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アンドレア・バッティストーニ指揮 東京フィル 2017年 9月24日 めぐろパーシモンホール

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このブログでは既におなじみのイタリアの若き名指揮者、アンドレア・バッティストーニと、彼が首席指揮者を務める東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) が、目黒にあるパーシモンホールで演奏会を開いた。このホールは目黒区の施設であり、収容人数 1,200名と小さめではあるが、ステージは充分大きく、オーケストラコンサートにも充分使用できるサイズである。
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パーシモンとは柿のことであり、柿ホールとはなんとも奇妙な名前に響くかもしれないが、それはこのホールが柿の木坂という坂に面していることによるもの。まあ、目黒区だからブラックアイホールでもよかったかもしれないが、うーん、それならパーシモンの方が絶対よいだろう (笑)。ともあれこのホールが開館 15周年を迎えたということで、このコンサートはそれを記念して開かれるもの。演奏曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : 劇音楽「エグモント」作品84 序曲
 ベートーヴェン : 交響曲第 9番ニ短調作品125「合唱付」

そう、日本では年末に盛んに演奏される第九である。この第九、確かに年末には驚くほど多くの回数が演奏されるものの、その祝祭的な特性から、何かのお祝い事などにおいても演奏されることがあり、今回はまさにそれに当たるわけである。もっとも、プログラムに掲載されている目黒区芸術文化振興財団の理事長の方のメッセージには、このホールでは開館以来 3年に一度、「めぐろで第九」という企画を実行していて、そこでは一般公募の合唱団が第九で日本の一流オケと共演し、今回もそのひとつだという。なるほど、上のポスターにも確かに「めぐろで第九」とある。私は初めてこのめぐろで第九を経験するが、さて一体どのようなことになったのか。
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バッティストーニと東フィルの第九は、既に 2015年12月19日のサントリーホールでの公演を聴いて、記事も書いた。そのときはこの若き指揮者が人生で初めて第九を指揮する機会であり、また東フィルとの関係は、現在の首席指揮者ではなく、未だ首席客演指揮者であった。その後共演をさらに重ねて来た手兵との今回の第九は楽しみである。そこで、このブログで第九を採り上げる際にいつも使用している「第九チェックシート」から始めよう。

・第九以外の演奏曲
  ベートーヴェン : 劇音楽「エグモント」作品84 序曲
・コントラバス本数
  6本
・ヴァイオリン対抗配置
  なし
・譜面使用の有無
  指揮者 : なし
  独唱者 : なし
  合唱団 : なし
・指揮棒の有無
  あり
・第 2楽章提示部の反復
  あり
・独唱者たちの入場
  第 2楽章と第 3楽章の間 (チューニング時)
・独唱者たちの位置
  合唱団の前 (オケの後ろ)
・第 3楽章と第 4楽章の間のアタッカ
  なし

前回のものと比べると、ほとんど違いはなく、違っているのは組み合わせの曲 (前回は同じベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第 3番) と、独唱者たちが譜面を見ていたかいないかくらいである。あと、今回は途中に休憩がなかったためか、第 2楽章と第 3楽章の間にチューニングが入ったのは確か前回と違っていたと思う。演奏の印象であるが、まず最初の「エグモント」は、結構ズシリという音で始まり、フレージングは丁寧で、終始内声部が充実した演奏であった。ただ、特に歌心が特殊に響くということもなく、ごくオーソドックスな演奏であったかと思う。そして第九であるが、全曲 1時間ほどの快速テンポで、前回をあまりよく覚えてはいないものの、もしかすると今回の方がさらに速かったのではないか。特に終楽章の冒頭すぐから始まる低弦 (先行楽章のテーマを否定し、歓喜のテーマに納得して、自ら歌い出すところまで) は、速いだけでなく音も短く切られていて、激しい突進力である。この部分に象徴されるように、決してしんねりむっつりした第九ではなく、強い表現力を表に出した、激しい演奏であったと思う。ただ、自分の書いた前回の記事を見ると、トランペットがイタリアの歌心を表したようなことを書いているが、今回はそのような印象はない。「エグモント」とともに、金管には僅かながら課題が残ったし、弦楽器の熱演にも関わらず、演奏全体の高揚感はもうひとつだったという気がする。ソリストたちは二期会の若手 (ソプラノ : 高橋絵理、メゾソプラノ : 富岡明子、テノール : 与儀巧、バリトン : 青山貴) で、安定した歌唱であったが、合唱 (めぐろ第九合唱団) は、第九のコンセプトをよく反映し、プロのような巧みさよりも、全員で音楽することの喜びを感じるタイプの歌唱であった。もちろんそれが第九の持ち味であり、そのような合唱が感動を呼ぶ要素は当然あって、今回も、かなりなご年配の方々を含めた合唱団の皆さんの歌う様子は、感動的であったと言える。この演奏会はそれだけでも聴いた価値があるというものだろう。合唱指揮は、泉智之という若い人であったが、プログラムには、バッティトーニ自身が合唱の指導をしているところの写真が載っている。今年の 5月27日というから、既に 4ヶ月も前で、彼の前回来日時 (このブログでも、その時の「春の祭典」をメインとした演奏会を紹介した) から既に準備していたということになる。
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私の印象では、今回は必ずしも瞠目の名演奏ということではなかったが、このコンビの目指すスタイルは聴き取ることができた。バッティストーニは、これからもまだまだこのオケとの関係を深めて行ってくれるであろうから、様々な曲を聴かせてほしいものである。若干 30歳の将来有望な指揮者が成長する舞台が東京となれば、こんな素晴らしいことはないし、定期的に第九を聴くこともできれば、それによって彼の成長を定点観測できることにもなると思う。

さて、私はこれから出張に出てしまうので、一週間ほどブログの更新はできません。何卒ご容赦を。

by yokohama7474 | 2017-09-24 20:15 | 音楽 (Live) | Comments(0)

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 (ピアノ : デニス・コジュヒン) 2017年 9月23日 NHK ホール

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NHK 交響楽団 (通称「N 響」) が首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィと取り組む今月の定期演奏会の 2つめのプログラム。最初のプログラムであったショスタコーヴィチ 7番の壮絶な演奏については既にご紹介した。そして今回も、ショスタコーヴィチと同じロシアの作曲家たちによる曲目が組まれたのである。
 グリンカ : 幻想的ワルツ
 ラフマニノフ : ピアノ協奏曲第 4番ト短調作品40 (ピアノ : デニス・コジュヒン)
 スクリャービン : 交響曲第 2番ハ短調作品29

これはなんとも渋い曲目だ。誰もが知る有名曲はひとつも含まれていない。これでは会場はガラガラかと思いきや、なんのことはない、かなりの混雑である。ヤルヴィと N 響の演奏は、曲目が何であれ聴衆が集まるのか。あるいは東京の聴衆は有名曲には既に食傷気味で、このような珍しい曲にこそ興味を惹かれるのであろうか。思えば会場の NHK ホールでは、つい 9/21 (木) にバイエルン国立歌劇場の「タンホイザー」が上演されたばかり。今回の N 響の演奏会は、その翌日と翌々日、9/22 (金) と 9/23 (土) に開かれたもの。逆に言うと N 響の定期公演があるがゆえに、「タンホイザー」の週末公演はなかったということだろう。あ、これは N 響への非難でもなんでもなく、何年も前から決まっていたはずのその日程を、バイエルンの公演が回避できなかった不運を思う。
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ともあれ、ヤルヴィと N 響の好調を、このような渋い曲目で再確認するのは興味深い経験であった。最初のグリンカの幻想的ワルツであるが、一般的な知名度はほとんどゼロであるとは言え、どこかで聴いた記憶があると思ったら、今年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンにおけるドミトリー・リス指揮ウラル・フィルの演奏会であった (今年の 5月 6日の記事ご参照)。10分足らずの小曲であるが、もともとはピアノ曲で、グリンカ (1804 - 1857) が恋した女性に捧げるために 1839年に作曲したもの。ヤルヴィはこの曲を子供の頃から愛好しているという。また、あるロシアの音楽評論家は、「ロシアのワルツはすべてこの曲の中に含まれている」と述べているらしい。そう言えばロシアを代表するチャイコフスキーは、バレエ曲から管弦楽曲から、果ては交響曲まで、素晴らしいワルツを沢山書いたが、なるほどその源流がこの、ロシア音楽の父と呼ばれるグリンカにあったとは。短い中にも曲想の変化が何度も現れる曲で、今回も N 響の多彩な表現力がヤルヴィの棒の下、大変な洗練度を伴って発揮された。こういう佳曲があるとは、本当にクラシック音楽は奥が深い。

さて、2曲目も興味深い。通常なら 2番と 3番しか演奏されないと言って過言ではないラフマニノフのピアノ協奏曲であるが、今回演奏されたのは 4番である。この作曲家の最後のピアノ協奏曲で、作品番号 40ということは、彼の全作品の中でも最後から 6番目ということだ。但し、このブログでは過去にも何度か触れてきているが、ラフマニノフは後年に至って作曲のペースが落ちてしまったので、この曲も 1926年、作曲者 53歳のときの作品で、晩年の作ではない (但しその後改訂され、1941年に決定稿が完成)。だが、世の中のこの曲への評価は厳しく、ほとんど演奏されないのが実情だ。かく言う私も、CD で聴いたことはあっても、実演を聴いた記憶はない。そして今回の注目は、ソリストである。最近立て続けにロシアの若手ピアニストの演奏に触れてきたが、今回もまたまた若手ロシア人ピアニスト、1986年生まれのデニス・コジュヒンの演奏に初めて接することとなった。経歴を見ると、2010年のエリーザベト王妃国際コンクールの優勝者である。日本には既に 2011年に初来日を果たしているという。
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このコジュヒンのピアノは、明晰かつ抒情的なものだと聴いた。このラフマニノフの 4番のコンチェルトは、全体を見てみると決して傑作とは言い難いが、時にこの作曲家特有の抒情性と劇性が聴かれ、また時にはジャズを思わせるようなリズミカルな部分も登場して、駄作としてしまうのはもったいない。コジュヒンはごく自然にこの曲に接し、新たな魅力を発見させるというよりは、曲の持ち味を最大限引き出そうとしていたように思われた。テクニックも安定しており、最近聴いたほかのロシアの若手ピアニストたちと比べても遜色ない。あえて難を言うとすると、もっと奔放に踏み外してもよいようにも思ったが、いかがであろうか。アンコールは、両手で口の回りにメガホンを作り、「スクリャービン、エチュード」と説明した。かつてホロヴィッツもレパートリーとしていた、スクリャービンの練習曲嬰ハ短調作品 2-1。これは、後半のプログラムがスクリャービンの交響曲であったことと関係しているのであろう。怪しさよりも懐かしさの聴かれるスクリャービンであった。

そして後半は、これまた珍しいスクリャービンの 2番。どうも東京では最近、スクリャービンと、それからラフマニノフの交響曲を聴く機会が増えているように思うが、これは世界的な傾向なのであろうか。以前の記事にも書いた通り、この 2人はモスクワ音楽院で同期であった仲。その後作曲家としての個性は随分と異なるものになってしまったが、どこかに共通する部分があるのかもしれない。この 2番は 1901年、スクリャービン 29歳のときの作で、5楽章からなる大作。演奏時間は 50分程度である。私などは、スクリャービンの 2番と言えば、副題が「悪魔的な詩」だよねと反射的に思うのだが、今回のプログラムによると、その名称には根拠がなく、作曲者の命名ではないので、最近では使われなくなっているらしい。まぁ確かにこの作曲家の後年の神秘主義とは異なり、後期ロマン派風の作風なので、何も悪魔的などというおどろおどろしい副題は不要ということだろうか。でも、副題があった方が親しみやすいとも言えると思うが。ともあれここでのヤルヴィと N 響はまた、見事に充実した演奏を聴かせた。音が隆起して引いて行くような箇所では、その力感と余韻の双方を味わうことができたし、金管の迫力も木管のニュアンスも、そしていつもながらに美しい弦も、一体となって音の流れを作り出していた。この曲も、CD ではともかく、実演では多分初めて聴いたと思うが、なじみのない曲であっても、このような水準の演奏をしてもらえば、東京の聴衆の耳もさらに進化して行くことは間違いない。レパートリーの点でも、ブルックナーやマーラーの大曲は既に演奏し尽された感があり、それらに続く大規模なシンフォニックレパートリーとして、このスクリャービンやラフマニノフが選ばれているのかなぁと漠然と考えるが、彼らの作品は、決してすべてが傑作ではない。しかしながら、鳴るべき音が鳴っている今回のような演奏で聴くことで、19世紀末から 20世紀にかけてのロシア音楽についてのイメージを持つことができ、例えばそれを、それこそマーラーやシュトラウスや、あるいはドビュッシーやラヴェルと比較することによって、聴衆の知性と感性は大いに刺激されるのである。その意味では、ヤルヴィのような広いレパートリーと卓越した技術を持った指揮者によって、まだまだ東京の音楽界は面白くなることが期待できる。今月彼の振る N 響定期の残りのプログラムはオール・バルトーク。私は残念ながら聴きに行くことはできないが、これまた切れのよい名演、間違いなしだろう。

by yokohama7474 | 2017-09-24 01:32 | 音楽 (Live) | Comments(0)

新感染 ファイナル・エクスプレス (ヨン・サンホ監督 / 英題 : Train to Busan)

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最近は、メジャー大作からちょっと渋めの文芸映画、ドキュメンタリー、また邦画も含めて、見たいと思う映画が目白押しである。日常生活の中であれこれの些事に時間を取られる身としては、それらの映画を極力多くを見るために、まずは優先度を決めてから具体的予定を立てる必要がある。もちろん、いつもうまく行くわけではないのは致し方ないのだが、最近では最も強く見たいと思ったこの映画は、なんとか見ることができた。そして、期待通りのクオリティに、もう感涙が止まらない。いや、もちろん、本当に泣いているわけではない。だが、もしこれがゾンビ映画とご存じない方はそのまま誤解をもって劇場に向かって頂きたいし、もしご存じの方は、新しいタイプのゾンビ映画がこれほどの面白さで実現したことを、とりあえず身近のどなたかと喜んで頂きたい。劇場で見た予告編で、女子高生たちが、途中まで顔を手で覆いながら怖がっていたにも関わらず、ラストではまさかの号泣!! ということになっていた。そういう映画なのである。何があっても、守り抜け!!
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私がゾンビ映画の大ファンであることは以前も書いた。もちろん、世の中のありとあらゆる分野でマニアの方々が存在し、ゾンビ映画に関する私の知識も経験も、その道のマニアには足元にも及ばないのであるが、ただそれでも、ゾンビ映画の様々な設定や表現が、人々の感性や社会意識にいかに強く訴えかけて来るかということについての認識は、人後に落ちるものではないと思っている。そんなわけで、この韓国製ゾンビ映画に対して、ただならぬ期待感がいっぱいであったのである。ゾンビとは、謎のウィルスに感染することで死者が甦って歩き出し、そのゾンビに噛まれた者はそのウィルスに感染して生者を襲い始めるというのが、この分野のお定まりの設定である。題名については当然、日本では新幹線とかけて「新感染」という言葉をあてはめているわけである。ここで舞台になっているのは、韓国の高速鉄道、KTX であって、日本の新幹線ではない。ともあれ、疾走する高速鉄道の中でゾンビたちが大量発生。いわば縦長の密室である。さあ主人公はいかにして家族や仲間を守ることができるのか!! という重い課題を背負った映画である。舞台となる KTX には私も随分以前に一度乗ったことがあって、ソウルから慶州 (キョンジュ) に向かうのに、東大邱 (トンテグ) まで利用したのであった。この KTX の終点は釜山 (プサン)。よってこの映画の英題は、"Train to Busan" なのである。この映画には KTX とその運営会社である Korail のロゴが随所に出て来るので、この鉄道会社の協力のもとで撮影されたものであろう。
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ストーリーは、単純と言えば極めて単純。ソウルで証券会社のファンドマネージャーをしているソグは、仕事熱心なあまり家庭を顧みず、妻とは別居状態。だが、ひとり娘スアンの誕生日に、スアンをプサンに住む妻のもとに連れて行くため、KTX に乗り込む。だがその列車には、謎の病原菌に感染した若い女性が飛び乗り、彼女が乗務員に襲い掛かることで、狭い列車の中での集団感染が始まる。時速 300kmで疾走する KTX の中、どこにも逃げ場はない。果たしてソグは娘スアンを守れるのか? というもの。これがすべての始まり。
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繰り返しだが、これは本当によくできた映画なのである。予告編では列車の中をゾンビたちが折り重なって迫ってくるシーンが見られ、それは本当に「ヤバい」映像であったが、なんのことはない、そのシーンは列車内の感染開始シーンからほどなくして出て来る。もし自分がその場に居合わせたなら、いかにして逃れようかと思うと、本当に絶望的な思いに駆られるのである。
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列車はただ走るだけだから、何もしなければ各車両順番にゾンビたちに占拠されて一巻の終わりなのであるが、そこはよく考えられていて、ゾンビたちにはある限界と習性がある。生存者たちはそこに目をつけ、あらゆる知恵と勇気を振り絞って、何両か離れたところにいる家族や友人のもとへ、決死の移動をするのだ。この設定は本当によく考えられていて、今思い出しても面白い。見ているうちに絶望から少しずつ希望が湧いて来るのである。そして、運転手のところにまでゾンビたちは辿り着かないので、列車は途中で停まることとなる。なんだ、そこで舞台は列車から街に移るのかと思いきや、その駅 (テジョン) ではこんなことに。そして列車は再び走り出すことを余儀なくされるのだ。
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私はこの手のゾンビ物のパニック性が大好きで、夢でも時々時々何かに追われることがあるのだが、いつも夢の中で蛮勇を振り絞って敵と戦い、逃げるしかないと思うと全力で逃げて (笑)、そして目が覚めて、夢で本当によかったと安心するとともに、朦朧とした意識のまま、いつの日か自分がそんな目に遭ったときにどのようにして生き残るかに、漠然と思いを致すのである。この映画はさしずめ、ゾンビに襲われる、または類似の事態に出くわした際に、いかに生き残るかについてのヒントに満ちていると言えるだろう。もちろん、そんな事態に出会うことがなければそれに越したことはないのだが・・・。ともあれ、多忙な毎日を送るとともに、富裕層に属して様々なコネを持っている主人公ソグは、自分と娘だけは生き残ろうと知恵と体力の限りを尽くすのだが、結局何人かの仲間とともにゾンビたちと対決することを決意。抜け駆けしてでも自分と愛する娘だけは守るという思いは、徐々に、たまたま同じ列車に乗り合わせた仲間たちとともに戦おうという強い連帯感に変わって行く。そのような点は、まさに人間ドラマであり、ゾンビ物という極端な設定になっているので見落としがちかもしれないが、危機に瀕した人間にとって一体何が重要なのか、という重い問いかけになっているのだ。
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次から次へと襲い来る危機と、それへの主人公たちの対処は本当によく考えられていて、なるほどその手があったか、と唸らされる。もちろん、仲間たちは徐々に減って行ってしまうのだが、その描き方も秀逸。また、生き残った人たちの中には、最後まで自分だけ逃げられればよいと思う人もおり、せっかくゾンビたちの間を抜けて彼らのところに辿り着いても、感染を恐れる人たちから隔離を命じられたりする。そのあたりには人間の本性が呵責なく描かれており、本当に心に刺さってくるのである。そしてそして、このような絶体絶命の危機に。
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これ以上書くとネタバレになるのでやめておくが、まあとにかく、大変に創意工夫に富んだ映画であるとともに、人間や社会についていろいろなことを考えさせられる映画でもあるのである。それゆえ、ラストで大号泣は無理もないこと。私が見たときも、劇場で何人もの人たちが鼻をすすっていた。人間とゾンビを隔てるものは何か。最後に生き残る人たちはそれぞれ、期せずしてそのことを体現するのであり、それに気づくと、生きていることの尊さに気づくことになる。これほど感動的なゾンビ映画が、未だかつてあっただろうか。こんなすごい映画を作ったのは、1978年生まれのヨン・サンホという監督。
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彼の経歴を見ると、もともとアニメの監督で、これまでにアニメ長編を 3本監督しており、この映画が実写長編デビューなのである。これからが本当に楽しみな監督だ。実は彼の 3本の長編アニメ作品のうちの一本、「ソウル・ステーション / パンデミック」は、この「新感染 ファイナル・エクスプレス」の前日譚にあたるらしい。日本でも 9月30日に公開になるので、これも必見だろう。
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まあそれにしても、この映画に学ぶゾンビ虐待法はよくできている。よくできているのだが、もしこれが日本の新幹線で起こったらどうしよう。日本では至るところが自動ドアであり、韓国の KTX と違って、新幹線も当然自動ドアなのである。ということは、ゾンビたちが車両の前まで迫ったところで、ドアがそれこそ自動的に奴らを中に入れてしまう。もし車両に入って来るゾンビを防ぐためにドアを締め切りたいと思ったらどうすればよいのだろう。きっと新幹線のドアも、どこかをいじれば手動式になるのではないかと思うが・・・。今度新幹線に乗ったらまじまじと調べてみよう。不審者と思われて職務質問を受けたら、「車内でゾンビ感染が発生した際、人間たちがともに戦えるように準備しているんです」と答えよう・・・。いやいや、良識ある社会人なら、それは空想にとどめて、そんな日が来ないことをひたすら祈るしかない (笑)。

by yokohama7474 | 2017-09-24 00:08 | 映画 | Comments(2)

三度目の殺人 (是枝裕和監督)

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このブログで映画の記事を書いていることで、自分の好みを全世界にさらけ出していることになっているとは、以前から気づいている。一部芸術映画もあるものの、ホラー、アクション、SF、サスペンスものがほとんどなのである。そんなことだから、映画監督是枝裕和が名声を獲得して行く過程を知りながらも、彼の採り上げる題材は私にとってそれほど興味をそそるものでないケースが多く、ちょっと面白そうかなと思っても、劇場に足を運んで彼の作品を見るという経験は、これまでになかったのである。だがこの映画は、是非見てみたいと思った。30年前に殺人の前科のある男が、またしても殺人犯として捕えられる。なんとかして減刑を勝ち取ろうとする弁護士をあざ笑うかのように、供述をコロコロと変える男。真相究明の過程で微妙に絡んでくる、陰のある被害者の娘。上のポスターにある通り、役所広司、福山雅治、広瀬すずの 3人が中心人物たちを演じる。ポスターのコピーにある「犯人は捕まった。真実は逃げつづけた」とは、一体どういう意味なのか。この写真の左端が是枝監督。
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様々な意味で、非常に丁寧に作られた映画であると思う。音響、映像、語られる言葉、「逃げつづける」ストーリー。だがそのストーリーの逃げ方には、役者の力が大きく貢献している。冒頭の殺人のイメージ以降は、多くは獄中の犯人を弁護士たちが訪問して面会するシーン、弁護士が様々な関係者を訪問するシーンや、仲間で議論するシーン、そして法廷のシーン。それらが映画の大部分を占めており、一部幻想シーンでは広い屋外が出て来るものの、基本的には室内劇の組み合わせでできているような映画である。その流れの中で、繰り返し出て来る犯人との面会シーンの息詰まる迫力には、まさに瞠目する。役所広司の演技はここで鬼気迫るものを帯びており、対する福山雅治も、役所に触発されるような緊張感を漲らせてくる。この一連のシーンを見るだけでも価値のある映画と言ってもよいだろう。
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役所の演技を鬼気迫ると表現したが、実はここで彼の演じる謎の「犯人」、三隅は、とても凶悪犯とは思えないような落ち着いた人間であり、その目は優しく、語り口は穏やかで、弁護士に接する態度にも気遣いが見られる。その一方で、一旦意に添わぬ話題に入ると激昂することもあり、弁護士たちの行ったことを激しく非難する。なので、この演技が展開される場所の狭さにも関わらず、実は微妙な感情の動きや、突然の興奮まで、範囲が広く多様であり、セリフのひとつひとつ、仕草の細部に至るまで、一瞬たりとも目が離せない。そして観客は、固唾を飲んでその演技を見守りながら、この男の語ることの一体何が嘘で何が真実であるのか、当惑しながら映画に引き込まれて行くことになる。ここで私が感心したのは、セリフである。日本語とはなかなかに厄介な言語であって、常に相手との相関関係によって、トーンや表現が変わるのである。端的な例が、一人称の多さ。相手や環境によって「おれ」「ぼく」「わたし」を使い分ける経験は、日本人男性にとって日常のことであり、また、二人称として一般的であるはずの「あなた」よりも、相手の名を呼んで「○○さん」という方が座りがよい。英語では一人称は "I"、二人称は "you" であるという単純さとの対照は著しい。そこにはさらに、敬語というこれまたややこしいものが介在し、かくして日本人同士の会話には、忖度と遠慮による不明瞭さが、常につきまとうこととなるのである。この室内劇においては、その日本語の曖昧さの裏にある相手への気遣いというものが、セリフのトーンを変えることで、大変巧妙に描かれている。例えば終盤近くで福山が、「頼むよ、本当のことを言ってくれよ」と、敬語をかなぐり捨てて声を張り上げるシーンがあるが、エリートでありプロフェッショナルである弁護士が、クライアントとの対話という職務を越えて、人間として上げた声である。このセリフが流れる瞬間、見る者は登場人物たちの感情を、実感を持って理解することとなる。ほかの例を挙げよう。吉田綱太郎が福山の友人役の弁護士として出ていて、これも大変にいい味を出しているのであるが、どう見ても年は吉田が上なのに (実年齢では 10歳違い)、二人はため口をきいているのだ。設定では彼らは司法修習生の同期ということで、実際にそのようなため口が普通なのか否かはさておいて、日本における集団の中の「同期」という特別な関係を思わせる。その他、家主のおばちゃんとかスナックの経営者とか、脇役の人たちのセリフも実にリアルであり、随所に日本語によるコミュニケーションへの敏感な感性を感じさせる。実はこの映画、是枝は監督だけでなく、原案・脚本・編集まで手掛けている。なるほどこの感性が、彼の映画の持ち味なのであろう。
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さらにこの映画の美点は、その空気感の表現とでも言おうか。室内劇がメインで展開する作品であり、登場人物たちの顔のアップが多いだけに、一旦彼ら登場人物たちがどこか外部を訪問するとなると、その場所の空気感が際立ってくる。殺人事件という陰惨な出来事の真相解明の過程で地道な努力を続ける弁護士たちであるが、その間も世界では淡々と時間が流れている。それぞれの場所に吹いている風、どこからともなく聞こえてくる音、時間とともに変化する光。もしかしたら、漂っているかもしれないドブの悪臭や、夕げの支度の懐かしいにおい。そんなものを感じる瞬間が多く現れ、様々な人間がこの地上に生活しているのだという、そののっぴきならない事実を感じさせるのである。やはりこれも、作り手の感性が紡ぎ出す世界の様相なのであろう。ラストシーンには、そのような空気感が凝縮されている。
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このようなよくできた劇中の世界において、素晴らしい俳優たちの演技が輝いている。広瀬すずは CM でもおなじみの顔であり、もはや日本の若手女優を代表する存在だが、この映画を見て、私は彼女を天才であると思った。足に障害を持つ被害者の娘であり、秘密を抱えて暮らしている高校生。なかなかに複雑な感情表現を必要とされる役柄であるが、広瀬の演技には、考え考え口にする言葉の重みがあり、なぜそのようなセリフが必要であるのかを完全に理解していると思われる。ただ若いだけとか、ただ演技がうまいだけではとても達成できない水準に達している。何もこのような緊張感のある映画だけではなく、幅広く活躍して行くであろうが、このように丁寧に作られた映画での経験が、必ずや今後も彼女の演技に結実するだろう。
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それから、福山の父親のもと裁判官役で出ている橋爪功も見事なら、「シン・ゴジラ」でのクールな役人役で思わぬ人気 (?) を得た市川実日子が、検察官として同様のテイストで演技しているのも面白い。それから、斉藤由貴が被害者の妻役を演じているが、かなり癖のある役であり、たまたまなのかなんなのか、最近世間を騒がせた不倫騒動を思わせる内容もあって、若干鼻白む感を否めない。あ、もちろん、個人の感想です。音楽担当は、珍しいことにルドヴィコ・エイナウディというイタリア人作曲家で、繊細な映像を邪魔しない静謐な音楽はなかなかの出来であったと思う。是枝監督のたっての希望での参加ということらしい。これがその 2人のツーショット。
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このように大変よくできた映画であり、多くの人に感銘を与えるものであると思うが、2つだけ留保点を書いておこう。ひとつ、まあこれはウケ狙いのジョークであるが、弁護士を演じているはずの福山雅治が、法廷のシーンで「証人」の発音を「商人」と同じ発音としていたこと。しかも一度ならず二度ほども。これはやはり、ちょっとおかしいのではないか。あるいは法曹界には、そのような発音もあるのであろうか。それからもうひとつ。これはひとつめとは比較にならない、映画の根本にかかわることであるが、本件の結末である。要するに、犯人がはっきりと明示されることなく終わるのだ。もちろん、示されたヒントだけで犯人は明らかだろうと感じる人もいるかもしれないし、そもそも題名がなぜに「三度目」の殺人とされているかに、大きなヒントがあるとも言えるだろう。つまり、三度目はもちろん死刑を指しているのであろうが、ということは二度目もあるということだ。だが、私にとってはそんなことはどうでもよい。この感性豊かな作品において、その豊かな感性があればストーリー上、犯人を明確に示さずともよいという発想がもしあるなら、それにはちょっと異議があるということなのだ。映画にせよ小説にせよ、結末は見る者の想像力に任せるという方法もあることは先刻承知ではあるが、私としてはやはり、鑑賞者がその作品との出会いをきっちりと胸にしまうためには、作り手は勇気を持って犯人を明確にすべき (あるいは、完全に明確でなくとも、もう少し分かりやすくすべき) ではないかと思うのである。優れた作品を作る手腕を持つ芸術家なら、その点を避けて通ることは、いわば「言わぬが花」という日本的曖昧さの中に埋もれてしまうことではないだろうか。この作品は今年のヴェネツィア国際映画祭のコンペティションに出品されたらしく、その評価は寡聞にして知らないのだが、国際的に見れば、この終わり方はちょっと議論の余地のあるところだと思われてならない。どんな作品も完璧ではないが、今後の日本映画の発展に向けて、より海外にも通じる内容の映画を目指す方がよいのではないかと思ったことであった。

by yokohama7474 | 2017-09-23 12:56 | 映画 | Comments(2)

ワンダーウーマン (パティ・ジェンキンス監督 / 原題 : Wonder Woman)

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昨年このブログでも採り上げ、散々にけなした映画「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」において、突然登場した謎のスーパー美女。どうやら名前をワンダーウーマンというらしいことはその時に知ったのだが、この役を演じていたガル・ガドットという女優が単独の主人公を演じる映画がこれだ。バットマン、スーパーマンと同じく、DC 社のアメリカン・コミックに登場するキャラクターである。現時点ではマーヴェルのアベンジャー・シリーズには遅れを取っているが、DC もヒーロー集団であるジャスティス・リーグを主人公としたシリーズ映画を今後制作して行くようである。この「ワンダーウーマン」のあとには、やはりベン・アフレックがバットマンを演じる「ジャスティス・リーグ」という映画が控えていて、既に劇場に予告編もかかっている。

そもそもこのワンダーウーマンというキャラクターは、最近になって登場してきたものではなく、DC のアメコミの世界では非常に古く、1941年に初登場しているという。私が知らなかっただけで、既に 75年以上の歴史があるばかりか、DC のキャラクターとしては、バットマン、スーパーマンと並ぶ 3大重要キャラクターであるというのだ。それはまたお見それしました。
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そもそも私がこのキャラクターを知らなかったのは、バットマンやスーパーマンと違って、映画化されていなかったことによる。アニメ映画は制作されたことがあるが、実写は今回が初めてという。コミックの世界でそんなに人気者なら、もっと早く映画化されてもよかったように思うが、そもそも女性のヒーロー自体が数が少ないので、現代に至ってようやく強い女性のキャラクターが抵抗なく受け入れられるようになったということなのだろうか。

設定は、女性だけの島に育ったダイアナという女性が、その島の習慣に従って日々武道の鍛錬に明け暮れていたところ、ある日海に流れついた男と出会い、その男とともに悪い奴らをやっつけるというもの。予告編を見ていたときには、シックな格好をして男をなぎ倒すシーンしか出てこなかったので、彼女の敵がいかなる存在であったのかが判然としなかった。実際に見てみると、ここでもナチスが敵なのである。最近だけでも、ナチス・ドイツが悪として登場する映画を何本見ていることか。現代を舞台にした巨悪を描くと、時に救いのない内容になってしまうが、ナチスの場合には、やったことは誰がどう見ても絶対的に悪く、しかも史実として最後は敗北しているわけであるから、悪として描きやすいという面はあるのだろう。ともあれこのワンダーウーマン、いわゆるアマゾネスの一員、いやその中でも特別な存在なのである。そんな役を演じる女優、1985年生まれでイスラエル出身のガル・ガドットが、なんと言っても素晴らしい。もともとモデルで、かつて「世界で最も美しい顔 100人」の第 2位に選ばれたこともあるという。また、彼女はこれまで「ワイルド・スピード」シリーズに出ているらしいが、私は残念ながら一本も見たことがないので、このワンダーウーマンの役で初めてお目にかかるのである。
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彼女がこの役を演じていることに好感を持てるのは、顔やスタイルがよいということだけでない。それは、過度にセクシーすぎず、優しさや知的なものも感じさせるピュアな雰囲気を、常に持っているからだろう。もちろん、CG に大いに助けられているとはいえ、派手なアクションもスマートに決めている。これは、できそうでなかなかできない演技だと思う。上のポスターにある通り、「美しくぶっ飛ばす」ワンダーウーマンは、見ていてスカッとすること受け合いだ。ストーリー展開は明快で、敵もはっきりしている・・・はず。もちろん、意外性も仕組まれているので、誰もが面白く見ることができるだろう、

相手役は私の好きな俳優、クリス・パインであるが、正直なところ、この映画ではガル・ガドットに食われてしまっている感がある。英国のスパイ活動に従事する米国人の役なのだが、「スタートレック」シリーズや「エージェント : ライアン」に比べると、役柄自体が少し優等生的であり、印象が薄いことは否めない。
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それから、今や英国を代表する俳優であるデヴィッド・シューリスが凄い。何がどう凄いかは書けないが、私はここでの彼の演技に敬服する!!
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この映画は世界で興行成績が好調であるようだが、監督はパティ・ジェンキンスという女流で、今回が長編映画 2作目。1作目は、あのシャリーズ・セロンが醜い殺人鬼を演じた「モンスター」(2003年) であった。なかなかの手腕であると思うし、2年後に公開予定のこの「ワンダーウーマン」の次回作の監督にも決定しているようだ。
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まぁ所詮はアメコミの映画化であり、荒唐無稽な設定も多々あるのだが、戦時中から現代まで、年を取らないワンダーウーマンの活躍は、ちょっと新しいタイプの映像体験を可能にしてくれる。最後には敵と一騎打ちになり、新たな武器もなく、気合と根性だけでそれを乗り切るワンダーウーマンであるが (笑)、まあよいではないか。このようなご時世、単純に映画に入り込むことは、本当に幸せな体験なのであると思う。

by yokohama7474 | 2017-09-23 00:58 | 音楽 (Live) | Comments(0)

バイエルン国立歌劇場来日公演 ワーグナー : 歌劇「タンホイザー」(キリル・ペトレンコ指揮 / ロメオ・カステルッチ演出) 2017年 9月21日 NHK ホール

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ドイツ南部、バイエルン州の州都ミュンヘンにあるバイエルン国立歌劇場は、ドイツ国内はもちろん、世界的に見てもその歴史と実績において、まぎれもなくトップクラスのオペラハウスである。もちろん、ワーグナーはここバイエルンの国王ルートヴィヒ 2世の庇護を受けたわけだし、リヒャルト・シュトラウスはここミュンヘンの出身である。なので、この 2人の作曲家の作品群は、この歌劇場の宝である。指揮者陣も、ブルーノ・ワルター、ハンス・クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、ゲオルク・ショルティ、ウォルガンク・サヴァリッシュなどの歴史的巨匠たちが大きな貢献を果たして来た。私はこれまでにミュンヘンは 2回訪れていて、アルテとノイエの両ピナコテーク (要するに新旧の絵画館)、レーンバッハ・ハウス、画家フランツ・フォン・シュトゥックの旧宅などは訪問したが、残念ながらオペラもオーケストラコンサートも、ここでは経験したことがない。一度は、スメタナの「売られた花嫁」という、誰もが垂涎の超人気オペラとは思えない作品を見ようと思い、当日気軽にボックスオフィスに出向いたところ、既にソールドアウトで愕然とした。すると、当時このオペラハウスの音楽監督に任命されたばかりだった (と思う) 指揮者ケント・ナガノが、ボックスオフィスのすぐ横を関係者と話しながら通り過ぎて行ったのである。この話、特にオチはないが (笑)、そんなバイエルン国立歌劇場、通称ミュンヘン・オペラの 6年ぶり 7度目の来日公演が始まった。今回の目玉はなんと言ってもこの人、現在の音楽監督であるロシア人、キリル・ペトレンコである。
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既に、9月17日 (日) に東京文化会館で行われた、マーラー 5番をメインとするオーケストラコンサートの様子はこのブログでもご紹介したが、2019年秋にベルリン・フィルの首席指揮者・芸術監督に就任することが決まっているこの指揮者の初来日には、クラシック・ファンなら誰もが興味津々であろう。今回彼が指揮するオペラは、ワーグナーの比較的初期の作品「タンホイザー」である。今回私が聴いた 9/21 (木) が初日で、9/25 (月)、9/28 (木) と 3回の公演が開かれるが、実はすべて 15時開演。ホールと関係者のスケジュールの都合で、平日ばかりになったのは致し方なかったのだろうか。だが、平日のこの時刻ということは、勤め人には非常にきつい。事前に調べると、恐らく週末公演がないという事情であろう、どの日もチケットは完売ではなかった。いかにペトレンコの話題性をもってしても、平日に大入り満員とはならなかったわけである。もちろん、海外一流オペラハウスの引っ越し公演の常で、チケットが高額であることも苦戦の要因であることは確かだろう。私はなんとか最安に近い席のチケットをゲットし、前広に有給休暇を取得することで、この公演に出かけることができた。現場に行ってみると、それはこの巨大な NHK ホールのこと、多少席が空いていても、充分多くの聴衆が集まっている。

今回上演される「タンホイザー」は、今年の 5月にミュンヘンでプレミア上演されたばかりの新演出。1960年生まれのイタリア人、ロメオ・カステルッチが、演出のみならず、美術、衣裳、照明まで一手に手掛けるという才人ぶり。なのでこの舞台が面白くなければ、その責任はこの人が一身に背負うことになるのである (笑)。もともと舞台デザインと美術を学んだ人で、1981年から自らの劇団をイタリアで率いていて、オペラ演出を手掛けるようになったのは比較的最近のことらしい。この、ちょっとエゴン・シーレを思わせる (?) 風貌から、何かやってくれそうな気がするではないか。
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このあたりで私の今回の上演についての感想を一言で述べると、ちょっと戸惑った、ということになるだろうか。演出を面白かったと手放しで絶賛する気はないが、つまらなかったと一蹴する気もない。また、歌手陣、それからペトレンコ指揮するオーケストラも、すべて完璧ということではなかったと思うが、興味深い箇所はあれこれあった。全体として成功と評価すべきか失敗と評価すべきか、ちょっと難しいというのが私の率直な感想なのである。

まず演出は、ちょっと驚く場面には枚挙にいとまがない。冒頭、序曲のシーンから動きがある。舞台全面に白い布が下がっているのだが、そのほんの一部分だけ、よく見るとシミのようなものがある。これは実は、その布の向うにある何かのシルエットであるのだ。その後、バッカナール (ワーグナーが本作をパリで上演する際に作曲した、序曲から続くバレエシーン) では、その「何か」が大量に現れて、ほとんどの観客がのけぞるだろう。映画の記事と同じく、ここはネタバレなしで行きたいのだが、ネット上やコンサートのチラシでも、既にこのようなヴィジュアル・イメージがあちこちにばら撒かれている。
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イタリアのデザイナー、フォルナゼッティを思わせる人の顔の一部アップに、何やら針灸のようなものが突き立っている!! と思うと、舞台前面には、弓を引いている女性たちがズラリと並んでいる。しかも、舞台から遥か遠くの私の席からは見えなかったが、彼女らは上半身裸?!とも見える写真がある。ここで印象づけられるこの上演の舞台設定は、神話の世界か、あるいは古代の祭祀 (例えばドルイド教) の世界であって、キリスト教やヨーロッパ中世というイメージとは程遠い。それから、最近の演出で重要な要素になっているのは、機動性というか、有体に言えば、舞台装置をなるべく簡素にすることであるようだが、その点でもこの演出は模範的。舞台装置はほとんどなく、今回もミュンヘンからのセットの運搬費は、それほど高くついていないだろう (笑)。だが、ヴィジュアルの作り方は非常に凝っていて、上の写真で写っている巨大な目は、気が付いたら耳になっているし、そのあとは、木の枝にも見える単色の絵画に変わって行くのである。その流れで行くと、第 2幕のこの映像がすごい。
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1幕の冒頭では月の象徴かに見えた背後の円形に、ここでも何か人体の一部のような映像が投影されているのだが、それが回転して、血のような赤い色が同心円を描いて流れて行く。私が見た線の描かれ方は、上の写真とは違っていたので、何らかの偶然性に任されているのであろう。どのような仕掛けなのか皆目分からないが、視覚的なイメージとしては強烈である。その他の忘れられない映像をいくつか挙げると、このジャバ・ザ・ハットをもっとヌメヌメさせたような (?) ヴェヌス。因みにこのシーンでは舞台前面に紗幕がかかっていて、紗幕を嫌悪する私としては、この点ばかりは苛立たしいことこの上ない。
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第 2幕では、「マグマ大使」に出て来る人間モドキ (古い!!) のような全身タイツの黒子が大勢現れ、一糸乱れぬ組体操 (?) を見せるのだが、これはどうも、バラエティ番組におけるコントのようで、ちょっとどうかと思ったものだ。大きなレースのカーテンが舞台上で何枚も動きながらそよいでいるというイメージは美しいのだが、その前で、こらこらアナタたちは一体何をしているの??? という感じ。せっかくの歌の殿堂での大行進曲が台無しではないか!!
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第 3幕は一転して終始暗い中で展開するのだが、なんとも奇妙なことに、タンホイザーやエリーザベトの背後で、2つの台にとっかえひっかえ、死体らしきものが一対ずつ置かれて行く。私の席からは詳細は見えなかったが、これはどうやら、日本でいう九相図のようなものではないか (興味のある方は、是非谷崎潤一郎の「少将滋幹 (しょうしょうしげもと) の母」を読まれたい)。最初は死後間もない死体に始まり、徐々に肉体が崩壊して行って、最後はこの写真のように骨になるまで。無常感を覚える。
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さあ、非常に限定的な舞台装置で展開するこれらの視覚イメージは、いかがであろうか。ひとつ言えることは、ドイツの劇場でのワーグナー上演にありがちな (あるいは、かつてはありがちだった?)、過剰かつ不必要に原作の設定から遠ざける、いわゆる読み替え演出というものとも少し違っていて、音楽の流れを邪魔するには至らないということだ。個々の場面の意味はよく分からないが、そうであっても何か刺激的なものを見ているという感覚はある。なので、その点は評価できるだろう。あとは、この「タンホイザー」という作品のメッセージをどう受け止めるかということではないか。上で見た通り、ここではヴェヌスは美しい魅惑的な女性ではなく醜悪だし、歌の殿堂はさっぱり盛り上がらないし、タンホイザーがローマから失意のうちに戻ってくるときには、既に誰も希望を抱いておらず、友人ヴォルフラムによる「夕星の歌」は、あたかも夜の闇の中で過去を惜しむように響く。どこか常に現実感を欠く印象となってしまっている。だから、面白くない演出とは言わないが、目から鱗ということにも、少なくとも私の場合はならなかった。

一方、歌手たちにも少し課題があったのではないか。なんと言っても主役を歌うクラウス・フロリアン・フォークトは、現在活躍中のテノールで、昨年の新国立劇場でも「ローエングリン」を歌っており、また、来年 4月の東京・春・音楽祭でも再び同じ役を歌うようだ。だが私はどうも彼の線の細い歌唱が苦手で、時に音程までもが怪しくなるように聴こえてならないのだ。美しい箇所もいろいろあるのだが、昔聴いたルネ・コロのような説得力は、残念ながら感じない。エリーザベトのアンネッテ・ダッシュは標準の出来で、まあこれも、バイロイト音楽祭の来日公演 (ジュゼッペ・シノーポリ指揮) でこの役を演じたシェリル・ステューダーが第 2幕で登場したときの衝撃を覚えていると、さすがに分が悪い。よかったのは、もちろんヴォルフラム役のマティアス・ゲルネ (そう言えば先日のマーラー 5番の演奏会では客席で聴いていた) と、領主ヘルマン役のゲオルク・ツェッペンフェルトといった、バス・バリトン陣であったろうか。

そしてペトレンコの指揮するオーケストラであるが、これも正直、ちょっと評価が難しい。冒頭はもっと重く始まるかと思いきや、ハーモニーを重視した意外とスムーズな流れであり、その後バッカナールに入っても、狂乱のイメージはそれほど沸き立ってこない。オーケストラが鳴っていないわけではないのだが、流れをうまくコントロールしようという意図のように聴こえた。また、上記の通り、第 2幕で大いに盛り上がるはずの大行進曲も、視覚的な要素も関係しているのか、推進力に圧倒されるには至らなかった。ただ、第 3幕の暗い舞台を這って行くようなオケの音には、何やら鬼気迫るものがあったと思う。ここには「パルシファル」や「トリスタン」を先取りする雰囲気があって、ペトレンコの指揮は、そのような深い表情に聴くべきものがあったのではないか。

我々は未だこの指揮者を充分体験できていない。今後様々な彼の演奏に触れてから、また今回の「タンホイザー」を思い出すこともあるかもしれない。演出を含め、「あ、あれはこういうことだったのか」と思う日が来るかもしれない。なので、この日の印象を心に留めておきたい。これは今回の記者会見の際の写真であるが、5月に本拠地で初演されたばかりのホヤホヤの演出を、現地と同じメンバーで 4ヶ月後にいながらにして聴くことができる我々東京の聴衆は、実に恵まれていると、改めて思うのである。だからと言ってすべて大絶賛ということではなくて、つまり、過度に有り難がることなく、問題意識をもって見ることができるのが、オペラの醍醐味なのである。あーあ、現地でも見たいなぁ。
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by yokohama7474 | 2017-09-22 01:42 | 音楽 (Live) | Comments(2)

レオナルド × ミケランジェロ展 三菱一号館美術館

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東京、丸の内の三菱一号館美術館で開かれているこの展覧会、会期は 3ヶ月以上あったのだが、ふと気づくと今週末で終了してしまう (東京のあと岐阜市歴史博物館に巡回)。私が訪れてから随分と時間が経ってしまったが、どのような展覧会であったのか、振り返ってみようと思う。

西洋美術史上知らぬ者とてない、いや、西洋美術に興味がなくとも誰もが知る、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ・ブオナローティ、この 2人の巨匠の作品を展示しているということで、そもそもが展示スペースが狭いこの美術館が大混雑になることを恐れつつ、訪問することとした。案の定、最初に訪問した週末には、建物の外にまで人の列ができていた。そこで一計を案じ、政府が推し進める働き方改革のひとつであるプレミアム・フライデー、つまりは毎月の最終金曜日には早く会社を出ようという運動に従って、定時前に会社を退出して美術館を再訪したところ、すいている!! 私の場合はこのプレミアム・フライデーをいつも有効活用しているのであるが、今回も大変に大きな成果があった。東京における経済活動にささやかながら貢献するとともに、自らに文化的刺激を与えることができたのである!! なんとも模範的国民ではないか (笑)。

さて、最近の展覧会ではよく写真撮影 OK のコーナーがあって、入場前にロッカーに手荷物全部を預けると、後で後悔することがあるが、今回もしかり。一旦展覧会を出てから荷物を取り出し、スマホと半券を握りしめて会場に戻り、撮った写真がこれらである。
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この美しい大理石の彫刻は、展覧会の最後に展示されている、ローマ郊外のバッサーノ・ロマーノという都市にあるサン・ヴィンチェンツィオ修道院付属聖堂が所蔵する、ミケランジェロの「十字架を持つキリスト (ジュスティアーニのキリスト)」 の実物である。制作は 1514 - 1516年。ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会のために制作されたが、制作過程で顔に黒い傷が現れたため (確かに上の写真でも写っている) 途中で放棄された。ミネルヴァ教会には今日、ミケランジェロの手になる別の完成作が置かれているが、この未完成の像の方は、依頼主の貴族の子孫によって売りに出され、その後つい最近までは所在が明確でなかったところ、2000年になってから、この像がそのミケランジェロの未完成作を 17世紀の彫刻家が完成させたものであると認定されたという。尚、この像のニックネームにあるジュスティアーニとは、この像が安置される聖堂を建てた、聖職者兼美術収集家の名。実はこの像を完成させた 17世紀の彫刻家とは、当時そのジュスティアーニのもとにいた、若き日のあのバロックの天才ベルニーニであるという、ちょっと出来過ぎの説もあるという。ともあれ、静かな展示室でこのような素晴らしい彫刻と向かい合う時間は、本当に貴重なものである。

この彫刻のほかの展示品にはスケッチなどの小品がほとんどのであるが、もちろんそれは当然のこと。ダ・ヴィンチとミケランジェロのオリジナルの油彩画を持って来るようなことになると、この敷地面積の狭い美術館は人でごった返してしまうだろう。そうではなく、ひとつひとつの紙片に天才たちの息吹が生々しく感じられる距離で接することを楽しむことこそ、この展覧会の醍醐味である。あまりに混雑していては、その貴重な時間を持つことができなくなってしまう。ポスターにあしらわれている 2点を見てみよう。これは、ダ・ヴィンチの「少女の頭部 / 『岩窟の聖母』の天使のための習作」(1483 - 1485年頃)。「この世で最も美しい素描」とも言われているらしい。
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「岩窟の聖母」は、よく知られている通り、ルーヴル美術館にあるものとロンドンのナショナル・ギャラリーにあるものとの 2点が残されているが、このスケッチは前者のもののようである。よく見るとこの 2作において、画面向かって右側にいる天使の顔の角度が (それから、姿勢そのものも) 違っているからだ。以下、上がルーヴル、下がナショナル・ギャラリー (あ、もちろん、どちらもこの展覧会には出品されていません!!)。
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そしてこれは、ミケランジェロの「『レダと白鳥』の頭部のための習作」(1530年頃)。これも美しいが、どうやらモデルは男性で、ミケランジェロの弟子であるらしい。下にはまつ毛を長くしたところを描いていて、より女性らしく見える工夫をしているようだ。この「レダと白鳥」は既に失われてしまった作品であるが、ダ・ヴィンチの同名作と併せ、あとでまた触れることとしたい。
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これも貴重な作品で、ダ・ヴィンチの「天使のための習作」(1470年代)。師であるアンドレア・デル・ヴェロッキオの「キリストの洗礼」(ウフィツィ美術館蔵) の画面左側に、若き日のダ・ヴィンチが描いた天使のスケッチである。
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この天使のあまりの美しさが評判になって、師匠を顔色なからしめたとは有名な話。完成作 (もちろん本展には出品されていません) はこんな感じ。確かに美しい。
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以前、アルチンボルド展の記事でも少し触れたが、ダ・ヴィンチは恐ろしいまでの写実性を持った芸術家であったが、その写実性は、ただ美しいものだけを描くためにあるのではなく、人間心理の真相に迫るような表現にも駆使されている。これは「老人の頭部」(1510 - 1515年頃)。老人の人生がそこに透けて見えるような顔は、実にリアリティがあり、またその一方で、まるでエイリアンのような不気味な顔なのである。
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事物のリアリティを求めるダ・ヴィンチの模索のあとは、膨大な紙片に残されているが、これは「顔と目の比率の研究」(1489 - 1490年頃)。文字はもちろん、鏡文字 (鏡に映して通常の文字になる、つまりは裏返しの文字) で書かれている。
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ダ・ヴィンチに比べるとミケランジェロはより人間くさいところが魅力である。これは「『トンド・ドーニ』の聖母のための頭部習作」(1504年頃)。
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「トンド・ドーニ」とは、ウフィツィ美術館所蔵になる板絵の聖家族の肖像の愛称で、このような、一度見たら絶対忘れないユニークな構図の作品だ。あ、もちろんこれも展覧会には出品されていません!!
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ミケランジェロの素描をあと 2点。「システィーナ礼拝堂天井画『ハマンの懲罰』のための人物習作」(1511 - 1512年頃) と、「背を向けた男性裸体像」(1504 - 1505年)。お得意の筋肉表現は力強いが、常に人間性が感じられる。
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ミケランジェロの小さめの彫刻がいくつか展示されている。これはフレンツェのカーサ・ブオナローティ (日本語では「ミケランジェロの家」と呼ばれる) 所蔵の「河神」(1525年頃)。顔や腕、足の一部を欠くトルソであるが、これでも復元されたものであるという。完成作ではなく「三次元モデル」(大作用に試作するものであろう) であるらしいが、それでもいかにもミケランジェロらしさが見て取れる作品だ。
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これはダ・ヴィンチの「髭のある男性頭部」(1502年頃)。ローマの軍人・政治家であったチェーザレ・ボルジアの肖像かとも言われているが定かではない。ここでもやはりダ・ヴィンチの筆致は容赦なく人間の内面を抉り出している。
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さて、ダ・ヴィンチとミケランジェロはともに、「レダと白鳥」のテーマによる油彩画を作成したが、現在ではいずれも失われてしまっている。だがいずれも模写が多く作成されたことで、今日でもそのイメージを持つことができる。これは作者不詳の「レオナルド・ダ・ヴィンチに基づく『レダと白鳥』」(1505 - 1510年頃)。レダの謎めいた笑みがダ・ヴィンチ風だし、卵から生まれる天使たちの不気味さも面白い。ただ、白鳥はちょっと品がないようにも見える (笑)。
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こちらは、フランチェスコ・ブリーナという画家に帰属する「レダと白鳥 (失われたミケランジェロ作品に基づく)」(1575年頃)。メディチ家礼拝堂の「夜」を思わせる女性の人体表現であるが、健康的なエロスがある。
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両者とも、いわゆる美術のだけでなく、建造物の設計等の実用的な活動を行った。これはミケランジェロの「プラート門の要塞化のための計画案 / 人物習作」(1529 - 1530年頃)。人物像の上に建築プランを書いているようだ。でもその組み合わせが、不思議と彼の創作意欲を実感させるのである。
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こちらはダ・ヴィンチの「大鎌を装備した戦車の二つの案」(1485年頃)。彼は様々な武器や軍事用の機械を考案したが、これは大きな鎌を装備した戦車で、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァに提案されたもの。まるで人形を使ったイメージのように手足を切られる敵の姿を描いている点、諧謔味もあるが、少し冷徹さも感じさせるように思う。
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最後に、両者の手稿をご紹介しよう。これはミケランジェロによるジョヴァンニ・フランチェスコ・ファトゥッチ宛の手紙 (1526年 6月17日)。宛先の人物はローマ駐在のフィレンツェ大聖堂の司祭で、ミケランジェロの友人でもあった。上でも言及したメディチ家礼拝堂のあるサン・ロレンツォ聖堂についての実務的な内容である。力強い作品の数々を残した人であるが、文字は意外と繊細で丁寧に見え、彼の人柄を想像することができる。
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こちらはダ・ヴィンチの「蛾が飛び回る炎を前にする人物像 / 詩文による解釈」(1483 - 1485年頃)。この写真では切れてしまっているが、左上に、座っている女性とその回りを飛んでいる蛾を描き、そこに詩が添えられている。空中を飛ぶ能力にうぬぼれて、蝋燭の光に飛び込んで羽根を燃やしてしまう蛾の愚かしさを歌っているらしい。驚くのは、実利的な記述のみならず、詩作まで鏡文字で書いてしまうことだ。万能の天才には、いかなる文章でも、他人に覗かれたくないという願望があったのだろうか。それとも彼らしく、何か実利的な理由でもあったのであろうか。
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このように、偉大なる 2つの個性に間近で向き合える、素晴らしい展覧会である。既に期日は残り少なく、次のプレミアム・フライデーには東京での展覧会は既に終了してしまっているが、秋の岐阜に出掛けて行くという選択肢もあり、それなら、より静かな環境で鑑賞できる。中部地区の方々はもとより、首都圏の方々も、一考の価値ありではないだろうか。

by yokohama7474 | 2017-09-21 12:02 | 美術・旅行 | Comments(0)

ダンケルク (クリストファー・ノーラン監督 / 原題 : Dunkirk)

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映画を見る際にこだわるポイントは、もちろん人によって様々であろうが、以前からこのブログで述べている通り、私の場合は、見るべき映画の選択において最も重要な要素は、監督なのである。その意味でこの映画は、もちろん必見であることは論を俟たない。なぜなら監督は、あのクリストファー・ノーランであるのだから。私にとって、いや、映画が好きなあらゆる人にとって、彼は間違いなく現代最高の映画監督のひとりである。2000年の出世作「メメント」に驚嘆して以来、私は彼の監督作をすべて見てきたが、およそ失望させられたことがない。これは実に驚異的なことなのであるが、さらに驚くのは、彼が未だ 47歳であること。これからの 30年、40年は、私自身があと何年生きるかは別として (笑)、ノーランの映画が一体どこまで進化するのか、本当に見ものであると思う。
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既に大々的に予告編で上映されていた通り、この作品は、ノーラン監督初の実話もの。1940年、第二次世界大戦の未だ初期、ナチスドイツが破竹の快進撃を続けているときに、フランス北部、ドーヴァー海峡に面した港街ダンケルクに追い詰められて逃げ場を失った 40万人の連合国 (もちろん、英国とフランスがメイン) 兵士たちが体験した絶体絶命のピンチを描いている。これも散々予告編で見たことであるが、この監督は CG は基本的に使わない主義で、本当に病院の建物一棟を爆破したり、空中に吊るした航空機を途中で輪切りにしたり、無重力空間を作り出すために巨大な部屋のセットを作ってそれを回転させたり・・・。そんな監督が戦時中の実話に挑むと、一体どういうことになるのであろうか。桟橋にひしめきあって救援を待つこのような夥しい数の兵士たちは、ダンケルクに追い詰められた全体の人数の中の、ほんの一握りなのである。
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私が見たのは、今時珍しい 35mm フィルムによるヴァージョン。もちろんデジタル映像に慣れた目には、ピントが甘く見える。最初はそれが気になったのであるが、徐々にそれに慣れてくると、あたかも戦場で撮影したようなリアルさがひしひしと感じられ、それによって、見ているのが苦しくなってきた。それにはほかにも理由があって、この映画には気の利いたストーリーテリングはなく、セリフや音楽は最小限。また、時計が時を刻むようなチクタクいう音が最初から最後まで聞こえるのである。ここに登場する兵士たちは、自分たちが大きな危機にさらされていることは皮膚感覚で分かっても、では、いついかなるかたちで絶対的な危機が訪れるのか、あるいは、いかなる手段で自分たちが救出されうるのか、そういったことに想像力を巡らせることができない。それは全くの極限状態であり、人間の生存本能が剥き出しになる状況であろう。今、平和な時代の平和な国に住む我々には、そのような極限状態を理解できると言うなら、それはおこがましいというものだ。だからこそ、この映画で疑似体験することには意味があろうと思うのである。世に言うダンケルク救出作戦の、実際の写真がこれだ。もし自分がこの中にいたら、果たしてどのように行動していただろうかと自問する。
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この映画の顕著な特色のひとつは、敵であるドイツ軍の人間を一切映像で見せていないことだ。メッサーシュミットの戦闘機が飛んだりしている映像はあっても、そこで操縦しているパイロットは映らないし、それ以外のいかなる箇所でも同じこと。つまりここでは、迫り来る敵軍ドイツという想定はあっても、それが人間であるのか、はたまた抽象的な「敵」であるのかすら描かれていない。つまり監督の意図は、敵には敵の事情なり、命を賭けた戦いがあるという事実を描くのではなく、連合国軍兵士たちにとっての、顔の見えない敵の脅威を描くということであったと思う。戦争映画において、敵をいかに描くかは重要な問題であるが、この映画のように、敵を一切描かないことで、兵士の抱いた恐怖をリアルに表現する手法はなかなかに思い切っている。ここで観客は、当日その場にいた兵士たちと同じように、顔も見えず、いつ現れるか分からない敵に怯えつつ、早く戦場を抜け出したい!! と切望するのである。見ていて苦しくなるようなこのリアリティ、さすがクリストファー・ノーランである。

そしてこの映画のキャストは、そのほぼ全員が男性。当然それも、歴史的事実に基づくリアルな設定であろう。ここに登場する様々な兵士たちや、彼らを迎えに行く民間の船に乗った人たちが、それぞれに直面する危機に立ち向かう。時には複数の人物の複数の危機のシーンが同時並行で描かれる。そこにはもちろんノーランの演出の妙はあるのであるが、その地獄絵図の凄まじさに、観客はただスクリーンに釘付けとなるのである。それからもうひとつさすがだと思ったのは、若い兵士たちに新人俳優を多く起用し、観客にとっても、見知らぬ兵士の経験する危機という点でのリアリティが存在することである。しかも、どの俳優も本当に精悍だし、素晴らしい存在感がある。きっと彼らの中から明日のスターが生まれてくるのではないか。これはトミーを演じるフィン・ホワイトヘッド。
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それから、何人かの実績のある俳優たちが、互いに共演することなく、それぞれが素晴らしい存在感を発揮している。まずなんと言っても、使命感に燃え、クールに敵を撃破する空軍パイロット、ファリアを演じるトム・ハーディが最高だ。そして、海から救出される謎の英国兵を演じるキリアン・マーフィー。加えて、もともとのシェイクスピア劇から活動の幅を広げ、今や英国を代表する偉大なる監督 / 俳優であるケネス・ブラナーの演じる海軍中佐。いずれも素晴らしい。繰り返しだが、これらの俳優同士がこの映画の中で出会うことは、決してないのである。
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またここでは、極限状態に置かれた人間たちの弱い部分も仮借なく描かれている。そのような弱い人間を責めるのは簡単だが、自分の命が危ない状況で、一体どこまで命を捨てる覚悟ができるのであろうか。戦争の真実が、結局は人間の真実を赤裸々に暴くのだということは、人間の持って生まれた宿命なのであろうか。決して万人が楽しめる娯楽作にはなっていないこの映画が訴える虚無感には、現代に生きる我々がしっかりと受け止めなくてはならない要素が多々ある。眼と心を大きく開いて、過去の戦争の凄惨な歴史と、立派な行いをした人々の姿を、自らのうちに取り込みたいと思う。そんなことをストレートに思わせる監督の手腕に脱帽しながら。

by yokohama7474 | 2017-09-19 23:56 | 映画 | Comments(0)

チョン・ミョンフン指揮 東京フィル (ピアノ : イム・ジュヒ) 2017年 9月18日 Bunkamura オーチャードホール

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東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) の指揮台を今月、首席指揮者のアンドレア・バッティストーニと分け合うのは、このオケの名誉音楽監督のチョン・ミョンフンである。7月に彼がこのオケと行ったマーラー「復活」の名演についてはこのブログでもご紹介したが、9/15 (金) にはサントリーホールでまたその「復活」を演奏、今回 9/18 (月・祝) と 9/21 (木) の 2回に亘って彼が振るのはベートーヴェンである。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 3番ハ短調作品37 (ピアノ : イム・ジュヒ)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調作品55「英雄」

チョンと東フィルは、2002年にベートーヴェンの交響曲全曲を演奏し、それはライヴ録音になっているが、その初日のメインの曲目がこの「英雄」(エロイカ) であったようだ。そのライヴ録音自体は、私の記憶では、それほど瞠目の名演という印象でもなかったが、それから 15年を経て、この多忙な世界的名指揮者がこれだけ頻繁に東フィルの指揮台に立ってくれている事実や、最近何度も実際に耳にしたこのコンビの充実ぶりから推して、今回の演奏には大変期待ができる。そしてその期待は十二分に満たされたのだが、今回もまた若い優れたピアニストについてまず語ることをお許し頂きたい。今回日本デビューを飾ったピアニストの名前はイム・ジュヒ。名前とこのような外見から、若い韓国の女流ピアニストであることは分かったが、事前に何の情報もないままに会場に足を運んだ。
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そしてプログラムに掲載されたバイオを見てびっくり!! 2000年10月生まれとある。ということは、来月の誕生日でようやく 17歳になるという若さなのである。なんと 9歳のときにゲルギエフとマリインスキー劇場管と共演、2012年にはロンドン響の韓国ツアーのサプライズゲストとして登場、そしてチョン・ミョンフンとは既に何度も共演しているという、天才少女である。プログラムに掲載されている彼女の言葉を引用しよう。

QUOTE
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第 3番は、マエストロ (注 : もちろんチョン・ミョンフンのこと) と 13歳の時に初めて共演しました。沢山の思い出があります。皆さんに楽しんでいただき、思い出を共有していただけたらと思います。
UNQUOTE

16歳の少女から思い出について言及あるとは、ちょっと早い気もするが (笑)、ともあれ 10代の音楽家にとって、チョン・ミョンフンとコンチェルトのソリストとして共演するということは、考えられないほどの名誉であろうし、韓国人ピアニストであればなおのこと、通常なら相当緊張するような事態だと思う。だが彼女の今回の演奏ぶりには緊張のかけらも感じられず、驚いた。いや、音楽を行う場に何国人とか何歳だとか性別がどうだとかいう区別が必要ないことは、いつもこのブログで私が主張していることであり、つまりはただその音楽の清冽な生命力に感銘を受けたということである。イムのピアノは本当に溌剌としていて臆するところがなく、明るい音で実にのびのびと音楽を楽しんでいて、このベートーヴェンとしては唯一の短調で書かれたピアノ協奏曲を、その悲劇性よりも生命力に重点を置いて表現した。もちろんミスタッチなど皆無であるだけでなく、この箇所はどう表現しようという迷いすら、一切見られない。これは非凡な演奏であったと言えるであろう。一方のチョンの伴奏は、これまた一切手加減のない強烈なもので、通常の協奏曲演奏なら、指揮台の手すりを取って、ソリストに顔を向けられるように指揮台自体を斜めにすることが多いが、今回はそれらはなく、後半の「エロイカ」と同じ指揮台の位置で、しかも指揮者は譜面台すら置いていない。若いソリストを優しく包むということではなく、丁々発止の勝負である。終楽章の大詰め間際の決め所でのティンパニの連打など、聴いたことのないくらいの迫力だ。そのようにして演奏を終えたイムは、ステージマナーだけは、未だ初々しい 10代のアーティストという感じで微笑ましく、ほんの 2度ほどステージから戻ってきたかと思うと、やおらアンコールを弾き出した。ヨハン・シュトラウスの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」であるが、なんともド派手なピアニズムを持った超絶技巧の曲に編曲されている。これはかつての名ピアニストであるジョルジュ・シフラが編曲したものであると後で知ったが、まさに伸び盛りのピアニストがその腕を存分に見せるという意味で、ここでは演奏者の若さを大いに称賛するべき内容の演奏であったと思う。これは、今回に先立つ文京シビックホールでの、同じプログラムでの演奏会のリハーサルの一コマ。自身名ピアニストであるチョンの薫陶を、若いイムは充分に受けたことであろう。彼女の思い出はまだまだこれから、偉大なものになって行くことは確実である。
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後半の「エロイカ」は、一言でいうと、疾走する荒馬のような音楽に仕上がっていて、凄まじい推進力を持つチョンの音楽が、献身的なオケの努力によって、まざまざとその威力を発揮した。そもそも彼の指揮ぶりには強い集中力があり、その指揮棒が空を切るうちに、徐々に熱を帯びて来るとすら感じられる時がある。今回のような、逃げも隠れもできない名曲において、チョンのような指揮者の真っ向勝負を聴くことは、そのまま音楽の持つ強い力を実感することにほかならない。彼の指揮ぶりは決して愛想のよいものではなく、場合によっては、昔のカラヤンのように、目を閉じてオケと目を合わせないように見えることもある。だが、その凝縮力、推進力は常にマックスに保たれているどころか、流れゆく音楽の場面場面で、オケのメンバーのインスピレーションを強く刺激していることは明らかだ。そして、ここぞという時には、グッと音楽の流れを引き寄せて、あたかも川の底を抉るようにして強い表現力を打ち出すことで、明らかに音楽の視野を広げてみせるのである。やはり、よほどお互いの意思の疎通がよくできる指揮者とオケの関係でなければ、そのような演奏は成立しないと思う。例えば今回の「エロイカ」では、第 1楽章展開部の後半や、第 2楽章後半で、弦が短い音を何度か強く奏する際に、ちょっと驚くような強調がなされることで、この 19世紀初頭に書かれた異形の大シンフォニーの神髄を聴くことができた。そう、この曲は 200年以上前に書かれたもので、オケの編成も至ってシンプル。木管はスタンダード (オーボエ、フルート、クラリネット、ファゴットが各 2本ずつ)、金管は、ホルンは 3本だがトランペット 2本で、当然ながらトロンボーンもチューバも (まだ) ない。打楽器はティンパニだけである。つまり、ハイドンやモーツァルトのシンフォニーと変わらない編成である (弦は、今回の演奏ではコントラバス 6本)。それなのに、音の勢いや、そこに込められた感情も、古典派としては異常なほどの域に達しているわけである。これまでに文字通り数限りなく聴いている曲であるにも関わらず、改めてそんなことを思わせる演奏には、音楽を聴く醍醐味を深く感じることができるとしか言いようがない。
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終演後にはすぐにブラヴォーがかかり、数人のファンはスタンディングオヴェーションを送るに至った。快演に対してチョンも満面の笑みであり、オケの全力演奏を労っていた。プログラムに載っているチョンのインタビューが感慨深い。

QUOTE
東京フィルは適応性があってフレキシブル。アンサンブルが驚異的に素晴らしい。何度も言っていますが、東京フィルは私の日本の家族です。(中略) 今は、プロの指揮者として働くのではなく、個人的な理由で活動していきたいと思っています。そのオーケストラと特別に温かな関係があるとかでないと、そこには行きません。
UNQUOTE

なんという素晴らしいコメントか。これだけの指揮者がこれだけの思い入れをもって東京にやって来て、東フィルを指揮してくれていることには、東京の一聴衆として、本当に感謝したい気持ちである。次のチョンの東フィルへの登場は、来年 1月。モーツァルトの「ジュピター」とベルリオーズの幻想交響曲だ。来年には 3月にインバルと都響も幻想を演奏するので、またまた東京の音楽界には活気が漲ることでしょう!! あ、もちろん、そこに至るまでにも、東京の音楽界は、それはもう大変なことになりますので、なんとか記事にして行きたいと思っています。思い出作りと言うには凄すぎる内容ですよね (笑)。

by yokohama7474 | 2017-09-19 01:29 | 音楽 (Live) | Comments(0)

キリル・ペトレンコ指揮 バイエルン国立管弦楽団 (ピアノ : イゴール・レヴィット) 2017年 9月17日 東京文化会館

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通常このブログでコンサートを採り上げるときには大抵、そのコンサートのチラシやポスターを冒頭に利用させてもらうのであるが、今回はそれが思うようにできない。というのも、一応チラシはあるにはあるが、このようなモノクロの地味なものなのである。
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これは、都民劇場という音楽サークルの主催によるコンサートであり、シリーズ券のほかに一回券も発売されたわけであるが、ご覧の通りあまり派手な宣伝にはならなかった。だがなんのことはない、会場に足を運んでみると完売御礼だ。その盛況の理由のほとんどは、冒頭に写真を掲げた指揮者にあるだろう。クラシックファンは先刻ご承知であろうが、このブログのポリシーに従って、一般の方でも分かるように説明すると、この 1972年生まれのロシア人指揮者、キリル・ペトレンコは、2018年からサイモン・ラトルの後任としてベルリン・フィルの首席指揮者・芸術監督に就任するのである。ベルリン・フィルの首席とは、音楽界広しと言えども、オーケストラのポジションとしては文字通り、世界に冠絶する最高のもの。今から 2年前の 2015年に決定したものだが、確かにペトレンコの名前は候補者のひとりに挙がっていたものの、何分録音も少ないし、日本に来たこともないので、私なども全くイメージがなく、全く想定もしていなかった。それゆえ、楽員による 2度の投票を経て彼が選ばれたのを知って、本当に驚いたものである。今回彼は、現在音楽総監督を務めるドイツ有数の名門オペラハウスであるバイエルン国立歌劇場 (ミュンヘン・オペラ) との公演で、初来日に臨むわけであるが、彼の指揮するワーグナーの「タンホイザー」は、9/21 (木) を初日として3回の上演。それ以外にアッシャー・フィッシュの指揮するモーツァルトの「魔笛」が 4回あるが、それら一連のオペラ公演の前と後に 1回ずつ、オーケストラコンサートが開かれる。今回私が出かけたのは最初のもの。つまり、記念すべきペトレンコの、日本での初めてのコンサートということになる。そして、曲目がまたすごい。
 ラフマニノフ : パガニーニの主題による変奏曲 (ピアノ : イゴール・レヴィット)
 マーラー : 交響曲第 5番嬰ハ短調

つい先日も、上岡敏之指揮の新日本フィルのユニークな演奏を聴いたばかりのマーラー 5番は、私を含めたマーラー・ファンが皆大好きな、マーラーらしさが随所に溢れた傑作であり、ペトレンコの手腕を聴くには最高の曲目だろう。私自身は、このブログの初期に書いた通り、2015年のバイロイト祝祭音楽祭で「ニーベルングの指環」全 4部作という巨大な作品をペトレンコの指揮で聴いており、彼の音のイメージはそれなりにあるが、実際、録音でも実演でも、彼のシンフォニーは聴いたことがないので、本当に今回は楽しみな機会なのであった。尚、このオケの表記はドイツ語で Bayerisches Staatsorchester で、日本語ではバイエルン国立管弦楽団という名称が一般的だ。ベルリンやドレスデンのように、シュターツカペレという名称ではないが、同じオペラハウスのオーケストラである。因みにこれが、2015年、ベルリン・フィルとの契約にサインするペトレンコ。
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さて今回の演奏会、期待通り大変充実した内容であったのであるが、ペトレンコの前に今回もまた、素晴らしいピアニストとの邂逅があったことを喜びたい。彼の名はイゴール・レヴィット。1987年生まれのロシア人。ちょうど 2日前も、同じロシアの素晴らしい若手ピアニスト、ダニール・トリフォノフを聴いたばかりであったが、このレヴィットは彼より 4歳上、今年 30歳の若手である。コンクール歴を見るとトリフォノフほど派手ではないものの、既にベルリン・フィル、バイエルン放送響、シュターツカペレ・ドレスデン、ロンドン響、クリーヴランド管など、数々の名門オケと共演しているという実績の持ち主。
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彼が今回弾いたのは、たまたま先日の読響のコンサートでトリフォノフの CD を購入して聴いたばかりの、ラフマニノフのパガニーニの主題による変奏曲だ。録音と実演の違いこそあれ、たまたまロシアのこれら俊英ピアニストの聴き比べになったが、私の印象では、トリフォノフは大玉の水晶のようなキラキラした音を奏でるのに対し、レヴィットの音はもう少し小粒で、光をより複雑に反射する。より情緒があると言ってもよいかもしれない。細部まで彫琢されたその音の進みには常にドラマがあって、ともすれば有名な第 18変奏 (今回も実に美しい!!) 以外は退屈しがちなこの曲を、大変に面白く聴かせてくれる。そしてペトレンコの指揮も最初から丁寧に音の流れを作り出す姿勢が明確で、冒頭間もない箇所での木管楽器のフレーズを、片手をヒョロヒョロと上げて表情豊かに導くなど、その音楽の特性が早くも見えたのである。その意味で、この指揮者とこのピアニストは、ともにロシア出身ということを除いても、曲の持つ情緒の表現という点において、類似したものがあるように思った。そしてラフマニノフの演奏終了後、カーテンコールを経て、レヴィットがピアノの前で集中してから弾き出したアンコールは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の終曲、「愛の死」であった。その繊細かつ怪しく燃える情緒の表現には舌を巻いた。そう、その点でも、プロコフィエフをバリバリ弾くタイプのトリフォノフとは、よい対照をなしていたと言えるであろう。

メインのマーラー 5番は、これまた大変な力演。バイロイトの「指環」体験で感じた彼の音楽の推進力はここでも全開であり、ヴァイオリンを左右対抗配置とし、きっちりと譜面を見、指揮棒を持っての指揮だが、スコアに書いてある音が太字で次々と宙に浮かんでくるような印象と言えばよいだろうか。ペトレンコは小柄な人なのであるが、まさに全身で音楽を奏でるタイプの指揮者であり、出て来る音楽は実にスケールが大きい。個々の場面では奇をてらったところは全くないが、それでいてどの部分も説得力が強い。例えばこの曲の第 2楽章のコーダ手前の盛り上がりは、実は全曲の大団円である第 5楽章の終結部手前と同じ音楽であり、暗い中から突然日の光が差して、勝利の凱歌が響こうとするところで、また闇に戻ってしまい、光は一旦閉ざされてしまうという風情なのだが、今回の演奏ほど、その第 2楽章での盛り上がりが強く強調されたことはあまりないだろう。これはつまり、音楽の彫琢方法として、葛藤は乗り越えられる、だがそれは今ここではなく、さらに試練を経てからだという曲のメッセージを伝えるには有効な方法であると思う。それはほんの一例で、ほかにも、マーラーが書いた複雑な音の絡みの数々を、骨太なリードで見事な劇性を持って描いてみせた。このオケの音は、ウィーン・フィルとかシュターツカペレ・ドレスデンなどとは違って、幾分硬いと言えるような気がするが、それがプラスに作用し、ペトレンコの忙しい指示に必死に食らいつくオケの音たちは、凝縮力があって見事であった。だから聴き終わったときの満足感はもちろん大変なものであったのだが、もしあえて難点を探すとすると、ちょっと聴き疲れたかなということか。場面によってはもっと遊びがあってもよいとは思ったのである。これだけ力強く明晰な音楽を聴けるのは稀有なこととは思いつつも、盛大な拍手に応えるペトレンコを見ながら、早くベルリン・フィルとのフランス音楽なども聴きたいなぁと思ったことである。欲張りすぎか ? (笑)
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さて今回の会場には、バイエルン国立歌劇場自身で用意したとおぼしい日本語の小冊子が置いてある。よく海外の観光名所で、写真入りのローカルな案内書を売っていて、私はその種の本が大好きなのであるが、翻訳の問題で、日本語版には意味不明な内容が多々ある点も、愛嬌である (笑)。今回の小冊子は、活字などちょっとそんな雰囲気で手作り感満載。ペトレンコのコメントも載っている。
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いわく、ラフマニノフは常に身近にある作曲家で、自身もピアニストとして勉強していた 12歳のときにこの作曲家の「音の絵」を好んで弾いていたし、ピアノ協奏曲も何度も聴いていたとのこと。今回採り上げる「パガニーニの主題による変奏曲」も好きで、レヴィットとともに新しい解釈を提示することに、心引き締まる思いであるとのこと。一方のマーラーについては、この 5番には声楽は使われていないが、周到に考えられた多声音楽の様式である。作曲者自身、新しい様式は新しい技術を必要とすると語っている通りで、声楽を使ったり、音以外の情景を表現することの多い 1番から 4番までとは異なる、「楽曲の性格や印象を包括した交響曲の傑作です」とある。うーん、最後の部分は、まさにローカルの観光名所案内のように、分かりにくい日本語だが (笑)、言わんとすることは分かるような気がする。視覚に訴える情景や、文章によって表現される情緒ではない、マーラーとして初めて取り組んだ純器楽の交響曲ということだろう。だから私のように、情景によって音楽をたとえることは、本当は控えなければならないのだろうが、いずれにせよ、説得力のある音楽だけが聴き手に様々な印象を与えるのであるから、それはそれでよいと思うこととする。45歳にして世界のトップに躍り出たこの指揮者の今後に期待したい。

by yokohama7474 | 2017-09-18 02:39 | 音楽 (Live) | Comments(4)