゴール・レヴィット) 2017年 9月17日 東京文化会館

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通常このブログでコンサートを採り上げるときには大抵、そのコンサートのチラシやポスターを冒頭に利用させてもらうのであるが、今回はそれが思うようにできない。というのも、一応チラシはあるにはあるが、このようなモノクロの地味なものなのである。
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これは、都民劇場という音楽サークルの主催によるコンサートであり、シリーズ券のほかに一回券も発売されたわけであるが、ご覧の通りあまり派手な宣伝にはならなかった。だがなんのことはない、会場に足を運んでみると完売御礼だ。その盛況の理由のほとんどは、冒頭に写真を掲げた指揮者にあるだろう。クラシックファンは先刻ご承知であろうが、このブログのポリシーに従って、一般の方でも分かるように説明すると、この 1972年生まれのロシア人指揮者、キリル・ペトレンコは、2018年からサイモン・ラトルの後任としてベルリン・フィルの首席指揮者・芸術監督に就任するのである。ベルリン・フィルの首席とは、音楽界広しと言えども、オーケストラのポジションとしては文字通り、世界に冠絶する最高のもの。今から 2年前の 2015年に決定したものだが、確かにペトレンコの名前は候補者のひとりに挙がっていたものの、何分録音も少ないし、日本に来たこともないので、私なども全くイメージがなく、全く想定もしていなかった。それゆえ、楽員による 2度の投票を経て彼が選ばれたのを知って、本当に驚いたものである。今回彼は、現在音楽総監督を務めるドイツ有数の名門オペラハウスであるバイエルン国立歌劇場 (ミュンヘン・オペラ) との公演で、初来日に臨むわけであるが、彼の指揮するワーグナーの「タンホイザー」は、9/21 (木) を初日として3回の上演。それ以外にアッシャー・フィッシュの指揮するモーツァルトの「魔笛」が 4回あるが、それら一連のオペラ公演の前と後に 1回ずつ、オーケストラコンサートが開かれる。今回私が出かけたのは最初のもの。つまり、記念すべきペトレンコの、日本での初めてのコンサートということになる。そして、曲目がまたすごい。
 ラフマニノフ : パガニーニの主題による変奏曲 (ピアノ : イゴール・レヴィット)
 マーラー : 交響曲第 5番嬰ハ短調

つい先日も、上岡敏之指揮の新日本フィルのユニークな演奏を聴いたばかりのマーラー 5番は、私を含めたマーラー・ファンが皆大好きな、マーラーらしさが随所に溢れた傑作であり、ペトレンコの手腕を聴くには最高の曲目だろう。私自身は、このブログの初期に書いた通り、2015年のバイロイト祝祭音楽祭で「ニーベルングの指環」全 4部作という巨大な作品をペトレンコの指揮で聴いており、彼の音のイメージはそれなりにあるが、実際、録音でも実演でも、彼のシンフォニーは聴いたことがないので、本当に今回は楽しみな機会なのであった。尚、このオケの表記はドイツ語で Bayerisches Staatsorchester で、日本語ではバイエルン国立管弦楽団という名称が一般的だ。ベルリンやドレスデンのように、シュターツカペレという名称ではないが、同じオペラハウスのオーケストラである。因みにこれが、2015年、ベルリン・フィルとの契約にサインするペトレンコ。
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さて今回の演奏会、期待通り大変充実した内容であったのであるが、ペトレンコの前に今回もまた、素晴らしいピアニストとの邂逅があったことを喜びたい。彼の名はイゴール・レヴィット。1987年生まれのロシア人。ちょうど 2日前も、同じロシアの素晴らしい若手ピアニスト、ダニール・トリフォノフを聴いたばかりであったが、このレヴィットは彼より 4歳上、今年 30歳の若手である。コンクール歴を見るとトリフォノフほど派手ではないものの、既にベルリン・フィル、バイエルン放送響、シュターツカペレ・ドレスデン、ロンドン響、クリーヴランド管など、数々の名門オケと共演しているという実績の持ち主。
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彼が今回弾いたのは、たまたま先日の読響のコンサートでトリフォノフの CD を購入して聴いたばかりの、ラフマニノフのパガニーニの主題による変奏曲だ。録音と実演の違いこそあれ、たまたまロシアのこれら俊英ピアニストの聴き比べになったが、私の印象では、トリフォノフは大玉の水晶のようなキラキラした音を奏でるのに対し、レヴィットの音はもう少し小粒で、光をより複雑に反射する。より情緒があると言ってもよいかもしれない。細部まで彫琢されたその音の進みには常にドラマがあって、ともすれば有名な第 18変奏 (今回も実に美しい!!) 以外は退屈しがちなこの曲を、大変に面白く聴かせてくれる。そしてペトレンコの指揮も最初から丁寧に音の流れを作り出す姿勢が明確で、冒頭間もない箇所での木管楽器のフレーズを、片手をヒョロヒョロと上げて表情豊かに導くなど、その音楽の特性が早くも見えたのである。その意味で、この指揮者とこのピアニストは、ともにロシア出身ということを除いても、曲の持つ情緒の表現という点において、類似したものがあるように思った。そしてラフマニノフの演奏終了後、カーテンコールを経て、レヴィットがピアノの前で集中してから弾き出したアンコールは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の終曲、「愛の死」であった。その繊細かつ怪しく燃える情緒の表現には舌を巻いた。そう、その点でも、プロコフィエフをバリバリ弾くタイプのトリフォノフとは、よい対照をなしていたと言えるであろう。

メインのマーラー 5番は、これまた大変な力演。バイロイトの「指環」体験で感じた彼の音楽の推進力はここでも全開であり、ヴァイオリンを左右対抗配置とし、きっちりと譜面を見、指揮棒を持っての指揮だが、スコアに書いてある音が太字で次々と宙に浮かんでくるような印象と言えばよいだろうか。ペトレンコは小柄な人なのであるが、まさに全身で音楽を奏でるタイプの指揮者であり、出て来る音楽は実にスケールが大きい。個々の場面では奇をてらったところは全くないが、それでいてどの部分も説得力が強い。例えばこの曲の第 2楽章のコーダ手前の盛り上がりは、実は全曲の大団円である第 5楽章の終結部手前と同じ音楽であり、暗い中から突然日の光が差して、勝利の凱歌が響こうとするところで、また闇に戻ってしまい、光は一旦閉ざされてしまうという風情なのだが、今回の演奏ほど、その第 2楽章での盛り上がりが強く強調されたことはあまりないだろう。これはつまり、音楽の彫琢方法として、葛藤は乗り越えられる、だがそれは今ここではなく、さらに試練を経てからだという曲のメッセージを伝えるには有効な方法であると思う。それはほんの一例で、ほかにも、マーラーが書いた複雑な音の絡みの数々を、骨太なリードで見事な劇性を持って描いてみせた。このオケの音は、ウィーン・フィルとかシュターツカペレ・ドレスデンなどとは違って、幾分硬いと言えるような気がするが、それがプラスに作用し、ペトレンコの忙しい指示に必死に食らいつくオケの音たちは、凝縮力があって見事であった。だから聴き終わったときの満足感はもちろん大変なものであったのだが、もしあえて難点を探すとすると、ちょっと聴き疲れたかなということか。場面によってはもっと遊びがあってもよいとは思ったのである。これだけ力強く明晰な音楽を聴けるのは稀有なこととは思いつつも、盛大な拍手に応えるペトレンコを見ながら、早くベルリン・フィルとのフランス音楽なども聴きたいなぁと思ったことである。欲張りすぎか ? (笑)
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さて今回の会場には、バイエルン国立歌劇場自身で用意したとおぼしい日本語の小冊子が置いてある。よく海外の観光名所で、写真入りのローカルな案内書を売っていて、私はその種の本が大好きなのであるが、翻訳の問題で、日本語版には意味不明な内容が多々ある点も、愛嬌である (笑)。今回の小冊子は、活字などちょっとそんな雰囲気で手作り感満載。ペトレンコのコメントも載っている。
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いわく、ラフマニノフは常に身近にある作曲家で、自身もピアニストとして勉強していた 12歳のときにこの作曲家の「音の絵」を好んで弾いていたし、ピアノ協奏曲も何度も聴いていたとのこと。今回採り上げる「パガニーニの主題による変奏曲」も好きで、レヴィットとともに新しい解釈を提示することに、心引き締まる思いであるとのこと。一方のマーラーについては、この 5番には声楽は使われていないが、周到に考えられた多声音楽の様式である。作曲者自身、新しい様式は新しい技術を必要とすると語っている通りで、声楽を使ったり、音以外の情景を表現することの多い 1番から 4番までとは異なる、「楽曲の性格や印象を包括した交響曲の傑作です」とある。うーん、最後の部分は、まさにローカルの観光名所案内のように、分かりにくい日本語だが (笑)、言わんとすることは分かるような気がする。視覚に訴える情景や、文章によって表現される情緒ではない、マーラーとして初めて取り組んだ純器楽の交響曲ということだろう。だから私のように、情景によって音楽をたとえることは、本当は控えなければならないのだろうが、いずれにせよ、説得力のある音楽だけが聴き手に様々な印象を与えるのであるから、それはそれでよいと思うこととする。45歳にして世界のトップに躍り出たこの指揮者の今後に期待したい。

by yokohama7474 | 2017-09-18 02:39 | 音楽 (Live) | Comments(4)

ベルギー奇想の系譜 ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで Bunkamura ザ・ミュージアム

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このブログでは、先の「バベルの塔」展をはじめとして何度か、ヒエロニムス・ボス (1450年頃 - 1516年) やピーテル・ブリューゲル (1525/30年頃 - 1569年) の作品に触れる機会があり、また、これら 15 - 16世紀のフランドル絵画に関する私自身の思い入れも既に述べている。今回の展覧会では、そのボス、ブリューゲルに始まり、世紀末から 20世紀の作品、そして現代アートに至るまで、現在のベルギーで制作された作品が並ぶ。ベルギーにおいては世紀末に象徴主義 (フランス語でサンボリズム) の活動が活発となったことはよく知られていて、日本でも何度も展覧会が開かれているし、私もそれらを大いに楽しんできた。またベルギーからは 20世紀に入ってシュールレアリスムの代表的な画家が何人も出ているし、現代アートに至るまで、その「奇想の系譜」は実に面白いのである。

では、作品を見て行くこととしよう。まずは、本展のポスターにも使われている「トゥヌグダルスの幻視」という作品。マドリードのラサロ・ガルディアーノ財団の所有になるもので、近年の研究により、ボスの生前 (1490 - 1500年頃) に、彼の工房で制作されたことはほぼ間違いないと認定されるようになった。
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もちろん、ボス本人の作品に比べると、その筆致は少し鈍いことは明らかなので、工房の作とするのが妥当なのだろうが、まあそれにしても、細部までぎっしりと描き込まれたこの奇想は、紛れもないボス的世界。題名の「トゥヌグダルスの幻視」とは、アイルランドの修道士マルクスが 12世紀半ばに記した異界巡りの説話であるらしい。ボスの時代のネーデルラントではこの説話が出版されて人気を博していたらしい。主人公トゥヌグダルスは画面の手前左下でまどろむ人物。彼の見る幻視は、七つの大罪を表している。いやでも目に入ってくる中央奥の大きな頭部は、それ自体罪の象徴であるらしい。ここでは黒いネズミ (邪淫の象徴) が空っぽの眼窩に入り込もうとしていて、知覚から入り込む誘惑を表しているという。この頭部の鼻からはコインが噴き出ていて、その下の桶の中で何やら緑色の液体に浸かっている修道女と修道士の上に降り注いでいる。また、画面右では「激怒」と「大食」が描かれているが、怪物に酒を飲まされたり刺されたり、あるいは首を切られたりという残虐なシーンが見られる。罪を戒めるという趣旨なのであろうが、ただの教科書的な描写では全くない、異常なまでの強烈なヴィジョンである。
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これもボスの生前にその追随者によって描かれたとされる「聖クリストフォロス」(1508年)。河で人々を背負って向こう岸に連れて行くことを生業にしていたクリストフォロスがあるとき幼児を背負って河を歩いていたところ、その幼児がどんどん重くなって行った。ようやく反対側に辿り着いたときに幼児は、自分がキリストであることと、クリストフォロスが背負ったのは神の創造した全世界であることを告げたという物語。その題材は珍しいものではないが、これでもかとばかりに異形の者たちが描かれているのは大きな特徴である。このようなイメージが当時のフランドルで流行した理由は何なのであろうか。フランスやスペインでは、このようなイメージは想像できない。
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これも同じ題材、「聖クリストフォロス」で、ヤン・マンデイン (1500年頃 - 1559年) なる画家の作品。上の作品と共通するイメージが使われているが、完全に流用しているわけではなくて、独自性もある。16世紀を通じて、ボス風の奇想がいかに人気を博していたかの証拠であろう。
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展覧会には版画も多く展示されていて、ボス風の奇想のものもあるが、これは一見すると少し趣向の異なるもの。ボスと同時代の画家アラールト・デュハメール (1450年頃 - 1506年) による「包囲された象」。もちろん象はヨーロッパには生息していないので、これはアジアかアフリカから連れて来られたものであろうが、スペインのフェリペ 2世から、叔父の神聖ローマ皇帝フェルディナント 1世 (おぉっ、アルチンボルドが最初に仕えた皇帝だ) に贈られたエマニュエルという象が 1563年にアントワープでパレードを行った記録があり、これはその当時発行されたものだという。画家の死後であるので、この版画がそのエマニュエルを描いたものではないようだが、珍奇で巨大な動物に群がる人々がユーモラス。だがよく見ると、象の上に乗っている奇妙な建物 (?) などは、ボスの作品を思わせ、実はこの作品自体、ボスの初期作品の模倣である可能性も指摘されているらしい。
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それから、何度見ても面白いブリューゲルの版画。ブリューゲルの場合は奇想だけに依拠してはおらず、夥しい人数を登場させて当時の風俗を描くような作品も多いが、やはりボスの作り出した異常なヴィジョンへの需要に応えて、ボスとは似て非なる幻想世界を創造した。以下、「冥府へ下るキリスト」(1558年頃)、「七つの大罪」から「激怒」(1558年)、「七つの徳目」から「希望」(1559 - 1560年)。
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そして、奇想の系譜には普通入らない大画家の作品が展示されている。それはペーテル・パウル・ルーベンス (1577年 - 1640年)。言うまでもなくバロックを代表する画家であり、ヨーロッパの美術館ではどこに行っても、彼とその工房が生み出した作品の数々に出会うことになると言っても過言ではない。この展覧会では、何点かの版画が展示されているが、これは「反逆天使と戦う大天使聖ミカエル」(1621年)。いかにもルーベンスらしい力感に満ちた作品だが、多くの異形の者どもの表現には、フランドル絵画の伝統が影響している点もあるのだろうか。
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そして展示作品は 19世紀へ。上にも書いた通り、ベルギー象徴派は退廃的ではあるが日本でも人気で、私も大好きなのであるが、奇想という流れでこれらの絵画を読み解くのも面白い。まず、フェリシアン・ロップス (1833年 - 1898年)。この画家の名前を知ったのは多分、澁澤龍彦の著作であったと思うが (今手元に彼の「幻想の彼方へ」を取り出してきてパラパラ見てみると、あとで触れるシュールの巨匠デルヴォーについての文章で、ロップスにも言及があった)、いやなんとも退嬰的で個性的、ある場合には異常なほどの冒涜的な作品を残した人である。これは「舞踏会の死神」(1865年 - 1875年頃)。死神が着ているのは日本の着物のようにも見えるが、どうやらキリスト教の司祭が着るガウンであるらしい。なんという冒涜。
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実はロップスは、1864年にブリュッセルを訪れたフランス象徴主義の詩人ボードレールと交流し、その影響を受けたという。上の作品もボードレールの代表作「悪の華」に基づくものであるらしい。なるほどそう言えば、ボードレールの退廃と共通点がある。このロップスの作品、とてもこの文化ブログではご紹介できないような冒涜的な作品が数々展示されているが、勇気を奮い起こして (笑) ひとつご紹介しよう。1878年作の「聖アントニウスの誘惑」。こちらはギュスターヴ・フローベールの「聖アントワーヌの誘惑」(1874年) に影響されたものかとされているらしい。聖アントニウスは、キリストは十字架から落とされ、代わりにそこには豊満な肉体をさらす娼婦が現れるという幻想を見ている。おぞましいほど冒涜的だ。
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ロップスの作品としては比較的有名なのがこの作品だろう。1896年の「娼婦政治家」。目隠しをして豚に先導される裸体の娼婦の姿に、当時の政治家への皮肉が込められているらしい。
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さて、ベルギー世紀末象徴主義といえば、忘れてはならないのがフェルナン・クノップフ (1858年 - 1921年) である。その神秘的で淡いトーンの作品には、退廃的要素とともに、甘美なものが常につきまとう。描かれた人物は多くの場合両性具有的であり、世紀末特有のファム・ファタルのイメージであるケースも多い。そしてよく知られているのは、妹に対して異常なまでの深い愛情を抱いていたことで、作品のモデルもその妹、マルグリットがほとんどであるようだ。これは 1900年頃の、鉛筆とパステルによる「顔を覆うマルグリット」。それから、鉛筆と色チョークによる「女性習作」。クノップフらしい作品たちだ。
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クノップフが幼時に暮らしたブリュージュはまた、ジョルジュ・ローデンバック (1855年 - 1898年) の傑作小説「死都ブリュージュ」(1892年) でもよく知られているが、クノップフは若い頃ローデンバックと交流があったらしい。これは 1904年頃の「ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院」。いかにもブリュージュのイメージにふさわしいではないか。うーむ、ブリュージュ、行ってみたい!!
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クノップフの作品の多くは怪しさに満ちているが、そのことによって彼の洗練されたセンスを過小評価してはいけない。これは 1894年の「巫女 (シビュラ)」。彫刻作品の色彩写真であろうが、古代の雰囲気とその時代の空気を併せ持つ、大変に洗練された表現であると思う。
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さて次はジャン・デルヴィル (1867年 - 1953年) である。以前も彼の名前に、ミュシャ展についての記事の中で触れたが、ベルギー象徴派の流れでは彼の作品に触れる機会はあっても、単独での回顧展は、私の知る限り日本で開かれたことはないのではないか。一度まとめてその作品を鑑賞したい画家である。この展覧会には 4点が出品されていて、貴重な機会となっている。これは 1888年の黒チョークによる作品、「ステュムパーリデスの鳥」。ギリシャ神話に登場する、翼の先が青銅でできていて集団で生活する怪鳥である。
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これは「赤死病の仮面」(1890年頃)。もちろん、エドガー・アラン・ポーの作品に基づくもので、これぞ世紀末という雰囲気。
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こちらは明るい色調が印象的な「レテ河の水を飲むダンテ」(1919年)。姫路市立美術館の所蔵品である。このような作品を見ると、やはりこのデルヴィルという画家の辿った軌跡を知りたくなる。岩崎美術社の夢人館というシリーズで画集が出ていたが、今でも手に入るのだろうか。
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さて、今回初めて知った素晴らしい画家が 2人いるのでご紹介する。まず、ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンク (1867年 - 1935年)。やはり象徴主義の画家であり、その活動の中心人物たちと交流を持った人らしい。この「運河」(1894年) は、横長の作品であるのだが、なかなか図録から全体を写真に収めるのが難しく、これはその一部。人の姿が見えない運河の風景の中に静謐な神秘感が漂っていて素晴らしい。
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次に、ヴァレリウス・ド・サードレール (1867年 - 1941年)。この「フランドルの雪」(1928年作、アントワープ王立美術館蔵) は不思議な作品だ。雪景色ということもあり、ここでも静謐さが支配する。見ていると吸い込まれそうな気もしてくるような、なんとも神秘的な作品だが、その雪の様子は、例えばブリューゲルの「雪中の狩人」を思わせる要素もある。フランドルの過去の作品へのオマージュを感じられる作品だと思う。
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次にご紹介するレオン・スピリアールト (1881年 - 1946年) は、名前には聞き覚えが確かにあるが、いつどこで彼の作品を見たのか思い出せない。どこかの小規模な展覧会か、かつて何度か見たベルギー象徴派の展覧会のいずれかにおいてであったろうか。この「堤防と砂浜」(1908 - 1909年作) は、墨と水彩によるもの。ここで描かれている光は灯台のものであるらしいが、画面から漂うその孤独感は、鑑賞者をして絵の前で黙らしめるようなものである。
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さてここからは、ベルギーの画家と言えば誰もが知る 3人に触れよう。まずはジェームズ・アンソール (1860年 - 1949年)。仮面の画家の異名を取る彼の作品には、鮮やかな色合いとは対照的なシニカルさが常にあり、ときにそれは背筋も凍るほとである。この「ゴルゴダの丘」(1886年) を見ると、キリストの十字架 (通常は "INRI"、つまり、「ナザレのイエス、ユダヤの王」の意味の言葉が掲げられる箇所) に、"Ensore"、つまりアンソールという自分の名前を入れている。彼を突く槍には "Fetis" と見えるが、これは当時の美術評論家の名であるらしい。自らをキリストになぞらえるとは、おこがましいにもほどがあるが (笑)、ベルギーにはこのような冒涜的な発想が生まれる素地があったということだろうか。
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アンソールをもう 1枚。1933年の「オルガンに向かうアンソール」。実はこの絵の奥に描かれているのは、1888年の作品「1889年のキリストのブリュッセル入城」で、その前でオルガンを弾くアンソール自身の姿が題材となっている。いかにもアンソールらしい色彩と題材のギャップはあるが、両大戦間の作品になると、世紀末の頃の作品に比べると、毒は減ってきているかもしれない。
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そしてあとの 2人は、シュールレアリスムを代表するポール・デルヴォー (1897年 - 1994年) と、ルネ・マグリット (1898年 - 1967年)。ともによく知られた画家であるし、後者に関しては日本での大規模な回顧展の記事を書いたこともあるので、ここでは詳細は割愛する。デルヴォーの「海は近い」(1965年) と、マグリットの「虚ろな目」(1927年または 1928年)。これまで見てきた作品によっても、ベルギー絵画にはシュールの萌芽になる感性がもともとあることが分かって、実に興味深い。
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もちろん、歴史的な作品ばかりでなく、ベルギーの現代アート作品もいくつか展示されているので、ご紹介したい。まずこれは、レオ・コーペルス (1947年 - ) の「ティンパニー」(2006年 - 2010年)。骸骨が逆さづりになり、上下に動いてティンパニを叩く仕掛け (会場では作品は静止しており、動いているヴィデオ映像が流れている)。ここには「メメント・モリ」(死を想え) の精神があると思われる。
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これは、ミヒャエル・ボレマンス (1963年 - ) の「Automat (3)」(2008年)。細部は写実的なのに、向こうを向いたこの女性は、足のない状態で床の上に浮かんでいるように見える。後ろで結んだ手や、血痕かと見えるいくつかの衣類のしみも、不気味なことこの上ない。
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これは会場入り口で訪問客を出迎えている、ヤン・ファーブル (1958年 - ) の「フランダースの戦士 (絶望の戦士)」(1996年)。彼のパフォーマンスは、私が学生の頃に日本に紹介されて話題になった。あの「ファーブル昆虫記」のアンリ・ファーブルの曾孫であるらしいが、このように意識的に虫を使った作品が多い。ここで貼りつけられているのは、夥しい数のカブトムシである。
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最後は、トマス・ルルイ (1981年 - ) のユニークな作品、「生き残るには脳が足らない」(2009年)。ギリシャ彫刻のような胴体に、巨大な頭部が乗っていて、その頭部は哲学者ふうの顔立ちであるものの、だらしなく口からヨダレを垂らしている。確かにこの人、脳が足りないようだ (笑)。
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このように、500年に亘るベルギー美術を概観する、非常に充実した展覧会である。ベルギーという複雑な土地で表現された人間の心理の諸相には、実に奥深いものがあると思うので、9/24 (日) までの会期に足を運ぶ価値は充分にあるだろう。お、そうだ。足と言えば、会場で販売していたこんなフィギュアを買ってしまいました。言うまでもなくこれは、マグリットの代表作「赤いモデル」の立体化である。何がどう赤いのか分からないこの作品であるが、立体であるがゆえに、自分で好きな向きに置いて楽しむことができるのだ。これは必携とまでは言えないが、イマジネーションが広がって楽しいのである。あ、後ろに見えるのは、エジプトのファラオを象った我が家のフィギュアの一部で、マグリットとは関係ありません (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-09-18 00:31 | 美術・旅行 | Comments(0)

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 2017年 9月16日 NHK ホール

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快進撃を続けるパーヴォ・ヤルヴィと NHK 交響楽団 (通称「N 響」) であるが、先に採り上げた NHK 音楽祭での「ドン・ジョヴァンニ」に続き、定期演奏会の 3プログラムに臨む。今回その最初の A プログラムで演奏されたのは、ショスタコーヴィチの交響曲第 7番ハ長調作品60「レニングラード」である。この曲が初演されたのは独ソ戦の真っただ中、1942年である。ナチス・ドイツによる言語に絶する壮絶なレニングラード (現サンクト・ペテルブルグ) の封鎖によって疲弊した人々を鼓舞し、人道的見地から、欧米でも争うように演奏されることになった大作交響曲。このブログの過去の記事では、2016年 6月 3日の、ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクト・ペテルブルグ・フィルによるこの曲の凄絶な演奏を採り上げ、私が読んだレニングラード封鎖についての本もご紹介した。この曲が書かれた背景についてはその記事に譲るが、人類が犯してきた愚行の中でも、このレニングラード封鎖は実に鳥肌立つような悲惨な出来事であり、この交響曲を考えるに当たっては、いかに音楽のみ虚心坦懐に楽しもうと思っても、それはなかなかできない相談なのである。

今回の演奏の、練習場でのリハーサル写真はこれである。
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おや、何やらコンサートマスターを務めているのは、モジャモジャ頭の外人のようである。そう、今回の客演コンサートマスターは、1992年以来ミュンヘン・フィルのコンマスを務めるロレンツ・ナストゥリカ=ヘルシュコヴィチ。大変に長い名前で、なかなか覚えられないが、1992年以来ということは、チェリビダッケ時代からのミュンヘン・フィルのコンマスなのである。
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ステージを見渡すと、弦楽器はコントラバス 10本の大編成で、金管の別動隊 (トランペット 3、ホルン 4、トロンボーン 3) は、舞台いちばん奥の、打楽器群の後ろに位置している。これはティンパニ奏者にとっては、かなり苦痛だったのではないか (笑)。ともあれこの大編成によるショスタコーヴィチ 7番の演奏、事前に自分の中であらかじめ音のイメージがあった。長身のヤルヴィが背筋をピンと張り詰め、その長い両腕を前に伸ばしてタクトを一閃すると、いきなり重々しい音楽が、強い推進力をもって鳴り始める・・・。そして実際に響いてきた音は、事前にイメージした通りの、見事に密度の高いものであったのだ。80分に及ぶこの大曲には様々な聴かせどころがあって、最強音から最弱音まで、隅々まで張り詰めた音で表現する必要があるのだが、さすがにヤルヴィと N 響である。それぞれの音楽的情景の説得力には、間然するところがない。曲の冒頭から終結まで、大きな太い一本の棒であるかのような雄渾さ。細部について語る気がしないのである。特に弦楽器の強い集中力は圧巻で、全曲の終結部では客演コンマスのナストゥリカ=ヘルシュコヴィチはほとんど席から立ち上がり、渾身の力を込めて音を炸裂させた。オーケストラ音楽の醍醐味ここに極まれりと言いたくなるような水準の演奏であった。

ふと思い立って、私の手元にあるこの曲の初期の西側での録音を再確認することとした。以下左から、セルジュ・チェリビダッケ指揮ベルリン・フィル (1946年)、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 NBC 交響楽団 (1942年 7月)、レオポルド・ストコフスキー指揮 NBC 交響楽団 (1942年12月) である。
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この曲の西側初演が、トスカニーニ、ストコフスキーと、セルゲイ・クーセヴィツキーの 3者で争われたことはよく知られている。それだけ、ドイツに苦しめられている連合国の一員、ソ連に対する人道的な面での同情があったということだろう。戦後すぐに、ソ連を苦しめた当事者であるドイツを代表するベルリン・フィルがこの曲を演奏したというのも大変に興味深い (ライヴではなくスタジオ録音である)。実は日本初演も意外に早く、1950年に上田仁指揮東宝交響楽団によってなされている。今、平和な日本でこのショスタコーヴィチの 7番がこのようなクオリティで壮大に鳴り響いていることは大変に価値のあることであることは間違いない。その一方で、歴史を知ることで純粋に音楽以外の要素を考えることも、たまにはよいかもしれない。私の手元にはまた、この曲の誕生を描いたこんな本もある。実は数年前に買ったまま、未だ読んでいないのであるが、そのうち時間を見つけて読むこととしたい。愚かなことをするのも人間なら、尊いことができるのも人間。歴史から学ぶことは無限にある。
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by yokohama7474 | 2017-09-17 02:07 | 音楽 (Live) | Comments(2)

コルネリウス・マイスター指揮 読売日本交響楽団 (ピアノ : ダニール・トリフォノフ) 2017年 9月16日 東京芸術劇場

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昨今の東京のオケのコンサートでは、およそ期待外れというものがほとんどないばかりか、世界的な音楽都市の面目躍如というべきであろう、老年の巨匠から若きライジング・スターまで、あらゆる音楽家が競い合っている。今回、世界的活躍を始めて未だ日の浅い若手指揮者と若手ピアニストの興味尽きない共演が、読売日本交響楽団 (通称「読響」) の演奏会で実現した。指揮は 1980年生まれのドイツ人、コルネリウス・マイスター。ピアノは 1991年生まれのロシア人、ダニール・トリフォノフ。曲目は以下の通りである。
 スッペ : 喜歌劇「詩人と農夫」序曲
 プロコフィエフ : ピアノ協奏曲第 2番ト短調作品 16
 ベートーヴェン : 交響曲第 6番ヘ長調作品 68「田園」

さて今回指揮を務めるマイスター (ドイツ人でこの苗字ということは、きっと何代も続く職人の家系の生まれなのだろうか) は、現在ウィーン放送響の首席指揮者として名を馳せているが、この読響とは 2014年に初共演、R・シュトラウスのアルプス交響曲を指揮したらしい。そして今年 4月、読響の首席客演指揮者に就任。今回は就任後初の演奏会となる。また彼は既にロイヤル・コンセルトヘボウ管、バイエルン放送響、パリ管や、ウィーン国立歌劇場、ドレスデン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、英国ロイヤル・オペラなどで指揮を取っており、若手指揮者としてメキメキと頭角を現している人。2018年からは、読響常任指揮者シルヴァン・カンブルランのあとを受けて、シュトゥットガルト歌劇場の音楽総監督に就任するらしい。まさに今、旬の指揮者である。こんな指揮者を首席客演指揮者として迎える読響は、さすがであると思う。
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最初の「詩人と農夫」序曲は、ウィーンでオペレッタの作曲家として人気を博したフランツ・フォン・スッペ (1819 - 1895) の代表作のひとつ。彼の残した数多いオペレッタは、現在では全曲が上演されることはほとんどないが、その数々の序曲は、それはもう楽しく、未だに大変な人気なのである。私の場合は、カラヤンが録音したスッペ序曲集のアナログ・レコードを聴きまくったことで、「軽騎兵」やこの「詩人と農夫」をはじめとする彼の序曲にはとことん親しんだ。だが彼の作品は最近の東京ではあまり耳にすることができないので、今回は非常に貴重な機会なのである。今回初めて知ったことには、このスッペはイタリア・オペラの巨匠ドニゼッティと親交があり、そのドニゼッティの代表作のひとつ「愛の妙薬」のドゥルカマーラ役を 1842年に歌っているらしい。この写真は後年のものであるが、あの軽妙な序曲の数々を書いた人にしてはいかめしい外見だ。
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さて、コンサート冒頭のこの「詩人と農夫」序曲を聴くだけで、マイスターの素晴らしい才能は明らかだ。もちろん、昨今絶好調の読響の音のソノリティも大きく貢献しているのであるが、このマイスターのように大きな呼吸で音楽を作る人には、オケとしてもついて行きやすいのではなかろうか。冒頭の厳粛な金管に続く抒情的なチェロのソロの素晴らしい音!! 大きな身振りで表情豊かに、心から音楽を感じていることが明らかな演奏をしたのは、このオケの首席チェロ、遠藤真理である。もともとはソリストであるが、マイスターの首席客演指揮者就任と同じ今年 4月に、読響に入団した。
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それにしてもマイスターのマイスターぶり (?) はどうだ。すっきりとした指揮ぶりからはおよそ想像しにくいほどの、充実した音が流れて来る。それはあたかも清い水をたたえた川の流れのようであり、どこをとっても音楽の喜びが溢れている。素晴らしい指揮者である。

そして 2曲目のコンチェルトに登場したピアニストは、2010年のショパン・コンクール第 3位、2011年のチャイコフスキー・コンクールで優勝した若手の逸材、ダニール・トリフォノフ。私もその名前しか聞いたことがなかったので、今回は大変楽しみにしていたのだが、予想を上回る素晴らしい才能だ。そのプロコフィエフの 2番のコンチェルトは、ロシア・アヴァンギャルドの雰囲気を持つ野性味あふれる自由闊達な曲で、私が心から惚れている曲。特に第 1楽章の最後の方で、目まぐるしく動くピアノに触発されるように、オケが堰を切ったように狂気の絶叫を聴かせる箇所は、何度聴いても鳥肌が立つ。トリフォノフのピアノは、音量は大きく、かつその音質はクリアであり、隅々まで曖昧なところは皆無。このプロコフィエフの 2番には最適なピアニストであろう。伴奏のマイスターと読響も、なんとも充実したサポートぶりで、申し分ない。トリフォノフがアンコールで弾いた、やはりプロコフィエフのバレエ音楽「シンデレラ」のガヴォットを含め、この作曲家のとんがった感覚をよく出していた。彼の CD はドイツ・グラモフォンから何枚も出ているが、こんなことは昨今珍しいはずである。ちなみに彼は現在、髭を蓄えていて、この写真よりはワイルドな印象だ。
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そしてメインの「田園」も、マイスターの個性がくっくりと浮き出た名演であった。音のひとつひとつに、生きる喜びが溢れているという印象である。また彼は、楽章と楽章の間でも指揮台に立ったまま緊張感を保ち、弛緩することは決してない。大きな音楽の流れを作り出す手腕を持った人なのであろう。気負うこともなく、スムーズな指揮ぶりであるが、マイスターの非凡な才能は誰の耳にも明らかだ。奇をてらうことは一切なく、名曲との堂々たる真っ向勝負である。今回改めて思ったことには、この「田園」においては、ヴァイオリンをはじめとする弦楽器が、ほぼ全編に亘って (鳥の鳴き声の箇所は除く) 旋律を紡いで行くのだということ。今回の読響の弦楽器の響きには素晴らしい充実感があって、マイスターの丁寧な指揮のもと、自然の中の人間というこの曲のテーマを、実に美しく描き出したのである。
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繰り返しだが、読響は本当に素晴らしい若手指揮者を首席客演指揮者に迎えたものである。今回の演奏会のプログラムには、マイスターの就任の辞が掲載されているが、以下のような言葉に嘘はないものと思う。

QUOTE
日本のお客様の卓越した能力と知識に、私はいつも感動しています。音楽の持つ、国境を越えて文化を結ぶ力をともに楽しめる時、私は心が温まり幸せな気持ちになります。
UNQUOTE

終演後には指揮者とピアニストによるサイン会があったので参加した。トリフォノフのピアノが素晴らしかったので、ラフマニノフの変奏曲を集めたアルバム (トリフォノフ自身の作品「ラフマニアーナ」を含む。また「パガニーニの主題による変奏曲」での共演は、ヤニック・ネゼ = セガン指揮のフィラデルフィア管だ) を購入した。 和気あいあいとしたサイン会の様子と、私がもらったサインは以下の通り。
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さて、その輝かしい才能に触れることができたマイスター、12月にはまた読響の指揮台に戻ってきて、マーラーの大作、第 3番を指揮する。冬に聴く夏の交響曲ということになるが、今から本当に楽しみなのである。

by yokohama7474 | 2017-09-17 00:29 | 音楽 (Live) | Comments(0)

エル ELLE (ポール・ヴァーホーヴェン監督 / 原題 : ELLE)

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映画の世界で「エル」と言えば、誰もが思い浮かべるのはもちろん、ルイス・ブニュエルがメキシコで制作した映画であろう。って、本当かどうか知らないが (笑)、この映画はそれとは違う。なぜなら、ブニュエルの映画は "El" だが、この映画は "Elle" であり、前者における主人公は男性であるのに対し、ここでの主人公は女性であるからだ。もちろん "Elle" とはフランス語で「彼女」という意味であり、有名なファッション雑誌の名前もここからきているのであろう。そう、この映画の主役の「彼女」は、実に危険な人物であるがゆえに、題名も多くを語ることなく、ただ「彼女」となっていて、なかなかに含蓄深いのである。

この映画の監督は、オランダのポール・ヴァーホーヴェン。ヴァーホーヴェンと言えば、「ロボコップ」「トータルリコール」「氷の微笑」といったハリウッド映画で知られる人だ。それから、私にとっては忘れがたい衝撃の超傑作 SF 映画、「スターシップトゥルーパーズ」も彼の作品である。だがここで彼は、フランスの役者たちを起用した全編フランス語の、文字通りのフランス映画を監督した。最近の活動をあまり耳にしなかっただけに、若干意表をつくかたちでの再登場は、実に興味深い。このヴァーホーヴェン、今年 79歳という高齢であるのだが、このように人間の生きざまを仮借なく描くだけのパワーを未だ保っているとは素晴らしい。
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この映画にまつわる言説を見てみよう。上のポスターには、「犯人よりも危険なのは、"彼女" だった」とあるし、この映画のプログラムには、「異色のサスペンスにして、世界初の気品あふれる変態ムービーが誕生した!」という、なんだかよく分からない表現が載っている (笑)。見終わった今、冷静に考えて、それらの表現を理解することはできるものの、この映画には決してポルノ的な部分はなく、極めて真摯に、のっぴきならない人生の残酷さを描いているように思われる。確かに煽情的な場面はそれなりにあり、彼の旧作「氷の微笑」に通じるところもあると思うが、ストーリーの複雑性は際立っており、そして登場人物たちの、これまた複雑な人間関係には、まあそれはびっくり仰天なのであった (笑)。フランス人って、みんな本当にこうなんだろうかと思ってしまうが、自分の知っているフランス人を何人か思い浮かべてみると、ちょっと納得できるような気もする。とにかくこの映画に出て来る人たちの間には、ああなんということ、あっちもこっちも仮借ない (?) 肉体関係が張り巡らされているのである・・・。これは、物語の発端となる主人公の女性がレイプされる場面を演出している監督と主演女優。
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ストーリーは一見分かりやすいのだが、劇中で描かれていない背景について想像力を巡らせると、なんとも鳥肌立つ内容なのである。すなわち、ビデオゲーム会社の社長を務める女性 (設定は 50代?) が、ある日自宅に侵入して来た黒装束の男にレイプされてしまう。当然警察に駆け込むかと思いきや、単独で犯人探しをする主人公。実は彼女にはトラウマがあって、子供の頃に自らの父親が近所の子供たちを何人も殺したという忌まわしい経験を持つのである。彼女は非常に我の強い人であり、好き嫌いをはっきり主張するタイプ。そしてまた、自らの欲望に正直で、時に極めて大胆な行動に出ることもある。そうこうするうち、レイプ犯が特定されるのだが、その後彼女は・・・という物語。まず圧巻なのは、主役を演じる名女優、イザベル・ユペール。
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劇中では息子に子供が生まれ、お婆さんになる年齢。だがそのルックスは、せいぜい 30代かと見まがうほどの美しさ。そして実年齢を知ってびっくり!! 1953年生まれなので、今年実に 64歳!!!! ここで彼女が見せる演技は、いろんな意味で決然たるもので、キャリアウーマンでありながら情熱家であり、一方で大人の分別もわきまえており、ペットの猫は大事にするが家族には概して冷淡で、ええっと、あえて言ってしまえば、変態なのである (笑)。こんな演技ができる女優は日本には絶対いないし、ハリウッドでもちょっと想像できない。彼女を巡る男性女性、いろいろいるのであるが、もうひとりの圧巻は、このイザベル・ユペールの母親役を演じているジュディット・マーグルという女優。ルイ・マルの「恋人たち」でジャンヌ・モローの友人役を演じたという。
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ええっと、ちょっと待てよ。フランスの人間国宝的女優であったジャンヌ・モローは、つい先日、7月31日にその生を閉じたばかり。享年 89歳であった。その友達を演じたって、この女優は一体何歳なのか。上の写真から、何歳だと思われるだろうか。60歳? 70歳? いえいえ、答えは 1926年生まれ。つまりは今年実に 91歳ということになる!!! それでいて劇中での彼女は、若いツバメを捕まえて結婚するという快挙に出るのである。なんだかもう、クラクラして来てしまうのだ (笑)。

この映画の設定はこのようにちょっと破天荒なのであるが、ひとつ言えるのは、人間の本性を深い部分で描いていることで、設定のわりには過剰な性的描写が少ない点、好感が持てるのである (もちろん、家族での鑑賞に適するような穏便な描写にはなっていないが。笑)。愛憎渦巻く人間関係は、極端なかたちを取りながらも結構なリアリティがある。これぞフランス映画。ハリウッド時代のヴァーホーヴェンとは一味違っている。だが、このめくるめく人間関係をどのように整理しよう。劇中で描かれていない過去の惨劇の真相は、一体いかなるものであるのだろうか。そこには明確な回答は示されず、見る者の想像力に任されることとなる。ここに登場する男優女優は私の全く知らない人ばかりであるのだが、それぞれが役柄に応じたリアリズムを体現していて、いやそれは、実に素晴らしいのである。人間同士には様々なご縁による様々な関係が成立しうる。この映画の人物たちは、そのようなご縁にうまく乗りながら、それぞれにのっぴきならない生を送っているのである。黒猫も、そのような主人公の生のひとつの要素なのだ。
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主人公の性格描写において重要な役割を担っているのが音楽である。彼女がレイプされるシーンと、自動車で災難に遭うシーンで流れているのは、いずれもモーツァルト。前者はディヴェルティメント K.136 の第 2楽章。後者は「魔笛」の後半、タミーノが試練を受ける場面の音楽だ (エンドタイトルで、後者はクラウディオ・アバド指揮のマーラー室内管弦楽団の演奏であると確認)。これらは劇中の BGM ではなく、主人公がその場面で実際に聴いている曲である。つまりは彼女はモーツァルトの愛好者という設定なのであろう。それは、主人公には変態性があるとはいえ、自分に正直なピュアな人であることを表しているのだろう。ほかには、会食の場面でラフマニノフのピアノ協奏曲第 2番の第 2楽章が流れていた。あ、それから、母親の病室で流れている映像は、サイモン・ラトルとベルリン・フィルが 2013年のヨーロッパ・コンサートで演奏したベートーヴェンの「田園」で、場所はプラハ城だ。
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このような特殊な映画であるゆえ、人によっては嫌悪感を感じるかもしれない。だがそんな人でも、いかに真摯にこの映画が作られているかを感じることはできると思う。万人にお薦めできる映画でないことは確かだが、人間の深い部分を見たいと思う人にとっては、大きな価値を持つ映画であると思う。老境に至ったヴァーホーヴェン監督が、これからも強い表現力を持った映画を撮ってくれることを期待したいと思う。

by yokohama7474 | 2017-09-16 02:15 | 映画 | Comments(0)

上岡敏之指揮 新日本フィル (ピアノ : デジュー・ラーンキ) 2017年 9月14日 サントリーホール

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新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) のシーズンは 9月から始まる。このコンサートはその新シーズンを開始する定期演奏会である。指揮をするのはもちろんこのオケの音楽監督、上岡 (かみおか) 敏之。1960年生まれで、来週の誕生日で 57歳になる。これまでドイツを中心に地歩を築いてきた人であり、素晴らしく個性的な指揮者である。このブログでも過去何度もこの上岡と新日本フィルのコンビの演奏会を採り上げているが、私には常にこの指揮者への期待がある。それは、それぞれの演奏が一般的な意味で成功していようがそうでなかろうが、彼の個性が常に表れているということによる。実は、個性を常に聴き取ることができる指揮者というものは、さほど多くない。そんなわけで、私は上岡のコンサートに何度も足を運んでいるのである。前回記事で採り上げた彼の演奏会は、7月29日、すみだトリフォニーホールでのオルフ「カルミナ・ブラーナ」を中心とするプログラムであり、その終演後に開かれたサイン会で、「9月のマーラー、楽しみにしています」と私が無遠慮にもマエストロに声をかけたと書いた。そして今回、その楽しみにしていた「9月のマーラー」を聴きに行くことができたのである。
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上岡と新日本フィルの 2シーズン目の最初を飾る演奏会の曲目は、以下の通り。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 4番ト長調作品58 (ピアノ : デジュー・ラーンキ)
 マーラー : 交響曲第 5番嬰ハ短調

少し演奏時間が長めのプログラムであるが、非常によい内容である。ベートーヴェンの 5曲のピアノ協奏曲の中でも、楽章構成 (第 1楽章だけで演奏時間半分以上) や、ピアノソロとオケの関係 (第 1楽章はオケが沈黙しピアノソロで始まり、第 2楽章はピアノは沈黙しオケだけで始まる)、孤独感と喜遊感の交錯がユニークな持ち味を示している傑作。そして、マーラーにとっての 20世紀を告げるファンファーレで始まり、多彩な音の饗宴にノスタルジックなアダージェットが入る、大交響曲。上岡の手腕に期待である。まずベートーヴェンのコンチェルトでソロを弾いたのは、ハンガリー出身の名ピアニスト、デジュー・ラーンキだ。
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彼は 1951年生まれで、つい先週 66歳になったばかり。私の世代では、1980年代頃に「ハンガリー三羽烏」と呼ばれた昔の若手ピアニストのひとりとして、もう随分以前からおなじみの人なのである。若いときはこんな感じで、そのハンガリー三羽烏の中では、ルックスはいちばんというもっぱらの評判であったものだ。
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ちなみにこの三羽烏、その後の道のりはそれぞれで、感慨深い。出世頭はなんといってもアンドラーシュ・シフ。彼は今や、押しも押されぬ現代最高のピアニストである。このブログで採り上げたことは未だないが、それは、昨年の来日公演ではチケットを買ってあったのに、所用で行けなかったという痛恨の事態による。私の深く尊敬する大ピアニストであり、いずれまた採り上げることがあるだろう。そして、三羽烏の残るひとりは、ゾルタン・コチシュ。彼は結構以前から指揮にも取り組んでいたらしく、小林研一郎の後任として 1997年以降ハンガリー国立交響楽団 (現ハンガリー国立フィル) の音楽監督を務めたが、昨年のこのオケとの日本公演直前に、惜しくも亡くなってしまった。優れた音楽家もまた人間。活動内容も様々なら、芸風も移り変わり、与えられた時間にも宿命的なものがある。なので、流れ行く時間の中、その時々の音楽家の演奏に耳を傾けることこそが重要だ。そのような思いを持って耳を傾けた今回のラーンキのベートーヴェン、円熟の境地を感じさせながらも、永遠の青年という印象をも併せ持つ、興味深い演奏であったと思う。上記の通りこの曲は、ピアノとオケの会話にユニークなところがあり、静かに呟くようなピアノで始まる第 1楽章では、そのうち決然たる音楽も登場して、聴き手を飽きさせないのであるが、ラーンキのピアノの呟きには粒立ちのよさがあって美しいが、同時に絶望的な孤独よりは前向きな姿勢が感じられるもの。感動のあまり身動きできないということにはならないが、音楽を聴いている充実感をそこここで味わうことができた。一方、上岡指揮の新日本フィルの伴奏は、どうだろうか、冒頭のピアノに応える弦楽器からして、もう少し純度の高い音楽を聴きたかったような気がする。その後のマーラーでも感じたことだが、本拠地のすみだトリフォニーホールで聴くこのオケと、今回の久しぶりのサントリーホールでの演奏とでは、少し印象が違っていたようにも思うのである。

そのメインのマーラー 5番であるが、多くのマーラー・ファンと同じく、この曲の大の愛好者である私は、それはもう数多くの実演・録音でこの曲に親しんできたが、今回ほどユニークな演奏は、ちょっと記憶にない。まず冒頭のトランペットには細かい表情づけをしていて、それは予想通りであったのだが、その後大音響を経てから、足を引きずるような呻吟の葬送行進曲のメロディが奏されるところでは、コントラバスのピツィカートが異様に大きく響く。それからウネウネと続くことになる音楽は、随所に通常と異なるバランス設定やテンポ設定が聴かれることとなった。狂乱の箇所では、まさに狂ったようなテンポによるささくれだった音となり、鋭い音の切れ込みが現れる。脱力感が支配する場所では、間延びするすれすれのところまで音楽の足取りが落ちる。面白いのは、このような変幻自在の音楽が、アクセルとブレーキという、私がよく使う比喩とは今回違った印象であったことだ。自分で書いたこのコンビによる同じマーラーの 6番の記事 (3月12日付) を読み返すと、そのアクセルとブレーキという比喩を使っているので、やはり今回の印象は、そのときと若干異なったのだと分かる。今回の場合、なんというべきか、音楽の内なる欲求に基づく表情づけという要素がより強く感じられ、加速する部分は、アクセルというよりは、自然に坂道を転げ落ちる感じとでも言おうか。自在にテンポを揺らしても、恣意性を感じることは少なかったのである。それから、例えば第 4楽章アダージェットから第 5楽章ロンドに移るとき、ホルンの信号音のあとに弦楽器が未だアダージェットの陶酔の余韻を込めて、長い弱音を奏するが、そこのテンポの異様な遅さは、ちょっと聴いたことがないようなもの。喩えて言えば、白昼夢に漂う青年が、遠くから響いてくる現実の音に対して、夢うつつのまま「もう少し寝ていたい」と呟いているように思えた。だが第 5楽章に入ると音楽は精力的に動き出し、それはもう上がっては下がり、押しては引いての音の大冒険になるのであり、その移行の妙には感嘆した。夢幻の境地にいた青年は、大地の上で躍動し、そして、諧謔味を帯びながらも、高らかに勝利を宣言したのである。大詰めの弦の細かい動きの波を聴きながら、マーラーが世紀のはじめに頭の中で描いた勝利のシーンはいかなるものだったのかと想像してみた。ショルティとシカゴ響によるこの曲の録音のジャケットには、世紀末のアルプスの画家セガンティーニの鳥肌立つ名作「悪しき母親たち」が使われていたことを、ふと思い出したりもした。
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このように、今回のマーラー 5番の演奏は極めてユニークなもので、まさに上岡の面目躍如といった印象であったが、だが、あえて難を言うと、弦楽器の厚みがもうひとつ充分でないという点が残念だった。私の記憶では、すみだトリフォニーホールで聴くこのオケの弦には、いつももっと輝きがあるように思うのだ。もともと上岡の指揮ぶりは、決して分厚い音でブカブカ鳴らすわけではないのであるが、このような壮大な作りの曲では、やはり音の厚みは欲しいところ。これが実際にホールの違いなのか、あるいは私の気のせいなのか、また次のこのコンビの演奏に接して考えてみたいと思っている。

プログラムには、音楽監督就任 1年を経た上岡のインタビューが掲載されている。いわく、オケがオープンになってきて、自分の音で音楽を正直に伝える作業が広がってきたと感じているとのこと。また、演奏会とはお客とともに作り上げるもの、という持論が展開されている。興味深いのは、「僕はあがり症の上にオペラのピットで演奏する生活が長かったせいか、ステージ上の指揮台に一人立つのは、いまだに緊張するんですね」と述べていること。いやいや、あがり症にはとても見えませんよ (笑)。これだけ自分独自の音楽を追求できるとは素晴らしいこと。だから私はこのコンビを、これからも応援したいのである。
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by yokohama7474 | 2017-09-15 01:28 | 音楽 (Live) | Comments(0)