2015年 09月 03日
上野公園 東照宮、清水観音堂、上野大仏、天海僧正毛髪塔、黒田記念館
江戸幕府は風水を重んじて首都である江戸を設計した。その発想に基づくと、東北 (艮 = 丑寅 = うしとら) は鬼門の方角で、不吉であるため、何らかの守り神を置く必要があった。それゆえ、三代将軍家光の時代 (寛永年間) に、江戸城の鬼門の方角にあたるこの場所に、東叡山 寛永寺が設立された。寛永寺の江戸における格式は、増上寺と並んで極めて高く、その境内が現在の上野公園である。東叡山とは、東の比叡山ということ。比叡山は、言わずとしれた、伝教大師最澄が開いた天台宗の総本山で、寛永寺も天台宗なのである。なぜ天台宗なのか。それは、この寺を開いた僧、いや、江戸幕府の基礎を築くのに大きな貢献のあった僧、天海僧正が天台宗の僧侶であったからだ。
ともあれ、謎の僧、天海が開いた寛永寺は、幕末の動乱で焼失する。よく知られている通り、幕府側の彰義隊がここに立てこもり、明治新政府軍に壊滅させられた、いわゆる上野戦争だ。この戦争で討ち死にした彰義隊の若者たちは、政府に楯突いた逆賊であって、その死骸も長らく放置されていたという。今ではそのようなことを想像することも難しいが、上野の山の桜は、その死骸から養分を吸収して大きく育ったというふうに言われることもある。真偽のほどは定かではないものの、桜の花と死のイメージは日本人の感覚の中で不可分であるとも言える。梶井基次郎の「桜の樹の下には」が、その美学を端的に表している。
寛永寺境内が公園となったのは、上野戦争のわずか 5年後、1873年のこと。その後皇室の管理となり、1924年に東京市に払い下げられたため、正式名称は「上野恩賜公園」なのである。このような歴史を反映して、公園内には様々な歴史的建造物や遺跡が点在している。ただ、桜をはじめとして木々の緑が深く、見通しの悪いところが多いので、なかなかその全容がつかみにくいためだろう、そのような歴史的建造物が、その価値に比して、それほど知られていないのが残念だ。まず、是非お奨めしたいのが、上野東照宮だ。