2015年 09月 21日
NINAGAWA マクベス (演出 : 蜷川幸雄) 2015年 9月20日 シアター・コクーン

さて、上記の通り、この演出は 17年ぶりの再演。ポスターには、「仏壇マクベス集大成」とあるが、一体どういうことか。


蜷川のシェイクスピア演出では、舞台が日本に置き換えられ、歌舞伎をはじめとする日本固有の芸能が取り入れられることで知られる。この「マクベス」は、その意味では蜷川の面目躍如と言ってよいであろう。老婆が仏壇を開けるときには、大音響で日本の梵鐘の音が鳴り響き、否が応でも不気味な怨念の世界に引き込まれる。蜷川自身の言によると、実家で仏壇に線香をあげていたとき、仏壇を開けて位牌と対話するということは、シェイクスピアの作品が自分たちの物語になるということだと直感したらしい。それは、「日本人がシェイクスピアをやる意味が見つかった」ということであったとのこと。私自身はこの考えに、賛同半分、疑問半分だ。それは、日本風の衣装を纏った瞬間に、それは演劇以外の何物か (日本の文化のデロリ性) を負ってしまうということで、その感覚は、西洋式生活を送る現代の日本人自身にとっても決して日常の身近なことではなく、いわゆる日本人自身にとってのエキゾチックジャパーン!ということになるであろうからだ。従って、このような演出が海外で受けまくるのは想像に難くない。問題は、虚心坦懐に見てこの舞台が人の心を動かすか否かという点だ。
と、なにやら否定的なことを書きながら、私は確信するのだが、この演出、滅法面白い!! それはすなわち、シェイクスピアの戯曲がそれだけ多様性を受け入れるということであろうと思う。実際、ここで展開する人間たちのドラマは、別に中世のスコットランドで起こらなくても、江戸時代の日本でも現在の日本でも、いや世界のどこの時代のいかなる場所でも起こり得ることだからだ。見れば見るほど、恐ろしい普遍性だ。ちょっと想像してみてもらいたい。もしあなたの上司があなたに胸襟を開き、あなたのことを誉めそやしたら、その上司がいなくなった暁には自分が後任になるという野心を抱くことは、全く普通のことではなかろうか。殺人を犯すことは極端な事態であって、そこまで至る人はほとんどいないわけであるが、ちょっと魔がさすということくらいなら、人間誰でもあるものではないか。そうだ、先に歌劇「マクベス」に関して、主人公が悪漢と書いたが、原作では決してそうではなく、英雄的な活躍をした人間が、ふとした出来心で転落して行くという、人間の弱さがここに示されているのだ。悪女の代名詞のように言われるマクベス夫人にしても、見方を変えれば、旦那の出世のために献身的な努力をするけなげな妻ということになる。単純な悪が描かれているのではない点、400年の時を超えてシェイクスピア劇がその生命を保っている理由であろう。その人間洞察の深さ。
主役の市村正親と田中裕子は、いずれもさすがの演技だ。舞台における演技のなんたるかを知悉している。それから、私が大きな感銘を受けたのが、マクダフ役の吉田 鋼太郎だ。この役がしっかりするか否かで、全体の印象が随分と違うはず。ここでは、まさに堂に入った舞台での発声で、ときに軽快な他者への信頼感を表すと思えばまた主君を質す勇気を示し、また、妻子を失った断腸の思いを振り絞る。素晴らしい。

ところで、蜷川演出の「マクベス」を見るのはこれが初めてではない。2002年、ニューヨークのブルックリンで、唐沢 寿明と大竹 しのぶのコンビで見ているのだ。それはやはり舞台を日本に置き換えたものではあったが、今回の仏壇マクベスとは異なるものであった。プログラムを引っ張り出してきた。なるほど、これは埼玉の彩の国で進行中のシェイクスピア・シリーズにおける演出で、仏壇マクベスとは別物であったようだ。




