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足掛け 3年に亘って開催されてきた期待の若手指揮者、山田和樹と日本フィル (通称「日フィル」) によるマーラーの交響曲の全曲演奏も、第 9回である今回が最後。演奏されたのは、以下のような曲目である。
 武満徹 : 弦楽のためのレクイエム
 マーラー : 交響曲第 9番ニ長調

クラシック音楽をよくご存じの方には、この日の曲目には死の影が色濃く浮き立っていることが見て取れよう。マーラー・ツィクルスのフィナーレは華やかなものではなく、暗い死の影と隣り合わせなのである。この日も開演前に山田が登場して (通常はすぐ演奏会に入れるように燕尾服での登場だが、今回はタイなしのスーツ姿である)、プレトークを始めたところによると、8番までは感じることのなかった「これで終わり」という寂しさを今回は感じるという。この武満の曲 (1957年作曲) はこの作曲家の出世作であり、ストラヴィンスキーらに称賛された、という有名な話が披露されたあと、ほぼ専らマーラー 9番について語られることとなった。山田によると、この曲が採用しているニ長調という調性は、音楽史を見渡しても不思議と死と縁があるとのこと。ベートーヴェンがハイリゲンシュタットの遺書を書いた頃に書いていた晴朗な交響曲第 2番がこの調性だし、ハイドンの最後の交響曲、第 104番もしかり。ニ「短」調に視野を広げると、モーツァルトのレクイエムやブルックナー 9番が入ってくると。また山田は、この曲において重要なのは第 2ヴァイオリンであるという。このシリーズにおいて前回までは、指揮者の左手、第 1ヴァイオリンの奥に第 2ヴァイオリンが陣取り、指揮者の右手にはヴィオラがいたところ、今回だけヴィオラと第 2ヴァイオリンを入れ替えて、ヴァイオリンの左右対抗配置とした。それには明確な理由があり、この曲での第 2ヴァイオリンは、モーツァルトやベートーヴェンの曲での役割のように、第 1ヴァイオリンと一緒に演奏してその演奏を支えるという役割を超え、独自の動きをして、その動きが重要だからだという。例えば第 1楽章の冒頭のテーマ (マーラーが既に前作「大地の歌」の最後で「永遠に (ドイツ語で "Ewig")」という歌詞につけた音型を流用) は、通常なら主旋律を担う第 1ヴァイオリンではなく第 2ヴァイオリンが弾くものだし、最終楽章の荘重この上ない終結部も、第 1ヴァイオリンが沈黙したあとも最後まで第 2ヴァイオリンが演奏を続けるということが説明された。もしかすると、第 1ヴァイオリンが現世なら、第 2ヴァイオリンはあの世を表しているのかもしれないとも語られた。そして山田が最後に総括して言うことには、マーラーの楽譜には細かい指示が大変多いが、だからといってどんな指揮者の演奏もそれに忠実に従うあまり、同じような演奏になるかというと、全くそうではなくて、非常に多様である。ある意味でマーラーは、多様な価値を包含する世界性を持っている音楽であり、それこそ、多様な価値観の衝突が起こりがちな現代において必要とされているものではないか、と締めくくり、ともに「戦って来た」日フィルをはじめとする本シリーズの関係者への謝意が述べられた。今回のトークは、一見いつもの通りの飄々とした語り口でありながら、あまり脱線したりジョークを絡めることもなく、この稀代の交響曲に挑む緊張感を感じさせるものであった。
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前半の「弦楽のためのレクイエム」は、文字通り弦楽器 5部からなる 10分弱の曲。当時 27歳の武満が東京交響楽団からの委嘱を受けて書かれたものである。その厳しい音楽は後年の武満の美麗さと通底しながらも反撥しあう。往々にして、暗い絶望の中で揺蕩うように演奏されるが、山田の手にかかるとそれは重苦しい音楽というよりは、様々な線の絡み合いから立ち昇り、どこまでも続いて行く音の連なりのようであり、繊細さの表現に細心の注意を払いながらも時に大胆に聴き手に迫りくる、積極的な音楽であるかのように響いたのではないか。これは小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラによる録音のジャケット。
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そしてメインのマーラー 9番こそ、この畢生の大作に若き指揮者が果敢に挑んだことの結果が大きな説得力とともに鳴り響く、充実の名演となったのである。上記でご紹介した通り、この曲における第 2ヴァイオリン・セクションの重要性は明白である。このブログでも、昨年 11月28日の記事で、マリス・ヤンソンスとバイエルン放送響による同じ曲の演奏を採り上げたが、奇しくもその記事で私は、第 2ヴァイオリンの充実を素晴らしい成果として指摘した。この曲においてマーラーが描き出した、ある意味で単純明白な要素 (死への恐怖、現世への別離) を強調するために、様々に複雑な要素が盛り込まれているというと逆説的だが、今回の山田と日フィルの演奏はその逆説性を仮借なく抉り出した。演奏時間 80分になろうかというこの曲の全体を見通してみると、恐ろしいほどの音響が渦巻く両端楽章と、諧謔味がさく裂する中間 2楽章との間の対比が重要であるところ、今回は中間の第 2・第 3楽章での山田の快刀乱麻ぶりが際立っていたからこそ、もう逃げも隠れもできないほど激しいエモーションを必要とする両端楽章が、強い説得力を持ったのであろう。例えば第 2楽章は三拍子のレントラー舞曲であるが、通常のテンポ、速いテンポ、遅いテンポという切り替えが見事で、快速な場面でのティンパニの強調も決まっていたと思う。第 3楽章ロンド・ブルレスケは、中間部のノスタルジックなトランペット以外は常に動き回る音楽であり、日フィルの技術が大変な冴えを聴かせた。翻って第 1楽章は、私の耳には冒頭が少し硬いかなという気もしたが、丁寧な第 2ヴァイオリンの演奏が陰影を紡ぎ出していたし、終楽章は出色の出来で、中間部で弦楽合奏だけで壮大になる部分では鬼気迫るものを感じた。そして、長い長い時間をかけて「死んで行く」ように終わって行く終結部。このツィクルスを最初から聴いて来た私としては、その最後の最後の音が消えて行く現場に立ち会えたことを、本当にありがたく思ったことである。

東京のマーラー受容には既に充実した歴史があるが、ここに、30代の日本人指揮者として恐らく初めて、9曲の交響曲の全曲演奏を成し遂げた山田和樹は、忙しい海外での活動の傍ら、日本でも意欲的なプログラムが今後目白押しだ。もちろん、年を経ればまた音楽が変わって行くことも充分あるであろうから、同時代に生きる者として、そのような彼の創生・深化・昇華 (今回のマーラー・ツィクルス三期それぞれのテーマ) を是非見て行きたい。ツィクルス完走、まずはお疲れ様でした!!

# by yokohama7474 | 2017-06-25 21:55 | 音楽 (Live) | Comments(1)

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しばらく出張に出て慌ただしい時間を過ごしていたが、こうして週末のコンサートや映画に出かけることによって、何か日常の自分のペースが戻ってきたような気がする。あ、そう言いながらも、そのような個人の趣味の時間も、出張に負けないくらい実は慌ただしいのであるが (笑)。ともあれ、今回読売日本交響楽団 (通称「読響」) の指揮台に初めて登場するのは、今や世界で大活躍のオーストラリア人、シモーネ・ヤングである。昨年 11月には、こちらは東京交響楽団 (通称「東響」) を初めて指揮して、オーケストラ・コンサートを開くほかに、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」を演奏しており、私も記事でそれらを採り上げた。2015年まで務めたハンブルク歌劇場及びハンブルク・フィルの音楽監督を退いてからは、決まったポストはないのであろうか。このような優れた指揮者が日本の複数のオケに客演してくれることで、またまた日本の音楽シーンが楽しくなる。今回はそれを実感できるコンサートであった。
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今回の曲目は以下の通り。
 プロコフィエフ : ピアノ協奏曲第 3番ハ長調作品26 (ピアノ : ベフゾド・アブドゥライモフ)
 リヒャルト・シュトラウス : アルプス交響曲作品64

おめあてはもちろん、シュトラウスの大作、アルプス交響曲なのであるが、この曲は本来そうそう演奏されるものではないはずだが、東京ではやはり昨年 11月、あろうことか、クリスティアン・ティーレマン指揮のシュターツカペレ・ドレスデンと、マリス・ヤンソンス指揮のバイエルン放送交響楽団という世界一流のコンビが数日の差を開けて相次いでこの曲を演奏した。それから半年余り。東京を代表するオケのひとつである読響も、負けじと是非ここでその真価を見せて欲しいものである。だがその前に、前半に演奏されたプロコフィエフでも、なかなかに活きの良い若手ピアニストが登場して会場を沸かせることとなった。1990年生まれのウズベキスタン人、ベフゾド・アブドゥライモフ。様々な民族が暮らす中央アジアの人らしく、ちょっと東洋系の顔立ちである。
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私は今回彼を初めて聴いたが、このプロコフィエフの慌ただしい曲を、少し猫背になりながら集中して弾く姿には、自分をカッコよく見せようという邪心がなく、好感が持てた。さらに技術を誇示してもよいのではないかと思うくらいであったが、見ていて面白かったのはヤングの伴奏で、この人、指揮ぶりはあまり器用には見えないのだが、時折ピアニストに目をやりながらあちこちのパートに指示を出し、第 1楽章や第 3楽章の追い込みではかなりの突っ走り方でピアノと競り合っていた。やはりプロコフィエフの 3番はこうでないと (あ、宇野功芳入ってしまいました。笑)。もちろん、ピアノに異常な迫力があるというわけではなかったので、例えばアルゲリッチの演奏のような白熱には至っていなかったものの、これはこれで優れた演奏と言ってよいであろう。アンコールは私の知らない曲であり、ショパン風に聴こえる瞬間もあるが、さらに抒情的で切ないメロディであったので、何かと思えば、チャイコフスキーの「6つの小品」作品 19の第 4曲、夜想曲であった。プロコフィエフの喧騒のあとの口直しとしては最適であったろう。

そしてメインのアルプス交響曲。冒頭の朝日が昇る場面からして、音が重々しく荘厳だ。そして蠢く低音から徐々に盛り上がり、ついに輝かしい光を放つ箇所では、早くも鳥肌立つような広がりのあるオケの音が全開となった。そしてそれから切れ目なしの 50分、各場面の精妙な描写が連続する中で、常に美しくまた広がりのある音が聴かれ、自然やそれに対峙する人間を描いたこの曲の真価を、存分に楽しむことができた。今回の会場である東京芸術劇場は、概して響きはよいものの、時に木管楽器の音の輪郭が鋭さを欠くように思う。今回もその点が少し気になる瞬間は何度かあったものの、木管も金管も、演奏自体は素晴らしいレヴェルであったし、改めて実感したのは、この曲における弦楽器の滔々たる流れであり、ヴァイオリンの左右対抗配置 (プロコフィエフでもそうだったが) が絶大な効果を発揮していたと思う。上記の通り、ヤングの指揮ぶりはさほど器用なものとは思えないものの、実はここぞというときにはくっきりと音を描き出す技術を持っていて、きっと楽団員もあれなら演奏しやすいのではないだろうか。以前東響で指揮したブラームス 4番では、かなり緩急自在であったと記憶するが、今回のシュトラウスではむしろ堅実に音を引き出している印象であった。高揚感を漲らせる山頂のシーンや、迫力溢れる嵐の場面でも、必要以上にオケを煽り立てることはなく、しかるべき道筋を順々に辿って、楽員が遭難しないように (?) うまく誘導していたと思う。それでいて作為性を感じさせることなく、ごく自然な音楽的感興を常に聴くことができた点、やはり非凡な演奏であったと思う。
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今回のシュトラウスを聴きながら思ったことには、この指揮者は意外とストラヴィンスキーやバルトーク、あるいはラヴェルが面白いのではないか。もちろん前半のプロコフィエフにその適性の片鱗が見えたが、「春の祭典」「管弦楽のための協奏曲」「ダフニスとクロエ」といったレパートリーを聴いてみたい。これまでのレコーディングではブラームスやブルックナーなどのドイツ物が中心だが、この手腕であれば何でもできてしまいそうだ。

そんなわけで、今後東京で再会するのが楽しみな指揮者である。あ、もしかすると、ヤングが女性指揮者として世界有数の実績を誇るということに触れないのかと思う方もおられるかもしれないが、それは以前の記事でも書いたし、写真を見れば女性であることは一目瞭然なので (笑)、そのことには触れる必要はないだろう。性別を話題にする必要もなく、その優れた手腕をこそ、今後も聴いてみたいものだと思っている。

# by yokohama7474 | 2017-06-25 02:30 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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何やら、最近ますます大変な混雑になっていると耳にする展覧会。既に 4月から始まっていて、まる 3ヶ月以上の会期の、既に終盤に入っている。私がこの展覧会に出かけたのは、既に 2週間ほど前。そのときにもかなりの混雑であった。これは何の展覧会かというと、上のポスターにある通りの「バベルの塔」の展覧会だ。太古の昔、人間があまりに高い塔を建てたので神の逆鱗に触れ、同じ言葉を話していた人々に別々の言葉を喋るようにして、人間社会を分断したという聖書にある逸話。ネーデルラント (というと今のオランダだが、彼が没したのは現在のベルギー、ブリュッセルである) の画家ピーテル・ブリューゲル (1525/1530 - 1569) の描いた有名な作品が本展の目玉になっている。だが、この展覧会のタイトルをよく見てみよう。頭に「ボイマンス美術館蔵」とあり、後ろの方には、「16世紀ネーデルラントの至宝 - ボスを超えて -」とある。実はこれらの要素が非常に重要なのであって、私としては、この素晴らしい展覧会を、ただ一点「バベルの塔」だけに集約したこの宣伝方法には疑問を禁じ得ない。この展覧会の価値はそれだけで測るにはもったいないのである。以下、何がそれほど素晴らしかったのか見て行くこととしよう。

まずこの展覧会の展示品がひとつの美術館から来ていることに注目しよう。その美術館名は (上のポスターでは短く省略されているが)、ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館。
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この美術館はオランダのロッテルダムにあり、私も一度だけだが現地を訪れたことがある。ご当地ものであるネーデルラント、フランドル絵画だけではなく、20世紀の主要な画家の作品も多く所蔵する素晴らしい美術館である。長い館名は、この美術館のコレクションの基礎を作った 2人の収集家に因んでいるが、一人はフランス・ボイマンス (1767 - 1847)、もう一人はダニエル・ヘオルフ・ファン・ベーニンゲン (1877 - 1955)。美術館の開館は 1849年と、驚くほど早い。オランダの文化度の高さを具現するような美術館なのである。展覧会はまず彫刻作品で始まる。これは 1480年頃の作品で、4大ラテン教父、つまり聖アウグスティヌス、聖アンブロジウス、聖ヒエロニムス、聖グレゴリウスである。作者はアルント・ファン・ズヴォレという彫刻家とされている。高さ 74cm ほどの小ぶりなものであるが、その佇まいの清冽さが印象的であり、衣の繊細な処理も、日本の古い木彫を見慣れた私としても、非常に優れた出来であると思う。
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これはまた見事な祭壇彫刻。1500年頃の作とされている「十字架を担うキリスト、磔刑、十字架降下、埋葬のある三連祭壇画」。作者不詳である。この手の木彫りはドイツにも驚くほが見事な作品が多くあるが、地理的に近く、同じプロテスタント地域であるネーデルラントにおいても同様であるようだ。
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このような木彫作品の素晴らしさもさることながら、このネーデルラント / フランドル芸術の特色は、宗教画であっても仮借ない人間の姿が表されていることではないだろうか。例えばこれは、ヤン・プロフォースト (1465頃 - 1529) という画家の手になる「アレクサンドリアの聖カタリナの論争」(1520年頃)。ここに表現されている人体は決して写実的ではなく、それは画家の技術の欠如にもよるのかもしれないが、ただここにはなんとも言えない奇妙な生々しさがある。真ん中右でピンクの衣装を着ている聖カタリナの指の動きの繊細なことは驚くべきだし、その右側に見える正面を向いた少女は天使の化身らしいが、その場違いな落ち着いた表情はどうだろう。その右側にいる人物は真横を向いていて不気味なら、奥の方に見えるのは架空の建築群なのである。
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これも同じ聖カタリナの肖像なのであるが、1500年頃の作で、作者は判明しておらず、「枝葉の刺繍の画家」と呼ばれているらしい。華やかなイタリア・ルネサンスとは全く異なる静謐さを持つこの絵に、遥か後年のベルギーでのシュールレアリズムの萌芽を見るような気がするというと、話を面白くしすぎであろうか。
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同じ祭壇画から、こちらは「聖バルバラ」。うーん、これも大変に美しい。
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さてこれは、ルカス・ファン・レイデン (1489/94 - 1533) 周辺の画家の手になるとされる「女性の肖像」(1520年頃)。ここにも美化されていない人間の姿が表れていて、素晴らしい。
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これは少し時代が遡り、1480年頃の作者不詳の「風景の中の聖母子」と、その裏に描かれた「本と水差し、水盤のある静物画」。この聖母子は、解剖学的には正確ではないようだが、その平穏な雰囲気には何かほっとするものがある。一方で、ネーデルラントでその後伝統が作られて行く静物画であるが、これはトロンプルイユ (だまし絵) 的な表現だが、白いタオルや真鍮の洗面器と水差しは、受胎告知を象徴するという。むむ、ここでも遥か後年、ベルギーで発展した象徴主義 (サンボリズム) につながるものを見てしまいたくなるではないか。
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ここで初めて知った名の画家と対面する。ハンス・メムリンク (1433頃 - 1494)。「風景の中の二頭の馬」(1490年頃) という作品で、家庭用祭壇画の一部であるらしい。ここでは二頭の馬だけでなく猿も登場して、何か寓意があるらしいが、だがこの破綻のない風景と動物の組み合わせに、高度な洗練を感じるのである。
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これも名の知れた画家の作品。ヨアヒム・パティニール (1480頃 - 1524) の「牧草を食べるロバのいる風景」(1520年頃) である。パティニールについては随分以前、2015年 9月26日の記事で「世界初の風景画家」とご紹介した。だが彼の風景画は、ただ風景だけを描いたものではなく、宗教画の一部なのである。この作品も聖母子の「エジプト逃避途上の休息」を描いた作品の一部であるらしい。だがなんとも気持ちが安らぐ風景ではないか。
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かと思うとこれは、その同じパティニール周辺の画家の手になるとされる「ロトと娘たち」(1520年頃)。これは打って変わって人の心を不安にさせる光景である。私の見るところ、この平穏さと不気味さの交錯が、パティニールより一世代前かと言われるボスや、その影響を強く受けたブリューゲルの作品にも通底していて、ネーデルラント絵画の特異な持ち味を充分に感じさせるのである。
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というわけで、ついに登場するのが、ヒエロニムス・ボス (1450頃 - 1516) である。世界最初の奇想の画家と言ってもよいだろう。後世 (1610年頃) に描かれた、版画による彼の肖像画はこれである。頭の後ろに何やら奇怪な生き物たちが描かれているが、これぞボスからブリューゲルに受け継がれた奇想の数々。
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そして私はここで声高に叫ぼう。この展覧会は何もブリューゲルの「バベルの塔」だけが売りではないはずだ。なぜならここには、世界にも 30点ほどしかないボスの真筆作品のうちのなんと 2点が出品されているからである!! こんな貴重な機会はそうそうあるものではない。未だご覧になっていない方は、とにかく悪いことは言わないから、これらの作品と対面するために上野に馳せ参じるべきである。まずこれは、「放浪者 (行商人)」(1500年頃)。ここにはボスの真骨頂である奇想はない。だが、旅籠か娼家とおぼしき左後ろの建物から去って行くみすぼらしい男の振り返るところ、豚が飼料をむさぼり、男が女を口説き、また別の男は放尿している。そのような猥雑な風景を振り返る中央の男の表情は、名残惜しいようにも見えるし、軽蔑しているようにも見える。ローマ・カトリックの感性ではこのような人物は決して描かれないであろう (ルターの宗教改革は 1517年だが、それ以前に既に、ローマ・カトリックのものとは違う物の見方による表現があったということだろう)。
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今回出展されているもう一点のボスの作品は、「聖クリストフォロス」(1500年頃)。川を渡る際に背負った赤子が実はキリストで、世界の創造を背負った重さになるという逸話である。このテーマ自体は珍しいものではないものの、左の岸では熊の死骸が吊るされ、右の岸では樹木に不思議な住居が突き刺さっている。控えめとはいえ、まぎれもないボスの指向がはっきりと表れている。
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この展覧会にはまた、ボスの作り出したイメージによる後世の版画も沢山展示されていて、興味が尽きない。以下「樹木人間」、「様々な幻想的な者たち」、「ムール貝」、「二人の盲人のたとえ話」。この画家のブラックなイメージを堪能されたい。
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そしてこの展覧会の主役、ピーター・ブリューゲル (1525/1530 - 1569) である。その子孫たちも画家として実績を残したが、やはり元祖としての地位は揺るぎない。これは死後、1572年の版画による肖像。生年不詳とは言え、40代半ばまでには没していたようであるが、その髭から、大変な老人に見えてしまう。
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日本ではこれまでもブリューゲルとその周辺の画家の展覧会は何度も開かれていて、その中には 1993年に今回と同じ「バベルの塔」が来日したセゾン美術館での展覧会もあるが、あろうことか手元にその図録がなく、もしかしたらその時は見逃したのかもしれない。だが、1989年ブリヂストン美術館での「ピーテル・ブリューゲル全版画」展、1990年国立西洋美術館での「ブリューゲルとネーデルラント風景画」展、1995年東武美術館での「ブリューゲルの世界」展、2010年 Bunkamura ザ・ミュージアムでの「ブリューゲル版画の世界」展の図録は手元にある。中でも最初に挙げた展覧会では、ブリューゲルの全版画を見ているはずだから、今回展示されている版画の数々も、きっと見ているはず。だが、もうこれらは何度見ても飽きることがなく、そのめくるめく奇想には、人間の脳髄を直接刺激するものがあるのである。以下「聖アントニウスの誘惑」、「七つの大罪」から「大食」、「忍耐」、「最後の審判」。
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一方、ブリューゲルの版画においては、正確な細密描写や、夥しい数の人間たちの密集も特徴になっている。以下は「ガレー船を従えた沖合の 3本マストの軍艦」と「農民の婚礼の踊り」。これらを描く技術は、大作「バベルの塔」にそのまま活きていることであろう。
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その「バベルの塔」(1568年頃) は、展覧会場では特別扱いであり、広い空間に一点だけ、恭しく展示されている。
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今回、芸術新潮や NHK の「日曜美術館」でも、漫画家の大友克洋 (私も深く尊敬している) がこの塔の内部を独自に再現するような試みを披露しており、それはそれで面白いのだが、やはりこの作品自体をじっくり見るべきではないだろうか。ブリューゲルの「バベルの塔」と言えば、この 5年ほど前の作品もあり、ウィーン美術史美術館の所蔵になっているが、こちらのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館所蔵のものはさらに遠近法が強調され、異様さが増している。幻想的でありながら細部の凄まじいリアリティを見ると、ほかのどのブリューゲル作品とも異なる SF 性を感じることができ、一体この人のヴィジョンはどうなっていたのかと、空恐ろしくなるばかりである。このように、絵の中では多くの人たちが塔の建設に携わり、各種機械も設置されているのである。
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このように、もちろん「バベルの塔」の素晴らしさを実感することも重要であると同時に、それ以外に展示されている作品たちの質の高さも、充分に楽しみたい展覧会であり、それゆえ私は、一点豪華主義であるかのようなこの展覧会の宣伝方法には納得できないのである。ともあれ、現地でこれらの作品を目にすると、宣伝がどうのこうのということを忘れてしまうことも事実。素晴らしい内容なのである。さて最後に、私の個人的な思い入れに触れて、この記事を終えることとしよう。実は私にとってボスとブリューゲルの作品集は、私が初めて買った西洋絵画の画集であったのである。最初の画集がマネやモネやゴッホやルノワールではなかった点、私の指向する美術の傾向が明確に表れているのである・・・。今も書庫にあってすぐに手元に出てくるその画集は、集英社の世界美術全集の第 18巻。1978年の発行だから、40年近く前の本で、当時私は中学 1年生だ。あ、なんと表紙には、今回の展覧会に出品されている「放浪者」が採用されているではないか。
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今でもページを開くと、異様な図像の数々と首っ引きで詳細な解説を一生懸命読んだことを思い出すが、この本の主要な執筆者は、驚くべきことに今に至るも日本の誇るボスとブリューゲルの世界的権威である美術史家の森洋子なのである。上のカバーにある通り、1,450円という値段は 40年前のものであっても (笑)、内容は今でも豊かな啓示に満ちたもの。本当に日本においては、西洋絵画を学ぶ文化的土壌はずっと存在しているのであって、いながらにして実物を目にできることと併せて、文化の使途たちはその幸福に感謝を捧げるべきだろう。その思いをもって、会場の混雑を乗り切るべし!! 会期はあと一週間である。

# by yokohama7474 | 2017-06-25 01:22 | 美術・旅行 | Comments(2)

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以前もこのブログで触れたことであるが、東京におけるコンサートのメッカであるサントリーホールは現在改修中。通常定期演奏会をここで行っているオケはそれぞれに、それぞれにほかの会場で定期演奏会を継続中だが、ひとつだけ、本来サントリーホールで行っているべき定期演奏会を取りやめたオケがある。NHK 交響楽団 (通称「N 響」) である。もちろん東京 No.1 オケとしての存在感は未だ健在であるものの、昨今のほかのオケの充実ぶりには目を見張るものがあり、その意味では、このオケが行っている 3つの定期プログラムのうち 2つが、あの巨大な NHK ホールでの演奏であることは、今後 10年の N 響を占う上では、由々しきことなのではないかと私はいつも思っている。なので、サントリーホールが改修中、サントリーホールでの定期を取りやめ、代わりにその NHK ホールでの 3ヶ月だけのシリーズ (と、同じ内容でのミューザ川崎シンフォニーホールでの木曜 15時からのシリーズ) になったことに、複雑な思いを抱くファンは多いことだろう。この 3回シリーズ、上のポスターにある通り、4月は広上淳一、5月はウラディーミル・フェドセーエフが指揮台に立ち、そして今月 6月の最終回は、オランダ出身の古楽専門指揮者、トン・コープマンの登場である。今年73歳。「渋谷・大人の寄り道」をどのように演出してくれるのであろうか。
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実はこの演奏会、発表当初は英国の名指揮者、ネヴィル・マリナーの指揮で予定されていた。だがマリナーは昨年 10月、残念ながら 92歳で大往生。そして代役として選ばれたのがコープマンである。これはなかなかに興味深い。というのも、マリナーはモーツァルトを得意にしていたとはいえ、(研究はともかく実際の演奏活動においては) 飽くまで現代楽器オケを指揮する演奏家であったのに対し、このコープマンは一徹なまでの古楽指揮者。チェンバリスト、オルガニストでもある彼は、1979年に自ら設立したアムステルダム・バロック管弦楽団との演奏活動を積極的に展開して来た。実は彼とそのアムステルダム・バロック管とは、1991年の 5・6月と11月に、開場間もない池袋の東京芸術劇場で、モーツァルトの全交響曲 (番号付き 41曲、もとい 40曲 <なぜなら 37番は欠番なので> + 番号なし数曲) とレクイエムを、全 11回の演奏会で踏破しているのである。それも今となってはバブル時代の歴史的イヴェントと言えようが、加えてすごいのは、そのすべてを 1993年に NHK が BS で放送したこと。当時私はがんばって全 11回をビデオに録画したのだが、実は 1度だけ緊急番組が放送されたために録画し損ねたのである。それは今回調べてみると、第 4回。何の緊急番組であったかというと、元総理大臣、竹下登の証人喚問である (笑)。これもまたバブル時代末期のイヴェントであった。

ともあれそのような古楽のスペシャリスト、コープマンは、その経歴を見ると、王立コンセルトヘボウ管やベルリン・フィル等の一流モダンオケにも客演の実績があるとのこと。今回は N 響との初共演であるが、果たしていかなる結果になるのであろうか。今回の曲目はすべてモーツァルトで、以下の通り。
 歌劇「魔笛」K.620序曲
 フルートとハープのための協奏曲 K.299 (フルート : カール・ハインツ・シュッツ、ハープ : シャルロッテ・バルツェライト)
 交響曲第 41番ハ長調K.551「ジュピター」

実はコープマンと N 響は、同じ曲目で翌 15日 (金) は (しつこいようだが平日の 15時から!!) 川崎で、また 17日 (土) は上田市で、18日 (日) は豊川市で演奏会を開く。私の野心は、そのような地方公演を聴きに行くことであったが、今週土曜日から出張が入ってしまったので、やむなく今回、NHK ホールでの「水曜夜のクラシック」シリーズの一環であるコンサートに出かけることとした。ひとつ興味深いのは、今回もともとマリナーが予定していた曲目は、最初が「フィガロの結婚」序曲、それから 25番の交響曲、次に、これは同じフルートとハープのための協奏曲を経て、最後は 36番「リンツ」というプログラムであったのだ。つまりコープマンに指揮者が変更になって、協奏曲以外の曲目は総入れ替えになってしまった。理由は判然としないが、勝手に解釈すると、協奏曲以外は後期のウィーン時代の作品で揃えたかったということではないのか。その推測には理由があり、今回のフルートとハープのソリストは、いずれもウィーン・フィルの首席奏者。
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それに加え、今回客演コンサートマスターを務めるのは、元ウィーン・フィルのコンサートマスターとしておなじみの、あのライナー・キュッヒルなのである。つまりこのコンサートの主要な演奏家たちは、みなウィーン・フィルの一部ということになる。ウィーンで生まれた曲を演奏したくなるのも無理はない (笑)。
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さて、コンサートの内容であるが、私としてはいくつかの点で複雑な思いを抱くことになった。まずひとつは、やはり会場の大きさ。最近 NHK ホールの音響は、私の気のせいか、以前よりもよくなったような気がするのだが、とはいえ、多分に想像力でその響きを補って聴く必要があるケースが依然として多い。ほかのオケが響きのよいホールで自発性溢れる演奏を自在に展開している今、やはりこの環境が N 響の 10年後にとって重要な意味を持つだろうと、繰り返したい。今回の演奏では、前半がコントラバス 2本、後半が 4本という小さな編成であり、その微妙なニュアンスを聴きとるには、残念ながらこのホールは大きすぎる。それから、キュッヘルであるが、例によってひとりだけ、本当に冒頭の「魔笛」序曲から、音がビンビンと響いてくるのである。これはもちろんよい面もあると思うが、指揮者の志向する音楽はノン・ヴィブラートの古典的プロポーション。ウィーン的な蠱惑的音楽とはかなり異なっている。もっとも、ウィーン・フィルとても最近は多くの古楽系指揮者を指揮台に迎えてはいるものの、「これぞウィーン・フィル」という音はやはりロマン的なものであると思う。だから、キュッヒルの音が飛び出して聴こえてくることは、音楽のスタイルという観点からは、やはりちょっと違和感があったのである。但し、後半の「ジュピター」でキュッヒルの手元をよく見ていると、前半とは異なり、わずかにヴィブラートをかける場面もあるように見受けられ、実際に聴こえてくる音も、尻上がりに均一性が改善したように思えた。音楽とは本当に生き物なのであって、一流のプロといえども、すべて思ったように行くとは限らず、それこそが生演奏の醍醐味だと思うのである。コープマンの指揮自体は、予想した通り、鳥肌立つような霊感に満ち溢れたものとは言えない実直なものであったが、その小柄なからだをせっせと動かし、指揮棒を持たない両手でオケをリードする姿には真摯さが見られて、好感を持つことはできた。その一方で、モーツァルトの交響曲でも「ジュピター」くらいになると、少しはロマン性、と言って悪ければ、音楽の「味」が必要な箇所も多い。これは、以前も例えば、クリストファー・ホグウッドとエンシェント室内管の実演でも感じたことである。今回の演奏では、もう少しその「味」が欲しいような気がした。そしてコープマンが演奏会終了後の拍手に応えて、客席に向かって「モーツァルト!!」と叫んで指揮し始めたのは、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第 1楽章。アンコールでありながら、提示部をきっちり反復するあたりも真面目な印象だが、これは「ジュピター」よりもしっくり来る、N 響のアンサンブルがよく響いた演奏であった。あ、それから、フルートとハープのための協奏曲のソリストたちに関しては、もちろんきっちりとまとまっていたものの、正直、ちょっとおとなしいかなという気がしないでもなかった。彼らはアンコールとして、結果的にこの日唯一のモーツァルト以外の曲目 (笑)、ジャック・イベールの間奏曲を演奏し、これも洗練された優れた演奏であった。

上で書いたことはちょっと否定的に響くかもしれないが、でも私はこの演奏会を結構楽しんだことも事実。いわゆる古楽系の指揮者では、N 響はロジャー・ノリントン (私は彼のことを真の天才だと思う) との共演は多く果たしてきたが、ノリントンは病気も患ったし、既に高齢。この系列の指揮者で新たな可能性を発掘するには、コープマンのような人はなかなかに面白い選択だと思う。N 響の挑戦ということになるものと思うので、また再演があってほしい。やはり、次はバッハではないでしょうかね。まぁまずはその前に、土曜の上田でのコンサート、頑張って頂きたい。どうやら音響のよさそうなホールがあるようだ。上田の人たちが羨ましい (笑)。
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# by yokohama7474 | 2017-06-15 00:28 | 音楽 (Live) | Comments(5)

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今年の大ヒット作である。GW 前の公開なのに、未だにシネコンではかなりの頻度で上映されている。私にとって「美女と野獣」は、特集上映の際に劇場で見た1946年のジャン・コクトーによるモノクロ映画、1991年のディズニーによるアニメ映画、そしてブロードウェイで見たミュージカル (ベル役が東洋人であった)、と一通りの経験があり、ないのは劇団四季の日本語版ミュージカルくらいか。今回の実写版はやはりディズニーによるものであるが、なかなかに手の込んだ作りであり、もともとよく知られた内容であることもあって、万人が楽しめる内容であるがゆえに、これだけのヒットになっているのだろう。有名ミュージカルの映画化としては、「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」などもうまくできていたが、この映画もそれらと肩を並べる作品であろうと思う。もちろん、何か人生が変わるような感動を覚えるというものではないかもしれない。だが、なんとも華麗な映像を見るだけでも価値はあろうというものだ。

監督は、1955年生まれの米国人、ビル・コンドン。このブログでは、イアン・マッケランが老いたシャーロック・ホームズを演じた「Mr. ホームズ 名探偵最後の事件」を採り上げたが、およそ CG とは縁のない、今回の映画とはまた全く違うテイストのものであった。だが、その前には「シカゴ」の脚本を書いたり、ビヨンセが出た「ドリームガールズ」の監督などを手掛けていて、ミュージカル映画とのかかわりは深いようだ。
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だがそれにしても私が思い出すのは、コクトー (以前も書いたことがある通り、私は彼の大ファンなのであるが) の古い映画では、主役のベルが野獣の城の中に入ったとき、暗い廊下には燭台を持った手が沢山壁から突き出ていて、それらがにゅーっと動いてベルを驚かすというシーンがあった。もちろん今から 70年前には CG はないから、様々な工夫が監督の才気を感じさせるシーンにはなっていたが、今から見るとなんと素朴なこと (笑)。
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ところが今回の映画では、燭台自身がこのように自在に動き、かつリュミエールというその名前が示す通り、もともとフランス人の召使が魔法によってこの姿に変えられたらしく、フランス語なまりの英語を喋るのである。コクトー映画とのなんたる違い (笑)。
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そして、最後に魔法が解かれたときに現れるこの人の素顔を見ても判別するのは難しいのだが、演じているのはあの英国の名優、ユアン・マクレガーなのである!! こういう凝り方の積み重ねが、映画に奥行を出していることは間違いないだろう。
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いやそれにしても、この映画の出演陣は大変豪華である。上述の「Mr. ホームズ 最後の事件」に続き、イアン・マッケランが時計のコグスワースの役として出ているし、ポット夫人はエマ・トンプソン。また、主人公ベルに言い寄る悪い奴、ガストンを演じるのは、「ドラキュラZERO」や「ハイライズ」、また「ホビット」シリーズで精悍なイメージの強いルーク・エヴァンス。また、ベルの父モーリス役は、「ワンダとダイヤと優しい奴ら」でアカデミー助演男優賞を獲得したケヴィン・クライン (どうでもいいけどこの人、昔懐かしいアイドル女優フィービー・ケイツと結婚しているらしい。16歳差。まあ本当にどうでもいいことなのだけれど)。野獣 / 王子役はダン・スティーヴンスという俳優。彼の顔にはなじみはないが、「ナイト・ミュージアム / エジプト王の秘密」でランスロット役を演じていたり、テレビシリーズ「ダウントン・アビー」に出ていたらしい。
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この映画のひとつの見どころは、野獣の見せる細かい表情である。映像技術の発展によって表現の幅が広がっていることは確実だが、それをいかに使いこなすかはまた別の話。この映画はそのあたり、大変に上質にできている。ほらこの表情、上の役者さんの顔の面影があるでしょう。あごひげのあたりとか (笑)。・・・ところでこの映画の CG で唯一惜しいところは、大詰めで野獣が屋根から屋根へ飛び移るあたりのシーン。これはちょっと古典的ないかにも CG という感じで、リアリティを欠いていた。
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そしてベルを演じるのは、「ハリー・ポッター」シリーズのハーマイオニー役で名を馳せたエマ・ワトソン。既に 27歳になった。
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私は「ハリー・ポッター」の第 1作から、彼女はきっといい女優になるに違いないと思っていた。そして今、この映画に見る彼女は確かに美しく知的で、また勇敢さを持つ役柄でもあり、その意味では何も不満はない。だが正直なところ、彼女はこれまであまり作品に恵まれているようには思われず、本来ならもっとよい仕事をしていてもよさそうなのに、と感じてしまう。昨年「コロニア」というチリのクーデターの話に出演していたので見たいと思ったが、見損ねてしまった。このベルのような優しい役ではなく、もっと強い役を演じてみてはいかがだろうか。今後に期待したい。

それから、今回はベルと野獣の心の通い合いにはシェイクスピアが絡んでいる。「ロメオとジュリエット」はロマンティックで好きではないと主張する野獣が、エマの言葉を引き継いで語る言葉はこのようなもの。

QUOTE
恋は目でものを見るのではない、心で見る、
だから翼もつキューピッドは盲に描かれている。
(小田島雄志訳)
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これは、同じシェイクスピアの「夏の夜の夢」から。なるほど、この作品のテーマと共通しますな。なかなかに憎い引用だ。

最後にもうひとつ余談。なんでもこの作品、公開前に監督が、「ディズニー映画初の同性愛シーンがある」と宣言し、マレーシアではそのシーンをカットしようとしたため、ディズニーが上映を拒否したということがあったらしい。また、米国アラバマ州は上映禁止を宣言、ロシアでは 16歳以上指定になったという。だがこのニュースには違和感がある。こんなに大ヒットしている映画の一体どこに、そんな騒ぎになるようなシーンがあるというのか。調べてみたところ、どうやらこのル・フウという役に関するものらしい。演じるのはジョシュ・ギャッドという俳優。
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彼はガストンの仲間で、その心酔者のように描かれているが、だからと言って「同性愛」シーンがあったとは到底思えない。では何がいけなかったかというと、どうやら、最後で全員がダンスを踊る際に、男と組んで踊っていることであるようだ。うーん、そうだったかなぁ。そう言われればそうだったかもしれないが、集団の中だし、それほど目立つシーンではなかったはず。もしその程度で大騒ぎした国があったのなら、ちょっと違和感がある。もしかすると、監督が確信犯的に話題作りとしてそのようなニュースを事前に流したのでは・・・と勘繰りたくもなってしまう。逆に、もし「同性愛」シーンを楽しみにして劇場に足を運ぶ人がいたら、きっとがっかりするだろう (笑)。

ともあれ、様々な話題を詰め込んだヒット作。見ないと人生の損とは言わないが、魔女の呪いならぬ現代の映像の魔法に酔いしれるには、なかなかによい作品であろうと思う。

# by yokohama7474 | 2017-06-14 01:20 | 映画 | Comments(2)