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スペインの彫刻家 フリオ・ゴンサレス展 世田谷美術館

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スペイン、バルセロナ出身の彫刻家、フリオ・ゴンサレス (1876 - 1942) の日本初の本格的回顧展である。世田谷美術館での展示には、副題に「ピカソに鉄彫刻を教えた男」とあって、まあ毎度のことながら、知名度のない芸術家の展覧会に人を集めるために、有名芸術家の名を利用しなければならない主催者側の苦心が偲ばれる。既に長崎、岩手を巡回、1月31日までの世田谷美術館の会期のあとは三重に巡回する。私自身もこの彫刻家について何を知っているわけでもない。ただ、この彫刻のイメージには親しみが持てると感じ、ピカソに鉄彫刻を教えた男ならば間違いあるまい (笑) と思って出掛けたのである。金曜の夕方の館内は森閑として人の姿もほとんどなく、並べられた約 100点の作品と親しく対峙するよい機会となった。作品の大半はスペイン、ヴァレンシアの現代美術館の所有であるという。

まずこの芸術家の生没年に注目しよう。1876年生まれということはピカソより 5歳年上。19世紀末から 20世紀初頭にかけてヨーロッパの芸術活動にモダニズムの波が起こる時期に青年期を過ごし、スペインが内戦を経た後、1942年という第二次世界大戦中の時期に没している。ただ、早くも 20代でパリに移住しており、まさにこのモダニズムの中心都市で活動していたようだ。亡くなったのもドイツ軍が占領中のパリ。まさに 20世紀前半の激動の時代の人である。解説には、ブランクーシ、ジャコメッティと並んで 20世紀の彫刻の展開に決定的な影響を与えた人物とある。この 2者に比べて知名度は高くないが、いかなる芸術家であったのか。作品を見てみよう。
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ゴンサレスは金細工師の息子として生まれ、10代の頃から父親の工房で働いて金属加工の腕を磨いたという。これは 1890 - 1900年頃 (ということは、14 歳から 24歳までの間ということだ) の作品で、鉄と真鍮で菊を作ったもの。彼が若くして素晴らしい技術を持っていたことが分かるではないか。怪しいまでに美しい。そういえばバルセロナでは既にその頃、ガウディのグエール邸などで鉄が使われていて、このような感覚は時代の最先端であったのかもしれない。
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ゴンサレスの年譜を見ていると、1908年頃 (22歳頃)、作曲家エドガー・ヴァレーズと親しくなるとある。ヴァレーズは 1883年パリ生まれなので、ゴンザレスよりも 7歳年下。つまり当時はまだ少年だったわけだ。ヴァレーズの代表作である「アメリカ」「アルカナ」「アンテグラル」等の作品の大部分は 1920年代の作であり、若い頃の作品はほとんど残っていない。ゴンサレスの影響は定かではないものの、この 2人の芸術家の後年のメンタリティには通じるところがあるのが面白い。

ただゴンサレス自身は最初から彫刻家を目指したわけではなく、ある時期までは自分のことをあくまでも画家であると考えていたらしい。この展覧会には本格的な絵画作品は展示されていないが、彫刻の中にもそのヒントがあるように思われる。例えば 1910年頃のこの「首をかしげて立つ裸婦」を見ると、ドガの描く女性像を彷彿とさせるところがある。芸術の中心地パリの空気を充分に吸っていることが想像される。
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そして 1914年頃のこの「恋人たち」は、これはどう見てもロダンの模倣だろう。ロマン主義的な濃厚さが感じられる。だがどうだろう。後年のモダニズムの作品のイメージから逆行して想像力を働かせながらこの作品を見ると、個体同士の絡み合いによって空間が埋めて行かれるイメージが、破片と破片の溶接によって空間を「埋める」のではなく「作り出す」というイメージに移行さえすれば、もうそこにはモダニスト、ゴンサレスは遠くないように思うのだが、いかがだろうか。
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ゴンサレスは1918年頃、自動車会社ルノーの下請会社で溶接工見習いの臨時職に就いたこともあるが、それは芸術的探究心とともに、生活をするための差し迫った現実的手段という意味合いでもあったらしい。だがその職によってゴンサレスは、酵素アセチレン溶接のプロセスを学ぶことができ、数年後に新しいタイプの金属彫刻を実験制作し始めた際の有効な技術となった。ゴンサレスはピカソとは実は 1900年頃、つまりは 20代から親交があったようで、1902年にピカソがバルセロナで描いたゴンサレスの水彩画がこちら。個人所蔵になるもので、この展覧会に出展されているわけではなく、図録に載っているこのモノクロの写真しか見つけることができなかったが、当時まだ19歳のピカソが 24歳のゴンサレスを描いた貴重なものだ。でもこれ、40歳くらいに見えるなぁ。
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ピカソとは1908年から 1921年頃までは一旦没交渉になっているが、1928年になってピカソの方からゴンサレスに再度連絡を取り、鉄の溶接技術について教えを乞うている。なるほど、何の誇張でもなく、ピカソに鉄の彫刻を教えた男というわけだ。これは 1930年の作品、「アルルカン / ピエロ、あるいはコロンビーヌ」。イタリアの演劇、コメディア・デラルテの登場人物を羅列した題名だが、よく知られている通り、この頃のピカソも同様の題名で作品を制作していた。ただ前衛性という意味では、ピカソよりもゴンサレスの方が上ではないか。
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これは 1932年の作品、「光輪のある頭部」。シンプルでモダン、また原始美術を思わせるような造形であるが、同時に宗教性を漂わせた素晴らしい作品。人類が当時未だ持ち得ていなかった新たな表現へと入って行く勇気ある芸術家の姿が、目に見えるようだ。
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1935年頃の作品、「立つ人 (大)」。彫刻のスタイルが完全に完成したように見える。これならブランクーシにもジャコメッティにもひけを取らないと思う。
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ところがこれから後、1936年に始まるスペイン内戦の時代、軽やかで同時代の人間社会の営みから自由であるかに見えたゴンサレスの創作活動にも、祖国の悲劇がにじみ出てくるようになる。その1936年のデッサン、「横たわる人物」。抽象性が小気味よいとも見えるものの、鉄の彫刻と違ってなにやら生々しい人間の姿が浮かび上がってくるようでもある。
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これは 1938年の自画像。何気ないデッサンではあるが、その瞳には陰りがこもっているように見える。
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展覧会場には、この後の晩年のゴンサレスの心の叫びが聞こえるような作品がいくつか並んでいる。これは 1942年頃、つまり彼の最晩年のブロンズの作品、「差し上げられた右手 no.1」。決して絶望的な作品ではなく、宙に向かって広げられた右手は、中空の何かをつかもうとする生命力を持っている。晩年は材料不足により彫刻を思うように作ることもできなかったというゴンサレスの、これは永遠に届かない希望の結晶だ。現代の人間が見ても、大変に勇気づけられる力を持っていると思う。
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この展覧会は、未知なのに既知のように錯覚を抱かせるこの彫刻家の生き様を、残された作品を通して淡々と、だが生々しく伝えてくれる。冷たく見えるモダニズムの裏で息づく人間性が、内戦も世界大戦も超えて、永遠の命を保っているようだ。

by yokohama7474 | 2016-01-23 22:09 | 美術・旅行