サントリー芸術財団 サマーフェスティバル B・A・ツィンマーマン : ある若き詩人のためのレクイエム 大野 和士指揮 東京都交響楽団 2015年 8月23日 サントリーホール

この日、渋谷で女性率 98% の演劇を見たあとサントリーホールに向かい、実にハードな現代音楽に接することとなった人間は、果たして何名いたことだろうか (絶対 1名だと思う 笑)。
e0345320_00032345.jpg
前日のハインツ・ホリガーの作品に続く、サントリー芸術財団のサマーフェスティバルの演奏会、大野 和士指揮の東京都交響楽団が日本初演したのは、ドイツの作曲家ベロント・アロイス・ツィンマーマン (1918 - 1970) の、「ある若き詩人のためのレクイエム」だ。B・A・ツィンマーマンと言えば、代表作 "Soldaten" (「兵士たち」) が有名 (???) だが、その作品が若杉 弘によって日本初演された 2008年には私は海外駐在中で、見ることが叶わなかった。この作曲家の作品を生で聴く機会は日本では非常に限られるため、今回の演奏は大変に楽しみであった。音楽評論家 長木 誠司の企画で、「拓かれた声 - 禁じられた 声 ケルン 1968 - 1969」と題されている。
e0345320_00044556.jpg
さて、この大野 和士は、今や世界を股に活躍を続ける指揮者で、私も、東京のみならずニューヨークで、ロンドンで、ブリュッセルで、またリヨンで、追っかけのようにして様々な演奏会やオペラを聴いてきた。一言で表現するならば、日本の指揮者の中で、最も知性と冒険心に富んだ人であり、この種の音楽を彼が指揮するとなると、いかに亀梨芝居のあとと言っても、何はさておき馳せ参じなければならない。しかも、現在絶好調の東京都交響楽団の音楽監督に今年就任したばかりだ。おっと客席には、前日の主役、オーボエ奏者のハインツ・ホリガーもいるではないか。亀梨芝居に負けじと、このコンサートもほぼ満席だ (いや、せってない、せってない)。

B・A・ツィマーマンが 50そこそこで自殺してしまった作曲家であるということは知っており、これまで、録音ではその陰鬱な作品のいくつかを聴いたことがあるので、この作品も聴く前から予想していたが、いやはや普通の作品ではない。現在手に入る数少ないこの曲の CD である、ベルンハルト・コンタルスキー指揮のオランダシンフォニアの録音を事前に入手、数回聴いてみたのであるが、やはりこれ、普通の曲ではない。
e0345320_00135787.jpg
前半はほとんどテープ音楽で、なにやら演説 (明らかにヒトラーのものを含む) や朗読が続き、遠くで「トリスタンとイゾルデ」の愛の死が流れるかと思うと、ジャズバンドがズンドコ生演奏し、第 9が一瞬顔を出したかと思うと、突然ビートルズの「ヘイ、ジュード」が鳴り響く。うむ、これは予習をしようとしまいと関係ないな (笑)、と思って当日は開き直って会場に向かったのだが、いや実に大変な演奏会であった。

演奏者のプレトークというものは、時々、実際の開演時間前にステージで行われることはあるが、今回は、演奏会の一部として、開演後に長木と大野の対談が行われ、その後休憩を挟んでこの曲の演奏という構成であった。さすがにこの 2人の会話は質の高いもので、この曲の概要を誰にでも分かるように説明してくれたのであるが、大野によると、「この曲は 1時間くらいなんですけど、オーケストラが本格的に入るのは最後の 20分だけで、僕はそれまでの 40分、進行役なんですよ」とのこと (実際には、これはまたなんとも大変な進行役だ)。また今回は、非常に意義ある試みとして、曲に登場する様々な言葉 (多国語に亘る上、同時並行で進み、実際に聞き取られることは想定されていない) を日本語字幕として、ステージ正面の巨大なスクリーンに投影したのだ。長木は冗談めかして、「中には、読めるもんなら読んでみろという字幕もありまして」と言っていたが、まさにその通り。言葉の迷宮と言ってもよい。それぞれの意味を考える必要はなく、音響として「体感」するしかない。もともとスピーカーを 8台使用する想定らしいが、この日はそれ以上の数が使われていた。

そもそも、ステージ内外に配置された演奏者を見てびっくりだ。オーケストラにはヴァイオリンとヴィオラがない。ピアノは、正面の 2台にジャズバンドのものを加えて、合計 3台がステージに乗っている (それでいて、それぞれの出番は非常に少ないのだ!!)。マンドリンもある。それから、オルガンも一部に参加する。また合唱団は、ホール正面 (P ブロック)、2階客席入り口側の最も手前 (C ブロック後列)、ステージ左右の席 (RB 及び LB ブロック) という 4ヶ所、要するに十字架型に配置されていて、それぞれに副指揮者がつく。テープに加えてこれだけの音響要素が揃うと、なんとも形容できない濃密な時間、ノスタルジーもあるが、また同時に目くるめくような、あるいは痛いような生々しい感覚が、そこに渦を巻いて発生するのだ。これは本当に、「体験する」音楽であって、「聴く音楽」ではない。CD で聴いても全く意味がない。一種のシアターピースと言ってもよいだろう。作曲者はこの曲を 1969年に書きあげ、翌年自殺した。つまり、このレクイエムは、作曲者自身のレクイエムになったわけだ。その意味を考えるとなんとも重い気分に沈んでしまうのだが、実際に音が鳴っているときには、圧倒される瞬間もあったものの、ミサに参加しているような敬虔な瞬間も存在した。凄まじい表現力を秘めた恐ろしい曲だ。
e0345320_00530024.jpg
そのような曲なので、演奏について云々するのは難しいが、大野はこの壮大な作品を、いつもにも増して強い集中力で率いて、実に素晴らしかった。新国立劇場合唱団も、実に豊かな表現力を聴かせた。この作品の実演には、今後もそうおいそれとは接することがあるとは思えない。いや、かなりの確率で、今回が生涯唯一の経験と言ってもよいだろう。そう思うと、この会場に集まった人々の間には、忘れられない絆ができたとも言えるわけである。ちょっと見にくいかもしれないが、プログラムに掲載されている、過去のこの曲の演奏一覧は以下の通り。あの鬼才指揮者、ミヒャエル・ギーレンが初演者で、彼はその後も各地で繰り返しこの曲を取り上げている。歴史上、今回が 38回目の演奏であるが、欧州以外で取り上げられたのは、ニューヨークのカーネギーホールで 1回あるだけで、アジアではもちろん東京が初めてだ。やはりここでも繰り返そう。恐るべし、東京。
e0345320_00463691.jpg
ふと想像してみた。この演奏会の前に行った芝居の脚本家、寺山 修司がこの曲を聴いたらどう思っただろう。好奇心が強かった彼は、きっとこの作品を気に入ったに違いない。寺山の芝居は 1963年の作。この曲は 1969年の作。全く異なる場所で活躍した 2人の芸術家の、ともに 1960年代 (世界に不安が満ちていた時代だ) の作品に連続して触れたことで、私の中に奇妙な化学反応が起こったのかもしれない。私の残りの生涯の中で、その化学反応がどのように影響して来るか、自分でも楽しみだ。寺山の有名な短歌を引いてみよう。

 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

この曲の朗読に出てきてもおかしくない歌ではないか。

# by yokohama7474 | 2015-08-25 00:51 | 音楽 (Live) | Comments(0)

音楽劇「靑い種子は太陽のなかにある」 (脚本 : 寺山 修司 / 演出 : 蜷川 幸雄) 2015年 8月23日 オーチャードホール

e0345320_23263262.jpg
この作品は、劇作家、詩人であった寺山 修司の没後 30年を経過した 2013年に見つかった未刊行の戯曲 (1963年作) を、蜷川 幸雄が採り上げたものである。上のチラシの写真にあるように、寺山も蜷川も 1935年生まれで、今年生誕 80年を迎える。それにしても、蜷川は有名な演出家だし、寺山の人気は一部で根強いものの、あの 2,000人規模の大ホール、オーチャードホールで、実に 21日間で 24回の上演をするだと? そりゃムチャよ。きっと劇場カラガラよ。と思って会場のトイレに行くと、ほら言わんこっちゃない。1階の何十人も使える広い男性トイレが、ほぼ私の貸切だ。何十回もこのホールに来ているが、こんなことは初めてだ。まあ、ゆったりした気分で用を足せるのは何よりだが、あーあ、こんな集客でどうする!! ・・・と心配する私はなんと愚か者か。この芝居の主役は、今を時めくジャニーズの亀梨 和也なのだ。
e0345320_23361912.jpg
いや私も、まさかこのブログで、亀梨のアップを使おうとは夢にも思っていなかったが (笑)、このブログを愛読頂いている方で、彼を絶対知らないだろうという人も何人かいることから、決意した次第。まあともかくこの芝居は、何の誇張もなく、98%は女性客だ。先のハインツ・ホリガーの演奏会を老若男女と表現したが、この芝居は、老若女だ。凄まじい女性集客力 (かく言う私自身、家人へのサービスでこの観劇に至ったという要素がないわけではない)。ただ。ただである。寺山 修司のアングラ性について、この観客たちは理解しているのか。見てみてびっくり、卒倒するようなことにはならないか。開演前、ソワソワしていたり、ニコニコしていたり、または「なんだか緊張するわぁ」と、あまり根拠がない緊張感 (心配せずとも、亀梨君は君のところには来ないって!!) を口にしていたり、いやそれぞれの女性客の期待感の膨れ上がり方たるや、尋常ではないのだ。特に、1階の最前列に陣取った女性たちは、もうすぐ達成される亀梨との至近距離での邂逅に有頂天で、もはや究極の勝ち組、人生の頂点の風情。並み居る後列の人たちを、憐みと優越感の混じった視線で振り返っていた (やや誇張)。

私にとって寺山も蜷川も、若干微妙なところのある存在だ。寺山の映画は、封切で見た「さらば箱舟」以外にも、代表作である「書を捨てよ街へ出よう」や「田園に死す」も名画座で見たし、彼の前衛映画 (「トマトケチャップ皇帝」とか「一寸法師を記述する試み」とか) は、全作品の市販ビデオを、未だに大切に持っている。また、句集、詩集を含めた著作も何冊か読んでいるし、青森に旅行したときには、当然、寺山修司記念館に足を運んだ。従って、彼の創作活動についてのイメージは明確に持っているのだが、ではそれを好きかと問われると、若干言葉に窮してしまう。グロテスクさや土俗性が、時に本能的な反感を起こすこともある。また、寒い東北の地で母の愛を求める少年像という、ある種の閉塞感に、うんざりすることもあるのである。また、どこかの誰かに、「寺山修司好きですか? えー、私も大好きなんですよー」と明るく話しかける気にならない、そういうタイプの芸術家だと思う。でもまぁ、やっぱり心のどこかに響くものがあるのは事実。
e0345320_00164070.jpg
さて一方の蜷川だが、それほど多くの作品を見たことがあるわけではないし、ほとんどがシェイクスピア劇だが、正直、あまりいい出会いをしていない。最悪だったのはオペラの演出で、小澤征爾の指揮するワーグナーの「さまよえるオランダ人」の演出がひどくて、目の前がクラクラしたのだった (あれ以来オペラは手掛けていないのではなかろうか)。さて、今回、寺山の戯曲という異色作品の演出を、いかに捌くのだろう。

ストーリーは以下の通り。スラム街にマンションができることとなり、その建築現場で朝鮮人の人夫が墜落死してしまうのだが、その死体がマンションのコンクリートに埋められ、事故は隠蔽されてしまう。それを目撃した若い男、賢治は、人夫の埋められた場所の壁にチョークで太陽を描き、コンクリートから死体を取り出そうと周りの人々に訴えても取り合ってもらえず、恋人の弓子 (高畑 充希) との仲もギクシャクする。最後はスラムの人たちの気持ちを動かすことができるが、死体の掘り出しには至らず、弓子が不慮の死を遂げてしまう。スラム街でのマンション建設を政治の道具にする代議士や、日々の生活に退屈する肉感的なその娘などが少し絡んでくるものの、非常に簡単なストーリーだ。おっと忘れていたが、音楽劇の体裁を取っており、今回はなんと松任谷 正隆が全編に曲を書いていて、ジンタ調でがなりたてられるスラム街の人たちの歌から、賢治のもどかしい思いを表すドラマ性のある歌、恋人たちの抒情的なメロディまで、なかなかそつなくこなしていたと思う。

さて、この芝居をどのように受け止めるべきか。私に分からないのは、1963年の寺山の真意がいずこにあったかということだ。もちろん、権威に対する反抗心はあったであろうし、社会の底辺の人たちへの共感もあったに違いない。でも、だからと言って、人知れず葬られた人夫の弔いを本気でしようとする若者、そんな素朴すぎるテーマを描いたのだろうか。少し思い込みかもしれないが、例えば、賢治だけが目撃したその墜落事故も、その人夫の存在自体も、賢治の幻想であったという解釈は成り立たないものだろうか。「靑い種子は太陽のなかにある」というタイトルは、寺山らしい非常に詩的な雰囲気があって、それは何も、正義を貫けとか、勇気をもって巨悪に立ち向かえという社会的なメッセージではなく、人間の生の哀しみを抒情的に描いているだけではないか。なので、私にとっては、そこに人夫の死体が埋められているか否かは重要ではなく、それを巡って賢治の思いが駆け巡っていることこそが重要なのだと思う。その観点から見ると、賢治役の亀梨の演技は、少し単純すぎたように思う。また、これはやむないのかもしれないが、明らかに舞台の発声が充分にできておらず、大声がただの大きな声で、少し枯れかけていた。それに引き替え、弓子役の高畑は、もともと舞台出身とのことらしく、明朗で舞台らしい発声であった。

この作品、封印されてしまった理由は不明だが、寺山自身は、大きな劇場でプロの役者が演じることすらも、あまり想定していなかったのではないだろうか。彼本来の土俗性があまり発揮されていない点、必ずしも「隠れた名作」とまでは言えないであろう。まあそう考えると、普段寺山のことなど全く知らない観客層に、新しい世界への入り口を示すという意味で、このような芝居の意義もあるのかもしれない。あ、すみません、亀梨ファンの方、どうぞお許しを!!


# by yokohama7474 | 2015-08-24 00:38 | 演劇 | Comments(0)

サントリー芸術財団 サマーフェスティバル テーマ作曲家「ハインツ・ホリガー」室内楽 2015年 8月22日 サントリーホール ブルーローズ

世界で最も有名なオーボエ奏者、いや、人類の歴史上最も有名なオーボエ奏者は、誰だろう。もちろん、ハインツ・ホリガーだ。誇張ではない。空前絶後のオーボエ奏者である。
e0345320_00022040.jpg
若い頃の録音のジャケット写真も載せておこう。
e0345320_00531993.jpg
1939年スイス生まれの彼は、今年 76歳。しかしながら、その衰えを知らぬ活動は驚異的だ。夏の恒例のサントリー芸術財団の現代音楽フェスティバルでテーマ作曲家に選ばれたのも、むしろ遅すぎるかもしれない。ホリガーをご存じない方は、いや、オーボエ奏者としてご存じの方も、彼が多くの作品を生み出している作曲家でもあるということを、悪いことは言わない、この瞬間に認識すべきだ。私はかつて、FM で膨大な現代音楽をエアチェックしたが、その中で、ホリガーの作品に相当数接したものだ。その作風は、まあ簡単な言葉を使うと、前衛音楽。決してなじみやすい、思わず口ずさんでしまうような曲ではない。今回のフェスティバルでは、この室内楽の演奏会と、作曲者自身が東京交響楽団を指揮してのオーケストラ演奏会が開かれ、後者では委嘱作世界初演も行われる。

まあそれにしても、もともとマイナーなクラシック音楽の中でも、さらにマイナーな現代音楽のコンサートのはずなのに、大盛況だ。15時20分開場、16時開演なのに、15時10分には、開場を待つ長蛇の列が。
e0345320_00195450.jpg
しかも、聴衆は、私のようなむさいオッサンばかりかと思いきや、老若男女入り乱れ、まさに大盛況。東京恐るべし。作曲家の一柳 慧や、評論家の舩木 篤也の姿も見えた。

作曲家としてのホリガーは、ハンガリー人 (バルトークの弟子) であるシャーンドル・ヴェレーシュと、あの大御所ピエール・ブーレーズに作曲を師事している。そのルーツを本人は大変大事にしていることを、今回は知ることができた。オーボエは古い楽器なので、バロック音楽にはあれこれレパートリーがある。だが、協奏曲はどうか。モーツァルト 。リヒャルト・シュトラウス。・・・一般に知られているのはそれだけだ。そうなると、自然、新しいレパートリーが必要になる。ホリガーがずっと作曲を続けてきたのには、こういう必然性もあるのではないか。

曲目は以下の通り。演奏者は、ホリガー自身のオーボエに加え、ピアノの野平 一郎 (私、大ファンです)、ヴィオラのジュヌヴィエーヴ・シュトロッセ、クァルテット・エクセルシオなど。

ヴェレシュ : ソナチネ ~ オーボエ、クラリネット、ファゴットのための
ホリガー : クインテット ~ ピアノと 4つの管楽器のための
     トリオ ~ オーボエ (イングリッシュホルン)、ヴィオラ、ハープのための
     トレーマ ~ ヴィオラ独奏のための
     インクレシャントム ~ ソプラノと弦楽四重奏のためのルイーザ・ファモスの詩 (日本初演)

今回聴いて思ったことには、ホリガーの作品の成功は、やはり、不世出のオーボエ奏者である彼が自分で演奏することに大いに依拠しているということだ。つまり、どこの誰とも分からない作曲家が同じものを作曲しても、ここまで聴衆にアピールしないであろう。オーボエは、もともと歌う楽器だ。よって、ホリガーの奏するオーボエは、どんな雑な音にまみれた騒がしい状況にあっても、また、それ自体が汚い音を立てているときですら、常に一本の歌になっている。今回の演奏では、前半 3曲に彼自身のオーボエが入り、後半 2曲には入らない予定であったが、来日するはずのソプラノ歌手が来日しなかったので、最後の「インクレシャントム」は、ソプラノパートをホリガーがオーボエで演奏し、また、一部は詩の朗読をした。怪我の功名、なんともお得な演奏会であった (笑)。結果的に唯一、ホリガーのオーボエのない曲目となった、ヴィオラ独奏のための「トレーマ」は、朗々と歌うところは一切なく、終始音がせわしなく動き回っている曲であったが、そのことによって、歌の不在が強く認識され、聴衆はどこかで幻のオーボエの音を希求する、そんな曲ではなかったか。無機的なような音のつながりから、ほの差す日差しのような旋律を感じた。大変印象的であったのは、最後の「インクレシャントム」の後に、ホリガーによる詩の朗読があったことだ。この曲の詩は、スイスの女流詩人、ルイーザ・ファモスの詩によっているが、その詩が書かれているのは、スイスの地方でしか使用されていない、ロマンシュ語なのだ。ホリガーは聴衆の拍手を遮って、英語で、「こんな奇妙な言葉はおなじみがないでしょうから、ちょっと読んでみましょう」と告げ、6つの詩を読んだのだ。内容は非常に内省的かつ、スイスの澄んだ空気を思わせるようなもので、手元の歌詞を見ながら、ホリガーの読む、ドイツ語のようでもありフランス語のようでもありイタリア語のようでもある不思議な言語の響きを味わった。

終演後に、今回のホリガー特集を企画した、日本を代表する作曲家である細川 俊夫が、ホリガー本人とのトークを行った。ホリガーはドイツ語で話したが、話し出すと止まらないタイプで、要点を簡潔にというわけにはいかない。サラリーマンには不向きだ (笑)。いわゆる「絶対音楽」という言葉には否定的であること。ホリガーの知る限り最もひどいドイツ語で、作曲者自身のみが感情移入できる台本を書いたワーグナーの音楽は、感情過多であり、ナチズムに利用されたという苦々しい思い。戦後、ダルムシュタットを中心とする現代音楽の潮流では、その感情過多の否定から始まったこと。今回のフェスティバルで演奏されるベロント・アロイス・ツィンマーマンとシュトックハウゼンについて。特に前者の素晴らしい才能について。この日の曲目の 1曲目、「クィンテット」についての細かい説明。来週初演される新作が、自作の俳句に基づくものであること。そのもととなった日本体験は、武満 徹に多くを負っており、この作品も武満に捧げること。大変興味深い話を聞くことができたが、同時通訳の女性が、ホリガーの長い話を丹念にメモして、丁寧に訳していたのが素晴らしかった。

というわけで、かなり上機嫌のホリガーと握手する細川。いやはや、東京おそるべし。サントリー財団にはこれからも末永く、この意義深い催しを続けて頂きたい。
e0345320_00500935.jpg

# by yokohama7474 | 2015-08-23 00:53 | 音楽 (Live) | Comments(0)

進撃の巨人 (樋口 真嗣監督)

e0345320_23004454.jpg
もう 4 - 5年前になるだろうか。本屋に平積みになっていたマンガ「進撃の巨人」を見て、面白そうだなぁと思ったのは。その後人気があるのは知っていたが、何せ私は、他人のペースに合わせるのが大嫌い。未だ連載中のマンガの続きを、今か今かと待ちわびるのが嫌で (同様の理由で、テレビの連続ドラマも見ない)、あえてこれまでこのマンガの 1ページすら、開いたことがない。マンガは面白そうだが、デッサンがちょっと未熟な気がしたのも、敬遠したひとつの理由だった。そんなところに、実写で映画化とは、嬉しい知らせだった。

まあ何が面白いって、人間を食糧にする巨人の描写が、なんとも言えず人間の恐怖心を煽る。
e0345320_23071098.jpg
この実写での巨人は、これまたなんともいい味出している。この巨人の実際の映像は、予告編でもほとんど使っていなかったし、ネットで画像検索しても、あまり出てこない。ただ、テレビで車の宣伝に使われていて、なんとも強烈なインパクトだった。映画のプログラムに載っている写真を掲載しよう。いやー、演じている役者の方々、本当にご苦労様です。メッチャ気持ち悪かったですよ (笑)。
e0345320_23155285.jpg
原作者の諫山 創は、1986年生まれというから、まだ 20代だ。なんでも、引きこもりの 19歳だったときに「人食い巨人もの」というジャンルのイメージを描いていたものが、少年マガジンで賞を取ったこの作品に結実したという。原作の展開はいざ知らず、この映画では非常に単純にストーリーが進んで行く。100年以上前に現れた巨人に人類は次々と喰われ、今では 3重の壁に閉ざされた世界に住んでいる。しかし、ある日人間の筋肉の標本のような超巨人に壁を破られ、そこから上の写真のような異様な風体の巨人たちが続々入ってきて、人類を危機に陥れるというもの。

昨今の邦画の予告編など見ていると、核関連施設が危機を迎えるといった設定や、なにがしかの軍隊調の映画によく行き当たるが、正直言って、核の恐怖を世界でいちばん知るはずの日本人が、そんな映画でハラハラドキドキというのは、なんとも説得力がない。それに引き替え、この架空の世界のリアリティはどうだ。人間が本能的に抱く恐怖がここにはある。立ち向かって行くには大変勇気がいる。その思いを観客に抱かせるだけで、この映画の狙いの半分は満たされているのではないだろうか。

人物の描き方は大変あっさりとしている。主人公 (らしい) エレンが、恐怖に怯えて恋人を失うところから、段々に成長して行く過程が描かれて行く (2作目はさらにそうなるのだろう) が、それ以外の人間像はさほど丁寧に描かれない。その点が不満と言えば不満と言えようか。それから、役者も、残念ながら全体的に低調に思われる。巨人退治の達人たるシキシマ役の長谷川 博己は、うーん、ちょっと大人の味が不足。口先先行のジャンを演じる三浦 貴大は、演技過剰。研究者のハンジを演じる石原 さとみは、甲高い声を挙げてがんばっているものの、ミスキャストのそしりは免れまい。そんな中、颯爽としたヒロイン、ミカサを演じた水原 希子は、なかなかの表現力だ。CM であれこれ見かけるモデルさんと思っていたが、何か天性のものがあるように思う。なんでも、父はアメリカ人、母は韓国人で、テキサス州ダラスの生まれとのこと。この面構え、なかなか純粋日本人の女優で見かけることは少ないと思うが、いかがなものであろうか。
e0345320_23372468.jpg
本作のロケは、あの長崎県の軍艦島で行われたらしい。かつて廃墟マニアのメッカと言われた軍艦島も、今や世界遺産。なんともびっくりである。「007 スカイフォール」でもロケ地になっており、まあその荒廃したイメージは、ほかにない雰囲気満点だ。ただ、崩れ行く廃墟であるからこそ人の興味を惹いた場所であるわけで、世界遺産に認定されてしまった今、「保護」する必要が生じてしまった。廃墟をどうやって保護するか。これは難しい問題である。
e0345320_23451057.jpg
この映画、2作目が 9月19日に公開されるとのことで、本作はまず前半ということだが、さてどこまで楽しませてもらえるだろうか。マンガ自体が未だ連載中ということだから、ともあれ途中での区切りというストーリーになるのだろうか。それとも、マンガを離れて全然違うストーリーが展開するのだろうか。マンガの連載にハラハラドキドキしていない私としては、冷静な気分で次を待つことができるのである。ひとつ面白いのは、本作の中で、「巨人には性器がないので生殖方法も不明」とされているが、赤ん坊の巨人も登場することから、なんらかの生殖方法があることは確かなのだ。そのあたりの解明も、次回楽しみにしていますよ。


# by yokohama7474 | 2015-08-22 23:52 | 映画 | Comments(0)

チャップリンからの贈りもの (グザヴィエ・ボーヴォワ監督 / 英題 : The Price of Fame)

e0345320_23494913.jpg
夏休み映画があれこれ封切されていて、とにかくキャッチアップだ!! と言いながら、ターミネーターでも進撃の巨人でもミッション・インポシブルでもジュラシック・ワールドなく、こんなマイナーな映画を見てしまうのが、私のひねくれた性格をよく表している (笑)。確かに、この前に見たアベンジャーズが CG テンコ盛りであったのに対し、ここでは一切そういう要素がなく、まあなんとも古風な映画ではある。でも、視覚に激しい刺激を受けるだけでなく、時々こういう手作りの映画を見たくなるものだ。

私がいつもタイトル欄に、邦題と併せて原題 (英語の映画以外は分かる限り英題。ちなみに本作はフランス映画で、原題はフランス語) を掲載しているのは、邦題の持つニュアンスが原題と異なることがかなり多いという問題意識による。この映画もそうだ。「チャップリンからの贈りもの」・・・うーん、違うと思うなぁ。ここでの主人公たちは、別にチャップリンに対する憧れで犯罪を犯すわけではなく、現実との対峙の中で、自らの決断で行動を起こすのだ。そこに多々人間的な要素があるからと言って、また、映画の結末で病院の治療費が賄われたからといって、何も主人公たちが「贈りもの」を望んでいるわけではない。とはいえ、英題の "Price of Fame" を、「名声の代償」とか「有名であることの価値」とか訳しても仕方ないからなぁ・・・(笑)。やはり日本語ではなかなか難しいものだ。

さて、この映画、1978年にスイスで実際に起こったチャップリンの棺の盗難事件を扱っている。当時私は小学生か中学生だったが、この騒ぎはよく覚えている。亡くなったのが確かクリスマスで、その数か月後に墓場から棺が掘り起こされて何者かが持ち去ったという事件であった。その当時、事件の解決や犯人像について報道があった記憶はないが、「有名人は死んでも大変だなぁ」と思ったことは、はっきりと覚えている。つまり、英題の Price of Fame とは、当時の人々が実際にこの事件に対して抱いた感情を言い当てた言葉なのである。実際の事件の犯人は、ポーランド人とブルガリア人であったが、この映画では、ベルギー人とアルジェリア人に設定を変えてある。東欧の 2人より、白人と有色人種の方が、コントラストもあり、欧州における移民の貧困という問題をより明確に描くことができるという意図であろうか。

この主人公たちは、貧困に耐えかねて、チャップリンの遺体の「誘拐」を行い、身代金を稼ごうとするというストーリーだが、その決意の悲愴さに比較して、主人公たちの行動の描き方には悲愴さはあまりなく、常にどこか人間的なゆるさがあって、観客の微笑を誘う。描かれている現実は実際には悲愴さはあるのだが、映画の意図は、それをリアルに描くことではなく、大真面目であることの可笑しさといった点に焦点を当てている。また、アルジェリア人オスマンには腰を痛めて入院中の妻と、幼い娘がいて、彼が追い込まれて行く過程には、この 2人への愛があるわけだが、その表現の不器用なことに、観客は笑わされながら、ちょっとほろりとさせられるのだ。

作中にはチャップリン作品へのオマージュが幾つか含まれているとのことだが、それよりも何よりも私が感心したのは、屋内、屋外を問わず、スイスのヴヴェイ (レマン湖畔) の澄んだ空気と、そこに住む人たちの確かな息遣いが、これはリアルに描かれていたことであった。雨の中、仕事を終えて帰ってきたオスマンが手をすり合わせたり、ベルギー人エディが、オスマンの娘サミラを連れてレマン湖の遊覧船に乗ったり、あるいはオスマンが脅迫電話をかける前に息を白くしながら公衆電話の前で煙草を吸ったり、そのような仕草や行動に、なんら特別でない人々の確かな生が感じられるのだ。生命賛歌といったような大げさなものではなく、普通の人たちの全く自然な生の姿が心に沁みるという印象。不滅の名声を残したチャップリンとの対比において、「それでも君らが生きていることは素晴らしい」というメッセージであろう。スクリーンでは庶民の姿を演じたチャップリンは現実世界では富豪となり、Price of Fame を払ったということか。尚、本作では実際にチャップリンの旧宅や墓でロケされているとのこと。

ところで、本作に出ているこの女優さんは誰でしょう。サーカスの団員で、エディと恋仲になって彼を道化師にしてしまう役柄だ。決して若くはないが、なかなかいい雰囲気を持っている。
e0345320_00503491.jpg
彼女の名前は、キアラ・マストロヤンニ。ということは、当然マルチェロ・マストロヤンニの娘だろう。では、母親は? なんと、カトリーヌ・ドヌーヴ。2011年のカンヌ映画祭で、こんなツーショットもあったらしい。マストロヤンニとドヌーヴは、結婚はしていなかったようだが。
e0345320_00554339.jpg
このお母さん、ン十年前はこんなだった。
e0345320_01081531.jpg
うーん。Fame があろうがなかろうが、人って年を取るものなのだね、やっぱり (笑)

あ、ひとつ書き忘れかけたことがあって、それは本作の音楽だ。なんとあの、ミシェル・ルグランなのだ。映画音楽史上最も有名な曲のひとつ、「シェルブールの雨傘」で未だ不朽の Fame を誇る作曲家だ。えー、まだ生きていたのという感じだが、1932年生まれ。「シェルブールの雨傘」は 1964年の作で、主演はほかでもない、カトリーヌ・ドヌーヴ。そう、上の写真の映画である。実は私はこの名作を見たことがなく、有名なテーマ曲しか知らないのだが、音楽の使い方はどうだったのだろうか。少なくともこの「チャップリンの贈りもの」における音楽には、正直、納得できない部分が多々あった。監督の意向であるのかもしれないが、もう少し繊細な仕事をする若手を選んだ方がよかったのでは・・・とも思うが、ま、カトリーヌ・ドヌーヴの娘に免じて、大目に見てあげることとしよう。

# by yokohama7474 | 2015-08-21 01:14 | 映画 | Comments(0)