2015年 10月 25日
小林研一郎指揮 東京フィル (チェロ : 上野 通明) 2015年10月18日 Bunkamura オーチャードホール
さて、この日のチェロ独奏は、6月13日の記事でも、やはりコバケンと東フィルとの協演を採り上げた、上野 通明 (みちあき)。まだ 20代の若さで、桐朋のソリストディプロマコース全額免除特待生とのこと。昨年、オーストリアのペルチャッハで開催されたブラームス国際コンクールで優勝しており、既に日本の数々のオーケストラとの協演を果たしている俊英だ。生まれがパラグアイで、幼少期をバルセロナで過ごしたという。
聴いていて思い出したことがある。コバケンは伴奏も多く手掛けていて、非常にうまく独奏者を盛り立てるのであるが、私が生まれて初めて生で聴いたコバケンの演奏は、このドヴォルザークのチェロ協奏曲であった。もし、意地悪のように私のブログを読み込んでおられる方がいて、「ウソつけ、6月13日の記事で、『チャイコスフキー 4番が最初に生で聴いたコバケン』と書いていただろう」と思われるとしよう。そんな方はおられないかもしれないが (笑)、もしおられた場合のために、その演奏会のプログラムをここに掲載しよう。
さて、この日のメイン、天下の名曲、チャイコフスキー 5番である。コバケンのレパートリーの中核をなす曲と言ってもよいであろう。冒頭のクラリネットが素晴らしい。よく考えるとこの日、前半のドヴォルザークでも、第 1楽章と第 2楽章は木管で始まり、後半のチャイコフスキーの第 1楽章もそうであったわけで、東フィルの木管楽器奏者のレヴェルに瞠目した。コバケンはよく、助走するように少しテンポを落としてから、盛り上がりに向けてダッシュするように指揮棒を細かく振ってオケを煽るが、その呼吸にうまくついて行かないと、音がバラバラになってしまうリスクがあると思う。その点この日の東フィルは心得たもので、指揮者のアクセルとブレーキによくついて行って、輝かしい名演をなし終えた。ただ、75歳を迎えた指揮者としては、その音の「熱」には未だに陰りがなく、換言すると、円熟というイメージとは程遠い。でもそれが、この指揮者の持ち味なのであろう。若い上野について書いたと同様、老齢であるから音楽が枯れなくてはならないという法はない。もちろん、音楽の深みは自然と出てくるものであろうが。
QUOTE
4月定期でマーラーの「嘆きの歌」全曲版を日本初演した小林研一郎が、シーズン冒頭に登場してスラヴの大作 2作という、月並みのようでいて実はかなり思い切ったプログラムをとり上げる。(中略) 小林のチャイコフスキーの「第 4交響曲」は、彼のはげしい情念的なかたまりが、作曲者の奔放ともいえる楽想と結びつき、白熱的な好演が望まれる。
UNQUOTE
幾つか興味深い点がある。ひとつは、小林がマーラーの「嘆きの歌」全曲を日本初演したこと!! この曲はマーラーの初期の作品で、民族説話による悲劇性や物悲しい情念という点で、マーラーの音楽が志向する要素をあれこれ持った曲ではあるが、未だにそれほど演奏頻度が高いとは言えない。それをこの、保守的なレパートリーを持つ指揮者が初演していたとは驚きだ。また、いみじくも今回の演奏会と同じ「スラヴの大作 2作」が採り上げられ、この評者自身、「月並みのようでいて」と失礼なことを書きながら (笑)、まあ実際そのように思っている様子がある。でも、最後の一文は、今でもそのまま使えるものではないか。まさに「炎のコバケン」はこの頃からのイメージであったわけだ。
私はコバケンの、短めだがしっかりした指揮棒が好きである。上の写真のように、加速してクライマックスに向かうには、この指揮棒でビートを作り出し、そこに彼言うところの「魂」を吹き込まねばならない。これから、どこまでこの変わらない情熱が昇華して行くか、オケさながらに歯を食いしばってついて行きたいと思う。