2016年 04月 04日
マスネ作曲 歌劇「ウェルテル」(指揮 : エマニュエル・プラッソン / 演出 : ニコラ・ジョエル) 2016年 4月 3日 新国立劇場

この「ウェルテル」という作品は、その題名で明らかな通り、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を原作としており、大変劇的で美しい旋律に溢れた名作である。しかしながら、日本ではそれほど多く上演されておらず、なんと上記の 2002年の新国立劇場での前回の上演が原語での初演であった由。私自身はそれは見なかったのであるが、1999年 7月にマドリッドのテアトロ・レアルで、ジュリアス・ルーデル指揮、ラモン・ヴァルガス主演の舞台を見た。また 2009年には、大野和士が手兵のリヨン歌劇場管弦楽団との来日公演で演奏会形式で上演したのも素晴らしい音楽的事件であった。
今回の上演、私にとって最も興味があったのは指揮者である。1933年生まれ、今年 83歳になる現代最高のフランス音楽の解釈者、ミシェル・プラッソン。長らく音楽監督を務めたトゥールーズ・キャピタル管との数々の録音に加え、日本にはドレスデン・フィルと来日したり、単身で N 響を何度か振りに来ているし、二期会でも「ファウストのごう罰」「ホフマン物語」などで素晴らしい音楽を聴かせてくれた名匠。・・・ところが、会場にはこのような貼り紙が。


この作品のあらすじは至って簡単。ウェルテルという若い男がシャルロットという女性に一目ぼれする。だがシャルロットにはアルベールというフィアンセがいて、彼と結婚してしまう。そして絶望したウェルテルはピストルで自殺。これだけだ。なんという純愛。なんという悲しい情熱。振られた腹いせのストーカー殺人などが人々の気持ちをいやーな気分にさせることも多い現代の日本。たまにはこのような青春の清い情熱に触れて、新鮮な気持ちで人生の意味を見つめ直すのも悪くない。いやもっとも、死んではいけません。失恋くらいで、何も死ぬことはない。私は以前マドリッドでの舞台を見たあとに原作も読んだが、書簡形式のロマン主義的な作品だ。文字で綴る文学という分野なら、情熱の発露という点の表現形態として、最後が主人公の死でも成立しよう (この作品の発表当時、影響を受けて自殺する若者が多かったらしいが、それは 18世紀後半から 19世紀前半の、欧州全体がのべつ戦争に巻き込まれていた時代であったことによる厭世観とも関係しているのでは?)。でもオペラともなると、少し工夫が必要だろう。朗々と歌うだけでは作品にならず、管弦楽がロマン主義的感性を表すべく雄弁に語る必要が、どうしてもあると思う。そしてこのマスネの「ウェルテル」は、まさにそのような曲なのだ。マスネはワーグナーの一世代下だが、楽壇の巨人ワーグナーがパリでも大きな影響力を持っていた時代に生きた。ここで頻繁に聴かれる甘美な音だけ取ってみればワーグナー的ではなくとも、音がドラマを作るという基本構造は、やはりワーグナーなしには考えにくいだろう。
その点、今回のプラッソン息子 (という言い方は失礼だが・・・)、素晴らしい成果を挙げていたと思う。オーケストラは東京フィルであったが、弦楽器がつややかにドラマを歌いあげると同時に、木管楽器が素晴らしい積極性を発揮していて、なんとも表現力豊か。プラッソンの指揮は決して要領がよいようには見えなかったものの、非常に丁寧にオケに指示を与えていて、音楽の大きな流れを創り出していた。これだけ振れるのなら、父の辿った道をさらに超えて、フランス音楽の使徒になってもらいたい。
主役のウェルテルとその相手役シャルロッテは、結果的に両方ロシア人となり、どちらも今回が新国立劇場デビューだ。ウェルテル役のディミトリー・コルチャックは、既に国際的なキャリアを持つテノールで、今回の「ウェルテル」に加え、今年秋のゲルギエフ指揮のマリインスキー歌劇場の来日公演では、チャイコフスキーの「エフゲニ・オネーギン」のレンスキーを歌う。ともに抒情性が重要な役であるが、今回のウェルテル役を聴く限り、レンスキーも大変楽しみだ。最初に舞台に登場したときには少し声量がどうかとも思われたが、歌い進むうちに、今日これだけ美しいリリコもそうはいないだろうと思われた。有名な第3幕のアリア「オシアンの歌」も実に素晴らしく、よくぞこれだけの代役を探し当てたものだ。








そんなわけで、いろいろ考えるヒントをもらった公演となった。新国立劇場の意欲的な上演に改めて拍手を送りたい。

