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御礼、お詫び、お知らせ

 皆様 はじめまして 

当ブログ
「川沿いのラプソディ」にて 
時々「家人」として登場していた
ブログ管理者「Crop Stock」の妻です。
既に前回2019年4月10日の記事から
2年数か月経過しているにも関わらず 
ご訪問誠にありがとうございます。
今回だけ私が代筆させていただく失礼を
お許しください。

ブログ休止の少し前から
勤務先を休職し
夫の闘病生活が始まりました。

本人は僅かな可能性が有れば
どのような治療も厭わない
絶対に完治するのだと
気丈に過ごしていました。
けれど その甲斐なく
2021年9月20日(月)
午前10時20分
静かに息を引き取りました。
最期は川沿いの自宅にて
家族に看取られながら
痛みも感じず
眠るようでした。

夫はこのブログに
心血を注いで
包括的な文化への思いを
綴っておりました。
文化を点でなく
全て網羅して理解しなければ
意味がない。
それを文章に著すのが
自分の使命だと考えていたようです。
そのために
正しい「言葉」で
正しく「表現」することに
大変厳格でした。
ですから
私の拙い文章で汚すのは本意ではありません。


ただ
この場を借り
夫に代わり皆様へ御礼申し上げます。
また 再開をお約束して果たせなかったこと
お詫びいたします。

なお
このブログは継続して閲覧できるように
存続する予定です。
故人を偲ぶために
お読みいただけるならば
幸いです。


「家人」より





# by yokohama7474 | 2021-10-02 06:00 | その他

ふと気が付くと、4月も 10日。しかも、季節外れの寒い日である。それなのに、このブログは 3/31 (日) 以降一週間半も更新されていない。実はその間、期初ということもありバタバタしていたことに加え、急な出張が入ったりして、東京・春・音楽祭の「リゴレット」も「さまよえるオランダ人」も、見ることができなかった。もちろん残念ではあったものの、勤め人である以上は致し方ない。さて、では、映画や美術や安近短の記事など書くかな、と思ったのだが、ちょっと思い立って、あえて慌てて更新せず、どのくらいアクセスがあるのかを見ていた。そうすると、新たな記事を書かずとも、連日コンスタントに 300 - 400程度のアクセスがあって、この発見がなかなか面白かった。うむなるほど、こういうことならこのブログも、その蓄積だけでもある程度皆さんに楽しんで頂けるようになっているのだなと思った。・・・そして、3月末の記事をひとつの区切りとして、ちょっとお休みを頂こうかな、と思い始めたのであります。

そもそもこのブログ「川沿いのラプソディ」は、川沿いの我が家から、文化に関するあれこれの四方山話を気楽に綴ろうと思って、2015年 6月 3日に突然始めたもの。途中何度か、「また急にフイッとやめるかもしれません」などと言いながらも、現在までに書き溜めた記事は (「その他」範疇は除く)、実に 1,190。総訪問者数は既に 33万人を大きく上回っている。この 1,190 の記事を、約 4年弱、正確には 1,398日の間に書いているわけで、正直なところこれは、私としてはかなり全力疾走であった。以前から、ブログを書いていると読書の時間がなくて困ると嘆いていたが、ちょっとここらで一服させて頂き、読書にもいそしみたいと思っている昨今であります。

新たな記事を楽しみにして頂いている方々には申し訳ないですが、これは休憩であり、また (ちょっとかたちは変えるかもしれませんが) なんらかのかたちでは再開するつもりですので、その時までしばしお待ち下さい。なお、コメント欄は、今月いっぱい、つまりは平成の間は開けていますが、5月に入って令和が始まる頃には一旦閉じさせて頂きます。併せてご了承下さい。それではまた、令和の世での再会を楽しみにしております!!
ブログをしばらくお休みします_e0345320_16292302.jpg

# by yokohama7474 | 2019-04-10 16:26 | その他

エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団 (ピアノ : サリーム・アシュカール) 東京芸術劇場_e0345320_19361227.jpg
東京都交響楽団 (通称「都響」) とその桂冠指揮者エリアフ・インバルによる、東京での 3種類目のプログラム。今回はこのような 2曲からなるものであった。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 1番ハ長調作品15 (ピアノ : サリーム・アシュカール)
 チャイコフスキー : 交響曲第 5番ホ短調作品64

既に採り上げた 3月26日の東京文化会館でのこのコンビの演奏会では、メインはショスタコーヴィチ 5番であった。それに対して今回は、チャイコフスキー 5番。ロシアを代表する 2曲の第 5交響曲はいずれも大人気曲であり、特に今回は日曜日ということもあって、会場は大変な大入りだ。外では桜が満開だが、この週末の東京はどうにも天気が不安定。その点、インバルと都響であれば、その演奏は非常に安定していることが期待できようというものだ (笑)。いや、もちろんそれは、聴かなくても演奏の内容が分かるという意味ではなく、やはり何度聴いても素晴らしいという意味なのであるが。

今回は、メインのチャイコフスキーはもちろんだが、ベートーヴェン若書きのピアノ協奏曲第 1番も非常に楽しみであった。というのも、ソリストがサリーム・アシュカールであったからだ。1976年イスラエル生まれ。興味深いことに、前回のインバル / 都響の演奏会でチェロを弾いたガブリエル・リプキンも同世代で、1977年イスラエル生まれであった。もちろんインバル自身もイスラエル生まれであるから、前回・今回と、指揮者、ソリストともにユダヤ人の共演ということになる。これまで、メータ、バレンボイム、ムーティ、シャイーらの名指揮者と共演し、また、ウィーン・フィル、コンセルトヘボウ、シカゴ響などにソリストとして登場しているアシュカール。
エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団 (ピアノ : サリーム・アシュカール) 東京芸術劇場_e0345320_19492910.jpg
私はこのピアニストを以前聴いたことがあり、それは昨年の 6月15日、ピエタリ・インキネン指揮日本フィルの伴奏によるメンデルスゾーンの 2番のコンチェルト。その演奏会の記事に書いたことだが、このピアニストは、ただのユダヤ人でない。なんと、「パレスチナ系ユダヤ人」なのである!! 今回の都響の演奏会のプログラム冊子には説明ないものの、戦争地域や途上国の音楽家及び音楽団体をサポートする非営利団体「ミュージック・ファンド」の大使を務めているそうである。彼のピアノは、彼自身が経験してきたものを、音楽という純粋な喜びに昇華させていると思う。いや、もちろん、そんなことを知らずとも、彼のピアノの繊細なタッチにただ耳を傾けると、そこには何か特別な美があることを、誰しもが感じるであろう。ベートーヴェンの 1番のコンチェルトは快活な曲であり、ただ美しいというよりは、前に進む力とか、弾ける喜びという要素が必要だが、アシュカールの演奏は、線の太さこそないものの、この音楽の持つ楽しさを充分に感じさせるものであり、しかも聴き終わったあとにそこに残るのは「美」であったと思うのである。この見事なピアノを、インバルと都響ががっちりサポートして、そこにはベートーヴェンらしい重厚さも時に顔を出していた。もともとインバルは、小編成の曲をきっちりまとめるというタイプの指揮者ではないものの、やはり長い経験と都響との信頼関係によって、ピアノとうまく絡み合うオケの音を巧みにまとめていた。そしてアシュカールが弾いたアンコールは、前回の日フィルのときと同じ、シューマンの「トロイメライ」。深い感情が込められ、誰が聴いても懐かしいと思うであろうこの音楽は、人々の心に沁みたことであろう。

メインのチャイコフスキーは、これはもうインバル節炸裂である。譜面台も置かない暗譜での指揮で、もちろん椅子にも腰かけず、全曲 50分、立ったままである。冒頭こそ、木管と弦のバランスにちょっと課題があるかなぁと思ったものの、すぐにペースをつかんで、音楽がうねり始めた。そして今回のインバルは、この曲の全 4楽章を、ほとんど間を置かずに通して演奏することで、ひとつの大きな流れを作り出していたのである。その強烈な音楽の力から私が感じたのは、インバルはこの曲を世紀末音楽として表現しようとしているのではないかというもの。作曲されたのは 1888年であるから、これはまさしく世紀末の音楽なのである。そういえば彼が昔フランクフルト放送響とともにチャイコフスキーの 3大交響曲を録音した際、そのカップリングが話題になったものだ。この 5番はボリス・ブラッハーのパガニーニの主題による変奏曲という変化球だったが、6番「悲愴」は、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死であった。因みにこの 5番は、こんなジャケットであった。
エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団 (ピアノ : サリーム・アシュカール) 東京芸術劇場_e0345320_20213954.png
インバルはその後この曲を、今から 10年前にこの都響とともに再録音している。私はそれを聴いていないが、想像するに、今回の演奏はさらに音が練れていたのではないだろうか。以前も書いたことだが、インバルの場合には円熟という言葉は似つかわしくなく、あえて言えば進化という言葉を使いたい。80を超えてなお、これだけ力強い音楽を聴衆に向かって解き放つ、その魔術的な力量は、ちょっとほかにないのではないだろうか。都響との関係も極めて良好であることは、演奏後のインバルの表情を見ていても明らかだ。この指揮者の大作交響曲をこれからも聴くことができる我々東京の聴衆は、幸いであると思う。
エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団 (ピアノ : サリーム・アシュカール) 東京芸術劇場_e0345320_20332339.jpg
この指揮者は、来シーズンの都響の演奏会の前に、今からほんの 3ヶ月後に東京に戻ってきて、手兵であるベルリン・コンツェルトハウス管を指揮する。そこでの演目は、もちろんマーラー!! マエストロには是非体調管理を万全に行って頂き、あの「インバルのマーラー」のさらなる進化版を聴かせてくれるのを楽しみにしよう。

# by yokohama7474 | 2019-03-31 20:39 | 音楽 (Live)

上岡敏之指揮 新日本フィル 2019年 3月30日 サントリーホール_e0345320_21124975.jpg
新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) とその音楽監督、上岡敏之による定期公演、今月の 2つめのプログラムである。今回は大曲 1曲によるもの。
 マーラー : 交響曲第 2番ハ短調「復活」

この大曲はもちろんマーラーファンの大好物であり、かく言う私も、実演で聴くたびに鳥肌立つ思いをしている。東京の音楽界において、その個性で独自の地位を占めている上岡と新日本フィルの演奏については、度々このブログでも採り上げてきたが、この「復活」を採り上げるということで、今回も大変楽しみであった。以下、どんな演奏であったのかレポートしたい。
上岡敏之指揮 新日本フィル 2019年 3月30日 サントリーホール_e0345320_09460715.jpg
さて、上で「独自の個性」などという極めて抽象的な表現を使ってしまったが、それを言葉で表現するとどうなるだろうか。私なりに整理してみると、この上岡という指揮者、通常の演奏と異なるテンポを取ったり、音楽の表情づけを行うことがままあるが、そのユニークさは常に、上岡自身の信じる音像を表している。つまり、時にエキセントリックに響くことがあっても、それは彼自身に内在するその音楽のあるべき姿の再現であるということである。派手に大向うを狙うことは皆無であり、流れに応じて音楽に細かい緩急をつけ、丁寧に音像を描いて行く。そして、どんな強烈な音響でも、叩きつけるような乱暴な音にはならない。そんな感じであろうか。今回の「復活」も、冒頭の弦の切れ込みは、多くの演奏にあるような鋭いものではなく、むしろ落ち着いた音色 (若干アンサンブルが乱れたのは惜しかったが)。だがその後のチェロの呻吟は、充分に深刻さのあるもので、決して軽い演奏ではない。この第 1楽章においては、大変に劇的な音楽的情景が描かれるのであるが、今回の演奏では、その音楽的情景には全く鬼面人を驚かすようなところがなく、いつものように実に丁寧な進行ぶりだ。このあたりには多少聴き手による好みもあるかもしれない。つまり、若いマーラーが書いたこの音楽には、ある種のこけおどし的要素もあって、クリアでパワフルな音質でグイグイ押して行く演奏が、意外と成功するのである。その意味では、今回の上岡と新日本フィルの演奏には、圧倒的な要素があまりなかったがゆえに、その点で評価が分かれるかと思う。

この演奏には合唱団と、ソプラノ、アルト (またはメゾ・ソプラノ) の 2人のソリストが入るが、今回の演奏では、第 2楽章と第 3楽章の間で、彼らとオルガン奏者が登場した。合唱 (栗友会合唱団) はステージ裏の P ブロックに陣取り、独唱者 2名はステージ上の最も奥、つまり合唱よりは低い位置ではあるものの、指揮者の近くではなく、合唱のすぐ前に陣取った。この登場のタイミングは、若干珍しいかと思うが、第 3楽章から第 5楽章まで続けて演奏するという作曲者の指示にも叶うものである。ただ、第 4楽章と第 5楽章は、通常は間髪を置かずに「それっ」と指揮者が指揮棒を振り下ろす箇所であるところ、今回上岡は、充分な間を置いていた。ここにも、音の強烈さで聴衆を圧倒しようという意思がないことが読み取れた。その関連で言うと、私が今回感心したのは、第 2楽章の優しさと、第 3楽章の諧謔である。どうしても両端楽章の迫力に中心を置く演奏が多い中で、「えっ、第 2楽章はこんなに優しい音楽だったっけ」とか「第 3楽章はやっぱり諧謔味いっぱいだなぁ」と思わせる演奏には、あまり出会うことはない。この点も今回の演奏のユニークな点として、記憶に値すると思う。新日本フィルの技術も安定していて、恐らくは指揮者の求める音像を十全に表現していたものと思われる。ただその一方で、特に両端楽章で音楽が進んで行く際に、ともすれば部分的にテンポを上げていた点には賛否があるだろう。これは上岡流の緩急ではあると思うが、聴きようによっては性急感がある。あまり「復活」の演奏では耳にすることのない表情であると思う。さて、そうは言いながらも、大団円ではやはり鳥肌立つような音響が渦を巻き、バンダ (舞台裏の別動隊) からホルン 4本がステージに出て来て、それまで舞台にいた 7本と合わせ、11本のホルンが咆哮するさまは、やはり壮観ではあった。合唱団は全員暗譜で堂々たる歌唱であったし、独唱者 2名も素晴らしい出来であった。まず、メゾのカトリン・ゲーリング。
上岡敏之指揮 新日本フィル 2019年 3月30日 サントリーホール_e0345320_10043411.png
第 4楽章「原光」は通常もっと深々と歌われると思うが、彼女の歌唱は、現代的というか、一見さらりとしながらも歌詞の意味を考えさせるようなものだったと思う。上岡とはドイツでマーラー 3番、「パルシファル」のクンドリ、「ルル」のゲシュヴィッツ侯爵夫人などで共演し、2017年には初来日して、この上岡 / 新日本フィルとワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」で共演した。上岡の好みとする声なのだろう。一方のソプラノは、森谷真理。二期会の歌手であり、このブログでも何度かその歌唱に触れてきた。この「復活」のソプラノではそれほど聴かせどころがあるわけではなく、むしろ合唱団の中から静かに響く声の清澄さが大事であるが、見事な歌唱であった。6月には二期会の「サロメ」で主役を歌うとのことなので、過酷なまでの絶唱は、そこで聴けることであろう (笑)。
上岡敏之指揮 新日本フィル 2019年 3月30日 サントリーホール_e0345320_10182885.jpg
このような個性的な「復活」であり、賛否が分かれる点もそれなりにあったと思うが、何よりも、上岡という指揮者の誠意を感じることができる演奏であったことが嬉しい。彼と新日本フィルのコンビは、これからも是非聴いて行きたいと思うのであった。

と書いて〆ようと思ったのだが、なぜだか急に思い出したことがあるので書いておこう。SF 作家の中で伝説的な地位を持つフィリップ・K・ディックの作品の中に、この「復活」の楽器編成について書かれたものがあった。あれは一体なんだったろう・・・と思い、手元にある何冊かのディックの作品 (私は決してその道のマニアではないので、それほど多くディック作品を読んでいるわけではない) を調べて、判明した。「聖なる侵入」という作品だ。その中で、この曲の楽器編成の詳細が述べられ、ルーテという言葉に言及されたときに警官が「それは何だ」と訊く。それに対する答えは、「ルーテは文字通り鞭 (注 : 私の所有する本には「苔」とあるが、「コケ」のようなのでこの字を使う) のことだ。藤製の鞭だ。大きなブラシ、あるいは小さなほうきに似ている。これをバス・ドラムにつかうんだ。モーツァルトもルーテのための曲をつくっている」というもの。なるほど、ルーテとはこれである。シャンシャンシャンという音が鳴る、あれである。
上岡敏之指揮 新日本フィル 2019年 3月30日 サントリーホール_e0345320_10482660.jpg
そういえばマーラーはこのルーテを、2番だけでなく 3番とか 6番でも使っている。ディックの作品でモーツァルトも使っていると言っているのは、「後宮からの誘拐」などのトルコ風の音楽のことだろうか。マーラーの巨大な音響の中で、このルーテが重要な役割を果たしているということを、ディックに教えてもらいましたよ。

# by yokohama7474 | 2019-03-31 10:56 | 音楽 (Live)

グリーンブック (ピーター・ファレリー監督 / 原題 : Green Book)_e0345320_10005609.jpg
以前も何度か述べたことがあるが、私の場合、ある映画がどこかで賞を取ったということは、事前情報としては有用でも、見に行く映画の選定にはあまり関係がない。見たい気が起こらない映画には出掛けないので、そこで見損なっている面白いものもきっとあるだろうと思いつつ、この発想は変えられようもない。そんなわけで、今年のアカデミー賞で作品賞、助演男優賞、脚本賞を取ったこの映画も、受賞作だから見に行ったのではなく、何か私の気を引くものがあったから、見に行ったのである。ストーリーは予告編で充分明らかだ。1960年代、ニューヨークに暮らす黒人ピアニストが、人種差別が色濃く残る米国南部への演奏旅行に出るにあたり、がさつなイタリア系男性を運転手兼ボディガードとしてつける。2人が旅先で経験することは・・・というもの。題名のグリーンブックとは、黒人が利用できる宿や店などを記載した黒人向けガイドブックで、1936年から 1966年まで発行されていたという。因みに本作の設定は (このピアニストと運転手が南部にツアーに出たという事実に基づき) 1962年。作中では、2人は確かにこのようなガイドブックを見ながら旅をしている。
グリーンブック (ピーター・ファレリー監督 / 原題 : Green Book)_e0345320_16554619.jpg
最近のアカデミー賞では、マイノリティ擁護の風潮が強く、実はこの映画で助演男優賞を受賞した黒人俳優マハーシャラ・アリは、2年前にも「ムーンライト」で同じ賞を受賞しているが、そちらも (私は見ていないが) やはりマイノリティを題材にした映画であった。ただ、世の中はそれほど単純ではない。この「グリーンブック」の作品賞受賞には、様々な異論があるようだ。例えば、黒人映画をひたすら撮り続けてきたスパイク・リーは、彼自身の作品 (現在日本でも公開中の「ブラック・クランズマン」) も作品賞にノミネートされていたが、この「グリーンブック」の受賞がアナウンスされたときに、人種差別に一石を投じる、いわば共通の視点を持つこの映画が認められたことを祝福するどころか、席を蹴って会場を後にしたという。どうもこの映画、人種を超えた男たちの友情とか信頼関係とかいうものへのポジティブな評価と同じほど、やはり白人の視線で描かれている、という非難を受けているようだ。最近の造語で "Whitesplaining" というものがあるようだが、これは「白人が (上から目線で偉そうに) 説明する」という意味で、この映画などまさにそのようなものだというトーンの非難があるらしい。これが作品賞受賞の際の写真。高々とオスカー像を掲げるのは、監督のピーター・ファレリーであろう。
グリーンブック (ピーター・ファレリー監督 / 原題 : Green Book)_e0345320_10352021.jpg
さて、このような事情は正直我々日本人には分かりにくい面があり、関連情報を目にしても、「なるほど、そういうことになるわけか」と思うくらいが関の山なのであるが、ただ、映画を見るときに、そんなことをあれこれ考える過ぎる必要はないだろう。以下ざっと私の感想を述べて行きたい。まず、主役の 2人は大変よいと思う。ピアニスト役のマハーシャラ・アリの相棒、トニー・"リップ"・バレロンガを演じるのはヴィゴ・モーテンセン。作中の設定はイタリア系米国人だが、実際にはデンマーク系。但し、幼少の頃にベネズエラに住んでいたことからスペイン語ができ、それだけではなくて、デンマーク語、そしてなぜかフランス語とイタリア語も流暢だという。なので、イタリア語も多く出て来るこの役には最適の人選であったのだろう。過去の映画では、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズにおけるアラゴルン役で知られるが、今回はこの役を演じるために 20kgも増量したという。これが「ロード・オブ・ザ・リング」における彼。
グリーンブック (ピーター・ファレリー監督 / 原題 : Green Book)_e0345320_10514065.jpg
そして本作での彼。もちろん経年もあるが、その役作りは非常にプロフェッショナルだ。
グリーンブック (ピーター・ファレリー監督 / 原題 : Green Book)_e0345320_10555947.jpg
一方のマハーシャラ・アリは、つい先日も「アリータ バトルエンジェル」の記事でその名を出したが、その作品における中途半端な悪役よりも、この役の方がずっとよいと、私は思う。実在したピアニスト、ドン・シャーリーについては私は全く知識はないが、この時代にあのような活動をした黒人音楽家として、なんとなくイメージできるようなものを、ここではうまく表現している。つまり、作品のひとつの前提は、ニューヨークで盛名を馳せる黒人音楽家が、彼が何者かも知らないがさつなイタリア系白人に対し、自らの持つ音楽的才能や教養全般を盾として、過剰な干渉を許さないという態度を取るということであり、その点におけるアリの演技は完璧であろう。2人の出会いの場では、彼はこのような恰好で王座にような椅子に座っている。場所はニューヨーク、カーネギーホールの上層階にあるアパートである。史実でもドン・シャーリーはカーネギーホールと契約を持っていて、その上層階に暮らしていたようだ。やはりニューヨークは米国の中でも特別な街で、黒人であっても、実力があって要領がよければ、音楽の世界では成功することができたということか。
グリーンブック (ピーター・ファレリー監督 / 原題 : Green Book)_e0345320_11031750.jpg
この映画の面白い点は、この 2人の微妙な距離感から、長い道のりを一緒に旅し、様々なトラブルに見舞われながらもお互いを徐々に理解しあい、そして信頼しあうようになる、その過程である。これは、このように文章で書いてもあまり切実感を伴わないが、実際に映画で体験すると、かなりの説得力を感じることになる。そもそも 1960年代の米国では、黒人が入れない場所というものもあったわけで、だからグリーンブックが存在したわけだ。また、オバマ大統領が就任時に、自分の祖父の頃にはレストランにも入れなかった、そんな黒人が今や大統領になる時代なのだ、と演説していたことを思い出す。特にこの映画では、もともと人種差別の激しい南部に演奏旅行に行くという設定であるから、その苦労たるや、想像にあまりある。物語では、このピアニスト、ドン・シャーリーがなぜに南部を目指すのか、多くを語ることはないのであるが、見て行くうちに観客には、時には笑わせられながら、ドン・シャーリーの屈折ぶりの中にある何かとてもシャイでピュアなものに感情移入して行くことになるのである。一方のトニー・リップは、もともと黒人への明確な差別・偏見はあるものの、それは当時に白人として通常レヴェルであったのだろう。勤務先のキャバレーが閉鎖され、金欲しさに運転手の職にありつくわけだが、旅を続けるうちにその素晴らしいサヴァイヴァル能力を随所で発揮、コンビの間には何か特別な信頼関係が築かれて行く。人間ドラマとして素晴らしい出来であると思う。
グリーンブック (ピーター・ファレリー監督 / 原題 : Green Book)_e0345320_11252998.jpg
さぁ、これをもって、白人の上から目線の映画と断じてしまうことが適当だろうか。ネタバレを避けるためにここには書けないラストシーンなど、Whitesplaining との批判を受けるものかもしれないが、私は結構感動して、涙腺もちょっと危なくなってしまうほどであった。1960年代の現実と、映画としての流れからして、このラストは充分感動的であると思うし、それが白人至上主義の表れと言ってしまうと、ちょっともったいないように思うのである。実はマハーシャラ・アリがインタビューで面白いことを言っている。この作品の監督ピーター・ファレリー (「ジム・キャリーは Mr. ダマー」や「メリーに首ったけ」というコメディで知られる) は白人であるが、観客の中には、例えばスパイク・リー監督作品を最初から見に行かないという人もいるのが現実。そういう人たちもピーター・フェレリーの映画なら見に行き、笑って見ているうちに、思いもしなかったことを考えることになるかもしれない。「そこには価値があると僕は思う」とアリは言っているのだが、この態度には極めて現実的なものがあり、この作品に対する自信のほども伺える。

さて、最後に、音楽に関するネタを 2つ。この黒人ピアニストは劇中で、ツアーで田舎町に行ってもスタインウェイのピアノしか弾かない契約としている。弾いているのはジャズ風の音楽で (チェロとベースを伴奏として連れている)、クラシックではないのだが、もともとクラシックを学んだことから、ピアノの選択には強いこだわりがあるようだ。言うまでもなスタインウェイの本社はニューヨーク。今はどうか知らないが、その場所はカーネギーホールからは通りを挟んだ反対側だ (昔、グレン・グールドのドキュメンタリーで、グールドがここを訪れるところが紹介されていた)。ところが、ツアーの途中で、音楽のことなど何も分からないはずのトニー・リップから賛辞の言葉を受けながらも、差別に遭って傷心のうちに安酒場に行くシーンで、彼はそこにあるピアノ (調律もいい加減な、いわゆるホンキートンクという奴だろう) で、ショパンのエチュード「木枯し」を弾いて、人々を感動させる。これはいいシーンであった。ところが演じるマハーシャラ・アリは、実際に鍵盤を叩いているのでもともとピアノが弾けるかと思えばさにあらず、数ヶ月は練習したものの、演奏は「ふり」だけで、映画の中の音は別人が出しているらしい。うーん、それにしても器用だ。これが実在のドン・シャーリー。
グリーンブック (ピーター・ファレリー監督 / 原題 : Green Book)_e0345320_17134310.jpg
実際にドン・シャーリー (1927 - 2013) は、9歳のときにレニングラード音楽院に入学、18歳でアーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップス管弦楽団と共演した神童であったらしい。そしてあのストラヴィンスキーも、そのピアノを神業と称えたという。映画で描かれている通り、ノーブルで教養もあり、でも心の中に屈折を抱えている人だったのだろうか。がさつ者のトニーが家族にたどたどしい手紙を書くのに耐えられず、口述でそれを直して行くのだが、その中に面白いシーンがある。
グリーンブック (ピーター・ファレリー監督 / 原題 : Green Book)_e0345320_17204082.jpg
手紙の最後に P.S. をつけ、子供への愛を表明しようとするトニーに対してドンは、「交響曲のあとに余計な音を足そうというのか!!」と非難するのだが、字幕には「交響曲」となっているが、セリフでは "Shostakovich 7" と言っていた。これはもちろん、ショスタコーヴィチの交響曲第 7番「レニングラード」のこと。この曲は、ドイツによってレニングラードが包囲される危機的な状況の中、1941年に初演されているのだが、なぜここで言及されているのだろうか。私の勝手な解釈では、上記の通りドンはレニングラードに留学しており、それは 1936年頃のこと。すると、まぁ戦争前には本国に帰っていただろうが、包囲された街レニングラードには思い入れがあるのだろう。ただ、そのことをトニーに説明しようとはしない。このさりげないセリフひとつにも、ドンの性格が表れていると思うのだが、どうだろう。

ほかにも語りたいシーンはいろいろあるが、この辺でやめておこう。差別問題という社会性ある観点を離れて見ることはできないにせよ、人間を描いた映画として面白いというのが、私の感想である。

# by yokohama7474 | 2019-03-30 17:39 | 映画