パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 (チェロ : ターニャ・テツラフ) 2017年 7月 1日 NHK ホール

e0345320_00523128.jpg
早いもので、2017年ももう半分を過ぎた。そうして NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の指揮台に、首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィが還って来た。N 響のシーズンは 9月からなので、今回の一連の公演が、シーズン最後の定期演奏会ということになる。上のプログラム写真でも分かるように、たまたま私が今回対象とする演奏会は 7月にずれ込んだとはいえ、元来は 6月の定期の一環なのである。以前も触れたように、もともと 3種類の定期のうち 1種類をサントリーホールで行っている N 響であるが、現在そのサントリーホールは改修中。6月の定期はかくして 2プログラムのみ。今回私が聴いたものはその 2つ目で、よく演奏日程を確認してみると、今回の 7/1 (土) のものが、今シーズンの定期演奏会の文字通り最後のコンサートなのである。道理で演奏終了後、女性楽員がヤルヴィに花束を渡していたはずだ。今シーズンは N 響にとって、とりわけ意義深いシーズンであったと評価されるのではないだろうか。そのひとつの理由は、今年 2月から 3月にかけて行われたヨーロッパツアーであろう。5月14日のスタインバーグ指揮 N 響の演奏会の記事でそのツアーの成果についてはご紹介したが、今回の 6月定期のプログラムには、N 響のスポンサー 5団体への謝辞として、このような写真が掲載されている。クラシックファンならすぐに分かる、アムステルダムのコンセルトヘボウにおけるヤルヴィと N 響の演奏会を写したものであろう。
e0345320_01083794.jpg
ともあれ、6月の定期公演のひとつは、デュティユー、サン・サーンス、ラヴェルというオール・フランス物。そして今回私が聴いたのは、このように対照的な、オール・ドイツ初期ロマン派プログラムである。
 シューマン : 歌劇「ゲノヴェーヴァ」序曲
 シューマン : チェロ協奏曲イ短調作品129 (チェロ : ターニャ・テツラフ)
 シューベルト : 交響曲第 8番ハ長調 D.944「ザ・グレイト」
e0345320_01200772.jpg
うーんなるほど。よく考えられたプログラムだ。その理由を列挙しよう。
・前半は、ヤルヴィがもうひとつの手兵ドイツ・カンマー・フィルと集中的に手掛けたことがあるシューマン
・だが彼の交響曲ではなく、序曲と協奏曲。しかも、よりポピュラーな「マンフレッド」序曲やピアノ協奏曲ではない
・後半は、ヤルヴィがこれまであまり取り上げていないシューベルト
・このシューベルトの交響曲「ザ・グレイト」を、作曲者の死後、世に紹介して「天国的な長さ」と評したのは、ほかならぬシューマン

このように、シューベルトとシューマンのそれぞれの活動の幅を念頭に置きながら、同じレパートリーの繰り返しを避けて新鮮さをもたらそうという意図かと思われる。いつもヤルヴィのプログラミングにはそのような明確な意図が感じられることが多く、その一方であまりマニアックにもなりすぎないバランスのよさがあると思う。

では順番に演奏を振り返ってみよう。最初の「ゲノヴェーヴァ」序曲は、シューマン唯一のオペラの序曲であるが、今日ではオペラが全曲演奏されることはめったにない。だが幸いにして私はこのオペラの全曲実演を 2度見ており、最初は 2006年、米国初演がニューヨーク州の Bard College という大学内のホール (マンハッタンからハドソン川を随分遡ってドライブした) でなされたとき。2度目は 2011年、新国立劇場中劇場で行われた、こちらは日本初演で、東京室内歌劇場による演奏 (十束尚広指揮)。全曲を見た感想は、まぁ頻繁に演奏されないのも分かるなというもの (笑)。正直あまり面白くない。だが、ここに出てくる魔術的要素が、恐らくはワーグナーにつながっているのかと思うと感慨深いし (そういえばジークフリートという登場人物もいる)、ドイツ人特有の森の神秘という要素もある。そして、序曲だけならそれなりの頻度で演奏される。今回のヤルヴィのこの曲の演奏は、譜面台も置かない暗譜によるもので、管楽器と弦楽器の掛け合いが見事。ヤルヴィ特有の疾走感と、N 響らしい重量感を併せ持つ演奏で、非常に気持ちのよいものであった。尚、編成はコントラバス 8本 (ちなみに後半のシューベルトも同じ。チェロ協奏曲は 6本) と、初期ロマン派にしては若干大型。ドイツ・カンマー・フィルを振るときとは異なったアプローチであり、オケの持ち味に合わせてなんでもできてしまうヤルヴィの才能を再確認した。

2曲目のシューマンのチェロ協奏曲では、ドイツ人女流チェリスト、ターニャ・テツラフがソロを演奏した。
e0345320_09040883.jpg
もちろん世界的に活躍している演奏家であるが、どうしても、現代を代表するヴァイオリニスト、クリスティアン・テツラフの妹という紹介になってしまう点は否めない。実際この兄妹は頻繁に共演しているし、ともに来日したこともある (2014年に、まさにパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマー・フィルのブラームス・ツィクルスで二重協奏曲を協演)。単独で聴いたのは、私としては今回が初めてであり、技術の確かさには全く非の打ちどころがない。一方このシューマンのコンチェルトは、もちろん演奏しないチェリストはいないくらいの有名曲であって、私も時折メロディを口ずさんだりなどすることがあるが、それでも、どうしてもこの曲が聴きたいと思うほど惚れ込んだことは、これまでにないのである (笑)。3楽章が続けて演奏される構成が、あまりめりはりを感じさせないのがひとつの理由かもしれない。今回の演奏では、憂いを込めたチェロと、そこにしっかり寄り添うオケ、特に明滅する木管楽器など見事であったが、ある意味ではこの曲のイメージ通りの演奏で、欲を言えばテツラフのチェロにもう少し優雅なところがあれば、さらによかったのではないかと、勝手に想像していたりする。アンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲第 3番のサラバンドで、これは孤独感溢れる格調高い演奏であった。

後半の「ザ・グレイト」は、なかなかに興味深い演奏であった。前述の通り、コントラバス 8本という、近代オケの標準編成であり、シューベルトとしては大型と言ってもよいかと思うが、弦楽器も充分にヴィブラートを効かせていて、いわゆる古楽的なアプローチではない。但しテンポは若干早めで、第 1楽章提示部の反復からは、過度なロマン性を排し楽譜に忠実な、その意味では古楽系のスタイルに近い感性も感じられた。もっとも、第 4楽章では反復はなく、これはよかったと思う。というのもこの曲は 50分を超える長さであり、終楽章で反復がある演奏に接すると、「あぁ、長い」と感じることが常であるからだ (笑)。第 1楽章と第 2楽章の間には明白な休止を置いたが、第 2楽章と第 3楽章の間は休止なしで (アタッカで) 演奏され、第 3楽章と第 4楽章の間は、聴衆の咳払いの時間だけ待ったという感じで、すぐに演奏が続いた。ここでヤルヴィが目指していたのは、この長大な曲の持つ勢いを鮮烈に描き出すことであったのでは。ここでも駆け巡る弦の動きに木管が敏感に反応して N 響の持つ美質が非常に活きていたし、めまぐるしく変わる (と言っても、同じところを旋回しているという印象もある) 曲想がダイナミックに描き出されてもいたと思う。ヤルヴィはシューベルトをこれまで体系的に採り上げたことはないようだが、この最後の (とみなされている) 大交響曲から入って、今後は初期の交響曲にも入って行くことだろう。楽しみである。

ところでこの交響曲の音響を考えてみると、金管楽器にトロンボーンが含まれていることが大きなポイントであると思う。この楽器はもともと宗教曲にしか使われておらず、天からの声というか、荘厳な雰囲気を演出するためのものであったのだろう。それを初めて交響曲に導入したのは、私の理解ではベートーヴェンで、第 5番の終楽章 (面白いことに、低音のトロンボーンの対局である高音のピッコロも同じ終楽章で使用された)。ベートーヴェンはほかにも 6番「田園」と 9番でトロンボーンを使っているが、ここではいずれも、やはり宗教的な感覚が背景にあるだろう。ところがそのベートーヴェンを深く尊敬していたシューベルト (ベートーヴェンより 27歳下の 1797年生まれ) は、「未完成」とこの「ザ・グレイト」で、積極的にトロンボーンを使っているのである。これらの曲には直接の宗教性はなく、ただその劇性の強調のために使われたものと思われる。実はフランス人のベルリオーズ (1803年生まれ) も幻想交響曲 (書かれたのはこれらシューベルトの曲のほんの数年後であるはず) でトロンボーンを使用しているが、やはり限定的な使用にとどまっている。因みにシューマン (1810年生まれ) の交響曲は 4曲ともトロンボーンを使っているが、メンデルスゾーン (1809年生まれ) は、第 2番「讃歌」と第 5番「宗教改革」のみで、いずれも宗教的な背景が明白だ。このあたりにロマン派の作曲家たちの指向の違いが見えて面白い。それを思うとシューベルトの頭の中に鳴っていた器楽曲の音響は、晩年の膨張傾向と併せて、ちょっと通常の人間には想像もできないほど巨大であったのだなぁと実感するのである。私はウィーンに残るこの作曲家ゆかりの場所の中でも、彼が死を迎えた部屋を訪れたときのことを思い出す。今でも現役で使われているアパートの一室で、小さい部屋なのであるが、そこで貧しさのうちに世を去ったわずか 31歳の天才の頭の中に渦巻いていた壮大な音響を、今では極東の日本でも素晴らしい演奏で味わうことを知ったら、本人は何と言うであろうか。
e0345320_10233051.jpg
さて、9月から始まる N 響の新シーズンにおいても、ヤルヴィは定期演奏会だけで 9つのプログラムを振る。ショスタコーヴィチ 7番やマーラー 7番という大曲もあれば、オール・バルトーク・プロ、オール・ストラヴィンスキー・プロ、スクリャービンの 2番に、武満徹と「指環」抜粋の組み合わせ、あるいはフォーレのレクイエムやシベリウスの 4つの伝説曲、ブルックナー 1番などなど。実に多彩で、来シーズンも期待が高まる一方なのである。とりあえず今シーズン、誠にお疲れ様でした!!

# by yokohama7474 | 2017-07-02 10:30 | 音楽 (Live) | Comments(0)

大野和士指揮 東京都交響楽団 2017年 6月30日 東京オペラシティコンサートホール

e0345320_01440922.jpg
6月の東京都交響楽団 (通称「都響」) の指揮台に立つのは、音楽監督の大野和士。3つのプログラムによる 3回の演奏会によって、都響の高い演奏能力を全開にすることが企図されていよう。このうち私は最後の 1回しか聴けなかったが、この 3つのプログラムには大野という指揮者の個性が存分に表れていて面白いので、まずはこれまでの 2回のプログラムからご紹介しよう。まず、6月21日 (水) の演奏会は、ドビュッシー : 牧神の午後への前奏曲 / ダンディ : フランスの山人の歌による交響曲 (ピアノ : ロジェ・ムラロ) / ベートーヴェン : 交響曲第 6番「田園」。6月25日 (日) の演奏会は、ゲーゼ : 交響曲第 4番 (日本・デンマーク国交樹立 150周年記念) / R・シュトラウス : ホルン協奏曲 (ホルン : シュテファン・ドール = ベルリン・フィル首席) / ムソルグスキー(ラヴェル編) : 展覧会の絵。そして今回の演目は以下の通り。
 ブリテン : 歌劇「ピーター・グライムズ」よりパッサカリア作品33b
 細川俊夫 : 弦楽四重奏団とオーケストラのためのフルス (河) - 私はあなたに流れ込む河になる - (アルディッティ弦楽四重奏団) (日本初演)
 スクリャービン : 交響曲第 3番作品 43「神聖な詩」

この 3回の演奏会のうち、今回だけはいわゆるポピュラー名曲がひとつもない内容であり、それだけに大野の意気込みもさぞやと思われた。
e0345320_02015960.jpg
まず最初のブリテンであるが、この「ピーター・グライムズ」というオペラはこの作曲家の数多いオペラの中でも傑作で知られている。このオペラの間奏曲をつなげた「4つの海の間奏曲」が有名であるが、ここで演奏された 7分ほどの「パッサカリア」は、第 2幕の第 1場と第 2場の間で演奏される曲。時々、「4つの海の間奏曲・パッサカリア」として 5曲が演奏されることもあり、私の記憶では、ユージン・オーマンディがショスタコーヴィチ 14番「死者の歌」と一緒に録音していたのがこのかたちであった。今回はパッサカリア単独の演奏であったが、低弦のピツィカートから木管合奏に入ったときの鮮やかさ。そして、このオケの首席であり日本を代表するヴィオラ奏者である店村眞積 (たなむら まづみ) のヴィオラ・ソロの素晴らしい音色!! この 7分だけでも大野と都響の好調は明らかだ。

2曲目がまた大注目。このブログでも何度かその名前に言及している、名実ともに現代日本を代表する作曲家、細川俊夫 (1955年生まれ) の 2014年の作品の日本初演である。
e0345320_02181315.jpg
実は、私は事前に曲目は認識していたのだが、それは細川作品の日本初演ということのみ。会場で知ったことには、実はこの曲、オーケストラ以外に弦楽四重奏団が登場する。そして今回登場したその弦楽四重奏団は、なんと、現代音楽を専門とするアルディッティ弦楽四重奏団であったのだ!!
e0345320_02212038.jpg
彼らは世界的なクァルテットであり、私もこれまでに随分、録音では彼らによる様々な現代音楽の演奏を聴いて来たが、実際にステージで聴いたことはない。先週、6/24 (土) に東京文化会館小ホールで彼らの演奏会があったのは知っていて、大変興味があったのだが、このブログでもご紹介した通り、シモーネ・ヤング指揮の読響の演奏会に行くために断念した経緯があった。なので私は今回、この素晴らしい四重奏団の登場に狂喜乱舞したのである!! そもそもこの細川の「フルス (河)」という曲は、このアルディッティ四重奏団の創立 40周年を祝って書かれたものであるという。プログラムに掲載された作曲者の解説によると、この曲は道教の思想に基づいており、世界の根底をなす「気」の流れが重なり合って「陰陽」をなすことから着想されている。弦楽四重奏が人、オーケストラが人の内外に広がる自然、宇宙ととらえられているという。18分ほどの長さで、オケの編成も巨大であるが、弦楽四重奏とオケの弦楽器がザワザワ響きあうところが耳に残る。確かに音楽が流れていて、それなりに美しいところもある作品と聴いたが、正直なところ私は、今回の細川のように、現代音楽の作曲家がやたらと思想的な解説をすることが多いことには、以前から落ち着かない感情を抱いている。何の先入観もなく音を耳してその美しさにハッとする、そういう音楽との出会いが好きだからである。アルディッティはやはり単独で、弦楽四重奏として聴きたい!! という思いが返って深まってしまった私は、欲張りなのでしょうか (笑)。

後半は 50分の大作、スクリャービンの 3番である。天下の秘曲というほど珍しくはないが、通常のオケにとってはそれほど頻繁に演奏するレパートリーではない。だが、ロシアの作曲家で、ロマン性から神秘性へと移行したところで 43歳で命尽きてしまったアレクサンドル・スクリャービン (1872 - 1915) のこの大作は、マーラー演奏で鍛えられた都響にとっては、格好のレパートリーではないだろうか。スクリャービンは 5曲の交響曲を完成させ、それぞれに副題を持っている。第 1番「芸術讃歌」、第 2番「悪魔的な詩」、第 3番がこの「神聖な詩」、第 4番が最も有名な「法悦の詩」、そして第 5番が「プロメテウス (火の詩)」。この第 3番は 1905年にパリで世界初演されているが、そのときの指揮者はなんとあの、アルトゥール・ニキシュ (当時のベルリン・フィル音楽監督) である!! これが作曲者スクリャービン。
e0345320_02461553.jpg
この 3番、私は以前、この曲を愛好するリッカルド・ムーティがニューヨーク・フィルを指揮した実演に接したことがあるが、それ以外の実演で聴いたことがあるか否か、思い出せない。だが、今回の大野と都響のように明快な運びで、かつ迫力に満ちた演奏で聴けるのであれば、聴衆としてもこの曲に満足できるわけであり、もっと聴かれてもよいレパートリーであるように思う。冒頭、荘重な低音の金管合奏には、演奏によってはロシア的な土俗性が強調されるところ、ここでは重さはあれども、過度ではなく、同時にどこかきらびやかな要素もあって、そこに諧謔味すら感じさせるような音で、曲が始まった。盛り上がりの局面で高らかに駆け抜けるトランペットも危なげなく、そして何よりも、ウネウネと弾き続ける弦楽器群との調和が耳に素直に入ってくる。序奏と 3楽章から成っている曲であるが、途中の切れ目はなく、実際に 50分間、音楽は流れ続ける。そうなのだ。その前の細川の曲同様、ここでも確かに音は流れているのである。大野のテンポは一貫して中庸であり、驚くようなことは何もしていないが、時に見せる腕をグルグル回してオケを煽る動作によって、実に活き活きした音を繰り出してみせた。もちろん、マーラーやシュトラウスのような圧倒的な表現力というには少し癖のある曲ではあるが、今回の聴衆はこれを充分に楽しんだし、上記の通り、このような演奏なら、スクリャービンもまた身近に感じられる作曲家になろうというものだ。

このように、大野と都響の個性を堪能することができる演奏会であった。7月の都響には 3人の指揮者が登場する。まず、あの天才マルク・ミンコフスキ。桂冠指揮者のエリアフ・インバル。そして首席客演指揮者のヤクブ・フルシャ。そうして夏を越えた 9月には再び音楽監督大野が還ってくるのである。今後とも、東京の音楽界を刺激し続ける快進撃を期待したい。そういえば都響の最近のチラシは、こんな風に折りたたみ式になっていて、なかなか凝っている。今回の曲目では、確かに「響き合う精神」が聴かれましたよ!!
e0345320_03071252.jpg

# by yokohama7474 | 2017-07-01 03:06 | 音楽 (Live) | Comments(3)

22年目の告白 私が殺人犯です (入江悠監督)

e0345320_23290271.jpg
現在の日本では、凶悪犯罪においては時効という制度は既になくなっている。だがこの映画では、時効が未だ存在していた頃に 5件の連続殺人を犯した犯人が、時効成立後に暴露本を書き、堂々と大衆の前にその姿を現すという設定。これはなかなかに面白い着眼だ。というのも私自身、子供の頃に時効という制度の意味がどうしても理解できず、時効によって罪を逃れた殺人者がほくそ笑むシーンを想像していたことがあったからだ。つまり、確実にある犯罪を犯した人間が、法律によって正当にその犯罪の責任から解放されるという事実に、ある種のピカレスク小説的な興奮 (と言っては語弊があるかもしれないが、ほかに適当な日本語があるだろうか。英語なら "Excitement" か) を覚えたと言えようか。実際、あの昭和の大事件、三億円事件の時効成立は 1975年。私は当時 10歳であって、何度もテレビで白バイ警官のモンタージュ写真や乗り捨てられた車両の映像を見て、その犯人が時効成立時にどんな顔をしていたのか、夢想したものであった。これは、世界一流と目される日本の警察をもってしても追い詰めることのできなかった犯人が、実は私たちのすぐ近所で今も何食わぬ顔をして暮らしているかもしれないという不気味な連想にもつながり、子供心にも強いインパクトを受ける時効成立という「事件」であったのだ。

さて、この映画で連続殺人犯による犯罪が犯されるのは 1995年。日本がバブル崩壊後の沈滞に入っていた頃であり、阪神大震災が起こったあの年である。この映画は、その 1995年の映像から、その後の世相を映す出来事 (例えば地下鉄サリン事件) や東京での新たなビルの建設 (例えば私がこの映画を見た映画館のある六本木ヒルズ) が早送りで現れるというオープニングで幕を開ける。今実際にテレビでその頃の映像が出てくると、ほんの 20年ちょっと前という時代であるにもかかわらず、何か大変古い時代のことのように思われるのは、第一には未だデジタル放送のない時代の映像だからであろうし、画面の鮮明さや縦横サイズが昨今とは異なるからであろうが、何かそれだけではない、時代の雰囲気の断絶があるようにも思って、ノスタルジックな気分になるのは私だけであろうか。その頃なくて今あるもの。もちろんそれはインターネットだ。いやもちろん、正確にはインターネット時代は当時からあったものの、未だ全く一般的ではなく、その後ネット上でこれだけの量の情報がこれほどまでのインパクトで世界に溢れるようなことになろうとは、当時は想像もできなかった。この映画で犯行後 22年を経て現れる殺人犯を巡っては、SNS や動画サイトという「現代」がつきまとい、犯行時と現代の間に横たわる断絶をいやが往にも感じさせるのだ。その意味では、22年間の連続と断絶という、なかなか面白いテーマを持つ映画なのである。

さてここで「犯人」を名乗って出てくる男、曾根崎雅人を演じるのは、このところ悪役を演じる頻度が多くなってきている藤原竜也。
e0345320_00283725.jpg
私にとっては、彼のスクリーンでの出世作であった「バトル・ロワイアル」(2000年) で鮮烈な印象を受けて以来、なかなかほかにいないタイプのお気に入りの役者である。舞台経験も豊富でありながら、映画では映画としての演技を心掛けているように見えるし、美形ではあるがカッコをつけて外面を取り繕うタイプの演技ではない点も、好感が持てる。この映画における彼の役柄でも、人々の度肝を抜く殺人の手記でマスコミの前に登場し、派手な衣装でバッチリ決め、食事はワインに肉と、常にスタイリッシュである点が、逆に作り物めいていて、そこに謎を感じさせるのである。もちろん、予想外の必死な表情も後半では多く出てくることになるため、高度な演技の幅を求められる役である。藤原の熱演がこの映画を引き締めていることは間違いない。あ、死んだと思われる目に遭いながらどっこい生きているという設定は、「るろうに剣心」シリーズの志々雄役と共通していますな (笑)。

その相手方、殺人犯を一度は追い詰めながらも逃してしまい、自らも傷を負うこととなる刑事、牧村航を演じるのは伊藤英明。もともと男っぽいイメージの彼であるから、ここでの牧村刑事役はなかなかに適役ではないか。この刑事の内面までもよく演じていたと思うし、その突進力と、胸の奥に抱えた哀しみの表現も充分だ。
e0345320_00421430.jpg
それからもうひとり、事件を執拗に追うジャーナリスト、仙堂俊雄を演じる仲村トオルがよい。もともと戦場カメラマンという設定だが、ジャーナリストとしての傲慢なまでに自信に溢れた姿と、その不可解なほど熱い情熱の表現がリアルである。彼が司会を務めるテレビ番組のシーンでは、なかなかに痺れる切迫感あるリアリティがあって、この映画で最も強いインパクトのあるシーンになっていたのではないか。これはよかった。
e0345320_00520234.jpg
このように大変面白い要素がいろいろ詰まった映画なのであるが、見る前から私として興味があったのは、一体いかなるオチを設けているのかとことだ。時効を迎えた犯罪の殺人犯が公衆の面前に出てくる。そこまではよかろう。さて、真相と結末はいかに。例によってネタバレを避けてその評価を明確に書くのは難しいが、私の見るところ、残念ながらそちらの方は舞台設定ほど鮮やかには決まっていないように思う。まず、5人連続殺人事件には、隠されたもうひとつの犯罪が付随しているらしいが、そんなことを警察が秘しておく理由がないし、個人的な事情でそのような秘匿が起こることも考えにくい。また、これだけ用意周到に犯罪を継続した犯人が、決定的に気にすべき事柄を忘れて犯罪遊戯にふけっていたという設定はいかがなものか。それから、登場人物の何人かは怪しいと思われる場面もあるが、最終的に事情が分かってみると、そんなことが理由でこんなことが起こるという説得力には乏しいなぁと、誰もが感じるのではないか。あえて言ってしまえば、冒頭シーンでおっと思わせた 1995年から 2017年までの間の日本の著しい変化に比して、ここで犯罪を犯す人物の 22年間には、本当に切実な思いが見えて来ない。極限状態での極限的な体験によって人はトラウマに陥るものではあろうが、だが、この 22年間に変化した一般人の生活の中で、本当に背筋がぞっとするものは、このような極限的な体験ではなく、ごく普通の日常にポッカリと穴を開けている非日常ではないだろうか。もっとも、設定を極端にすることで、見る人が本当にゲッソリしないような余地をあえて作り出しているのかもしれないが。

もうひとつ残念なことは、これはスゴいという女優の演技に乏しいこと。唯一は夏帆がいい味出しているとも言えるが、うーん、まあまあかな。
e0345320_01074481.jpg
監督は、本作の共同脚本も書いている、1979年生まれの入江悠。私がこれまでに見たこの人の作品は「ジョーカー・ゲーム」だけだが、その作品は私の中では既にほぼデリート状態である (笑)。本作はそれよりも随分よい出来ではあると思うが、冒頭シーンのセンスをさらに作品全体に活用してくれれば、さらにリアルで切実な物語を語ってもらえるものと期待したい。
e0345320_01112564.jpg
実は鑑賞後に知ったことだが、この映画は韓国映画のリメイクらしい。2012年の「殺人の告白」という邦題の映画。ストーリーの結末まで同じなのか否か分からないが、韓国には韓国の 22年間があったことだろうから、きっとこの 2作の間には雰囲気の違いがあるのではないだろうか。
e0345320_01171193.jpg
そんなわけで、最近はなかなかスキッと諸手を挙げて大絶賛という映画に巡り合わないものの、それぞれに何かを感じさせてくれ、考える材料をもらえるという点で、やはり様々な映画を体験する意味は大きいと思っております。「オマエ、気楽なこと言いやがって!!」と襟首つかまれてしまうかもしれませんが (笑)。まあ穏便に穏便に。
e0345320_01322163.jpg

# by yokohama7474 | 2017-07-01 01:33 | 映画 | Comments(0)

海辺のリア (小林政広監督)

e0345320_21250177.jpg
この記事は短く終わるだろう。なぜなら、ここで私がしようと思っていることは、日本演劇界の至宝たるべき仲代達矢が齢 80を超えて熱演を果たしたと思われた映画が、誠に遺憾ながら、かくも期待外れであったということのみであるからだ。すべてロケで撮影されたというこの映画、その中身は、あえて言ってしまえば自主映画 (という言葉が未だ存在するのか否か知らないが、私自身が学生時代に 8mmを使った「自主映画」の当事者であったので、この言葉が発する独特のニュアンスを理解する) さながらであり、作り手がこれをどのように自己評価するのかに興味を抱くほどなのである。私としては非常に残念なのであるが。

出演俳優陣の顔ぶれは見事の一言。仲代以外に、原田美枝子、阿部寛、小林薫、黒木華。完全にこれら 5名の俳優のみによって成り立っている映画なのである。だが、どうしたことであろう。黒木華は頑張っている割には全く精彩がないし、夫婦役である原田美枝子と阿部寛は、キャリアの違いから前者がかなり年上であるかのようなイメージがあり (実際には 5歳違いだが)、見ている者は二人の関係を理解するのに時間がかかる。そして小林薫はそれなりにいい味出しているものの、一言もセリフがないのである。ここで認知症の元スター俳優、桑畑兆吉 (もちろん黒澤ファンはこの苗字になじみがあり、この映画でも三船敏郎の名前が言及される) を演じる 84歳の仲代は、本当にこんなことを言って申し訳ないが、思い切って言ってしまうと、かなり滑っているとしか思えない。もし彼が舞台でリア王を演じるなら、もちろんそれは感動的なものになるだろう。だが、ここでは「リア王」のセリフの一部をそのまま引用しながら、舞台設定はその劇とは全く異なるもの。もちろん、こういうやり方があってもよい。もし作り手に、シェイクスピア以上の作劇力があるならば。仲代の演じるリア王と言えば、もちろん、このブログでも以前触れたことのある黒澤明の「乱」という翻案物があるが、それとても私の黒澤感からすれば、大変残念な出来であったのである。いわんやこの映画においてをやである。残念ながら。

先般 NHK の「探検バクモン」で、仲代が主催する無名塾の様子を放映していて、大変興味深かった。そこで初めて見た無名塾の建物、すなわち仲代の自宅の入り口が、この映画で、主役である桑畑の自宅として使われていたのは正直、若干興ざめであった。私にとっての映画は、ドキュメンタリーを除けば、常にかっちりとした虚構の世界。嘘が嘘として通じる映画こそ、優れた映画であると私は信じている。それはつまり、見る者が主人公とそれを演じる役者その人を同一化するように作るのは、時に危険だということであり、残念ながらこの映画は、観客があれれと思って心配して見ているうちに、大胆にもその危険エリアにズカズカと立ち入ってしまったというのが、私の印象である。ちなみに、もうひとつ「探検バクモン」で目にした光景は、高齢に至った仲代は、最近ではセリフを覚える際に、弟子に手伝わせて台本全部を自らの手で書き写すという作業であった。ここにはもちろん役者魂を見ることができて大変興味深かったが、今回私がこの映画を見たテアトル新宿には、そのような手書き原稿の実物が展示してあったのである。これはこれで面白かったが、だからといって映画が面白いわけではない点が、大変残念な問題だ (笑)。ポスターで使われている「あんた、どちらさん?」というセリフが以下でも見ることができる。
e0345320_22072459.jpg
e0345320_22075262.jpg
映画の多くの部分は延々と続く砂浜で展開するが、ええっとすみません、私も学生時代の自主映画で、同じような場所で撮影しました (笑)。もちろんプロの作品であるからして、それなりにまとまっているとは思うが、ではそこに、はっとする瞬間がどのくらいあるかというと、私としては、「残念ながらほとんどない」と答えたくなる。本当に残念である。
e0345320_22105301.jpg
音楽について少し触れようか。ここでは、弦楽四重奏による演奏が時々入り、それなりに叙情性を醸し出している。エンドタイトルで確認したところ、演奏は、N 響のヴァイオリン奏者である齋藤真知亜 (男性です) をリーダーとする Matthias Strings。因みにここで脱線すると、この Matthias という言葉、もちろんリーダーのマチアという名前に由来するものであろうが、美術好きには常識であるように、あの壮絶無比な「イーゼンハイム祭壇画」を描いたマティアス・グリューネヴァルトのファーストネームであり、また音楽好きには、その画家をモデルとして作られたヒンデミットのオペラ (及びそれをもとに作られた交響曲)「画家マティス」を思わせるものであろう。だが私がここで頂けなかったのは、そのような高踏的イメージをまとった名前の演奏家たちが、この映画の中で演奏した既存曲の中に、グリークの「ペール・ギュント」から「オーセの死」と「ソルヴェイグの歌」の両方が入っていたこと。一部の方はもしかするとご記憶かもしれないが、このブログで昨年 12月27日に書いた「聖杯たちの騎士」で、既に全く同じことが起こっていたわけであり、正直、この映画のオリジナリティに疑問を持ってしまうことになったのである。偶然なら申し訳ないのだが、有名な同じ作品から 2曲を選ぶなら、オリジナルを用意した方がよかったのではないか。

というように、飽くまで私の個人的見解なので当然違う感想の方々もおられようが、あちこちで残念な出来であったこの「海辺のリア」。もしかするとこの監督と仲代の次回作では、最後に仲代が観客に語り掛け、「私の魔法は消えました。みなさまのあたたかい言葉だけが私の救い。もはやわが身には、使う妖精もなく、魔法をかける術もなく、絶望のみしかありません。この身の自由を、みなさまにお願いします」などというセリフが発されることになるのかもしれない。そして題名は、「山中のプロスペロー」。ダメですかね。

# by yokohama7474 | 2017-06-28 22:37 | 映画 | Comments(0)

怪物はささやく (J.A.バヨナ監督 / 原題 : A Monster Calls)

e0345320_23054450.jpg
この映画のポスターと予告編を見たときにすぐに連想したのは、スペイン映画「パンズ・ラビリンス」であった。その映画については、昨年 2月 2日の「クリムゾン・ピーク」についての記事で触れておいたので、ご興味ある向きはご参照頂きたいが、要するに女の子が怪物の幻影を見て、その裏になんとも切ない事情があるというストーリー。その映画をご存じの方は誰しも、この「怪物はささやく」のイメージに、いわばその男の子版ではないのか、との思いを抱くに違いない。そうして実際に作品を見に行って購入したプログラムで、この映画のプロデューサーが案の定「パンズ・ラビリンス」のプロデューサーと同じベレン・アティエンサという人であると知って、意を強くしたのである。

この映画においては、母親と二人暮らしの少年が主人公である。夜中の 12時 7分になると、少年の家の隣に広がる丘の上の教会の敷地内にある大木が巨人に変身し、ノシノシと家までやってきて少年に話しかける。そして少年はその怪物と会話を交わし、時には恐ろしい幻影を何度も繰り返し見たり、無意識のうちに暴れてしまうことになる。そしてそこには、少年の深層心理のある秘密が隠されていた、という物語。原題にある "Call" はこの場合「呼ぶ」ではなく、「訪れる」という意味だろう。その意味では、原題の直訳は「怪物がやってくる」にでもなるだろうが、ここで「怪物はささやく」としたのは少しひねりが効いていて面白い。ただそれにしても、こんなものがしょっちゅうやってきて、ニューッと顔を出してはハイコンバンワと話しかけるのは、やはりちょっと怖いし、ささやくにしてはデカい声だ (笑)。
e0345320_23224295.jpg
細部に触れる前に映画の感想を言ってしまうと、残念ながら「パンズ・ラビリンス」の感動にはとても及ばなかった。その理由は、少年を取り巻く環境を細かく描きすぎて、怪物の語ることと実際に起こることとの間の連関性が徐々に見えることで、怪物の神秘性が減少してしまったことではないか。もちろん、今思い出してみて、少年の母、祖母、母と離婚した父、既に亡くなった祖父という人たちの人間像にはそれぞれ工夫が見られるし、特に母親の運命が切なく描かれているとは言えると思う。もしかするとこの話は、本で読んだならもっとイメージが広がって感動するのかもしれないが (実は、原作小説の著者が脚本を書いているのだが)、映画としては、映像のショック度で勝負する前に、ストーリーに依拠しすぎているような気がする。例えば、怪物は 3つの話を少年に対して語り、4つ目は少年が自分で語れと言うのだが、それらの怪物の説話はどうやら、人間というものの複雑さを説いているようであり、それ自体はイメージの広がりがあるようでいて、実は少年自身がそれらの説話によって何かに気づくということにはならない。これは上で書いた、「怪物の語ることと実際に起こることとの間の連関性」ということと矛盾するように響くかもしれないが、これらの説話は本筋のストーリーとは全く関連しないものなので、実は矛盾していないのである。

などと書いていると最低の映画のように響くかもしれないが、決してそこまでけなすつもりはありません (笑)。よいところを挙げると、まずは冒頭に登場するイメージはなかなかに鮮烈だ。丘の上に立つ教会がガラガラと崩れ落ち、墓地が陥没する。この映画を通じて何度もこのシーンが出て来て、なんとも寒々とした感覚を覚えさせるのである。舞台になっている場所について明言はないが、多くの人物の喋る英語のアクセントから、米国でないことは明らかで、墓地の十字架がいわゆるケルト十字架であることから、その鬱陶しい気候及び、少年の名前コナー・オマリーを併せて考えると、アイルランドかスコットランドか、ということになるだろうか。だが、巨人が産業革命による工場の建設に言及することから、申し訳ないが前者ではありえない (私はたまたまその国をよく知っているもので・・・)。ケルト十字架はこのようなもの。映画の中に登場するシーンではなく、飽くまでイメージを拝借しました。
e0345320_00101684.jpg
調べてみるとケルト十字架は、英国内ではスコットランドだけではなくイングランドにもあるようなので、まあ、英国のどこかの田舎が舞台と考えればよいだろうか。劇中に海の近くの遊園地に出かけるシーンがあるので、海沿いのどこかだろう。私の知識と経験の中では、ウィットビーなんかが近いかもしれない。作家のブラム・ストーカー (アイルランド人) が名作「吸血鬼ドラキュラ」の構想を練った街で、このような壮絶な廃墟のある、ホラー好きにはたまらない港町なのである。
e0345320_00145049.jpg
実はこの映画のロケは、イングランド北部、マンチェスター、ウェスト・ヨークシャー、ランカシャーあたりで行われたという。上記のウィットビーはノース・ヨークシャーにあるので、イメージとしてはやはり近いと思う。ホラー好きの方、是非お奨めです。

さて、特筆すべきは役者たちである。主役のコナーを演じたのは、撮影当時 12歳のルイス・マクドゥーガル。1000人の中からオーディションで選ばれたという。ほぼ全編出ずっぱりで、様々な感情を演じる必要のある役であり、例えば日本の 12歳の男の子でこんな演技ができる子がいるかと考えると、空恐ろしいほどだ。
e0345320_01081376.png
母親を演じるのはフェリシティ・ジョーンズ。なんとあの、このブログでもご紹介した「インフェルノ」「ローグ・ワン / スター・ウォーズ・ストーリー」の、あの女優さんである。この髪型なので気づくのに時間がかかるが、一方でこの髪型には理由があることも、徐々に分かってくるのである。難しい役だと思うが、見事に演じている。
e0345320_00310803.jpg
それから、モンスター映画と言えばこの人。シガニー・ウィーバーだ!! 少年の祖母を演じていて、実に渋い存在感だ。さすがである。
e0345320_00324224.jpg
そしてもう一人。怪物の声を演じているのは名優リーアム・ニーソン。実は劇中では家族の写真の中に彼の姿があり、それは少年の祖父なのである。それによって、少年にとっては亡き祖父の姿が、巨木の怪物に投影されていることが暗示されている。
e0345320_00370229.jpg
監督は J・A (フアン・アントニオ)・バヨナ。1975年生まれのスペイン人で、これが長編 3作目。前作は、私は見逃してしまった、ナオミ・ワッツとユアン・マクレガー主演の災害映画「インポッシブル」。そして次回作は、なんとなんと、あの「ジュラシックワールド」の続編だという。この映画では、上述の冒頭シーンをはじめ、映像として面白いシーンは幾つもあったので、これからの活躍に期待しよう。
e0345320_00421411.jpg
また、これも上述の通り、この作品は原作小説の作者が脚本も、それから製作総指揮も手掛けている。その人の名はパトリック・ネスといって、1971年生まれの作家である。この「怪物はささやく」を含めた数々の作品によって、これまでに様々な賞を受賞している若手作家であるらしい。作品名を見ていると、「心のナイフ」「問う者、答える者」「人という怪物」「まだなにかある」と、この映画の内容に近いものを連想させるものばかりで、ちょっと興味を惹く。なおこの人は米国生まれだが、現在では英国に移住しているらしい。でも、「パトリック」 (アイルランドの守護聖人で、ニューヨークのセント・パトリック教会で有名) というファースト・ネームも、「ネス」 (もちろんスコットランドのネス湖、ネッシーの棲み処) というファミリー・ネームも、見事にケルトを連想させるではないか!!
e0345320_00505758.jpg
とまあ、最初の方で否定的な評価を書きながらも、「パンズ・ラビリンス」とはまた違った持ち味があり、あちこちに文化的突っ込みを許容する面のある、大変興味深い映画であったというのが私の結論である。これを見て、もし夜中の 12時 7分にこんな奴が現れたらどうしよう!! と心配するようなことになれば、あなたも怪物とコミュニケーションできる素養があるかもしれません。あ、でも、夜中なので、怪物には本当にささやくような声で喋ってもらわないと、近所迷惑なのですが (笑)。
e0345320_00565625.jpg

# by yokohama7474 | 2017-06-28 00:57 | 映画 | Comments(0)