グスターヴォ・ヒメノ指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 (ピアノ : ユジャ・ワン) 2015年11月 9日 愛知県芸術劇場

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クラシック音楽を多少なりとも好む方は、オランダのアムステルダムに世界屈指のホールとオーケストラがあるのをご存じだろう。英語にすると、そのままズバリのコンサートホール、オランダ語でコンセルトヘボウだ。もし音楽のお好きな方 (この場合は別にクラシックに限らない) で、アムスに出掛ける機会があれば、だまされたと思って、なんでもよいからこのホールでコンサートをお聴きになるがよい。ヘボウと名がついているからといって、ヘボだと誤解するなかれ。何がどうすごいと説明するのもはばかられるが、私なりに一言でまとめるとするなら、ここにはヨーロッパ文明の神髄がある。是非一度行かれることをお勧めする。

さて、このホールを体験するには現地に足を運ぶしかないわけであるが、幸いなことに、ホールの名を冠したオーケストラは、世界各地に演奏旅行に出掛け、その素晴らしい音を聴かせてくれるのだ。今やホールの名に加えて「ロイヤル (= 王立)」の称号まで冠しており、その栄光の歴史はますます輝くばかりだ。2008年には専門誌のアンケートで世界一のオーケストラにも選出されている、名門中の名門だ。

このコンセルトヘボウ管の来日自体は決して珍しいものではなく、数年に一度は来日している。ところが、ちょうど音楽監督のマリス・ヤンソンスが退任したばかり。後任のダニエレ・ガッティの就任は来年だ。では、今年の来日公演の指揮者は誰なのか。
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グスターヴォ・ヒメノ、39歳。バレンシア生まれのスペイン人だ。うーむ、姫のというより殿の雰囲気だが、一体この人は誰だ。今回のコンセルトヘボウ来日のニュースを見て、ほとんどの人がそう思ったはず。最近日本でも大フィルや都響に登場しているのは知っていたが、どのような指揮者であるか、情報がない。加えて、今回の曲目だ。

 チャイコフスキー : ピアノ協奏曲第 2番ト長調作品44
 リムスキー・コルサコフ : 交響組曲「シェエラザード」作品35

「シェエラザード」は、千夜一夜物語を題材にした色彩感の極めて豊かな名曲で、来日オケでも採り上げることは多い。でも、前半のチャイコスフキー、有名なピアノ協奏曲第 1番ではなく、第 2番だ。これは珍しい。私もこれまで実演では、ロンドンで 1度だけ聴いたことがあるだけだ。知らない指揮者に知らない曲。いかにコンセルトヘボウと言えども、そんな組み合わせで客が入るのか!! とここで不必要にも声高に叫ぶ私であるが、登場するピアニストを忘れていた。
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ユジャ・ワン。いろんな意味で、およそ人類が歴史上これまで持ち得ていなかったピアニスト。中国生まれの 28歳で、今はニューヨーク在住だ。彼女のすごさを説明するのは、コンセルトヘボウのすごさを説明するのと同様、言葉では無理である。悪いことは言わない。聴けるチャンスがある限り、この人の演奏会に足を運ぶべきだ。

チャイコスフキーのピアノ協奏曲第 1番は誰もが知る名曲なのに、なぜこの 2番はほとんど演奏されないのか (実は 3番もあるが、未完成だ)。細部をよく聴くと、まぎれもないこの作曲家の個性が出ているし、3楽章構成も、1番と類似した点がある。ただ、いかんせん、旋律の美しさは今一歩だし、何より、今日の演奏を聴いて思ったのは、求められる技巧に対して得られる演奏効果に問題があるのではないか。そうであるからこそ、今世界でこの曲を弾いて聴衆を集められるのは、ユジャ・ワンしかいないと思うのだ。
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いやいや、意味なく彼女の写真を 2枚も掲載しているのではありませんよ。中国のピアニストでは、ラン・ランも素晴らしいと思うが、このユジャ・ワンを初めて聴いたときの衝撃は、そのスカートの短さだけではなかった (笑)。いや真面目な話、その完璧な音楽に、目眩さえ覚えたものだ。東京でニューヨークでリサイタルを聴き、来日オケや日本のオケでのコンチェルトも聴いているが、失望したことは一度もないどころか、聴くたびに驚きは増して行く。彼女の演奏であれば、極端な話、曲はなんであっても、聴く価値のあるアーティストなのだ。ただ、これをもって天才という言葉で片づけるのはやめよう。ニューヨークのカーネギーホールで彼女のリサイタルに行ったとき、開演 30分前にホールが開場するまで、喫茶スタンドのモニターでホール内の情景を見ていると、地味な普段着で毛糸の帽子をかぶったユジャが、ポロポロと練習しているではないか。その孤独な姿 (きっとそんな姿が喫茶スタンドのモニターに流れているとはつゆ知らないのであろう) に、芸術家の厳しさを見た。いかなる天才も努力なしには大成しない。そして本当の才能は、陰の努力などおくびにも出さないのだ。

この日、唖然とするテクニックで協奏曲を弾き終えた彼女は、何度もカーテンコールに登場しながら、なかなかアンコールを演奏せず、最後にいやいやのような感じでピアノの前に座って弾き出したのは、平凡なモーツァルトのトルコ行進曲だ。と、突然妙な和音が出て来たかと思うと、あとは千変万化の魔術的な曲になってしまった。これは、やはり超絶ピアニストであるロシアのアルカーディ・ヴォロドスの編曲になるものだ。これでまずびっくり。その後さらに 2曲を弾いたが、ひとつはシューベルトの「糸を紡ぐグレートヒェン」をリストが編曲したもの。それから最後はシューマンの「スペインの歌遊び」。ともに歌曲である。超絶技巧でバリバリ弾くだけでないユジャ・ワンの表現力の豊富さに、こちらは言葉もない。

そんなわけで、彼女のリサイタルを聴く機会あれば、悪いことは言わないが、聴いておいた方がよい。名古屋では早くも来年 6月のコンサートのチラシが。うーん、でもこれ、名古屋らしく、なんだか昭和っぽいなぁ。「カリスマ美女ピアニスト」って一体・・・。
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それではこの辺で。あ、違った違った。まだありました。後半の「シェエラザード」である。この日の 2曲とも、コンセルトヘボウが世界にその名を轟かす所以である音色の美しさに陶然とし続けていたが、もちろんそれは、指揮者ヒメノの功績でもある。なんと言っても彼はもともとこのオーケストラの打楽器奏者であったのだ。従って、曲の土台が体に染みついている上、明らかに奏者側も仲間として演奏している。特にこの「シェエラザード」では木管楽器のソロの見せ場が目白押しで、4楽章切れ間なしの演奏中、あの手この手で聴衆を楽しませてくれた。但し、ひとつだけびっくりするようなミスが。第 2楽章で旋律が楽器を渡って行き、先刻までよい感じで流れていたファゴットにまた出番が回って来たとき、なんたること、数秒に亘ってそのファゴットの音が抜け落ちてしまったのだ。その後音楽は問題なく流れて行ったが、この曲をよく知る人間としては、ほかがほとんど完璧であっただけに、大変残念であった。それから、総合してみると、オケとの信頼関係も厚い指揮者が、概して早めのテンポで光彩陸離たる演奏を成し遂げたと言えようが、あえて苦言を呈するとすると、本当に強い興奮に駆られて熱狂する場面もなかったような気がする。昔の、掛け声入りのチェリビダッケの演奏とか、パリ管が燃え上がったロストロポーヴィチの録音とか、あるいは同じコンセルトヘボウを縦横無尽にコントロールしたコンドラシンの録音とは、その点のみがわずかな差となったように思う。あ、それから、忘れられないシーンがひとつ。ファゴットのミスに対して指揮者がどう対応するかと思いきや、終演後のカーテンコールで、誰よりも先に、ミスをしたファゴット奏者を立たせたのだ!! 「シェエラザード」でファゴットですよ (笑)。当然その皮肉にファゴット奏者も反応し、両手を広げて苦笑いだ。これなども、もともとこのオケのメンバーが指揮者を務めていることによる一体感の現れであったろう。

もうひとつ面白かったのはアンコールだ。この流れでは、舞台にハープもあるし、チャイコフスキーの「花のワルツ」あたりが盛り上がってよいのではないかと思ったら、最初の曲はなんと、マスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲だ。弦の音には芯が入っているようで、オーボエの歌も泣ける。感動しながらも、なんでここでヴェリズモオペラか? という疑問を持ったのもつかの間、次に演奏されたのは、何やらトーンクラスターのような前衛技法に、トランペットの短い叫び。それからは、ハンガリー風 (= バルトークかコダーイ風) でもありルーマニア風 (= エネスコ風) の民族的な熱狂が続いた。あとで判明したことには、まさにハンガリーの作曲家ジェルジ・リゲティのコンチェルト・ロマネスク (ルーマニア協奏曲) の第 4楽章であった!! これはさすがにマニアックだ。

というわけで、突っ込みどころ満載の面白いコンサートだったが、やはりコンセルトヘボウ、飛び切りの音であった。ですよね? コックリ。
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はいはい、ユジャさんはもういいから。

# by yokohama7474 | 2015-11-10 03:03 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ダニエル・ハーディング指揮 新日本フィル (トランペット : ホーカン・ハーデンベルガー) 2015年11月 8日 サントリーホール

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新日本フィルとともに進化を続けるダニエル・ハーディング。このところこのブログで何人かご紹介している、東京の指揮台に立つ世界の有望指揮者の中でも、特に頭角を現すのが早かった人だ。1975年生まれなので、既に (?) 40歳になった。今調べてみると、来年からパーヴォ・ヤルヴィの後任として名門パリ管弦楽団の音楽監督にも就任するらしい。この新日本フィルとは、"Music Partner for NJP" というよく分からないタイトルでの関係が続いているが、来年からの次期音楽監督である上岡 敏之の就任までは、このハーディングが実質的な首席指揮者と考えてよいものと思う。

さて今回ハーディングは、2曲の日本初演を指揮した。

 ブレット・ディーン : ドラマティス・ペルソネ (トランペット : ホーカン・ハーデンベルガー)
 ブルックナー : 交響曲第 7番ホ長調

ちょっと待った。1曲目は何やら現代音楽のようで、日本初演は分かるけど、2曲目のブルックナー 7番とは何だ? 散々日本で演奏されているし、このブログでも、先般ハイティンク指揮ロンドン響の演奏について書いたばかりではないか。いやいや、それどころか私は知っている。ブルックナーの 7番を日本初演したのは、金子 登 (のぼり) という昔の指揮者ではないか。随分古い話のはず。その通り。でも、今回使用される楽譜は、今年出版されたばかりの、ベンヤミン・グンナー・コースによる新版なのだ。この版による日本で初めての演奏なのだ。

まず 1曲目だが、このディーンという作曲家、1961年生まれのオーストラリア人で、長らくベルリン・フィルのヴィオラ奏者を務めたという異色の経歴の持ち主。この曲は 2013年に今日のソリスト、ハーデンベルガーのために作曲された。彼も同じく1961年生まれのスウェーデン人。現代音楽中心のイメージもあるが、世界の第一人者のトランペット奏者である。
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この曲は 3楽章からなる 30分程度の大曲で、オケもソロも、様々な音色が出るように工夫されているので (ソロはトランペット 2本に弱音器も 2個だ)、生で聴いているとなかなかに面白い。題名はラテン語で、劇作品におけるメイン・キャラクターを意味し、トランペットが様々な役を演じるという具合。第 1楽章「スーパーヒーローの転落」、第 2楽章「独白」、第 3楽章「偶発的革命」と、何やらコミカルな雰囲気で、実際ににぎやかな部分が多いが、第 2楽章では都会の孤独を思わせるトランペットらしい音楽もあり、サービス精神にあふれている。ただ、変拍子を多用するなど、演奏は技術的に難しそうであるが、ハーディングの明確な指揮ぶりのもと、危うげないオケの演奏が、ハーデンベルガーの超絶技巧を盛り立てた。聴衆の拍手に応えて彼が吹いたアンコールは、いかにもジャズの即興風だ。演奏後にホールのアンコール表示を見てびっくり。それは、My Funny Valentine であったのだ。このスタンダードナンバーはさすがに私もよく知っているが、演奏において旋律はほぼ溶解していた (笑)。マイルスもびっくりだ。

さて、メインのブルックナー 7番であるが、この新版、耳で聴いてもほとんど新しい箇所は感じられない。時折、トロンボーンとかチューバの伴奏が違うかなぁと思って聴いていたりしたが、例えば突然オケが休止するとか、第 2楽章と第 3楽章が入れ替わっているとか、終楽章コーダがベートーヴェンの 5番風にしつこくなっているとか、あるいはアルト・サックスが編成に入っているとか、そんな極端な箇所は皆無であった (あぁよかった・・・でも、これら冗談のうちひとつには、後でまた触れます)。そもそもこの版は、ブルックナーの弟子のシャルクやレーヴェという人たちが手を入れた改訂版を出発点とし (なぜなら、ブルックナー自身がその改訂版を認めていたので)、草稿や書簡やピアノ編曲譜を参照しながら、改訂版で修正すべき細部をピックアップして修正して行ったものだということだ。この曲、改めて思ったのだが、ほとんどの箇所では弦楽器が旋律を奏でており、そこに管楽器が入っては消えて行くという作りになっている。もちろん、管が旋律を奏でて弦が伴奏する箇所もあるし、第 2楽章アダージョの終結部、ワーグナーを追悼する慟哭のような箇所では、ワーグナー・チューバとホルンが朗々と響くし、第 3楽章スケルツォの中間部 (トリオ) のように木管が主役の箇所もある。だが、基本的に大きな弦の大河があって初めてロマン性が滔々と現れるのだと思った。その意味では、細部の強弱がどうなっているかは、曲の本質にはあまり関係がないとも思われるし、もともとこの曲は版によってそれほど違いがないわけで、要はその場の演奏が充分に音楽を感じきっているか否かが最も重要だろう。この曲、昨今ではトスカニーニとかミュンシュといった、およそブルックナーのイメージに似つかわしくない指揮者の演奏も聴くことができるが、それは (特にイタリア人のトスカニーニの場合) このシンフォニーが弦の歌に溢れているからではないか。

そのように考えると、今日のハーディングと新日本フィルの演奏には、残念ながら、前回のマーラーの「復活」を聴いたときほどの感動はなかった。ブルックナーの歌は、小細工 (新しい版を使うことが小細工だという失礼なことを申し上げるつもりは毛頭なく、一般的に「うまく聴かせよう」という態度のことを言っている) を寄せ付けない大きな山脈のようなもので、指揮者の適性も如実に出るものだと思う。どこがどう不満ということもあまりないのだが、最高のブルックナー演奏にある「何か」が足りないのだ。音楽とはなんとも不思議なものだ。

これまでに私が生で聴いたこの曲の最も珍奇な演奏は、第 2楽章と第 3楽章をひっくり返したものだ。ギャグではない。つまり、スケルツォを先に、アダージョを後にしたということで、実はこれは、ブルックナーの残り 2曲の交響曲、つまり 8番と 9番で取られている順番だ。もしブルックナーの最後の交響曲をシリーズと考えれば、この 7番を 8番・9番と合わせるという考えもあるのだろうが、何か文献上の根拠でもあるのだろうか。私としては、終楽章が未完の 9番がこの順番になっていないと、スケルツォで全曲を終えることになって甚だ不都合だということしか思いつかない (笑) ので、7番でその順番にする理由は分からない。ところで、この 7番でそんなヘンなことをしたのは誰だかお分かりだろうか。答えは、あの堅実な指揮者、サー・コリン・デイヴィスで、オケはロンドン交響楽団だった (2008年のことだったと思う)。デイヴィスがそのかなり前にバイエルン放送響と来日したときには普通の順序で演奏していたので、その真意をいぶかったものだ。今調べてみると、Orfeo 盤のデイヴィスと同じバイエルン放送響の 1987年の録音は、第 2楽章と第 3楽章を入れ替えているらしい。ウーム、謎だ。ブルックナーが生きていれば、なんと言っただろうか。弟子たちの改訂を唯々諾々と受け入れた人だから、「まあそれもよいのではないか」とでも言うのでしょうかね。
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またまた話がそれてしまったが、ハーディングと新日本フィルの相性はかなりよいと思うので、今回に懲りず、これからも聴き続けたいと思う。来年は、1月にブリテンの戦争レクイエム、7月にはマーラー 8番と、声楽を伴う大曲が予定されており、今から楽しみだ。

# by yokohama7474 | 2015-11-09 00:44 | 音楽 (Live) | Comments(0)

レオシュ・スワロフスキー指揮 チェコ国立ブルノ・フィル 2015年11月 7日 横浜みなとみらいホール

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このブログでは以前、7月19日の記事で、チャイコフスキーの 3大交響曲 (第 4・5・6番) を一挙に演奏するという無謀な (?) コンサートをご紹介したが、それは作曲家の出身地、ロシアのオーケストラによるものであった。それに対抗したのか否か分からないが、今度はドヴォルザークの 3大交響曲 (第 7・8・9番) を一挙に演奏するというコンサートが催された。こちらも演奏は作曲家の出身地、チェコのオーケストラによるものだ。スラヴ系作曲家の交響曲対決!! さて、その結果やいかに。

演奏したのは、レオシュ・スワロフスキー指揮チェコ国立ブルノ・フィルだ。まずはオーケストラの紹介から行こう。ブルノは、チェコ共和国第 2の都市。モラヴィア地方の中心都市で、プラハの東、約 200kmの距離にある。18世紀後半に炭鉱が見つかったことで、チェコの近代化には大きな役割を果たしたという。そのため注目すべき近代建築がいくつもあり、中でも、巨匠ミース・ファン・デル・ローエ設計によるモダニスム建築、トゥーゲントハット邸は世界遺産に登録されている。まあ、チェコ第 2の都市とは言っても、現在の人口は周辺を含めても 73万人とささやかなものだが、きっと豊かな文化を持つ街なのだろう。特に音楽愛好家にとっては、大作曲家レオシュ・ヤナーチェクの出身地として知られている。村上春樹ファン (因みに私は違います。スミマセン) にとっては、「1Q84」で使われていた、シンフォニエッタの作曲者と言えば通りがよいだろうか。この都市を代表するこのブルノ・フィルは、もちろんチェコ・フィルには見劣りするものの、チェコ有数のオケであることは間違いない。私にとっては懐かしい名前で、なぜならば、クラシックを聴き始めた頃、オスカー・ダノンという指揮者とこのブルノ・フィルによるチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」を FM からカセットテープに録音して、繰り返し聴いていたからだ。ダノンについては昨今ではとんと名前を聞かなくなってしまったが、この、超メジャーな「カラヤン / ベルリン・フィル」ではない、「ダノン / ブルノ・フィル」の演奏を聴き込むことで、私の生来の反骨精神が磨かれたような気がする (笑)。まあでも、演奏はカラヤンとベルリン・フィルの方がよかったかな (苦笑)。

指揮者は、レオシュ・スワロフスキー。1961年生まれなので、今年 54歳と、指揮者として勢いが出て来る頃だ。
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昨年から愛知セントラル交響楽団の音楽監督に就任しているらしく、また、在京のオケにも客演実績があるようだ。もともとノイマン、コシュラーという上の世代のチェコの名指揮者の薫陶を受け、また、ザルツブルク音楽祭ではショルティやアバドの補佐もした経験があるという。昔からのクラシック音楽ファンには、「スワロフスキー」というと、あのハンス・スワロフスキーの名前が浮かぶであろうが、この人は指揮者としてよりも、ウィーン国立音楽大学で名教授として活躍したということでよく知られている。アバドやメータも、彼の愛弟子であった。このハンス・スワロフスキーが今回の指揮者レオシュ・スワロフスキーの叔父であるという記述も目にしたが、ハンスは 1899年生まれのハンガリー系ユダヤ人であるので、よほど年の離れた弟がチェコで結婚したということでもない限り、可能性は低いだろう。

ともあれこの演奏会、先のチャイコスフキーの 3大交響曲の演奏会が東京芸術劇場を満員にしたのに対し、横浜みなとみらいホールは空席が目立つ結果となった。いくつか理由はあるだろうが、やはり最大の理由は曲の人気だろう。チャイコフスキーの方が派手だしよく鳴る。ドヴォルザークの場合、「3大」と言っても、明らかに 9番「新世界から」、8番、7番という順に人気が落ちる。それはやむなし。だが、首都圏の文化イヴェントとしての評価は、単に客の入りだけではない。内容が大事である。また、調べてみると今回、このコンサート以外にも 10/31 (土) に東京オペラシティでも同じ内容のコンサートが開かれており、そちらを合計すれば、チャイコフスキーと対抗できるか???

今回初めて知ったことには、この 3曲、それぞれ違う都市で初演されているのだ。7番がロンドン、8番がプラハ、そして 9番は言わずと知れたニューヨーク (冒頭に掲げたポスターには、ナンバーの部分に各都市の風景が織り込まれている)。7番はそれほど知名度が高くはないが、その悲劇性がブラームスを思わせ、彼のほかのシンフォニーのような土俗性がない分、洗練されているので、私は大好きだ。8番はその旋律美が際立つ名曲で、オーケストラの様々な魅力を満喫できる。そして 9番、「新世界」は、以前にも触れた通り、私が最初に親しんだ交響曲で、大っっっ好きな曲なのである。スワロフスキーとブルノ・フィルは大変真摯な演奏を聴かせてくれた。金管の音色が少しくすんだ感じがあって、暴力的には決してならず、かといって迫力不足にもならない。弦の表現力は豊かで、慣れた曲だからと言って手を抜くことは一切ない。すべて暗譜で振りぬいたスワロフスキーも、派手なところはあまりないが、プロフェッショナリズムを充分に見せてくれた。考えてみれば、チェコという、文化的伝統は豊かとはいえ、音楽文化の中心とは言えない国から出て、本家本元のドイツ人ブラームスを唸らせ、新世界で欧州代表として音楽の教鞭を取るという大出世をしたドヴォルザークとは、大変な人物だ。現在に至るまでチェコ人たちはこの作曲家を深く尊敬し、誇りを持っているのもむべなるかな。こんな怖い顔だったらしいんですがね。
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だが、ここで私のいたずら心が動き出す。ドヴォルザークもよいが、彼らの土地の本当の先輩である、ヤナーチェクだけの演奏会を聴けないものだろうか。もちろん、代表作 3作、つまり、シンフォニエッタ、タラス・ブーリバ、そしてグラゴル・ミサだ。それだけで聴衆が集まらなければ、村上春樹にタダ券を送り、宣伝で「村上春樹氏来る・・・かも」と謳えば、もしかして満員になるかもしれない。

とくだらないことを考えていると、アンコールが演奏された。もちろん、ドヴォルザークづくしのフルコースのこの日、アンコールに最適なこの作曲家のスラヴ舞曲のどれかだろうと思いきや、指揮者が聴衆に向かって宣言したことには、「ブラームス、ハンガリーブキョク、ダイゴバーン」とのこと。一瞬、「え? ブラームスがドヴォルザークに太鼓判を押したっていうこと?」と思ったが、太鼓判ではなく、第 5番でした。な、なんでここだけブラームス? ま、熱気のこもった演奏だったので、ドヴォルザークさんも、「尊敬するブラームス先生の曲なら許そう」と、髭の中で笑ってお許しになったかもしれない。お互い太鼓判かい。でも、なんでブラームス??

# by yokohama7474 | 2015-11-08 23:14 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ピエタリ・インキネン指揮 日本フィル (テノール : 西村悟、バリトン : 河野克典) 2015年11月6日 サントリーホール

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在京のオーケストラをあれこれ聴いている中で、これまで聴くチャンスがなく残念に思っている指揮者がいた。それはこの人だ。
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ピエタリ・インキネン。1980年生まれ、まだ 35歳のフィンランド人だ。現在日本フィルの首席客演指揮者で、来年からは首席指揮者に就任することが決まっている。これまでに指揮しているオーケストラの水準という点ではネルソンスやソヒエフほどではないにせよ、今まさに上り調子にあり、今後も世界的飛躍が期待される指揮者と言ってよいだろう。これまでにも述べてきたことだが、日本のオケが、エラい先生のもとで仰々しく演奏する時代は過去のものとなり、若い指揮者とともに活気ある音楽作りをする環境が整ってきていることは誠に喜ばしい。日本人の癖で、良くも悪くも、隣の芝生が気になるわけで、「あちらさんがアレをやったから、うちもコレを」という発想が、この場合にはよい競争になっていると思います。

さて今回初めてインキネンを聴くにあたり、興味を持ったのは以下のような曲目だ。

 シベリウス : 歴史的情景第 1番作品25
 シベリウス : 組曲「ベルシャザールの饗宴」
 マーラー : 大地の歌

この指揮者は過去数年に亘って、シベリウスの管弦楽曲とマーラーの交響曲を組み合わせたシリーズをこの日フィルで行っているらしい。なるほど。シベリウスは 1865年生まれ。マーラーは 1860年生まれ。5歳違いの同世代というわけだ。この二人、実際にマーラーが 1907年に演奏旅行でヘルシンキを訪れたときに面会までしているらしい。共通点と同じくらい相違点のある二人の作曲家だが、フィンランド人指揮者というと必ず同国最大の作曲家であるシベリウスの演奏を求められる中、人気のマーラーと組み合わせて、その知られざる作品まで紹介してやろうということなら、なかなかの策士ですな、このインキネン。しかも今年はシベリウス生誕 150年。なかなかに気が利いている。

実際、シベリウスの 7曲の交響曲ならよく知っており、同じ作曲家の交響詩ならネーメ・ヤルヴィの全集 CD を持っている私であるが、それ以外の管弦楽曲には未知のものも多く、今回の 2曲はいずれも初めて耳にする。なんでも、「歴史的情景第 1番」は作品番号 25で、その次の作品番号 26は、あの超有名曲「フィンランディア」なのであるが、これらはもともと、帝政ロシアの圧政に抵抗するために書かれた愛国劇に使われたものらしい。つまりこれらは兄弟曲というわけだ。もう一方の「ベルシャザールの饗宴」は旧約聖書の物語で、一部クラシックファンの方には、英国の作曲家ウォルトンのオラトリオでご存じの題材である。シベリウスにしては異色の題材で、劇付随音楽のようだが、劇の中身はよく分かっていないらしい。これらの曲を演奏するに際してインキネンは、非常に丁寧な指揮ぶりでよくまとまった音楽に仕立て上げた。繊細な音色のコントロールがなかなかに巧みであると思った。

実はこの日のコンサートでは、「ベルシャザールの饗宴」ではなく、同じシベリウスの交響詩、ソプラノ独唱を伴う「レオンノタール」が当初予定されていたが、フィンランド人のソプラノ、ヘレナ・ユントゥネンが出産のために来日できなかったために急遽曲目変更になったらしい。このソプラノは、実は後半の「大地の歌」(テノールと、それから通常はソプラノではなくアルトが歌うのだが) にも出演を予定していたところ、バリトンの河野克典に変更になった。「大地の歌」を男声 2人で歌うのは、バーンスタインとウィーン・フィルの名盤におけるジェームズ・キングとディートリヒ・フィッシャー・ディースカウという素晴らしい例がある。だが、やはりテノールとアルトという男女の組み合わせの方がなんとなく落ち着く (?) こともあり、テノールとバリトンによる演奏は、あまり多くない。ただ今回聴いてみて、男声だけでもあまり違和感ないなという感じもした。というのも、この曲を通じていえることには、別に歌手の朗々たる美声を聴かせることが目的でなく、漢詩の東洋的な情緒を表現する手段として、いわば言葉を伝えるための楽器として歌手が必要な曲であるからだ。もちろん、最大の聴かせどころである終楽章の「告別」では、微妙な味わいが必要になるが、それにはうまい歌手が必要であって、男声か女声かはあまり関係ない。ベテランの河野は、その点ではさすがの味を出していたと言えるのではないか。

ただ、この日の「大地の歌」の出来全体には、残念ながら少し疑問符がついた。冒頭、音が噴き出さねばならないのに、少し平面的であったし、随所に聴かれる諧謔味にも不足し、黄昏のような練れた音もあまり聴くことができなかった。考えてみれば、この日の曲目全体を通して、オケが最強音で鳴るシーンは一度もなく、随分枯れた内容であるわけで、35歳の伸び盛りの指揮者を聴くには、ちょっと不適であったかと思う。それからもうひとつ残念であったのは、終演後のカーテンコールで、明らかに彼が奏者を把握しておらず、立たせる奏者を間違ったことだ。現在首席客演指揮者で、来年からは首席指揮者になるというのだから、これはやはり避けて欲しかった。奏者側のモチベーションにも関係するので・・・。差された奏者が、「え? ミ、ミィ~???」と戸惑うのはよろしくない。つまりそれは、「私だろ私」と思う奏者が別にいるということなので (笑)。いや、真面目な話、そうだと思います。

さて、この日のプログラムには、このような折り込みが。
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せっかくの機会なので、終演後に残ってこのトークを聴くこととした。今回の曲目変更の話があったが、その中で、本当は「ルオンノタール」と「大地の歌」という、ともに歌つきの管弦楽曲を並べることが興味深いと思ったがそれを話せず残念。ただ、歴史的情景第 1番にはシベリウスには珍しいスペインのボレロが出て来るし、「ベルシャザルの饗宴」はオリエンタルな音楽で、その流れで中国の漢詩の世界を扱った「大地の歌」につながった、と語っていた。「大地の歌」は今回初めて演奏したとのことであったが、35歳ではまだそうであろう。これから何度も採り上げるにつれ、解釈も練れてくるはずだ。尚、通訳の方は、インキネンの話している内容の 1割から 2割程度端折って訳しておられたが、細部にその演奏家の性格が出るという点もあり (例えば、今回来日できなかった歌手が 2人目のベイビーを出産するのだという表現など)、やはりきっちりと訳してほしいと思った。

というわけで、私の最初のインキネン体験は、必ずしも親指をぐっと立てる感じにはならなかったが、また次の機会を楽しみとしよう。来年 1月に別の手兵、プラハ交響楽団と来日するほか、4月にはまた日フィルで、ヴェルディのレクイエムや、庄司紗矢香を迎えてのブリテンのヴァイオリン協奏曲と「惑星」というプログラムが予定されている。今回聴けなかった最強音を聴きたい。「インキネンって陰気ねぇ」と言われないようにして頂きたいものだ。


# by yokohama7474 | 2015-11-08 20:57 | 音楽 (Live) | Comments(2)

トゥガン・ソヒエフ指揮 ベルリン・ドイツ響 (ピアノ : ユリアンナ・アヴデーエワ) 2015年11月 3日 サントリーホール

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以前の記事でもその名前に言及したことのある、北オセチア出身の指揮者、トゥガン・ソヒエフが、新しい手兵であるベルリン・ドイツ交響楽団を率いて来日した。ソヒエフは 1977年生まれというから、今年まだ 38歳。別の記事で触れたラトヴィアのアンドレス・ネルソンスらと並び、今世界でも最も勢いのある若手指揮者と言える。私の場合は、過去に二度、彼が 2008年以来芸術監督を務めるフランスのトゥールーズ・キャピタル管弦楽団を率いて来日した際の演奏に舌を巻き、NHK 交響楽団でも聴く機会があって、これはすごい指揮者になるぞという予感があった。案の定、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、シカゴ響にデビューして活躍の場を広げ、2012年からはこのベルリン・ドイツ響の音楽監督に就任。それに加え、2014年からボリショイ歌劇場の音楽監督にも就任していたとは知らなかったが、まあ実に大変な活躍ぶりである。自分の直感が証明されたような気がして嬉しいとともに、やはり実力のある人は頭角を現すのだなという思いも新たにする。
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さて、過去のトゥールーズ・キャピタル管との来日公演ではフランス音楽が、N 響との共演ではロシア音楽が多かったものと記憶するが、今回はドイツのオケということで、以下のようなドイツ物のプログラムだ。また、今回のツアーの別のコンサートでは、ベートーヴェン (「エグモント」序曲、交響曲第 3番「英雄」、第 7番) が多く取り上げられている。

 メンデルスゾーン : 序曲「フィンガルの洞窟」作品26
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 3番ハ短調作品37 (ピアノ : ユリアンナ・アヴデーエワ)
 ブラームス : 交響曲第 1番ハ短調作品68

ソヒエフの指揮の特徴は、なんといってもその魔術的な陶酔感にある。音そのものに色気があるとでもいうのか、オケの間から立ち昇ってくる独特の香気がなんとも柔らかく色彩鮮やかなのだ。これは、私が接したいずれの演奏でも裏切られることのなかったソヒエフ独自の音なのである。今回も、最初の「フィンガルの洞窟」がその彼の音楽性をそのまま表していて、メンデルスゾーンの持ち味にもぴったりだ。オーケストラの中から沸き起こる音が多層的に耳に入ってきて、耳の中で、この曲の表現する海のうねりが巧まずして音となって行く。実に素晴らしい。

ピアノのアヴデーエワは、2010年のショパン・コンクール優勝者。ロシア人で、1985年生まれというから、今年 30歳の若手である。日本には、コンクール優勝直後にやってきて、デュトワ指揮の N 響との共演でショパンの 1番のコンチェルトを弾いたのを私も聴いたが、派手なことを狙うのではなく繊細なピアニストというイメージである。ショパンコンクールでは、アルゲリッチ以来 45年ぶりの女性優勝者ということだが、まあそれはあまり重要なことではあるまい。
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彼女の場合、ステージ衣装として、どうやらフリフリのドレスなど着ることがないようで、上の写真と全く同じ格好でこの日も登場した。この銀色のスーツに、黒いパンツでツカツカとステージを歩くので、あまり女性云々という感じがしない (対極はユジャ・ワンであろうが、彼女のステージにももうすぐ日本で接することになるので、ご存じの方はお楽しみに!!)。さて、この日のベートーヴェンの 3番のコンチェルトであるが、以前の記事でも触れた通り、彼の 5曲のピアノ協奏曲の中で唯一短調、悲劇的かつ男性的な曲である。それをアヴデーエワとソヒエフのコンビは、なんとも繊細な方法で音にして、静謐な音楽を作り出した。私の持論として、静謐なベートーヴェンは大概失敗なのであるが、この日はちょっと様子が違っていて、力は抜けていても表現力が多彩なので、曲の新たな魅力に気づかされたような気がする。アヴデーエワはアンコールとしてショパンの前奏曲「雨だれ」を弾いたが、これぞまさに彼女の真骨頂だ。男性的でも女性的でもない。ただ音楽の静けさが胸を打つ、そんな素晴らしい演奏であった。

さて、問題は後半のブラームスだ。私はここで初めて、ソヒエフの指揮に違和感を覚えた。ブラームスの 4曲のシンフォニーの中でも、この 1番は、今日のキーワード (?) で言えば最も男性的な曲。乱暴に言ってしまえば、ここで必要とされるのは魔術的な音ではなく、とにかく情熱と汗を孕んだ熱い音なのである。ソヒエフのようなアプローチでは、作曲者が 20歳から 40歳まで (ということは、若いイケメンからむさいオッサンになるまで) 苦心惨憺、新たなシンフォニーを書こうとした執念が、そのまま表れてくることがないので、なんとももどかしいのだ。第 2楽章はそれでも情緒があるのでそれなりには聴けるものの、ここでもやはり、激しい憤りや過剰な決意が裏にあればこそ、一時の沈思黙考が味わいを持つものではないだろうか。それだけブラームスの 1番は特殊な曲なのだと思う。ところで、上で「若いイケメンからむさいオッサンになるまで」と書いたが、ご参考までに、若き日と老年のブラームスの写真を掲げておく。正確にそれぞれ何歳のときの肖像なのかは分からず、若干誇張気味になってしまうかもしれないが、でも私の解釈では、この作曲家の本質 (クララ・シューマンへの恋も含め) を考える上で、「老い」という要素は重要であるので、このような比較も少しは意味があるのでは。
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この日のオーケストラ、ベルリン・ドイツ交響楽団は、戦後アメリカ占領地域の RIAS 放送局のオケとして発足し、ハンガリーの天才、フェレンツ・フリッチャイや若き日のロリン・マゼール、リッカルド・シャイー、ウラディミール・アシュケナージ、インゴ・メッツマッハー、ケント・ナガノと、いわゆるドイツ的な重い雰囲気の指揮者をシェフに頂いたことがないオケであり、いわば国際色豊かな点に特色があると言ってもよいであろう。その意味では、ソヒエフのような人材はその流れにふさわしいと思われる。なので、私がここでソヒエフのブラームス解釈に異を唱えようと、そんなことを気にする必要はない (ま、そりゃそうです 笑)。実際、私だけではなく、現地ベルリンの批評なども、厳しいものが出てくるかもしれないが、これから 5年、10年と関係を続けるうちに、そのような批評を嘲笑うような面白い演奏にいろいろ出会えることを期待しております。この日のアンコールでは、まずグリークの「2つの悲しい旋律」から「過ぎた春」が演奏された。これはアンコールピースとしてはおなじみで、弦の響きが美しく、ソヒエフマジックがよく効いていた。そしてもう 1曲、「フィガロの結婚」序曲が演奏されたが、コントラバス 8本の編成でのこの曲の演奏は、昨今では珍しい。ソヒエフはプログラムに掲載されているインタビューの中で、古楽奏法への反対の立場やフル・オーケストラで古典を演奏することの意義 (すべての楽員が古典を演奏することによるオケとしてのアンサンブルの強化) を述べるとともに、「初演した当時、楽器の数が少なかったからと言って、それが、作曲者が欲していた音や規模だったのか、それは別の話です」と発言している。この日の「フィガロ」はそれを実践するもので、爆発するような合奏の歓びが感じられた。

この右手が魔術を引き出すのであるが、誰かがこれにチョキで対応しても、間違ってもグーで返すようなことをせず、頑張ってパーを出し続けて欲しい。
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# by yokohama7474 | 2015-11-08 11:30 | 音楽 (Live) | Comments(0)