希望のかなた (アキ・カウリスマキ監督 / 英題 : The Other Side of Hope)

e0345320_22062243.jpg
フィンランドを代表するだけでなく、現代映画界を代表する映画監督のひとり、アキ・カウリスマキの新作である。ちょっと変化球で知られるこの映画作家がここで題材としたのは、難民問題。言うまでもなく、ヨーロッパを中心として現代社会を揺り動かしている深刻な問題だ。だがこの作品の題名は「希望のかなた」。きっとここには、難民が抱える困難な日常を超えたところにある希望が描かれているに違いない、と思って劇場に足を運んだのである。現在 60歳のカウリスマキ監督はこんな人。思ったより恰幅がよい。
e0345320_22342623.jpg
映画のストーリーを追うよりも、まず第一に抱いた印象を記そう。それは、ここには明らかに小津安二郎の影響が顕著であるということだ。一言で表現するなら、それは画面に終始漂う静謐さということになろう。それは本当に小津独自の、あえて言ってしまえば極めて前衛的な手法であったのであるが、彼の死後何十年も経って、遠いフィンランドの監督がそのスタイルを踏襲しようとは、小津自身も思いもよらないことではないか。もちろん私は小津を神にように崇める人間であるから、このように現代を代表する映画作家に対して小津が強い影響を及ぼしていることだけでも、大いなる感動を覚えるのである。
e0345320_22442581.jpg
だが、その手法はともかく、ここで語られるストーリーは小津映画とは似ても似つかないものだ。上述の通り難民をテーマとしているのだが、それは非常にストレートで、シリアから石炭を積んだ船がヘルシンキに辿り着いたとき、その石炭の山の中からすすだらけの顔を見せる男、カーリドが主人公。演じているのは実際にシリアに生まれて 15歳でフィンランドに渡ったシェルワン・ハジ。
e0345320_22493020.jpg
ここでの彼の演技をどのように評価しようか。いわゆる一般的な意味での熱演というものとは少し違うような気がする。この難民が生きるために行わざるを得ないあれこれの懸命な行為を、彼はただ淡々とこなしているように見える。ここで彼は、生き別れになった妹を探したり、生きるために無一文から職を求めたり、それはそれは過酷な運命に立ち向かうのだが、時に喧嘩をすることはあっても、決して絶望の涙も流さなければ、情熱に身を任せての絶叫もない。それこそ小津映画の主人公のように、監督が作り出した架空の世界での擬制の生を生きているように見えるのである。
e0345320_22563774.jpg
e0345320_22570723.jpg
そしてカウリスマキらしく、乾いた笑いを誘う箇所がいくつもあって、小津映画云々に対してイメージを持てない人でも充分楽しめる作りになっている。中でも我々日本人としては、主人公たちがナンチャッテ日本料理店を開き、そこに日本人ツアー客がやってくるシーンでは、笑いをこらえることは難しいだろう。こんな面々による寿司を提供された客たちは、皆無言で去って行くのである。気合の入ったオリジナルののれんも虚しい (笑)。
e0345320_23042170.jpg
e0345320_23045086.jpg
そしてここでもまた、観客の感情移入を誘う登場人物 (?) がいる。レストランでかくまわれているという設定の、このワンちゃんだ。このつぶらな瞳がたまらんですなぁ。
e0345320_23080555.jpg
実はこのワンちゃん、名をヴァルプといい、実際にカウリスマキの愛犬であるそうだ。これはこの作品のセットでの一コマ。
e0345320_23125065.jpg
次の写真のシーン、本当はここでは見せたくないのだが、勢いで載せてしまおう。劇中のどこで登場するシーンであるかは伏せておくが、大変に感動的なシーンである。ここで主人公カーリドは、過酷な運命の中に、まさに希望のまた違った側面 (英題の直訳はこれである。「かなた」= 「遠く」というニュアンスはない) を発見したものと思う。それにはこのヴァルプの名演技が大きく貢献しているのである。
e0345320_23150220.jpg
プログラムにはカウリスマキのメッセージが掲載されている。それによると、彼がこの映画で目指したのは、「難民のことを哀れな犠牲者か、さもなくば社会に侵入しては仕事や妻や車をかすめ取る、ずうずうしい経済移民だと決めつけるヨーロッパの風潮を打ち砕くこと」だそうである。ヨーロッパでは歴史的に様々な偏見が蔓延したことがあるが、それに対して資本主義の矛盾を批判する左翼的な映画が生まれた。カウリスマキ自身はこの「希望のかなた」をそのような作品のひとつと位置付けている。だがそのような企ては失敗に終わることが多く、そのあとに「ユーモアに彩られた、正直で少しばかりメランコリックな物語」が残ることを願うとのこと。なるほど、難民問題の真実を深刻に描くよりも、つらい現実の先にある人間性に期待して作られた映画であると理解する。いやもちろん、この映画には上で触れていない、気の滅入るような深刻な場面もいくつかあるのだが、それは今実際に世界で起こっている現実と認識しながらも、その上で、過酷な現実を乗り越えるべく人間が本来持っている強さには、笑いやメランコリーというものが含まれるということを感じたい。この映画に大いに笑い、そして目を開いて主人公たちの運命を見ることで、難民問題に対して今すぐ何ができるでもない我々も、せめて想像力の中で希望を抱くこと。それは映画ならではの貴重な経験であり、現代の名匠カウリスマキの手腕に身を委ねる行為なのであると思う。

# by yokohama7474 | 2018-01-08 23:30 | 映画 | Comments(0)  

ジャスティス・リーグ (ザック・スナイダー監督 / 原題 : Justice League)

e0345320_13365222.jpg
昔ながらのアメリカン・コミックのヒーローももはや、単独でのストーリーによる映画は成り立ちにくくなっているのだろうか。マーヴェル社の容赦ない攻撃によるものか否か分からないが、バットマンとスーパーマンを擁する DC コミックも、最近はかなり思い切ったヒーロー連合を描くようになってきた。と言いながらも私はマーヴェルによる「マイティー・ソー バトル・ロイヤル」を見る機会を逸してしまい、一方の DC によるこの「ジャスティス・リーグ」も、気がつくとシネコンでの上映回数が既に少なくなっていた。一応この手の映画は基本的に見ておきたいので、昨年末に見ることができたのであるが、私の思いは複雑だ。まず、本作の直接の前編に当たる「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」を 2016年 4月19日の記事でこき下ろし、また、その作品で少し登場し、その後単独での主演映画が作られた「ワンダーウーマン」は、2017年 9月23日の記事で賛辞を捧げた。予告編から明らかなのは、ここでベン・アフレック演じるバットマンは、ガル・ガドット演じるワンダーウーマンとともに超人たちをスカウトしていることだ。しかもその設定は、スーパーマンが死去している世界。この時点で既に、本来のヒーロー物にあるまじきルール破りの前提を知ることができる。つまり、本来ならヒーローは決して死なないし、バットマンは、孤独な大富豪が、ただ執事ひとり (とロビン) の協力だけを得て悪と戦う物語。うーん、この設定はどうだろう。新機軸だと喜ぶ向きもあるかもしれないが、申し訳ないが私は、全く面白いと感じることができなかった。そもそも、胸毛の生えた上半身裸のスーパーマンとか、体には重厚なバットスーツを着ながら、顔だけは剥き出しにして「ブルース」と本名で呼ばれるバットマンを見たいという人が、果たしているだろうか。もしいるなら会ってみたい。それから、ワンダーウーマンをやたら下からのアングルで撮るというのも、反則ではないだろうか。このキャラクターは、過度にセクシーすぎないからよいと、以前の記事で書いたものだが、こんな下品な撮り方をすると、せっかくのキャラクター設定が台無しだ。このような反則づくめの作品を撮った監督は、「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」と同じザック・スナイダー。
e0345320_00404663.jpg
以前も書いたが、私はかつてこの人の「エンジェル・ウォーズ」という映画を見て、その手腕に注目したという経緯があり、あのクリストファー・ノーラン (今回も製作総指揮のひとりである) の信任を得てこのシリーズの監督を任されている点も無視できないとは思うものの、やはり前回・今回とガッカリしたことによって、ちょっと今後は彼への評価を考え直すかもしれない。ガッカリのひとつの例として挙げたいのは、プログラムを読んで初めて知ったことには、彼はデジタルではなくフィルムによる撮影にこだわっているらしいことである。なるほど言われてみれば、超人のひとりであるサイボーグの自宅のシーンの色調などは、そうだったかと思わないではない。だが、再度名前を出すが、クリストファー・ノーランの「ダンケルク」において感じられたようなフィルム撮影の必然性を、この映画から感じることができるだろうか。

不満はほかにもいろいろあって、それは悪役の描き方や、その登場の必然性、また彼が巻き起こす危機のリアリティという点においても、ハテナだらけである。本当に残念な思いを抱いてしまうのだが、もはや世界は、ヒーローたちがつるんで登場して、束になって敵に立ち向かうのでなければならないほど複雑になってしまっているのだろうか。こんな感じで。
e0345320_01041097.jpg
ただ、あえて探せば、役者たちのこなれた演技によって、なかなか気の利いたシーンになっている箇所も、あるにはある。予告編でも流れていた、超人のひとりフラッシュ (演じるのはエズラ・ミラー) とブルース・ウェインの出会いのシーンや、それに続くシーンでフラッシュがウェインに、「ええっと、あなたのスーパーパワーは何でしたっけ」と訊いて、ウェインが面倒くさそうに「オレは金持ちだ」と答えるところなど。それから、今回も執事アルフレッドを演じるジェレミー・アイアンズ、クラーク・ケントの母を演じるダイアン・レイン、恋人のロイス・レーンを演じるエイミー・アダムス、そして今回初めて (ゲイリー・オールドマンに代わって) ゴッサムシティのゴードン本部長を演じる J・K・シモンズなど、脇役陣も充実している。
e0345320_01122854.png
e0345320_01141774.jpg
e0345320_01154552.jpg
まあそれにしても、これだけの俳優たちを使いながら、大変もったいないことである。この作品の残念さが、たまたまこの映画個別の企画の問題なのか、それとも現代におけるヒーロー物の行き詰まりを示しているのか、直ちには判然としないが、もし後者であったなら、そこには何か原因があるはずだ。例えばひとつの切実な問題としては、かつて電話ボックスでクラーク・ケントからスーパーマンへの着替えが行われた時代はもう過ぎ去ってしまい、現代においては、まずは電話ボックスの所在からして探さないといけないという事情も関係しているかもしれない (笑)。でも、だからと言ってスーパーマンが死んだり生き返ったり、ましてや S の字のスーツを着ることなく胸毛を公衆の面前にさらしてよいのかという問題は、決して解決しない。それに、連作を作ることは一向に構わないが、以前の作品を見ていないとストーリーを追うことができないということも、映画としてはマイナスであると私は考えている。単独ヒーローによる痛快な単独作品を、もう我々は期待することはできないのだろうか・・・。

# by yokohama7474 | 2018-01-08 01:29 | 映画 | Comments(0)  

gifted / ギフテッド (マーク・ウェブ監督 / 原題 : Gifted)

e0345320_13344051.jpg
これは、特別な才能に恵まれた少女とその周りの人たちの物語。題名の "gifted" とはもちろん、「優れた才能に恵まれた」という言葉であるが、"gift" というからには、その才能を当人にギフトとして授けた存在が想定されているわけで、それは取りも直さず「神」ということなのであろう。一方日本語にも「天賦の才」などという言葉があり、ここでいう「天」とはやはり絶対者のことであろうから、洋の東西を問わず、人並み外れた才能とは、人間を超えた、敬うべき何者かによる恵みであるという発想があるということだ。これは興味深いと思う。

さてこの映画の主役、7歳のメアリーは、異常なまでの数学的才能の持ち主。この年齢であるから学校の先生は「1 + 1」から教えようとするのだが、それを小馬鹿にした態度をとるメアリーに対して女性教師は、次々と複雑な計算を問題として出し、メアリーが暗算でそれに答えると、慌てて電卓で確認することになる。そこから始まるストーリーは、メアリーの才能を巡っての、彼女の祖母と、その息子でメアリーの母の弟、つまりはメアリーにとっては叔父にあたるフランクとの確執を軸として展開する。メアリーの母はやはり天才的数学者であったが、若くして自ら命を絶ったため、弟のフランクがメアリーを養育しているのだが、フランクにはどうやら数学的才能はあまりなさそうで、ボートの修理で生計を立てている。この微妙な関係設定がなかなかよい。つまり、予告編やポスターを見て、この二人は当然父と娘だろうと思ったらそうではなく、叔父と姪なのであり、そうであるからこそ微妙なねじれというか、物語が展開する余地があれこれ生まれることになる。
e0345320_11502583.jpg
このブログでばれてしまっている通り、私はどちらかというと、いかにも感動的なハートウォーミング・ストーリーにはあまり興味がなく、サスペンスやスリラー、ホラー、SF といったジャンルの映画を中心に見ているわけであるから、この映画はその点からすると若干異色かもしれないし、たまたま空いた時間を埋めるのに、この映画の上映時間帯がちょうどよかったという事情ですと説明しても、あまり説得力がないかもしれない (笑)。それは本当のことではあるものの、だが私がこの映画を見たいと思った第一の理由は、フランク役のこの俳優である。
e0345320_11561494.jpg
クリス・エヴァンス。あのキャプテン・アメリカを演じている俳優である。その役においては、本当に the American なイメージを作っており、金髪碧眼、キラリと光るきれいな歯並び、正義感に満ちたふるまいは、まさにアメリカの理想である。その彼がここではボサボサの髪に髭など生やした普通のオジサンを演じているというそのギャップをまず見たかったのだ。実際ここでの彼は、このフランクという人物に大いなる共感を持って演じているように思われ、大変に好感が持てる。母も数学者、亡き姉も、面倒を見ている幼い姪も数学の天才で、その中で「普通の人間」として生きている彼の姿に、なんと人間的存在感を感じることだろう。もちろん彼はただ人のよいオジサンではなく、常に自分の思いに率直に行動するし、大詰めではその勇気ある行為が大きく物事を動かすことになる。私の周りでは涙腺が緩みまくる人たちが続出で、かくして館内は洟をすする音で満たされることとなったのである (笑)。もちろんこの映画が人をそれだけ感動させるのは、主役のこの子がまた素晴らしいからだ。
e0345320_12134078.jpg
2006年生まれのマッケナ・グレイス。これまでも、「インデペンデンス・デイ : リサージェンス」に出演していたり、「アングリーバード」で声の出演をしていたりしているそうだが、この役は数百人の候補の中からオーディションで射止めたものらしい。メアリーの役柄は、数学においてはどんな大人も適わない天才的才能を持つ一方、年相応の子供らしい無邪気さを持ち、自分の意に沿わないことには遠慮なく泣き叫ぶし、教えられる常識的な事柄は、素直に自分なりに咀嚼しようとする。そして、強い正義感をもって行動するし、時には斜に構えた言動を示す。なかなかに複雑な役柄なのである。私が気に入ったシーンは、近所の女性の家に預けられていたところ、探し物をするためにこっそり家に戻ったときに、思わぬ人と鉢合わせするシーンである。普通の子供ならここで「あーっ!!」と驚くであろうが、彼女はそこで、「見たぞ見たぞ」と言わんばかりにニヤーっと笑うのである。この映画にはいくつかそのような気の利いたシーンがあるのだが、もう一人 (?) の重要なキャラクターを巡っても、心に残るシーンがある。
e0345320_12290292.jpg
メアリーが世界一のネコと可愛がる、片目のフレッド。そもそも少女と動物を使って観客を泣かせようというのは、ずるい作戦だと思うのだが (笑)、私が気に入ったもうひとつのシーンというのは、フランクがこの猫のフレッドの危機を救う場面。車に乗り込むフランクは、フレッド以外にも何匹かを救うことが無言で示されていて、クスリと笑いながらもちょっと幸せな気分になれる、いいシーンだ。

それらのシーンを好感をもって見ることができるのは、やはり監督の手腕に寄るところ大であろう。1974年生まれのマーク・ウェブ。
e0345320_12354196.jpg
これまでの代表作はアンドリュー・ガーフィールドを主役に起用した「アメイジング・スパイダーマン」の 2作であろうが、この映画の成功で、上質な人間ドラマの演出もできる監督であることを証明したわけで、活躍場は一層広がって行くことであろう。プログラムに掲載されたインタビューを見ると、「アメイジング・スパイダーマン 2」を撮り終えたあと、もっと個人的な、自分がよく知っている世界を撮りたいと思ったとある。だがそこで、やはりヒーロー役で有名になったクリス・エヴァンスを起用する点に、この人の独自の着眼点があると思う。いわく、「彼にはどこか物悲しさのようなものがあって、自分はそこが役者としてすばらしいところだと思うんだけど、これまでの出演作ではそれほど探求されていない部分だった」とのこと。一方のクリス。エヴァンスも、この映画に出演した理由として、まずは監督だったと発言している。どの作品にも巡りあわせは重要で、その意味では、この監督がこの役者を使うことができたのは、幸運な巡りあわせであったと言えるだろう。

ところで、このギフテッドという言葉、これから日本でもなじみが出てくるのかもしれない。というのも、渋谷区が昨年から「ギフテッド教育」というものを正式に発足させたというニュースを見たからだ。特異な才能を持つ子供にその才能を伸ばさせることを目的としているようである。これは大変興味深い試みなのであるが、そもそも日本人には横並び的な発想や、村社会に依存する性向もあって、突出した才能を育てる環境は、残念ながらあまり整っていないように思われる。なので、新たな試みでそのあたりの状況が変わって行くなら大いに意味があるだろうと思う。その一方で、いかに優れた能力を持つ子供であろうとも、やはりコミュニケーション能力を欠くことで他人の痛みを分からないようなことでは、人としてちょっと困る、という面もあるのではないか。その意味で、上に掲げたこの映画のチラシの宣伝文句にあるように、「いちばん大切なのは、『愛する』才能」ということも言えるように思う。この宣伝文句だけならちょっとクサいと思ってしまうが、この映画を見ると、そのようなことが自然に理解できるだろう。なので、傑出した才能に恵まれたお子さんを持つ親御さんたちには、この映画はお薦めだ。あ、もちろん、私のような凡人も、大いに楽しませてもらいましたよ。

# by yokohama7474 | 2018-01-07 12:53 | 映画 | Comments(0)  

シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 (ヴァイオリン : 三浦文彰) 2018年 1月 6日 東京芸術劇場

e0345320_21595266.jpg

日本のクラシック音楽ファンの年明けも、まぁ人によって様々ではあろうが、多分ほとんどの人が元旦にすることがある。それは、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを生中継で見ることだ。このコンサートは毎年現地 11時に開始するのだが、それは日本時間では 19時。ちょうど元旦の一家団欒の時間帯であるので、普段家族にあまりサービスしていない (?) クラシックファンの方も、ここでは美酒を片手に、優雅なウィンナ・ワルツを堪能するのである。今年のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの指揮者は、おなじみのイタリアの巨匠、リッカルド・ムーティであったが、今やこのオケと最も長く近い関係という意味では世界で三本の指に入るマエストロの相変わらず真面目な指揮のもと、だがやはりウィーン・フィルは、世界にふたつとない紛れもないウィーン・フィルであった。ところで、このウィーンでのニューイヤー・コンサートの影響は多大なものがあって、ウィーンから遠く離れたここ東京においても、新年はウィンナ・ワルツを生で聴きたいという声が多いらしく、新年を寿ぐコンサートでは、ウィンナ・ワルツが定番となっている。私が今回、今年初めてのコンサートとして聴いたこのコンサートも、そのような内容のものである。昨年は例年にも増して意欲的な演奏が多かった読売日本交響楽団 (通称「読響」) が、音楽監督シルヴァン・カンブルランとともに行ったニューイヤー・コンサートである。内容は以下のようなもの。

 ヨハン・シュトラウス : 喜歌劇「こうもり」序曲
 ヨハン・シュトラウス : ワルツ「南国のバラ」作品388
 ラヴェル : 亡き王女のためのパヴァーヌ
 ヴィエニャフスキ : 華麗なるポロネーズ第 1番作品 4*
 デュカス : 交響詩「魔法使いの弟子」
 オッフェンバック : 喜歌劇「天国と地獄」序曲
 サン=サーンス : 歌劇「サムソンとデリラ」からバッカナール
 ワックスマン : カルメン幻想曲*
 ヨハン・シュトラウス : トリッチ・トラッチ・ポルカ作品214
 ヨハン・シュトラウス : ポルカ「雷鳴と電光」作品324
 ヨハン・シュトラウス : ワルツ「美しく青きドナウ」作品314
 * ヴァイオリン : 三浦文彰

なるほど、さすが才人カンブルラン。ただルーティーンで行うニューイヤー・コンサートではない。ここで気づくのは、ウィーンの音楽である J・シュトラウスが両端をサンドウィッチのように挟み、間にはフランス音楽が入っていること。もちろん、ヴィエニャフスキはポーランドの人であるが、パリで学んでいるし、ワックスマンももともとポーランド (現在はドイツ領) で生まれた人だが、ここで題材となったのはフランス・オペラの代表作であるビゼーの「カルメン」である。しかも、ここには様々なダンスがある。ワルツ、パヴァーヌ、カンカン、バッカナール、ハバネラやアラゴネーズ、ポルカといった具合。いや実に巧妙なプログラムではないか。しかも大変面白いのは、「カルメン幻想曲」(1946年作曲) を除いてはみな、1850年代から 1890年代、つまりは 19世紀後半に書かれた曲なのである。いかにも 20世紀然としたラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」ですら、1899年の作曲なのだ。このような小品であっても、最初から最後まで譜面を見ながらの丁寧な指揮であったカンブルラン。

e0345320_22341996.jpg
それから、曲の連続、または対照の妙も心憎いばかり。例えば前半最初の「こうもり」と後半最初の「天国と地獄」はともにオペレッタの序曲で好対照をなしている。また前半で言うと、シュトラウスが最初に 2曲続く間にも、「南国のバラ」の序奏に「魔法使いの弟子」の序奏を思い出す。そして、ウィーンの音楽とフランスの音楽の境界におかれたラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、一見奇抜な選曲でありながら、ちょうど、それぞれ違う世界同士の間の橋渡しのような、味わいのある音楽で、しかも旋律線のしっかりしたもの。例えばここで、より新年の賑わいにぴったりなシャブリエの狂詩曲「スペイン」であったらどうなったか。もしかすると、ちょっとうるさかったかもしれない。では、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」では? ちょっと官能的すぎる。その意味でも、淡い色彩感を持つ「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、いわばお口直しとして絶妙の選択であったといえる。また後半では、「サムソンとデリラ」のバッカナールという中東風のエキゾチックな音楽から、イスラム教徒の支配を受けたスペインの情熱的音楽を利用した「カルメン」の旋律につながる。そして最後は、さながらウィーンでのニューイヤー・コンサートのように、ポルカのあとに「美しく青きドナウ」が来る。まぁそうなるとアンコールは知れたこと。ヨハン・シュトラウス父の作曲になる「ラデツキー行進曲」と、相場は決まっている。結果的にはその読みは当然正しかったのであるが、ただその前に Nice Surprise があったので、あとでご紹介する。

上に書いた通り、ウィーン・フィルによるウィンナ・ワルツによってクラシックファンの新年が明けるとはいえ、あの独特の引きずるようなリズムは、そのとろけるような音色とともに、絶対にウィーン・フィルしか出せないし、ほかのオケがそれを真似るのは愚の骨頂。だから、ウィーンとは縁もゆかりもない土地のオケがこのようなレパートリーを演奏するときには、ひたすら音楽に没頭してアンサンブルを整え、そして大いに歌えばよいものだと私は思っている。それから、軽めの音楽であっても、真剣に演奏することが求められる。そして今回のカンブルランと読響の演奏は、まさにそのようなもの。もともとこれまでこのオケを親しく指導してきた歴代の指揮者たちは、重厚なドイツ的音楽か、さもなくば切れ味鋭く推進力のある音楽を得意とする人たちばかり。ウィーン風にたゆたう優雅な音楽は、このオケの過去の経験の中ではさほど多くないように思う。だが、ヨハン・シュトラウスの音楽の持つ愉悦感は、きっちり演奏すれば、何もウィーン風でなくとも楽しめるのである。今回の演奏会では、コンサートマスターが小森谷巧、サブが長原幸太という強力コンビで、とにかく極上のアンサンブルを聴かせてくれたし、真面目な中にも、徐々に奏者の顔に笑みが沸き出てくるような自発性があって、これこそがまさにこのような音楽が求めるものであったと思う。
e0345320_22594883.jpg

ただ、もし欲を言うとするなら、ウィンナ・ワルツの場合にはさらに練った音があればよかったようにも思う。一方で、「魔法使いの弟子」の色彩感や、「サムソンとデリラ」のバッカナールの大詰めの盛り上がりなどには非凡なものがあり、そのあたり、やはり指揮者の音楽的指向が如実に表れたように思う。そのような上質な部分があったからこそ、「雷鳴と電光」で楽員が (確か 6名だと思ったが)、曲の内容に合わせて、傘を差して逃げ惑う人たちに扮したとき、一部の楽員さんに明らかな照れが見られた (当然ですよね。特にハープの方など。笑) にもかかわらず、客席から自然に手拍子が沸いたのであろう。さてそれから、このコンサートでのソリストを紹介せねば。

e0345320_23053581.jpg

ヴァイオリンの三浦文彰。1993年生まれだから、現在弱冠 24歳。2009年に 16歳でハノーファー国際コンクールで史上最年少で優勝した実績の持ち主。世界で活躍を始めているが、一般的にはなんと言っても 2016年の大河ドラマ「真田丸」のメインテーマの演奏で知られていよう。三浦のヴァイオリンは若者らしく勢いのあるもので、ともすると勢い余って音程が一瞬微妙になるようにも聴こえるのだが、それは自発性のなせるわざで、大変に結構なことではないだろうか。今回彼が弾いたヴィエニャフスキのポロネーズ 1番でも、舞曲らしい荒々しさをよく表現していたし、ワックスマンの「カルメン幻想曲」でも、その縦横無尽な音の流れは実に爽快であった。そしてこの演奏会が「美しく青きドナウ」(ちなみにこの曲は、ウィーンのニューイヤー・コンサートでは 1曲目のアンコールの定番で、最初の弦楽器のトレモロのところで聴衆が拍手で遮り、指揮者とオケが新年の挨拶をするのが恒例であるが、今回もトレモロのあとに (あらら) 拍手をした人が 1人だけいた) が終了したあと、さぁ、ラデツキー行進曲の小太鼓か!! と思いきや、カンブルランと一緒に三浦が登場。そして始まったのはこの音楽。

e0345320_23174314.jpg

このサービス精神に客席は沸き、それが最後のラデツキー行進曲につながった。実はこのラデツキー行進曲では三浦も演奏に参加。最初は最後列で遠慮がちに演奏していたが、そのうち前に繰り出してきて、長原幸太と椅子を分け合って演奏することに。そしてカンブルランは、この人らしく客席の拍手もきっちりコントロールして、新年のコンサートは大団円を迎えたのである。

今月カンブルランが読響で指揮するのは 3種類の演目。今回の盛りだくさんの演奏会も楽しかったが、さぁ、残る 2つも内容がギッシリだ。楽しみである。そんなわけで、私としてはなかなかに気分のよい初コンサートとなったのだが、また今年も元気に東京の文化を楽しみたいし、このブログをご覧頂く方々の健康を心から祈念します。あ、あとはもちろん、世界の平和なくしては文化活動も何もあったものではない。何よりも平和な社会を。


# by yokohama7474 | 2018-01-06 23:24 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ベルギー旅行 その 5 ゲント

ベルギーのゲントという街をご存じだろうか。場所は、ブリュッセルからだと西 50kmほどで、ちょうどブリュージュに行くまでの中間地点というイメージである。この街の名は一般にはそれほど知られていないかもしれないが、美術ファンにとってはそれはもう、一生に一度は必ず出かけなければならない場所。ここにある「ゲントの祭壇画」は、西洋美術のひとつの頂点であるからだ。それについてはまた後述するとして、今回もまたイラン人マイケル・ジャクソンの運転するハイヤーで、我々一行はこの地に向かったのである。因みにこの都市、オランダ語読みではヘントとなるので、つまりはフランドル地域に属するこの土地ではその発音で呼ばれているはずであるが、ブリュッセルのホテルで相談するときに「ヘントに行きたいんだけど」と言うと、「ああ、ゲントね」と言い直されてしまった。首都ブリュッセルはフランス語・オランダ語併用地域とされているが、街中で耳につくのはやはりフランス語。地名ひとつとってもこの国の複雑な事情が透けて見える部分がある。

ともあれ、サンキュー、マイケル・ジャクソン。2017年11月 2日 (木) の朝、彼の快適な走りのおかげで、無事ゲントに到着。おめあての祭壇画のある聖バーフ教会の前に着いたが、まずは周辺を見てからの訪問としよう。この美しい建物は何かと思ったら、劇場であるそうだ。へぇー、どんなお芝居をやっているのだろうか。
e0345320_14151387.jpg
これは市庁舎。15世紀から 18世紀にかけて建造されたため、複合的な外観になっていて、見る角度によって全然印象が違う。
e0345320_14214413.jpg
e0345320_14220844.jpg
1300年頃に建てられた鐘楼。実に立派な建物である。もともとの建造目的は、非常時に軍隊を集めることであり、都市の自治の象徴とされている建物であるらしい。ここではエレベーターで上まで昇れるというので、入ってみた。2枚目の写真の奥に見えるのが、メインの目的地である聖バーフ教会。まあ待て待て。メインはあとで。
e0345320_14192672.jpg
e0345320_14240014.jpg
エレベーターがあるとはいっても、そこに辿り着くまで少し階段の昇り降りが必要であったが、内部にはこういう中世の雰囲気溢れる展示があって興味深い。
e0345320_14255724.jpg
e0345320_14263349.jpg
そして、エレベーターで昇りきったところではこのようなカリヨンを見ることができ、そして外に出てみると、おぉ、聖バーフ教会が見える。
e0345320_14275771.jpg
e0345320_14284324.jpg
この鐘楼を出て少し西に進むと、レイエ川という川にかかる聖ミハイル橋に出る。この橋を渡ったところには聖ミハイル教会、つまり、聖ミカエルを祀った教会があるため、欄干にはその聖ミカエルの彫像が立っている。
e0345320_14355826.jpg
この橋から見渡す川沿いの家々が、ゲントの黄金時代を今に伝えるもので、向かって左側がコーンレイ、右側がグラスレイと呼ばれている。心なしか、こういう風景ですら、マグリットのシュールな作品のように見えてくるから不思議である。
e0345320_14373436.jpg
e0345320_14374847.jpg
さて、ここから道を戻り、聖バーフ教会で「ゲントの祭壇画」と対面だ。何はともあれ、それはどんな作品であるのかをご紹介しよう。正面の 12面の写真がこれだ。
e0345320_14404908.jpg
1432年の完成で、なんと、人類史上初の油絵と言われている。作者は、ヤン・ファン・エイクとその兄フーベルト・ファン・エイクである。このうち弟ヤンの方は、先にブリュージュの記事でも採り上げた通り、ほかにも作品が残っているが、兄のフーベルトは、当時の記録に当代きっての画家と書かれているにもかかわらず、ほかの作品は今のところ確認されていないという。いずれにせよ、今から 600年も前に書かれた驚異の作品であるこの祭壇画は、別名「神秘の子羊」とも呼ばれていて、世界中から美術ファンがこのゲントの聖バーフ教会を訪れる。今回私も念願を果たしたわけだが、しばらく前からこの祭壇画は修復作業中と聞いていて、現状についてあまり情報がなかったので、本当に見ることができるか否か不安だったのであるが、現地を訪れると、教会の中でこの祭壇画のある小部屋だけは有料となっており、そこでガラス越しの対面となったのである。そこでは各自が様々な言語でのイヤホンガイドを渡され、それぞれのパネルについての細かい説明がなされるので、皆熱心にそれを聴きながらの鑑賞となる。狭い部屋は、当然ながら相当に混み合っており、そこに様々な言語が機械から漏れて混じり合うのは一種異様な光景とはいえ、やはりこの絵の実物と間近で対峙できるのは得難い経験である。室内は撮影禁止なので写真はないが、ネットで借りてきたもの及び、現地で購入した日本語の解説書からの写真で、少しでもこの奇跡的絵画の持つ生命力をお伝えしたいと思う。

まず、上で見る通り、扉を開けたときに見える 12面のパネルの中央部分、上部を見てみよう。ここにはキリスト (または神)、聖母マリアと洗礼者ヨハネが描かれている。実は中央にいる人物は手に傷もないし、玉座の後ろの部分に、「これは全能の神である」と書いてあるため、キリストではなく神だとする説も有力であるようだ。ともあれ、その姿の神々しいこと。また、衣の細密なこと。人間技を超えている。
e0345320_16013612.jpg
e0345320_16015526.jpg
マリアと洗礼者ヨハネ。
e0345320_16031591.jpg
e0345320_16032812.jpg
この 3人の左右には、天使の合唱と天使の奏楽が描かれていて、これらも、天上的でありながらその表情には人間的な要素があるのが素晴らしいではないか。
e0345320_16044507.jpg
e0345320_16050122.jpg
正面下部には、「神秘の子羊」の名称の由来である子羊が描かれている。言うまでもなくこれはキリストの受難の象徴だ。
e0345320_16062453.jpg
ここに四方から人々が集まってくる。前景右手には、12使徒と初期の教会設立者たち、前景左手には、旧約聖書の預言者たちと様々な部族。
e0345320_16070009.jpg
e0345320_16074845.jpg
この子羊のパネルの向かって左側の 2枚を見てみよう。実は、左端のもの (正義の判事) は、1939年に制作された複製である。というのも、1934年に盗難に遭い、未だに発見されていないからである。そのときは確か洗礼者ヨハネのパネルも盗まれたが、そちらだけは奪回できたらしい。
e0345320_16110429.jpg
もう 1枚の「キリストの騎士」はオリジナル。まあ、言われてみれば複製との間に、筆づかいの差があるようにも見えるが、遠目には分からない。
e0345320_16150762.jpg
パネルを閉じるとそこには、寄進者夫婦の姿や受胎告知がある。
e0345320_16171867.jpg
この受胎告知も見事なものだ。
e0345320_16181752.jpg
e0345320_16182811.jpg
このように細部を見て行くといくら時間があっても足りないような 600年前の傑作なのであるが、実は長い間に過酷な運命にも見舞われている。上に一部のパネルの盗難に触れたが、それ以前にも、宗教戦争時代には偶像破壊論者から守る必要があったし、ナポレオン時代に中央パネルがフランスに持ち去られたし、その後教会が火災に見舞われている。そして極めつけは、ナチの時代。ドイツによる強奪を逃れるためにフランスに疎開されたが、ナチスドイツはフランスのヴィシー政府に圧力をかけ、この祭壇画を奪ってしまった。奇跡的にすべて奪回できたのは、モニュメンツメンという組織のおかげであり、このブログでも採り上げた映画「ミケランジェロ・プロジェクト」を見れば、そのあたりの経緯が分かって、現在このような完全なかたちで対面できることはまさに奇跡的だと思われてくるのである。これが、オーストリアのアルト・アウスゼーの岩塩抗でこの祭壇画が発見されたときの様子。
e0345320_16294317.jpg
さて、念願の祭壇画との対面を果たした私であったが、まだゲントで見るところが残っている。まず向かったのは、フランドル伯居城である。12世紀に築城された古いもので、堀を巡らせたその堅牢な姿は中世の要塞そのままであり、大変に興味深い。
e0345320_16330562.jpg
e0345320_16333646.jpg
e0345320_16343195.jpg
e0345320_16351257.jpg
e0345320_16345021.jpg
中に入ってもまさに中世の空間。拷問の資料を集めた部屋では、老若男女がこわごわ、でも興味津々で展示物に見入っていた。こういう恐ろしいものは妙に人間の好奇心を刺激する。平和な時代でよかったという思いが沸いてくる。
e0345320_16372998.jpg
e0345320_16375094.jpg
e0345320_16380672.jpg
e0345320_16382251.jpg
e0345320_16383684.jpg
ただこの城も、屋上にまで登ると眺望もよく、ちょっとほっとする。
e0345320_16392673.jpg
さて最後に向かったのは、ゲント美術館だ。結構な規模の美術館であり、見ごたえ充分だが、特にボスの貴重な 2点、「聖ヒエロニムス」と「十字架を担うキリスト」に対面できたことは大きな感激だった。
e0345320_16411399.jpg
e0345320_16412956.jpg
e0345320_16415150.jpg
さて、この美術館でひとつ、衝撃的なシーンと遭遇した。そこで思わず写真を撮ったのだが、フラッシュなしなら写真撮り放題のこの美術館においても、その場所だけは撮影禁止。すぐに係員が寄ってきて注意をされてしまった。写真の消去までは求められなかったので手元にその写真はあるのだが、美術館の意向を尊重し、ここで公開することはやめよう。その代わり、聖バーフ教会で購入した祭壇画についての日本語の解説書から、似たようなシーンを転用しよう。
e0345320_16453429.jpg
そう、ここゲント美術館では、ゲントの祭壇画の修復を何年もかけて行ってきた。上述の通り私も修復のことは知っていたが、その作業場所がここであったわけだ。そして、確かすべてのパネルの修復が済んだと聞いたので、現地で実物と対面して感激したのであった。ところがこの日私が目撃したのは (あ、ここで何か悪いことが行われているわけではなく、写真撮影こそ禁止でも、一般に修復しているところは公開しているわけなので、別に秘密のことではないのだが)、まだ何枚ものパネルが修復作業の真っ最中であった。少なくとも、正面 12枚のうち、下部右端の 2枚と、上でも言及した下部左端の複製の 1枚が、修復作業中であった。それ以外にも奥にあったように思う。そうすると、皆がありがたがっているあの祭壇画のうちの一部は複製だということになる。あとで調べると、修復作業の終了予定は 2020年とのことで、その工程も公開されている。つまりは、ここには何も鑑賞者を騙す意図はないものと思うが、だが、例えば初期の頃は、このような方法によって、修復中の部分が明らかにされていたようなので、その方が良心的ではなかったか。
e0345320_16584764.jpg
まあそれでも、人類最初の驚異の油絵の、オリジナルのかなりの部分を見ることができたことは事実。そうなると、今回空振りに終わったアントワープや、行けなかったトンヘルローなどと併せ、また 2020年以降にゲントも再訪しなければなりませんな。人生の新たな目標ができた (笑)。とりあえず私は、現地で購入したこの祭壇画のすべてのパネルを印刷した紙製のついたてをこのように飾って、時々眺めては悦に入っているのであります。因みに後ろに映っているのはフルトヴェングラーのセット物 CD の山と、彼のフィギュア (手にはなぜかダイオウイカとカメラ男がかかっていて、指揮を邪魔している 笑)、そして、空気で膨らませるムンクの「叫び」の人形。あ、右奥に見えるのは、今から 40年ほど前に、奈良・大安寺の当時の偉い住職さんに書いて頂いた短冊です。
e0345320_17023246.jpg
とまあそういうことで、川沿いのラプソディ新春特別企画、「モン・サン=ミシェルとベルギーの旅」6連発でした。生煮えの部分や、逆に記憶が薄れてしまった部分もあったと思いますが、ご容赦頂けばと思います。少なくとも、ベルギーという国が間違っても「フランスの属国のような場所とオランダに入れてもらえなかった場所が集まってできた国」ではなく、素晴らしい栄光の歴史に満ちた極めて文化的な国であることは、ご理解頂ければ幸いです。

そうそう、今日は 2018年の元旦。今年も天気がよいので、川沿いの我が家のベランダから、富士山を見ることができました。今年も皆様にとってよい年でありますように!! 次回のブログ更新は、また週末にコンサートに出かけてからになると思います。
e0345320_17171843.jpg

# by yokohama7474 | 2018-01-01 17:30 | 美術・旅行 | Comments(3)