近代日本の社会と絵画 戦争の表象 板橋区立美術館 館蔵品展

板橋区立美術館は、練馬区美術館と並び、日本の画家たちを中心としたユニークなコレクションと企画で知られる。今回、戦争の表象と題して館蔵品の展覧会を開催中と知って、見にでかけた。区民でもないのに、入場料は無料である。少し申し訳ないような。
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有名無名の昭和の洋画家たちが、それぞれに戦争に関わって、労苦を強いられたり、場合によっては命を取られたりした、まさに画家それぞれの生きた証が作品に結実している。泰西名画にため息をついているだけでは絶対分からない、人が生きる重さを感じることができるし、日本という国が近代以降に置かれた立場を考えさせられる。展覧会では、30名に及ぶ画家それぞれの戦争との関わりが説明してあって、興味は尽きない。一般に知られている名前としては、清水登之、柳瀬正夢、多毛津忠蔵、国吉康雄、福沢一郎、松本竣介、寺田政明、高山良策、山下菊二というあたりが挙げられるが、国吉を除いては、直接に戦争 (敵国民として米国で辛酸を舐めることとなった) とのかかわりについてあまりイメージがない。だが、例えば日本の 1920年代を語る上で欠かせない柳瀬正夢が、驚いたことに、空襲によって新宿駅で死んでいたりするのだ。平和な時代には考えられないことではないか。作風の面では、全体的に、ダリやエルンストといったシュールレアリズムが画家たちの心をつかんでいたことがよく分かる。ただそこに、いつも日本的な情緒がつきまとっているのが興味深い。
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最も印象深かったのは、上のポスターになっている、堀田操の「断章」(1953年) である。なんとも不気味かつ静謐な絵ではないか。

新海覚雄の「貯蓄報国」(1943年) という絵は、いわゆる戦争画のタッチにも似て、今見ればある種のキッチュなのであるが、まさに割り切れない情緒をはらんだ作品だ。これを見て、銃後の備えをがんばろうという気になるようなならないような。
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浜松小源太の「世紀の系図」(1938年)。見ていて胸が痛くなるような気がしませんか。
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難波香久三 (かくぞう) の「地方行政官A氏の像」(1938年)。今も昔も・・・という印象ですね。
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繰り返しになるが、この美術館のポリシーは本当に意義深いもので、美術という営為の根源を考えさせられる。素晴らしい展覧会だった。


# by yokohama7474 | 2015-06-06 23:55 | 美術・旅行 | Comments(0)

ユーリ・テミルカーノフ指揮 読売日本響 2015年6月5日

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今回のテミルカーノフの読響との協演、2つ目のプログラムは、マーラーの第 3交響曲だ。この指揮者のマーラーと言えば、1番を以前この読響でも取り上げていたし、サンクト・ペテルブルク・フィルとの来日公演では 2番を演奏したこともある。だが、私はそのいずれにも行けなかったので、今回が初のテミルカーノフによるマーラー体験だ。

結論から言えば、随所にテミルカーノフ節が聴けたとはいえ、マーラーの演奏としては課題の多いものになった。多少こじつけになるかもしれないが、ひとつの理由は、読響のこれまでの演奏の歴史の中で、この作曲家が必ずしもメインストリームであったとは言えない事情があるのかもしれない。考えてみれば、ザンデルリンク、フリューベック・デ・ブルゴス、マズア、ロジェストヴェンスキー、アルブレヒト、スクロヴァチェフスキー、それにカンブルランを加えても、マーラー指揮者というイメージはあまりない。もちろん、これらの指揮者のマーラー演奏を、実演や CD でそれぞれ聴いてきている私ではあるが、ただやはり、どちらかというとブルックナーの方がこれらの指揮者には似合うような気がする。

それが関係しているわけではなかろうが、今回は冒頭からもうひとつオケの集中力が高まらないもどかしさを感じた。もちろん、第1楽章の終結部や、最終楽章の大団円等、音楽が大きく弧を描く場面で、纏綿とテンポが落とされて歌が沸き起こる感覚には感動を禁じ得ないものはあったのであるが、マーラーに必要な混乱というべきか、統御された狂気というべきか、そのようなものは聴き取れなかった。

ユニークであったのは、合唱団とソリスト (小山由美) の入場。第 3楽章が終わったあと、ようやく女声合唱 (新国立劇場合唱団) と児童合唱 (NHK 東京児童合唱団) がホールの後ろの席 (P ブロック) に入場し、ソリストに至っては、第 4楽章の冒頭部分でステージ袖から歩いてくるという登場ぶり。歌劇場での経験豊富なテミルカーノフとしては、何かこだわりがあったのかもしれないが、ちょっと無理があったのではないか。ソリストにしてみれば、歩き終わってすぐに、あの夜の雰囲気の静かな歌を歌う必要あるわけで、感情移入に高い難易度があったと思う。入りの部分の音程の不安定さに、聴いている方がハラハラするようなことになってしまった。

日本のオケの水準が著しく上がってきていることで、聴衆の期待も大きくなっている。このコンビには、次のプログラムに期待しよう。切り札のロシア物だ。
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# by yokohama7474 | 2015-06-06 23:10 | 音楽 (Live) | Comments(0)

メイズ・ランナー (ウェス・ボール監督 / 原題 : The Maze Runner)

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これはすごい映画だ。予告編のイメージは「ハンガーゲーム」、見てみると雰囲気は「スターシップ・トゥルーパーズ」、ドンデン返しは「SAW」、そして続く次作は、これは絶対ゾンビ物だろう!! という勝手な想像を抱かせる、一粒で何度もおいしい作品だ。

全く先を読ませない展開、若手ばかりの個性的な俳優陣、スピーディで効果的なカット割り、どれを取ってもすばらしい。実に恐るべき手腕と言わねばならないこの監督は、これがデビュー作とのこと。今日のハリウッドシステムの中では、監督の個性を発揮することは難しく、作品がヒットして大作を任されるようになるほどその傾向が強いであろうが、このような輝く才能には、是非この個性を保って欲しい。

数々あるこの映画の秀逸な点のうち、顕著なものをひとつ挙げるとすると、役者の顔の多彩さがあるだろう。前の記事で「龍三と七人の子分たち」で、役者の無名性に言及したが、この映画にあるのはその全く逆の、それぞれのキャラクターに合った、「もうこれしかない」という必然性すら感じさせる、それぞれの役者の顔だ。設定上、様々な人種が集まっているわけであるが、「思慮深く繊細な面を持つ黒人リーダー」、「強靭な肉体と精神を持つアジア系」、「鼻っ柱が強く自己中心的な白人」といったキャラクターを、まさにそれぞれの顔が雄弁に語っている。映画とは、映像と音声のアマルガム。観客の感情移入は、このような周到に用意されたキャラクター描写によって初めてなされると思う。

原作は三部作で、すべて映画化される予定とのこと。次回作が本当にゾンビ物なのかどうか知らないが (笑)、この展開ならそうならなければという思いこみを持って、楽しみに次回作を待ちたいと思う。実際、通常のシリーズ物では、1作目のクオリティをその後の作品が凌ぐことは非常に稀である。それは、継続するストーリーと、既に固まってしまった登場人物のキャラクターが既に所与のものになっているところ、スケールを求めるあまりにマンネリ化に陥り、結局何がテーマなのか分からなくなってしまうからだと思う。その点、三部作でそれぞれ全く異なる展開にすれば、マンネリ化を避けられると思うのだ。それゆえにやはり私は、この続きはゾンビ物 (まあ、自分の好きなジャンルであるからですが 笑) になって欲しいと切望する次第であります。余談だが、最近読んだストルガツキー兄弟の「ストーカー」(言わずと知れたタルコフスキー作品の原作) は、実はゾンビ物なのである。ロメロの映画のような、そのものズバリのゾンビ物ばかりではない。隠喩によるゾンビ物があってもよいではないか!

# by yokohama7474 | 2015-06-06 01:31 | 映画 | Comments(0)

龍三と七人の子分たち (北野武監督)

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北野武作品は、監督の著名度や作品の受賞歴に比してあまりヒットしないという印象があるが、今回は比較的ロングランになっているような気がする (ひとえにイメージで、調べたわけではないので、間違っているかもしれないが)。ただ、映画の出来不出来とは関係なく、なぜにいつもこれほど「安い」雰囲気の映像になってしまうのだろう。今回の役者は、錚々たる面々というのは少しはばかられるものの、日本を代表する役者が何人も出演していて、それなりにきらびやかさがあってもよいはずなのに、まるで全員無名の人たちのようだ。そして、そこに本当に無名性を具現する人たち、例えば、藤竜也の息子の家族などが混じるので、全体の印象は、「なんだか知らない人たちだなぁ」となってしまう。これは当然監督の企図するところであろうし、作品全体を通して明らかに CG も少ないという事実が、画面の基本的なトーンを決めており、ハリウッド調を目指す邦画とは全く一線を画する。

私は北野映画のファンではあるが、今回の作品は、そこそこ楽しめたという程度に留まった。理由は、上記のような、なんとも言えない無名な雰囲気に加え、日本のジジイがあまりカッコよくないということであろうか。もちろん、藤竜也にせよ近藤正臣にせよ、達者だし、いい味出してはいると思う。ただ、描かれているジジイ像がなんとも情けない。いや、今日の老人像のリアリティが映画にあるとかないとかいう話ではない。なぜだか、映像に映っているジジイたちが、カリカチュアになっていないもどかしさがあるのだ。と言いつつも、何度も声を挙げて笑ったことを白状しよう。復讐を誓って仲間の死体とともに殴り込みをかけるのに、その死体を盾にするという、たけし一流のブラックユーモアも楽しかった。あらゆるところで京浜連合とバッティングする間の悪さも、よい呼吸で描けていた。それなのに、ひとえにジジイのカッコよさがビンビンと伝わって来なかったのが、いかにも残念であった。

次回作に期待。


# by yokohama7474 | 2015-06-06 00:57 | 映画 | Comments(0)

ウラディーミル・フェドセーエフ指揮 チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ 2015年5月31日 サントリー・ホール

フェドセーエフの指揮する、旧モスクワ放送交響楽団を聴く。曲目はオール・チャイコフスキーで、

四季作品37b から 4月 / 6月 / 10月 / 12月 (ガウク編)
組曲「くるみ割り人形」作品71a
交響曲第5番ホ短調作品64

というもの。尚、今回初めて知ったが、「くるみ割り人形」の組曲のことを作曲者はもともと「クリスマスツリー」と題したので、フェドセーエフはそれを尊重したいとのこと。なーるほど、確かにクリスマスが題材という以上に、この愛らしいバレエ組曲にふさわしいニックネームですね。
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フェドセーエフは1932年生まれなので、今年83歳ということになるが、年齢を全く感じさせない指揮ぶり。もっとも、近年、N 響や兵庫芸術センター管弦楽団などの指揮のためにそれなりの頻度で来日しているので、健在ぶりは知っているつもりではあったし、生演奏にも接していた。ただ今回は改めて、その変わらぬ音楽に感銘を受けた。彼の音楽は、いわゆるロシア風のこってりしたものとは少し違っているが、金管が盛り上がって音楽の輪郭が膨張する瞬間などに、やはりロシア的情緒が聴かれると言ってよいであろう。今回の曲目では、アレクサンドル・ガウク (ムラヴィンスキーの師匠だ!) の編曲になるピアノ曲集「四季」の最初の音が鳴った瞬間に、もうロシア以外の何物でもない雰囲気が会場を満たした。「エフゲニ・オネーギン」のタチアナが読書しながら物思いにふける・・・まあそんな雰囲気で、なんとも抒情的だから、それをロシア的と表現したくもなるものだ。一方で、「くるみ割り人形」と交響曲5番は、名実ともに国際的な天下の名曲なので、ことさらロシア的などと考える必要はなく、遅めのテンポで丁寧に表情が描き分けられる様子がこのコンビの成熟度を表していて、聴きごたえは充分であった。また、今回はツアーの最終日であったせいか、4曲もアンコールが演奏され、これがいずれもすさまじい迫力。特に、(この日唯一チャイコフスキーでない)、ハチャトゥリアンの「レスギンカ舞曲」は、鳥肌立つ凄演であった。

ところで、私がいつも思うのは、昔の指揮者、生年でいえば恐らく1910年代くらいの人たちまでは、80歳前後で音楽がぐっと深みを増したような気がするのに対し、1920年代以降の生まれの指揮者には、あまりそのような要素がなく、60代に円熟の境地に達すると、それ以降の音楽作りにあまり差がなくなってしまうように思う。具体例は枚挙に暇がないが、日本で体験することができた例では、ベームやカラヤンやヴァントなどの感動的な晩年の演奏と、今のブロムシュテット、ハイティンク、ドホナーニ等の「若々しい」、と言って語弊があるなら、「以前から継続して円熟した」演奏との比較になろう。フェドセーエフもまたしかり。音楽に感動はできるのだが、命を削って没入するといったタイプではない。今回そのことを少し考えてみたのだが、あまり単純化するのは危険であるものの、音楽の世界におけるローカリズムの希薄化と関係があるのではないか。オケの技術が上がり、世界的に時差なく最新の情報が手に入る今となっては、本当にローカルなものを守るのは難しい。そうであるからこそ、逆説的ながら、コマーシャリズムはローカルなものを好む。このオケの名称がよい例だ。以前は「チャイコフスキー記念」を冠したモスクワ放送交響楽団であったが、今や、「チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ」だ。チャイコフスキー以外演奏しないのか??? いやいや、そんな馬鹿な。でも、もしかすると、国外ツアーではほとんどそうなのかもしれない。それは、「ロシアのオケはロシア音楽」というレッテルが、商売上便利だからだろう。でも私は、このコンビのブルックナーとかリヒャルト・シュトラウスを聴いてみたい。それは叶わないのだろうか。円熟のフェドセーエフが、若々しくないフェドセーエフが、そのような演奏から顔を出さないとは限らないではないか。あるいは、同じチャイコフスキーをやるでも、知名度が低くロシア的情緒を感じさせる「四季」の管弦楽編曲版の、抜粋ではなく全曲を前半に持ってくるようなことは無理だろうか。・・・無理か。
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# by yokohama7474 | 2015-06-06 00:12 | 音楽 (Live) | Comments(0)