2016年 02月 27日
小澤征爾音楽塾 ヨハン・シュトラウス作曲 喜歌劇「こうもり」(指揮 : 小澤征爾 & 村上寿昭 / 演出 : デイヴィッド・ニース) 2016年 2月24日 愛知県芸術劇場大ホール

モーツァルト : フィガロの結婚 (2回)
モーツァルト : コシ・ファン・トゥッテ
モーツァルト : ドン・ジョヴァンニ
プッチーニ : ラ・ボエーム
ロッシーニ : セヴィリアの理髪師
ビゼー : カルメン
フンパーディンク : ヘンゼルとグレーテル
プッチーニ : 蝶々夫人
ラヴェル : 子供と魔法
すぐに分かる通り、ここにはヴェルディもワーグナーもない。概して非常に親しみやすい演目ばかりである。オペラの普及にはちょうどよい作品が選ばれているようだ。それから、オーケストラのメンバーはオーディションで選ばれていることは上述の通りだが、今回のプログラムに記載されている過去の参加者には、その後活躍している人たちの名前も見える。例えば、ヴァイオリンでは、大阪フィルのコンサートマスターから最近読響に移った長原幸太や、ウィーンで活躍する白井圭。チェロでは若手のホープ、宮田大などである。自身、恩師からの教育への深い感謝の念を抱き続けるとともに、若者の教育に情熱を注ぐ小澤の試みは、今後の日本のクラシック音楽の屋台骨を形成していくのかもしれない。

小澤は既に 80歳を迎え、先の闘病生活の影響もあってか、ここ数年は舞台に立ってもフルにオーケストラコンサートや、ましてや今回のような正味 2時間を超えるオペラやオペレッタを通して指揮する体力はないらしく、指揮する時間はごく限られている。今回も、村上寿昭という 1974年生まれの指揮者と、場面によって交代しての指揮である。この村上という指揮者、桐朋学園在学中から小澤のアシスタントとして活動しており、現在ではリンツやハノーファーの歌劇場で指揮を取っているらしい。そうすると、今回の起用は、ドイツ語圏での活躍から、ドイツ語オペレッタへの適性が見込まれたものだろうか。

この小澤征爾音楽塾や、その前にシリーズ化されていたヘネシーオペラといった、小澤が日本で指揮するオペラにおいて、演出家はデイヴィッド・ニースが起用されるケースがほとんどであった。過去 2回の「こうもり」上演 (2003年、2008年) はいずれも彼の手による、しかし異なる演出であったようだが、今回はまたそれら 2回とはまた違い、メトロポリタン歌劇場の装置を使った古典的なオットー・シェンクの演出を踏襲している。出演している歌手陣は、とりわけ有名というわけではないが、それぞれに世界の主要な歌劇場で歌っている国外の名歌手ばかり。先に記事を書いた二期会の公演とはそこが異なっており、あのやり方もこのやり方も成り立たせてしまう日本の音楽界の懐の深さに、改めて感慨を抱く。


全体を通して、ウィーン風という情緒があったか否かというと、それは少し違う気がする。あの退廃的で享楽的なウィーンの響きはそこにはなく、丁寧に描かれて行く音の流れに重点が置かれていた。まあそれが「こうもり」の本質かと言えば、ウィーンという街の毒をよく知っている人の中には異論は多々あるような気もするが、でも多くの人が楽しめる舞台であればそれには大きな意味があるし、何より若者たちが苦労しながらも楽しんで演奏するなら、それは日本の日常にはない経験だ。小澤征爾という名前のみがこの頻度でこれだけの内容の舞台を可能にしているのが現実であるが、演奏する側も鑑賞する側も、例えば 30年前の状態と比較すれば、オペラへの親しみという点では変わってきていることは確かで、それを受け継いで行くことで、日本は今後成熟国家としての様相を呈して行くこともできるかもしれない。・・・そう信じよう。
ところで、ワルツ王ヨハン・シュトラウスに関して私の好きな逸話がある。この「こうもり」も、ドタバタ騒ぎの後、シャンパンを飲んで浮世を忘れようという内容だが、ヨハン・シュトラウスの活躍した 19世紀後半のウィーンでは、実際にこのような享楽的な舞踏会が夜ごと行われていたのであろう。その主役のひとりとして大変な人気を誇ったこの作曲者が、大騒ぎがハネて賑やかな場所がガランとしてしまった宴の後に、朝まで残ってひとり静かに曲想を練っていたことがままあったということだ。どんな天才にも苦労の時間があり、でもその苦労を人前で見せることなく、孤独感に向かい合いながら人知れず芸術を作り出したその姿に感動する。その意味では小澤という指揮者も、ボストン時代にはパーティがあろうと何があろうと、翌日早朝には起きて孤独なスコアの勉強を続けていたという。人なつっこい笑顔の裏の壮絶な努力こそ、いかなる天才にとっても必要不可欠なものなのであろう。


