第九 アンドレア・バッティストーニ指揮 東京フィル 2015年12月19日 サントリーホール

e0345320_00181459.jpg
毎年繰り返していることであるが、ふと気づくともう今年も残りわずか。冗談じゃない、まだまだやり残したことがいっぱいあるのに、と思いながら、12月中旬以降のクラシックの演奏会は、第九に占拠されてしまい、その演奏会に足を運ぶと、おのずと年末モードに追いやられてしまうのだ。あ、念のためであるが、ここで言う第九 (だいく) とは、ベートーヴェン作曲交響曲第 9番ニ短調「合唱付」作品125のことだ。この破天荒な「楽聖」が書いた最後の交響曲。大規模な声楽を導入した永遠のアヴァンギャルドだ。私は今年は 5種類の第九演奏を体験することになっていて、まあせっかく今年からブログも始めたことだし、つれづれなるままにその印象でも綴って行こう。

年末の第九として今年最初に私が楽しんだのは、イタリアの俊英、アンドレア・バッティストーニ指揮の東京フィルの演奏だ。今年の一連の第九演奏会の比較ができるように、いくつかのポイントを箇条書きにして、それぞれの演奏会ごとにチェックして行こう。早速今回の演奏会だ。

・第九以外の演奏曲
  ベートーヴェン : 序曲「レオノーレ」第3番作品72
・コントラバス本数
  6本
・ヴァイオリン対抗配置
  なし
・譜面使用の有無
  指揮者 : なし (但し「レオノーレ」3番はあり)
  独唱者 : あり
  合唱団 : なし
・指揮棒の有無
  あり
・第 2楽章提示部の反復
  あり
・独唱者たちの入場
  第 2楽章と第 3楽章の間
・独唱者たちの位置
  合唱団の前 (オケの後ろ)
・第 3楽章と第 4楽章の間のアタッカ
  なし

クラシックの好きな人なら、このデータだけで、この日の演奏についてなんらかのイメージを持つことができよう。と言えば言い過ぎか (笑)。今回の演奏はこのイタリア人俊英指揮者にとって初の第九の指揮であったとのことであるが、そのことがこれから 20年、30年先に価値のあることになるだろうか。現時点ではなんとも言えないが、非常な熱演であったことは間違いない。現在弱冠 28歳のバッティストーニは、今年から東フィルの首席客演指揮者を務めている。ふと考えてみたのだが、日本のオケでイタリアで歌劇場のポストを持った人を主要なポジションにつけた例が、果たしてあっただろうか。いわゆるシンフォニーの指揮者なら、日本のオケの発展向上に寄与した世界的指揮者たち、特にドイツ系のマエストロが何人もいる。だが、オペラ指揮者が日本のオケを鍛えたのは、例えばこの東フィルが以前名誉指揮者に迎えていたアルジェオ・クワドリという渋い例があるくらいではないか。その意味で、まだ若いバッティストーニがオペラとシンフォニーの両面で東フィルと結びつきを深めつつあるということは、本当に画期的なことではないか。

演奏を思い出してみよう。まず最初の「レオノーレ」3番であるが、冒頭の和音は、ドイツ系の指揮者なら往々にしてズドーンと重く腹に来るところ、今回の演奏ではむしろ天に舞い上がるような音であった。この曲は周知のように、ベートーヴェンが唯一のオペラ「フィデリオ」の序曲として何度も書き直した末に到達した高度なオーケストラ曲で、今日では、このオペラの大詰めの場の前に演奏されることが多い・・・と言いながら、原典主義が進めば進むほど、オペラの中でこの曲が演奏される機会は減っていて、純粋な管弦楽曲として扱われる傾向が強くなってきている。だが、今回の演奏を聴いて私が改めて思ったことには、この曲には、政治犯としてはかりならずも獄中の人となったフローレスタンの苦悩と、明るい日の光のもとに彼を解放しようとする愛妻レオノーレの姿、もしくはそれらを多少抽象化したものが描写されているのではないか。つまり、冒頭の和音の後にヴァイオリンが長い音を奏でる際、ヴィブラートはほとんど使われず、でも一方でチェロにはヴィブラートが充分かかっていたことから、高音と低音の間に何かギャップがあるようであった。つまり、フロレスタンの置かれた過酷な状況と、そこからの解放というドラマが、この冒頭の静かな箇所から現れているように感じられた。それから音楽は劇的な様相を呈して、そして大臣の到着を告げる舞台裏のトランペットに至る。私の席からは下手のステージドアがよく見えたのであるが、このトランペットのファンファーレ、最初の 1回はステージドアを閉めたまま、2回目はドアを開けて演奏されていた。きっと、大臣の進軍が近づいてきていることを示したのであろうが、聴衆が聴き取れるか否かも定かではない細かい配慮である。

メインの第九は、一言でまとめれば、大変に早いテンポで駆け抜けながら、随所に細かい配慮を見せた名演であったと言えよう。但し、その快速テンポは、東フィルにとって技術的には対応可能であったにせよ、さらに迫真の演奏ができる可能性も残したと思う。第 1楽章の中間あたりの壮絶な盛り上がりと、駆け抜けるチェロは、この曲の大きな聴きどころであるが、さらに鬼気迫る表現が可能ではなかったか。第 2楽章スケルツォは破綻なく進んだが、第 3楽章アダージョは、この速いテンポでは充分歌いきるわけには行くまい。だが、ふと気づくのはトランペットの表現力だ。随所で弦の海の中から響いてくるトランペットの歌。これこそ、日本の主要オケが未だかつて充分に薫陶を受けていないイタリアのオペラ指揮者の紡ぎ出す歌ではないのか。実際に声楽が入ってくる第 4楽章で、この演奏は真の輝きを増したのはそれゆえだろう。これは紛れもなくオペラ指揮者の作り出す音のドラマ。きっと日本でこれまでに鳴り響いた無数の第九の中でも、際立ってオペラ的な演奏ではなかったろうか。オペラを書いても器楽的と言われるベートーヴェンのオペラ的演奏とは逆説的だが、大変刺激的な演奏であった。

独唱者と合唱団を記しておこう。
 ソプラノ : 安井 陽子
 アルト : 竹本 節子
 テノール : アンドレアス・シャーガー
 バリトン : 萩原 潤
 合唱 : 東京オペラシンガーズ

この中で圧巻だったのは、テノールのアンドレアス・シャーガーだ。ウィーンで学んでおり、バレンボイム指揮の「神々の黄昏」でジークフリートを歌った実績があるという。また 2013年のチョン・ミョンフン指揮の東京フィルでの演奏会形式の「トリスタンとイゾルデ」(私はどうしてもチケットが手に入らず、泣く泣くあきらめた公演) ではトリスタンを歌ったようだ。今回の演奏では、独唱のトルコ行進曲で音楽全体を牽引し、コーダ手前の四重唱でも存在感を存分に発揮して、演奏全体を大いに引き締めることとなった。
e0345320_01305173.jpg
面白かったのはカーテンコールで、普通なら最初に合唱指揮者が出てくるのに、全く出てこない。プログラムを確認すると、合唱を務めた東京オペラシンガーズの合唱指揮者については記載がないではないか! 指導者は当然いるものと思うが、私の目には、これもオペラ的と映ったものだ。実際、オペラの終演時に合唱指揮者が出てくることはまずないではないか。バッティスティーニは、初めての第九ということで、合唱の指導まである程度は自分で行ったのであろうか。並々ならぬ熱意から、そのようなこともあるのかもしれないと考えた。

さて会場には、今年 5月にバッティステーニが演奏会形式で採り上げたプッチーニの「トゥーランドット」の CD が売られていて、先着順で直筆サイン入りポストカードがついてくるという。私もこの演奏会に行って大興奮であったので、早速 CD を購入。
e0345320_01384825.jpg
東京フィルは、前の常任指揮者のダン・エッティンガーが現在は桂冠指揮者のひとりということになるのだが、来年度のプログラムを見てみると、このバッティスティーニと、特別客演指揮者のミハイル・プレトニョフ、そして桂冠名誉指揮者のチョン・ミョンフンの 3人に、ほとんどの演奏会の指揮が任される。正直なところ、私はエッティンガーはあまり高く買っていなかったので、今後はこのバッティスティーニにこのオケを強力に引っ張ってもらう必要がある。まだ若い今のうちなら、常任指揮者を引き受けてもらえないものだろうか。もしそうなれば、いとう呉服店以来 100年以上の歴史を持つこのオケに、新鮮この上ない風が吹くことであろうに。

# by yokohama7474 | 2015-12-20 01:46 | 音楽 (Live) | Comments(0)

黄金のアデーレ 名画の帰還 (サイモン・カーティス監督 / 原題 : Woman in Gold)

e0345320_23262090.jpg
今公開中の映画でどうしても見たいものが少ない中、この映画がシネコンでも上映していることを知り、見に行くことにした。ところが今日12月18日は、「スター・ウォーズ」の新作の封切日である。いや、日どころか、18時30分という封切時刻まで全国一斉。私がとあるシネコンでこのアデーレの映画を見ようと思ったのはその時刻の直前で、劇場はごった返しており、ライトセーバーを構えて写真を撮る人などが実に楽しそうにしていた。混雑を蛇より嫌う私としては、まあいつかどこかでスター・ウォーズは必ず見るが、今日この時ではないだろう。ということで、集団を潜り抜けて到達した劇場は、予想に反してそれなりの入りだ。

今月の自分のブログの記事一覧を見ると、やたら金色が多いことに気づく。オペラ「金閣寺」、デュトワ / N 響の「サロメ」、美術展「黄金伝説」といった具合だ。まあそうなると映画分野でも黄金が欲しくなるということで (笑)、まさに題名に黄金が含まれているこの作品を採り上げることになった。たまたまとはいえ、黄金続きはゴージャスな感じがしてなかなか気分がいい。ところがこの映画が扱っている題材は、気分がいいどころではない。ナチがユダヤの裕福な家庭から強奪した絵画。それを法的な手段で取り戻す婦人とその弁護士の話。うーん、そういう意味では、やはり最近のこのブログで採り上げたジョージ・クルーニーの「ミケランジェロ・プロジェクト」とは見事にテーマが一致する (もちろん、ナチの暴挙への対応という方法論では大いに異なるが)。そして、私にとっては尋常でなく興味のあるテーマ。というのも、ここで扱われている名画とは、グスタフ・クリムトの「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像 I」(I とついているからには、ほかに II も存在する) なのである。クリムトは私が敬愛する画家。もちろん彼の活躍した世紀末ウィーンの文化全般こそが、私が生涯かけて研究し味わって行きたい分野であるからで、これは好きとか嫌いとかいうレヴェルの問題ではない。ともあれ、この絵画を見て頂こう。
e0345320_23442842.jpg
この記事は飽くまでも映画を対象としているので、この絵についてあれこれ語りたいのをグッとこらえて、簡単に触れるにとどめよう。この絵は現在ニューヨークのノイエ・ギャラリー (ドイツ語の Neue は英語の New という意味) に展示されているが、このギャラリーがオープンした 2006年、私はたまたまニューヨーク駐在で、もちろんこの絵を見に行ったものだ。セントラルパークにほど近い場所のごく小さいスペースだが、それほど混雑もしておらず、じっくり鑑賞することができた。この絵の来歴について、New York Times にも詳しく書かれていたが、私にとっては来歴よりも作品そのものに興味があった。もちろん、ニューヨークに移される前は、ウィーンにおける世紀末絵画の宝庫、ベルヴェデーレ宮殿に飾られていたので、その時にも何度も対面していたわけであるが。

映画は、この作品が米国にやって来るまでの経緯を、奪還に向けた行動が開始される1998年以降の状況と、主人公であるマリア (絵画のモデルであるアデーレ・ブロッホ・バウアーの姪) の幼時からナチの迫害を逃れて故国オーストリアを脱出する頃の状況とを交えて描いている。あえて言ってしまえば、半ばドキュメンタリーに近いくらいの淡々とした描き方で、戦争が巻き起こした悲劇という社会的メッセージが必ずしも常に表面に出てきているわけではない。だが、マリアの弁護士がウィーンのホロコースト慰霊碑を見たあとの場面で、感情の高まりが描かれる。ただ、そこはまだ比較的冷静な表現であるが、ラスト近くの回想シーンでマリアが両親と今生の別れをする場面では、断腸の思いが観客の心にストレートに入ってくる、強い表現力が発揮されている。その結果、劇場内では鼻水をすする音がそこここで聞かれるという次第だ。このイギリス人監督、なかなかの手腕である。

主役マリアを演じるのは英国の名優、ヘレン・ミレン。
e0345320_00081192.jpg
私がこれまでに見た彼女の映画は、「ヒッチコック」の妻役くらいで、その昔「コックと泥棒、その妻と愛人」に出ていたと言っても、ちょっと覚えていないし、エリザベス女王役でアカデミー賞を取った「クイーン」は見ていない。この映画では、どことなく気品がありながらも素朴な面もある可愛らしいおばあちゃんであり、一方で大変頑固で、かと思うとユーモアのセンスにあふれる人物像が求められている。この場合の「頑固」には、自らが家族とともに体験した幸福な幼時と、それゆえに一層悲惨な戦争への絶望的な思いが根底にあって、納得できないことにはおかしいと声高に言う勇気がありながらも、前向きになろうとするほどに過去の悲惨な思いを極力封じ込め、祖国のことなど忘れてしまおうとする、複雑な感情が渦巻いている。このような大変難しいキャラクターを自然体で演じるヘレン・ミレンはさすがである。

彼女の弁護士、ランドル (ランディ)・シェーンベルクを演じるのは、ライアン・レイノルズ。
e0345320_00210451.jpg
「ウルヴァリン X-Men Zero」でデッドプールという悪役を演じたマッチョ派のようであるが、ここでは若い真面目な弁護士役に大変好感が持てる。ところで実在のこのシェーンベルク弁護士が、この名画のオーストリアからの奪還に大きな力を発揮したようである。彼があたかもこの感動的な逸話の語り部のようで、この映画の前に製作されたドキュメンタリー映画には、本人が出演している模様。このシェーンベルクという名前。あの世紀末から両大戦間のウィーンを彩る超ビッグネームのひとつ、作曲家アーノルト・シェーンベルクの孫だそうだ。うーむなるほど。シェーンベルクはユダヤ人で、米国に亡命してカリフォルニアに住んでいた。この映画でも主要な舞台は陽光あふれるカリフォルニアだ。ランディはそのカリフォルニアで生まれ育った人間として過去のナチの悪行など興味の範囲外であったが、クリムトの絵画の金銭的価値に惹かれてマリアの弁護を引き受ける。だが、交渉に赴いたウィーンで自らのルーツに目覚め、むしろマリアを強引にリードして最後には勝利を勝ち取るのだ。劇中には、ランディがウィーンの主要なコンサートホールのひとつであるコンツェルトハウスで祖父の初期の代表作、「浄夜」の演奏 (オリジナル通り弦楽六重奏だ!) を聴くシーンもあり、音楽の分かる人なら、この映画の Emotion の大きな要素をそこに感じることができるだろう (結局シェーンベルクは、このように叙情溢れる音楽を生涯二度と書かなかった)。ほかの出演者では、「ラッシュ / プライドと友情」でニキ・ラウダ役を演じたダニエル・ブリュールがいい味を出している。ランディの妻役は、実生活での前の旦那のおかげで有名になった (?) ケイティ・ホームズだが、私はこの人はちょっとどうも・・・

音楽の話題が出たので、ついでにもうひとつ、どうでもよいことを書こう (興味のない方は読み飛ばして下さい)。映画の中でマリアが旦那とともにオーストリアを脱出するシーンは 1938年のことだが、空港の係員に、「ケルンで歌手のキャンセルが出たから急に行く。カラヤンの指揮だ」と告げるシーンがある。1938年と言えば、カラヤン 30歳。アーヘンの音楽監督には就任していたものの、未だそれほど知名度があるわけではなかったろう。それに、ケルンには当時オペラハウスがあったのだろうか。確か今あるものは戦後にできた劇場であるはず。また、カラヤンは当時ナチ党員であったかもしれないが、そのこと自体が広く知られてはいなかっただろう。という意味で、ここの発言は係員をケムに巻くという以上の意味はないようだ。・・・と言いながら、気になるとどうしても調べないではいられないたちの私の目の前には、カラヤンの生涯全演奏記録 (John Hunt 編纂) がある。1938年はと・・・。オペラ上演はもっぱらアーヘンだ。それ以外の活動で目立つのは以下の通り。
 1月23日 アムステルダムでコンセルトヘボウ管を指揮 (曲目不明)
 2月1日・7日 ストックホルム放送響を指揮。7日の曲目は、なんとシベリウスの 6番と、Ulfrstad というノルウェイの作曲家 (1890 - 1968) のピアノ協奏曲 
 2月20日 ブリュッセルでアーヘン歌劇場管とバッハのマタイ受難曲
 4月 8日 ベルリン・フィルにデビュー! 曲目はモーツァルト33番、ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲、ブラームス4番
 6月24日 アーヘンでR・シュトラウスの「エレクトラ」
 9月30日 ベルリン国立歌劇場にデビュー! 曲目は「フィデリオ」
 12月 初のレコーディング 曲目は「魔笛」序曲
それ以外にもいろいろ活動しているが、こうして見てみると、カラヤンのキャリアにとって飛躍の年であったことが分かる。一方、この近辺の年でカラヤンがケルンで演奏した記録はというと・・・お、1935年から36年にかけて、ケルン放送響を指揮して「カルメン」とか「リゴレット」を演奏している。してみると、この映画の台詞も、あながち見当はずれというわけではないかもしれない。

いつも以上に脱線しまくりになっていますが、ともあれこの映画、戦争の悲劇という大きなテーマを扱ってはいるものの、描かれている人間像にリアリティがあるので、大仰に作られたお涙ちょうだいものとは一線を画している。それゆえに、上で触れたような感情が爆発するシーンは数えるほどしかないものの、そのようなシーンが心に迫るようにできている。クリムトに興味のある人もない人も、見ればきっと感動すると思うし、1938年のカラヤンの活動に知識がなくても大丈夫!!

# by yokohama7474 | 2015-12-19 01:14 | 映画 | Comments(2)

マルク・ミンコフスキ指揮 東京都交響楽団 2015年12月15日 サントリーホール

e0345320_23004151.jpg
全く参った。東京は一体どういう街なのだ。東京都交響楽団、通称都響のプログラムは、このブログでもいくつかご紹介して来たように、最近とみにマニアックなのであるが、その中でも相当にマニアックな内容のコンサートがほぼ満席、しかも、在京のオケで起こる頻度は非常に低いと思われる、楽団員が引き上げたあとも拍手が鳴りやまずに指揮者だけが再登場するという事態 (朝比奈隆の晩年以降、本当にどのくらいあることだろうか) が発生するという、この日のコンサートであった。一体どのような内容であったのか。

まず、指揮者は上にある通り、マルク・ミンコフスキ。この名前はそこそこのクラシック音楽ファンなら知っている名前であろう。フランスのルーヴル宮音楽隊という楽団を率いて、古楽器でバロックや古典派を録音している指揮者である。日本でもレコード・アカデミー賞 (私は正直、全然興味ないのであるが) を何度か受賞しているので、それなりの知名度であるはず。都響には去年の夏一度客演していて、オール・ビゼー・プログラムを指揮して大変素晴らしかった。今回が二度目の共演であるが、さて、曲目は一体何だろう。

 ルーセル : バレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」作品43 第1組曲・第2組曲
 ブルックナー : 交響曲第 0番ニ短調

なぬ?! 上述の通り、ミンコフスキは日本では古楽の演奏家として名を上げた人。それなのに今回は、フランス近代音楽とオーストリアの後期ロマン派の、しかもどちらも決して演奏頻度が高いとは言えない曲だ。いやいや、一緒に食べたら消化不良を起こすような組み合わせではないか (笑)。しかし。しかしである。マニアックとはいえ、これこそ聴くに値する素晴らしい演奏会だ。というのも、このような曲目では演奏の質が大きく問われるからだ。

アルベール・ルーセル (1869 - 1937) はフランス近代を代表する作曲家のひとりだが、知られている作品はそれほど多くない。以前このブログでも、ステファヌ・ドゥヌーヴ指揮 NHK 交響楽団が演奏した彼の 3番の交響曲を採り上げたが、多分それが彼の最も有名な曲。そして、それに次いで 2曲のバレエ曲、すなわち、この「バッカスとアリアーヌ」と「蜘蛛の饗宴」が比較的有名だ。しかし、前者は演奏される場合もほとんどが第 2組曲で、今回のように第 1組曲が演奏されるのは珍しい。この第 2組曲、フランス人指揮者ならほとんどがレパートリーに持っている曲で、代表はなんと言ってもシャルル・ミュンシュだが、ジャン・マルティノンとかジャン・フルネも得意としていたし、珍しいところでは、ベルギーの往年の巨匠、アンドレ・古い箪笥、いやクリュイタンスがこの曲の大詰めを鬼気迫る表情で指揮している映像もある。また、高齢のせいか最近活動を聴かなくなってしまったフランスの名指揮者、セルジュ・ボドが読売日本響を指揮した白熱の熱演では、隣に座っていた若い男性が反対隣の彼女に、「スゲー!! 人生変わった!!」と興奮して話しかけているのを目撃した。今思い立って、「日本の交響楽団 1927 - 1981」という演奏記録を引っ張り出して見てみると、記録にある 1927年以降で初めてこの曲が日本のオケによって演奏されたのは、1961年の日フィルで、指揮はなんとなんと、あの作曲家ブルーノ・マデルナだ・それに続き、同じ日フィルで翌年にはあの悪魔的巨匠、ミュンシュが演奏している。だがこの記録でも、第 1組曲の演奏記録は 1981年までは皆無である。

というわけで、今回のルーセルであるが、ミンコフスキは指揮台に登壇すると、振り返りざま、すぐに演奏を始めた。この人、気持ちを作ると非常にストレートに音楽にのめり込むタイプで、前回のビゼーもそのような名演であったが、今回の都響は、そのミンコフスキの厳しい要求に楽々応えて行く。実はこの曲、第 1組曲と第 2組曲を合わせてバレエ音楽の全曲なのであるが、とにかく最初から最後まで指揮者はせわしなく動き回らなければならない忙しい曲なのだ。この指揮者、このようなずんぐりむっくりな体型だが、その身体能力の高いこと。相変わらず芯のしっかりした都響の響きを縦横に捌いて、見事の一言。ここで彼は、古楽演奏にとどまらない、フランス指揮者としての出自を明らかにした。私がふるいつきたいくらい好きな終結部の盛り上がりも、まあ人生が変わるほどではなかったにせよ、実に颯爽と駆け抜けた。
e0345320_23481383.jpg
さて、後半のブルックナーである。この作曲家はもちろん数々の荘厳な大作交響曲で知られているが、番号つきの交響曲は、未完を含めて 9曲だ。ところが今回演奏されたのは、「0番」である。よくご存じない方は驚かれるであろう。だって普通、作品を作ったら 1番から始めますよね! (笑)。実はこの曲、順番としては第 1交響曲の後 (1869年) に作曲されたが、どうやら気に入らなかったようで、楽譜は (自筆譜表紙に「交響曲第 2番」と書いていたにもかかわらず) 完成後も放置され、その次に書かれた交響曲に 2番のナンバリングをしてしまった。ところが晩年になって作曲者はこの楽譜を引っ張り出して来て、手書きの「第 2番」を消して「無効」と書き換えた。そして、「0番 (ドイツ語で Nullte = ヌルテ) 」として生地リンツの博物館に寄贈したという。尚、ブルックナーには 1番より前にもう 1曲習作の交響曲があり、それは「00番」と呼ばれる。野球選手の背番号ではないが、覚えやすいとは言えますな。この0番、しかしながら、作曲者が破棄せずに博物館に楽譜を寄贈したということは、やはり愛着があったのではないか。それは聴いてみれば明らかだ。初期の作とはいえ、ブルックナー以外の何物でもない音楽だからだ。録音もそれなりに沢山あり、ブルックナーの権威朝比奈隆、日本で実演も披露したスクロヴァチェフスキや、その他メジャーな指揮者では、ショルティ、マゼール、インバル、シャイーらが録音している。

今回のミンコフスキの演奏は驚くべき水準であり、曲の再評価を促すようなものになった。ヴァイオリンを対抗配置 (向かって左に第 1ヴァイオリン、向かって右に第 2ヴァイオリン) にしていたのだが、この曲にはその配置が大きな効果を発揮した。冒頭すぐに旋律を弾くのは第 2ヴァイオリンだけ。それがとにかく、強くて艶のある、いい音だ。そしてそれを受けて第 1ヴァイオリンが演奏する際には、分奏、つまり半分ずつ違う音形を弾くのである。もちろんその第 1、第 2ヴァイオリンの間にヴィオラとチェロがいて、右奥にはコントラバスがいる。指揮者はその弦楽器群に対して大きく弧を描く身振りで、壮麗な音を弾き出していた。あたかも後年のブルックナーの交響曲で音の大伽藍が立ち現われる前、ロマネスクの聖堂というと語弊があるが、豪快というよりはきめ細かい、しかし絶妙のハーモニーを作り出す音の建造物という印象だ。以前、ハーディングの指揮するブルックナー 7番の感想で、その曲は弦楽器があたかも滔々と流れる川で、そこに管楽器が浮かぶようだと書いたが、この 0番は全く違う印象で、弦楽器同士は鋭い音形で絡み合い、木管が活躍しだすと弦が黙ってしまう箇所もある。でもそれが非常に新鮮に響き、ブルックナーの創作の原点を考えさせる結果となったのである。ミンコフスキは楽章の間でも指揮棒を構えたままで、曲の推進力を重視していた。全曲が終了したときに彼は譜面台からスコアを採り上げ、抱きしめながら、「これこれ」と指差した。「あまりなじみがなかったかもしれないけど、素晴らしい音楽でしょ!」という意味であったろう。そして指揮台から下りると、コンサートマスターの矢部達哉をハグして両頬にキスだ。それからカーテンコールの間、終始嬉しそうで、楽団員からの拍手を受けて再び指揮台に登ったときに出た聴衆からのブラヴォーの声に、自分の右耳を差して、次に右手親指をグッと突き出したのだ。「ブラヴォー、聞こえましたよ。アンタ、分かってるね!」という意味だと解釈した。そして、冒頭に記した通り、楽団員が引き上げても拍手は鳴りやまず、指揮者ひとりを再度ステージに呼び戻したのである。

そんなすごい演奏であったのだが、このミンコフスキ、誰かに似ていないか。そう、ほかでもないブルックナーだ。この肖像画は上の写真と角度が似ているので、分かりやすいだろう。古楽の専門家と思っていた指揮者は、実は現代のブルックナーであったのだ!!
e0345320_00192354.jpg
というわけで、今回も都響の演奏に圧倒されたわけだが、このオケは今年創立 50周年。ということは、私と同い年ではないか。近い将来、記事に書くことになる見込みがあるのだが、考えてみれば、私が初めて聴いた生のオーケストラは、実はこの都響であったのだ。今回の会場であるサントリーホールには、このような自立式ポスターが展示されていた。素晴らしい歴代の指揮者たち。存亡の危機を乗り越えて、今日の高度な演奏水準に辿り着いた道程を思うと、感慨しきりである。大野和士音楽監督のもと、さらなる飛躍を期待しております。東京の文化シーンを熱くするマニアックプログラム、大歓迎!!
e0345320_00263230.jpg

# by yokohama7474 | 2015-12-16 00:33 | 音楽 (Live) | Comments(0)

クリスティアン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル 2015年12月13日 愛知県芸術劇場コンサートホール

e0345320_23241738.jpg
もし、世界のピアニストの中で、誰をいちばん聴きたいかと訊かれたら、ポリーニにしようかどうしようかと考え、迷った末に多分この人を選ぶと思う。クリスティアン・ツィメルマン。1956年生まれのポーランド人。まさに現代最高のピアニストだ。1975年、弱冠 19歳でショパン・コンクールを制した若者は、その後 1980年代、カラヤンやバーンスタインという巨匠と次々と協演、レコーディングも盛んに行った。当時の彼の録音のジャケットはこんな感じだった。
e0345320_23284888.jpg
e0345320_23312255.jpg
まさに美男を絵に描いたような若いピアニストであったわけだが、少なくとも日本ではアイドル風に騒がれたという記憶がない。その当時から、内容で聴かせる芸術家であったというわけか。実演を初めて聴いたのは、小澤征爾指揮の新日本フィルが伴奏するブラームスの 2番の協奏曲であった。その後しばらく実演に接する機会がなかったが、10年以上前になるだろうか、スイス、ジュネーヴのヴィクトリア・ホール (あのスイス・ロマンド管弦楽団の本拠地である美しいホール) で彼のリサイタルを聴いて衝撃を受けた。ブラームスをメインにしたプログラムであったが、全く軽はずみなところのないピアノに、楽器自体の限界を超えて深いところから響き出す強い音楽を聴き取ることができ、心の底から感動したのだ。それ以来、私にとって現代最高のピアニストは彼になったのである。また録音では、ショパン没後 150年を記念して彼が自らポーランドのオケを振って演奏した 2曲のピアノ協奏曲が、後期ロマン派の作品かと思うくらい強烈な表現力に溢れた凄演であった。

そのツィメルマンも、既に60歳手前。上のポスターにあるよりも、実際には白髪が多くなっており、髪も髭も、すべて真っ白だ。激しく陶酔するのではなく、静かにピアノを弾いている姿を見ると、哲学者のようにも見える。信念をもって音楽の道を進む求道者であると言ってもよい。実は私は、先月倉敷を旅行した際、ツィメルマンの演奏会のポスターを見かけた。その時点で私の持っている彼のリサイタルのチケットは来年 1月10日の横浜公演のものだったから、2ヶ月も日本に滞在して演奏旅行をするのかと、大変驚いたものだ。今回名古屋で購入したツアーのプログラムを見ると、確かに最初は 11月19日の倉敷。それから来年 1月18日の武蔵野市での公演まで、2ヶ月の間に13公演が予定されており、名古屋はその真ん中あたり、6公演目だ。クリスマスと年末年始は公演は予定されていないが、それを割り引いても、一流音楽家のこのような長期に亘る日本ツアーは異例だ。プログラムに載っている文章には、「ツィメルマンが東京にも拠点を設けて、既にかれこれ十年」とある。これはどういうことなのだろうか。彼は、通常のピアニストと違い、ツアーでも自分のピアノを持ち歩く (あ、ヴァイオリンではあるまいし、持ち歩くとは正しい表現ではないですね 笑) と聞いたことがある。確か、911 テロ後に米国の通関で彼のピアノが危険物と誤解されて破壊されたことがあって、「文化を解さないこんな野蛮な国にはもう来ない」という発表をしたと記憶する。それ以来本当に米国で演奏していないのか否か分からないが、彼ならそうしているかもしれない。そうすると、東京に拠点を設けるとは、彼が許可したピアノが東京には保管されているという意味なのであろうか。ご存じの方、教えて下さい。

ともあれ、徹底したこだわりを感じさせるのは今回の日本ツアーの曲目だ。13公演すべて、メインはシューベルトの最後のピアノ・ソナタ、第21番変ロ長調 D.960 だ。前半には、今回の名古屋を含む 3回だけは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第 31番変イ長調作品110、ほかの 10回はすべてシューベルトで、7つの陽気な変奏曲と、ピアノ・ソナタ第 20番である。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタは全部で 32曲。長いもの短いもの、陽気なもの深刻なもの、抒情的なもの劇的なもの。様々であるが、最後の 3つのソナタ、作品番号でいえば 109、110、111は、まさに孤高という言葉がふさわしい、神秘的で深遠な内容を持つ。この 3曲のどれかひとつでも弾くには、相当な覚悟が必要であろう。かつて日本でもアルフレート・ブレンデルがこの 3曲を一晩で演奏したが、儀式的と言ってもよいような厳粛な演奏会になった。今回のツィメルマンは、ブレンデルのような透明感のあるタッチではなく、もっと太い音で、ドラマを内包しながら進んで行く。そうだ、私がジュネーヴで聴いたブラームスと同じような音だ。音の流れは途切れることなく、人々の心にそのまま迫ってくるようだ。やはり晩年のベートーヴェンの名曲、ミサ・ソレムニス (荘厳ミサ曲) に作曲者が書いたという、「心から出でて心に至らんことを」という言葉を思い出す。いささか月並みな表現とも思いがちだが、このような音楽を言葉で表現するとなると、ほかに手段がない。言葉の無力を思い知る。

そして、後半のシューベルトも、まさにこの世とあの世の境のような音楽で、相当な確信がないと演奏できないタイプの曲であろう。そもそもピアノ・ソナタで 50分を要するという規模に驚く。私が初めてこの曲を知ったのは、高校生の頃、ルドルフ・ゼルキンの録音だった。ゼルキンはタイプとしては上記のブレンデルと近い、澄んだ音で聴かせた人 (特に晩年は) であったが、第 1楽章で深く沈んで行くような音楽に空恐ろしいものを感じたのをよく覚えている。もしこの曲をご存じない方に説明するとすると、以下のような感じだろう。まず、あなたは広い野原で青空を仰いでいる。安らかな思いで平易なメロディが口を突いて出る。その平易さはラジオ体操のようだ。気持ちのよい体操の時間だ。深呼吸。とその時、遠くでゴロゴロと雷鳴が響く。あなたは不安を振り切ってラジオ体操を続けようとするが、段々に気持ちが高まり、天を仰ぐ。黒雲に心乱され、叫びたくなる。でも大丈夫、ラジオ体操の時間がまた戻ってくる。あなたはじっと自分の心の中を覗き、そこにあるものを認識する。・・・孤独である。
e0345320_00222905.jpg
e0345320_00212710.jpg
あ、ツィメルマンとは関係ないイメージショットに走ってしまいました。これは邪道です (笑)。ともあれ、ツィメルマンの演奏は、決して枯淡の境地というわけではない。ベートーヴェンの第 2楽章でも、シューベルトの第 3楽章でも、テンポはむしろ早めで、強い音が鳴っていた。また緩やかな箇所でも、凛とした表現力が常に存在しており、いたずらに感傷に流れることは皆無であった。これこそが彼の真骨頂だ。孤独に沈んで世をはかなむのではなく、声高に叫んで煽動するのでもない、信念のある芸術家の姿に、人は大いに勇気づけられるであろう。それこそがツィメルマンが若い頃から続けて来た音楽なのだと思う。

予想はしていたが、アンコールは演奏されず、開始から 1時間 30分でコンサートは終わった。でも、会場を後にする人たちは皆、ずっしりと重い感銘を胸に、帰路についたことであろう。人々の心にこのような感銘を与えられるピアニストが、そうそういるとは思えない。それゆえ、彼は現代最高のピアニストなのである。

# by yokohama7474 | 2015-12-14 00:36 | 音楽 (Live) | Comments(0)

名古屋 揚輝荘 / 覚王山 日泰寺

名古屋とその近辺には、近世から近代の文化遺産がいろいろある。もちろん、明治村のような大規模な場所もあり、犬山城のような国宝建造物も存在する。だが名古屋市内にも、見どころはあれこれあるのだ。この地区が、近世の三英傑を生み出したのみならず、近代における産業発展に寄与して来たことを実感する。今回はそのような場所のひとつをご紹介する。前から行きたかった、揚輝荘 (ようきそう) だ。名古屋市千種区にあり、駅で言うと、地下鉄東山線の覚王山駅が最寄りだ。名古屋以外の人には聞きなれない場所かもしれないが、誰もが知るデパート松坂屋の初代社長、伊藤 次郎左衛門 祐民 (いとう じろうざえもん すけたみ 1878 - 1940) が築いた別邸だ。
e0345320_20451345.jpg
伊藤次郎左衛門家とは、江戸時代から続く名古屋の商家で、祐民はその第 15代。尾張藩御用達の呉服屋であったが、先代 祐昌のときに銀行も開設。伊藤銀行はのちの東海銀行の前身のひとつであるという。祐民は 1909 (明治 42) 年に渋沢栄一を団長として行われた渡米実業団に、その伊藤銀行の取締役として参加。その際に米国で見たデパートに刺激を受け、翌 1910年に株式会社いとう呉服店を設立し、名古屋の栄地区に新たなデパートとして開店した。既にその 3年前、東京の上野に、いとう松坂屋を開店していたが、その店舗も 1916年に洋館として改装した。

この揚輝荘の造営は 1918 (大正 7) 年に開始。移築と新築、改築を続けるうちに皇族、華族、文化人などが頻繁にやってくるようになった。すべての完成を見た 1939 (昭和14) 年には、実に一万坪の敷地内に 30以上の建物が立ち並び、池泉回遊式庭園とともに威容を誇っていたということだ。今ではその 1/3 程度の規模の敷地であるが、よく復元・管理され、非常に興味深い場所になっている。今では北庭園と南庭園に分かれていて、北庭園は特別に申し込まない限り庭園内の散策のみ、南庭園は聴松閣という建物に入ることができる。その聴松閣、このような外見をしている。ハーフティンバーの山荘風外見をした迎賓館だ。
e0345320_21160001.jpg
e0345320_21162551.jpg
車寄せの前では、虎が伸びをしている。なんでも、中国南北朝時代、西暦 488年の銘があるとか。うーん、さすがに複製をおみやげとして中国から買ってきたということでしょうか。
e0345320_21174939.jpg
中に入ると随所に工夫が凝らされており、純日本風でもなければヨーロッパ風でもない、不思議な折衷感覚満載だ。内部は写真撮影 OK というのも嬉しい。最初の部屋に、往時の揚輝荘の広大な敷地のジオラマがある。定期的に係員の案内があって、その説明を聞きながら観覧すると大変に興味深い。
e0345320_21205190.jpg
1階の食堂は今は喫茶店となっているが、ノミの跡をあちこちに残した荒々しいながらも手の込んだ作り。作り付けの食器棚には「いとう」の文字が。
e0345320_21203641.jpg
面白いのは暖炉で、いろいろな古い瓦をはめ込んである。左側には京都の東寺、右側には、こちらは既になくなってしまった西寺の瓦があるほか、唐招提寺や興福寺や善光寺の瓦。飛鳥時代の瓦。また一際大きい瓦には、豊臣の桐の紋が。伏見城か聚楽第の瓦か???
e0345320_21312909.jpg
2階に上がる。豪華な装飾はないものの、細かい細工があちこちに見られる。書斎や応接室はシンプルながらモダンなデザイン。中国風装飾の部屋もある。
e0345320_21322921.jpg
e0345320_21332211.jpg
e0345320_21334221.jpg
e0345320_21340361.jpg
さて、面白いのは地下 1階だ。ここは完全にインド風の作りになっているのだ。この揚輝閣は各国からの留学生を受け入れていたらしく、インド人留学生が壁画を描いた。まあ、日本のアジャンターとまでは言いませんが、大変にエキゾチックですな。
e0345320_21364642.jpg
e0345320_21383734.jpg
なんでも祐民自身、1934年にインド・東南アジアを旅行していて、地下をインド風に設計したのは彼の指示によるものらしい。小さいながら舞台もあり、この場所は今でも講演会等に使われているようだ。また、カンボジアのアンコールワット風の装飾もある。狭い地下空間だけに、ちょっと日常と違う感覚に襲われる。
e0345320_21390445.jpg
e0345320_21391847.jpg
さてこの聴松閣の中には、祐民の実業活動についての資料があれこれ展示されているのが、それを見ている間、私の中に何やらもぞもぞ動く記憶がある。さて、一体なんだろう。「いとう呉服店」・・・。松坂屋の前身・・・。聞いたことがある。そして私の目に飛び込んできたのがこの写真だ。
e0345320_21453545.jpg
あっ、東京フィルではないか‼ このオケが数年前に創立 100年を迎えたとき、実は日本最古のオケであることを知った(N 響ではないのだ)。尾高忠明の指揮でシェーンベルクの「グレの歌」を 100年記念で演奏しようとしたところ、震災で延期になったのだから、2011年のことだ。ということは、この東フィルの前身、いとう呉服店少年音楽隊の結成は 1911年か。上の写真は、東フィルの演奏会のプログラムで見たことがある。大オーケストラのルーツが呉服屋の少年音楽隊とは、なんとも面白いではないか。そして私の脳の中のモヤモヤも、これで解消だ。

さて、揚輝荘を出て、マンションの横を通り、北庭園へ。その脇に、何やら苔むした大きな石が。半分埋もれているが、おおこれは、松坂屋のロゴではないか。昔は庭園のどこかに置かれていたものであろうか。
e0345320_21515579.jpg
さて、これが北庭園の入り口。「揚輝荘」の名前の入った空色のヴェストを着ている方々は、この文化遺産を管理する財団の人たちだろう。皆さん大変親切で、私が解説本 (1,300円) を買おうとすると、「えっ、いいんですか?」と訊かれてしまった。「あ、いや、自宅でもっとゆっくり勉強したいので」と、なぜかこちらがしどろもどろになってしまった (笑)。
e0345320_21541091.jpg
この庭園は非常にきれいで、維持管理も本当に大変だと思う。無料で散策できるのだが、入るだけでお金を取ってはいかがでしょうか。その価値はあると思う。
e0345320_21575899.jpg
この北庭園の中心的な建物は、伴華楼 (ばんがろう) だ。もちろんバンガローのもじりを建物名にしている。鈴木 禎次 (すずき ていじ 1870 - 1941) の設計になるもの。この建築家の名前は聞いたことがある。夏目漱石の義理の弟で、名古屋地区では鶴舞公園の噴水や、豊田喜一郎邸などを設計した人だ。
e0345320_22513624.jpg
この建物の中には事前申し込みなしには入れないが、覗いてみると、伊藤祐民の胸像などがある。
e0345320_22524332.jpg
庭園はさほど広くないが、いろいろな建造物がある。豊彦稲荷は、松坂屋本店にある稲荷と同様、もともと京都の仙洞御所にあった稲荷社を勧請したもの。
e0345320_22552879.jpg
池に浮かぶこの屋根つきの橋は白雲橋。修学院離宮の千歳橋を模したものという。
e0345320_22581084.jpg
この橋は通行止めになっているが、入口すぐの天井に墨で龍の絵が描いてあるのが見える。これは伊藤祐民自身の作と言われているが、前回の辰年、ということは 2012年のカレンダー用に撮影した人が、龍の顔を逆さまにすると王冠をかぶった女性の顔に見えることを発見。ユーモアのセンスがあったという祐民ならありうると地元中日新聞で報道されたらしい。うーん、どうでしょうか。私にはただの偶然に見えます (笑)。
e0345320_23012053.jpg
e0345320_23013370.jpg
それから、池のある場所からは、隣接する日泰寺の五重塔が、ちょうど橋のたもとに映って見える。曇っていて見えにくいが、天気のよい日はさぞやと思われる。
e0345320_23041797.jpg
このように見どころ満載の揚輝荘であるが、昔の実業家のスケールに改めて感じ入る。保存は大変だと思うが、財団の方々、陰ながら応援しております。1,300円で買ってきた解説本も読みますよ!!

さて、上述の通り、この揚輝荘のすぐ隣には、ユニークな寺がある。その名も、覚王山 日泰寺。1900年に当時のシャム国から日本に贈られた仏舎利 (釈迦の骨) を安置するため、1904年に創建された (その時の名前は日暹寺。にっせんじと読み、暹はシャムのこと)。1949年、シャムのタイへの改名に伴い、寺名を日泰寺と改めた。この仏舎利というのは、もともと仏教の塔というものはそれを安置する目的の建造物を起源とするので、大体が水晶だったりするのだが、なんでもこの仏舎利は 1898年に北インド、ピルラーワーで英国人ウィリアム・ペッペが発掘したもの。骨壺に刻まれた古代文字の解読で、本当の釈迦の骨と判明したとか。へぇー、その経緯など詳しく書いた本などあれば読んでみたい。ともあれこの日泰寺、そのような経緯による近代の創建なので、日本で唯一、宗派のない寺なのだとか。山門は改修中だが、平成 9年に建てられたという五重塔もすっきりと美しい。
e0345320_23154078.jpg
e0345320_23170660.jpg
そしてご本尊も、仏舎利と同時にタイから贈られた古い仏像である。近年になって、タイ語で釈迦牟尼仏と書いた額が奉納された。大きな本堂には荘厳な雰囲気が漂う。尚、本尊の左右には高山辰夫の壁画が飾られている。
e0345320_23195307.jpg
様々ある名古屋の顔、なんとも興味深いではないですか。

# by yokohama7474 | 2015-12-13 23:21 | 美術・旅行 | Comments(0)