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今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期演奏会には、二人の指揮者が登場する。ここではそのうち、イスラエルの名指揮者、ピンカス・スタインバーグ (上の写真の左側) が指揮した演奏会をレポートする。スタインバーグは 1945年生まれだから今年 72歳。これまで、ウィーン放送交響楽団やスイス・ロマンド管弦楽団のシェフを歴任し、2014年からはブダペスト・フィルの首席指揮者である。実は N 響には過去登壇していることは知っていたし、ウィーン放送響との来日もあったが、私はこれまで彼を生で聴いたことがない。彼の父、ウィリアム・スタインバーグはやはり実績のあった名指揮者で、ボストン交響楽団の音楽監督にまで登りつめている (小澤征爾のすぐの前任者で、任期は1969年から 72年まで)。私は若い頃、この父スタインバーグとボストン響によるホルストの「惑星」がひそかな名盤であると耳にして、廉価版で出ていたアナログレコードを購入して楽しんでいたことがある。派手さはないが、職人的な信頼感を感じる指揮ぶりだったと記憶する。最近では彼のアンソロジーなど購入しており、再度聴き込みたいと思っているのだが、ちょっと待て。息子ピンカスは現在活動中なのだから、彼の実演をこそ聴くべきではないのか。そう思うとこの指揮者が無性に気になってきたのだが、今回の演奏会の曲目が面白い。
 スメタナ : 連作交響詩「わが祖国」

この曲はチェコ音楽の父と呼ばれるベドルジハ・スメタナ (1824 - 1884) による 6作の交響詩群で、チェコ人特有の強い愛国心に裏打ちされた名作なのである。極めて有名な第 2曲「モルダウ」以外にも、チェコの過去の英雄や民族の戦い、あるいは自然の美しさを謳い上げた 75分ほどの大作。
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だがその特性から、返ってこの連作全曲の一般的な演奏頻度は、低くなってしまっている。毎年チェコの首都プラハで開かれる音楽祭「プラハの春」のオープニングでは、チェコ第一のオーケストラであるチェコ・フィルがこの曲を演奏することになっており、チェコの人たちにとってはそれだけ大事な曲。なので、チェコ人以外の指揮者が全曲を実演で取り上げること自体がまず珍しいし、チェコ以外に存在するオケにとってもそれほど馴染みのあるレパートリーにはなっていない。今回のように、イスラエル人の指揮者と日本のオケによる演奏は従って、この音楽の価値に純粋に耳を傾けるよい機会なのである。プログラムによると、スタインバーグは N 響には過去 5回、1986年、1992年、1994年、1997年、2005年と登場しており、今回は実に 12年ぶりの共演。この「わが祖国」全曲は既に一度、初顔合わせの 1992年に採り上げている由。実に 25年ぶりということだ。世界で経験を積んだこの指揮者を聴くタイミングとしては、なかなかよいのではないかと思い、会場の NHK ホールに足を運んだのである。因みに、上記「プラハの春」音楽祭の初日、つまりこの「わが祖国」が毎年演奏されるのは、スメタナの命日で、それは 5月12日。ちょうどこの演奏会の前日であった。
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結果として私はこのコンサートを大変楽しんだ。スタインバーグは全曲を暗譜で指揮したが、全く危なげなく、完全に掌握したレパートリーであることが明白であった。また、爆発力も見せながら、一方で楽員の自主性を重んじるところもあり、例えば冒頭のハープ 2台の演奏には、後ろ姿だけから判断すると、キューを送っている様子も見られず、開始のタイミングは奏者に任せたように思われた。この「わが祖国」は、上述の通りのチェコの民族性の要素はあるものの、大変劇的な音楽であり、例えばチャイコフスキーほど気が利いた音楽ではないにせよ、時折思い出したように、素晴らしくカッコいい響きが鳴り響くのである。従って、各曲の性格をきっちり描き分けて、聴かせどころを外さなければ、チェコ云々という要素なしでも充分楽しめるのである。その点、今回の演奏では指揮者の意図が明確に感じられる箇所が多く、純粋に劇的な音楽として楽しむことができた。事前のイメージ通り、職人的な指揮ぶりと言えばそうかもしれないが、指揮者とはそもそも職人性がないとできない職業であり、長年鍛錬した究極の職人技からカリスマ性が出てくるケースが多いことは、例えば先般亡くなったスタニスラフ・スクロヴァチェフスキの例などでよく分かる。この指揮者も、今まさにそのような円熟の境地に達しているのではないだろうか。楽員たちを同じ方向に導き、必要なところで必要な音を、つまりは繊細な音、豪快な音、長い音短い音、まっすぐな音曲がった音、そのような様々な音たちを自在に引き出すことは、共演を重ねたオケでないと難しかろう。スタインバーグと N 響は、長い付き合いではあるものの、その間に何度も空白があるので、オケとの呼吸の点ではごくわずかな課題もあったかもしれない。だがそれでもこの演奏では、尻上がりに音の鳴りが自在になっていったと言えるのではないか。情緒に流れるところは皆無であり、常に明確に指示を出し、きっちりとリズムを刻む姿は、ちょっと意外なたとえかもしれないが、ゲオルク・ショルティを思わせるところもあった。つまりは、究極の職人であり華麗なるカリスマであった指揮者である。その意味では、このスタインバーグはこれからどんどん充実の音楽を聴かせてくれるのではないだろうか。N 響は本当によい指揮者を招いているものだと、改めて感心するとともに、今後のスタインバーグへの期待もまた高まったのである。

ところで今回のプログラムに、今年 2月から 3月にかけて N 響が行ったヨーロッパ演奏旅行の詳細なレポートが載っていて興味深い。指揮はもちろん首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィで、ベルリン、ルクセンブルク、パリ、アムステルダム、ロンドン、ウィーン、ケルンという一流の音楽都市ばかりでの勝負であった。ベルリンのリハーサルでは、ダニエル・バレンボイムや樫本大進らベルリン・フィルのメンバーも顔を見せたらしい。ちょっと不鮮明だが、なかなか興味深いツー・ショット。昨年サントリーホールで開かれたバレンボイムとシュターツカペレ・ベルリンのブルックナー・ツィクルスをヤルヴィが聴きに来ていたことはこのブログでも記事にしたが、この 2人はパリ管の音楽監督として先輩後輩でもあり、意外と親しいのかもしれない。
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プログラムには、各地での新聞評が載っているが、どこもほぼ絶賛である。以前は日本のオケと言えば技術的には正確でも、精神的な部分で不足しているところがあるという評価が一般的だったが、これらの評を読んでいると、明らかにそのレヴェルを超えたと見做されており、率直な驚きが見られる。例えばアムステルダム、あの素晴らしいコンセルトヘボウ管を持つ欧州有数の文化都市での批評の最後の部分を引用しよう。

QUOTE
弦楽器はクラシック愛好家が通常ウィーン・フィルの特徴とみなす輝きを放っていた。ヴィオラはベルリンなさがらであった。日本人は、このコンセルトヘボウ (注 : ここではオケではなく同名のホールのこと) という虎穴でアムステルダム的な切り札を切った --- どんなに指がまわっても、見せびらかしはありえない。このオーケストラを知らぬ間に世界トップに持ち上げた男の名前は、パーヴォ・ヤルヴィという。
UNQUOTE

くーっ、痺れる批評だなぁ。これは是非楽員の方々も誇りとして頂き、日常の演奏の糧として頂くことを切望するのみです。ところで、今や押しも押されぬ音楽界のドンたるバレンボイムも、1973年に N 響の定期公演を指揮している。久しぶりに振ってみたいと思って頂けないものでしょうかね。上の写真でヤルヴィが大先輩のバレンボイムの肩に手をかけて話しているのは、もしかしたらそのことではないか、と勝手に想像するのも楽しいではないか。

# by yokohama7474 | 2017-05-14 01:08 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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今月は東京交響楽団 (通称「東響」) の指揮台に音楽監督、ジョナサン・ノットが帰ってくる。予定されているのは 2つのプログラムによる 3回のコンサート。そのうち私が今回聴いたものは、この東京オペラシティでの演奏会ただ 1回だけのプログラム。このコンサートの曲目を見ると、これは必聴のものと誰しもが思う・・・かどうかは分からないが、少なくとも私はそうであったのだ。以下のようなもの。
 ハーマン (パーマー編) : タクシードライバー オーケストラのための夜の調べ
 バートウィッスル : パニック アルト・サックス、ジャズ・ドラムと管打楽器のための酒神讃歌
 ベートーヴェン : 交響曲第 8番ヘ長調作品93

では何がそんなに私に期待を抱かせたのか、順番に見て行こう。まず最初の作品は、映画好きならすぐに分かるはずの、これだ。
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1976年制作、マーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の映画「タクシードライバー」。私は公開当時この映画を封切で見るには未だ幼かったが、もちろんその後テレビで見て、衝撃を受けた。そして、初めてニューヨークを訪れた 1996年の冬に、あちこちのマンホールの蓋から白い蒸気が立っているのを見て、「まるで『タクシードライバー』ですね!!」と興奮して、当時の駐在員に笑われたものであった。そしてこの映画で見事に表現された夜のニューヨークの雰囲気には、アルトサックスが奏でるこの映画のテーマほどふさわしいものはないのである。この映画の音楽を書いたのが、「市民ケーン」や、「サイコ」をはじめとする数々のヒッチコック映画でその天才を示した、あのバーナード・ハーマン (1911 - 1976) であることを知ったのは、さらに後年のことであった。熱烈なヒッチコック・ファンである私は、当然このバーナード・ハーマンの映画音楽の CD (サントラではない)を複数所持しているが、ひとつは作曲者自らがロンドン・フィルを振ったもの。もうひとつは、あの名指揮者エサ=ペッカ・サロネン (ちょうど来週から来日する予定だ) 指揮のロサンゼルス・フィル。前者はヒッチコック作品だけだが、後者には「タクシードライバー」も含まれている。これが指揮をするハーマンの写真。いやそれにしても「サイコ」の音楽、サイコーでしょう。シャレではなく本当に。
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さて、今回の演奏会では、生前ハーマンの作曲をサポートした英国の作曲家・編曲家のクリストファー・パーマー (1946 - 1995) の編曲による 9分ほどの短い作品が演奏された。コンサートの開演は 14時であったが、この音楽とともに会場は、未だ危険の多かった頃のニューヨークの夜の雰囲気で満たされた。オーケストラはほぼ通常編成だが、一見して明らかなことに、主要楽器の中ではオーボエを欠いている。なるほど、夜の雰囲気にこの高音を奏でる楽器は不要ということか。ノットは暗譜で指揮を取ったが、いつものように丁寧な指揮ぶりで、この後に演奏されたような前衛音楽でもなく古典の名作でもない、映画音楽という、ともすれば芸術家から軽視されそうなレパートリーに対する彼の深い愛情を感じることができた。と書いている今も、「タクシードライバー」のテーマを口ずさんでいる私 (笑)。

そして 2作目は、1934年英国生まれ、既に 83歳で Sir の称号を持つ偉大な作曲家、ハリソン・バートウィッスルの作品。
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私は彼の作品の熱狂的なファンというわけでもないが、ブーレーズが指揮した彼の作品集の CD などで、それなりに馴染み深い作曲家である。今回演奏された「パニック」という作品は、1995年にアンドルー・デイヴィス指揮 BBC 交響楽団によって、夏の風物詩であるプロムスのラスト・ナイトで初演されたもの。アルト・サックスとドラムスがソロとして活躍し、一方のオケには、なんと弦楽器が一切含まれておらず、管楽器と打楽器だけ。結果として繰り出される音響はかなり刺激的で、カオスと言ってもよい。独奏楽器たちは酒神バッカスの奔放なふるまいを表しているらしく、神話的でありかつ演劇性も持ち合わせるこの作曲家らしい作品と言える。ここでのアルト・サックス独奏は、「タクシードライバー」と同じく波多江史朗。ドラムスは萱谷亮一で、ともに目まぐるしい音響の中をよく泳いでいた。ここではノットはさすがに譜面を見ながらの指揮であったが、常に動いていなければならないこのような現代曲こそ、もともと彼が得意とする分野のひとつ。若干うるさい音楽であったことは事実だが、それでもノットの良心的な演奏に充実感を覚えることとなった。

そして最後のベートーヴェン 8番。なぜそれまでの意欲的な 2曲の後のメイン曲目が、ベートーヴェンの交響曲の中では決して派手ではないこの曲であったのか。指揮者自身のコメントは見当たらないものの、私の勝手な解釈では、いずれの作品でもリズム及び打楽器が大事である点がひとつ。それから、1曲目の作曲者ハーマンは、「映画音楽のベートーヴェン」と呼ばれているらしいこと。加えて、2曲目のバートウィッスルに見られたような、楽器の擬人化に近い効果が、このベートーヴェンの交響曲にあるからではないか。彼の書いた 9曲の交響曲のうち最後から 2番目であるが、最後の第 9は明らかに古典派の範疇を越えてロマン派に入っているのに比べると、この曲の場合、長さは 30分程度と短く、伝統的な 4楽章制を取っていて、一見すると古典派風に見える。だが、序奏もなくいきなり流れ出る冒頭の流麗なメロディや、実は大シンフォニーにも負けないくらい激しく畳みかける音響が聴かれる第 1楽章からして、ハイドンやモーツァルトの音楽とは全く違うのである。そもそもここには、ある種の痙攣するような音楽が頻繁に聴かれる。いわゆるスフォルツァンドという楽譜の指示なのだが、例えば交響曲第 2番の古典的なスフォルツァンドとは異なっていて、諧謔味が濃い上に、表現の幅が広い。それにより、特にそれぞれの木管楽器が、何らかの喜劇的性格を与えられて、擬人性を感じるのだ。再び暗譜で行われた今回のノットの指揮を聴いていると、このスフォルツァンドが絶妙に響いていて、音楽的視野が突然さぁっと広がるような気がした瞬間が何度も訪れた。ヴァイオリンは (ベートーヴェンだけでなく演奏会を通して) 左右に振り分けられ、弦楽器の編成はコントラバス 5本 (チェロが 6本だったので、コントラバスは本来の 4本より 1本増やして低音を充実させたのであろう)。ティンパニは、最近ベートーヴェン演奏でよく見かけるような硬い音のする小ぶりなものではなく、通常のものであった。つまり、サイズや配置は古楽器オケ風であっても、この曲が必要とする多彩な表現を求めていたことが分かる。弦と管のかけあいも素晴らしいものがあった。全体を通して、曲の性質への理解がないと正当な評価が難しい、ちょっと通好みの名演であったと思うが、客席からは盛んにブラヴォーが飛んでいて、大変気持ちのよいコンサートであった。ノットと東響、いよいよさらなる高みに昇って行く予感である。
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さて、最後にオマケとして、今回の最初の 2曲と関連する私の体験を書いておこう。まずバーナード・ハーマンであるが、ニューヨーク・フィルのコンサートの中で、やはり彼の音楽を演奏したものがあったことを覚えていて、しかもそこにはスペシャル・ゲストが出演していたのだ。記憶を頼りに書庫をあさって引っ張り出してきたのが、2006年 4月24日のコンサートのプログラム。指揮はあの作曲家、ジョン・ウィリアムズ (彼も既に今年 85歳と高齢。まだまだ元気で活躍して欲しいものだ)。この時には実はコンサート前半にハーマンの音楽 (「市民ケーン」を含む初期の作品やヒッチコック作品に加え、「タクシードライバー」も)、後半には自作を指揮したのである。そしてスペシャル・ゲストとは、前半がマーティン・スコセッシ、後半にはなんと、スティーヴン・スピルバーグだったのだ!! 資料として貴重だと思うので、プログラムの写真を掲載しておく。
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そして私は思い出したのだ。このとき前半に登場したスコセッシは確か、ニューヨーク生まれという自らの生い立ちを語ったあと、「タクシードライバー」に関するハーマンとの思い出を語っていた。特に、「このときはハーマンは既に病気で、最後の録音の直後に亡くなった」と言っていたことを、まさに今日思い出したのだが、調べてみると確かにそうだ。1976年、バーナード・ハーマン最後の作品がこの夜の音楽、「タクシードライバー」であったのだ。脳の中にかろうじて残っていた 11年前の記憶が、思わぬかたちで甦った。ボケ防止にはよいことだ (笑)。

そしてバートウィッスルに関しては、2008年 4月15日、ロンドンのロイヤル・オペラで、「ミノタウロス」というオペラの世界初演を見た。この作品、今では DVD も市販されている。音楽監督アントニオ・パッパーノの指揮で、主演はジョン・トムリンソンであった。
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ここにもギリシャ神話に傾倒する作曲者の姿勢が見える。聴いて楽しい音楽では決してなかったと記憶するが、バートウィッスルの作品の流れに対するあるイメージ作りとしては、貴重な経験をしたものであると思う。

たった一回の東京での音楽会から、映画にギリシャ神話に、そして正統的な古典音楽の斬新な解釈まで、たくさんの刺激を得ることができたわけだ。一粒で何度でもおいしいコンサートでした。さすがノットである。

# by yokohama7474 | 2017-05-14 00:01 | 音楽 (Live) | Comments(7)

このブログではしばしば、東京都内または近県で気軽に行ける、いわゆる安・近・短の旅による歴史探訪の例を提示しているが、これもそのひとつ。人々があちらこちらに移動するゴールデンウィークの初日、4/29 (土) に私と家人が出かけた歴史探訪をご紹介する。我が家ではかなり通例になっているパターンなのであるが、自宅から新横浜まで車で行き、駐車場に車を停めて、新幹線に乗る。現地でレンタカーを借りてガッツリ観光したあと、また新幹線で帰ってきて、自宅までスイスイ自家用車という方法である。これによって、東名高速または中央高速の渋滞を避けることができ、誠に快適なのである。この方法の唯一の難点は、帰りの新幹線でビールをプハーッと飲むわけにはいかない点にあるものの、その点のみ割り切ってしまえば、大変に効率的な日帰り旅行なのだ。今回は、午後に静岡駅前のホールで行われた演劇(5月 1日付の記事でご紹介済み) を見ることをメインにしながら、その前後の静岡観光も楽しみで仕方がなかったのである。そうそう、この方法のよい点のひとつには、こだま号に乗るチャンスがあること。寄り道大好き人間としては、小田原や熱海や三島に停車して、通過するのぞみを待つのも楽しい。特に三島駅からは、きれいな富士山を望むことができ、この日は天気がよかったせいもあって、気分は上々だ。これは車窓からの富士山。
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さて今回の観光の目玉は、なんといっても久能山東照宮。もちろん、静岡を晩年の居住地とした徳川家康が祀られている場所である。恥ずかしながら私は今回訪れるまで、久能山でいちご狩りをしたことはあっても、山頂にあるこの神社に詣でたことはなかったのである。その本殿が、2010年に重要文化財から国宝に格上げになったことは知ってはいたものの、これまで訪れる機会がなかった。これは気合を入れて臨みたい。久能山の山頂に位置する東照宮を訪れるには、海側から 1159段の石段をエッチラオッチラ登るか、さもなくば隣の山から日本平ロープウェイで谷を越えて行くしかない。今回私たちが選んだのは後者のアプローチ。ロープウェイに乗ろうとすると、そこにはこのような地図が。
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家康は江戸という都市を造営するにあたっても、風水を重視したと言われている。上の地図を見ると、自分が生まれた岡崎や、都であった京都と、霊峰富士の位置関係の中にこの久能山を置いていることがはっきり分かる。そこに江戸、日光、そして日光東照宮の最初の建物を移築した群馬県太田市の世良田東照宮 (私は未だ訪れたことがないので、いつか訪問してこのブログでご紹介することをここに宣言する) が加わって、「聖なる三本のライン」を構成しているらしい。家康は、百万都市江戸を中心とした統治システムを作り上げ、世界にも類を見ない、260年間に亘る平和の礎を築き上げた人。その彼が死後もその霊力を発揮し続けているとするなら、それはこの久能山からに違いない。これが日本平と久能山を結ぶロープウェイ。久能山の向こうには海が見え、その麓の温室ではいちごが栽培されている。
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このアプローチ方法であれば、山道を登る必要はなく、ロープウェイを降りたところが既に神社の境内の入り口になっているのである。見えてきたのは、重要文化財の楼門。1617年の建立。
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この門をくぐった裏手に、家康の手形なるものがある。38歳で身長 155cm、体重 60kg。当時の人は小柄であったとはいえ、やはり随分小柄で、そしてぽっちゃり型であったということか。家康が神格化されているこの場所で、彼の「人間」としての痕跡に触れられるとは、なんとも興味深い。
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少し進むと、石の鳥居があって、また、今は存在しない五重塔の礎石がある。神社に五重塔とは、もちろん神仏混淆の証拠である。
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そして見えてきたのが、国宝の本殿・拝殿に至る唐門である。
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そのエリアには、向かって右側から入るのであるが、その途中に、春なのに赤く色づく木があったり、重要文化財の日枝神社がある。この日枝神社、神仏混淆時代は薬師堂であった由。楼門と同じ 1617年の建立。
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そしていよいよ、国宝の拝殿が目の前に現れる。実はこの神社の主要建造物は、徳川秀忠によって 1年 7ヶ月という短期間で建てられたもの。日光東照宮に先立つこと 19年で、豪華さにおいては日光に譲るのは致し方ないが、この荘厳な美は実に素晴らしく、桃山の美学の延長上にあるが、日本の長い建築史の中でも、この時代にのみ見られる豪奢な様式であると言えるだろう。細部を見ていると本当に時間を忘れるのである。実はこの拝殿で結婚式を挙げられるらしく、私が行った日もその準備が行われていた。国宝建造物の中での結婚式とは、なんという贅沢だろう!!
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建物左右の唐獅子は、阿吽になっている。
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さて、この拝殿に向かって左手を進んで行くと、そこには家康の墓所がある。1616年、駿府城で亡くなった家康の遺骸は、遺言によってこの久能山に葬られた。もちろん後年、改めて日光に改葬されているが、この日ロープウェイの中で聞いた説明によると、日光には魂だけ移し、実際の遺骸は今でもここに眠っているという。墓所自体は、大きさは立派だが、石造りの簡素なもの。
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この石塔の周りを一周できるようになっているが、面白いのは、向かって右奥に、家康の愛馬の墓があること。家康よりも後に亡くなった馬であろうが、既にその頃には平和な時代が到来していたことを思わせるではないか。
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帰りがけに久能山東照宮博物館に立ち寄ってみたが、ここには徳川将軍十五代ゆかりの品々が多く保管・展示されている。特に家康に関しては、実際に使用していた眼鏡や鉛筆 (!) などが非常に興味深いし、彼が初めて戦で勝利を収めた際に着用していたと伝わる重要文化財の甲冑が展示されている。時に家康 19歳、未だ松平元康と名乗っていた頃で、織田信長方の丸根砦という場所を守っていた佐久間盛重軍に勝利したとのこと。この甲冑は金陀美 (きんだみ) 具足と呼ばれている。
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このように久能山東照宮は、家康という人の人柄まで未だに活き活きと感じられる場所であり、歴史好きなら一度は行くべき場所であると思うのである。さて、それからまたロープウェイで日本平に戻り、向かった先は遥か古代の遺跡。古くから有名な弥生時代 (1世紀頃) の集落の跡、登呂遺跡である。戦時中の 1943年に軍事施設建設の際に発見された遺跡であるが、幸いなことに一帯が公園として整備されており、最近でも 1999年から 5年間、再発掘調査が行われている。駐車場から歩いて行くと、徐々にこのような光景が目に入ってきて、何やらワクワクするのである。
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多くの建物が修復されているが、もちろん記録のない時代のもの。建物跡の基礎の形状に基づき、多分に想像力で補って再現されたものであろう。いくつかの住居では中に入ることができ、弥生人になったようなリアルな感覚が味わえる。もちろん住居だけでなく、倉庫もある。
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遥かな古代、家族は身を寄せ合って生きており、家の中は、邪悪なものから守ることができる安全な場所であったはずだ。夜は、果てしなく暗く、すべての生き物がなりを潜める時間帯。毎日毎日、太陽はその姿を隠し、また甦る。そして稲作をするには、昨日と今日、今日と明日が違った日であるという認識を持つ必要があり、いつ何をすべきか、常に考えて集団で行動する。それが人々の日常であったことだろう。この日は原始的な道具を使って火を起こす実演もやっており、大変面白く見学した。
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実はここで、思わぬ発見があった。日本を代表する染色工芸家で人間国宝でもあった芹沢銈介 (せりざわ けいすけ、1895 - 1984) の美術館及び旧居が、登呂遺跡に隣接した場所にあるのだ。私は芹沢についてさほど詳しく知るものではないが、それでも過去に何度か、なんとも郷愁をそそる作品、特に本の装丁などを見て感動したことがある。柳宗悦らが主導した民芸運動の中で創作活動を行った。作品のイメージとして、例えばこのようないろは歌の風呂敷などいかがであろうか。素朴でいて洗練された、なんとも不思議な世界を作り出していると思う。
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美術館も大変きれいに整備されていて、気持ちよいことこの上ない。
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このときには沖縄をテーマにした展覧会を開催中で、芹沢自身の作品のほかに、彼が収集していた沖縄の民芸品も多く展示されていた。なんとも気持ちが落ち着いてよい。そして、その裏にある芹沢の旧居。実はこれ、もともと宮城県にあった板倉であったものを気に入って東京・蒲田の自宅に移築。随所に手を加えて仕事場にしたとのこと。彼自身、「ぼくの家は、農夫のように平凡で、農夫のように健康です」という言葉を残している。現在、故郷静岡の地でこのように大切に保管されていることを知ると、本人も喜ぶであろう。春の風が気持ちよく吹き通って、清々しい精神が未だにそこに残っているようだ。
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この部屋でくつろぐ芹沢の写真が何枚か残っている。上のモノクロ写真は 1973年、下のカラー写真は 1976年のもの。創作の現場の緊張感はもちろん感じるものの、何より、この空間の主としての芹沢の自然な存在感が際立っている。こういうジイさんになれるとカッコいいだろうなぁ (笑)。
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さて、それから私たちが向かったのは、これまた驚きの隠れた歴史スポットなのである。それは、静岡浅間神社。何がすごいといって、この神社の建造物 26棟が、重要文化財に指定されているのである!! 「東海の日光」の異名もあるという。実際、私も行ってみて驚いたので、ここでご紹介しよう。まずこの神社、神部 (かんべ) 神社、浅間 (あさま) 神社と、大歳御祖 (おおとしみおや) 神社の三社を総称して、静岡浅間 (しずおかせんげん) 神社と呼んでいるとのこと。重要文化財に指定されているのはすべて江戸時代の建物だ。
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重要文化財の総門を抜けると、そこにはやはり重要文化財の楼門が。
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そして驚いたのはこの建物だ。やはり重要文化財の大拝殿 (おおはいでん)。切妻造りの建物に、入母屋造りの楼閣が嵌まったような形態で、大変巨大なもの。なにか竜宮城か、宮崎アニメにでも出てきそうな、ノスタルジックでいて畏怖すべき建物と言えないだろうか。
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あまり時間がなくて、残念ながら境内全域を見て回れなかったのだが、修復中の少彦名 (すくなひこな) 神社は、かかっているカバーの写真からその姿を偲ぼう。これも重要文化財。
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こちらは本物を見ることができた驚愕の美建築、八千戈 (やちほこ) 神社。東海の日光という異名もむべなるかなである。当然これも重要文化財。
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実はこの後、静岡音楽館 AOI において「1940 リヒャルト・シュトラウスの家」を観劇。見終わったあと、まだ新幹線に乗るまでに時間があったので、予定通り、駅から近い駿府城跡に出かけることにした。駅近辺からブラブラ歩いて行ったのだが、以前の記事にも書いた通り、なんとも落ち着いた佇まいの街で、さすが東照宮のお膝元と感心したことである。これが駿府城の石垣。この内側にも学校があったり、何やら公的機関の建物があったりして、江戸時代初期の街の中心地は、今でもその地位を自然なかたちで保っているのである。
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実は駿府城の天守閣は江戸時代初期に焼失してしまい、結局再建されなかった。それは、既に平和の時代が到来していたからで、その意味では、日本最大の城であった江戸城も同じようなことになっている。但し、この駿府城、家康のあとは結局その子孫は将軍として江戸城に入ったのだから、誰が城主であったのかと思うと、二代の城主を頂いたあとは結局城主なしで、天領として「駿河城代」なるポストが置かれたのみであったらしい。ここには実際のところ、古い建物は何も残っておらず、近年の復元による櫓や門があるのみだが、それでも公園として大変気持ちよく整備されていて、市民の憩いの場になっているようだ。
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今、天守閣跡近辺で大規模な発掘調査が進行中。明治時代に軍の設備を作るために埋められた堀を発掘すると、100数十年ぶりに石垣が姿を現したのである。
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この駿府城、これからどこまで発掘調査及び復元が続くのか知らないが、歴史の息吹がより一層感じられる場所になって行くのだと思うと、楽しみである。さて、城の近辺のそぞろ歩きも楽しいのだが、特に目を引く建物が向かい合って立っている。ひとつは静岡県庁。1937年完成というレトロな建物。もちろん、この写真で後ろに見える近代的なビルも県庁別館なのだが、この歴史的な建物も未だ現役として機能しているようだ。
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道路を隔てた向かい側にあるのが、静岡市役所。こちらはドーム型の頂部を持っていて、県庁よりも軽やかな建物だ。1934年完成。こちらは正面ドアが開いていて、中を少し見ることができたが、ステンドグラスが美しい!! これまた現役の建物なのである。
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この市役所の前に、興味深い説明版を発見。それは家康が行った灌漑工事に関するもの。私は従来より江戸の発展には大変興味があって、何冊か本も読んでいるが、秀吉によって、だだっ広くて何もなく、川は頻繁に氾濫する関東平野に放り出された家康が、治水によって街の機能の基礎を作り、その後長く続いた江戸の発展を可能にした点、勉強すればするほどに、ウーンと唸ってしまうほど感心するのである。そしてここ駿府でも、やはり灌漑工事を行って街作りをしていたわけである。神君、恐るべしである。
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このように静岡では、人間としての家康の足跡、神としての家康の威厳とともに、弥生時代の人々の暮らしから、華やかな神社建築、そして昭和の染物デザインまで、様々な文化的な要素に触れることができるのである。今回は美術館を訪問することはできなかったが、その所蔵品にも実は興味を持っている。新幹線を有効活用しての東京からの日帰り旅行の行き先として、これほど充実した街もちょっと少ないと思うので、ここで文化人の皆さまにはお薦めしておきましょう。

# by yokohama7474 | 2017-05-13 01:07 | 美術・旅行 | Comments(0)

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高校生の頃世界史を習っていて、驚嘆したことがある。それは、古代ギリシャ時代の文化人において、思想家や劇作家の名前と並んで、彫刻家の名前も現在に伝わっているということであった。その彫刻家の名は、フェイディアス。パルテノン神殿の総監督として、巨大なパレス・アテナ像を作ったとされているが、それがどのくらい昔の話かというと、紀元前 400年代なのである!! 日本で言えば未だ縄文時代の末期。およそ考えられないほどの彼我の差がギリシャと日本の間にあったわけであるが、そんな時代に個人の名前が認識されていること自体が想像を超えている。翻って我が国では、古代の文化人の個人名が残っている例は、一体どのくらいあることだろうか。最も早い例は恐らく、飛鳥時代の鞍作止利 (くらつくりのとり) ではないだろうか。それは 7世紀のことだ。日本の仏像彫刻は、まさに先日、大阪市立美術館で開かれている「木 × 仏像」展で概観した通り、それ以降 1000年に亘って連綿と続いたのであるが、その中で作者が知られている例がどのくらいあるであろう。しかるにここに、一般の人たちでも知っているであろう名前の仏師が 3人いる。ひとりは、定朝 (じょうちょう)。言わずと知れた、平等院の阿弥陀如来の作者である。だが、彼の作品と確実視されるものは、その平等院阿弥陀如来坐像しかなく、一般的な知名度は、さほど高くないかもしれない。残る 2人の仏師の知名度に比べれば。その 2人とは、運慶と快慶である。古代ギリシャのフェイディアスに遅れること実に 1700年ほど。日本にも個人の名で知られる彫刻家が現れたのである。さてその 2人、いずれも有名な名前であろうが、どちらかといえば運慶の方がより有名であろうか。夏目漱石も、「夢十夜」の中で運慶を登場させている。あるいは、大変ユニークな美術史家として私の尊敬する田中英道も、運慶こそ本物の芸術家であって、快慶の作品には精神性が不足しているということを書いていた。だが、快慶もやはり不世出の偉大な芸術家であることは確かなことである。私の勝手な印象ではあるが、運慶と快慶のどちらが偉大であるかの議論は、例えばミケランジェロとラファエロを比べるようなものではないだろうか。知れば知るほどに双方の偉大さが理解できるというものであろう。その意味では、今年はすごい年なのである。それは、その運慶と快慶、それぞれの展覧会が開かれるからだ。秋に東京で開かれる運慶展に先立ち、今奈良で快慶展が開かれている。奈良以外の巡回はない。ゆえに、日本の美術に興味のある人なら、いやそうでなくとも、これは必見の展覧会であるのだ。すみません、前置きからして既に長い (笑)。

さて、快慶とは一体どのような人であったのか。実は、生まれた年も亡くなった年も定かではない。運慶同様、名前に慶の字のつく、いわゆる慶派と呼ばれる奈良仏師の系列に属する人であることは明らかだが、その運慶との関係も定かではなく、その父である康慶の弟子であるという見方があるが、確たることは分からない。だがその一方で、彼の作ということがはっきりしている作品は数多く、その創作活動とその背景となっている浄土信仰は、かなり明らかになってきている。ともあれこの展覧会では、恐らく空前絶後の規模で集められた快慶の作品の数々を、虚心坦懐に見てみたい。会場ではまず、とびっきりの秀作が訪問者を出迎えてくれる。何の予備知識もない人が見ても、これは美麗な仏像と感じるであろう。
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京都、醍醐寺三法院の本尊、重要文化財の弥勒菩薩坐像である。1192年の作と判明している。ちょうど鎌倉幕府が開かれた年であるが、この像はその年に亡くなった後白河法皇追善のために制作されたという。私はこの仏像を三法院で何度も見ているが、現地では近くにまで寄ることができないので、隔靴掻痒の感をいつも抱いていたところ、この展覧会では間近で拝むことができ、まず感動第一弾である。そして、これが現在、快慶作と判明する最初の仏像。1189年の作で、もともと興福寺に伝来したが、現在ではボストン美術館の所蔵となっている弥勒菩薩立像。宗風の高い髻や、衣の表現の洒落た点などに、天才の片鱗は見えるものの、多分この金箔は近世のものであろう。日本人の感性では、このような立派な金の塗布は、返ってありがたみがないのである。
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こちらは、京都、舞鶴の松尾寺の重要文化財、阿弥陀如来坐像。少し切れ味を欠く面もあるが、若々しい表現が好もしい。
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この頃快慶は、丹後地方でいくつかの作品を残しており、その理由は恐らく、当時丹後国は、鳥羽天皇の皇女、八条院の収入源とされた地域であったことらしい。八条院はあとでご紹介する東大寺の僧形八幡神像の結縁者のひとりであり、快慶はこのような有力者の後ろ盾を持っていたのではないかと推測されている。これは、同じ丹後地方にある金剛院の需要文化財、執金剛神と深沙大将。前者は東大寺三月堂の有名な天平時代の作品のミニチュア版のように見えるし、後者も規範となる図像があるらしい。この 2体の組み合わせは、別の寺にもあって、もちろんこの展覧会の後の方に出てくるのである。
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これは 2009年に快慶作と判明した、京都、泉涌寺の塔頭である悲田院の阿弥陀如来坐像。宝冠を頂き、両肩に衣をかける、いわゆる通肩と呼ばれる形式は、上記の醍醐寺三法院の弥勒菩薩と共通する。
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実はこれと似た像がほかにもあって、それは広島の耕三寺が所蔵する重要文化財、阿弥陀如来坐像。これは 1201年作と判明している。因みにこの仏像、私が先に訪問してこのブログで記事も書いた、熱海の伊豆山神社の旧蔵であって、同神社には今でもこの像と対になる阿弥陀如来像が伝来する。
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さて、快慶の代表作のひとつが、兵庫県小野市の浄土寺浄土堂の巨大な阿弥陀三尊であることはよく知られており、私も現地を訪れて記事を書いた (昨年 5月 8日付)。その記事でも触れているが、俊乗坊重源という僧の浄土信仰に深く共感していたらしい。この重源は、平重衡の焼き討ちにあった東大寺の再興に力を尽くした人で、興福寺を含むこのときの再興事業においては慶派が中心となっており、今日でも我々に感銘を与える鎌倉彫刻の数々はこの時に制作されたものである。これはその浄土寺にある重要文化財、重源上人坐像であるが、明らかに東大寺にある重源像に倣って作られている。だがこれは (一見して明らかだが) 快慶の作ではない。
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浄土寺には、まだまだ興味深い快慶作の彫刻があって、これは重要文化財の阿弥陀如来立像。226cm の巨像であるが、上半身裸なのは、ここに布製の法衣を着せて、来迎会 (らいごうえ) という祭事において、台車に乗せて練り歩いたからであると言われている。
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その来迎会では、僧侶が菩薩の仮面をかぶって行列したらしく、浄土寺にはそのような面が 25個も現存して、重要文化財に指定されている。同じような表情でもよく見ると異なっているのが面白い。
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これも快慶の代表作のひとつ。高野山金剛峯寺の重要文化財、孔雀明王。この明王の絵画は時々みかけるが、彫刻とは珍しいし、このいかにも密教的な仏をこれほど美麗に掘り出した快慶の手腕には、実に驚くばかり。
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ここから 4体は、同じ高野山金剛峯寺の重要文化財。まず、四天王のうちの広目天と多聞天。仏像好きの方ならすぐにお分かりの通り、これは東大寺大仏殿の四天王の様式なのである (以前、「木×仏像」展の記事では、新薬師寺所蔵の 4体をご紹介した)。鎌倉時代に再興された東大寺大仏殿の四天王像は現存しないが、持国天・増長天が運慶と康慶、広目天が快慶、多聞天が定覚であったらしく、「明月記」の記載によると、実際の巨像の制作前に 1/10 のサイズで試作したとのことであり、実はこれらの像がそれに当たるのではないかという説もあるらしい。歴史のロマンである。
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そして、これらが執金剛神と深沙大将。上記金剛院のペアとは全く異なる姿だが、近年の調査で快慶作と判明し、しかも、金剛院像と近い時期の制作とされているそうだ。そう思うとこの快慶という仏師の懐の深さを実感することができる。私としては、この金剛峯寺像の方が、金剛院像よりも誇張が効いていて、より興味深く感じられる。
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これは像高 3m近い、いわゆる丈六の如来坐像。三重の新大仏寺の本尊で、重要文化財。快慶作として残っているのは顔だけであるらしいが、実に堂々たるお姿だ。この新大仏寺には一度出かけてみたいと思っていたが、この展覧会でご本尊とご対面でき、大変有り難かった。
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次は、東大寺において重源を祀る俊乗堂に安置されている快慶作の 2体の仏像、ともに重要文化財の阿弥陀如来立像と地蔵菩薩立像。このお堂は年に 2日間だけしか一般公開されないが、私は過去に確か二度、その機会に同地を訪れて、重源像及びこれら 2体とご対面している。まあとにかく美麗な仏像で、もう惚れ惚れするしかない。かつて俊乗堂でこの阿弥陀様を拝した際、案内してくれた寺の男性が自慢げに、「この仏像、あんまりきれいやからアメリカにも行ってまんねん。それから、言い伝えで、勝手に歩きよるゆうて、足に釘打ってまんねん」と話してくれ、重要文化財の仏像の、本当に釘が打ってある足をゴシゴシと手で撫でたものである (笑)。調べてみるとその言い伝えは親鸞に関するもの。さすが、一流の仏像は伝説の登場人物も豪華でんねん。
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そしてこれは、快慶の代表作のひとつ、国宝に指定されている、東大寺の「僧形八幡神 (そうぎょうはちまんしん) 坐像」。1201年の作。彩色の妙もあるのかもしれないが、この生けるがごとき表情に打たれない人はいないだろう。奇跡の鎌倉彫刻だ。
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今回初めて知ったことには、この彫刻にはもとになった絵画がいくつかあるらしい。これは京都の神護寺所蔵のもの。なんでも、もともとは弘法大師筆と言われる肖像画の写しであり、重源は、東大寺八幡宮の再興にあたり、この絵を所望したが果たせず、それに怒って密かに快慶に彫像を作られたとも言われている。うーん、後世に名を轟かせる高僧とはいえ、やることが人間くさくて面白い (笑)。
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東大寺と言えば、これも今回の展覧会で知って驚いたことには、今回実物は展示されていなかったが、このように立派で有名な東大寺の額に、快慶の彫刻が含まれているのだ。これは、東大寺の正式名称である「金光明四天王護国之寺 (こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」という文字を表した額で、聖武天皇の筆によるものと伝える。重要文化財である。だがこの奈良時代巨大な額に付属する小像の一部が、最近の研究によって快慶作と認定されているのである。尚、快慶作以外はの彫刻は奈良時代のオリジナルであるらしい。
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例えば以下は、梵天像。なるほど言われてみれば快慶の作のように見える、実に見事な作である。東大寺という日本きっての名刹に脈々と息づく作仏の伝統に、快慶のような天才が連なっていることは、後世の我々から見ても、実に幸運なことであろう。
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さて、快慶の生涯についてはほとんど知られていないと冒頭に書いたが、その一方で、重源との近い関係からも、深い阿弥陀信仰を持っていた人であることは明らかである。そのひとつの証拠が、彼が制作した様々な仏像の胎内銘などに見られる、「安阿弥仏」の称号である。ここから先は、快慶の阿弥陀信仰がそのまま素晴らしい彫刻に昇華した例を見て行きたいと思う。まずこれは、京都の遣迎院 (けんごういん) の阿弥陀如来立像。1194年頃の初期の作で、重要文化財。いやそれにしても、なんと美しい!!
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これは奈良の西方寺所蔵の重要文化財、阿弥陀如来立像。現代になって造立された牛久の大仏などは、この様式を手本にしているように思われる。もっとも、あちらは台座を含めた像高、実に 120m。こちらはたったの 98.5cm。でも真面目な話、快慶なくしては牛久大仏はなかっただろう。
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実はこれまでが快慶のいわゆる安阿弥様仏像の第 1段階。次にお見せするのが第 2段階である。大阪、大圓寺の阿弥陀如来立像。
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そしてこれは第 3段階、現在浄土宗が所有する重要文化財、阿弥陀如来立像。もともとは甲賀の玉桂寺というところに伝わったらしい。1212年の造立と判明しているが、それは胎内から発見された夥しい数の結縁 (けちえん) 文書によるものらしい。
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そう、その多くの結願者の中に、安阿弥陀快慶の名前が!!
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ここで見てきた 3段階は、実は私も今回初めて知ったのだが、衣の細部によって違いがある。以下、右から順に第 1、第 2、第 3段階なのである。向かって左側の衣の出方あるいは差し込み方に注意。
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そしてこの展覧会の最後に展示されている仏像は、大変興味深い。それは京都、極楽寺の重要文化財、阿弥陀如来立像。実はこの仏像、快慶の作ではなく、その弟子、行快による、1227年の作。うーん、確かに快慶の作にしては美麗さに若干不足するのではないか。
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ではこの仏像、何が興味深いかというと、胎内から発見された文書の中から、「過去法眼快慶」という表記が見つかったからだ。法眼 (ほうげん) とは僧侶の位で、快慶がこの位に叙せられていたことは多くの記録から明らかであるが、ここでは「過去」、つまり物故者として名前が載せられているのである。つまりこの仏像は、生前に快慶が発願したが完成せずに逝ってしまったか、または快慶の没後追善供養のために作られたか、いずれかであると見られている。
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この展覧会で見えてきた快慶像は、有力者と近い関係を持ちながら、重源の薫陶を得て熱心な念仏信仰者であった真摯な芸術家である。そのひたすら美麗な造形の裏に、いかなる人間的な苦労があったのか。もちろんそれを想像力なしに辿ることはできないが、既に没後 800年近く経っていながらも人々に訴えかける作品の数々に接することで、自然と見る人それぞれに想像力の翼を広げられるというものである。まさに、何の誇張もなく、彼こそは日本美術史において世界水準でも我々日本人が誇りうる天才であったことを再確認した。古代ギリシャのフェイディアスと競い合っても、決して負けることはないだろう。これだけの数の快慶作品が一堂に会するとは、もうそうそうない機会であるので、ここでも私は、文化に興味のある方々に対し、是非是非 6/4 (日) までに奈良に足を運ぶべし、と訴えたい。会場である奈良国立博物館のお隣の興福寺でも、国宝館の耐震工事期間でもあり、素晴らしい展示が様々なされていることでもあるし。うーん、これが日本美術の神髄でなくて何であろうか。
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さて、まだまだ記事にすべき話題はあるのであるが、明日から出張なので、次回の更新は今週末になる予定です。

# by yokohama7474 | 2017-05-08 23:41 | 美術・旅行 | Comments(0)

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ここでご紹介するのは、室町時代から桃山時代にかけて活動した画家の展覧会である。その名は「雪村」。この言葉でネット検索しようとすると、類推で「雪村いずみ」などと出て来てしまうので、確かに上のポスターにある通り、『「ゆきむら」ではく「せっそん」です』というコピーには意味があるのかもしれない。まあそれだけ、雪村という画家の一般的な知名度が低いということでもあろうし、中には、雪舟と間違えて展覧会に足を運ぶ人もいるかもしれない。一応私の場合は、2002年に渋谷の松濤美術館で大規模な雪村展を見ているので、画家についてのイメージはそれなりにある。雪舟のような天才性の画家というよりも、この展覧会の副題にあるような、奇想の画家であることも知っている。だが、それ以上に詳しいことを知るわけもなく、やはりこの展覧会には出かけてみたいと強く思ったのである。ちなみにこれが、2002年の展覧会の図録。そのときの副題は「戦国時代のスーパー・エキセントリック」。どう転んでも「堂々たる正統的画家」とは言ってもらえないのか (笑)。内容を見てみると、今回の展覧会の出展作と何割かは重複している。
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雪村周継 (せっそんしゅうけい = 出家名であろう) は生没年も定かではないようだが、1504年頃に生まれて 1589年頃に没したか、あるいは 1490年前後に生まれて 1577年頃に没したかという説がある。つまり、80余歳まで生きた、当時としては異例に長寿な人であったということだ。その現存作品は、もちろん諸説あるのは当然だが、150 - 200点ほどだと見られている。雪村が私淑した、まさに「堂々たる正統的画家」の代表である雪舟の場合は、没年がちょうど雪村の生年と近い (1506年頃?) が、真作はわずか 20点程度かと見られる。すなわち雪村は、室町期から戦国時代という戦乱期に活躍した画家としては、異例に多くの作品が現存していることになる。彼は茨城県の守護大名、佐竹氏の一族の長男として生まれたが、家督を継ぐことはなく、小田原、鎌倉、また福島県の三春などを拠点に画業を展開した。つまり都から遠く離れた東国で専ら「奇想」を追求した画家であり、また僧侶であった。貧しい人に絵を与えたりもしたらしく、それが現在まで多くの作品が残った理由のひとつであるようだ。私が本展に行ったときには未だ展示されていなかったが、これが重要文化財に指定されている雪村の自画像 (大和文華館所蔵)。確かに只者ではなさそうな面構えだ。
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最初にまとめて言ってしまうと、私の雪村に対する思いは若干複雑だ。昨今人気の「奇想」という言葉は、もともと辻 惟雄 (のぶお) が言い出した言葉であり、最近では異常な人気の若冲や、あるいはこれ以上の奇想はないという蕭白らについては、一般的な知名度は定着したように思われる一方、この雪村については、それらの画家ほどの強烈な奇想が感じられるのはごく一部の作品であろうと思う。なので、この展覧会の出展作のすべてにおいて驚愕の芸術が見出されるということはない。むしろ、「おっ、意外とまともじゃないか」という作品も多くある。だがよくよく見ると、彼の画業には一貫して何か人間的なものが通っており、それこそが彼の持ち味であったのではないだろうか。興味深いのは、専ら東国で活躍したこの画家の影響を、後述の通り、日本の中心たる京都で生まれ育った光琳のような人が大きく受けているという事実であり、後世につながる自由な画業を達成した画家という点で、雪村の存在意義を認識すべきような気がする。ではまず、茨城の正宗寺が所蔵する「滝見観音図」。
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これは、同じ茨城の弘願寺という寺にある作者不詳の同じ図柄の仏画を写したものであるらしいが、原図よりも観音の表情が柔和であり、また原画では畏れのあまりうつむいて祈っている童子を、観音を見上げて目を合わせる姿勢に変更している。このあたりに若き日の雪村が、既に自らの志向をはっきりと示していることが読み取れて面白い。以下、該当部分のアップで、原画と雪村作品を比べてみよう。上が原画、下が雪村である。
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これも上が原画、下が雪村。
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これも初期の「叭々鳥図」。この画題は水墨画ではポピュラーではあるが、二羽が同じ方向を向いていると、そちらに何かあるのかなと鑑賞者に思わせるではないか。描く手法には習熟が見られても、テーマの描き方にユニークなものがある画家であることが分かる。
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そして、この絵あたりには既にして「奇想」が明確に見られるのではないか。「瀟湘八景図帖」から。岩山や松がうねっているし、建物もいやに屋根が張っていて、見る者を不安にする要素がある。一見すると技術的に未熟のようにも思えるのだが、実はちゃんと描こうとすればできるのに、それをわざとしなかったように思えてくる。
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これは京都国立博物館蔵の「夏冬山水図」。重要文化財に指定されている。なんだ、ちゃんと描けば描けるではないかという印象 (笑)。立派な作品である。だがやはり、木々や岩々の存在感が異様ではある。
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これは「山水図」から。遠くから渡ってくる雁の群れに対して差し出されたような岩の上に、人が 3人描かれている。ひとりは子供であろうか。雪村の絵にいつも漂っている人間的なものが、この小さな画面からも感じられて面白い。
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そして雪村の代表作、やはり京都国立博物館所蔵の重要文化財、「琴高 (きんこう) 仙人・群仙図」。2002年の雪村展のポスターを飾った作品。これは、弟子たちに「龍の子を取ってくる」と言い置いて川に入った琴高仙人が、数日後に巨大な鯉に乗って川から現れたという、中国の伝説によるもの。三幅もので、中央に琴高を、左右に弟子たちを描いている。独特の誇張した墨の線の面白さもさることながら、どうだろう、大変人間的な雰囲気に心が優しくなるようではないだろうか。
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似たような作品として、この「列子御風図 (れっしぎょふうず)」が挙げられよう。列子は道教を極め、風に乗って中空を飛んだという。強く吹いている風と、ふわりという浮遊感が楽しい。
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これはメトロポリタン美術館が所蔵する「竹林七賢酔舞図」。竹林の七賢の絵はよく見るものの、普通は静かに清談をしているわけで、酔っぱらって、しかも踊っているというのはあまりないような気がするが・・・。なんだか、賢者たちも飲んで騒いでいるのだから、凡人の自分たちがしても一向に構わないと思いたくなる (笑)。
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次は「欠伸布袋・紅白梅図」。三幅の真ん中で布袋さんが大きく欠伸をしていて、その左右に紅白の梅が描かれている。1986年に至って、初出の雪村の作品として紹介されたとのこと。
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実は、この気楽な作品に啓示を受けて、日本美術史に残る名作が生まれたという説があるらしい。これである。
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言うまでもなく、京都に生まれた江戸時代の天才絵師、尾形光琳 (1658 - 1716) による、国宝「紅白梅図屏風」である。確かに布袋のポーズを流水に置き換え、左右の梅については、向かって右 (紅梅) は曲線的、向かって左 (白梅) は直線的と見ると、構図上の共通点はあるとも思われる。雪村のこの作品は江戸のさる大名屋敷に置かれていたことが確実であるらしく、光琳が江戸に下った際に目にした可能性はあるとのこと。これはなんとも面白いことで、雪村の影響力もさることながら、光琳という人の、見たものを変容させて自らの創造に活用するという抜群のセンスを感じることができる。尚、この展覧会では光琳が雪村から影響を受けて描いた作品も幾つか並べられていて、興味深い。以下、光琳の筆になる「馬上布袋図」と「琴高仙人図」。後者は、上に掲げた雪村のオリジナルと比較して、鯉の左右の向きも逆なら、表情や表現方法が違っており、ただの光琳の意図が雪村の模写ではなく、雪村のアイデアに倣って換骨奪胎することだったことが判る。
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これは雪村の「百馬図帖」。真後ろから馬を描いた画家はあまりいないと思うが、どのポーズも曲線が馬の姿を表していてユーモラス。
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因みに、本展に展示されている雪村の影響を受けた後世の画家たちの作品の中に、幕末から明治期に活動した狩野芳崖の「牧馬図」があるので比較してみよう。狩野派を継ぎ、あの壮麗な「悲母観音」を代表作とする芳崖の方が、やはり真面目かな ? (笑)
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そうなるとやはり、雪村らしい作品をあと幾つかご紹介せねばなるまい。まず、今回の展覧会のポスターになっている「呂洞賓 (りょどうひん) 図」。呂洞賓とは中国の仙人であり、ここでは自らも龍に乗りながらも天空の龍を睨み付け、さらに手元の水瓶の中から小さな龍を放つところ。せっかくなので、天空の龍と、水瓶から出てきた二匹の小さい龍のアップも掲載する。雪村の絵は細部が面白い。
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同じテーマで、違った構図の作品もあり、いずれも動的でユーモラス。決まりきった構図で繰り返し描くことはつまらないと思ったのではないだろうか。
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ユーモラスな雪村作品をあと 2つ。「布袋童子図」と「李白観瀑図」。それから、水の表現がユニークな「猿猴図」。これらは決して最上の芸術作品というわけではないかもしれないが、恐らくリラックスして描いているであろう、その画家の心持ちが、見る人を幸せな気分にしてくれる。
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その一方、雪舟ばりの見事な山水画もある。メトロポリタン美術館蔵のこれなど、素晴らしいではないか。
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これは京都国立博物館所蔵の「雪景山水図」。人の姿が細かく描かれていて、そこには人間的な気配が漂う。
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一方で、これは雪村作品としては若干異色ではないだろうか。茨城の笠間稲荷美術館所蔵になる「金山寺図屏風」の細部である。金山寺とは中国の禅寺であるが、ここでは立て込んだ伽藍に、奇妙なリアリティと、何かシュールなまでのいびつな空間構成を感じる。雪村の心の中の架空の世界を写生したという印象。
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もちろん雪村は金山寺現地に行った経験などありはしないが、日本人画家で実際に現地に行った人がいる。それはほかでもない、雪舟だ。「金山図・阿育王 (あしょかおう) 山図」という二幅を描いたらしく、雪舟を深く尊敬していた雪村によるこの作品も、これは二幅のうちの一幅で、失われたもう一幅には阿育王山図が描かれていた可能性もあるとのこと。そこで気になって、その雪舟作品が現存しているか否か調べてみたが、どうやら現存はしていないようだ。ただ、広島の佛通寺に残る狩野安信 (探幽の弟) 筆の同名作品の原画が雪舟作であったとされているようだ。佛通寺については、以前「禅 心をかたちに」展の記事で、2体の頂相彫刻をご紹介した。一度訪ねたい古刹である。また、せっかくなので、中国の金山寺についても少し調べてみた。日本で有名な金山寺味噌は、ここから空海が伝えたという説があるらしい。古い寺なのである。江蘇省の鎮江というところにあるらしく、仏像好きの心を揺さぶる、このような巨大な仏さまが祀られているという。雪村ならずとも、行ったような気になってみたい、そんな由緒正しい寺院なのである。
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とまあ、最後はいつものように順調に脱線してしまったが、今回の展覧会を改めて思い出してみて、やはり雪村のユニークさを実感することができる。冒頭に書いた私自身の複雑な思いを再度自己分析してみると、雪村は「堂々たる正統的画家」ではないかもしれないし、時に奇想に惑わされるものの、何よりも彼の作品に表れた人間性と、緩いようでいて実は真摯な創作姿勢にこそ、打たれるのである。やはり、日本美術史上において、貴重な存在であることは間違いないだろう。本展の期日は 5/21 (日) まで。これを見逃すと雪村の作品をまとまって見る機会がいつになるか分からないので、文化に関心のある方々には、是非上野の藝大美術館にお運び頂くことを、お薦めしておこう。

# by yokohama7474 | 2017-05-07 19:38 | 美術・旅行 | Comments(0)