恒例の、東京近郊、安・近・短の文化の旅シリーズである。今回採り上げるのは、千葉県市川市。東京の東側、江戸川を渡ったすぐに位置する街で、これはもう、ほとんど東京と言ってよい。異論のある方、ここはひとつ穏便に。そもそも、葛飾という地名があるが、それはどこを指すのであろうか。その質問にはもちろん、今の葛飾区、つまり東京都 23区内だろうと答えたくなる。だがしかし、東葛飾高校(トウカツ)という学校があるが、あれは千葉県の学校なのであって、東京都ではなく、どうも様子がおかしい。そこで調べてみると、葛飾という地名は、なんと奈良時代の正倉院文書にも登場する非常に古いもので、江戸時代に下総国の一部であった葛飾郡とは、現在の東京・千葉・茨城・埼玉にまたがる地域であったらしい。つまり、現在の感覚で東京だ千葉だというのがそもそもおかしいのであって、歴史を振り返ってみるときには、今の都道府県にとらわれてはいけないのである。実際に調べてみて分かったことには、現在の市川市には大変古い歴史があるのだ。ここでご紹介できるのはそのほんの一部だが、これまで市川市の歴史的真価をご存じなかった方には有意義な情報であろうと信じるので、是非お読み頂きたい。

そもそも私が以前から市川の歴史的な場所を歩きたいと思っていたには理由がある。それは、文豪永井荷風 (1879 - 1959) の終焉の地であるということだ。今年の 1月 8日の記事で、「荷風晩年と市川」という本をご紹介したが、実はそのときに私は、いつの日か市川方面を探訪して記事を書くと宣言した (http://culturemk.exblog.jp/25136000/)。今回の記事はその宣言に基づくものである。もっとも、この記事はこのブログの記事として最も不人気なもののひとつで (笑)、アクセス数が非常に少ない。大変に残念である。ワーグナー関係の記事とかユジャ・ワンのコンサートの記事にはひっきりなしにアクセスがあるので、いずれこれらの記事の題名だけ残して、中身は「荷風晩年と市川」にすり替えてやろうかしらん、などと考えている今日この頃 (もちろん冗談です)。

そんなわけで、GW の一日、安・近・短の旅である。最初に向かうことにしたのは、市川市文学ミュージアム。車で市川インターを下りて国道 14号線に向かう途中、右手にコルトン・プラザが見えるが、そのすぐ横、市川市生涯学習センターの中にある。このような、なかなかにしゃれた立派な建物である。
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あちこちで文化探訪の旅を続けてきている私には、経験則から来るひとつの思惑があった。今回市川では、荷風の旧居や彼のゆかりの地をまずは訪ねたいと思ったのだが、いかんせん整備された観光地ではないので、充分な情報がない。調べてみると大変詳しい記事を書いておられるブログなどもあり、それなりにイメージを持つことはできたものの、やはり情報量に限界はある。その点、その地に足を運べば、地元で発行している地図などあるに違いないと思ったのである。案の定、そこには「いちかわ 時の記憶」とか「昭和の市川に暮らした作家」などの発行物が販売されていて、街歩きには大変参考になったのである。
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この市川市文学ミュージアムには、荷風のみならず、市川ゆかりの文学者たちの遺品や原稿の数々が展示されている。展示スペースはごく限られたものであり、展示品は撮影禁止なので写真は掲載できないが、地元の誇りが感じられるこのような場所を、私は大好きなのである。因みに、作家としては荷風以外には、幸田露伴・文親子、井上ひさし、安岡章太郎、中野孝次、五木寛之、そして脚本家の水木洋子などがここ市川に暮らしたことがあるようだ。それから、NHK の朝ドラ「梅ちゃん先生」のオープニングで有名になった山本高樹による、荷風の家やその近所を再現した情緒あふれるジオラマが 2つ展示してあったが、残念ながらそれも撮影禁止。正直なところ、このジオラマの撮影を許可して頂ければ、もっと宣伝することができると思うのだが。仕方ないので、同じ山本によるジオラマを表紙にあしらったこのような雑誌の写真を掲げておく。
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さて、いよいよ事前に当たりをつけておいた荷風関連の場所の探訪である。当然最初に訪れたのは、京成八幡駅近くの「大黒家」。晩年の荷風が毎日ここでカツ丼を食べていたとは有名な話。
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だが、私が訪れたこの日は休業中。事情はよく分からないが、何かトラブルがあったようで、食べログも掲載留保になっている。早く再開してほしいものだと思う。
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ランチとしてこのカツ丼をあてにしていたのだが、やむなく近辺で、これも悪くない食事を取り、早速その近くにある荷風終焉の家を探すことにした。ネットで調べるといろいろ詳しい情報が出てくるが、観光地ではなく未だに人の住んでいる家なので、ここでは場所について明記することは避ける。大黒家からすぐ近くである。この塀は昔の写真で見るものと同じである。決して豪邸ではなく、晩年の質素な暮らしぶりが伺える。この場所から戦後の世の中を見ていた、あるいはそこから回避していた荷風に、思いを馳せる。
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それから歩き出した道は、その名も「荷風ノ散歩道」と名付けられている。先に訪れた文学ミュージアムでもらった地図を片手に、荷風が散歩したという道を歩く。荷風が通った歯医者や文房具屋などが今も営業を続けている。
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ネット情報や本の事前の情報に従い、荷風が通っていたという銭湯、菅野湯 (「すがの」とはこの地の名前) を探してみる。数年前のネット情報や、本のこの記事には、「今も健在」とある。
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ところが、東菅野 1-4 という番地と地図を頼りに探してみたのだが、そこには銭湯は既にない。もしかすると、このような駐車場あたりがその跡地になるのだろうか。
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気を取り直してまた歩き出し、辿り着いたのは、これはなくなるわけがない (笑)、白幡天神社。荷風はよくここの境内に佇んでいたという。源頼朝が 1180年、以仁王による令旨に応じて挙兵したが敗走し、安房の国で再起を期したが、その際この地で白い旗を揚げたのが、社名のいわれとも言われている。
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この神社には、この地にゆかりの 2人の文学者、つまり幸田露伴と永井荷風の石碑が立っている。
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ここで幸田露伴の名前が出たが、実はこの偉大な文学者はこの近隣で終焉を迎えている。1947年のその葬式は、荷風もこっそり見に出かけたらしい。きっと直接の交友関係はなかったのであろう。私は今回、地図とにらめっこしてその露伴終焉の家の場所を特定しようとしたが、今となっては既に跡形もない。露伴の家と言えば、「蝸牛庵(かぎゅうあん)」と名付けたものが、愛知県の明治村にあると記憶するが、調べてみるとそれは随分古い時代 (1897年から約 10年) のもの。だが露伴は転居しても自分の家のことを蝸牛 (カタツムリのこと) 庵と名付けたらしいので、この市川の終焉の家も同じ名前であったのだろう。また、その少し東側に一時期荷風の住んだ家があったらしい (終焉の家に移るまで。因みに荷風は市川で 4軒の家に移り住んだ)。こちらも、石碑も何もなく、場所の特定は不可能。ただ住所でこのあたりかと思って撮ったのがこの写真。細い道が微妙に曲がっているあたり、一筋縄では行かない荷風の好みを反映しているように思う。
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さて、それからやはり荷風がよく散歩したという葛飾八幡宮に向かおうとして、地図を片手に歩いていると、面白い場所を発見。あの切り絵の天才、山下清が暮らした障害者施設、旧八幡学園の跡地である。前の記事でアール・ブリュットの画家、アドルフ・ヴェルフリをご紹介したが、天才的としか言いようのない山下清の作品こそ、日本のアール・ブリュットなのではないか。施設自体は既に市内のほかの場所に移転し、今でも存続はしているようだが、山下のいた場所には、その痕跡すらない。
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そして、葛飾八幡宮である。そう、東京都葛飾区ではなく、千葉県市川市にある堂々たる葛飾八幡宮。神社の裏手の鳥居から境内に入ることを許して頂こう。だかその後正面にも回り、市川市指定の文化財である随神門からもお参りしたのである。
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この神社は、現在でも相当な規模であるが、その歴史も大変古く、平安時代、寛平年間 (889 - 898) に宇多天皇の勅願によって創建されたという。また、白幡天神社と同じく、ここにも源頼朝の伝説がある。このような石なのであるが、これは頼朝がこの神社で武運を祈った際に、彼の馬が残したひづめの跡であるという。それゆえ、「駒どめの石」と呼ばれているのである。
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面白いのは本殿の前に置かれた常夜灯である。荷風の日記「断腸亭日乗」の中に、この石灯篭の裏に「明和五年丙子 (ひのえね) の年号を見る」とあるらしいが、実際にはこのように「明和五戊子 (つちのえね) 年」である。因みに明和 5年とは、1768年。
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それから荷風は同じ記事に、この大きな絵馬についても言及している。これは神功皇后 (この神社の祭神) と武内宿禰による新羅出兵の図で、幕末のもの。荷風は、「大した画家の作品ではないようだが、最近このようなものを見ることが少ないので、昔の浅草観音堂を思い出して見入ってしまった」というようなことを書いている。
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またこの神社には、その歴史を感じさせる素晴らしい樹木がある。推定樹齢 1200年を超えると言われる天然記念物、通称「千本公孫樹 (イチョウ)」。根元に沢山の木が集まって幹をなしているように見えるのでその名があるという。つまりこの木は、この神社の歴史をつぶさに見てきたことになる。頼朝が挙げた雄たけびも聞いているわけである。
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さてこの葛飾八幡宮を出て京成の線路を横切り、国道 14号線を渡ったところに何やら不思議な場所がある。私は以前何度かこの場所を車で通っていて、いつも気になっていたのである。こんな場所だ。
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一部分だけ残された竹藪。これは不知八幡森 (しらずやわたのもり)。荷風はこれについて、やはり「断腸亭日乗」で少し触れているが、「竹林の中に石碑があるが、石垣に囲まれて見ることはできなかった」としている。この場所は車で前を通るだけで何か異様な雰囲気を感じるが、それもそのはず、江戸時代から長らく「入ったら出てくることのできない場所」と言われてきたのである。あの黄門様、水戸光圀が中に入って神の怒りに触れたという伝承もあるようだ。確かに、この鬱蒼とした竹藪は、一目見るだけでも禁忌の場所のイメージがある。ちょっと覗いてみると、一部の竹は枯れて茶色くなり、倒れているのだが、そのままになっている。
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現地に立っている説明板によると、もしかするとこれは、古い時代の八幡宮の「放生 (ほうじょう) 池」の跡ではないかとのこと。生きた魚を放つため、立ち入り禁止であったその池が、後に埋め立てられ、「入ってはいけない」との伝承のみ残ったという説だ。この森の中央の地面は四角形になっていて、その説は有力であるらしい。歴史があり、人々の往来が多いにも関わらず、歴史的な空白 (千葉県の名前の謂われになった千葉氏の支配の時代には、内紛でこのあたりは荒廃したという) ができたことで、なんとも神秘的な場所ができてしまったわけである。なるほど、歴史だけでもそうはならないし、ただ空白があるだけでもならないわけで、様々な要因が重なってこのような景観が生まれているということになる。

さて、ここまでは永井荷風が過ごした街の様子であったが、それからまた、違った顔の市川探訪に続いて行くのである。

# by yokohama7474 | 2017-06-03 01:13 | 美術・旅行 | Comments(0)

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これは、アドルフ・ヴェルフリという画家 (1864 - 1930) の回顧展。もちろん日本で初めて開催されるものである。だが私の知る限り、この画家の作品を見ることのできる展覧会が、かつて一度あった。今私の書庫からその展覧会の図録を持ってきてみると、おっと、その時のチラシまで挟まれている。これである。
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1993年に世田谷美術館で開かれた「パラレル・ヴィジョン」展。私は今でもこの展覧会を見た衝撃を忘れない。それは、私が人生で初めて接する大量のアール・ブリュット、その当時の言葉で言えばアウトサイダー・アートであったからだ。随分以前、このブログを始めた初期の頃に、パリでヘンリー・ダーガー展を見たことを書いたが、彼などはその後アール・ブリュットの代表選手のように言われ、日本でも写真集が出たし、展覧会も開かれたのである。もちろん、アール・ブリュットはヘンリー・ダーガーだけでなく、様々な作家がいるわけであるが、さしずめこのヴェルフリなどは、ダーガーと並ぶアール・ブリュットの代表選手と言えるのではないだろうか。さてそれでは、ここで何度も言及したアール・ブリュットとは何か。この言葉はもともとフランスの画家ジャン・デュビュッフェが提唱した概念で、「生の芸術」とでも訳せばよいだろうか、正規の美術教育を受けていない、多くはアマチュア画家による作品のこと。もともとのアウトサイダー・アートという言葉は、精神病を病んだ人や受刑者に対する差別的な響きがあるので、このアール・ブリュットという言葉に置き換えられたものであろう。私にとってこの分野は限りない興味を惹くものであり、南仏にある「シュヴァルの理想宮」も訪れたし、スイスのローザンヌにあるアール・ブリュット・コレクションも当然訪れたことがあるのである。因みに上記の「パラレル・ヴィジョン」展は実は日本オリジナルの企画ではなく、東京での開催の前に、ロサンゼルス、マドリード、バーゼルでも開かれている。つまりこの展覧会は、世界がいわゆるアウトサイダー・アートを発見するきっかけになったということだろう。

ではこのヴェルフリという画家、どのような人であったのか。スイスのドイツ語圏に 1864年に生まれたという点に注目しよう。もちろん我々は、同じ年にアルプス近辺で生まれた大芸術家を知っている。作曲家のリヒャルト・シュトラウスだ。なるほど、音楽で言えば後期ロマン派であり、ヨーロッパ先進諸国の間で台頭した帝国主義が、20世紀に入ってからの世界大戦に直結する、そんな時代の人なのである。彼の肖像写真を 2点。ピカソかとおぼしき風貌と、チロルの民族衣装 (?) の可愛らしさのギャップが既にしてブリュットなのだ (笑)。
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この展覧会の副題になっている通り、この人は 1908年以降、死去する 1930年までの間の生涯に 25,000ページに亘る作品を作り上げた。その写真がこれである。信じられますか。
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人間、神経回路が何かひとつに向かうと、尋常ではないエネルギーが生まれるものと見える。実はこのヴェルフリの前半生はかなり悲惨なのである。彼が絵を描き始めたのは 1899年、入院中の精神病院においてのことであった。だがその前に彼は少女に乱暴した咎で 2度も刑務所に入れられているのである。もちろん昔の話であるから、客観的事実は分かりようもない。もしかすると、精神に欠陥のある彼を犯人にすると都合がよかったという事情があっても、おかしくないかもしれない。もっともそのあたりの乱暴の事実は、本人の手記でも残されているようなのであるが・・・。ともあれヴェルフリが創作を始めた初期の作品がこれである。1904年の作で、「前掛けをした神の天使」。現存するヴェルフリの作品として最も古いもの。
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アール・ブリュットに典型的な、強迫観念を思わせる細密な描写。まさにモノクロの迷宮である。この流れで、1905年の「ウォルドルフ=アストリア・ホテル」の部分アップと「ニューヨークのホテル・ウィンザー」。きっと夢の中で見たニューヨークのホテルを、まるで神殿のようにイメージしたもののようである。後者のホテル・ウィンザーにはなじみがないが、前者のウォルドルフ=アストリアは、Park Avenue 沿いの、ニューヨーク有数の由緒あるホテルとして有名である。私は、そこの泊まったことはないものの、訪れたことは何度もある。因みに今は中国系資本です。
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さて、上述の通り、彼が 25,000 ページに亘る作品を作り始めたのは 1908年のこと。ここでは彼の仮想のヴィジョンには色がつくことになる。これは、「ゆりかごから墓場まで」という旅行記 (?) の中から、1910年に描かれた「デンマークの島 グリーンランドの南=端」。この旅行記は何かと言うと、主人公の少年ドゥフィ (アドルフの愛称) が、家族とともに世界を旅して、様々な危機を乗り越えて進歩を遂げて行く話。
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これも同じく「ゆりかごから墓場まで」の中から、1910年の「バント (帯) = ヴァント (壁) の中の聖ヴァンダナ = 大聖堂)。ここでは直線的な要素が勝っているが、真ん中の三角形のぎゅっと曲がったカーブは美しく描かれている。余白を恐れるように空間をびっしり埋め尽くした様々なイメージが、ヴェルフリの夢想した世界の諸相であったのだろう。ちょっと鳥肌立つようなものではないか。
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これはモノクロに戻るが、1911年の「アメリカ、カナダ合衆国のチンパンジー = 猿」。これまでにも出ていた楽譜のイメージが、かなり大きく出ている。十字架のイメージも見えて宗教的な要素もあるが、四隅に見える動物は牛だろうか。ちょっとシャガールを連想させる。
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これも共通点のある作品で、やはり 1911年の「グニッペ (折りたたみナイフ) の主題」の一部。ここでも司祭のような人物がおり、楽譜を首の回りに巻いている。
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これはちょっとエリザベス 1世を思わせるイメージではないだろうか。あとですね、犬が怪我などしたときに、こういうものを首に巻きますね (笑)。犬の写真はほかの方のブログから拝借しました。
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これも 1911年の作で、「機械工にして板金工 = 職人のアルブレヒト・キントラーの殺害、家族の = 父、強姦のせいで」。長い題名であり、正直意味が分からないが (笑)、ここにも宗教的、貴族的、音楽的な要素が満載である。彼自身が犯したとされる犯罪へのトラウマがあるのだろうか。
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ヴェルフリの目くるめくイメージはまさに夢に出てきそうなものであるが、空間を埋め尽くす感覚に加え、時に放射的なイメージも登場する。これはやはり 1911年の「エン湖での開戦、北アメリカ」。強烈である。
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見る者の勝手な想像では、これはモローの名作、サロメをテーマとした「出現」のパロディではないか。違うか (笑)。
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1911年の作品が続く。これは「ネゲルハル[黒人の響き]」と、「氷湖の = ハル[響き]」。もうクラクラする。願わくば、縦と横が間違えていませんように (笑)。
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上に掲げた作品の中には、何やらヴェルフリが鉛筆で手書きした文章や単語が見えるが、中には、延々と数字が並んでいるものもある。これは彼が 1912年から 1916年にかけて制作した「地理と代数の書」から。これは先の「ゆりかごから墓場まで」のような過去を振り返るものではなく、来るべき未来をテーマとしたもの。甥のルドルフに対し、自分の死後どうすれば「聖アドルフ巨大創造物」を作り出すことができるかを説いているらしい。そしてここでは、想像を絶する巨大な富 (自分で巨大な数の単位まで考え出している) が計算されるのである。稀有壮大なストーリーの果てに、アドルフ・ヴェルフリはついに「聖アドルフ II 世」を名乗ることとなる。
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聖アドルフの顕現はこのようになされる。1914年の「太平洋、ビスカヤ島の = 港での神聖なる聖アドルフの勝利」。なるほどここではパートカラーなのである。
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アール・ブリュットを代表するヘンリー・ダーガーの作品には、既存の写真等を使用したコラージュが多いのであるが、ヴェルフリも後年になると同様の手段を用いている。1915年の「ロング・アイランドの実験室」。ロング・アイランドとはニューヨーク、マンハッタンの東にあるあの地域のことであろう。もちろんヴェルフリがそこを訪れたという事実はないはずであり、何かの雑誌で見てインスピレーションを得たものであろう。
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これも 1915年の「全能なるガラスの = 響き」。ここでは、上の作品に見えているのと同じ、何やらナメクジのような横長の動物 (?) が登場している。
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ところでこの展覧会には、ヴェルフリがその膨大な作品群の中で使用した様々なヴィジュアルイメージを分類しているコーナーがある。いやはや、大変ご苦労様なことである。ここでは、上で見たナメクジのようなかたちもリストアップされている。
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ヴェルフリはその後も、「歌と舞曲の書」(1917 - 1922年) や「歌と行進のアルバム」(1924 - 1928年) などを制作している。このあたりになってくると、体力的な問題もあったのか、めくるめくイメージを紙の上いっぱいに展開するのではなく、コラージュが増えてくる。これは 1917年の「オイメスの死、事故」と、真ん中の写真のアップ。山での遭難事故を題材にしたものか。
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最後に、「葬送行進曲」と名付けられた最後の作品群 (1928 - 1930年) から、興味深い一点をご紹介しよう。これは上述の 1993年の「パラレル・ヴィジョン」展にも出品されていた、1929年のヴェルフリの作品だ。何やら多くの数字が手書きで書きつけられた横に、いわゆるモガのイラストが貼られている。
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この作品には題名がないようだが、下の方に貼りつけられているのはこれだ。
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そう、キャンベルのトマト・スープ。米国の会社キャンベルは実に 1869年設立で、世界で缶スープを販売していたので、ヴェルフリもスイスにいながら、同社のスープを飲んでいたことだろう。そしてキャンベル・スープと言えばやはりこれだろう。
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そう、もちろんアンディ・ウォーホルだ。私はここで、アール・ブリュットの作家たるアドルフ・ヴェルフリが、実は 20世紀米国のポップ・アートを代表するアンディ・ウォーホルに影響を与えていた!! という主張をするつもりはない。ただ、このような既成のイメージが面白いと思ったに違いないヴェルフリの脳髄のひらめきに感嘆するのである。ウォーホルは逆説的に美術の意味を問うためにキャンベル・スープを使ったが、ヴェルフリは、ただ面白いから使ったのである。この「ただ面白い」という感覚がいかに貴重なものであるか、私は再度認識するに至ったのだ。アール・ブリュットはこれからますます脚光を浴びることであろう。私としては、偉大なる芸術家には血のにじむような鍛錬をして欲しいと願う面は強いのであるが、このような圧倒的な美術を生み出す人間精神の潜在能力には驚嘆する。「通常の」アートとは異なる意義を深く認識させてくれる、これは貴重な展覧会なのである。

# by yokohama7474 | 2017-06-02 00:43 | 美術・旅行 | Comments(0)

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東京・六本木ヒルズにある森美術館で開かれているこの展覧会は、1969年生まれのインドのアーティスト、N・S・ハルシャの、日本初の大規模な回顧展。上のポスターを見ると、何やらカラフルな沢山の人たちが描かれていて楽し気だし、「チャーミングな旅」という副題も気を引く。これがハルシャさん。
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彼は南インドの古都マイスールに生まれ、今もその地に住んでアート活動を展開しているらしい。この展覧会のタイトルにある「ジャーニー」とは、彼自身の人生の歩みだけではなく、インドの経済発展、伝統と現代の間の往来などの様々な「旅」が示唆されていると、主催者の説明にある。実際にこの展覧会に足を運んでみると、ポスターに見られる、ミニマルアートのような、またヒンドゥー教の様々な神の姿のような、にぎやかで鮮やかな作品だけでなく、ブラックユーモアをたたえたものや強烈な表現力で仮借ない社会の真実を抉り出したものなど様々で、近年国際的に注目されているというこのアーティストの全貌にかなり近づけるものとなっている。会場では写真撮影が自由なので、最初は大きな作品の細部など撮ろうかなと思ったのだが、結局、ごく最小限にとどめておいた。というのも、細部を見て行くと面白くてきりがなく、それを次々と写真に撮っても、どうにも埒が明かないというか、面白みが伝わりにくいと感じたからである。ここには、インドの人たちの暮らしぶりや、あるいはさらに広く人の生きざま、あるいは国や地方の政治・経済の変遷が、様々なかたちをとって表されており、ファンタジーと現実感がない交ぜとなった面白さがある。私も今回初めてその名を知ったアーティストであるが、様々なことを考えるヒントをもらえる新鮮な展覧会である。

まずこれは、1995年の「無題」。延々と描かれているのは象である。左右や上下に見えるのは、何か祭りの飾りででもあるかもしれないが、何やら金属的な錆びのようでもあり、花のようでもあって、一方の象たちが線だけで描かれた無色の存在なので、その対照が不思議な感覚を呼びさます。
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これは 1999 - 2001年の「私たちは来て、私たちは食べ、私たちは眠る」。題名の通り、様々な人々が左から右へ移動し、川を渡ってまた進んで行き、そして人々は食べ物を食べ、そして寝るという三連作。限りない時の流れの中で営まれる無数の人々の生きざま、死にざまを考えると、気が遠くなるような、心地よいような、そんな作品である。どうしても全体像を写すことができないので (できたとしても人の姿が小さすぎるので)、それぞれのパートの一部のアップと、そのまたアップをお目にかける。まずこれは「来る」場面。
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これは「食べる」場面。よく知られている通り、インドでは右手を使って食べる習慣がある。だが、右手で食べていることを除けば、これは全人類の姿でもある。つまり人間であれば食べない人はいないわけで、ここで描かれた営みは、単純ながら、人類誕生以降すべての人間によってずっと繰り返されてきた風景なのである。人の生そのものの風景と言ってもよい。
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そしてこれは「寝る」場面。食べることと同じく、寝ることも人間の生と同義なのであるが、ここでは意識がない分、ある種の神秘性が生まれてくるのである。でも、寝ている人の顔には、何か無垢なものが現れるのが面白い。この瞬間、人は幼児に還っているのだろうか。
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次は少し現実との接点を持った作品をご紹介しよう。2004年の「マクロ経済は日給 30ルピーか 60ルピーかで論争する」。たんぼで田植えをしている農民たちの間にスーツ姿の人々が登場する。1990年代に始まるインドの経済発展を風刺的に表現したものと言えようが、ユーモアをたたえた人の姿を含め、一見しただけではさほど政治的なメッセージには見えないところに、この作家の持ち味があるのであろうか。
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次の作品はもう少しブラックな要素が明確だ。2007年の「浄化する者たちの対話」。自らのからだを酷使するインドの密教の修行 (タントラ・ヨーガ) に勤しむ人たちと、土地を測量、開発する現実的な人たちとの対比。だがここでは、地面に巨大な骸骨が横たわっており、人の生の儚さを思わせる。
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これは 2008年の「ここに演説をしに来て」。これはもう延々と続く、椅子に腰かけた人々の肖像。ほかの人と同じポーズを取っている人はだれ一人としていない。ところどころに描かれた煙のようなものが不思議な幻想味を加えている。
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次はまた少しブラックな感覚が入った作品で、私は結構好きなのであるが、2006年の「溶けてゆくウィット」。ここで血を流しながら次々と崖の下に転がり落ちて行くピエロたちは、何を表しているのか。解釈は人それぞれにすればよいのであろう。
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会場には体感型の作品もある。これは 2010年/2017年の「空を見つめる人びと」。これは図録からの写真ではなく、私が現場で撮影したものを使おう。床に様々な人々の顔が描かれていて、天井がそれを映し出している。その床に人々は靴を脱いで横たわり、絵の中の人々との交歓を楽しむというもの。しんねりむっつりした現代アートが多い中、これはシンプルで人々が屈託なく楽しめ、何かを感じることができる作品として貴重であると思う。
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これも私が現場で撮影したもので、2007年/2017年の「ネイションズ」(国家)。所狭しと並べられたミシンには、国連加盟 193ヶ国の国旗を描いた布が置かれている。「インド」という国家を生み出したマハトマ・ガンジーの活動を象徴する糸車のイメージと、工業化のイメージから、ミシンが使われているらしい。国家という概念の危うさと、それぞれの国家を生み出すためには人間が活動する必要がある (ちょうどミシンを踏むように) ということが感じられるが、やはりここでも、あまり政治的なメッセージという押しつけがましさのない点がハルシャの優れたところではないだろうか。
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類似のモチーフを違う視点から描いた 2007年の「神がみの創造」。ハルシャの暮らす南インドではテキスタイル工場が沢山あり、何千人もの人たちが働いている。人間が何かにかたちを与えることができるなら、この作品の人物たちのように、神々を生み出そうとすることもできるのだろうか。だがこの人物たちは皆、まるで亡霊のようで、黒い布から神々が出現するのか否かは、これだけでは分からないのである。その意味するところを考えるよりも、まずは視覚的なイメージの面白さを楽しみたい。
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ハルシャの作品は実際、上で見てきたような細密なものが多いのだが、そうでないものもあって、何をこの記事でご紹介するかはかなり迷うところ。つまり細密作品を眺め始めると、ここもあそこも面白いとなってしまって収拾がつかないようなことになってしまう。よって上では、ごく限られたイメージだけのご紹介にとどまってしまった点は否めない。だが最後に二点、私が現場で撮影した写真によって、また毛色の違う作品をご紹介する。まず、2013年の「ふたたび生まれ、ふたたび死ぬ」。実に、縦 3.6m、横 24m の超大作であり、ここには細密な要素は何もなく、宇宙的なスケールに、ただただ圧倒される。とはいえ、ここでも太い線は、ねじれようと流れようと常に連続していて、まさにこの題名のごとく、連綿とつながる人々の生を連想させる。その意味では、やはりハルシャらしい作品であると言えるだろう。
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これは 2013年の「タマシャ」。猿たちが天を指さし、その長い尾が絡まっている。解釈はいろいろ可能であろう。例えば、高い理想を掲げていても利害がかみ合わない人たちを指しているとか。まぁ解釈はこの際どうでもよい。物言わぬ猿の哲学的な仕草と、異様に長い尾の不思議な感じだけでも、大変印象に残る。これは、猿の神ハヌマーンではなくて、ハルシャの新しいスタジオの建設中に雨どいに座って作業をじっと見ていた 1匹の猿から着想を得たものであるという。

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というわけで、N・S・ハルシャとともにチャーミングな旅に出てみたわけであるが、ここにご紹介できなかったタイプの作品もあれこれあるので、その旅はなかなか変化に富んだ興味深いものである。様々な要素がごった煮になったインドらしいアートと言えば言えるし、さらに普遍的に人間の生きざまを表現しているとも言えるであろう。大事なことは、アーティストのメッセージを自分なりに取り込んで楽しむことだと思う。誰かから与えられるのではなく積極的にアートを楽しみに行くタイプの鑑賞者にとっては、見どころの多い展覧会であると申し上げておこう。

# by yokohama7474 | 2017-06-01 01:02 | 美術・旅行 | Comments(0)

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これは 1985年製作の台湾映画。これまで長らく日本では劇場未公開であったところ、ようやく今、公開されているものである。だが上映館は限られていて、気軽にシネコンで見ることができるわけではない。私は渋谷のユーロスペースで見たのだが、そこでは GW 明けから上映していて、既にかなり時間が経っているにもかかわらず、週末の上映ではほぼ満席の盛況なので、驚く。その理由の第一は、監督にあるだろう。エドワード・ヤン。このブログでは既に 3月25日の記事で採り上げた「牯嶺街 (クーリンチェ) 少年殺人事件」(1991年) の監督だ。1947年生まれのヤンは、この「台北ストーリー」制作当時 38歳。2年前の長編デビューに続く、これが第 2作であったのである。そしてこの監督、今日までさぞや活発な映画制作を行っているのかと思いきや、2007年に惜しくも癌で死去。生涯に撮った長編映画はわずか 7本のみ。今年は彼の没後 10年であり、その業績を偲ぶにはちょうどよい機会だと思う。実は「牯嶺街 (クーリンチェ) 少年殺人事件」もそうであったのであるが、我々が今日この作品を見ることができるのは、ある功労者のおかげなのである。その名はマーティン・スコセッシ。言うまでもなく今日のハリウッドを代表する映画監督であるが、彼がこのエドワード・ヤンの作品にほれ込み、4K によるデジタル復元がなされることで、今回の劇場公開が可能になったわけだ。ありがとう、マーティン!!
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この映画を含め、エドワード・ヤンの作品は「台湾ニューシネマ」などと呼ばれている。私を含め、多くの人にとって台湾映画はあまり縁のない世界であろうし、ニューシネマなどと言われても何がニューなのか判然としない点は否めないが、台湾という若干特殊な地域を舞台に、絵空事の空想物語ではなく、その時代に生きている人たちの等身大の愛や苦悩を生々しく描く点が、当時はニューであったのだろう。その点この映画の題材は極めて明確。台湾に住むあるカップルが経験する、仕事の問題、幼な馴染の問題、地域の問題、米国や日本との関係の問題、そして、お互いにとってのほかの異性の問題等々が複雑に絡み合って疾走する物語。ここでの主人公はこの 2人だ。
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主演女優は、実はこの後エドワード・ヤンと結婚することになるツァイ・チン (1995年に離婚)。もともとは歌手であり、今でも歌手活動を行っているらしい。そして主演男優の方は、さらに国際的に有名な人である。この映画から 30年を経た最近の写真はこれだ。
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映画好きならご存じであろう。今や台湾映画界の巨匠として知られるホウ・シャオシェン (候 孝賢)。エドワード・ヤンと同じ 1947年生まれで、この「台北ストーリー」では製作・脚本・主役を務めている。代表作はヴェネツィア国際映画祭でグランプリを取った「悲情城市」(1989年) であろう。この「台北ストーリー」は、彼が役者として出演している唯一の作品。盟友ヤンと組んで、台湾映画界を変えようという意気込みをもってこの映画を作ったことは、明らかに見て取れる。

この映画の印象は、随所に「牯嶺街 (クーリンチェ) 少年殺人事件」と共通するところがある。そのひとつは音楽の使用法が極めて限定的であることだ。まず冒頭、タイトルバックにバッハの無伴奏チェロ組曲第 2番の開始部分が流れる。このバッハの無伴奏は全部で 6曲あるのであるが、ここで使われている 2番の冒頭部分は極めて渋くて地味なもの。陰鬱というと少し違うかもしれないが、決して明るく楽しい映画でないというトーンが、冒頭で既に設定されるのである。そうして、全編を通じて、いわゆる BGM になっている音楽が流れるのは、私の記憶にある限り、たった一箇所だけだ。それはこんなシーン。
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大きく見えるフジフィルムのネオンをバックに、主演カップルのひとり、女性のアジンが、ほかの男にそれとなく言い寄られるシーン。ここで流れる曲は明らかに古典派のチェロ・ソナタの緩徐楽章なのであるが、恥ずかしながら私はその曲名をその場で判別することはできなかった。だが、音楽好きなら周知のことだが、古典派のチェロ・ソナタといえばベートーヴェンだ。自宅でロストロポーヴィチの CD を出してきて確認し、それがやはりベートーヴェンのチェロ・ソナタ第 3番の第 3楽章であると確認した。そしてプログラムを見て驚いたことには、このバッハとベートーヴェンは、あのヨーヨー・マによる演奏なのである。もちろん、この映画のために演奏したのではなく、既存の録音を使ったものであると思うが、台湾ニューシネマとヨーヨー・マ (パリ生まれで米国在住の中国人) とは、これまた意外な組み合わせで面白い。これは、若い頃のヨーヨー・マのジャケット。
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実際この映画を見ていると、現場で即興的に作って行った部分が結構あるのかなと思う。その一方で、登場人物たちの米国に対する思い、そして日本のカルチャーへの興味という要素が顕著であり、そこは丁寧に作られているなという印象だ。これはきっと、当時の台湾の一般的な人たちの思いを代弁しているのであろうか (もちろん、そのような思いの対局は中国本土であろう)。1985年といえば、私が 20歳の頃であり、この映画に出て来る当時のテレビの映像は懐かしいものである (野球中継のビデオに出て来る広島カープの試合では、3番高橋慶彦が打席に立っていたりする)。家の中にかかっているカレンダーは出光興産のものであり、台北市内のネオンとしては、上記のフジフィルム以外に、NEC も出て来る。また、主人公の男性アリョンの同級生の女性は日本人と結婚していて、彼女の父は孫をあやすのに日本語を喋っているのである。それから、登場人物たちがまぁよく煙草を吸うこと!! 私も当時はスモーカーだったので、ちょっと気恥ずかしいような気もするが、それも時代の雰囲気ということになると思うし、何よりもこの映画の大詰めでは、喫煙が重要なファクターになるのである。ネタバレは避けるが、もしかすると「太陽にほえろ」の松田優作の殉職シーンへのオマージュかと思えるシーンもあるし、それから重要なのは、医者が救急車に担架を運び入れたあと、警官から勧められて喫煙するシーンでは、医者が緊急事態と認識していないことから、担架の中の人間は既にこと切れていることが暗示されているのである。男も女も、老いも若きも、スパスパ喫煙していた時代。
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それから、ここに登場する若い世代のありあまるエネルギーも、なにやら新鮮に映る。博打で負けて車を失ったり、台北市内をバイクでつるんでヘルメットもなしに疾走し、辿り着いたディスコで踊りまくる曲は、おぉ、懐かしの「フットルース」なのである!! ケヴィン・ベーコンの主演映画で、この主題歌はケニー・ロギンス。但し、そのようなエネルギーの向かう先をこの登場人物たちの多くは知らず、主人公も、若き日の野球への情熱を胸の奥に抱えながら、やるせない現実の前に自暴自棄になり、取り返しのつかない事態を招いてしまうのである。一見淡々としながらも、そこに渦巻く断腸の思いの切実さは、今見ても人の心に迫るものであると思う。決して器用に作られた映画ではなく、多くのシーンでは昔の自主映画の雰囲気が漂っているが、見たあとになって思い返すと、不思議と強い印象が残っているのである。

と、こんな映画なので、さぞや当時の制作の雰囲気は団結したものであったのかと思いきや、プログラムにはホウ・シャオシェンの意外な言葉が載っているので、ここに掲載する。

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エドワード・ヤンとこうして一緒に映画を作ったり、いろんなことを話し合ったりしてはじめて、日常生活を見つめる彼の視点が、いかに自分のそれと違っているかを認識したよ。彼にとって台湾というのは、独裁的な力に支配された、とてもありそうもないような現実だったんだ。でもそれと同時に、彼の子供時代のさまざまな記憶が水面に現れ出てきているような感じもする。それもとても詩的な流儀でね。
UNQUOTE

なるほど。天才は天才を知る。違った視点を持ちながらも、ともに映画を作ることができるとは、本音のぶつかりあいを伴う真摯な同盟関係であったということだろう。我々はもはやエドワード・ヤンの新作を見ることは叶わないが、せめて過去の作品から、様々な生きるためのヒントをもらいたいものだ。
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# by yokohama7474 | 2017-05-31 01:06 | 映画 | Comments(0)

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もし、世界各地に突然、謎の飛行物体が現れ、全く装飾も武器も見えないツルっとした表面を見せつつ、不気味な沈黙とともに静かに中空に佇んだら・・・。想像するだに気持ちの悪い話である。そして、どうやら異星からやってきた生命体とおぼしき存在が、我々の前にこんなものを突き出してみせたら・・・。
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ええっと、これならよく知っているぞ。江戸時代の禅僧、仙厓の手による自由で即興的な作品だ。このブログでも以前、映画「海賊とよばれた男」の記事で、その映画の主人公のモデルとなった出光佐三のコレクションから、これに近い作品をご紹介したことがある。いやいやまさか、エイリアンのメッセージが仙厓ですか? ・・・とまぁ、この記事をこのように書き出そうという案は、実は映画を見る前から既にあったのである。というのも、事前に何度も見ることになった予告編で、このようなシーンを目にしたからだ。
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まぁ、ただ円だという点が共通するだけなので、うーん、この書き出しはちょっとイマイチだったかなぁと思ったのだが、この映画のプログラムに掲載されている監督のコメントを見て驚いた。ここに出てくる宇宙船やエイリアンの文字のデザインのヒントは、実は書道の筆跡や禅のイメージにあったと語っているのである。発言を引用すると以下の通り。

QUOTE
禅の権威だったりしない僕がこんなことを偉そうに言うのは気が引けるんですが、正直な話、僕自身、日本的なものや禅のデザインにとても強い感覚があると感じていて、その強さを今回、エイリアンの存在感にも持たせたかった。で、デザインに採り入れました。
UNQUOTE

ここで私が解釈するのは以下の二つの点。ひとつは、この映画においてはシンプルかつ神秘的なものに日本的要素を活用しようとしていること。もうひとつは、この監督は絶対に謙虚で性格のよい人ということだ (笑)。本作でアカデミー監督賞にもノミネートされた彼の名は、ドゥニ・ヴィルヌーヴ。1967年カナダのケベック生まれである。道理でフランス風の名前である。
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私はこの監督の作品を見るのは初めてだが、この次に公開を控えている注目作の監督として、その名には見覚えがあった。その映画の名は「ブレードランナー 2049」。言わずとしれたあのリドリー・スコット初期の名作の続編である。それに続いては、なんと「デューン / 砂の惑星」の続編の監督にも抜擢されたという。こちらはもちろんデヴィッド・リンチ初期の、これは名作というよりも大失敗作と一般には言われているもの。いずれもカルト的な美意識で人気を誇る作品の続編を任されるとは、やはりそれだけその手腕にハリウッドが期待を寄せているということだろう。経歴を見てみると長編デビューは 1998年だから、既に 20年近いキャリアを持っているわけで、これまでその名を知らなかったこちらの方が不明を恥じるべきだろう。

予告編で明らかである通り、この作品の主人公は娘を亡くした女性言語学者、ルイーズ。世界の 12都市に同時に現れた (映画の原題は "Arrival"、つまりは「到着」だ)、巨大な石のような謎の飛行物体の中にいるエイリアンたちから発されるメッセージを読み解こうとする彼女が、自身について、また恐らくは世界の成り立ちについても、新たな発見をする物語。この作品は一貫して奇妙な静謐さに貫かれており、例えば空模様ひとつ取っても、きれいな青空の映像は皆無で、必ずどんよりと曇っているのである。それゆえ観客は、どうもすっきりと落ち着くことのない雰囲気の中で、ストーリー展開につきあわされることとなる。そして、実はここでのストーリーは、波乱万丈とか手に汗握るものにはなって行かない。「あれ? なんでだろう」という小さな疑問を持つことがあっても、充分な説明をそこで得ることはできず、「ま、いいか」と流して見て行くしかない。それを是とするか否とするかで、この映画に対する評価が変わってくるのではないだろうか。子を失った母の哀しみがずっと深いところを流れているとは言えるだろうが、ここで起こっているのは個人の悲劇ではなく、世界の危機である。しかも、どことは言わないがある大国などは、この飛行物体を排除するために核兵器攻撃まで検討するという、大変な事態まで起こってしまう。
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正直なところ、この映画を見た日の私は若干の寝不足で忍耐を欠いていたこともあり、世界の終わりをド派手に演出する映画にはいつも批判的なくせに、それとは正反対のここでの静謐な世界の危機の描き方を見て退屈し、しばし夢の世界に遊んでしまったことを認めよう。だが見ているうちに大体先が読めることも事実。終盤で明かされる秘密は、私としてはそれほど驚愕のものではなく、ただただ、エイリアンのメッセージが円環構造をなしていることから、それは最初から自明だったのではないかと思ってしまったのである。とはいえひとつ言えることは、この物語はいわば「バベルの塔」の逆を行くものであり、バラバラになった人類が再び結束を得るために、個人の哀しみを乗り越えた女性言語学者が貢献を果たす、という解釈もできるのではないだろうか。主役のルイーズを演じたエイミー・アダムスは、あまり好きなタイプの女優ではないが、かなりの熱演を披露していたとは思う。
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この人は最近では「マン・オブ・スティール」シリーズでスーパーマンの恋人ロイス・レーンを演じているほか、ティム・バートンの「ビッグ・アイズ」にも出ていた。それから、調べて分かったことには、スピルバーグの「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」でディ・カプリオの相手役だったそうだ。へぇー、15年で随分成長されました (笑)。
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共演しているフォレスト・ウィテカーやジェレミー・レナーの演技が安定しているのは、まぁ当然であろう。但し、前者は最近結構演技がおとなしめな印象もあるし、後者はよい役者であるとは思うものの、「ハート・ロッカー」でその顔を覚えて以降、どの映画でも難しい顔つきをしていて、あまり爽やかでないというその点だけが、いつも気になるのだが (笑)。
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そのように考えてみれば、ここでの登場人物たちは、世界の終わりが近いかもしれないのに、それほど感情を表に出さない人たちがほとんどだ。そのような人々の描き方も、この映画の妙な静謐さにつながっているのかもしれない。妙な静謐さと言えば、音響にもそれが感じられるシーンがある。例えば後半のパーティのシーンで流れている音楽は、よく聴くとドヴォルザークの弦楽セレナードの緩徐楽章であったのだが、注意して聴かないとそれと分からないような、奇妙な歪みを感じた。ただ弱音であっただけでなく、なんらかの効果が施されていたのだろうか。また見る機会があればちょっと注意したい。この懐かしさを伴うデジャヴ感覚は監督のセンスであるのかもしれない。そういえば、冒頭のシーンで使用されているミニマル・ミュージックはオリジナル音楽 (担当はアイスランド出身のヨハン・ヨハンソン) ではなく、マックス・リヒター作曲の既存曲であるらしい。その点でも映画の流れに合う選曲と言えるであろう。

最後にもうひとつ。ここでのエイリアンのペアは、アボットとコステロというあだ名をつけられるが、これは米国で 1940 - 50年代に活躍したコメディアンのコンビで、彼らの映画は日本では「凸凹 (でこぼこ) ○○」というタイトルで公開されたので、我々の世代にとってはテレビ放映などで、ある程度おなじみだろう。世界の終わりかもしれない状況でもこのようなふざけた命名をするという設定は、映画の静謐なトーンとは少し異なるが、設定上どうしても沸きあがってくる絶望感を回避するのに、役立っているように思う。米国人には、往々にしてそういう感覚があると言ってもよいかもしれない。
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そんなわけで、仙厓からアボットとコステロまで、様々な要素を含んだ作品。私のようにうたた寝せず、感覚を研ぎ澄まして見れば、いろいろなヒントが得られるはず。この地上では時間は一方向にしか進まず、空間も連続性があるが、この映画のように様々な要素がちりばめられていると、時空を超えた発想が生まれるのかもしれない。私としては、とりあえず次回の「ブレードランナー 2049」で、たゆたうのではなく、突き進むこの監督の演出が見たいものだと、勝手に期待しているのである。

# by yokohama7474 | 2017-05-30 00:42 | 映画 | Comments(0)