ミッション:インポッシブル / ローグ・ネイション (クリストファー・マッカリー監督 / 原題 : Mission Impossible - Rogue Nation)

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「ミッション・インポッシブル」(今回気づいたのは、邦題では「インポシブル」ではなく、「インポッシブル」と、不可能さが強調されているのだ!!) シリーズの 5作目だが、このシリーズはこれまで欠かさず見ており、しかも、シリーズ物にしては珍しく、どれも大変面白い。主演のトム・クルーズ、前回はデュバイの超高層ビルに張り付くシーンをスタントを使わずに自ら演じたというが、今回はこのポスターの通り、張り付いたのは飛行機だ。おいおい、これ、CG じゃないの? 違うんです。本当に飛行機に張り付いて (多分、さすがに手でつかまっているだけではないだろうが)、5,000 フィートの高さ (というと、1,500m くらい) まで上昇したという。しかも、それを 8テイク取ったというから恐れ入る。ちょっと変な人だという説もあるが、こんなことをやってのけてしまう役者魂には、誰も文句がつけられまい。彼は 1962年生まれだから、既に 53歳。ここまで来たら、いつまで変わらずにいられるかという記録にチャレンジするくらい、この路線で突っ走って欲しい。

さて、この映画のすごい点は、既に予告編で公開されていたこのシーンを、大胆にも冒頭に持ってきたことだ。そうすると観客は、「あれ、もう出たよこれ。じゃあ、クライマックスは一体どうなるわけ???」と思うわけで、相当な自信がないとできないことだろう。いやはや、効果は絶大だ。

その後のシーンで、何やら IMF が要らないとか言っている。なに??? IMF、International Monetary Fund = 国際通貨基金か? それを滅ぼそうなんて、すわ、これは中国の陰謀か?? とあらぬことを考えてしまったが、この IMF は、Impossible Mission Force、主人公イーサン・ハントたちが属する秘密機関のことだ。ただ、このご時世、なんとなく米国の相対的地位の低下が皮肉っぽく描かれたいるのではと思うのは、考えすぎであろうか。この映画、パラマウントの製作だが、映画開始前の製作会社のロゴには、アリババを含む、明らかに中国 (または香港) 系の会社もあり、そのような妄想をかきたてるのである。あ、そういえば、映画の中で、架空の記事とはいえ、「世界銀行破綻の危機」というものもあった。うーむ。

それからの展開は、驚愕のドンデン返しがそれほど沢山用意されているわけでもなく、苛立ったり戸惑ったりせずに見ていられる。唯一、謎の女性、イルサ・ファウストだけが敵だか味方だか分からない。演じるのはレベッカ・ファーガソンという女優。こういうサービスショット (笑) もあるが、どちらかというと逞しいイメージであり、過度な色気を出すシーンはなく、ひたすら任務として肉弾戦を戦っている。魅力炸裂 (例えば昔、「エントラップメント」でキャサリン・ゼタ・ジョーンズが見せたような) というところまでには行かないが、まずまず好感が持てるといったところか。
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この映画、絶対絶命の危機が何度も訪れるが、その状況からの脱却は、意外と大したことはない。目を見合わせて敵を投げ倒し始めるとか (笑)。でも、それが嫌味にならないあたり、アクションの質やカット割りや装置、照明その他の要素の組み合わせがうまく行っているからではないか。私は大変楽しんだ。

このブログとしてどうしても取り上げなくてはならないのは、オペラのシーンだ。これは明らかに実際のウィーン国立歌劇場で撮影している。階段も、劇場の内部も、間違いなくこのオペラハウスのものだ。
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演じられているオペラは、このブログでも時々話題にしている、プッチーニの「トゥーランドット」だ。但し、開始早々、役人が「北京の民よ」と歌うところからしていきなりアレンジされていて、ちょっとずっこける (笑)。原曲の、短い和音が何度か鳴って、木琴がタッカッタ、タカタカタカタカと響くところ (本当はこれがいいんですけどね) に映像を合わせると間延びするという判断だろうか。その後かなり長く劇場内のシーンでずっと鳴っている音楽は、順番はバラバラだし、幕も自由に行き来し、同じシーンの繰り返しもあって、おいおいおいと思うことは事実で、例えば「ゴッドファーザー パート 3」のオペラハウスのシーンでの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の使われ方とはちょっと違う。でも、まあそれもよいではないか。映画さえ面白ければ。

ほかのロケ地として、ラスト近くのオークション会場になっている、ブレナム宮殿を挙げておこう。ロンドンからさほど遠からぬ世界遺産で、宰相チャーチルが生まれた場所としても知られる。大詰めに向けた雰囲気作りには、なかなか適した場所を選んだと思う。こういうところでフォーマルな会が開かれ、主人公が変装して入り込むなんて、なんとオーソドックス!
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そもそも冷戦が終結して、スパイ物のリアリティがなくなって久しいわけであり、007 シリーズも昔のような単純さよりも、どこか救いがたい暗さをたたえているように思う。このミッション・インポッシブルも、2大勢力の対立という大きな枠がなくなったあとの、秩序なきテロリズムを扱ってはいるものの、基本的には米英が中心となり、その中での裏切りを描いているので、あまり絶望的な感じがしない。最初に書いた中国ネタが正しいかどうか分からないが、いずれにせよそのような新興勢力を克明に描いているわけでない。また、題名の Rouge とは、「ならず者」という意味のようだが、Nation を使うとはどういうことだろうか。調べてみると、米国で公式にも使われている言葉は、Rouge State であるようだ。State と Nation は、日本語にすると同じ「国」ということになるが、私の勝手な邪推では、映画の題名を Rougue State を使ってしまうと、公式声明に出て来る言葉でもあり、最近では Islamic State の連想もあって、シャレにならなくなるからではないか。もしそうなら、その姿勢は、この作品に関しては評価できると思う。これは娯楽映画なのであって、人々の不安を煽るのが目的ではないはずだ。

もうひとつトリビアネタ。このような大規模予算映画のエンドタイトルを追うのはなかなか骨が折れるのだが、今回、音楽は作曲者のジョー・クレーマーが自分で指揮しているようだが、「トゥーランドット」に関しては、なんと、フィリップ・オーギャンの名前があった。もう何年前になるか、東京オペラの森で小澤 征爾が振るはずだった「タンホイザー」を彼が代わりに振って、素晴らしい出来であった。せっかくなので (?)、彼の写真を掲載しておこう。
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このシリーズは、既に次回作製作も発表されているらしい。次はトム・クルーズがどんなインポッッッシブルに挑戦してくれるか、楽しみに待つとしよう。

# by yokohama7474 | 2015-09-10 01:32 | 映画 | Comments(0)

さよなら、人類 (ロイ・アンダーソン監督 / 英題 : A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence)

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今年、これまでで最も強く、見たい!! と思った映画。スウェーデン映画 (より正確には、ノルウェイ、フランス、ドイツとの合作) で、原題は、"En duva satt på en gren och funderade på tillvaron"...うーん、さっぱり分からんが、duva はきっと dove (= pigeon) と同じではないかと思うと、どうやら英語の題、"A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence" と同じだと推測できるような気がする (が、保証はしません)。日本語では、「存在について考察する枝の上の鳩」ということになるが、スウェーデン語と同じく、日本語でもなんのことやらさっぱり分からない (笑)。邦題の「さよなら、人類」は、昔たまというグループが歌っていた (某友人の唯一のカラオケレパートリーでもあった) 同じ題名の歌を思い出すが、あれは「さよなら人類」であって、読点はなかった。まあそれはこの際、どうでもよい話であるが、この邦題、ポスターで見るようなとぼけた味わいとは対照的な、終末感漂う原題やこの映画の中身の雰囲気を出そうという腐心の結果であろうか。

さて、スウェーデンには仕事でも遊びでも行ったことがあり、ストックホルム郊外、世界遺産のドロットニングホルム劇場でバロックオペラなど楽しんだことまであるが、すべての人が完璧な英語を喋る国である。よって、旅行者がスウェーデン語なるものを耳にする機会はあまり多くない。従って、この映画で聞く言語に、ほとんどの人が馴染みのなさを感じるのではないか。この映画から感じることのできる終末感は、ひとつにはこの言語の響きがあると思う。もちろん、映画界にはイングマル・ベルイマンという同国の巨匠もいるわけであるが、誰でも知っているポピュラーな存在とは言い難い。「イニェー」だか「ウニェー」だか、それも Yes だか No だが分からぬが (笑)、何やら応答している登場人物たちの曖昧な言葉が、見る人になんとも不思議な孤独感を覚えさせるのである。

ポスターに出ている 2人の男は、向かって右がサム、左がヨナタン。おもしろグッズを売り歩いているセールスマンだ。何がおもしろグッズかというと、まず、吸血鬼の牙。
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それから、笑い袋 (映画で使われたものではなく、あくまでイメージ)。
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そして極め付けが、イチ押しの新製品、「歯抜けオヤジ」のマスク。
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もちろん、どこに行ってもバカ売れ・・・、なわけがなく、人々から白眼視される 2人の周りには常に徒労感と哀愁がつきまとう。そしてこの映画、これら 2人と関係あるのかないのかよく分からない登場人物たちが、何やら同じような場所に出没して、全く関連性のない仕草や会話を続けるというもの。ストーリーは、あるような、ないような。例えて言えば、吉田戦車の不条理マンガか、あるいはだいぶ古いが、ゲバゲバ 90分、またはモンティパイソンのコントのようなもの。もちろん、映画におけるシュールレアリスムの最高の例である、ルイス・ブニュエルを思わせるところも幾分ある。全部で 39シーンあるそうだが、ワンシーンワンカットで成り立っている。見ていて即興性が感じられるが、スタッフのインタビューによると、監督には撮影前にイメージができているものの、セリフを含めた完全な形での脚本はないそうだ。それでいて、適当に早撮りしてしまうわけではなく、この映画は実に撮影に 4年も要しているとのこと!!

シュールな笑いの合間に、時として強烈なシーンが出て来て目を奪う。例えば、サムとヨナタンが、歯抜けオヤジマスクを売り込んでいると、古風ないでたちの軍隊がカフェに突然現れ、馬に乗ったスウェーデン国王カール 12世 (1682 - 1718) が号令をかける。
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この少しあとのシーンでは、戦争に敗れたスウェーデン軍がトボトボ帰還し、戦争のおかげで未亡人になった若い女性が泣き崩れる。

あるいはこんなシーンもある。大きなドラム缶状の容器を横たえた中に黒人奴隷を押し込み (ここだけなぜか軍隊が英語を喋っている)、ドラム缶の回りに火を放って回転させるというもの。なんとも空恐ろしいシーンだ。
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多くの登場人物が (上の写真のヨナタンのように) 顔を白く塗っていて、ゾンビ風にも見えるし、演劇の舞台のようにも見える。いずれにせよ、この映画ではリアリティは追求されておらず、まさに空虚でシュールな、生命感のない世界。何度か登場する将校が、レストラン (冒頭のポスターと同じ場所だ) の前で携帯電話を手にするシーンでは、窓の奥で食事をしている人々が、何度も何度も馬鹿笑いしているが、それは遠い別世界から届いてくるような感覚で、現実のものではないように聴こえる。
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ここに出て来る人たちは、もしかすると、既に死んでしまっているのだろか。そういえば、何人か電話口で、「元気でなにより」という言葉を発するが、いやいや、馴染みのない言葉ということもあり、そのいずれもが、「ご愁傷様」と言っているように聴こえ、一体どこがどう、元気でなによりなのか、という感じで響くのだ!! この感覚、バルチュスの作品に似ている。この街角。この人々の生命感のなさ。でもどこかに漂う哲学的な雰囲気。
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とまぁ、とぼけた味わいの中に不気味さを満々と抱えた映画なのであって、類例を探すのはちょっと難しいし、制作の困難さも想像できる (映画監督とは、集団を動かす仕事であり、共感しない大勢のスタッフを従えて作品を作ることはできない)。私にとっては、かなり好みの映画と言える。この作品の監督、ロイ・アンダーソンは 1943年生まれで、短編も含めてこれまで何度か国際的な映画祭で賞を取っており、本作ではなんと、昨年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しているのだ。なんでも、過去の作品、「散歩する惑星」、「愛おしき隣人」に続く、15年がかりで制作されたリビング・トリロジー (人間についての三部作) の締めくくりとのこと。因みにこの過去の 2作、新宿シネマートで公開とあったので調べてみると、8月初旬の 1週間にレイトショーで上映されただけであった。うーむ、残念。そのうちディスクで発売されるのを待とう。

この映画、まだ劇場にかかってはいるが、全国的に見ても上映館は非常に限られている。もし、このような不思議映画がお好きな方は、すぐに劇場に走った方がよい。Good Luck!

# by yokohama7474 | 2015-09-07 21:50 | 映画 | Comments(0)

ワーグナー : 楽劇「トリスタンとイゾルデ」(演奏会形式) シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 2015年 9月 6日

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バイロイトでティーレマンの指揮する「トリスタン」を見てから、ええっと、もう何ヶ月経ったかなぁと思って冷静に考えると、な、なに? まだ 3週間半だ。あっれー、随分昔のような気がするが、まだ 1ヶ月も経っていないわけである。それなのに、また「トリスタン」の全曲だ。今回の演奏は、読売日本交響楽団が、その常任指揮者、フランス人のシルヴァン・カンブルランと挑む、演奏会形式だ。1週間を挟んで 2度の公演があるが、チケットは完売。相変わらずの日本人のワーグナー好きが実感される。私はド M ではないので、別にこれに行かなくてもよいのだが、まあ行きがかり上しょうがない、行くことにした。うむ、実際には松本での小澤指揮のブラームス 4番の日程とダブってしまったのだが、躊躇なくこちらを選んだ。やっぱりド M なのかなぁ・・・。

さて、会場には、新国立劇場の音楽監督でワーグナーを得意とする指揮者、飯守 泰次郎や、音楽評論家数名、いつも見かける一連のコンサート常連おじさんたち、それから、先のバイロイト旅行で見かけた人たちも含めて、東京中のド M が大集合だ。今月の東京での演奏会では、まず注目度 No. 1 と言ってよいだろう。

シルヴァン・カンブルランは、1948年生まれ。南西ドイツ放送響 (バーデン・バーデン & フライブルク) の首席指揮者として、主に現代音楽の分野で頭角を現したが、そのレパートリーは広く、読響とも、2010年の常任指揮者就任以来、古典から前衛まで、あらゆる音楽を手かげている。このポニーテールが特徴。
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実は彼は現在、シュトゥットガルト歌劇場の音楽総監督も務めていて、今回の「トリスタン」は、その劇場での主役歌手を招聘してのもの。シュトゥットガルトには行ったことがないが、この歌劇場はなかなか面白そうだなとは思っていて、今回の演奏会は、日本でポストを持つ一流指揮者の海外の活動の一端が日本に紹介される機会ととらえることができるであろう。

演奏会形式でオペラを上演する場合、少し舞台装置や照明や歌手の演技がある場合もあるし、純粋に音楽だけの場合もある。今回は、ステージ上は通常のオーケストラコンサートよりも照明を落とし、オケはまるでピットにいるかのように、各譜面台に照明をつけての演奏。但し、舞台装置や特殊な照明の類は一切なし。歌手の演技も、視線を合わせるとか、ちょっと死んだマネとかいう、最小限にとどめられた。まさに、正面からワーグナーの音楽に取り組もうという姿勢が明確だ。

これまでカンブルランの指揮には何度も接していて、情緒的でないタイプであることは分かっていたが、その一方で、オケを鳴らすことには長けているので、ワーグナーの楽劇には適性があるものと期待していた。結果的には、その期待は、まずは充分に満たされたものと思う。前奏曲では音の粘りは最小限に、但し弦に対して管が反応する際の細かい神経の使い方は傾聴に値するものであった。読響も、まだ私の耳の底に残っているバイロイトのオケの響きと比較するとさすがに酷であるが、官能性溢れる音楽をニュアンス豊かに演奏したと言えるであろう。この曲、ほかのワーグナーの曲もそうであるが、とにかく言葉が途切れる瞬間が少ないので、指揮者は流れを作るのが大変であって、始終動き続けることになるのだが、このカンブルラン、若干スコアを見る時間の割合が高いようにも思われたが、的確な指揮ぶりではあった。第 2幕の途中で指揮棒を置いて素手で指揮していたのは、長丁場の 2重唱で、オケをうまく流すためであったろうか。歌劇ではなく楽劇とワーグナー自身が呼んだ通り、歌もさることながら、オーケストラのパートが重要なオペラであり、その意味で、読響の演奏は充分作品の要求を満たしたと思う。

一方で歌手はどうか。圧巻であったのは、マルケ王役のアッティラ・ユンである。
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韓国人のバス歌手だが、欧州各地で活躍しており、バイロイトの常連でもある (去年なら、ハーゲンを歌っていたらしい。ということは、やはりこの人も、ジークフリートを、背後からではなく、正々堂々 (?)、正面から金属バットで殴り倒したのだ 笑)。その存在感は素晴らしく、このオペラ、マルケ王の登場する 2つのシーンがとりわけ重要な意味を持っているように思えてくるから不思議である。実際、第 2幕と第 3幕の幕切れ近くでマルケ王の歌う内容は、主役 2人の陶酔と対局にある、物事に対処すべき大人がわきまえているべき分別と、悲劇を浄化する寛大な人間性を表しており、これがなければこのオペラ、全くスカスカなものになってしまうということに、改めて気づかされた。凡庸なバス歌手なら、単なる説教で終わるところ、ユンは、作品の新たな面に気づかせてくれた。

ブランゲーネを歌ったクラウディア・マーンケは、帰宅してから気づいたことには、今年のバイロイトの「指環」でフリッカを歌っていた歌手ではないか!! おー、なんということ。全く分からなかった。では今日の主要歌手 5名 (クルヴェナルまで含めて) のうち 2名が、あの最低演出の経験者か。なにせ、このマーンケさん、今回のプログラムの写真がこんな爽やかなのに、
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バイロイトではこんな感じでしたから。
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本当にオペラ歌手とは大変な職業である。ところで、このバイロイトの「指環」、最低最低と言いながら、最近少し懐かしく思い返すときがある。後追いながら、演出のコンセプトについての解説なども読み、はぁそういうことだったのかという点もないではない。ただ、一度最低と評価したものは、そう簡単に評価を変えてはいけません。ということで、相変わらず最低という整理にしておこう。

話がそれてしまったが、このブランゲーネは、それほど驚くような出来でもなかった。そうなると主役の 2人であるが、イゾルデ役には、もともとシュトゥットガルトで歌ったらしいクリスティアーネ・イーヴェンが病気のため、レイチェル・ニコルズという歌手に変更になった。この名前、聞き覚えがある。多分コヴェントガーデンで聴いたことがあるような気がする。代役で出てきた割には、譜面も見ずに堂々たる歌唱ぶりであった。まずは及第点といえよう (エラそうですみません)。

最後に、トリスタン役のエリン・ケイヴィスであるが、全曲危なげなく歌ったものの、正直なところ、音程、声量とももうひとつであった。まだ若い歌手なので、これからまだ成長して行くのであろう。私は時折思うのだが、本当にオペラ歌手、特にワーグナー歌いを職業に選択しなくてよかった。あれだけ長いドイツ語を覚えてちゃんと歌うなんて、人間業とは思われない。だから、こんな曲を全曲歌えるだけで、本当は拍手喝采なのだが・・・。

聴き終わった感想を一言にするなら、「やはりワーグナーの演奏会形式上演は、長い!!」というもの。この「トリスタン」は、ストーリーが単純であるため、演技があってもなくてもよさそうなものだが、やはりそうではなく、舞台があって初めて音楽が生きると思うのだ。このオペラのストーリーがいかに簡単か、例を採って説明すると、第 2幕の要約はこうだ。
 ブランゲーネ「イゾルデ姫、お気を付けを」
 イゾルデ「いいのいいの。あ、トリスタン様ぁ」
 トリスタン「おー、愛してる愛してる、イゾルデがボクか、トリスタンがキミか分からないくらい」
 イゾルデ 「Me, too」
 メロート「おっと、不倫現場発見!!」
 マルケ「なんちゅうことしてくれんねん」
 トリスタン「お詫びにわざと切られまーす」
これだけの内容を、実に 80分かけて延々歌い続けるのだ。どうですかねこれ。ちょっと長すぎやしませんか!! それから、演奏会形式ということで、歌手は時折水分を補給しながらの歌唱であったが、例えば、第 3幕大詰め、いよいよイゾルデが最後の絶唱、「愛の死」に入る直前に、侍女ブランゲーネが強く呼びかけるシーンがあるのだが、「イゾルデ様! 愛しい姫様! 忠実な侍女の言うことが聞こえませんか?」とド迫力で詰め寄るとき、イゾルデ役の歌手が、それを一切無視して、「さあいよいよ最後よ」とばかり水分をチュウチュウ吸うのを見て、ブランゲーネが、「おい、聞いとんのかい、ワレ!!」とイゾルデをドツくのではないかと、見ていてハラハラしたものだ (笑)。

冗談はさておき、バーンスタインがバイエルン放送響とこのオペラをライヴ録音したとき、確か、各幕で 1回のコンサートであったはず。1日のコンサートで全曲は、ちょっときつかったというのが本音。但し、聴き通す忍耐を持った人間にとっては、なかなかに充実した内容であったと言ってよいと思う。次は舞台で見たい。

# by yokohama7474 | 2015-09-07 01:03 | 音楽 (Live) | Comments(0)

モーツァルト・マチネ ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2015年 9月 6日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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私がこのブログを書いているのは、まあひとつは最近物忘れが激しいので、備忘ということもあるのだが (苦笑)、もうひとつ、一応目標としていることがある。それは、大それたことのようだが、東京をはじめとした日本で、その時その時に触れることのできるいろんな文化を書きとめることで、私たちがどのような社会に暮らしているのかについて、ほんの断片的であっても考える材料を提供したいということだ。もちろん、自分に興味のあることしか書けないので、大変偏りがあるのは事実だが、たまたま同じ興味をお持ちの方にご覧頂ければ、少しは「ほー」とか「へー」とか、あるいは「それは違うだろう」と思ってもらえるかなと期待しつつ、日夜執筆に励んでおります。

さて、今回取り上げるのは、東京交響楽団がその本拠地である川崎のミューザで定期的に行っている、「モーツァルト・マチネ」というイヴェントだ。マチネとは、ご存じの通り、昼の公演のこと。このシリーズは、非常にユニークなことに、休日の午前 11時から、休憩なしで 1時間くらいで聴けるお手軽コンサートである。お手軽と書いたが、なんのなんの、演奏者は一流だ。今回はこのオケの音楽監督、名指揮者ジョナサン・ノットが登場した。

このブログでいろいろご紹介している通り、日本のオケは、全般に演奏水準がメキメキ上がっているだけではなく、それぞれにユニークな活動を展開して来ている。川崎という、それなりに賑やかだけど、まあ一般的なイメージでは正直クラシックが似合うとは言い難い庶民の街 (失礼ながら・・・) において、こんな素晴らしいホールでこんな素晴らしい催しがあって、来ている人たちがみなとても楽しんでいるのが、何より嬉しいではないか。在京のオケでも、本拠地といえるホールを持っているのは、この東京交響楽団と、すみだトリフォニーホールを本拠地とする新日本フィルくらいであるが、今日のような演奏会に接すると、本拠地で練習も本番もできるメリットを活かし、地元の人たちに愛好されていることの価値を思い知るのだ。

指揮者のノットについては以前にもご紹介したが、世界各地で大活躍のイギリス人中堅指揮者。
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もともと現代音楽で名を上げたので、今回のような古典はいかがかと思いきや、アンサンブルの基本をしっかり踏まえた、純度の高い Intimate な音楽を聴かせてくれて、なんとも心が豊かになった気がする。曲目はモーツァルトの以下の 2曲。

 ヴァイリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調K.364 (Vn : 水谷 晃 / Vla : 青木 篤子)
 交響曲第25番ト短調K.183

モーツァルトの協奏交響曲は、この弦のものと、管楽器をソリストにしたものがあり、どちらも素晴らしい名曲だ。もっとも、管の方は復元楽譜しかなく、モーツァルトの真作であるか否か分からないとされている。その点、この弦の方がより愛好されている。よくオーケストラの首席奏者 2人がソロを務めて演奏され、今回もそのパターンだ。ソリスト 2人は、ソロの場面以外はオケのパートも弾いており、そのあたりも、気心の知れた仲間の演奏という雰囲気で、なかなかよい。ノットの指揮は予想通り、重く引きずることのない清澄な音できびきびと進められ、パート同士の掛け合いも誠に楽しいものであった。欲を言えば、ソロの 2人がもっと目を合わせ、呼吸を合わせて演奏してくれればもっとよかったが、若い男女なので、ちょっとばかり照れがあったのかも (笑)。

モーツァルトの時代、器楽曲が短調で書かれることは非常に稀で、交響曲では、この 25番と、よく知られた 40番の 2曲。ピアノ協奏曲も、20番と 24番の 2曲のみだ。いずれも最高の名作ばかりだが (もしご存じない方がおられれば、騙されたと思って全部聴いてみて頂きたい)。25番は、29番と並んで中期の交響曲の名作であるが、改めて聴いてみると、その疾走感は、後年の 40番との共通点が多い。但し、40番はさすがに作曲者晩年の神がかり的境地を示すのに対し、この 25番は、若さゆえの夢想された哀しみと、その裏にある安らぎが交錯して、宝石のように美しい。シュトルム・ウント・ドランク (疾風怒濤) とはこの時代の文化を表す用語であり、ハイドンにも短調のシンフォニーの名曲があるが、ハイドンの人間性に比べると、モーツァルトのアポロ性というべきものが際立っているのが分かる。このミューザ川崎の 1階席はすり鉢状になっていて、本当に最高の響きが鳴るのだが、この曲でのヴァイオリンの左右対抗配置を聴いていると、第 2ヴァイオリンが、ある時は第 1ヴァイオリンとハモっていることもあれば、またある時は、第 1ヴァイオリンの奏でる旋律をチェロ・コントラバスと同じ音型で支えることもあることがよく聞き取れ、まさに室内楽のように響く。
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この 2曲の編成には共通点があって、ティンパニとトランペットが使われていないことだ。時代の制約で、もちろんクラリネットやトロンボーンもない。つまり、ホルンとオーボエ、あとは交響曲 25番にファゴットが入るくらいだ。ああなるほど、祝典的な要素の代わりに、気心の知れた者同士での気持ちの通じ合いこそが、このマチネのテーマだったのだ。川崎市は、実はザルツブルク市とは姉妹都市。ザルツブルクに生まれた天才モーツァルトも、遠く離れたこの川崎でこんなに質の高いコンサートが開かれていることを知ったら、さぞや喜ぶことであろう。本当に有意義な日曜の昼になった。

# by yokohama7474 | 2015-09-06 23:35 | 音楽 (Live) | Comments(0)

山田 和樹指揮 日本フィル (サクソフォン : 上野 耕平) 2015年 9月 5日 サントリーホール

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もしクラシックにあまり興味がない人でも、名前を覚えておいて欲しい指揮者がいる。山田 和樹。1979年生まれなので、今年 36歳ということになる。その活躍ぶりにはまさに目を見張るものがあり、今後ますます活動の幅を広げて行くことが期待されるし、何より、小難しいことを言わず、でも同時に通も唸らせるようなマニアックなことも、その童顔で文字通り涼しい顔でやってのける、そんな逸材だ。覚えておいてきっと損はないと思う。

日本フィルの正指揮者として彼が今回取り組んだのは、別宮 貞雄 (1922 - 2012) の交響曲第 1番。このオーケストラの意義ある活動のひとつとしてよく知られているのが、初代音楽監督であった渡邉 暁雄の提唱によって始まった日本フィル・シリーズである。これは現代音楽作曲家にオーケストラ曲を委嘱するというもので、1958年以降既に 39作に及ぶ新作を委嘱、初演してきた。そして今このオケが取り組んでいるのは、過去の初演作の再演である。現代音楽、特にオーケストラ曲は、初演に漕ぎ着けるだけでも大変であるのに、再演されるという機会はほとんどないのが実情である。集客の点でリスクを抱えながらも、そのような意義深い活動を地道に行っているこのオケの姿勢は、高く評価されるべきであると思う。委嘱作の再演はこれが 9作目である由。

今回のプログラムは実に凝っている。メインの別宮 貞雄の作品に至るまで、まず、作曲者が学んだフランスのダリウス・ミヨーの代表作のひとつ、バレエ音楽「世界の創造」作品 81 を置き、そこで登場する 23歳の若きサックス奏者、上野 耕平にソロを受け持ってもらうべく、イベールのアルト・サクソフォンと 11の楽器のための室内小協奏曲を加え、そして、別宮が終生尊敬したベートーヴェンの交響曲第 1番ハ長調作品21を持ってきたというもの。

私は特に熱心な別宮のファンではないが、その交響曲の CD は Fontec レーベルのものを何枚か持っていて、今回も、交響曲第 1番は手元にあるだろうと思って調べたところ、3番、4番、5番の 3曲だ。おっとー、1番はないか。と思ってあとでよくよく考えたら、NAXOS の日本の作曲家シリーズで持っていましたよ。交響曲 1番と 2番。これで、この作曲家の交響曲はすべて手元で聴けるということになる。
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別宮は、東大の理学部物理学科を卒業後、同じ大学の文学部美学科を再度卒業したという異色の学歴を持つ。パリ音楽院でダリウス・ミヨーやオリヴィエ・メシアンに学ぶ。これは貴重な、師ミヨーとのツー・ショット。
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詳細は省略するが、私はミヨーの音楽が大好きで、特に今日演奏される「世界の創造」は、学生時代に毎日のように聴いていた頃がある、思い出の曲だ。こういう機会に実演で聴くことができて、本当に嬉しい。また、イベールの洒脱味も独特のもので、若い上野のソロで活きのいい演奏を聴くと、なんともワクワクして来るのである。

メインの別宮の交響曲は、非常な熱演であった。作風は、最初の楽章はショーソンの交響曲風かと思ったが、抒情的に歌うところもあった。「なげき」と題された第 3楽章は、なかなかあなどれない深さと厳しさを持つ曲であったし、終楽章は、(山田がプレトークで語った通り) ショスタコーヴィチ風だ。山田は、常にめりはりをはっきりさせた明確な音楽を紡いで行く。過去の作品を継承する責任感と同時に、音楽を奏でる歓びにあふれる演奏であった。
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さて、この日の真の驚きは、ベートーヴェンである。21世紀のベートーヴェンは、小編成でキビキビと演奏されるのが通例。もし大規模オケで思い入れたっぷりにテンポを揺らそうものなら、指揮者の知性が疑われるような時代である。それを山田は、コントラバス 8本、管楽器は通常の倍の大編成でやってのけたのだ。実際、今までの人生で私自身、この曲をこれまでに何百回聴いてきたか分からないが、こんなに個性的な演奏にはついぞお目にかかったことはない。第 1楽章では、提示部を反復しつつも、ベートーヴェン特有の畳み掛ける音型を強調し、管の絡み合いと弦の推進力が絶妙。第 2楽章では、なんとなんと、冒頭の第 2ヴァイオリンがソロで始まって、その後ヴィオラ、チェロもソロとなり、木管との掛け合いの後、第 1ヴァイオリンが入るところで初めて合奏になっていた。そのような版の楽譜があるのであろうか。はたまた、音楽の展開を効果的にするための独自の変更か。いずれにせよ、これまで聴いたことがない!! (終演後に第 2ヴァイオリンの首席奏者を立たせていた) 第 3楽章は比較的スムーズであったが、やはり弦と管の掛け合いが顕著。そして、とどめの驚愕は第 4楽章だ。冒頭の和音が延々と延ばされ、まるで第九の "vor Gooooooot!!" のフェルマータかと思った (笑)。それから主部に入って音楽が走り続けるまで、音が止まってしまうくらいテンポを落とすのだ。言ってみれば昔の指揮者の芝居がかった音楽のようでもあるが、でもそこには不必要な音の粘りはなく、どんなにいじっても不潔な感じがしないのだ。これぞ指揮者の能力の見せどころ。山田の手腕はまさに天才的だ!!

この人、現在 3年がかりで進行中のマーラー・シリーズでもそうなのであるが、演奏前にプレ・トークをすることが多い。今回は珍しい作品が多いこともあり、ひとりで舞台に出てきて、20分くらい楽しそうに喋ってくれた (ステージマネージャーが舞台まで巻きを入れに来たくらい 笑)。このベートーヴェンについては、嬉しそうに、「大きい編成でやります」と言っていた。なんでも、4番のシンフォニーのベートーヴェンによる演奏のパート譜が残っていて、場面によって大編成で演奏したことがそれによって分かるという。確かに、同時代の楽器の性能の限界をもどかしく思っていたであろうベートーヴェンが、現代の進化したオケの大音響を聴くと、手を打って喜ぶかもしれない。原典ばやりの昨今、自分がよいと信じる方法で音楽を奏でることができるこの指揮者、本当に素晴らしいと思う。

プレ・トーク終了時に慌ててカメラを向けたが、去り際のこんな写真しか撮れなかった。まあでも、このプログラムを生で聴くことができた記念として、ご覧の皆様ともシェアさせて頂きます。山田 和樹、是非名前を覚えて頂きたい。
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# by yokohama7474 | 2015-09-06 00:38 | 音楽 (Live) | Comments(0)