サントリー財団サマーフェスティバル 2017 忘れられた作曲家 大澤壽人 (山田和樹指揮 日本フィル) 2017年 9月 3日 サントリーホール

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毎年夏に開かれるサントリー芸術財団のサマーフェスティバルは、サントリーホール開場後の 1987年以来開催されて来ており、同時代の音楽を紹介するイヴェントとして大変貴重である。私もこのブログで過去の演奏会を採り上げたこともあるが、今年で 30周年を迎えるこのイヴェントの意義を大いに称えるとともに、継続的な文化活動を行っている主催者 (実はサントリー芸術財団は、このサマーフェスティバル以前から音楽事業に取り組んでいたらしい) には、心からなる敬意を表するものである。今年は 8月いっぱいまでサントリーホールが改修されていたため、9月に入ってからの開催であるが、その内容は実に興味深い。今回このイヴェントのプロデューサーを務めるのは、音楽評論家であり政治思想史研究者でもある、片山杜秀 (もりひで)。1963年生まれで、今年 54歳になる。
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この人の博学ぶりはそれはもう超絶的であり、以前何かの雑誌で書庫 / CD 棚を紹介していたが、その広大さは、もう言語を絶している。従って私はこの人を心から尊敬していて、彼の言うことなら無条件で傾聴する心づもりができているのである。彼の業績でとりわけ顕著なのは、日本の芸術音楽の積極的な紹介である。ナクソス・レーベルでは彼が監修した有名無名の日本人作曲家 CD のシリーズが存在し、私もそのほとんどを購入しているが、そこに添えられた片山の解説の、なんとも詳細かつ熱情に溢れたこと。そんな彼が今回のフェスティバルで企画したのは、「片山杜秀がひらく 日本再発見」というシリーズ。今回が初回で、テーマは「戦前日本のモダニズム」。2回目は「戦後 日本と雅楽」、3回目は「戦後 日本のアジア主義」、4回目は「戦中 日本のリアリズム」。テーマ作曲家にオーストリアのゲオルク・フリードリヒ・ハースを迎えたことと併せ、フェスティバルのすべてのコンサートを聴きたいと思わせる内容だが、さすがにそうも行かない。そんな中、これは絶対聴かなければ!! と思ったのがこの演奏会である。ここでの副題は、「忘れられた作曲家 大澤壽人 (おおざわ ひさと)」。この人の作品は、片山が監修した上記のナクソスの日本人作曲家シリーズに入っていたので、名前は知っているし、CD で作品は聴いたことがあるが、さて、一体どのような人であったのか。大澤は 1906年生まれ、1953年没だから、47年という短い人生であったことになる。
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大澤は神戸の生まれで、関西学院在学中から教会でオルガンを弾くなどして、関西の音楽界では知られた存在であったという。1930年にボストンに留学して、それまで独学であった作曲を本格的に学び、日本人として初めてボストン響 (のメンバーからなるボストン・ポップス・オーケストラ) を指揮した。また、米国に亡命してきたシェーンベルクの講座にも出たという。その後 1934年にはパリに移り、デュカスやナディア・ブーランジェに師事。その自作自演コンサートは、オネゲルやイベールに称賛されたという。1938年に意気揚々と帰国するが、既に戦争に向かってひた走る当時の日本の風潮の中で理解を得られず、今日まで埋もれてしまったのである。そのような大澤の作品、今回演奏されたのは以下の 3曲。
 コントラバス協奏曲 (1934年作、世界初演、コントラバス : 佐野央子)
 ピアノ協奏曲第 3番変イ長調「神風協奏曲」(1938年作、ピアノ : 福間洸太朗)
 交響曲第 1番 (1934年作、世界初演)

なんと、1930年代に作られた 3曲のうち 2曲までが、今回が世界初演なのである!! これはつまり、作曲はしたものの、発表の機会がなく、そのまま死蔵されてきたということである。その世界初演の 2曲はいずれも 1934年の作、つまりは海外在住時のもの。浴びるように当時の先端の音楽を聴き、自ら強い熱意を持ってペンを走らせたものであろう。実のところ、この埋もれていた作曲家を再発見し、再び世に出した功労者は、ほかならぬ片山杜秀なのである。それから今回の演奏のもうひとつの注目は、私がこのブログでも様々なコンサートで採り上げてきた若手指揮者、山田和樹が、日本フィル (通称「日フィル」) を振るということ。国内外の数多い演奏会で極めて多忙であるはずのこの指揮者、このような童顔なので誤解されやすいが、実は大変な努力家なのであろうと思う。
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今回のプログラムには山田のコメントも掲載されていて、それによると、今回の 3曲はいずれも野心作で、ほとばしる才能が楽譜から匂い立ってくる。その音楽の圧力は時にむせかえりそうになるほどに劇的だ。そのエネルギーを注意深く抽出して、大澤の見ようとした世界、行こうとした世界を体現したい、と述べている。コンサートを聴き終えた今、この言葉は本当に重く響く。実際、特に最初のコントラバス協奏曲を除く 2曲にはエネルギーが横溢しており、その力を 21世紀の現代に解き放ったのは、山田と、彼が正指揮者を務める日フィルの力によるところ大であった。このブログでもご紹介した通り、このコンビは足掛け 3年に亘って、マーラーの全交響曲を演奏し、そこには武満徹の作品が組み合わされた。今回の演奏を聴いていると、やはりそのマーラー・ツィクルスを通してこのコンビが獲得した強い絆と、敏感な音楽的感性が、なじみのない曲の真の姿を明らかにしたと実感する。

この大澤の音楽をどのように表現しようか。今回の演奏を通してひとつ思ったのは、ここには、アジアの東の果ての島国で何か新奇なことを成し遂げようという意欲よりも、ただ純粋に、世界の潮流の中で認められる音楽を作り出したいという欲求こそ、大澤の目指したところであったのだろう。多くの日本の作曲家が直面して試行錯誤を続けた (未だに続けている) 東洋人による西洋音楽の創造という悩みは、大澤の作品にはあまり感じられない。ごくまれに東洋風の旋律を耳にすることもあるが、それは飽くまでグローバルな音楽の一側面ということではなかったか。また、日本人作曲家の場合、ドイツ音楽を規範にするところから始まっている一方、フランスで学んだ作曲家も多いため、「この人はドイツ風」「この人はフランス風」というレッテルが存在するが、大澤の場合はその点も軽々と超えていると思う。1930年代にこれだけ自由に世界音楽を目指した作曲家がいたとは、本当に驚きだ。実は私は今回、演奏会に備えてピアノ協奏曲第 3番の CD を再度聴いてみたのだが、先入観による大きな誤解があることが判明した。それは、この曲の副題「神風協奏曲」から、てっきり戦意発揚の音楽だと思っていたのだ。だが聴いてみると、第 2楽章が顕著で、第 3楽章の一部もそうだが、ジャズ風の軽快な音楽が含まれているのである (なので、少しラヴェルのピアノ協奏曲を思わせる部分もある)。調べてみると、この神風とは、戦争末期の特攻隊とは何の関係もなく、当時朝日新聞社が所有していた飛行機、神風号が東京からロンドンまでの飛行を成し遂げたことを祝う内容なのである。この曲のナクソス・レーベルの CD はこんなジャケットだ。
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最初のコントラバス協奏曲は、この楽器を弾いたボストン響の当時の音楽監督、セルゲイ・クーセヴィツキーに献呈されている。曲の内容は、もちろん独奏がコントラバスだから決して派手ではなく、抒情性とモダニズムがミックスしたような印象。ソロを弾いた佐野央子 (なかこ) は、ソリストとしても活動しながら、現在は東京都交響楽団と、山田が音楽監督を務める横浜シンフォニエッタのコントラバス奏者でもある。また、ピアノ協奏曲第 3番でソロを弾いた福間洸太朗は、ベルリン在住の若手で、既にイスラエル・フィルやトゥールーズ・キャピタル管にソリストとして登場しているという。
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私が今回最も楽しんだのは、ピアノ協奏曲であったが、メインの交響曲第 1番も面白かった。作曲後、ボストンの学生オケで初演されようとしたが、学生には難しすぎるという判断で、見送られてしまったらしい。それが今回、作曲から 80年以上経過して、東京で初めて音になったというわけである。3楽章制で、上記の CD の解説には演奏に 1時間を要すると書いてあったが、今回の演奏時間は 45分ほど。それでもこれは相当な大作であり、若干のとりとめのなさは否めないものの、力強い音が奔流のように流れる音楽だ。ここでの山田と日フィルの演奏は細部まで彫琢を尽くし、楽器間の呼吸も絶妙。また、未知の曲を紹介するのだという強い熱意も感じられ、素晴らしかった。終演後、2階席から拍手を送る片山杜秀さんも、嬉しそうでしたよ。

繰り返しだが、世界を飛び回る多忙な生活を送っている山田和樹が、このような特殊なコンサートで指揮を執ったことの意味は、非常に大きい。S 席 4,000円という良心的な価格設定も含め、サントリー音楽財団の企画力と実行力、そして資金力あっての賜物だろう。来年以降も新たな発見を楽しみにしたい。このポスターも既におなじみだ。
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ところで会場では、先行発売と称して、山田と日フィルの武満徹作品集、2枚組の CD を売っていて、指揮者の直筆サインカードつきとのことだったので、早速購入した。内容を見ると、先のマーラー・ツィクルスで演奏された武満作品から、7曲が収められている。入っていないのは、2番とともに演奏された、混成合唱のための「うた」の一部と、それから、第 3番とともに演奏された「3つの映画音楽」だ。理由は分からないが、私としては、前者は聴くことができなかった回であり、後者は大変に好きな曲なので、残念だ。別の機会に CD 化を望みたいものである。
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# by yokohama7474 | 2017-09-04 01:07 | 音楽 (Live) | Comments(0)

没後 90年 萬 鉄五郎展 神奈川県立近代美術館葉山

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萬鐡五郎 (よろず てつごろう 1885 - 1927) の名は、日本の近代の美術に興味があれば必ず知っている名前であるが、一般的な知名度はどうであろう。実際、大正モダニズムを代表するような彼の作品は、その分野に関連する展覧会では必ず出品されているものではあるが、日本の洋画の中での位置はどうであろうか。だが、ここに彼の評価を端的に表すひとつの例がある。上のポスターの左端に掲載されている彼の作品、東京国立近代美術館所蔵の「裸体美人」(1912年) は、なんと国の重要文化財に指定されているのである。明治以降に描かれた日本の洋画の中で、重要文化財に指定された作品が一体何点あるのだろう。ふと思い立って、文化庁のサイトで、すべての重要文化財の絵画 1,838点をざっと調べてみた。ヴィジュアルなイメージなしに名称だけでざっと見ただけなので、間違っているかもしれないが、重要文化財の洋画の総数は 18。まあこの数字が間違っていたとしても、せいぜいが 20作品程度であることは間違いない。そして、日本の洋画家として欠くことのできない名前である梅原龍三郎と安井曾太郎の作品はそこには入っていないのだ。この 2人の巨匠画家たちの生年は 1888年だから、この記事の主人公である萬よりも 3歳下なだけなのである。もちろん、今後彼らの作品も重要文化財指定を受けることになるであろうが、現時点で見たときに、明治期の錚々たる洋画家たちの中で、フォーヴィスム風の荒々しい作風を持つ萬の作品がこれだけの高い評価を得ていることは、非常に興味深いと思うのである。因みにこの展覧会は、この記事を書いている 9/3 (日) に、私が見に行った会場である神奈川県立近代美術館 葉山での開催は終了し、この後は 9/16 (土) から 2ヶ月間、新潟県立近代美術館での開催となる。これが萬の肖像写真。
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そして、彼の生没年に注目しよう。彼は結核のために、満 41歳で亡くなっているのだ。だが、イメージとしては夭逝の天才という感じではなく、むしろ、かなりの数の作品を残した人という評価ができるのではないか。未だに全貌をよく知られているわけではない萬の画業を辿るには恰好の機会であり、私はこの展覧会を堪能した。展覧会はまず、萬が未だ画家を目指す少年であった頃の作品から始まる。これは、1898年、彼が 13歳の頃の図画帳。現在の岩手県花巻市の生まれであり、東北らしい、正確さを追求する忍耐を感じさせる画業の始まりだ。
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これはその 3年後、16歳の頃のもので、当時神田にあった速成文学会という画塾の通信教育。朱書きでの指導に真摯に向き合う少年の姿を伺い知ることができる。
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これは 1902年、17歳の頃の水彩画で、「中門 (八丁)」。何の変哲もないようでいて、扉の向こうの風景や、手前の地面に生えた赤い植物など、何か単なる描写を越えた画家の思想のようなものが感じられはしないか。
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これは 1905年、最初期の油彩画で、「静物 (コップと夏みかん)」。20歳の素直な感性が感じられる。
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萬は 1907年に東京美術学校 (現在の東京藝術大学) に入学し、黒田清輝らについて学ぶ。これは 1908年の「雪の風景」。故郷の風景であろうか。詩情あふれる作品であるが、通り一遍の雪景色ではない点、さすがである。
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これは 1909年の作品で、授業において描かれたのであろう、「裸婦」。この色遣いは、早くも後年のフォーヴ風の雰囲気を纏っているように思われる。
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萬は自画像を多く描いているが、これは 1911年、「点描風の自画像」。なるほどここでは、後期印象派風でもあり、一種表現主義的でもあるように思われる。萬は自画像を多く描いており、この後も何点かの自画像を見ることになるだろう。
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これも素晴らしい作品で、1911 - 12年の「落暉 (荷車ひきのいる風景)」。激しい西日 (題名の落暉 = らっき = とは日没のこと) は、ここでは幾千の光彩溢れる光線の束となって街に降り注ぐ。なぜかしら懐かしいこの風景。
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そして 1912年についに彼は生涯を通しての代表作を描く。上でも触れた、東京国立近代美術館の所蔵になる重要文化財、「裸体美人」である。1912年とは、明治の最後の年、明治 45年である。大正というモダニズムの時代に先駆けて、このような自由な感性を持ちえた萬は、本当に稀な人であると思う。これはほとんどフォーヴの世界。フォーヴィスムは、1905年にパリで開かれたサロン・ドートンヌの出品作から名付けられたもの。そのわずか 7年後、27歳の萬に、一体何が憑りついたのであろうか。この赤と緑の補色、空にポカリと浮かんだ雲、女性の腋毛など、実に強烈なのである。
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展覧会にはこの作品の下絵や習作が展示されている。この習作を見てみると、完成作よりもはるかにおとなしい。やはり制作の過程で何かデモーニッシュなものが彼に憑りついたのであろうか。
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ここで再び、萬の自画像の数々をご紹介しよう。まずは大原美術館所蔵の「雲のある自画像」(1912年作)。「裸婦美人」の雲はほぼ白であったが、ここでは緑と赤の、やはり補色関係で表されている。不思議な感覚の自画像だ。
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これもやはり「雲のある自画像」(1912 - 13年作)。これはまたちょっと危ない雰囲気をたたえた作品であり、目の下の隈は緑色である。
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そして今度は「赤い目の自画像」(1913年作)。これは目だけでなく全体が赤を基調とした作品で、短期間の間に自らをモデルにしてスタイルを模索する画家の魂が感じられよう。
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これは 1915年の「自画像」。今度はプリミティヴというかルオー風というか、また全然違った作風である。
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同じ 1915年の「目のない自画像」。うーん、ついに怪談の中の「むじな」になってしまったか (笑)。画家をこのように追い込んだものは一体何だったのか。世界における大規模な戦争か、それとも全くの内面的な要素であったのか。
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萬の目は浅草の繁華街にも向くこととなった。これは 1912 - 13年作の「軽業師」。ここで想像するのはやはりシャガールか。
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これも同時期、1912年の「飛び込み」。色と形態が躍動している。
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日本の洋画家によくある通り、萬も時に日本画を描いて、新たな境地を模索している。これは 1914年の「木小屋」。なかなかの情緒ではないか。
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これも斬新な表現だ。同じ 1914年の「怒涛の図」。砕け散る波が、あたかもモノトーンの点描画になっていて面白い。
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1915年に描かれた水墨による抽象画は非常にユニークだ。この「構図」など、どう見てもカンディンスキーの模倣である。
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彼が「裸体美人」を自らの最高傑作と思ったか否かは定かではない。というよりも、多分通過点くらいにしか思っていなかったろう。油絵の世界での試行錯誤はその頃も続いていた。これも 1914年の「男」。立派な筋肉であり、昔の実直な日本人を思わせるが、その体躯からは、どこかセザンヌを思わせるような、微妙な幾何学性が感じられると思う。
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萬の絵画表現は凄みを増して行くのだが、そこには何か、迷いも感じることができるように思う。この 1915年の「土沢風景 --- だんだん畑のある ---」は、曲がりくねった松が面白いが、画家の暗い心情を表した画面になっているのではないだろうか。
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1918年の「かなきり声の風景」を見ると、さらに画家の内面がさらけ出されたものになっていて、色遣いが毒々しい分、どこか痛々しい。
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これは 1918年の「薬罐と茶道具のある静物」。静物画でありながら対象物が動いているような表現であり、それであるがゆえに、キュビスム風に様々に異なる角度から見たモノに実在感を感じるのであろうか。
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キュビスムと言えば、これも萬の代表作のひとつと言えるであろう、1917年作の「もたれて立つ人」。上で見たのっぺらぼうの自画像とキュビスムの邂逅であるが、ここでは対象は明らかに女性である。代表作「裸体美人」からわずか 5年で、萬は遠いところにまで到着している。
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これは 1918年の「郊外風景」。対象物を大きくとらえ、大胆な色遣いで運動性まで感じさせる。
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さてこれは、1922年に描いた水墨画「砂丘」。鉄斎かとみまがうばかりの南画風表現ではないか。きっと萬という人は、強い生命力を持っていて、目に見える世界にも様々な種類があった人だったのだろう。
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これは 1923年の「少女 (校服のとみ子)」。ここでは明らかにマティス風の表現が試みられていて、しかもそれがかなりサマになっている。
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このように様々なスタイルを逍遥して精力的な活動を展開して来た萬であるが、1927年、41歳の若さで亡くなってしまう。結核であった。そんな彼が未完成として残した「裸婦 (宝珠をもつ人)」(1926 - 27年作)。和風のようでもあり洋風のようでもあり、不思議な雰囲気だが、ここでこの人物が宝珠を持っていることから、仏教的なイメージも醸し出されている。
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実は、萬が生まれた岩手県には、坂上田村麻呂以来の毘沙門天信仰が盛んで、いくつものユニークな古い毘沙門天像が残されている。この裸婦が宝珠を持つ姿勢は、花巻市の成島毘沙門堂の本尊との共通性が指摘されている。これは本当に迫力満点の重要文化財であり、私も 35年ほど前に一度見たきりであるが、また東北の仏像詣でに出掛けたいと思わせるに充分なものなのである。それにしても、萬が毘沙門天のイメージを使おうとしたのなら、その理由は何だったのであろうか。
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萬が他界した 41歳とは、画家としてまだまだこれからという年齢である。その短い様々なタイプの作品を数多く残したこの画家の画業を一言でまとめるわけにはいかないが、ある意味では、日本の洋画家としての利点とハンディキャップを両方意識していた画家だということはできるだろう。「裸体美人」に感じるモダニズムだけでない人だということを実感させる、大変に有意義な展覧会であった。

# by yokohama7474 | 2017-09-03 23:28 | 美術・旅行 | Comments(2)

地獄絵ワンダーランド 三井記念美術館

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夏には時々、妖怪や幽霊と言った怪奇なものを特集する展覧会が開かれており、私もこのブログにおいて、過去にそのような展覧会をいくつか取り上げてきている。これもそういったもののひとつ。既に夏の気配は去り、この展覧会の会期も明日までである。今年の夏はどうにもすっきりしない天候であったので、怖いものを見てひやりとしたいという気分にはあまりならない日も多かったが、ともあれ、日本人の死生観に直結する地獄のヴィジョンを様々に紹介する面白い展覧会であるので、ここでざっとご紹介してみたい。

地獄とはもちろん、生前に悪い行いをした者が墜ちるところであり、三途の川や閻魔大王などの死後の世界のイメージは、日本人の誰しもにとって親しいものであったろう。ただ、それは昭和に生まれた私のような世代の者にとっては当然そうであっても、今の若い人たちにとってはどうなのであろうか。以前のように仏教的な感覚が日常的に近いものであった時代は既になく、土地の古老から地獄の話を聞かされて震えあがるという経験は、ほとんどないのではないか。いや、実は私の世代であっても、少なくとも都会に育った人間には、そのような経験はほとんどなかったわけであるが、それでも、地獄に関して、ある恐怖心を持っていたことは確かである。私の場合は小学生のときに「地獄大図鑑」なるカラーの本を買ってきて読みふけり、学校の勉強そっちのけで、熱心に地獄の勉強をしていたものだ (笑)。いわゆる八大地獄なるものに、小学生にして既に通じていたのである。こんな本であった。このジャガーバックスのシリーズはまさに異形のもの、怪奇なものに関する私の原点で、ここでなんともキッチュな挿絵を描いていた石原豪人についても、長じてから知ることとなったが、まあその話は別の機会に譲ろう。
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そして私の妖怪への興味は、ひとりの漫画家によって強く掻きたてられられることとなった。言うまでもなく、水木しげるである。この展覧会もまた、その水木しげるの描いた地獄の様子の原画に始まる。これが閻魔大王。
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水木しげるは一般的にも人気があり、NHK の朝ドラで「ゲゲゲの女房」などというヒット作もあったので、既にかなり知られていることであろうが、鳥取の境港に育った彼が幼い日に、のんのんばあなるお手伝いのお婆さんが語ったお化けや地獄の世界が、彼のイマジネーションの源泉である。上の絵でも、左手前に、あたふたと逃げる水木少年とのんのんばあが描かれている。以下、地獄の情景をいくつか。八大地獄の中の第ニ、黒縄地獄。第五、大叫喚地獄。そして第八、阿鼻地獄。因みにこの第八は、展覧会の表示では「阿鼻叫喚地獄」とあったが、いやいや、上記の「地獄大図鑑」にはその呼び方ではなく、「阿鼻地獄」と記載されていたので、私としては飽くまでもそれにこだわりたい (笑)。
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そもそも日本人にこのような地獄や、その対照としての極楽のイメージが根付いたのは、鎌倉時代以降の庶民の信仰、浄土系の思想によるものである。高校の日本史の教科書にも必ず出て来る恵心僧都源信の手になる「往生要集」に、既に地獄のイメージが明確に述べられているらしい。だが日本人の場合、どういうわけか視覚の刺激を好むものであるらしく、地獄の様子の視覚化によって、そのイメージが人々の中に定着して行ったのであろう。水木しげるは妖怪画においても江戸時代の印刷物からのイメージを流用しているケースが多いが、例えば上の「阿鼻地獄」の奥で落下して来る人々のイメージは、例えばこの、1671年に発行された「和字絵入往生要集」、つまり、源信の「往生要集」の図解版に既に現れている。
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展覧会では、ここから始まる様々な地獄絵がこれでもかと並べられていて (期間中の展示替えがかなり多いのが難点だが)、なんとも興味深い。これは、滋賀県の新知恩院所蔵になる重要文化財の「六道絵」から「地獄道」、「阿修羅道」、「天道」。何が珍しいといって、これらは中国で描かれたものなのだ。南宋から元にかけての時代、つまりは 12 -13世紀の作品である。ご覧の通り非常に優れた筆致の作品であるが、日本のこの種の絵よりも格調が高いというか、タブローの色合いが濃く、物語性は希薄に思われる。
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やはり 12世紀頃に描かれ、現在では東京国立博物館や奈良国立博物館が所蔵する「地獄草紙」は国宝に指定されているが、この展覧会では残念ながら見ることはできない。だが、地獄草紙のひとつ、益田家本の明治時代の模写が展示されている。この炸裂する物語性と、それから強烈なスプラッター感覚は、上の中国画の格調の高さとはかなり違いますねぇ (笑)。「鳥獣戯画」によって世界最初のマンガを生んだ日本という国は、中国から文化を導入しても、やはり自分たちの好みに合わせてそれを変えてしまう習性を持っていたということか。
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そう、日本の地獄絵では、画家が楽しんでホラーシーンを描いているのがよく分かる。この展覧会の図録には、子供も読みやすいようにいろいろ工夫がされているが、以下の絵に添えられたこのセリフは、ある意味で日本の地獄絵の特徴をよくとらえていないだろうか。これは、聖衆来迎寺の「六道絵」(原本は鎌倉時代作の国宝で、私も一度夏の時期に実物を見たい作品だが、これは江戸時代の模写・・・あとで気づいたのが、この夏に奈良国立博物館で源信展をやっていて、そこに聖衆来迎寺の国宝「六道絵」がすべて出品されていたとのこと。残念ながら見逃した) のワンシーンである。亡者の切実な声に、私は声をあげて笑ってしまいました。
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さて、人間が死後裁きを受けるにあたっては、十王という怖い神様 (なんだろうか) にお世話になるわけだが、中でも閻魔大王の名はよく知られている。これは滋賀県、天台宗の名刹、三井寺 (園城寺) に伝わる重要文化財の「閻魔天曼荼羅」。威厳ありますなぁ。
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さて、極上の美術品としての地獄 / 六道絵から、庶民の信仰が広まるにつれ、造形方法も多様化して行った。この時代、つまり12世紀頃の日本の絵画を西洋と比べると、様々な点で日本が西洋にまさっていると言ってよいだろうが、中世から近世にかけての日本において、人々が集まって住むそれぞれの村落の中で、世代から世代へと伝承が広がって行く様は、何かある種の迫力があると言ってよい。これは江戸時代の「地獄十王経」から。このヘタウマ感覚というか、ただのヘタな (?) 絵画表現に、「民芸」を見た。
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そもそも日本人の想像力の懐の広さは、上で少し触れた「鳥獣戯画」に最も端的に表れていようが、その自由なユーモア精神は、数々の遺品に見ることができる。これは京都の清浄華院所蔵になる重要文化財、室町時代の「泣不動縁起」から、熱心な僧の献身ぶりに泣いた不動明王が、その僧の代わりに責め苦を受けるために冥界に出向くところ。いやいやお不動様、あなたは偉いんだから!! と言いたくなる感動のシーンである (笑)。なんとも珍しい作品だ。
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地獄や極楽という想像上の世界を表すという点において、日本人の持つ才能は大したものだ。これは江戸末期、1858年に松平乗全 (のりやす) によって描かれた「立山曼荼羅」。現在の富山県にある立山連峰は、古くからの聖地とされており、この絵のように、下の方には実際の立山のお堂の数々が描かれ、上の方には仏の世界が描かれた。ここには自然の中に神秘なるもの、崇拝すべきものを見出す日本的な感性がある。霊峰とされる山の中に極楽や地獄が存在しているとする思想のことを、「山中他界観」と言うらしい。
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さて、このような感性は民間信仰において独自のものを生み出す。これは江戸時代の「熊野観心十界曼荼羅」(日本民藝館所蔵)。熊野三山に所属する熊野比丘尼と呼ばれた女性宗教家が携帯していたもの。全体が独特で不思議な図像に満ちているが、その上部のアーチ型の部分には、生まれてから死ぬまでの人間の姿の推移が描かれており、その真ん中に「心」の文字が見て取れる。
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そう、この「心」こそが重要だ。生前の心がけが来世を決める最大の要因であることを表している。この江戸時代の「心字曼荼羅」では、寝ている女性から心が抜け出て、極楽と六道につながっている。そして女性の下には腐乱死体が描かれているが、これはもちろん、九相図 (くそうず) の一種。人間の生の儚さを道徳的に描いているのである。
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展覧会ではここから後には、ひたすら庶民にとっても地獄を表す造形の数々を見ることになる。これは、江戸時代に全国を行脚した木喰 (もくじき) 上人による十王坐像と葬頭河婆坐像の一部。素朴な造形であるが、近くでじっくり見ると、意外とその彫り口は鋭いのである。兵庫県の東光寺の所蔵。
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さてこれは、再び日本民藝館所蔵の「十王図」。これはどう見てもプロの絵師が描いたものではなく、明らかに庶民の手になるもの。まさに民芸であり、日本人のユーモアのセンスを表すものと言えるだろう。十王の中で唯一顔を赤く塗られているのが閻魔大王。この展覧会のポスターにも使われているのも納得の存在感である。また、地獄の獄卒たちも、私が幼少の頃に「地獄大図鑑」で見た石原豪人のグロテスクな挿絵とは似ても似つかない、愛らしく素朴な様子なのだ。
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このような地獄絵の民芸化は、私もこの展覧会を見るまではあまりイメージがなかったが、なるほど民間信仰とはこういうことかと実感する。これらは東京葛飾区の東覚寺所蔵になる「地蔵・十王図」から。この素朴さこそが、江戸時代の文化度を示している。
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まあそれにしてもこの展覧会、よくぞこれだけあらゆる地獄絵とその関連の作品を集めてきたなぁと感嘆するのであるが、江戸時代の読み物の中にも、直接地獄を描いたものでなくとも、面白いものが満載だ。これは、山東京伝の手になる「一百三升芋地獄」から「業の秤」。なんでもここで鬼が言っていることは、「サツマイモども、よくも人々を胸やけさせたな!!」ということであるそうだ (笑)。さすが寛政の改革のときにお縄頂戴になった京伝だけある。なんともブラックだ。
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日本古来の文化というと、いわゆる禅的なわび・さびという渋いイメージなのであるが、いやいやどうして、日本人のユーモアのセンスの秀逸なこと。上でもその例のいくつかを見て来たが、江戸最大の娯楽であった歌舞伎との関連でも、実に興味深い遺品がいろいろある。これは「死絵 八代目市川團十郎」。幕末に活躍した八代目市川團十郎 (1823 - 1854) の死後に作られたもの。二枚目をもって知られた團十郎が獄卒のもとに赴こうとして、多くの女性に引き留められ、獄卒も困ってしまうという場面。ここで群がり折り重なり、團十郎を行かせまいとしている女性たちは、老いも若きも、美形も醜女も、あるいはメスの犬や猫までもといった具合 (笑)。
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このように、中世から近世まで、そして現代にまで続く日本人の地獄・極楽感に触れることのできる、大変興味深い機会であった。そう、このような展覧会を見ることで、親から子へ、子から孫へ、この国独特の感性を語り継ぐことができるだろう。のんのんばあはもういなくとも、現代に生きる我々の力で、文化をつないで行くことはできると信じたい。

# by yokohama7474 | 2017-09-02 23:30 | 美術・旅行 | Comments(0)

サントリーホール 2017 リニューアル記念 Re オープニングコンサート ジュゼッペ・サバティーニ指揮 東京交響楽団ほか 2017年 9月 1日 サントリーホール

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さて、9月である。東京でも音楽シーズンが再開する。これから秋にかけて、今年もまた東京の音楽シーンは、それはそれは大変なものになるのであるが、それはおいおい、できる限りこのブログで実況中継させて頂くとして、何よりも東京のクラシックファンにとっての朗報は、サントリーホールのリニューアル・オープンである。このブログでもご紹介した通り、昨年 10月にオープン 30周年を祝ったのち、今年 1月末をもって本格的な演奏会は一旦打ち止めとなり、まる 7ヶ月の間、改修のために閉鎖されていたサントリーホール。もちろん東京にはほかにもよいホールは幾つもあり、ここが休館の間も音楽シーズンは続いて行ったのであるが、やはりこのホールは東京で No. 1 であり、世界的に見ても今や名ホールの仲間入りを果たしていると言ってよいと思う。そう、このようなワインヤード式としては日本初のコンサートホールであったこのサントリーホール、その待ちに待ったリオープンである!!
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今回の演奏会は、通常よりも 1時間早い 18時の開演。例によって台風接近中のため大気が不安定な中、会場に辿り着いてみると、さほど華美すぎないものの、このような垂れ幕と、入り口に据えられた美しい花が、久しぶりの来訪者たちを快く迎え入れてくれる。
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7ヶ月もの改修を経て、サントリーホールはどのように変わったのであろうか。な、なんと、あの複雑なワインヤード形式のホールが、あろうことか、なんとなんと、単純な形状のシューボックス形式に変えられていた!! ・・・という驚愕の出来事は起こらず (驚かれた方、すみません。真面目にやります)、ホールの中は特に変わったところはない。ざっと中を歩いてみて気づいたのは、以前はポスターが貼ってあった 1階と 2階の掲示板が縦長の電光表示になっていて、時間とともに宣伝されるコンサートが変わっていたこと。また、新たに横長のモニタースクリーンが設置されていたこと (今回は、この 11月にボストン交響楽団と来日する、髭を生やしたアンドリス・ネルソンスのインタビュー映像が流れていた)。それから、1階のホワイエからホール自体のドアに向かう数段の階段の左手に、車椅子用のスロープが設置されたこと。そして、一般利用者にはこれが最も影響あるだろうが、2階のトイレが改修されたこと。このホールの 2階は、エスカレーターや階段で上がってきてすぐ右手に女性トイレ、その左隣が男性トイレであったところ、以前の男性トイレの入り口が女性トイレの出口になっており、男性トイレはその奥、RB ブロックの入り口扉の前あたりに新設されている。これにより休憩時間の長蛇の列は男女でうまく分散されることになった。そして私は男性であるからして、もちろん男性トイレを使用したのであるが、恐らく便器の数は増えたものと思われるが、敷地面積は少し減ったようで、若干せせこましい。だがひとつ明らかな改善点があり、それは、列をなす人たちのスペースが手洗い場を邪魔しないことだ。よい工夫である。

さて、トイレの話はこの程度にして (笑)、今回の記念すべきリニューアル・オープンの内容をご紹介しよう。まずメインは、往年の (といってもほんの 10年前まで活躍していた) イタリアの名テノール歌手、ジュゼッペ・サバティーニが指揮をする東京交響楽団 (通称「東響」) による、ロッシーニのミサ・ソレムニス (荘厳ミサ曲)。これは、もともと「小荘厳ミサ曲」と題されたオリジナル編成、つまりは合唱、独唱をピアノ 2台とハルモニウム (オルガンの一種) が伴奏する形態を、作曲者自身が大管弦楽伴奏に編曲したもの。しかも今回は、2013年に出版されたロッシーニ全集版の日本初演である。これがサバティーニ。あの青山の有名レストランのオーナーとは親戚だと以前聞いた記憶があるが、再確認しておりません。尚、サントリーホールとは、かなり以前からホールオペラという試み (セミナーを含む) を率いるなど、深い関係がある。
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私は思うのであるが、この名ホールの再開を記念するコンサートが、このような比較的地味な内容であることに、文化都市としての東京の成熟を見ることができないだろうか。これは、音楽の本当に高度な喜びを見出すことができる、素晴らしい企画である。今回は、ホール入り口からすぐの場所に、サントリーホール館長であるチェリストの堤剛がタキシードを着て立っていて、夫人同伴で、知り合いの来訪者の人たちに丁重な挨拶をしていたのが印象的であった。

さて、ロッシーニの「小荘厳ミサ曲」である。以前もこのブログで触れた記憶があるが、私にとっては、1981年にミラノ・スカラ座が初来日した際に、カルロス・クライバーとクラウディオ・アバド率いるオペラ公演とは別に開かれた、合唱指揮者ロマーノ・ガンドルフィ指揮によるスカラ座管弦楽団の演奏で、初めて耳にした曲。もちろんその頃私は高校生であり、実際のステージに触れることはできなかったが、この曲を含むすべての演目 (アバド指揮のヴェルディのレクイエムも含めて) が FM で生放送され、テレビでも放送されたのである。このロッシーニの曲は、その斬新な音響がまるでストラヴィンスキーのようだという評価を当時耳にしており、興味を持って聴いたところ、確かに、彼のオペラにおけるいわゆる「ロッシーニ・クレッシェンド」の、あの快活な疾走感のある音楽とは全く違う内容であったことに驚いたものだ。それ以来、実演に触れることは久しくなかったはず。だが、CD なら同じガンドルフィ指揮による録音も持っているし、脳髄の奥底で、確か誰かの演奏で生で聴いたはず・・・という思いが疼いている。あたりをつけて調べたところ、すぐに見つけることができたのは、2008年 11月にロンドンのバービカン・ホールで開かれたリッカルド・シャイー指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の演奏会のプログラムである。そうでしたそうでした。それは聴きましたよ。ただ、それ以外の実演の記憶はなく、今回は本当に貴重な機会であったのである。ジョアッキーノ・ロッシーニ (1792 - 1868) はイタリア人だが、若くしてオペラの作曲はやめてしまい、晩年はパリに住んだ。さすが美的センス随一の大都会パリというべきか、彼の肖像写真が残っている。
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久しぶりの実演で聴くこの曲は、やはり実に斬新な音で満ちており、快活なロッシーニの音楽とは別物である以上に、いわゆる 19世紀の宗教音楽というイメージからもほど遠い。この曲の管弦楽版の編曲は、ロッシーニ最晩年の 1866年から 1868年にかけて行われ、そしてこの大作曲家は、その完成後間もない 1868年の 11月に死去するのである。管弦楽版編曲の動機が振るっている。「自分の死後、サックス (当時発明されて間もない楽器、サキソフォンの発明者) やベルリオーズが騒々しい編曲をすると困るから」ということ。なるほど、皮肉屋のロッシーニらしい。調べてみるとベルリオーズはロッシーニよりも 11歳下の 1803年生まれ。だがロッシーニ死去の翌年、1869年に世を去っているから、このミサ曲の勝手な編曲をしている時間は、どのみちなかったことにはなるが。

さて今回の演奏は、さすが名歌手サバティーニの指揮だけあって、大変に細かい詩情まで丁寧に描き出した素晴らしいものであったと思う。その流れには常に音楽への情熱が感じられ、これは演奏者のものであると同時に、作曲家のものでもあったと感じることができた。合唱がアカペラで歌う場面も多くあるかと思えば、ソプラノとアルトがオペラ風に抒情的なメロディを歌いあげることもあり、またいくつかの曲の終結部は、なにやらプッツリ切れるなど、90分の演奏時間の中のそこここに、様々な音楽的情景がちりばめられている。皮肉屋ロッシーニが晩年に見ていた世界は、古典派の均整のとれた秩序あるものではなく、このようにいびつで謎めいたものだったのであろう。サバティーニは、上にも名前が出て来たリッカルド・シャイーが 1993年に当時の手兵ボローニャ歌劇場管を指揮してこの曲を録音した際に、そのテノールパートを歌っていたらしい。つまりは自家薬籠中の作品ということになろう。今回はかなり音響のコントロールに神経を使っている様子であったが、東響はその意図をよく汲み取り、広がりのある音で充実した演奏を繰り広げたのである。合唱団は、東京混声合唱団と、このサントリーホールでの育成プログラムのひとつである、サントリーホール・オペラ・アカデミーの共演。相当に鍛錬された声を披露しており、これまた聴きごたえ充分であった。そして、ソリストは以下の通り。
 ソプラノ : 吉田珠代
 アルト : ソニア・プリーナ
 テノール : ジョン・健・ヌッツォ
 バス : ルベン・アモレッティ

それぞれに活躍する多彩な顔ぶれ。特にアルトのソニア・プリーナは、髪形も衣装も個性的で、かつ素晴らしい表現力の声であると思った。
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それから、終盤に登場する、ある種異様なオルガンソロを弾いたのは、イタリアの若手オルガン奏者、ダヴィデ・マリアーノ。実は彼はこのコンサートの前半にも登場していた。そこで彼は、東京佼成ウィンドオーケストラの選抜メンバーである TKWO 祝祭アンサンブルの面々と共演し、ガブリエーリやバッハを演奏。また、オルガン・ソロではヴィドールやデュリュフレといった、この楽器ゆかりの作曲家の曲を演奏していた。また、TKWO 祝祭アンサンブルは、このサントリーホールのリオープンを祝して、上記の曲に加え、ヨハン・シュトラウスのワルツ「美しき青きドナウ」も演奏した。全体としては楽しい演奏であったが、ブラスアンサンブルとしては、さらに鋭くスリリングなやりとりがあってもよかったような気がする。

このように、大変に興味深いコンサートであり、今後このホールで展開する目くるめく音楽の世界に対する期待感を高めることができた。だが、今回少し驚くようなことが、しかも立て続けに 2回起こったので、ここに記しておこう。まず最初のトラブルは、前半のブラスアンサンブルの演奏が終わり、10名のメンバーがカーテンコール時に袖からステージに出て来たときに起こった。ブラスアンサンブルであるから、トランペットやトロンボーンやホルンに加え、チューバ奏者がいるのだが、通常チューバほど重い楽器を持ってステージと楽屋を往復することは少ないだろう。なにせこんなに大きい楽器なのであるから。
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だが今回はその、楽器を持ったままでの移動が、災難を巻き起こした。つまり、ステージに再登場したメンバーのうち、チューバ奏者が歩いている途中でバランスを崩し、かわいそうなことに、ステージに激しく倒れてしまったのである。客席からは悲鳴があがり、拍手もその転倒の際には止まってしまったのであるが、奏者が立ち上がると、励ましの意味を込めて、勢いよく再開した。私は舞台に向かって右側の RA ブロックにいて、その様子がよく見えたのだが、チューバ奏者がバランスを崩し、楽器の重さに引っ張られながらオットットと懸命にバランスを取り戻そうとしたときに、足が滑ってしまったのである。床を見ると、改修前はかなり年季の入った、ある意味ではこのホールの過去 30年の栄光の歴史を示すような、色のくすみやデコボコのある床であったものが、きれいな表面に変えられていた。つまり今回災難に遭われたチューバ奏者の方は、ピカピカツルツルの新しい床に、文字通り足元をすくわれたわけである。だが私は見逃さなかった。この奏者は倒れながらも楽器をかばい、自分の体を床に叩きつけることで、楽器の破損を防いだことを。これぞプロ魂。腕に負傷されていないことを祈ります。

もうひとつのトラブルは休憩時間に起こった。自席でプログラムの解説に目を通していた私は、近くの女性の悲鳴に顔を上げた。すると、ちょうどステージを挟んで反対側の LA ブロックで、初老かと思われる小柄な女性が、なんとなんと、階段を何段も、横になってクルクルともんどり打って転げ落ちるという衝撃的なシーンを目撃したのだ。すぐに周りの人たちや係員が駆け付けたが、女性係員が男性係員を呼びに走って不在になったときには、何やら怒号も飛んでいた。これは本当に危ないことである。これまでに何度となく通っているこのホールにおいて、私はこれまでこのような激しい転倒のシーンは見たことがなかった (横浜みなとみらいホールで、階段で足を滑らせた女性が勢いよく階段を駆け下りることになり、腹で手すりに激突した場面は見たことがあったが)。だが確かによく見ると、LA ブロックと RA ブロックの階段は、かなり急勾配なのである。一定の年齢以上の方は、本当に気を付けて、手すりを持ちながら昇降しなければいけないと改めて思った。転送した女性はしばらくしてスタッフに連れられて自力で歩いて退場されたが、結局、メインのロッシーニは聴けなかったようだ。本当に、大事ないことを祈りばかりである。

このような、コンサートの内容以外で波乱含みのサントリーホールのリオープンであったが、やはり演奏者も聴衆も、くれぐれも事故のない楽しいコンサートにしたいものです。災難に遭われた方々、何卒お大事に。

# by yokohama7474 | 2017-09-02 01:26 | 音楽 (Live) | Comments(0)

和田 竜著 : 忍びの国

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先に同名の映画化作品を採り上げた小説である。その映画についての記事でも触れたが、一般的に、小説が売れてから映画化されるケースは非常に多いものの、この作品の場合は、原作者が映画の脚本を自ら書いていることが最大の特色であろう。私はこの映画を結構楽しんだのだが、その理由のひとつは、さすが作家の手になると思われるセリフであることは既に書いた。だからこそ、原作と映画の違いに興味津々であったのである。

そもそも、ある小説を映画化したものを見ると、十中八九は小説の方が映画より面白いと感じるものである。私の見るところその理由は明白で、要するに文字だけの情報である書物を読むことは、取りも直さず自分の中で、ヴィジュアルなものを含むイメージを膨らませること。つまりはイマジネーションである。どんな人間であれ、イマジネーションがある以上は、他人から押し付けられることのない自由な想像に喜びを見出すもの。もちろん、外から与えられるイメージが、もともと自分が持っていたイメージとほぼ同じというケースもあるであろう。だがそんな場合も、小説の映画化につきまとう別の難題をクリアできないかもしれない。それは、何日もかけないと読破できない小説と、せいぜい 2時間前後で終わってしまう映画との間には、埋めることの到底できない情報量のギャップがあるのである。何事も手軽でスピーディになってきている現代、書物が我々の日常生活に占める割合が減って来ていることは否定しようのない事実であろう。だがそれは由々しき事態。これは難しいことでもなんでもなくて、文字を追うことで人間に生来備わっている想像力が刺激されることは、誰がどう見ても明らかな事実である。なので、人間が人間である以上は、書物の存在意義は続くという点において、この「小説の方が映画より面白い」という感覚は、文化的観点からは非常に大事なのであると思う。
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さて、この小説を読んで、映画と比べていかがであろうか。正直なところ、私は舌を巻いた。その理由は、映画も充分面白かったところ、原作小説はそれよりもしっかりと多い情報量を持っていて、それはそれはよくできていたからである。そう、小説の方が登場人物は多いし、個々のシーンの中でも、設定が微妙に違うところが多々ある。あるいは、主人公である忍者、無門の語る言葉を取っても、小説では映画のように全編を通して現代語というわけではない。戦国時代という設定に基づいて、文字で読むところのリアリティが満載なのである。上述の通り、小説の作者が映画の脚本を手掛けている意味は非常に大きいが、それにしても、どんな小説家もこんな脚本を書けるわけではないだろうと思う。というのも、自分の書いた小説の登場人物たちが大事だと思えば、自らの手でそのキャラクターを変えたりあるいは省略したりすることはつらいことであろうからだ。であるからして、私はこの和田竜という作家のスマートぶりに敬意を表するのである。
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だがその彼の手腕にしても、この小説で使われた手法のすべてがオリジナルというわけではない。読んでいてすぐに分かるのは、歴史物のスタンダードとしての司馬遼太郎からの影響である。小説の中の歴史的シーンをリアルに語りながら、現代の視点から、参照にした文献に言及し、それへの短い評価を記す。そこに時代の流れが巧まずして現れる。そういえばこの二人、眼鏡も似ていないか (笑)。
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ともあれ、読む人の想像力を心地よく刺激する小説であるので、映画云々ではなく、小説そのものとして楽しめる。ところでここで私が言いたいことは、上記のような司馬遼太郎という手法における先駆者のみならず、題材におけるこの小説の先駆的な作品があるということである。このブログで以前ご紹介したこともあるが、その作品とは、村山知義の「忍びの者」。
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5分冊の大部な小説であるが、私はもう何年も前にこの小説を大変面白く読んだ。ここには、「忍びの国」にも登場する百地三太夫や木猿などのキャラクターも出て来るし、何より、最後の最後で明かされる意外な設定も面白い。なので、「忍びの国」に興味を持たれた方は、是非この「忍びの者」も読んで欲しい。作者の村山知義は、演劇や美術の分野における日本のモダニズムを語る上では欠かせない人物であるが、このような面白い小説を書いていたことは、現代において、もっと評価されてもよいと思う。因みにこの「忍びの者」、市川雷蔵主演で映画化されている。残念ながら私は見たことはないのであるが、この昭和感覚あふれるポスターに興味をそそられる。うーん、「忍びの国」における大野智に比べると、随分あか抜けない、短足がに股の、農耕民族的忍者である (笑)。
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今や外人にも大人気のニンジャであるが、歴史の中で「闇に生まれ闇に消える。それが忍者の定めなのだ」(白土三平の「サスケ」より) という位置づけにある彼らの生きざまを、想像力を駆使して感じてみることで、ストレスの多い日常を忘れることができると思う。なので忍者ものは、今この時代であるがゆえに、意味のあるものなのだと思う。

# by yokohama7474 | 2017-08-31 00:49 | 書物 | Comments(0)