スパイダーマン : ホームカミング (ジョン・ワッツ監督 / 原題 : Spider-Man : Homecoming)

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昨年の 5月28日に記事を書いた「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」において、マーヴェル社のヒーロー・キャラクターの集団であるアベンジャーズが内輪もめする中、「新人」として登場してキャプテン・アメリカの盾を奪ってしまうスパイダーマンに触れた。これには背景があって、もともとスパイダーマンもコミックにおいてはマーヴェル社のキャラクターであったようだが、映画の権利はソニー・ピクチャーズが持っていた。それが、この両社の協力によって、スパイダーマンがマーヴェルとキャラクターたちと共演することが可能になったわけである。そんなわけで、この作品は飽くまでもスパイダーマンが主役であるが、「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」のストーリーと一部関連があるし、例のキャプテン・アメリカの盾を奪う回想シーンも出てくる。ちなみにそのシーン、アイアンマンを演じるロバート・ダウニー Jr. が、このように両手でおにぎり型🍙を作って、「アンダールース」と聞こえる言葉を叫ぶとスパイダーマンが出て来るのだが、その場面の字幕は「新人!!」となっている。
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この言葉が分からなかったので調べてみたところ、"Underoos" とは子供用の下着メーカーであるようだ。このようなヒーロー物に特化しているのだろうか。ということはつまり、アイアンマンの表すおにぎり型は、パンツの上下逆さま状態を示しているのか? (笑)
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いずれにせよここから分かることは、既にアベンジャーズの中心的存在として活躍している実績のあるアイアンマンから見れば、スパイダーマンなどまだまだガキなのだということである。そしてこの映画のテーマはそこにある。

スパイダーマン単体の映画としてはこれが 6本目になるが、私はこれまでの 5本はすべて劇場で見てきた。最初の 3本はサム・ライミ監督、トビー・マグワイヤ主演。次の 2本は「アメージング・スパイダーマン」のタイトルを持ち、アンドリュー・ガーフィールドとエマ・ストーンという、その後大出世するコンビを主役に据えていた。ひとつひとつの作品には長短あるかもしれないが、クイーンズとマンハッタンを舞台として強大な敵と戦うスパイダーマンの活躍、特にビルの合間での胸のすく跳躍と、その反動としての、正体を隠して戦う宿命や、愛する人たちを守り切れない絶望感に、これぞスパイダーマンというヒーローの特徴が明確であったと思う。さてその意味では、今回は新たなスパイダーマン像が描かれるのではないかという期待感がある。そして見終わった感想は、まさにその期待感の充足。これまでのファンにも受け入れられるように工夫しているとも思われ、なるほど作り手側の苦労が偲ばれるようにも思われる。真っ二つに裂けたフェリーを懸命に支えるスパイダーマン。
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極度のネタバレにならないように留意しながら、本作の特徴を思いつくまま列挙しよう。
・過去 5本における憧れの人、メリー・ジェーン・ワトソン (MJ) やグウェン・ステイシーは、今回出ていない。その代わりにスパイダーマン = ピーター・パーカーが憧れるのは、ちょっと肌の色の黒い美人の同級生である。その他、アジア系やヒスパニックが周囲の友人たちであるという設定に、米国のリアリティがある。
・これまでは、孤独なヒーローとしてその正体をひた隠しにして来たスパイダーマンが、ここでは最初から親友に正体がばれてしまっている。だがそのことにより、たったひとりで宙を飛んで敵に立ち向かうというワンパターンを越えたスケールの大きい仕掛けが可能になっている。
・ここに登場する敵役は、世界制覇をもくろむ悪党ではなく、ただビジネスとその結果としての金銭にしか興味のない男である。だが彼にはアイアンマンを憎む理由があり、その点で、アイマンマンの弟子筋という設定のスパイダーマンとの対決という必然性が存在する。
・その一方で、この敵役、鳥の怪物のような姿をしたヴァルチャーは、その人物像の設定に、最初のシリーズにおけるグリーン・ゴブリンを思わせる要素もある。むむ、ということはこの次の作品では、ヴァルチャーの子供がスパイダーマンに牙を剥くのであろうか?! もしそうなら、それこそ新機軸である!!
・ピーターのおばさんであるメイは、以前のお婆さんという設定ではなく、ここでは「シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ」と同じく、アクティヴでセクシーな人として描かれている (女優も同じで、マリサ・トメイ)。
・スパイダーマンのピッタリしたスーツは、そんなものかと思って気にもかけていなかったが、ここではアイアンマン = トニー・スタークが設計したことになっていて、どのようにピッタリするのかの説明があり、また、スーツに仕込まれた AI が斬新だ。その一方、蜘蛛の糸を出すことと身軽であることがその身体能力のほとんどであるスパイダーマンは、スーツには過度に依拠していることはなく、いざとなれば生身にダボダボの服装でも戦えることが表されている。
・ニューヨークのような高層ビルが立ち並ぶ中ではなく、森の切れ目で広大な空き地になっている場所では、さすがのスパイダーマンもどこにも糸を飛ばせず、もはやなす術ないとばかりに地上を走る点が笑える。だが、走っている車になんとか飛び乗りさえすれば、不屈の追跡劇の再開は可能なのである。
・そして、最近そのような映画が多いのだが、これは絶対に飛行機の中で見ないこと。肝心のシーンがカットされて、ストーリーを追えなくなりますよ。
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そう、「シビル・ウォー」に続いてここでも主役を演じるのは、英国出身の若手、トム・ホランド。以前も書いたが、私がビジネスでお世話になったことのある英国人弁護士、ホランドさんの甥っ子なのである!! 彼にはこの役柄に適性があると思うし、「シビル・ウォー」のときには精悍さを見せるシーンがほとんどなかったのに対して今回は様々な顔を披露し、なかなかの成果を挙げている。彼は、人間味のあるキャラクターを演じて行ける役者であろうと思うので、この役に安住することなく挑戦して行って欲しいものだ。ホランドおじさんも期待していることだろうし (笑)。それにしてもこのワシントン・モニュメントのシーン、思わぬ展開で大変面白かった!!
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それから忘れてはならないのは、敵役を実に楽しそうに演じている、マイケル・キートンだ。
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マクドナルドをフランチャイズ化した伝説の実業家を生々しく演じた「ファウンダーズ」での見事な演技も記憶に新しいが、かつてのバットマン俳優は、「バードマン」の怪演を経て、ここでは本当に、妄想ではなく自身が化け物のような、鳥型の巨大な金属製スーツを着た悪者を演じているのである。こういう悪役が出てこないと映画は締まらないし、マイケル・キートンはこれからますます期待の俳優になってきた。それから、最後の方のシーンでは、「アイアンマン」絡みの女優が出て来るが、プログラムにもそのことは記載されていないので、あえて名前を出すのは控えよう。だが、そのほんの僅かな登場シーンにも関わらず、エンドタイトルでは確か 4人目に名前が出て来るという、ハリウッドの大女優である。最近あまり仕事をしていないように思うので、そろそろまた活発に働いてほしいと思う。

このようなビッグネームのシリーズ物で、巨額の予算を投じる作品であるから、監督は、恐らくは冥利に尽きる一方で、大変な緊張感を持って制作に臨んだことであろう。そんなプレッシャーの中、上記のような、なかなか気の利いた作品に仕立て上げたのは、1981年生まれのジョン・ワッツ。これが長編 3作目ということだから、今後も期待できる才能であるだろう。
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エンドタイトルの最後に、「スパイダーマンは帰ってくる」というメッセージが出るので、また新たなシリーズとして継続するのであろう。長く愛されてきたヒーローのキャラクターを使って、新機軸や世相を取り入れながら多くの人たちに支持されるような作品に仕上げることはなかなか簡単ではないだろうが、是非今後のシリーズに期待したい。マーヴェルのシリーズではまたほかにも、マイティ・ソーやブラックパンサーをそれぞれ主役にした映画の予告編を見ることができる。あまりキャラクターが多すぎると、複雑になりすぎるきらいがあるものの、現代人の生活における空想の必要性はますます増している。それゆえ、是非是非、今後もいろいろなヒーロー・キャラクターを楽しんでみたいと思っているのである。

# by yokohama7474 | 2017-09-13 00:53 | 映画 | Comments(0)

大野和士指揮 東京都交響楽団 2017年 9月11日 サントリーホール

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ちょうど一週間前のオール・ラフマニノフ・プログラムに続く大野和士と東京都交響楽団 (通称「都響」) の演奏会は、このコンビにしては若干異色のレパートリーと言ってよいだろう、上のポスターにもある通り、ハイドンのオラトリオ「天地創造」である。まさに何もない混沌の状態の描写から始まり、神による天地と動物、そして人類の創造の 7日間が描かれ、そして最初の人類であるアダムとイヴが愛の語らいをするという壮大な内容を、実に気の利いた音楽で表現した 2時間近い大曲。都響の定期公演のプログラムは毎月 1種類であることが多いが、今回、この曲は 2回演奏された。私が聴いたのはその 2回目。大野と都響の採り上げるレパートリーには近現代曲が多いというイメージがあるが、もちろんこのような古典派のレパートリーに関しても期待は大である。しかも今回の演奏には、ちょっと驚きの団体も登場する。
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これは、世界一の合唱団という評価を不動のものとしているスウェーデン放送合唱団。合唱の神様と異名を取ったエリック・エリクソン (2013年に 95歳で他界) が 1952年から首席指揮者としてそのレヴェルを世界トップに押し上げた。現在の首席指揮者は、上の写真左側のペーター・ダイクストラ。1978年生まれのオランダ人で (道理で背が高いはずだ 笑)、合唱だけではなくオーケストラの指揮者としても活躍している。今回はこの合唱団 (男女合わせて 30名ほどの規模) が来日ツアーを行っている機会をとらえ、この都響の演奏会に出演することとなったわけである。プログラムには、都響との共演は 2015年10月以来とある。残念ながら私はそれを聴いていないので、どのような曲目であったのか調べると、実に渋く、リゲティのルクス・エテルナ、シェーンベルクの「地には平和を」、そして、モーツァルトのレクイエムというもの。指揮はダイクストラ自身であった。これがそのときのポスター。
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私が初めてこの合唱団を知ったのは、リッカルド・ムーティ指揮ベルリン・フィルによるヴェルディの聖歌四篇のアナログレコード (1982年録音) によってであった。当時その盤における合唱団の異様なレヴェルの高さは、大変評判になった。私はこの聖歌四篇という曲に、今に至るもあまり親しめないのであるが、だがそれにしても当時初めて聴くその曲における合唱の美しさには、深く感動したものである。そして実演では、1996年のクラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィル来日公演におけるサントリーホールでのマーラーの「復活」。そのときのクライマックスの感動は未だに記憶に鮮明で、合唱団が大きく盛り上がるところでアバドは指揮の身振りをむしろ小さくすることで、ちょっと信じられないような壮大な音響を作り上げていた。

さてこのような特別な合唱団が登場した今回の演奏会であったが、やはり私はこの合唱団の特別な歌いぶりに、またまた感動させられたのである。なんと表現すればよいのだろう、弱音では地を這う霧のように無重力感を持って漂い、音量が増すと、繊細な織物が広がって行くように拡張し、大きな音に至ってもその美感は一向に変わらないのである。それでいて、合唱が全曲を支配するイメージではなく、うまくオーケストラと寄り添っている。東京のステージに登場する日本の数々の合唱団も、もちろんレヴェルは高いとは思うのだが、今回のような歌唱を聴くと、やはり世界最高とはこういったものか、という感を強くするのである。

大野の指揮は、いわゆる古楽風の教条的アプローチではなく、この曲の大らかな人間性を表現しようとしていたように思う。もちろん、古楽風な要素が皆無というわけではなく、彼にしては珍しくヴァイオリンは左右対抗配置にしていたし、通奏低音にはチェロだけでなくチェンバロも使用していたが、一方で、弦のサイズはコントラバス 5本 (チェロ 6本) と小さすぎず、ティンパニもトランペットも、通常の現代楽器を使っていた。もちろん都響であるから、いつものような芯のある音でニュアンス豊かに演奏していたが、今回は特に木管のセンスのよさが随所で光っていたと思う。このオラトリオには凝った描写やユーモラスな描写が目白押しだが、冒頭、天使ラファエル (バリトン) が「はじめに神は天と地を作られた」と静かに歌い出し、合唱がそれに次いで神秘的に歌い、「光あれ!」という歌詞に至って音楽が盛り上がるまでは、ソリストも合唱も譜面を手に取らなかった点も興味深かった。それぞれの情景を表情豊かに描き分ける大野の手腕は大変に見事なものであり、ハイドンの音楽の人間性を充分に表していた。ふと思ったのは、このようなヒューマニティ溢れる音楽が、宗教性を越え、また貴族のための音楽という範疇を越えて、例えばベートーヴェンの 9番のような曲の前触れになったのではないかということ。いかなる文化芸術も、先人の業績なしにはあり得ないものであり、連綿と続く音楽の伝統を感じることには大いに意味があるだろう。

独唱歌手陣は、ソプラノが最近大活躍の林正子、テノールが吉田浩之、バリトンがディートリヒ・ヘンシェル。それぞれに熱演であったが、日本人 2人、特に林の歌唱は、ちょっとオペラ的すぎたような気もしないでもない。まあ、それとても、大野の手による壮大な生命賛歌のひとつの要素であったと思えば、目くじらを立てることもないと思う。それから、ひとつ気になったのは、休憩を第 2部の真ん中、第 5日終了後に入れたこと。以前、鈴木秀美指揮の新日本フィルによるこの曲の演奏を採り上げた際に書いたが、この曲は、天地創造の 7日間を描く第 1部・第 2部 (演奏時間約 90分) と、アダムとイヴが登場する第 3部 (演奏時間約 30分) に分かれていて、内容から言えば、当然第 2部終了後に休憩を入れるべきだ。だがそれでは、前後の演奏時間がアンバランスになってしまうので、今回のように、ちょうど半分ほどの箇所で休憩を入れたのであろう。それは理解できるのだが、やはり聴いてみて少し違和感もあった。これは前日、東京芸術劇場での演奏の様子。
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演奏全体として振り返ってみれば、極めて充実したものであったことは間違いない。多様な音楽を上質の演奏で聴くことができる東京は、やはり文化度の高い街なのである。そういえば、今出ている雑誌「東京人」10月号は、「クラシック音楽都市? 東京」と題した特集を組んでいる。「ホールもオーケストラの数も十分なのに・・・」とあって、その先にどんなメッセージがあるのか気になるので、買ってみた。大野和士と、やはり指揮者の広上淳一、ピアニストの小山実稚恵の鼎談に、東京の課題のいくつかが言及されている。音楽に興味のある方もない方も、ちょっと覗いてみてはいかがだろうか。
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# by yokohama7474 | 2017-09-12 01:56 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ヴェルディ : 歌劇「オテロ」(演奏会形式) アンドレア・バッティストーニ指揮 東京フィル 2017年 9月10日 Bunkamura オーチャードホール

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ほんの前日、パーヴォ・ヤルヴィと NHK 交響楽団によるオペラ全曲の演奏会形式上演を見たばかりだが、この日もまたオペラ全曲の演奏会形式上演なのである。今回はまた違った楽しみでいっぱいだ。というのも、東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) とその首席指揮者であるイタリア人、弱冠 30歳のアンドレア・バッティストーニが採り上げたのは、イタリアの血がたぎる名作であり、ヴェルディ後期の傑作である「オテロ」なのである。バッティストーニはこれまでにも東フィルと組んで「トゥーランドット」やマスカーニの「イリス」を演奏会形式で採り上げていて、私はそれらを大いに楽しんだが (「イリス」については 2016年10月16日の記事をご参照)、この「オテロ」は音楽の中身が濃いだけに、これまでにも増して楽しみだ。

前日のヤルヴィと N 響の「ドン・ジョヴァンニ」では、演奏会形式とはいえ、歌手たちはそれなりの衣装を着て、舞台上演さながらの演技を披露していた。それに対して今回は、衣装は完全にコンサートスタイル (男性は全員燕尾服) で、演技もほとんどない。とは言っても、歌手たちや、また合唱団 (新国立劇場合唱団と世田谷ジュニア合唱団) まで含めて、全員が暗譜での歌唱である。つまり、そのまま舞台上演が可能なほどの歌いぶりであったのだ。そして私が何より感動したのは、今回のバッティストーニと東フィルの演奏の驚くべき充実ぶりだ。このオペラは序曲も前奏曲もなく、いきなり嵐のシーンで始まるが、客席の照明とともに舞台の照明も暗くなって登場したバッティストーニは、聴衆の拍手も知らぬげに、指揮台に登るやいなやタクトを一閃、渦巻く音響が沸き起こったのである。その電撃的な冒頭から一貫してオーケストラは極めて雄弁であり、最強音から最弱音に至るまで随所にニュアンス満載だ。本来は新国立劇場の専属オケとなることを予定されていた、そして実際にそこでほかのどのオケよりも頻繁に演奏している、このオケの豊富なオペラ体験なくしてはあり得ないような、オペラ的音響をこれでもかとばかりに繰り出したのである。お見事。
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一方、歌手陣はいささか複合的であったと言えようか。主要な役柄は以下の通り。
 オテロ : フランチェスコ・アニーレ (イタリア)
 デズデーモナ : エレーナ・モシュク (ルーマニア)
 ヤーゴ : イヴァン・インヴェラルティ (イタリア)
 カッシオ : 高橋達也
 ロデリーゴ : 与儀巧
 エミーリア : 清水華澄
 ロドヴィーコ : ジョン・ハオ (中国)

まず主役のフランチェスコ・アニーレは、昨年の「イリス」でもオオサカ役を歌っていた人だ。そのときの美声には魅了されたが、所詮は脇役。今回のような出ずっぱりの主役となると、負担は段違いである。彼の歌唱、朗々と歌い上げる箇所は素晴らしい表現力であったが、ストーリーの流れにおいては重要な、低い声での朗誦にはちょっと課題が残ったか。演奏会形式でありながら、第 3幕と第 4幕の最後で指揮台に頭を乗せるような恰好で倒れるという熱演によって、このオペラの劇性を表現していた点は高く評価したい。
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デズデーモナのエレーナ・モシュクは今回初めてこの役を演じるらしいが、もともとのレパートリーは、夜の女王とか、「ホフマン物語」の 4役のようなコロラトゥーラが多いようだ。経歴は大変立派なもので、世界の名歌劇場で活躍している。今回彼女は第 4幕の「柳の歌」で聴衆を魅了することとなった。実はこのデズデーモナという役、細やかな心理描写を必要とする割には聴かせどころが少なく、その「柳の歌」にすべてが集約されていると言っても過言ではない。そんなことを再認識させる素晴らしい歌唱であった。
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ヤーゴのイヴァン・インヴェラルディも世界各地のオペラハウスで活躍しており、私としては今回の歌手陣の中の最大の功労者であったと思う。そもそもこの「オテロ」という作品は、ヤーゴがよくないと締まらないのだが、その意味では、彼の歌唱が上演全体の出来を押し上げていた。
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その他日本人、中国人歌手 (但しロドヴィーコのジョン・ハオは二期会会員) も要所要所を締めていたが、存在感のある歌唱を聴かせた歌手として一人挙げるとするなら、エミーリア役の清水華澄であろう。この役は、終幕の大詰めで真相が明らかになるきっかけを作るという重要な役。以前山田和樹と日本フィルの伴奏によるリヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」で見事な歌唱を聴かせたことは記事に書いたが (2016年 9月 4日の記事ご参照)、今回も実に素晴らしいと思った。やはりこのような脇役が充実すると、上演の質自体がぐっと上がるのである。
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と、音楽的にはかなり充実した公演であったのだが、ひとつ問題があった。それにはこの上演のポスターとして、冒頭に掲げたものとは異なるもうひとつのパターンのものをご紹介する必要がある。

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これは一体なんだろう。骨太な「オテロ」という作品には似つかわしくない、線の細い白黒の世界。そのヒントは、プログラムに掲載されたバッティストーニの文章に見られる。この若きマエストロいわく、自身優れた作曲家でもあり、この「オテロ」の台本を書いたアッリゴ・ボーイトには「二元論」という詩があり、それこそはこの「オテロ」の本質と関係しているとのこと。白と黒、つまりは白人であるデズテーモナと黒人であるオテロの間に存在する二元論。このポスターはどうやらそれを象徴しているらしい。そして今回の上演では、白と黒の織りなすプロジェクションマッピングがステージ上で展開した。こんな具合である。
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プログラムに掲載されている阿部一直というアート・プロデューサーの解説によると、これはライゾマティクリサーチなるアート集団によるもの。会場であるオーチャードホールの壁面を三次元モデリングで計測して立体空間情報化し、音楽の進行に合わせて映像を投影するという、世界初の試み。なんでも、「オテロ」を実際に聴いた人がどの場面でどのような感情を抱いたかというデータを取り、それをもとに投影する映像を作ったらしい。・・・うーん、申し訳ないが私には、そんなことをする意味が分からない。人間の感情は演奏される音楽によって移り変わるもの。それを舞台に投影することに一体いかなる意味があるのか。実際のところ、冒頭の嵐のシーンでの激しい映像は音楽の力を大いに邪魔していたし、その後、このオペラの全曲に亘って展開される人間感情の機微において、映像のあるシーンとないシーンがあり、見る者に余計な思考を強いたと思う。カーテンコール時にこのアート集団が姿を見せたときにはブーイングが起こっていたが、率直なところ、私も全く同感である。名作の持つ強い音楽の力は、それだけで充分なものなのだ。関係者の努力に敬意を払うのはやぶさかではないが、今回の聴衆の反応をよく理解して欲しいものである。その意味で、上記の阿部一直の文章も、私としては、申し訳ないが説得力のないものとしか思えないのだ。

この作品はヴェルディ 74歳の作で、この不世出のオペラの巨匠の、最後から 2番目のオペラである。台本作者のボーイトの励ましのもとに書かれた作品であることはよく知られている。まぁ、そこには白と黒の二元論は確かにあるかもしれないが、うねる音楽の迫力と、登場人物たちの複雑な感情表現こそが本質だ。そのようなことを実感できる上演を見たいと思う。今回の上演は、奇妙な映像の投影にもかかわらず、音楽的な成果には大いに見るものがあった。バッティストーニと東フィルには、今後も力強く多彩な音楽を奏でて欲しいと思う。さてこれは、本作の作曲を終えたヴェルディが、喜んでボーイトに送った手紙。「親愛なるボーイト 終わった! われわれに乾杯..... (そして彼にも) さようなら G・ヴェルディ」とある。ここで言う「彼」とは、主役オテロのことだろうか。この短い手紙に、大作曲家の自信と安堵感がにじみ出ている。願わくば、ハイテクに依存するのではなく、作曲家が心血を注いで作り出した音楽の力だけを感じるような上演を体験したい。
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# by yokohama7474 | 2017-09-11 00:38 | 音楽 (Live) | Comments(2)

アルチンボルド展 国立西洋美術館

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ジュゼッペ・アルチンボルド (1526 - 1593) という画家の名前は知らずとも、上のポスターに掲げたような奇妙なイメージの絵を見たことのない人はいないだろう。花や果物や、魚や動物や木や火によって形作られた人の肖像。一目見たら絶対に忘れることのできない奇抜な作品の数々である。そんな作品を残したイタリア人画家、アルチンボルドの展覧会が、6月から東京上野の国立西洋美術館で開かれている。約 3ヶ月に亘る会期はあと 2週間ほどで終了し、地方巡回はない。私も、まさかアルチンボルドの展覧会が日本で開かれるとは驚きであったが、実際に足を運んでみて、その予想以上の充実ぶりにまた驚いた。今後はいつ開かれるかは分からない貴重な機会であるので、展覧会の概要を見て行こう。まずこれが、アルチンボルドの「紙の自画像 (紙の男)」。25年間に亘るハプスブルク宮廷での生活を終えて、故郷ジェノヴァに還ってきた画家の自画像だ。題名の通り、よく見ると紙で構成された半身像であり、襟元には「1587」、額には「61」とあって、つまり 1587年に 61歳のときの自画像を描いたと考えられている。彼が宮廷で描いた奇抜な油絵の数々に比べると控えめではあるが、その精神は同じであり、しかもこのデッサン力は大したものである。つまりアルチンボルドの作品は、ユーモア感覚と画家としての技量が揃っていないとできないものであることが分かる。
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アルチンボルドのだまし絵は、その仕上がりが極めて特殊であるゆえ、何か西洋美術史における突然変異のように見えるかもしれないが、展覧会では彼の絵の背景が理解できるような展示物に触れることができる。アルチンボルドが活躍した 16世紀後半は、ルネサンスも盛期を過ぎ、地域によってはマニエリスムと呼ばれるスタイルに移っていたが、画家が修業する上で、自然観察に関する科学的態度は欠かせない要素になっていた。そのような精神なしにはアルチンボルドの作品は考えられない。その一方で、人間に対する観察と、それに基づく諧謔味を伴う誇張という点も、絵画表現において重要になってきていたが、ルネサンスの時代、自然観察と人間観察の双方において大変な高みに達した画家がいる。いうまでもなく、レオナルド・ダ・ヴィンチだ。彼は数多くのペン画やデッサン、また鏡文字を使用した文章を残したが、例えばこの「鼻のつぶれた禿頭の太った男の肖像」(1485 - 90年) は、写実的でありながら諧謔味もある。このような精神は、アルチンボルドの作品と通底するように思われる。
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アルチンボルドの作り出した奇抜なイメージが同時代、そして後世の人々にも支持された理由のひとつは、そこに人間の何か根源的な興味を惹く要素があるということだろうし、天下のハプスブルク王朝において作られた絵画イメージであることも、人々にお墨付きを与えたものであろうか。例えばこれらは、アルチンボルドの死後何十年も経過した、1630 - 50年頃の作といわれる「四季の寓意」のエッチングである。うーん、本物からは随分と安っぽくなっているが、人々は奇抜なイメージを楽しんだのだろう。
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展覧会ではここらで、本物のアルチンボルド作品の名刺代わりの一発とばかりに展示されているのがこれだ。ワシントンのナショナル・ギャラリー所蔵の「四季」(1590年頃)。上の版画のような、ただのイメージだけの追随と比べると、自然物だけを使って、存在感のあるリアルな老婆の姿を描き出したアルチンボルドの手腕の冴えは、明らかだ。
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このアルチンボルドが宮廷の肖像画家としてウィーンに移住したのは 1562年、36歳頃のことだ。以来、フェルディナント 1世、マクシミリアン 2世、ルドルフ 2世という 3代の皇帝に仕えることとなる。展覧会にはこれら皇帝とその家族の肖像画がいくつか並んでいるが、これはアルチンボルドの作であろうとされるマクシミリアン 2世の皇女、アンナの肖像 (1563年頃)。この人は叔父にあたるスペインのフェリペ 2世に嫁いでいるらしい。アルチンボルドが「まっとうな」肖像画家としてもなかなかの手腕であったことが分かる。
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また彼は、宮廷での馬上試合の装飾をデザインしている。これらは 1585年、ルドルフ 2世に献じられた馬上試合用のもの。「槍を持つ女」と「龍の仮面をかぶった男」である。このデザイン、ただの義務でやっているのではなく、画家自身が楽しんでいるようには見えないだろうか。
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展覧会には当時ハプスブルク宮廷に献呈された杯などの工芸品が並んでおり、そしてメインのコーナーでは、アルチンボルドの代表作「四季」と「四大元素」の 2つの 4連作が勢ぞろいしている。これらは額縁がシンプルなものから豪華なものまでいろいろあり、所有者もバラバラであることに気づかされる。以下のような具合だ。
「四季」の「春」はマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミー美術館、「夏」と「秋」はデンヴァー美術館、「冬」はウィーン美術史美術館。「四大元素」の「大気」と「火」はスイスの個人、「大地」はリヒテンシュタイン侯爵家、「水」はウィーン美術史美術館。これらが勢ぞろいするのは極めて貴重な機会であり、今後またあるのか否か分からないほどだ。以下、一気に画像を掲載する。どれを取っても、ずっと見ていても飽きない作品たちで、私は会場をグルグルと何度も回ってしまいました。
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これらの絵がなぜ面白いかと言えば、様々な構成要素がリアルでついつい見入ってしまうことに加え、全体として、描かれた人物の個性までも伝わってくるように思われるからだ。そしてこれら 2つのシリーズ、こうして並べてみると、右向きと左向きが交互になっていることが分かるが、テーマとして、「春」は暑くて湿っている「大気」と、「夏」は暑くて乾燥している「火」と、「秋」は冷たくて乾いている「大地」と、「冬」は冷たくて湿っている「水」と対応しているらしい。上の写真でいうと、1つめと 5つめ、2つめと 6つめ、3つめと 7つめ、4つめと 8つめということになり、これらをそのペアで左右に並べると、向かい合うこととなる。展覧会ではそのように展示されているのである。だがその面白さは、その場に身を置いてみないと分からない。未だ現地に行っていない方は、残る会期に慌てて上野に走る価値ありである。

さて、私は長年に亘る澁澤龍彦のファンであるが、昭和の時代に、正統派ではない西洋絵画を多く日本に紹介した彼の随筆にはしばしば、ルドルフ 2世がプラハに芸術家や科学者を集めたことに言及していて、その中にアルチンボルドの名も出て来る (因みに来年 1月から 3月にかけて、Bunkamura ザ・ミュージアムにて「ルドルフ 2世 驚異の世界展」が開かれるので、今から楽しみだ)。珍奇なものを喜ぶ精神には、もちろん博物学的な観点以外に退廃的なものもあるだろうが、人間の好奇心はそのような珍奇なものに反応する。今回の展覧会でも、そのような宮廷の雰囲気を感じられる展示物がある。今日ではあまり健全ではないかもしれないが、歴史を知るには興味深い資料である。これは 1642年の「怪物誌」という書籍から、多毛人して当時知られていたゴンザレス家についての記述。また、1580年以降に描かれたとされる「エンリコ・ゴンザレス、多毛のペドロ・ゴンザレスの息子」という油彩画もある。
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現実に目に見える世界、当たり前の世界でないものへの興味という意味で、アルチンボルドが人気を博した時代の感性が理解できる。それはまた、このような作品にも見て取ることができよう。1662年以前の「擬人化された風景」で、マテウス・メリアン (父) という画家に基づく、ヴェンセスラウス・ホラーという画家の作品。風景が実は人の顔になっているというだまし絵的な要素は、遥か後年のシュルレアリスム的感性に通じる。
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さてアルチンボルドは、上のような動植物のような有機体による連作以外の単発でも、面白い作品をいろいろと残している。これは 1574年の「ソムリエ (ウェイター)」。大阪新美術館建設準備室の所蔵になるものだ。ほっほぅ、大阪府はこれまた貴重な作品を手にしたものだ。これは、二度漬け禁止、ではなかった、二度と手に入らない逸品ではないだろうか。
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それからこれは、スウェーデン王室に伝わる「司書」。実在したハプスブルク家の図書館長を描いたとされるが、その仕上がりが若干雑であるとして、アルチンボルドの真筆ではないという説もあるらしい。
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まあ確かに、アルチンボルドの真作とされる以下の作品に見ることができる、人間としての実在感は大したもの。1566年の「法律家」である。ストックホルム国立美術館の所蔵。法学の知識を備えた実在の行政官をモデルにしたと言われる。うーん、鳥と魚からなる行政官か (笑)。
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そして最後に、アルチンボルドの底知れない遊び心を思わせる 2点の作品をご紹介しよう。もったいぶっても仕方ないのでここで述べてしまうと、いずれも上下さかさまにすると全く違う図像が現れてくるというもの。「庭師 / 野菜」と「コック / 肉」だ。特に私が萌えたのは、後者における人の指である。こんな人間への親近感あふれる表現は、ほかのアルチンボルドの作品にはないのではないか。
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このように、誰にでも楽しめる作品の数々に触れる機会は大変に貴重なものなのである。さてここからは展覧会の展示とは異なる作品の紹介なのであるが、このようなアルチンボルドのだまし絵の感覚は、日本人の感性にもかなり合ったようだ。鎖国していたはずの江戸時代の日本では、有名な幕末の絵師、歌川国芳 (1798 - 1861) のこのような作品には鳥肌が立つ。「みかけはこわいがとんだいいひとだ」。
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そしてこれは若干毛色が違うものの、似たような感性による作品。「東海道五十三次」で知られる初代安藤広重 (1797 - 1858) の手になる影絵「かけぼし尽くし」。なんなんだこの楽しさは (笑)。
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やはり日本人の感覚には、このような光と影の遊戯が合う面があるようだ。そんなわけで、会場に売っていたアルチンボルドの「水」を象ったフィギュアを購入。このフィギュアのよいところは、原作では横からしか見えなかった人物の顔を、正面から見ることができること。まぁ、だからなんだと言われてしまえばそれまでだが、なんだか楽しいではないか (笑)。早速我が家のフィギュアコーナーに仲間入りである。
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# by yokohama7474 | 2017-09-10 21:52 | 美術・旅行 | Comments(0)

モーツァルト : 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」(演奏会形式) パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 2017年 9月 9日 NHK ホール

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毎年 9月から11月頃にかけて開催される NHK 音楽祭は今年で 15回を迎えた。この音楽祭は、NHK ホールを舞台に、海外一流のオーケストラと NHK 交響楽団 (通称「N 響」) とが出演する 4 - 5回の演奏会によって成り立っている。正直なところ、ここに出演するオーケストラはいずれも、サントリーホールなどほかの会場でも演奏するし、開催時期も明確に定まっているわけではないので、例えばザルツブルクやルツェルンといった、ヨーロッパで行われている本格的な音楽祭とは少し性格を異にしている。だがそれでも、毎年出演する豪華な顔ぶれには瞠目すべきものがあり、すべての演奏が NHK の FM と BS で放送されるという点では貴重なものである。実はこの音楽祭には毎年テーマがあるのだが、今年のテーマは「人は歌い、奏でつづける」。開かれる 4回の演奏会はいずれも、オペラや声楽曲をそのプログラムとしている。実はちょっとこのテーマに聞き覚えがあるような気がして、意地が悪いようだが、過去のこの音楽祭のテーマを調べてみると、ありましたありました。第 1回、2003年がこれと全く同じテーマであった。だがその内容は違っていて、第 1回の曲目は、オペラの序曲や抜粋、あるいはヴェルディのレクイエムとか、ベートーヴェン 9番、マーラー 3番といったものであったのに対し、今回はオペラ全曲の演奏会形式上演が 2回、加えてワーグナーの「ワルキューレ」の第 1幕というヘヴィー級の曲目、そしてブラームスのドイツ・レクイエムである。今回私が聴くことができたのは、そのオペラ全曲演奏のひとつ。演奏したのは、首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィ率いる N 響である。
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過去このブログでは、このヤルヴィがいかに現代指揮界において重要な存在であるか、また、彼と N 響の共演がいかに高いレヴェルを保っているかについて、何度も触れてきた。実際にこの指揮者は世界でひっぱりだこなのであるが、その多忙な時間のかなりの部分を割いて N 響を指揮しに来日しているのを見ると、東京の音楽界のレヴェル向上にこれからも大きく寄与してくれることは、ほぼ確実なのである。広いレパートリーを誇り、およそ振れない曲などないかのような彼の活動ぶりだが、ちょうど先月のレコード芸術誌で彼の特集を組んでいる中に、彼のレパートリーとして「目立たないのは古典派以前とオペラくらいか」という記述があった。なるほどその通りだが、今回の曲目はまさに古典派のオペラ、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」である。この指揮者は本当にスマートな人で、コアとなるレパートリーは確かにあり、手当たり次第にそれを広げている印象はないのだが、気がつくと広範なレパートリーで聴衆を楽しませてくれるのである。興味深いことに、今年の 12月には東京交響楽団が音楽監督ジョナサン・ノットとともに同じ作品の演奏会形式上演を行う。そちらは、いわゆるダ・ポンテが台本を書いたモーツァルトの 3本のオペラを順番に演奏する 2回目なのであるが、数ヶ月をおいて東京を代表する指揮者とオケが同じ曲を演奏するというのも、聴衆としてはなんとも有り難い機会だと思う。

さて、実はこのヤルヴィ、今年の 5月から 6月にかけて、この「ドン・ジョヴァンニ」でミラノ・スカラ座デビューを果たしたらしい。調べたわけではないが、今回の歌手もそのスカラでの公演と同じ人たちが含まれているのかもしれない。ということは、スカラ座の舞台と同じレヴェルの音楽を東京で聴けるということだ。このオペラには 8人の登場人物が出て来るが、日本人歌手は 2人のみで、残り 6人は海外から来ている。実際のところ私は、6人の海外歌手のひとりも知らなかったが、以下の通り、実に国際的な顔ぶれなのである。
 ドン・ジョヴァンニ : ヴィート・プリアンテ (イタリア)
 騎士長 : アレクサンドル・ツィムバリュク (ロシア)
 ドンナ・アンナ : ジョージア・ジャーマン (米国)
 ドン・オッターヴィオ : ベルナール・リヒター (スイス)
 ドンナ・エルヴィーラ : ローレン・フェイガン (オーストラリア)
 レポレッロ : カイル・ケテルセン (米国)
 マゼット : 久保和範
 ツェルリーナ : 三宅理恵

みな若手歌手のようだが、プログラムに載っている経歴を見ると、名門歌劇場への出演経験ある人ばかり。昔のように大柄な体格の歌手は皆無で、ヴィジュアル面でも大変に洗練されている。ヤルヴィのおかげで、東京にいながらにして世界のオペラ最前線の一旦に触れることができるのである。中でも印象に残った歌手は、ドンナ・エルヴィーラ役のフェイガン、次いでドンナ・アンナ役のジャーマンである。このような人たちだ。写真で見ると姉妹のように似ている。
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特にフェイガンは、声量、表現力とも素晴らしく、ともすればヒステリックに騒ぐだけになりがちなドンナ・エルヴィーラを、感情の豊かな女性として表現した。一方のジャーマン演じるドンナ・アンナの登場シーンには必ず深刻な音楽がつけられていて、ちょっと退屈にもなりかねないところ、今回はその美声で聴衆を圧倒したのである。もちろん、主役を歌ったプリアンテも、悪漢というよりは飄々とした印象のドン・ジョヴァンニで、これはこれで一本筋が通ったもの。従者レポレッロのケテルセンも、洒脱な演技を含めて安定した歌いぶり。そう、今演技について触れたが、今回は演奏会上演と言いながら、歌手の演技は舞台上演なみに細かい。衣装については、貴族と平民は見て分かるように区別され、ドン・ジョヴァンニやドン・オッターヴィオ、騎士長らが燕尾服であるのに対し、レポレッロはジャケットにジーンズ、マゼットとツェルリーナはレストランの従業員風だ。ドンナ・エルヴィーラとドンナ・アンナだけは、きらびやかなコンサート風ドレスであった。舞台前面、左右には白く塗られた横長のベンチがそれぞれ 3つずつ続いて置かれており、登場人物たちは出たり入ったりしながら、時にはそこに座って演技をする。ドン・ジョヴァンニ主従はタブレット端末や携帯電話を使って情報 (あ、もちろんドン・ジョヴァンニがモノにした女性のリスト 笑) を管理し、また、離れたところでもコミュニケーションを取る。なかなかにスピーディかつ簡潔な動きとなっていて大変よかったのだが、ベンチ以外に舞台装置がない分、大変凝った照明を駆使しており、その点も高く評価できると思う (例えば冒頭の衝撃的和音とともに照明は夜の雰囲気の暗い青となり、その後主部に入って音楽が快速に走り出すと、日の出のように赤くなるといった具合)。実は演出を担当していたのは、佐藤美晴という女性演出家。帰宅して調べてみて思い出したことには、今年 5月28日の記事で採り上げた、ピエタリ・インキネン指揮日本フィルによるワーグナーの「ラインの黄金」の演奏会形式でも演出をしていた人だ。今回、終演後のカーテンコールの際に、ヤルヴィに呼ばれて舞台に出てきていて、遠目にはお嬢さんのように見えるが、大学でも教鞭を取っており、各地で実績を積みつつある演出家なのである。
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飽くまで演奏会形式での上演なので、演出とは言っても本格的なものではなく、ただ要領よく音楽を進めるサポートになっていたとも言えるかもしれない。ただ一点、ラストシーンには私は大変に感心した。よく、主人公が騎士長に連れられて地獄に落ちたあと、最後に残りの 6人の歌う教訓的な歌が白々しいという評価があるが、今回のやり方は、「なるほど、その手があったか!!」と思わせる、単純にして意外性のあるもの。これによって終曲の持つニュアンスも変わり、ピリッと締まったと私は思う。このようなやり方が過去の演出にあったのか否かは分からないが、少なくとも私がこれまでの人生で見た「ドン・ジョヴァンニ」では一度もなかった。これは素晴らしいセンスである。ネタバレは避けるが、この上演は 10月22日 (日) の深夜、翌 23日 (月) の午前 0時から NHK の BS プレミアムで放送されるので、ご興味のある方は是非ご覧頂きたい。

さて、そしてヤルヴィ指揮による N 響の音楽は、もう素晴らしいの一言。オペラの演奏会形式上演においては、オーケストラはピットではなくステージに並んでいるわけで、その微妙なニュアンスまで聴き取ることができるし、指揮者の音楽の進め方もよく分かる。また、歌手とオケの物理的距離が近い分、呼吸を合わせることはより容易であるだろうし、場合によっては視線でコミュニケーションもできる。そんなことを再認識させてくれるような充実した演奏であった。音楽のいかなる箇所においても曖昧さのないヤルヴィの指揮は、クリアでありながら、なんとも重層的な音楽を N 響から引き出していて、いつもながらに素晴らしい手腕である。ヤルヴィは明らかにこの作品を自家薬籠中のものにしていて、これまであまり聴くことのできなかった古典派とオペラというレパートリーにおいても、彼の抜きんでた才能が輝くのであるということを思い知るに至った。これは間違いなく国際的に見ても高い水準の公演であった。

考えてみると、いかにヤルヴィが世界で活躍している指揮者であるとはいっても、彼が N 響の公演で使える予算は、もしかすると欧米のケースよりも多いのかもしれない。これまでのキャリアで彼が本拠地とした、または今でもしている都市を考えると、タリンやブレーメンやシンシナティはもちろん、パリやフランクフルトと比べても東京の経済規模は大きいだろう。それゆえにヤルヴィとしても、やりたいことができる喜びはあるのかもしれないと想像する。また、金銭面のみならず、聴衆の質という点でも、ある意味では非常に高いということは言えるはず。但し、本当に大人の文化としてのオーケストラ音楽が広く人々の生活を豊かにするには、まだ少し課題があるかもしれない。歴史あるヨーロッパの都市のように、東京の文化もさらに成熟して行ってほしいと願うものだが、このような素晴らしい演奏を日常的に聴けることが、そのような文化の成熟を実現することを期待したい。そういえば、この NHK 音楽祭においては、毎年必ず N 響が出演しているわけで、考え方によっては、N 響と世界のトップオケとの競争になっているわけである。今後もその競争を楽しみにしたい。
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# by yokohama7474 | 2017-09-10 02:19 | 音楽 (Live) | Comments(0)