川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
by Crop Stock
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
> カギコメさん 合唱..
by yokohama7474 at 23:14
> エマスケさん おっ..
by yokohama7474 at 23:11
こんにちは。 またお邪..
by エマスケ at 14:33
> どれみどりさん 朝..
by yokohama7474 at 23:30
またまた、おじゃまします..
by どれみどり at 17:04
> カギコメさん 海外..
by yokohama7474 at 20:53
> 吉村さん そうでし..
by yokohama7474 at 23:51
キーシンですが、2列目で..
by 吉村 at 22:08
> どれみどりさん 先..
by yokohama7474 at 21:40
> エマスケさん コメ..
by yokohama7474 at 21:33
メモ帳

ウラディーミル・フェドセーエフ指揮 NHK 交響楽団 2018年12月13日 サントリーホール

e0345320_00002819.jpg
今月の NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の定期演奏会の 3つのプログラムが、3人別々の指揮者によって開かれることは、以前、ヘンゲルブロック指揮の演奏会の記事で述べた。今回のプログラムは、そのヘンゲルブロック指揮の定期同様、クリスマスに因むもの。というのも、曲目は以下の 1曲だけだからだ。
 チャイコフスキー : バレエ音楽「くるみ割り人形」作品 71

いうまでもなくこのバレエは、クリスマスをその舞台としていることから、特に欧米ではクリスマスのバレエ上演の定番になっている (私もロンドンで、吉田都出演のバレエ公演を見たことがある)。日本でもこの時期にはそれなりに上演はあると認識するが、日本中の誰もが、口を開くと「やっぱりクリスマスは『くるみ割り人形』だなぁ」と呟くようなことにはなっていないだろう。それから、バレエ上演はあっても、オーケストラによる演奏会で全曲が演奏されることは、あまりないと思う。今年はたまたま真夏に、マルク・ミンコフスキ指揮の東京交響楽団が「ほぼ」全曲を演奏したという珍しい例もあったが、やはりクリスマスに「くるみ割り人形」となると、ワクワクして来るのを禁じ得ない。これはそのような雰囲気の例として挙げたい、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮によるこの曲の CD のジャケットである。
e0345320_00151624.jpg
今回の目玉はなんといっても、指揮者がウラディーミル・フェドセーエフであることだ。このブログでも過去何度か彼の演奏を採り上げているが、驚くなかれ、1932年生まれ、今年 86歳になるロシアの巨匠である。
e0345320_00172306.jpg
86歳の指揮者というと、我々の年代では、1980年にカール・ベームが最後の来日をしたときがちょうどその年齢であったことを思い出す。ヨボヨボで、歩くのはおろか、立つことすらおぼつかない老人が、一旦指揮台のストゥールに腰かけるや、眼光鋭く、動かないからだを精一杯使って指揮をする。その姿には音楽への飽くなき執念が感じられたものだ。その点このフェドセーエフの場合は、普通に歩いて袖からステージに出て来るし、全曲立ったままで指揮をするので、実に驚異的に若いと思うのである。この N 響には頻繁に来演していて、今年の夏には、東京での公演はなかったのに、九州・沖縄を N 響とツアーしたのである。そしてまた今回、この大曲を指揮するために来日してくれたとは、なんと有難いことか。もっとも、N 響の指揮者陣には 91歳のヘルベルト・ブロムシュテットがいるので、上には上があるとも言えようが、ともあれ、人生 100歳時代。長生きするなら元気でないといけない。このフェドセーエフから、人間の生き方を学びたいと思う。

この「くるみ割り人形」は、8月のミンコフスキ指揮の演奏会の記事にも書いたが、チャイコフスキーの最高傑作のひとつであり、バレエ音楽の最高傑作のひとつでもあると私は常々思っている。有名な組曲は名曲揃いで本当に楽しいが、組曲に入っていない曲にも、多彩な持ち味の名曲が多数ある。クリスマスのイメージから、ただ子供が喜ぶようなファンタジーかと思いきや、このバレエの原作は、あのドイツ・ロマン派の作家 E・T・A (イー・ティー・エーではなく、エー・テー・アー) ホフマンによるもの。なかなか一筋縄ではいかないところもあるのだ。ホフマンはこんな人。うわー、癖強そう (笑)。
e0345320_00293971.jpg
私はフェドセーエフの音楽を長年聴き続けてきていて、その指揮ぶりには一定のイメージがある。言葉にするのは難しいが、ちょっとトライしてみると、まず、ロシア的な雰囲気はもちろんあって、必要とあらば分厚い音でオケを鳴らし、金管がギラギラと咆哮する。だがそれは、例えばエフゲニ・スヴェトラーノフのような、爆裂的な重戦車型ロシア風というものとは少し違っていて、あえて言えばもう少し地味な響き。あるいは、立体的ではなく平面的と言ってもよいかもしれない。粘りがあるわけでは決してなく、むしろ淡々としたところもある。だがそのテンポは、曲によって遅かったり速かったりで、意外性もある。ロシア音楽のみならずドイツ系音楽でも懐深い響きを聴かせる人である。と書いてみると、今回の「くるみ割り人形」は、まさにフェドセーエフらしい演奏だったように思われてくる。全体を通してテンポは遅めで、決してオケを煽ることはないが、一方で決して感傷的でもない。そのバランスが面白いのである。ただ、冒頭の可愛らしい序曲は、正直あまり可愛らしいとは思われず、N 響の響き自体が少し真面目すぎるような気もした。なので最初の方は、私はあまり演奏に乗れずにいたのである。だが、1幕の後半、児童合唱の入る前の「情景 冬の松林」で音楽は濃厚に盛り上がり、聴いていて俄然面白くなった。NHK 東京児童合唱団は暗譜での歌唱で、これは雰囲気満点といったところ。そして後半の第 2幕。組曲にも採用されている数々の名曲に加え、大クライマックスを築く「パ・ド・ドゥ」の最初の「アダージョ」の出来が圧倒的。それぞれの曲はかなり丁寧に指揮され、N 響の高い技量が指揮者の要請によく応えていたと思う。N 響の弦は終始底光りするような光沢があって、素晴らしかった。なんという名曲。そう思わせる演奏は、本物の名演奏なのである。

終演後、合唱指揮者を紹介するときにフェドセーエフは少しバランスを崩し、女性ヴァイオリン奏者によりかかってしまったが、すぐに体勢を立て直して事なきを得た。さすがに年齢が年齢だし、正味 2時間近く立って指揮すると、それはからだへの負担は大変なものだろう。調べてみると、今回とその前日、サントリーホールで定期公演を行ったあと、12/16 (日) には福岡 (また九州だ!!) で、同じ「くるみ割り人形」全曲を演奏する。そこでの児童合唱は、今回の東京での演奏とは異なり、地元の少年少女合唱団であるようなので、彼ら彼女らにとって、きっと忘れならない経験になるだろう。それにしても、このマエストロのスタミナには本当に舌を巻く。因みにこれは、1981年当時のフェドセーエフの写真。若手のようにすら見えるが、既に 39歳。改めて驚くのは、彼はこの 7年前からモスクワ放送響 (現・チャイコフスキー交響楽団) の首席指揮者を務めていて、今日でも未だにそうなのである!! まさに現代のレジェンド。まだまだ活躍は続きそうである。
e0345320_00552399.jpg

# by yokohama7474 | 2018-12-14 01:02 | 音楽 (Live) | Comments(0)

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 ドイツ・カンマーフィル (ヴァイオリン : ヒラリー・ハーン) 2018年12月12日 東京オペラシティコンサートホール

e0345320_23311405.jpg
まさに八面六臂の活躍を見せるエストニア出身の名指揮者、パーヴォ・ヤルヴィが、2004年以来芸術監督を務めるドイツ・カンマーフィルと来日公演中である。この室内オケは、ドイツのブレーメンに本拠地を置いており、もともとはフランクフルトで、ユンゲ・ドイチェ・フィルの出身者が設立したもので、1992年にブレーメンに移転している。その後、先日 N 響を指揮したトーマス・ヘンゲルブロックやダニエル・ハーディングをシェフに頂き、過去 14年間はヤルヴィのもとで大変積極的な活動を展開している。ヤルヴィとは、なんと言ってもこのコンビの名前を一躍高めたベートーヴェンや、シューマン、ブラームスに続き、現在はシューベルトに集中的に取り組んでいるという。前回の来日公演の様子は、2016年12月 6日付の記事で採り上げたが、その際のソリストは樫本大進であった。今回は、これも現代最高のヴァイオリニストのひとり、ヒラリー・ハーンがソロを務めている。今回、早々にチケットが完売となったこの日のコンサートの曲目は、以下の通り。
 モーツァルト : 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527序曲
 バッハ : ヴァイオリン協奏曲第 1番イ短調BWV.1041、第 2番ホ長調BWV.1042 (ヴァイオリン : ヒラリー・ハーン)
 シューベルト : 交響曲第 8番ハ長調D.944「ザ・グレイト」

うーん、これは演奏時間の長いプログラムである。チケット完売は、そのお得感によるものか (笑)。バッハのコンチェルトは、確かに 1曲だけだと短すぎるし、2曲続けることで短調と長調の両方を聴くことができるので、その対照の妙もある。だがそれにしても、メインが 1時間程度を要するシューベルトの「ザ・グレイト」とは。これは長いが、同時に期待も募ろうというもの。以下は今年の 4月10日、彼らの本拠地ブレーメンで行われたブラームスの「ドイツ・レクイエム」の演奏会の写真。実はこの曲は作曲者自身によってブレーメンで初演されており、この日は初演からちょうど 150年の記念日であった由。
e0345320_23563958.jpg
このオケの特色は、ステージ上でチューニングをしないこと。これは舞台裏で既に済ましてきているということなのだろうか。奏者たちがステージに揃って間もなく指揮者が登場して、すぐに演奏が始まるので、スピーディでよいとも言えるが、正直、チューニングの時間くらい聴衆も我慢できるし、私などは、「これからコンサートが始まるんだな」というワクワク感も感じるので、この点は少し違和感がある (但し今回は、バッハの 1曲目でチューニングが少しだけあったのだが、これはもしかして日本人のチェンバロ奏者が、ついラの音を叩いてしまったからか??? 笑)。ともあれ、いつものように勢いよく始まった「ドン・ジョヴァンニ」序曲は、各パートが透けて見えるような鮮烈な音。うるおいよりも推進力が優るこの演奏は、デモーニッシュな要素を持つこの曲にふさわしい。

そしてヒラリー・ハーンである。米国のヴァイオリニストで、今年 39歳になった。
e0345320_00090019.jpg
この人の経歴でユニークなのは、なんとかコンクール優勝という記載がないこと。これは稀有なようでいて、考えてみれば、同じ女流ヴィオリニストでも、先週やはりバッハの 2番のコンチェルトを東京で披露したアンネ=ゾフィー・ムターや、あるいは五嶋みどりなどもそうである。音楽家が世に出て世界的活躍をすることがいかに困難なことであるかを思うと、才能と努力と、様々な巡り合わせによってここまで登りつめる人たちには、心から敬意を払いたいと思うのだが、ともあれそのような演奏家が生のステージに立って演奏してくれるのであるから、余計なことを考えずに耳を傾けよう。バッハの 2曲のコンチェルトは、弦楽合奏をバックに演奏されるが (ヤルヴィは指揮棒を持たない素手での指揮)、曲想は多彩で、バロック的な典雅さが満ちている一方で、劇的な部分もあればリズミカルな部分もあり、また流れるような歌もある。だがここで演奏家の個性を強調し過ぎると、きっとバランスが崩れてしまうのではないか (実際、過去にそのような演奏に出会ったこともある)。だからきっと、腕に自慢の名手であれば、ちょっと物足りないのではないかとも思われるのだが、その点ハーンのヴァイオリンには自然な呼吸があって、現代的な感性も感じられ、聴いていて大変な安心感がある。上記の通り、ちょうど先週聴いたばかりのムターの第 2番との比較が楽しみであったが、ハーンの方がムターよりも線は細いかもしれないが、それは音が弱いことを意味せず、一貫して流れる歌があったと思う。ただ、その 2番の第 1楽章の開始間もない部分で、ごくわずか歌い回しが珍しく「噛んだ」と聴こえたように思ったのは、気のせいだったろうか。ともあれ、全体的な仕上がりはスタイリッシュで素晴らしいバッハであった。アンコールを本人が聴衆に告げたのだが、「バッハノ、ブーレ、デス」というものだった。バッハ (Bach) は英語の発音では「バック」になるはずだから、日本語の「バッハ」という発音を誰かから教わったのだろうか (笑)。実は彼女はもう 1曲アンコールを弾いたのだが、そちらでは曲目は口にしなかったが、もちろんバッハである。帰宅して再確認すると、バッハの無伴奏パルティータ 3番の中の、最初がルール、次がブーレであった。では、私が「ブーレ」と思ったのは聞き間違いだったのかもしれない。それは余談であるが、このアンコールはいずれも自然でいて背筋の伸びるような素晴らしい演奏で、むしろコンチェルトよりもよかったかもしれない。2年前の記事にも書いている通り、彼女のバッハの無伴奏は、そのテンポ感が実に安定していて、素晴らしい。今回もそれを聴くことができて、大変感動したものである。

さて、メインのシューベルト「ザ・グレイト」であるが、これはヤルヴィが昨年 N 響でも指揮している曲。その際には通常編成、つまりコントラバス 8本であったが、今回は室内オケということで、コントラバス 3本。因みにチェロとヴィオラは各 5本、第 2ヴァイオリン 7本。第 1ヴァイオリン 8本。ステージを見ていると、弦楽器と管楽器の人数比が 1 : 1.5といった割合だったように思う。演奏スタイルは、記憶に残っている N 響との演奏と共通するもの。つまりは速めのテンポであえてタメを作らず、彼らしく随所に目配りの効いた流れのよい演奏だ。第 1楽章の反復は行い、第 4楽章では行わないのも同じ。だが、やはり耳に届く音響は、N 響のときとは随分と異なる。つまり、管楽器の細かいニュアンスがよく聴こえて新鮮だし、弦楽器も各パートの渾身の演奏により、迫力ある響きになっていた。もし少し残念な点があるとすると、弦楽器には、揺蕩うような巨大な流れというよりは、ちょっとギスギスしてさえいる鋭さが目立っていたことだろうか。だがそれは、この編成で演奏するなら当然のことであり、またこのオケの持ち味であると言ってよいと思う。実は、私のそのような印象は、帰宅してから発見したヤルヴィ自身のインタビューによって裏打ちされた。それは横浜みなとみらいホール (12/8 (土) にこの曲が演奏された) のウェブサイトで、ここには、自分にとってはシューベルトは歌の作曲家というだけでなく偉大なる交響曲作曲家であるということ、その演奏にはロマン派的なアプローチではなくベートーヴェン側からのアプローチを取りたいこと。そして、一般的なシューベルトの演奏スタイルである「ウィーン風」からあえて離れようとしていること、等々が語られている。なるほどこれは大変興味深いので、勝手ながらリンクを貼らせて頂こう。
ここまでで充分長いコンサートだったが、アンコールが演奏された。ヤルヴィが譜面台に置いてあった楽譜を裏返して、つまり珍しく暗譜で指揮したのは、なんとシベリウスの「悲しきワルツ」である。これはまた一転して、強弱の差を極端につけ、タメを作りまくった演奏。さすがにうまく呼吸があっているので、このコンビならこのような古典とは異なるスタイルでも、自在に演奏できるということであろう。おっとこれは、ベルギー象徴派のジャン・デルヴィル風か? (笑)
e0345320_00564787.jpg
演奏終了後には指揮者とソリストのサイン会があったが、終演が遅かったので今回はパス。そして帰宅した私は、ちょっと面白いニュースを知ることになった。それは音楽事務所 KAJIMOTO からの DM で、来年の World Orchestra Series の紹介。ここには、スイス・ロマンド管 (ジョナサン・ノット指揮)、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管 (アンドリス・ネルソンス指揮)、フィラデルフィア管 (ヤニック・ネゼ=セガン指揮) と並んで、以前からロイヤル・コンセルトヘボウ管の名前が入っていたのだが、コンセルトヘボウは当然首席指揮者のダニエレ・ガッティかと思いきや、「指揮者未定」となっていた。それがなんと、今回の DM では、パーヴォ・ヤルヴィの名前が入っているのである!! 2019年 11月、ソリストにラン・ランとリサ・バティアシュヴィリを迎え、ブラームス 4番やショスタコーヴィチ 10番を振るようだ。これはまた楽しみである。・・・と書いてからまたまた知った衝撃情報。ガッティは今年 8月、女性楽団員へのセクハラによって、首席指揮者を解任されていた!! 彼のセクハラ疑惑はもともとワシントン・ポストが報道したものであるようだ。コンセルトヘボウのサイトでの発表によると、ワシントン・ポストの報道のあと、被害者たちからの楽団あて報告も相次いだにも関わらず、それに対するガッティの反応に問題があったということで、8月 2日付で即日解任、ガッティとのすべてのコンサートはキャンセルされたとのこと。正直なところ私はこのガッティという指揮者には少し複雑な思いもあって、この報道を聞くことで、少し想像できる部分もあるのだが、それにしても、なんという愚かなことをしてしまったのか。不愉快であり、また残念である。だが、東京でコンセルトヘボウの再来日を待つ身としては、その失望をヤルヴィの指揮への期待感に替えたいと思うのである。

# by yokohama7474 | 2018-12-13 01:25 | 音楽 (Live) | Comments(0)

アラン・ギルバート指揮 東京都交響楽団 2018年12月10日 サントリーホール

e0345320_01283890.jpg
つい先頃、11月初旬にドイツ・ハンブルクの NDR エルプフィルを指揮して素晴らしい演奏を聴かせてくれたばかりのアラン・ギルバートが、早くも東京のステージに再登場だ。首席客演指揮者を務める東京都交響楽団 (通称「都響」) とのコンビで、今週・来週 2回ずつのコンサートを開く。音楽過密都市東京では、年末の第九一色の時期のぎりぎり手前まで、各オケがしのぎを削っているから侮れない。このコンビの演奏会、通常ならば 2プログラムとも行くのであるが、来週は残念なことに、私はこの時期特有の社交イヴェント、まぁ平たく言えば忘年会 (笑) があるので、今回の演奏会 1回だけしか体験できない。だがこれは是非とも聴きたい好プログラムである。
 メンデルスゾーン : 序曲「フィンガルの洞窟」作品26
 シューマン : 交響曲第 1番変ロ長調作品38「春」
 ストラヴィンスキー : バレエ音楽「春の祭典」

うーん。1曲目と 2曲目は、ドイツ初期ロマン派つながり。2曲目と 3曲目は、春つながり。だが、前半 2曲と後半の曲の差は、それはもう限りなく大きい。もちろん季節は今、冬が本格化するところで、春には未だ遠いのであるが、先頃音楽監督大野和士との契約を 3年延ばして 2023年までとしたこのオケとして、これから我が世の春を味わおうという意思表示だろうか。いやいやそんなわけはない。今回のプログラム冊子に掲載されたインタビューで、今後都響とどんな活動をしたいかという質問に対するギルバートの答えは以下の通りだ。

QUOTE
東京は世界の大都市。プロ・オーケストラが 10団体ほどあり、世界中のオーケストラが来日する大音楽都市です。とても競争が激しい。ですから単に新作や日本の作曲家を取り上げるという次元にとどまらない、そのような環境の中で活動することの意味を考えたい。ニューヨークでも同じでした。答えは一つではないでしょう。良い挑戦になると思います。
UNQUOTE

さすが、東京という街の状況や自らの置かれた環境をよく把握した上で、都響との活動に取り組んでいるわけである。我々東京の聴衆は、彼のこの言葉をよく咀嚼したい。今回も客席には空席が目立ち、いかに忘年会シーズンと言えども、これはいかにももったいないことではないか。この写真は、彼がニューヨーク・フィルの音楽監督時代、2009年の、多分演奏後に撮られたであろう、ギルバート・ファミリーの肖像。
e0345320_23355686.png
私はこれまでこのブログで何度もアラン・ギルバートの指揮を採り上げて来ているが、そのすべてを手放しで大絶賛しているわけでは決してない。だが、音楽ファンというものは、ある演奏家との出会いがあり、その後彼または彼女との演奏に何度か接するうちに、自分なりの評価が決まってくるもの。時には最初の期待が失望に変わることもあるだろうし、あまり興味を持てなかった演奏家に、あるとき突然心を動かされることもあるだろう。そして私にとってアラン・ギルバートは、最初の出会いで圧倒的な感銘を受け、その後機会あるごとに彼を聴き続けることで、自分の最初の感覚を追認することになって来ている、大変に信用に値する指揮者なのである。先の NDR エルプフィルとの演奏のクオリティは先に書いた通りだが、この都響とも、共演を重ねるごとにその距離を縮めてきているように思われてならない。例えば今回の前半の 2曲、初期ロマン派の作品は、豪快に鳴らす必要はなく、だがただ繊細に演奏すればよいというものでもない。そこには、純然たる音のドラマと、ロマン主義特有の夢幻性が必要であり、意外と演奏効果が上がらないこともある。特にシューマンのシンフォニーは、今年来日したティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンという最高のコンビですら、誰もが絶賛する内容にはなっていなかったと私は思う。また私は以前ニューヨーク・フィルで、このアラン・ギルバートによるシューマン 3番「ライン」を聴いたことがあるが、それほど感動しなかった。だが今回のメンデルスゾーンとシューマンは、都響の重量感のある弦と、軽やかな木管、中庸さを持つ金管の組み合わせによって、大変説得力があり、また楽しい (これが大事である!!) 演奏になっていたと思う。この 2曲は暗譜による指揮で、ギルバートは大きな体を駆使して多彩な指示をオケに繰り出していたが、その指揮ぶりは飽くまでストレートであり、もったいぶったところは皆無である。時折フルートなどの木管ソロを指さして、弦楽器奏者にそれを聴くように促す指示を出すシーンも見られたが、これぞアンサンブルの極意で、プロのオケなら当然わきまえていることではあれど、実績を持つ指揮者によるそのような指示には、やはり独特の霊感があるものだと思う。メンデルスゾーンの描き出した北の海の情景は、最初から最後までクリアな音で眼前に迫ってくるようであった。また、シューマンの終楽章冒頭では、うっと力を込めて指揮棒を振り下ろす次の瞬間に弦が雪崩を打って入ってきたが、合わせるのが難しいに違いないこの箇所も、ビシッと決まっていながら、同時に人間味を感じさせる表現。それに続く、タメを作りながら弦が流れ出す箇所の呼吸も見事。そうして、楽章が進んでから途中休符があって、ホルン、そしてフルートの揺蕩いの後にまた音楽が走り出す箇所も同様で、これはやはり、指揮者とオケの信頼関係がないと聴けない音であったと思う。両端楽章の反復を繰り返す丁寧さもあり、いかにも初期ロマン派らしい爽やかさは、聴いていて本当に楽しいものであった。

そして休憩後は一転して、野性のリズムが吹き荒れる「春の祭典」である。ギルバートはここでは譜面を見ながらの指揮であったが、その指揮ぶりにはやはり大変几帳面なところがある。大柄な体格や、決して器用さを感じさせない彼の指揮ぶりからはあまり想像できないかもしれないし、時にはそれがうまく行かないこともあると思うが、彼の指揮には基本的にこのような几帳面さがあるように思う。もちろん、曲が曲だけに、安全運転では面白くないところ、ギルバートと都響は、この曲特有の野性も充分に描き出していたと思う。例えば木管楽器。改めてステージを見渡すと、この楽団自体がかなり若い人が多いが、特に木管は、若手ばかりである (40年前に私がこのオケを初めて聴いた頃には生まれていなかった奏者がほとんどだろう。笑)。その若手奏者たちに対してギルバートは、かなり信頼を寄せて自由に演奏させているように見受けられた。ただやみくもに野性を表現するのではなく、その演出効果も充分に考慮して描き出す音のドラマ。これはやはり、聴きごたえ充分である。
e0345320_00313567.jpg
ここで再び、彼のインタビューに触れて、この記事を終えることとしたい。

QUOTE
音楽は生きた経験です。人生の特定の時間を多くの人と一緒に過ごすという貴重な機会。世の中には様々な文化がありますが、音楽は特定の空間でそこでしか体験できない、という意味で特別な存在です。
UNQUOTE

これは言い得て妙であり、私自身もいつも感じていることだ。だが彼の主張はこのような理想的なことばかりではなく、現実と向き合う姿勢が鮮明だ。オーケストラは社会的な存在であり、社会に貢献すべきだと考えているという。2017年には、「音楽が国境を超え人々が団結するための架け橋になれる」という趣旨のもと、国連との提携で「グローバル・オーケストラ・プロジェクト」というイヴェントを開催し、ニューヨーク・フィルが中心となって、紛争国を含む 20ヶ国の楽員が集ったという。そこには都響の首席ヴィオラ奏者、鈴木学も参加したらしい。これは過去の都響の演奏会で、鈴木を立たせるギルバート。
e0345320_01085237.jpg
社会に開かれ、社会に対して貢献するオーケストラ。そのことを聴衆も認識し、ごく自然にそのような音楽活動を楽しみたいものである。

# by yokohama7474 | 2018-12-11 01:16 | 音楽 (Live) | Comments(0)

モーツァルト : 歌劇「フィガロの結婚」K.492 (演奏会形式) ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2018年12月 9日 サントリーホール

e0345320_20542293.jpg
東京交響楽団 (通称「東響」) とその音楽監督、ジョナサン・ノットが演奏会形式で採り上げる、モーツァルトのダ・ポンテ三部作の締めくくりである。この「ダ・ポンテ三部作」とは何かというと、イタリアの詩人ロレンツォ・ダ・ポンテ (1749 - 1838) が台本を書いたオペラで、作曲順で言えば今回の「フィガロの結婚」(1786年初演)、「ドン・ジョヴァンニ」(1787年初演)、「コジ・ファン・トゥッテ」(1790年初演) である。このブログでは過去 2回の上演も、ある種の興奮を持って記事にしたが、今回はその三部作の完結編ということで、期待もひとしおである。ノットがこの 3作を演奏するに当たり、作曲を逆行する順番にしたのはいかなる理由によるものか。それは最初の「コジ」の演奏の際の発言で分かるのだが、そのときノットは、3作の中で最も難しいのがその「コジ」であり、それが成功すればほかの 2作も成功すると思ったという。こうして 3年がかりですべて聴くことができた身としては、もちろんどれも簡単ではない作品において、いずれも素晴らしい出来を示したノットと東響のコンビに、心から拍手を送りたい。
e0345320_21124634.jpg
そもそもこの「フィガロ」という作品、フランス革命前夜に書かれているわけであるが、音楽の素晴らしさはさておいて、貴族の欲望を赤裸々に描き出している点に驚くのである。その一方で、その貴族たちが極めて人間的で憎めないという設定が、21世紀の今日でもひっきりなしにこのオペラが上演される理由であろう。一日の間に起こるドタバタ喜劇であるが (今や音楽祭の名称としておなじみの「ラ・フォル・ジュルネ」とは、もともとこのオペラの原作であるフランスのボーマルシェ (1732 - 1799) の小説のタイトル、「狂おしき一日」のこと)、まさに目まぐるしくも狂おしい一日の様子が描かれている。今ここで再確認したいのは、このオペラの初演は、原作者ボーマルシェ (モーツァルトより 24歳上) の現存中であったことだ。これを書いたときに若干 30歳であったモーツァルトは、貴族たちに対して一体いかなる気持ちを抱いていたのか、いつも気になるのである。ともあれ、この「フィガロ」がプラハ (錬金術の街であり、土人形に命を吹き込まれるゴーレムの街である) で初演されたときに人気を博したことで「ドン・ジョヴァンニ」の中に「もう飛ぶまいぞこの蝶々」の旋律が使われることになったし、また「コジ・ファン・トゥッテ (= 女はみんなこうしたもの)」とは、この「フィガロ」の第 1幕でドン・バジーリオが口にする歌詞。そう考えると、やはりこの「フィガロ」こそ、モーツァルトのオペラの頂点と考えてもよいと思うのである。今回もハンマーフリューゲルを自ら弾きながら指揮をしたノット。
e0345320_21341379.jpg
過去 2回も、若手歌手を中心とする活き活きとした演奏に魅せられてきたが、今回はそれが極まった感がある。女声陣は、スザンナのリディア・トイシャー、アルマヴィーヴァ伯爵夫人のミア・パーション、ケルビーノのジュルジータ・アダモナイト、バルバリーナのローラ・インコ。いずれの歌手も、見た目も歌も最上級である。なんと豪華な顔ぶれだろうか。因みに 2人目のミア・パーションは、最初の「コジ・ファン・トゥッテ」でフィオルディリージを歌うはずが、急病で来日をキャンセルしているので、今回は待望の登場ということになる。
e0345320_21390195.jpg
e0345320_21404499.jpg
e0345320_21414475.jpg
e0345320_21432323.jpg
いやいや、彼女らはいずれも素晴らしかったが、今回の女性歌手で最も素晴らしかったのは、この人であると私は思う。
e0345320_21474139.jpg
おっとこれは 1995年に録音された、ジュゼッペ・シノーポリ指揮バイエルン国立管による「カルメン」ではないか。主役はもちろん、ジェニファー・ラーモア。今回彼女が歌ったマルチェリーナは、嫌味な熟年女性という役柄であり、物語の進展上も、それほど重要ではないゆえに、あまりパッとしない歌手が歌うことが多いのだが、今回は例外だ。熟年の嫌らしさと、息子を思う母の気持ちを巧く歌い分けており、中でも、第 4幕で歌われるマルツェリーナ唯一のアリアは、慣習的にカットされることもあるが (その次のドン・バジーリオのアリアとともに)、今回はもちろんノーカット。さすがラーモアは一味違う。これが最近の写真である。
e0345320_21531319.png
女声陣だけではない。主役のフィガロを歌ったマルクス・ヴェルバは、「コジ」でグリエルモを歌っていた人だし、バルトロとアントニオの二役を歌ったアラステア・ミルズは、この上演の演出を担当 (その上、ダンスシーンではローワン・アトキンソン並の体のキレを披露。笑)。そしてアルマヴィーヴァ伯爵役のアシュリー・リッチズは、上演前に「体調不良だが、本人の強い意志によって歌う」とアナウンスされたが、充分立派な出来であった。
e0345320_22014828.jpg
e0345320_22025341.jpg
e0345320_22045453.png
実際このポピュラーなオペラは、日本人キャストだけでも充分に高度な上演が可能であるにも関わらず、このように世界で活躍する歌手たちが集い、演奏会形式とは言っても、譜面を見ることなく、舞台を縦横に利用しながら、かなり複雑な演技をこなしたということには、東京の音楽界にとって大きな意味がある。このような演奏に刺激を受けて、日本の歌手たちのレヴェルもますます上がって行くことだろうし、今回出演した新国立劇場合唱団の歌唱も、さらなる洗練が今後なされて行くことが期待されるのである。そして、忘れてはならないのは、ノット指揮の東響が響かせた充実の音である。オペラの演奏会形式上演では常に、オーケストラパートの精妙さに改めて気づくのであるが、この「フィガロ」のように様々な工夫が凝らされた極上の音楽では、そのような発見が本当に楽しい。今回もホルンやトランペットは古いタイプの楽器であり、古雅ではあるが洗練された響きに、ノットと東響のコンビの充実を感じることができた。なんという素晴らしい演奏。ノットと東響は、また来週意欲的な演奏会を開く。それも大注目なのである。
e0345320_22150610.jpg

# by yokohama7474 | 2018-12-09 22:20 | 音楽 (Live) | Comments(0)

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル 2018年12月 8日 サントリーホール

e0345320_09300405.jpg
旧ユーゴスラヴィア出身のピアニスト、イーヴォ・ポゴレリッチを聴く。この人のリサイタルは、週末の開催であっても午後とか夕方ではなく、平日のコンサートと同じ 19時開始という印象があって、しかもテンポの遅い演奏がほとんどなので、終了時刻が結構遅くなりがちだ。だがそんなことに構ってはいられない。彼のピアノは、絶対に聴く価値のあるものであるからだ。前項の N 響の演奏会を指揮したトーマス・ヘンゲルブロックと同じく、今年 60歳。上のチラシにも「還暦」とあるが、まあそれは東洋の考え方であって、ヨーロッパ人たるポゴレリッチにはその意識があるものかどうか (笑)。プログラム冊子に掲載されているインタビューには、「日本では人生が元に戻って 2回目の生が始まるといった、『めでたい年』とされているが、人生は 1つだと思うか、どこから 2つめと思うことがあるか」という、なかなかにハードな質問 (?) がなされているが、ポゴレリッチは慌てず騒がず (かどうかわからないが)、このように答えている。

QUOTE
ヨーロッパでは「還暦」とは異なる視点から、人間の一生をとらえます。一般的に、20歳から 40歳までは人間が発展していく時期、40歳から 60歳までは成熟を重ねていく時期、そして 60歳から 80歳までは賢明さを手にし始める時期とみなされているのです。ちなみに 80歳を過ぎると、人は深い哲学的境地を開き、人生を達観します。
UNQUOTE

ここで気づくのは、彼は「私はこう思う」と言い方をしていないことである。つまり、自分が生まれる前から決まっている習慣や、先人たちの知恵に対する敬意が感じられるのである。あるいは、同じインタビューで、昨年の来日時に奈良の正暦寺 (もちろん常識だと思うが、紅葉だけではなく、孔雀明王像が有名だ) で行ったテレビ用の演奏についての質問でも、聞き手が「奈良の寺」としか言っていないのに対し、ちゃんと「正暦寺」という名称を挙げて、その寺を「幾世紀もの間に訪れた人々」に思いを馳せたと答えている。やはり彼は、自らの芸術家としての鍛錬や、乗り越えてきた苦難を切々と語る人ではなく、時の流れとか人々が積み重ねてきた思いにこそ、彼の芸術家としての霊感の源泉があるのだろう。そしてピアニストとしてそれはまた、作曲者の思いを重視する態度にも通じるものであると思う。このところ毎年のように来日してくれているポゴレリッチ、このブログでは 2年前のリサイタルについての記事を書いたが、今回も大いに期待が高まる。曲目は以下の通り。
 モーツァルト : アダージョ ロ短調K.540
 リスト : ピアノ・ソナタ ロ短調
 シューマン : 交響的練習曲作品 13 (遺作変奏曲付)

ドイツ系で統一した曲目であり、前半の 2曲はともにロ短調。ポゴレリッチは、この調を「私的な調性」と呼び、モーツァルトの「アダージョ」について、「リストとシューマンの両曲が具えている独創性とファンタジーをいっそう際立たせる効果を期待してもいます」と語っている。そしてそのリストとシューマンの曲について、「その内省的で内に秘めた音楽は、私たちの心を絶えず揺さぶります」とコメントしている。今回のツアーでは、同じ曲目を既に西安と北京で演奏し、日本では霧島、大阪、名古屋を経て、今回の東京が最後である。
e0345320_10074164.jpg
一言で言ってしまうと、彼のピアノは、ほかの誰にも似ていない。これは実際にその場に身を置いてみないと分からないことかもしれないが、彼がピアノから繊細に紡ぎ出す、あるいは激しく迸らせる音の数々には、通常の意味での抒情性とか輝きといった表現では足りない、何か突き抜けたものがある。もちろん、今年も東京では世界トップクラスのピアニストの数々を聴くことができたわけであり、それぞれに偉大な音楽を奏でて行ったのであるが、それでもこのポゴレリッチの演奏には、ほかの誰とも異なる、彼だけの表現が横溢していることを実感するのである。あえて比喩を使うと、そこには地獄の釜が開き、覗き込むとその深奥にクラクラと眩暈を覚えるはずだが、このピアニストはその地獄の釜の縁を静かに歩みつつ、ただ無言でその釜の神秘を示している、という感じであろうか。彼の演奏姿はいつもの通り、喜怒哀楽を露わにはせず、淡々としたもの。ステージに登場するときには譜面を携え、ステージ上では聴衆に大変礼儀正しくお辞儀をする。そして、譜めくりの女性を脇に従えて、譜面を見ながら演奏をする。終了後にはもちろん何度もステージと袖を往復するが、その前に演奏し終えた曲の楽譜を持ったまま登場し、後ろ手にそれを持ちながらお辞儀をする。これは昨年の来日公演の様子。
e0345320_10283871.jpg
これを何やら宗教儀式のようだと表現すると、恐らく語弊があるだろう。宗教の勧誘にありがちな排他性や、思わせぶりな謳い文句、幸福の押し売りというものとは、このコンサートは全く無縁である。だがそれにも関わらず、音楽という深遠な世界に我々を導いていれる司祭として、ポゴレリッチという存在を考えると、なにかしっくりくるものがある。例えば最初のモーツァルトにおける、変転する曲想から透けてくる救いようのない孤独感や、既にポゴレリッチが過去に何度も手掛けているにも関わらず、その遅いテンポで改めて曲の悪魔性を抉り出したリストのソナタには、客席に座っている私たちとしては、その音のドラマに、また作曲家の心の深淵に、耐えて座っているしかない。そこではこのピアニストの音に、ただ従うしかない。また、後半のシューマンでは、5曲の「遺作変奏」なるものが、「交響的練習曲」に先だって演奏されたが、初めて聴くこれらの曲に、私はなんとも胸を締め付けられるような思いを抱いた。実はこの追加の 5曲は、作曲者の死後、弟子であったブラームスの監修のもとに出版されたものであり、未亡人クララはそれには反対したらしい。つまり、様式的には作曲者が完成作としたもの (それをクララはよしとした) に、いわば脈絡のない 5曲が無理矢理くっつけられたということである。だがこの 5曲、なんという幻想性。なんという孤独感。ブラームスが師の本質と評価した抒情性が、ここにはあるように思う。私はこの 5曲を聴く間、抒情性に魅入られながらも、何か大変不安であった。いつになればあの「交響的練習曲」が始まるのだろうという不安。そしてその不安は、聴き慣れた曲の本体に入ったときには払拭されたが、全くこれみよがしなところのないポゴレリッチの演奏に、痺れるような感覚を持った。その強音の響き方は凄まじいのだが、弾いている本人が淡々としているので、その異様な表現力に圧倒されっぱなしであった。今回はアンコールもなかったが、コンサート終了時には既に 21時20分。聴きごたえは充分すぎるほどであった。

終演後にサイン会があるというので、ホール内の廊下に並んでいると、楽屋から、スタッフか、あるいはもしかしたらポゴレリッチの家族か?とも思われる外国人の初老の女性と並んで出てきたカジュアルなジャンパーの人物は、なんと村上春樹である。音楽好きで知られるが、私はこれまでコンサートでその姿を見掛けたことはないので、ついジロジロと見てしまった (失礼)。楽屋に何かを忘れたのか、廊下で立ち止まって戻ろうかというそぶりを見せ、だが "It's OK" と同行の女性に伝えて、そのまま帰られました。しばらくしてポゴレリッチが出て来たが、思い返せば 2年前にサインをもらったときもそうだったように、ポゴレリッチは椅子には座らず、立ったままのサイン会。外は未だそれほど寒くないのに、こんなに着込んでいた。これも、凡人とは異なる天才のふるまいのひとつととらえよう。
e0345320_10550698.jpg
e0345320_10551682.jpg
e0345320_10554031.jpg
いよいよ余人の追随を許さない唯一無二の境地に入っているポゴレリッチ、次回来日は 2020年 2月16日 (日) と発表された。また週末の 19時からだが (笑)、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、ラヴェルという、ピアノ音楽の歴史を凝縮したようなプログラムであり、ほかの誰からも聴くことのできない音楽を体験するため、1年 2ヶ月後を楽しみにしたい。
e0345320_11012306.jpg

# by yokohama7474 | 2018-12-09 11:07 | 音楽 (Live) | Comments(0)


最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧