川沿いのラプソディ


川沿いの住まいから、音楽、美術、映画その他文化一般を語りつくします。
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メモ帳

生誕150年 横山大観展 東京国立近代美術館

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横山大観 (1868 - 1958) は、近代の日本画家の中でも、その知名度は抜群である。私の思う大観の一般的なイメージとしては、これぞ日本画の王道を行く巨匠というものであり、その名前だけで、近代から昭和に続く日本画の伝統を感じることができる。だが、この画家を知れば知るほどに、その表現の多様性と試行錯誤の連続に、なかなか侮れないものがあると、私はまた実感するのである。正直に言えば私は、日本画家としては、以前このブログでも展覧会を採り上げた安田靫彦とか、あるいは前田青邨、といった人たちに、背筋をピンと伸ばしたくなるほどの尊敬を感じる一方で、大観に対してはちょっと違う整理をしているのである。だが、明治元年に生を受け、東京美術大学の一期生であり、近代日本美術の偉大なる指導者であった岡倉天心の薫陶を受け、富士山をはじめとする日本の壮麗なる美を追い求めることで、第 1回文化勲章を受けたという輝かしい彼の画業は、確かに近代日本画というジャンルを代表する王者のイメージがある。今年は彼の生誕 150年。この展覧会はその記念の年に開かれるものだが、東京では既に終了していて、京都でも終了寸前。例によってタイムリーなレポートではないものの、その印象をここにざっと記しておきたいと思う。大観はこんな人。
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冒頭に書いたような私の大観への印象は、これまでに見たいくつかの彼の回顧展や、東京国立博物館の平常展示や、池之端にある旧居、その他書物類からの私の大観体験に基づくものであり、もとよりそれは極めて個人的な感想であることを、ここで明らかにしておきたい。だが同時に、我々がなんとなく持っている画家のイメージは、つぶさにその作品に接することで変わってくることもあると思うのである。むしろ私は、この大観という人が、謹厳実直な巨匠然とした芸術家であるよりも、新たな技法を求めて挑戦をし、戦争が起これば国のために貢献したいと純粋に思う、人間的な人であったということの方に、興味を惹かれるのである。これは大観初期の東京美術学校卒業制作で、「村童観猿翁」(1893年作)。巨匠然とした大観は未だここにはなく、まさに人間的なタッチが大変印象的。猿回しのおじいさん (傘をかぶった人物であろう) を、東京美術学校開校時の絵画科主任であった、つまりは師匠である橋本雅邦に、その周りの子供たちを自分たち学生に見立てているという。やはり人間的ではないか (笑)。
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その 4年後、1897年の作品、「無我」(東京国立博物館蔵)。切手にもなっているので一般的にも結構知られたものであると思うが、体に似合わないブカブカの着物を来た、あどけない表情の少年が、仏教的な無我の境地を表しているのだろうか。背景にあるのは川だろうか、その青に意外性もあり、私の好きな大観作品である。
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さてこれも有名な作品で、1898年作の「屈原」(厳島神社蔵)。讒言により国を追われた古代中国の詩人・政治家の肖像であるが、東京美術学校を辞職した恩師岡倉天心をその姿になぞらえた作品として知られている。これは近代日本画においても屈指の名作であると私は思う。
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さて大観は、天心が創設した日本美術院をその活動の舞台とするのだが、作品の遍歴を見て行くと、このあたりから大観の試行錯誤が始まることが分かる。これは、1899年作の「井筒」(広島県立美術館蔵)。伊勢物語に取材しているらしいが、細部にまで気を遣った作品でありながら、どこか大らかな感じがするのは私だけであろうか。物語性を出しながら、そこにはまず人間的なものが現れていると思うのである。
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大観は西洋画の手法も学び、新しい表現を模索した。「朦朧体」と呼ばれた技法はよく知られているが、私が興味を抱くのは、技法よりもむしろ題材である。この 1902年作の「迷子」は、以前も展覧会で見たことがあるが、今回再会して、やはり大変興味深いと思った。子供を囲んでここに描かれているのは、左から孔子、釈迦、キリスト、老子である。それぞれの聖人たちの説く道のいずれを取ろうか迷っている子供は、近代日本の象徴であるらしい。
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この「白衣観音」(1908年作) はどうだろう。これは仏教的というよりもインド的な題材に見え、大観というよりも、例えば村上華岳の作品のようである。その筆致は決して華麗ではなく、むしろ少し不器用にすら見える。どうだろう、日本画の王道を行く大巨匠の姿が、ここから見えるだろうか。私には、大らかさを持つ人間性を感じられるように思うのである。
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大観の作品には緻密なものもあって、この 1911年作の「水国之夜」などは、そのタイプであろう。中国で見た風景であろうが、墨の濃淡に加え、灯りを黄色で表現することで、なんとも言えないノスタルジーを感じる。薄暮の屋根瓦の様子など、細心の注意を払って描いているように思われる。
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さて、大観と言えば、冒頭に掲げたポスターにある通り、数々の富士山の絵で有名である。これは「霊峰十趣」のうち「秋」。題名とは裏腹に紅葉の暖色系を一切使わないあたりに、ただ富士を堂々と描く以外の工夫が見える。この工夫こそが、大観が生涯追い求め続けたものなのであろう。
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さてこの記事では、出展作のほんの一部しかご紹介できないのだが、この展覧会における最大の目玉作品は、40mを超える日本最長の絵巻、「生々流転」である。何よりも画期的なことは、その絵巻物の端から端まで見ることができることであった。これは横山大観記念館が所蔵する下絵 (1923年作) を、図録から一部撮影したもの。
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この「生々流転」の完成作は、東京国立近代美術館所蔵の重要文化財。墨絵によって日本の自然を大胆にまた繊細に描いたものだが、その長い長い作品の細部をじっくり鑑賞できたことだけでも、この展覧会を見た甲斐があったというもの。これは素晴らしい。
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このような枯れた大観もよいのだが、昭和に入ってからの華やかな大作も美しい。これは 1931年作の「紅葉」。所蔵するのは島根の足立美術館。この美術館については先日、出雲・松江旅行の記事でも採り上げたが、ちょうどこの展覧会と同じ頃、その足立美術館でも大観展を開催していた。日本有数の大観コレクターであるこの美術館の意地が見えた企画であったが、この素晴らしい作品を東京での展覧会に出しながら、それでも現地で大観展を開くことのできる足立美術館の奥深さ。
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さて、そして最後に、またモノクロの世界の大観に戻ってこの記事を終えたいと思う。1936年作の「龍蛟躍四溟」(りゅうこうしめいにおどる)。この「蛟 (こう)」という字は「みずち」である。龍や蛟が四方の海に踊る様子。まるで「生々流転」の最後に出て来る雲に、実は龍や蛟が隠れていましたという種明かしのようにすら思われる。これは御物で、宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵。
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ダイナミックな大観、朦朧体の大観、モノクロの大観、絢爛たる大観。ここに集まった 90点の作品に見る横山大観の画業の広がりには、本当に驚かされるし、冒頭に述べた通り、ただ日本画の巨匠としての彼の姿だけではなく、様々な手法と主題に取り組んだこの画家の、何よりも人間的な部分を新たに発見できる展覧会であった。その意味で大観は、やはりほかに並ぶ者のない業績を残した日本画家であるということは、間違いないと思う。先入観なく、かしこまり過ぎずに、彼の作品を楽しみたい。

# by yokohama7474 | 2018-07-21 02:11 | 美術・旅行 | Comments(0)

ロレンツォ・ヴィオッティ指揮 東京フィル (ピアノ : 小山実稚恵) 2018年 7月19日 サントリーホール

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今月の東京フィルハーモニー交響楽団 (通称「東フィル」) の定期公演を振るのは、ロレンツォ・ヴィオッティという指揮者である。むむむ、ヴィオッティという指揮者には聞き覚えがある。実は最近の私は若干バタバタ気味で、このコンサートも、事前にあまり内容をよく確認もせずに現地に赴いてから、開演前の僅かな時間に、この指揮者について思いを巡らせていたのである。ちょっと待てよ、最近名前を聞かないが、マルチェッロ・ヴィオッティという、オペラを得意とする指揮者がいたはず・・・。何か関係があるのだろうか。それから、このロレンツォ・ヴィオッティは、今度東京交響楽団でもヴェルディのレクイエムを振ることになっていたはずだ。プログラムによると、東フィルとは今回が初顔合わせのようだが、東響は以前も指揮したことがあるらしい。だがそれにしても、上に掲げたチラシに「気鋭のサラブレッド」とあるので、やはり血筋のよい音楽家なのであろう。そんなことを考え、帰宅してから調べて判明したことには、今回の指揮者ロレンツォ・ヴィオッティは、やはりマルチェッロ・ヴィオッティという指揮者の息子なのである。だが、父マルチェッロの名前を最近聞かないのは道理である。2005年に 50歳の若さで脳卒中に倒れ、死去している。私は自らの不明を恥じ、ここに改めて、今は亡き偉大なる才能を偲びたい。これがマルチェッロ・ヴィオッティ。
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この指揮者、ヴィオッティという名前から当然イタリア人だと思っていたが、イタリア人の両親のもとにスイスに生まれたという。そしてその息子であり、今回の演奏会の指揮者であるロレンツォも、やはりスイス生まれと紹介されている。より正確にはローザンヌの生まれで、生年は 1990年。なんと、未だ今年 28歳という若さである。上記の東響には 2014年に代役で登場、2016年にも同楽団を指揮していて、次回の登場でヴェルディのレクイエムを振るのは、来年 1月である。彼は 2013年に 22歳でカダケス指揮者コンクールに優勝して以来、大躍進を続けており、コンセルトヘボウ管やウィーン・フィルの指揮台にも、代役ながら既に登場している。なるほど、20代にして既に世界の一線で活躍している指揮者なのだ。これは親が誰であろうと関係ない、彼自身の能力ゆえである。このような髭面なので、20代には見えないのだが。
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そんなロレンツォ・ヴィオッティが今回指揮したのは、以下のようなフランス音楽プログラム。
 ラヴェル : 道化師の朝の歌
 ラヴェル : ピアノ協奏曲ト長調 (ピアノ : 小山実稚恵)
 ドビュッシー : 牧神の午後への前奏曲
 ドビュッシー : 交響詩「海」

フランス音楽にも様々あるが、近代を代表するドビュッシーとラヴェルの、それぞれの代表作を並べたプログラムは、この炎暑の東京で聴くにはちょうどよい、涼やかな内容だ。特に後半のドビュッシーは、今年が没後 100年ということもあり、この 2曲の代表作をコンサートの後半に続けて演奏する例は、つい先ごろもアシュケナージと NHK 響でもあった。聴きごたえ充分の曲目である。そして演奏も、概して流れのよい、充実したものであったと思う。このヴィオッティは今回、いずれも譜面を見ながらの指揮であったが、「牧神」だけは指揮棒を持つことなく素手での指揮。しかも冒頭部分は指揮をせずに、フルート奏者がソロを吹き出すタイミングはお任せであった。つまり彼は、自らの強い指導力でオケを引っ張ろうというタイプではなく、あくまでも自然な流れを尊重して、楽員を乗せて行くタイプなのであろう。その一方で、最初の「道化師の朝の歌」では、この短い曲に様々に現れる多彩な音を、大変丁寧に描き出していたし、「海」においても、静かな部分から息長く盛り上がって行く部分には、設計の巧みさを感じさせるものがあった。なるほど、これはただならぬ 28歳だ。このような指揮者が若い頃から日本で演奏活動を展開してくれれば、私たちはもしかすると、彼がどんどん高みに達するところを目の当たりにすることになるかもしれない。考えてみれば、東フィルの首席指揮者アンドレア・バッティストーニは、このヴィオッティよりも 3歳上であるだけの、今年弱冠 31歳という、やはり俊英である。今回のヴィオッティの演奏を聴いて、さらに力強いレパートリーを聴いてみたいものだと思ったが、考えてみれば東フィルでは、そのバッティストーニが既に力強いレパートリー (ブルックナーやマーラーはないものの) をかなり採り上げている。なので、そのような対照も、年間のプログラミングの観点からは興味深い (バッティストーニが今回のようなプログラムを振るとは考えにくい)。これは 3年前、25歳のヴィオッティが、ザルツブルク音楽祭で、ネスレをスポンサーとしてのヤング・コンダクター賞を受賞したときの写真。若いなぁ。
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それから、今回のソリスト小山実稚恵は、言うまでもなく日本を代表するピアニスト。
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私は彼女のピアノは常々素晴らしいとは思っているものの、やはり抒情的な音楽に、その美感が最大限に発揮されるものと思っている。それゆえ今回のラヴェルのような、切れ味と、ある種の踏み外しが必要な曲では、その持ち味の最良な部分を聴けたかというと、正直なところ少し疑問。もちろん、タッチは澄んでいて、第 2楽章冒頭のソロのような部分では充分に美しかったのであるが、耽美性はあまりないし、全体にもっとヤンチャなピアノの方が、この曲には合っていると感じた。そういう意味では、彼女がアンコールで弾いたドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」の方が、小山独自の抒情性が感動的に響いたと言えると思う。これはある意味では、ラヴェルとドビュッシーの音楽の持ち味の違いとも言えるかもしれない。ラヴェルにも美しいピアノ曲は沢山あるが、そう、例えば、「海原の小舟」とか「悲しい鳥たち」(おっと、いずれも今回の演奏会の冒頭で演奏された「道化師の朝の歌」の原曲と同じ、ピアノ曲集「鏡」の中の曲だ。だって、「夜のガスパール」よりは抒情的ですから。笑) とか、あるいは「水の戯れ」でもいい。そこにある美しさには、華麗なる繊細さが伴っていて、ドビュッシーのような、単純そうでいて実は複雑な情緒とは少し異なる。似て非なるもの。その差を自由に感じるのが音楽の面白さのひとつだろう。

今回の東フィルの演奏を聴いて思ったのは、とても素晴らしい部分と、若干の不安定さを感じさせる部分が同居していること。弦楽器の素晴らしい音が、ふとした瞬間に、何かちょっと響き切っていないかなと思う時もあったり、木管や金管のソロには極上の瞬間もあれば、細かいミスも散見されたように思う。考えてみれば、爆裂系のバッティストーニや、カリスマで音楽を高みに運んで行くチョン・ミョンフン、ちょっと変化球で攻めるプレトニョフというこのオケの指揮者陣は素晴らしいものの、一方では、きっちり細部を締めるタプの指揮者も迎えた方がよいのではないか。オペラの比重も重いこのオケとしては、ある種の現場主義も大事だと思うが、シンフォニーのレパートリーで鍛えられると、オペラ演奏もさらに高い水準に達するものと思う。その意味では、このヴィオッティなどは、もしかするとこのオケがもっと共演を必要とするタイプであるかもしれない。一方のロレンツォ・ヴィオッティは、ネットで検索すると、自分は父とは違うタイプの指揮者であると語っている英語のインタビューなども見つかるが、でもやはり私としては、この写真を掲載することをお許し頂きたい。これは、父マルチェッロ・ヴィオッティ 50歳の誕生日、ということは 2005年 6月の、家族揃っての写真。マルチェッロの死の 8ヶ月ほど前ということになる。もちろんロレンツォは、右から 2番目だ。母とおぼしき女性に肩を抱かれている。未だ 15歳の頃の、未来のマエストロである。家族の歴史とはまた異なる音楽の歴史に、彼がこれから名を刻まんことを。
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# by yokohama7474 | 2018-07-20 00:25 | 音楽 (Live) | Comments(0)

デッドプール 2 (デヴィッド・リーチ監督 / 原題 : Deadpool 2)

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この映画の 1作目を記事として採り上げてから 2年。私が覚えているのは、当時あの映画の日本版のポスターが、文化ブログにふさわしくないとして、わざわざ米国版のポスターを冒頭に持ってきたことだ。だが私はその記事で、この「クソ無責任ヒーロー」が活躍する映画をかなり楽しんだことを書いた。今それを自分で読み返してからこの記事にかかっているのであるが、ある意味、我ながら私という人間の感性にはぶれがないというか (?)、この 2作目の感想は 1作目と同様か、もしかするとそれ以上に主人公デッドプールに感情移入してしまったかもしれないと、ここで正直に述べておこう。まあ、ぶれがないのも道理で、私はこのブログを、誰から強制されることもなく自分の意思で、思いのままに気楽に綴っているわけであるからして、そこには誰かに対する遠慮も忖度もない。それゆえ、1作目よりもさらに手の込んだ出来となったこの 2作目を、一言「面白い!!」と断言することになんの躊躇もないのである。ただまあ、こんなミケランジェロのパロディを見ると、調子に乗るなよと言いたくなってしまうのは否めないのだが (笑)。
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それにしても、シリーズ作で 1本目に負けず劣らず 2本目が面白い例は、意外と少ないと思うのである。それはこの作品が、1本目とは違う監督でありながら、同じテイストを通していること、そしてそれは、ここで主役のみならず、製作、脚本にも名を連ねているライアン・レイノルズの個性によるものであると言ってよいと思う。この、決して上品ではなく、正統的なヒーローでもない、軽薄でいながらなんとも人間的で、どこか憎めないキャラクターを演じるのは大変なことだと思うが、前作以上にここでは、主役であるデッドプールのキャラクターが際立っている。それから、今回もあらゆる箇所で小ネタが炸裂。もちろん私はそれらをすべて理解できるわけではないが、例えば、冒頭近くで主人公が恋人の待つアパートに遅れて行ったときの言い訳が、「いやさ、なんか黒いマントをかぶった奴が出てきてさ、ソイツの母親の名前もマーサっていうらしくてさ、それで時間を取ってしまって」というものであったりするので、私などは劇場で声を上げて笑ってしまった。もしかしたらこれのモトネタをご存じない方もおられるかもしれないが、このブログでも採り上げて、私が酷評した映画がネタになっている。因みにその映画は、この「デッドプール」シリーズが属するマーヴェルのシリーズではない。マーヴェルのシリーズと言えば、X-Men やアヴェンジャーズということになるが、この映画の冒頭には、前者の「LOGAN / ローガン」がネタとして使われている。1作目の記事にも書いたことだが、実はこのデッドプールというキャラクターはもともと、ヒュー・ジャックマン演じるローガン = ウルヴァリンが主人公である「ウルヴァリン ; M-Men Zero」に登場したキャラクターである。実はこの映画では、そのことが結果的に重要なメッセージになっているので、最初から最後まで、お見逃しなきよう。これがその「ウルヴァリン ; X-Men Zero」のイメージショット。
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いやそれにしても、X-Men シリーズの派生作品でありながら、この映画の独自性には改めて感じ入る。前作に続いての R15 指定であるのは、そのアクションシーンに必要以上に残酷なものが含まれているからだろうが、そのような悪趣味も、映画全体を見てしまえば大して気にならないから、不思議である。デッドプールにはどうやらウルヴァリンに対する対抗意識があるようで、冒頭近くで「LOGAN / ローガン」が R15 指定でありながら興行的に大成功を収めたことに対する揶揄がある。これなども、ひたすらカッコいいウルヴァリンとの対比による巧みなキャラクター設定であろう。だが、彼らに共通する面もあって、それは、超人的な能力を持つヒーローの中には、常に孤独があるということだ。そしてこの「デッドプール 2」は、その孤独を癒す家族的な連帯感の発生をテーマとしている点、意外性もありながら、なるほどと納得させられるものがあるのだ。

主人公の孤独を結果的に癒すことになるのは、この未来からやってきた凶暴なキャラクター、ケーブルである。演じるのはジョシュ・ブローリン。つい最近では、「アベンジャーズ / インフィニティ・ウォー」における大悪役、サノスを演じて強烈な印象を残したが、この「デッドプール 2」でも、「おい、サノス!!」と呼ばれるというおふざけがあり、ここでまた私は劇場で爆笑。
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そのほかにも、本当に可笑しいシーンがいくつもあるのだが、予告編でも流れていたこのシーンの後の展開なども、もう爆笑しかない。詳細はネタバレになるので書かないが、いやいや、可笑しいのなんのって。
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因みにこのデッドブール、前作で描かれていた通り、不治の病を患っていたが、生体実験によって不死の体を得る (フジからフシとはこれいかに)。今回はそのような彼の特性が充分に生かされていて、自らの身体を破壊しようとしても、必ず蘇生するのである。秀逸なのは、彼が腰から下を失ってしまうシーン。これはルームメイトである盲目の老女によりそうデッドプール、いやウェイド・ウィルソンだが、このときには未だ若干の (?) 問題を抱えているのである。
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死ぬことすら許されないスーパーヒーローはしかし、本編の最後に至って、いや正確にはエンドタイトルに入ってからだが、思い切った行動に出る。私がこの映画を面白いと思うのは、このような大胆な設定にもよるのである。そう、私も調べてみて分かったのだが、主演のライアン・レイノルズは、「グリーン・ランタン」という作品で初の主役を射止めたらしい。なるほど、ということはこの映画の最後でデッドプールは、自らのヒーローとしての重責に耐えかねて、自身の存在を否定する行為に出ているわけである。これは何気ないようでいて、かなり深いメッセージであると私は見た。これが「グリーン・ランタン」。
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本作の監督デヴィッド・リーチは、オープニングタイトルでふざけて紹介される通り、「ジョン・ウィック」で主人公の犬を殺した奴。そう、あのビーグル犬が殺されるキアヌ・リーヴス主演の映画の共同監督だった人。単独での監督デビューは、シャリーズ・セロン主演の「アトミック・ブロンド」であるらしい。あれも激しいアクションがなかなか面白い映画であった。この監督、もともとスタントマン出身らしく、アクションの捌き方には秀逸なものがある。本作でも、新しいアクションシーンを見ることができる。
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さて、こうなってくると、家族愛にも目覚めてしまったデッドブールが、さらにスクリーンで活躍することを期待するしかないだろう。小ネタ満載で華麗なアクションがあり、下品でおしゃべりで軽薄だが憎めないヒーローは、現代人にとって必要なものであると思うのである。この映画は是非、普段マジメな顔で暮らしている人にご覧頂きたいと思う、下品でおしゃべりで軽薄な私であります。
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# by yokohama7474 | 2018-07-18 00:54 | 映画 | Comments(0)

アラン・ギルバート指揮 東京都交響楽団 2018年 7月16日 サントリーホール

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前日の準・メルクルに引き続き、日本人の母を持ち、欧米で活躍する指揮者の登場である。それはほかならぬ、アラン・ギルバート。1967年生まれの 51歳。つい昨年まで 8シーズンに亘って、押しも押されぬ世界第一級のオーケストラ、ニューヨーク・フィルの音楽監督を務めていた。彼は今般東京都交響楽団 (通称「都響」) の首席客演指揮者に就任し、今回の一連の演奏会がそのお披露目公演である。彼の指揮ぶりは過去にこのブログでご紹介したが、私にとっては、日系人であるということなど全く何の関係もない。世界でも有数の実力を持つ指揮者として、深く尊敬する音楽家である。今回は、この写真よりもさらに髭を濃くして登場した。
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彼の指揮ぶりは、その大柄な体格を反映したようなダイナミックなもの。だがその一方で、決して粗野ではなく、高い知性を感じることのできるものである。この素晴らしい指揮者が都響の指揮台に今後かなりの頻度で現れてくれることは、今後の東京の音楽界にとっては大変に意義深いことであると私は思う。そんなギルバートが今回採り上げた曲目は、以下の通り。独墺系の大小のシンフォニーである。
 シューベルト : 交響曲第 2番変ロ長調 D.125
 マーラー : 交響曲第 1番ニ長調「巨人」(クービク新校訂全集版)

さて、演奏開始前にステージを見ると、フルート首席の場所に、女性が座っている。慌ててプログラムを見ると、このオケの首席フルート奏者は 2名の男性である。これは奇異なこと。そして、さらに奇異なことには、プログラムにそのような記載はないものの、その女性は、日本を代表するフルーティストのひとりである、高木綾子に相違ない。周囲の木管奏者と何やら楽譜を見ながら話し合ったり、大変くつろいだ様子に見えた。どういう背景であるのか分からないが、きっとオケの一員としての演奏をご本人も楽しんだのではないだろうか。
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今回ギルバートは、全曲を通して譜面台も置かない暗譜での指揮。しかも最初のシューベルトは、指揮台すらも使わずに、床に立って、小規模な私的演奏会で演奏されたであろうシューベルト初期の交響曲を指揮した。編成はコントラバス 4本で、ヴァイオリンは左右対抗配置を取る。面白かったのはヴィオラとチェロの位置で、通常は指揮者正面左にヴィオラ、右にチェロという配置が多いと思うが、今回はその逆。ギルバートの音響へのこだわりを感じさせた。だが、音楽が始まってみると、楽器の配置がどうであれ、確信に満ちた足取りの音が鳴り渡り、貧血の初期ロマン派の演奏とは一線を画す、ダイナミックなものであった。これぞアラン・ギルバートの音楽である。この曲では木管の活躍する箇所が多いが、高木はさすがの技量で涼やかな音色を響かせ、かつ、周りの奏者との呼吸も素晴らしい。さすが、演奏前に打ち合わせをしただけのことはある (笑)。

今回のメインはマーラーの人気曲「巨人」であるが、そこに添えられた「クビーク新校訂全集版」という注釈は、一体どういうことなのか。実はこの版は、1893年ハンブルク版とも呼ばれるもの。つまり、マーラー自身が 1889年にブダペストでこの曲を初演した後、1893年に今度はハンブルクでその改訂版を指揮した、その時の版が基本とされているようだ。ただ実際のところはもう少し複雑で、このクビークという人の校訂による版は、本当のハンブルク初演版と同じではなく、その後の作曲者自身による改訂も反映されているという。このクビーク版の世界初演は、2014年にトーマス・ヘンゲルブロック指揮 NDR エルプフィル (旧北ドイツ放送響) によって、つまりはまさにこの曲ゆかりのハンブルクで、なされたというが、この NDR エルプフィルは、奇しくもアラン・ギルバートが来年 9月に首席指揮者に就任するオケで、そのコンビでの来日公演も、早くも今年 11月に予定されている。ともあれ、この版の特徴のひとつは、最終稿では削除されてしまった「花の章」が第 2楽章として残っていること。トランペット独奏を含むメランコリックな音楽は、マーラーの本質的な部分と深く結びついているようにも思われ、私は結構好きな音楽なので、今回は予期せずそのような版での演奏となったことを喜んだのである。そして演奏は、やはり万感のニュアンスを秘めながらも力強く進むもので、世界最高クラスの指揮者と、マーラー演奏にかけては世界的な水準を誇る都響のコンビには、この曲の特性がぴったりフィットする。ギルバートはなんら奇をてらったことをせず、正統的な解釈でオケをぐいぐいと引っ張り、実際にそこに立ち現れてホールを満たした音響は、本当に聴き物であった。終楽章の大詰めでホルンが高らかに鳴り響く箇所では、ホルン奏者たちが起立するのを見るのが私の好みなのであるが、今回は起立はない。なぜならば、この時点のスコアでは、未だそのような指示は書かれていないからだという。ともあれ、最初から最後まで見事な音響設計の演奏であり、ここでも高木綾子のフルートは大きく貢献していたが、やはりそれだけではなく、最後の最後で全楽器が一丸となって作り出した大団円に、鳥肌立つものを感じたのであった。

それにしても改めて感じるのは、マーラーが追い求めた音像には、ある一貫したものがあるということである。比較の対象としてブルックナーを挙げると、先の記事で言及したブルックナーの 4番は、やはり作曲者自身が何度も改訂をして、いくつもの版が出来てしまった。それに対してこのマーラーの 1番は、今回の版が通常演奏される版と異なる点は、細部にはいろいろあるようだが、耳で感じて分かる箇所はかなり限られていて、メインの旋律の伴奏音型であったり、楽器間のバランスであったりという程度。曲そのものは、マーラーの頭の中ではごく初期から出来上がっていたということであろう。その点がマーラーとブルックナーの大きな相違であると感じた次第。これが 1895年、ハンブルク歌劇場の音楽監督であった頃のマーラー。
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さて、ギルバートと都響は、今回もうひとつのプログラムを用意している。それも大変に興味深い内容なので、大いに期待することとしよう。

# by yokohama7474 | 2018-07-16 22:15 | 音楽 (Live) | Comments(0)

準・メルクル指揮 国立音楽大学オーケストラ 2018年 7月15日 国立音楽大学講堂大ホール

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全国で軒並み猛暑日を記録したこの日、準・メルクルの指揮する国立 (くにたち) 音楽大学のオーケストラを聴きに、この大学のある立川市に出掛けた。メルクルについてはこのブログでも何度も記事で採り上げているが、1959年ミュンヘン出身の名指揮者で、ドイツ人の父と日本人の母の間に生まれている。
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世界各地で演奏活動を繰り広げ、多忙な身である彼だが、2013年からこの国立音楽大学の招聘教授を務めている。そしてここの学生オケとは、2006年の定期演奏会で初めて顔を合わせたのち、2012年以降は毎年指揮をしているらしい。優れた音楽家の多くが、自身の演奏活動に加え、後進の育成に力を注いでいるが、メルクルもその例外ではないどころか、かなり多くの時間を割いて教育活動を行っているわけであり、本当に頭の下がることである。そして彼の指揮する曲目がすごい。なにせ初顔合わせがマーラーの 3番、その後 2番「復活」、1番など、マーラーを積極的に採り上げている上、昨年にはメシアンのトゥーランガリラ交響曲を振っている。そして今回、第 129回の定期演奏会の曲目も、ちょっと驚くようなものだ。
 細川俊夫 : 循環する海
 マーラー : 交響曲第 5番嬰ハ短調

これはプロのオケでも、かなり気合の入る内容ではないだろうか。私もこれまで、このメルクルが指揮した、複数の大学の選抜メンバーによる演奏会に加え、世界的な名声を誇る指揮者が学生オケを指揮する演奏会を何度か経験しているが、学生たちが本気で頑張るのはもちろん、指揮者の方もいつも真剣勝負である点に、感銘を受けることが多い。つまり、音楽を演奏するその瞬間には、オケがプロとかアマといったことは関係なく、ただよりよい音楽を演奏するという情熱だけがそこにあるからだ。結果として、聴く側にしてみれば、プロのオケよりもよしんば技術的に劣る面が時にあるにせよ、そこで鳴っている音楽の真剣度によって、プロの演奏よりもむしろ感動するようなこともある。それがアマチュア・オケを聴く醍醐味であると言ってもよいように思う。それゆえ、灼熱の中、我が家からは決してアクセスのよいとは言えない立川まで、車で向かうこととしたのである。学内にある講堂が今回の演奏会場であるが、客席数 1,200ほどで、ステージ奥には大きなオルガンが設置してある立派なホールである。
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さて今回の 1曲目は、現代日本を代表する作曲家であり、メルクルが録音でも実演でも積極的に採り上げている、細川俊夫の作品で、「循環する海」。メルクルは既に NAXOS レーベルにおける細川作品のシリーズで、ロイヤル・スコティッシュ管とこの曲を録音しており、その CD はもちろん手元にあるので、事前に予習というか、復習してから会場に向かった。実はメルクルは同じレーベルで、当時の手兵であるフランス国立リヨン管ともこの曲を録音しているが、このコンビは何を隠そう、2007年にこの曲を日本初演しているのである。メルクルにとっては、細川作品の中でもとりわけ自家薬籠中の物となった曲なのであろう。
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この曲はザルツブルク音楽祭の委嘱で作曲され、2005年にヴァレリー・ゲルギエフ指揮のウィーン・フィルによるザルツブルク音楽祭の演奏会で世界初演された。演奏時間 20分ほどであるが、たゆたう波の様子から、ドラマティックな嵐の部分までを美しく描いた作品である。だがこれは、(ドビュッシーの交響詩「海」もそうだと思うが) 海の様子を克明に音で再現した描写音楽ではなく、むしろ、海を前にして人間の内部に沸き起こる情感を音に託したものではないだろうか。今回ではオケの美感も大変素晴らしく、忙しい打楽器奏者たちもきっちりと持ち場で仕事をこなしていたし、繊細な弦や管も、大変充実していた。例えば後半にソロが出て来る、あれはアルト・フルートであったろうか、低音の木管などは、大変印象に残る出来であった。

そして後半の大曲、マーラー 5番であるが、さすがにこの曲は世界最高峰の楽団が既に東京で実演を披露しているので、学生オケの音のクオリティ自体は、それには及ばない。だが、上にも書いたことであるが、実際に音楽が鳴っている場に身を置いていると、段々そのようなことが気にならなくなるから不思議である。実際にこのような複雑なスコアを、全員の共同作業で壮大な音にするということは、それだけで大きな意味があるのだということを実感することで、細かい部分でどの音がどうだという感覚が減って行き、マーラーの音宇宙といったような言葉を連想するようになった。もちろん、第 3楽章スケルツォでのホルンは健闘していたし、弦楽器では特にチェロが随所でよく鳴っていて、それらがこの曲の大事な部分を担っていたことも間違いない。メルクルは時にテンポを細かく動かす場面もあったが、それが音楽の緊張感を増していたように思う。終曲のロンドにはあらゆる感情が絡まり合い、大団円に至るのだが、今回もその部分の高揚感には大いに感動させられた。演奏した学生さんたちにとっても、充実感満点のコンサートであっただろう。そして、あの暑い日、準・メルクル先生の下で、皆でともに演奏したマーラーを、いつの日かまた思い出すことだろう。それがひとりひとりの生涯の財産になることは、間違いないことだと思うのである。

国立音楽大学のウェブサイトでは、メルクルとのこれまでのかかわりについての情報を多く得ることができるが、2012年、ということは未だメルクルが招聘教授に就任する前に、副楽長がインタビューしている記事があって、その中で副楽長は、「うちの学生が日本一とは断言できない。正直、ほかにもっとうまい学生オケもあるのに・・・」という内容の発言によって、世界的な指揮者であるメルクルがこのオケを振ってくれることへの謝意が表されるが、メルクルはそれに対し、学生たちが一丸となって練習していること、教授陣もリハーサルを熱心に聴いていること、などを挙げて、この環境は普通ではなく素晴らしい、自分の信じる「進化すること」が可能な点に価値がある、と答えている。その言葉が嘘でないことは、その後毎年このオケを指揮していることに表れているし、それから、今回のプログラムによると、このオケのコンサートマスター使用楽器は、「国立音楽大学所有 (準・メルクル先生より寄贈)」とある。それだけメルクルは、この大学の学生たちとの共同作業に強い熱意を持っているということだ。このような関係がまた、明日の東京の (と言わず、世界のかもしれないが) 音楽界に貢献して行くのであろう。また立川まで出掛ける日を楽しみにしたい。
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# by yokohama7474 | 2018-07-16 12:34 | 音楽 (Live) | Comments(0)


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