ウラディーミル・フェドセーエフ指揮 チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ 2015年5月31日 サントリー・ホール

フェドセーエフの指揮する、旧モスクワ放送交響楽団を聴く。曲目はオール・チャイコフスキーで、

四季作品37b から 4月 / 6月 / 10月 / 12月 (ガウク編)
組曲「くるみ割り人形」作品71a
交響曲第5番ホ短調作品64

というもの。尚、今回初めて知ったが、「くるみ割り人形」の組曲のことを作曲者はもともと「クリスマスツリー」と題したので、フェドセーエフはそれを尊重したいとのこと。なーるほど、確かにクリスマスが題材という以上に、この愛らしいバレエ組曲にふさわしいニックネームですね。
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フェドセーエフは1932年生まれなので、今年83歳ということになるが、年齢を全く感じさせない指揮ぶり。もっとも、近年、N 響や兵庫芸術センター管弦楽団などの指揮のためにそれなりの頻度で来日しているので、健在ぶりは知っているつもりではあったし、生演奏にも接していた。ただ今回は改めて、その変わらぬ音楽に感銘を受けた。彼の音楽は、いわゆるロシア風のこってりしたものとは少し違っているが、金管が盛り上がって音楽の輪郭が膨張する瞬間などに、やはりロシア的情緒が聴かれると言ってよいであろう。今回の曲目では、アレクサンドル・ガウク (ムラヴィンスキーの師匠だ!) の編曲になるピアノ曲集「四季」の最初の音が鳴った瞬間に、もうロシア以外の何物でもない雰囲気が会場を満たした。「エフゲニ・オネーギン」のタチアナが読書しながら物思いにふける・・・まあそんな雰囲気で、なんとも抒情的だから、それをロシア的と表現したくもなるものだ。一方で、「くるみ割り人形」と交響曲5番は、名実ともに国際的な天下の名曲なので、ことさらロシア的などと考える必要はなく、遅めのテンポで丁寧に表情が描き分けられる様子がこのコンビの成熟度を表していて、聴きごたえは充分であった。また、今回はツアーの最終日であったせいか、4曲もアンコールが演奏され、これがいずれもすさまじい迫力。特に、(この日唯一チャイコフスキーでない)、ハチャトゥリアンの「レスギンカ舞曲」は、鳥肌立つ凄演であった。

ところで、私がいつも思うのは、昔の指揮者、生年でいえば恐らく1910年代くらいの人たちまでは、80歳前後で音楽がぐっと深みを増したような気がするのに対し、1920年代以降の生まれの指揮者には、あまりそのような要素がなく、60代に円熟の境地に達すると、それ以降の音楽作りにあまり差がなくなってしまうように思う。具体例は枚挙に暇がないが、日本で体験することができた例では、ベームやカラヤンやヴァントなどの感動的な晩年の演奏と、今のブロムシュテット、ハイティンク、ドホナーニ等の「若々しい」、と言って語弊があるなら、「以前から継続して円熟した」演奏との比較になろう。フェドセーエフもまたしかり。音楽に感動はできるのだが、命を削って没入するといったタイプではない。今回そのことを少し考えてみたのだが、あまり単純化するのは危険であるものの、音楽の世界におけるローカリズムの希薄化と関係があるのではないか。オケの技術が上がり、世界的に時差なく最新の情報が手に入る今となっては、本当にローカルなものを守るのは難しい。そうであるからこそ、逆説的ながら、コマーシャリズムはローカルなものを好む。このオケの名称がよい例だ。以前は「チャイコフスキー記念」を冠したモスクワ放送交響楽団であったが、今や、「チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ」だ。チャイコフスキー以外演奏しないのか??? いやいや、そんな馬鹿な。でも、もしかすると、国外ツアーではほとんどそうなのかもしれない。それは、「ロシアのオケはロシア音楽」というレッテルが、商売上便利だからだろう。でも私は、このコンビのブルックナーとかリヒャルト・シュトラウスを聴いてみたい。それは叶わないのだろうか。円熟のフェドセーエフが、若々しくないフェドセーエフが、そのような演奏から顔を出さないとは限らないではないか。あるいは、同じチャイコフスキーをやるでも、知名度が低くロシア的情緒を感じさせる「四季」の管弦楽編曲版の、抜粋ではなく全曲を前半に持ってくるようなことは無理だろうか。・・・無理か。
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# by yokohama7474 | 2015-06-06 00:12 | 音楽 (Live) | Comments(0)

芥川也寸志 生誕90年メモリアルコンサート 2015年5月31日 きゅりあん大ホール

昨今、伊福部昭の人気には大変なものがあるが、それはもともと、ゴジラの音楽に日本人が感じる郷愁によるところ大であると思われる。しかしながら、伊福部人気からの波及であるのか、早坂文雄や芥川也寸志の音楽にもスポットライトが当てられているようだ。これは、日本人作曲家をそれなりに聴いてきた者としては、いささか複雑な感情を禁じ得ない。というのも、日本の作曲界の広がりは実に大したもので、必ずしも大衆性のない作曲家であっても、その作品を傾聴する機会が確保されるべきであるし、一方で映画音楽等で大衆性を獲得した作曲家にも、全く違った側面があるからである。ただ、なんであれ日本の作曲家が演奏会で取り上げられ、意外なほど多くの聴衆が集まることは、埋もれていた作品を発掘して継承して行くという点では、意義深いと評価できよう。
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さて、芥川也寸志である。なんでも、主催者側の「生誕100年まで待てない」という思いが結実したコンサートで、映画やテレビの音楽の再構成等、並々ならぬ関係者の労苦によって実現したものである。曲目は以下の通り。

Do Re Mi Fa Sol La Si Do!
祝典組曲No.3 marcia in do
NHK 大河ドラマ「赤穂浪士」組曲
映画「鬼畜」組曲
バレエ「KAPPA」組曲
NHK 幻のテーマ音楽集
映画「八つ墓村」組曲
映画「八甲田山」組曲
アンコール : みつばちマーチ

演奏は、1984年生まれの若い指揮者、松井慶太と、日本の作曲家を専門に演奏するオケとして 2012年に結成された、オーケストラ・トリプティーク。

演奏に先立ち、芥川がテーマ音楽を書いた映画「鬼畜」についての思い出を、同作品の監督である野村芳太郎の息子でプロデューサーの野村芳樹が語るプレトークがあった。実際の創作過程における当事者たちの苦労と熱意が伝わってきたわけであるが、古今東西、あらゆる芸術作品で、このような当事者たちの営為が繰り返されてきたことを思うと、実に興味深い話であった。
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驚いたのは、演奏の活きのよさである。このオケは、昨年の伊福部昭百年紀なるコンサートでも演奏を聴いていて、指揮者は異なれど、その鮮烈さは変わらない。35歳以下の奏者によって成っているとのことなので、芥川の没年が 1989年であることを思うと、作曲者の生前を知らない奏者がほとんどであろう。音楽の不思議さは、楽譜自体は音楽そのものを冷凍保存することを可能にする一方で、まさにこの世に生きて創作を行っていた作曲者の思いが、なんらかのかたちで奏者に影響することではないだろうか。通常クラシック音楽のコンサートでは、100年も 200年も前に書かれた曲を聴くことが多いのであるが、今回のようなコンサートは、作曲者の、未だ生きている思いが、ヴィヴィッドに音に現れる点、貴重であると思う。

私自身は、芥川の音楽のさほど熱心な聴き手ではないとはいえ、代表作のエローラ交響曲や、交響管絃楽のための音楽をはじめ、映画音楽もそれなりに聴いてきた。個人的な記憶では、小学生のときに見た「八甲田山」の音楽に強い Emotion を感じて、子供心に、ある種の恐怖心を覚えたことを鮮明に思い出す。伊福部の弟子であることを刻印したオスティナートと土俗的なメロディ、ロシア近代音楽を思わせる鉄琴、木琴の多用という明瞭な個性。時折ふと口ずさんでしまうような親しみやすさが、彼の音楽にはある。

ホールはほぼ満員で、一部マニアと思しき人たちもいたものの、普通のオジサンオバサンもいて、皆さん楽しんでおられるようだった。映画「鬼畜」のメインテーマは、ストリートオルガンで奏されるが、終演後のロビーで聴衆が自由にハンドルを回して音を出してよいということになり、たくさんの人々が集まって順々に楽しんでいた。このような風景もなかなかに珍しい。
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種々の困難を乗り越えて、この意義深いコンサートを成功に導いた関係者の方々の熱意と努力に、拍手!

# by yokohama7474 | 2015-06-04 23:39 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ユーリ・テミルカーノフ指揮 読売日本響 2015年 5月30日 横浜みなとみらいホール

今年半ばのクラシック音楽界の大きな話題のひとつは、巨匠ユーリ・テミルカーノフの読響への客演であろう。今回、その最初の曲目を聴きに横浜に出かけた。このホールのよいところはロビーが全面窓になっていることで、天気のよい日は、窓から潮風の匂いすら漂うような気分になる。この日もすっきりとした晴天で、これから始まるコンサートへの期待がいやが応にも高めてくれた。
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今回の曲目は以下の通り。
 リスムキー・コルサコフ : 交響組曲「シェエラザード」
 ラヴェル : 左手のためのピアノ協奏曲 (独奏 : 河村尚子)
 ラヴェル : バレエ音楽「ダフニスとクロエ」組曲第2番

テミルカーノフという指揮者は、決して派手なことを狙うわけではなく、むしろ複雑な情緒をなんとも見事に紡ぎだして行く点に持ち味があると考えている。指揮棒を使わない指揮者は昨今では多いものの、この人については、抒情性の表現のために、両手の指を駆使する必然性があると思う。ただ、その抒情性が時として牙をむくまでに高まる点が、真に非凡なのである。かつて同じ読響で、サンクトペテルブルク・フィルで、またフィルハーモニアで、国内のみならずニューヨークやロンドンでその指揮に接して何度も感銘を受け、私にとっては敬愛おくあたわざる数少ない巨匠のひとりである。

さて、このような指揮者にかかると、「シェエラザード」は絢爛たる音の絵巻というよりは、管と弦が饗応する有機的な構造体という様相を呈する。実際、読響の個々の奏者が、他の奏者の音に敏感に反応して演奏していることがよく分かり、ただ驚嘆するのみであった。先般敢行したばかりの欧州ツアーの好影響もあるのであろうか (しかも携えて行った曲目のひとつが、メシアンのトゥーランガリラ交響曲だったとは!!)。このよく書かれたロシア音楽には、何よりそのオケの自発性が極めて効果的であり、力任せにならない演奏が心地よかったのであるが、それでいて、クライマックスでは波濤が大きくうねり、船が大破する様子が目の前に現れるのは、いつもながらのテミルカーノフの魔術的な能力である。日下紗矢子のソロ・ヴァイオリンも、そのような音楽作りにふさわしく、雄弁でコケティッシュでありながらも、粘りすぎない好演であった。

後半のラヴェルは、似て非なる音楽。全体的には、多少、切っ先鋭い響きには不足したかもしれない。ただ、私のように音楽の専門家でない者の特権は、うるさいことを抜きにして自由に音楽を楽しめること。それには、聴いているときの天候や体調も影響する。今回、この晴天の昼下がりに、ラヴェルの左手のためのコンチェルトの冒頭、地からうごめき出るような音たちが思い起こさせたのは、あのゴダールの「パッション」の開始部分、空に点々と生じる飛行機雲であった。なんという音楽! ジャズでもないドイツ音楽でもない、洒脱なフランス音楽なのに、使われているのは左手のみ、しかもこんなに暗く弱い音で始まるという逆説。河村尚子のピアノは、いつもながらに明朗で、音楽の雰囲気が変わるところでのアクセルとブレーキの踏み分けも見事。

ダフニスの方は、オケの真っ向勝負。上述の通り、シェエラザードの有機性と異なり、ここではひたすら精妙さが求められる点、少しテミルカーノフの持ち味と異なるような気もした。ただ、案の定というべきか、終曲の盛り上がりは熱狂的で、このコンサートを締めくくったのである。

いや、実は、定期演奏会であるにも関わらず、アンコールが演奏されたのだ。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の「パ・ド・ドゥ」。これぞまさにテミルカーノフの真骨頂。彼がこれまでアンコールで演奏したのを聴いたのは、たとえばシューベルトの「ロザムンデ」間奏曲や、エルガーのエニグマ変奏曲の「ニムロッド」だったりしたわけであるが、いずれも彼の特色をはっきり表していた。今回も同じ。温かい情緒が爆発的に盛り上がる様子は、なんと感動的であったことか。

というわけで、残る 2つのプログラムにもいそいそと出かけて行く予定であるが、ふと面白いことに気づいたので、書き留めておこう。今回、テミルカーノフの来日と同時期に、偶々手兵チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ (旧モスクワ放送響) を連れたもう 1人のロシアの巨匠、フェドセーエフが来日している。そして、ソリストとして同行しているのが、ヴァイオリンのワディム・レーピンだ。ところがなんたることか、ロシアのヴァイオリニストのもう一方の雄、マキシム・ヴェンゲーロフも来日中ではないか!!ピアノでは、テミルカーノフと共演するデニス・マツーエフが日本にいるし、また、これらの演奏家すべてと近しい庄司紗矢香が日本でツアー中である。これは密かに日本でロシア音楽マフィアの会合など開かれているのでは?! ま、だったらどうと言われても困りますがネ。マフィアの親玉には見えない、ということにしておきましょう。
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# by yokohama7474 | 2015-06-04 01:29 | 音楽 (Live) | Comments(0)

宝城坊日向薬師 特別開帳 金沢文庫称名寺

気温は高いけれども湿気のまだ少ない中、久しぶりに金沢文庫称名寺 (横浜市金沢区) に繰り出した。お目当ては、建物が解体修理中の伊勢原市、日向薬師宝城坊の本尊、薬師三尊の特別開帳だ。
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もともと年に数度しか公開の機会のない秘仏で、以前現地まで拝観に行ったことはあるものの、久しぶりに間近に接することのできるこの機会を逃してなるものかと思い立ったもの。金沢文庫は時折、このような特別展を開催するので、よくよく目を光らせておかねばならない。称名寺自体の本尊 (重要文化財 弥勒菩薩立像) の公開や、運慶展等、過去にも大変印象深い展覧会に足を運んだものだ。

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天気に恵まれ、鮮やかな日差しに太鼓橋を渡るのも楽しい。
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池を見ると、たくさんの亀が甲羅干しをしている。うーむ、体を思い切り反らしたり、傍若無人にほかの亀の上にどっかり乗っかっている奴もおる。なんとも気持ちよさそうで、こちらもついつい目を細め、足を停めて見てしまう。でも、そんなアクロバティックな恰好で、バランスは崩れないのかね、亀さんよ。

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お目当ての薬師三尊とは、ガラス越しながら至近距離での対面。関東特有の鉈彫りとして、弘明寺の十一面観音と並ぶ代表作だ。本尊の顔は完成されているものの、からだ全体に鑿のあとが残っており、一見未完成かと見紛うばかり。ただ、私自身も子供の頃からモノの本で読んできた通り、これは明らかに作業の途中で放棄されたものではなく、この状態で完成作であろうと思う。その証拠には、両脇侍は顔まで一面に鑿のあとが残っている一方で、体躯自体は既に掘り出されてあるのである。作業途中なら、体躯は掘り出されておらず、粗削りの箇所がさらにまだらであろうと思われる。本尊の顔のみがきれいに仕上げられて、それ以外は別世界から現れる段階という印象を受ける。古拙ではあるものの、これはこれで、大きな存在感を持っている。

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この寺は、頼朝と政子から深く信仰された歴史を持ち、かなり隆盛していたらしく、興味深い文書や、平安時代、鎌倉時代に遡る仏像を多数見ることができる。飛天残欠や獅子頭などから、中世の宗教活動のありさまを想像するのは、なんとも楽しいことだ。
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拝観を終えて帰途につくと、トンビがのんびり中空に輪を描いていた。血で血を洗う激烈な生活の中で、頼朝も寺社に詣でた際には目を上げて、しばしこのようなのどかな風景に一息ついたものであろうかと想像してみた。

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# by yokohama7474 | 2015-06-03 23:27 | 美術・旅行 | Comments(0)

ルーヴル美術館展 国立新美術館

六本木の国立新美術館にて開催中の展覧会を見る。

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なんであれフェルメール作品が来日するときには、えらい騒ぎになる。ともかくもそれだけの価値はあるものと思うものの、今回のような企画については、中身が分かってしまうと、なかなかに商売上手だなぁという感が先に立つことは否めない。つまり、ルーヴル現地に赴いた際には、大傑作群の陰に埋もれてしまうに違いない小品をこれでもかとばかり集めて、その中に 3点の目玉、すなわち、クエンティン・マセウスの「両替商とその妻」、ティツィアーノの「鏡の前の女」、そしてフェルメールの「天文学者」を適当な間隔で散りばめるという作戦。加えて、小品群の中に、ワトーだのレンブラントだのルーベンスだの、はたまたドラクロワやミレーという超有名画家も入っているとなれば、飾られた絵画全体の質以上に、鑑賞者としても得した気分になろうというものだ。

そもそも今回の展覧会は、ルーヴルの誇る古今に亘る傑作群網羅しようというものではなく、「日常を描く --- 風俗画に見るヨーロッパ絵画の真髄」という副題が示す通り、古代から近代まで、人間の生活を描いた絵画を集めたものである。よって、いきおい、鳥肌立つように精緻な古代ギリシャの彫刻もなければ、匂い立つような艶っぽいイタリア・ルネサンスもほとんどないということになり、まさに商売という最も人間的な営みを描いたフランドル、ネーデルランド絵画が中心になってくるわけである。換言すれば、それが数百年遡る絵画であっても、遠く現代人の生活における世俗的風景を連想させる作品が大半を占めているということ。そして、現代の美術館は商売も上手でなければ。

と、あえて否定的に書いてきたところで白状しよう。私はこの展覧会足早に巡って、大変楽しかった。というのは、世界に冠たる大美術館に赴いた際に、これらの小品にまで意識を巡らせることはなかなかに難しいところ、この展覧会では、「あ、こんな絵があるのか」という意外感がそこここに見られたからである。実際、愛すべき小品というものには、独特の味があることを実感する。今回の出品作においては、例えばムリリョの「物乞いの少年」を例に採ろうか。

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涙目の聖母像で見る人の心を清めることに長けたこの画家の、貧しい少年に対するなんと深く優しい眼差し! 何度も通ったプラド美術館で、あるいは画家の生地のセヴィリアで、あれこれムリリョの宗教画を見て私が感じていたイメージと、これは微妙に食い違い、その食い違いが何やら心地よいのだ。

その他の例としては、ティエポロの「大道商人、または抜歯屋」に触れよう。典雅な空の蒼を持ち味とするこの画家に、このような卑俗で皮肉な作品があったとは、驚きだ。それでいて、この絵の空はやはり、天使が舞っていてもなんら違和感のない、彼の蒼なのだ。人間の営みを描くという表現は、なんとも気恥ずかしくなるように陳腐であるが、今回の展覧会を見て行くと、その陳腐さを超えて、人間の営みの滑稽さ、尊さ、やるせなさ、等々が自然と胸に入ってくるのである。なかなかに巧妙な企画ではないか。
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特別扱いのフェルメールの「天文学者」は、彼の作品の中でトップクラスというイメージはなかったのだが、実物はやはり恐るべきものだ。作中人物は、数年前に日本にやってきた「地理学者」と同一人物と見られるが、フェルメール作品の希少性に鑑みると、この両作品を日本で見ることができた充実感は格別のものだ。異常に正確な目を持ったこの画家は、架空の空間に圧倒的リアリティを付与し、どこの誰であってもいい、ただ、近代の理性と批判精神を具現した人間の姿を永遠にキャンバスに残したわけである。神々しいまでの架空のリアリティ。他の画家を冠絶する、フェルメールのみの世界である。

これが今回展示されている「天文学者」。
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そしてこれが、数年前に Bunkamura で展示された「地理学者」。
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会場の国立新美術館では、同時にマグリット展も開催中だ。時間の関係で今回そちらは見ることはできなかったが、このルーヴル展のポスターとマグリット展のポスターが並んでいること自体、文字通りなんともシュールだ。両方楽しむ余裕がないといけませんね。

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# by yokohama7474 | 2015-06-03 23:10 | 美術・旅行 | Comments(2)