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山田和樹指揮 日本フィル マーラー・ツィクルス第 6回 2016年 3月26日 Bunkamura オーチャードホール

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若手指揮者、山田和樹が新境地を開きながら進めている、Bunkamura オーチャードホールを会場とした日本フィルとのマーラー・ツィクルスも、今回が 6回目となる。これが今年の 3回の演奏会の締めくくりだ。このツィクルス、毎回ほぼ満員の盛況で、オケにとっても指揮者にとっても、大変やりがいのあることだろう。ただ、演奏内容は毎回毎回試練の連続。日本を代表する作曲家である武満徹の作品を必ず 1曲演奏してから、マーラーの交響曲を演奏するわけで、簡単な内容など一度もない。今回の曲目は以下の通り。
 
 武満徹 : ノスタルジア - アンドレイ・タルコフスキーの追憶に - (ヴァイオリン : 扇谷泰朋)
 マーラー : 交響曲第 6番イ短調「悲劇的」

恒例の指揮者によるプレトークが演奏前にあったが、今回は (私の勘違いでなければ、今まではなかったような気がするのだが) 舞台裏で管楽器がマーラーの練習をしているのが聞こえる中でのトークであった。山田いわく、このシリーズでマーラーと組み合わせる武満の作品は、これまではなるべく明るめのものを選んできた。しかしながら今回は、メインが「悲劇的」ということで、自然とこの暗めの作品を選ぶこととなったと。映画マニアであった武満は、不世出の天才映画監督、ロシアのアンドレイ・タルコスフキーの死を悼み、タルコフスキー自身の作品に因んで「ノスタルジア」という作品を書いた。この作品は、ヴァイオリンのソロと小編成の弦楽合奏によって演奏され、タルコフスキーの作品のイメージである水や霧を弦楽器で表現し、ソロはオケから浮き立ったりオケに溶け込んだりする。15分ほどの短い曲で、初演の際にはなんとあのユーディ・メニューインがソロ・ヴァイオリンを弾いたとのこと。

武満のこの作品はもちろん知ってはいるものの、私にとっては、タルコフスキーに対する思い入れのために、冷静に聴くのが難しい曲でもある。以前、ボッティチェリ展についての記事の中でもこの「ノスタルジア」について少し触れたが、私がこれまでに見た映画の中で、どんな気分のときでも生涯ベスト 5には必ず入るどころか、多くの場合はベスト 1に位置するであろう奇跡の作品。
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この映画が日本で公開されたのは 1984年。劇場は、今は亡くなってしまったセゾン(西武) 系の芸術派映画の殿堂、六本木シネ・ヴィヴァンであった。上記の写真は、公開当時のプログラムの表紙である。そして、シネ・ヴィヴァンのプログラムと言えば、映画全編の採録シナリオと並んで、必ず武満徹と、当時東大の助教授でフランス文学者兼映画評論家であった蓮實重彦の対談が載っていたものだ。毎回毎回、両者の圧倒的な知識と美的感覚に驚嘆しながら読んだものである。
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せっかくなので、対話の内容を一部見て頂こう。
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あ、武満がこの作品に出ている女優について、「ボッティチェリの絵にあるような顔」と言っているではないか!! 先に私の書いたボッティチェリ展の記事では、全く同じことを、実際に私自身が長らく持っている感想として書いたのであるが、武満先生も同意見であったとは、意外な喜びだ。ちなみにその女優、こんな顔だ。
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さて、例によって快調に脱線しているが (笑)、今回の武満作品の演奏において山田は指揮台を使わず、楽員と同じ高さの地面での指揮であった。このような小編成であるがゆえの配慮であろう。なんとも繊細な音の織物を聴くことができた。

メインはマーラーの 6番「悲劇的」。山田はプレトークでこの曲についての基本的な事柄の説明を行った。作曲者の幸せな時代に書かれたにもかかわらず、その後マーラー自身を襲う悲劇 (子供の死や夫人の不倫という家庭内の悲劇、ウィーンを追われるという社会的悲劇、そして自身の死) を予知したかのような悲劇的な内容。第 2楽章と第 3楽章の順番が指揮者によって異なることとか、終楽章のハンマーストロークが 2回だろうか 3回だろうかといった事柄が話された。まあこの曲、数ある古今のシンフォニーの中でも、それはもう仮借なく激しい音の渦であり、容赦なく襲いかかるクライマックスの連続にオケの面々こそが「悲劇的」な目に遭う (?) 曲だ。私は山田の一連のマーラーを聴いていて、いつも素晴らしいとは思うのであるが、会場がオーチャードホールという、デッドではないがちょっと音が上に抜けて行くタイプのホールであることもあってか、凝縮して推進するマッシブな音の流れという点にわずかな課題を感じることがある。だが、以前の 5番の記事でも書いたが、彼の世代は既に録音・実演を通して様々な一流のマーラー演奏を体験しているはずで、そのような体験が彼の志向する音楽の根底にあることで、トータルに見た演奏水準が髙いレヴェルで保たれているように思う。つまり、聴衆が思い描くマーラー像を、あたかも木から彫像を掘り出す彫刻家のように正確に描き出していて、その説得力はさすがのものだ。クラシックの演奏にも流行はあり、別に山田が流行を追っているという気はサラサラないが、多くの人たちの共感を呼ぶマーラー像を巧まずして描けるがゆえに、毎回多くの人たちがこのシリーズに詰めかけるのであろう。今回の演奏、第 1楽章はかなりの快速テンポで始まり、移り変わる音楽的情景は非常にスマートに響く。第 2楽章はスケルツォ (私は絶対この順番を支持する) で、ここでもオケの好調は継続。腹の底にズンズン来るという感じには少し不足したが、これは上述の通りホールのアコースティックも関係していよう。第 3楽章のアンダンテは、この楽章ならではの孤独感を、過度の悲壮感なく美しく現出していたが、後半の絞り出すような盛り上がりには鬼気迫るものがあった。そして最後の第 4楽章。30分間に亘ってジェットコースターに乗っているようなドラマティックな音楽だ。昔の日本のオケだと、途中で息切れして崩壊状態になることもあったが、さすが、21世紀も 15年経過すると、もうこの曲も特別な存在ではなくなっている。熱を帯びた音の奔流が圧倒的だ。山田は基本的にいかなるときでも冷静さを失うことがない指揮者であると私は見ているが、このときばかりは音の飛沫に目を閉じながら、かなり天空高く飛んでいたように見えた。プレトークで山田が謎かけをしたハンマーストロークは、通常通り 2回であった。ご存じない方のために説明すると、この曲の終楽章では、木製のハンマーをぶっ叩く箇所があって、大変ユニークなのである (後の世代では、アルバン・ベルクがそれに倣っている)。この写真は違う演奏のものだが、イメージはお分かり頂けよう。
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マーラーはこの曲にハンマーストロークを 3回入れていたところ、3回目の打撃が決定的な死を招くのを恐れて 2回に減らしたと言われている。このくらい壮絶な曲になると、その思いも分かるような気がするなぁ。今回のハンマーは舞台中央のいちばん奥に陣取り、若い打楽器奏者がそれを思い切り振り上げてドーンと振り下ろしたのであるが、1階の私の席から見ると、この曲で大活躍の外国人ティンパニ奏者のすぐ後ろでハンマーが振り上げられ、ティンパニ奏者の脳天に落ちてくるのではないかとハラハラした (笑)。

演奏後の演奏者たちも会心の笑顔。また来年、残る 3曲のマーラー演奏に期待が膨らむが、拍手もそこそこに私は会場を後にする必要があったのだ。その理由はコンサートのハシゴ。追って記事を書くが、この演奏の終了が 17時15分頃。そして 18時から数 km 離れたサントリーホールで、ドミトリ・キタエンコ指揮東京響のコンサートが始まるのだ。実は休憩時間に年輩の男性と中年女性が、「私はこのあとサントリーでね」「えっ、私もです」という会話をしており、ああほかにもそういう人がいるのかと思っていたが、演奏終了後には慌てて席を立つ人たちが普段より多いように思われた。この東京では、クラシックコンサートのハシゴをする人がそれだけいるということか。驚きの中、私も遅れまじと、アタフタと会場を後にしたのであった。

by yokohama7474 | 2016-03-27 00:22 | 音楽 (Live)