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エディタ・グルベローヴァ オペラ名曲を歌う (ペーター・ヴァレントヴィッチ指揮 新日本フィル) 2017年10月26日 すみだトリフォニーホール

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現在のスロヴァキアに生まれた名ソプラノ、エディタ・グルベローヴァは、あと 2ヶ月で 71歳という年齢でありながら、その美声とコロラトゥーラの超絶技巧を駆使した歌唱によって、未だ現役を続ける稀有な存在である。日本ではとりわけ人気が高く、来日頻度もかなり高い。驚くべきことに、来年は彼女のデビュー 50周年ということだから、つまりデビューは 1968年。高音域を歌うソプラノとしては、信じがたいほど長いキャリアである。私ももちろん、これまで彼女の録音や、時には実演に触れてその美声には最大限の敬意を払うものであるが、最近実演で彼女の歌を聴いたのは、2011年のバイエルン国立歌劇場の引っ越し公演におけるドニゼッティの「ロベルト・デヴリュー」であるから、もう 6年前であり、正直なところ、未だに活動を続けるグルベローヴァの歌を聴くのが、少々怖かったという点は否めない。今回は、ハンガリー国立歌劇場の来日公演でベルカントの頂点である「ランメルモールのルチア」を歌うために来日しているが、それに先立ち、東京と札幌で、オーケストラをバックにしたアリア・リサイタルを行う。今回の東京での演奏では、その「ルチア」も指揮する予定のペーター。ヴァレントヴィッチという指揮者が新日本フィルを指揮して伴奏する。最近までグルベローヴァの出演するオペラやコンサートでは、夫君であるフリードリヒ・ハイダーが指揮を取ることが多かったが、最近ではこのヴァレントヴィッチが起用されることが多いという。ウィーン国立歌劇場で、ヤナーチェク作品の新演出の総責任者を務めているらしく、それは素晴らしい実績だ (彼もスロヴァキア人なのかと推測される) 。
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いきなり失礼な言い方かもしれないが、今日の演奏ではこの指揮者は、よく流れるが、ほとんどタメのない演奏をしていたような気がする。一方のグルベローヴァは、依然として抜群のそのテクニックでしきりとタメを作るので、そのコンビネーションがよいということなのかな、と解釈した。今回の曲目ははっきりしていて、前半がモーツァルト、後半がベルカントなのである。
 モーツァルト : 「後宮からの誘拐」序曲
        コンスタンツェのアリア「悲しみが私の宿命となった」
        「ドン・ジョヴァンニ」序曲
        ドンナ・アンナのアリア「ひどいですって? そんなことはおっしゃらないで」
        「フィガロの結婚」序曲
        「イドメネオ」からエレットラのアリア「オレステとアイアーチェの苦悩を」
 ベッリーニ : 「夢遊病の女」からアミーナのアリア「ああ、もし私があと一度でも~ああ、信じられないわ」
 ロッシーニ : 「セヴィリアの理髪師」序曲
 ドニゼッティ : 「アンナ・ボレーナ」からアンナのアリア「あなた方は泣いているの~あの場所に連れて行って~邪悪な夫婦よ」
 ロッシーニ : 「泥棒かささぎ」序曲
 ドニゼッティ : 「ロベルト・デヴリュー」より最後のシーン

今回のグルベローヴァの歌唱を聴いて、その変わらぬ美声と高い技術に感嘆したことは間違いない。ただその一方で、どうしても若い頃の圧倒的な歌声を思うと、特に弱音部で声を慎重にコントロールする箇所が気になってしまったことは否めない。以前からこのブログで書いている通り、音楽家に限らず芸術家には、そのキャリアの時々に美点や課題が存在しているのが常であり、何がよいとか悪いとかを、無責任な聴き手が一概に総括してしまうことはできない。今ではもっと若くて活きのいい歌手がいるから、グルベローヴァは聴かないと言ってしまったら、やはり人間の可能性の重要な部分を知らずに終わるかもしれないのである。そもそも、そのような若くて活きのいいソプラノ歌手がいるとして、その人が同じ曲目でホールを埋めることができるであろうか。そう思うと、大きなブラヴォーが何度も飛び、最後は客席総立ちのスタンディング・オヴェイションに至ったこの日のコンサート、やはり聴く甲斐があったと言うべきであろう。実際、後半のベルカント・オペラのアリアにおけるグルベローヴァの高音には破綻はなく、未だに圧倒的なものがあったわけであり、その伸びて行く声を体験した人は誰もみな、音楽の素晴らしさを理屈抜きに耳で実感したものであろう。
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聴きながらツラツラ思ったことがある。まず最初の「後宮からの誘拐」であるが、私が初めてこの曲に触れたのは、1987年。ショルティとウィーン・フィルの録音で、そこでコンスタンツェを歌っていたのがこのグルベローヴァであった。もともとグルベローヴァはカール・ベームによって夜の女王や「ナクソス島のアリアドネ」のツェルビネッタに起用されてその地歩を築いた人であるが、その後私の脳裏にビビビと来たことには、そのベームが最後の来日を果たした直後、1981年の夏に死去した際、ウィーン・フィルによる彼の追悼コンサートで、まさにショルティが指揮する「後宮からの誘拐」のアリアを歌っていたのは、このグルベローヴァではなかったか。大昔、ベータのヴィデオテープの録画でその演奏会を見た記憶があり、また、どこかのインタビューで、ショルティが、この曲におけるグルベローヴァの歌唱に天才を感じたという内容を語っていたはず。何分古い記憶を急に思い出して、ちゃんと確認も取れていないのだが、人はやはりそのような経験の積み重ねによって感性をはぐくむものなのだと思う。ベームが 1976年に指揮した「ナクソス島のアリアドネ」のライヴ盤がこれだ。驚異のツェルビネッタは、ジャケットの右下で傘を持った派手ないでたちの 41年前のグルベローヴァ。
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それから、ベルカント・オペラについて。私はベッリーニやドニゼッティの作品をそれほど愛好しているわけではないが、今回も大詰めのシーンが歌われた「ロベルト・デヴリュー」などは、グルベローヴァが歌うからということで、ちょっとどんな作品か聴いてみようか、と思った経緯がある。ヴェルディからプッチーニに至るオペラで徐々に深く描かれるようになり、それからさらにヴェリズモ・オペラに発展する、人間の深い情念というものを、何か透明な膜で濾過したような表現で表したベルカント・オペラには、一種の非現実的な美学があって、そのようなレパートリーを歌うには、ことさらに苦しい顔をしてはならず、音の波を上手にコントロールする必要がある。それは換言すれば、ベルカントに自らの最大の美点を見出したグルベローヴァのような歌手にしてみれば、ソプラノの役は数あれど、例えばヴェルディ後期の作品、アイーダやデズデモナ、それからプッチーニの蝶々夫人やトスカ、さらに進んでサントゥッツァやネッダを歌うことは考えにくいのだろう。あ、もちろん、ワーグナーなどもってのほか (笑)。そんな彼女が発掘したベルカントのレパートリーが、現代の聴き手を発掘したのだろうと思う。だが、実のところ、後半の 1曲目、「夢遊病の女」のアリアで彼女は、後半のある個所で、歌の入りを間違えてしまった。あるフレーズをオケが演奏してから歌が入るのに、オケと一緒に入ってしまったのである。その後正しい箇所で、「ここが私の出番です」という身振りをして歌い直し、結果的には見事な歌であったのだが、それこそ半世紀に及ぶ最高のプロフェッショナルとしては、自分のミスを許したくない気持ちはあるだろう。きっと札幌公演では、万全の歌いぶりになることだろう。

それと関連することだが、今回グルベローヴァが歌った 2曲のアンコールが面白かった。まず最初に、上記の通り私が彼女のレパートリーとして考えにくいと思っていたプッチーニだったのである!! だがそれは、トスカでも蝶々夫人でもなく、あるいはミミでもなく、「ジャンニ・スキッキ」の「私のお父さん」だったのだ!! 聴きながら思ったことには、これは絶妙の選択。なぜなら、プッチーニが書いたソプラノのアリアとしては、こんなに透明感に溢れ、激性の少ない曲はちょっとないからだ。相変わらず弱音の過度なコントロールが若干気になったとはいえ、いわゆる得意分野から離れながらも、自分の持ち味をうまく出せるという巧みな選曲に関心した。そしてアンコールの 2曲目は、指揮者が走って舞台に出てきて演奏を始めたのであるが、「こうもり」のアデーレのアリア、「侯爵様、あなたのようなお方は」であったのだ。これまた、彼女が若い頃にカール・ベーム指揮で映像も残している作品。合唱団が笑う箇所は指揮者と楽団がワッハッハと笑って盛り上げたこの演奏、なかなかに楽しいものであった。

終演後には今どき珍しい、次々と客席から花束が贈られるというシーンが見られ、いかに彼女が日本の聴衆に愛されているかということを再認識した。考えてみれば、最近のオペラ界では、以前は何人もいたような、隔絶したスターが減って来ているような気がする。そんな中、このグルベローヴァが未だに健在であることは、嬉しいと同時に、今後のオペラ界における新たなスターの登場も見てみたいと思わないではいられない。

by yokohama7474 | 2017-10-27 01:41 | 音楽 (Live) | Comments(2)

名古屋 その 2 愛知県庁、名古屋市役所、名古屋市政資料館、中村公園

前回は、戦国時代から江戸時代までの名古屋に思いを馳せたが、この記事では時代を下り、近代の遺構という観点から、名古屋を見てみたい。そもそも名古屋という街、歩いているとレトロな感覚を覚えることが多い。この場合のレトロとは、大抵の場合には昭和というイメージなのであるが、中には明治・大正の雰囲気をたたえる巨大建築もあって、これほど建築を見るそぞろ歩きが面白い街も、そうはないと思う。この夏には、豊田市美術館で開催されていた奈良美智展にも足を運び (その記事は、9月上旬に送れられてくる予定であった同展の図録作成が遅れていることから、未だ書けていないが)、そのときに美術館のショップで購入したこのような本が大変面白い。歴史的に貴重な近代建築から、最新の凝ったデザインのレストランまで網羅していて、建築好き、街歩き好きには必携の書物である。
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さて、何も建築に興味のある人でなくとも、名古屋城近辺に出掛ける人たち、あるいは高速に乗って名古屋の北の方に向かう人たちには、二つ並んだ大建築を見て、「お、あれはなんだ」と思うに違いない。それは、愛知県庁と名古屋市役所なのである。まず前者はこのような建物。
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この堅牢な作りは「帝冠様式」と呼ばれているらしく、1930年代、つまり日本が大日本帝国と自称していた頃に作られた和洋折衷様式の建物。ほかにも、このブログで以前紹介した静岡県庁とか、あるいは神奈川県庁、あるいは東京なら九段会館 (旧軍人会館)、それから東京国立博物館の本館などがある。だが、この名古屋においては、県庁と市役所という 2つの帝冠様式の建築が並んでいるわけで、これはほかに例のないことではないだろうか。この県庁舎は 1938年の竣工で、設計者は西村好時と渡辺仁 (後者はまた、東京国立博物館の設計者としても知られ、以前このブログでも、熱海の旧日向邸の記事で名前を言及したことがある。そして、この県庁から隣の市役所を望むとこのような感じ。
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市役所の方は 1933年竣工。設計は平林金吾である。ちょっと光の加減できれいな写真が撮れなかったが、中央の時計台は四面に時計を掲げている。やはり堂々たるものだ。
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これらの公共建築はいずれも現役であり、内部のツアーなどはなさそうであるが、ともに重要文化財。大都市名古屋の近代の歴史を刻んできた貴重な建造物であるのだ。仰ぎ見るとその存在感に圧倒されること請け合いだ。だが、驚くべきことに名古屋には、これらに先立つ 1922年に竣工したレンガ作りの公共建築で、やはり重要文化財に指定されているものがあり、そちらの方は内部の見学が可能なのである。その建物はもともと裁判所で、正式名称を「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」というが、長くて覚えられない (笑)。現在では名古屋市市政資料館として一般に公開されていて、観光の対象としてはあまり知られていないかもしれないが、驚くほど壮麗な建物で、一度は見ておいた方がよい。
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この建物の内部を夢中になってほっつき歩きながら私は、ひとつの思いを抱いていた。それは、以前の記事でご紹介した明治村についてである。あの場所には貴重な近代建築が沢山移築・保存されているのだが、それでもこの名古屋市市政資料館のように、建物がまるまる残っている例に遭遇すると、明治村にある建物たちは、飽くまで断片に過ぎないのだなぁと実感する。もちろん小さい建築はそのまま保存されているし、大きい建築の断片であってもその価値は大きいのであるが、やはりこの建物、存在感が圧倒的だ。そのひとつの例として挙げたいのが地下の空間である。この裁判所は、上の写真のような大理石をふんだんに使った立派な作りである一方で、地下は寒々とした留置場になっているのである!! これぞ建物の機能がリアルに残っているということであり、一部の移築では再現できない、この建物の刻んできた歴史なのである。
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歴史に興味のある方、文化に関心のある方は、是非この場所に足を運ばれることをお薦めする。なお、これだけの建物であるから、映画やテレビドラマのロケ地になっているようで、館内には、阿部サダヲ主演の「謝罪の王様」の撮影で使われた旨の説明がある。いや、別にここで撮影したことを謝る必要はないですよ (笑)。
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このように名古屋の公共建築のスケールの大きさに圧倒され、栄や錦三で飲んでいるだけでは見えない名古屋の奥深さに打たれるのであるが、また別のときに車で名古屋市内を走っていて、小ぶりながらいかにも風格ある古い建物が反対車線側に見えたので、少しスピードを落として運転しながら、反射的に写真に収めたのがこれだ。
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上記の「あいち建築ガイド」で調べると、これは愛知県庁大津橋分室。1933年の竣工だから、県庁本館よりも古いわけである。うーむ、何気ない顔をして建っているのに、大変貴重な建築なのである。名古屋おそるべし。

さて、最後に少し、やはり観光名所としてはあまり知られていない名古屋の隠れた名所をご紹介しよう。こんな場所である。
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これは、名古屋市中村区にある、その名も中村公園。ご覧のように趣きのある日本庭園が整備されている。この場所は、明治 18年 (1885年) に創設された豊国神社 (つまり、豊臣秀吉を祀る神社) を中心としている。秀吉が生まれたのが、このあたりだっただろうというわけだ。
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またここには、加藤清正 (秀吉の遠い親戚であったという) が出陣の際に祈祷したとされる (ということは、豊国神社より古い???) 八幡社があったり、明治期に作られた木造の迎賓館 (現在では中村公園記念館) があったりして、歴史的な雰囲気は満点だ。
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それからこの場所には、秀吉と清正に関する資料を展示する「清正秀吉資料館」が図書館の建物内にある。ごく小さい場所であるが、戦国時代の歴史についての説明のほか、秀吉が使用していたと伝わる采配などが展示されていて興味深い。
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それから、こんな彫像が。てっきり秀吉かと思いきや、これは江戸歌舞伎の開祖と言われる歌舞伎役者、初代中村勘三郎 (1598 - 1658)。彼もここが生誕地であるらしい。というよりも、「中村」公園だから、彼の名前はこの地名に因んでいるのか、あるいは地名が彼に因んでいるのか。いずれにせよ、やはり土地の持つ歴史的な記憶を、想像力の助けを借りて楽しむことができる場所なのである。
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さて、名古屋ではほかにも、数多くの寺を回っている。いつになるか分からないが、できれば来週あたりにでもそれを記事にまとめることで、文化的興味に基づく名古屋散策ガイドのラストとしたい。

by yokohama7474 | 2017-10-26 17:09 | 美術・旅行 | Comments(0)

名古屋 その 1 名古屋城、清洲城

この夏に訪れた先として、先に犬山市を採り上げたが、その前後で名古屋の歴史的な場所を集中的に訪れているので、今後数回の記事でご紹介して行きたいと思う。今回はまず、城を二つ採り上げることとしよう。だが、名古屋地区の古い城と言えば、以前の記事でもご紹介した犬山城のみ。それ以外に小牧山城もご紹介したが、それは博物館として昭和の世に建てられたもの。また、このブログを始める前に岡崎城も訪れたことがあるが、家康生誕の地として歴史的な価値が高いその城の天守閣も、昭和の時代の再建だ。そしてここでご紹介する二つの城の天守閣もまたしかり。だが、それぞれに大変興味深い歴史のある場所なので、当然ながらこの文化ブログの対象になるものである。

まず最初はもちろん、ここだ。尾張名古屋は城でもつ。特別史跡、名古屋城。
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現在の名古屋の中心地の北側なのであるが、関ヶ原の 10年後、徳川家康が諸大名に命じて建てさせたこの城こそ、当時の築城技術の粋であり、またその後の泰平の世を象徴するものであって、その城を中心とした街づくりの独創性には、さすが家康と唸らせるものがある。まぁ、名古屋の街自体は、実はほかの土地からそっくり移してきたものが中心になっているのであるが、その点はまたのちほど。この城では現在、発掘調査が行われており、また、あとで触れる通り、かなり壮大な再整備計画が立てられている。この地図の赤線部分が、現在調査中の部分。
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さて、堂々たる門の手前に、このような石碑が立っている。「恩賜」とはもちろん、皇室からの頂き物という意味であり、「元離宮」とあることからも、この城が以前、皇室の所有になったことが分かる。調べてみると、明治時代、陸軍卿の西郷従道がこの名古屋城と姫路城の保存を決定。1893年に宮内庁管轄として、名古屋離宮と称されたらしい。1930年に土地建物が名古屋市に下賜されたため、このような碑が建てられたようだ。裏面には確かに昭和 5年とある。名古屋城の知られざる歴史である。
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門を入ると何やらこのような木組みが見える。実はこれ、この名古屋城の巨大天守閣を木造で建て替えようという壮大な計画を示す、1/30 の模型である。名古屋の河村市長の号令のもと進められている計画であると理解するが、この規模の建物を木造で作るとなると大変なこと。500億円の費用をかけ、竹中工務店を起用して 2022年に竣工予定と発表されている。
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現在の天守閣の姿が木々の向こうに見える。堂々たる姿。この城にそれぞれ 3つある重要文化財の櫓と門を目にして、あるいはくぐって、天守閣に進んで行こう。これは、本丸西南隅櫓と、表二之門。
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さて、進んで行くと、天守閣に到達する前に、絶対に外せない見どころが現れる。それは、本丸御殿である。
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このあたりで種明かしをすると、家康が作ったこの貴重な城郭は、戦争中まで残っていた。天守閣もさることながら、この本丸御殿も、その際に炎上してしまった貴重な文化遺産なのである。1615年に完成し、1634年には徳川家光の上洛の際の際の寝所として増改築されたものらしく、二条城二の丸御殿 (国宝) と並ぶ城内御殿の双璧であったと評価されている。惜しくも戦火で灰塵に帰したが、現在ある建物は、名古屋市が 2002年から資金を集め、木造で再建を進めて、2013年に一部を一般公開にこぎつけたもの。2018年度には全体公開を予定しているらしい。これが、この御殿の中に展示されている、天守閣と御殿のありし日の姿の写真。
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だがひとつの救いは、狩野派の絵師たちの手になるこの御殿の襖絵は、すべて戦時中疎開されていたため戦火を免れ、現在は重要文化財に指定されている。その数は実に 1,049面に及ぶ。現在、復元なった御殿では色鮮やかな模写が展示されており、実物のうち何枚かは、天守閣の中で見ることができる。上の写真を見ると、この御殿には襖絵だけではなく、豪華な欄間彫刻も施されていたようだが、さすがにそこまでの復元はなされておらず、改めて失われてしまった文化財の価値の高さを思うのである。ともあれ、この御殿の中は清々しい木の香りがしており、江戸時代初期の新築時もさながらの雰囲気である。建物内の写真撮影も許されていて嬉しい。
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さあそして、いよいよ天守閣に到着である。1959年、鉄筋コンクリートによる再建であるが、その姿は往年のものを忠実に再現している。さすがに堂々たるものである。明治時代に姫路城と並ぶ名城として知られていたのも無理もない。もし戦火に遭わなければ、国宝・世界遺産間違いなしであったろう。金のしゃちほこも見えますなぁ。
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しかしながら、この天守閣、再建後半世紀以上を経て、どうやら耐震性に問題があるらしい。なるほどこれが再建が必要な理由であるのか。
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上記の通り、天守閣内には、重要文化財に指定されている御殿の襖絵のうちのいくつかが展示されていて、興味深い。上で見たような立派な虎の絵ではなく、これらは風俗図である。御殿の中でも部屋によって様々な画題が取り上げられているわけである。
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このように、戦争という人間の手による災禍によって失われてしまった文化遺産を偲びながらも、今でもそこに残る歴史的な佇まいを感じ、また未来に向けての新たな整備を前向きにとらえることは、なかなか貴重な体験ではないだろうか。

さて、ここでもうひとつ採り上げるのは、清洲城である。もちろん、映画にもなった「清洲会議」(本能寺の変後の織田氏の後継問題を話し合う会議で、秀吉が信長の孫である三法師 (のちの織田秀信) を担ぐ機略によって織田の家臣の中で有利な立場となった) の舞台である。私は以前から、新幹線に乗ると、名古屋と岐阜羽島の間の車窓からすぐ近くに見える小さな城がそれだろうと思っていたのだが、なかなか訪れるチャンスがなかったので、今回ようやく念願を果たしたわけである。尚、表記としては「清須城」という字も使われ、実際に城のあるのは清須市というところだが、現地を訪れると、川の中州に築かれた様子がよく分かるので、「清洲」の字を使うこととする。これは駐車場から見上げたところ。
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城の敷地から一旦出て、正面の門の外から城を見ると、大変に絵になる。あ、よく見ると私の手元にある「名古屋・三河」というガイドブックの表紙は、これと同じようなアングルの清洲城の写真である。なかなか絵になりますな。但し天守閣自体は古いものでもなく、その姿も、建っている位置も、当時のものとは異なっているようだ。1989年に清洲町施行 100周年を記念して建てられたもの。
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さてこの清洲城、若き日の織田信長が 1555年から 7年間まで居城としたことで知られる。その当時の清洲は、鎌倉街道と伊勢街道の合流地点として人・物の交通において非常に重要な場所であったらしい。天守閣の中には当時の賑わいを偲ばせるこんな展示があって、楽しい。
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実は、冒頭近くに述べた通り、徳川家康が作り上げた名古屋の街は、名古屋城築城の際、1612年から 1616年までの間に、この清洲の街をそっくりそのまま移転したものが始まりである。それは「清洲越し」と呼ばれているのであるが、地理的に日本の真ん中あたりに名古屋という大都市を作り上げた家康の天才ぶり (それは、巨大都市江戸の開発とは少し違ったものだ) は、そのような大胆極まりないプランにおいて発揮されたのだと知ることには、大いに意味がある。もちろん、清洲越しに伴ってここ清洲は完全に廃れてしまったわけであるが、歴史が大きく動いた戦国時代から江戸時代に移行する際の、三英傑のこの土地との関わりは、実に面白い。そう、面白いと言えば、この天守閣の内部には様々な映像や解説、模型などで当時の様子を様々な角度で知ることができて、大変面白い。ご家族での歴史の体験という点でも、訪れる価値のある場所だと思う。当時の大事件をスポーツ新聞の記事にしたててあるのも、いやいや大変な凝りようだ。
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そして、世に名高い清洲会議に集まった 4人の武将たち。
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この城は、五条川という川のほとりに建っていて、天守閣上層階からの眺めも、なかなかに清々しい。
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但し、昔の敷地内を現在では新幹線が通っている。そう、私がこれまでこの城を眺めたのは新幹線の車窓であることは既に述べたが、確かにこんな風に、すぐ近くを新幹線がビューンと通り過ぎて行く。
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激動の時代は既に過去のものとなってしまい、当時を偲ぶ遺跡は何も残っていないとはいえ、この土地が過去に辿った経緯を知ることで、遥かな歴史のロマンを感じることは充分にできるのである。

by yokohama7474 | 2017-10-26 02:18 | 美術・旅行 | Comments(0)

小泉和裕指揮 東京都交響楽団 (ヴァイオリン : アリーナ・イブラギモヴァ) 2017年10月24日 サントリーホール

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このブログに集って来られる方々の中には、クラシック音楽の演奏会の新しい記事が目当てという方もそれなりにおられることは、自覚している。そんな方からしてみれば、「なんだ、『川沿いのラプソディ』は、初来日のウラディーミル・ユロフスキ指揮のロンドン・フィルとか、あるいはジョナサン・ノット指揮の東京響、アレクサンドル・ラザレフ指揮の日本フィル、クリストフ・エッシェンバッハ指揮の NHK 響、ヨーヨー・マやイーヴォ・ポゴレリチのリサイタル、あるいはキャスリーン・バトルの久しぶりの来日リサイタルとか、伴奏者は変更になったとはいえ、マティアス・ゲルネの『冬の旅』とか、最近の重要なコンサートを全くレポートしないではないか!!」と憤慨の向きもあるかもしれない。だが、このブログで何度か書いているように、私はただの勤め人。出張もあれば飲み会もあり、まあたまには残業ということもある。残念ながら上記のコンサートのどれにも行けていないし、今から予告しておくと、今週後半から来週一杯にかけてはまた、コンサートに行くことはできないのである。だから、イツァーク・パールマンのリサイタルとか、林真理子が台本を書いた三枝成彰の新作オペラにも行くことができない。何卒お許し頂きたい。

ともあれ久しぶりとなってしまった記事で採り上げるコンサートは、もしかしたらちょっと渋い内容と思われる方もおられるかもしれない。東京都交響楽団 (通称「都響」) の終身名誉指揮者の地位にある小泉和裕 (1949年生まれ) がその都響を指揮した演奏会で、曲目は以下の通り。
 バルトーク : ヴァイオリン協奏曲第 2番 (ヴァイオリン : アリーナ・イブラギモヴァ)
 フランク : 交響曲ニ短調

指揮者小泉和裕については、以前も同じ都響や名古屋フィルを指揮した演奏会を採り上げたが、私にとってはかなり早い時期から生演奏を聴いてきた指揮者である。近年はその活動を国内に絞っているようであり、その才能からすれば当然海外でのさらなる活躍を期待したくなるのであるが、そのことに深入りしても詮無いことであるので、ここでは今回の演奏会の感想を簡単に記しておこう。
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この 2曲、いずれもよく知られた名曲なのであるが、よく考えてみると、少なくとも最近は、それほど頻繁に演奏されているようにも思わない。特にフランクの交響曲は、フランス音楽を代表する交響曲のひとつであり、過去のフランス系の名指揮者たちのほぼすべてがレパートリーとしていたのは当然のこと、それに加えてフルトヴェングラーやクレンペラー、あるいはカラヤンといった独墺系の指揮者たちも録音を残していることから分かる通り、ワーグナーの影響を受けたドイツ的な暗さも含んだ曲である (1888年完成)。だが、最近実演で聴いた記憶がなく、新たな録音もそれほどあるようには思えない。また前半のバルトークという作曲家は、基本的に暗い夜の雰囲気を持つ曲が多く、このヴァイオリン協奏曲 2番 (1939年完成) も、決して陰鬱な曲想ばかりではないが、ヴァイオリンの技巧を華麗に聴かせる曲とはとても言えない。そんなわけで、全体を通して、中間色のちょっと渋い曲目と言ってよいだろう。

前半のバルトークでソロを弾いたのは、女流ヴァイオリニストのアリーナ・イブラギモヴァ。1985年生まれの 32歳で、ロシアに生まれ、英国で学んだ人。モダン楽器とともに古楽器も演奏するらしく、現在躍進中の若手であるが、私は今回初めて耳にする演奏家である。
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このバルトークの 2番のコンチェルトの冒頭は、ハープと弦が流れを作り出し、すぐにヴァイオリンが濃いメロディを歌い始めるのだが、今回の演奏では、通常よりも力の入った激しい歌い方であったように思う。今から思い返せば、ここからイブラギモヴァの音楽のタイプが明確に表現されていたのではないだろうか。素晴らしい技術を持ってはいるものの、それを華麗に聴かせるというよりは、曲の内面を情熱をもって描き出す、という印象である。このコンチェルトには、正直なところ私には、最初から最後まで素晴らしい傑作というイメージはないのだが、様々に工夫の凝らされた曲想があれこれ現れ、やはりステージで実際に演奏されているところに立ち会うと、その変化を体感できて、大変面白い。オケの伴奏も、いかにもバルトークらしい狂乱もあれば、奇妙な静謐さもあり、その多彩な曲想において飽きることはない。例えば、ある場所では小太鼓とティンパニが同時に演奏するのだが、その際のティンパニのバチは、通常の先端に丸い球体がついたものではなく、なんと、小太鼓用に使う、このような先端部分がとがったバチなのである!! つまり、同じようなバチで、ひとつは小太鼓、もうひとつは巨大なティンパニが、同時に叩かれるということになる。珍しい用法である。
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またある個所では、4つの太鼓がセットになっているティンパニの真ん中の太鼓をメイン奏者が 2本のバチで叩いているときに、隣の打楽器奏者が 1本のバチで、横から別の太鼓で叩くようなシーンもあって面白かった。だがイブラギモヴァのヴァイオリンは、そのような奇妙な音色が続いて行く音楽に負けることなくうまく乗り、大変に推進力に富んだ演奏を聴かせた。なおこの曲のエンディングには 2種類あるらしく、以前は初演者のゾルターン・セーケイの意見を取り入れてヴァイオリン・ソロが最後まで演奏する版が多かったが、最近ではオリジナルの、先にソロが終了してオケだけで終結する版が採用されることが増えているとのことで、今回もそうであった。このタイプのヴァイオリンなら、バルトークにはよく合っているし、チャイコフスキーやシベリウスよりも、ショスタコーヴィチのコンチェルトなどを聴いてみたいと思わせる。小泉の伴奏も躍動感に満ちた素晴らしいもので、相変わらず都響は好調だ。

後半のフランクは、前述の通り、最近あまり頻繁に演奏されないように思うが、ここで展開した多様な音のドラマは、改めてこのシンフォニーの独自性を確認させるようなものではなかったか。ここでも都響の弦は強く太い流れを作り出し、うるさくなりすぎない金管、微妙なニュアンスに富んだ木管がそこに明滅して、大きな音楽を構成していた。若い頃から変わらぬ小泉の暗譜による指揮ぶりには一切迷いはなく、もったいぶった身振りを交えることなく、真摯に音を引き出していた。この人が選んだ指揮者人生、つまりは日本各地で音楽を立ち上げ、流して行くのであるというその覚悟が、聴衆にストレートに伝わってきたのである。これをして、ちょっと一本調子に過ぎるという感想を持つ人も、もしかしたらいるかもしれないが、私が感じたのは、小泉がそのときそのときに採り上げる曲の響き方に、彼の一貫した人生観が反映しているということであり、それは聴く人に媚びるものではないゆえに、小泉ならではの音楽になっている、ということである。世界を飛び歩いて目まぐるしい活動を展開することと比べ、国内に腰を据え、技術レヴェルも歴史も様々な各地のオケとの共演を重ねる中で、70に近くなって見えてきたものが、彼にはきっとあるのではないか。今回のような渋い曲目でも客席はかなり埋まっており、小泉の音楽を聴きに来る人たちの層があるのだろうと思わせた。これからの活動を楽しみにしたいと思う。

さて、今回の演奏会のプログラムに記載あることだが (私はその前に楽団からの DM で既に知っていたが)、あの名指揮者アラン・ギルバートが、2018年 4月から 3年契約で、この都響の首席客演指揮者に就任する (現在そのポジションにあるヤクブ・フルシャの後任ということになる)。このブログでもこのコンビの演奏を過去に採り上げているが、私は彼の指揮を非常に高く買っており、天下の名門オケ、ニューヨーク・フィルの音楽監督を辞してからこのオケとの共演が増えることを強く望んでいたので、なんとも嬉しいニュースである。音楽監督に大野和士を頂き、終身名誉指揮者に今回の小泉、桂冠指揮者にエリアフ・インバル、そして首席客演指揮者にアラン・ギルバートとくれば、都響のさらなる躍進への期待が高まらないわけがない。なんとも楽しみである。
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by yokohama7474 | 2017-10-25 01:59 | 音楽 (Live) | Comments(10)

パターソン (ジム・ジャームッシュ監督 / 原題 : Paterson)

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ジム・ジャームッシュの新作映画が 2本、同時期に上映されている。ひとつはこの「パターソン」。もうひとつはドキュメンタリー映画で、「ギミー・デンジャー」という作品。2本とも見てから連続で記事を書きたかったが、今日からまた出張に出てしまい、一週間程度は不在にするので、2本目は当分おあずけである。実はこの 2本、共通する要素があって、「ギミー・デンジャー」でドキュメンタリーの対象になっているミュージシャン、イギー・ポップの名前は、この「パターソン」でも出て来るのである。この 2本の間にいかなる連関があるのかは、また追って考察することとして、この「パターソン」について語ろう。

このブログでジャームッシュの作品について記事を書くのは今回が初めてであるが、過去に「クリムゾン・ピーク」と「ハイ・ライズ」の記事において、出演俳優トム・ヒドルストンが以前に出演したジャームッシュの前作「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」に触れたことがある。もともとニューヨークのインディーズ系の映画監督としてスタートしたジャームッシュとしては、その作品が吸血鬼ものであることは若干奇異な感じがしたが、私としてはそれを大変に楽しんだのである。だが今回の「パターソン」こそ、彼の原点を想起させる、日常を描いたものであり、古くからのファンは、この映画に一種の安心感を覚えるようなこともあるだろう。ジャームッシュは 1953年生まれの 64歳。
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さてこの映画であるが、ジャームッシュの原点を思わせるには理由があって、ここには人間に危害を加える怪物も異星人も出て来ないし、目を覆いたくなるような殺戮もなく、また驚天動地の SFX もない。主人公はニュージャージー (マンハッタンから西にハドソン川を越えると、もうそこはニュージャージーだ) でバスの運転手をしている若い男の日常が淡々と描かれているだけだ。彼はまた詩が好きで、自身でも詩作を行っている。明るくアーティスト指向の妻と、忠実な (?) ブルドッグとの生活は、決して派手でも日々の変化に富んでいるわけではないが、彼は日々、人々の生活を見ながら感性を高め、それなりに充実した生を営んでいる。この種の映画は、監督が自身で脚本を書いているケースが多いが、この作品も、過去のジャームッシュのほぼすべての作品と同様、ジャームッシュ自身の手になる脚本である。これが主人公を演じるアダム・ドライヴァー。
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実はこの一見平穏極まりない映画には、そこここに、観客にほどよい刺激を与える隠し味が仕組まれているのであるが、まずはこの役者である。バスの運転手がアダム・「ドライバー」なんて、出来過ぎてはいないか (笑)。実は彼は、あの超大作「スターウォーズ」の現在のシリーズで、未熟ながら選ばれた血筋を持ち、ダークサイドに落ちた騎士であるカイロ・レンを演じている俳優だ。
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ハリウッドの SF 超大作で主要な役を演じている「ドライバー」さんを、日常生活を描いたこの静かな作品の「ドライバー」役に起用することに、まず監督がこの作品に込めたメッセージを読み取ることができるのではないか (監督は偶然だと発言しているが)。また、彼の役名にももちろんメッセージがある。それは「パターソン」。舞台になっている街と同じ名前の役である。この「パターソン」は、苗字か名前かも判然とせず、普通なら苗字であると考えたいが、彼がファースト・ネームで呼びかける職場の同僚は、彼のことをただ「パターソン」と呼んでいるのである。つまりこの男、舞台になっているパターソンという街の象徴のような存在ということであろう。それから実は、作中でワンシーンだけ、日常の時間に突然切れ目が走る瞬間があるのだが、その場面では、このパターソンの勇敢な行為によって日常が取り戻されるのである。ただの人のよい運転手兼詩人ではないように思われる。

このパターソンの一週間が淡々と描かれるのだが、月曜日に始まって次の月曜日までの毎日、決まって彼と妻のローラのベッドの俯瞰から始まる。こんな具合だが、ここにはエロティックな要素は一切なく、若く善良で真面目な人たちの日常のリズムがうまく表現されている。
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妻ローラ役のゴルシフテ・ファラハニがとてもよい。イラン出身で、リドリー・スコットの「エクソダス : 神と王」や、最近では「パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊」にも出ていたようだ。ここでは、ニュージャージーでのささやかな生活を楽しみながら、アーティスティックなものにこだわりを持ち、実はカントリー歌手を目指すという秘めたる野心を持つことで、意識することなく亭主に負担をかける (笑) 妻を、自然体で演じている。
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それから、忘れてはならないのが、2人の愛犬、ブルドッグのマーヴィンである。犬好きにはたまらん名演技を披露している。劇中ではオスだが、実際には元救助犬のメスで、本名はネリー。その名前はエンドタイトルで確認したのだが、映画の最後に「ネリーの思い出に」と出て来るので、このワンちゃんは既に亡くなっていることが分かる。あとで調べると、この映画での演技が認められ、カンヌ映画祭で犬に与えられるパルムドールならぬパルムドッグ (2001年創設) を受賞するはずだったが、その前に死んでしまったという。それを知ると、涙なしには見られない、ここでの演技である。
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もうひとり、日本から永瀬正敏が出ている。ジャームッシュの作品では、もうかなり以前の話になるが、工藤夕貴との共演で「ミステリー・トレイン」に出ていた。記憶ではその映画でのセリフは確か日本語であったが、今回はちゃんと英語での出演で、主役のアダム・ドライヴァーと語り合う日本人の詩人の役である。主人公パターソンがよく佇む滝があって、その風景からジャームッシュが日本を思い出し、久しぶりの永瀬の出演を念頭にこのシーンを書き上げたという。なんとも名誉なことではないか。
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なんでもない日常の中で、例えばたまたまバスに乗り合わせている様々な人々の語る言葉に、いかに人生を考えるためのヒントが隠されているかを知るのは面白いし、あるいは、どんな人にもそれぞれの信念 (それが誰かへの恋愛感情であれ、日常への不平不満であれ、あるいは詩を書くことへのこだわりであれ) があって、それはこの地球上においては些細なことであっても、それぞれの人生の中では重要な意味を持つのだということに気づく。そのようなさりげない示唆に富んでいる点、見逃すべきではないだろう。劇中で主人公が作る、これもさりげないが美しい詩は、ロン・パジェット (1942年生まれ) という米国の詩人の手になるもの。また、そもそもこのパターソンという街、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ (1883 - 1963) という詩人の長編詩のタイトルになっていて、主人公が詩作に取り組むのも、永瀬演じる日本の詩人がこの地を訪れるのも、この詩への憧れがあるからという設定になっている。私は、詩は決して得意分野ではなく、この詩集のことも恥ずかしながら今回初めて知ったが、ちょっと興味がある。ただ、日本でも翻訳が出ているが、まさにこの作中のセリフにある通り、翻訳詩を読むのは、「雨具を着てシャワーを浴びるようなもの」。原語でないと詩の面白さはなかなかに分かりづらいことは確かだろう。
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この映画を、ただの日常を描いているだけだと思う人もいるかもしれないが、上で少し見た通り、必ずしもそうではないだろう。最後に指摘したいのは、やたらと双子が登場することであり、主人公夫婦の会話にも、子供ができるなら双子がよいという話題が出て来る。このことの意味するところは明確ではないし、プログラムに掲載されたジャームッシュのインタビューでも何らヒントは発見できないが、何かパラレルワールドのようなイメージを感じると、的外れであろうか。つまり、人が今日あるのは、その過去の歴史における、ちょっとした違いの集積の結果である。たとえ同じ顔、同じ性格の人であっても、生きていくということは、その過程においてそれぞれの人生の要素のひとつひとつを、時間とともに不可逆的に作り上げて行くということなのではないだろうか。この映画における双子たちは、そのような偶然の積み重ねの結果の、人によって異なる人生を象徴していて、実は彼自身が街そのものであるパターソンは、そのような人生の積み重ねをじっと見続けている・・・。そんな解釈をすると、この映画の静謐さに、何かとても尊いものを感じてしまうのである。・・・うーむ。ではジャームッシュがこの「パターソン」と「ギミー・デンジャー」を続けて制作したのも、双子の映画という意味か??? 片割れの映画を見る際に、注意しておきたい点である。まぁ、まるっきり違っているかもしれませんけどね (笑)。

by yokohama7474 | 2017-10-17 13:49 | 映画 | Comments(0)

メナヘム・プレスラー ピアノ・リサイタル 2017年10月16日 サントリーホール

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前日のアファナシエフに続き、尋常ならざる素晴らしいピアノを経験した。演奏したのはメナヘム・プレスラー。ドイツ生まれのユダヤ人であり、1939年に家族とともに移住したイスラエルで音楽教育を受け、戦後すぐに国際的な活躍を始めた。ええっと、今年は 2017年で、戦後 72年経つのだが、ではこの人は一体何歳だろう。驚くなかれ、1923年 12月生まれ。つまり、あと 2ヶ月で 94歳なのである!! 実はこのブログでは、過去に何度か彼の名前に触れている。興味がおありの方は、ブログ内検索で「プレスラー」と入れて調べて欲しい(余計なことだが、間違って「プロレスラー」と入れても何も出てきませんのでご注意を。私自身の失敗談です)。6つの記事が該当する。だがそのいずれも、プレスラーの演奏を聴いたものではなく、その周辺情報なのである。それぞれの記事に思い出はあるが、中でも残念であったのは、2015年 11月にこのプレスラーが来日を予定していたのに、それが彼の体調不良によってキャンセルされたことだ。リサイタル以外に、当時 91歳のネヴィル・マリナーが指揮する NHK 交響楽団との共演が予定されていたため、その両方を聴く予定であった私は、当時 92歳のプレスラーの実演を聴くことは、もうできないのか・・・と思ったのである。だから今回、93歳で再度来日してくれたことには、本当に心から嬉しく思うのである。その前の来日は 2014年。その時はヴァイオリンの庄司紗矢香の伴奏で、私も聴きに行ったが、実に素晴らしい演奏であった。その時のライヴは CD で聴くことができる。
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このピアニストは、若い頃から活躍しているとは言っても、世界最高の巨匠ピアニストとしてずっと尊敬されてきたかと言えば、必ずしもそうではなく、ある室内楽グループのメンバーとして長く活動してきたので、ソロ活動は多少なりとも限定的であったはずだ。そのグループの名前は、ボザール・トリオ。活動期間は 1955年から 2008年までの実に 53年間であるが、その間一貫してメンバーだったのはこのプレスラーのみである。この団体は、トリオとしては他の追随を許さない人気を持ち、ありとあらゆる三重奏のレパートリーを録音している。私も以前からフィリップスのベートーヴェンのトリオなどを少しは聴いていたが、最近になって 60枚組の集大成を購入。うーん、将来ブログを書かなくなったら、ゆっくり聴き通す時間がきっと生まれることだろう (笑)。今回ちょっとハイドンのトリオなどを出して聴いてみたが、やっぱり素晴らしい。これがそのアンソロジーと、その中に掲載されている設立当時のボザール・トリオの写真。ピアノはもちろんプレスラーである。
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さてこのプレスラー、このトリオでの活躍ぶりから、遅咲きという言葉は必ずしも適当ではないものの、ソロピアニストとして脚光を浴び出したのは 90歳前後ということではないか。人間には大変な力が宿っているものだと思うと同時に、いつもこのブログで触れている通り、音楽を聴く際に、年齢とか国籍とか性別という要素はあまり必要ではないというのが、私の信条である。何より、虚心坦懐に音楽に耳を傾けたい。

そうは言うものの、大柄な女性に脇を抱えられ、杖をついてゆっくりと舞台に登場したプレスラーを見て、「あぁ、よくぞこの高齢で遠い日本まで来てくれました!!」という感情が沸き起こるのは、人情としては当然のこと。繰り返すが、あと 2ヶ月で 94歳である。歩くだけでも大変なことなのに、これからピアノ・リサイタルを開くのである。人間にはなんという凄まじい力が秘められていることだろう。そしてその曲目に驚かされる。
 ヘンデル : シャコンヌ ト長調
 モーツァルト : 幻想曲ハ短調 K.475
        ピアノ・ソナタ第 14番ハ短調 K.457
 ドビュッシー : 前奏曲集第 1巻から デルフィの舞姫たち、帆、亜麻色の髪の乙女、沈める寺、ミンストレル
        レントより遅く
        夢
 ショパン : マズルカ第25番ロ短調作品33-4、第38番嬰ヘ短調作品59-3、第45番イ短調作品67-4
      バラード第 3番変イ長調作品47

なんと多彩なプログラムであろうか。バロックから古典派、フランス近代に移ってからロマン派に戻るというものであり、高齢であるという事実には一切関係がないものである。だが実際、実におぼつかない足取りで、手を引かれながらステージの袖からピアノまで歩く姿には、ハラハラさせられる。ピアノに辿り着いてからも、鍵盤に蓋をして、そこに手をかけて、ゆっくりと慎重に腰を下ろす。その椅子は通常のピアノ用のものではなく、オフィスにある事務用の椅子の骨組みだけのようなものに座布団を敷いて、キャスターを除いたような形状。そうしてようやく演奏の準備が整うと、彼は自分で鍵盤の蓋を開け、譜面を見ながらおもむろに演奏し出したのである。

ヘンデルの開始早々では、音色はきれいであっても、ちょっと安定感がないかな、と思ったものだ。だが、数分聴いているうちにそれが杞憂であることが分かる。前日の鬼才アファナシエフのピアノを、世界の終わりにひとりで歌う歌と形容したが、このプレスラーは全く違う。彼は聴衆のために演奏し、生きている人たちに訴えかける。彼にとっては、人前で弾くことこそが生きることなのではないだろうか。前半はヘンデルとモーツァルトがすべて続けて演奏されたが、そこに聴こえてきたのは、澄んだタッチの中に宿る人間性であった。ここで注目したいのは、モーツァルトの 2曲はいずれも短調であったこと。生きる喜びを歌う曲ではなく、暗い情念すら感じさせる内容である。だがここでのプレスラーの演奏では、暗さも人生の一部なのであるという調子で、淡々と弾きこなされて行く。この宙を漂うような感じの演奏は、いかに暗い内容の曲であっても、決して人を落ち込ませることはない。また、モーツァルトがこのような短調の曲を書いたのは、決して聴衆を落ち込ませるためではなく、立ち止まって人生を考えさせるためであったのではないか。このプレスラーの朴訥とした演奏には、そのような重要なメッセージがこもっていると思われた。尚、今回演奏されたモーツァルトの 2曲を収録した CD は、未だ一般には発売されていないが、会場のみでの先行販売で売られていた。今この記事を書きながら聴いているが、CD は実演よりもさらに精妙な表情に聴こえるものの、やはり実際に耳にした音の感動の方が上回っている。
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後半のドビュッシーとショパンも、技術的に水際立っているというイメージではなく、やはり朴訥とした味わいであったと思うが、それでも、技術において破綻は一切ない。ドビュッシーは、独特の五音音階が東洋的に響くこともあって、我々日本人にとってはどこか懐かしいような音楽でもあるが、プレスラーはことさらにノスタルジックに弾くというよりは、ただ音の命じるままに指を動かすことで、先鋭的でない音楽を奏でていたと思う。これは、聴衆がいるからこそ成り立つ音楽。決して密室で自分のために弾く音楽ではない。ショパンも同様で、愛国の士が祖国の舞曲を力強く再現した音楽というよりは、音の運動を、現在の彼の運動能力が許す限り続けてみたという印象であった。選曲も実はよく考えられていて、「ミンストレル」から「レントより遅く」にかけては舞曲であり、ファンタジックな「夢」を挟んでまたマズルカで舞曲に戻り、最後のバラードでは明るく締めくくるという流れは、聴いていてスムーズであり、実際にドビュッシーの演奏中から、彼の右手は時折宙に円弧を描いていた。そういえば、奇しくもショパンのマズルカ第 45番は、前日のアファナシエフがアンコールで弾いた曲。それぞれのピアニストの個性の比較にはもってこいであった。

そして、演奏後に彼が見せてくれた人懐っこい表情と、ステージ後ろの客席への挨拶という聴衆への気遣いは忘れがたい。一旦ピアノを離れると、さすがに年齢を感じるが、それでも 2曲のアンコール、すなわちショパンのノクターン第 20番嬰ハ短調 (「映画「戦場のピアニスト」で使われたあの名曲だ) と、ドビュッシーの「月の光」を弾いてくれたことで、聴衆は本当に心から音楽の素晴らしさを味わうことができた。大きなブラヴォーはさほど多く出ないものの、自然と客席が総立ちのスタンディング・オヴェイションになるコンサートが、一体どのくらいあるだろうか。

是非これからも健康に留意して頂き、また感動的な音楽を聴かせてほしいものである。
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by yokohama7474 | 2017-10-17 01:44 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ・リサイタル 2017年10月15日 紀尾井ホール

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もう随分昔のことになるが、どこかで読んだ文章が気になった。それは、現代音楽界における不思議のひとつとして、ヴァイオリンの巨匠ギドン・クレーメルの伴奏をよく行っているピアニストは、紛れもない天才なのに、なぜ活発なソロ活動をしないのか、というものであった。興味を持って調べてみると、そのピアニストは、見た目が何か怖いような印象で、ちょっとただならぬ雰囲気である。そうこうするうちにそのピアニストのソロ活動は活発になり、アルバムも出るようになった。私も彼の演奏するブラームスなどを録音で聴いて、確かにこれはすごいぞ、鬼才という呼び名にふさわしいぞ、と思ってはいたのだが、実演に接する機会がなく今日に至った。昨年の来日公演は別件によって聴くことができず、今回紀尾井ホールで開かれる 2回のリサイタルのうち、ひとつは行けないが、もうひとつは行ける。そんなことで、そのピアニスト、ロシア出身のヴァレリー・アファナシエフの実演に、今回初めて触れることとなったのである。これが若い頃のアファナシエフの録音のジャケット。
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このアファナシエフは 1947年生まれなので、今年 70歳。モスクワ音楽院で名ピアニスト、エミール・ギレリスに師事し、1972年にはエリーザベト王妃国際音楽祭で優勝している。その 2年後、同コンクールの開催国であるベルギーに亡命、現在でもブリュッセルを中心に活動している。初来日は 1983年なので、これまで聴くことを怠っていた私としては、前非を悔いて彼の音楽に傾聴する必要がある。今回のプログラムは以下の通り。なるほど、上のポスターにある通り、「テンペストとノクターン」である。
 ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ第 7番ニ長調作品 10-3
         ピアノ・ソナタ第 17番ニ短調作品 31-2「テンペスト」
 ショパン : 夜想曲 6曲 (第 1番変ロ長調作品 9-1、第 5番嬰ヘ長調作品 15-2、第 7番嬰ハ短調作品 27-1、第 8番変ニ長調作品 27-2、第 9番ロ長調作品 32-1、第 21番ハ短調 (遺作))

尚、会場で配布されたプログラムは白一色に、縦に文章が掲載されているユニークなもの。ちょっと高級な和食屋のメニューのようだと言えば、怒られてしまうだろうか (笑)。載っている文章の内容を含め、俗っぽさを排した作りである。
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一言で記せば、まさに鬼才ピアニストの面目躍如で、若干特殊性はあるものの、非常に心にドッシリと来る演奏であった。ちょっと奇妙なたとえを使うとするなら、明日世界が終わるとしても、つまり、一人の聴衆もいないとしても、ずっとこのように弾き続けるのではないかというような印象の音楽だ。彼は世界に向けて高らかに歌を歌うのではなく、何か見えないもの、あるいは自分の奥にある神秘的なものに向かって歌っているように思われる。それはまさに比類のない音楽であり、その純度は極めて高いがゆえに、もし彼が聴衆のために弾いていないとしても、聴く人の心を大きく揺さぶるようなものなのである。今回の演奏では、例えば「テンペスト」の冒頭は、ちょっと指慣らしにピアノをいじってみたような感じで始まり、休符になると、いつ果てるとも知れない沈黙が続く。音楽の流れは著しく悪いのだが、そこには我々がかつて経験したことのないような深淵が存在しており、耳の楽しみとしての音楽ではなく、生きることの意味を問う哲学的な行為としての音楽が聴かれたと思う。その一方で、一旦音楽が流れ出すと、10本の指はまるでバロックの多声音楽を弾くように自在に動き回り、その音色には純粋な美しさが常に伴っている。音量は概して大きく、よく響く。そもそも彼は、燕尾服などのいわゆる通常のコンサート用の衣装ではなく、全くの普段着のような黒い長そでシャツに、やはり黒っぽくて線も入っていないように見えるラフなスラックスで登場し、聴衆への挨拶もほとんどないまま、だらしなく見えるほどリラックスしたまま椅子に座って、ポロポロと弾き出すのである。その様子はいかにもつまらなそうで、時には曲間に額に手を当てたりして、普通ならコンサートマナーがなっていないとすら思われそうな演奏態度である (笑)。だが、今回紀尾井ホールに詰めかけたほぼ満員の聴衆は、誰一人として、彼のステージマナーなど気にしなかったろう。前半のベートーヴェンのみならず、後半のショパンでも、音の純度は守ったまま、優雅さは表現せず、ひたすら自己と向き合うような内省的な音楽を聴かせたのである。繰り返しだが、これは一般的な意味での模範的な演奏とは思えない。だが、まぎれもなくピアニストの個性が刻印された真実の音楽であると言えると思う。

全曲終了後、相変わらず不愛想に聴衆の拍手に応えた彼は、客席からの小さな花束に、子供のようなはにかんだ笑顔を見せた。そしてアンコールは 2曲。ショパンのマズルカ第 45番イ短調作品 67-4 と、マズルカ第 47番イ短調作品 68-2 であった。最初から最後まで、ひとつの弧を描くような演奏会であり、すべてはこの鬼才ピアニストの手によって、意気軒高になることなく淡々と進んで行った。いわばこの演奏会は彼の取り仕切る宗教行事のようなものであったと言ってもよいのではないか。

終演後にサイン会があったので参加した。購入した CD は、ショパンのノクターン集で、今回演奏された 6曲に 3曲を加えた、全 9曲からなるもの。1999年に日本で録音されている。演奏後ほんの数分で、ステージで着ていた衣装のままで姿を見せたアファナシエフは、長蛇の列をなしたファンに対して、意外と気さくな笑顔で丁寧に接していた。その様子を見て、まだまだ世界の終わりに際して一人でピアノに向かってもらう必要はないだろうと実感した (笑)。
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70代の音楽家には、技術ではない、何か圧倒的な存在感を期待したいものであるが、きっと彼は今後もますますその独自の世界を深めて行くことであろう。また次の実演を楽しみにしたい。そういえば、今回配布されたチラシに、来年 5月に佐渡裕指揮ウィーン・トーンキュンストラー管との共演で、ブラームスの 2番のコンチェルトを弾くという速報があった。なかなかに異色の顔ぶれであり、面白い演奏会になるのではないだろうか。

by yokohama7474 | 2017-10-16 00:40 | 音楽 (Live) | Comments(0)

愛知県犬山市 博物館明治村

名古屋近郊の最大の観光名所と言えば、まずはやはり明治村ではないだろうか。新幹線に乗って名古屋駅付近に至ると、大きな看板で、「明治村へは名鉄で」という表示が見える。また、その名鉄に乗ってみると、季節折々の明治村の宣伝が見える。いわく建物のライトアップだの、お化け屋敷だの。実は私は、明治村は以前見たことがあるから、もう行かなくてもよいかと思っていた。いや、実際に比較的最近この明治村を見て回ったはず・・・と思って冷静になって考えてみると、あれは中学の修学旅行。満 15歳のときのことであるから、実に今を去ること 37年前。うぅーん、これは結構長い年月だ。その頃生まれた人たちは今、若手から中堅に入ろうという、社会人として大事な時期。それはかなり遠い昔と言ってよいであろう。てっきり行ったことがあると思った明治村、実際にはほとんど知らないに等しい場所なのである。そう、今年は大政奉還 150年の節目の年であるが、私が前回明治村を訪ねた頃は、未だ大政奉還後 113年であったわけだ。いやはや、それは随分と昔ではないか (笑)。私が今回家人とともにこの場所を訪れたのは、先の記事で採り上げた、犬山城と如庵に立ち寄ったあと。手元のガイドブックによると、この明治村を一巡するための所要時間は 3時間。上記の通り、夏の明治村は、お化け屋敷が臨時で作られたり、夜間はライトアップされるなど、家族や友人、カップルを呼ぶための様々な工夫がなされているが、私の場合には日が暮れる前に回りたい理由があったのだ。つまり私の野心は、この明治村にあるすべての建造物を、その説明板とともに写真に収めること。3時間で、頑張って回ろう。入場時に配られる「村内地図」によると、ここで見ることのできる明治の遺産は合計で 68。広大な敷地は、1丁目から 5丁目までに分かれている。
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さて、私が明治村を訪れた日は、今年の夏のひとつの典型的な気候で、大気が極めて不安定。ざあざあと激しく雨が降ったかと思うと急に日差しが出たりして、それはもう忙しいこと。その日私が明治村に到着したのは 11時頃。それから、昼食を取ったり、驟雨をやり過ごすための雨宿りのロスタイムもあったが、気がつけば実に 6時間後の 17時に至り、既にヘトヘト状態で観光継続を断念。頑張ってはみたものの、3丁目はまるまる見過ごしたのである。誰だよ、所要時間 3時間と言った奴は (笑)。おかげでデジカメの電池も尽きてしまい、最後の方には雨の中、スマホで撮影する始末。そして私は執念を持って数日後この地を再訪し、3丁目を回って、ようやく念願通りすべての建造物 (改修中のものを除く) を写真に収めたのである。この明治村の 68の施設のうち、重要文化財が 12。以下、とてもすべてを紹介しきれないものの、それら重要文化財建造物を中心として、主要なものを見て行こう。一言でまとめるとするなら、ここはさながら明治建築のジュラシック・パーク。既に失われてしまった時間が、ここに来れば未だに息づいていることに気づく。これだけの規模でそのような感覚を味わえる場所が、ほかにあるだろうか。実は岐阜県には、大正村とか昭和村もあるらしいが、なんのなんの、この明治村こそ、ほかに類のないタイムトリップができる場所である。ではまず、この場所の立地から見て行こう。実は明治村に隣接している入鹿池 (いるかいけ) は、もともと人が住んでいた村に水を貯めた人造湖。そのほとりには古墳も存在し、この場所が古代から特別な場所であったことが分かる。
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さてこの入鹿池、いつ頃できたものであろうか。明治村の隣だから明治時代? それとも、昭和になってからであろうか。とんでもない。江戸時代初期、1633年の完成なのである!! これは驚きだ。2015年には世界灌漑施設遺産にも認定された。そして、明治村のバスで聞いた説明によると、もともとこの土地に明治時代の建築を移築することとしたのは、もし火災が発生してもすぐ隣のこの池から水を汲み上げて消火できるからだという。実に素晴らしい発想である。この明治村、開村したのは昭和 40年、つまり 1965年。何を隠そう、私が生まれた年なのである!! 開村間もない頃の地図が展示されている場所があって、これがその写真。おぉ、これは今の 3丁目ではないか。
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私がここに到着して車を停めたのは、北側、5丁目の裏手。そこから村内に入ると、すぐに見えるのがこれだ。
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そう、本物の SL が村内を走っているのである。東京駅を名古屋駅を結ぶ SL の旅は、この上なく楽しい。「東京駅」の時刻表はこんな感じで、それほど頻繁に往復しているわけではない。
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私は全く鉄道ファンではないのであるが、ここで SL を見ると、子供のように「うわぁー」という声を上げてしまう (笑)。この蒸気機関車は、実際に日本最初の鉄道区間である新橋 - 横浜間で使われていたものらしい。1874年に英国から輸入されたものであると聞いて驚く。駅構内に入ってきた汽車の先頭車両だけが切り離され、先の方で U ターンして、また客車に連結されて、反対方向に走る準備がなされる。その間に蒸気をポォーッと吐くあたり、鉄道ファンならずとも萌えてしまうのである。乗っている時間はほんの数分であるが、高台を走るため、村内の様々な建物を車窓から見ることができる。
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さて、SL で名古屋駅についたら、そこで京都市電に乗り換えることができる。日本初の電車は、1895年に開業した京都の市電。今明治村で走っている車両は、1910年から 11年にかけて製造されたもの。うーむ、100年以上を経て未だ現役とは、恐るべし。世界にどのくらい、100年前の電車が動いている場所があるだろうか。
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そうして私たちは、市電「京都七条」駅から歩き始めたのであるが、腹が減っては戦はできぬ。近くにある、めん処なごや庵というところに入ってきしめんを昼食とすることにした。だが、折悪しく非常に激しい雨となり、しばらくは傘を両手に抱えての散策となった。まずは 2丁目、そして 1丁目という順番で回ったのであるが、最初に見たのはこの京都七条巡査派出所 (1912年)。強い雨足がご覧頂けよう。
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そして、重要文化財の札幌電話交換局 (1898年)。内部には電話の歴史についての展示がある。
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これも重要文化財の東松家住宅 (1901年頃)。明治という時代は、近代化が進むとともに、江戸時代以来の伝統も充分に保たれていたことが分かる。何かノスタルジックな気分を禁じ得ない。
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さて、第四高等学校物理化学教室という建物の中に、興味深い展示がある。実は上に掲げた開村当時の地図もそうなのであるが、それに先立ち、入り口を入ってすぐのところにこんな表示がある。
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なるほど、谷口吉郎 (1904 - 1979) の名は聞いたことがある。調べてみると、帝国劇場や出光美術館、東京国立近代美術館や、あるいは迎賓館の和風別館なども手掛けている。またこの名前からピンとくる通り、ニューヨークの MOMA でその名を馳せた現代を代表する建築家 (比較的最近、日経新聞に「私の履歴書」を連載していた) 谷口吉生は、彼の息子である。そして、もう一人の明治村の生みの親は、当時の名鉄の社長、土川元夫なのである。これはその二人のレリーフ。
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ここで気づくことには、この明治村は、どうやら名鉄が中心になって作り上げたものであるということだ。以下に見て行く通り、ここに移築された歴史的建造物の価値は計り知れないし、そのために要した費用は、まさに天文学的なものであろう。前回の記事で、織田有楽斎が作った茶室、国宝の如庵が犬山名鉄ホテルの敷地に存在していることに触れたが、名鉄の行ってきた文化事業はそれにとどまらず、この壮大な建築ジュラシック・パーク、明治村もそうなのである。これは実に素晴らしいことであると実感する。

さて、先を急ごう。次の重要文化財はこれ、東山梨郡役所 (1885年) である。地方行政を司る建物であるゆえ、規模は小さいが、なんとも瀟洒な建物である。現在、明治村の村役場はこの建物に置かれている。
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そこから 1丁目に移動して目にするのは、やはり地方行政を司った建物であるが、今度は県の建物である。重要文化財の三重県庁 (1879年)。なるほど、郡役所よりもスケールが大きく、コロニアル調の立派な建物なのである。
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そして、その向かい側にある鉄道局新橋工場で、非常に興味深いものを見ることができる。1910年に作られた、明治天皇御料車である。内部もガラス越しに見ることができ、当時の人々にとっては神であった明治天皇の存在を身近に感じることができるのだ。こんな場所、ほかにあるだろうか。
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さて、ここで 1丁目の正面に来た。来訪者たちを迎えるのは、第八高等学校正門 (1909年) である。
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この大変小さな建造物は、赤坂離宮正門硝舎 (1908年) である。ちょうどこのあと私たちが訪れることとなり、既に記事も書いた、あの迎賓館赤坂離宮の前に実際に立っていたもの。当時の写真も展示されている。
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このあたりで既に歩き疲れて朦朧として来た。坂の上では、先刻まで降っていた雨が、太陽の熱によって地面から蒸発する様子を見ることができる。これは珍しい光景だ。
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この 1丁目にはあと 2つの重要文化財がある。聖ヨハネ教会堂 (1907年) と、西郷従道邸 (1877年頃) である。いずれも素晴らしい建物であるが、前者は明治におけるキリスト教の教会として、風格があってこの上なく立派。後者は、当時の政府要人の西洋風邸宅としては、さすがのものである。
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明治村のすごいところは、あらゆる分野の建物が揃っている点である。これは、森鴎外と夏目漱石が、10年の時をおいて住んだ家 (1887年頃)。もともと文京区千駄木にあったもので、漱石はここで「吾輩は猫である」を執筆している。いやー、よくぞ現代まで残ったものである。内部は漱石の書斎を再現している。
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さあ、足が棒になろうとも、まだまだ先に進まねばならない。4丁目である。ここは谷のようになっていて、歩くだけでも結構体力を消耗する。と思ったら、歩兵第六聯隊兵舎 (1873年) が、期間限定のお化け屋敷となっていた。最近よく名前を聞くお化け屋敷プロデューサーの五味弘文の手になるものだが、時間の関係でパス。この頃には青空が広がり、暑くなっていたが、そこここに浴衣姿の若者たちがいて、なかなかよい雰囲気だ。
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さてこれは大変規模の大きい重要文化財で、宇治山田郵便局舎 (1909年)。中では当時の郵便に関する資料があり、今でもここから葉書を送ることができる。
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小規模な日本家屋が 2軒並んでいる。本郷喜之床 (1910年頃) と、小泉八雲避暑の家 (1868年頃)。後者は駄菓子屋になっているが、その名称の通り、小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン) が時折身を寄せた焼津の家。前者は、2階に何やら人の等身大の写真が見えるが、これは石川啄木。彼は実際にこの床屋の 2階に下宿していたという。
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これまた大変貴重な建物。芝居小屋の呉服座 (くれはざ、1892年) である。大阪の池田市にあったもので、重要文化財。驚くべきことに、今でも芝居を上演できるようだ。
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さて次が、私がこの明治村で大変感動した建物ベスト 3に挙げたい、聖ザビエル天主堂 (1890年)。京都にあったもので、巨大な聖堂そのものを移築して来ている。長崎の教会を巡ったときのことを思い出させる建築であり、その気になれば、今でもすぐそのままミサに使えるものなのである。
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かと思うと、非常にユニークな教会もある。大明寺聖パウロ教会堂 (1879年)。遠目には風呂屋か何かかと思うが、中は立派なキリスト教の聖堂になっているのだ。文化の伝播とその受容のあり方を思わせる貴重な遺構である。
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次も実に興味深い建物で、金沢監獄中央看守所・監房 (1907年)。当時の監獄の様子が生々しく分かるようになっている。
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この 5丁目の小高い丘の上に、階段状の、ちょっと不思議な建物がある。
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この廃墟のように見える建物は、川崎銀行本店 (1927年)。もともと日本橋に建っていた堂々たる建築であるが、今はこの明治村の地で一部だけが保存されている。そう、さすがにこれだけ巨大な建造物はすべて移築することは困難なので、このような形になったものらしい。当初の姿はこのようなもの。
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さて、5丁目の最も奥に、この明治村で最も有名な建造物がある。もちろん、フランク・ロイド・ライト設計になる帝国ホテル中央玄関だ。
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村内のバスに乗ると、主な建物についての説明を運転手から聞くことができて興味深いが、大変驚いたのは、この帝国ホテル玄関を移築するのに要した時間と費用である。なんと、17年、11億円だそうである!! 移築完了が 1976年だから、その当時の 11億円とは実に大変な額である。そうすると、ここにある様々な建造物の移築に要した労力とコストは、まさに天文学的な数字になるだろう。もちろん、名鉄だけですべてを賄うのは無理な話であり、国や地方自治体、あるいは企業の寄付等があって初めて可能になるものと思う。そう考えると、これだけの広大な敷地にこれだけの数の貴重な建築を保存していることの意味を、改めて思うのである。

さて、前述の通り、ここまでの所要時間はざっと 6時間。その日はそこで力尽きてしまったが、見ることのできなかった 3丁目は、後日訪れた。ここには 3つの重要文化財がある。まず、西園寺公望別邸「坐漁荘」(1920年)。大変気品のある、純日本風の建物である。
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それから、残る重要文化財は、品川燈台 (1870年) と、菅島燈台附属官舎 (1873年)。いずれも日本最古の灯台関連建造物である。
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幸田露伴住宅「蝸牛庵」(1868年頃)。古い日本家屋だが、文豪の生きた場所が残っていることは極めて貴重である。
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芝川又右衛門邸 (1911年)。その時代にしては非常にモダンな洋館である。以前の記事で触れたことがあるが、私はこの家の所有者の子孫筋にあたる方と面識があるので、個人的にも大変興味深い。
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ほかにも沢山の建造物があり、本当に興味の尽きない場所であるという以上に、近代の日本の歩みに思いを馳せることのできる場所なのである。最近、企業の不祥事が相次ぎ、この国は本当に大丈夫かと思うことしきりだが、そういう時こそ、過去 150年間我々日本人がいかなることを考え、また達成してきたかということを振り返ってみる価値があるように思う。村内を歩くのはなかなかに骨の折れることであり、上で触れた SL や市電に加え、このようなレトロなバスを有効活用すればよいと思います。文化に興味のある人には必見の場所なので、最近までの私のように、37年前に一度行っただけで分かった気になっていては、大変もったいないのです (笑)。
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by yokohama7474 | 2017-10-15 23:23 | 美術・旅行 | Comments(0)

愛知県犬山市 犬山城、如庵

10月も半ばに至り、さすがに秋の空気になってきたが、今年は (も?) 奇妙な夏であった。東京では 7月に酷暑が来て、8月はどうなることかと思うと、雨天続き。時にその雨は、傘を支えるのもやっとという激しいものになり、各地で豪雨が相次いだ。これからいくつかの記事で、そんな夏に私が出かけた場所を、遅ればせながらご紹介して行きたい。それは実は名古屋近辺なのであるが、この地域には、知れば知るほどに深い歴史の痕跡がある。もしかすると名古屋地区在住の方でも、「へぇ、そんな歴史があるんだ」という感想を持たれる場合もあるかもしれない。川沿いのラプソディ流、名古屋の歩き方。ご参考として頂ければ、そんなにありがたいことはありません。

まず、ひとつの写真をお目にかけよう。
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これは、愛知県北部、犬山市にある犬山城である。日本に残る 5つの国宝天守閣のひとつであり、小ぶりながらも大変に美しい城である。未だ戦乱の世が完全に安定していない時代、関ヶ原の翌年の 1601年に建てられたとされる古い城だ。だが、この写真、屋根についている一対のしゃちほこのうち向かって左側が欠けているように見えないか。別の角度からの写真がこれである。ちょうど上の写真の裏なので、左右は逆になっているが、やはり片方が欠けている。
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これにはわけがあって、実は今年の 7月12日の落雷によって、片方のしゃちほこが破損してしまったのだ。天守閣内にそのしゃちほこが展示されていた。
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先般の熊本地震による熊本城の被害などは最近での大規模な文化財の損傷であるが、もともと天災の多いこの国で、燃えやすい木造建造物を守り、後世に伝えて行くことはいかに困難かということを改めて思い知る。その一方で、しゃちほこの片方が破損しただけではこの国宝建造物の持つ価値は全く減じることはない。そのように、文化財の持つ生命力ということも、よく認識しておく必要があるだろう。

さてこのブログでは過去に、国宝 5天守閣のうち既に 3つ、つまり、姫路城、松本城、彦根城をご紹介したので、この犬山城で 4つめ。残るひとつは松江城で、ここは私も国宝に格上げされる前ににしか訪れたことはなく、随分ご無沙汰だが、またそのうち現地を訪れて、記事を書く機会を求めたい。犬山城の場合、私にとっては今回が既に 4度目の訪問であったが、何度行っても興味深い場所なのである。 このような入り口から風情のある坂道を少し登って行くことになる。
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門を入ったすぐの場所が、恰好の撮影スポットになっている。本当に美しい姿をしている。
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入り口や、中の階段などは相当に急角度であり、かなりワイルドな感じである。
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考えてみれば、400年前にできた城郭建築が、後世の補修は当然あるものの、今でも現存していて、しかも人々がその中に入ることができるということは、なかなかに大変なことである。城としての機能を失った明治期以降は、古い城廓建築を維持するだけでもそれはそれは大変なことであり、各地の城の中には、明治期に壊されてしまったものも多い。日本人は情緒的である割には、ある意味で変わり身が早く、建物のスクラップ・アンド・ビルドは、かなり大胆に行う方ではないか。それは、西洋のような石造りではなく、木造であるということも一因であろうが、日本人のメンタリティの何かと関係しているようにも思う。ところがこの城の場合、もともとの建造は織田信康 (信長の叔父) によるものだが、その後、1617年 (今からちょうど 400年前だ!!) に、尾張徳川家の家老であった成瀬正成が城主となり、その成瀬家が明治維新まで城主であり続けた。それゆえこの犬山城は、つい最近まで、国宝建造物として唯一、成瀬さんという個人所有のものであったのである (現在では財団の所有)。天守閣の最上階には、歴代城主の肖像が掲げられている。ネクタイを締め、ウィスキーグラスなど傾けている城主さんとは、なんとも面白いではないか。
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尚この最上階には赤い絨毯が敷いてあって、私は後で本で知ったのだが、これは第 7代城主、成瀬正壽 (まさなが、1782 - 1838) がオランダ商館長と親しかったことから、その頃に敷かれたものであるらしい。へぇー、私はてっきり、昭和のものかと思いましたよ。
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それにしてもこの城、その佇まい自体は、本当に武士の時代に思いを馳せることのできる場所だ。ほら、このように畳に自然光が入ると、すっと扉を開けて侍が出てきそうな感じすらするではないか。
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未だ実戦を想定していた頃の建造なので、ある階の床は、このように板と板の間に、わざと隙間を設けてある。下の階に忍び込む者をここからチェックできるのである。ただ、その時城はかなり危機に瀕しているであろうが (笑)。
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犬山城が建っているのは、木曽川のほとりの丘の上である。城の背後は天然の要害地となっているわけである。
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今回破損したしゃちほこが、いつどのように修復されるのか分からないが、この強い生命力を持つ建物の長い歴史の中では、ごくちょっとしたトラブルでしかない、と考えたいものだ。

さて、近隣の神社や犬山の街自体も大変に情緒があり、商店街を覗いたり、その中に保存されている歴史的建造物や、犬山祭りの山車やからくり人形の展示なども興味が尽きないのだが、今回は時間の関係でパス。ただ、城から歩いて数分のところにある場所だけは、絶対に外してはならない。このような名前の場所である。名鉄犬山ホテルの敷地内にある、有楽苑 (うらくえん)。
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この有楽苑は、よく手入れの行き届いた日本庭園なのであるが、そこでの見どころはなんと言っても、上の写真にある通り、如庵 (じょあん) という茶室である。犬山城天守閣が、日本に 5つしかない国宝天守閣のひとつなら、この如庵は、日本に 3つしかない国宝茶室のひとつなのである。因みにほかの 2つとは、京都、山崎の妙喜庵にある待庵と、大徳寺の塔頭である龍光院にある密庵。実は、待庵は日本史の教科書にも出て来たが、事前予約制での公開で、私は見たことがない。密庵に至っては、全く公開をすることがなく、この寺の所蔵するやはり国宝の曜変天目茶碗と同様、幻の国宝なのである。従い、この如庵を犬山で見ることができることは、非常に貴重なことなのだ。これが有楽苑の門。
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如庵は、織田信長の弟で、大名であり茶人でもあった織田有楽斎が作った茶室。もともとは京都の建仁寺の塔頭に建てられたが、明治になって京都の中で移転されたのち、その後東京の三井家本邸に移築。昭和に入ってから一度大磯に移ったあと、1972年に名古屋鉄道 (名鉄) によって現在の地に引き取られた。織田家ゆかりの名古屋近郊で、ようやく忙しい移転生活を終え、その凛とした姿を人々に見せていることは、実に感慨深いものだ。中に入ることはできないが、解説もあり、自由に写真も撮ることができて、有り難い限りである。私は以前、外人のグループをここに連れて来たことがあるが、皆大変に興味深そうに内部を覗き込んでいた。
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実はこの有楽苑には、ほかにも興味深い建築がいくつもある。この如庵に隣接しているのは、重要文化財の旧正伝院書院。これは有楽斎の隠居所であり、中には長谷川等伯や狩野山雪などの襖絵が残されているという。内部は非公開だが、床下からこのように内部を覗くことができる。暑い日だったので、開け放した襖によって風が通り、置いてある団扇を扇いで涼を取ると、日本人でよかった、と思ったものだ。
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それから、有楽斎が大坂の天満に作ったという元庵という茶室を、古図に基いて復元してある。これは如庵と違って大きな建物で、商都大坂の賑わいを思わせるものだ。
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このように、有楽斎ゆかりの建物が気品ある佇まいを見せるこの有楽苑、観光客がそれほど多く訪れるようには見えないが、少なくとも犬山城を訪れる人たちには、是非是非見て欲しいところである。それにしても、名鉄がこのような文化的な事業に力を入れているということは素晴らしいことだ。そしてそのことは、次なる目的地にてさらに圧倒的に迫って来ることとなるのである。犬山地域の探訪は、続きます。

by yokohama7474 | 2017-10-15 01:23 | 美術・旅行 | Comments(0)

水戸室内管弦楽団第 100回定期演奏会 (指揮 : ラデク・バボラーク / 小澤征爾) 2017年10月13日 水戸芸術館コンサートホールATM

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水戸に本拠地を置く水戸室内管弦楽団が、第 100回の定期演奏会という節目を迎えた。水戸室内管は、1990年に設立された室内オーケストラである。チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチをソリストに招き、小澤征爾の指揮で第 1回演奏会を開いたのはその年の 4月。ちょうど私が社会人になったタイミングであるので、このオケの発展は、私自身が社会の荒波に揉まれて成長する (?) 過程とそのまま重なることもあり、今回の第 100回定期演奏会には是非足を運びたいと思ったものである。このオケのメンバーは、サイトウ・キネン・オーケストラのメンバーともかなりの部分重複していることや、水戸芸術館の初代館長、音楽評論家の吉田秀和 (1913 - 2012) が小澤の恩師であることもあり、設立当初から小澤との共演が多かったわけであるが、2013年に小澤が吉田の後を継いで水戸芸術館の館長に就任した際、このオケの総監督にも就任したという経緯がある。
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このブログでは過去何度か、小澤征爾という指揮者について語ってきている。昔から「世界のオザワ」などという、私に言わせれば音楽の本質に関係のない、実にくだらない称号をマスコミから捧げられる一方で、様々な毀誉褒貶を経てきた人であるし、私自身の小澤体験を思い出してみても、そのすべてが素晴らしいものばかりではない。だがそうは言っても、彼の音楽を聴いて雷に打たれたような強い感動を覚えたことも、過去 35年間に何度もある。誰が何と言おうと、私にとっては音楽史に残る偉大な指揮者のひとりであり、大病を克服して 82歳という年齢に至った彼の音楽を、一度でも多く聴きたいと思っているわけである。その小澤の実演を聴けるのは、今やほとんどが松本とこの水戸だけ、しかもコンサートの一部の指揮のみ、という事実はどうしようもないわけで、それでも彼の指揮を聴ける機会は、万難を排して確保する所存である。会場にはこのオケの歴史を示すポスターが所狭しと並んでいる。以下 2枚目のフィレンツェ公演は、途中で停電があったにもかかわらず、演奏を継続したという伝説的なもの。私の手元にはこの演奏会が NHK BS で放送された際に録画したヴィデオテープからダビングしたブルーレイディスクがある。
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さて、今回の演奏会、第 100回定期という記念すべきものであり、それを祝う曲目は、ベートーヴェンの交響曲第 9番ニ短調作品 125「合唱付」である。残念ながらこの破天荒な大作を全曲振り通す体力のない小澤は、今回、後半の第 3・4楽章のみを指揮する。そして前半 2楽章を指揮するのは、もともとベルリン・フィルのホルン首席であり、この水戸室内管やサイトウ・キネンでずっとホルンを吹いている、まさに現代のホルンの巨人、チェコ人のラデク・バボラークである。私も昨年の 8月 7日の記事で、彼の指揮する日本フィルの「エロイカ」その他を採り上げている。今年 41歳なので、指揮者としては未だ若手と言える。
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今回の演奏会、いろいろな意味で私にとっては前代未聞のものとなった。すなわち、以下のような点においてである。
1. ひとつの交響曲の前半と後半で指揮者の違う演奏会。これまでも小澤は、オペラの場合はほかの指揮者 (今回の演奏会では合唱指揮者を務める村上寿昭) と指揮を分け合うことはあったし、この水戸室内管でも、前半指揮者なし、あるいはナタリー・シュトゥッツマン指揮という例はあれども、交響曲の一部だけを指揮するのは初めてだろうし、きっと音楽史上でも珍しいことだろう。
2. それと関連して、前半に指揮を取った人が、後半はオケの一員として演奏に参加した。野球で、右投げ投手が左の代打をぶつけられたとき、左利きのピッチャーがワンポイントで出て、その時には外野を守り、その後マウンドに戻ることはあるが、今回のような例はほとんどないと思う (笑)。
3. 第九を演奏するのに、コントラバス 3本という衝撃の小編成!! しかも、ヴィオラとチェロはともに 4本ずつ。
4. 私にとってはこれが最大の驚きだったが、あの小澤が、なんと譜面をめくりながらの指揮である!!

音楽の内容についての私の感想をストレートに言ってしまうと、第九という曲本来の破天荒な表現力を最大限堪能するところまでは行かなかったものの、ひとえに小澤征爾という指揮者の存在によって、特別な機会になった、ということになろうか。前半を指揮したバボラークには大変申し訳ないが、今回演奏を聴くことのできた多くの人たちがそのように思ったのではないか。バボラークほどの驚異の才能なら、指揮でもなんでも簡単にできてしまうかと思うのだが、上述の、日フィルを指揮した「エロイカ」の感想を自分で読み返してみて、我ながら (笑) 納得した。彼の音楽には真面目な重量感があり、もちろんベートーヴェンとしてそれが一概に悪いとは言えないが、ちょっと遊びや面白みに欠くきらいがあると思うのだ。要するに、硬い。そのことを実感したのは、後半に小澤が登場し、第 3楽章が流れ始めたときである。ここでは、バボラークの剛直な音楽から一転して、なんともしなやかな音楽があり、水の流れのように進んで行く弦楽器の表現の透明感と、そこに湛えられた Emotion は、いかに感動的であったことか。改めて小澤のしなやかな音楽を聴いて、少し感傷的な気分になったことを率直に認めよう。これは記者会見での小澤。
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ちょっと遡って、今回の演奏会で第 2楽章が終わったときの情景を思い出してみよう。それまで、手すりのついた指揮台で、譜面台も置かずに暗譜で指揮していたバボラークが出番を終えると、指揮者交代を知っている聴衆は拍手を送った。だがバボラークは、曲の途中だからだろう、その拍手には反応せず、コンサートマスター (豊嶋泰嗣) にだけ会釈をして、そそくさと退場した。小澤用の椅子が指揮台に運び込まれ、指揮台自体が少し前に引き出された。補給用の水も置かれた。それらの作業と並行して、合唱を務める東京オペラシンガーズ (総勢 30名程度の小さな規模で、女声の方が若干多い) が入場して、ステージ上の後方に並んだ。椅子を置くスペースがないので、合唱団はずっと立ちっぱなしである。そして、思わぬことに、譜面台が運び込まれ、楽譜が置かれて、それから、舞台上手から 4人のソリストたち (三宅理恵、藤村実穂子、福井敬、マルクス・アイヒェ) が、下手からは小澤が登場した。あ、それから、終楽章のトルコ行進曲で打楽器を演奏する 3人の奏者も登場し、そして後半でホルンを吹くバボラークが、それまで吹いていた若い女性のホルン奏者と交代した。小澤は指揮台で精神集中し、そして始まった音楽は上述の通り清らかな感情の流れとなり、この名人オケが紡ぎ出す最上のクオリティの音が、人々の心に直接響いたのである。その第 3楽章終了時には小澤は給水を行い、少し休止を取ってから第 4楽章に入って行ったのだが、体の動きがかなり小さい。音楽が盛り上がる部分では懸命に椅子から立ち上がっての指揮であり、もちろんその音楽は感動的に立ち現れたが、演奏を聴きながら私の中では、ある情景が甦っていた。それは、もうかなり以前だが、ロリン・マゼールが大晦日にベートーヴェンの全 9曲を続けて演奏したときのこと。確か、それまでコントラバス 6本を基本に演奏して来たマゼールが、最後の第九に至って、なんと 10本のコントラバスを並べたのである!! これこそ、この曲が、作曲された当時からいかに破天荒な曲であったかを端的に示す例であり、現代ですら、その破天荒さにはなかなか演奏がついていかないのであるということを、その時実感したのだ。実は今回の演奏の開始部分から既に明らかであったが、弦楽器の編成が小さいと、音楽のダイナミックレンジ、つまり強弱の幅も小さくなってしまうのである。やはりこの曲には、ベートーヴェンの脳髄の中で鳴っていた壮大な響きが必要である。いかなる名人オーケストラでも、表現のパレットを制限されることは、やはりハンディであろう。

とはいえ、繰り返しだが、この演奏には最後まで感動的なものがあった。譜面を置いてはいるものの、ほとんど目をやることはないまま、それをめくりながら指揮をした小澤の中には、喧騒を超えた音楽の表現力がきっちりイメージされていたのだろう。それは、我々がこの指揮者の演奏を多く経験し、また彼を尊敬しているからこそ、上記のようなオケのハンディを超えて、聴衆に訴えかけるものであったのだと思う。そうであればこそ、途中で休憩を挟んでもよい、全曲を小澤の指揮で聴きたかった!!

今回の演奏も録音されていたので、これで水戸室内管とのベートーヴェンは、残すところは第 3番「英雄」と第 6番「田園」だけとなった。どちらも、第九ほどではないが 45分から 50分を要する大作であり、特に前者は、激しい高揚が必要な曲。また譜面を見ながらになるのか否か分からないが、今の小澤がどのように取り組むのか、楽しみにしたいと思う。そして、ベートヴェンが終わったその先も。
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by yokohama7474 | 2017-10-14 01:32 | 音楽 (Live) | Comments(0)