よいお年を!!

2017年も残すところあと 7時間ほどとなりました。今月は既に日数 (31) 以上の数の記事を頑張って書いてきましたが、それでも 35止まりであります。中には忘年会から帰ってきて泥酔状態で書いているものもあるし、書きながら途中で寝てしまったものもあるので、読まれる方にはそのあたりもバレてしまうのではないかと、冷や冷やものですが、ともかく今年も 1年、つつがなく過ごすことができました。ブログ開設から約 2年半。2017年12月31日 17時時点での総訪問者数は 171,505。記事の数は 800を超えました。毎日アクセスをチェックしますが、結構昔の記事をご覧になっている方がコンスタントにおられて、もともと思いつきで始めたブログではあれど、あまりいい加減なことは書けないなと、改めて思う次第です。

さて、もう年が替わろうというのに、未だ記事をアップできていない今年見た映画が 3本、展覧会に至っては 5つが「積み残し」になってしまいました。これらはまた年が明けてから、徐々に記事に仕上げて行きたいと思っておりますので、また来年もよろしくお願い申し上げます。と、そう言いながらも実は今、集中して準備している一連の記事があり、それらはまとめてアップの予定です。かなりの分量になるものと思いますが、川沿いのラプソディ新春特別企画として、できれば明日、元日には一挙公開!! と行きたいものであります。是非ご期待下さい。

それでは、寒い大晦日に寒い写真をご覧頂いて (笑)、今年の活動はここまでとさせて頂きます。皆さま、よいお年を!!
e0345320_17150065.jpg

# by yokohama7474 | 2017-12-31 17:15 | その他 | Comments(0)  

女神の見えざる手 (ジョン・マッテン監督 / 原題 : Miss Sloan)

e0345320_13325944.jpg
眩暈を覚えるような強烈な映画である。既に上映は終わってしまっているようだが、米国という国の真実に対する理解を深めたい人、それから、屈辱から這い上がって何か大きなことを成し遂げたいという野心のある人には、いずれ機会があれば是非見るべしとお薦めしておこう。これほどセリフの多い映画もそうはないと思うし、そこで飛び交っている言語の、洗練された完成度と粗野な部分の双方が突き刺さる度合いもまた、並外れている。ストーリーは単純と言えば単純だが、ひとつだけ理解の前提がある。それは、ロビイング活動について。この言葉自体は日本にも存在していて、何かの政策の実現または阻止に向けて、議員などに陳情して回ること。だが米国においてはそんな素朴なものではなく、首都ワシントン D.C. に専門のロビイング会社がいくつも存在し、あの手この手で依頼主のために苛烈なロビイング活動を繰り広げる。この映画の主人公で、原題の由来ともなっているエリザベス・スローンは、腕利きのロビイスト。彼女が務めるロビイング会社に持ち込まれる、銃規制法案への反対という依頼に対して恭順の意を示さず、反対側、つまり銃規制法案を推進する別のロビイング会社に電撃転職する。その際に部下を何人か引き連れて行くのだが、古巣を相手に、目的のためには手段を選ばない冷徹なプロの仕事によって、銃規制法案への世論・政治家の支持を集めるものの、前職における不正を問われる羽目になり、上院議員による公聴会に召喚され、絶体絶命の窮地に陥るのだが・・・。という話。何よりも、主役の Miss Sloan を演じたジェシカ・チャステインに拍手を送ろう。
e0345320_23305535.jpg
キャスリン・ビグロー監督の「ゼロ・ダーク・サーティ」におけるカッコよい CIA 分析官で鮮烈な印象を残した彼女は、その後も同様の自立心溢れる女性像を演じ続けていて、このブログでも、「クリムゾン・ピーク」「オデッセイ」「スノーホワイト / 氷の王国」という彼女の出演作を採り上げた。だがやはり、この映画ほど彼女の実力をまざまざと見せつける作品もないだろう。まさに圧倒的である。そもそも、ここで彼女の演じるロビイストなる職業が、本当にここまで目的のためには手段を選ばない究極のプロフェッショナルであるのか否か知らないが、まぁ、あの国の政治の中枢なら、そういうことになっていても全くおかしくはない。だがそれにしても、ここでのエリザベス・スローンのやり方は本当に苛烈で、頭がよい、度胸があると感心することもあるが、見ていて胸が悪くなることもある。以下の写真はチラシに使われているポーズだが、背景のホワイトボードに注目しよう。このように、法案の採決までの日数と、確保した議員の数を常にウォッチしながら、部下に指示を出すのである。
e0345320_00173500.jpg
邦題の「女神の見えざる手」とはまた、原題とはかけ離れた思い切ったものであるが、まさかアダム・スミスとは関係ないだろうから、これは主人公エリザベスの手腕が神のようだと言いたいのか、それとも、人間の存在を超えた何かを暗示しているのか。映画を見る限りにおいては、ここで描かれているのは徹頭徹尾、人間のエゴであり手練手管であり、人と人との敵対関係または協力関係であるので、絶対者としての女神を想定するということにはならないと思う。いっそのこと、「ロビイスト スローン」などとしてみてもよかったのではないか。原題の "Miss Sloan" にはなかなか微妙なニュアンスがあって、つまりはファーストネームではなくファミリーネームであり、それはまた彼女が公聴会で呼ばれる名前でもある。女性の場合は、未婚・既婚問わず使える "Ms." を使うのがビジネスでは普通であると思うので、わざわざ未婚であることを示す "Miss" と呼ぶには、なんらかの意図があるということだろうか。実際ここでの彼女は、服装やメイクは常にバッチリ決めていて、仕事の場ではバリバリと辣腕を発揮するものの、夕食はいつも汚い中華料理店でひとりで取り、男っ気があるようには全く見えない。ただまぁ、その、この男性 (演じるのはジェイク・レイシーという俳優) とは、まぁそのなんというか、ちょっとその、ちょっと驚くような・・・、まぁ、ネタバレは避けましょう (笑)。
e0345320_00035687.jpg
いやそれにしても、上で書いた通り、この映画はとてつもなくセリフの多い映画である。米国でのビジネスでは弁舌爽やかなプレゼンが重要というイメージを持っておられる方も多いと思うが、それはつまり、人と人の間で何か作業をするためには、いかに言葉が道具として大事であるかということだ。だが、この映画におけるセリフの応酬には、そのようなありきたりの常識レヴェルを超えて、何かクラクラするものがある。その理由はきっと前述の通り、この映画においては、交わされる言葉に乗っているのが多くの場合、人間のエゴであったり、目的のためには手段を選ばないという感覚であったりするからではないか。その効果を出すためだろうか、登場人物が非常に多いのも特色で、敵味方は見ていて曖昧にはならないものの、双方の陣営の中の人たちの関係性は、あまりよく分からない。ただ、エリザベスを別会社から受け入れるロビイング会社の CEO であるロドルフォ・シュミットだけは、エリザベスとのやりとりを通じて、かなり丁寧に人柄が描かれている。演じるマーク・ストロングは、もうすぐ続編が公開される「キングスマン」をはじめ、最近活躍中の英国人俳優。
e0345320_00252712.jpg
それから、公聴会を主催するスパーリング上院議員を演じるジョン・リスゴーも、味のある演技を見せている。適役であろう。
e0345320_00282672.jpg
それにしてもこの映画のクライマックスは、今思い出しても血がたぎる。ネタバレできないので説明に窮する部分はあるのだが、そうですね、まさに絶体絶命のピンチからいかにして這い上がるか、その観点から、人生を生き抜くためのヒントと勇気を与えられる名シーンである。観客は映画のそこここで、主人公エリザベスの冷徹なプロの顔の下から覗く人間性を知ることになるが、その覗かれてしまった人間性をその度に自らの強い意志で抑えつけ、大胆な奇策を弄して職務を遂行する彼女も、ラスト前のピンチの場面では追い込まれて、それまでにないほど弱気になるのである。見ている人たちもまた、その展開を固唾を飲んで見守るがゆえに、最後の場面のカタルシスが大きいのである。だから、もしこの映画のそもそもの設定に共感できないとか、米国の法律システムがよく分からないという人も、だまされたと思って最後まで見て欲しい。まさにチラシの宣伝にある通り、「彼女がアメリカを『毒』で正す」のである。

この映画の監督はジョン・マッテンという人で、私もよくは知らないが、「恋におちたシェイクスピア」の監督で、1949年生まれの英国人である。多くの登場人物を使って、映画の流れをうまく作り出している。それから、なぜかプログラムには記載がないが、エンドタイトルで確認したことには、音楽担当はマックス・リヒターなのである。彼は最近活躍中のミニマリズムの作曲家で、日本では、昨年のラ・フォル・ジュルネ音楽祭において庄司紗矢香が演奏したヴィヴァルディの「四季」のミニマル風編曲が鮮烈であった。Wiki は英語版しかないが、調べてみると既に多くの映画に音楽をつけている。
e0345320_00530528.jpg
さて、改めて思うに、この映画の主人公エリザベスは、一体なぜそこまで強いプロ意識をもって職業に臨んでいるのであろうか。よくこの手の映画では、主人公の幼年時代や、なんらかの性格形成の過程が描かれるものだが、この映画にはそれはない。それから、例えば彼女の部下の女性が銃を持った男に襲われるシーンがあるが、あれなども実はエリザベスによる演出だったのではないか。その場面は結局思わぬ事態に発展するし、被害者自身がエリザベスの関与を疑ったと後日口にするシーンもあるものの、そのあたりの実情は描かれない。情報過多でないがゆえに、最後のシーンの衝撃が増幅されたようにも思う。私も今度から、ピンチに瀕したときにはこの映画を思い出して頑張ることにしますよ。もっとも、何らかの策を事前に取っていないとこのラストシーンもないわけで、私の場合はそんな器用なことはできないから、ピンチに遭遇すると、その場であえなく地べたに這いつくばい、そのまま降参してしまうかもしれないが・・・。

# by yokohama7474 | 2017-12-31 01:00 | 映画 | Comments(0)  

パーティで女の子に話しかけるには (ジョン・キャメロン・ミッチェル監督 / 原題 : How to Talk to Girls at Parties)

e0345320_13303578.jpg
とある映画館でこの映画のポスターを見かけ、即座に、これは見なくてはと思ったのである。予告編を劇場で見ることもなく、ただこのポスターだけが手がかりであったのだ。そう、私がこの映画を見るべしと思ったのは、ひとえに主演女優にある。
e0345320_23060128.jpg
そう、私がその才能を称賛してやまない、エル・ファニング。1998年生まれなので、未だ 19歳という若さながら、これまでにも面白い映画に沢山出演している。中でも、このブログで以前採り上げた「ネオン・デーモン」が強烈であったが、その演技には、ときに年齢そのままの可憐さがあることもあるが、またときには時空を超えた不気味で神々しい存在として、見る者の前に立ち現れる。カルト映画でも楽々こなし、その一方で若さ溢れる爽やかさも発揮できる。こんな女優を天才と呼ばずしてなんとしよう。この映画で彼女が演じるのは、上のチラシの宣伝文句にもあるのでこれはネタバレにならないと整理するが、別の惑星からやってきた異星人なのである。舞台は 1977年、ロンドン郊外。今やパンクロックが生まれつつある激動の時代。主人公はパンクを目指しながらもどうも人が好過ぎる青年、エン (演じるのは英国の若手俳優、アレックス・シャープ。2014年にブロードウェイの舞台に立ち、史上最年少でトニー賞主演男優賞に輝いた実績を持つ)。映画は彼が朝目覚めるところから始まるが、彼の部屋の壁に貼られているポスターは、先にジム・ジャームッシュの映画「ギミー・デンジャー」の主人公としてこのブログでも話題にした、イギー・ポップをあしらったものなのである。
e0345320_23192028.jpg
主人公は友人 2人とつるんでいるのだが、まあ彼らのイケていないこと。いかにも田舎のロッカーで、自意識過剰な若者たち。
e0345320_23291905.png
彼らは騒々しいライヴハウスに入り浸っているのだが、そのパンク系ライブハウスには、元気のよいオバチャンがいて、彼女は、その頃「パンクの女王」と呼ばれていたファッションデザイナー、ヴィヴィアン・ウエストウッド (ちなみに現在でも 76歳で健在だ。私はパリコレにはちょっとうるさいもので・・・嘘です) のもとで働いていたという、輝かしいパンクな経歴を持っている。名前をボディシーアといい、いつもこんな格好をしている。
e0345320_23345993.jpg
あららら、全く予備知識なしに見たのだが、これはなんと、ニコール・キッドマンではないか!! ここでは実に楽しそうに演じていて、好感が持てる。但し、演じているキャラクターは大変に屈折していて、本音は優しいくせに、やけにとんがってみせるのだ (笑)。ところで主人公たち 3人組は、ある晩偶然に、空き家のはずのお屋敷で、なにやらパーティのようなものが開かれているところに紛れ込むこととなる。な、なんなんだこの人たちは。
e0345320_23395785.jpg
実は彼らは宇宙人で、コロニーと呼ばれる集団に分かれている。コロニーは第 1から第 6まであって、それぞれにコスチュームとその色、また集団が地球上で目指す目的が異なる。上の集団は第 5コロニーである。そして主人公エンはここで、第 4コロニーに属するひとりの少女と出会う。それが、エル・ファニング演じるところのザンである。ザンは、相手の顔をベロベロ舐めるのが挨拶であるように、地球の習慣には疎い。そしてまた二人は、性的交渉は結局「不完全」に終わるのだが (笑)、エンの導きによってザンは、地球の習慣を学んでいく。
e0345320_23514225.png
自宅で母親にザンを紹介するエンは、彼女を米国人だと言う。なるほど、エンの英国英語に対してザンが喋るのは米国英語であり、1970年代当時の英国人の米国人に対する見方は、まるでエイリアンのようだということだったのかと思う。この二人は様々な危機を経て、クライマックスではともにパンクの激しい響きに身を委ねることとなるのであるが、その過程が面白い。この濃いメイクのパンク歌手がエル・ファニングだなんて、信じられようか。
e0345320_23562343.jpg
実は、ここではニコール・キッドマンとエル・ファニングの間で親密な演技がなされるのだが、親子ほど年の離れた彼女らの間に、実際に何か通じるものが生まれたのではないだろうか。これは今年 5月のカンヌ映画祭での本作のプレミア上映における二人。うーん、いい感じではないか。エル・ファニングの衣装がすごい (笑)。
e0345320_00054735.jpg
e0345320_00080245.jpg
この映画、最後はちょっと甘酸っぱい青春の思いで終わるのであるが、世界が冷戦のただなかにあった 1970年代に、社会の秩序に対するレジスタンスとして、まるで宇宙人のように出現したサイケでパンクな人たちの、夢と情熱 (そう、アヘンを吸った若者が主人公の、ベルリオーズの幻想交響曲の第 1楽章のタイトルだ) を思わせる内容である。監督 / 脚本は、1963年生まれの米国人、ジョン・キャメロン・ミッチェル。
e0345320_00130106.jpg
私は彼のことを知らなかったのだが、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」という、もともとブロードウェイのミュージカルの生みの親として脚光を浴びたらしい。このミュージカルはその後ミッチェル自身の監督・製作・主演で映画化され、マドンナやデヴィッド・ボウイらの熱狂的な支持を集めたという。またこの作品の舞台が、今年日本でも上演されたらしい。ふーん、そんなにすごい舞台なら見てみたかったなぁ。世の中、知らないことが多いのである。
e0345320_00184715.jpg
そんなわけで、パンクのことなどなーんにも知らない私でも結構楽しめたこの映画、まだヒューマントラストシネマ渋谷と新宿ピカデリーで上映中である。ちょっと変わった映画ではあるが、エル・ファニングという現代の逸材の成長の過程を見たい人には、是非にとお薦めしておこう。パンクを知らなくても大丈夫!!


# by yokohama7474 | 2017-12-30 00:21 | 映画 | Comments(0)  

第九 秋山和慶指揮 東京交響楽団 (ヴァイオリン : 服部百音) 2017年12月28日 サントリーホール

e0345320_01255635.jpg
日本という国には、生活のあちこちに、欧米にはない独特の慌ただしさがあることが多いのだが、そのひとつの例が、クリスマスの飾りつけから正月の準備への転換である。会社のオフィスや公共スペースには、12月のある時期からクリスマスツリーが飾られ、華やかな雰囲気を演出するが、クリスマスが終わるや否や、ツリーは跡形もなく片付けられる。オフィスや家庭には、門松などの新年の飾りつけが即座になされるのである。音楽の方もそうで、これだけ第九第九といって、演奏会も開かれ、テレビでも放映されるのに、年が変わればそこはウィンナ・ワルツの世界。年明けに第九を聴く (あ、実演ではやっていないので、録音をという意味です) のは、何か罪悪感を覚えることなのである (笑)。欧米では、クリスマス (イヴがメインではなく、クリスマス当日と、その翌日の Boxing Day) が大事であり、そこから元旦までは、家族とゆっくり過ごす休暇のシーズン。そして 1月 2日から正常通りが普通である。年を超えても、街中にクリスマスツリーは平気で放置されている。年明けのクリスマスツリー、それはいかにものんびりして見える。その一方で日本では、年明けの第九と同じく、年が明けてもまだクリスマスツリーを飾っている人は、何か悪いことをしているような意識、あるいは少なくとも「恥ずかしい」という意識に捉えられるのである。そう考えると、日本人は律儀というか、しっかりしているが、その分、日本の社会には息苦しさもあるということになる。どちらがよいか悪いかは別として、その点は自覚しておいた方がよいと、私はいつも思うのである。

冒頭からそんなことを書いたのは、いつも東京での第九演奏のトリを飾る秋山和慶と東京交響楽団 (通称「東響」) による、「第九と四季」に出掛けると、あぁ本当に今年も終わりなんだなぁとの感慨に捉えられるからである。アークヒルズにあるサントリーホールの正面の広場はカラヤン広場と名付けられているが、クリスタルのように光り輝いていた巨大クリスマスツリーが撤去され、寒々とした空間が広がっているのを見ると、ほっとするような淋しいような、そんな気がするのである。ともあれ、私にとって年末 5回目の第九であるとともに、今年最後のコンサート。秋山和慶が、桂冠指揮者を務める東響とのコンビで、毎年恒例の曲目によって 1年を締めくくる (実際にはこのコンビはこのあと、大晦日にミューザ川崎でジルヴェスターコンサートを行うが、私は今年はそれには出掛ける予定はない)。このブログで何度もその演奏を称賛しているマエストロ秋山は、今年 76歳。
e0345320_10392468.jpg
会場で配布されたプログラムでは、このオケの毎月の定期演奏会やそれに準じるものがまとめて掲載されているが、それを見てみると、今月は、12/2 (土) にサントリーホールで、12/3 (日) に新潟で開かれたジョナサン・ノット指揮のベートーヴェンの「エロイカ」をメインとしたプログラム (このブログでも採り上げた) のほかには、12/28 (木)・12/29 (金) の 2日間に亘って開かれるこの「第九と四季」しか載っていない。つまり、月の最初と最後の演奏会だけである。まさかその間、このオケの演奏会がなかったわけはないと思って東響のサイトを調べてみると、なんのなんの。このブログでも採り上げた川崎での「ドン・ジョヴァンニ」のほか、若手指揮者とともに地方の小中学校を回ったり、東京でも子供用の演奏会を開いたり (でも実はそこにアイヴズなどが入っていて面白い)、信時潔の珍しいカンタータを演奏したり、複数回のクリスマスコンサートを開いたり、3人の日本人指揮者 (飯森範親、堀俊輔、山下一史) と各地で既に第九を演奏したりしているという、なんとも目が回るような多忙なスケジュールをこなしてきているのである。メンバーの皆様、本当にお疲れ様です。でも、いかに演奏し慣れた恒例の曲目とはいえ、ここで 2回立ち向かわねばならないのは、西洋音楽の金字塔のひとつ、ベートーヴェン作曲交響曲第 9番ニ短調作品125「合唱つき」なのである。ここはもうひと踏ん張り。

では恒例の「第九チェックシート」である。
・第九以外の演奏曲
  ヴィヴァルディ : ヴァイオリン協奏曲「四季」からホ長調「春」、ヘ短調「冬」
・コントラバス本数
  8本
・ヴァイオリン左右対抗配置
  なし
・譜面使用の有無
  指揮者 : ありと見えて、実はなし
  独唱者 : ソプラノのみあり、ほかはなし
  合唱団 : なし
・指揮棒の有無
  あり
・独唱者たちの入場
  第 2楽章と第 3楽章の間
・独唱者たちの位置
  合唱団の最前列中央 (ステージ奥、オケの後ろ)
・第 3楽章と第 4楽章の間のアタッカ
  あり

このブログを始めて今年は 3度目の年末になり、毎年数公演の第九を採り上げているが、実はこの秋山 / 東響による第九だけは、3年連続で採り上げているのである。曲目は、先に言ってしまうとアンコールまで含めて、すべて同じ。だが違うのは、「四季」のソロを弾くヴァイオリニストと、第九のソリストたち (の一部) である。今年ヴァイオリンを弾いたのは、未だ 18歳という若さの服部百音 (もね)。
e0345320_11004529.jpg
彼女の名は、父である作曲家、服部隆之の作品、大河ドラマ「真田丸」のヴァイオリン・ソロのパートを弾いた映像などで知られていることと思う (但し、テレビ本編での演奏は彼女ではなく、三浦文彰)。さらに言えばこの服部隆之の祖父は服部良一、父は服部克久と、3代に亘る作曲家の家系なのである。ただ作曲家といっても、私がこのブログで時々採り上げる、しんねりむっつりした晦渋な芸術音楽ではなく、歌謡曲や映画、テレビ、最近ではゲームなどの分野で、主に活躍している人たちだ。たとえば服部良一の作品には「東京ブギウギ」や「青い山脈」や「銀座のカンカン娘」があり、なんと国民栄誉賞も受賞している。一方、克久、隆之の親子は、実はともにパリのコンセルヴァトワールに留学するという芸術音楽の教育を受けた、れっきとした「作曲家」なのである。これの意味するところは、芸術音楽とか大衆音楽という区別自体にあまり意味のあるものではなく、時代の感性を反映した音楽は、人々の耳と記憶に残り、語り継がれるということだ。そんな家系に生まれた服部百音の演奏を、私は今回初めて聴いたが、「『真田丸』の服部隆之の娘」という先入観を捨てて傾聴すべき、素晴らしいヴァイオリニストであることが分かったのである。大変不本意ながらこれまで知らなかったことに、彼女はなんと 8歳から名教師ザハール・ブロン (レーピン、ヴェンゲーロフや、日本人では樫本大進、庄司紗矢香、神尾真由子らを育てた現代最高のヴァイオリン教師) に師事しているというのだ!! 既に国際的なコンクール入賞歴もあるが、現在でも、東京音楽大学付属高校に通いながら、スイスのザハール・ブロン・アカデミーに在籍しているという。サントリーホールという四方に客席のあるホールでの演奏ということで、お辞儀をするときは必ず正面、右、左、そしてステージ後ろと、それぞれの聴衆に丁寧に頭を下げるというステージマナーを見せたが、軽薄に笑ったりなどせず、若さに似合わず常に冷静である。だが一旦音楽が始まると、その伸びやかな音は実に美しく鮮烈だ。若さがストレートに音楽を奏でているという印象で、大変にフレッシュである。いつものように指揮をしながらチェンバロを弾いて伴奏した秋山も、好々爺のようであった。この服部百音のヴァイオリン、何か強い意志に裏付けされているように思われ、今後の活躍が楽しみである。

さて、第九に至る前に随分と長文になってしまっているが (笑)、実際のところ、秋山と東響の演奏には常に変わらぬ安定感があるので、演奏自体についてあまりとやかく言う必要はないものと思われる。上記で見たような過密スケジュールを知ると、そういえばちょっとオケに疲れが見えたかも、と思う場面もなきにしもあらずだったが、大きなミスもなく、特に第 3楽章後半から気分が高揚して行ったものと思われた。それから、興味深かった点がいくつかある。まずは先の第九演奏でも触れた、木管楽器の編成である。今年聴いた大野和士 / 都響の演奏と、エッシェンバッハ / N 響の演奏では、コントラバス 8本という弦楽編成に対抗するように、木管はオリジナルの倍の各 4本であったが、今回の秋山 / 東響の演奏では、同じコントラバス 8本でも、木管はオリジナル通り、各 2本 (それに加えて、ピッコロとコントラファゴットは持ち替えでなく 1人ずつの奏者が参加) であったのだ。このあたりに指揮者の指向がかなりはっきり表れるので、来年からは第九チェックシートの項目に、これを加えることとしたい (但し、ちゃんとメモを取らないと忘れてしまう可能性あるが・・・笑)。秋山の指揮ぶりであるが、上記のチェックシートに譜面は「ありと見えて、実はなし」とふざけたことを書いた意味は、いつもの通り指揮台に譜面を置いているにもかかわらず、結局全く手を触れていなかったからだ。去年はこれを、最初はいつもの通り譜面をめくっていたのを途中でやめたのかと思ったのだが、どうやら最初から見ていなかったようで、これは秋山としては珍しい方法ではないだろうか。それから、歌手は最近の定番である、第 2楽章と第 3楽章の間の入場であったが、演奏開始前に館内放送で、「曲の緊張感を保ちたいという指揮者の強い希望により、拍手はご遠慮下さい」との注意がなされた。確かに、ここで拍手が入るのはあまりよろしくないし、演奏によってはチューニングを行うことで中途半端な緊張緩和を避けることもあるが、やはり、拍手なしに独唱者たちが席につくのを静かに待つという今回の方法が最もよいように、私には思われる。合唱はいつもの通り東響コーラス。これは東響の専属のアマチュア合唱団であるが、今年設立 30周年。公演ごとにメンバーをオーディションし、曲目に適した合唱指揮者を招聘するようだが、今回の指導は、バイロイトでの経験豊富な合唱指揮者で、新国立劇場合唱団も指導している三澤洋史。日本のステージでの合唱曲においてはおなじみの顔である。この人選も、年末の東京での第九演奏の競争における各団体のプロフェッショナリズムの追求を示しているように思われる。
e0345320_11531157.jpg
もうひとつ、是非書いておきたいのは独唱者たちである。この秋山 / 東響の第九ではいつも、4人のソリストのうち 1人は外国の、しかも結構実績のある人を呼んでいるようだが、今回は、メゾ・ソプラノの清水華澄、バスの妻屋秀和というおなじみのコンビにテノールの望月哲也、そしてソプラノはこの人だ。
e0345320_11583673.jpg
そう、世界的に活躍するギリシャ人ソプラノ歌手で、日本でも有名なディミトラ・テオドッシュウ。第九におけるソプラノ・ソロには見せ場はほとんどないのだが、世界的歌手がどのように存在感を示すのかに興味があった。正直、しばらく見ない間にかなり大柄になってしまった彼女の姿がステージに現れたときには、ちょっと驚かないではなかったが、独唱者たちの中で唯一譜面を見ながらの歌唱はさすがのものであり、まずは安心した。実際のところ、コーダ手前の四重唱の最後の方でソプラノがぐぐっと伸びあがるところでは、異例なほどの声の伸びが聴かれ、おぉっと思ったのだが、最後の "t" の子音の手前で、ちょっと声が落ちてしまったのは残念 (笑)。ともあれ、その後の恒例のアンコール「蛍の光」では、譜面を見ながら日本語での歌唱となり、例年のことながら、ステージで歌っている歌手たちの中で、彼女が唯一の外国人ということが実感された。・・・テオドッシュウ自身はどう思ったろうか。「クリスマスツリーを早々に片づける東洋の国は不思議だけど、この『蛍の光』は、なんだか感動的ね」と思ってくれたであろうか。

終演後帰ろうとして、ふと 1階ロビーの CD 売り場を見ると、「終演後サイン会開催」と書いてあるではないか。今まで私は秋山の演奏会でそのような表示を見た記憶がない。係の人に「秋山さんのサイン会ですよね」と確認して、参加することとした。マエストロはほどなく、燕尾服のまま出てきてサインしてくれたが、なんと嘆かわしいことに、並んでいる人はほんの 5 - 6人しかいなかった!! ちょっとサイン会の表示が地味だったのではないだろうか。これではマエストロに失礼だと憤慨しつつも、このようなサインを大変丁寧に書いて頂いて、感激である。
e0345320_12261059.jpg
こうして今年も、数々のコンサートやオペラを経験することができ、健康上も特に問題なく年の瀬を迎えることができた。なんとも有り難いことである。このブログでは年内はまだ少し記事を書く予定であり、いつもご覧頂いている方々には、是非最後までお付き合い頂ければと思います。

# by yokohama7474 | 2017-12-29 12:28 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

第九 クリストフ・エッシェンバッハ指揮 NHK 交響楽団 2017年12月27日 サントリーホール

e0345320_01054578.jpg
今年の年末に私が体験する第九、すなわち、ベートーヴェンの交響曲第 9番ニ短調作品125「合唱つき」の、4回目の演奏会である。今回は NHK 交響楽団 (通称「N 響」)。今年の指揮は、ドイツの名指揮者、クリストフ・エッシェンバッハである。1940年生まれなので、今年既に 77歳と知って驚く。
e0345320_23531371.jpg
私の世代は、彼をまずピアニストとして認識していたと言えるであろう。例えば、カラヤン / ベルリン・フィルをバックにしてのベートーヴェンのピアノ協奏曲全集。
e0345320_23562402.jpg
もちろん彼は早くから指揮にも取り組み、チューリヒ・トーンハレ管、北ドイツ放送響、パリ管、そしてフィラデルフィア管などの名門オケのシェフを務めてきたという、指揮者として輝かしい経歴を誇っている。だが、どういうわけか、やはりピアニスト兼指揮者として活躍してきたバレンボイムやアシュケナージとは比較にならないほど、私は彼が指揮する演奏会を経験した機会が少ない。今思い出せるのは、今から 10年以上前、彼が名門フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督であったときに本拠地ヴェライゾン・ホールで聴いた演奏会くらいである。今でも覚えているのは、確かメインがチャイコフスキー 5番で、演奏前にコンサートマスターが聴衆に話しかけ、終演後にチャリティーイヴェントか何かがあると告げた際、「次の曲は通常のテンポなら 45分くらいで終わる曲なので、そのあとでまた会いましょう」と説明し、会場の爆笑を買っていたことだ。つまり、エッシェンバッハの指揮は往々にして濃厚なロマン性を持っていて、遅めのテンポになることを、聴衆は当然ながら知っていたということである。だが演奏内容自体はなかなかのものであったと記憶する。それ以外の機会としては、2015年に彼がウィーン・フィルと来日した際にチケットを買ってあったが、このときはやむを得ない事情でコンサートに行けなかった。実はそのことはこのブログのどこかの記事に書いてあるのだが、ここでは繰り返さない。それからこのエッシェンバッハ、N 響の定期公演デビューはついこの 10月であり、そのときにはブラームスの交響曲全 4曲を、2回の演奏会ですべて振っている。当初の予定では、4番は曲目に入っておらず、モーツァルトのピアノ協奏曲第 12番の弾き振りであったが、指の故障によって曲目変更になったものである。実は私はここでも、3番・2番の演奏会のチケットを持っていたのだが、出張のために行けなかったという経緯がある。

そのように、エッシェンバッハとこれまで巡りあわせの悪かった私であるが、今回、ブラームスの交響曲に続いてドイツ音楽の神髄であるこの第九を、ドイツ人指揮者として輝かしい実績を積み重ねてきた指揮者と N 響のコンビで聴けることは、なかなかに貴重な機会である。今回このコンビで演奏される第九は全部で 5回。うち 4回は NHK ホールで、最終日のこの日だけがサントリーホールでの公演であった。興味深いことに、ほかの日のプログラムは第九 1曲だけだったのに、この日だけはバッハのオルガン曲が前座で演奏された。では、川沿いのラプソディ恒例の「第九チェックシート」を書いてみよう。

・第九以外の演奏曲
  バッハ : トッカータ、アダージョとフーガハ長調BWV.からトッカータ
  バッハ (デュリュフレ編) : コラール「主よ、人の望みの喜びよ」
  バッハ (イゾアール編) : アリア「羊は安らかに草をはみ」
  バッハ : 「天においては神に栄えあれ」からフーガBWV.716、コラールBWV.715
・コントラバス本数
  8本
・譜面使用の有無
  指揮者 : なし
  独唱者 : なし
  合唱団 : なし
・指揮棒の有無
  あり
・独唱者たちの入場
  第 2楽章と第 3楽章の間
・独唱者たちの位置
  合唱団最前列 (舞台後方 P ブロック)
・第 3楽章と第 4楽章の間のアタッカ
  あり

今回オルガンを演奏したのは、若手オルガン奏者の勝山雅世。
e0345320_00250582.jpg
実は彼女は、やはり昨年のサントリーホールでの N 響の第九 (指揮はヘルベルト・ブロムシュテットで、スポンサーは今回とおなじ、かんぽ生命) でも前座でオルガン・ソロを弾いていた。昨年の自分の記事を読み返すと、曲が終わるたびに拍手が起こっていちいちお辞儀していたと書いてあるが、今回はそんなことはなく、合計 20分ほどの演奏を、聴衆は続けて楽しんでいた。最後の曲のオルガンらしい強奏が素晴らしいと思ったものだ。

さて、休憩のあと演奏された第九だが、数日前に聴いた大野和士と都響の演奏と同じく、コントラバス 8本で、木管楽器は倍管、つまり通常各 2本のところを 4本である。やはりエッシェンバッハの指向は、小ぢんまりとした第九ではなく、生命力あふれる異形の交響曲としての第九であったろう。だが、その表現には実は端正な部分も多く、各パートの音の分離もよいし、指揮者の右側に陣取った第 2ヴァイオリンの音型もよく聴き取ることができたのである。各フレーズの細かいところにも気配りがなされていて、結構こまめにタメを作って音楽の流れを作り出しており、全体として、鬼気迫る大野の演奏よりは、とっつきやすいものであったようにも思う。いわゆるドイツ的な重さがあるという表現は合わないが、それでもやはり、ドイツ音楽の個性をよく描き出した演奏であったと思う。なるほどこの指揮の手腕は大したものであって、あれだけ数々の名門オケを率いてきたにはちゃんと理由があるなと思うと同時に、これまであまり彼の指揮を聴けなかったことを残念に思ったものだ。これを機会に、定期的に N 響を振りに来てくれないものであろうか。このような年齢の実績のあるドイツ人指揮者は、存在自体が貴重であり、N 響が伝統として持っているドイツ物への適性を、いかんなく発揮してもらえるのではないだろうか。もちろん、かつて N 響の指揮台に登場したドイツ系の巨匠たちとは、持ち味に差があることは致し方ないであろうし、それゆえにこそ、N 響の演奏に何か新しい要素を加えてくれそうな期待感がある。
e0345320_01011203.jpg
ところで今回も合唱団は、昨年に続いて東京オペラシンガーズである。舞台の奥に並ぶのではなく、贅沢にステージ裏側の客席、P ブロックの 2/3 程度のスペースに陣取っての歌唱であった。この合唱団はもともと力強さをその特徴とするが、今回も痛快な歌いぶりであり、素晴らしい。N 響の第九と言えば長らく国立音大の合唱団との共演であったが、合唱においても、プロの世界での切磋琢磨が東京の年末には起こっている、ということであろうか。それから、昨年の N 響の第九では 4人の独唱者たちはすべて外国人であったが、今回はすべて日本人。ソプラノの市原愛、メゾソプラノの加納悦子、テノールの福井敬、バリトンの甲斐栄次郎と、実績のある人ばかりで、安定感抜群であった。

そんなわけで、なかなかに充実の演奏であり、さすが N 響とエッシェンバッハと思わせる内容であった。ただ、私の好みから言えば、先に聴いた大野和士と都響の、より表現力の強い演奏の方が共感できる、というのが正直なところ。それだけ東京の第九は、ただ単に年の瀬の余興ではなく、非常に高いレヴェルでの在京オケのつばぜり合いという様相を呈しているものと思う。競争があることは、ファンとしては嬉しい限り。さて、これで残る第九はあと 1回となりましたよ。それは次回の記事で。

# by yokohama7474 | 2017-12-29 01:13 | 音楽 (Live) | Comments(2)