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生誕150年 黒田清輝 日本近代絵画の巨匠 東京国立博物館

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以前書いた若冲展の記事で、GW 中に最初に同展をトライした際にあまりの混雑のために諦めて、この黒田清輝展と、アフガンの黄金展を東京国立博物館で見たことに触れた。報道によるとその後も若冲展の混雑ぶりは悪化の一途を辿っているとのことで、最近では実に 320分待ち (!!) ということもあるらしい。なんとも凄まじいことになっているが、その若冲展も残すところあと 2日間。合計で一体何万人があの展覧会に足を運ぶことになるのだろう。

その一方、この黒田清輝展は既に会期が終了してしまった展覧会であって、ご覧頂く方の役にはあまり立たないかもしれないが、内容は大変に素晴らしくまた意義深い展覧会であったので、忘れることのないよう、自分としてもここに記事を書いておきたい。昨年 9月 3日の記事で上野について書いたときに、現在では東京国立博物館の付属施設となっている黒田記念館をご紹介した。この黒田記念館は現在改修中であり、今回の展覧会は、その改修時期を利用して黒田記念館所蔵の作品も多く並べるという目的もあるのかもしれない。
http://culturemk.exblog.jp/23628176

上のポスターに、「教科書で見た。でもそれだけじゃない」というコピーが掲載されているが、このポスターにあしらわれている 2点、「読書」と「湖畔」、時に重要文化財に指定されている後者は、近代日本を代表する洋画として必ず美術の教科書に載っている。少し記憶のよい人なら、黒田の作風が「外光派」と呼ばれたなどという知識もあるだろう。これが私が訪れた GW 中の朝の景色だが、なんという偶然か。外光派の作品のポスターが、外光を誇示するかのような木洩れ日を浴びているではないか!! これを見ることができるのは朝の時間帯だけであり、展覧会を見たあとには既に太陽の角度が変わっていて、全く情緒のない、ただのポスターになっていた。満員だった若冲展のおかげで、貴重なショットを撮ることができました (笑)。
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さて、黒田清輝 (1866 - 1924) は鹿児島出身。本名は「きよてる」だが画家としては「せいき」と名乗ったらしい。幼時から絵の心得は多少あったようだが、18歳で法律を学ぶためにフランスに渡り、そこで絵画を志すことを決めたという。彼の生年 1866年は大政奉還の前年。なので彼はまさに明治の第一世代として西洋文化に貪欲に取り組んだわけであるが、この展覧会でその画業を回顧して行くと、日本の近代化の黎明期に早くも西洋美術の中心地であるパリで認められた日本人がいたことに驚き、また、それゆえに時代の激動 (政治、経済のみならず芸術面での潮流も含め) の中で様々な苦労を余儀なくされたことにも思い至ることとなった。もちろん、画家として、後には貴族院議員として尊敬された人であり、様々な人々に慕われ尊敬されたであろうし、画家としての表現意欲は終生衰えなかったとも思われる。いずれにせよ、いくつか模範的な作品があるということだけで有名で、彼の業績全体がその価値にふさわしいほど知られていないとすると、今回の展覧会の意義は非常に大きいものだと思うのだ。

上述のように黒田は、渡仏してから絵画の道に本格的に目覚めたようで、この展覧会でも、養父にあてて画家としてやっていく決意を述べた書簡が展示されていた。彼の場合、育ちがよくて見かけにも鷹揚さがあるせいか、異国でかの地の芸術に身を投じるという緊張感はもちろん感じられても、必要以上に悲壮な雰囲気はないように思う。やはり新たなことを学ぶには、柔軟性がある人の方が適性があるということではないでしょうかね。これが渡欧から 5年後、1889年の自画像。多少の不安はあれど、基本的には自信に満ちているような。
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実はこの構図や半逆光の描き方には、レンブラントの影響が指摘されている。これは前年、1888年に黒田が模写したレンブラントの「トゥルプ博士の解剖講義」。ハーグのマウリッツハウス美術館の所蔵である。古いカトリックの絵画を学ぶよりも、実証主義的なプロテスタント地域の絵画を学ぶことに興味があったのかもしれない。
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黒田が滞在した頃、1880年代から 90年代のパリと言えば、ロマン主義と新古典主義の並立から、象徴主義や印象派が生まれつつある頃。フランス独特の、保守性を重んじるアカデミック絵画と実験的な前衛性とのせめぎあいの時代と言ってよいだろう。世紀をまたぐと、主としてフランス人以外の人たちが活躍したエコール・ド・パリの時代になるわけだが、それに先立つ数十年前だから、東洋人が活躍することのハードルは想像以上に高かったのではないか。しかし彼は画家ラファエル・コランに弟子入りして、貪欲に西洋絵画を吸収して行く。緻密なデッサンから、このような人物像を描いたり、アトリエの情景を描いている。これらは室内で描かれているので「外光派」となる前夜の習作たちだが、構成力とか色彩の自在さは、何やら日本人離れしていないだろうか。
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そして、戸外に出て描いたこの 1891年作の「落葉」はどうだ。空気を描こうとする画家の清新の気が伝わってくる。そして黒田はこの年、ついに「読書」でサロン初入選を果たすのだ。
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実は「読書」のモデルになったのは当時黒田が恋仲となった肉屋の娘、マリア・ビヨーという女性。「読書」の翌年、1892年に描かれたこの「婦人像 (厨房)」もやはりマリアがモデルになっている。どこか憂愁をたたえた表情であるが、この異国の男性のことをどんなふうに見ていたのだろう。
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これは仲間 (日本人画家の久米桂一郎を含む) とともに撮られた、その頃の黒田の写真。裕福な生まれということもあるのか、その後の時代の、例えば佐伯祐三のような命を削る異国生活の様子に比べると、何かのびのびしているように見える。それゆえにこれほど早く西洋絵画の技術を自家薬籠中のものとできたとも言えるのではないだろうか。もちろん、才能、努力、巡り合わせ、いろんな要素が噛み合って画家の個性が作られて行くわけだが。
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そして黒田は 1893年に帰国。日本で美術教育活動に身を投じる。だが、いかにパリでサロンに入選するという実績を残したとはいえ、当時弱冠 28歳。まだまだ若手というべき年齢である。私はこの展覧会を見ていて、若くして西洋絵画の先駆者としての宿命を負った黒田の意気込みと苦労に思いを馳せてみた。美術にも流行り廃りがあり、黒田の生きた時代にはフォーヴィズムもキュービズムも既に生まれていたわけで、日本で最先端ともてはやされても、決して世界の最先端でないことは本人がよく分かっていたことだろう。また、例えば彼が終生日本でトラブルに巻き込まれた裸体画というジャンルも、日本の伝統と西洋の伝統との違いによるものだけに、笑うに笑えない落胆を味わったことだろう。だが、このあと見るように、彼はやはり画家として非常に自由で幸福であったとも、一方で言えると思う。

彼が帰国して間もない頃に手掛けた「舞妓」。水の上という想定において似て非なる題材の「湖畔」と並んで重要文化財に指定されている名品だ。印象派に強い影響を与えた日本の画家が、その印象派の本場から帰ってきて、まるで逆ジャポニズムのように手掛けた作品である。題材がどうのというより、この鮮やかな色彩に魅せられるではないか。日本の洋画家に多い「デロリ」感をほとんど感じさせない点に、黒田の非凡さを感じるが、いかがであろうか。
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これは1896年の「大磯鴫立庵 (しぎたつあん)」。この鴫立庵とは、もちろん西行の歌に因むものであるが、実はこの西行の有名な歌が読まれたのは神奈川県の大磯あたりと言われており、1664 (寛文 4) 年に西行を偲んで建てられた庵 (俳諧道場) であるらしい。今調べてみたら、おぉなんと、現存するではないか。私は俳句など詠めるわけもなく、せいぜいがサラリーマン川柳どまりであるが (笑)、一度ここを見に行ってみたいものだ。と、例によって脱線しておりますが、この絵はまるでフォーヴィズム。いやー、萬鉄五郎の作品かと思ってしまいました。でもよく見ると、上の舞妓の着物の柄が少し進化したような具合で、黒田の画家としての飽くなき挑戦心をひしひしと感じる。
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この「昼寝」(1894年) もその流れにあり、一層高まる表現意欲を感じる。ここまで来ると、上の舞妓さんの顔と着物の色彩がそれぞれ入れ替わったようだ (笑)。明らかに滞欧時代の作品から先へ進んでいる。
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実は同じような題材で後年、1903年に黒田が描いたのがこの作品、「野辺」である。これが同じ画家の作品と思われるであろうか。なんとも実在感のある艶めかしいヌードである。
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実はこの展覧会には彼の師匠であったコランや、彼が心酔したミレーやピュヴィス・ド・シャヴァンヌなどの作品も展示されているのだが、コランの「フロレアル (花月)」(1886年) と比較すると、もちろん画家としての資質や文化的背景の違いを否定することはできないにせよ、明らかな影響関係が感じられる。黒田は、色彩の冒険を経て、師の作風へのノスタルジーに戻って行ったのかもしれない。
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一方、それに数年先立つ 1899年に、黒田のもうひとつの代表作が生まれている。これも重要文化財に指定されている三幅絵、「智・感・情」である。
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これは不思議な絵であり、また、「湖畔」「読書」で知られる外光派としての黒田清輝とは全く異なる雰囲気の作品である。私は初めてこの絵を知った学生時代に、加山又造の作品かと思ったくらいである。とても 19世紀末、明治の世の作品とは思えないモダンさがある。専門家の間でもこの絵が何を表しているのか定説はないと聞いた。だが、この当時の日本人としてはありえないようなプロポーションに、近代人としての日本人の顔が乗り、それぞれに全く異なるポーズを取っている点、誰しも神秘性を感じるであろう。日本でヌード展示がわいせつか否かという話題を巡ってスキャンダルに巻き込まれた黒田が、精神性の高いヌードを描いて総決算としたと考えたくなる。

その一方で、彼の生きた時代との直接のかかわりあいを示すスケッチブックが展示されていたのも興味深い。1894年、彼は従軍画家として中国に赴いている。そう、日清戦争だ。およそ戦争との関わりを感じさせない黒田でも、そのようなことに身を投じたという点、平和な時代に生きる我々には想像しがたいが、こんな丸焦げの死体などもスケッチしているのだ。ちなみに黒田に現地取材を依頼したのは日本の新聞社ではなくフランスの新聞社であったようである。いずれにせよ、時代の激動をこの静かなスケッチから知ることができる。
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黒田はまた、国を代表する画家として、国家的な事業にも参画している。1914年に完成した東京駅の帝室用玄関の壁画を描いているのだ。第二次大戦で焼失してしまい、今は残された数枚のモノクロ写真から当時を忍ぶしかないが、以下は日本の産業を描いた場面で、上が「運輸及造船」、下が「水難救助・漁業」である。これはまた、モダニストとしての黒田の一面を示す貴重な例ではないか。
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言うまでもなく黒田が滞在していた頃のパリでは、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌがパンテオン等の壁画を描いて盛名を誇っていた (私も大好きな画家で、昨年 6月のパリの記事でも少しそれを紹介した)。この展覧会でも、「聖ジュヌヴィエーヴの幼少期」(1875年頃) という作品が展示されていた。神話的風景を描いたピュヴィス・ド・シャヴァンヌとは随分異なる壁画を黒田は描いたことになる。
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黒田は、教育活動に加えてこのような国家的事業への参画を行い、帝国美術院院長を務め、1920年には貴族院議員に就任するなど、公務が多忙となって、後年は大きな作品を描くことができない環境になったようだ。最終的には 58歳の誕生日を迎えずして亡くなってしまったのだが、激務が命を縮めたという事情もあるのかもしれない。そんな黒田の晩年の小さな作品たちがいろいろと展示されていて興味深かったが、特に私が面白いと思って見入ってしまったのは、6点並んだ雲のシリーズだ。大きさは 26cm × 34.5cm で、1914年から 1921年にかけて描かれている。朝に夕に、時間があるときに空を眺めて、さささっと筆を走らせたものであろうか。千変万化する雲の表情に、黒田は何を思ったのであろうか。
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あるいは、この「案山子」(1920年) の佇まいはどうだろう。実は案山子を描いた大作を本人はもくろんでいたらしいのだが、それは果たすことができなかった。でもこの案山子、やはり悲壮感を感じさせることなく、飄々としながらなんとも味わい深いものだと思う。
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そして、これが絶筆の「梅林」(1924年)。前年に狭心症の発作を起こして療養していた黒田が、病室の窓から見える梅を描いていたものであるらしい。体力の限界を示す荒いタッチではあるが、生きようとする意志は最後まであったように思われる。それゆえにこそ、黒田が命を絞って描いた梅の絵に、静かに心を揺さぶられる。
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このように、まさに「教科書で見た。でも、それだけじゃない」画家、黒田清輝の充実した画家人生とじっくり向かい合うことができる貴重な機会であった。そして、画家の生涯の最後まで来て振り返ってみるとき、去年 9月の上野の記事でもご紹介した、この素晴らしい作品が瞼の裏に浮かび上がって来る。1892年作の「赤髪の少女」。異国の青年画家が描いたこのフランスの少女の後ろ姿は、永遠にその美しい背中を向けたまま、なんとも言えない詩情をたたえて我々に語り掛ける。きっと黒田は天国で、若き日を思い出してこの少女の正面をキャンパスに描いているのではないだろうか。
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by yokohama7474 | 2016-05-22 23:56 | 美術・旅行