コルネリウス・マイスター指揮 読売日本交響楽団 2017年12月12日 サントリーホール

e0345320_23544219.jpg
最初にお断りしておくと、読売日本交響楽団 (通称「読響」) の定期演奏会には、きれいな色刷りのチラシが作成される。今回の演奏会もきっとそうであったのだろうが、手元に保管してあるチラシの束をいくら探しても、出て来たのは上記のものだけだ。いや、もちろんこれも色刷りではあるのだが、薄っぺらい紙に印刷された簡素なもの。この手のチラシは、本格的なものができる前に予告的に配られるものなのだが、私の記憶では、本格的なチラシを見た記憶があまりない。実は今回の演奏会、早々にチケットが完売となったという事情があり、きれいなチラシはあまり多く印刷される必要がなかったのかもしれない。この人気の演奏会は、読響の首席客演指揮者であるドイツの俊英、コルネリウス・マイスターが指揮するマーラーの大作、交響曲第 3番ニ短調であったのだ。これは確かに楽しみな演奏会である。以下は今年 9月14日に開かれた、来年からもうひとりの首席客演指揮者に山田和樹が就任することを発表した読響の記者会見から、山田とマイスターの握手という貴重なショットである。山田は 1979年生まれ、マイスターは 1980年生まれ。世界で活躍する 30代の 2人の指揮者をゲットした読響は、なんと恵まれていることか。
e0345320_00054245.jpg
マイスターがこの記者会見の 2日後、9月16日に指揮した、首席客演指揮者就任後初の読響とのコンサートについては、このブログでも採り上げ、絶賛したのであるが、それから 3ヶ月を経て再び読響の指揮台に登場してこの大曲を指揮した。前後の予定を調べてもほかに彼のコンサートはなく、この 1回のコンサートのために来日したようである。夏の交響曲であるこの曲を、あえて冬に聴くというのも面白い。だがその内容たるや、この指揮者とこのオケの相性のよさを実感させる素晴らしいものとなった。

まずこのマイスターの指揮の特徴であるが、これは思い返してみれば 9月に聴いた「田園」でもそうだったのだが、どの楽章の間にも緊張感を解くことがなく、音楽が終わったあとしばらく静止して、ゆっくりと指揮棒を下ろし、そのまま虚空を見つめてじっと佇んでいるのである。楽員に笑みを投げることもしないし、熱演をたたえることもなく、次の楽章のテンポを示唆することもない。ただ静かに指揮台で佇むのだ。これによって客席の咳も自然と少なくなり、会場の空気が引き締まる。そしてマイスターは絶妙のタイミングで次の楽章に入って行く。その呼吸が毎回毎回、大変によいのである。指揮ぶりは決して大仰なものではなく、その若さにしては随分と落ち着いて見える。オケが白熱する場面でも、大汗をかいて指揮棒を振り回すのではなく、的確に冷静にオケを導き、それでいて、大変によくオケが鳴るのである。これはやはり、指揮者としての天性の素質があるということだろう。指揮者という職業は、一般的に 30代はまだまだ駆け出しということになるわけだが、このマイスターといい、上で写真を掲げた山田といい、前日に聴いたフルシャといい、それぞれが既に明確な個性を持った優れた音楽家なのである。今回のマーラーに関して言うと、求める音像が明確で迷いがなく、もったいぶる箇所は皆無。冒頭のホルン 8本による開始部分も、地に足のついたテンポで、しかも音の張りは充分であったが、この曲は冒頭でうまくいかないと成功しないと思っている私としては、「うん、これだ!!」と心の中でポンと膝を打っていたものである (笑)。行進曲のテンポもしっかりしたもので、弦楽器の各声部のクリアさは際立っており、木管の絡み合いや金管の狂騒も、浮足立ったところがない。このブログでは時折、マーラーの演奏会においては、いわゆるマーラー演奏としての違和感の有無に言及していて、その内容はなかなか説明しにくいのだが、さしずめ今回の演奏は (以前このオケで同じ曲を演奏した巨匠テミルカーノフの演奏と比較しても)、全く違和感を感じることなく、完全にマーラーの語法を手の内にした指揮者の音楽であったと思う。ヴァイオリンは左右対抗配置で、最初は確か譜面を見ながらの指揮であったはずだが、ふと第 3楽章の途中で気がついたことには、いつの間にかマイスターが譜面をめくるのをやめているではないか。途中から暗譜となり、自らの中に沸き起こった感興に身を任せたという印象であった。実際、第 2楽章も第 3楽章も、くっきりと音を描き出してみごとであったが、冷静なようでいながらかなりの集中力を見せていて、そこには音楽への純粋な没頭があったと思う。それゆえの、暗譜への切り替えだったのだろう。第 4楽章では、今やこの曲を歌わせたら世界有数であろうと思われるメゾ・ソプラノの藤村実穂子が深々とした感動的な歌を聴かせ、第 5楽章の女声合唱 (新国立劇場合唱団) と少年合唱 (TOKYO FM 少年合唱団とフレーベル少年合唱団) も安定感抜群。そうしてあの絶美の終楽章では、読響の機能を最大限に引き出して、深い呼吸が生まれていた。これは言葉にすると陳腐になってしまうが、心に響く感動的な音楽であったと思う。終楽章の演奏中、オケの中、ヴィオラとチェロの間に置かれた椅子に座っていた藤村実穂子は、終演後に涙を拭いているようにも見えた。もしそうであっても不思議でないほど、感動的な音楽であったのである。
e0345320_00503443.jpg
いくつか気がついた演奏上の工夫を記すと、まず、35分を要する長い第 1楽章はオケだけがステージで演奏し、合唱団と独唱者は、その終了後に登場した。だが、上記の通り指揮者が指揮台で身動きせずに立っているものだから、客席からも拍手はなく、あたかも宗教行事のように演奏が進行することとなった。藤村は上記の通り、オケの中に埋もれるような位置に座り、第 4楽章の歌唱のあとはまた目立たぬようにそこに座ったが、対照的に児童合唱は、第 5楽章の「ビム・バム」の歌と同時に席からさっと立ち上がって勢いよく歌い始めたのである。それから、終楽章大詰めでのティンパニについて。調べてみるとちょうど 2年前、2015年12月12日に聴いたシャルル・デュトワ指揮の NHK 交響楽団による同じマーラー 3番の演奏で、最後に堂々と鳴る 2対のティンパニがずれるのを防ぐために、ひとりのティンパニ奏者が、指揮者ではなくもうひとりのティンパニ奏者を見ながら叩いていたことに触れた。今回はどうするかと思って見ていると、双方のティンパニ奏者がともに指揮者の方を見ていて、ほんのわずかのタイミングのずれが生じていた。だが私は、不思議とそれが気にならなかったのである。マイスターの指揮には作為的な要素が少なく、鳴っている音は美麗でも、そこには常に大きな流れと、どこかしら人間的な要素がある。だから最後のティンパニの音が 0.何秒かずれることは大した問題ではなく、奏者が指揮者からのインスピレーションを受けて叩くことで、本当に感動的な音楽になるのかもしれないな、と思ったものであった。読響はこのようなマイスターの要求に応える技量を持っているが、欲を言えば、金管の弱音部にさらに磨きがかかればよいと思う。

そんなわけで、東京にまた楽しみな指揮者とオケのコンビが誕生した。マイスターは読響でマーラーをシリーズで採り上げて行くと明言しており、来年 6月には第 2番「復活」を指揮する。これは必聴である。そんな思いを抱いて、帰宅後に CD 棚をゴソゴソ漁り、取り出してきたのは、このマイスターの手兵であるウィーン放送響の 1970年から 2012年までのライヴ録音を集めた 24枚組のアンソロジーだ。
e0345320_01103437.jpg
ここにはマタチッチやバーンスタインやギーレンや大野和士や、マイスターの前任者であるド・ビリーの演奏など、興味深い録音が様々だが、当然のようにマイスターの演奏を沢山聴くことができる。中には有名なジョン・ケージの「4分33秒」(録音で聴く意味あるのか?!) もあるが、ちょっと聴いてみたのは、マルティヌーの第 1交響曲。というのも、週末にまたヤクブ・フルシャ指揮東京都響の演奏会で聴くことになるからだ。マイスターは既にマルティヌーの交響曲全集を完成させていて、その音色のセンスはさすがである。同世代のフルシャとの比較は、今後とも楽しみになって行くことは間違いない。

# by yokohama7474 | 2017-12-13 01:14 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヤクブ・フルシャ指揮 東京都交響楽団 2017年12月11日 東京文化会館

e0345320_22322709.jpg
チェコ出身の弱冠 36歳の指揮者、ヤクブ・フルシャは、昨年からジョナサン・ノットの後を継いで名門バンベルク交響楽団の首席指揮者を務めているほか、フィルハーモニア管弦楽団の首席客演指揮者も兼ねており、今まさに世界的快進撃を続けているが、その彼が 2010年から首席客演指揮者の地位を持つもうひとつのオーケストラがある。それはほかならぬ、東京都交響楽団 (通称「都響」) である。実は、上のチラシにある通り、今回彼が都響と行う 2回の演奏会は、首席客演指揮者として最後のもの。大変多忙な指揮者であるゆえ、今度は彼がいつまた都響の指揮台に帰ってきてくれるか分からない。実際、来年 6月にはバンベルク響との来日が予定されてはいるが、4月から始まる都響の来シーズンの予定表には、彼の名前はない。それゆえ、今回の 2回の演奏会は非常に貴重な機会なのである。
e0345320_23184319.jpg
このブログでも既に何度か、フルシャと都響との共演を採り上げてきて、素晴らしい演奏は絶賛し、もしかするとちょっと疲れているのではと思われるものについては、正直にその感想を綴ってきた。実は私がフルシャを高く買っているのは、彼が都響の首席客演指揮者 (当時の名称はプリンシパル・ゲスト・コンダクター) として初めて登場した 2010年12月14日の演奏会 (曲目は、ヤナーチェクのグラゴル・ミサをメインとするチェコ音楽) での印象が強烈であったからであり、音楽ファンとして指揮者との巡りあわせを大事にしたいと思っている私にとって、フルシャの演奏を聴くことには、それ以来特別な意味があるのである。今回のコンサートのプログラムに、彼と都響との共演記録が掲載されているが、今回の 2回を含めて合計 22種類のプログラムを振っている。その多くはチェコ音楽で、スークやマルティヌーは様々あって、スメタナの「わが祖国」もあるが、面白いことにドヴォルザークの作品は、スターバト・マーテルが 1曲あるだけで、交響曲は 1曲もない。その他、コダーイやバルトークといったハンガリー音楽、ショスタコーヴィチやプロコフィエフ、ストラヴィンスキーといったロシアの作曲家、ベルリオーズやドビュッシーといったフランス音楽、R・シュトラウスのアルプス交響曲やベートーヴェン第九といった具合。古典派は第九以外にはなく、ドイツ音楽も少ない。ただ例外としてブラームスを除いては。上のチラシにある通り、「マルティヌー & ブラームスチクルス完結で 8年間の掉尾を飾る」ということで、今回の 2回はこの 2人の作品がメインである。この日の曲目は以下の通り。
 ドヴォルザーク : 序曲「オセロ」作品93
 マルティヌー : 交響曲第 2番
 ブラームス : 交響曲第 2番ニ長調作品73

まず最初の序曲「オセロ」は、ドヴォルザークの「自然と人生と愛」という三部作のひとつで、ほかの 2曲は、「自然の中で」と「謝肉祭」である。「謝肉祭」を除いては演奏頻度はあまり高くないが、1891年から 92年という作曲年代からも分かる通り、世紀末的というか、象徴主義的な雰囲気が感じられる部分がある。今年見たドヴォルザークのオペラ「ルサルカ」の記事にも書いた通り、この、メロディのセンスに恵まれた作曲家のメンタリティには、時代を反映した世紀末的なメルヘンへの指向もあったのだろう。この「オセロ」は、シェイクスピアの戯曲をそのまま辿るものではないが、何やら人間心理の複雑さを思わせる劇的な音楽で、こういうタイプの曲を演奏させると、東京のオケの中でも都響の能力は抜きん出ているのではないか。特に弦楽合奏が凄まじい迫力で、聴きごたえ充分。フルシャの身振りに沿った音が、勢いよく飛び出てくる演奏であった。

2曲目のマルティヌーであるが、この作曲家は有名ではあるものの、彼が大好きで様々な作品に精通している、という日本人はそうは多くないだろう。かく申す私も、若い頃からこれだけ交響的な音楽に魅せられながらも、マルティヌーの 6曲のシンフォニーは、ミュンシュが初演した 6番をそれなりに聴いたほかは、ほとんどなじみがない。なので、改めて今回の演奏会で、彼の音楽をじっくり聴いてみようと思ったのである。実はフルシャは現在、国際マルティヌー協会の会長という役職にある。若くして、現存するマルティヌー演奏の権威ということであろう。これが作曲者のボフスラフ・マルティヌー (1890 - 1959)。
e0345320_23280078.jpg
生年でドヴォルザークよりも半世紀あとの人だけに、チェコの作曲家の典型的な民俗的イメージとは異なり、その音楽にはモダニズムの要素がある。それもそのはず、彼は 1920年代をパリで過ごしているのである。その後は米国に渡り、6曲の交響曲のうち 5曲をその地で書いた。今回演奏された第 2番は、1943年にクリーヴランドのチェコ出身者コミュニティのために作曲され、エーリヒ・ラインスドルフ指揮クリーヴランド管弦楽団によって初演された 30分足らずの曲。実は大変興味深いことに、この曲の初演と同じ日に、マルティヌーの代表作として知られる「リディツェへの追悼」が、アルトゥール・ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィルによって初演されている。この曲については、映画「ハイドリヒを撃て! 『ナチの野獣』暗殺作戦」の記事の中で触れた通り、ナチの高官であったラインハルト・ハイドリヒがプラハで暗殺されたことへの報復として、ナチス・ドイツがチェコのリディツェという小さな村の人々を虐殺したことへの抗議の音楽である。まさに第二次大戦中のこと、政治的にはこの曲は重要であったはずだが、作曲者はニューヨークでのそちらの初演ではなく、クリーヴランドでの交響曲第 2番の初演に出席したらしい。この曲には抒情的な要素と、明るくユーモラスな要素が入り混じっていて、若干とりとめのないところもあるが、チェコの民族性も盛り込まれていて、決して難解な音楽ではない。フルシャと都響のコンビは、このようななじみの少ない音楽にも真摯に取り組み、次から次へと雄弁な音が繰り出されていた。実に鮮やかな演奏であった。興味深いと思ったのは、終楽章の大詰めの明るい盛り上がりで連想した音楽があったのだが、それはほかならぬブラームス 2番。今回のメインの曲目であり、なるほどフルシャはこの 2曲を同じプログラムで演奏することを最初から計画していたのでは、と思ったのであった。

そのブラームス 2番。ここでも都響の、何か太い線が一本通ったような芯のある音が雄弁に語る。特に弦楽器の表現力は見事の一言に尽きる。それに比べると、木管・金管には、このオケならまだまだできるのでは、と思う瞬間があったと思う。だが、実は冒頭のドヴォルザークでもそうだったし、マルティヌーでも場面によってはそうだったのだが、このブラームスの演奏における弱音は、ただ単に静かというものではなく、なんとも微妙なニュアンスを多く含んだもので、その点は文句なしに素晴らしい表現力であったのである。今回は珍しいことに、第 1楽章の提示部を反復していたが、その長さが苦にならないほど、冒頭からの弱音の抜群のニュアンスと、そこから流れ出す音楽の見事さに打たれたのであった。前回マーラーの「巨人」で感じたわずかな疑問はここでは感じられず、最後まで美感と緊張感をもった演奏は、大団円における歓喜の爆発で終わったのである。さすがに若手指揮者の筆頭有望株であり、日本でもトップを行く楽団のひとつである。実に聴きごたえ充分のコンサートであった。これは前回、今年 7月に来日した際のリハーサル風景。
e0345320_00014742.jpg
さて今回のプログラムにはフルシャのインタビューが掲載されていて、そこには興味深い発言もあるので追ってまたご紹介したいが、ここで少し引用すると、都響との共演でプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」やバルトークの「中国の不思議な役人」を初めて演奏したときのことに触れて、「都響が私にそういう初めての経験を数々させてくださった、若い指揮者の挑戦を信頼してくださった、ということにも心動かされましたし、忘れ難い演奏を数々重ねることができました」と語っている。昨今の東京のオケの充実ぶりについて語る場合に私が強調している通り、今の東京のオケは、エラい先生について行くのではなく、世界的に見ても有望な若い指揮者を、むしろ育てているのである。そして、このことは必ず、東京の音楽界の将来につながるであろうと思うのである。

最後に蛇足。私は今回、演奏開始の 1時間ほど前に、会場である上野の東京文化会館の近くの和食レストラン (って、知っている人にはすぐ分かりますな 笑) で食事をしたのだが、店員に通された窓際のカウンター席の私の隣で、ひとりの外国人が、何やら大部な横文字 (英語?) の本を開きながら、ゆっくりとそばをすすっていた。そしてその、なかなかオシャレなジャケットを着た外国人、髪形といいメガネといい、年恰好といい体格といい、フルシャその人か、そうでなければ偶然彼にとても似た人であったのだ (笑)。普段ならこういうシチュエーションで「マエストロ」と話しかけることもある私だが、たまたまこの日は朝が早くて若干頭が朦朧としていたことと、落ち着いた態度でゆったりそばを食べているこの人が、本当にこれから演奏会を開く指揮者であるのか否か確信がなかったので、すぐ隣に座ったその人に声をかけることは、結局しなかった。だが、何度か無遠慮にジロジロ覗き見ているうち、私の視線に煙たさを感じたものか、その外国人はその後まもなく店を出て行った。かくして、それがフルシャその人であったのか否かを確認する術は永遠に失われてしまったが、彼が過去足掛け 8年間、東京のオケと親密な関係を築き、その成果が、どうやら英語のメニューもなさそうに見える和食屋で、箸を器用に使ってそばを食べることにも結実したとすると、これはこれで、東西文化の邂逅という点では、大いに意味のあることではないだろうか。人影もまばらな和食レストランで、今度は私がひとりそばをすすりながら、様々なことを考える番であった・・・。
e0345320_00194081.jpg

# by yokohama7474 | 2017-12-12 00:20 | 音楽 (Live) | Comments(0)

モーツァルト : 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」(演奏会形式) ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2017年12月10日 ミューザ川崎シンフォニーホール

e0345320_23321957.jpg
東京交響楽団 (通称「東響」) とその音楽監督、ジョナサン・ノットによる、モーツァルト・オペラの演奏会形式上演の第 2弾である。前回の「コジ・ファン・トゥッテ」は大変に楽しくまた充実した演奏であったのだが、改めて確認してみると、あれはちょうどほぼ 1年間、昨年 12月11日に東京芸術劇場で聴いたものであった。今回は「ドン・ジョヴァンニ」である。このブログで日本のコンサートのあれこれを紹介して来ている身としては、ここでひとつ、新たに感慨を覚えることがある。つい 3ヶ月前も、日本のオケがそのシェフ指揮者のもとで、このオペラの演奏会形式上演を行わなかっただろうか。そう、パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団が、NHK 音楽祭の一環としてこの曲を演奏した。これはたまたまなのか、それともオケの間の競争関係によるものなのであろうか。強調したいのは、いずれの指揮者も世界の最前線で活躍するトップの指揮者であることで、しかも、自らの手兵とともに取り組んだ演奏であるということだ。昔のように、エラい指揮者が特別公演をするのではない。定期演奏会でこそないものの、それぞれのオケの本拠地での演奏であり、つまりはこれらの演奏が、東京のオケの日常ということなのだ。

昨年から 3年がかりでノットと東響が取り組んでいるのは、モーツァルトのいわゆるダ・ポンテ三部作である。昨年「コジ・ファン・トゥッテ」、今年「ドン・ジョヴァンニ」、そして来年には「フィガロの結婚」が予定されている。イタリア人ロレンツォ・ダ・ポンテによるイタリア語の台本に作曲されていて、それぞれに持ち味は全く異なるが、いずれも大のつく傑作なのである。今回演奏された「ドン・ジョヴァンニ」は、稀代の女たらしである主人公の悪辣さと、でもどこか人間くさい部分が入り混じる、なかなかに複雑な性格の作品で、最後はドン・ジョヴァンニが手にかけた騎士長の亡霊が現れて、彼を地獄に引きずり込むという怖い話である。だが日本でもかなり頻繁に演奏されている人気作で、今回も、会場のミューザ川崎シンフォニーホールはほぼ満席だ。昨年の「コジ」は、ここミューザと東京芸術劇場の 2回公演であったが、今年はミューザで 1度きりの上演。これはいかなる理由があるのか分からないが、ちょっともったいないことではないだろうか。今回のリハーサル風景がこちら。
e0345320_21221766.jpg
この写真には指揮者のノットのほかに 8人の男女が写っているが、これが、合唱 (今回も昨年に続き新国立劇場合唱団) を除く「ドン・ジョヴァンニ」の登場人物のすべてである。「コジ・ファン・トゥッテ」ほどの緊密なアンサンブル・オペラではなく、ソロのアリアや様々な組み合わせの重唱もあるが、だがやはり、8人のアンサンブルが精緻でないと成功しない作品である。今回はかなり直前になって、主役とドンナ・エルヴィーラ役の 2人の歌手が急遽来日中止となり、代役に変更になったというトラブルがあったにも関わらず、今回登場した歌手たちは、いずれも見事な出来であった。今回は演奏会形式とはいえ、原純という人が演出を担当して、歌手たちにはほぼ舞台上演並の演技が要求される。もちろん譜面を見ながら歌う歌手などひとりもいない。いわゆる超有名歌手というのはいないし、私もドンナ・アンナ役以外の歌手にはほとんどイメージがなかったが、これは素晴らしい歌手陣であった。以下の 8人である。
 ドン・ジョヴァンニ : マーク・ストーン (英国)
 騎士長 : リアン・リ (中国)
 レポレッロ : シェンヤン (中国)
 ドンナ・アンナ : ローラ・エイキン (米国)
 ドン・オッターヴィオ : アンドリュー・ステイプルズ (英国)
 ドンナ・エルヴィーラ : ミヒャエラ・ゼーリンガー (オーストリア)
 マゼット : クレシミル・ストラジャナッツ (クロアチア)
 ツェルリーナ : カロリーナ・ウルリヒ (チリ)

大変国際的なキャストである。ここにはたまたま英国人が 2人、中国人が 2人入っていて、日本人が全く含まれていないことに注目しよう。日本にもこれらの役を立派に歌える歌手がいるはずで、もしかするとそういう人たちは、このキャストを見て悔しがっているかもしれない。だがここでのノットの意図は、国籍に関係なく、ただ純粋に、国際的な舞台で活躍している歌手たちを揃えたということではないだろうか。日本人を排除するとか、英国人や中国人を優遇するという意図は全くなく、日本で国際的なレヴェルの演奏を成し遂げようというノットの真摯な思いが、ここに見られると思う。ということは、今後ノットのお眼鏡にかなった日本の歌手は、自然にこのようなキャストの中に入ってくることであろう。ノットの東響での任期は 2026年まで。その間に、このような演奏会に実力で登場する日本人歌手が出てくることを期待したい。実際今回の歌手陣も、立派であったとはいっても、日本人が足元にも及ばないというイメージはない。急遽主役のドン・ジョヴァンニを歌ったマーク・ストーンは、ベルリン・ドイツ・オペラでこの役を歌っているほか、オペラとコンサートの双方で活躍しており、ネルソンス、ハーディング、マゼール、パッパーノらの指揮で歌った経歴のある歌手で、圧倒的とは言わないまでも、この悪役を活き活きと歌ったし、それ以外の歌手もそれぞれに立派な経歴で、いずれも安定感がある。だが、繰り返しだが、日本の歌手にもそのレヴェルに到達する可能性は、充分にあると思うのだ。ただ、中でちょっと特別だったのは、ドン・オッターヴィオを歌ったアンドリュー・ステイプルズであろうか。私はこのオペラの中でこの役を見るたびにイライラするのが常である。カップルの相手役であるドンナ・アンナとともに、何やら深刻ぶっていて、本物の人間性をあまり感じないからであろうか。だが最近はちょっと見方が変わってきていて、それは主にドンナ・アンナの歌唱によるものであったが、今回はこのステイプルズの歌うドン・オッターヴィオに、はっとする瞬間を多く聴いた。彼の歌唱は、例えばフアン・ディエゴ・フローレスを思わせる。フローレスがこんな端役を歌うことは考えにくいが (笑)、あの繊細なリリコの声でこの役を歌ったら、こんな感じなのかと思った。ドン・オッターヴィオの歌がこんなに美しいとは、初めて知りました。
e0345320_22242893.jpg
それにしても、前回の「コジ・ファン・トゥッテ」に続いて、指揮者のノットは、今回もレチタティーヴォ (日本語訳は「詠唱」。登場人物たちがセリフを音楽的に語る部分) の伴奏を自分で行っていて、なんとも忙しいこと。伴奏楽器はチェンバロではなく、もう少し進んだ楽器、ハンマーフリューゲルだ。もちろん、レチタティーヴォの部分ではオケは沈黙しているから、指揮者がその伴奏をすることは物理的に不可能ではない。だが、音楽はしばしば、レチタティーヴォから急にオケの伴奏に移るので、そんなときノットは、ハンマーフリューゲルを弾きながら徐々に中腰になって指揮の準備をすることとなった。いやいや、ご苦労様でした。これは昨年の「コジ」のリハーサル風景から。
e0345320_22352449.jpg
そして、やはり今回印象的であったのは、オケの充実ぶりである。弦楽器は極小編成 (第 1ヴァイオリン、第 2ヴァイオリンともに 6名、ヴィオラ 4名、チェロ 3名、コントラバス 2名) であったが、その敏捷な動きと多彩な感情表現は、まさに世界クラス。序曲の序奏部分からして通常よりもかなり速く、いかにも古楽風の響きであるが、その活き活きと弾むリズムや、疾走するメロディを聴いて行くうちに、スタイルのことは全く気にならなくなり、ひたすら音楽の表現力に酔いしれることとなったのである。もちろん木管のニュアンスも万全で、あらゆる個所が見事な輪郭を描いていて素晴らしい。これでこそ、演奏会形式でオペラを聴く意味があろうというものだ。ノットと東響が現在打ち立てつつあるスタンダードは、間違いなく世界に発信できるレヴェルのもの。あらゆるレパートリーにおいて、このコンビのこれからが楽しみなのである。

次にノットが東響に帰ってくるのは、来シーズンの開幕、2018年 4月である。採り上げるのは、マーラー10番のアダージョとブルックナー 9番。これは究極のプログラムである。心して待つこととしたい。

# by yokohama7474 | 2017-12-10 22:49 | 音楽 (Live) | Comments(0)

シャルル・デュトワ指揮 NHK 交響楽団 (ピアノ : ジャン=イヴ・ティボーデ) 2017年12月 9日 NHK ホール

e0345320_21141096.jpg
例年 12月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の指揮台には、同楽団の名誉音楽監督の地位にあるスイスの名指揮者、シャルル・デュトワが立つ。調べてみるとそれは 2008年からのことなので、今年で 10年目を迎える。フランス物をレパートリーの中心に据えて精力的に活躍するこの指揮者も、既に 81歳と知って驚く。今回の 3種類の定期演奏会の曲目はそれぞれに特色のあるもので、特にラヴェル没後 80年を記念して、ピアノのピエール・ロラン・エマールを迎えてのオール・ラヴェル・プロはいかにもデュトワらしいものであったが、私は残念ながらそれを聴くことができなかった。そして今回、彼が得意とするもう一人の作曲家、ストラヴィンスキーをメインに据えたこのコンサートに足を運んだのである。曲目は以下の通り。
 ストラヴィンスキー : 幻想的スケルツォ作品 3
 サン=サーンス : ピアノ協奏曲第 5番ヘ長調作品 103「エジプト風」(ピアノ : ジャン=イヴ・ティボーデ)
 ストラヴィンスキー : バレエ音楽「火の鳥」(1910年全曲版)

デュトワは若い頃にスイス出身の大先輩指揮者であるエルネスト・アンセルメに学んでいるが、このアンセルメは、言うまでもなくストラヴィンスキーの盟友であった人。だからデュトワのストラヴィンスキーは、作曲者直伝の要素があるのである。私は今回の演奏会を聴きながら、改めてデュトワが N 響に対して果たした大きな役割を思っていた。彼は 1996年に N 響の常任指揮者に就任し、1998年には音楽監督となった。それまでの N 響はドイツ系の偉大な指揮者たちが主として指揮台に立っていたことから、デュトワの就任は冒険かとも思われたが、それから 20年以上を経て、N 響の演奏能力はより一層向上しているわけで、やはりデュトワがこのオケに対して果たした功績には、絶大なものがあると思う。
e0345320_21402303.jpg
そのデュトワが指揮する最初の曲目は、ストラヴィンスキーの若き日の作品、幻想的スケルツォである。これは作曲者が未だロシアでリムスキー = コルサコフに師事していた頃の作品であり、私としてはよく知っている曲だと思っていたが、恥ずかしながら今回のコンサートのプログラムで知ったことには、もともとはベルギー象徴派の作家、モーリス・メーテルリンクの「蜜蜂の生活」に基づき、女王蜂や働き蜂の生活を描いたものであったらしい。そう思って聴くとなるほどと思うこともあるが、ストラヴィンスキーにはやはり、物語性よりも、すっきりとした明確な輪郭線が欲しい。作曲者自身が後年この曲を、純粋な交響的音楽として書いたと主張している。デュトワと N 響は、その意味で大変素晴らしい演奏を成し遂げたと思う。

2曲目はサン=サーンスのピアノ協奏曲 5番である。このサン・サーンスという作曲家、大変な知識人であり多作家であり、未だにその作曲の全貌について、日本 (だけではないかもしれないが) では明らかなイメージはないとも言える。ピアノ協奏曲は 5曲書いていて、これはその最後のもの。非常に平明な音楽である。今回ソロを弾いたのは、今年 56歳になったフランスのピアニスト、ジャン=イヴ・ティボーデである。
e0345320_22305620.jpg
この人は昔からおしゃれで、ステージ上で真っ赤なソックスを見せびらかす (?) 感じの人である。そのピアノは洒脱で、深刻さのないもの。レパートリーの中心はフランスものなので、今回のようなサン=サーンスのコンチェルトはお手の物である。この曲、「エジプト風」と副題がついている通り、作曲者がエジプトのルクソール滞在中に書かれたものであり、第 2楽章にアラビア風の旋律があれこれ出てくるのだが、ティボーデのピアノはこの平明な作風にぴったりで、誰もが楽しめる演奏を成し遂げた。デュトワと N 響の伴奏も、旋律線をくっきり描き出すもので、弦楽器の練れた音が印象的であった。実際のところ、今回ティボーデが履いていたソックスの色は分からなかったが (笑)、いかにも彼らしい鮮やかな演奏であったと思う。そしてティボーデが弾いたアンコールは、やはり平明な短い曲。私はその曲を知らず、そして、会場に掲示してあったはずのアンコール曲の紹介をうっかり見逃してしまったのであるが、印象から言うと、フランス音楽のようでいて、ちょっと感じが違う。もしかすると、スペインの作曲家、フェデリコ・モンポウあたりの作品であろうかと思った。その後 N 響の Twitter によると、前日の同じプログラムで演奏されたアンコールは、あっ、やっぱりモンポウではないか!! 「子どもの情景」から「庭のおとめたち」。・・・だが、その後もう一度 Twitter を確認すると、今回のアンコールはモンポウではなく、シューベルトのクッペルヴィーザー・ワルツ変ト長調 (珍しい調性だ!)。あぁ、全く自分の無知が恥ずかしい。手元にある作曲者自身のピアノによるモンポウのピアノ作品全集を引っ張り出してきて聴いてみると、それはそれでなかなか味があるのだが、なるほど今回の曲はシューベルトであったか。実は今回初めて知ったことには、いかにもフランスのピアニストであるティボーデは、父はフランス人だが、実は母はドイツ人であるそうだ。なるほどそうであったか。

さて、今回のメインはストラヴィンスキーの傑作、バレエ音楽「火の鳥」の全曲である。もちろんポピュラーな曲ではあるが、全曲 50分近くを要するこの曲には、さらに手頃な 20分程度の組曲があって、そちらの方がよく演奏される (組曲にも 3つの版があるのだが)。そもそもバレエ音楽の組曲にはいくつかのパターンがあって、たとえばチャイコフスキーの「くるみ割り人形」とかプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」などの長い曲になると、その中の美しい場面をつなげて組曲としており、曲順も全曲とは異なることもある。また別のパターンとしては、全曲に出てくる順番に沿って抜粋版のような組曲を作ることもあり、この「火の鳥」はそれにあたる。それ以外には、ちょっと変わった例として、バルトークの「中国の不思議な役人」のように、全曲の最後の方だけカットして組曲にすることもあり、また逆に、「ダフニスとクロエ」の第 2組曲のように、全曲の最後の方をそのまま組曲とすることもある。そしてこの「火の鳥」、組曲ではなく全曲を演奏する指揮者は例外なく、かなりストラヴィンスキーに対する思い入れが強い人ばかりだと思う。例えばカール・ベームは、ドイツ音楽しか振れないと言われるのに抵抗してこの曲をレパートリーにしたが、演奏したのは組曲のみ。カラヤンも、録音は残していないが、この曲の組曲を演奏した。バーンスタインも組曲のみであったろう。それに対し、ニューヨーク・フィルでバーンスタインの後任であったピエール・ブーレーズはもちろん全曲を演奏しているし、上で名前を出したエルネスト・アンセルメも早い時期に全曲版を録音している。デュトワはもちろん全曲版を録音しているが、今回のプログラムによると、「この曲がいかに独創的であり素晴らしいものであるか、組曲版では分かりません。47分間のバレエ音楽として聴いていただければ、ストラヴィンスキーの考えを理解できるでしょう」と語っている。デュトワとモントリオール響によるこの曲の録音は、こんなジャケットでした。
e0345320_23124524.jpg
しかしこのデュトワという人、とても 80歳を超えているとは思えないほど、変わらぬ指揮ぶりである。気心の知れた N 響のメンバーとともに、この曲の千変万化の面白さを再認識させてくれた。ごくわずかな技術的な傷もあったが、これだけ曲の本質を突いた演奏では、その点に目をつぶって面白さを実感することができるのである。この人の指揮には、深く停滞する瞬間がなく、あえて言ってしまえば、音楽はその表層を見せながらグングン進んで行くのであるが、このようなレパートリーにおいてはその個性が強烈に生きるのである。例えばブルックナーのような音楽ではそうはいかないだろうが、賢明なことに、あれだけ幅広いレパートリーを誇るデュトワは、これまでブルックナーとは明確な距離を置いているのだ。N 響のかつてのドイツ系の指揮者陣では、ブルックナーをレパートリーにしない人はほとんどいなかったが、過去 20年ほどを振り返ると、このデュトワやアシュケナージ、それから、最近は高齢化によって登場しないが、名誉客演指揮者であるアンドレ・プレヴィンもみな、ブルックナーを振らない人たちである。そして素晴らしいのは、現在の首席指揮者であるパーヴォ・ヤルヴィは本当にスーパーな指揮者で、ちゃんとブルックナーもレパートリーに入っている。そのようなことを考えながら今回のデュトワの演奏を聴いていて、やはりこのオケの発展において、この指揮者の貢献は大きいのだなと思ったものである。

N 響の来シーズンの予定では、また来年の 12月にデュトワが指揮台に帰ってくる。未だ曲目は発表されていないが、楽しみにしたい。これでブルックナーだったら、ちょっとビックリですな (笑)。

# by yokohama7474 | 2017-12-09 23:24 | 音楽 (Live) | Comments(0)

井上道義指揮 日本フィル (ピアノ : 渡邊康雄) 2017年12月 8日 サントリーホール

e0345320_23220313.jpg
このところ機会があれば極力出掛けるようにしている井上道義の演奏会、今回は日本フィル (通称「日フィル」) の定期公演である。井上と日フィルの組み合わせはあまり多くないと思うが、昨今の井上の充実ぶりを思うと、これはやはり必聴の演奏会なのである。というのも、プログラムがとても面白い。
 ラヴェル : 組曲「マ・メール・ロワ」
 八村義夫 : 錯乱の論理 作品12 (ピアノ : 渡邊康雄)
 ベルリオーズ : 幻想交響曲 作品14a

上に掲げたチラシには、「『錯乱の論理』&『幻想』井上ならではの異形のプログラム!」と、ビックリマークつきのコピーが記されている。実はこのチラシの裏側には面白いことが書いてあって、「『俺って、精神錯乱にみえるのか? (大笑)』と井上自らが言い放って即決した今回のプログラム」だそうだ。このプログラムには様々な背景があると判明したことは追って言及するが、ともあれ、メインの幻想交響曲が楽しみだ。この曲は、ほんの 2日前にゲルギエフとマリインスキー歌劇場管の熱演を聴いたばかりだが、曲の内容たるや、作曲者自身が恋をして、自暴自棄の中アヘンを吸って見る幻想の中で、その恋人を殺して自分も死刑になり、そして悪魔に囲まれた中で変わり果てた恋人が不気味な姿を現わすとという、まぁなんとも強烈なものであり、まさに精神錯乱の音楽。実際井上の指揮には、精神錯乱とは言わないが、この幻想交響曲が必要とする異常なまでのエネルギーが備わっており、そうであるからこそ、彼の指揮するこの曲は、是非とも聴いてみたい。ただ今回は冒頭に、錯乱とは程遠い童話 (マザーグース) の世界を描いたラヴェルの傑作「マ・メール・ロワ」が入っているのが面白い。
e0345320_23401393.jpg
ラヴェルが書いた数々の精緻な作品の中でも、癒し効果が最も高いのはこの「マ・メール・ロワ」であろう。ここで井上は、先のゲルギエフのコンサートに触発されたわけではあるまいが、指揮台なしで演奏した (ほかの 2曲は指揮台あり)。この Intimacy は誠に心地よいもので、日フィルの優れた木管が、とても今回のテーマが異形とか精神錯乱であるとは思えない (笑) 美しい音色で演奏をしたのが、大変に素晴らしいと思った。井上の指揮も、いつもの通り腕はよく動くものの、この愛らしい音楽を慈しむような雰囲気であったのは好感が持てた。

2曲目は、八村 (はちむら) 義夫 (1938 - 1985) の代表作「錯乱の論理」である。八村は、日本の作曲家として 40代で早世した人としては、矢代秋雄と並ぶ存在 (奇しくもともに 46歳で死去) で、私もこの「錯乱の論理」は、題名は以前からよく知っている。だが、実演を聴くのは初めてだと思う。
e0345320_00024846.jpg
この曲は 1975年に初演され、5年後の 1980年に改訂版が初演されている。10分足らずの短い曲であるが、巨大な編成のオーケストラを必要とする。その音響は実に強烈で深刻。いかにも昭和の前衛というイメージではあるものの、一言でまとめれば表現主義的。後半には結構美しいメロディの断片も出てきて、聴いていて面白い曲である。私は常々、井上の資質の最良の部分は現代音楽において発揮されると思っているのだが、ここでも素晴らしい表現力を発揮していた。この曲にはピアノ・ソロが登場するが、今回のソロは、1980年にこの曲の改訂版を初演した渡邊康雄。
e0345320_00161641.jpg
今年 68歳になる渡邊は、周知の通り、この日フィルの創立者、故・渡邊暁雄の長男である。渡邊暁雄と日フィルの演奏は、実演でも何度か聴いたし、ライヴ録音を集めたアンソロジーも持っている。素晴らしい指揮者であった。彼の功績はなんと言ってもシベリウス (世界初のステレオでの交響曲全集は、この渡邊と日フィルによって作られた)。だが彼は現代音楽も得意にし、若い指揮者たちの後押しも行って、日本のオーケストラ音楽に大きな貢献をした人である。だからこの演奏、このオケとこのピアニストの顔合わせが意義深いし、それから、あとで明らかになった通り、指揮者もそこにご縁があったのである。今回の「錯乱の論理」で、渡邊康雄はクリアなタッチを聴かせた。井上が腕を振り回し体をのけぞらせ、顔を真っ赤にして引き出すオケの狂乱的な音に、ピアノが埋もれがちではあったものの、さすが 37年前に改訂版を初演しただけあって、隅々まで曲を知り尽くした演奏は見事であった。

そしてメインの幻想交響曲であるが、2日前に聴いたゲルギエフの演奏との差異は、指揮者が (譜面台にスコアが置いてあるにもかかわらず) 暗譜で振ったこと、第 1楽章の提示部を反復していたこと、第 2楽章ではコルネットを使用していなかったこと、第 3楽章での舞台裏のオーボエは、先の演奏では、舞台に出ている奏者とは別の奏者が、ステージ下手の上の方 (LA ブロックの後ろ) で吹いたのに対し、今回は舞台にいた奏者が抜け出て舞台裏で演奏し、また戻ってきていたこと。一方で演奏には似た面もあって、冒頭は少しゆっくり目で始まり、主部に入ると雪崩れ込むように力を入れる設計であったことや、激しい部分での突進力も共通するものがあった。それは取りも直さず、この異形の交響曲の本質を、いずれの指揮者も的確にとらえていたということだろう。ただ惜しむらくは、第 1楽章で弦がかなり乱れてしまう箇所があり、ホルンに若干のミスがあったことであろうか。それから、オケ全体でもう少し重みがあるともっとよかったかもしれない。このあたりは、指揮者とオケの呼吸の問題も少しはあったのかもしれず、今後共演が増えれば、もっとよくなって行くであろう。実は今回の客演コンサートマスターは田野倉雅秋という人で、現在名古屋フィルと、それから井上が率いる大阪フィルのコンマスを兼ねているという。井上は、恐らく久しぶりの日フィル客演に際して、気心知れた大フィルのコンマスを連れてきたということであろうか。
e0345320_01173214.jpg
そして、終演後に井上がマイクを持って登場して語ったことには、最近はこの幻想交響曲はあまり振らない、なぜならこれは若い指揮者が振るべき曲だからだと。そして、なんでも彼が海外での修業を経て、初めて日本のプロのオケを指揮したのはこの日フィルで、曲は今回と同じ幻想交響曲であったという。そして彼の日フィル登場に際しては、渡邊暁雄の後押しがあったとのこと (だから今回は、本当に様々な縁に恵まれた演奏会だったのである)。そして井上は、信じがたいことに、今から 40年ほど前のそのデビューの時に演奏していた楽員で、未だに在籍している人たちがいると言って、その数人の楽員を起立させた。そして、聴衆の後押しと、まあ決して若くもないが年寄りではない日フィルのメンバーによって、いい演奏ができたと思う、ありがとうございました!! と言って話を終えた。いかにも彼らしいトークだったと思う。

因みに、帰宅してから、貴重な資料である「日本の交響楽団 定期演奏会記録 1927 - 1981」を紐解いてみると、確かにありました。1976年 5月19日に、井上は日フィルとこの曲を演奏している (ほかの曲目は、広瀬量平の弦楽のためのファンタジーと、中村紘子をソリストに迎えてのシューマンのピアノ協奏曲)。ちょっと興味があって、日フィルでその前 (1973年に新日フィルと分裂する以前) にどんな指揮者がこの幻想交響曲を指揮したか調べてみると、以下の通り。
 1957年 11月 渡邊暁雄
 1962年 12月 シャルル・ミュンシュ
 1965年 4月  イーゴリ・マルケヴィチ
 1966年 6月  森正
 1967年 11月 ルイ・フレモー
 1969年 4月  若杉弘
 1971年 9月  小澤征爾

うーんなるほど。素晴らしい顔ぶれではないか。改めてこの楽団の歴史を思い知る。

さて、最後にもうひとつ、興味深い話を披露しよう。実はこの井上道義と日フィルは、来年 2月 9日から 2月21日にかけて、九州各地をツアーするのである。マーラー 5番やベートーヴェン 7番を含む意欲的なプログラムで、熊本、大牟田、北九州、長崎、佐賀、大分、唐津、福岡、鹿児島、宮崎と、実に 10都市を回る!! 東京のオケの地方公演は珍しくないが、このようにひとつの地方を網羅するというのは珍しく、大変意義深い活動である。ただ、実は私が無知であっただけで、日フィルは実に 1975年から毎年 2月にこれを行っていて、来年が 43回目らしい。素晴らしいことだ。九州在住の方たちには、この機会に井上 / 日フィルの新境地を聴いてみることをお薦めします。

# by yokohama7474 | 2017-12-09 01:44 | 音楽 (Live) | Comments(0)