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フィリップ・K・ディック (1928 - 1982) は言うまでもなく、SF 界で圧倒的にカルトな人気を誇る作家である。私の知人でも何人かはいわゆる SF マニアという人たちがいて、あらゆる SF 物を渉猟している (いた?)。もちろん私などはその足元にも及ばないのであるが、そんな私ですら、ディックの作品は特別な意味を持っていて、名作映画「ブレードランナー」の原作として知られる「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を含めた数冊のディック作品を読んで、驚愕してきた口である。そんな私が大変久しぶりにディック作品を読みたいと思ったにはわけがある。そのわけは、追ってまたこのブログの記事でご紹介するとして、この「高い城の男」について語ろうではないか。これがディックの肖像写真。
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この「高い城の男」は、ディックの作品の中では初期のものである。この作品が1963年にヒューゴー賞という栄えある賞を受賞したことで、彼の名は一躍知れ渡ったらしい。ときにディックは既に 37歳。彼の充実した創作活動は、その後に彼に残された 20年弱の間に主になされたものだということだ。それにしても、1963年ということは、ケネディ暗殺の年。未だヴェトナム戦争は継続中であり、東西冷戦真っ盛りである。そんなときにディックの書いたこの作品の想定は極めてユニーク。それは、第二次世界大戦で連合国ではなく枢軸国、つまり、ドイツ・日本・イタリアが勝利した世界を舞台にしているのである。つまり、当時ガッチリ世界を支配していた現実の戦後秩序から全く離れた世界を、この作家は夢想していたことになる。これは今我々が考えるより数倍も難しいことであり、超弩級の想像力がないとできないことであったろう。それゆえこの作品は、未だに異色を放っているのである。 

と言いながらこの作品、決して読みながら手に汗握るサスペンスがあるわけではない。あえて言ってしまえば、登場人物が多い割には展開が遅い、それゆえにストーリーを追いにくい作品だと言ってもよいであろう。敗戦によって 3つの地域に分割された米国。西海岸は「戦勝国」日本の傀儡である「アメリカ太平洋岸連邦」、東海岸はドイツの傀儡である「アメリカ合衆国」、その間は緩衝地帯である「ロッキー山脈連邦」。ちょっと小さくて見にくいが、以下の地図が本作において想定された世界の勢力地図。赤はドイツの権力が及ぶ地域、緑は日本のテリトリー、水色はカナダなのである。
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上述の通り、この本を読んでいても、人間関係がもうひとつよく分からない点には結構忍耐を強いられる。しかも、何か大事件が起こるわけではなく、強いて言えば危険書物 (つまり、第二次大戦でもし連合国が勝っていたら、という「想定」に基づく物語) の作者、彼がつまり高い城の男なのであるが、その彼に暗殺の危機が迫るということくらいである。だがそれとても、突き進んで行くストーリーではなく、大変に錯綜した登場人物たちの思惑が徐々に収斂して行くというタイプのものであり、しかも、結局はなんらのサスペンスも起こらないのである。それから、登場人物たちの何人かが易経に凝っているという設定であり、それに関する様々な細かい描写があって、西洋人が読むと東洋の神秘というイメージで流すことができるのかもしれないが、私としては正直、その点もかなり冗長だと感じる結果となってしまった。だが、あえて言ってしまえば、当時文字通り世界をリードしていた偉大なる米国の作家が、その米国がもし先の戦争に敗れて、現実世界におけるドイツさながらの分断国家になっていたらどうなるかという空想を抱き、このようなリアリティを持って世界を描いたこと自体が、現実を遥か超えて行く未知の領域であったことだろう。読みながら情景を心に思い浮かべると、当時の観点で夢想した未来、決してバラ色ではなく、空には黒い雲がかかった未来に思いを馳せることができる。その意味でこれはやはり、歴史的な書物なのであろう。興味深いのは、この中で、同じ「戦勝国」でも、ドイツは独裁国家で暴力的な国、日本はドイツと微妙な距離を保つ慇懃無礼な国、そしてイタリアは、要するに弱小でドイツの尻に敷かれているという設定。なんだか分かる気がするではないか (笑)。

さてこの「高い城の男」、最近米国でテレビドラマ化され、日本でも配信されたようだ。私はそれを見ていないが、なんと製作総指揮があの (そう、あの「ブレードランナー」の) リドリー・スコット。このような分かりやすい映像が使われていたようだ。
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長らく世界の秩序は、先の大戦で勝利したか敗北したかによって決定づけられてきた。だが、そろそろそのような「分かりやすい」時代は終わろうとしているのではないだろうか。ある意味で、このディックの「高い城の男」のような世界なら、まだ分かりやすかったであろうが、今や世界の秩序はどんどん分断化され、見えにくくなっている。これが半世紀以上前に書かれた歴史的書物であればこそ、我々は真摯にその設定に向き合うことができる。さて、今から半世紀後、世界の秩序はどうなっていて、この書物はどのように読まれることであろうか。もし未来の人がこの記事を読んで、未だインターネットというものが存在していれば、是非コメントをお願いします!! (笑)

# by yokohama7474 | 2017-04-28 00:05 | 書物 | Comments(0)

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この映画のポスターを見て誰しもが抱く感想があるだろう。まず、グレートウォールというからには、万里の長城についての物語だろう。実際ポスターの下の方には、「万里の長城が造られた目的が、ついに明かされる」とある。だが、主演は現在ハリウッドのトップ俳優のひとりであるマット・デイモン。アクションから繊細な演技まで、なんでもできてしまう彼のことだから、ここでは何食わぬ顔をして中国人を演じているのか??? ともかく、仲間とともに何かと戦うという設定の物語であることは確かだろう。もちろん万里の長城の建設に着手したのは、あの秦の始皇帝。紀元前 200年頃の話だ。そんな古代を舞台とするなら、西洋人を登場させるのは無理があるだろう。いや、とはいえ、ユーラシア大陸は陸続き。人類はその後シルクロードなる陸上の交易路を確立させ、アジアとヨーロッパには密なる交流が生まれるのだ。でも、秦の時代とは・・・。

とまぁ、余計なことを考えていたのだが、4/14 (金) の公開だから未だ 2週間足らずなのに、既にシネコンでの上映頻度が低くなっているのを発見して、これがいかなる物語であろうとも、劇場に急がねば、と思って見に行ったもの。もちろんそう思う理由は、この人だ。
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現代映画界の巨匠監督、チャン・イーモウ (張 芸謀) 65歳。そう、この映画は彼のすべきハリウッド第 1作なのだ (但し、中国と米国の合作映画であるが)。この監督については、北京オリンピックの開会式・閉会式の演出を手掛けたことで知られていると言ってもよいし、あるいはオペラ・ファンなら、ズービン・メータとフィレンツェ五月祭音楽祭が紫禁城で上演したプッチーニの「トゥーランドット」の演出家であることを挙げてもよい。だがやはり、初期の「赤いコーリャン」「菊豆」、あとなんと言ってもツァン・ツィイーがなんとも可愛らしかった「初恋のきた道」などのヒューマンな作風が忘れがたく、最近では「妻への家路」が深く心に残っている。その一方で、一般的に彼の知名度を上げたのは「HERO」と「LOVERS」というアクション大作であったろう。それから私として是非お奨めしておきたいのは、これも私が心から敬愛するコーエン兄弟の「ブラッド・シンプル」をリメイクした「女と銃と荒野の麺屋」。あまり知られていない映画かもしれないが、ご存じない方には、「ブラッド・シンプル」と併せて是非是非ご覧頂きたい。面白いです。さてそんなチャン・イーモウがこれまでハリウッド資本で映画を撮っていなかったとは意外である。というのも、同世代の中国の映画監督でもうひとりのビッグネーム、チェン・カイコー (陳 凱歌) は随分以前、調べてみると 2002年に、「キリング・ミー・ソフトリー」というサスペンス映画でハリウッドデビューしているからだ (ちょっと残念な出来ではあったものの)。ともあれ、チャン・イーモウがマット・デイモンを得て世に問う新作の出来栄えや、いかに。
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えぇっと、なんと書こうかな (笑)。私がもし一言でこの映画をまとめるとすると、珍作という言葉を選ぶかもしれない。ネタバレはいつもの通りしないようにするが、でもこれを言わないと話が進まないことには、なんとなんとこれは、私がつい最近見て記事も書いた、「キングコング 髑髏島の巨神」と同系列、つまりは怪獣映画なのである!! 舞台は秦の時代ではなく、12世紀、宋の時代。万里の長城が防ごうとしているのは、大量に攻め寄せる敵。その敵とは、60年に一度やってくる怪物、饕餮 (どんな字だかさっぱり分からないが、「とうてつ」と読む) の大群であり、その怪物たちは知恵があって、人間の裏をかいてどんどん攻め方を発達させているらしい。因みにこの饕餮という怪物、Wiki で調べてみると、殷や周と言った古代の時代から中国の青銅器や玉器に彫られているという。あぁなるほど、例えば出光美術館のコレクションにあるような青銅器類に、よく見かける文様だ。
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映画の中ではこんな感じ。
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あらら、この記事は「キングコング 髑髏島の巨神」について書いているのではありませんよね? (笑) いえいえ、ちゃんと「グレートウォール」であります。この映画でこの怪物が恐るべき大群で現れるシーンは、少し前なら「スターシップ・トゥルーパーズ」(私の大好きな映画なのである)、比較的最近なら「ワールド・ウォーZ」と比較されるだろう。だがこの映画、不思議なことに、そんな圧倒的な数の敵に襲われる人間側の描き方に、あまり絶望感がないのである。マット・デイモンと、もうひとり、ペドロ・パスカルというチリ人俳優の演じるコンビは、傭兵として各地を渡り歩き、火薬を求めて中国にやってきたならず者たちであり、腕に覚えの彼らは、なんのためらいもなく怪物との戦いに身を投じる (因みに、ヨーロッパでルネサンス三大革命と言われた火薬・羅針盤・活版印刷は、すべて中国が先立って発明していたというのは有名な話)。正直なところ、人間を描く名人であるチャン・イーモウともあろう人が、いかにも CG CG した動きを見せる怪物の集団を、こんなにイージーに見せてしまってよいものであろうかという印象を拭うことはできない。決戦を間近に控えた人間は、それこそ「七人の侍」が秀逸に描いている通り、不安な思いをかき消すべく、生きている証拠を探して、例えば自暴自棄な男女の愛に走ったりするものではなかろうか。その点、この映画のヒロインには、爽やかなまでにその気配がない (笑)。
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この中国人女優さんの名は、ジン・ティエン。実は以前の記事ではあえて書かなかったのだが、「キングコング 髑髏島の巨神」にも出演しており、英語のセリフもそこそこある役であった。だが正直、その映画における彼女の役の必然性には納得できる要素が少なく、製作会社レジェンダリー・エンターテインメントが中国資本に買収されたことと何か関係があるのかなぁと、漠然と考えていた。そして実は、この「グレートウォール」もレジェンダリーによる製作なのである。これがコング映画における彼女の勇姿。私が立て続けに見た二本の怪獣映画のいずれにも出演していたということになる。
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彼女の顔は文句なしに美形であり、英語もまぁまぁ頑張ってはいるが、正直なところ、世界に羽ばたく素晴らしい女優かと訊かれれば、まだまだこれからでしょうと答えると思う。この映画における、決してフレンドリーではないとは言わないが、どうにも血の通ったところがあまり感じられない女将軍役を見ていると、例えば「スターウォーズ」の 1作目、エピソード 4 なども、王女と飛び入り兵士の話であったわけだが、あの映画にはなんだか夢があったなぁと思う次第。この映画、時代の要請なのか、あるいは作り手の側に何らかの意図があるのか分からないが、言葉を選ばずに言ってしまえば、あまり感興を感じない残念な設定なのである。

怪物との戦いの成り行きや、クライマックスの作り方も、昨今のあれこれの映画の中では、まあ特にどうということもない。ひとつ言えることは、決定的な悪役が全く出てこないということか。怪物の側の論理 (?) は描かれていないが、ただ人間と敵対している存在ということでしかなく、人間ドラマはそこには期待できないのである。出演している役者の中には、ウィレム・デフォーとかアンディ・ラウといった才能豊かな人たちもいるわけだが、彼らの登場シーンでもドラマ性は希薄で、あまり個性的には描かれていない。もちろん、この映画のストーリーや映像が全く面白くないという気はなく、何気なく見ていればそれなりに面白いと言ってもよいが、あのチャン・イーモウのハリウッド・デビューで、かつマット・デイモン主演と来れば、この出来はいささか残念である。だから私は思うのである。これはもしかしたら、才能ある人たちが作り上げたヘンな映画として、人々の記憶に残るのではないかと。最初の方で珍作と申し上げたのは、そのような意味だったのである。
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さてそうなるとこの映画、何か現代的なテーマでも隠されているのかと勘繰りたくもなってくる。東洋と西洋の優劣関係の揺らぎと「信頼」の重要性、富に向かって我も我もと押し寄せる中国の人口問題、会話の通じない独裁者 (この映画の怪物にも中心がいる) が指導する国家と対峙する緊張感、外から境界を超えてやってくる移民たち、平和実現のためには犠牲もやむないと冷静に考える姿勢・・・そんな諸々の要素がここで隠喩されているとしたら? はい、もしそうならそうでもよいのだが、「もし弾道ミサイルが飛んできたらこうしましょう」という注意事項が職場で喚起されるような物騒な現実の前では、隠喩の意味を考えていても埒があかない (笑)。娯楽は娯楽として、感情移入できるものであって欲しい。これが大監督チャン・イーモウの気まぐれなのか、あるいは今後変わって行く契機となるのかは、また次回作で確認してみたいと思う。

# by yokohama7474 | 2017-04-27 00:24 | 映画 | Comments(0)

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つい 2日前のアラン・ギルバート指揮東京都交響楽団の記事で、会場となった大阪のフェスティバルホールに私は何度か言及し、「次のフェスティバルホール体験はいつになるだろうか・・・」とつぶやいて記事を終えたが、あろうことか、その舌の根も乾かぬうちに同ホールを再訪している私 (笑)。全く人が悪いというか悪運が強いというか、一体なんなんだと思われる方もおられよう。種明かしをすると、前回の演奏会で聴くことのできたこのホールの音響が非常に気に入ったので、帰りがけにチケット売り場によって、ほとんど売切れに近かったこの公演のチケットを購入したというのが真相。ちょっとほかに大阪に用があり、有給休暇を取れる算段だったという事情もあるが、第一の理由はもちろん、期近のこのホールでの公演を調べて、おっと思うような魅力的なコンサートが見つかったからである。つまり、私の敬愛するマエストロ大植英次が、かつて音楽監督を務め、現在では桂冠指揮者という地位にある大阪フィルハーモニー交響楽団 (通称「大フィル」) を振る。最近大植を東京で聴く機会がなかった (去年府中で東京交響楽団を指揮するなどの機会もあったが、聴けなかった) ので、これは本当に貴重な機会。しかも後述の通り、その曲目が特別なのである。
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さて、新フェスティバルホールの第 2回の経験だが、前回は 14時からのコンサートであったところ、今回は 19時開演。ホワイエは薄暗く、なかなかにシックな感じだ。その名も中之島という、川と川の間の中州に建っているホールであり、建物に何本も刻まれたスリットから外を見ると、川とオフィスビルの組み合わせも都会的。大阪という大都会ではあるが、いつも見慣れた東京のホールの雰囲気とはまた違っていて、なんだか楽しくなってくる。以前からの私の夢は、定年退職したら、欧米各地に加えて日本でも、各都市にあるホールでその土地のオーケストラを聴いて回りたいというもの。その意味では、ここ大阪でその練習をしていると言ってもよい (笑)。コーヒーを飲むためのテーブルには、ロウソク風の卓上照明があり、目を上げるとホワイエに設置された電球が星々のようで美しい。
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では、私としては久しぶりに聴くこととなったこのコンビの今回の曲目、一体いかなるものであったのか。
 ベートーヴェン : 交響曲第 7番イ長調作品 72
 オルフ : 世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」

うーん、これは凄い。熱狂的な力を持つ大植の音楽が、最初から最後までリズムに乗って躍動するのが聞こえるようだ。そもそも、超のつく名曲であって、普通はメインに置かれるベートーヴェン 7番を前座にするとはなんと大胆な。もちろん、過去にも例えばマタチッチの最後の NHK 交響楽団への登壇の際 (メインはブラームス 1番) とか、確かシノーポリとフィルハーモニア管の来日公演でも (メインは「英雄」) 例があったと記憶するが、いずれにせよ大変異例。メインの曲目によほど自信がないとできない選曲であろう。もちろんベートーヴェンはこのオケにとって、育ての親であった朝比奈隆が生涯真摯に向き合った重要なレパートリーのひとつであるが、既に時代は移り、あのような重厚な音でベートーヴェンを演奏することはもはやなくなってしまった。だが、実際に充実した音が鳴っている限りは、演奏スタイルなど些末なこと。とにかく説得力のある音楽を聴きたい。その点今回の大植の演奏は、このコンビの持ち味を充分出したものであったと言えると思う。冒頭の和音からして弦楽器の響き合いが美しく耳をとらえ、そしてとにかく、この曲に必要な推進力に重点が置かれて演奏が進んで行った。編成はコントラバス 6本で、ヴァイオリンの左右対抗配置を取るという、昨今のスタンダードというべきスタイルであり、過剰な情緒を排してテンポも堅実であった。だが、そこには常に前に進む意志が感じられ、第 1楽章・第 4楽章とも提示部の反復がなされなかったのは、昨今では珍しいくらいだが、それも音楽の推進力を維持するためだったと解釈したい。それから興味深かったのは、第 1楽章の後半、リズムに乗りながら音楽が熱して行く箇所で、大植が指揮棒を使わず、素手で指揮したことだ。そもそもこの人、演奏中に突然指揮棒が姿を消したりまた現れたりと、魔術的なことがよく起こるのであるが (笑)、きっとあの独特の上着の袖の部分に、指揮棒が収納できるスペースが設けてあるのだろう。いずれにせよ、通常なら、リズムが勝った箇所ではなく、歌をオケから引き出すべき箇所において、指揮棒を使わない指揮者が多い (例えば小澤征爾は、現在では全く指揮棒を使わなくなってしまったが、若い頃は、オケから歌を引き出す箇所では必ず素手で指揮していたものだ)。その意味では今回大植が素手で指揮した箇所は、若干異例であったと思うが、オケから出る音全体を、なんというか、より高みに引き上げたいという意図の現れであったのではないか。それとは対照的に、指揮棒なしで演奏したくなるような、それこそ歌が必要な箇所である第 2楽章冒頭など、中音域を担うヴィオラのよく練れた表情を、きっちりと指揮棒を持って引き出していた。全体を通して、ホルンなどに若干の課題がないではないと思ったが、冒頭の和音から終楽章のヴァイオリンの手に汗握る掛け合いまで、大植の強いリードが、現在の大フィルの、これはこれで大変充実したベートーヴェンを実現していたと思う。

そして後半、ドイツのカール・オルフ (1895 - 1982) の「カルミナ・ブラーナ」(1937年初演) であるが、これはまた本当に血沸き肉躍る傑作なのである。中世ラテン語の歌から作曲者が歌詞を集めてきており、大規模な混声合唱と児童合唱を縦横に駆使した作品なのであるが、そのいちばんの特徴は、執拗なリズムなのである。炸裂する大オーケストラと合唱の音響を彩るそのリズムは、一度聴いたら絶対に忘れないし、何か呪術的なものさえ持ち合わせる曲。私はリッカルド・ムーティが若い頃に録音した、これ以上ないほどキレのよい演奏でこの曲に親しんだのだが、そのジャケットが曲のイメージをよく伝えているので、ここに写真を掲げておく。
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このメインの大曲で大植は、ベートーヴェンでの配置と異なり、第 1ヴァイオリンと第 2ヴァイオリンを向かって左に並べ、指揮者の右側にはヴィオラが陣取った。このような劇的な曲は前半のベートーヴェン以上に大植のテンペラメントに合っていると私は思うし、実際、最初の「おお、運命の女神よ」から流れ出た音の奔流には、圧倒されるばかり。細部にまで目の届いた実に輝かしい名演で、ここでは大胆にテンポを落としたり少し煽ったりする箇所も聴かれて、明らかにベートーヴェンを演奏するスタイルとは異なっていた。そのような違ったスタイルを使い分けることができるのも、気心のあったオケであるからだろう。そして、大フィル専属の大阪フィルハーモニー合唱団も、この曲に必要な野性味を充分に発揮して素晴らしかったし、暗譜で歌った大阪すみよし少年少女合唱団も熱演。さらに加えて、3人のソリスト、すなわち、ソプラノの森 麻季、カウンターテナーの藤木 大地、バリトンの与那城 敬も、それぞれ達者で、楽しめた。特に森の変わらぬ高音の美声には拍手。ただ、髪はこの写真よりもはるかにキンキンで、まるで人形の金髪のようであったが (笑)。
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振り返ってみて、まさにリズムの饗宴という曲目ではあったものの、残ったイメージはむしろ、何か大きな山が動いたような充実感だ。オーケストラ音楽の場合、リズムはリズムだけで終わらず、つまりその場で飛び跳ねるのではなく、常に前に進んで行くパワーとなる。今回のこのコンビの演奏で、そのことに気づかされたような気がする。そしてもうひとつ。「カルミナ・ブラーナ」の歌詞には下品であったりエロティックであったり、あるいは自暴自棄や皮肉などの、人間的な感情があちこちに散りばめられている。なにせ歌詞が中世ラテン語という特殊言語だから、子供たちでも照れずに歌えるという面もあるかもしれない (笑)。だが私はこの曲がこの大きなホールで響いているのを聴いていて、個々の人々の人生の集合がここで響いているのだなぁと思うと、なんとも高揚した気分になったのである。大阪の街で、大阪の人たち (と、若干数 ? の訪問者たち) が音楽に耳を傾けることの意義。教養とか文化とかいう能書きはなくとも、その音楽を楽しむことはできるが、平和や一定の経済力がないとそうはいかない。だから、このような音楽を実際に体験できる我々は、本当に幸せなのである。そしてこのホールは、大阪の人々にそのような幸せを与える、貴重な場所なのだ。

この大フィル、今後も素晴らしい指揮者陣が登場する。これが会場に貼ってあったポスターだが、左から、5月に登場するウラディーミル・フェドセーエフ (チャイコフスキー 5番など)、6月の準・メルクル (「ペトルーシュカ」など)、7月のエリアフ・インバル (マーラー 6番!!)、そして、写真では暗くて見えないが、9月はユベール・スダーン (シューベルト) だ。錚々たる顔ぶれではないか。
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普段なかなか体験できない大フィルの定期演奏会を堪能したので、ちょっと味をしめて、また次回はどうしようなどと考え始めている私。首尾よく行けば、またこのブログでご紹介します。井上道義体制から尾高忠明体制への音楽監督移行も注視したい。

# by yokohama7474 | 2017-04-25 23:29 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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私はこのブログで映画を紹介するときには、かなりの頻度でその映画を予告編で見たときの印象を記している。それは、予告編にはその映画の興行成績にも直結しうる凝縮されたメッセージが入っているケースが多く、大げさに言えばその映画と対面するときの大事な「顔」であると思うからだ。そして、この映画の予告編を見たときに真っ先に私の頭が理解したことには、これは怪獣映画であるということだ。もちろん、誰もがすぐに理解する通り、キングコングの映画であるから、一般的には「モンスター映画」という呼称がふさわしいように思うが、なんのなんの、怪獣好きにはすぐに分かるこの「怪獣映画」の匂い (笑)。だからこの映画は私の中では、封切当初から見たい映画一覧表のかなり上位を占めることとなったのである。ところが、あろうことかこの数週間、結構忙しくて、なかなか映画を見る時間がない。ああ私はこのまま、仕事とか接待メシとか歓送迎会に時間を取られたまま、この映画を見る機会を逃してしまうのではないか・・・と神に罪を告白する思いで天を仰いでいたのであるが、ようやく先週末、なんとか朝の回に見に行くことができたのである。

さあ、そんなわけで、これが新たなる怪獣映画の傑作との出会いとなったことは、誠に喜ばしい。私の世代でキングコング映画と言えば、もちろん最初の作品 (1933) は RKO 製作映画のリヴァイヴァル特集上映で劇場で見ているものの、ジェシカ・ラングの出たジョン・ギラーミン監督作品 (1976) は劇場では見ていない一方、ナオミ・ワッツの出たピーター・ジャクソン監督作品 (2005) はもちろん見ている。あ、あと、米国のテレビアニメ物は、日本語の主題歌を今でもよく覚えている。だが東宝映画の「キングコング対ゴジラ」(1962) は、テレビでも見た記憶がない。でもこんなポスター、レトロでよいではないか。著作権の緩やかな大らかな時代の産物と思っていたが、今回調べて分かったことには、ちゃんと米国のプロダクションから東宝が権利を購入して制作したらしい。なるほど、題名においてゴジラよりもキングコングを先に出すことまで、契約で決まっていたのだろうか (笑)。まあ、こんな対決はもう二度と実現しないだろう。
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さて、21世紀のキングコングは、こんなに素朴ではない。第一今回の映画、予告編を裏切るキングコングの登場シーンがなんとも小気味よいのである。つまり、大抵の人は予告編でこのシーンを見て、岸壁に血で手形を残した巨大生物の存在におののく人間たち、しかしその正体は未だ現れず、不気味な謎に包まれている・・・と思うではないか。
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ところがそうではなくて、今回のコングは、かなり唐突にその姿を堂々と現すのだ。これからご覧になる方には、コングの初登場シーンにご注目、と言っておこう。いやー、楽しいなぁ。おっと、こんなに激しく牙をむかれては、その存在意義を誤解されてしまいます。
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そう、この映画においては、この凶暴極まりないコングが善玉なのか悪玉なのか、この点がかなり重要となってきて、これはいわゆるモンスター映画の常道でもあろう。だが上述の通り、これはただのモンスター映画ではなく、様々な怪獣たちが出て来る点にこそ重要性がある。そんな中でコングの位置づけも、それほどもったいつけることなくストレートに描かれることとなる。実に小気味よい。これがこの島に住む怪獣たちの例。
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よく見ると最初に掲げたポスターに、これらの怪獣たちの姿があしらわれていて、だからこれが怪獣映画であることは、やはり最初から明らかなのであるが、少し難点を挙げると、これらの怪獣の出番がちょっと少なくはないだろうか。実際のところこの映画におけるコングの闘いは、最初は人間と、そして最後は宿敵スカル・クローラー (上に掲げた写真のうちのひとつ) と、ということに絞られるのだ。だが、それとても難点というほどでもない。なんと言ってもヘリコプターを縦横無尽につかんでは投げるシーンは凄まじい迫力だし、クライマックスのスカル・クローラーとの闘いにおいては、霊長類(?)たるコングが他の巨大生物と違う点は、道具を使うことができる点だと実感し、胸が熱くなるのである (笑)。そのシーンもやはり非常によくできていて、とにかくすごい迫力なのだが、実はその闘いは、2014年のハリウッド版「Godzilla ゴジラ」におけるゴジラとムートーの闘いを思わせる点もある。・・・ではゴジラとキングコングが闘ったら、何が起こるのだろう。いやいや、上述の通り、そんなことはもう起こらないのだが。

改めて思い返してみると、この映画では随所に冴えた演出のセンスが見られるのだが、端的な長所を挙げると、観客が登場人物たちをきっちり区別できるように作られていること。このブログでも過去に何度か、戦闘ものにおける一群の登場人物たちの区別が難しい作品を採り上げたが、その点この映画は本当によくできていて、多くの登場人物たちが探索や戦闘に加わっているにもかかわらず、主要な役は全員識別できるようにできている。これは稀有なことで、監督の手腕であると称賛しよう。そしてそんな中、このような豪華な顔ぶれが顔を突き合わせるのである。
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そう、ジョン・グッドマンとサミュエル・L・ジャクソンだ。どんなに豪華な怪獣映画やねん (笑)。そして、実質的な主役はこの人、今最高にカッコよい、トム・ヒドルスマン。私は彼の演技を見て失望したことはない。
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そして、伝統的なキングコングもののヒロイン役を包含する (?) 逞しい女性カメラマンを演じるのは、ブリー・ラーソン。うーん、まあ正直それほどよい女優さんとも思わないが、未だ 27歳ながら、2015年の「ルーム」という映画で、なんとアカデミー主演女優賞に輝いているのだ。お見それしました。
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という大変充実したキャストをまとめた才人監督は誰かというと、なんと、インディーズ系出身でこれがメジャー長編デビューとなるジョーダン・ヴォート=ロバーツ。
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この特異な髭によって年齢不詳に見えるが、きっとまだ若いのだろう。芸術系の映画はもちろん好きだが、日本のアニメやゲームも大好きであるとのこと。さもありなん。またこの映画では、密林を舞台にしているということで、コッポラの「地獄の黙示録」へのオマージュを感じさせるシーンも多い。私の見るところ、この作品は正しい監督を得ることによって、素晴らしい成功作になったのだと思う。
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さて、これからこの映画をご覧になる方は、エンドタイトルが終わるまでちゃんと席にいなければならない。実際そこでは、私が上で書いたことが大嘘であることが判明するのである。嘘をついて失礼しました。実は、この映画のプログラムにも記載はあるし、ネット上にも様々な情報が溢れているので既にネタバレではないと確信して書くが、実は近い将来、キングコングはやはり、あのゴジラとの再決戦に臨むことになるのである!! 実はこの映画、「モンスターバース = Monster Verse」(Verse とは韻文とか詩作のこと) というシリーズの 2作目。1作目は、上でも触れた、ギャレス・エドワース監督の「Godzilla ゴジラ」なのである。そして、3作目は 2019年公開予定の "Godzilla ; King of Monsters"、4作目は 2020年公開予定の "Godzilla vs Kong" となる予定。このシリーズは、レジェンダリー・エンターテインメント社が東宝と提携して制作し、ワーナー・ブラザーズが配給しているらしい。なるほど、ゴジラは日本では「怪獣王」であったが、このシリーズでも他の怪獣をなぎ倒し、最後はキングコングと対決するわけか。それにしても、上の方で掲げた昔の東宝映画の題名では、キングコングの名が先に出ていたが、今回のハリウッド映画は、ゴジラの名が先に出るわけか。ゴジラの世界的名声も確立されたわけで、ご同慶の至りである (笑)。昨年日本で異常なほどヒットした「シン・ゴジラ」は、私の見るところでは、ハリウッド版ゴジラへのアンチテーゼであったわけだが、今後公開されるこれらのハリウッド映画に対して、日本側としても何か対抗策を取らなくてよいのだろうか。それとも、この Monster Verse シリーズには東宝も携わっているので、それでよしとするのだろうか。国際社会における日本の地位に影響するかもしれない大問題ではないか (笑)。でもこのコングの表情の多彩さは、さすがに恐竜タイプのゴジラでは出せないなぁ・・・。本当によくできている。いずれにせよ、対決を楽しみにしておりますよ。
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# by yokohama7474 | 2017-04-25 00:31 | 映画 | Comments(0)

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4月19日の記事で、米国の名指揮者アラン・ギルバートと東京都交響楽団 (通称「都響」) との意欲的な演奏をご紹介したが、このコンビが今回取り組んだもうひとつのプログラムは、東京では昨日、4月22 (土) に東京芸術劇場で行われた。あいにく私はそのとき、NHK ホールでファビオ・ルイージ指揮の NHK 交響楽団の演奏会を聴いていたので、聴くことができなかった。だが、物事やはり様々な可能性を試してみることが何よりも大事である。今回、同じ曲目でのコンサートが大阪で開かれると知って、では大阪まで行くしかないでしょうと、実に単純な決断をしたのである。会場は中之島にあるフェスティバルホール。この名称は、大阪国際フェスティバルという音楽祭の会場になることによっており、このフェスティバルでは、なんと言っても 1967年にバイロイト音楽祭の引っ越し公演が実現したことや、1970年の大阪万博の際には、カラヤンとベルリン・フィル、バーンスタインとニューヨーク・フィル、ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団などが登場し、そのことは、日本の西洋音楽史に燦然と輝く業績なのである。但し、これは本当の意味で欧米のいわゆる音楽祭のように、短い期間に集中的に世界的な音楽家が登場するという催しではなく、少なくとも現在では、数ヶ月のうちにいくつかの公演があるという形態であり、フェスティバルというよりも、個々の演奏会の内容で勝負している印象がある。実は今回のアラン・ギルバートと都響の演奏会も、フェスティバル提携公演という位置づけである。そうそう、書き忘れたが、このホールは、もともと大きい (2,700席) 割には音がよいと言われていたが、老朽化のために建て替えられ、現在のものは 2012年にオープンした新しいもの。私は以前のホールには何度か行ったことがあったが、新しく建て替えられてからは今回が初めてで、その興味も大きかったのである。これが現在フェスティバルホールの入っている中之島フェスティバルタワー。
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さて、現在ニューヨーク・フィルの音楽監督という、音楽界における世界トップの地位のひとつにいる指揮者アラン・ギルバートが採り上げた曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : 劇付随音楽「エグモント」序曲 作品84
 ラフマニノフ : パガニーニの主題による狂詩曲 作品43 (ピアノ : イノン・バルナタン)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調「英雄」作品55

なるほど、ドイツ古典派のベートーヴェンの名作 2曲 (当初発表では「エグモント」序曲は入っていなかったところ、追加されたらしい) の間に、ロシアロマン派のラフマニノフが挟まっているという構成だ。これは私の勝手な想像だが、この真ん中のラフマニノフは、ギルバートが、日本では未だになじみのない今回のソリストの本領を発揮させるレパートリーとして、あえて挟んだものではないのか。そう思った理由は後述する。

さて、最初の「エグモント」序曲だが、颯爽と駆け抜けるというよりも、かなり重心の低い音色による堂々たるベートーヴェンであったと思う。冒頭の長い和音から音楽はドクドクと息づき、不安や情熱を絡みつかせながら、悲劇的な様相を帯びて進んで行く。都響の弦は明らかにほかのパートをよく聴きながら、有機的に伸びていた。実に素晴らしい反応力。ギルバートほどの実績ある指揮者にも臆することなく (むしろオケを臆させない点こそがギルバートの持ち味と言ってもよいのかもしれない)、持てる力をフルに音楽に乗せたという印象。コントラバス 6本 (これはメインの「エロイカ」でも同じ) で、今日のベートーヴェン演奏の基準というべき通常の規模であったが、ヴァイオリンの対抗配置は取らず、ヴィブラートも過剰にならない程度にはかかっていて、昔風という言うと当たっていないだろうが、古楽の影響を過度に受けた教条的な演奏とは全く異なる、活きたベートーヴェンであった。

そして、2曲目のラフマニノフを弾いたソリストは、イスラエルのピアニスト、イノン・バルナタン。1979年生まれというから、今年 38歳。既に、若手というより中堅というべき年齢である。
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経歴を見ても、○○コンクール優勝という説明がない。実際、最近の若手や中堅の演奏家は、コンクール歴がなくとも素晴らしく個性的な人が多くいるので、特に驚かない、というよりも、コンクール歴なしで世界で活躍しているとするなら、むしろその才能が本物である証拠ではないかと思いたくなる。実際彼は、ギルバートが音楽監督を務めるニューヨーク・フィルの初代アーティスト・イン・アソシエーション (日本語にするとつまり、ともに音楽を作り上げるパートナーとしての音楽家ということか) に指名されているという。ニューヨーク・フィル以外にも米国の名門オケの数々と共演していて、ヨーロッパにも活動を広げているようだ。実は都響にも過去に一度出演していて、それは、2016年 1月、やはりギルバートの指揮で、曲はベートーヴェンの 3番のコンチェルトであった。そのときのメインはやはりベートーヴェンの 7番で、うーん、そんなコンサートに私はなぜ行かなかったのかと思って調べてみると、山田和樹指揮日本フィルのマーラー・ツィクルスの第 4番と重なっていたのであった。それはそれでやむなかったのであるが、それにしても今回聴けてよかった。彼は、ちょっとないような素晴らしく個性的なピアノを弾く音楽家であることが分かったからだ。きっとその実力を知るギルバートが、前回のベートーヴェンとは異なるレパートリーで日本に再度紹介したかったのではないか。大変小柄な人なのであるが、その音楽の自由闊達なことは無類。そもそもこのラフマニノフの曲は、狂詩曲 (そう、このブログの題名と同じ、「ラプソディ」です!!) というだけあって音楽は勝手気ままに流れ、途中に誰もが知る超絶的に美しい抒情的な箇所 (第 18変奏) がある以外は、ピアノがのべつ好き勝手に飛び跳ねているような曲。もちろん、パガニーニが使用し、ラフマニノフ自身も様々な作品で引用したグレゴリオ聖歌の「怒りの日」(死者を弔う音楽の一節) をテーマとしている以上、そこに終末的な思想があるわけだが、むしろ死をあざけ嗤うような曲なのである。だがこの音楽は正直なところ、すべての小節が心に響いてくることにはならず、実演では結構退屈するようなこともある。それなのに、今回のバルナタンの演奏は実に見事で、聴いていて飽きることがない。もしこのような音楽を奏でるピアニストをほかに探すとすると、クラシックのピアニストではなく、例えばキース・ジャレットではないか。都会的な美音でありながら、そこに安住せず、常に自由さを忘れずに飛翔する。そのようなイメージである。もちろんそのピアノの質の高さによって、有名な第 18変奏では、ギルバートが唸りながら引き出した弦楽合奏の美しさがより一層増したことは言うまでもない。素晴らしい演奏であり、聴衆の拍手はなかなか鳴りやまなかったが、アンコールは演奏されずに休憩に入った。

そしてメインの「エロイカ」も、冒頭の「エグモント」と同様、実に堂々たるベートーヴェンで、もしかするとギルバート自身が新たな次元に入っているのではないかと思わせるような充実感を感じることとなった。ここでも都響の弦はいつもの芯のあるずっしりしたもので、もともとベートーヴェンへの適性はあると思うが、その音を充分に引き出した指揮者の手腕もさすがのものである。解釈において奇をてらったところは皆無であり、まさに正攻法。やはりよい音楽は、このようなストレートな表現によって活きるのだということを改めて実感した。終演後、既に聴衆たちの退場が始まっているときに、客席から「コントラバス、本当にうまかったぞ!!」と大きな声を舞台にかけた男性がいて、ちょっとびっくりではあったが (笑)、いやいや実にその通り。コントラバスが安定していたからこそ、弦全体のうねりが生まれたものと思う。

都響の大阪公演はさほど頻繁に行われているとは思えないが、この 2,700席のホールがきっしり満員。今後も、例えば音楽監督の大野和士とも大阪公演を行ってみてはいかがか (先日名古屋公演は行っていることでもあり)。私が今回聴いたのは 1階席のかなり前の方であったが、その音響は大変満足のできるものであり、大阪のホールとして、あの素晴らしいザ・シンフォニーホール (収容人数 1,700人) を忘れることはできないが、このフェスティバルホールでも充分素晴らしい音楽体験ができることを理解した。私の場合は、東京の音楽活動だけで既に手一杯状態ではあるものの、極力時間を作って、ほかの都市でも頑張って音楽を聴きたいものだ。さて、次のフェスティバルホール体験はいつになるだろうか・・・。
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# by yokohama7474 | 2017-04-23 23:14 | 音楽 (Live) | Comments(0)