2017年 06月 06日
タリス・スコラーズ (ピーター・フィリップス指揮) 2017年 6月 5日 東京オペラシティコンサートホール
https://www.youtube.com/watch?v=xpzdB0G3TJU
今回彼らは西宮、東京、札幌、名古屋、長野で、2つのプログラムによる計 6回の演奏会を開く。今回私が聴くことができたのは東京での 1回目で、チケットは完売。曲目は以下の通り。
トマス・タリス (1505頃 - 1585) : ミサ曲「おさな子われらに生まれ」
ウィリアム・バード (1540頃 - 1623) : めでたし、真実なる御体 / 義人らの魂は / 聖所にて至高なる主を賛美もて祝え
グレゴリオ・アレグリ (1582 - 1652) : ミゼレーレ
クラウディオ・モンテヴェルディ (1567 - 1643) : 無伴奏による 4声のミサ曲
ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ (1525頃 - 1594) : しもべらよ、主をたたえよ
この演奏会にはタイトルがあって、「エリザベス 1世の英国国教会音楽の黄金時代と≪モンテヴェルディ生誕 450年記念≫」というもの。ここで簡単な頭の整理だが、西洋で「音楽の父」と呼ばれ、バロック音楽を集大成したヨハン・セバスティアン・バッハの生涯は 1685年から 1750年。ということは、上記の作曲家たちはバッハよりも 100年以上前に生まれた人たちばかりである。どれほど古い音楽であるかが分かろうというものだ。コンサートのタイトルにある通り、前半のタリスとバードは英国、エリザベス朝 (1558 - 1603) に活躍した作曲家たち。シェイクスピアと同時代人たちと言ってもよい。それに対して後半のアレグリ、モンテヴェルディ、パレストリーナはすべてイタリアの作曲家たち。実際に聴いてみると、やはりイタリアの作曲家たちの方が変化があって気が利いているように思える (笑)。
だが私は実は、トマス・タリスの音楽が大好きで、そのきっかけはもちろん、ヴォーン・ウィリアムズ作曲の美しい曲、「トマス・タリスの主題による幻想曲」であったのだが、私の手元には、10枚組の廉価なトマス・タリス全作品集という CD ボックスがある。
このタリス・スコラーズは 10名の歌手から成っている。普通、いわゆる古楽の団体でもア・カペラの合唱団だけというのは珍しいと思う。今すぐに思い出すのは、ほかにはヒリヤーズ・アンサンブルくらいしかない。この時代の音楽はいわゆるポリフォニーと言って、日本語では多声音楽というのだろうか、様々な声部がそれぞれに進行して行く音楽で、いわゆる主旋律と伴奏からなるホモフォニーとは異なる。この合唱団の歌を聴いていると、理屈でなくそのことが実感できる。なにせ、それぞれの歌手の声がすべて同時に響き、同時に聞こえるのだ。溶け合いが美しいとは言えるが、それぞれのパートがくっきりと伸びあがって行き、声の線と線が絡み合う点にこそ、この種の音楽の素晴らしさがある。その音の線の絡み合いを耳にすると、私のような不信心な人間でも、自然と宗教的な感興が沸いてくるのである。メンバー 10名の内訳は、ソプラノ 4名、アルト 2名、テノール 2名、バス 2名である。だが、これによって女 6名、男 4名と思うとさにあらず。舞台を見ると女と男がそれぞれ 5名ずつなのである。そのヒントは、6/3 (土) に聴いた鈴木秀美指揮新日本フィルの演奏についての記事で、北十字さんからのコメントを頂いて私も気づいたように、このような古い音楽においては、男がアルトパートを歌うことがある。いわゆるカウンターテナーの一種である。これがタリス・スコラーズの面々。指揮者のフィリップスを除くと、確かに男女 5人ずつなのである。
このような予期せぬアンコールの変更だかいたずらだか (?) があったにせよ、この合唱団の音楽を聴いて、心が澄んだという思いを抱かない人はいないだろう。煩雑な日常を忘れるためにも、このような演奏会は大変に貴重なもの。またタリス・スコラーズの CD を買い込みたくなって来た。
武満徹 : 星・島 (スター・アイル)
マーラー : 交響曲第 8番変ホ長調「千人の交響曲」
このマーラー 8番という曲は、西洋音楽史上でも一、二を争う規模の巨大な作品。私はこのブログのたった 2年の短い歴史の間で既に 2回、この曲の記事を書いたので (2016年 7月 3日のハーディング / 新日本フィルの記事と、2016年 9月 9日のヤルヴィ / NHK 響の記事)、これで 3度目になる。以前も書いたことだが、この曲が平均して年一回は演奏されるようなことは恐らく、世界広しと言えども東京でしか起こらない。さて今回も、演奏前に指揮者である山田和樹のプレトークがあって、それがまた大変面白いものであった。まず冒頭は、前回の 7番のときと同じく、このマーラー・ツィクルスを続けてきたことで自分のマーラー観が変わったという率直な思いの吐露に始まった。そして、今回のツィクルスで唯一、同じ曲目で 2回の演奏会を開く (それゆえ、この記事に掲げたチラシは、ツィクルス本体とは異なり、この演奏会独自のものである) ことについて言及された。それから、前日の演奏会の途中で山田の指揮棒が客席に飛んでしまったことに触れて客席の笑いを取ったのであるが、そもそもこの曲が 2回演奏された理由 (のひとつ) はもちろん、この曲を演奏するために必要とされる資金である。そこで山田は、お金が今回のキーワードのひとつという、芸術家にあるまじき (笑) 発言をしたのだが、その話がつながったのは、この曲の後半のテキストが採られているゲーテの「ファウスト」なのである。山田いわく、今回の演奏を期として、ちょっと「ファウスト」を勉強してみたが、ここには錬金術というテーマがある。もともと金銭は、硬貨というそれ自体が価値のあるものから、紙幣という、集団がその価値を信じないと流通しないものへと発展した。だが人間の欲望は、何もないところから金を生み出すという発想に憑りつかれていたのである。そして山田の話は、ゲーテの戯曲においては錬金術の延長で人間 (ホムンクルス) までも作り出してしまうことに触れられ、その魔術を達成するのが、あろうことか、ワーグナーという名前の男であること、そのようなことは既に科学の発展の結果、現代では AI によって既に現実のものとなりつつあること、等が述べられた。このツィクルスにおける山田の語りは常に熱意のこもったもので、スタッフの人が時間がないことをリマインドしに来るのが通例であるのだが、今回は舞台下から何やら紙が差し入れられた。山田がそれを読んでいわく。「そろそろ武満のことも喋って下さい、ですって」・・・なるほど、それには意味があったのだ。今回マーラー 8番と組み合わされて演奏された武満徹の曲は、「星・島 (スター・アイル)」。これは 8分程度の短い曲で、早稲田大学の創立 100年を記念して作曲され、初演は 1982年10月21日、岩城宏之の指揮による早稲田交響楽団によって行われたのであるが、そのとき後半で演奏されたのが、ほかならぬマーラー 8番であった由。山田自身はそのことを全く知らずにこの 2曲の組み合わせを考えたらしい。うーん、芸術においては時折そのような奇妙な偶然が起こるものなのである。あ、それからもうひとつの素晴らしい偶然。この曲の冒頭はよく知られる通り、ラテン語で「ヴェニ・クレアトール」、つまり「来たれ聖霊よ」なのであるが、西洋には聖霊降臨祭 (ペンテコステ) というものがあり、毎年年に 1日だけなのであるが、今年はなんとなんと、今日なのである!! 芸術における偶然と言えば、こんな話がある。マーラーがこの曲を書いたとき、声楽が入らないオーケストラだけのパートを短くしようとしたが、どうしてもできない。そのように呻吟していると、なんとその箇所は印刷のミスで歌詞が抜け落ちており、本来は声楽のテキストが入るべき箇所であったらしい。その抜けていたテキストは、マーラーが削ろうとしてどうしても削れなかった場所にピッタリはまったという。何やら身の毛もよだつような不思議な話である。これは 15世紀に描かれた聖霊降臨祭の様子。
武満の「星・島 (スター・アイル)」は、冒頭の金管がメシアンを思わせるもの。その後打楽器を含んだ強い音響も現れるが、全体的には弦楽器を中心とした美しい曲調なのである。今回の山田と日フィルの演奏は例によって丁寧なもので、武満ワールドを見事に現出した。大曲の前座の短い曲ではあったが、洗練された美しい演奏。未だ 30代の山田の世代は、このような日本の現代音楽をこれからも演奏し続けて行くことで、貴重な日本の文化遺産を後世につないで行ってくれることだろう。実は今回、私の手元にある武満徹全集の解説を見てみると、1987年に秋山和慶がチューリヒ・トーンハレ管弦楽団を指揮したこの曲の演奏について、興味深い批評が掲載されている。
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気持ちのいい不協和音で耳をくすぐり、多少苦味のある音響世界がまれに爆発しても、ご機嫌をとるような弦の和音に包み込まれてしまう。武満にはこれよりももっとオリジナルなものがあるはずである。
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なるほど、この頃から武満は曲の個性よりも自らの感性を重視し始めたような気がする。1980年代の世界は、もう少し苦いものを武満に求めていたのか。なんとなく分かる気もする。山田の柔軟な感性はしかし、21世紀の我々には、このような武満の美しい曲が必要であることを明確に示すのである。
そして今回のメインであるマーラー 8番。私は以前から山田のマーラーを、その音響の奇抜さに驚くのではなく、ごく当たり前に違和感なく受け入れ、また表現できる世代の演奏だと考えているのだが、今回もそのような鮮やかさを持つ、実に素晴らしい演奏であった。会場のオーチャードホールは、例えばサントリーホールと異なり、舞台の後ろと左右は閉ざされた空間。ゆえに、そこに陣取った 300人以上の合唱は、恐るべき力を伴ってまっすぐに客席を襲うのである。これは歌っている人たち自身も、クラクラと眩暈を覚えるほどの音響ではなかっただろうか。冒頭からして聴き手を驚かせるこの曲の大合唱は、今回の演奏では悠揚迫らざるテンポで始まったのであるが、そこで聴かれた様々な音たちのぶつかりあいを、なんとたとえよう。聖霊の降臨とはこのようなものであったのか。驚くべきは、前半がラテン語、後半がドイツ語で歌われるこの曲を、合唱団 (武蔵野合唱団と栗友会合唱団) 全員が暗譜で歌ったことである。これはすごいことなのであるが、この大規模な合唱を自在に操る山田の指揮を見ていると、彼の持つ多くの肩書のひとつが、東京混声合唱団の音楽監督兼理事長であることに思い至るのである。いわば、曲の最初から最後まで、もちろん第 2部前半のオケだけのパートを含め、人間の声が彩る宇宙の音 (マーラー自身が夢想したもの) が壮大に鳴り響いたと言ってしまいたい。今回は指揮棒を飛ばすこともなく (笑) 全曲を振り終えた山田は、客席から既にブラヴォーの声がかかっているにもかかわらず、終演後しばらくは指揮台で立ち尽くしていた。そうだ、後半に使われたゲーテの「ファウスト」の言葉を借りれば、「時よとどまれ、おまえは実に美しい」(私の手元にある池内紀の訳から)。もちろん、東京少年少女合唱隊 (楽譜を見ながらの歌唱) や、上記でご紹介した以外の歌手、ソプラノの田崎尚美と小林沙羅、アルトの高橋華子、バリトンの小森輝彦、バスの妻屋秀和、いずれも熱演であり、中でも「おいしい役」である栄光の聖母を歌った小林沙羅の声が天から降り注ぐことで、会場全体がマーラーの理想郷を具現したのである。ただ唯一惜しむらくは、合唱団の前に位置したソリストたちの声が合唱に埋もれがちであったことであろうか。ともあれ、この童顔の指揮者の今後が本当に楽しみである。
2017年 06月 04日
鈴木秀美指揮 新日本フィル 2017年 6月 3日 すみだトリフォニーホール
この「天地創造」は、ハイドンのオラトリオとして最も有名であるだけでなく、上記の通り、西洋音楽における宗教音楽屈指の傑作として知られる。内容は文字通りキリスト教における天地創造の神話を扱っており、3部からなるうち、第 1部は天地創造の第 1日から第 4日「光、水、海と陸、すべての植物の誕生」を描いている。第 2部は第 5日と第 6日「すべての生物の誕生」、そして第 3部はアダムとイヴによる神の讃歌と愛がテーマ。全曲で 100分程度の曲で、通常は第 1部、第 2部が続けて演奏され、休憩の後に第 3部が演奏される。今回もそうであったのだが、その場合の時間配分は前半 70分、後半 30分という感じになる。だが内容に鑑みてこのアンバランスは致し方ないだろう。第 1部と第 2部は神による天地と生物の創造であるのに対し、第 3部は人間と、そこには明確なテーマの違いがあるからだ。今回も、ソプラノ歌手は前半と後半で衣装を変えて登場するという面白い趣向であった。そもそもハイドンの特色は、例えばモーツァルトと比較して明瞭であるのは、その人間性であろう。このような壮大な設定の音楽においても、常にどこか人間的な要素があるのであり、彼の音楽を演奏する際には、その点がやはりポイントとなってこよう。その点では今回の鈴木と新日本フィルの演奏、まさに万全とすら言える出来で、弦と管、合唱と独唱、独唱者同士、それぞれに呼吸をよく心得てニュアンス豊かな音がホールを満たしたのである。ヴァイオリンの左右振り分けと指揮棒の不使用は当然として、弦楽器が完全にノン・ヴィブラートであったのも説得力があり、何よりも各パートの活き活きしたこと!! 聴いていると心地よいばかりか、ちょっと大げさなようだが、この地球に生命が誕生したことへの感謝の念まで沸いてくるから不思議である。例えば最近記事にした、日原鍾乳洞の暗闇から出て明るい光のもとで小川の流れを見たときに五感が敏感に一気に反応したような、あの感覚を思い出してしまったのである。この地上に栄える命が、人間すらもが、絶対者の手による創造だという感覚は、どの宗教でも違和感なく共通するところがあるように思う。
さてそれではここで、「川沿いのラプソディ」名物、脱線と行きましょう (笑)。まず、この鈴木秀美だが、私は以前、あるお寺の堂内で、彼のバロック・チェロの独奏を聴いたことがある。バッハの無伴奏の何曲かが演奏されたのだが、畳敷きの木造の部屋で聴くと、残響が全然なくて曲の持ち味が出てこず、閉口した。「あぁ、やっぱり西洋音楽は石造りの部屋で聴きたい」と思ったものだが、演奏の合間には鈴木のユーモラスな語りもあり、また終演後には直接会話させて頂く時間もあって、全体的にはなかなか楽しかった。バロック・チェロはこの写真のように、楽器を支える先端の金属部分がなくて、足で挟むから大変だと伺った。
2017年 06月 03日
おかげさまでブログ開設 2周年 / 訪問者総数 10万人突破
ここでお決まりの定点観測をすると、2015年 6月 3日から今日までは 732日 (今日を含む)。その間に書いた記事はこれを含めて 623。この記事を含む「その他」に分類したものが 12。ということは、732日間に 611の記事を書いているので、約 1.2日に 1記事ということになる。いつも申し上げることだが、私は普通の勤め人なので、残業も飲み会も出張もあり、時には記事の時刻から、「はっはぁ、このラプソディは明らかに飲み会のあとの泥酔状態で書いてやがるな」とバレてしまうものもあるかと思うが、まあそれも、文化の諸相をいろんな人たちに向けて語りたいという熱意の表れと思って頂ければ幸いである。
いつもこの種の記事では、昭和の俳優の写真を使って来たが、今回は趣向を変えて、色紙の写真を載せることとしよう。これは、先般訪れた市川文学ミュージアムで購入した、井上ひさしの言葉 (あ、もちろんオリジナルの書ではなく、コピーです)。
むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに
ゆかいなことをまじめに
書くこと
2017年 06月 03日
千葉県 成田山 新勝寺
さて、長くて無駄な前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。この成田山新勝寺は、言うまでもなく日本有数の名刹で、毎年の初詣ランキングで常に上位に入る、大変ポピュラーなお寺である (神社でなく仏閣としては、初詣客日本一との統計もある)。だが、なかなか実際にここに出かける機会はなく、これまでは成田エクスプレスの車窓から巨大な多宝塔を眺めるくらいであった。しかし、侮ってはいけない。この寺はもともと、平将門の乱の調伏のために不動明王に祈願したことが起源という古い歴史を持ち、前の記事でご紹介した中山法華経寺に劣らぬくらい沢山の重要文化財建造物があるのだ。まずは、見よこの立派な総門を。お寺であるにもかかわらず、ここには狛犬もいて、日本の民間信仰において神仏混淆はごく自然なものであることが改めて分かる。
どうです。成田山新勝寺、誠に侮りがたし、でしょう。私としては、ちょっとしたトラブルを活用し、「転んでもタダでは起きない」という人生の座右の銘の意義を再確認した次第。私が旅行をするときのバイブルである各県の「歴史散歩」(出版はもちろん、あの山川出版社だ) の千葉県版を見ていると、ほかにも古い歴史を持つ場所が、千葉にはいろいろある。寺だけではなく、古くは貝塚、古墳から、江戸時代の民家や近代建築まで、見どころ満載の千葉。また出かけて行ってレポートします。但し、今度はきっちり事前に計画してからにしたい (笑)。