アロンドラ・デ・ラ・パーラ指揮 NHK 交響楽団 (チェロ : ナレク・アフナジャリャン) 2016年 1月31日 Bunkamura オーチャードホール

日本を代表するオーケストラである NHK 交響楽団 (通称 N 響) は、大変に多忙なオーケストラであって、毎月 3種類のプログラムの定期公演が各 2回ずつあるほか、各種地方公演や特別演奏会などを行っている。その中に、渋谷にある東急 Bunkamura のオーチャードホールを舞台にしたシリーズもあって、「オーチャード定期」と名付けられている。さすがに毎月の開催ではなく、大体 2ヶ月に 1回のようであるが、このホールを訪れると、毎シーズンのオーチャード定期が一覧となったポスターを見ることができる。それを見るともなしに見ていると気づくことには、このシリーズに登場する指揮者には、もちろんスラトキンとかブロムシュテットという、「本物の」定期に登場する巨匠たちも交じってはいるものの、ほとんどはあまり名前を聞かない指揮者が多い。つまり、未だ「本物の」定期に招聘する前に、オーケストラがその腕前を試すために若い指揮者を呼んでいるのではなかろうか。先に N 響定期デビューを果たした山田和樹も、初めてこのオケを指揮したのは、このオーチャード定期であったはず。それからこのシリーズ、ほとんど必ず協奏曲が入っていて、若手・ベテラン色とりどりのソリストを聴く場にもなっているのだ。・・・というわけで、通常なら冒頭に掲げる写真もなしに無駄口をベラベラ喋っている (笑) のにはわけがあって、今回の指揮者が誰であるか知っている人をじらそうという私の意地悪なのだ。はっはっは。では、今回の公演のチラシをお見せしよう。
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なになに、「美貌のマエストロ、アロンドラ・デ・ラ・パーラ 情熱のタクトを携え N 響オーチャード定期デビュー!」と、びっくりマークつきで宣伝文句が書かれている。なるほど。この写真はまるで女優ではないか。この人が指揮をするなら、ちょっと興味を惹かれるのが人情というもの。いやもちろん、指揮者だから客席に背を向けて演奏するわけで、しかもこのホールにはステージの横とか裏には客席はないから、いかに美貌の持ち主であっても、演奏中に顔を正面から見ることは叶わない。そもそも音楽とは、顔で演奏するものではないし、ちょっと見た目がよいからと言って、いい演奏をするとは限らない。なので、私がこのコンサートを聴きたいと思ったのは、一義的には音楽を聴きたいと思ったからなのである。・・・今日はなんだか無駄口が多いような気がするなぁ・・・。

真面目な話、最も私の興味を惹いたのは、この曲目である。
 ドビュッシー : 牧神の午後への前奏曲
 ショスタコーヴィチ : チェロ協奏曲第 1番変ホ長調作品107 (チェロ : ナレク・アフナジャリャン)
 ストラヴィンスキー : バレエ音楽「春の祭典」

1曲目と 2曲目はともかく、メインの「春の祭典」は、野性味あふれる凄まじい難曲。非力な女性指揮者では (あ、もちろん非力な男性指揮者でも) 手におえない難物だ。それをこの女優のような指揮者がいかに捌くのか、大変興味がある。これが「新世界」とか「カルメン」なんかだと、きっと行っていなかったに違いない。なんだか、つい最近見た「スター・ウォーズ フォースの覚醒」の主役、レイを思わせる強さを持つ女性指揮者なのではないかと、勝手に想像したりする。

このデ・ラ・パーラ (が苗字ということでよいのだろうか) は、1980年にニューヨークで生まれたメキシコ人。経歴を見てもコンクール優勝歴の記載はないようだが (もちろんミスなんとかという経歴も!)、23歳でニューヨークを拠点に 20ヶ国の若者をメンバーとするフィルハーモニック・オーケストラ・ジ・アメリカズを組織してメキシコをはじめとするアメリカ音楽の紹介に努めているという。かなり行動力のある人のようだ。これまでに指揮したオーケストラとして、パリ管、国立リヨン管、スウェーデン放送響、ウィーン・トーンキュンストラー管、サンフランシスコ響等の有名オケの名がある。また、2012年に東京フィルを、2014年にはオーケストラ・アンサンブル金沢と兵庫芸術文化センター管も指揮しているらしい。
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今回はこのような長い髪ではなくショートにして、燕尾服の代わりにノースリーブの黒いジャケット(もちろん、黒い長袖シャツを下に着ている)にパンツといういでたちであったが、驚いたのはその靴だ。真っ赤な光沢を放つエナメルの、スニーカーのようにも見える靴。なかなかに大胆である。また、指揮台から客席に投げる微笑みも、なかなかに爽やかだ。さて、肝心の音楽やいかに。

最初の「牧神の午後への前奏曲」について彼女はインタビューで、ドビュッシーは一番好きな音楽家であると述べた上で、「和音でもメロディでも管弦楽法でも、音楽の世界を変えた、と思います。私は、この曲のエロティックなところが大好きです。すべての旋律が際どい」と語っている。だがこの日彼女が冒頭のフルートに入りを指示してからゆっくり棒を振り出したのを見て、「なんとも色気のない振り方だなぁ」と思ってしまったのだ。右手はしっかりと棒を握りしめ、かなり機械的に拍子を取る。左手はそれにそえられるのみで、さほど自由に動き回ったりはしないのだ。正直、これだけ見ると失礼ながら素人の指揮ぶりのように見える。だが、それにもかかわらず、鳴っている音は徐々に不思議な情感を醸し出し、大変に充実した演奏になったのだ。これは不思議であった。やはりオケを動かす何かを持っている人のようだ。

2曲目のショスタコーヴィチでは、別の驚きを覚えることとなった。ここで登場したソリストのアフナジャリャンは、1988年生まれのアルメニア人で、2011年のチャイコフスキーコンクールの優勝者であるとのこと。このチェロが素晴らしかったのである。
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彼は晩年のロストロポーヴィチに学んだとのことだが、このチェロを聴いて私はすぐにこの 20世紀後半のチェロの巨人の音を思い出した。もちろん、変幻自在のテクニックという点でもそうであるが、なんというべきか、非常に繊細でいて豪胆な、艶やかにして深く鳴る、あの独特のチェロの音である。指の無窮動から紡ぎ出される音が、もうこれしかないという確信とともに空中に淀みなく次々と立ち昇るこの感覚は、まさにロストロ以外に聴いたことのないものである。もちろん、それはアフナジャリャンが偉大なる先人を真似しているということではなく、彼自身の音楽として鳴っているのだ。この若さでこれができてしまうとは、驚くべき才能である。このチェロ協奏曲第 1番は 1957年の作で、先に「ブリッジ・オブ・スパイ」の記事でご紹介したピアノ協奏曲第 2番と同じ年に書かれているが、こちらはよりショスタコーヴィチらしい、痛々しく陰鬱なパロディ精神を持った曲である。まさにロストロポーヴィチのために書かれて、彼が初演した曲であるが、そのような曲の精神がこのような優れた後継者によって日本で再現されるとは、本当に意義のあることだ。ここでは聴衆も美人指揮者を忘れて非凡なチェロに聴き入ったのである。そしてアフナジャリャンは、ニコリともせず、一言も発することなくアンコールを演奏したが、冒頭でも途中でも、あたかもコーランの祈りのような歌を、チェロ奏者自身が歌うと思うと、目もくらむような超絶技巧がそれに続く不思議な曲。見事な演奏に客席が沸きに沸いたが、会場の表示によるとこれは、イタリアの作曲家、ジョヴァンニ・ソッリマ (1962年生まれ) の、「ラメンタツィオ」という 1998年の作。この作曲家の名前はどこかで聞いたことがあるが、はっきりとは思い出せない。調べてみると、ミニマリズム風の作風を持ち、あの英国の鬼才ピーター・グリーナウェイ監督の映画「レンブラントの夜警」では彼の作品が頻繁に使われているという。おー、なんということ。心から敬愛するこの監督の近作を私が知らないなんて。2008年の作品で、私が日本を離れていたときのものだ。無知を恥じて、近く DVD で見てみることにしよう。それにしても、おそるべしアフナジャリャン。この長い名前を覚えておこう。

さて最後の「春の祭典」。私は、よくオケが鳴っていたと思う。リズムのキレもよく、金管の咆哮や、決め所の打楽器も申し分ない。ただ、欲を言うならば、もっと遊びが欲しい。あの機械的な棒の動きでは、オケも羽目を外す本当の熱狂には立ち至らないのではないか。正確な指揮で、変拍子も丁寧に振っている一方で、数か所は、通常の演奏より大きな表情づけがあったり逆にテンポが速かったりもしたが、命がけののめり込みまでは感じられなかった。いやしかし、彼女の指揮のよい点は、独りよがりの陶酔がないということだ。ただ派手に指揮棒を振り回し、大汗かきながらオケを混乱させるよりは、この曲の場合はこのやり方の方がよいのかもしれない。私の席からよく見えた第 1ヴァイオリンの人たちは、足でリズムを取りながらダイナミックに演奏していて、そこには日本を代表するオケとしての矜持が見えたような気がする。ひょっとすると指揮者は、自分があまり大仰に振らずともオケが鳴るので驚いたかもしれない。ちょっと気になったのは、終演後のカーテンコールで、最近はよく見かける、オケから指揮者への拍手がなかったこと。他意はないのかもしれないが、N 響の昔の保守的な体質をふと思い出したりもした。私の思い過ごしであればよいが。まさか、彼女の赤い靴が気に入らないとか、そんな理由ではないでしょうね (苦笑)。

指揮者に求められる資質は、まずは職人的な正確さであろう。その意味で、この不器用な棒を振る美人指揮者は、その点の基礎がありながらも、それ以上にカリスマを発揮できる場面は未だ限られているのかもしれない (例えば今回は最初の「牧神」で片鱗が見えたと言えないだろうか)。インタビューで、最も尊敬する指揮者をカルロス・クライバーと答えている彼女は、実はあの究極のカリスマを夢見ているのであろうか。もちろん、クライバーの真似をしてできるくらいなら、他の指揮者も皆やるだろう。第 2のクライバーは存在しないし、する必要もない。そんなことは、座ってただ聴いているだけの私がエラそうに言わずとも、やっている指揮者の人たちが当然分かっていること。かくなる上は、デ・ラ・パーラ自身の音楽を、自ら確信を持って演奏して行ってもらうしかない。だがしかし、こんな顔をしていると、注目してもらえる点は得だろうが、音楽家としては逆に真価を認めてもらう妨げにもなりかねませんね。
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これからの活躍を期待しております。

# by yokohama7474 | 2016-02-02 00:35 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

スター・ウォーズ / フォースの覚醒 (J.J. エイブラムス監督 / 原題 : Star Wars The Force Awakens)

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これは世間で言うところの常識であろうが念のために書いておくと、スター・ウォーズは全 9作構成になっていて、1977年に製作された最初のものは、エピソード 4。「新たなる希望」という副題が後になってつけられた。最初の三部作はエピソード 4・5・6。それからエピソード 1・2・3 の順に製作されてきた。直近の製作になるエピソード 3 は 2005年の作。なんでも、エピソード 1~3 はアナキン三部作、4~6 はルーク三部作、そしてこれから始まる 7~9 はレイ三部作だそうだ。レイとは、上のポスターで真ん中左側にいる若い女性。彼女がこれからの主人公ということになる。今回のエピソード 7は昨年、2015年公開だから、最初の作品から既に 38年。前回の作品、エピソード 3 からでも 10年の期間を経たことになる。実に息の長いシリーズである。私は特に熱狂的なスター・ウォーズ・ファンということでもないけれども、もちろんすべてのシリーズを見てきている。また随分以前だが、このシリーズの美術に関連する展覧会にも出かけたことがあって、もとはといえばジョージ・ルーカスというひとりのクリエーターの頭の中の構想が、何百人、何千人という作業者の手を経て映画になり、それが世界何億人の人たちに発信されているのだということを考えるとクラクラしたものだ。今回の作品の世間の評価がどうなのかはよく知らないが、私の回りの人たちの中には、これを天下の名作と思っている人はいなさそうだ。劇場は充分混雑してはいるが、正月映画として「妖怪ウォッチ」に興行成績が負けてしまったと聞いたが、さて、その中身やいかに。

私の期待の第一は、監督が J.J. エイブラムスであるという点であった。現在進行中の「スタートレック」シリーズもよいが、スピルバーグ製作による「スーパー 8」がファンタジーあふれる素晴らしい作品であったからだ。スター・ウォーズ・シリーズの新作ともなると、世間の期待も大きなプレッシャーになり、知名度による動員もあらかじめ相当見込めるとはいえ、いわば成功して当たり前。もし面白くなかったら大変なことになる。今回の脚本は、監督自身と、それから、「シルバラード」等の映画が封切られたときには名監督と評価されたローレンス・カスダンも名を連ねている。

多分この映画に不満を覚える人は、以前のシリーズを見ていれば、「なんだ、前のと同じじゃん」と思う人であろうし、以前のシリーズを知らないなら、「クライマックスのサスペンスが最近の映画にしてはイマイチ」という人なのではないだろうか。だが、私としては、だからこそこの映画は評価に値すると考えたい。例えば、3-CPO と R2-D2 がほとんど出てこない代わりに、BB-8 というロボット (劇中ではドロイドと呼ばれる) が出て来て、観客を楽しませてくれる。下のボールの部分が転がり、上部の顔のような部分は水平に保たれているという構造。CG ではなく実際にそのような動きをするものを作ったらしい。これが人の会話に様々反応し、なんとも可愛らしいのだ。
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それから、酒場のシーンを中心にワサワサ出て来るクリーチャーたちは、これも CG 全盛時代に、あの昔ながらの手作り感満載だ。
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それから、主人公たちの乗り物。レイが颯爽と砂漠の中を走り抜けるこのアイスキャンディのような乗り物も、第 1作の乗り物からしてそうであったように、停まっているときも自然に宙に浮いていて、懐かしささえ覚える。
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そのように、明らかに作り手の意図は、昔ながらのスター・ウォーズの世界、あるいは第 1作のエピソード 4 への回帰にあるように思う。正直、アナキン三部作と呼ばれるらしい、エピソードの 1から 3は、あまり面白くなかった。アミダラ姫を演じたナタリー・ポートマンがどこかのインタビューで、CG や合成が多くて、撮影のときに完成作を想像もできず、実際に作品を見たときに、「行っていない旅行の写真に自分が写っている感じだった」と語っていたが、いやいや、それはよく分かる。もちろんこの作品も CG・合成満載であるが、クローン大戦が起こるわけでなし、役者の体が大きな実在感を持っている。

題材に関しても、過去を思い出させる要素が様々ある。黒いマスクをかぶって声のこもった悪役。繰り返される親子の確執。引き離された家族。目覚めていくフォース。そして大詰めは、巨大な敵の要塞を攻撃するシーンで、これはデススター破壊と同じではないか。だが、これって何かちょっとほっとしませんか。例えば最近のスーパーマンシリーズを考えてみよう。力の強い者同士が殴り合うシーンをリアルに表現しようとすると、地面は砕けビルは壊れ、うるさいことこの上ない。X-Men やアベンジャーズも、なんだかよく分からない強敵が現れ、どうやって地球を危機に陥れるかを考えることに作り手が汲々としている様子が伺える。その点スター・ウォーズ・シリーズなら、原点に戻るという選択肢があるのだ。これは、エピソード 4 でハン・ソロとチューバッカが乗っていたミレニアム・ファルコン。本作ではレイが、「長年放置されているおんぼろ船」として脱出に利用する。カッコいいじゃないですか。なんとも効率的な廃品利用であり、技術の伝承だ (笑)。
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その一方で、第 1作から 40年近い時の流れを感じる点も多々ある。象徴的なのは主人公たち。レイア、ルーク、ハン・ソロという 3人はいずれも白人であった。今回新たに出て来るキャラクターの中心 3人は、女性、黒人、ヒスパニック。レイアは勇敢に戦う女性ではあったかもしれないが、男性を励まし、ついて行く女性であった。だが今回の主役レイは、男に手を引かれると引きはがし、自らバッタバッタと敵をなぎ倒すのだ。まあ、マスクに隠れて顔の見えない帝国軍側の兵士も、こうなると実は女性が多いのかもしれないが (笑)。演じるデイジー・リドリーは 1992年生まれの英国人。これが本格的な映画デビューのようだ。新時代のフォース覚醒にふさわしい素晴らしい女優ではないか。
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この、女性、黒人、ヒスパニックが救うアメリカ合衆国、あ、違った、共和国であるが、しかし、第 1作と決定的に違うのは、そのエンディングだ。今でも明確に覚えている、祝祭感覚あふれるあのエピソード 4の華やかで和やかなラストシーンと異なり、今回の勝利には笑顔はない。犠牲になった命への哀悼と、まだまだ続く戦いへの緊張感が支配しているのだ。これこそ、1977年時点の米国 (ソ連崩壊も、湾岸戦争も、9・11 テロも、黒人大統領も、IS の台頭も知らない米国) と 2015年時点の米国の明らかな差ではないか。この映画にはその時々の米国の在り方が、如実に反映されているのだ。

またこの映画の美点は、以前の 3人、レイア・オーガナ役のキャリー・フィッシャー、ルーク・スカイウォーカー役のマーク・ハミル、ハン・ソロ役のハリソン・フォードが揃って出演していることだ。その間に過ぎ去った時間をそれぞれリアルに顔に刻印して。ハリソン・フォードは近年自家用飛行機の墜落事故に遭っており、ヒヤリとしたが、皆健在でよかった。もっともこの 3人のうちで立派にハリウッドのトップ俳優としてキャリアを築いたのは彼だけなのであるが、そのキャリアに恥じない、とても 73歳には見えない素晴らしいハン・ソロぶりであった。マーク・ハミルの場合は、以前「キングスマン」の記事でも紹介した通り、なんとも老けた感じになってしまって、この映画にはもう出られないのかと思っていた。しかしながら、本当に最後の最後、孤島に隠遁するルーク・スカイウォーカーとしてほんの少しだけ登場するのだ。こんな感じ。なるほどこれはこれで、悪くはない。よく見ると面影があるし。
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それにしても、ほんの数カットにしか出てこないのに、この映画のエンドタイトルで、彼の名前は役者として 2番目に登場するのはいかがなものか。効率的なギャラの稼ぎ方である (笑)。そういえばエンドタイトルでもうひとり、驚きの役者名を発見。マックス・フォン・シドー。実に 86歳のスウェーデンの名優だ。往年のベルイマン映画で歴史に名をとどめる伝説的俳優だが、あの「エクソシスト」のときですらお爺さんだと思ったのに、まだご健在とは!! ロア・サン・テッカという役で少しだけ出ていて、正直なところ私も見終ったあとで彼と気づいた次第。これは本作のワールドプレミエのときの写真だ。帝国軍の兵士と一緒とは、天国のベルイマン監督が見たら腰を抜かすんじゃないかな (笑)。
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さてさて、このようにこの作品は過去に学び、原点の偉大さに敬意を払いながらも周到に現代の要素を取り入れているのであるが、嬉しかったのは音楽だ。ここでは、ジョン・ウィリアムズの手になるあのメインテーマが高らかに使われていることに加え、音楽担当者として彼の名前がクレジットされているので、実際に新たに作曲したものも入っているのだろう。実は、「ブリッジ・オブ・スパイ」では当然盟友スピルバーグと組んで音楽を担当するはずであったのが、体調不良で果たせなかったとのこと。もしかすると、本作で疲れ切ってしまったのかもしれない。彼も既に 83歳。映画音楽というハードワークに耐えるだけの体力維持がなかなか難しいのかもしれないが、是非、まだまだ頑張って欲しいものである。
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では最後に、音楽ファンの方々にとっておきのネタをご提供しよう。これはウィキにも、映画のプログラムにも書いていないことだ。これだけの規模の映画では、エンドタイトルに目を凝らすのも大変なのだが、ひとつ目に入った情報がある。この映画の音楽は、作曲は上記のジョン・ウィリアムズ。そして劇中に使われている演奏を指揮しているのは、作曲者自身と、もうひとり知らない名前があった。フーン知らないなと思った次の瞬間、その下に、Special Guest Conductor というタイトルで、あっと驚くある有名指揮者の名が登場。それはこの人だ。
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なんと、今をときめくあの天才指揮者、グスタヴォ・ドゥダメルではないか!! 一体どの部分の音楽を指揮しているのか知らないが、Special Guest ということは、場合によってはメインテーマだったりするかもしれない。もしかするとこの役目は、彼が今、ハリウッドのおひざ元 LA のロサンゼルス・フィルの音楽監督であることと関係しているのだろうか。そういえば、第 1作が封切られたときに同じロス・フィルの音楽監督であったズービン・メータ (今年 80歳) は、サントラとは別に、ロス・フィルとともにこの曲のテーマを録音していたものだ。その意味でもこの作品は原点回帰、そして世代交代を意識した製作態度を通しているように思う。どんな天才鬼才も、年は取って行く。だが、あらゆるかたちでその経験や技術が伝承されているところに文化のよさがある。素晴らしいことではないか。

# by yokohama7474 | 2016-01-31 23:15 | 映画 | Comments(0)  

山田和樹指揮 日本フィル マーラー・ツィクルス 第 4回 2016年 1月30日 Bunkamura オーチャードホール

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このブログでは過去に何度か、期待の若手指揮者、山田和樹について採り上げてきたが、その彼の真価を問うべきシリーズが今年も始まった。3年かけてマーラーの番号付交響曲を作曲順に演奏するツィクルスだ。昨年の第 1期では 1・2・3 番が演奏され、今回から 3ヶ月に亘って開かれる第 2期では 4・5・6番が演奏される。第 1期は「創生」と名付けられていたが、この第 2期は「深化」となっており、来年開かれる第 3期は、「昇華」である。私は去年も今年も通し券を買っているが、実は去年の 3回の演奏会のうち、第 2番「復活」は出張のために聴けなかった。であるからこそ、今年の 3回はなんとしても全部聴きたい。でも、音楽過密都市東京のことである。今回の 3回はいずれも、なかなかに諦めがたいほかのコンサートや舞台上演とバッティングしているのだ。苦渋の決断ではあったが、コバケン、パーヴォ・ヤルヴィ、小澤征爾をすべて諦めて山田和樹にかけることにした。山田さん、もしこれをご覧になっていれば、このような私の意気込みを是非ご理解下さい (笑)。

さて、東京では過去にも様々な一流演奏家によるマーラー・ツィクルスが開かれてきているが、その中でも最も過激であったのは、東京芸術劇場のこけら落としとして 1990年に行われた、ジュゼッペ・シノポリ指揮のフィルハーモニア管弦楽団によるもので、これはほぼ 2週間のうちに、「大地の歌」、第 10番のアダージョを含む全交響曲のみならず、歌曲のすべてとカンタータ「嘆きの歌」を演奏するという恐るべきものであった。なんちゅう無茶をしたものか。その過労もあってか、医者でもあり古代エジプト研究者でもあった稀代の名指揮者シノポリは、2001年、ベルリン・ドイツ・オペラで歌劇「アイーダ」を指揮しているまっ最中、轟音とともに指揮台に倒れ、54歳で帰らぬ人となったのだ。マーラーを演奏するとは、かくも命がけのことなのである。ちなみに、このツィクルスの「大地の歌」の回では、アルトを歌った名歌手ワルトラウト・マイヤーとの関係が当時噂されていたダニエル・バレンボイムが、客席で譜面を見ながら演奏に聴き入っていたことを鮮明に覚えている。

さて今回のツィクルスであるが、上記の通り 3年がかりの無理のないスケジュールで行われ、まだ 36歳と若い山田のことであるから、安心して下さい。はいてます、じゃなくて、ハイテンションで行くことであろう。このツィクルスの特徴は、マーラーの交響曲の前座として、必ず武満 徹 (たけみつ とおる) の音楽が演奏されることだ。我々の世代にとっては説明の必要ない、名実ともに日本最高の作曲家であったが、最近の若い人にとっては新たな発見があるのかもしれない。山田自身、1996年に逝去した武満との直接の面識はなかったことであろう。
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武満についてあれやこれやを書き始めるときりがないので、材料をひとつだけに絞ろう。実は、先日のアラン・ギルバート指揮の東京都響の演奏会で少し触れた、1988年のハインツ・レークナー指揮読売日本響のプログラムに掲載されている、音楽評論家 向坂正久による武満のインタビューだ。マーラーについてどう思うか訊かれた武満は、「全然関心なかった」と答えている。ニューヨークの友人から、ブルーノ・ワルター指揮の「大地の歌」を薦められて聴いてみて少し関心が生まれ、実は彼の作品とマーラーの作品を同じ演奏会で演奏するケースが多いことに気付いたらしい。そして彼の評価は、マーラーは「好きなところもあるし、そうでないところもありますが、ヨーロッパ文化の根深さのようなものを感じますね」と答えている。いかにも独学の教養人らしい回答ではないか。

さて、例によって長い寄り道はこのあたりにして、今回の演奏会について触れよう。今回、メインはマーラーの交響曲第 4番ト長調。その前に演奏されるのは、武満の 1992年の作品、「系図 - 若い人たちのための音楽詩 -」である。私はこの作品には、同じ年の小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラによる日本初演の演奏のテレビ放送によって初めて触れたが、実はニューヨーク・フィルの創立 150周年として委嘱され、レナード・スラトキン指揮によって世界初演されたとのこと。武満とニューヨーク・フィルと言えば、創立 125周年の際に書かれた代表作「ノヴェンバー・ステップス」が有名だが、その 25年後にも委嘱されたとは知らなかった。この曲、詩人谷川俊太郎 (武満の親しい友人であった) が書いた全編ひらがなの詩 (「わたし」が家族のそれぞれを描写する内容だが、柔らかな雰囲気の中にかなり毒を含んでいる) を作曲者が自由に組み合わせて使用している。題名にある通り、「若い人」が語りをする。このシリーズでは指揮者の山田自身が毎回開演前に舞台に登場してプレ・トークを行うのであるが、それによると、この語り手をどうするか大変悩んだとのこと。「有名な女優さんを使う手もありますが」と言っていて、それはこのブログでも採り上げた、今月の N 響定期における松嶋菜々子を差しているのかと勝手に想像した。結局、選択はひょんなことからなされた。山田が飛行機の中である映画を見て気に入った女優がいたが、この曲で想定されている 10代半ばよりは少し年齢が上らしい。だが山田はネットで調べて、この女優には、やはり女優の妹がいることを発見。現在 15歳の彼女に白羽の矢が立ったのだ。彼女の名前は上白石 萌歌 (かみしらいし もか)。
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彼女の姉は、上白石 萌音 (もね)。あの周防正行監督の「舞妓はレディ」の主役である。山田が機内で見た映画とは、きっとこれであろう。私は昔から周防監督の大ファンなのであるが、最近は作品を撮らない期間が長くて、それにしびれを切らすあまり (?)、この最新作を見損ねてしまった。まあそれはよいとして、この 15歳の女優さん、大変立派なことを成し遂げた。手元で何も見ることなく、全編暗記で語りを通したのだ。それはそれは堂々たるステージマナーで、にこやかな微笑みが会場全体に行き渡るような、すばらしい語りであった。今後が楽しみである。ただ、意地の悪いことを言えば、一箇所、「箸」を「端」と発音してしまっていた。細かくてすみません。山田と日フィルは、大変ニュアンス豊かな演奏で彼女に対して万全のサポートを提供した。

さて、メインのマーラー 4番であるが、これは彼の全交響曲の中でも、最も穏やかな曲である。楽器編成も、印象的な鈴の使用がある一方で、金管にはトロンボーンとチューバを欠いている。ただ、穏やかで美しい一方でシニカルな面もあり、そこはそれ、腐ってもマーラー (?) である。私のように長らくクラシック音楽を聴き続けてくると、有名曲の持ち味は勝手に自分の中で整理ができてしまうのであるが、今回、山田のプレトークでいくつか発見があった。まず、今回の武満とマーラーの組み合わせのテーマは、「子供」であると。なるほど、ここでもまた、先の N 響との演奏会 (明確に子供の遊びをテーマにしていた) との連続性が伺える。この指揮者、自身が子供のような童顔でありながら、なかなかの曲者だ (笑)。それから、この曲の冒頭で現れる鈴の音が道化師の前口上だというのだ。その鈴は、ソプラノ独唱の入る終楽章で再び戻ってきて、そこで歌われる天国の生活を揶揄する効果を持つ。うんなるほど、この曲のシニカルな部分は (第 2楽章の死神のヴァイオリンを第一の例として) 知っているつもりであったが、全編がパロディになっているのか。「天国の生活」の対照は、歌曲集「子供の不思議な角笛」に含まれている「浮世の生活」であるということも、今回言われてみて初めて気が付いた。なるほどなるほど。プログラムに掲載されている解説には、この曲 (1901年初演) が書かれた頃のマーラーはウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任したてであり、この曲にはウィーンへの皮肉が含まれているとある。第 1楽章開始部のテーマは優雅なウィーン舞曲であるが、その後の展開で、この地の上流社会の中に「天国の生活」が紛れ込む。第 2楽章はオーストリアの舞曲レントラーに死神がまといつく。第 3楽章は宗教的雰囲気と孤独感の中から、天国への扉が開かれる。そして第 4楽章で歌われる天国の生活には、シャンシャンと鈴が鳴り、不気味さを伴う。なるほど、ウィーンへの屈折した思いが横溢しているわけだ。武満言うところの、ヨーロッパ文化の根深さであろうか。

今回の日フィルの演奏は大変に安らかで美しいものであり、必ずしも毒々しい皮肉を想起させるものではなかったが、山田の指揮のもと、かなり細かい表情づけが成功していたように思う。目を引いたのは、ホルン、トランペット、ティンパニに、これまでのこのオケの演奏会で見覚えのない外人が揃っていたことだ。再三指摘している通り、これからの日本のオケの課題は金管であって、その意味では今回の試み (?) は大変面白い。また、ソプラノ独唱は小林沙羅によるものであったが、若干表情をつけすぎのきらいはあったものの、大変に美しい声であった。先に野田秀樹演出、井上道義指揮の「フィガロの結婚」でのスザンナ役を務めており、生のステージを見逃した私は、年末の BS 放送で見て大変楽しんだが、その勢いが続いているような歌唱であった。
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というわけで、大変充実したコンサートであったわけだが、オマケが 2つ。ひとつは、2月19日発売の CD、昨年のツィクルスからの第 2番「復活」が、会場限定で特別先行発売されていたこと。上述の通り、昨年私が聴けなかった公演で、これをラッキーと言わずしてどうする。しかも直筆サイン色紙入りということで、ミーハーな私は早速ゲットしました。
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もうひとつは、これも会場限定で、来年の第 3ツィクルス (交響曲第 7・8・9番) の先行予約だ。終演後に受付開始されたのだが、驚くべきことに、早めに会場から抜け出たつもりだったが、優に 100人は超えるであろう人たちが列をなす大盛況であったのだ。ともあれ、無事チケットを入手してから日程を見てみて再度びっくり。第 3ツィクルスは、2017年 5月、6月、7月の 3回だ。うへー、そりゃまた随分先の話。まあでも、直前になってチケット入手に奔走する必要がなくなって一安心。待ちくたびれてしびれを切らすあまり、期日をうっかり忘れないようにしないといけませんな (笑)。新・ヤマカズ人気、おそるべし!!
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# by yokohama7474 | 2016-01-31 00:56 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ブリッジ・オブ・スパイ (スティーヴン・スピルバーグ監督 / 原題 : Bridge of Spies)

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スピルバーグの名前は現代映画界においてヒットを約束する魔法の呪文であり、製作作品ではなく彼自身が監督した作品は、ロングラン間違いなしと思っていた。この映画の封切は 1月 8日 (金)。まだ 3週間しか経っていない。まだ全然大丈夫だと思っていたある日、私がよく行くシネコンでは、あろうことか 2月 4日 (木) で上映終了とあり、慌てて見に行く羽目になったのである。もちろん、映画好きたるもの、スピルバーグの新作を封切で見逃すようなことはあってはならないのだ。

実際に見てみて、あまりヒットしない理由もなんとなく分かるような気がした。それにはいくつかの理由があるので、以下で考えてみたいと思う。まず、予告編では、「普通の人に重要な使命が与えられた。さあどうする?」というイメージで宣伝されていた。ところが、トム・ハンクス演じる実在の弁護士ジム・ドノヴァンはいかなる意味でも凡庸な人ではない。日本はともかく、米国では明らかに最も重要な職業である弁護士であり、しかも凄腕であり、第二次大戦後のドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判では検察官を務めた実績もあるのだ。だから「普通の人」云々はこの際忘れよう。次の理由。これはスパイを題材にした映画である。最近のスパイ映画はこのブログでも採り上げてきたが、「ミッション・インポッシブル ローグ・ネイション」「キングスマン」「コードネーム U.N.C.L.E.」「007 スペクター」に比べてこの映画の娯楽的要素はいかがか。1950 - 60 年代に実際に起こった事件をもとにしたこの映画、人間ドラマではあっても、決して超絶的な能力を持っているスパイの映画ではない。この点においてのみ、主役のジム・ドノヴァンを普通の人と呼んでもよい。そして第 3の理由。日本ではスピルバーグは未だ子供向けの映画の監督だと思われているのではないか。だが普通に映画の好きな人なら、この監督が随分以前から娯楽作品とシリアス作品との両方を撮ってきたことを知っているはず。
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そして彼の撮るシリアス映画は、どれひとつとして現代と切り結ばないものはない。この映画もそのひとつで、ユダヤ人であるスピルバーグが戦後のドイツ分裂を扱っている点に、既に歴史的な価値が生じている。だからこの映画は、面白いとか面白くないとかいうレヴェルで見てはならない、人類の宝なのだ。加えて脚本があのジョエルとイーサンのコーエン兄弟だ。これまたユダヤ人の兄弟だが、私の見るところ、スピルバーグと同レヴェルの、現在を代表する最高の映画監督である。
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それからもうひとつの課題は邦題だ。そこには表れていないが、上に見る通り、原題は "Bridge of Spies" と、「スパイ」という語が複数形なのだ。この映画のクライマックス、お互いの人質を交換するシーンはベルリンの西の郊外に実在する橋、グリーニッケ橋が舞台となっているので、その橋が題名になっているとの解釈は可能だ。だが私には、これは Double Meaning であると思われる。主役のジム・ドノヴァンこそが、スパイとスパイをつなぐ橋になっているのだろう。上に掲げた日本語のチラシでは、「オブ」の上下に赤い線が引かれているが、英語版では以下の通り、"i" (アイ) の文字が二つ、赤くなっている。これこそ、「I = 私 = ドノヴァン」が橋渡し役であるという意味でなくてなんであろう。そして、2箇所の赤は二人という意味で、コーエン兄弟の象徴でもあるのだろう。
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そんなわけで、この映画が一般受けしない理由はそれなりに分かった。では私自身の評価はというと、グッと親指を立てるのだ。まずはそのリアリティ。映画の性格上、英語のみならず、ドイツ語、ロシア語が出てくるが、それらには字幕が出てこない。誰のアイデアかは分からないが、この時代特有の緊張感ある敵愾心を表すには、効果的な手段である。それから、時間の経過の描き方。漫然とスクリーンを見ていただけでは、この映画の中で何年時間が経ったのか分からないが、数年を経た交渉であったことを、これから私が証明しよう。

まず冒頭の設定が 1957年であることが明らかにされる。米国でソ連のスパイとして逮捕されるルドルフ・アベルが、彼の弁護士を務めることになったジム・ドノヴァンと相対する場面でラジオから音楽が流れている。恥を忍んで言えば、最初私も、緩やかな弦楽合奏を聴いて、それが何の曲であるか分からなかった。だが、ピアノソロが入ってきたところではっきりした。ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第 2番だ。この曲は作曲者が息子マクシム (その後指揮者となり、父の最後の交響曲、第 15番を初演する。最近の活動ぶりは聞かないが、未だ現存のはず) のために書いた、軽やかでパロディ感覚あふれる曲だ。その初演はまさに 1957年。映画の中でアベルとドノヴァンがショスタコーヴィチについて会話を交わす。この楽しい協奏曲を私は大好きで、バーンスタインが弾き振りした CD で過去 25年以上楽しんできた。実はこの年、ショスタコーヴィチは交響曲第 11番も作曲、初演している。スターリンの死後書かれた謎めいた第 10番のあと、11番と 12番は、ロシア近代の歴史を題材としている。この映画で描かれているシーンでは、この壁画的な大交響曲でなく、優しく穏やかな協奏曲の緩徐楽章を使用することで、この 2人の間の交流が巧まずして立ち現われる。
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もうひとつ私が注目したシーンは、トム・ハンクスが東ベルリンの電話ボックスから妻に電話するシーン。カメラがパンするうち、どうやら映画館らしい建物が映るが、そこにはっきり読み取れる「スパルタカス」の文字。この題名は、ハチャトゥリアンのバレエ音楽にも存在するが、映画である以上は、あのスタンリー・キューブリックの初期の作品、カーク・ダグラスが取り仕切って撮影されたというあの映画しかありえない。調べてみるとこの映画の公開は 1960年。アメリカ映画が東ベルリンで上映されていたのか否か分からないが、ここでは明らかに時間の経過が表されているのだ。

この映画で描かれる執念は凄まじい。トム・ハンクス演じる主役は、巧みな交渉術で、米国政府の思惑を超えた次元での解決策を実現する。ビジネスマンたるもの、これを見習わずしてどうするか。愛とか平和とか、そんなぬるま湯では御しきれない、非常時に試されるその人の真価である。映画の最後に、実在のドノヴァン弁護士が、この映画の時代のすぐ 2年後、1962年にキューバに囚われた米国の人質を解放するため、カストロ議長との交渉に当たり、結果的に 9,700人 (!) を超える人々を助け出したという実績が説明される。これは並大抵のことではない。この映画のラストシーンは、雪のベルリンの橋の上で人質交換を無事終えてはるばる自宅に帰ってきたドノヴァン弁護士が、ベッドの上に倒れ込んで眠っているわけであるが、私がここに見るのは、仮想の死としての眠りである。ドノヴァンは 1970年、54歳の若さで死亡している。これが過労死でなくてなんであろう。

もうひとつ、印象に残ったシーンを書いておこう。トム・ハンクスがベルリンの列車の窓から見る残酷な風景。建設後まもないベルリンの壁を越えようとして東側の兵士に無残にも撃ち殺される市民たち。それに対してニューヨークのブルックリンでは、子供たちが自由に柵を越えている。平和が尊いことは言うまでもない。だが私が心震えるのは、戦後 70年を経た現代、東西ドイツ合併が果たされてからでも四半世紀を経た今でも、ベルリンを訪れると、壁こそもはや存在せず、銃殺は起こらないものの、この映画で描かれているのと大差ない、寒々とした風景を列車から見ることになるのだ。戦争の爪痕は、70年程度の時間では治癒しない。全く人類という奴はとんでもない大馬鹿者の集合だ。
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またこの映画の冒頭まもない箇所では、スピルバーグとしては珍しい、実際の場所でのゲリラ風撮影が、ニューヨークの地下鉄を舞台に展開する。このあたりにも、彼の真摯な思いが結実した映画であるとの思いを抱く。2つの大国が世界の秩序を二分する時代は過去のものとなったが、いつの時代にも異質なもの同士の架け橋は必要なのだ。この映画からはそのようなメッセージこそを受け取ろうではないか。
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# by yokohama7474 | 2016-01-30 23:05 | 映画 | Comments(0)  

始皇帝と大兵馬俑 東京国立博物館

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世界に残る遺跡の中には、想像を絶するスケールのものが幾つもあり、この世に生を受けた限りは、そのような驚くべき遺跡をできるだけ見て回りたいと思ってはいるものの、未だ訪れたことのない遺跡の数を思うだに、絶望的な思いに囚われるのである。この秦始皇帝の兵馬俑坑 (兵士や馬の彫像が地中に埋まっている遺跡という意味だろう) などはさしずめその代表であろう。記録には一切残っておらず、1974年にたまたま発見されたというこの空前絶後の墳墓。現在でも発掘・調査が続いており、まさに世界の驚異のひとつだ。正直なところ、こんな規模の遺品が 2,200年ほど地中に眠っていたということを信じろという方が無理という気すらする。
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私は残念ながら現地に行ったことはないが、中国国宝展の類には必ず兵馬俑は出品されているし、1994年に世田谷美術館で開かれた「秦の始皇帝とその時代展」、2004年に上野の森美術館で開かれた「大兵馬俑展」で、まさに驚天動地の彫像の数々に間近に接したことをよく覚えている。今回東京国立博物館で開催されているこの展覧会、果たして過去の同様展覧会を凌ぐような内容であるのだろうか。ある日曜日の朝、東京国立博物館が開館する 9時30分過ぎに会場に急ぐ。寒いが、このような看板と空の蒼の対象がなんとも心地よい。
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これは、博物館内の古い建物、表慶館。扉を開けている期間は短いが、4月開催予定のアフガニスタンの黄金展の垂れ幕が早くも下がっている。
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さて、開館後間もない時刻に入ったものの、会場は既に大混雑。小さな展示品を見るにはかなりの忍耐を要し、残念ながらその種の忍耐を持ち合わせていない私としては、勢い、人垣越しの鑑賞であったり、たまたま列の切れ目に控えめに割り込んだり (?) することで、一通りの展示品を楽しむことができた。以下、図録から撮影した今回の出品物に沿って展覧会を概観したいと思う。

そもそも、秦始皇帝とはいかなる人物か。私はいつも分かりやすく整理しているのだが、あの広大な中国の全土を掌握したのは、まずこの始皇帝が初。そして次に同じ版図を確保するのは、遥か時代を降った毛沢東なのだ。すなわち、歴代王朝、隋・唐・宋・元・明・清の領土は現在の中国より狭く、また秦始皇帝が制圧した領土よりも狭いのだ。今手元で世界史年表を開いてみると、始皇帝の統治は紀元前 221年から 210年のわずか 11年。世界で同時代人を探してみると、紀元前 247年生まれとされるカルタゴ (現在のチュニジア) の将軍ハンニバル、あの第 2次ポエニ戦争で象を連れたアルプス越えという奇策でローマを苦しめた英雄が近い。つまりその時代、ユーラシア大陸の東の方では春秋戦国時代で中国周辺での小国たちの争いが継続し、西の方ではローマ帝国が周辺各国と戦いを繰り返していたわけだ。その双方はお互いの存在を知らなかったのであろうか。尚、日本語で一口に皇帝というが、この始皇帝が中国初の皇帝の座について 200年ほど経ってからようやく、ローマ帝国にも初代皇帝アウグストゥスが現れる。ということは、始皇帝は人類初の皇帝ということではないか。このような英雄的な肖像は、イメージにぴったりだ。
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さて今回の展覧会、「『永遠』を守るための軍団、参上」というコピーがついてはいるものの、実は兵馬俑が展示のメインというわけではなく、秦がいかにして大国にのし上がったか、過去のいかなる王朝に倣ったか、周辺民族とどのように融合したか、また始皇帝の築いた首都咸陽 (かんよう) とはどのような場所だったのか、といったテーマをかなり丁寧に辿って行く。

もともと秦国は紀元前 8世紀 (古いなぁ~) に、以前の王朝、殷を継いだ周王朝が分裂してできた西周 (せいしゅう。ちなみに明治日本の元勲は、同じ字を書いて「にし あまね」と読むが、ここでは無関係 笑) の後継者との位置づけであるらしい。以下の写真はいずれも青銅の鐘だが、左が西周のもの、右が秦のもの。一見したところそっくりではないか。
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これは玉の胸飾り。西周時代のもの (紀元前 10 - 9世紀!!) で、貴石が実に 297個使用されているという。始皇帝の登場する遥か以前に、既にこれだけの文明がこの地にあったということになる。
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秦は周辺各国と盛んな交流があったらしく、これは楚からもたらされた、紀元前 6世紀の玉の飾り物。なにやら古代インカにも通じるユニークな造形だ。展覧会にはこれ以外にも、秦にもたらされた他国の文物があれこれ展示されている。
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そして秦の文化は独自の洗練を果たす。この動物形容器は紀元前 5 - 3世紀のものらしいが、注ぎ口になっている動物のユーモラスな味わいと、蓋の上でにらみ合うガマと犬の間の抜けた感じがなんとも面白い。こんな時代にこのようなユーモアの精神を持って実用的な容器を作った陶工とは、一体どんな人だったのであろうか。
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秦はまた、北方の草原の民とも交流した。この剣は実に紀元前 8 - 9世紀のもの。草原地帯に栄えたスキタイ文化を思わせるものがある。玉の剣に金の鞘である。いやー、ちょっと信じがたい古さですな。
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とまあ、シコウ帝登場前のシコウ錯誤があったのち、いよいよ英雄登場と相成るわけであるが、まあその施策の思い切ったこと。高校の世界史でも、度量衡の統一、貨幣制度、焚書坑儒などの始皇帝の事績を習うわけだが、例えばこの分銅。驚くなかれ、始皇帝と二世皇帝の時代のもので、当時の単位で 1鈞 (キン) という単位の重さらしい。ここに刻まれた銘文に「始皇帝」の文字もあるという。リアルタイムだ。
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貨幣鋳造の方はこれだ。実際に始皇帝の時代の銅貨である。この円形に四角い穴という形状は日本に渡来し、和同開珎以降の貨幣のモデルとなった。なにやら急に不安になって、現在日本の五十円玉と五円玉を確認したところ、穴は四角ではなく丸でした (笑)。
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それから面白いのは、当時の公文書だ。紙ではなく木に文章が記されており、削れば改ざんは容易ということで、重要文書は紐や糸で縛ってハンコで封印したという。このハンコ、実際に土で作ったものがいくつも発掘されているらしいが、2,000年以上経った現代日本の一部の会社では未だに、このハンコという奴がなんらかのお墨付きになっているという事実もあるらしい (笑)。
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本展覧会によると、始皇帝の時代の首都、咸陽は最近発掘が進んで、様々なことが分かってきたらしい。例えばこれは水道管。この時代、人工物で水を制御するということを考えただけでもすごいことだ。
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これは、咸陽の宮殿の壁面を飾っていたであろう壁画だ。2頭立ての馬車。素朴ながらスピード感を感じさせる立派な芸術作品である。
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そしていよいよ兵馬俑の展示に移って行くわけであるが、その前に、始皇帝の兵馬俑坑に先立つ人物像がいくつか展示されている。兵馬俑に先立つこと 100年程度のようだが、その小ささ (高さ 22cm) といい素朴な表現と言い、かなりの差がある。そうすると、シコウ帝の時代に人々のシコウも活発になったということであろうか。
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そして兵馬俑の一群。全部で 8,000体とも言われる等身大の彫像は、ひとつひとつ表情が異なっており、実在の軍隊をモデルにしているとも言われる。でも私は思うのだ。絶大な権力を持った始皇帝のこと。自らの威信を示すためには、彫像ではなく実際の生贄を数千とは言わずとも数百地中に埋めることもできたはず。それがなされていないのは、皇帝の権力が早くも傾いていたのか、はたまた軍団の中に知恵者がいて、実際の人間をうまく彫像に変えることに首尾よく成功したのか。記録が何もないのなら仕方ない。想像力の翼を思う存分広げることにしよう。これは将軍の像。将軍と認識できる像は、兵馬俑坑広しと言えども、10体程度しか発掘されていないという。
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これは馬であるが、その写実性に驚くばかり。左の鬣から一房垂れているが、これは兵士がつかめるようにという工夫であったとの説もあるらしい。右側に回って見てみたが、そちら側には房はなかった。
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それから、様々なポーズの彫像と、それらがそもそも備えていたとおぼしい武具などの再現図は以下の通り。いちばん最後のものは雑技俑 (ざつぎよう) と呼ばれていて、力士風の巨体が何やら芸をしているところらしい。顔は失われているものの、そのリアルなこと、鳥肌立つばかり。
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さて、会場出口近くには兵馬俑のレプリカ群像が置いてあり、そこで自由に写真撮影ができる。はいはい、押さないで押さないで。
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ところでひとつ驚くべきことがある。これらの大軍団の彫刻は、どうやら往時はリアルに色がついていたらしく、中には彩色ありの状態で発掘されるものもある模様。いやホント、出来すぎとすら思えてくる。
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この展覧会で再認識したのは、兵馬俑は国際親善大使の役割を果たしていて、多少の混雑でも頑張って見たいと思わせる展覧会なのである。様々なグッズも売っていて、私は兵馬俑チョコと、2体の兵馬俑フィギュアをゲット。後者は例によって拙宅のフィギュアコーナーの仲間入りだ。
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大変充実した展覧会で、きっと日本初の展示品が多いだろうと思ったのだが、帰宅して 1994年及び 2004年の展覧会の図録を引っ張り出して見てみると、実は今回の展示品のうちのかなりの数が、既に過去に日本で展示されていると分かった (笑)。兵馬俑はかなりはっきり記憶があれども、それ以外の小さい展示品を覚えておくのはなかなかハードルが高い。これを教訓として、一回一回の展覧会鑑賞を、もっと心して行おうと自分に言い聞かせた。

# by yokohama7474 | 2016-01-28 00:31 | 美術・旅行 | Comments(0)