2016年 02月 08日
パーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK 交響楽団 (バリトン : マティアス・ゲルネ) 2016年 2月 7日 NHK ホール
マーラー : 亡き子をしのぶ歌
ブルックナー : 交響曲第 5番変ロ長調 (ノヴァーク版)
このマーラーの歌曲は、ドイツの詩人リュッケルトが自身 2人の子供を亡くした経験から書いた詩の中から、マーラーが 5篇を選んで作曲したもの。ウィーン国立歌劇場の音楽監督という最高のポストに辿り着き、最愛の妻と子供に恵まれた幸せな時代 (1901年から 04年) に書かれた不吉な曲は、後にマーラー自身が長女を失うことで、交響曲第 6番「悲劇的」と同様、予言めいた存在となった。5曲からなり、交響曲第 5番との共通性も感じさせる耽美的な箇所もあって、痛々しい内容なのに、澄んだ音が美しい点にこの曲の特異な点があると言ってもよいだろう。歌うのは現代最高のバリトン歌手のひとり、オペラよりも歌曲を中心として活躍するマティアス・ゲルネだ。
さて、メインは 70分を要する大曲、ブルックナーの 5番である。ヤルヴィは N 響のドイツ音楽の伝統を高く評価して、リヒャルト・シュトラウスから一連の録音を始めたが、マーラーとブルックナーも、今後順番に採り上げて行く気配がある。実は会場とプログラムの速報で、今年の 9月には、N 響創立 90周年記念のマーラー 8番と、定期の中でブルックナー 2番が演奏されると知った。ヤルヴィはこの両方の作曲家をよく採り上げているので、いよいよその成果を N 響で聴けるとはなんとも楽しみであるが、さて、今日の 5番はいかがであったか。
今日のヤルヴィの演奏は、早めのテンポでグイグイと押して行く、しんねりむっつり型とは正反対のブルックナーであり、特にスケルツォの後半から終楽章にかけては、明らかに集中力が上がっていった感があった。だがそれを換言すると、第 1楽章は休止部分の緊張感にさらに改善の余地があったし、ブルックナーのアダージョとしては短いながらも深々とした呼吸を必要とする第 2楽章も、絶美と呼ぶには今一歩。ブルックナーの演奏は本当に難しいのだなと改めて実感した次第である。つまり、ただブカブカと鳴っても説得力がないし、かといって音楽の前進力がないと聴けたものではないのだ。理屈では説明できない指揮者自身の持ち味というか適性のようなものも、明らかに存在する。ブラームスなら、まずは鳴る音の密度や精度で勝負しないと始まらないが、ブルックナーはそれよりも、なんとも言えない呼吸のようなものがまず求められる。ヤルヴィの場合、抜群の指揮のテクニックがあるので、音が鳴るには鳴るのだが、ブルックナーの音楽としての話法のようなものとは少し違うような気がする。もっとも、それぞれの指揮者に個性があるので、「絶対こうでないといけない」と言うつもりは毛頭ないが、不思議なもので、聴き手の中のイメージというものも、やはり存在するのである。以前アバドがベルリン・フィルとの来日公演で披露したこの曲の演奏は、私がここで言っているブルックナーの音のイメージとは少し違っていたが、いわば表現主義のブルックナーといった体の独特な演奏で、大変説得力があった。なので、ヤルヴィと N 響も、試行錯誤を繰り返してブルックナー演奏を継続してもらいたい。
そうそう、最近私はこのブログで、日本のオケの金管楽器のレヴェル向上必要性を声高に (?) 唱えているが、ヤルヴィがブルックナーで最初にこの 5番を採り上げたのも、そのあたりの期待に沿うものだ。今日のクライマックスの金管の咆哮はなかなかのものであったが、もっともっと炸裂して欲しい。また、静かな部分でのミスも散見されたので、今後はこの指揮者のもとでビシビシ鍛えて頂けることを期待しましょう。
ところで、今日ヴィオラのトップを弾いていたのは、都響の鈴木学さんではなかったか??? 日本のオケメンバーでも、やはりヴィオラの店村眞積が読響→N 響→都響と移籍したり、チェロの木越洋が新日本フィル→N 響→新日本フィルと移ったりということもあるので、もしかして彼も移籍かと思って N 響の楽員表を見てみたが、そのようなことはなく、ゲスト出演であったようだ。ネット検索すると、過去にも下野達也指揮 N 響の演奏会に出ていたこともあるらしい。このような楽員の交流も、大いに意味があることではないだろうか。