ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 NHK 交響楽団 2018年 4月26日 サントリーホール

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90歳の巨匠、ヘルベルト・ブロムシュテットと NHK 交響楽団 (通称「N 響」) との顔合わせによる定期公演の 3演目め。今月の定期公演のテーマであるベートーヴェンの作品による演奏会で、曲目は以下の通り。
 ベートーヴェン : 交響曲第 8番ヘ長調作品93
 ベートーヴェン : 交響曲第 7番イ長調作品92

ここで思い出してみたいのは、前回のこのコンビによる演奏会の曲目は、ピアノのマリア・ジョアン・ピリスを迎えて、同じベートーヴェンのピアノ協奏曲第 4番作品58と、交響曲第 4番作品60であった。その演奏会の記事に書いた通り、この 2曲は作品番号が 2つしか違わず、しかも 1807 年の同じ演奏会で初演されている。そして今回の 2曲も、連続した作品番号から分かる通り、ほぼ同時期に書かれたものであり、初演は 1年違い (7番が 1813年、8番が 1814年。そう言えば前者は、戦争交響曲「ウェリントンの勝利」と同じ演奏会で初演されたことは有名で、ということはつまり、ナポレオン率いるフランス軍が英国軍に敗れた直後の頃である)。今回の演奏会で、番号の若い 7番が後に来ている理由は、ひとえにコンサートのトリを飾る盛り上がりは、なんと言っても 7番の方が 8番よりも上であるからだろう。
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音楽ファンはもちろんこの 2曲を熟知しているのであるが、西洋音楽史上抜群の人気曲である 7番に比べて 8番は多少地味な印象があることは事実であるものの、だがその 8番も、実は偉大なる交響曲なのであるということもまた事実なのである。序奏なしにいきなり流れ出す勢いのよい旋律は極めて印象的だし、曲想の鮮やかな変化はワクワクするようなものであり、時にはポコポコというとぼけた味わいがあるかと思うと、盛り上がってくると滝のように音が次々と押し寄せてくる。第 2楽章は当時発明されたばかりのメトロノームへの皮肉のようであり、牧歌的なトリオを持つ緩やかな舞曲である第 3楽章も、そして、仕掛けとユーモアあふれる第 4楽章 (私は随分以前に学生オケでこの曲を聴いたとき、終結部でティンパニが忙しく叩いた挙句、バチがヒューンと飛んで行ったのを見たことがあり、まさにこの曲のユーモアを体現した演奏と聴いたものだ。笑) も、楽しい。本当の意味での緩徐楽章がなく、リズムが重要な意味を持つという意味では、この 8番は 7番と共通点があり、それゆえこの 2曲を続けて聴くことには意味があると思うのである。

さて、今回の演奏を表現してみると、90歳という年齢が信じられないような活力溢れる演奏と言ってもよいかもしれないが、私としてはそれよりも、巨匠指揮者が、その実年齢はともかく、長い時間をかけて追求して来たベートーヴェンとの対峙方法に、N 響が素晴らしい反応を示した演奏であったと表現したい。編成は予想通りコントラバス 6本で、木管楽器もスコアの指定通り。そして、いつものようにヴァイオリンの左右対抗配置を取り、指揮棒なし、椅子を使わずに立ったままでの、暗譜による指揮であった。今回の 8番と 7番の演奏には共通点があり、それは、いずれも第 1楽章の (と、7番では終楽章も) 反復を励行していたことと、第 1楽章と第 2楽章を続けて演奏していたことだ。このことによって、この 2曲の共通点と相違点が浮き彫りになっていたような気がする。驚くべきはそのテンポで、実にきびきびとしたもの。特に 8番はかなり速めのテンポであり、老齢の指揮者のリズムやテンポが硬直することはむしろ当然であることを思うと、驚異的なことであると言ってよいだろう。8番はここで、古典的なフォームを保ちながらも、ベートーヴェンの音楽の持つ人間くささを明らかにしていたとするなら、7番の方は、よくあるバリバリと弾き飛ばす演奏ではなかったがゆえに、音楽の起伏がよく見える演奏になっていたと考えたい。あるいは、8番の音楽にユーモラスさとともに凶暴さもあることを感じる一方で、7番にはリズムだけでは表しきれない音楽の激性を認識した、と申し上げようか。そこには、N 響の高い技量が活かされていたことを忘れてはならない。象徴的であったのは 7番の終楽章で、もちろんここではヴァイオリンの対抗配置は著しい効果を上げていたのだが、コンサートマスターを務めた篠崎史紀以下の弦楽器奏者たちは、熱狂に浮かれて音楽にのめり込むというよりは、極めてプロフェッショナルに、またクールに、お互いによく聴きあいながら、音を捌くという印象であった。それによって、この楽章がただリズミカルに熱狂するだけの音楽ではなく、低弦のオスティナートが練り上がって行くことで、音そのもののドラマが生まれるのだということを再認識することになった。ブロムシュテットの取っているスタイルは、昨今の古楽器演奏の成果を反映していることは確実で、例えば速いテンポなどはその表れだろうが、大事なことは、その音楽が説得力をもって聴衆に感動を与えるか否かである。今回の音楽は間違いなく感動的であった。東京でこのようなヨーロッパ音楽の神髄を聴くことができるとは、我々はなんと恵まれていることだろうか。

このブロムシュテットは、最近もライプツィヒ・ゲヴァントハウス管とベートーヴェン全集を録音しているが、私などは若い頃、名盤とされていたシュターツカペレ・ドレスデンとの全集 (1975 - 1980年録音だから、未だ東ドイツ時代である) を聴いていたものだ。ふと思い立ってその CD を引っ張り出してきて、7番と 8番を少し聴いてみると、それは今回の演奏とは全く違うスタイルの演奏で、決して重々しすぎることはないが、やはり旧来のドイツ的な音楽という表現で呼びたくなるもの。少なくとも 8番のテンポは今回の演奏よりも遅いし、7番の第 1楽章提示部の反復は省略している。それゆえ今回の演奏は、この名指揮者のベートーヴェン探訪の成果であると思うのであるが、だが音楽の面白いところは、かといってこの古い全集の価値が減じたかと言えば決してそうではなく、これはこれでやはり、優れた演奏なのである。この 5枚組の CD、3,000円ほどで手に入る。なんと有難いことだろう。
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さて、今回のブロムシュテットと N 響の一連の演奏は、今回と同じプログラムによる 4/29 (日) のオーチャードホール定期で終了であるが、ふと思い出したことがある。そう言えば、N 響とバンベルク交響楽団の共同企画で、ブロムシュテットのベートーヴェンの交響曲ツィクルスが進行中という情報が、以前あったはずだ。記事に書いた記憶があったので、今回調べてみた。2016年11月 4日の記事 (ベンベルク響との「田園」その他のプログラム) から、一部抜粋しよう。

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因みにプログラムによると、バンベルク響とN響の共同で東京においてベートーヴェンの交響曲ツィクルスが進行中とあり、なに、そんな話聞いていないなと思いながら、近年(2010年以降)のブロムシュテットの東京でのベートーヴェン演奏を、ちょっと調べてみた。尚、N響に関しては定期演奏会だけしか調べていないので、それ以外のコンサートで演奏されている場合はここから抜けていることになる。
 2010年 : 3番(N響)
 2011年 : なし(N響への登壇はあり)
 2012年 : 3番、7番(バンベルク響) (N響への登壇はなし)
 2013年 : なし(N響への登壇はあり)
 2014年 : なし(N響への登壇はあり)
 2015年 : 1番、2番、3番(N響)
 2016年 : 5番、6番(バンベルク響)、9番(N響、12月の予定)
ツィクルスの始まりがいつであるのか分からないが、仮に前回のバンベルク響の来日公演の2012年とすると、残るは4番と8番だけとなる。3番「英雄」だけは、既に3回演奏されているのだが。
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なるほど、今回ブロムシュテットと N 響は、4番も 8番も演奏したので、これでツィクルス完了である。誠にご苦労様でした。そのブロムシュテット、今年はまた 10月に、ということはわずか半年後だが、N 響の指揮台に帰ってくる予定である。10月のプログラムにはブルックナー 9番やマーラー「巨人」というヘヴィーな作品も入っていて期待されるが、実はベートーヴェンも、6番「田園」が含まれている。あ、ちょっと待て。上のリストをよく見てみよう。この中で N 響ではなくバンベルク響が演奏していたのは、5・6・7番である。今回彼らは 7番を演奏し、10月に 6番を演奏すると、あとは 5番さえ演奏すれば、N 響単独で、ブロムシュテットとのベートーヴェン交響曲の全曲演奏が達成されることになるのである。・・・と書きながら、実は私は知っている。ブロムシュテットと N 響、既に度かベートーヴェン 5番を演奏していることを。一度は、先にご紹介した、ピリスとの共演によるモーツァルトのピアノ協奏曲第 17番が演奏された 1992年11月。その後も、手元ですぐ分かるところでは、1996年 9月に演奏している。ついでに言うならば、今回演奏された 7番や 8番も、過去に演奏歴がある。だが、上記に見た通り、彼は近年ベートーヴェン演奏のスタイルを変えてきているわけで、そのような長年の探求の末に辿り着いたスタイルでの全曲演奏には、やはり大きな意味があると思う次第。この巨匠が、これからもまだまだ東京で素晴らしい音楽を聴かせてくれることを、願ってやまない。
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# by yokohama7474 | 2018-04-27 00:30 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ヴァレリアン 千の惑星の救世主 (リュック・ベッソン監督 / 原題 : Valerian and the City of a Thousand of Planets)

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フランス人映画監督リュック・ベッソンは、私に複雑な感情を抱かせる監督である。カッコよい「ニキータ」(1990) あたりで注目され、文句なしの傑作「レオン」(1994) を撮りながら、その次の「フィフス・エレメント」(1997) ではガクッとその映画的高揚感を下げてしまい、続く「ジャンヌ・ダルク」(1999) も決して万人を感動させる内容ではなかったと記憶する。それから私にとっては彼の作品から疎遠な日々が続き、ようやく「LUCY/ルーシー」(2014) で久しぶりに再会したのだが、広げた風呂敷をどうやって畳もうかともがいている作品のように見えた。そして今回の「ヴァレリアン」である。一時期劇場ではこの作品の予告編が頻繁に流れていたが、緩やかに流れる音楽をバックにしたその映像はなかなかゴージャスであることは分かったし、ピーター・ジャクソンらの賛辞の言葉も興味深いものであった。やはり彼は、未だに注目すべき監督のひとり。この作品は見ておいた方がよいと考えた。ベッソンは 1959年生まれの 59歳。随分と恰幅よくなったものだ。
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さて、この作品の感想を一言で述べるなら、映像の情報量にクラクラするものの、なかなかに楽しめる映画であり、一見の価値はある。映像美はもちろんこの映画の大きな特色で、子供の頃「スター・ウォーズ」の 1作目を見たときに感じたような映像の魔術性が、21世紀の今日に甦った感すらある。その意味するところは、宇宙船やコロニーの壮大なリアリズムと、それと対照をなす手作り感満載のクリーチャーたちの両立と言えばよいだろうか。もちろん、「スター・ウォーズ エピソード IX」の時代には影も形もなかった CG がふんだんに使われているわけであろうが、ポイントは、その CG に依拠し過ぎない姿勢ではないか。見ている人たちが共感できるヴィジュアルには、必ず人間的なものが必要であり、この映画の成功はまずその点にあると思う。そう、その点に関して是非言っておきたいのは、主人公たち、若い男女のヴァレリアンとローレリーヌが最初に登場するシーンが象徴的であるということだ。この 2人は連邦捜査官なのであるが、コンビを組んで活動しており、既に恋仲、いや、映画の冒頭では未だそうでないかもしれないが、数々の冒険を通じて恋仲になっていく男女である。冒頭でこの 2人は、仮想の砂浜でくつろいでいるのである。というよりまぁ、ヴァレリアンがローレリーヌを頑張って口説いていて、スルリとかわされているのだが (笑)。
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このシーンがなぜに象徴的であるかというと、この 2人の使命は、広大な宇宙の平和を守ることであり、そこでの極めて危険な任務の数々においては、生命体としてはなんともちっぽけな存在。そんな彼らのちっぽけな肉体にこそ、広大な宇宙においても限りない重みを持つ「いのち」が宿っていることを実感できるからだ。実際、彼らの任務はこんな格好で遂行されるのが通常だ。ここでは生身の肉体はほとんど感じることができない。
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ここでごく自然に描かれた「いのち」という存在が、この映画のテーマになって行くことは、おいおい分かって行くのだが、考えてみれば、私がかつて全く評価できないと思った「フィフス・エレメント」も、実は同様のテーマであったのかもしれない。そうであれば、過去 20年の間に、リュック・ベッソンの手腕は上達したと誉めてやってもよいのではないか (笑)。もちろんそのような感慨を抱くことができるのも、主役の 2人、つまりはヴァレリアン役の米国人デイン・デハーン (1986年生まれ。過去の出演作には「アメイジング・スパイダーマン 2」のグリーン・ゴブリンが含まれるが、全く覚えていない) と、ローレリーヌ役の英国人カーラ・デルヴィーニュ (1992年生まれ。もともとモデルであるらしいが、「アンナ・カレーニナ」「スーサイド・スクワッド」などで映画出演歴を持つ) が、大変に好感を持てる役者たちだからだろうと思う。ヴァレリアンは精悍ではあっても、どこか憎めない三の線も持ち合わせ、ローレリーヌはじゃじゃ馬ながら、その意志の強さが美しさに直結している。よくこんな素晴らしいコンビを発掘してきたものだと感心する。尚このカーラ・デルヴィーニュ、ロンドンでふなっしーとも共演 (?) している。
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この映画のもうひとつの美点は、テンポのよいこと。導入部で時の経過を表し、舞台設定を説明する箇所で、ルトガー・ハウガーが政府役人として語っているシーンがあるのも嬉しい。また、ジャズの巨人ハービー・ハンコックが嬉しそうに国防長官を演じているし、クライヴ・オーウェンやイーサン・ホークもいい味出しており、また、これは、ジャバ・ザ・ハットならぬアイゴン・サイラスというクリーチャーだが、見ての通り (?) 声を演じているのはジョン・グッドマンだ。
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それから、中国資本も入っているので中国人が登場しているのも理由があるし、予告編でもナース姿への変身が鮮やかだったこのバブルという役は、リアーナという歌手が演じている。
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このような多士済々の顔ぶれが生きてくるのは、繰り返しだがその鮮やかなヴィジュアル性によってである。これも予告編で印象的であったミュールという惑星のシーンは、極めて美しいし、そこに住むパール人たちは、頭の形や目と目の間の距離など、実際の人間の姿に手を加えているのであろうが、大変よくできている。
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ほかにもこのようなクリーチャーたちが出てきて、さながら現代のヒエロニムス・ボスかと思われるような想像力である。
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登場キャラクターに命を吹き込むのはクリエーターの仕事であり、この映画でリュック・ベッソンは見事にその責務を果たしたと言えると思う。尚この作品、原作はフランスのコミックであるらしい。題名は「ヴァレリアンとローレリーヌ」というらしく、なんと 1967年の作品であるそうだ。実は「スター・ウォーズ」のヴィジュアルにはこのコミックからの影響があるというから、面白い。今回の映画のイメージが「スター・ウォーズ」に似ているのは、ある意味では至極当たり前であったわけである。
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このコミックは、ピエール・クリスタンという人が物語を作り、ジャン=クロード・メジエールという人が絵を描いているという (上の写真の上部左右に、彼らの苗字が記されている)。この 2人、なんと未だ健在で、撮影中にリュック・ベッソンを訪れている。楽しそうですなぁ。
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このように様々な要素が一体となって、大変に見ごたえのある映画に結実している。これもフランス文化の豊かさの一端であろうから、それに触れることのできたのは幸運であったと思う。こうなると、リュック・ベッソンの次回作も楽しみになろうというものだ。その期待を込めて、劇場に展示してあったポスターに書かれた彼のサインを撮影しましたよ。
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# by yokohama7474 | 2018-04-24 00:34 | 映画 | Comments(0)  

上岡敏之指揮 新日本フィル (ピアノ : アンヌ・ケフェレック) 2018年 4月22日 横浜みなとみらいホール

新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日本フィル」) とその音楽監督、上岡 (かみおか) 敏之の演奏会は、このブログでも何度にも亘って採り上げ、素晴らしい演奏、課題の残る演奏、私なりにそれぞれ率直な思いを記してきている。このコンビは先週サントリーホールで定期演奏会を開いているが、私は所用があってそれには行けず、残念な思いをしていたところ、横浜みなとみらいホールで同じ内容の特別公演があると知って、そちらに出掛けることとした。ただ、私の手元にはこのコンサートのチラシはなく、直前までその存在を知らなかったのである。東京では、コンサートの度に大量のチラシが配られる。私のようにそれなりの頻度でコンサートに出かける人間にとっては、そのほとんどは既におなじみのものなのだが、一応一通り見て、見覚えのないチラシを数枚だけ抜き取って、あとは処分するのである。大量のカラー印刷であるから、あれは地球環境上はあまりよいことではない (それとも、回収したチラシは再利用されているのだろうか) と思いつつも、やはり信頼できる情報ソースとして重宝している。ところが今回のみなとみらいホールでの新日本フィルの演奏会は、チラシを見た記憶がなかったのである。そのせいであるか否かは分からないが、会場の入りは、このコンビの真価を知る者にとってはかなり淋しいもの。何か、宣伝をもう少し工夫した方がよかったのではないだろうか。
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ともあれ、今回の曲目は以下の通り。
 モーツァルト : ピアノ協奏曲第 24番ハ短調K.491 (ピアノ : アンヌ・ケフェレック)
 ブルックナー :交響曲第 6番イ長調

最初のモーツァルトの 24番のコンチェルトは、彼のピアノ協奏曲の中で、短調で書かれた 2曲のうちのひとつ。もうひとつの短調協奏曲である第 20番ニ短調K.466とともに、貴族を聴衆として想定していた当時の器楽曲としては異例の、悲劇的な音響を持つ。だがもちろん、最初から最後まで短調であるわけもなく、穏やかな長調の箇所もあって、その表情の変化こそが素晴らしい曲なのである。今回ピアノを弾いたのは、フランスの女流、アンヌ・ケフェレック。私が学生の頃から、随分と息の長い活躍をしている人で、日本でも、ラ・フォル・ジュルネに何度も出演していておなじみであろう。今年 70歳である。
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とにかくこのような曲目であるから、デリケートな曲想の変化を、その一瞬一瞬で美しく聴かせて欲しいのであるが、その点、このケフェレックと上岡 / 新日本フィルの伴奏は、ともにデリカシー溢れる美しい演奏であり、実に素晴らしいものであった。このピアノをフランス風のギャラントなものと呼んでよいものか否か分からないが、何よりも音色の美しさが際立っていて、悲劇性すらもその美しさのひとつのありようという印象であった。物語性や起承転結ではなく、瞬間瞬間の音の煌めきにこそ、この日のピアノの持ち味があったものと思う。何気ないようでいて、モーツァルトをこのように演奏するのは、なかなか簡単なことではないであろう。ケフェレックが息長い活動によって聴衆に愛される理由が分かるような気がした。また、新日本フィルはもともと木管の上手いオケであると私は思っているのだが、ピアノの音をよく聴いて反応していることが感じられた。終演後は客席からは (多分おひとりだけだったと思うが) 大きなブラヴォーもかかり、アンコールとして演奏されたのは、ヘンデルのメヌエット (ケンプ編)。この曲は、孤独感と繊細な美感を兼ね備えるという意味で、モーツァルトの 24番のコンチェルトと共通点もあり、もともとバロックということを感じさせないロマン的な演奏には、深い感情が込められていた。オケの面々も静かに聴き入っていたのが印象的であった。

そしてメインのブルックナー 6番も、上岡と新日本フィルらしい、隅々まで神経の行き届いた名演であった。冒頭の弦によるリズミカルな音型は、通常よりもさらに弱音で奏されていたと聴こえたし、そのあとでオケが壮大に鳴り響くところでは、楽員の力を最大限に引き出す上岡の指揮に勢いを感じた。この曲はブルックナーの交響曲としては必ずしも人気のある方ではないのだが、激的迫力に満ちたダイナミックな曲であり、私は結構好きである。だだもちろん、さすがに 7番以降の大傑作交響曲群に比べると、心の奥底にまでズシンと来るほどの感動までは覚えない作品であるとも言えるだろう。それゆえにこそ、演奏する側としては、面白く聴かせようとしてうまく行く場合と、そうでない場合が出てきてしまうのだと思う。ブルックナーを積極的に手掛ける指揮者でも、この曲を敬遠する傾向があるのは、そのあたりにも理由があるのかもしれない。上岡は、決してブルックナーのスペシャリストというわけではないが、新日本フィルと継続的にこの作曲家を採り上げてきており、その壮大な音響世界の描き方には、独自のものを感じさせる指揮者である。すなわち、自らの感性を信じて、時にそれがほかの指揮者たちと異なるテンポやバランスであっても、堂々と描き上げるのである。そんな指揮に対して、弦楽器はいつものように全身全霊で貢献し、ここでもまた木管楽器 (この曲でもやはり木管は重要である) がそれぞれの持ち場でうまく音楽の流れに乗っていて見事であった。金管も輝かしく、ティンパニ (こんなにティンパニが重要なブルックナーの交響曲はほかにあるだろうか!!) も十全の演奏ぶり。約 60分の大シンフォニーを、強い一体感を持って演奏し尽したのは、素晴らしいことだ。プログラムの解説によると、今回上岡が完全暗譜の指揮によって採り上げた版は、通常のハース版 (1937年) やノヴァーク版 (1951年) ではなく、それより前の時代 (1927年) に出版されたヨーゼフ・フォン・ヴェスという人の校訂による版であった。そもそもこの曲は、5番と同じく、作曲者自身による改訂がないので、原典版としてはこれらの楽譜の間には、それほど大きな違いがあるわけではないようだが、それでもこのヴェス版には、細部においては、速度指定や強弱などの表情づけに、かなりの独自性があるらしい。そう言われてみれば、つなぎの部分などにちょっと耳慣れない箇所があったように思う。いずれにせよ、確かに細部の表情づけには大変に神経を使った演奏であったと思ったら、版の選択に既にそれが表れていたわけである。これこそまさに、上で触れたような上岡のこだわりであろう。これは、このコンビの、このみなとみらいホールでの過去の演奏会から。
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終演後、ちょっと所用があったので早々に席を立って退出すると、ロビーに出たところで、ホール内のモニターから、モーツァルト 29番の終楽章が流れてきた。おっと、アンコールがあったのか。一旦出てしまうと客席には戻れないので、涙を呑んで会場を後にしたが、ブルックナーを演奏した編成 (コントラバス 8本) で、あの颯爽と駆け抜ける古典音楽を演奏したのだろうか。これは大変に惜しいことをした。そもそも、通常の定期公演ではアンコールは演奏されないもの。今回はみなとみらいホールでの特別演奏会であったがゆえのことであったのだろう。実はこのホールでのシリーズにはちゃんと名前がついていて、「サファイア」という。因みにこのオケの定期には 3種類あって、トパーズ、ジェイド、ルビーだ。そこに加えてこのサファイアシリーズが今シーズン (2017年 9月開始) から始まっているのである。このシリーズは、サントリーホールでのジェイドシリーズの一部の演奏会を、場所を変えて繰り返すもので、 上岡の説明によると、基本的にブルックナーとマーラーのシリーズをメインにしているという。なるほど、そういうことだったのか。昨年 9月にはマーラー 5番。今回はブルックナー 6番。そして今年 9月開始の新シーズンの予定を見ると、このサファイアは、ブルックナー 9番、マーラー 2番と続く。それ以外にも、既にツェムリンスキーの「人魚姫」が演奏されているし、新シーズンにはワーグナー特集もあって、なるほど、ブルックナーとマーラーの周辺まで含めて、充実の内容である。なので、是非楽団にはこのサファイアシリーズも、チラシを作成してもっと宣伝して欲しいものであります!! 尚、このオケの新シーズンのメインの 3通りの定期公演においても、注目の指揮者を多く含む多彩な曲目が予定されていて、目移りしてしまう。ちょっと指揮者陣に触れてみようか。上岡以外に、ペトル・アルトリヒテル、ハンヌ・リントゥ、ローレンス・フォスター、ヒュー・ウルフ、レオポルト・ハーガー、フィリップ・ヘレヴェヘ、ベルトラン・ド・ビリーといった具合。ちょっと渋いかもしれないが、いずれも期待できる名指揮者たちである。このようなパンフレットで、どのコンサートに出かけるか、じっくりと検討してみたい。
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# by yokohama7474 | 2018-04-22 22:31 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 NHK 交響楽団 (ピアノ : マリア・ジョアン・ピリス) 2018年 4月21日 NHK ホール

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90歳にして、矍鑠という言葉すらも必要ないほど活発な指揮活動を続けているヘルベルト・ブロムシュテットが指揮する NHK 交響楽団 (通称「N 響」) の 2つめの定期公演のプログラムである。N 響の桂冠名誉指揮者であるブロムシュテット自身が語る通り、今回彼が振るのはベートーヴェンをテーマとしたプログラムばかり。前回は若干変化球であったが、今回はこのような真っ向勝負である。
 ベートーヴェン : ピアノ協奏曲第 4番ト長調作品58 (ピアノ : マリア・ジョアン・ピリス)
 ベートーヴェン : 交響曲第 4番変ロ長調作品60

なるほど、4番 + 4番と来たか。しかも作品番号は 2つしか違っていない。それもそのはず、実は私も今回知ったことなのであるが、この 2曲は同じ演奏会で初演されているのである。それは、1807年 3月、ベートーヴェンのパトロンであったロプコヴィッツ侯爵邸でのこと。因みに同じ演奏会では、「コリオラン」序曲も初演されている。これはすごいことなのだが、実は私は、そのロプコヴィッツ侯爵の子孫と知り合いであったのだ。ここで過去形を使わざるを得ないのは、ニューヨークに住んでいた彼は、65歳という若さで、昨年のクリスマスに突然逝去してしまったからだ。葬式には 1,000人以上が参列したと聞いた。私は彼とは仕事上のつきあいしかなかったが、いつか訊いてみたかった、ベートーヴェンのパトロンの子孫とはどういう気持ちかという質問は、永遠にできなくなってしまった。これがその私の友人の先祖である、フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツの肖像。そのパトロネージュによって、ベートーヴェンから多くの作品を献呈されている。
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この演奏会の注目はなんと言っても、ソリストであろう。ポルトガルの名ピアニストで、今年いっぱいで引退を表明しているマリア・ジョアン・ピリスである。N 響のプログラムでの表記は「ピレシュ」となっているが、それが原語の発音に近いのであろうか。
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まさに練達のピアノと指揮である。その期待感によるものであろう、NHK ホールは文字通りの超満員。ここでのブロムシュテットは、指揮棒なし、ヴァイオリン左右対抗配置はいつもの通りであるが、指揮台もなく、ステージの床に立っての指揮である。ピリスのリサイタルに関しては、東京で開かれた 2回の演奏会について既にレポートしたが、感傷を排して音楽そのものに語らせようという彼女のスタイルは、予想通りここでも同じであり、さすがに筋の通った演奏姿勢を再認識することができたのである。この協奏曲の特色は、まず第 1楽章ではピアノがモノローグのようにソロで語り始め、第 2楽章ではその逆で、オケが重々しい音を奏してからピアノの孤独な呟きに耳を傾けるという、その相互関係なのである。そして最終楽章ロンドでは、弾けるような喜びが走り回り、ここで初めてティンパニが入る。今回の演奏は、様々に移り変わるピアノとオケの会話が大変に濃く、音楽的情景の推移が明確に感じられるようなものであったし、何よりも人間の呼吸を感じさせるような自然さが素晴らしい。ピリスのピアノは相変わらず美しく、それに呼応するオケが、第 1楽章から徐々に深い音の世界に入って行くのを聴くのは、まさに音楽の醍醐味であった。終楽章でほんの僅かなもつれはあったものの、ピリスのピアノは技術を遥かに超えたもの。彼女とブロムシュテットの協業は、ベートーヴェンの音楽の力強さと美しさを、ともに明らかにしたと思う。そして、拍手に応えてピリスが弾いたアンコールは、4/12 (木) のリサイタルと同じく、「6つのバガテル」作品 126の第 5曲。ここではまた、先日と同様、ベートーヴェン晩年の不思議な浮遊感が立ち現れたのである。これが私にとってピリスの生演奏を聴く最後の機会だということも当然思い起こしたのであるが、感動はあっても感傷はなく、後味のよい演奏であった。ところで今回の会場には、ピリスによる "Creative Journey" なるアプリの宣伝が、名刺大の紙に印刷されて置いてあった。このアプリ自体の内容はよく分からないが、ここに記されているピリスの言葉を、例によって私が勝手に翻訳してみよう。

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芸術や音楽は、人間の魂の最も深い表現であり、また、私たちが暮らす世界を直接映し出すものです。どんな人でも芸術家として生まれついていて、芸術は地球上の誰とでも共有できるものだと思っています。
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そして後半に演奏されたベートーヴェン 4番は、実に活き活きとした推進力に満ちた名演で、相変わらずブロムシュテットという指揮者の紡ぎ出す音楽の純粋なことに、大変深く心を打たれたのである。この曲では、ファゴットをはじめとする木管楽器がかなり重要な役割を果たし、今回の N 響の木管が最初から最後まで完璧だったかと言えば、ほんの少しの傷があったことを思い出さざるを得ない。だが、音楽の神秘は、音が正確か否かなどという次元を遥かに超えて、そこに立ち現れる音響空間の説得力にこそある。ここで鳴っていた音楽は決して重くないが、確かにドイツの伝統の響きがしたのである。つまりは、指揮者とオケのそれぞれの持ち味がうまく表れていたと思う。ブロムシュテットが N 響と取り組み、ほかでもないこの東京で達成している成果は、それを聴いたことがあるか否かで、その人の音楽人生に影響するほどのものではないだろうか。折しも今日の東京は、夏のような気温ながら、空気が乾燥して大変気持ちよい気候。聴衆は皆幸せな気分で家路についたことだろう。

さてここでまた、私の脳髄が疼き出す。確か、ピリスがソロを弾き、ブロムシュテットと N 響が伴奏した演奏会が随分以前にあったはず。そして、今回配布されたプログラムをよく読むと、ピリスの N 響との共演は今回が 3回目で、前回は実は 1992年のモーツァルトのピアノ協奏曲 17番であった由。なるほど。今回もまた、自宅のアーカイブを探してみて、やはり出てきました。1992年 11月 5日に生放送された演奏会から、何枚か写真をご覧に入れよう。
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これがピリスと N 響の 2回目の共演。せっかくなので、こうなると最初の公演も知りたいもの。調べてみて判明したことには、それは、1983年 1月、岩城宏之指揮で演奏したモーツァルトの 26番、27番であった。つまりピリスは N 響とは 35年来のつきあいということになる。今回、四半世紀を経ての日本での共演であったブロムシュテットとピリスであるが、ピリスの引退によってこれが最後の顔合わせになることは残念ではある。だがピリスの言う通り、芸術とは誰とでも分かち合えるはずのもの。この共演は、後世に語り継がれて行くことだろう。

# by yokohama7474 | 2018-04-21 23:24 | 音楽 (Live) | Comments(0)  

シルヴァン・カンブルラン指揮 読売日本交響楽団 2018年 4月20日 サントリーホール

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フランスの名指揮者、シルヴァン・カンブルランが読売日本交響楽団 (通称「読響」) の常任指揮者として臨む最後のシーズン、この演奏会が今シーズン初の定期演奏会になる。曲目が大変意欲的である。
 アイヴズ : ニューイングランドの 3つの場所
 マーラー : 交響曲第9番ニ長調

言うまでもなくマーラーの 9番は、この作曲者が完成させた最後の交響曲で、その内容は極めて重い。また、演奏時間も 80分に及ぶため、この曲がコンサートの曲目になる場合には、単独でその日のプログラムを占めることも多い。だがもちろん、そうばかりではなく、15分程度の曲を前座に持ってくることもある。ただそれにしても、前座に演奏するのが、例えばモーツァルトの短い交響曲などではなく、アイヴズだという点にまず、カンブルランの指向する音楽のイメージが沸いてこようというものだ。つまり、20世紀初頭にあって、それから過去に向かうロマン的なマーラーではなく、未来につながる現代性を纏ったマーラーであるということだ。これはカンブルランという指揮者の特性を考えると充分理解できること。読響との最後のシーズンにノスタルジーに浸るのではなく、複雑な音の錯綜を捌いて、このオケと築き上げてきたものを聴衆に問うものとなるだろうと思って、期待を持って出掛けたのである。
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マーラーのファンなら、彼がニューヨークでアイヴズの作品のことを知り、自ら演奏することを希望したという話を聞いたことがあるだろう。チャールズ・アイヴズ (1874 - 1954) はニューヨークに暮らした極めてユニークな作曲家で、現代音楽の先駆者であるが、その作品の特徴は、ひとつは米国の民衆音楽の断片をその素材として使っていること。もうひとつは、全く異なる要素の音楽を意想外な方法で組み合わせることである。これらの点に、マーラーの交響曲との共通点 (民俗的な要素を使ったり、神聖さと俗っぽさが瞬時に入れ替わったりという意味で) があるとは言えるであろうから、晩年に活動の場をニューヨークに移したマーラーが、このアイヴズに興味を持ったことは理解できるのである。そのアイヴズ、保険会社に勤務する傍らで作曲を行い、また作風があまりに前衛的であったせいで、ある時期までは全く音楽界から無視される存在であったようだが、レオポルド・ストコフスキーやユージン・オーマンディ、またレナード・バーンスタインらが積極的に採り上げ、今では米国の音楽史になくてはならない存在になっている。だが、日本ではその管弦楽作品が演奏される機会はそれほど多くない。恐らくは、技術的には難易度が高い割に、曲の内容にはとりとめのなさが残るので、演奏効果の点に難があるということだろうか。今回演奏された「ニューイングランドの 3つの場所」は彼の代表作のひとつで、文字通り米国東海岸のニューイングランド地方の 3つの場所を題材にしている。演奏時間は 20分弱で、作曲には 1908年から 1923年までという長い年月を要している (3曲別々に作曲されたようだが)。様々な音が混淆するその音響は、まさにアイヴズの世界。今回のカンブルランと読響の演奏は、予想通り大変にクリアな音像を提供してくれたが、ただこうして生演奏で聴いてみると、そのごった煮感を楽しめるか否かで、随分と聴き手側の受け止め方が変わってくるという思いを抱いてしまう。つまり、マーラーのような、様々な要素が組み合わさっていても聴き手を飽きさせないプロフェッショナルな音楽とは、少し違うということだろう。私は第 2曲「コネティカット州レディングのパトナム将軍の兵営」が好きで、時々冒頭部分などを無意識に口ずさむことがあるが、今回面白かったのは第 3曲「ストックブリッジのフーサトニック川」である。ここではなんと、オルガンまで使われていて、イングリッシュホルンが抒情的な旋律を吹くかと思うと、いつの間にか、まるでメシアンのように浮遊感のある音楽に変容して行く。豊かな自然に恵まれたニューイングランドの夕焼けのような音楽であり、郷愁すら覚えたのであった。ところで、ニューヨークで作曲され、やはりイングリッシュホルンで有名な曲がなかったか。そう、ドヴォルザークの「新世界から」である。この曲の初演は 1893年。アイヴズがこの曲を作曲し始める、ほんの 15年前なのである。ドヴォルザーク - アイヴズ - メシアンの系譜は、なんとも面白いではないか。そうそう、そう言えば、アイヴズと同じく、保険屋でありながら創作活動に勤しんだ芸術家がもうひとりいる。それは言うまでもなくフランツ・カフカ。アイヴズより 9歳下で、両者に交流があったとは思えないが、カフカは奇しくもドヴォルザークと同じチェコの人。それから、マーラーも、現在のチェコの地で生まれている。奇妙な連鎖を思う。これは老年に至ってからのアイヴズのカラー写真。
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さて、メインのマーラー 9番であるが、これもある意味では予想通りの演奏スタイルであったと言えようか。つまり、感傷を排し、冷徹なまでにリアリティを持つ音響世界である。激しい箇所での燃焼度に不満があるわけではなく、終結部の静寂にも聴くべきものは大いにあったと思う。決して凡庸な演奏ではない。だが、全体を通して、もっと深い呼吸で音楽が息づけば、もっとよかったのにと思う。冒頭部分から、管楽器の弱音にはいつもながら課題を感じ、激しい不協和音で音楽が大きく展開する箇所では、弦にもさらに深い表現力を求めたいと思ったのだが、結局その印象が多かれ少なかれ、最後までつきまとってしまった感がある。多分、あと何度かこのコンビでこの曲を演奏すれば、呼吸が深まってくるのかもしれないが、今回のプログラムは 1回のみである。その点は多少残念な気がした。思い返してみると、このオケは以前に、ハインツ・レークナー、ゲルト・アルブレヒトという指揮者とこの曲を演奏し、録音も残っているが、いずれも似たようなタイプの演奏であったように記憶する。このスタイル自体を否定するつもりは毛頭ないが、このような底知れぬ深い世界を抱える曲の演奏には、いかに一流の指揮者と一流のオケであっても、様々な試行錯誤の繰り返しが必要なのかもしれない。恐ろしい曲なのである。

さて、ここで一枚の写真をご紹介したい。不鮮明な古い写真だが、どうやら広い公園のようなところを、男性とその幼い娘が歩いているようだ。
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これは、グスタフ・マーラーその人と、その次女アンナ・ユスティーネ。歩いているのはニューヨークのセントラル・パークであり、1910年に撮影されたものである。彼の交響曲第 9番はまさにその 1910年、ニューヨークで浄書が完成したというから、ちょうどこの写真は、その頃に撮られたものであろう。マーラーはこの写真の 1年ほど後にこの世を去っている。第 9交響曲は彼の死後、ブルーノ・ワルターによって初演されているから、マーラー自身は実際にそれが音になったものを聴いていない。ということは、あの壮絶な音世界は、この時点では、この世界において唯一、マーラーの頭の中でしか鳴っていなかったことになる。一方、この頃アイヴズは保険稼業のかたわら作曲を続ける 36歳。時間はどの一瞬も停まることなく進み続けるが、もしかしたらこの写真が撮られたその瞬間、マーラーの頭の中には第 9番の音響が渦巻いており、同じニューヨークのその近隣では、アイヴズの頭の中で、「ニューイングランドの 3つの場所」が鳴り響いていたかもしれない。100年以上前の音響の混淆に思いを馳せると、この何気ない写真も、どこか切なく、だが高揚感のあるものに見えてくるのである・・・。

# by yokohama7474 | 2018-04-21 01:57 | 音楽 (Live) | Comments(0)