2016年 06月 12日
鈴木雅明指揮 東京交響楽団 (オルガン : 鈴木優人) 2016年 6月11日 東京オペラシティコンサートホール
モーツァルト : 歌劇「魔笛」K.620 序曲
モーツァルト : 交響曲第 41番ハ長調「ジュピター」K.551
サン・サーンス : 交響曲第 3番ハ短調作品78「オルガン付」
なるほど。いやいや、私とても知っている。鈴木が古楽器オケによるバロックだけではなく、通常のシンフォニーオーケストラをも指揮することを。実際に過去には、東京シティ・フィルを指揮したマーラー「巨人」を聴いたこともある。だが正直のところ、その演奏にはピンと来ることがなかったため、鈴木がさらに進んで演奏したマーラーの今度は 5番 (!!) を、私は聴かなかったのである。だが今回の曲目はなかなか面白い。前半はウィーン古典派のモーツァルト。バロックの美学からはさほど遠からぬ作曲家である。だが後半はどうだ。フランス・ロマン主義の大家、サン・サーンスの代表作、交響曲第 3番である。食い合わせも悪そうだが (笑)、一体どんな演奏になったのか。
まず最初の「魔笛」序曲は、オケの各パートの混じり合いがなんともよい音を出していた。次の「ジュピター」もそうであったが、弦楽器のヴィブラートはほとんどかけられておらず、古楽器風のスタイルである。だが本当に大事なことは演奏のスタイルではなく、そこで鳴っている音楽の喜遊性なのだ。音の調和から始まり、笑い転げてひたすら進み、またまた厳かな雰囲気となるこの曲の持ち味を遺憾なく発揮した演奏であったと言えるだろう。だよな、パパゲーノ。ティリリリリ (パンフルートのつもり)。
だが後半の曲目こそ、この日の目玉である。サン・サーンスの交響曲第 3番。バッハの峻厳な音楽を好む人は、このシンフォニーを俗っぽいものとして遠ざけるのではないか。昔レコード芸術誌で交響曲の月評を担当していた教養主義の音楽評論家、大木正興は、カラヤンの指揮したこの曲のレコードが出たとき、かなりきつい言葉で作品と演奏の双方をけなしていたのをよく覚えている。確か、「カラヤンの履歴において決して名誉な録音ではなかろう」というような表現であった。ことほどさように、西洋音楽の神髄をバッハに見る人が軽蔑する曲を、あろうことか世界におけるバッハの権威である鈴木雅明が指揮する。こんなパラドックスがあるだろうか。聴き手の期待を軽々とかわし、自らの信念の赴くまま表現活動を続けるのが、名演奏家ならではの醍醐味ででもあろうか。しかもその試みには共犯者がいる。オルガンを弾くのは息子の鈴木優人 (まさと) だ。
さてこのサン・サーンスも、鈴木の情熱が感じられる燃焼度の高い演奏であった。冒頭の漂うような弦楽器から、終了間際にパラパラと響き渡るトランペットまで (安心して下さい、吹いてます。いや、なにかというと、ここではバロック・トランペットではなく、通常の近代のトランペットが)、刻々と移り変わる音楽的情景を丁寧に描き出していた。この曲は 2楽章から成るが、それぞれの楽章が明確に 2部に分かれており、伝統的な交響曲の 4楽章構成がそのまま使われている。その中でオルガンが入る個所は、第 2部と第 4部。特に第 2部の入りは、オルガンが静かにオケを先導する。改めて実演でこの箇所を聴くと、作曲者の意図は、オケの表現力を延長するものとしてオルガンが使われているのだと分かる。またそのことに気付くのは、オルガンの演奏に落ち着きがあるせいではなかったか。このように、バロックの権威が描く音絵巻を私は大いに楽しみ、大団円では鳥肌立つのを禁じ得なかった。やはり演奏家の持ち味を先入観で決めるのは禁物であって、この鈴木親子の今後のさらなる活躍に期待しつつ、その期待がどのように裏切られるかも楽しみにしたい (笑)。
ところで私は 2007年、鈴木雅明と BCJ がロンドンでヨーロッパ・デビューを果たしたのを聴いている。ロンドンの夏の風物詩、プロムナード・コンサートの一環であり、開演はなんと 22時。遅い時刻にもかかわらず会場は文字通り満員で、演奏後の拍手も熱狂的であったのだ。