ブラッド・ファーザー (ジャン=フランソワ・リシェ監督 / 原題 : Blood Father)

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ある日の私と会社の同僚のオジサンの会話。
私「いやー、メル・ギブソンが久しぶりに主役を張っている映画があるんですけど、信じられないことに、上映している劇場が少ないし、もうすぐ終わっちゃうんですよー」
同僚「おっ、『マッド・マックス』以来ですか」
私「(ちょっと困って) いやいや、あれは随分昔のデビュー作で、それ以外にもいろいろ出演していますけど、最近は DV 問題とかユダヤ人差別発言とか、いろいろ問題があったらしく、全然出ていなかったんですよ」
同僚「でも、今やっていますよね、『ハクソー・リッジ』。私戦争ものが大好きなので、あれは見ようと思っています」
私「(お、よく知っているなと思い) あれは監督作ですよね。私も必ず見ますけど、こっちは主演作です」
同僚「(興味なさそうに) なんというタイトルですか?」
私「えぇっと、ブラッド・・・なんだっけな」
同僚「え??? ブラピも出ているんですか???」
私「あ、いや、この場合のブラッドは Brad じゃなくて、Blood、つまりは血ですね。分かります? ブルゥゥラアッッドです。そうそう、題名は、ブラ・・・ええっと、ッド・ファーザーですよ。」
同僚「『ゴッド・ファーザー』じゃないんですか」
私「・・・」

とまぁ、職場でいかに文化的な会話をしているかが分かろうというものだが、現在監督としての新作映画「ハクソー・リッジ」が公開中のメル・ギブソンが、上のポスターの言葉を借りれば、「荒野に完全復活!」である。調べてみると、2010年に「復讐捜査線」、2011年に「それでも、愛してる」(ジョディ・フォスター監督)、2012年に「キック・オーバー」(自身で製作・脚本も) 等の主演作はあるものの、私はどれも見ていないし、なんだか題名を聞いても正直どれもぱっとしない。やはり、「マッド・マックス」シリーズに続いて「リーサル・ウェポン」シリーズ、そして「ブレイブハート」で監督・主演として映画史に残る名作 (と私は思っている) を作り、「パッション」でも妥協を知らない映画作りを見せつけた人としては、なんとも淋しい限り。そしてこの映画は、フランス資本によるもので、それゆえにハリウッド映画のような予算をかけられなかったものと思うが、それでも私は断言しよう。メル・ギブソンはまぎれもない現代を代表する名優であり、この低予算映画の中でも、その存在感には圧倒的なものがある。なので、趣味は映画鑑賞だと唱える方には、是非見て頂きたい映画である・・・もし未だ劇場にかかっていれば。

メル・ギブソンの実際の年齢は 61歳。この映画の中ではこのように深いしわが刻まれた顔を見せているが、さすがにこれはメイクだろう。
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この映画を見て思い出すのは、この前の記事で採り上げた「ローガン」である。そこではスーパーパワーを持つべきヒュー・ジャックマン演じるところの主役が髭をボウボウに生やし、「娘」に対する思いを戦いの原動力としていた。この映画においても、ここではスーパーパワーはないものの、長年のならず者生活を通じて身に着けた力強さとサバイバル術で、娘を守るために戦いの場に身を投じるのである。
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ハリウッドのトップを走ってきた俳優が年老いて、父としての意識に突き動かされ、老体に鞭打って敵に立ち向かうというのが、現代のはやりなのであろうか。そう思いたくなるくらい、「ローガン」とこの映画には共通点があり、そして、どちらもヒットしていないという点で共通しているのである (笑)。このことをいかに自分の中で整理をつけようか。作り手側は、スーパーヒーローの失墜を描いて人々にショックを与えたいと思っている一方で、鑑賞者側は、そんな淋しい映画は見たくないよと思っていると、そういうことなのであろうか。ただ、「ローガン」と比べるとこの映画の方が、まだ老いたるヒーローの矜持がよく描かれている。その端的な例は、劇中後半で、メル・ギブソンが髭をきれいに剃って、その精悍な素顔を見せて敵と戦うことなのである。
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ここで娘役リディーを演じているのは、現在 23歳のエリン・モリアーティ。これまでメジャーな作品にはあまり出ていないようだが、ここでの彼女は、役柄にふさわしいじゃじゃ馬ぶりと意外なかわいらしさを見せていて、なかなかの熱演である。ただ、この写真のような凛とした美しさは、この映画の中ではあまりお目にかかれなかった気がする。その意味では、また違った映画での演技に期待したいと思う。
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この映画の舞台は米国とメキシコの国境近くであり、多くのならず者たちがスペイン語を喋っている。そして主役の親子の間には、そのヴィヴィッドな状況に対する対応の違いが見える。すなわち、娘が流暢にスペイン語を話すことから、彼女がメキシコ人の恋人を持っている (いた) ことが分かるし、また父が白人至上主義的な発言をすると、娘がそれをやんわりと非難する (例えば、人類最初の女性であるイヴについて、「彼女は白人じゃなかったはずよ。だって聖書の舞台は中東でしょ」などと発言して)。これは現在の米国政権の姿勢に鑑みて、なかなかに微妙な設定であり、ハリウッド映画ではなくフランス資本によるものだという特性がここに出ているのかもしれない。メル・ギブソン自身も、主演としての大々的な復帰をハリウッド映画で果たすことはよしとしなかったのかなぁ・・・と思ってしまうシーンである。だがこの映画の演出自体は、概してなかなかのものだと言えると思う。いかにメル・ギブソンが非凡な俳優でも、演出の冴えがなければ、観客の心に残る演技には至らなかったかもしれない。その意味で私は、このあまり知名度が高くない映画の持つ意義は大きいと思うのだ。ここで監督を務めているのは、フランス人のジャン = フランソワ・リシェ。1966年生まれで、硬派な作品作りで知られるらしいが、私はこれまでに彼の作品を見たことはない。この映画の出来が多くの人に認められることを期待したい。メル・ギブソンを映画監督として、また俳優として尊敬するという彼は、ここで彼を主役として迎え、演じるキャラクターを突き動かすのは何かということを常に追求する姿勢を尊敬したという。そして、映画の結末を撮影 1時間前に変更したという!!
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その結末がいかなるものかについては、ここで言及はしないが、まあ感動的とは言えようが、あまり元気の出るものでないことは確かである。なるほど、撮影現場で様々な議論が行われ、脚本の内容までが柔軟に変更されるとは、なかなかに面白い。もし監督が権威を振りかざすようなら、そうは行かないであろうから、やはりこの映画には撮影現場から成功の要素があったものと思われる。だがこの映画にまといつくならず者たちの乱れようや、「ローガン」同様に爽快感のない内容から、あまり一般受けしないのもやむないのかもしれない。一方、現在公開されているメル・ギブソンの監督作「ハクソー・リッジ」も、あまりヒットしているようには見受けられない。これはいけない。この非凡な俳優がこのまま埋もれて行ってしまうことがあれば、それは大変にもったいないと思うのである。だから、もしこの映画を「ゴッド・ファーザー」の新作と勘違いして見に行く人がいれば、それはそれで意味のあることだと思うので、とりあえずは隣の席のオジサンに薦めてみようかと思っている・・・もし未だ劇場にかかっていれば。

# by yokohama7474 | 2017-07-08 02:50 | 映画 | Comments(0)

LOGAN / ローガン (ジェームズ・マンゴールド監督 / 原題 : LOGAN)

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ある日の私と会社の同僚のオジサンの会話。
私「いやー、もうちょっとヒットすると思った映画がどうやらあんまりヒットしていないようで、慌てて見に行かないといけないと思っているんです」
同僚「(興味ないが半ば義理という様子で) どんな映画ですか?」
私「あ、『ローガン』という映画なんですけどね」
同僚「???」
私「あ、知りません? あのぅ、『X-メン』のキャラクターで、あの、爪の長い、ほら・・・ (と拳を握り、両手を交差させてローガンの姿を表現するが、その方法では、長くてしかも金属の爪を説明する術がないと気づき、途中でやめる)」
同僚「(怪訝な顔で) どんな映画なんですか」
私「あの、ほら、ヒュー・ジャックマン主演なんですけど、ミュータントなのに年取ってきて、段々力が衰えるみたいな」
同僚「あ、それでそういうタイトルなんですね」
私「えっ????」
同僚「だって、『老眼』っていう映画なんでしょ」
私「(うなだれながら) ま、まぁそんな感じです・・・」
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ヒュー・ジャックマンもびっくりなこんな勘違いを、多くの人が抱いたわけではないと思うが、確かにこのような老眼鏡をかけたヒュー・ジャックマンを見たくはないというのが人々の本音ではないだろうか。上映 1ヶ月と少しで多くの映画館では今週打ち切られてしまうようだ。ほんの 3年前の「ウルヴァリン : SAMURAI」ではこんな感じだったのに、この間の老い方は実にひどい。
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だがこの映画には一方で、若いパワーも溢れている。ローラという役名のこの子である。
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若いと言ってもちょっと若すぎるが (笑)、2005年に英国の俳優とスペインの女優の間に生まれたダフネ・キーン。これが映画デビューになる。予告編をご覧になった方はご存じの通り、この好戦的な表情でカバンを投げ捨てたあと、小柄な体を活かして雄たけびを上げながら敵に襲い掛かり、それはもう大変なことになるのだが、それにしてもこの子の戦闘意志に満ちたこの面構えはどうだろう。それから、冒頭に掲げたポスターでチラリとこちらを見ている視線の強いこと。この子役の演技を見るだけでも、この映画には価値がある、とまず言ってしまおう。

それにしても、ヒュー・ジャックマン演じるローガンは一体なぜにそんな老け込んでしまっているのか。それには明確な理由があり、この映画の舞台は 2029年。既に多くのミュータントが死滅しており、ローガン自身も体内に埋められた金属 (アダマンチウムというらしい) に身体が拒否反応を起こし、既に治癒能力も衰えているのである。そして彼が面倒を見ているのは、なんとあのプロフェッサー X、チャールズ・エグゼビアなのである。演じるのはいつものパトリック・スチュワートなのであるが、実年齢も今年 77歳、ここではメイクと演技で実際以上の老け役となっているのであろうが、それにしても痛々しい。
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そして映画は、この 3人があたかも 3代に渡る家族であるかのようにともに敵から逃げるロード・ムーヴィー (?) なのである。
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この映画を見て行くうちに、なぜにヒットしなかったかがよく分かる。つまり、救いのない内容になっているのだ。ヒュー・ジャックマンはこれが最後のウルヴァリン映画であると明言していることは宣伝でも謳われていたが、なるほどそうか。例によってネタバレを避けるので、これ以上語ることはできないが、「X-メン」シリーズを、特に熱狂的とは言わないまでも、それなりに見て来た身としては、やはり淋しい。だが、ひとつ興味深いのは、ここで描かれていることは、何も世界の終わりではないのである。これまでもハリウッド映画は、多くのいわゆる「カタストロフもの」、つまり世界が破滅の危機に瀕するという騒々しい設定の映画 (原因は天災だったり異星人の攻撃だったりあるいはマッドサイエンティストの暴走であったり、いろいろだが) を作り出して来た。「X-メン」シリーズ自体が本来は騒々しいものばかりである。だが、この映画はどうだ。ウルヴァリン物であるからもちろん肉弾戦が中心で、そこに銃撃戦、カーチェイスが加わる。なるほど、こんな「X-メン」シリーズは珍しい。世界は終わらない。だがミュータントたちは、肉弾戦を戦いながら死滅して行く。そのことに気づくと、この映画は本当に切ない物語であることが分かるのである。

それから、この偽装「一家」が途中で立ち寄る家がある。そこには黒人一家が暮らしていて、貧しいながらも温かい家庭なのである (そしてどうやらそのシーンにおけるパトリック・スチュワートとヒュー・ジャックマンの会話はアドリブらしいのだ)。だが、その土地でのいざこざと、ローガンたちを追って来た悪党どもによって、なんとも恐ろしい悲劇が起こってしまう。この設定も、あまりにも悲しいものであって、かつショッキングでもある。それから、最後の方に登場する一群の子供たちは、本来なら未来を作り出す担い手であるはずだが、その描き方には明るさはほとんどない。子供たちもこんな風に走って逃げて、そして闘うのである。
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上の写真の右端はもちろんローラだが、彼女としても、このような仲間との出会いは重要であれ、しかしやはり、敵と戦うときには重い孤独を背負っているのである。こんな感じで。
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この映画はもともと、ヒュー・ジャックマンがもうウルヴァリンを演じることはないというところから始まったようである。監督のみならず製作総指揮・原案・共同脚本を担当したジェームズ・マンゴールドは、ヒュー・ジャックマンと組むのは「ニューヨークの恋人」「ウルヴァリン : SAMURAI」に続く 3作目で、この 2人はこの映画についてじっくりと話し合うことから始めたらしい。これがマンゴールド。
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そのように作られた映画は、興行成績が伸び悩んでもやむないという、やはりそれなりの決意に満ちたものなのだろう。作品の救いのなさこそが、作り手たちが表現したかったものなのか。いや、作り手たちはきっと言うだろう。ここでローガンとローラの間に芽生えた父と娘の感情の尊さを見よと。それは私も分かっている。だがそれにしても、つくづく爽快感のない映画であることは間違いない。もはや時代は、超能力を能天気に賛美することはできず、いかなる超能力もいつかは果てる日が来るのだということを認識すべきということだろうか。もしそうなら、多くの人はやはりそれを見たくないだろう。なぜに夢を見ることを禁じられ、ヒーローがこのように衰えた力を振り絞るさまを直視しなくてはならないのか。
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こうなると、今後の「X-メン」シリーズの行方が気になってくる。「デッドプール」のような、ひょうきんなようでいて結構エグい映画も、そこには絡んでくるのであろうか。それはそれで楽しみな面はあるが、我々はもう、このようなワクワクするイメージに出会うことはないのであろうか・・・。
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会社の同僚とともに私も、老眼鏡を携えながら今後のシリーズの行方を固唾を飲んで見守ることとしよう。

# by yokohama7474 | 2017-07-06 23:37 | 映画 | Comments(0)

パスカル・ロジェ ピアノ・リサイタル (映像演出 : 束芋) 2017年 7月 5日 浜離宮朝日ホール

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前回の記事で名古屋での演奏会をご紹介した、諏訪内晶子とボリス・ベレゾフスキーのデュオ・リサイタルは、同じ内容の演奏会がこの日、7/5 (水) には東京オペラシティで開かれている。だが私にはその演奏会に行けない理由があった。ほかでもない、この記事でご紹介する浜離宮朝日ホールでの演奏会に出かける必要があったからだ。実はこの記事のタイトルには、通常のピアノ・リサイタルであるかのように書いてしまったが、上に掲げたチラシのタイトルには、手書きの文字で「ロジェ × 束芋」とある。これは一体どういう意味か。もちろんご存じの方も多いと思うが、一応説明しておこう。まず、ロジェとは、ピアニストのパスカル・ロジェ。1951年生まれのフランス人で、今年 66歳。
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この人はフランス音楽の数々の録音で名を成したピアニストで、私の世代にとっては、同時代にフランス音楽の素晴らしさを教えてもらったシャルル・デュトワとモントリオール交響楽団のバックでラヴェルのピアノ協奏曲を録音したりしていたことが忘れられない。もちろんフランス音楽以外も素晴らしい演奏をするに違いないが、だが彼の弾くドビュッシーやラヴェルは、現代のピアニストでも抜きんでて素晴らしいという実感がある。今回はこのロジェが、そのフランス音楽を中心とした曲を弾くのである。これが第一の注目点。

そして、次の注目点は、この人だ。
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この人の名前は、束芋 (たばいも)。なんじゃそれと思われる方は、現代美術に興味のない方だけであろう。1975年生まれの彼女は、既に日本を代表する美術家であり、世界にもその名を知られた存在。そのユニークな名前は彼女の本名、田端綾子から来ている。同じ予備校に彼女と彼女の姉がいたので、ある友人が二人を区別するために、姉を「タバアネ = 田端の姉」、妹を「タバイモ = 田端の妹」と呼んだことがきっかけであるらしい。一度聞いたら忘れないタバイモ = 田端さんの妹の作品を私が初めて知ったのはいつのことだったろうか。今履歴を調べてみると、1999年に京都造形芸術大学の卒業制作として発表したアニメーションを含むインスタレーション、「にっぽんの台所」が出世作であるとのこと。私はこの作品をよく覚えているが、それは多分テレビで見たのが最初であったろうか。どこかノスタルジックに見える高度成長期以来の日本の日常の風景に、匿名的な人物たちが溶け込んでいて、無機的な効果音が流れている。だが時にその内容はドキッとするほど生々しく過激であるので、一度見たら忘れないであろう。そして 2001年、彼女は第 1回の横浜トリエンナーレにも映像作品を出品して話題となった。これもよく覚えている。今手元にそのときの図録を持って来て、彼女の作品の写真を掲載してみよう。
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それ以来私にとって束芋は、現代日本アートを考える上で欠かせない存在になったのであるが、なかなか個展に接する機会がない。唯一の機会は、2009年から 2010年にかけて横浜美術館で開かれた「束芋 断面の世代」展である。この頃彼女は朝日新聞で、吉田修一の「惡人」という連載小説に挿絵を提供しており、その原画がこの展覧会に出品されていた。これが図録の表紙である。
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というわけで、今回浜離宮朝日ホールでは、ロジェの弾くピアノに合わせて束芋の映像が流れるという。これに出掛けないわけにいかない理由が、上記にてお分かり頂けたであろうか。実はこれは、既に 2012年に上演されたものの再演であるらしい。前回の上演について全く知らなかった無知を天に詫びて、万難を排して聴きに行ったのである。なお、ポスターの「ロジェ × 束芋」の文字は、束芋自身の書になるらしい。

今回の上演でロジェが弾いた曲は 19曲。途中休憩なしで、上演時間は 70分。まず会場に入った聴衆の目に映ったのはこのような光景である。舞台の後ろに大きなスクリーンがあって、舞台上のピアノとピアニスト用の椅子がそこに映っている。だが、光源がどこにあるのかよく分からない。最新の照明技術によるものであろうか。
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そして、会場の照明がほぼ完全に落とされ、暗闇の中、ロジェが入場して来る。暗闇のせいで、聴衆はそれに対して拍手するきっかけを持たされておらず、それを尻目にロジェは静かに椅子に座って、ピアノを弾き始める。そして聴衆は不思議なことに気づく。既にピアニストが椅子に座っているのに、舞台奥のスクリーン上にはその影は映らないのだ!! そう、後ろのスクリーンの映像は、舞台上のピアノではなく、完全に独立した映像であったのである!! これは実に鮮やかな始まりではないか。

さて私が常々思っていることには、音楽と映像の融合と口で言うのは易しいが、なかなか成功例にお目にかからないということである。このブログでも、舞台上の映像が音楽を邪魔したオペラのケースなどに触れたことが何度かあるが、人間にとって最も強烈な感覚である視覚と、大変繊細な感覚である聴覚とは、なかなか相互作用を生じないというのが私の持論なのである。だが、今回の上演の素晴らしいところは、映像が音楽を邪魔することなく、しかも冒頭の例のような意外性もあって、70分連続の演奏に見事な色を添えた点であろう。また、中には、曲の間じゅう一切投影映像なしということもあって、これこそ束芋のアーティストとしての非凡なところであると、膝を打ちたくなったものである。さて、今回ロジェの弾いた曲の一覧を、若干面倒ではあるものの、ここに記載してみよう。

 ドビュッシー : 「版画」より「パゴダ」、「前奏曲集第 1巻」より「帆」「野を渡る風」「亜麻色の髪の乙女」「沈める寺」
 サティ : グノシェンヌ第 5番
 ラヴェル : 「鏡」より「悲しい鳥たち」
 ドビュッシー : 「映像第 2巻」より「そして月は荒れた寺院に落ちる」「金色の魚」、「ベルガマスク組曲」より「月の光」
 吉松隆 : 「プレイアデス舞曲集第 1巻」より「水によせる間奏曲」、「第 6巻」より「小さな春への前奏曲」
 サティ : グノシェンヌ第 2番
 吉松隆 : 「プレイアデス舞曲集第 6巻」より「けだるい夏へのロマンス」、「第 4巻」より「間奏曲の記憶」、「第 5巻」より「真夜中のノエル」、「第 7巻」より「静止した夢のパヴァーヌ」
 サティ : ジムノペディ第 1番
 ドビュッシー : 「版画」より「雨の庭」

どうだろう。繊細な情景描写と、キリリと冴えわたった感覚と、時空を超えた浮遊感と、ひたすら透明な抒情・・・それらがつづれ織りのような音で表現されることが期待される曲目ではないか。ここで、ドビュッシーやラヴェルやサティは知っているが、吉松隆って誰? と思う方もおられるかもしれない。このブログでも言及したことがあると記憶するが、彼は理屈抜きで大変美しい音楽を書く珍しい現代音楽作曲家であり、このプレイアデス舞曲集などは、ストレス過多の人たちのヒーリング用には最適の、素晴らしい音楽なのである。私にとっては田部京子の素晴らしい 2枚の初録音 CD が長年の愛聴盤であり、そこではこの舞曲集の第 1巻から第 9巻までと、その他吉松の小品が収められている。1枚目の方のジャケットをここに掲げておくので、ご存じない方は是非一聴を。尚、私は知らなかったが、ロジェもまた、この吉松作品を録音しているようだ。
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今回のロジェの演奏は実に素晴らしいもので、場合によってはかなり暗い中での演奏となったハンディを微塵も感じさせない堂々たるもの。その音は常にクリアかつ多彩なニュアンスに富んでいて、その一方で、これみよがしな表情は皆無で、むしろそっけないと言ってもよいくらいの場面に何度も遭遇した。これぞまさにフランス音楽の粋である。選ばれたフランスの曲は有名作品が多いが、吉松作品もその中で全く違和感なく収まっており、日本人としては誇らしい限り。これぞまさに文化の香り。東京ではこのように刺激に満ちた音楽 / 美術イヴェントに出会うことができるのである。

束芋の映像は、上述の通り、音楽を邪魔しないバランスの取れたものであったが、その分彼女特有のとぼけた毒というべき味わいには、若干欠けたようにも思う。だがこれは、音楽との融合という観点からはむしろ賢明な選択であったと思う。今ざっと曲目を見返してみて思うのは、以下のような点。
1. ドビュッシー、ラヴェルは、ほぼ題名に忠実な視覚的イメージを利用 (それゆえ、個々の曲名を知らない人にはちょっとつらいかも)。だがもちろん抽象化や幻想的な描き方はあった。
2. サティと吉松には視覚的なイメージがない、または少ないので、具体性のない、いわば模様のパターンを多く活用したイメージ。
3. 双方の系統において、束芋特有の、窓を伝う雨水や、モクモクと動く雲、葉や鳥の落下、水中の泡、複雑に絡み合った根、突然開く花や、脈打つ心臓・・・と言ったイメージ群がほどよく調和。

この中で、例えば有名な「月の光」は、スクリーンに青い照明を当てるのみで、一切の映像はなし。またもう 1曲、グノシェンヌ 5番であったろうか、そちらに至っては、照明自体も白で、全くの無であった。繰り返しだが、これぞ束芋の本領発揮と、拍手を送りたい。以下は、ほかのサイトから借用して来た演奏シーンのいくつか。少しはイメージが伝わるだろうか。ちょっと分かりにくいかなぁ。
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終演後には束芋もステージに登場し、嬉しそうに拍手を受けていた。これはゲネプロのときの 2人の写真のようだ。ロジェの T シャツに注目。
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終演後にサイン会があったので、ロジェの CD を購入して参加。但し、CD ジャケットに適当なスペースがなかったので、プログラムにサインしてもらうこととした。名ピアニストは、ステージを離れてもファンに対して非常に礼儀正しい紳士なのである。ただこのサイン、とても字には見えないんですけどね (笑)。

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滅多にない内容の素晴らしいコンサート、堪能しました。またこのコンビで、新たなコラボの試みを行ってもらえないだろうか。例えば、武満徹。それから、メシアンの大曲ピアノ作品。もしくは全然違う、プロコフィエフとかバルトークのピアノ曲なんて面白いかもしれません!!


# by yokohama7474 | 2017-07-06 01:00 | 音楽 (Live) | Comments(3)

諏訪内晶子 & ボリス・ベレゾフスキー デュオ・リサイタル 2017年 7月 4日 名古屋・三井住友海上しらかわホール

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1990年のチャイコフスキー国際コンクールでの優勝をきっかけに世界に羽ばたいたヴォイオリニスト、諏訪内晶子。彼女の最近の活躍ぶりの一端はこのブログでも何度か紹介して来たが、実はそれらは、一度室内楽があった以外はすべて協奏曲でのオーケストラでの共演であった。その後冷静に考えてみて、私が海外で聴いた彼女の演奏を含めても、なんたることか、リサイタルには一度も行ったことがない。それに気づいた私は、この「国際音楽祭 NIPPON」の一環として開かれるリサイタルに足を運ぼうと思ったのであるが、東京での公演はちょっと都合が悪い (その理由はほどなくしてこのブログ上で明らかにされるであろう・・・?)。そこでカレンダーとにらめっこし、たまたまこの名古屋でのリサイタルには行けることが判明したので、そのようにしたのである。会場の三井住友海上しらかわホールは、700席ほどの中型ホール。ヴァイオリンリサイタルを聴くにはちょうどよいサイズで、響きも素晴らしい。

さてこの「国際音楽祭 NIPPON」であるが、先だってのサロネン指揮フィルハーモニア管の演奏会の記事でも少し触れた通り、2012年に諏訪内が自ら芸術監督として始めた企画であり、初回はそのサロネン指揮フィルハーモニアの伴奏でサロネン自作のヴァイオリン協奏曲の日本初演が行われた。今年は第 5回 (2012年以降、2015年を除く毎年の開催)。今回は 5月に 3回、7月に 5回の演奏会が東京と名古屋で開かれ、震災復興支援の関係で岩手県久慈市でもチャリティー・コンサートが開かれるほか、チェロとヴァイオリンのマスター・クラスも開かれるという、大変に盛り沢山な内容である。そもそもこの音楽祭には 4つの柱があって、それは「イントロダクション・エデュケーション」(同時代の作品と若い演奏家の紹介)、「コラボレーション with アート」(音楽以外の芸術分野との交流)、「トップ・クオリティ」(もちろん演奏される音楽の質)、「チャリティ・ハート」(被災地や病院への貢献)。いずれも大変意義深いことであり、強く支持したい。
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演奏会が開かれる場所として名古屋が多い理由も、会場で購入したプログラムで判明した。それは、音楽祭の実行委員長を豊田自動織機の会長が務めているほか、スポンサーにはトヨタ本体や豊田通商の名前が並ぶ。もちろんこれだけの内容の音楽祭であるから、企業のスポンサーシップは必須であり、名古屋の盟主であるトヨタグループがこのように文化イヴェントをサポートしながらも、会社名を大々的に謳わない点に、会社の品格を感じることができる。

さて今回のリサイタル、注目のひとつは伴奏者である。ロシアの名ピアニスト、ボリス・ベレゾフスキー。実は彼は諏訪内と同じ 1990年のチャイコスフキーコンクールのピアノ部門の優勝者。この 2人はいわば「同期」として、一時期はデュオを組んでいたが、このところは共演しておらず、今回が実に 15年ぶりのデュオ。久しぶりとはいえ、息の合った演奏が期待される。せっかくなので、ベレゾフスキーの写真は若い頃のものを使おう。今はかなり貫禄が出て来ている彼であるが (笑)。
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そんな二人が採り上げた曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : ヴァイオリン・ソナタ第 5番ヘ長調作品24「春」
 ヤナーチェク : ヴァイオリン・ソナタ
 藤倉大 : Pitter-Patter (委嘱作品、世界初演)
 リヒャルト・シュトラウス : ヴァイオリン・ソナタ変ホ長調作品18

うーん、なかなかひねりが効いている。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタで最もポピュラーな「スプリング・ソナタ」で始まるものの、モラヴィアの東方的な響きを聴かせるヤナーチェク、今活発な活動を続ける作曲家、藤倉大の新作に、秘曲とまでは言わないが、管弦楽の大家の R・シュトラウス若書きのヴァイオリン・ソナタ。なんとも多彩ではないか。

最初の「スプリング・ソナタ」は、この曲目の流れからするとむしろ当然かもしれないが、ただ明るく晴れ晴れした表情の演奏ではなかった。さほど歌い込むことはあえてせず、その代わりに強い推進力と深い陰影のある音楽であったと思う。第 1楽章でピアノが駆け上がる箇所では、いびつなほどテンポが煽られ、聴いている者に不安すら感じさせながら、ヴァイオリンがまたテンポを取り戻すという演出が聴かれ、ある種の即興性を感じることともなった。諏訪内のヴァイオリンは、非常に艶やかであり、また音量も大きいので、音楽のひだを巧まずして表現できるし、また退廃的な雰囲気までも出すことができる。その点においての出色はやはり、2曲目のヤナーチェクであったろう。私はこの作曲家の創り出す響き (管弦楽曲であれ室内楽であれ器楽曲であれ声楽曲であれオペラであれ) の神秘性に深く魅了されている人間であるので、今回の演奏の冒頭から最後まで続いた、美麗一辺倒ではない一連の独特な節回しに、まさにこの作曲家の神髄を聴く思いであった。ヤナーチェクはこんな人。どこか得体の知れない感じがしませんか (笑)。
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休憩後は作曲家の藤倉大がステージに登場。この作曲家については、先般の「ボンクリ」の記事をはじめ、このブログでも何度も言及しているが、今年 40歳の、日本を代表する作曲家である。これは今回の記者会見の様子であろうか。
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後半の演奏前のステージ上で、主催者側の人とおぼしき女性のインタビュー形式で、この国際音楽祭 NIPPON の委嘱によって書かれ、このコンサートで世界初演された「Pitter-Patter」という曲について語られた。まず曲の名前は英語でも日本語でもそのまま「ピタパタ」という意味で、子供が水たまりで遊ぶようなイメージとのこと。作曲に要した期間は 4ヶ月くらいなるも、その間に作業が停滞すると、別の曲にかかったりして作曲を進めたという。藤倉いわく、ちょうど学生の試験勉強でひとつの科目で息詰まったら別の科目に取り掛かるようなもので、「日本の受験勉強が初めて実生活で役に立ちました・・・冗談です」という発言もあって、学生時代の試験において一夜漬けの王者であった私自身の経験に鑑みても、大変分かりやすい説明だ (笑)。実演 1時間ほど前の最後のリハーサルでも、諏訪内から細部の演奏方法について「これがいいですか? それともこうした方がいい?」と訊かれると、どちらも素晴らしかったので、「どちらでもよいです」と答えたことなどがユーモラスに語られた。また、音楽とは、作る人、演奏する人、企画する人、聴く人が揃ってはじめて可能になるもの。今回のような演奏者と一緒に曲を作る経験は非常にためになったとコメントしていた。さて、この曲自体は、演奏時間10分程であったろうか、確かに冒頭、長い音で歌い出すヴァイオリンに対し、ピアノは右手だけでピロピロ旋回するような音を奏でている。その後何度か音楽的情景は変化するが、藤倉の曲は理屈っぽくないのがよい。音の変化を聴いているだけで充分楽しめるのである。また、最後の 3分間ほどはピアノが沈黙してヴァイオリンだけになる。作曲者は舞台上で、「これ、僕も書いていて変な音楽だなぁと思ったんですけど」ととぼけていたが、プログラムに寄せたコメントには、「後半だけでアンコールとしてソロ・ヴァイオリンで弾けるようにした」とあり、実はなかなかにしたたかな試みである。そのうち諏訪内は、協奏曲のあとのアンコールにこの曲の後半だけ弾くようになるのではないか。

最後のシュトラウスのソナタは、この作曲家らしい華麗な響きを持つ佳曲で、ここでも諏訪内の充実した音が非常に安定した響きを発していた。ベレゾフスキーは技術の誇示をすることもなく、きっちり伴奏していたが、だがここでも上述の即興性を感じさせる要素もあり、実に大人な内容の高度な演奏であったと思う。

そして演奏されたアンコールは、実に 5曲!!
 マスネ : タイスの瞑想曲
 ピーター・ウォーロック (シゲティ編) : カプリオール組曲からバス・ダンス (Basse Danse)
 クライスラー : シンコペーション
 リヒャルト・ホイベルガー (クライスラー編) : 喜歌劇「舞踏会」から「真夜中の鐘」
 ドヴォルザーク (クライスラー編) : わが母の教え給いし歌

ここで諏訪内とベレゾフスキーは大変に打ち解けた雰囲気で次々とアンコールを演奏し、途中で諏訪内が曲目を紹介するシーンもあった (彼女が舞台で口を開いたのを初めて聞いた)。これだけ性格の異なる曲を次々と完璧にこなして行くのは大変なこと。ヴァイオリンの素晴らしさを実感できる瞬間を味わわせてもらった。

このように大変充実したデュオ・リサイタルであったのだが、実はこの日の名古屋は台風の接近によって、コンサート開始時は大雨であったのである。だが終わってみると既に雨はやんでいて、気分も上々だ。そのような気象の偶然も音楽会の体験の一部であり、私としてはこのようなコンサートを可能にしたスポンサー企業の方々に、心から御礼申し上げたいのである!!

# by yokohama7474 | 2017-07-05 00:03 | 音楽 (Live) | Comments(0)

ミヒャエル・ザンデルリンク指揮 ドレスデン・フィル (ピアノ : 小川典子) 2017年 7月 2日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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ドイツの古都ドレスデンに本拠を持つドレスデン・フィルが、現在の首席指揮者であるミヒャエル・ザンデルリンクとともに来日している。このドレスデンには、クラシック・ファンなら知らぬものとてないシュターツカペレ・ドレスデン (ドレスデン国立歌劇場のオーケストラ) という超名門オケがあるせいで、このドレスデン・フィルはその陰に隠れてしまっている感がなきにしもあらず。だが実は私も恥ずかしながら今回初めて知ったことには、このオケの設立はなんと 1870年。既に 150年近い歴史がある。これは大変なことだ。もっとも上には上があるもので、件のシュターツカペレ・ドレスデンの設立は実に 1548年!! こちらは 450年を超えるという長い歴史があるわけで、世界最古のオケのひとつ (実は、デンマーク王立管が、1448年設立ということで、さらに百年遡るらしいが)。ともあれ、歴史が長いからよいというものでもなく、オケの歴史に栄枯盛衰はつきもの。今現在我々が聴くことのできるこのオケの持ち味を楽しむ機会であってほしいと思って、会場のミューザ川崎シンフォニーホールに足を運んだのである。

このオーケストラ、以前もフランスの名指揮者ミシェル・プラッソンの指揮での来日公演を聴いたことがあるし、録音ではヘルベルト・ケーゲルやラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスの指揮であれこれ聴いたことがある。旧東独という渋い音色のイメージはそこそこあるが、現代的な柔軟性もあるオケという印象だ。今回のスケジュールを見てみると、6/24 から 7/5 までの 12日間で、名古屋、所沢、武蔵野、長野、東京、大阪、川崎、もう一度東京、そして最後は浜松と、9回のコンサートが開かれる。関東と中部、関西地方だけであるが、来日オケの地方公演も貴重な機会であるので、なかなかの健闘であると思う。曲目を見ると、メインの 1曲であるショスタコーヴィチ 5番を除くとすべてドイツ物で、まあドイツのオケで指揮者もドイツ人なので、それもよいのであるが、先日のブリュッセル・フィルのように短い現代曲をひとつくらい入れる冒険があってもよかったようにも思う。ともあれこの日の曲目は以下の通り。
 ウェーバー : 歌劇「オイリアンテ」序曲
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 5番変ホ長調作品73「皇帝」(ピアノ : 小川典子)
 ブラームス : 交響曲第 1番ハ短調作品68

昔ながらの、序曲、協奏曲、交響曲という構成であるが、その曲目の保守性にもかかわらず、そこには現代ならではの演奏の工夫があったことを追って述べよう。まず、指揮者のミヒャエル・ザンデルリンクとは何者か。
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1967年、東ベルリン生まれのドイツ人で、今年 50歳。もともとチェリストとして活動を開始したが、2001年に指揮に転身した。もちろんこの苗字を携えて音楽稼業を営む以上、このような表現を避けることはできないであろうが、往年の大指揮者クルト・ザンデルリンク (1912 - 2011) の息子である。この指揮者がいかに偉大であったかについて、知っている人は知っているだろうし、知らない人に説明するのはなかなか難しい (笑)。私自身は結局、彼の実演に接する機会を得られなかったが、生前から FM 放送や非正規盤 CD を含む数々のライヴ録音 (あるいは、Wowwow がベルリン・フィルの定期演奏会を放送していた頃に見たショスタコーヴィチ 8番など) に接して瞠目し、深く尊敬するに至った指揮者である。実のところ、彼の名前が偉大過ぎて、同じ苗字の (つまりは息子の) 指揮者たちによる実演や録音を、今回に至るまで聴いたことがなかったのである。つまり、このミヒャエルに加え、彼から見れば異母兄で長男のトーマス・ザンデルリンク (1942年生まれ)、同じ母を持つ兄のシュテファン・ザンデルリンク (1964年生まれ) たちだ。なので今回の演奏会は、食わず嫌い返上の意味もあったのである。

さてコンサート開始時に舞台を見ると、既に 2曲目の協奏曲に備えて、ピアノがステージに出ている。最近東京のオケでは、1曲目が短い序曲で 2曲目がピアノ協奏曲であっても、ピアノが最初から舞台に出ていることは少ないと思う。だがこれはコンサートの進行上、非常に効率的なことである。また、弦楽器の配置を見ると、指揮者のすぐ左手に第 1ヴァイオリンは当然として、その隣はチェロで、これら楽器の奥、つまりステージ下手側にコントラバス。チェロの右がヴィオラで、指揮者のすぐ右手が第 2ヴァイオリン。最近増えてきた対抗配置である。コントラバスを見ると 6本で、使われていない楽器はステージに置いていない。つまり、そのままブラームスもわずか 6本でやるのか??? と思えたのであるが、これについてはまた追って。それから、ティンパニが 2種類置いてあり、ひとつは太鼓 2台によるもの。それが前半のウェーバーとベートーヴェンで使用された。もうひとつは太鼓 4台によるもので、後半のブラームスではそちらが使われた。つまり、レパートリーによってスタイルを変えて演奏しているのである。

最初の「オイリアンテ」序曲は勢いよく始まり、ヴァイオリンが艶やかなよい音を聴かせてくれる。オケ全体のレヴェルとしては驚くほど高いというわけではないが、やはりそこはドイツのオケ。音楽の流れに自然な説得力がある。大変気持ちのよい演奏で、最初からブラヴォーが飛んだ。

そして次のベートーヴェンに移るときに見ていると、ここでトランペットは、ピストンのない、いわゆるバロック・トランペットのような古そうな楽器が使用されることとなった。これ、同じようなことをどこかで書いたと思ったら、5月21日の記事で、サロネン指揮フィルハーモニア管の演奏会をご紹介したときであった。上記のティンパニといいトランペットといい、通常オケであっても、古典派から初期ロマン派を演奏する際には古いタイプの楽器で演奏するというのが、世界の潮流なのであろうか。だが、様式とか使用楽器は、言ってみれば副次的なこと。音楽を楽しむことこそが大事である。ここでベートーヴェンの「皇帝」を弾いたのは、日本を代表するピアニストのひとり、日本と英国を拠点として活躍する小川典子。
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彼女は BIS というレーベルから録音を出しており、ドビュッシーが絶賛されたり、ワーグナーによるベートーヴェン第九のソロ・ピアノ編曲版なども大変面白い演奏であった。この華やかな「皇帝」などは、きっと彼女に合った音楽だろうと予想して聴いてみると、案の定、その音量が大きく音色の美しいピアノは、あえてミスタッチも恐れない強い表現力によって、推進力に満ち、愉悦感に富んだ音楽を紡ぎ出した。実際、ときにはもう少し音量を抑えた方がよいと思えた箇所もあったが、ホールの音響効果も関係しているのか、聴いているうちにすっかりその音楽に引き込まれてしまった。ザンデルリンクの指揮もオケを煽り立てることなくきっちりと音を組み立てており、「皇帝」らしい「皇帝」を聴くことができたという充実感を覚えたものである。そしてアンコールとして弾かれたのは、ブラームス晩年の 6つの小品作品118 の第 2曲、間奏曲。いかにもブラームスらしい諦観まじりの情緒が深々と伝わって来た。尚、非常に珍しいことに、この演奏のあと、20分間の休憩時間にロビーにて小川のサイン会が開かれた。ステージ衣装のまま出て来て、多くの人たちと歓談しながらのなごやかなサイン会であったが、調べてみると彼女は川崎市出身であるようだ。きっと旧交を温める機会になったことであろう。
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そして、後半のブラームス 1番に入る前に舞台を見渡して驚いた。前半でステージに向かって左手、つまり下手側にあった 6本のコントラバスは、ここでは上手側に移動しており、本数は 8本に増加している。その後入場して来た弦楽器奏者の配置を見ると、指揮者のすぐ左から右回りに、第 1ヴァイオリン、第 2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラで、指揮者の右側、ヴィオラとチェロの後ろにコントラバスである。つまり、第 1ヴァイオリン以外のすべての弦楽器セクションが、前半の場所から移動したことになる!! ここではっきり見て取れる指揮者の意図はやはり、曲の書かれた時代にふさわしいスタイルで演奏するということであろう。あ、それから、ステージ正面奥に、金属の棒にトライアングルが固定されているのが見えた。ブラームスの 1番にはトライアングルは登場しない。ということは、なるほど、アンコールは本命のあの曲で決まりだな、と考えていると、滔々とした流れに乗って、ブラームスの第 1交響曲の演奏が始まった。このブラームスは、ここでも弦の表現力に多くを負っていて、大変に安定した出来であったと評価できる。長身のザンデルリンクの指揮はバランスよく颯爽としていて、過度に重量感を引きずらない、停滞感のないスッキリとした演奏だ。ただ惜しむらくは、このオケの木管には時折抜けの悪さを感じることがあって (特にフルート、ときにはこの曲で重要なオーボエですら)、これだけ緻密に書かれたブラームスの曲の神髄までは、残念ながら感じられない瞬間があった。そう思ってオケの面々を見ると、なんとこのオケは、木管と金管の全員が男性、しかも結構年配の方もおられる。もちろん年配にはベテランの味があるし、男性ばかりで悪いと言う気は毛頭ないが、結果的にはさらに緻密な木管アンサンブルがあれば、音楽の表現力が格段に増したことだろうと思われる。ひとつ言えることは、ドイツのオケだからドイツ的に、というほど物事は単純ではなく、ドイツ音楽にもいろいろあること、そしてザンデルリンクとドレスデン・フィルの目指すところは、その「いろいろある」音楽を、最適のかたちで聴衆に届けるということだということだ。そして案の定アンコールに定番のブラームスのハンガリー舞曲第 5番が演奏されると、そこではシンフォニーとはまた違った野性味が聴かれ、なるほど、ドイツ音楽もいろいろあるな、と納得したことだ。

このドレスデン・フィルの本拠地、クルトゥーアパラスト (文化宮殿) には、今年の 4月に新しいコンサートホールが完成したばかりらしく、今後のミヒャエル・サンデルリンクとドレスデン・フィルはこの場所でさらに音楽を練り上げて行くことになる。
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私がドレスデンを訪れたのはこれまでに一度だけで、オペラハウス (ゼンパーオーパー) でオペラとシュターツカペレによる演奏会を聴いた。もちろんそれは忘れがたい思い出であるが、この近代的なホールでこのドレスデン・フィルによるドイツ物以外、例えばロシア物やフランス物などを聴いてみたいものだなぁと思う。よいホールは指揮者を育て、オケを育てる。最近パリでもハンブルクでも、そしてこのドレスデンでもこのような素晴らしいホールができたことで、それぞれの街の音楽文化は一層彩り華やかになるだろう。オーケストラは地元の誇り。ヨーロッパの伝統と新しい活動が、地元の人たちに文化の奥深さを語り続けることだろう。エルベ川沿いのフレンツェと呼ばれる美しい古都ドレスデンに、遠く東京の川沿いの住居から、そんな思いを馳せる日曜の夜でありました。

# by yokohama7474 | 2017-07-03 01:02 | 音楽 (Live) | Comments(2)