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ふと気が付くと、4月も 10日。しかも、季節外れの寒い日である。それなのに、このブログは 3/31 (日) 以降一週間半も更新されていない。実はその間、期初ということもありバタバタしていたことに加え、急な出張が入ったりして、東京・春・音楽祭の「リゴレット」も「さまよえるオランダ人」も、見ることができなかった。もちろん残念ではあったものの、勤め人である以上は致し方ない。さて、では、映画や美術や安近短の記事など書くかな、と思ったのだが、ちょっと思い立って、あえて慌てて更新せず、どのくらいアクセスがあるのかを見ていた。そうすると、新たな記事を書かずとも、連日コンスタントに 300 - 400程度のアクセスがあって、この発見がなかなか面白かった。うむなるほど、こういうことならこのブログも、その蓄積だけでもある程度皆さんに楽しんで頂けるようになっているのだなと思った。・・・そして、3月末の記事をひとつの区切りとして、ちょっとお休みを頂こうかな、と思い始めたのであります。

そもそもこのブログ「川沿いのラプソディ」は、川沿いの我が家から、文化に関するあれこれの四方山話を気楽に綴ろうと思って、2015年 6月 3日に突然始めたもの。途中何度か、「また急にフイッとやめるかもしれません」などと言いながらも、現在までに書き溜めた記事は (「その他」範疇は除く)、実に 1,190。総訪問者数は既に 33万人を大きく上回っている。この 1,190 の記事を、約 4年弱、正確には 1,398日の間に書いているわけで、正直なところこれは、私としてはかなり全力疾走であった。以前から、ブログを書いていると読書の時間がなくて困ると嘆いていたが、ちょっとここらで一服させて頂き、読書にもいそしみたいと思っている昨今であります。

新たな記事を楽しみにして頂いている方々には申し訳ないですが、これは休憩であり、また (ちょっとかたちは変えるかもしれませんが) なんらかのかたちでは再開するつもりですので、その時までしばしお待ち下さい。なお、コメント欄は、今月いっぱい、つまりは平成の間は開けていますが、5月に入って令和が始まる頃には一旦閉じさせて頂きます。併せてご了承下さい。それではまた、令和の世での再会を楽しみにしております!!
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# by yokohama7474 | 2019-04-10 16:26 | その他 | Comments(4)

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東京都交響楽団 (通称「都響」) とその桂冠指揮者エリアフ・インバルによる、東京での 3種類目のプログラム。今回はこのような 2曲からなるものであった。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 1番ハ長調作品15 (ピアノ : サリーム・アシュカール)
 チャイコフスキー : 交響曲第 5番ホ短調作品64

既に採り上げた 3月26日の東京文化会館でのこのコンビの演奏会では、メインはショスタコーヴィチ 5番であった。それに対して今回は、チャイコフスキー 5番。ロシアを代表する 2曲の第 5交響曲はいずれも大人気曲であり、特に今回は日曜日ということもあって、会場は大変な大入りだ。外では桜が満開だが、この週末の東京はどうにも天気が不安定。その点、インバルと都響であれば、その演奏は非常に安定していることが期待できようというものだ (笑)。いや、もちろんそれは、聴かなくても演奏の内容が分かるという意味ではなく、やはり何度聴いても素晴らしいという意味なのであるが。

今回は、メインのチャイコフスキーはもちろんだが、ベートーヴェン若書きのピアノ協奏曲第 1番も非常に楽しみであった。というのも、ソリストがサリーム・アシュカールであったからだ。1976年イスラエル生まれ。興味深いことに、前回のインバル / 都響の演奏会でチェロを弾いたガブリエル・リプキンも同世代で、1977年イスラエル生まれであった。もちろんインバル自身もイスラエル生まれであるから、前回・今回と、指揮者、ソリストともにユダヤ人の共演ということになる。これまで、メータ、バレンボイム、ムーティ、シャイーらの名指揮者と共演し、また、ウィーン・フィル、コンセルトヘボウ、シカゴ響などにソリストとして登場しているアシュカール。
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私はこのピアニストを以前聴いたことがあり、それは昨年の 6月15日、ピエタリ・インキネン指揮日本フィルの伴奏によるメンデルスゾーンの 2番のコンチェルト。その演奏会の記事に書いたことだが、このピアニストは、ただのユダヤ人でない。なんと、「パレスチナ系ユダヤ人」なのである!! 今回の都響の演奏会のプログラム冊子には説明ないものの、戦争地域や途上国の音楽家及び音楽団体をサポートする非営利団体「ミュージック・ファンド」の大使を務めているそうである。彼のピアノは、彼自身が経験してきたものを、音楽という純粋な喜びに昇華させていると思う。いや、もちろん、そんなことを知らずとも、彼のピアノの繊細なタッチにただ耳を傾けると、そこには何か特別な美があることを、誰しもが感じるであろう。ベートーヴェンの 1番のコンチェルトは快活な曲であり、ただ美しいというよりは、前に進む力とか、弾ける喜びという要素が必要だが、アシュカールの演奏は、線の太さこそないものの、この音楽の持つ楽しさを充分に感じさせるものであり、しかも聴き終わったあとにそこに残るのは「美」であったと思うのである。この見事なピアノを、インバルと都響ががっちりサポートして、そこにはベートーヴェンらしい重厚さも時に顔を出していた。もともとインバルは、小編成の曲をきっちりまとめるというタイプの指揮者ではないものの、やはり長い経験と都響との信頼関係によって、ピアノとうまく絡み合うオケの音を巧みにまとめていた。そしてアシュカールが弾いたアンコールは、前回の日フィルのときと同じ、シューマンの「トロイメライ」。深い感情が込められ、誰が聴いても懐かしいと思うであろうこの音楽は、人々の心に沁みたことであろう。

メインのチャイコフスキーは、これはもうインバル節炸裂である。譜面台も置かない暗譜での指揮で、もちろん椅子にも腰かけず、全曲 50分、立ったままである。冒頭こそ、木管と弦のバランスにちょっと課題があるかなぁと思ったものの、すぐにペースをつかんで、音楽がうねり始めた。そして今回のインバルは、この曲の全 4楽章を、ほとんど間を置かずに通して演奏することで、ひとつの大きな流れを作り出していたのである。その強烈な音楽の力から私が感じたのは、インバルはこの曲を世紀末音楽として表現しようとしているのではないかというもの。作曲されたのは 1888年であるから、これはまさしく世紀末の音楽なのである。そういえば彼が昔フランクフルト放送響とともにチャイコフスキーの 3大交響曲を録音した際、そのカップリングが話題になったものだ。この 5番はボリス・ブラッハーのパガニーニの主題による変奏曲という変化球だったが、6番「悲愴」は、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死であった。因みにこの 5番は、こんなジャケットであった。
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インバルはその後この曲を、今から 10年前にこの都響とともに再録音している。私はそれを聴いていないが、想像するに、今回の演奏はさらに音が練れていたのではないだろうか。以前も書いたことだが、インバルの場合には円熟という言葉は似つかわしくなく、あえて言えば進化という言葉を使いたい。80を超えてなお、これだけ力強い音楽を聴衆に向かって解き放つ、その魔術的な力量は、ちょっとほかにないのではないだろうか。都響との関係も極めて良好であることは、演奏後のインバルの表情を見ていても明らかだ。この指揮者の大作交響曲をこれからも聴くことができる我々東京の聴衆は、幸いであると思う。
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この指揮者は、来シーズンの都響の演奏会の前に、今からほんの 3ヶ月後に東京に戻ってきて、手兵であるベルリン・コンツェルトハウス管を指揮する。そこでの演目は、もちろんマーラー!! マエストロには是非体調管理を万全に行って頂き、あの「インバルのマーラー」のさらなる進化版を聴かせてくれるのを楽しみにしよう。

# by yokohama7474 | 2019-03-31 20:39 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) とその音楽監督、上岡敏之による定期公演、今月の 2つめのプログラムである。今回は大曲 1曲によるもの。
 マーラー : 交響曲第 2番ハ短調「復活」

この大曲はもちろんマーラーファンの大好物であり、かく言う私も、実演で聴くたびに鳥肌立つ思いをしている。東京の音楽界において、その個性で独自の地位を占めている上岡と新日本フィルの演奏については、度々このブログでも採り上げてきたが、この「復活」を採り上げるということで、今回も大変楽しみであった。以下、どんな演奏であったのかレポートしたい。
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さて、上で「独自の個性」などという極めて抽象的な表現を使ってしまったが、それを言葉で表現するとどうなるだろうか。私なりに整理してみると、この上岡という指揮者、通常の演奏と異なるテンポを取ったり、音楽の表情づけを行うことがままあるが、そのユニークさは常に、上岡自身の信じる音像を表している。つまり、時にエキセントリックに響くことがあっても、それは彼自身に内在するその音楽のあるべき姿の再現であるということである。派手に大向うを狙うことは皆無であり、流れに応じて音楽に細かい緩急をつけ、丁寧に音像を描いて行く。そして、どんな強烈な音響でも、叩きつけるような乱暴な音にはならない。そんな感じであろうか。今回の「復活」も、冒頭の弦の切れ込みは、多くの演奏にあるような鋭いものではなく、むしろ落ち着いた音色 (若干アンサンブルが乱れたのは惜しかったが)。だがその後のチェロの呻吟は、充分に深刻さのあるもので、決して軽い演奏ではない。この第 1楽章においては、大変に劇的な音楽的情景が描かれるのであるが、今回の演奏では、その音楽的情景には全く鬼面人を驚かすようなところがなく、いつものように実に丁寧な進行ぶりだ。このあたりには多少聴き手による好みもあるかもしれない。つまり、若いマーラーが書いたこの音楽には、ある種のこけおどし的要素もあって、クリアでパワフルな音質でグイグイ押して行く演奏が、意外と成功するのである。その意味では、今回の上岡と新日本フィルの演奏には、圧倒的な要素があまりなかったがゆえに、その点で評価が分かれるかと思う。

この演奏には合唱団と、ソプラノ、アルト (またはメゾ・ソプラノ) の 2人のソリストが入るが、今回の演奏では、第 2楽章と第 3楽章の間で、彼らとオルガン奏者が登場した。合唱 (栗友会合唱団) はステージ裏の P ブロックに陣取り、独唱者 2名はステージ上の最も奥、つまり合唱よりは低い位置ではあるものの、指揮者の近くではなく、合唱のすぐ前に陣取った。この登場のタイミングは、若干珍しいかと思うが、第 3楽章から第 5楽章まで続けて演奏するという作曲者の指示にも叶うものである。ただ、第 4楽章と第 5楽章は、通常は間髪を置かずに「それっ」と指揮者が指揮棒を振り下ろす箇所であるところ、今回上岡は、充分な間を置いていた。ここにも、音の強烈さで聴衆を圧倒しようという意思がないことが読み取れた。その関連で言うと、私が今回感心したのは、第 2楽章の優しさと、第 3楽章の諧謔である。どうしても両端楽章の迫力に中心を置く演奏が多い中で、「えっ、第 2楽章はこんなに優しい音楽だったっけ」とか「第 3楽章はやっぱり諧謔味いっぱいだなぁ」と思わせる演奏には、あまり出会うことはない。この点も今回の演奏のユニークな点として、記憶に値すると思う。新日本フィルの技術も安定していて、恐らくは指揮者の求める音像を十全に表現していたものと思われる。ただその一方で、特に両端楽章で音楽が進んで行く際に、ともすれば部分的にテンポを上げていた点には賛否があるだろう。これは上岡流の緩急ではあると思うが、聴きようによっては性急感がある。あまり「復活」の演奏では耳にすることのない表情であると思う。さて、そうは言いながらも、大団円ではやはり鳥肌立つような音響が渦を巻き、バンダ (舞台裏の別動隊) からホルン 4本がステージに出て来て、それまで舞台にいた 7本と合わせ、11本のホルンが咆哮するさまは、やはり壮観ではあった。合唱団は全員暗譜で堂々たる歌唱であったし、独唱者 2名も素晴らしい出来であった。まず、メゾのカトリン・ゲーリング。
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第 4楽章「原光」は通常もっと深々と歌われると思うが、彼女の歌唱は、現代的というか、一見さらりとしながらも歌詞の意味を考えさせるようなものだったと思う。上岡とはドイツでマーラー 3番、「パルシファル」のクンドリ、「ルル」のゲシュヴィッツ侯爵夫人などで共演し、2017年には初来日して、この上岡 / 新日本フィルとワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」で共演した。上岡の好みとする声なのだろう。一方のソプラノは、森谷真理。二期会の歌手であり、このブログでも何度かその歌唱に触れてきた。この「復活」のソプラノではそれほど聴かせどころがあるわけではなく、むしろ合唱団の中から静かに響く声の清澄さが大事であるが、見事な歌唱であった。6月には二期会の「サロメ」で主役を歌うとのことなので、過酷なまでの絶唱は、そこで聴けることであろう (笑)。
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このような個性的な「復活」であり、賛否が分かれる点もそれなりにあったと思うが、何よりも、上岡という指揮者の誠意を感じることができる演奏であったことが嬉しい。彼と新日本フィルのコンビは、これからも是非聴いて行きたいと思うのであった。

と書いて〆ようと思ったのだが、なぜだか急に思い出したことがあるので書いておこう。SF 作家の中で伝説的な地位を持つフィリップ・K・ディックの作品の中に、この「復活」の楽器編成について書かれたものがあった。あれは一体なんだったろう・・・と思い、手元にある何冊かのディックの作品 (私は決してその道のマニアではないので、それほど多くディック作品を読んでいるわけではない) を調べて、判明した。「聖なる侵入」という作品だ。その中で、この曲の楽器編成の詳細が述べられ、ルーテという言葉に言及されたときに警官が「それは何だ」と訊く。それに対する答えは、「ルーテは文字通り鞭 (注 : 私の所有する本には「苔」とあるが、「コケ」のようなのでこの字を使う) のことだ。藤製の鞭だ。大きなブラシ、あるいは小さなほうきに似ている。これをバス・ドラムにつかうんだ。モーツァルトもルーテのための曲をつくっている」というもの。なるほど、ルーテとはこれである。シャンシャンシャンという音が鳴る、あれである。
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そういえばマーラーはこのルーテを、2番だけでなく 3番とか 6番でも使っている。ディックの作品でモーツァルトも使っていると言っているのは、「後宮からの誘拐」などのトルコ風の音楽のことだろうか。マーラーの巨大な音響の中で、このルーテが重要な役割を果たしているということを、ディックに教えてもらいましたよ。

# by yokohama7474 | 2019-03-31 10:56 | 音楽 (Live) | Comments(2)

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以前も何度か述べたことがあるが、私の場合、ある映画がどこかで賞を取ったということは、事前情報としては有用でも、見に行く映画の選定にはあまり関係がない。見たい気が起こらない映画には出掛けないので、そこで見損なっている面白いものもきっとあるだろうと思いつつ、この発想は変えられようもない。そんなわけで、今年のアカデミー賞で作品賞、助演男優賞、脚本賞を取ったこの映画も、受賞作だから見に行ったのではなく、何か私の気を引くものがあったから、見に行ったのである。ストーリーは予告編で充分明らかだ。1960年代、ニューヨークに暮らす黒人ピアニストが、人種差別が色濃く残る米国南部への演奏旅行に出るにあたり、がさつなイタリア系男性を運転手兼ボディガードとしてつける。2人が旅先で経験することは・・・というもの。題名のグリーンブックとは、黒人が利用できる宿や店などを記載した黒人向けガイドブックで、1936年から 1966年まで発行されていたという。因みに本作の設定は (このピアニストと運転手が南部にツアーに出たという事実に基づき) 1962年。作中では、2人は確かにこのようなガイドブックを見ながら旅をしている。
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最近のアカデミー賞では、マイノリティ擁護の風潮が強く、実はこの映画で助演男優賞を受賞した黒人俳優マハーシャラ・アリは、2年前にも「ムーンライト」で同じ賞を受賞しているが、そちらも (私は見ていないが) やはりマイノリティを題材にした映画であった。ただ、世の中はそれほど単純ではない。この「グリーンブック」の作品賞受賞には、様々な異論があるようだ。例えば、黒人映画をひたすら撮り続けてきたスパイク・リーは、彼自身の作品 (現在日本でも公開中の「ブラック・クランズマン」) も作品賞にノミネートされていたが、この「グリーンブック」の受賞がアナウンスされたときに、人種差別に一石を投じる、いわば共通の視点を持つこの映画が認められたことを祝福するどころか、席を蹴って会場を後にしたという。どうもこの映画、人種を超えた男たちの友情とか信頼関係とかいうものへのポジティブな評価と同じほど、やはり白人の視線で描かれている、という非難を受けているようだ。最近の造語で "Whitesplaining" というものがあるようだが、これは「白人が (上から目線で偉そうに) 説明する」という意味で、この映画などまさにそのようなものだというトーンの非難があるらしい。これが作品賞受賞の際の写真。高々とオスカー像を掲げるのは、監督のピーター・ファレリーであろう。
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さて、このような事情は正直我々日本人には分かりにくい面があり、関連情報を目にしても、「なるほど、そういうことになるわけか」と思うくらいが関の山なのであるが、ただ、映画を見るときに、そんなことをあれこれ考える過ぎる必要はないだろう。以下ざっと私の感想を述べて行きたい。まず、主役の 2人は大変よいと思う。ピアニスト役のマハーシャラ・アリの相棒、トニー・"リップ"・バレロンガを演じるのはヴィゴ・モーテンセン。作中の設定はイタリア系米国人だが、実際にはデンマーク系。但し、幼少の頃にベネズエラに住んでいたことからスペイン語ができ、それだけではなくて、デンマーク語、そしてなぜかフランス語とイタリア語も流暢だという。なので、イタリア語も多く出て来るこの役には最適の人選であったのだろう。過去の映画では、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズにおけるアラゴルン役で知られるが、今回はこの役を演じるために 20kgも増量したという。これが「ロード・オブ・ザ・リング」における彼。
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そして本作での彼。もちろん経年もあるが、その役作りは非常にプロフェッショナルだ。
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一方のマハーシャラ・アリは、つい先日も「アリータ バトルエンジェル」の記事でその名を出したが、その作品における中途半端な悪役よりも、この役の方がずっとよいと、私は思う。実在したピアニスト、ドン・シャーリーについては私は全く知識はないが、この時代にあのような活動をした黒人音楽家として、なんとなくイメージできるようなものを、ここではうまく表現している。つまり、作品のひとつの前提は、ニューヨークで盛名を馳せる黒人音楽家が、彼が何者かも知らないがさつなイタリア系白人に対し、自らの持つ音楽的才能や教養全般を盾として、過剰な干渉を許さないという態度を取るということであり、その点におけるアリの演技は完璧であろう。2人の出会いの場では、彼はこのような恰好で王座にような椅子に座っている。場所はニューヨーク、カーネギーホールの上層階にあるアパートである。史実でもドン・シャーリーはカーネギーホールと契約を持っていて、その上層階に暮らしていたようだ。やはりニューヨークは米国の中でも特別な街で、黒人であっても、実力があって要領がよければ、音楽の世界では成功することができたということか。
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この映画の面白い点は、この 2人の微妙な距離感から、長い道のりを一緒に旅し、様々なトラブルに見舞われながらもお互いを徐々に理解しあい、そして信頼しあうようになる、その過程である。これは、このように文章で書いてもあまり切実感を伴わないが、実際に映画で体験すると、かなりの説得力を感じることになる。そもそも 1960年代の米国では、黒人が入れない場所というものもあったわけで、だからグリーンブックが存在したわけだ。また、オバマ大統領が就任時に、自分の祖父の頃にはレストランにも入れなかった、そんな黒人が今や大統領になる時代なのだ、と演説していたことを思い出す。特にこの映画では、もともと人種差別の激しい南部に演奏旅行に行くという設定であるから、その苦労たるや、想像にあまりある。物語では、このピアニスト、ドン・シャーリーがなぜに南部を目指すのか、多くを語ることはないのであるが、見て行くうちに観客には、時には笑わせられながら、ドン・シャーリーの屈折ぶりの中にある何かとてもシャイでピュアなものに感情移入して行くことになるのである。一方のトニー・リップは、もともと黒人への明確な差別・偏見はあるものの、それは当時に白人として通常レヴェルであったのだろう。勤務先のキャバレーが閉鎖され、金欲しさに運転手の職にありつくわけだが、旅を続けるうちにその素晴らしいサヴァイヴァル能力を随所で発揮、コンビの間には何か特別な信頼関係が築かれて行く。人間ドラマとして素晴らしい出来であると思う。
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さぁ、これをもって、白人の上から目線の映画と断じてしまうことが適当だろうか。ネタバレを避けるためにここには書けないラストシーンなど、Whitesplaining との批判を受けるものかもしれないが、私は結構感動して、涙腺もちょっと危なくなってしまうほどであった。1960年代の現実と、映画としての流れからして、このラストは充分感動的であると思うし、それが白人至上主義の表れと言ってしまうと、ちょっともったいないように思うのである。実はマハーシャラ・アリがインタビューで面白いことを言っている。この作品の監督ピーター・ファレリー (「ジム・キャリーは Mr. ダマー」や「メリーに首ったけ」というコメディで知られる) は白人であるが、観客の中には、例えばスパイク・リー監督作品を最初から見に行かないという人もいるのが現実。そういう人たちもピーター・フェレリーの映画なら見に行き、笑って見ているうちに、思いもしなかったことを考えることになるかもしれない。「そこには価値があると僕は思う」とアリは言っているのだが、この態度には極めて現実的なものがあり、この作品に対する自信のほども伺える。

さて、最後に、音楽に関するネタを 2つ。この黒人ピアニストは劇中で、ツアーで田舎町に行ってもスタインウェイのピアノしか弾かない契約としている。弾いているのはジャズ風の音楽で (チェロとベースを伴奏として連れている)、クラシックではないのだが、もともとクラシックを学んだことから、ピアノの選択には強いこだわりがあるようだ。言うまでもなスタインウェイの本社はニューヨーク。今はどうか知らないが、その場所はカーネギーホールからは通りを挟んだ反対側だ (昔、グレン・グールドのドキュメンタリーで、グールドがここを訪れるところが紹介されていた)。ところが、ツアーの途中で、音楽のことなど何も分からないはずのトニー・リップから賛辞の言葉を受けながらも、差別に遭って傷心のうちに安酒場に行くシーンで、彼はそこにあるピアノ (調律もいい加減な、いわゆるホンキートンクという奴だろう) で、ショパンのエチュード「木枯し」を弾いて、人々を感動させる。これはいいシーンであった。ところが演じるマハーシャラ・アリは、実際に鍵盤を叩いているのでもともとピアノが弾けるかと思えばさにあらず、数ヶ月は練習したものの、演奏は「ふり」だけで、映画の中の音は別人が出しているらしい。うーん、それにしても器用だ。これが実在のドン・シャーリー。
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実際にドン・シャーリー (1927 - 2013) は、9歳のときにレニングラード音楽院に入学、18歳でアーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップス管弦楽団と共演した神童であったらしい。そしてあのストラヴィンスキーも、そのピアノを神業と称えたという。映画で描かれている通り、ノーブルで教養もあり、でも心の中に屈折を抱えている人だったのだろうか。がさつ者のトニーが家族にたどたどしい手紙を書くのに耐えられず、口述でそれを直して行くのだが、その中に面白いシーンがある。
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手紙の最後に P.S. をつけ、子供への愛を表明しようとするトニーに対してドンは、「交響曲のあとに余計な音を足そうというのか!!」と非難するのだが、字幕には「交響曲」となっているが、セリフでは "Shostakovich 7" と言っていた。これはもちろん、ショスタコーヴィチの交響曲第 7番「レニングラード」のこと。この曲は、ドイツによってレニングラードが包囲される危機的な状況の中、1941年に初演されているのだが、なぜここで言及されているのだろうか。私の勝手な解釈では、上記の通りドンはレニングラードに留学しており、それは 1936年頃のこと。すると、まぁ戦争前には本国に帰っていただろうが、包囲された街レニングラードには思い入れがあるのだろう。ただ、そのことをトニーに説明しようとはしない。このさりげないセリフひとつにも、ドンの性格が表れていると思うのだが、どうだろう。

ほかにも語りたいシーンはいろいろあるが、この辺でやめておこう。差別問題という社会性ある観点を離れて見ることはできないにせよ、人間を描いた映画として面白いというのが、私の感想である。

# by yokohama7474 | 2019-03-30 17:39 | 映画 | Comments(0)

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この映画はどうやら英国王室の話であることは明らかであり、レイチェル・ワイズとかエマ・ストーンが出ているというので、ちょっと見たいなと思ったのだが、題名が「女王陛下のお気に入り」? うーん、これはコスプレ・コメディだろうか。どの女王の話か知らんが、私も決して暇な人間ではないし、ま、他愛ないほのぼのコメディならパスしようかな、と思っていた。ところが、一応どんな映画だろう、と思って調べてみると、ひとつ分かったのは、これはアン女王に関する話。アン女王と言えば、あのロンドンのセントポール大聖堂の前に彫像が立っている (つまりそれは確か、この大聖堂が今のかたちで建設された時の王であったからと記憶するが)、あの女王である。もちろん、エリザベス 1世やヴィクトリア女王のようなよく知られた女王ではないが、一応知っている名前である。単なる架空の王朝コメディではないということだ。そして、おっ、監督のなんとかティモスって聞いたことがあるぞ。そう、あの怪作「聖なる鹿殺し キリング・オブ・セイクリッド・ディア」の監督、ヨルゴス・ランティモスではないか。そうなれば話は別。ちょっと見に行ってやるか、と思って劇場に足を運んだのである。監督のランティモスは 1973年生まれのギリシャ人。
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そして、私は今申し上げたい。映画という表現手段の持つ強烈な力を感じたければ、是非この作品を見るべきだ。但し、出演している女優たちが、昔の「ハムナプトラ」シリーズのレイチェル・ワイズだとか、ましてや「ラ・ラ・ランド」のエマ・ストーンだと思ってはいけない。この映画における彼女たちは、世代は異なれども、ともに映画という芸術分野に深く貢献する、そしてそれだけの自覚と決意を持った表現者として、スクリーンの向こうにいる。残念ながら日本ではこんな映画、到底期待できないと思う。

ストーリーは単純と言えば単純。主人公のアン女王 (1665 - 1714) は、ステュアート朝最後の王であり、その在位中の 1707年にイングランドとスコットランドが合併して、グレートブリテン王国が成立した (現在の連合王国となったのは、1801年にさらにアイルランドを併合してから)。物語は、そのアン女王と、彼女の幼なじみで、事実上王宮を牛耳る存在であるレディ・サラ、そして、サラの従妹で、父親のギャンブル好きのおかげで貴族社会から転落し、召使として王宮にやってくるアビゲイル、この 3人が織り成す、激しいドラマである。サラ役のレイチェル・ワイズがインタビューで面白いことを語っている。3人の女性を主役にする映画は珍しいし、その 3人の関係も普通ではない点に興味を惹かれた。そして、「3人が競い合い、愛し合い、妬み合い、敵対し合うところがおもしろい」とのこと。そうそう、まさにこの 3人の関係、なんだかよく分からない複雑な様相を呈するのである。紋切り型の権力争いや、表面上の媚びへつらいとか、そういった次元の話ではない。何かもっと人間の根源的な弱さとか醜さを、仮借なく描いているのである。その一方で、今度はアビゲイル役のエマ・ストーンのインタビューから引用すると、「脚本が本当にすばらしかった! 複雑な 3人の女性キャラクターがとてもよく描かれていたの。コメディだし、読みながらも笑ったわ」とのこと。いやいや、私は上で、これはコメディではないと書いた。それをコメディだと言いきってしまうあたりに、この女優の侮れない個性が見て取れる。さぁこの 2人、どちらが勝つのだろうか。
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そう、普通の意味ではこの映画は断じてコメディではなく、人間の汚い面を赤裸々に描いた、あまり愉快な映画ではないのだが、その細部を思い出して行くと、今度は人間のしぶとさにも思い当たるわけで、そう思った瞬間、いろんなことが可笑しく感じられるから面白い。ネタバレせずに説明するのは難しいが、一国 (未だ世界に冠たる大英帝国ではないにせよ) の君主がこれだけ人間的な弱みを抱えていて、いとも簡単に操られるかと思うと、意外としっかりした面があって、突然自らの意思で命令を発し始める。あるいは王宮を牛耳る存在である女性が、年少の従妹の策略にかかってひどい目に遭うことは、小気味よくもある。さらにその年少の従妹は、うまい具合に男を利用して成り上がるが、男のあしらいはなんともぞんざいで、結婚初夜も例外ではない。それらは結構笑える内容になっているのである。物語はそのような様々なピースによって成り立っているが、その積み重ねから何度か笑いを感じるうち、気がつくと背筋が凍るような人間の真実に直面する。そんな作りになっている。これは家族みんなで見に行くようなタイプの映画ではないが、大人であれば、ストーリーを追うだけで充分楽しめると思うのである。

さて、肝心の主役についてまだ何も語っていなかった。アン女王を演じるのは、オリヴィア・コールマンという女優。本作でアカデミー主演女優賞を受賞した。私にとってはなじみのない顔であるが、英国では実績のある女優のようである。実在のアン女王は病気がちで、また大変な肥満であったというが、17回妊娠して、ひとりの子供も育たなかったという個人的悲劇にも見舞われた人でもあったという。自分勝手で淋しがりで、でもどこか憎めない女王役を、見事に演じている。上で触れた、セントポール大聖堂の前に立つアン女王の彫像の写真もここに掲げておこう。
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ヨルゴス・ランティモスの演出は、「聖なる鹿殺し」に続いて、ここでも大変に冴えている。役者たちから恐ろしいような表現を引き出したのも、彼の手腕であろう。実は今回共演しているオリヴィア・コールマンとレイチェル・ワイズは既にこのランティモスの「ロブスター」という映画に出演した実績がある。3人の女優の中で唯一米国人であるエマ・ストーンも、本作への出演を決意したのは、まずはこの監督の作品であることが理由だったという。今後の作品から目が離せない監督である。彼の演出の一例として、本作の宮廷内のシーンでは魚眼レンズを多用していたことが挙げられるが、それなどは、普通なら段々辟易としてきてもおかしくない、単調さに堕する危険がある方法だろう。だが、画面の情報量もストーリーの情報量も多いこの映画では、非常に効果的であったと私は思う。
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この作品、アン女王はもちろんのこと、サラもアビゲイルも、実在の人物であるという。もちろんこのストーリー自体はフィクションであるが、史実からヒントを得た作品ということになる。ところでこのサラ、旦那の名前はジョン・チャーチルという。そう、もちろんあのウィンストン・チャーチルの祖先である。本作の最初の方で、アンがサラに対して、ジョンの軍功を称えて宮殿をプレゼントすると言って模型を見せるシーンがあるが、もちろんその宮殿は、(このブログでも映画のロケ地として何度か言及した) 世界遺産、ブレナム宮殿で、ウィンストン・チャーチルの生地である。言ってみればこの映画、20世紀英国の英雄チャーチルの祖先を、かなりひどく描いているとも言えるわけで、その意味でも英国風仮借なさを感じるわけである。もちろんその仮借なさは、過去に実在した女王の描き方にもあてはまるわけであるが (笑)。

因みにこの映画の王宮のシーンは明らかにセットではなくロケだと思ったら、ハットフィールド・ハウスで撮影したとのこと。ロバート・セシル (初代ソールズベリ伯) の館であったが、あのエリザベス 1世が幼少の頃を過ごした場所として有名である。私もその場所を訪れたことがあって、そのあたりの展示を沢山目にしたものだ。もちろん英国にはこの手の屋敷 (今でもソールズベリ侯爵 = 保守党の政治家でもある = の自邸だが) は多く残っているが、やはりこのような映画のロケには最適である。
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最後に音楽について。この映画では、既成のクラシック音楽が数ヶ所で印象的に使われていて、その中のバッハやパーセルというバロック音楽は、時代の雰囲気を盛り上げるという目的が明確であるが、それ以外に、劇中の登場人物の心理を深く反映するような音楽がある。ひとつは、シューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調作品44の第 2楽章。もうひとつは、シューベルトのピアノ・ソナタ第 21番変ロ長調D.960の、やはり第 2楽章だ。この 2曲が使われている箇所 (前者は確か 2回使用されていたと記憶する) では、何か衝撃的なことが起こるのだが、音楽はひたすら淋しい。「聖なる鹿殺し」に続き、ランティモス監督の音楽のセンスには感心した。

このような次第であるので、映画を選択するときには、邦題で内容に対して先入観を持たず、作り手についての情報を充分得てからにしたいと、再認識した。あ、あと、たまたまこの作品の Wiki を見てみたが、そこには「歴史コメディ映画」とある。いやいや、とんでもない。あなたがエマ・ストーンでもない限り、この映画をコメディなどと呼んではいけない!!

# by yokohama7474 | 2019-03-28 21:33 | 映画 | Comments(0)