バーンスタイン作曲 ミサ 井上道義指揮 大阪フィル 2017年 7月15日 大阪・フェスティバルホール

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20世紀の最も偉大なる音楽家のひとり、レナード・バーンスタインは 1918年生まれ、1990年没。ということは、来年生誕 100年を迎えることになる。指揮者として最も知られているであろうバーンスタインは、もちろん作曲家でありピアニストであり、教師であり、またヒューマニズムの観点における活動家でもあった。このブログで音楽を扱うときには基本的に現在活動している音楽家の演奏を採り上げているので、既に死去してしまった偉大な音楽家について語ることは、いわば何かのついでということになってしまっている。実はこのブログの開設の際、記事のカテゴリーとして「音楽 (Recorded Media)」というものを作り、過去の音楽家が残した遺産についても、随時述べて行くことにしようとしたのであるが、率直なところ、とてもそんな記事を書いている時間がない (笑)。なので、残念ながら今に至るもそのカテゴリーの記事はゼロなのであるが、その代わりと言っては語弊があるものの、思いつくまま文化の諸分野を放浪することを旨とするこのブログでは、話のついでにバーンスタインの業績に触れるようなことがあると、時々暴走してしまうのが常なのである (笑)。それほど私にとってこの音楽家の存在は大きいということなのであるが、そんな私が聴き逃すわけにはいかない公演がこれなのであった。絶好調の井上道義が、手兵である大阪フィル (通称「大フィル」) を指揮して、バーンスタンの問題作、ミサを演奏する。幸いなことに土曜日の公演があったので、大阪まで聴きに行くことができた。これは壮年期のバーンスタインの写真。
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さて、作曲家バーンスタインが好きな人でも、このミサの実演を耳にした人はあまり多くないのではないか。かく言う私も実演では初めて体験することになる。調べてみると、日本初演は名古屋のグリーン・エコーという合唱団が 1975年に果たしていて、その後も 1978年、86年に再演されているとのこと。また、今回の指揮者井上道義自身、1994年に京都市交響楽団を指揮して一度演奏しているらしいが、私はそのいずれも体験していない。ただ曲自体はよく知っていて、大学に入った頃に何かの本で、「ロックバンドも入った型破りなミサ」であるということを知り、大学在学中には、初演と相前後して録音された作曲者自身による演奏に随分と親しむこととなった。特に冒頭間近の「シンプル・ソング」は今でも時々ふと口ずさむ、私にとっては長年に亘るお気に入りの曲 (2016年 6月 4日の映画「グランドフィナーレ」の記事ご参照)。もちろん、このミサの全曲を通して聴いてみて、さながら「アンチ・ミサ」とも言うべき内容に、大きな衝撃を受けたことは言うまでもない。そう、このミサは、まさに型破りで、通常のラテン語のミサ曲の歌詞を使いながらも、バーンスタインの自作の英語の歌詞も様々な歌手によって歌われ、ロックやブルースなどがあちこちに登場し、バレエや児童合唱もという曲なのである。冒頭に掲げたチラシに「これはオペラかミュージカルか」とある通り、通常のミサ曲の範疇に入る曲ではない。もっとも、「オペラかミュージカルか」という題目は、バーンスタインのほかの作品、例えば「ウェストサイド物語」や「キャンディード」についても言われることである。だがこの曲はキリスト教の典礼であるべきミサであって、そのような宗教曲に対して、あろうことかオペラかミュージカルかという同じ疑問が呈されること自体が異常なのである。作曲者自身はこの曲を「歌い手、演奏家そして舞踊手のための劇場用作品」と銘打っており、1971年 9月にワシントン DC のジョン・F・ケネディ・センターのオープニング記念として初演されたもの。実際に舞台に接してみて実感するのは、これは予算的にも内容的にも、上演至難な作品である。2,700人収容の大阪のフェスティバルホールはほぼ満席の大盛況で、多くのファンの関心を引いたことが分かる。尚、Youtube では、今回指揮のみならず演出も請け負った井上道義のインタビューや、大変興味深い熱心なリハーサル風景なども見ることができる。
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要するにこの曲のどこが衝撃的かと言うと、本来は神を称える曲であるべきミサの中に、神への信仰に疑問を抱く人々があれこれ出てきて、不信心な、だが生活感のこもった率直な歌や、なんともだらしない歌や、あろうことか卑猥な歌まで歌ったりして、ミサを執り行おうとする司祭の邪魔だてをする。そしてその司祭自身、最後にはなんたることか儀式用の杯を床に投げて粉々に砕き、祭壇の覆いもはがしてしまい、床に転がって神への不信を呟くのである。この曲の真価を理解するには、芸術家バーンスタインを知る必要があり、また当時の社会情勢を知る必要があるだろう。1971年と言えば、ニクソン政権下、米国はヴェトナム戦争の真っただ中。ヒッピー文化真っ盛りである。私の手元の自作自演 CD から、初演当時の舞台の写真 (ジャケット写真を含む) を何枚かご紹介する。時代の雰囲気が明らかであろう。
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この曲は 17曲から成り、上演時間は正味 2時間もあるのだが、今回の演奏では、第 9曲の後に 20分の休憩が置かれた。開始部分ではオケのチューニングの音すら聴こえず、一旦完全に暗転したかと思うと、照らされたスポットライトの中、司祭役のバリトンの大山大輔が登場して、ジュークボックスにコインを入れる。そうすると、テープに録音された 4人の独唱者による「キリエ・エレイソン」(これを含むテープの部分は、もしかすると初演時と同じ古い録音なのかなと思ったが、さてどうだろう) が、それぞれに全く違った調子で流れ始める。そのあと司祭がギターを持って「シンプルソング」を歌うのであるが、ふと気づくと指揮者の井上は、そのときにはオーケストラ・ピットの中で指揮をしている。そのあと行進曲とともに木管・金管奏者が入ってきて、ピット内ではなく、ステージ左右に陣取る。また、ロックバンドとブルースバンドもその奥、ステージ上に配されている。私の席からはピットの中は見えなかったが、そこにはつまり、弦楽器奏者と打楽器奏者しかいなかったということになる。井上自身による演出はなかなかに凝ったものであり、曲の持つ特殊性をかなり明確に出す大胆なものであったといえようが、さすがに指揮者自身による演出だけあって、音楽的に無意味な行為は何もない。それに輪をかけたのが日本語字幕。これも井上自身によるもので、かなり砕けていながら語感もよいもの。例えば原詞で "no no no!!" とある部分には「何なのののの」という具合。私は以前、もう 15年以上前だが、井上の指揮する東京交響楽団でオルフの「カルミナ・ブラーナ」を聴いた際、同じように井上自身担当した訳詞を見ていて、そのときも音楽の流れと語感に乗っ取った、面白いものであったことを思い出した。いやそれにしても、リズム感といい抒情といい、井上の指揮はまさに自由自在。この曲の真価を引き出してみせる見事な統率ぶりであった。

歌手ではもちろん、司祭を演じた大山大輔が最大の功労者であろう。昨年のミューザ川崎でのジルヴェスター・コンサートでは、井上とよいコンビで客席を沸かせていたが、ここでも堂々たる歌唱。ただ、オペラ的発声を求められない箇所がほとんどであり、時にはもっと遊びがあってもと思うこともあったが、最後の場面の熱唱には大いに感服させられた。ラテン語で英語で、時には日本語で、あるいはヘブライ語まで、歌に語りにと、縦横無尽である。
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さて、この曲に多く登場する歌手たちは、二期会や藤原歌劇団の人たちが多かったが、驚くのは、小川里美や小林沙羅といった、このブログでも過去に何度か名前に触れている日本一流のソリストも、いわゆるストリート・コーラスの一員であるという贅沢さ。このようなリハーサル風景で、その贅沢な布陣による熱心な準備状況が理解されよう。実際、大変複雑な構成を持つこの曲のアンサンブルは、実に見事であった。そういえば、今回舞台に立った歌手の皆さんは、ソリストであれ合唱団であれ児童合唱であれ、全員が暗譜。演奏会形式ではなく、完全にオペラ的な上演であったとも言える。
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因みに今回の上演は、ラテン語の典礼文以外には基本的にはほぼ英語であったが、一部は日本語での語りや歌唱もあった。語りの部分は確かに日本語の方がよいだろうが、歌についてはどうだったろうか。原文歌詞を再チェックしていないのだが、英語ではかなり韻を踏んでいる部分があるはずで、そのような箇所は意味だけ同じ日本語にしても面白くないので、日本語にしてみたということかと想像している。それほど不自然でない感じで言葉の切り替えがなされており、日本での、そして大阪での演奏ということで、歌詞が大阪弁でも大いに結構なのである (笑)。ところで、井上自身による字幕で、「連祷 レント リタニ」という部分があって、きっと多くの方にとっては ??? であったと思うが、そのネタについては、やはり井上道義が指揮をした演奏会についての、この記事をご参照下さい。
http://culturemk.exblog.jp/25242824/

それから、大阪フィルハーモニー合唱団によるコーラスも見事なら、キッズコール OSAKA による児童合唱も見事。ボーイソプラノの込山直樹も、あれだけの大舞台をよくぞ緊張せずに歌い通したものだと思う。終演後のカーテンコールでは、まず最初にマエストロ井上がピットの中を奥に進み、ステージ下に辿り着くと客席の方を向き、よっこらしょとステージに腰かけるかたちとなったと思うと、斜め後ろにでんぐり返しをするような恰好でステージ上に身を置いて、すっくと立ち上がったのである!! 既に 70歳とはいえ、もともとバレエダンサーであった人であるから、それほどは驚かないが、それにしても尊大な指揮者なら、そんなことをしないだろう。そして歌手の挨拶が一巡した際、なぜか肝心の井上の姿が見えないと思ったら、なんと、コンサートマスターの崔文洙以下、大フィルの弦楽器と打楽器のメンバー全員をステージ上に誘導しているところだった (笑)。このあたりもこの指揮者の持ち味が出て、充実した公演に花を添える楽しいパフォーマンスであった。あ、それから、今回の公演には、バーンスタイン晩年の愛弟子である佐渡裕の名が、「ミュージック・パートナー」としてクレジットされている。このように、リハーサルにも参加していたようだ。
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さて、最後にもう少し、この作品について語りたい。この演出を見て明らかであるのは、主役の司祭はバーンスタインその人だということだろう。彼は最初の方ではスコアを見ながら何やら書き込みをしているし、音楽に合わせて指揮もしている。民衆の前で説教するのは、あたかも学生や聴衆の前でレクチャーするがごとくであり、そして最後、祭壇の覆いが取れてしまうと、そこにはピアノが現れるのである。作曲者であり指揮者であり教育者でありピアニストであったバーンスタインの姿を想像することは容易であった。私もきっと、この曲を書いたときの彼には、司祭と自分を一体化して考えるという気持ちが働いていたのではないかと思う。帰宅してから、手元にある何冊かのバーンスタインの伝記を引っ張り出してみて、このミサについての記述をざっと見てみたが、ジョーン・パイザーの「レナード・バーンスタイン」という本には、「この作品がバーンスタイン自身を題材にしていることに気がつけば、多くの謎が氷解する」という記述があって興味深かった。1987年に書かれたこのパイザーの本は、バーンスタインの同性愛癖について暴露する内容を含むもので、当時大変センセーショナルな話題になったものだが、私は 1990年 (つまりバーンスタインの没年) に日本版が出たときにすぐに買って読んだ。内容には確かに衝撃的な部分もあったが、あまりにも巨大なバーンスタインという芸術家の本質に迫る、渾身の伝記であると思ったものだ。今回は図らずもそのことを再確認することとなった。
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ここでの司祭がバーンスタイン自身の似姿であるという前提に基づいて考えると、強く再認識できることがあった。よく、「彼はマーラーと自分を重ねていたが、指揮者としては最高の存在でも、作曲家としてはマーラーのような偉大な存在ではなかった」ということが言われるが、果たしてそうであろうか。マーラーは、世紀末ウィーンの文化の中で、世界苦を抱きながら新奇な音響を開拓した。一方でバーンスタインは、米国という、軍事や経済で世界をリードしながらも歴史の浅い国において、その米国ならではの音楽を創ろうとしたのではないか。巨大オケをドラマティックに使って、あるいは前衛の流れに乗って、新奇な曲を書こうとすればきっと彼にはできたであろう。だが彼が創作したかった世界はそんなものではなく、米国という、多くの人々が暮らすつぎはぎの国における、理念であったり正義感であったり、平易さへの指向であったり大衆性の許容であったり、あるいは現実への絶望感であったのではないか。彼の音楽にはどれも、ヨーロッパ音楽の模倣はない。ひとつの特徴は例えば、この「ミサ」における「シンプル・ソング」。ここにはガーシュウィンやコープランドや、あるいはバーバーやウィリアム・シューマンに共通する情緒と静謐さがある。これは紛れもなくアメリカ音楽であるのだ。そのことの意義は、今後ますます認識されるのではないだろうか。それから、ひとつの切り口として、この「ミサ」と奇妙な共通点のある曲を 2曲挙げたい。ひとつは、ベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」である。それはもちろん、ラテン語の歌詞と英語の歌詞の混淆、あるいはバンダの活用という点が最大の理由であるが、作曲者の同性愛指向という点でも奇妙なつながりがある。バーンスタインの生涯最後のコンサートには、そのブリテンの「ピーター・グライムズ」からの 4つの海の間奏曲が入っていたことも、何か不思議な縁を感じさせるのである。もうひとつの曲は、シェーンベルクの「モーゼとアロン」である。このオペラは第 3幕が未完成に終わったが、第 2幕の終盤には「黄金の子牛の踊り」があり、人々の熱狂がある。この「ミサ」の終盤における人々の狂乱と、どこか似ていないか。「ミサ」のその場面は、「アニュス・デイ」、つまり「神の子羊」であって、子牛と子羊という点も面白い (笑)。よく考えてみると、バーンスタインが指揮したシェーンベルクの作品は、聴いたことがない。同じユダヤ系であっても、その音楽作りの美学は大きく異なっていたわけである (十二音音楽を評価しないのは分かるが、初期の「浄夜」など、当然演奏してしかるべきだったと思うが)。だが、ウィーンに生まれて後年米国に移住したシェーンベルクと、米国に生まれて後年指揮活動の中心をウィーンに置いたバーンスタインとは、奇妙なコントラストを成しているではないか。両方とも、ただの偶然であるかもしれないが、歴史には時折、奇妙な偶然というものがある。そのような偶然を通じて、これらの歴史的作曲家の間に存在する共通点と相違点を認識するのは、大変意味のあることだと思うのである。

などと、想像の翼はこれからもまだまだ広がって行くものと思うが、ともかく今回の上演は、いずれまた是非再演を期待したい。今回は第 55回大阪国際フェスティバルの一環としての公演であったので、同フェスティバルの主催者である朝日新聞 / 朝日放送が、かなり資金援助しているのだろう。実は「ミサ」の中で司祭が、アドリブで人の名前を挙げて神の加護を願う場面があるのだが、今回は確か「大フィルさん、朝日さん、大植さん、ミッチーさん」と言っていた (笑)。・・・と書いてから思ったのだが、この流れだと、「朝日さん」と聞こえたのはもしかして「朝比奈さん」だったのか??? つまり、朝比奈、大植、井上 (ミッチー) とは、歴代の大フィルの音楽監督であるからだ。・・・まあともあれ、神のご加護によりさらなるスポンサーが見つかり、東京でも再演となることを祈っております。"Let us pray!!"

# by yokohama7474 | 2017-07-16 03:10 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ハクソー・リッジ (メル・ギブソン監督 / 原題 : Hacksaw Ridge)

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つい最近このブログでご紹介した映画、「ブラッド・ファーザー」は、現代の名優メル・ギブソン主演のなかなか素晴らしい映画であったが、これは同じメル・ギブソンが監督としてメガホンを取った作品。もちろん彼は映画監督として高い名声を誇っていて、中でもアカデミー作品賞、監督賞ほかを受賞したスコットランドの独立運動の壮絶な物語「ブレイブハート」(1995年) は、見る者皆を圧倒する傑作であった。その後も「パッション」(2004年)、「アポカリプト」(2006年) という作品を監督したが、この映画は前作から 10年を経て彼が世に問う作品である。予告編で明らかであったことには、これは戦争映画であり、なんでも、武器を持たずに戦場に出て、傷ついた仲間たちを救った男の物語。驚くべきことに、実話に基づいているという。これは、私の席の隣のオジサンならずとも、是非に見るべき作品だと思って見に行ったのであるが、想像通り、いやそれ以上に重い内容の映画であり、これを見てしまうと、しばらくは虚脱感に見舞われて何もする気にならない人がいてもおかしくないと思うくらいである。これが昨年 9月にヴェネツィア国際映画祭で記者会見に臨んだギブソン。当時 60歳にしては皺が深くて、私が以前「ブラッド・ファーザー」の記事で彼の顔について書いた、「この皺はメイクだろう」という推測は、実は間違っていたようだ。
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この映画のタイトルの意味であるが、Hacksaw は弓状のノコギリのこと。Ridge は尾根のこと。つまり、ノコギリ状に切り立った断崖のことを指している。この写真は、左が実際のハクソー・リッジ。右が映画の中のハクソー・リッジ。
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映画の舞台は、このような断崖を登って攻める米国軍である。時代はどうやら第二次大戦中であるので、戦っている相手は当然日本軍であり、つまり戦いの舞台は太平洋のどこかだ。では、このハクソー・リッジなる断崖は、太平洋のどこにあるのだろう。フィリピンかサイパンか。いやいや、答えは沖縄。この映画は、沖縄戦に関する逸話を扱ったものであったのだ。沖縄戦と言えば、もちろん私たち日本人にとっては、終戦間際の追い詰められた状況での、多大な犠牲を出した凄惨極まりない戦いとして、常に痛恨の思いとともにある戦い。そんな戦いにおける米国軍を描いた映画を、果たして冷静に見ることができるであろうか。

ハクソー・リッジとはもちろん米兵のつけた名前であり、日本名は前田高地。首里城の北側であり、現在は浦添市というところにある。この前田高地の絶壁自体はその後の開発か何かで、現在は既に削られてしまっているようだが、ネット検索すると、沖縄戦の戦跡として訪れる人も結構いるような場所なのである。沖縄戦の悲惨なイメージからすると、日本軍の防御は米国軍 (いや、実際には連合国軍だ) によって軽々と突破されたのかと勝手に思っていたが、そうではなく、追い詰められた日本軍の攻撃は非常に激しくて、前田高地の攻略にあたり、連合国軍は何度も撤退を余儀なくされているのである。主人公デズモンド・ドスが現地に到着したとき、「6度攻めて 6度退却した」というセリフが出て来る。ということはつまり、連合国軍側にも多くの犠牲が出た戦いであったわけだ。そのことがこの映画を理解する大前提となる。どんな戦いにも勝者がいて敗者がいる。だが、勝者の場合にも、そこには必ず死者がいて負傷者がいる。そしてその死者たちや負傷者たちには、それぞれ家族がいて、かげがえのない生を送ってきているのである。いつの時代にも絶えることがない戦争の悲惨さの本質はそこにあるのだということを、この映画は仮借ないリアリティを持って描いているのである。
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主人公ドスは、その信仰上及び個人としての信条から、戦場に赴いても武器を持つことなく、衛生兵として傷ついた戦友たちを救うことを自らの使命にすることを誓う。だが軍隊の訓練においては、銃器を持たないことなど、兵士として許されるわけもない。ドスは周辺や上官からのいじめや罵りに耐え、軍法会議すらも思わぬ助けによって切り抜けて、本当に武器を持たない衛生兵として戦場に赴くのである。映画の前半では、ドスの幼少期に始まり、家族の間の微妙な関係や、ひとめぼれしてプロポーズする看護師との愛情が描かれ、これは実にテンポよくまた無駄がなくて、見ているときにはそれほど重要とは思わなかったが、今思い返してみると、ドラマの流れの中で必要な情報をきっちりと伝えている必要不可欠な部分であったのだ。もしこのようなシーンがなければ、ドスの戦場での行為は単なる美談としてしか描きようがないが、彼の人間としての弱さや家庭の事情、過去のトラブルといった要素が前半に描かれるからこそ、この映画のメッセージの重さ、つまりは人間は決して聖人君主ではないが、いくつかの条件が揃うと、想像もできないような勇気ある行動も取ることができるのだ、ということが理解できるのである。私としては、この前半部分があるゆえに、この映画は傑作であると言いたいのである。これはプロポーズするドス。
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そして後半には、とても正視できないような地獄絵図が延々展開する。上述の通り、ここでは敵が日本軍であることもあり、この戦場のシーンに嫌悪感を持つ人がいてもおかしくないだろう。実際、ここでの日本人は、獰猛であり姑息であり、攻撃を受けない建物の中では場違いなほどくつろいでいたり、一方で敗北を認めると自ら腹を切る、異様な人種として描かれている。その意味では、日本人はここでは米国人から見た「敵」という遠い存在という性格を明確に持っているのである。だが、それでも私は、それをもって日本人がこの映画の価値を低くみるとすれば、かなりもったいないことだと思うのだ。実際のところ、銃弾が縦横に飛び交い、鮮血と肉が激しく飛び散る戦場で、傷ついた味方を助けて避難させるという行為は、これはもうなんとも虚しい行為であるとしか言いようがない。そもそも大多数が死んで行く中で、ごく少数の命を救うことは、それだけで徒労に近い行為とも言えよう。たとえ発見したときに息があっても、次の瞬間にはその息は途絶えているかもしれないし、死ぬ運命の人を助けている間に、より生き残る可能性の高い人が苦しみ続けているかもしれない。あるいは、懸命に担いで救助している途中で、助けている仲間も自分自身も、敵に撃たれて死ぬかもしれない。そのような途方もない徒労感を表すには、敵が敵として脅威の存在である必要があり、何よりも、戦場で戦っていた兵士たち自身がそのように敵を見ていたであろうから、ここでの日本兵たちは、飽くまでそのような「敵」である必要がある。この映画が提示しているのは、だが、敵である日本兵を憎む感情では決してなく、敵も味方も悲惨な状況に陥ってしまうそのどうしようもなさ、つまりは、歴史が人間に強いる抗えない残酷な運命であろう。それゆえ彼が結果として実に 75人の味方の命を救ったという事実は、爽快感としてではなく、徒労感の果ての重い感動として、見る者の胸に迫る。尚、この映画では CG はほとんど使われておらず、爆発シーンは本物の火薬によるものらしい。
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このような役を演じる役者には、ヒーローを演じる力だけでなく、人間的なリアリティを出せる独特の個性が不可欠だ。ここでメル・ギブソンが選んだのは、つい先ごろの「沈黙 - サイレンス -」での熱演も記憶に新しい、アンドリュー・ガーフィールド。もちろん出世作は、「アメイジング・スパイダーマン」の 2作であるが、本当にいい役者に成長したものである。命を奪うためではなく、命を救うために戦場に赴き、途方もないことをやってのけた実在の人物を、このようなリアリティで表現できるとは、素晴らしいことだ。
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ひとつ興味深い偶然がある。彼の前作「沈黙 - サイレンス -」は、悲惨な状況においても敬虔な信者の前に姿を現さない神の「沈黙」をテーマにしたものであったが、実はこの「ハクソー・リッジ」においても、主人公ドスが、この悲惨な戦場において同じような感情に囚われるシーンがあるのである。違うところはその先で、ここでのドスは神の沈黙を跳ねのけるように、狂気とも思える戦場での奔走にその身を捧げるのである。

この映画ではまた、父親役のエージェント・スミス、あ、違った、ヒューゴ・ウィーヴィングや、上官役のサム・ワーシントンなどの役者がそれぞれの味を出していて素晴らしい。妻役のテリーサ・パーマーは、まさに映画における紅一点である (あ、ドスの母親役もいるが・・・)が、目立ち過ぎず、よい存在感である。「聖杯たちの騎士」にも出ていたようであるが、あまり覚えておらず、申し訳ありません (笑)。
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それから、エンドタイトルを見ていて気付いたのは、"In memory of" (つまり、この映画によって追悼の意を捧げる故人) として 2人の名前が出ていたが、そのうちのひとりがジェームズ・ホーナーであった。彼は現代ハリウッドの映画音楽の大家であったが、2015年に 61歳で死去した。自ら操縦していた飛行機の墜落によるもので、私も当時、その死に驚いたものであったが、改めて、彼が音楽を提供した映画のリストを見ると、本当に多彩で素晴らしい。中でもメル・ギブソンとのかかわりは、「ブレイブハート」「アポカリプト」の 2本の監督作に加え、「身代金」のような出演作もある。その他、この映画の出演者であるサム・ワーシントンの出た「アバター」や、アンドリュー・ガーフィールドの出た「アメイジング・スパイダーマン」も含まれている。ホーナーの映画音楽は、例えばジョン・ウィリアムズのように誰の耳にも残るメロディは少ないかもしれないが、間違いなく、現代ハリウッドの映画作りの重要なパートを担った人物であった。私のようにオーケストラ音楽が好きな人間は、映画のタイトルに音楽担当として彼の名前が出て来ると、ワクワクしたものであった。この映画とは直接関係しないが、文化逍遥の一環として、ここで彼の写真を掲げておこう。
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さて、上で触れた通り、昨年のヴェネツィア映画祭でメル・ギブソンはこの作品に関連した記者会見を行ったが、そこでは大変興味深い発言が見られるので、少しだけ要約・引用しよう。

QUOTE
すべての能力のカギとなるのは、緊張を解いてくつろぐことだ。年齢と共に人は退屈していくから、リラックスする必要がある。自分の受け持つ領域を知ることだ。それが上手くいけば、良くなることができる。だがいつでもそれが起こるわけではなく、時には悪い方向に大きな一歩を踏み出してしまうこともある。私がそうだった。何か良いことをして、その後なぜか、良いとは言えないことをする。多分それが人生なんだ。

スクリーン上で戦闘シーンを描くときに大切なことは、明確であること。混乱しないようにすることだ。混沌と混乱の印象を与えるが、観客に見せたいもの、そして一連のシーンから何を取り出したいのかを、絶対的に明確にしなくてはならない。これが映画監督のすべてだ。演者が誰であるかを知ること。スポーツ競技のように取り組む必要がある。
UNQUOTE

前段は自らのそれと照らし合わせた人生における哲学、後半は映画監督の技術的な側面について語っている。内容は対照的ではあるが、いずれも虚飾のない、素晴らしい言葉ではないか。このような言葉を発することができる人であるから、これだけの内容の映画を作ることができるのである。是非近いうちに次回作を撮ってもらいたいものだと願わずにはいられない。

# by yokohama7474 | 2017-07-13 23:37 | 映画 | Comments(0)

マルク・ミンコフスキ指揮 東京都交響楽団 2017年 7月10日 東京文化会館

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今回東京都交響楽団 (通称「都響」) の指揮台に立ったのは、1962年生まれのフランス人指揮者、マルク・ミンコフスキ。このブログでも、前回同じ都響を指揮した際の演奏会と、金沢で指揮をしたロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の演奏会形式上演を絶賛した。このミンコフスキ、私のイメージでは古楽の指揮者として名を上げた人だが、その経歴はウィーン・フィルやベルリン・フィルの指揮を含め、現代楽器の通常オケでも活発な活動を展開しているのである。この都響との共演は今回で 3回目。前回の演奏会は 2015年12月16日付の記事で採り上げたが、その前、つまりは最初の顔合わせのときにも私は聴いていて、いずれの機会においても、この人が現代を代表する素晴らしい指揮者であると実感したものであるのだが、今回またそこに新たな感動が加わった。この演奏会でミンコフスキと都響が採り上げた曲目は以下の通り。
 ハイドン : 交響曲第 102番変ホ長調
 ブルックナー : 交響曲第 3番ニ短調 (ノヴァーク 1873年初稿版)

一言、この人はすごい指揮者である。このような天才の演奏を、今の都響のような練れた音を出すオケで聴くことができるとは、東京の聴衆は本当に恵まれている。だが奇妙なことに、ミンコフスキと都響の共演は今回はこの演奏会 1度きり。もしかするとミンコフスキはどこかの地方オケでも振りに行くのかと思って全国のコンサート予定を調べてみたが、ほかのコンサートは発見できなかった。ということは、本当にこの 1回のコンサートを振るためだけに来日したものであろうか。もしそうなら、都響を気に入っていなければ実現しないこと。演奏後の彼の動作を見ていると、相当にこのオケを高く評価している様子が伺える。大変相性のよいコンビであると思う。
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最初のハイドンでは当然、古楽的なアプローチが聴かれるかと思いきや、ヴァイオリンの左右対抗配置はいつものようにあったものの、冒頭の序奏の部分から弦楽器はヴィブラートをかけて演奏している。いやその音の実に見事なこと!! このような演奏を耳にすると、演奏スタイルなど大した問題ではなく、要するに、よい音楽とそうでない音楽があるだけだと思う。序奏の最後にフルートが響いて鮮やかな主部に入ると音楽は一層充実度を増し、音楽はさらにその先へ。その演奏の素晴らしさは、思い出しても身震いするほどだ。そうして、全休止のあとまたフルートがオケを始動する。その呼吸の素晴らしいこと。正直、聴いているうちに私は何か空恐ろしい感じすらして来た。この曲はハイドン円熟期の傑作のひとつで、いわゆるロンドン・セットという最後の 12曲の交響曲のうちでも、最後から 3番目のもの。あだ名がついていないため、あまり知名度が高くないかもしれない。しかし、疾走感とユーモアに溢れた、いかにもハイドンらしい曲であり、オケにとっては水際立った技術を披露するにはうってつけだが、うまく流れないとかなり悲惨なことになりかねない。ここで私が思い出すのは、この都響のいわば「中興の祖」ともいうべき実績を残した指揮者、若杉弘が、1986年に都響の音楽監督に就任したときに、オケのレパートリーにとってのハイドンの交響曲の大事さを強調していたことだ。その若杉自身も時折ハイドンを採り上げていたが、正直なところ、当時の都響と今の都響とではあらゆる点で違いがある。そう思うと、過去 30年のこのオケの進化には目覚ましいものがあることに改めて思い至る。隅々まで清冽な音で全曲を振り終えたミンコフスキは、まずはフルート、そして木管奏者たち、加えて金管奏者たちまで起立させた。また、見事なソロを聴かせたチェロ奏者にも最大限の敬意を表していたのである。

休憩後のブルックナーは、前回彼が採り上げた第 0番に続き、今回は第 3番。しかも、珍しい初稿による演奏だ。ブルックナーの版の問題は非常に複雑で、正直、私もよく理解していない。だがこの曲の場合には、初稿、第 2稿、第 3稿とあるものの、多くは第 3稿による演奏で、初稿は (第 4番、第 8番の初稿と並んで) ほとんど演奏されないものと整理している。その珍しい初稿によってブルックナー全集を初めて録音したのが、現在この都響の桂冠指揮者であるエリアフ・インバルだ。私も学生時代にこのインバルの録音を衝撃をもって聴いた口だが、この 3番の場合、そもそも曲想に野性的な面があるため、その聴き慣れない版ゆえの衝撃もひとしおであったのを覚えている。こんなジャケットであった。
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そのインバルは日本では、1989年にベルリン放送交響楽団 (現在のベルリン・ドイツ交響楽団) を指揮してこの 3番の初稿を実演で披露し、私も聴きに行ったものである。その後彼は都響でも同じ版を演奏したはずだが (1997年)、そのようなインバルの努力にもかかわらず、この曲のこの版は、日本ではそれほどポピュラーになることなく今日に至っている。録音では、ロジェストヴェンスキー、ティントナー、そして先日読響を指揮したシモーネ・ヤングらによるものがあるが、多分世界的にも未だポピュラーとは言えないだろう。ブルックナー・ファンは既にご存知の通り、この曲は「ワーグナー」交響曲と呼ばれることがあり、それは、ブルックナーが憧れのワーグナーに初めて会ったときに 2番と 3番のスコアを見せ、「トランペットで始まる方」、つまりこの 3番がよいと誉められたため、感激したブルックナーはこの曲をワーグナーに献呈したことによる。私は個人的には、あの尊大なワーグナーが本当に当時無名のブルックナーの交響曲のスコア 2曲に目を通したか否かは疑問に思わないではないのだが (笑)、いずれにせよ、このことによってブルックナーが受けた刺激により、音楽史は、前代未聞の神秘性に入って行くブルックナーの後年の交響曲を得るに至ったとは言えるのではないか。これが、バイロイトにおけるこの 2人の作曲家の出会いをシルエットで描いたもの。
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それから、この第 3交響曲に関しては、初演 (第 2稿による) の際にブルックナー自身がウィーン・フィルを指揮したものの、多くの聴衆は理解できずに演奏の途中で帰ってしまったが、最後まで残って拍手を送ったのが、当時ウィーンでブルックナーの弟子であったグスタフ・マーラーであったというのも、有名な逸話である。さてこの初稿、私も今回久々に耳にしたが、後の版では削除されてしまったワーグナー作品の引用があるという。なるほど、確かに「ワルキューレ」や「タンホイザー」に近い音響を確認することはできたが、これはそのままの引用ではなく、いわばオマージュのようなものだろう。よく指摘されるように、ワーグナーとブルックナーは、その創作指向は (分厚い音を鳴らす以外には) 共通点はほとんどなく、ワーグナーは交響曲をほとんど書かなかったが、ブルックナーはオペラを 1曲も書かなかった。だから私はこの曲が「ワーグナー」と呼ばれることをあまり意味あるとは思っていない。それよりも、この曲でブルックナーがまさに音楽史において前代未聞の境地に入っていったこと、それこそが意味あることだと思うのである。従って、初稿によってこの曲を聴くと、その突然の全休止や、とりとめなく響く頻繁な楽想の変化、そして聖なるものと俗なるものの混在に、実に野性的なものを感じるのである。後年に至っての改編により、音響が整理された第 3稿が、私にとっては大いに耳に馴染みがあるので、この初稿を聴いてみると、メロディや曲の大まかな流れには後の版とほぼ同じであるのに、細部のメリハリや展開の説得力においては、不満が多いという印象が正直なところ。だがそれゆえにこそ、今回のようなミンコフスキと都響のような、隅々まで充分に音が鳴った演奏で聴くことで、ブルックナー本来の音楽というものに迫ることができるのだと思う。オケ全体による大音響の爆発力から、そこに浮かぶ木管の呼吸のよさ、また、後の稿にはない弦楽器の細かい音型の掛け合いに至るまで、どの場面にも演奏家たちの明確な意志が見える。そして終楽章の大詰め、後年の版ではさらに周到に設計されたクライマックスが、ここでは意外とあっさり終わるまで、ミンコフスキはそのずんぐりむっくりしたブルックナーそっくりの体型で必死に棒を振り、全身全霊をもってこの曲を終えたのである。そうして私は、上記の初演のときのエピソードを思い返していた。当時はウィーン・フィルでさえ、オケの技量は曲の真価を明らかにするには充分ではなく、また楽員の曲への理解も浅かったであろう。それに比べて、150年近く経過した今、極東の街に響くこの曲の初稿が、これだけのクオリティを持ち、またそれを聴いた聴衆たちも大喝采を送っている。これは文化の伝播であり進展である。恐らくミンコフスキも、これまでの 3回の都響との共演で、そのことを実感しているのではないか。であれば、今後も是非頻繁に来日し、その素晴らしい手腕を聴かせて欲しいものである。マルク・ミンコフスキ。文化に関心のある方々には覚えて頂きたい名前である。
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# by yokohama7474 | 2017-07-11 01:09 | 音楽 (Live) | Comments(0)

パトリオット・デイ (ピーター・バーグ監督 / 原題 : Patriots Day)

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世界各地でテロが起こっている今日、人々にはそのような事態への備えはできているだろうか。日本を歩いていると、あまりそういう感じがしないのであるが、そのことはここ日本が平和である証拠であると思っており、それは感謝しないといけないことなのだろう。そんなことを考えるのは、この映画が、未だ記憶に新しい 2013年のボストン・マラソンでの爆弾テロを扱っているからである。米国の場合、ほんの数年前に起こった事件を映画にすることは普通に行われていて、それはかなり思い切ったことであると思う。というのも、当事者たちがほとんどの場合は生きていて、英雄視するならまだしも、中には人間的な弱さを見せるキャラクターもいるからだ。この映画では、あまり悪い人たちは出てこない (犯人たちの描き方は後で触れよう)。だが、それぞれの立場の違いというものはどうしようもなく存在し、鑑賞者の中には、何人かのキャラクターに対して反感を抱く場合もありえよう。このような思い切った描き方は本当に米国ならではと思うのである。この映画においてテロ犯人に立ち向かった勇気ある人々はこんな感じ。
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主役及び製作は、今やハリウッドを代表する俳優のひとりであるマーク・ウォールバーグである。「トランスフォーマー」シリーズや「テッド」で見られるように、決して完全無欠のヒーローという役柄を演じてきたわけではなく、どこか人間的な弱さのある、だがいざというときには頼りになる、そんな役柄がメインであり、この映画もその例に漏れない。彼がここで演じているのはボストン警察巡査部長であるが、決して優等的な警官ではない上、別の事件の捜査過程で膝を痛めているのだが、その痛みを押して「パトリオット・デイ」(「愛国者の日」という意味)、つまり 4月の第 3月曜日に行われるボストン・マラソンの警備に当たる。以下が映画における爆発シーン及び本物の爆発シーン。映画が非常にリアルに作られていることが分かるのだが、後述の通り、このリアリティがこの映画の生命線であるのだ。
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そうなのだ。この映画で描かれるドラマは、ほとんどドキュメンタリーに近いと言ってもよい。そのリアリティゆえ、平和な日本に住んでいる我々には、まさに脳天をガツンとやられるほどの衝撃だ。というのも、映画はこのテロ事件に巻き込まれる、それぞれに全く無関係の人たちの前日からの様子を描いているからで、それはつまり、本人たちがあずかり知らない運命という奴が無慈悲に人間世界を翻弄する様子であるからだ。爆弾のすぐ近くにいることになる若いカップル、犯人たちに乗っ取られた車に同乗することになる中国人留学生、銃を求めた犯人に殺される未だ若い警官、逃亡した犯人が潜伏することになる田舎町のベテラン刑事、そして、犯人たちとその家族の生活すら、克明に描かれる。もちろん犯人たちは悪人であるというトーンではあるものの、彼らの犯行の動機については詳しく描かれておらず、狂信的なイスラム教徒というよりは、現実世界に埋もれることが嫌で、何か目立つことをしてやろうという未熟な若者たちというように見える。つまり犯人たちも人間であるということであり、そのような描き方は、この映画のひとつの見識であると思う。この世界においては、何かが絶対的に悪いという評価になることはむしろ稀であり、多様な価値観の混在こそが、クラクラするような現代社会の病巣でもあるという、極めて深刻な事態を見る者に突きつけるのである。これは映画の中でテロリスト兄弟を演じる役者たちであるが、かわいそうなことに、プログラムを見てもその名前は出ていない。二人とも、かなりの熱演であると思うのだが。
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このような仮借ないリアリティを映画にもたらしたひとつの要因はもちろん、役者たちの貢献であると思う。見よ、この豪華出演人。まず、FBI 特別捜査官を演じるケヴィン・ベーコン。そして、ボストン警察警視総監を演じるジョン・グッドマン。さらには、ウォータータウン署巡査部長を演じる J・K・シモンズ。いずれの役者も最高の出来である。
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この手の映画の最後には、劇中の人物の本物が出てきて語ることが多いが、この映画の場合も、事件がほんの 4年前ということで、主要登場人物全員がその姿を見せる。それがいちいち映画でその役を演じている役者とそっくりであることは驚くばかり。以下、左が本人、右が役者。
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このような徹底したリアリティによって凄まじい迫力で明らかになるのは、人間というものは危機に瀕したときには素晴らしい団結力と行動力が生まれるということ。吐き気を催すようなテロに対して、人間世界はまだまだ捨てたものでない強さを持っている。そのようなことを信じることができるこの映画を、平和に恵まれた我々日本人は心して見なくてはいけないと思うのである。この作品の監督ピーター・バーグは、その単純な名前にもかかわらず (笑)、様々に複雑な人生のひだを余すところなく描いていて素晴らしい。マーク・ウォールバーグとは既に「ローンサバイバー」「バーニング・オーシャン」でコラボしている。これがウォールバーグとバーグのツー・ショット。
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このようなリアルなテロの恐怖を味わうことは、やはり意味のあることだと思う。米国のすべてがよいとは全く思わないが、尊敬すべきところは尊敬したい。この映画の米国公開時のポスターに、彼らの強さを感じることができるのである。
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# by yokohama7474 | 2017-07-10 00:16 | 映画 | Comments(0)

ミュシャ展 国立新美術館

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この展覧会は既に 1ヶ月以上前に終了したもの。東京、六本木の国立新美術館で開催され、残念ながらその後の地方巡回はない。その理由はひとえに、ここで展示された作品の貴重さということになろう。実際にこれは、日本の西洋美術受容史に残る画期的な催しであったのではないか。この国立新美術館は大変に広い美術館で、いくつもの展覧会を同時並行で開催しているのであるが、先にこのブログでもご紹介した草間彌生展の最中からこのミュシャ展は開催されていた。愚かな私は、そのミュシャ展がどれほどの内容であるのかを知らずに月日を過ごし、はたと気が付くと、ほぼ 3ヶ月の会期は終わりに近づいている。これはいかんと思って、会期中最後の日曜日に開館時刻 9:30 を目指して現地に向かった。ちょうど開館時刻に到着した私が目にしたものは、「待ち時間 80分」の表示である。昨年の若冲展ほどではないにせよ、これは大:変な大混雑である。その日は入場を断念した私は、その数日後、会社のフレックス制を利用して 17:30 頃に現地到着。やはり少し列があるものの、なんとか 30分は時間がある。ちょっと短いがやむを得ない。もちろん中に入っても大混雑であったのだが、とりあえず一通りは見ることができたのである。これはミュシャによるポスターの代表作のひとつ、「ヒヤシンス姫」。
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この展覧会では、世紀末のパリに出てその華麗なるポスターで一世を風靡したアルフォンス・ミュシャ (1860 - 1939) の数々の名作ポスターも展示されているものの、そもそもミュシャという名前はフランス語読みであり、彼の故郷チェコでは「ムハ」と発音する。この展覧会では、ミュシャというよりもむしろムハと呼ぶべき画家がその心血を注いで制作した巨大な 20枚の壁画が来日することとなった。私は生まれて初めてチェコの首都プラハを訪れた 2003年、ムハの、印刷されたポスターではない巨大な肉筆画を見た記憶が明確にあり、また、何かの本 (芸術新潮の特集かと思ったのだが、探してもどうしても出てこない) で、パリのミュシャからプラハのムハに戻ったこの画家の畢生の大作「スラヴ叙事詩」について読んだことがあるので、この超大作のシリーズを現地で見たとばかり勘違いしていた。だが、そうではなかった。この「スラヴ叙事詩」は、チェコ国内でも滅多に見ることができないもので、ましてやチェコ国外に出るのは今回が歴史上初めてのこと。東京の美術ファンはそのことに深い感謝を捧げるべきであろう。こんな素晴らしい作品群をいながらにして見ることができたのであるから。異常なほどの大混雑も、これなら理解できる。これは 1929年、69歳のミュシャの肖像写真。あの華麗なる数々のポスターのイメージとは異なる硬骨漢の雰囲気があるではないか。
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今回奇跡の来日を果たした「スラヴ叙事詩」は、故国に還ったミュシャが、チェコにとどまらないスラヴ民族の歴史における数々のシーンを描いたもの。米国の富豪による資金援助を得て、1910年から 1928年にかけて制作され、プラハ市に寄贈された。だが近年に至るまではチェコの中にある城に保管されており、交通の便が悪いために多くの人の目に触れることはなかったらしい。2012年以降はプラハ国立美術館の所蔵になっているので、恐らく現地で見ることが容易になったということだろうか。以下にこの 20作品を順番に見て行くが (作品につけられた番号は、制作年順にはなっていない)、ここには強い愛国心に突き動かされる偉大なる芸術家の姿が生々しく刻まれているのである。我々は音楽の分野で既に、チェコ人の強い愛国心をよく知っているが、この連作は絵画におけるそのような例として、未来永劫人々に感動を与え続けるものであろう。

これは 1作目、上のポスターでも使われている「原故郷のスラヴ民族」(1912年、610cm × 810cm)。この後もこのシリーズに頻繁に現れる、中空に浮かぶ人物と、まっすぐに鑑賞者を見据える人物が、ここで既に見られる。20世紀の民族自決主義に基づく希望と、世紀末的な退廃がないまぜになった、ちょっとほかにはない独特の世界である。現代に生きる我々は、このまっすぐな視線に耐えなければならない。
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これは 2作目、「ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭」(1912年、610cm × 810cm)。ここでも宙に浮かんだ人物が怖いほどだ。
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これは 3作目、「スラヴ式典礼の導入」(1912年、610cm × 810cm)。ここでも見事なほど、宙に浮かぶ人物たちと正面を向いている人物が神秘的である。
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4作目、「ブルガリア皇帝シメオン 1世」(1923年、405cm × 480cm)。この連作のテーマはスラヴ民族なので、チェコだけでなくブルガリアも題材になっているのである。
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5作目、「ボヘミア王プシェミスル・オタカル 2世」(1925年、405cm × 480cm)。
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6作目、「東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン」(1923年、405cm × 480cm)。これまでの中で最も淡い色調で、今日の目から見ると若干看板画風という感じもあるが、これだけの大作を破綻なくまとめる画家の手腕は否定しがたい。
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7作目、「クロムニェジーシュのヤン・ミリーチ」(1916年、620cm × 405cm)。連作の中では比較的小さい作品だが、やはり多くの人物を絶妙に配置している。
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8作目、「グルンヴァルトの戦いの後」(1924年、405cm × 610cm)。やはり淡いタッチでありながら、そこにはリアルな死が描かれているのである。
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9作目、「ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師」(1916年、610cm × 810cm)。ヤン・フスは未だにチェコで深く尊敬される宗教改革者。フスは、左手中央で身を乗り出して説教している。右手手前では、ヴァーツラフ 4世王妃ソフィアの侍女が、思案しながら鑑賞者に訴えかけてくる。
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10作目、「クジーシュキでの集会」(1916年、620cm × 405cm)。これは少しパスカル・ダヴィッド・フリードリヒを思わせる神秘性だ。
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11作目、「ヴィートコフ山の戦いの後」(1923年、405cm × 480cm)。ここでも死屍累々の場所で神への祈りが捧げられる。
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12作目、「ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー」(1918年、405cm × 610cm)。これも戦場。スラヴ民族の歴史においては、多くの流血が起こっているという事実から目をそむけないようにという思いからであろうか、画家は悲惨さではなく戦後の平穏を描いているようにも思われる。
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13作目、「フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー」(1923年、405cm × 480cm)。赤い衣の人物は教皇の使いであるが、その横柄な態度に怒ったチェコの国王が右端で椅子を蹴って立ち上がっている。だがミュシャの筆は、大きな窓から差す神々しい光が、人間同士の対立を和らげているような雰囲気を醸し出している。
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14作目、「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛」(1914年、610cm × 810cm)。「スラヴ叙事詩」20作のうち、唯一戦闘場面を描いている。真ん中右寄りに見える黒い柱のようなものは火薬の煙で、これから大爆発が起こることを示している。
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15作目、「イヴァンチツェの兄弟団学校」(1914年、610cm × 810cm)。前景の老いた盲人に聖書を読んで聞かせる若者は、ミュシャ自身の若い頃がモデルになっているという。
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16作目、「ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々」(1918年、405cm × 620cm)。荒涼とした淋しい作品である。
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17作目、「聖アトス山」(1926年、405cm × 480cm)。これはすごいヴィジョンである。まるで最近のハリウッド映画の SFX のような宇宙的な神秘性がある。
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第 18作、「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」(1926年、390cm × 590cm)。画面左手前の女性のモデルの写真が残っている。ミュシャはこの連作を制作するにあたって、プラハ近郊のズビロフ城の一部を借り、この大作に登場する人々の多くのモデルが近隣の村人であったようだが、この女性のモデルはミュシャの娘であるそうだ。実はこの作品、一部の人々の顔が描かれていない、未完成の作品なのである。それは、左側で愛国的な誓いを立てる男たちのポーズが、ナチスの敬礼を思わせたからだそうだ。複雑な時代背景を伺うことができる。
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第 19作、「ロシアの農奴制廃止」(1914年、610cm × 810cm)。チェコ人にとってロシアは憎むべき敵国かというイメージがあるが、この作品は米国人のパトロン、チャールズ・R・クレインの要請によって描かれたものらしい。
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そして第 20作、「スラヴ民族の賛歌」(1926年、480cm × 405cm)。これもまたハリウッド的な鮮烈なヴィジョンと呼んでもよいかもしれない。
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だが私がここで連想するのは、ベルギー象徴主義の画家、ジャン・デルヴィルの「サタンの宝」(1895年作) である。クラシックファンの方には、サイモン・ラトルがバーミンガム市交響楽団と録音したメシアンのトゥーランガリラ交響曲のジャケットに使われていたことを覚えておられよう。筆致はデルヴィルよりはかなり柔らかではあれ、やはりミュシャは世紀末の画家なのである。
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さて、会場にはこの「スラヴ叙事詩」以外にもポスター類や肉筆画を含む数々のミュシャの作品が展示されていて、まさにミュシャの全貌に迫る驚異的な内容であったのである。だが私が大変に感動し、また興奮したのは、「スラヴ叙事詩」の展示スペースの最後、第 15作から第 20作までが、撮影自由であったことだ。なんという素晴らしい体験であったことか!! 会場の熱気を伝えるために、私がそこで撮影した写真をお目にかけて、この展覧会のご紹介を終えたいと思う。
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# by yokohama7474 | 2017-07-09 00:50 | 美術・旅行 | Comments(0)