ゲット・アウト (ジョーダン・ピール監督 / 原題 : Get Out)

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映画との巡りあわせには様々なパターンがある。監督や俳優、あるいは扱っているテーマは大きなポイントになるし、あるいは、原作となっている小説やマンガを予め知っていることによって、ある映画を見たいと思うこともあるだろう。また、私の場合結構多いのが、劇場で見た予告編で、「これはどうやら面白そうだ」とピンと来るケース。もちろんそのようなガット・フィーリングが常に正しいとは限らず、期待外れでガッカリすることもある。だが、それはそれで、映画を体験するという意味ではまた意義深いこと。たとえガット・フィーリングが外れたとしても、それは飽くまで私個人の趣味の話であって、勤め先に迷惑をかけるわけでもなし、ましてや社損を醸すわけではないので、鷹揚に構えることにしている。だが、人は誰でも、様々な映画を見ているうちに、その人独特の勘が働くようになる傾向はあると思うし、その勘は意外と侮れないものなのである。なぜなら、予告編を見てちょっと気になったこの映画、何か予感がしたので、頑張ってスケジュールをやりくりして見てみると、おっとビックリの大変面白い映画であったのだ。今年見た映画の中でも、間違いなくベストを争う作品。もちろん、これは飽くまで私個人の感想ではあるものの、上のチラシを見て下さいよ。「全米初登場 No.1」「米映画レビューサイト 99% 大絶賛」とある。他人の評価はあまり気にしない私なので、これらの言葉はあまり大きな意味を持たないものの、でも、一言、言いたくなるではないか。「そうそう、この映画、面白いよ!!」と。

予告編で明らかにされるのは、以下のようなストーリーだ。ある黒人の青年 (クリス) が、美人の白人女性 (ローズ) と付き合っていて、その白人女性がその黒人の彼氏を実家に連れて行って両親に合わせようとしている。人のよさそうな黒人のクリスは、ローズが両親に、彼氏が黒人であると告げたのかどうか訊くと、彼女の返事は、「そんなことしていないけど、全然大丈夫よ」というもの。そして・・・。その先は予告編では分からない。だが上のチラシによると、「何かがおかしい」のだそうである。一体何がおかしいのだろうか。これが主演 (なのかな?) カップル。
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米国に暮らしたことのある身としては、日本にいてはなかなか皮膚感覚の持てない人種問題の根深さについて、ある程度認識しているつもりである。自由の国アメリカ。世界各国からの移民たちが協力して作り上げた「世界で最も偉大な国」。肌の色や宗教や、あるいは性別、さらには性的嗜好についてまで、差別がないはずの国。・・・だが実情はそんなものではなく、差別は依然として根強くあるし、それに伴う深刻な貧困問題や犯罪の問題もつきまとう。差別があるからこそ、自由をことさらに謳う必要があるとも言えるだろう。実際、白人と黒人のカップルは、ないことはないにせよ、極めて稀である。この映画は、そのような米国の現実に鋭く向き合い、前政権から現政権に変わったことによって顕在化するかもしれない人種問題に対し、「この国は何かがおかしい」という勇気あるメッセージを発しようとしているのだろうか。「ゲット・アウト」という題名は、そのような社会のくびきから逃れ出ようとする若いカップルの挑戦を表しているのだろうか。なんと社会性溢れる映画なのだろう。最後は感激の涙で濡れてしまうのであろうか。

・・・。さて、この先はネタバレなしに語ることができないので、ほとほと困り果ててしまうのだが (笑)、この映画を見る人は、やはりまず、上記のような社会的な意識の感度を上げて頂いた上で、映画の進展につきあう必要があるだろう。ひとつ、これはネタバレでないので言ってもよいと思うのは、この彼女の実家の人たちの顔はそれぞれに大変個性的で、そこには何か人生の過程がにじみ出ているように見える。夜の団欒における家族の会話のシーンなど、なんと言うべきか、人間の生活、家族の歴史、人と人のつながりとその距離、過ぎて行く時間、といったことをあれこれ考えさせる、本当に深い中身を持っているのだ。ここまで見て、そこに表現された人間の姿の真実に感動するだけでも、この映画を見る価値はある。これがローズの両親。
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だがもちろん、そこまでしかこの映画を見ないことなど、絶対にあってはいけない。最後まで目を開けて、しっかり見届ける必要がある。主人公は一体どこからゲット・アウトしようとしているのか。私の場合、この映画の人道的な流れに違和感をもたらしたのは、ローズの実家のお手伝いさんの、この表情であった。
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おぉ、確かになんだか、生理的に気持ち悪いと思わせる表情ではないか。笑っているのに不気味で、夢に出てきそうだ。この笑いの意味は一体何で、劇中で彼女が見せる行動には、一体いかなる理由があるのであろう。これは、事前に考える準備をしていなくても、見て行くうちに自然とそんな流れになって行くのだが、その奇妙な違和感が、実はその後、雪崩を打って容赦なく観客を襲うことになるのである。ここでも監督の確かな手腕によって、役者の表情がストーリーの流れを作り出しているわけだ。私がこの映画を面白いと評価するのはその点にある。ただ単に、ストーリーが面白いとか、役者が頑張っているとか、映像がきれいだということではなく、映画の持つ力を存分に利用していることこそが、この映画の価値なのである。その意味ではやはり、主役クリスを演じたこのダニエル・カーヤ (1989年英国生まれ) の貢献は大きい。それぞれのシチュエーションで、時に笑いを起こしながらも、必死に危機に立ち向かう姿がよい。
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脚本・監督・製作を手掛けたジョーダン・ピールは、1979年ニューヨーク生まれ。もともとコメディアンで、本作が監督デビューであるらしい。いきなりこれだけの作品を作ることができるのだから、素晴らしい才能である。きっとこれからもいい映画を撮ってくれることだろうから、大いに期待したい。
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念のためだが、ここで明らかにしておくと、この映画を見るにはある一定の社会的な感覚が必要と上に書いたが、ではこの映画が、米国における深刻な差別問題を扱った社会的な内容を持つものかと言えば、答えは微妙になってくる。恐ろしい映画か? 恐ろしい。でも笑える映画か? 笑える。場面によっては。でもその場面の意味を冷静に理解したとき、なんとも背筋が凍るような恐ろしさを覚えるのである。「そ、そういう展開になるかー!!」と眩暈を覚え、その展開自体を笑い飛ばそうとするが、あまりに急な展開なので大抵の人はついて行けず、徐々に理解してから恐怖を覚える、そんな映画なのである。あぁ、ネタバレできないのがこんなにつらい映画も、そうそうないですよ (笑)。このクリスの絶叫の意味、この映画を見てからじっくり反芻して頂きたい。
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この映画の上映館はもともと結構限られていたが、今でも細々とながら上映が続いている。東京なら、TOHO シネマズシャンテで見ることができるので、この記事をご覧になった方で、ショッキングな映画でも大丈夫という方には是非にとお薦めしましょう。あ、もちろん、ショックの前に社会性を持った鑑賞が求められることをお忘れなく。それから、冒頭のシーンはメインのストーリーと直接関係ないようでいて、実は重要な伏線になっているようなので、そこに登場する黒人の顔をよく見ておいて下さい。実は私はそれを怠ったので、あとで、「ええっと、あれか」と推測するしかなかったのである。もちろん、ほかの要素でその推測はほぼ正しいと認識しているものの、冒頭シーンの黒人の顔を覚えていなかったがゆえに、隔靴掻痒の感があるのであります。あ、そうそう。この映画がかなりえげつない内容であるにも関わらず、見る人に嫌悪感を覚えさせないように工夫されている点としては、例えば最初のシーンで高らかに鳴り響く音楽を挙げてもよいだろう。このオールディーズは何という曲か知らないが、デヴィッド・リンチの「ブルー・ベルベット」よろしく、恐怖とノスタルジーがない交ぜになったこの感覚は、開始まもなくにして映画の迷宮に人を誘い込むものであり、そこには不思議な陶酔感があるのである。そんな中、そこに出ている黒人の顔を覚えておけば、あとでなるほどと思うことは請け合いだ。と書いていると、もう一度見たくなってきてしまった。この映画をこれから見る人たちは恵まれていると思いますよ、本当に (笑)。

# by yokohama7474 | 2017-12-07 00:23 | 映画 | Comments(0)

ブレードランナー 2049 (ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督 / 原題 : Blade Runner 2049)

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今やサーの称号を持つ英国の巨匠映画監督リドリー・スコットは、80歳になった今でも精力的な活動を展開しているが、私の世代ではやはり、デビュー第 2作の「エイリアン」(1979年) と第 3作の「ブレードランナー」(1982年) によって衝撃を受けたことが、その後の映画経験の原点になっていると言えるであろう。正直なところこの監督はその後すぐに、全く違った作風の作品を撮って観客を戸惑わせ、「ブラックレイン」で元のテイストに戻ったかと思えば内容はハズレであり、「1492 コロンブス」で、あぁこの監督はもう見限ろうと思ったら、「グラディエーター」で奇跡の大復活。その後もまた様々なタイプの映画を監督し、結構出来不出来がはっきりするタイプであると思う。今年は既にスコット自身の監督による「エイリアン : コヴェナント」を見ることができ、そして今度は「ブレードランナー」の続編だ。この 2作、人造人間がテーマのひとつになっていることが共通するが、相違点もいろいろあり、前者は「エイリアン」の前日譚であるのに対し、本作は「ブレードランナー」の 30年後の世界を舞台にしていることが挙げられる。そして本作では自身は監督ではなく製作総指揮であり、監督は、前作「メッセージ」で一躍その名を高めた 1967年生まれのカナダ人、ドゥニ・ヴィルヌーヴである。
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前作「ブレードランナー」はもちろん、常に酸性雨の降り注ぐ猥雑で荒廃したロサンゼルスを舞台としたスタイリッシュな映像と、意外性のあるストーリー展開、そしてヴァンゲリスによるシンセサイザー音楽によって、誰もが一度見たら忘れないような作品である。私も、この映画に衝撃を受けて、原作であるフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んだし、ヴァンゲリスのほかの映画音楽、つまり「炎のランナー」とか「南極物語」のサントラを購入したりしたものだ。また、初公開から 10年後に公開されたディレクターズ・カットで重要なシーンの追加がされた。つまり、ハリソン・フォード演じる捜査官デッカードの役回りは、人間社会に紛れ込んだレプリカント (人造人間) を処刑することであるにも関わらず、実はデッカード自身がレプリカントであることが示唆されたのである。そのあたりの知識のない人がこの「ブレードランナー 2049」を見ると、さすがにちょっと厳しいとは思うが、まあそんな人はほとんどいないという前提であろうか (笑)。この映画のストーリーは、前作の制作時には想定されていなかった、今回新たに作られたものであるが、それはすなわち、前作の延長戦上にストーリーが書かれたということである。ところで前作の舞台は、当時から見た近未来であったが、今確認すると、それは 2019年。おっ、当時は随分先だという設定なのだろうが、なんと、もう再来年ではないか (笑)。街の風景はこんな映像であり、それはそれは強烈なイメージであった。もともとリドリー・スコットが大阪を訪れたときに道頓堀を見て発想を得たと言われているが、よく外人が写真を撮っている現在の渋谷のハチ公前交差点など、さながらこの「ブレードランナー」の世界に近いと言ってもよいと思う。・・・まあさすがにそれは言い過ぎか (笑)。
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さて、そんな思い入れのある人間が今回の作品を見たときに、どんな感想を抱くであろうか。実は私は、期待が大きかったせいか、残念ながら、ちょっともうひとつ乗り切れないものがあった。今回の舞台も前作と似たような雰囲気ではあるが、どういうわけか、あまりインパクトを感じない。ひとつは、宙を飛ぶ乗り物があまり高層ビルの間を飛び交うことがなく、また、主人公でやはりブレードランナーの K は、このように街中を歩く設定が多いことで、街全体の俯瞰シーンがあまりないことが理由かもしれない。
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それから、戦闘シーンが少ない。最初の方にあるにはあって、それなりの工夫はあるものの、やはり前作のルトガー・ハウアーのような強力なレプリカントとの対決という要素が欲しかったところ。そして、全体を通して不思議な静けさが支配する。これはヴィルヌーヴの前作「メッセージ」でも感じたことで、見ている方はなんとも殺伐とした思いになるのである。そこに流れる音楽も、ちょっと前作のヴァンゲリスをイメージした雰囲気もあって、「ヴオォォォー」という、チベットで使われるほら貝 (?) のような音には不気味さもあってよいのだが、前作では確かエンドタイトルで堂々と流れたあのメインテーマで一種のカタルシス作用があったところ、今回はそれもなく、ただただ静かなのである。この静けさこそが、ヴィルヌーヴ作品の特徴ということだろう。音楽担当は現代の映画音楽の巨匠ハンス・ジマーであるが、もしかすると、ヴァンゲリスを意識し過ぎたのではないかと勘繰りたくもなってしまう。あ、それから、やはり前作へのオマージュ風に思われるのが、劇中で何度か流れる意味不明の日本語のセンテンス。そう、前作ではデッカードが屋台で何かを 4つ注文するのに、店のオヤジが「2つで充分ですよ。分かって下さいよー」と言っているのが非常に印象的で、私などは、この言い回しを日常生活の中で意味もなく繰り返したりして、笑いを取るのに躍起になっていた時期があるので、今回は全く違うシチュエーションながら、シュールな日本語の使用は面白いと思ったものだ。

評価すべき点としては、やはり主役のライアン・ゴズリングが挙げられようか。「ラ・ラ・ランド」で一気にブレイクした感があるが、ちょっと三枚目風のところに親しみを覚えさせる一方で、やるとなったらかなりハードなシーンもこなせる、いい役者である。
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それからもちろん、前作の主人公ハリソン・フォードの元気な姿を見ることができるのも、嬉しい。あの超有名なシリーズ物ではもはや彼を見ることができないことを思うと (これをネタバレと怒る人はいないと信じます 笑)、この映画への出演は大変嬉しいところ。
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この 2人の関係について書いてしまうとネタバレになるが、この作品オリジナルの発想がそこにあり、レプリカントとレプリカントでそういうことになるか (?) という面白みはあり、また前作のシーンからの音声を再生したり、デッカードが恋に落ちたレプリカント、レイチェルの映像も出てきて、懐かしさに囚われる点は評価できる。さて、この 2人の関係やいかに。
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ストーリー展開としては、終盤に謎が解明するあたりにもさほどの緊張感がないし、明かされる真相にもあまり衝撃がないのが残念だ。また、悪役のインパクトや、主人公が思いをよせるヴァーチャルな女性 (現れたり消えたりするときに流れるプロコフィエフの「ピーターと狼」のテーマが能天気に明るいのがシュール) の魅力も、私にはちょっと不足していると思われた。それから、予告編でも出て来たこういう映像、大してショッキングではないでしょう。
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こんな感じで、私としてはこれはもうひとつ乗れなかった映画であった。だがその一方で、誰しも自分独自のものがあると信じたいのだというメッセージは切ないし、いよいよ人類の荒廃も進んだ近未来には、もしかするとこんな静けさしかないのかもしれないという、ある種の絶望感の表現に、見る価値があるとは言えると思う。さすがに 3作目が作られる可能性はまずないであろうから、前作から 35年の時を経た現代において、このような映画が作られたことの意味をよく考えたいと思う。

# by yokohama7474 | 2017-12-06 00:38 | 映画 | Comments(0)

密偵 (キム・ジウン監督 / 原題 : 密偵)

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私が韓国映画を敬愛していることは、以前もこのブログで書いたことがある。いわゆるテレビドラマの韓流とか K-Pop には疎い私であり、映画にしても、それほど沢山韓国の作品を見ているわけではないが、そうであっても、これまで経験した範囲で言えば、全般的な映画作りの真剣さやその内容の仮借なさについては、残念ながら日本映画はかなり差をつけられていると、常々思っているのである。今回の「密偵」にしても、エンターテインメントとして上質な出来であり、また同時に、人間の本質を見る者に深く問う、素晴らしい作品であると思う。監督のキム・ジウンは、以前の作品ではホラーの「箪笥」を見ているし、ハリウッドデビュー作でアーノルド・シュワルツネッガー主演の「ラストスタンド」も見た。いずれも驚天動地の大傑作とは言わないが、違ったタイプの作品において、なかなか巧みな演出を披露していたと思う。
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本作の舞台は、第二次大戦中、日本統治下の韓国である。このブログでもご紹介した怪作「お嬢さん」もそうであったが、この時代を舞台にした韓国映画が最近増えているのか、それとも、これまでもあったのに日本では公開されなかっただけなのか。いずれであっても、見る人はその映画の中でストーリーテリングや人間の感情表現方法などに意を砕くべきだろう。たまたまここでの悪玉が日本人であっても、それを理由に日本人がこの作品を見ることを避けるなら、それは映画を文化の重要なひとつの形態と考える私のような者からすると、大変にもったいないことだと思うのである。実際、このような上質な映画になると、政治的なメッセージだけで観客の心をつかむのではなく、人間の本質を描くことでこそ、観客にアピールするものだと思う。もちろん悪い日本人や、偉そうにする日本人も沢山出て来るが、逆に韓国人の方も、全員が英雄的な人間像ではなく、そのリアリティことに打たれるべき作品である。

ここでの主人公は、韓国人でありながら日本の警察に所属するイ・ジョンチュル。日本語の使用を含め、これはかなりの難役であるが、演じるのは韓国を代表する名優、ソン・ガンホ。日本で韓国映画がブレイクするきっかけとなった「JSA」「シュリ」の両方に出演していたが、フィルモグラフィーを見ると、それ以外にも「殺人の追憶」「親切なクムジャさん」という私の大好きな作品にも出ており、既に 50歳と脂の乗った年齢である。若い頃から決して美形ではなかったが、今はこのように、作品にふさわしい深みのある演技を見せる。また、彼の持ち味はなんといっても、常にどこかユーモアを感じさせること。この悲惨な内容の映画を、観客がちゃんと冷静に見ることができるのは、かなりの部分、彼の演技に負うものと思われる。
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それから、日本に抵抗する義烈団の団長を務めるイ・ビョンホンもまた、韓国を代表する俳優で、「ターミネーター : 新起動 / ジェネシス」や「マグニフィセント・セブン」というハリウッド映画にも出ている。ここではストイックであり冷徹な切れ者でありながら、祖国独立への強い決意を持つ義烈団の団長役を、静かな迫力で熱演している。
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それから、この人。先般日本公開され、私もこのブログで大絶賛した「新感染 ファイナルエクスプレス」での熱演も記憶に新しい、コン・ユ。容姿はすっきりしているが、内に秘めた情熱をうまく表現している。あ、この映画でも、「新感染 ファイナルエクスプレス」と同じく、列車内でハラハラドキドキの目に遭うのである。
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日本からは、鶴見辰悟が朝鮮総督府警務局の部長として出演している。もちろん弾圧する側だから悪い奴なのだが、そこはかとない人間味もあって、この映画の深い陰影を作り出すのに大きな貢献をしている。
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それから、大変印象に残ったのは、ハシモトという、名前は日本人だが韓国人で、主人公と同じく日本の警察で働いている警官を演じた、オム・テグだ。一体誰が敵で誰が味方なのか分からないストーリー展開の中で、常に周囲に気を配る、動物的な身のこなしの男。彼が誰かをジロリと睨むだけで、ブルブル震えあがってしまうような迫力である。
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このような名優たちの織りなすドラマは、奇想天外というわけではなく、常に歴史の歯車が回っているという感覚のもとで進展するが、先の読めないものであり、ストーリーを追うだけでも楽しめる。実はタイトルの「密偵」は、主役の警察官のことを指すのではなく、ほかにいるはずの二重スパイであって、謎解きの面白さはそこにもある。だが私が本当に感動するのは、人間の複雑な感情のひだがそこここに現れていることである。対立、裏切り、同情、友愛、激昂、諦観・・・。これらは人間の歴史の中でいつどこにでもある感情の数々であり、何もこの映画を戦争時のものとして見る必要はないと思う。描かれているのが人間であれば、その映画には見る価値があるのであるから。中には拷問など悲惨なシーンもあるのだが、それでもこの映画は、韓国人から見た日本統治への憎しみという感情をストレートにテーマにするのではなく、登場人物のセリフや音楽の使い方に、ユーモラスな要素を見出すことができる。後半の方で流れるドヴォルザークのスラヴ舞曲作品 72-2 は、ちょうどこの映画を見る前日にサイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルのアンコールで聴いたばかりであったが、そのスラヴの憂愁溢れるメロディが、描かれた現実の悲惨さを優しく包んでくれる。そして大詰めではラヴェルのボレロを使っていて (但し原曲通りではなく、合唱を入れるなど独自のアレンジをしたもの)、ここには巧まざるユーモアが感じられた。

このように、大変に凝った作りで、見ごたえ充分の映画なのであるが、もうひとつ印象に残ったことを書いておくと、それは言語である。もちろん韓国語がメインだが、出演している役者たちの一部は、日本語を喋ったり中国語 (義烈団のアジトが中国にあるため) を喋ったりしている。この自然さが大変よい。東アジア、つまりは日中韓が中心をなすこの地域では、中国由来の共通の伝統文化はあれども、3ヶ国で言語は全く異なり、そして、現在に至るも外交上の問題が存在している。以前もどこかで読んだことがあり、最近でも日経新聞に掲載されていた生物・地理学者ジャレド・ダイヤモンドの言葉にもあった通り、現実世界におけるこのような東アジアの不安定な状況や諍いが、この地域の経済発展を阻んでいるという説は理解できる。だがこの映画では、政治的目的を持つ登場人物たちは自由に 3ヶ国語を駆使して、様々な危険に身を投じて行く。このような姿は、今後の東アジア地区の安定を目指すにあたって、大変示唆に富んだものではないか。
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繰り返しだが、この映画を、当時の戦争の悲惨な状態や、抑圧する側にあった日本人の非難という面をメインに描いたものと思ってはいけない。歴史というものの残虐性や、人と人の信頼関係の尊さなどに思いを致すべきだろう。恐らくは題材のせいか、日本ではあまりヒットしなかったように見受けられ、既にほとんどの劇場で上映が終了しているが、今調べたところ、新宿のシネマートではまだしばらくかかっている。人間の本質を考えたい人には、強くお薦めしたい映画である。

# by yokohama7474 | 2017-12-05 01:40 | 映画 | Comments(0)

フィリップ・ジョルダン指揮 ウィーン交響楽団 2017年12月 3日 サントリーホール

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ウィーン国立歌劇場の次期音楽監督に内定しているスイスの指揮者、43歳のフィリップ・ジョルダンが率いるウィーン交響楽団の来日公演も、これが最終日。11/26 (日) の横浜公演を皮切りにちょうど一週間、12/3 (日) のこの公演までの 8日間の間に 7公演をこなすというハードスケジュール。順番に言うと、横浜 - 福岡 - 名古屋 - 福井 - (1日休んで) 東京 - 西宮 - 東京という具合で、先の記事でご紹介した 12/1 (金) のサントリーホールの公演の翌日、12/2 (土) の 14時には西宮で公演、そして何食わぬ顔でその翌日、ここでご紹介する 12/3 (日) の 14時からのサントリーホールでの最終公演に臨んだわけである。そしてこの日の曲目は、まさに名曲プログラム。
 ベートーヴェン : 交響曲第 5番ハ短調作品67
 ブラームス : 交響曲第 1番ハ短調作品68

以前の記事に書いた通り、今や世界で最も期待される若手指揮者のひとりであるジョルダンを聴くには、まるでハンバーグやカレーライスのようなポピュラーな曲だけではなく、少しは骨のある曲を聴きたいという思いもありながら、だがしかし、そのハンバーグやカレーライスにおいて、演奏家のテンペラメントははっきり分かるはずではないか。そう自分に言い聞かせて、会場であるサントリーホールに向かったところ、大入り満員の大盛況。ともあれハンバーグやカレーライスは多くの人の好物なのであろう。かく言う私もそうであり、実際にその日の昼食はハンバーグだったのである (笑)。
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席についてステージを見渡すと、この日のプログラム 2曲のいずれにも使われないはずの、小太鼓と大太鼓、しかも後者にはシンバルの片方がつけられているのが分かった。ということは、アンコールはまた、あれなのであろうか (その時にはトライアングルは見えなかった)。それから、ふと気づいたことには、今回ジョルダンとウィーン響が東京公演で採り上げた 4曲には共通点がある。それは、いずれも最後の 2つの楽章が続けて演奏されるということだ。メンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルトは全 3楽章がそもそも続けて演奏されるし、ベートーヴェンの 5番は第 3楽章から第 4楽章にかけては切れ目がない。そして、マーラーとブラームスのそれぞれの第 1交響曲では、多くの演奏で第 3楽章と第 4楽章は切れ目なしに演奏されるのだ。

だがこの日のベートーヴェン 5番は、演奏自体には奇をてらった要素は皆無であるくせに、どの楽章間でもほとんど休止を取らなかったことに驚いた。よく第 1楽章を駆け抜けたあと、指揮者が楽員の熱演を労いながら第 2楽章の準備をするものだが、この日の演奏ではそうはならず、すべての音は一続きになっていた。ヴァイオリンは左右対抗配置で (これは今回の 2回の演奏会で終始一貫していた)、コントラバス 6本の、この曲にしては標準編成での演奏。以前の記事でご紹介した通り、このコンビによるこの交響曲の CD は、今回日本ツアー用に先行発売されており、それを聴いて予習して行った私には、なるほどジョルダンのイメージするベートーヴェンの 5番の純音楽的な性質はこういうものかと、その持ち味を充分に堪能することができたのである。前回の記事での感想と重複するが、情緒に溺れることのない、疾走感のある演奏で、曲想の変転の中でも、タメを作って大見得を切ることはほとんどない。陳腐な表現だが、現代風のベートーヴェンと言ってよいだろう。その響きの現代性は、ウィーン・フィルとは異なる個性を持つウィーン響にはふさわしく、なるほどハンバーグの調理方法にも時代による変遷があるのだなと思い知った次第。ちなみに今回の演奏では、第 3楽章ではかなり演奏が進んでから、冒頭から繰り返しを敢行していた。因みにこのジョルダン、もうひとつの手兵であるパリ・オペラ座管弦楽団を指揮して、既にベートーヴェンの交響曲全集の映像を世に問うている。いずれ見てみたいものだと思っている。
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そして後半のブラームス 1番。ここではコントラバス 8本と、この曲のドラマ性を反映した充分な弦楽器のサイズであった。ここでも演奏スタイルは同じで、タメを作らずにスムーズに流れる音楽であり、大変美しい。このブログで何度も唱えている通り、まずはオケの音が上質でないと成功しないブラームスの交響曲の演奏としては、まずはそれだけでも聴く価値は充分にありだ。そして、前回のマーラー「巨人」の演奏でいささか物足りなく思った音の軽さも、ここではさほど感じられず、迫力と美感に満ちたブラームスであった。伝統的なドイツの重々しい音楽というイメージとも異なり、まさに今、我々が聴くべき価値のある素晴らしい演奏であったと思う。

そしてアンコールは、まずお決まりのブラームスのハンガリー舞曲 5番。ここではトライアングルが登場し、テンポをほぼ保ちながらも、後半にはほんの少し追い込みをかける方法が成功していた。そしてアンコールの 2曲目は、前回と同じ、ヨハン・シュトラウスの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。なるほどこれで小太鼓は登場した。だが未だ、大太鼓とシンバルが登場していない。もちろんそこでの期待はまた「雷鳴と電光」であり、楽員たちも譜面を閉じたり開いたりして、3曲目のアンコールがあるのか否か判然としないようであったが、結局 3曲目はなく、今回のジョルダンとウィーン響の日本ツアーは、これにて幕を閉じたのである。これは今回の来日に際して、オケの楽団長と並んでいるジョルダンの写真。初来日のコンビにしては多くの聴衆を集め、まずは大成功であったろう。
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私にとってのジョルダンは、ある演奏で圧倒的な思いをするという出会いがあったわけではなく、オペラを何本か見るうちにその能力を実感したという、いわば自然に視野に入ってきた人。父アルミンへの思い入れもあって、私としては注目の指揮者であったが、初めて聴いてから早 15年、彼はこれから大輪の花を咲かせようとしている。次に聴く際にはハンバーグやカレーライスでない曲を期待したいが、その前に、もうすぐ公開される映画で、ジョルダンの仕事ぶりを見てみたい。それは、パリ・オペラ座の活動に関するドキュメンタリー映画、「新世紀、パリ・オペラ座」である。予告編でもジョルダンが出て来るシーンがあり、その真剣さが彼らしいと思う。12/9 (土) から Bunkamura ル・シネマで上映である。楽しみにしたい。
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# by yokohama7474 | 2017-12-04 01:04 | 音楽 (Live) | Comments(2)

ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 (ホルン : ジャーマン・ホルンサウンド) 2017年12月 2日 サントリーホール

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しばらくぶりに、英国の名指揮者ジョナサン・ノットが、音楽監督を務める東京交響楽団 (通称「東響」) を指揮するのを聴いた。東京のオケのシェフの中でも、ノットはその登場頻度、プログラムの凝り方、演奏会本番でのその献身ぶり、オケの発展に向けて込められたその熱意、いずれもトップクラスであると思う。その彼が今回用意したのも、それはそれは興味深い曲目である。
 リゲティ : ハンブルク協奏曲 --- ホルンと室内アンサンブルのための (ホルン : クリストフ・エス)
 シューマン : 4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック (ホルン : ジャーマン・ホルンサウンド)
 ベートーヴェン : 交響曲第 3番変ホ長調作品55「英雄」

手元にあったはずのチラシが見当たらず、やむなく上にはノットの写真を掲げているのだが、そのチラシには、「音楽監督ノットのホルン大集合」とあったはず。そう、ここでは、ホルンが活躍する曲が集められているのである。そして今回は、ドイツ人のホルン奏者 4人組、ジャーマン・ホルンサウンドがシューマンにおけるソロ (と言ってよいのかな、4人でも 笑) を吹く。
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この 4人組はもともと、シュトゥットガルトでクリスチャン・ランバートという教授に教わった同窓生であるらしい。リーダーとおぼしきクリストフ・エスは現在バンベルク交響楽団の首席ホルン奏者。バンベルクと言えば、昨年までノットが首席指揮者を務めていたオケであるから、そのつながりもあるのだろうか。

さて、よくドイツ人にとってホルンは、森の狩りに使われた楽器ということで、自分たちのルーツのように考えていると言われる。実際、ウェーバーの「魔弾の射手」が典型で、ワーグナーやブルックナーにおいてもホルンは極めて重要だ。だからドイツ人が集まったホルンのグループの存在には納得が行く。問題はレパートリーで、当然新規開拓も行っているようだが、このシューマンのコンツェルトシュテュックなどはさしずめ、名刺代わりの手慣れたレパートリーということなのだろうか。この曲、随分以前にクラウス・テンシュテットがベルリン・フィルを振った録音があったので、それで何度か聴いたことはあるが、決して頻繁に演奏される曲ではないので、この機会は貴重である。先にこの曲の感想を書いてしまうと、このグループの技術が完璧で水際立っていたかと言えば、残念ながら若干の技術的な課題は残ったような気がするが、いかにもシューマンらしい情熱と抒情を併せ持つこの曲を久しぶりに聴くには、なかなか豪勢な感じであった。また、アンコールとして、ブルックナーの「4本のホルンのための3つのコラール」よりアンダンテが演奏された。これは抒情的なよい演奏だった。ちなみにこれが、コンツェルトシュテュックの入ったテンシュテット盤のジャケット。懐かしいですな。
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順番が逆になったが、最初のジェルジ・リゲティ (1923 - 2006) の曲は、ハンブルク協奏曲という名前がついたホルン協奏曲。このコンサートにでかける数日前、我が家にこの曲の CD があったかなぁと思って、グラモフォンのリゲティ作品集 4枚組を調べたが、入っていない。だが、テルデックの「リゲティ・プロジェクト」というシリーズの 4作目に、入っていましたよ!! こんなジャケットである。
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実はこの CD ではジョナサン・ノットも演奏者として参加しているが、このハンブルク協奏曲を指揮しているのはラインベルト・デ・レーウ (私のお気に入りの指揮者でありピアニストであり作曲家) であって、ノットは別の曲 (レクイエム) を指揮している。ともあれ、この CD のおかげで、15分ほどのこの作品の予習をすることができたのだが、これは短い 7つの楽章からなる曲で、リゲティ特有の浮遊感と懐かしさをたたえている。耳障りは悪くなく、時にヴァイオリン協奏曲のオカリナなどを思い出したりする。民俗的と言い切ってしまうのも少し違和感があるが、少なくとも西ヨーロッパの正統的な音楽とは趣きが異なっていて、まさにリゲティの音楽としか言いようがない。ここでは独奏ホルンは 1本だけ (但し、通常のものと、バルブのない古いものとの持ち替え) であるので、ソロはひとりだけで、それがクリストフ・エスだ。多彩な音を見事に繰り出していたが、なかなか大変なことである (笑)。ノットは小規模なオケを、指揮棒を使わずに素手で指揮して、丁寧なバックをつけていた。
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さて、メインの「エロイカ」であるが、この曲におけるホルンの聴きどころというと、もちろん第 3楽章スケルツォのトリオである。まさかこの部分だけ、ジャーマン・ホルンサウンドがソロ (?) で吹くのだろうか、しかも、楽譜の指定は 3名なのに 4名で演奏するのだろうか、などとあらぬことを考えていたが (笑)、もちろんそんなことにはならず、東響のメンバーによる演奏であった。さてこの「エロイカ」、大変に興味深い演奏であった。ヴァイオリンの左右対抗配置はいつもの通りだが、コントラバス 5本、チェロ 6本の小さめな弦の編成である。だが、その規模のオケを率いてノットが唸りながら最初に引き出した 2つの和音は、充分に重量感のあるもの。そしてそこから流れ出した音楽は、流れがよいことはよいのだが、かなり強いアクセントが時折入り、非常に表現力の強いもので、弦のヴィブラートも、過剰にならない範囲でかかっていた。実際、音楽が熱してくると若干テンポが速まる場面もあり、そこには感情の昂りによる即興性まで感じられ、小股の切れ上がった小綺麗な演奏というイメージとは遠い。そして、随所でティンパニが轟音を響かせ、聴き手の耳にストレートに力強さを印象づけたのである。第 3楽章と第 4楽章を続けて演奏したのはまず一般的として、第 1楽章と第 2楽章もほとんど続けて演奏していた点、ノットの意図は、個々の部分の強調ではなく、全体の大きな流れを作り出すことではなかったか。東響はその意図をよく汲んで、素晴らしく説得力のある感動的な演奏を展開した。終演後のノットは大変嬉しそうで、普段彼がほとんどやらない、個々の奏者を起立させて聴衆の拍手に応えることをやっていた。きっと彼自身としても会心の演奏になったのだろう。ただ私の思うところ、ここにあと、音の芯のようなものが加われば、もう言うことなしなのだが・・・。今回の「エロイカ」の演奏は東京で 1回だけで、あとは新潟でしか演奏されないが、オクタヴィオレーベルがライヴ録音していたらしいので、いずれ録音でその成果を広く世に問うことになるだろう。

ノットと東響は、現代曲でも古典でも何でもござれであり、縦横無尽に説得力のある音楽を奏でる素地が出来つつあるように思う。実はこのコンビ、一週間を置いて、また大きなチャレンジをすることになる。それに対する期待感が、徐々に募って来ている私である。ご存じない方も、一体どんな試みなのか、楽しみにお待ち頂きたいと思う。

# by yokohama7474 | 2017-12-03 02:05 | 音楽 (Live) | Comments(0)