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このブログでは、既に終わった展覧会の記事を書いて、ご覧になる方をイラッとさせている (もしくは記事そのものを読んで頂けない) 場合が多いと認識しているので、今回は、たまには会期中の展覧会をご紹介したい。とは言っても、そもそもこの展覧会の会期は 1ヶ月と少し。まだ残り期間があるとは言っても、今週末まで。残る期間はほんの数日だ。だが、このブログで私ごときが何を書こうとも、この展覧会の混雑具合には全く影響ないだろう。というのも、この展覧会は既に連日大混雑であるからだ。ただ、もしご存じない方がおられるといけないので書いておくと、これは美術ではなく、書の展覧会。私としても、書の展覧会に出掛けることはあまりなく、今すぐに思い出せるのは、中学生の頃に同じ東京国立博物館で見た「日本の書」という大規模な展覧会。それからもちろん、空海の国宝「風信帖」などは何度か見たことがあるし、あるいは身内に書家がいるので、その会の発表会には足を運んだこともある。だが、このような歴史的名品が揃う書の展覧会は、私としてはかなり珍しい体験なのである。

そもそも私は泣く子も黙る悪筆で、特に書道ともなると、よしんば筆ペンであっても、それはもう、見るに耐えない字しか書くことができない (笑)。小学生の頃の習字の授業では、墨を硯で擦って、残った墨が斜めになると心が歪んでいる証拠だと聞いて、わざと斜めに墨を擦っていたような (そして墨をズボンにボトリとこぼしていた) ひねくれ者である。そんな私でも、中国の伝説的な書家として、王羲之 (おうぎし) と顔真卿 (がんしんけい) の名前くらいは、高校時代の世界史の教科書で習って知っている。なので、この展覧会に興味を持って出掛けて行ったのであるが、実はこの展覧会、顔真卿の展覧会では全くなく、さらに広く深く、中国の書の歴史から日本の書までを広範に網羅し、実に多くの名品をずらりと揃えた、ちょっとないほど充実した、驚きの内容の展覧会なのである。ただ、この展覧会を「中国の書の歴史」とか、「書 - 波濤を超えて」とか、「愛と哀しみと青春の書」とかにするよりも、ズバリ、教科書に載っている顔真卿の名前を使う方が効果的である、という判断がなされたものと思う。そして、どの展示物も紹介する前にまず書いてしまうが、この展覧会が大混雑する理由は、上に掲げたポスターにもその写真が載っている、何やら書き間違いを訂正した作品、「祭姪文稿」(さいてつぶんこう) である。これは、台湾の故宮博物院所蔵の名だたる名品のひとつで、唐時代の末期、いわゆる安史の乱で戦死した甥を悼んで顔真卿が書いた草稿である。そこにはなりふり構わぬ哀しみが迸っていて、実に感動的。これを見るために人々はこの展覧会に押し寄せるのだ。但し、私がこの展覧会に行ったときには、開館後さほど時間を経ずして入場したはずだが、この「祭姪文稿」の展示場所に辿り着いたときには、既に 90分待ちという状況であったので、今回は残念ながら実物を見るのは諦めた。私は以前、台北の故宮博物院現地で、この書と対面しているはずであるし (恥ずかしながら記憶は不明瞭だが)、いずれまた現地を再訪する機会を持ちたいと思う。「祭姪文稿」についてはまた後で簡単に触れるとしよう。

さて、ここで私たちが見るのは、一言でまとめてしまえば、漢字の歴史である。漢字は、世界四大文明のひとつである黄河文明において成立したとされ、その時代に使われた文字として現在でも残る唯一の文字である。この展覧会で見ることのできる最初の展示物は、紀元前 13世紀、殷時代の甲骨文である。殷墟から出土した現存最古の漢字資料である由。文字通り牛革に書かれているもので、その拓本で見ると形もはっきり分かる。
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これは紀元前 10世紀、西周時代の青銅器。展示品名が難しすぎて PC で漢字変換できないので、それは諦めることとするが、ある家に嫁いできた女性が姑のために作った青銅器であるという。上の展示品とこれは、台東区立書道博物館の所蔵になり、この展覧会ではほかにも多くこの博物館から出品されていた。これほど由緒正しい名品を多く所蔵しているとは知らなかった。
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さてこれは、後漢時代、西暦 66年のもので、「開通褒斜道刻石」(かいつうほうやどうこくせき)。東京国立博物館所蔵。褒斜道という要路の修理開通を記念した銘文の拓本であるとのこと。いやしかしこれ、モダンアートと言っても通用すると思いませんか。
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次も後漢時代、153年のもので、「乙瑛碑」(いつえいひ)。魯の国の前大臣である乙瑛という人が、孔子廟内の器物を管理する役人を採用したことを述べる石碑の拓本。えっ、魯という国は、確か孔子の生まれた国ではないか。ではこれは、孔子の時代のすぐ後のものか!! と思って調べてみると、孔子が亡くなったのは紀元前 479年とのことなので、何のことはない、この石碑はそれから 600年以上経てからのもの。それにしても、この写真の左から 3行目に「孔子廟」とあるのを見ると、何やら興奮する。因みにこの書体は隷書という。この書体なら、ひとつひとつの漢字は今でも読める。
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これはあの王羲之の書の拓本。4世紀、東晋時代のもので、「十七帖 - 上野本」と呼ばれる。確かに冒頭に「十七」と見える。上野本と呼ばれるのは、朝日新聞社社主であった上野理一という人が所蔵していたかららしい (現在は京都国立博物館所蔵)。王羲之は数々の書体を使い分けたとのことだが、この字には得も言われぬ気品が漂っていることは、悪筆の私でも感じることができるのである。さすが書聖。
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これも王羲之で、「定部蘭亭序 - 犬養本」。353年という年代が分かっているが、それは冒頭の「永和 9年」らしい。ここでの犬養とは、あの犬養毅のことで、この拓本は 11世紀半ばに発見され、以来中国歴代の収集家の手を経て、彼の所蔵になったものという。同じ王羲之でも、これはかっちりとした楷書である。4世紀のものとは信じられない。
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さてこれは、拓本ではなく自筆である。所有者の記載はないが、国宝。実に、7世紀、隋の時代のもので、智永という僧侶による「真草千字分」。梁の武帝は、王羲之の筆跡から重複しない一千字を選び、それを並び替えて韻文を作らせたという。その作業に当たって一日で事を成し遂げた周興嗣という人は、その一日で、髭も髪も真っ白になったという。その千字文を、隋の時代に楷書と草書で書写したものがこの作品。それにしても、考えてみれば、こんな古代に既に、同じ字を幾通りもの書体で表すことのできた漢字とは、なんという特殊な文字であろうか。
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これは唐時代の虞世南という人の手になる「孔子廟堂碑 - 唐拓孤本」(628 - 630年)。長安に造営された孔子廟の完成を記念する碑の拓本である。実は今回の展覧会のひとつのウリは、「李氏の四宝」という、清の李宗瀚という人が集めたお宝の集結であるが、これはそのひとつ。
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この展覧会には、ごくわずかだが絵画作品も展示されている。見事だと思ったのでここに掲げておきたいのは、14世紀、元時代の郭忠恕 (かくちゅうじょ) の「明皇避暑宮図」。明皇とは玄宗皇帝のことらしい。玄宗が楊貴妃とともに遊んだのは、このような場所だったのか。私が興味深く思ったのは、このような夢想の中の建物を、あたかも見て来たかのように精緻に描く感性である。
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隋・唐の時代に活躍した書家、欧陽詢 (おうようじゅん、557 - 641) は、書の歴史において大きな功績を残した人らしい。これは 631年に書かれた「九成宮醴泉銘 (きゅうせいきゅうれいせんめい)- 官拓本」。 九成宮とは、隋の文帝が造営した宮殿を、唐の太宗が修復して与えた名前。避暑のための宮殿であったらしく、杖で地面をつつくと甘い水が湧き出てきたので、それを醴泉 (れいせん) と称し、太宗が記念碑の建立を命じたとのこと。欧陽詢は楷書で知られたらしいが、この 76歳のときの書は、「楷書の極則」と呼ばれているという。確かに、凛とした字である。
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次も有名な書家で、褚遂良 (ちょすいりょう、596 - 658) の「孟法師碑 - 唐拓孤本」(642年)。唐の太宗が王羲之に入れあげ、様々な彼の書を収集した際に、その真贋を見極めたのがこの人だという。
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これも同じ褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)。長安に今も残る大雁塔内に建立された石碑の拓本だが、この冒頭部分には、あの三蔵法師の名がある。そう、「西遊記」で有名なあの玄奘三蔵が、インドから仏典を持ち帰ってきたことを記念する石碑なのである。恐るべし、歴史の生き証人!!
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これはその褚遂良が王羲之を書写した「黄絹本蘭亭序」。拓本ではなく直筆であるだけに、極めて貴重である。これも台北の故宮博物院に寄託されているもの。後でも見るが、今回は故宮博物院から、数々の名品が来ているのである。
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さあこれは珍しい。あの悪名高い (と我々は習う) 女帝、則天武后の書である。699年に建立された「昇仙太子碑」。周の霊王の王子であった晋という人が、鶴に乗って昇天したという逸話に基づき、その晋の廟を改築してこの碑を建てたらしい。王羲之に倣った字体とのことだが、堂々としていて鷹揚な印象を受ける。実際にはどのような人だったのだろうか。
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これもすごい。あの唐の玄宗の筆になる「紀泰山銘」(726年)。
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これだけではどのくらいの規模か分からないが、実は会場ではこの作品だけ、写真を撮ってよいようになっている。その長さ (碑の高さ) 13m。実はこの石碑は、泰山 (道教の聖地であり、世界遺産に登録されている) に現存しているらしい。以下は、私が会場でスマホ撮影した写真。
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このあと、日本にある唐時代の書がいくつも展示されていて、国宝また国宝なのだが、私好みの変化球で次に進もう (笑)。これも唐時代、9世紀の作品で、「説文口部残巻」。見ての通り、漢字辞典である。面白すぎる。
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さて、ここでようやく顔真卿 (709 - 785) の登場だ。これは「王琳墓誌 - 天宝本」(742年)。顔真卿にとっては友人の母にあたる王琳という人の墓に寄せられたもので、この墓誌は 2003年に出土したという。顔真卿 33歳、現在発見されている中で最も若いときの筆であるらしい。しかしそれにしても、なんという折り目正しい楷書体だろうか。惚れ惚れするとはこのことだろう。
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せっかくなので、ここからいくつか顔真卿作品をご紹介する。これは「千福寺多宝塔碑」(752年)。素晴らしい字であるが、会場で説明されていたことをここで記憶に従って述べると、右手に筆を持つ人は、字を書くときにどうしても右上がりになってしまう。顔真卿はそれを是正し、字の横線が水平になるように書いた。その結果、字はきっちり四角の範囲に収まり、整然とした印象となる上、同じスペースに多くの字数を入れることが可能になった。そして彼の書体が、今日ポピュラーな明朝体のもとになった、ということらしい。
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さてここで、本展覧会の目玉でありながら、上で書いた通り、私が実物に相対することが叶わなかった「祭姪文稿」(758年) から。上にも書いた通り、殺された甥への追悼文の草稿であり、ここで見る顔真卿の字は、上の 2作品に見るような明朝体のお手本とは、随分と違っていて、そこには人間の感情が迸っている。書き直しも実に生々しい。
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そしてこの部分、「嗚呼哀哉」(ああ、かなしいかな)。胸が張り裂けそうな哀しみが、文字として永遠に紙の上に残っている。
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これは「臧懐恪碑」(ぞうかいかくひ、768 - 770年頃)。唐時代の将軍の功績を称えた碑であるらしい。60代前半の顔真卿の書には、なんとも言えない清冽さがある。
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これは 771年の「大唐中興頌」。安史の乱を乗り切った唐王朝を称えるべく、岩に彫られたものらしい。顔真卿は忠臣として知られ、書をたしなむのみならず、官僚でもあり軍人でもあって、大変立派な人であったようだ (最後は奸計によって戦乱地方に派遣され、戦死したとか。但し 77歳は当時としてはかなり長生きであったろうが)。そのような人柄を忍ばせる字である。
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これは 780年に書かれた顔真卿の「自書告身帖」。官僚としての配置換えの辞令を、自分で書いているらしい。確かに真ん中あたりに「顔真卿」とあって、そのあとに「立徳」であるので、自分で自分を推薦しているのであろうか。興味深い。
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さて次は張旭 (ちょうきょく、7 - 8世紀) の書から、「肚痛帖 (とつうちょう)」。顔真卿の師にあたり、草書の聖人と呼ばれているが、酒に酔うと大声を上げて走り回り、髪を墨に濡らして書くなど、奇行が多かったという。この文には、急な腹痛に襲われたときに大黄湯 (だいおうとう) なる薬を服用したら治ったということが書いてあるらしい。うーん、変わっている (笑)。
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もっと変わった書家がいる。その名は懐素 (かいそ、8世紀後半)。顔真卿とも知り合いで、草書の神髄を彼から学んだという。また、その書は李白にも絶賛されたらしい。だが彼も、酒を飲んでは寺院の壁や塀、食器や着物などに手当たり次第に書いたので、現存作品が少ないようだ。そんな中、これも台北の故宮博物院から今回やってきた「自叙帖」(777年) は大変貴重であり、これはもう破天荒な作品である。私としては今回の出品物の中で最も面白いと思ったのがこれである。これは自らの経歴を述べるところから始まる。確かに狂草という感じだが、しかし達筆だ。
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このあたりでかなり興に乗ってきている。素晴らしい筆の運び。
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ところが最後の方では、「人は誉めてくれるけど、いやいやそんな。そんなそんな。そんなー!!!!」ってな具合で、謙遜なのだか自負なのだか分からないが、とにかく感情が炸裂してしまう。面白過ぎる。
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さて、これでもかなり端折りながら中国歴代の名筆をご紹介してきたわけだが、この展覧会で意義深いのは、日本の書の名品もずらりと並んでいることである。最後にいくつか日本の作品をご紹介したい。これはなんと飛鳥時代の国宝、「金剛場陀羅尼教巻第一」(686年)。日本で書写された最古の経典。中国の一流書家たちに比べると癖があるが、極めて貴重な遺品であることは間違いない。
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これはなんと、伝聖武天皇筆、「賢愚教残決」。もちろん国宝である。
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これは最澄の「久隔帖」(813年)。これまた国宝。最澄が残した唯一の書状である由。当時空海のもとで修業中であった泰範という自らの弟子にあてたもので、空海への質問が書いてあるらしい。日本の密教の両巨頭の交流を示す貴重な資料である。
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一方の空海は、言わずと知れた三筆のひとりと称えられる書の大家。これは「崔子玉座右銘」。重要文化財である。後漢の人、崔子玉という人の座右銘を写したもの。さすが、達筆ですなぁ。
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これも三筆のひとり、嵯峨天皇筆と伝わる「李嶠雑詠断簡」(りきょうだつえいだんかん)。国宝。初唐の政治家・詩人の詩を書写したもので、欧陽詢の字体に酷似しているそうだ。
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ついでに三筆のもうひとり、橘逸勢筆と伝わる「伊都内親王願文」(833年)。実は橘逸勢の真筆と確認できる遺品はひとつもないそうであるが、この書の場合、王羲之の字体に似ているところもあり、相当な技術をもって鍛錬された手ということで、逸勢の筆と目されてきたとのこと。
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そのほかにも、日本における王羲之や顔真卿の影響が伺われるような作品も展示されているが、かなり長い記事になってしまったので、このあたりでやめておこう。ひとつ思ったのは、日本の古い書というと、まずは経典が中心というイメージであるが、中国の場合、拓本として残っているものに、もちろん仏教寺院のものもあるとはいえ、あるいは道教であったり、または宗教と関係のない個人の業績を称えるものであったり、必ずしも宗教色の強くないものが多い。日本は中国と韓国から仏教文化を取り入れたわけであるが、その受容自体は、古代からして少し違っていたように思う。東アジアの文化は、単一なようでいて実はそうではない。ただ、漢字を取り入れた我が国においては、書というものが重要になり、そのお手本を中国の古い時代に求めたということは、何か大変に歴史のロマン溢れることのように思われる。なので、たとえ「祭姪文稿」の実物を見られなくても、この展覧会には、ほかにお宝がぎっしりである。残る 5日間の会期で、ひとりでも多くの方に、是非アジアのロマンに触れて頂きたい。

# by yokohama7474 | 2019-02-20 01:46 | 美術・旅行 | Comments(0)

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東京・初台にある新国立劇場では、昨年 9月に始まった今シーンから、大野和士をオペラ部門の芸術監督に頂いているが、今回ようやく、就任後初めてその大野がこの劇場のピットに入る。しかも演目はヴェルディでもワーグナーでもなく、日本人による日本語オペラの新作。大野自身の企画による新国立劇場の委嘱作であり、これが世界初演である。今シーズンの新国立劇場の演目においても、一、二を争う話題の上演であることは間違いないだろう。私が見ることができたのは、合計 4回中最初の公演であり、つまり、初めてこの作品が世に出るのに立ち会ったことになる。

そもそも日本においても、山田耕筰以来数々のオペラが書かれており、その蓄積は既にかなりのものであると言えるだろう。だが、日本語のオペラのひとつの課題は、いかにして言葉を音楽に乗せるかという点にあるだろう。日本ならではの詩歌は五・七・五の俳句や、その後に七・七と続ける短歌が一般的であり、これであれば日本語は美しく響くことは誰でも知っている。あるいは演劇という点においては、能や歌舞伎における日本語は、耳で聴いているだけでは聴き取りにくいものの、台詞を目にすると、古い日本語特有の抑揚や、感情の込め方が理解できる。だが、西洋音楽の中でも、イタリアという流麗な言語を持つ国にその発祥を持つオペラという分野では、どうだろう。なかなか日本語では成果を挙げにくいというのが実情であろう。日本語の問題ゆえに、ドイツ語で書かれた黛敏郎や細川俊夫のオペラなどは、むしろ親しみやすいと感じてしまう面もある。その歌詞という課題の克服のため、これまでにも、一柳慧の作品に大岡信、三枝成彰の作品に島田雅彦、というように、文学者がオペラの台本を手掛ける例はいくつもあったが、なるほどと思う部分と、やっぱりどうもなぁと思う部分が常にあったと思う。今回の台本は詩人の佐々木幹郎であるが、さてその成果たるやいかに。実はこのオペラ、台本、作曲、指揮、演出がチームで作り上げていったものであるらしく、またそこに加えて、監修者がいるという構成だ。現代においてオペラを世に問うということは、極めて難易度が高いことであろうから、各分野で高い能力を持つ人たちが議論をして知恵を出し合うというのは意義あることだ。これはその 5人によるトークイヴェントの様子。
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この作品、「紫苑物語」というのだが、「紫苑」は「しおん」と読む。これはキク科の植物の名前で、英名は Aster である (この作品のチラシに記載ある英語タイトルは "Asters")。ま、私は植物には滅法弱い人間なので、こんな植物だと言われれば、ふむふむそうですか、と返すしかないのだが (笑)。ちょっと文学的には、真っ赤な血の色を中和しそうな青であるが、それについてはまた後で。
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この「紫苑物語」は石川淳 (1899 - 1987) の小説が原作である。この無頼派の作家は、同じ範疇 (その呼称がどの程度妥当なものであるかは別として) で呼ばれる坂口安吾とか太宰治に比べると、私にとっては、名前はともかくその作品にはあまりなじみはないし、一般的にも、最近あまり読まれなくなっているのではないか。プログラム冊子に載っている、本公演の監修者である音楽評論家の長木誠司の文章によると、今回の題材探しにおいて、未だ誰もオペラ化したことのない作家が好ましいと思った由。また、せっかく日本で作るからには、ヨーロッパの文脈と異なる作家が好ましく、その点石川淳は「豊潤にして破綻のきわみ、高雅にして俗っぽい、密にして韜晦的、釈然としながらときにえらく飛躍する」そうだ。長木はその文学を、「得体が知れない」とすら表現する。
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もうひとり、演出家が重要だ。笈田ヨシ。実に現在 85歳という高齢だが、あのフランスの大演出家ピーター・ブルック (こちらはもうすぐ 94歳) の劇団で長く活躍してきた人。演劇に興味のない人でも、マーティン・スコセッシ監督の「沈黙 - サイレンス」での演技を見て知っている人も多いだろう。役者であるだけではなく、近年は演出家として活躍しているようである。小柄ながら凄まじい存在感を持つ人だ。
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面白いのは、日本における日本語オペラの上演で、歌手も皆日本人なら、指揮者も日本人、オケも東京のオケ (東京都交響楽団、通称「都響」)、演出も日本人であるのに、恐らくは演出家が選択したであろう美術、衣裳、照明は、すべて外国からの招聘だ。日本の舞台運営には、想像するに、様々なしがらみがありそうなものだが、このような思い切った外国人の選択は、作品の今後の国際的な評価のためには重要だと思う。

さて、西村朗については何を語ろうか。以前もどこかの記事で彼の名に触れたことがあると思うが、アジア的雰囲気を持つ作品 (巨大な管弦楽作品を含む) を数多く世に送り出していて、現代日本を代表する作曲家のひとりである。現在 65歳。大阪人らしく喋りも上手で、以前は NHK で「N 響アワー」の司会を務めていたこともあった。過去に室内オペラの作曲はしているが、このような大規模なオペラは初めてであるようで、「自分のこれまでの集大成にしたい」と語る。
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この作品は 2幕 (1幕は 5場、2幕は 7場) からなり、それぞれ 1時間内外の演奏時間である。今回は 25分の休憩が一度あったので、14時に開演、カーテンコール終了は 16時40分頃であったろうか。ただ内容が非常に濃いので、長く感じる。だがそれは退屈という意味ではなくて、性急過ぎない展開のストーリー性もあるので、多くの人々が楽しんで見ることができたであろう。但しこの「楽しんで」という表現には、若干の語弊があって、内容自体は決して明るく楽しいものではない。設定された時代は特定されていないが、平安時代であろうか、代々勅撰和歌集の選者となる家系に生まれた主人公、宗頼が、歌の道を捨てて弓矢を操るようになる。名門の家から来た嫁は素行に問題あり、そこに取り入る狡猾な部下などもいるが、宗頼は野で見つけた謎の女性に入れあげ、また、自らに弓矢を手ほどきした叔父を殺し、山の向こうの世界を目指す。そこで彼はひとりの男と出会い、その男と自分の共通点と相違点を認識し、最後に仏頭に矢を射るという冒瀆的な行為を行って、世界は破滅する。そんなストーリーなのだが、主人公宗頼が弓で人を殺めるたびに、その場に紫苑を植えて行くという点が、題名の由来である。なるほど、血の赤を中和する青であろうか。大野の言葉を借りると、「このオペラは、ある若者がなかなか見出せない自らの人生の意義を、いろいろな形で問い続ける旅の物語」である。

西村の音楽は概して観念的な要素は少なく、強い表現力を持ちながらも、耳には比較的入ってきやすいものとの印象があるが、今回の音楽も、まず冒頭の前奏曲の弦楽合奏が、大野の指揮する都響の音のクオリティも貢献して、すんなりと聴き手の耳に入ってくる。その後も、ドラマの内容に大きな曲折があるので、音楽の表情も千変万化であり、もちろん音同士が激しく錯綜する部分もあるが、オペラとして歌われることをきっちりと想定した音響 (妙な言い方だが、世の中には、どう聴いても歌われることを想定していないとしか思われない現代オペラもあるものだから。笑) が支配的であったと思う。全曲を通していくつかのライトモティーフ (示導動機) が使われているようだが、一度耳にしただけでは、なかなかそこまではフォローしにくいものの、音とドラマの連関は明らかであろう。また、上で触れた歌詞についてであるが、擬態語、擬声語や、適度に文語体を交えた方法が採られ、音楽がうまくそれを捉えている場面も多々あったと思う。但し、この作品では (日本のオペラでは珍しいという) 四重唱もあり、歌詞を耳で聴きとることはまず不可能だ。そのため、舞台両横に日本語字幕と、それから、これも素晴らしいと思ったのだが、英語字幕が出ていた。特筆すべきは、合唱団 (三澤洋史指導) がいくつもの場面で大きな役割を果たしており、これは練習も相当に大変であったろう。最初の場面は「婚礼の儀」で、そこでの盛り上がりがすごい。西村言うところの「ケチャ的な鋭い掛け声」もある。もちろんケチャとは、西村の創作活動に大きな影響を与えているであろうバリ島の踊りの中で、男たちが叫びながら踊る群舞のことである。歌手陣も相当に重労働で、ほぼ出ずっぱりの宗頼 (髙田智宏) はもちろん、コロラトゥーラを聴かせる千草 (白木あい)、出番は短いながらファルセットも出す平太 (大沼徹)、また、叔父である弓麻呂 (河野克典)、部下である藤内 (村上敏明)、いずれも渦巻く音響の中での感情表現と、動きの多い演技は立派であった。だがその中でも、妻うつろ姫を歌った清水華澄 (このブログでは既におなじみの歌手である) の、まさに体を張った歌唱は、一頭地抜きんでていたと言ってもよいのではないだろうか。

演出もまた隅々にまで神経の行き届いたもので、それでいて思わせぶりなところは皆無。舞台セットについての笈田自身の言葉によると、第 1幕は現実的で暴力的なので、血をイメージする赤。第 2幕は見えないものへのあこがれと探求でブルーとのこと。
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舞台奥の中央と左右には巨大な鏡があって、時折動いては客席自体を反射する。また、床に投影されるプロジェクトマッピングを正面の鏡が反射して、図や絵が出るところなども、なかなか効果的。加えて、何人かの黒子が時折舞台に登場しては、装置を動かしたり、また矢が飛んだように見せるための手助けをしたり。実に忙しい舞台だが、様々な動きが、うまく捌かれていた。もちろん、音楽をリードする大野の手腕あってこその、演出の冴えであったと思う。
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このように濃厚な物語と多弁な音楽は、初回公演において多くの聴衆に受け入れられたようだ。私も今思い出してみて、これはなかなかに面白い体験だったと思っている。だがその一方で、この時代になぜ石川淳、なぜ「紫苑物語」、という素朴な疑問には、未だ明確な答えを見出せずにいるのも事実。舞台芸術が、何も時代の持つリアルな問題を反映する必要があるわけではないが、例えば、妻うつろ姫の内面は一切描かれず、また卑劣な部下、藤内も今ひとつ悪者になっておらず (つまり、ヤーゴではないということ)、千草の存在感も、あまり大きくはない。その一方で、モブシーンはかなり長く執拗だし、性的なシーンやそこでの歌詞も、結構過激である。私としては、そのあたりの必然性には少しクエスチョンマークが残ったと正直に書いておこう。とはいえ、私の読んでいない石川淳の原作にある「得体の知れない」要素が関係しているかもしれないし、何より、大野と新国立劇場による日本人作曲家委嘱シリーズの第 1弾として、これはなかなかに充実の公演であった。これからまだ、2/20 (水)、23 (土)、24 (日) と 3公演があり、特に 20日と 23日には、終演後に西村と大野によるサイン会が予定されているので、行かれる方は楽しみにされてよいと思う。

# by yokohama7474 | 2019-02-17 23:01 | 音楽 (Live) | Comments(0)

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首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィが指揮する今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期公演のうち、これは 2つめのプログラム。このコンビの意欲的な取組は実に瞠目すべきものがあるが、今回のプログラムはロシア音楽である。
 ラフマニノフ : ピアノ協奏曲第 2番ハ短調作品18 (ピアノ : アレクサンダー・ガヴリリュク)
 プロコフィエフ : 交響曲第 6番変ホ短調作品111

いずれもロシアを代表する作曲家であるが、ラフマニノフの方は、作曲家の全創作の頂点をなすと言ってもよい若き日の名作。一方のプロコフィエフの方は、珍しい作品では決してないものの、それほど演奏されない円熟期の作品。その対照の妙も、いかにもプログラム巧者のパーヴォらしい。
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今回のラフマニノフのコンチェルトは当初、ジョージア出身の女流ピアニスト、今人気絶頂のカティア・ブニアティシヴィリが予定されていた。ところが 2月に入ってから発表されたことには、彼女は残念ながら健康上の理由で来日中止。急遽ピンチヒッターに立ったのは、1984年ウクライナ生まれのアレクサンダー・ガヴリリュクである。
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彼はいくつもの国際コンクールの優勝歴を誇るが、そのうちのひとつが 2000年の浜松国際コンクールである。以来頻繁に日本を訪れていて、N 響との共演は 2011年、2015年、2016年に続く 4回目である由。昨年 9月には、東京交響楽団をバックに、一晩でロシアの代表的なピアノ協奏曲を 3曲 (チャイコフスキー 1番、プロコフィエフ 3番と、今回も演奏するラフマニノフ 2番) を弾くという離れ業もやってのけている。ブニアティシヴィリの代役として不足はないだろう。そして今回のラフマニノフの演奏、ある意味では模範的とも言える演奏であったと思う。だが、ともすると感傷に流れがちなこの曲に、しっかりとした流れを与えることで、過度な感傷を避けることに成功していた。彼のピアノは決して粒立ちが絶妙という感じでもないように思うのだが、曲の個性を自らのものとしているゆえに、感傷に走る必要もないということだろうか。ヤルヴィと N 響の伴奏も、実に手慣れたものであり、安定感抜群であった。そしてガヴリリュクがアンコールとして弾いたのは、同じラフマニノフの有名な「ヴォカリーズ」であったが、会場の表記によるとこれはゾルターン・コチシュによる編曲。ここでもガヴリリュクは、淡々と美しいメロディを紡ぎ出して見事であった。ところでこのコチシュ、もともと「ハンガリー三羽烏」のひとりと呼ばれて、未だ 20代であった 1970年代から活躍した人。近年は指揮者としての活動も行っていたが、2016年に惜しくも 64歳の若さで亡くなった。今調べてみると、この自ら編曲した「ヴォカリーズ」を 1984年に録音している。ラフマニノフのピアノ協奏曲全集に付随するもののようで、今回の演奏会と同じ 2番のコンチェルトと組み合わせた盤もある。若いなぁ。
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そしてメインのプロコフィエフ 6番は、彼の代表作のひとつである第 5交響曲が第二次大戦末期に書かれたのに続き、終戦をまたぐ格好で、1945年から 1947年にかけて書かれている。3楽章からなる 40分ほどの曲であるが、曲の雰囲気は決して明るく楽しいものではなく (終楽章は駆け回る音楽なので、これを明るいと言ってもよいかもしれないが、決して一筋縄にはいかない)、前作 5番の人気には遥かに及ばない。私がこの曲を初めて耳にしたのは、1980年代だと思うが、エフゲニ・ムラヴィンスキーと当時のレニングラード・フィルによるライヴ演奏の FM 放送であった。当時は知らなかったのだが、実はムラヴィンスキーは、この曲の初演者なのである。ムラヴィンスキーと言えば、ショスタコーヴィチの交響曲の多くを初演したことで知られるが、プロコフィエフ作品を採り上げることは、決して多くなかったはずである。しかもバリバリの共産党員であった彼は、ショスタコーヴィチのシンフォニーにおいても、国の方針に鑑みて問題作とみなされそうなものはうまく避けていたように思われるのだが、このプロコフィエフ 6番はどうだろう。音響的には決して体制から支持されそうには思えない。実際、1948年の「ジダーノフ批判」で、この曲は形式主義的として非難されている。その批判はスターリン死後の 1958年に事実上撤回されたため、その後もムラヴィンスキーは折に触れこの曲を指揮した。だが、現在に至るもこの曲の演奏頻度はあまり高くないのが実情である。しかしながら、ここ東京では、先月もこの交響曲が、大野和士と東京都交響楽団によって演奏されている (残念ながら私は聴けなかったが)。例によって、そんなことは世界にもなかなかない、東京ならではの現象と言ってもよいだろう。これは 1940年、ということは未だ独ソ戦も始まっていない頃に撮られた写真で、左からプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、そしてハチャトゥリアン。
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今回のヤルヴィと N 響の演奏は、期待通り、非常に見通しのよい充実した演奏であったと思う。この曲には晦渋な要素がついて回り、第 1楽章では威圧的な雰囲気もある一方で、音楽は持続的な盛り上がりを見せることがない。第 2楽章で歌われるのは、歌劇「戦争と平和」の「ナターシャとアンドレイの愛の主題」に類似するテーマであるそうだが、例えば 5番の緩徐楽章のような緊張感に満ちた美しさはない。そして、スケルツォを欠いているこの交響曲、終楽章のはしゃぎぶりにスケルツォ的な要素を兼ねているのかもしれないが、ここでも音響の統一感はあまり感じられない。このような曲でありながら、しかしヤルヴィと N 響は、まるで手慣れた曲であるかのように楽々と先へと進んで行くのである。いつものことながら、ヤルヴィの指揮の美点は、楽員たちの力をうまく束ねて解き放つ点にある。およそ不得意というレパートリーのない彼のことだから、この曲でも大変に力感に満ちた指揮ぶりで、実に安心感を持って聴いていることができた。上質な音楽体験である。

ところでプロコフィエフという作曲家、有名な曲とそうでない曲がかなり極端に分かれているように思う。ロシア革命の際に国を出て、日本にも滞在したのは有名な話だが、1935年に祖国ソ連に還り、1953年の死 (奇しくもスターリンの死と同じ日!!) まで留まった。初期のアヴァンギャルドな作風 (極端な例はやはり「炎の天使」か) から、帰国後に書いた革命賛辞のカンタータ類、エイゼンシュテインの作品に作曲した映画音楽、絶対的な名作バレエ「ロメオとジュリエット」と、それに次ぐ「シンデレラ」、一連の先鋭的なピアノ曲に、各種協奏曲、室内楽曲、あの大小説を原作とする大作オペラ「戦争と平和」まで、実に様々だ。交響曲でも、若き日の人気作、第 1番「古典交響曲」のあと、名作 5番までは傑作とは評価されておらず、4番などは、改訂して別の作品番号を与えられたリしているし、最後の 7番でも、異なるエンディングの版があるなど、かなりとっつきにくさがあることは事実。なので、もう一度この 6番などをじっくり聴くことで、この作曲家のまだまだ未知な部分への足掛かりとなるような気がするのである。それから、これは全くの余談だが、彼の孫はガブリエル・プロコフィエフと言って、1975年ロンドン生まれの作曲家なのである。私は弦楽四重奏曲を聴いたことがあるが、ミニマル風の面白い曲である。例えばこの CD。これを聴いたからと言って、彼の偉大なる祖父の音楽の深淵への理解が深まるわけではないにせよ、何かそこに流れるものがあるのではないかと考えるのも、結構楽しいことである。
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# by yokohama7474 | 2019-02-17 00:49 | 音楽 (Live) | Comments(5)

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欧米の主要美術館には、それぞれに夥しい数の絵画が展示されているが、その中で、どの美術館に行っても出会う名前というものがある。別に統計を見たわけではないのだが、私の独断では、やはりピーテル・パウル・ルーベンス (1577 - 1640) こそが、まさにそのような画家の筆頭であろうと思う。しかも、驚くような規模の大作が多く、一体いかにしてこれだけの夥しい作品群を、これだけの水準を保ったまま世に出すことができたのか、不思議に思われる。それはもちろん、彼が工房を率いていたからだが、それにしても、ほかにここまでの数と質を達成した画家はいないわけだから、やはりこの画家ならではの要領というか、配下の画家たちをうまく使いこなす独自の才能があったのであろう。私の場合はどちらかというと、一点一点に心血を注ぐタイプの画家、あるいはどこかに暗い影の差すタイプの画家の方が好きなので、ルーベンスより一世代下のレンブラント・ファン・レイン (1606 - 1669) の方が、好みである。いやもちろん、レンブラントとても工房を率いていたし、アムステルダムに残る彼のアトリエでは、絵画販売をビジネスとしてうまく取り仕切っていた様子を伺うことができる。一方のルーベンスの場合は、ゆかりの地であるアントウェルペンを私が訪れたときには、たまたま祝日であったためにその旧居や墓所の見学ができなかった (以前のこのブログでの旅行記ご参照) こともあって、その活動の実態についてのイメージが不足していることは否めない。だがやはり、レンブラントとルーベンスを比較してみると、ふくよかでドラマティックなルーベンスよりも、陰影の濃いレンブラントの方が、依然として私の好みである。ただ改めてこの 2人の生没年を見ていると、生年は 29年異なり、没年もまた 29年差、ということは、ほぼ同じ長さの人生を生きたことになる (ルーベンスは満 62歳で、レンブラントは満 63歳で死去)。それからもうひとつの顕著な違いは、ルーベンスがスペイン・ハプスブルク家から外交官の役目を負わされて、英国にも赴いているのに対し、レンブラントの場合は、王室との関係はあまりなかったように思われることだ。このルーベンス展のコピーのひとつに、「王の画家で、画家の王」というものがあったが、ルーベンスには王室のために働いた期間があったということ、改めて理解することとなった。そしてまたそこに、現在のベルギー (当時は独立前) で活躍したルーベンスと、プロテスタントの独立国であったオランダの画家レンブラントとの違いを見ることも可能であろう。

さてこの展覧会は、そんなルーベンスの画業に関するものであり、昨年 10月16日から今年の 1月20日まで、上野の国立近代美術館で開かれていたもの。折しも越年の時期の上野では、ほかにもフェルメール展やムンク展という大人気の展覧会が開かれていて、それらの記事も追々アップ予定ではあるが、このルーベンス展、もしかすると若干その 2つの展覧会の影に隠れてしまったかもしれない。私が訪れたときにはほとんど混雑していなかった。上記の通り、私は特にルーベンスに入れあげているというほどでもない人間ではあるものの、それでもこの展覧会を大変に楽しんだし、新たな発見が多々あったので、もし集客がもうひとつであったのなら、もったいないことだ。既に終了した展覧会ではあるものの、この画家についての理解を再度深めるためにも、簡単にその印象を綴ってみたい。

まず主催者のコメントが面白い。そうそう、展覧会に行くと必ず最初に主催者や、場合によっては出展者からのコメントが掲載されているが、私は必ずそれを読むようにしている。そこには展覧会の趣旨や背景が記されていることが多いからだ。今回の場合は、「本展は、ルーベンスをいわばイタリアの画家として紹介する試みです」とある。つまり、若い頃 (1600年から 8年間) この画家はイタリアに暮らしていて、ヴェネツィア、マントヴァ、ローマ等で画家修業を積んだことが、ルーベンスの表現方法の確立に大きな影響を与えているのである。私もあまりそのあたりの知識がなかったが、実はこの 17世紀初頭、ローマで活躍した天才画家がいる。その名はカラヴァッジョ (1571 - 1610)。こちらは私が深く愛好する画家であるが、なるほど、ルーベンスより 7つ年上、当時 30代前半であった彼が衝撃的な作品の数々を制作したのは、1600年から 1606年の間、ローマにおいてであった。そして彼は 1606年に殺人を犯してしまい、ローマを逃げ出したのであるが、ルーベンスはまさに、カラヴァッジョが活躍した時代のローマにいたことになる。実際、マントヴァ公の指示でカラヴァッジョの「聖母の死」(現在ルーヴル美術館所蔵) を買い付けていたり、後年になって「キリストの埋葬」(現在ヴァチカン美術館所蔵) の模写も手掛けている。

さてそんなルーベンス、ある偉大なる古代彫刻を素描に描いている。「『ラオコーン群像』の模写素描」(1601 - 02年作)。ミケランジェロも発掘に立ち会って衝撃を受けたというこの古代ギリシャ彫刻「ラオコーン群像」が発掘されたのは 1506年。それから 100年近く経って、ルーベンスも恐らくは食い入るように眺めて、この超絶的作品を模写したものであろう。
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これは「アグリッピナとゲルマニクス」(1614年頃作)。既にイタリアから引き上げたあとの時期の作品だが、このように真横からの肖像を重ねて描く手法は、古代のコインなどによく見られる。擬古典的な構図でありながら、その肌の色合いや金髪の様子は、これはバロックの感覚である。
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これは「毛皮を着た若い女性像」(1629 - 30年頃作)。現在ウィーン美術史美術館に所蔵されるティツィアーノの作品の、忠実な模写である。ヴェネツィアの娼婦を描いている。ティツィアーノはルーベンスが生涯で最も影響を受けた画家であったらしいが、だがやはりこの作品、構図はともかくその肌の色合いは、ティツィアーノのくすんだものではなく、ルーベンスの明るさを持っていると思う。
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これは「キリスト哀悼」(1601 - 02年作)。年代が示す通り、イタリア滞在時の作品で、来歴は不明であるが、ルーベンスがイタリアで 3番目に制作した公的作品の可能性があるらしい。ここには未だ後年のダイナミックな工房作ほどの様式化はなく、真摯にイタリア美術を習って感動的な宗教画を描こうという若い画家の熱意が見て取れる。逆に言うと、このような孤独な鍛錬を若い頃に重ねたからこそ、後年のダイナミックな作品群が可能になったということだろうか。
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これも同じく「キリスト哀悼」(1612年頃作)。上の作品から 10年の間に、表現がいかに劇的となったかが分かろうというものだ。キリストの右足は正面から描かれていて、遠近法が大きな効果を上げている。
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次は「天使に治療される聖セバスティアヌス」(1601- 1603年頃作)。聖セバスティアヌスを描いた作品は数多いが、このように大小の天使が矢による傷を癒している構図は、あまり見たことがない。それにしても、素晴らしい人体表現ではないか。
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そして、これぞルーベンスの工房による大作と呼びたい、「聖アンデレの殉教」(1638 - 1639年作)。師であるオットー・ファン・フェーンの同主題の作品を下敷きにしているらしいが、こんなに劇的な情景を作り出すのはルーベンス独自の才能であろう。上空には稲光と天使たち、磔刑台の下には心配そうに見守る人々。そしてその間では、様々な人物の手の表情が、右から左から交錯する。
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さてこれは可愛らしい。「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」(1615 - 16年頃作)。以前、リヒテンシュタイン侯爵家のコレクションの展覧会が日本で開かれたとき、この絵がポスターにあしらわれていた。自身の長女を描いているが、当時 5歳。だがこのクララ・セレーナちゃんは、12歳でこの世を去ったという。ここには、チコちゃんではないが (笑)、「永遠の 5歳」がカンヴァスに刻み付けられているのである。
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これは「聖ウルスラの殉教」(1605年頃作)。これもドラマティックな作品だが、群像の一部は、完全には描かれていない。実はこの作品、マントヴァの聖ウルスラ修道院から依頼された作品の下絵であるらしいが、実際にはその作品は実現に至らなかったと考えられている。だがそれにしてもこの作品、ヴェネツィアのティントレットのドラマティックな構図 (サン・ロッコ同信会館を訪れたときの感動!!) を思い出させるものだ。やはりルーベンスのイタリアでの修業時代ならではの作品と言えるだろう。
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これは展覧会のポスターにも使われている「パエトンの墜落」(1604 - 05年頃作、おそらく 1606 - 08年頃に再制作)。写真で見ると大作であるかのように思われるが、実際には、98cm × 131cm の小さな作品。うーん、これもまたティントレットを思わせる劇的な構図だが、構図研究用の習作であったとも考えられているという。このような鍛錬があったからこそ、後年の工房による劇的な大作の数々が可能になったことが分かるのである。
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そして女性ヌードを描いた作品から、「バラの棘に傷つくヴィーナス」(1608 - 10年作)。この主題は決して珍しいものではないが、立ったヴィーナスがこんなに体をひねったポーズを取っているのは珍しいのではないか。そしてこの肉付きのよさは、後年のルーベンスにもよく見かけるものである。
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最後にご紹介するのは、「マルスとレア・シルウィア」(1616 - 17年作)。ウェスタ神殿の火を守る巫女レア・シルウィアに迫る軍神マルス。色彩も鮮やかで、ルーベンスらしいドラマティックな作品。ただ、全体的に少しひしゃげて見えるのは、もしかすると、高いところに架かったものを下から見上げるようになっているのかもしれない。
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今改めて本展の図録を見返すと、これだけ多くのルーベンス作品と、その周辺の作品や、彼に霊感を与えた古代の彫像などを取り揃えた展覧会は、ちょっとないのではないかと思われる。これを見て、冒頭に書いたような私のルーベンスへの偏見は、かなり是正された。工房制作を可能にした細部のある種の定型化は、若き日に独りで修業したイタリア時代が基礎としてあったということだろう。今後のルーベンス作品の鑑賞のために、実に貴重な機会となる展覧会であった。

# by yokohama7474 | 2019-02-16 22:36 | 美術・旅行 | Comments(0)

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クルレンツィス・ショック未だ覚めやらぬ東京であるが、彼らが去ったあとも東京では、容赦なく音楽イヴェントが続くのである。外来に負けじと、東京の各オケの活動が相変わらず活発で、この演奏会などは、この街の音楽界の水準を示す恰好のものであったと思う。名指揮者チョン・ミョンフンと、彼が名誉音楽監督を務める東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) の演奏会で、曲目はただ 1曲。
 マーラー : 交響曲第 9番ニ長調

マーラーが最後に完成したこの 80分の大作は、多大なるエネルギーと Emotion を必要とする曲であるので、演奏する方にも相当な覚悟が必要な曲であろう。今回、チョンと東フィルはこの大曲を 3つの会場で演奏するが、私が聴いたのはその初回。エネルギッシュで Emotional な音楽は、この人の最も得意とするところ。2006年にも東フィルで、このマーラー 9番を採り上げているようだ。
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さて今回の演奏、ちょっと風変わりな表現を使ってみると、東京におけるマーラー演奏は既に特別なものではなく、ロマン派の最後のあだ花であるこの 9番ですらも、生きるか死ぬかの覚悟で聴かずとも、音楽の本質をしっかりと受け止めることができる、という印象を受けた。これはチョンと東フィルの演奏に不満があったということでは決してなく、素晴らしい演奏であったと思うのだが、それは何か特別なものというよりも、東京を代表するコンビのひとつである彼らなら、当然達成できるだろうというレヴェルであり、聴衆は涙せずとも、冷静にその音のドラマを楽しむことができたように思う。私はいつものように弦楽器の数など数えていて、あれっ、また変わった編成になっているな、と思ったのであるが、次の瞬間には、そんなことがどうでもよくなってしまった。今ここで鳴っている音にこそ耳を傾けたい。そう思ったのである。

この曲は全 4楽章でできていて、最初の第 1楽章と、最後の第 4楽章に究極のドラマ性があって感動的である一方、中間の第 2楽章と第 3楽章は、それぞれ皮肉なユーモアを含んだ、速めのテンポが主体をなす音楽。いわばサンドウィッチ構造だが、今回のチョンの解釈を私なりに整理してみると、第 1楽章では過度に感情的になり過ぎずにしっかりと音の流れを作っておいて、中間 2楽章では通常よりも速めに走り抜き、そのゴールである第 3楽章の最後で、くさびをガァーンと打ち込む。そして終楽章に入って、すべての感情を解き放つ。そんな音響設計に聴こえた。演奏者たちは真摯にこの曲に取り組んでいるので、全体を通して恣意性を感じさせることはほとんどないのに、第 3楽章の最後においてだけ、まるで世界の終わりのようにテンポが崩れて、絶望的な叫びが響いたのだ。つまりは、その先に来る終楽章においては、既に世界は終わっていて、オケが絞り出す纏綿たる哀しみの波の間から、そこには諦めが徐々に満ちてくる。世界が終わっていても独り歌い続けるマーラーは、彼がこよなく愛するこの世界から、既にあちらの世界に旅立ってしまっているようである。だが、我々はそのようなドラマの成り行きは既に知っている。だから、泣くぞと思ってハンカチを携えてこの曲を聴いて、オヨヨと涙するのではなく、オケの上出来な部分と課題の残った部分を冷静に聴き取りながら、音楽そのものに感動することができるのである。今回の演奏はどうやらライヴ収録していたようだから、いずれメディアで聴くことができるかもしれない。なお、チョンは既に、かつての手兵ソウル・フィルと 2015年にこの曲を録音している。
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このマーラー 9番、来月にはまた全く異なる来日組の指揮者とオケのコンビで、演奏されることになる (詳細は、そのコンサートの記事を書ければそのときに)。これもまた、演奏家の対比としてはかなり極端であるが、様々な演奏を通じて、私たち東京の聴衆の経験値は、さらに上がっていくのである。そしてチョンが次に東フィルの指揮台に還ってくるのは次のシーズンで、今年 7月。実はこのオーケストラは、2020年から、シーズンを 1月から 12月に変更するらしく、次のシーズンの定期公演は 4月に始まり、各シリーズとも 5公演しかないという、つなぎ期間になる。欧米の場合は通常 9月から、そして日本は、多くのオケが 4月から、一部は欧米と同じ 9月からというシーズン設定になっているが、1月からというのはかなり珍しいのではないか。その意図は奈辺にありや、ちょっと分かりかねるので、楽団にはいずれかの時点で理由を発表して欲しいものだと思う。だが、それもオケの個性であれば、ほかと異なることは大いに結構だ。例えばコンサート会場の入り口で今後の演奏会の膨大なチラシを配るといった習慣にも、このオケは距離を置いている。そのこと自体が直接に音楽に影響することは、実際にはないかもしれないが、それぞれのオケがユニークな方向性を持って活動してくれることを、東京のファンは歓迎するものと思うのである。

# by yokohama7474 | 2019-02-16 02:02 | 音楽 (Live) | Comments(0)