2016年 04月 28日
アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち (ポール・アンドリュー・ウィリアムズ監督 / 原題 : The Eichmann Show)
題名にあるアイヒマンとは、ナチス・ドイツの親衛隊の将校で、ユダヤ人虐殺を推進した責任者であるアドルフ・アイヒマンのこと。戦後連合軍に逮捕されたが、偽名を用いて正体を隠し、捕虜収容所から脱走。その後アルゼンチンに潜伏しているところを発見され、イスラエルに移送の上、同国のエルサレムにて裁判にかけられることとなる。時は戦争終結から 16年を経た 1961年。ちょうど発展途上にあったテレビという新たな媒体を使って、その戦争犯罪を裁く法廷の様子を世界に届けようと奮闘する男たちを描いたノン・フィクションが、この映画だ。
映画はまず、米国のテレビプロデューサーとしてどうやらエルサレムに家族とともに駐在しているらしい米国人、ミルトン・フルックマンが車の中で、この裁判を撮影するにあたって監督として起用する人物のことを語るところから始まる。言葉が途中で短く切れて繰り返される演出がなかなかスピーディでよい。ミルトンが白羽の矢を立てたのは、敏腕ドキュメンタリー監督でありながら、当時米国映画界で吹き荒れた赤狩りの嵐 (時代背景がよくイメージできるではないか) によって仕事をほされていた、レオ・フルヴィッツ。映画は、彼らの家族も少し出て来るとはいうものの、その心理に深く入って行くというよりは、実際にアイヒマンを巡る裁判のテレビ放映がどのように準備されて行ったのか、また、ホロコーストの被害者が歴史上初めて公の場でその無残な体験を語った出来事となったこの裁判がいかに進んで行ったのかを、淡々と描いている。この映画自体はドキュメンタリーではないのだが、アイヒマン自身や法廷での証言者の映像は実際のものを使用し、さながら疑似ドキュメンタリーの様相を呈している。これは戦争中のアイヒマンの写真。いかにもナチの将校という冷酷なイメージであるのみならず、その後の裁判の場ではついぞ見せなかった笑みをうっすらと浮かべているではないか‼ この笑みの意味するところは何か。
ここでプロデューサー役を演じているのは、マーティン・フリーマン。
https://www.youtube.com/watch?v=brotY-aMCBE
それにしても、平和な時代に生まれた人間としては、ナチス・ドイツのような極端な時代への真摯な興味はあるものの、もし実際自分がその時代にその場所に生きていたら・・・と考えるのはつらいことだ。人間性に完全に蓋をして、ただ単に組織の命令に(その命令がいかに理不尽だったり非人道的であっても)従って、いわば思考のスイッチを切ったまま生き永らえるなんて、できるものではないと思いたい。だが、これほど極端ではなくとも、どんな社会の組織の中にも、アイヒマン的思考停止型人間はいるはずだ。この映画について、カタルシスはないが決して絶望的なだけでもないと上で書いたが、そのことは、この映画を見る人が、感性と知性を働かせる必要があることを意味する。つまりここで促されているのは、イマジネーションを持つこと。そして思考を巡らせること。日常生活でもその習慣があれば、思考停止型になることはある程度防げるようにも思う。なのでこの映画を見た方は今後、「いかにして思考停止から脱却するか」という点に注意を払われたい。大きな問題に遭遇することは、どんな人にもあるだろう。でも、問題が大きすぎるからと言って思考を停止させては、組織が間違った方向に行くのを手助けすることになる。イマジネーションは何より大切だと思いますよ。サラリーマン社会の戒めでまとめては、ちょっとこの映画の製作者たちに申し訳ありませんが (笑)。