パターソン (ジム・ジャームッシュ監督 / 原題 : Paterson)

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ジム・ジャームッシュの新作映画が 2本、同時期に上映されている。ひとつはこの「パターソン」。もうひとつはドキュメンタリー映画で、「ギミー・デンジャー」という作品。2本とも見てから連続で記事を書きたかったが、今日からまた出張に出てしまい、一週間程度は不在にするので、2本目は当分おあずけである。実はこの 2本、共通する要素があって、「ギミー・デンジャー」でドキュメンタリーの対象になっているミュージシャン、イギー・ポップの名前は、この「パターソン」でも出て来るのである。この 2本の間にいかなる連関があるのかは、また追って考察することとして、この「パターソン」について語ろう。

このブログでジャームッシュの作品について記事を書くのは今回が初めてであるが、過去に「クリムゾン・ピーク」と「ハイ・ライズ」の記事において、出演俳優トム・ヒドルストンが以前に出演したジャームッシュの前作「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」に触れたことがある。もともとニューヨークのインディーズ系の映画監督としてスタートしたジャームッシュとしては、その作品が吸血鬼ものであることは若干奇異な感じがしたが、私としてはそれを大変に楽しんだのである。だが今回の「パターソン」こそ、彼の原点を想起させる、日常を描いたものであり、古くからのファンは、この映画に一種の安心感を覚えるようなこともあるだろう。ジャームッシュは 1953年生まれの 64歳。
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さてこの映画であるが、ジャームッシュの原点を思わせるには理由があって、ここには人間に危害を加える怪物も異星人も出て来ないし、目を覆いたくなるような殺戮もなく、また驚天動地の SFX もない。主人公はニュージャージー (マンハッタンから西にハドソン川を越えると、もうそこはニュージャージーだ) でバスの運転手をしている若い男の日常が淡々と描かれているだけだ。彼はまた詩が好きで、自身でも詩作を行っている。明るくアーティスト指向の妻と、忠実な (?) ブルドッグとの生活は、決して派手でも日々の変化に富んでいるわけではないが、彼は日々、人々の生活を見ながら感性を高め、それなりに充実した生を営んでいる。この種の映画は、監督が自身で脚本を書いているケースが多いが、この作品も、過去のジャームッシュのほぼすべての作品と同様、ジャームッシュ自身の手になる脚本である。これが主人公を演じるアダム・ドライヴァー。
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実はこの一見平穏極まりない映画には、そこここに、観客にほどよい刺激を与える隠し味が仕組まれているのであるが、まずはこの役者である。バスの運転手がアダム・「ドライバー」なんて、出来過ぎてはいないか (笑)。実は彼は、あの超大作「スターウォーズ」の現在のシリーズで、未熟ながら選ばれた血筋を持ち、ダークサイドに落ちた騎士であるカイロ・レンを演じている俳優だ。
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ハリウッドの SF 超大作で主要な役を演じている「ドライバー」さんを、日常生活を描いたこの静かな作品の「ドライバー」役に起用することに、まず監督がこの作品に込めたメッセージを読み取ることができるのではないか (監督は偶然だと発言しているが)。また、彼の役名にももちろんメッセージがある。それは「パターソン」。舞台になっている街と同じ名前の役である。この「パターソン」は、苗字か名前かも判然とせず、普通なら苗字であると考えたいが、彼がファースト・ネームで呼びかける職場の同僚は、彼のことをただ「パターソン」と呼んでいるのである。つまりこの男、舞台になっているパターソンという街の象徴のような存在ということであろう。それから実は、作中でワンシーンだけ、日常の時間に突然切れ目が走る瞬間があるのだが、その場面では、このパターソンの勇敢な行為によって日常が取り戻されるのである。ただの人のよい運転手兼詩人ではないように思われる。

このパターソンの一週間が淡々と描かれるのだが、月曜日に始まって次の月曜日までの毎日、決まって彼と妻のローラのベッドの俯瞰から始まる。こんな具合だが、ここにはエロティックな要素は一切なく、若く善良で真面目な人たちの日常のリズムがうまく表現されている。
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妻ローラ役のゴルシフテ・ファラハニがとてもよい。イラン出身で、リドリー・スコットの「エクソダス : 神と王」や、最近では「パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊」にも出ていたようだ。ここでは、ニュージャージーでのささやかな生活を楽しみながら、アーティスティックなものにこだわりを持ち、実はカントリー歌手を目指すという秘めたる野心を持つことで、意識することなく亭主に負担をかける (笑) 妻を、自然体で演じている。
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それから、忘れてはならないのが、2人の愛犬、ブルドッグのマーヴィンである。犬好きにはたまらん名演技を披露している。劇中ではオスだが、実際には元救助犬のメスで、本名はネリー。その名前はエンドタイトルで確認したのだが、映画の最後に「ネリーの思い出に」と出て来るので、このワンちゃんは既に亡くなっていることが分かる。あとで調べると、この映画での演技が認められ、カンヌ映画祭で犬に与えられるパルムドールならぬパルムドッグ (2001年創設) を受賞するはずだったが、その前に死んでしまったという。それを知ると、涙なしには見られない、ここでの演技である。
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もうひとり、日本から永瀬正敏が出ている。ジャームッシュの作品では、もうかなり以前の話になるが、工藤夕貴との共演で「ミステリー・トレイン」に出ていた。記憶ではその映画でのセリフは確か日本語であったが、今回はちゃんと英語での出演で、主役のアダム・ドライヴァーと語り合う日本人の詩人の役である。主人公パターソンがよく佇む滝があって、その風景からジャームッシュが日本を思い出し、久しぶりの永瀬の出演を念頭にこのシーンを書き上げたという。なんとも名誉なことではないか。
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なんでもない日常の中で、例えばたまたまバスに乗り合わせている様々な人々の語る言葉に、いかに人生を考えるためのヒントが隠されているかを知るのは面白いし、あるいは、どんな人にもそれぞれの信念 (それが誰かへの恋愛感情であれ、日常への不平不満であれ、あるいは詩を書くことへのこだわりであれ) があって、それはこの地球上においては些細なことであっても、それぞれの人生の中では重要な意味を持つのだということに気づく。そのようなさりげない示唆に富んでいる点、見逃すべきではないだろう。劇中で主人公が作る、これもさりげないが美しい詩は、ロン・パジェット (1942年生まれ) という米国の詩人の手になるもの。また、そもそもこのパターソンという街、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ (1883 - 1963) という詩人の長編詩のタイトルになっていて、主人公が詩作に取り組むのも、永瀬演じる日本の詩人がこの地を訪れるのも、この詩への憧れがあるからという設定になっている。私は、詩は決して得意分野ではなく、この詩集のことも恥ずかしながら今回初めて知ったが、ちょっと興味がある。ただ、日本でも翻訳が出ているが、まさにこの作中のセリフにある通り、翻訳詩を読むのは、「雨具を着てシャワーを浴びるようなもの」。原語でないと詩の面白さはなかなかに分かりづらいことは確かだろう。
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この映画を、ただの日常を描いているだけだと思う人もいるかもしれないが、上で少し見た通り、必ずしもそうではないだろう。最後に指摘したいのは、やたらと双子が登場することであり、主人公夫婦の会話にも、子供ができるなら双子がよいという話題が出て来る。このことの意味するところは明確ではないし、プログラムに掲載されたジャームッシュのインタビューでも何らヒントは発見できないが、何かパラレルワールドのようなイメージを感じると、的外れであろうか。つまり、人が今日あるのは、その過去の歴史における、ちょっとした違いの集積の結果である。たとえ同じ顔、同じ性格の人であっても、生きていくということは、その過程においてそれぞれの人生の要素のひとつひとつを、時間とともに不可逆的に作り上げて行くということなのではないだろうか。この映画における双子たちは、そのような偶然の積み重ねの結果の、人によって異なる人生を象徴していて、実は彼自身が街そのものであるパターソンは、そのような人生の積み重ねをじっと見続けている・・・。そんな解釈をすると、この映画の静謐さに、何かとても尊いものを感じてしまうのである。・・・うーむ。ではジャームッシュがこの「パターソン」と「ギミー・デンジャー」を続けて制作したのも、双子の映画という意味か??? 片割れの映画を見る際に、注意しておきたい点である。まぁ、まるっきり違っているかもしれませんけどね (笑)。

# by yokohama7474 | 2017-10-17 13:49 | 映画 | Comments(0)

メナヘム・プレスラー ピアノ・リサイタル 2017年10月16日 サントリーホール

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前日のアファナシエフに続き、尋常ならざる素晴らしいピアノを経験した。演奏したのはメナヘム・プレスラー。ドイツ生まれのユダヤ人であり、1939年に家族とともに移住したイスラエルで音楽教育を受け、戦後すぐに国際的な活躍を始めた。ええっと、今年は 2017年で、戦後 72年経つのだが、ではこの人は一体何歳だろう。驚くなかれ、1923年 12月生まれ。つまり、あと 2ヶ月で 94歳なのである!! 実はこのブログでは、過去に何度か彼の名前に触れている。興味がおありの方は、ブログ内検索で「プレスラー」と入れて調べて欲しい(余計なことだが、間違って「プロレスラー」と入れても何も出てきませんのでご注意を。私自身の失敗談です)。6つの記事が該当する。だがそのいずれも、プレスラーの演奏を聴いたものではなく、その周辺情報なのである。それぞれの記事に思い出はあるが、中でも残念であったのは、2015年 11月にこのプレスラーが来日を予定していたのに、それが彼の体調不良によってキャンセルされたことだ。リサイタル以外に、当時 91歳のネヴィル・マリナーが指揮する NHK 交響楽団との共演が予定されていたため、その両方を聴く予定であった私は、当時 92歳のプレスラーの実演を聴くことは、もうできないのか・・・と思ったのである。だから今回、93歳で再度来日してくれたことには、本当に心から嬉しく思うのである。その前の来日は 2014年。その時はヴァイオリンの庄司紗矢香の伴奏で、私も聴きに行ったが、実に素晴らしい演奏であった。その時のライヴは CD で聴くことができる。
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このピアニストは、若い頃から活躍しているとは言っても、世界最高の巨匠ピアニストとしてずっと尊敬されてきたかと言えば、必ずしもそうではなく、ある室内楽グループのメンバーとして長く活動してきたので、ソロ活動は多少なりとも限定的であったはずだ。そのグループの名前は、ボザール・トリオ。活動期間は 1955年から 2008年までの実に 53年間であるが、その間一貫してメンバーだったのはこのプレスラーのみである。この団体は、トリオとしては他の追随を許さない人気を持ち、ありとあらゆる三重奏のレパートリーを録音している。私も以前からフィリップスのベートーヴェンのトリオなどを少しは聴いていたが、最近になって 60枚組の集大成を購入。うーん、将来ブログを書かなくなったら、ゆっくり聴き通す時間がきっと生まれることだろう (笑)。今回ちょっとハイドンのトリオなどを出して聴いてみたが、やっぱり素晴らしい。これがそのアンソロジーと、その中に掲載されている設立当時のボザール・トリオの写真。ピアノはもちろんプレスラーである。
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さてこのプレスラー、このトリオでの活躍ぶりから、遅咲きという言葉は必ずしも適当ではないものの、ソロピアニストとして脚光を浴び出したのは 90歳前後ということではないか。人間には大変な力が宿っているものだと思うと同時に、いつもこのブログで触れている通り、音楽を聴く際に、年齢とか国籍とか性別という要素はあまり必要ではないというのが、私の信条である。何より、虚心坦懐に音楽に耳を傾けたい。

そうは言うものの、大柄な女性に脇を抱えられ、杖をついてゆっくりと舞台に登場したプレスラーを見て、「あぁ、よくぞこの高齢で遠い日本まで来てくれました!!」という感情が沸き起こるのは、人情としては当然のこと。繰り返すが、あと 2ヶ月で 94歳である。歩くだけでも大変なことなのに、これからピアノ・リサイタルを開くのである。人間にはなんという凄まじい力が秘められていることだろう。そしてその曲目に驚かされる。
 ヘンデル : シャコンヌ ト長調
 モーツァルト : 幻想曲ハ短調 K.475
        ピアノ・ソナタ第 14番ハ短調 K.457
 ドビュッシー : 前奏曲集第 1巻から デルフィの舞姫たち、帆、亜麻色の髪の乙女、沈める寺、ミンストレル
        レントより遅く
        夢
 ショパン : マズルカ第25番ロ短調作品33-4、第38番嬰ヘ短調作品59-3、第45番イ短調作品67-4
      バラード第 3番変イ長調作品47

なんと多彩なプログラムであろうか。バロックから古典派、フランス近代に移ってからロマン派に戻るというものであり、高齢であるという事実には一切関係がないものである。だが実際、実におぼつかない足取りで、手を引かれながらステージの袖からピアノまで歩く姿には、ハラハラさせられる。ピアノに辿り着いてからも、鍵盤に蓋をして、そこに手をかけて、ゆっくりと慎重に腰を下ろす。その椅子は通常のピアノ用のものではなく、オフィスにある事務用の椅子の骨組みだけのようなものに座布団を敷いて、キャスターを除いたような形状。そうしてようやく演奏の準備が整うと、彼は自分で鍵盤の蓋を開け、譜面を見ながらおもむろに演奏し出したのである。

ヘンデルの開始早々では、音色はきれいであっても、ちょっと安定感がないかな、と思ったものだ。だが、数分聴いているうちにそれが杞憂であることが分かる。前日の鬼才アファナシエフのピアノを、世界の終わりにひとりで歌う歌と形容したが、このプレスラーは全く違う。彼は聴衆のために演奏し、生きている人たちに訴えかける。彼にとっては、人前で弾くことこそが生きることなのではないだろうか。前半はヘンデルとモーツァルトがすべて続けて演奏されたが、そこに聴こえてきたのは、澄んだタッチの中に宿る人間性であった。ここで注目したいのは、モーツァルトの 2曲はいずれも短調であったこと。生きる喜びを歌う曲ではなく、暗い情念すら感じさせる内容である。だがここでのプレスラーの演奏では、暗さも人生の一部なのであるという調子で、淡々と弾きこなされて行く。この宙を漂うような感じの演奏は、いかに暗い内容の曲であっても、決して人を落ち込ませることはない。また、モーツァルトがこのような短調の曲を書いたのは、決して聴衆を落ち込ませるためではなく、立ち止まって人生を考えさせるためであったのではないか。このプレスラーの朴訥とした演奏には、そのような重要なメッセージがこもっていると思われた。尚、今回演奏されたモーツァルトの 2曲を収録した CD は、未だ一般には発売されていないが、会場のみでの先行販売で売られていた。今この記事を書きながら聴いているが、CD は実演よりもさらに精妙な表情に聴こえるものの、やはり実際に耳にした音の感動の方が上回っている。
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後半のドビュッシーとショパンも、技術的に水際立っているというイメージではなく、やはり朴訥とした味わいであったと思うが、それでも、技術において破綻は一切ない。ドビュッシーは、独特の五音音階が東洋的に響くこともあって、我々日本人にとってはどこか懐かしいような音楽でもあるが、プレスラーはことさらにノスタルジックに弾くというよりは、ただ音の命じるままに指を動かすことで、先鋭的でない音楽を奏でていたと思う。これは、聴衆がいるからこそ成り立つ音楽。決して密室で自分のために弾く音楽ではない。ショパンも同様で、愛国の士が祖国の舞曲を力強く再現した音楽というよりは、音の運動を、現在の彼の運動能力が許す限り続けてみたという印象であった。選曲も実はよく考えられていて、「ミンストレル」から「レントより遅く」にかけては舞曲であり、ファンタジックな「夢」を挟んでまたマズルカで舞曲に戻り、最後のバラードでは明るく締めくくるという流れは、聴いていてスムーズであり、実際にドビュッシーの演奏中から、彼の右手は時折宙に円弧を描いていた。そういえば、奇しくもショパンのマズルカ第 45番は、前日のアファナシエフがアンコールで弾いた曲。それぞれのピアニストの個性の比較にはもってこいであった。

そして、演奏後に彼が見せてくれた人懐っこい表情と、ステージ後ろの客席への挨拶という聴衆への気遣いは忘れがたい。一旦ピアノを離れると、さすがに年齢を感じるが、それでも 2曲のアンコール、すなわちショパンのノクターン第 20番嬰ハ短調 (「映画「戦場のピアニスト」で使われたあの名曲だ) と、ドビュッシーの「月の光」を弾いてくれたことで、聴衆は本当に心から音楽の素晴らしさを味わうことができた。大きなブラヴォーはさほど多く出ないものの、自然と客席が総立ちのスタンディング・オヴェイションになるコンサートが、一体どのくらいあるだろうか。

是非これからも健康に留意して頂き、また感動的な音楽を聴かせてほしいものである。
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# by yokohama7474 | 2017-10-17 01:44 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ・リサイタル 2017年10月15日 紀尾井ホール

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もう随分昔のことになるが、どこかで読んだ文章が気になった。それは、現代音楽界における不思議のひとつとして、ヴァイオリンの巨匠ギドン・クレーメルの伴奏をよく行っているピアニストは、紛れもない天才なのに、なぜ活発なソロ活動をしないのか、というものであった。興味を持って調べてみると、そのピアニストは、見た目が何か怖いような印象で、ちょっとただならぬ雰囲気である。そうこうするうちにそのピアニストのソロ活動は活発になり、アルバムも出るようになった。私も彼の演奏するブラームスなどを録音で聴いて、確かにこれはすごいぞ、鬼才という呼び名にふさわしいぞ、と思ってはいたのだが、実演に接する機会がなく今日に至った。昨年の来日公演は別件によって聴くことができず、今回紀尾井ホールで開かれる 2回のリサイタルのうち、ひとつは行けないが、もうひとつは行ける。そんなことで、そのピアニスト、ロシア出身のヴァレリー・アファナシエフの実演に、今回初めて触れることとなったのである。これが若い頃のアファナシエフの録音のジャケット。
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このアファナシエフは 1947年生まれなので、今年 70歳。モスクワ音楽院で名ピアニスト、エミール・ギレリスに師事し、1972年にはエリーザベト王妃国際音楽祭で優勝している。その 2年後、同コンクールの開催国であるベルギーに亡命、現在でもブリュッセルを中心に活動している。初来日は 1983年なので、これまで聴くことを怠っていた私としては、前非を悔いて彼の音楽に傾聴する必要がある。今回のプログラムは以下の通り。なるほど、上のポスターにある通り、「テンペストとノクターン」である。
 ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ第 7番ニ長調作品 10-3
         ピアノ・ソナタ第 17番ニ短調作品 31-2「テンペスト」
 ショパン : 夜想曲 6曲 (第 1番変ロ長調作品 9-1、第 5番嬰ヘ長調作品 15-2、第 7番嬰ハ短調作品 27-1、第 8番変ニ長調作品 27-2、第 9番ロ長調作品 32-1、第 21番ハ短調 (遺作))

尚、会場で配布されたプログラムは白一色に、縦に文章が掲載されているユニークなもの。ちょっと高級な和食屋のメニューのようだと言えば、怒られてしまうだろうか (笑)。載っている文章の内容を含め、俗っぽさを排した作りである。
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一言で記せば、まさに鬼才ピアニストの面目躍如で、若干特殊性はあるものの、非常に心にドッシリと来る演奏であった。ちょっと奇妙なたとえを使うとするなら、明日世界が終わるとしても、つまり、一人の聴衆もいないとしても、ずっとこのように弾き続けるのではないかというような印象の音楽だ。彼は世界に向けて高らかに歌を歌うのではなく、何か見えないもの、あるいは自分の奥にある神秘的なものに向かって歌っているように思われる。それはまさに比類のない音楽であり、その純度は極めて高いがゆえに、もし彼が聴衆のために弾いていないとしても、聴く人の心を大きく揺さぶるようなものなのである。今回の演奏では、例えば「テンペスト」の冒頭は、ちょっと指慣らしにピアノをいじってみたような感じで始まり、休符になると、いつ果てるとも知れない沈黙が続く。音楽の流れは著しく悪いのだが、そこには我々がかつて経験したことのないような深淵が存在しており、耳の楽しみとしての音楽ではなく、生きることの意味を問う哲学的な行為としての音楽が聴かれたと思う。その一方で、一旦音楽が流れ出すと、10本の指はまるでバロックの多声音楽を弾くように自在に動き回り、その音色には純粋な美しさが常に伴っている。音量は概して大きく、よく響く。そもそも彼は、燕尾服などのいわゆる通常のコンサート用の衣装ではなく、全くの普段着のような黒い長そでシャツに、やはり黒っぽくて線も入っていないように見えるラフなスラックスで登場し、聴衆への挨拶もほとんどないまま、だらしなく見えるほどリラックスしたまま椅子に座って、ポロポロと弾き出すのである。その様子はいかにもつまらなそうで、時には曲間に額に手を当てたりして、普通ならコンサートマナーがなっていないとすら思われそうな演奏態度である (笑)。だが、今回紀尾井ホールに詰めかけたほぼ満員の聴衆は、誰一人として、彼のステージマナーなど気にしなかったろう。前半のベートーヴェンのみならず、後半のショパンでも、音の純度は守ったまま、優雅さは表現せず、ひたすら自己と向き合うような内省的な音楽を聴かせたのである。繰り返しだが、これは一般的な意味での模範的な演奏とは思えない。だが、まぎれもなくピアニストの個性が刻印された真実の音楽であると言えると思う。

全曲終了後、相変わらず不愛想に聴衆の拍手に応えた彼は、客席からの小さな花束に、子供のようなはにかんだ笑顔を見せた。そしてアンコールは 2曲。ショパンのマズルカ第 45番イ短調作品 67-4 と、マズルカ第 47番イ短調作品 68-2 であった。最初から最後まで、ひとつの弧を描くような演奏会であり、すべてはこの鬼才ピアニストの手によって、意気軒高になることなく淡々と進んで行った。いわばこの演奏会は彼の取り仕切る宗教行事のようなものであったと言ってもよいのではないか。

終演後にサイン会があったので参加した。購入した CD は、ショパンのノクターン集で、今回演奏された 6曲に 3曲を加えた、全 9曲からなるもの。1999年に日本で録音されている。演奏後ほんの数分で、ステージで着ていた衣装のままで姿を見せたアファナシエフは、長蛇の列をなしたファンに対して、意外と気さくな笑顔で丁寧に接していた。その様子を見て、まだまだ世界の終わりに際して一人でピアノに向かってもらう必要はないだろうと実感した (笑)。
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70代の音楽家には、技術ではない、何か圧倒的な存在感を期待したいものであるが、きっと彼は今後もますますその独自の世界を深めて行くことであろう。また次の実演を楽しみにしたい。そういえば、今回配布されたチラシに、来年 5月に佐渡裕指揮ウィーン・トーンキュンストラー管との共演で、ブラームスの 2番のコンチェルトを弾くという速報があった。なかなかに異色の顔ぶれであり、面白い演奏会になるのではないだろうか。

# by yokohama7474 | 2017-10-16 00:40 | 音楽 (Live) | Comments(0)

愛知県犬山市 博物館明治村

名古屋近郊の最大の観光名所と言えば、まずはやはり明治村ではないだろうか。新幹線に乗って名古屋駅付近に至ると、大きな看板で、「明治村へは名鉄で」という表示が見える。また、その名鉄に乗ってみると、季節折々の明治村の宣伝が見える。いわく建物のライトアップだの、お化け屋敷だの。実は私は、明治村は以前見たことがあるから、もう行かなくてもよいかと思っていた。いや、実際に比較的最近この明治村を見て回ったはず・・・と思って冷静になって考えてみると、あれは中学の修学旅行。満 15歳のときのことであるから、実に今を去ること 37年前。うぅーん、これは結構長い年月だ。その頃生まれた人たちは今、若手から中堅に入ろうという、社会人として大事な時期。それはかなり遠い昔と言ってよいであろう。てっきり行ったことがあると思った明治村、実際にはほとんど知らないに等しい場所なのである。そう、今年は大政奉還 150年の節目の年であるが、私が前回明治村を訪ねた頃は、未だ大政奉還後 113年であったわけだ。いやはや、それは随分と昔ではないか (笑)。私が今回家人とともにこの場所を訪れたのは、先の記事で採り上げた、犬山城と如庵に立ち寄ったあと。手元のガイドブックによると、この明治村を一巡するための所要時間は 3時間。上記の通り、夏の明治村は、お化け屋敷が臨時で作られたり、夜間はライトアップされるなど、家族や友人、カップルを呼ぶための様々な工夫がなされているが、私の場合には日が暮れる前に回りたい理由があったのだ。つまり私の野心は、この明治村にあるすべての建造物を、その説明板とともに写真に収めること。3時間で、頑張って回ろう。入場時に配られる「村内地図」によると、ここで見ることのできる明治の遺産は合計で 68。広大な敷地は、1丁目から 5丁目までに分かれている。
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さて、私が明治村を訪れた日は、今年の夏のひとつの典型的な気候で、大気が極めて不安定。ざあざあと激しく雨が降ったかと思うと急に日差しが出たりして、それはもう忙しいこと。その日私が明治村に到着したのは 11時頃。それから、昼食を取ったり、驟雨をやり過ごすための雨宿りのロスタイムもあったが、気がつけば実に 6時間後の 17時に至り、既にヘトヘト状態で観光継続を断念。頑張ってはみたものの、3丁目はまるまる見過ごしたのである。誰だよ、所要時間 3時間と言った奴は (笑)。おかげでデジカメの電池も尽きてしまい、最後の方には雨の中、スマホで撮影する始末。そして私は執念を持って数日後この地を再訪し、3丁目を回って、ようやく念願通りすべての建造物 (改修中のものを除く) を写真に収めたのである。この明治村の 68の施設のうち、重要文化財が 12。以下、とてもすべてを紹介しきれないものの、それら重要文化財建造物を中心として、主要なものを見て行こう。一言でまとめるとするなら、ここはさながら明治建築のジュラシック・パーク。既に失われてしまった時間が、ここに来れば未だに息づいていることに気づく。これだけの規模でそのような感覚を味わえる場所が、ほかにあるだろうか。実は岐阜県には、大正村とか昭和村もあるらしいが、なんのなんの、この明治村こそ、ほかに類のないタイムトリップができる場所である。ではまず、この場所の立地から見て行こう。実は明治村に隣接している入鹿池 (いるかいけ) は、もともと人が住んでいた村に水を貯めた人造湖。そのほとりには古墳も存在し、この場所が古代から特別な場所であったことが分かる。
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さてこの入鹿池、いつ頃できたものであろうか。明治村の隣だから明治時代? それとも、昭和になってからであろうか。とんでもない。江戸時代初期、1633年の完成なのである!! これは驚きだ。2015年には世界灌漑施設遺産にも認定された。そして、明治村のバスで聞いた説明によると、もともとこの土地に明治時代の建築を移築することとしたのは、もし火災が発生してもすぐ隣のこの池から水を汲み上げて消火できるからだという。実に素晴らしい発想である。この明治村、開村したのは昭和 40年、つまり 1965年。何を隠そう、私が生まれた年なのである!! 開村間もない頃の地図が展示されている場所があって、これがその写真。おぉ、これは今の 3丁目ではないか。
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私がここに到着して車を停めたのは、北側、5丁目の裏手。そこから村内に入ると、すぐに見えるのがこれだ。
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そう、本物の SL が村内を走っているのである。東京駅を名古屋駅を結ぶ SL の旅は、この上なく楽しい。「東京駅」の時刻表はこんな感じで、それほど頻繁に往復しているわけではない。
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私は全く鉄道ファンではないのであるが、ここで SL を見ると、子供のように「うわぁー」という声を上げてしまう (笑)。この蒸気機関車は、実際に日本最初の鉄道区間である新橋 - 横浜間で使われていたものらしい。1874年に英国から輸入されたものであると聞いて驚く。駅構内に入ってきた汽車の先頭車両だけが切り離され、先の方で U ターンして、また客車に連結されて、反対方向に走る準備がなされる。その間に蒸気をポォーッと吐くあたり、鉄道ファンならずとも萌えてしまうのである。乗っている時間はほんの数分であるが、高台を走るため、村内の様々な建物を車窓から見ることができる。
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さて、SL で名古屋駅についたら、そこで京都市電に乗り換えることができる。日本初の電車は、1895年に開業した京都の市電。今明治村で走っている車両は、1910年から 11年にかけて製造されたもの。うーむ、100年以上を経て未だ現役とは、恐るべし。世界にどのくらい、100年前の電車が動いている場所があるだろうか。
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そうして私たちは、市電「京都七条」駅から歩き始めたのであるが、腹が減っては戦はできぬ。近くにある、めん処なごや庵というところに入ってきしめんを昼食とすることにした。だが、折悪しく非常に激しい雨となり、しばらくは傘を両手に抱えての散策となった。まずは 2丁目、そして 1丁目という順番で回ったのであるが、最初に見たのはこの京都七条巡査派出所 (1912年)。強い雨足がご覧頂けよう。
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そして、重要文化財の札幌電話交換局 (1898年)。内部には電話の歴史についての展示がある。
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これも重要文化財の東松家住宅 (1901年頃)。明治という時代は、近代化が進むとともに、江戸時代以来の伝統も充分に保たれていたことが分かる。何かノスタルジックな気分を禁じ得ない。
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さて、第四高等学校物理化学教室という建物の中に、興味深い展示がある。実は上に掲げた開村当時の地図もそうなのであるが、それに先立ち、入り口を入ってすぐのところにこんな表示がある。
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なるほど、谷口吉郎 (1904 - 1979) の名は聞いたことがある。調べてみると、帝国劇場や出光美術館、東京国立近代美術館や、あるいは迎賓館の和風別館なども手掛けている。またこの名前からピンとくる通り、ニューヨークの MOMA でその名を馳せた現代を代表する建築家 (比較的最近、日経新聞に「私の履歴書」を連載していた) 谷口吉生は、彼の息子である。そして、もう一人の明治村の生みの親は、当時の名鉄の社長、土川元夫なのである。これはその二人のレリーフ。
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ここで気づくことには、この明治村は、どうやら名鉄が中心になって作り上げたものであるということだ。以下に見て行く通り、ここに移築された歴史的建造物の価値は計り知れないし、そのために要した費用は、まさに天文学的なものであろう。前回の記事で、織田有楽斎が作った茶室、国宝の如庵が犬山名鉄ホテルの敷地に存在していることに触れたが、名鉄の行ってきた文化事業はそれにとどまらず、この壮大な建築ジュラシック・パーク、明治村もそうなのである。これは実に素晴らしいことであると実感する。

さて、先を急ごう。次の重要文化財はこれ、東山梨郡役所 (1885年) である。地方行政を司る建物であるゆえ、規模は小さいが、なんとも瀟洒な建物である。現在、明治村の村役場はこの建物に置かれている。
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そこから 1丁目に移動して目にするのは、やはり地方行政を司った建物であるが、今度は県の建物である。重要文化財の三重県庁 (1879年)。なるほど、郡役所よりもスケールが大きく、コロニアル調の立派な建物なのである。
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そして、その向かい側にある鉄道局新橋工場で、非常に興味深いものを見ることができる。1910年に作られた、明治天皇御料車である。内部もガラス越しに見ることができ、当時の人々にとっては神であった明治天皇の存在を身近に感じることができるのだ。こんな場所、ほかにあるだろうか。
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さて、ここで 1丁目の正面に来た。来訪者たちを迎えるのは、第八高等学校正門 (1909年) である。
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この大変小さな建造物は、赤坂離宮正門硝舎 (1908年) である。ちょうどこのあと私たちが訪れることとなり、既に記事も書いた、あの迎賓館赤坂離宮の前に実際に立っていたもの。当時の写真も展示されている。
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このあたりで既に歩き疲れて朦朧として来た。坂の上では、先刻まで降っていた雨が、太陽の熱によって地面から蒸発する様子を見ることができる。これは珍しい光景だ。
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この 1丁目にはあと 2つの重要文化財がある。聖ヨハネ教会堂 (1907年) と、西郷従道邸 (1877年頃) である。いずれも素晴らしい建物であるが、前者は明治におけるキリスト教の教会として、風格があってこの上なく立派。後者は、当時の政府要人の西洋風邸宅としては、さすがのものである。
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明治村のすごいところは、あらゆる分野の建物が揃っている点である。これは、森鴎外と夏目漱石が、10年の時をおいて住んだ家 (1887年頃)。もともと文京区千駄木にあったもので、漱石はここで「吾輩は猫である」を執筆している。いやー、よくぞ現代まで残ったものである。内部は漱石の書斎を再現している。
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さあ、足が棒になろうとも、まだまだ先に進まねばならない。4丁目である。ここは谷のようになっていて、歩くだけでも結構体力を消耗する。と思ったら、歩兵第六聯隊兵舎 (1873年) が、期間限定のお化け屋敷となっていた。最近よく名前を聞くお化け屋敷プロデューサーの五味弘文の手になるものだが、時間の関係でパス。この頃には青空が広がり、暑くなっていたが、そこここに浴衣姿の若者たちがいて、なかなかよい雰囲気だ。
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さてこれは大変規模の大きい重要文化財で、宇治山田郵便局舎 (1909年)。中では当時の郵便に関する資料があり、今でもここから葉書を送ることができる。
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小規模な日本家屋が 2軒並んでいる。本郷喜之床 (1910年頃) と、小泉八雲避暑の家 (1868年頃)。後者は駄菓子屋になっているが、その名称の通り、小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン) が時折身を寄せた焼津の家。前者は、2階に何やら人の等身大の写真が見えるが、これは石川啄木。彼は実際にこの床屋の 2階に下宿していたという。
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これまた大変貴重な建物。芝居小屋の呉服座 (くれはざ、1892年) である。大阪の池田市にあったもので、重要文化財。驚くべきことに、今でも芝居を上演できるようだ。
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さて次が、私がこの明治村で大変感動した建物ベスト 3に挙げたい、聖ザビエル天主堂 (1890年)。京都にあったもので、巨大な聖堂そのものを移築して来ている。長崎の教会を巡ったときのことを思い出させる建築であり、その気になれば、今でもすぐそのままミサに使えるものなのである。
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かと思うと、非常にユニークな教会もある。大明寺聖パウロ教会堂 (1879年)。遠目には風呂屋か何かかと思うが、中は立派なキリスト教の聖堂になっているのだ。文化の伝播とその受容のあり方を思わせる貴重な遺構である。
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次も実に興味深い建物で、金沢監獄中央看守所・監房 (1907年)。当時の監獄の様子が生々しく分かるようになっている。
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この 5丁目の小高い丘の上に、階段状の、ちょっと不思議な建物がある。
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この廃墟のように見える建物は、川崎銀行本店 (1927年)。もともと日本橋に建っていた堂々たる建築であるが、今はこの明治村の地で一部だけが保存されている。そう、さすがにこれだけ巨大な建造物はすべて移築することは困難なので、このような形になったものらしい。当初の姿はこのようなもの。
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さて、5丁目の最も奥に、この明治村で最も有名な建造物がある。もちろん、フランク・ロイド・ライト設計になる帝国ホテル中央玄関だ。
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村内のバスに乗ると、主な建物についての説明を運転手から聞くことができて興味深いが、大変驚いたのは、この帝国ホテル玄関を移築するのに要した時間と費用である。なんと、17年、11億円だそうである!! 移築完了が 1976年だから、その当時の 11億円とは実に大変な額である。そうすると、ここにある様々な建造物の移築に要した労力とコストは、まさに天文学的な数字になるだろう。もちろん、名鉄だけですべてを賄うのは無理な話であり、国や地方自治体、あるいは企業の寄付等があって初めて可能になるものと思う。そう考えると、これだけの広大な敷地にこれだけの数の貴重な建築を保存していることの意味を、改めて思うのである。

さて、前述の通り、ここまでの所要時間はざっと 6時間。その日はそこで力尽きてしまったが、見ることのできなかった 3丁目は、後日訪れた。ここには 3つの重要文化財がある。まず、西園寺公望別邸「坐漁荘」(1920年)。大変気品のある、純日本風の建物である。
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それから、残る重要文化財は、品川燈台 (1870年) と、菅島燈台附属官舎 (1873年)。いずれも日本最古の灯台関連建造物である。
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幸田露伴住宅「蝸牛庵」(1868年頃)。古い日本家屋だが、文豪の生きた場所が残っていることは極めて貴重である。
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芝川又右衛門邸 (1911年)。その時代にしては非常にモダンな洋館である。以前の記事で触れたことがあるが、私はこの家の所有者の子孫筋にあたる方と面識があるので、個人的にも大変興味深い。
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ほかにも沢山の建造物があり、本当に興味の尽きない場所であるという以上に、近代の日本の歩みに思いを馳せることのできる場所なのである。最近、企業の不祥事が相次ぎ、この国は本当に大丈夫かと思うことしきりだが、そういう時こそ、過去 150年間我々日本人がいかなることを考え、また達成してきたかということを振り返ってみる価値があるように思う。村内を歩くのはなかなかに骨の折れることであり、上で触れた SL や市電に加え、このようなレトロなバスを有効活用すればよいと思います。文化に興味のある人には必見の場所なので、最近までの私のように、37年前に一度行っただけで分かった気になっていては、大変もったいないのです (笑)。
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# by yokohama7474 | 2017-10-15 23:23 | 美術・旅行 | Comments(0)

愛知県犬山市 犬山城、如庵

10月も半ばに至り、さすがに秋の空気になってきたが、今年は (も?) 奇妙な夏であった。東京では 7月に酷暑が来て、8月はどうなることかと思うと、雨天続き。時にその雨は、傘を支えるのもやっとという激しいものになり、各地で豪雨が相次いだ。これからいくつかの記事で、そんな夏に私が出かけた場所を、遅ればせながらご紹介して行きたい。それは実は名古屋近辺なのであるが、この地域には、知れば知るほどに深い歴史の痕跡がある。もしかすると名古屋地区在住の方でも、「へぇ、そんな歴史があるんだ」という感想を持たれる場合もあるかもしれない。川沿いのラプソディ流、名古屋の歩き方。ご参考として頂ければ、そんなにありがたいことはありません。

まず、ひとつの写真をお目にかけよう。
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これは、愛知県北部、犬山市にある犬山城である。日本に残る 5つの国宝天守閣のひとつであり、小ぶりながらも大変に美しい城である。未だ戦乱の世が完全に安定していない時代、関ヶ原の翌年の 1601年に建てられたとされる古い城だ。だが、この写真、屋根についている一対のしゃちほこのうち向かって左側が欠けているように見えないか。別の角度からの写真がこれである。ちょうど上の写真の裏なので、左右は逆になっているが、やはり片方が欠けている。
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これにはわけがあって、実は今年の 7月12日の落雷によって、片方のしゃちほこが破損してしまったのだ。天守閣内にそのしゃちほこが展示されていた。
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先般の熊本地震による熊本城の被害などは最近での大規模な文化財の損傷であるが、もともと天災の多いこの国で、燃えやすい木造建造物を守り、後世に伝えて行くことはいかに困難かということを改めて思い知る。その一方で、しゃちほこの片方が破損しただけではこの国宝建造物の持つ価値は全く減じることはない。そのように、文化財の持つ生命力ということも、よく認識しておく必要があるだろう。

さてこのブログでは過去に、国宝 5天守閣のうち既に 3つ、つまり、姫路城、松本城、彦根城をご紹介したので、この犬山城で 4つめ。残るひとつは松江城で、ここは私も国宝に格上げされる前ににしか訪れたことはなく、随分ご無沙汰だが、またそのうち現地を訪れて、記事を書く機会を求めたい。犬山城の場合、私にとっては今回が既に 4度目の訪問であったが、何度行っても興味深い場所なのである。 このような入り口から風情のある坂道を少し登って行くことになる。
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門を入ったすぐの場所が、恰好の撮影スポットになっている。本当に美しい姿をしている。
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入り口や、中の階段などは相当に急角度であり、かなりワイルドな感じである。
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考えてみれば、400年前にできた城郭建築が、後世の補修は当然あるものの、今でも現存していて、しかも人々がその中に入ることができるということは、なかなかに大変なことである。城としての機能を失った明治期以降は、古い城廓建築を維持するだけでもそれはそれは大変なことであり、各地の城の中には、明治期に壊されてしまったものも多い。日本人は情緒的である割には、ある意味で変わり身が早く、建物のスクラップ・アンド・ビルドは、かなり大胆に行う方ではないか。それは、西洋のような石造りではなく、木造であるということも一因であろうが、日本人のメンタリティの何かと関係しているようにも思う。ところがこの城の場合、もともとの建造は織田信康 (信長の叔父) によるものだが、その後、1617年 (今からちょうど 400年前だ!!) に、尾張徳川家の家老であった成瀬正成が城主となり、その成瀬家が明治維新まで城主であり続けた。それゆえこの犬山城は、つい最近まで、国宝建造物として唯一、成瀬さんという個人所有のものであったのである (現在では財団の所有)。天守閣の最上階には、歴代城主の肖像が掲げられている。ネクタイを締め、ウィスキーグラスなど傾けている城主さんとは、なんとも面白いではないか。
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尚この最上階には赤い絨毯が敷いてあって、私は後で本で知ったのだが、これは第 7代城主、成瀬正壽 (まさなが、1782 - 1838) がオランダ商館長と親しかったことから、その頃に敷かれたものであるらしい。へぇー、私はてっきり、昭和のものかと思いましたよ。
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それにしてもこの城、その佇まい自体は、本当に武士の時代に思いを馳せることのできる場所だ。ほら、このように畳に自然光が入ると、すっと扉を開けて侍が出てきそうな感じすらするではないか。
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未だ実戦を想定していた頃の建造なので、ある階の床は、このように板と板の間に、わざと隙間を設けてある。下の階に忍び込む者をここからチェックできるのである。ただ、その時城はかなり危機に瀕しているであろうが (笑)。
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犬山城が建っているのは、木曽川のほとりの丘の上である。城の背後は天然の要害地となっているわけである。
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今回破損したしゃちほこが、いつどのように修復されるのか分からないが、この強い生命力を持つ建物の長い歴史の中では、ごくちょっとしたトラブルでしかない、と考えたいものだ。

さて、近隣の神社や犬山の街自体も大変に情緒があり、商店街を覗いたり、その中に保存されている歴史的建造物や、犬山祭りの山車やからくり人形の展示なども興味が尽きないのだが、今回は時間の関係でパス。ただ、城から歩いて数分のところにある場所だけは、絶対に外してはならない。このような名前の場所である。名鉄犬山ホテルの敷地内にある、有楽苑 (うらくえん)。
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この有楽苑は、よく手入れの行き届いた日本庭園なのであるが、そこでの見どころはなんと言っても、上の写真にある通り、如庵 (じょあん) という茶室である。犬山城天守閣が、日本に 5つしかない国宝天守閣のひとつなら、この如庵は、日本に 3つしかない国宝茶室のひとつなのである。因みにほかの 2つとは、京都、山崎の妙喜庵にある待庵と、大徳寺の塔頭である龍光院にある密庵。実は、待庵は日本史の教科書にも出て来たが、事前予約制での公開で、私は見たことがない。密庵に至っては、全く公開をすることがなく、この寺の所蔵するやはり国宝の曜変天目茶碗と同様、幻の国宝なのである。従い、この如庵を犬山で見ることができることは、非常に貴重なことなのだ。これが有楽苑の門。
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如庵は、織田信長の弟で、大名であり茶人でもあった織田有楽斎が作った茶室。もともとは京都の建仁寺の塔頭に建てられたが、明治になって京都の中で移転されたのち、その後東京の三井家本邸に移築。昭和に入ってから一度大磯に移ったあと、1972年に名古屋鉄道 (名鉄) によって現在の地に引き取られた。織田家ゆかりの名古屋近郊で、ようやく忙しい移転生活を終え、その凛とした姿を人々に見せていることは、実に感慨深いものだ。中に入ることはできないが、解説もあり、自由に写真も撮ることができて、有り難い限りである。私は以前、外人のグループをここに連れて来たことがあるが、皆大変に興味深そうに内部を覗き込んでいた。
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実はこの有楽苑には、ほかにも興味深い建築がいくつもある。この如庵に隣接しているのは、重要文化財の旧正伝院書院。これは有楽斎の隠居所であり、中には長谷川等伯や狩野山雪などの襖絵が残されているという。内部は非公開だが、床下からこのように内部を覗くことができる。暑い日だったので、開け放した襖によって風が通り、置いてある団扇を扇いで涼を取ると、日本人でよかった、と思ったものだ。
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それから、有楽斎が大坂の天満に作ったという元庵という茶室を、古図に基いて復元してある。これは如庵と違って大きな建物で、商都大坂の賑わいを思わせるものだ。
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このように、有楽斎ゆかりの建物が気品ある佇まいを見せるこの有楽苑、観光客がそれほど多く訪れるようには見えないが、少なくとも犬山城を訪れる人たちには、是非是非見て欲しいところである。それにしても、名鉄がこのような文化的な事業に力を入れているということは素晴らしいことだ。そしてそのことは、次なる目的地にてさらに圧倒的に迫って来ることとなるのである。犬山地域の探訪は、続きます。

# by yokohama7474 | 2017-10-15 01:23 | 美術・旅行 | Comments(0)