ボッティチェリ展 東京都美術館

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リッカルド・ムーティ指揮のコンサートの記事にも記載した通り、今年は日伊国交樹立 150周年。そのおかげで、東京ではいくつかのイタリア美術の展覧会が、しかも素晴らしい内容のものが開かれている。行ける限りのものはこのブログでご紹介して行くつもりだが、まずは二週間前に見たこの展覧会だ。もちろんボッティチェリくらいのメジャーな名前になると、美術好きなら誰でも行きたいと思うもの。だがこの展覧会は一味違う。よく知られたものを含め、彼の作品が実に 20点も出品されているのだ!! ボッティチェリの現存作品は 100点程度らしいから、そのうち 1/5 が日本で一時に見られるということは、前代未聞と言えるだろう。それに加え、師のフィリッポ・リッピや、その息子でボッティチェリの弟子になったフィリッピーノ・リッピ、またその周辺の作品も展示されており、総展示作品数は約 80。ルネサンス時代の絵画ばかりでこの点数は、やはり特別なことであり、大変充実した内容だ。特に私にとっては、ボッティチェリの作品の美しさもさることながら、フィリッピーノ・リッピに対する認識を改める機会となった。

サンドロ・ボッティチェリ (1445 - 1510) は、言うまでもなくフィレンツェの生んだルネサンスの大画家。その繊細・優雅な画風は際立っていて、我々にはその美しい作品について既に確立したイメージがある。例えば、ピーター・ウィアー監督の「ピクニック at ハンギング・ロック」という映画の中では、女教師が行方不明になった金髪の女生徒を探すときに、「ミランダはボッティチェリの天使」とか呟いていて、それが言葉によって少女の美しさの明確なイメージを与えてくれた。あるいは、タルコフスキーの奇跡の名作「ノスタルジア」に登場する女性の金髪に淡い光が当たるのを見て、「まるでボッティチェリのようだ」と呟いたのは誰だったか・・・。あ、それは私でした (笑)。そのように既に美の規範として確立しているボッティチェリのイメージがある。しかし、彼の人間像や思想についてはまだ分からないことが多いそうで、もちろん新プラトン主義やサヴォナローラの影響云々ということもあれこれ言われていることは知っているが、まずは彼の作品を虚心坦懐に見てみたい。

会場入り口からほど遠からぬところに、早速有名な作品が展示されている。ウフィッツィ美術館の所蔵する「ラーマ家の東方三博士の礼拝」。
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1475-76 年頃の作で、ボッティチェリ 30歳頃ということになる。両替商であったガスパーレ・ディ・ザノービ・デル・ラーマの注文によって制作され、画中にはコジモ、ピエロ、ジョヴァンニといったメディチ家の人たちが描かれているらしいが、何よりこの絵で有名なのは、その右端の人物。
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しっかりと鑑賞者の方を見て、何か物言いたげなこの若い人物が、ボッティチェリの自画像であろうと言われているのは有名だ。自信に満ちたその姿は、確かに清新な画家の自画像のイメージにふさわしい。

メディチ家の支配したフィレンツェは、西洋の歴史上でも特別な時代だと言ってよいであろう。いかに経済的勝者が芸術を奨励しても、最高の才能とそれが発揮される場がなければ高度な文化は発達しないし、ただ高邁な精神だけでなく、戦争、政争、腐敗等々の人間世界の汚い部分があったことで、文化面でもよりドラマティックな様相を呈したと言っては語弊があろうが、要するに統治者が歴代聖人君主ばかりの平和な時代であれば、逆にこれだけの崇高な美は生まれなかったような気がするのだ。この展覧会には、時代の雰囲気を伝える面白いものが出品されている。例えばこれは、1478年にパッツィ家によって聖堂内でジュリアーノ・メディチが暗殺されたことを悼んで鋳造されたメダル。左下には襲撃を受ける場面、右下には地面に倒れてこと切れる場面が描かれている。犠牲者の追悼としてこの生々しい場面を描く感覚は、日本人にはちょっと理解しがたい面もある。
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展覧会では、1460 - 70年代のポッライウオーロやアンドレア・デル・ヴェロッキオなどの絵画・彫刻が数点展示されていて、それらも興味深い。ボッティチェリは、この後に触れるフィリッポ・リッピのもとを離れた後、これらの画家の工房で修業したらしく、そこには影響関係があるらしい。例えばこれは、ポッライウオーロの「10人の裸の男たちの争い」という版画 (1465年頃)。イタリアで制作された版画で初めて作者の名前がフルネームで記されたものであり、その複雑な構図における緊張感と柔軟性が、ボッティチェリの若い頃の作品に影響を与えたとされている。ただ、武器を持った争いという物騒な題材は、全くボッティチェリ風ではないですな (笑)。
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さてここで、ボッティチェリの師匠であるフィリッポ・リッピ (1406? - 1469) について触れよう。その息子、フィリッピーノ・リッピ (1457? - 1504) については後で触れる。以下、これらの画家の関係を図示したもの。
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このフィリッポ・リッピという画家は、幼くして孤児となり、修道院で育てられたが、幼時から腕白者であったので、育ての親の修道士が絵筆を持たせたと言われている。だが、その後も生涯を通じて様々な浮名を流し、いわば破戒の修道僧画家である。彼の作品はヨーロッパの美術館ではあれこれ見ることができ、一種独特の古雅な雰囲気があって悪くない。これは、1436年頃の「聖母子」。貝殻装飾のついた壁龕は、ドナテッロやデラ・ロッビアの彫塑作品に想を得ているようだが、聖母の顎を押し上げる幼児キリストがユニークだ。また、聖母の左手など、結構逞しく描かれており、例えば同じ修道士画家でもフラ・アンジェリコのような本当に心が洗われるような作品とは違って、人間的なものを感じさせる。
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さて、ほかにもいくつか興味深いフィリッポ・リッピの作品が展示されているが、寄り道 (?) はこのくらいにして、肝心のボッティチェリの作品を見て行こう。この作品は、ウフィッツィ美術館の所蔵になる「バラ園の聖母」。1468 - 69年頃の作とされており、つまりボッティチェリ 23 - 24歳頃の作だ。
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聖母子の間に感じられる親密さは、師匠であるフィリッポ・リッピに倣うものとされているが、絵のクオリティの差は歴然だ。人体表現には明らかに彫塑性が強く、ボッティチェリならではの硬質な表現の萌芽があると言えるのではないだろうか。一目見て何か忘れられないという思いを抱かせる、特別な絵である。そしてこれは、1480年頃の作になる有名なフレスコ画、「書斎の聖アウグスティヌス」である。
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彼の作品では指の表情が細かくつけられていることが多いが、特にこの作品は、やはり人体の彫塑性を大きな手が強調しているように見える。アウグスティヌスは 4世紀から 5世紀に活躍したアフリカ生まれのキリスト教の教父で、ここでは瞑想の中で幻視にとらわれるところが描かれている。だがボッティチェリの手にかかると、決してしんねりむっつりすることなく、見ている者も何か感覚を研ぎ澄まされるような気分になる。聖人の頭上にある本にはユークリッド幾何学が記載されているが、最近の研究では、この絵の制作中に修道士たちが喋っていたことも書いてあるとかで、この画家の遊び心が表れているという説もあるらしい。

そしてこれが、展覧会のポスターにもなっている「書物の聖母」。1482 - 83年の作。
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おぉ、なんと美しい。見る者は皆この絵の前で釘づけになってしまう。贅言は要すまい。いかにもボッティチェリらしい聖母子の指の表情をご堪能あれ。
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それからこれは、丸紅が所有する「美しきシモネッタの肖像」(1480 - 85年頃)。日本に存在する唯一のボッティチェリ作品であるらしい。ジュリアーノ・デ・メディチの愛人であったシモネッタ・ヴェスプッチの肖像だ。うーん、ただただ美しい。決して冷たくはないのだが、人間というよりもあたかも天上の人物のようである。理想化された美なのであるが、でもどこかになまめかしさもある。こんな作品ができたとき、画家もモデルも、どんな気分であったろうか。
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この画家の描く神秘性は、メディチ家の追放やサヴォナローラの台頭、そして処刑と、めまぐるしく動く時代の不安と連動するようになったのだろうか。これもウフィッツィ所蔵の有名な作品、「誹謗」も今回出展されている。
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この作品は、古代ギリシャのアベレスという画家による現存しない伝承作品の復元を試みたものである由。誹謗中傷にあった人物の悲惨さを寓意的に描いているとのことだが、いわゆる人間性の回復というルネサンスのイメージからは既に遠いものになってしまっていると言えないだろうか。錯綜する人体のパーツの処理は見事であり、独特の緊迫感が画面を支配するとはいえ、そこには何か、得体の知れない狂気のようなものを感じてしまう。中心にいる美しい女性が「誹謗」で、彼女は左側の痩せた男性像、「無実」の髪を引っ張って、右側の玉座にいる「不正」のもとに連れて行こうとしている。「誹謗」の手を引くマントの男は「憎悪」。「誹謗」の後ろで髪を結うなどお世話する女性たちは、「欺瞞」と「嫉妬」だそうである。なにやらシュールな擬人化である。
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さて、さらに後、既にボッティチェリ晩年といえる1500 - 05年頃に描かれた「聖母子と洗礼者ヨハネ」。この作品、いかがであろうか。もちろん美しくはあるのだが、聖母子は虚ろに目を閉じており、お互いのエコーであるような似通った表情をし、その姿勢も危なっかしいことこの上ない。聖母の右手は二本の指で自らの衣服をつまんでおり、今にも指が外れてしまいそうだ。また、そもそも画面の縦のサイズは聖母を収めきらず、体をかがめる窮屈な姿勢が息苦しさを感じさせる。この頃、画家の心の中では一体何が起こっていたのであろうか。
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さて、展覧会では最後にボッティチェリの弟子でありライバルともなったフィリッピーノ・リッピの作品が並んでいる。父でありボッティチェリの師であったフィリッポ・リッピが修道女ルクレツィア・ブーティをさらって自宅に引き込み、それが原因で彼は修道院から追放されるのだが、その両親の間に生まれたのがフィリッピーノである。ボッティチェリに弟子入りし、共同制作も行ったが、すぐに頭角を現し、ライバルとなった。この「幼児キリストを礼拝する聖母」は 1478年の作。ここには、確かにボッティチェリとまた違った精緻かつ鮮烈な美しさが漲っている。
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聖母の顔のアップ。うーん、やはりボッティチェリとは違う美しさに、なんとも陶然とする。
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これは、1481 - 82年頃の「聖母子、洗礼者ヨハネと天使たち」。丁寧な仕上がりで、色遣いも落ち着いている。遥か後世、19世紀あたりの作品まで予感させるような、素晴らしい作品だ。
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だがこのフィリッピーノ・リッピは、師のボッティチェリよりも早く、1504年に逝ってしまう。ボッティチェリはその後 6年生きるのであるが、晩年の生活のことはよく分かっていないらしい。その後幾星霜を経て、21世紀に至ってもこのように世界に愛される画家であることを知ると、本人は一体何と言うであろうか。我々にとっては、あまたいるイタリア・ルネサンスの画家の中でもやはり特別な画家であることを、この展覧会で再確認することができた。それと同時に、リッピ親子やその他の同時代の芸術家たちの存在もまた、歴史の中にしっかりと刻まれていることを思い出そう。いかなる天才もひとりで偉業を達成することはできない。その時代の空気を感じることで、天才を天才たらしめた様々な要因を感じることは、極めて重要だ。あー、またフィレンツェに行きたいなぁ・・・。


# by yokohama7474 | 2016-03-19 19:01 | 美術・旅行 | Comments(4)  

東京・春・音楽祭 リッカルド・ムーティ指揮 日伊国交樹立150周年記念オーケストラ 2016年 3月16日 東京文化会館

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今年の冬は、最初暖かいかと思うと急に寒くなり、その後暑いと言ってもよい気候の後にまた寒い日が帰ってきたりして、なんとも落ち着かない気候であった。だが既に 3月も中旬。週明けには春分の日も到来する。毎年この季節、上野を舞台として繰り広げられる「東京・春・音楽祭」。今年の目玉のひとつは、日本とイタリアの国交樹立 150周年を記念して開催されるこのコンサートだ。1866 (慶応 2) 年に日伊修好条約が結ばれてから今年で 150年。1866年と言えば日本は文字通り江戸時代の最末期。一方のイタリアは、統一からわずかに 5年後だ。お互い近代国家形成の激動の時代から国交を結んできたことになる。途中、戦争における同盟という時代もあったが、今日、このような音楽祭の桜色のシンボルマークとともに、東京文化会館でこのようなコンサートを穏やかに聴けることに感謝しよう。
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今回指揮をするのは、イタリアの生んだ大指揮者、リッカルド・ムーティ。現在はシカゴ交響楽団の音楽監督であり、以前はロンドンのフィルハーモニア管やフラデルフィア管弦楽団を率い、またなんと言っても、20年近くイタリア・オペラの殿堂ミラノ・スカラ座の音楽監督として君臨したことで名高い。長年に亘るベルリン・フィルとウィーン・フィルとの密接な関係もあり、現代の最も有力な指揮者のうちのひとりだ。なんと、今年 75歳になるとは。数年前には体調を壊していたはずだが、回復したらしく、颯爽とした指揮ぶりでなによりだ。今回のような特別な企画で指揮台に立つべき指揮者としては、彼ほどふさわしい存在はないだろう。
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一方のオーケストラは、日伊国交樹立 150周年記念オーケストラという名前だが、その正体は、ムーティが 2004年に結成した、イタリアの優秀な若者たちを集めたルイージ・ケルビーニ・ジョヴァニーレ管弦楽団と、今回の演奏会のために日本の若手オーケストラプレーヤーを中心に結成された、東京春祭特別オーケストラの合同演奏だ。実はムーティがこの東京春音楽祭に登場するのは今回が 5回目であるが、このケルビーニ管弦楽団 (もちろん作曲家ケルビーニに由来する) が登場するのは初めてではないだろうか。

このような機会であるから、演奏前にセレモニーがあった。まずはイタリアの観光副大臣 (これがなんともカッコいいショートカットの女性で、いかにもイタリアらしい洗練ぶり) から、次いで文化庁長官の青柳 正規 (有名な美術史学者だ) からそれぞれ挨拶があり、続いて外務省欧州局長からマエストロ・ムーティに特製切手の贈呈がなされた。ここでムーティもスピーチしたのだが、若者たちと音楽をする意義に言及するだけでなく、1975年に日本で初めて指揮をして以来来日を重ね、翌日 (3月17日の東京芸術劇場での演奏) がちょうど 150回目のステージであると明かして、万雷の拍手を受けていた。また、「政治家は言葉を使う。言葉は混乱を起こすこともあるし、裏切ることもある。音楽は決して裏切らない」とも発言したのだが、客席にはオペラ好きで知られる小泉純一郎元首相もいたので、表情を盗み見ると、実に楽しそうに笑っておられた (因みに休憩時間に小泉さんとはトイレで並んで手を洗いました 笑)。
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この記念演奏会、どのような曲目が演奏されたのであろうか。

 ヴェルディ : 歌劇「ナブッコ」序曲
       歌劇「ナブッコ」第 1幕から「祭りの晴れ着がもみくちゃに」
       歌劇「アッティラ」第 1幕からアッティラのアリアとカバレッタ「ローマの前で私の魂が・・・あの境界の向こうで」
       歌劇「マクベス」第 3幕から舞曲
       歌劇「運命の力」序曲
       歌劇「十字軍のロンバルディア人」第 3幕から「エルサレムへ、エルサレムへ」
 ボイト : 歌劇「メフィストフェレ」プロローグ

前半はすべてヴェルディ、休憩後の後半にボイト。バス独唱のイルダール・アブドラザコフと、東京オペラシンガーズ、東京少年少女合唱隊が共演した。さてこの曲目、どうであろう。実に渋いではないか!! 「運命の力」序曲を除いては、知名度はかなり低い。「ナブッコ」には有名な「行けわが想いよ、黄金の翼に乗って」という合唱があるが、ここで演奏されたのはそれではない。「アッティラ」に至っては、実際の舞台にかかることはほとんどない演目だ (私も見たことがない)。しかも、華やかなソプラノやテノールでなく (「椿姫」や「リゴレット」の華麗なアリアではなく)、独唱者はなんと、バスではないか!! それから、バレエ曲なら「アイーダ」ではないのか!! ・・・と、突っ込みどころ満載のマニアックな曲目だ。いや、「椿姫」のジェルモンのアリアなど、ヴェルディはバス・バリトンにもよいアリアを書いているのに、なんでよりによって「アッティラ」か。強いて考えれば、このヴェルディの 5つのオペラ、「運命の力」を除いては、古代や中世を舞台にしており、人間同士の争いを描いた叙事詩的作品ばかりだ。とても晴れやかなお祝いの場にふさわしいものとは思えない、シリアスなものばかり。このあたりにムーティの硬骨漢ぶりが表れているように思う。演奏は、最初の「ナブッコ」序曲こそ少し硬さを感じたものの、やはり合唱が入って盛り上がると熱を帯びてきた。ムーティとケルビーニ管弦楽団の演奏は、指揮者自身のレーベルから PAL 方式 (ヨーロッパ方式で、日本の普通のプレイヤーでは再生できない) で出ている DVD を数年前に購入しているし、最近はクラシカ・ジャパンでも放送されているが、なかなかに目のつんだ、よい音が出ている。一方日本人楽員は、主として弦楽器のニュアンスで高い貢献をしていたと思う。つまり、渋い曲目を充実感を持って聴かせることに成功していて、これはやはりムーティの指揮の力によるものであろう。
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後半の「メフィストフェレ」は、アリゴ・ボイトの傑作オペラだ。このボイト、晩年のヴェルディに優れた台本 (「オテロ」と「ファルスタッフ」) を提供したことで知られるが、自身作曲家でもあり、ファウスト伝説に基づくこの「メフィストフェレ」は、現在一般的に知られている彼の唯一のオペラである。とは言ってもなかなか舞台上演されることはなく、私自身も全曲の生演奏としては、1995年にまさにこのムーティがミラノ・スカラ座を指揮した上演にしか接したことがない。せっかくなので、そのときのプログラムを掲載しておこう。
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だが、このオペラのプロローグは実に身震いするほど素晴らしい曲で、私など、ふと気づくと時々口ずさんでいることがあるほどだ。プロローグとしてオペラの冒頭に演奏される 30分ほどのこの曲を知ったきっかけは、高校生の頃にバーンスタインがウィーン・フィルを指揮した演奏のアナログ・レコードを聴いたことであった (メインはボストン響を指揮したリストのファウスト交響曲で、両作品ともファウストが題材であった)。その後トスカニーニ指揮 NBC 交響楽団の録音を聴いて鳥肌立ち、また、ファシズムを嫌って祖国イタリアを飛び出したそのトスカニーニが 1946年にスカラ座に久しぶりに復帰したときにもこの「メフィストフェレ」のプロローグを演奏したことを知り、そのライヴ盤を聴いてまたまた痺れる、という前歴が私にはある。名曲なのである。今回のコンサートで久しぶりにこの曲を耳にして、合唱やバス独唱を含めたすさまじい音響の渦に、改めて感嘆した。ムーティの指揮は、以前と変わらぬ活力と明晰さはあるが、決して腕を無駄に振り回したりしない効率的なもので、若い楽員たちが必死について行くのを見るのも感動的だ。大詰めでは、むしろ指揮ぶりは小さくなり、まるでオケと合唱団から自然な放熱がなされるようであった。合唱団の後ろには 20名ほどの金管のバンダ (別働隊) が並んでおり、彼らは高校生かと思われるほど若い男女であったが、きっちりとしたフレージングで丁寧に演奏していて、さすが大指揮者のもとで演奏するにあたって、かなり練習を積んだのだなと思わせたが、いかんせん、体格的な問題から、音量や輝かしさには課題が残った。だが、合唱の少年少女たちも含め、このような舞台に立つことができたことは一生の宝になるだろう。

この理解が正しいか否か分からないが、前半に人間くさい歴史的ドラマの片鱗を描き、後半では悪魔の誘惑を打ち消す壮大な大合唱によって、人間の力への信頼を描き出す。それがムーティの狙いだったのかもしれない。もしそうなら大変シリアスな内容であり、従って、アンコールに「椿姫」の乾杯の合唱などはありませんでした (笑)。尚、このコンサートは NHK が収録していて、4月17日 (日) の夜に BS プレミアムで放送するそうなので、実際に生で聴けなかった方たちにはそちらで楽しんで頂こう。

さて、ムーティについてあれこれ語り出すときりがないのだが、一言で申し上げれば、本来彼の持っていた凄まじいパワーが、相当に円熟して来ていることを最近痛感するのだ。私がクラシックを聴き始めた 1980年頃、彼は若手の有望株として人気急上昇中。EMI レーベルが、「若獅子ムーティ」などというキャッチフレーズで大々的に売り込んでいたものだ。以下の宣伝に出ている録音は、どれもこれも私のお気に入りであったが、とにかく派手で、それが浅薄でいやだという音楽ファンも当時は結構いた。いや、それにしても若いし、カッコいい。
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この宣伝はどこに掲載されたものかというと、彼がフィラデルフィア管弦楽団とともに来日した 1981年のプログラムだ。実に 35年前。ムーティ自身が語る 1975年の日本デビュー (オケはウィーン・フィルだろう) からまだ 6年しか経っていない。このとき、フィラデルフィアはユージン・オーマンディとこのムーティの新旧音楽監督がともに来日して、私は両方聴きに行ったのだが、オーマンディの演奏会は、今回の東京春祭の会場、上野の東京文化会館だった。今でもはっきり覚えているが、そのときに客席に聴きに来ていたムーティを発見。休憩時間にサインをもらったのが、これだ。
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つまり私は過去 35年に亘って彼の音楽を聴いているわけであるが、ひとつ残念なことは (今回の演奏会の感想とも共通するが)、ある時期から結構地味なレパートリーを志向するようになったことだ。レスピーギやストラヴィンスキーから、ウィーン古典派や、彼の故郷ナポリの楽派への移行。そして、新たなレパートリーはほとんど聴けなくなってしまった。考えてもみてほしい。今時、マーラーの交響曲のレパートリーが 1番「巨人」だけという人気指揮者、ほかにいますか?! (笑) 今回のような圧倒的な「メフィストフェレ」を聴くと、例えばマーラーの 2番「復活」を振ってくれればさぞかし、と思うのだが・・・。まあ、硬骨漢ムーティのこと。すぐに今回の前半の曲目のように、渋いところに入って行ってしまい、こんなふうに腕を組んでしまうのだろうか。
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今年の 1月、日本ではシカゴ交響楽団を聴けなかったので、もし地味でない曲目があれば (笑)、いつか現地まで聴きに行きたいものだ。マエストロ、まだまだ元気でご活躍を。


# by yokohama7474 | 2016-03-18 00:46 | 音楽 (Live) | Comments(2)  

ヘイトフル・エイト (クエンティン・タランティーノ監督 / 原題 : The Hateful Eight)

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最近映画を見る機会がなく、コンサートについての記事を中心に書いてきた。私のブログは評論を主目的にしているわけではなく、文化芸術にあまり馴染みのない人でもそれなりに楽しんでもらえるようには書いているつもりであるが、やはりクラシック音楽の記事は、知識が全くない人に読んでもらうには限界があるようだ。愛読して頂いている知人からも、「映画の記事書かないんですか? ボクはコンサートのことは分からないので・・・」という婉曲的な非難の言葉 (?) を受けていたこともあり、映画か、あるいは美術のネタをそろそろ書かないと・・・と、私としても若干焦りを覚えていたのである。だが出張だったり仕事がバタバタしていたり、飲み会でしこたま酔っぱらったりして、なかなか映画を見る機会がなく、その間に見たいと思っていた映画の数本は既に上映を終了してしまった。だが、調べてみると、なんとおぉ、あのクエンティン・タランティーノの新作を上映しているではないか。しかも上記のポスターを見ると、これは面白そうではないか。と思って出かけたのがこの映画。上演時間実に 168分という大作である。タランティーノの映画は大好きだが、なにせ必ず血が盛大に出るので、体調の悪いときにはどうも気が進まないのだが、今回はこの長丁場を飽きることなく見通して、大変面白かった。
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今や押しも押されぬ大監督となったタランティーノだが、何本の映画を監督したかというと、実は未だにわずか 7本なのだ (公開が 2本に分かれた「キル・ビル」は 1本と数える。因みに私はそのうち、海外在住だったときとその前後に公開された「デス・プルーフ in グラインドハウス」と「イングロリアス・バスターズ」の 2本は見ていない)。そしてこの映画、冒頭のタイトルに、"the 8th film by Quentin Tarantino" と出る。そこで、なるほどこの題名の 8は、8本目という意味もあるのだなと分かるわけである。題名は「憎むべき 8人」という意味であるが、やはりこの邦題は、原題のカタカナで正解だろう。ヘイトとエイトの語呂がよいし、劇中に冗談でフランス語が出て来るので、H を発音しないフランス語では、ヘイトフルはエイトフルになるわけで、そうなると頭韻を踏んでいるというわけだ。

この映画は、今時珍しいワイドスクリーン用の 70mm フィルムでの撮影ということで、費用もかかっていると思うが、冒頭の雪景色など、本当に鮮やかかつ奥深い発色であると思う。下の写真のような屋外のキリスト磔刑像からカメラが引いて行って雪景色に移って行くのだが、私はいきなりこのシーンに胸が締め付けられた。この積もった雪 (しかも、この写真では分からないが、頭の上と、折り曲げた足の上では積もり方が違っていて非常にリアル) には、確実に雪の重さが感じられる。これから描かれる人間世界の業の重さを予感する。
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時代設定は 19世紀アメリカ。南北戦争直後だ。2人の客を乗せた馬車が、サミュエル・L・ジャクソン演じるバウンティー・ハンター (賞金稼ぎ) を乗せるところから物語は始まる。
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面白いのは、そのバウンティー・ハンターが運んでいるお尋ね者数名の死体は、結局馬車の上に乗せて運ばれるのだが、馬車がコテージに到着するまでのシーンでは、映る度に位置がずれたり雪が積もったり、手足が乱れたりして、事細かに移動時間の推移を示すのである。各シーンへのタランティーノのこだわりがはっきりと見て取れる。そして、馬車がコテージ、「ミニーの紳士服飾店」に到着してからは、いよいよ密室劇となるのであるが、このコテージはこんな感じ。これが猛吹雪に閉ざされると、まさに完璧な密室になるのだ。
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実はこの映画の美術を担当しているのは日本人だ。種田陽平という人で、学生時代から寺山修司の映画に参加、岩井俊二の「スワロウテイル」や、このタランティーノの「キル・ビル」を過去に担当している。彼の描いたコテージのスケッチは以下の通りだが、うーむ、この手の込んだ密室劇の美術とは、相当大変だったことは容易に想像できる。
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ここでは雪に閉ざされた中、一癖も二癖もある人々が題名通り 8人で人間模様を繰り広げるのだが、ちょっと待った。実は私が映画の途中で数えてみたところ、コテージ内にいるのは 9人ではないか!! そして、詳細はネタバレになるので避けるが、もう 1人を含めた 10人がここでは出てくる (うーん、説明しにくいが、時差をもってあと数人も)。なので、ここでタランティーノが 8という数字を使ったのは、上のポスターにある通り、「全員ウソつき」ということだろう。そう、含むアンタだよ、クエンティン!!

映画マニアのタランティーノのこと、いくつか手の込んだ設定をしているようだ。例えば、この作品がオマージュを捧げているのは、あのジョン・カーペンター監督「遊星からの物体 X」なのだ。原題 "The Thing" と言って、もともと昔の RKO 映画の「遊星よりの物体 X」のリメイクであるが、雪と氷に閉ざされた南極基地で宇宙からやって来た寄生生物が人間になりすましているところ、誰がそうなのか分からずに疑心暗鬼に陥るというストーリー。私にとっては未だに、生涯ベスト 10とは言わないまでも、ベスト 20だったら、そのときの気分によっては (?) 入るのではないかと思われるくらい、好きな映画である。その主演はカート・ラッセル。1982年当時、こんな感じだった。
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そして彼は、約 35年を経てこの「ヘイトフル・エイト」の主要人物、「首吊り人」ジョン・ルースを演じている。確かに同じ人物ですなぁ。
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それから、「遊星からの物体 X」と本作のもうひとつの共通点は、これはなかなかの驚きだが、音楽があのエンニオ・モリコーネなのだ。
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なんとなく、「ニュー・シネマ・パラダイス」「海の上のピアニスト」という感動路線の映画音楽作曲家のように思ってしまいがちだが、もともとマカロニ・ウェスタンに音楽をつけていて、暴力シーンとも縁が深い (?)。代表作のひとつ「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」は、名曲「アマポーラ」など、甘く切ないメロディに彩られていたが、そのマカロニ・ウェスタンの盟友、セルジオ・レオーネの作品であった。その彼が、実はこの「ヘイトフル・エイト」で今年のアカデミー作曲賞を受賞しているのだ!! エンド・タイトル (CG を使っていないせいか、昨今の映画にしては大変短い) に目を凝らすと、音楽として「エクソシスト 2」と件の「遊星からの物体 X」が触れられている。これはなんなのかと思って調べると、前者は、そのものズバリの「リーガン (悪魔に憑りつかれた少女の名前だ) のテーマ」がこの映画の冒頭に使われており、後者は、モリコーネが作曲したが映画の中では使われなかった曲をここで使用しているそうな。この点も、タランティーノのこだわりが炸裂だ (笑)。

さて、密室劇そのものの内容はいかがかというと、ネタが分かって驚天動地というよりは、それぞれのシーンの見せ方に感心する出来と言ってもよいだろう。凝ったライティングで、机の上だけ光っていたり、手前の人物がギターを弾いていて、後ろで場面が展開するときに、数分の一秒から数秒ごとに手前と奥でピントが移動したりする。上述の美術の凝り方と併せて、随所に人間の心理に訴える要素が満載で、トリック云々の前に、観客を密室劇に取り込んで行く周到さがすごい。そして、劇の展開自体がなかなか読めず、トリックで見せるのではなく心理劇 (血しぶきの中の!) として優れた作品になっている。

まあそれにしても、サミュエル・L・ジャクソンがここでも怪演である。冷酷で、自分で自分の身を守るための厳しさを持ち、処世術と悪知恵と推理力を操る策略家でありながら、姑息で、愉快なことが大好きで、実は隙のある点がどこか憎めない。そのような複雑な人物像をこれだけ演じられる役者が、そうそういるとは思えない。
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もうひとりスゴかったのが、女悪党を演じる、ジェニファー・ジェイソン・リー。よく知らない女優だが、最初からこのような痣つきで出てくる。それから、そりゃもうひどいことになって、クライマックスでは顔じゅう血だらけというかなんというか、とにかくすごいことになり、それはもう壮絶だ。女優魂とはこのようなことを言うのであろう (笑)。
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それから、あー、これは言っていいのかなぁ。もし丁寧に映画を見る方は、オープニングタイトルで役者の名前がずらずら出る最後に、最近人気上昇中の俳優の名前が出てくるのに気づくだろう。でも不思議なことに、映画のプログラムを見ても、全然彼の名前が出てこないのだ。そんなに隠すことないもと思うし、ネットで調べればいくらでも情報が出ているが、まあストーリー上、彼の出演が大々的に宣伝されていない理由はあるにはあるので (冒頭のポスターには写真が入っていない)、ここではもったいぶって、その俳優の写真だけ掲載しておこう。米国の大衆誌「ピープル」で2012年に「最もセクシーな男」に選ばれた人。ここでも印象的な演技をしているし、将来有望な役者だと思います。
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そんなわけで、鮮血ほとばしるタランティーノ・ワールドはますます広がりを見せている。彼は 10本作品を撮ったら引退すると言っているとどこかで読んだが、そんなもったいないことをせず、まだまだ血しぶきの中の人間の真実を追求して行ってもらいたい。

# by yokohama7474 | 2016-03-17 00:08 | 映画 | Comments(0)  

小林研一郎指揮 日本フィル (チェロ : 堤剛) 2016年 3月13日 サントリーホール

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人気指揮者小林研一郎ことコバケンのコンサートは、このブログでも何度か記事として採り上げて来た。実際私も、彼の指揮する天下の名曲の数々を相当の回数楽しんで来たが、75歳になった今も変わらぬ活躍を続けているのを目にすると、時折無性に彼のコンサートに行きたくなるのである。しかし、最近 2度ほど、ほかのコンサートを優先して泣く泣く彼のコンサートのチケットを処分するようなことがあったので、代わりにどこかで聴けないかと物色していたところ、目についたのがこれだ。既に完売公演であったところ、ネットオークションで公演日間近になってチケットを定価で入手。本当に有り難い時代になったものだ。

さて、コバケンが桂冠名誉指揮者を務める日本フィル (通称「日フィル」) を指揮するこのシリーズ、「コバケン・ワールド」と名付けられていて、ロームをパトロンに、既に 12回目を数えるという。プログラムの中には「指揮とお話 : 小林研一郎」とあって、最初から喋ることが織り込み済だ (笑)。この指揮者のコンサートに行かれた方はご存じの通り、メインの曲目の終了後にほぼ毎回、聴衆に向かって語り掛け、ほぼ毎回アンコールを演奏する。そんな親しみやすい雰囲気も、彼のコンサートの人気の秘密のひとつであろう。

さて今回の曲目は以下の通り。
 ドヴォルザーク : チェロ協奏曲ロ短調作品104 (チェロ : 堤 剛)
 サン・サーンス : 交響曲第 3番ハ短調作品78「オルガン付」

そう、今回もコバケン流超メジャー曲での勝負だ。だが今回のひとつの目玉はこの人。
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堤 剛 (つつみ つよし)。1942年生まれ。名実ともに日本を代表するチェリストである。現在はサントリー音楽財団理事長及びサントリーホールの館長を兼任する。私は最近彼の生のステージに接していなかったし、バッハの無伴奏チェロ組曲の演奏会のチラシなどを見ても、実際に聴きに行くことはできずにいた。従って今回は、天下の名曲ドヴォルザークのコンチェルトを楽しみにでかけたのだ。実はコバケンが伴奏する同じ曲の演奏を、既に昨年 6月と10月に聴いていて、いずれもこのブログで紹介している。それらはいずれも、ソリストが若い上野通明、オケが東京フィルであった。今回、スコアを譜面台に置きながらも一度も開くことなく暗譜で指揮した小林は、明らかに私が聴いた前 2回の演奏よりも遅いテンポで曲を進めた。冒頭から悠揚迫らぬと表現するのがぴったりする演奏であり、素晴らしい充実感がそこにあった。もちろん音楽家には年齢それぞれの持ち味があり、若いからダメとかベテランだからよいという法はない。その時々に素晴らしい演奏というものがあるべきだ。だが、今回のような深い味わいのチェロを耳にすると、演奏家の年輪ということを考えざるを得ない。細部までおろそかにしない気力も充分であり、決して枯れた演奏というわけではない。だが、その遅いテンポから立ち昇る香気というか気品というか、何か尋常ではないものを感じなかった聴衆はいなかったに違いない。ドヴォルザークが音に込めた郷愁が、時代も民族も全く異なる現代日本の我々に訴えかけるというのも不思議な話 (?) だが、まさに琴線に触れる音楽とはこのことだ。終演後の拍手の際、私の心の中ではなぜか勝手にバッハの無伴奏チェロ組曲第 3番の「ブーレ」が鳴り始めたが、実際にその曲がアンコールで演奏されたとき、偶然の驚きを感じるよりも、何かここはこれしかない、という心地よさを感じたものだ。やはり、同じように思った聴衆も沢山いたのではないかと思えるくらい、当たり前のように美しい音楽が流れて行った。素晴らしい時間であった。

後半のサン・サーンスの 3番も天下の名曲で、フランスの交響曲を代表する存在である。ただしかし、この作曲者は膨大な作品を書いた割には知られている曲はごく一部で、交響曲も、番号付きの 3曲を含めて 5曲作曲しているが、この第 3番以外が実際に演奏されたという話は聞いたことがない。いやもちろん、昔ジャン・マルティノンという名指揮者が全 5曲を録音していて、私もそれを耳にしたが、それ以外の録音はないのではないか。フランス音楽を体系的に録音したエルネスト・アンセルメやシャルル・デュトワなども、3番以外は録音していない。もしやと思ってもうひとりのフランス音楽の大家、ミシェル・プラソンのフランス音楽録音集成 37枚組セットを引っ張り出してみたが、マイナーなマニャールの全 4曲の交響曲はあるのに、サン・サーンスはやはり 3番だけだ。まあそれだけこの曲が例外的な傑作ということなのであろう。「オルガン付」のあだ名が示す通り、オルガンがかなりの箇所で使われており、加えてピアノも、最初はソロで、最後の方では連弾で演奏されるという派手な曲だ。これが、サントリーホールの舞台の奥に据えられたオルガン。美しいですな。
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今回の小林の演奏は、期待に違わぬ気合の入ったもので、曲の変化の面白さを改めて実感させてくれた。フランス音楽らしく木管やあるいは高圧的でない金管 (オルガンに絡むトロンボーンのソロなども含めて) が活躍すると思うと、ある場所では初期ロマン派風に暗い情緒を弦楽器が主導し、あるいは力強いフーガを形成するなど、ドイツ風の表情も見られる曲であるが、小林の指揮はそれぞれの音楽的情景を的確に描いていてぬかりない。時折、さらなる音色の精度が求められる箇所もあったものの、日本のオケのいつもながらの真面目な献身ぶりは傾聴に値する。以前、レコード芸術誌だったかと思うが、読者の質問コーナーで、この曲の演奏で「最後のトランペットがカッコいいものを教えて下さい」というものがあったのを覚えているが、そうなのだ。タララタララタララタララ・・・と、大詰めでトランペットが華麗に鳴り響き、それを受けてティンパニがドンドンドンドンドンドン、ドーンと轟いて終わる様子がなんともカッコいいのだ。今回の演奏も、特にティンパニは悪漢、じゃないや圧巻でしたよ。

演奏後の「お話」は、スポンサーのロームへの謝意 (「コバケン・ワールド」とはちょっと大げさだが、その前のシリーズから連続したスポンサーシップに感謝していると) が表明され、プログラムの裏表紙の絵がいつも違うといったあまり芸術的な感興とは関係ない話 (?) の後、「堤先生のチェロでも表現されていたチェコ音楽の懐かしさ」に倣って、「世界で最も美しいメロディのひとつ」、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第 10番が演奏された。

上にも書いたが、このようなコンサートが、当たり前のように流れる時間を美しく彩ってくれるとは、なんとも素晴らしいことだ。天災やテロや、あるいは個人レヴェルでは病気や老化など、その当たり前の時間を危うくするものもこの地球上には存在する。このコバケン・ワールド、まあご本人おっしゃるように大げさかもしれないが (笑)、そこでは日曜の午後にこのような当たり前のよい時間が持てるわけで、そんな我々は恵まれているのだと、改めて思う。願わくばこの当たり前が長く続きますように。
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# by yokohama7474 | 2016-03-14 23:41 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

井上道義指揮 NHK 交響楽団 2016年 3月12日 鎌倉芸術館

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以前は藤沢とか横浜南部に住んでいたことがあり、その頃には鎌倉には結構遊びに行ったし、また、鎌倉芸術館のホールにも何度もコンサートを聴きに行ったものだ。今回、久しぶりにその鎌倉芸術館に出掛けることになった。それは、上のチラシを目にしたからである。指揮者井上道義が、あの NHK 交響楽団 (通称「N 響」) を振る。あまり実現していない顔合わせのようである。そしてタイトルは「いざ、鎌倉への道」となっており、今回が最終章とのこと。鎌倉芸術館はなかなかよいホールだが、私がとりわけ気に入っているのは、中庭に作られた竹林だ。人工のものゆえ、背の高い竹を支える木枠が下の方に作られているが、竹が風に揺れているのを眺めていると、鎌倉らしい品格を感じることができる。
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そうして、今回の曲目はこれだ。

 ブルックナー : 交響曲第 8番ハ短調

このブログでも今年に入って既に 2回、この曲の演奏をご紹介している。ひとつは 1月に開かれた、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮読売日本交響楽団 (ちょうど今日、3月13日に NHK E テレで放送される)。もうひとつは 2月に開かれた、ダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン。そして 3月がこれだ。この曲は、正面から生と死を見つめた作品として、西洋音楽の中でも遥かなる高みに位置する。そんな曲を毎月聴いてよいものかという気がするが (笑)、やはりこれは聴いてみたい。なぜなら、井上は 2014年に咽頭がんの手術を行い、半年後に復帰してからは、そんなそぶりも見せないような活躍ぶりであるものの、大病を克服したその精神力には感服する。激しい痛みやいろいろな不便、家族の協力等々あっての復帰劇であったろう。きっと病気をする前とした後では、彼の中で何かが変わっているに違いない。正直なところ、私のこれまでの井上体験は、玉石混交という感じがあったのだが、年初に BS で放送された、演出の野田秀樹と組んだ「フィガロの結婚」が、なんとも清澄な素晴らしい演奏であったので、このブルックナー畢生の大作でも、きっと聴きごたえのある指揮をしてくれるに違いないと思ったものだ。
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これまで知らなかったが、この井上と N 響の鎌倉シリーズは 2011年から開かれていて、すべてブルックナーの交響曲をメインとした演奏会であった。最初に 1番、そして 7番、4番、9番と来て、最後にこの 8番に至ったらしい。私は今回、初めてこのシリーズを聴くが (そして今回が最終回であるが)、開演前に指揮者がひとりでプレトークを行い、これが滅法面白かった。もともとこの井上という指揮者、なんともユニークなキャラクターであるが、その語り口には、飄々とした中にもピリリと辛いものがあり、通り一遍の無難なトークとは一味もふた味も違う。今回彼が語るには、病気を経験し、既に死を恐れるという気持ちがなくなってしまった。但し死に際は大事で、極力ほかの人たちに迷惑をかけずに死にたい。「あれ、いなくなっちゃったね」という死に方が理想で、最近その秘策を思いついたが、ここで言うことはできない (笑)。また、宗教心の薄い日本はもちろん、ヨーロッパでも宗教的なものを尊いと思う気持ちがなくなって来ているのは問題だ。人と人の関係が希薄化している。自分は子供の頃に教師や母親に厳しく教育され、体罰も受けたが、それは自分を思ってのことであったことが分かっていたので、苦痛ではなかったと。それから、今年の 11月だかに、ショスタコーヴィチ 12番をメインとする曲目で彼は N 響定期に登場するが、今回のような特別演奏会ではなくこのオケの「定期演奏会」に出るのは、実に 30数年ぶりとのこと (私の手元で今分かるのは、1981年 5月にネルソン・フレイレと共演してラフマニノフのピアノ協奏曲 2番や、ドビュッシーの「海」等を指揮していることだ)。それは N 響と喧嘩別れしたからであるが、実際に喧嘩をした相手方は既にこの世になく、自分はどっこい生きている。この若返りした N 響との演奏は楽しみである。等々、プレトークにしては内容濃すぎませんか (笑)。あ、それから、現在は作曲にも取り組んでいて、岡本太郎を題材にしたタロウというオペラを書いている由。初演の予定は分からないが、なかなか面白そうではないか。

ともあれ今回の演奏、逃げも隠れもできない大変な曲目での 90分。全体のテンポは遅めであったが、重く引きずるというよりは、ひとつひとつ音楽的情景を確かめながらの丁寧な行程であったと思う。圧巻は第 3楽章アダージョで、これは、いわゆる老巨匠の、涙なくしては聴けない深遠な演奏とは一線を画した、充分な生命力を保ちながら、感情の川とも言うべき巨大な音楽を、非常にくっきりと描いた演奏であった。その一方で、無駄な力は抜けており、演奏する間にもオケとの信頼関係ができあがって行くように感じられた。すべての楽章で最高の音が鳴っていたということではないにせよ、そもそも音楽の醍醐味とは、その場にいて同じ空気を吸っている演奏者と聴衆が、一緒になって何か共通の体験をするということであるとすると、別に音の鳴りだけがすべてではない。全員の向かう方向が感じられることが重要だ。井上はもともと、話すほどにはその音楽は過激ではないが、今回の演奏では、天下の大曲に対するオーソドックスな態度に好感が持てた。彼は今年 70歳になるが、指揮者としてはいよいよこれからだ。機会あればなるべく聴くようにしたい。

ひとつ思い出したことには、もう 10年以上前だが、私はこのマエストロと一度電話で話したことがある。とある音楽家の方が携帯で電話をし、それを私に回してくれたものであったが、その時私は、しばらく前に彼が東京交響楽団を指揮して演奏したオルフの「カルミナ・ブラーナ」が無類に面白かったので、その話をしたのだ。この演奏、熱狂ぶりもさることながら、指揮者自身が担当した日本語字幕も大変面白く、劇場的な感興を覚えたので、「例えばあのような公演を 1ヶ月連続でやれば、結構お客さんが入ると思いますがどうでしょうか」と私は尋ねたのであった。どこの馬の骨とも知らない男の勝手な思いつきにマエストロは真面目に応対して頂き、「まあ、日本じゃダメだろうねぇ」と、いつものおどけたような言い方でおっしゃったのである。青臭いことは言わず、斜に構えたように見えるが、その音楽への取組は真摯で、人一倍情熱を持っている人だと思う。今回聴いたブルックナーのような自然体の演奏が、これからどんどん深まって行くことを期待したい。

# by yokohama7474 | 2016-03-13 01:10 | 音楽 (Live) | Comments(2)