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マスネ 作曲 歌劇「ウェルテル」(指揮 : アントニオ・パッパーノ / 演出 : ブノア・ジャコ) 2016年7月13日 ロンドン、Royal Opera House

かつて2年ほど暮らしたことのあるロンドンには、今でも毎年のように出張で訪れてはいるものの、今回は2年ぶりの訪問。しかも、Brexit(英国のEU脱退)の方向が明確になってからは初めての訪問だ。それどころか、私がこのオペラを見た7月13日(水)は、辞任したデイヴィッド・キャメロンからテリーザ・メイに首相の座が移ったまさにその日。街中は移民問題やテロに関して議論百発、ロンドン中にバリケードが築かれ、大規模なデモにおいて警官と民衆のもみ合いが各地で発生、あちこちにピリピリした空気が張り詰めて・・・はおらず、いつもとなんら変わりのない、パブで立ちながらただビールを飲む人たちが溢れる、いつもながらのロンドンだ。もちろん私とても、街の状況をつぶさに見るためにロンドンに出張したわけではないので、世の中の動き全体を把握することは不可能だが、少なくとも、通常の人々の生活には混乱は全くなさそうに見えたことは確か。そんな中、なんとか時間をやりくりして見に行くことができたオペラは、フランス・オペラの傑作、ジュール・マスネ (1842 - 1912) の「ウェルテル」だ。これは、劇場がこのプログラムを映画にもそのまま使えるように作成したイメージ・ポスター。
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このブログでも既に4月4日の記事で、東京の新国立劇場でのこの作品の上演(もちろん全く違うプロダクションだ)を採り上げた。超有名曲に比べればそれほど頻繁に演奏される演目ではないのだが、美しい旋律と滔々と流れる情緒に溢れており、見た人の心に残る作品であろう(まあ、ただフラれただけで自殺してしまうという内容が青臭いと切り捨てる人には、無理にオススメはしませんが 笑)。

コヴェントガーデンというかつて市場のあった場所に位置するロイヤル・オペラ・ハウスは、もちろん欧州でも指折りの名門歌劇場であるが、いかにもロンドンらしく、堂々たる大通りにではなく、せせこましい一方通行の道に沿って建っている。24年前に初めて現地に行ったときには、一体どれがオペラハウスかと探したものである (ちょっと言い過ぎか 笑)。
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オペラハウスに向かって左手にはガラス貼りの建物が隣接していて (以前の市場の建物を 1990年代に再建したもの)、そこにクロークやカフェやボックスオフィスもあるのだが、今回行くと改修中であった。従って、昔のあの狭いロイヤル・オペラとなってしまっている。だがまあよい。肝心なのは演奏の内容だ。
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劇場内には、かつてここで活躍した指揮者、歌手、バレエダンサーなどの肖像が並んでいるが、我々にもなじみがあるのはやはり指揮者であり、かつて音楽監督を務めたコリン・デイヴィスやゲオルク・ショルティの肖像彫刻を見て人々は、「あまり似てないね」とつぶやくことだろう (笑)。
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私がここで好きなのは、劇場内部に入る手前の、入り口向かって右手に見える往年の大指揮者、トーマス・ビーチャムの肖像彫刻だ。肩から上だけの幽霊が空中に現れて指揮しているようである。それぞれの劇場の目的が、時として音楽というよりは芝居にあるように思われるこの街には、この雰囲気はふさわしいと思うのだが、いかがだろうか。
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客席も相変わらずせせこましいが、一応それなりに華やかにはできている。
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さて今回の「ウェルテル」であるが、プログラムによると2004年、2011年に上演されたもののリバイバル。ちなみに過去この劇場でのこの作品の上演歴は以下の通り。
 1894年 英国初演 (大失敗)
 1979年 English National Operaとの共同プロダクション。アフルレート・クラウスのウェルテル、ミシェル・プラッソン指揮。
 1980年 新演出。ホセ・カレーラスのウェルテル、フレテリカ・フォン・シュターデのシャルロット、コリン・デイヴィス指揮。
 1983年 ジャコモ・アラガルのウェルテル、イヴォンヌ・ミントンのシャルロット、ジャック・デラコート指揮。
 1987年 フランシスコ・アライサのウェルテル、アグネス・バルツァのシャルロット。
 2004年 今回の演出。マルセロ・アルヴァレスのウェルテル、アントニオ・パッパーノ指揮。
 2011年 ロランド・ビリャソンのウェルテル、アントニオ・パッパーノ指揮。

さて今回の主役は、イタリア人で最近の活躍が目覚ましいテノール歌手のヴィットリオ・グリゴーロ。
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経歴を見ると、23歳でスカラ座にデビューしているほか、ウィーン、MET、ミュンヘン、ベルリン・ドイツ・オペラなどで「椿姫」のアルフレートや「愛の妙薬」のネモリーノ、「ボエーム」のロドルフォなどを主要なレパートリーにして活躍しているが、非常に抒情的な声(リリコ)であり、このウェルテルへの適性は非常に高いものと聴いた。対する恋人シャルロッテを歌うのは、米国のメゾソプラノ、ジョイス・ディドナート。
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ベル・カントからシュトラウスまでかなり広いレポートリーを持つようだが、昨年このロイヤル・オペラの来日公演でも、「ドン・ジョヴァンニ」においてドンナ・エルヴィーラを歌っていた。このシャルロットという役は結構複雑で難しいと思うのだが、彼女は、最初の登場のシーンでの子供たちの面倒を見る優しさから、後半にかけて深くなって行く苦悩まで、多彩に歌い切ってみせた。

もうひとり心に残ったのは、シャルロットの妹ゾフィー役で、これも米国人、ソプラノのヘザー・インゲブレットソン。その明るさがオペラ全体の悲劇性を際立たせる、実は重要な役なのであるが、屈託なくもよく気の回る役柄を気持ちよく演じていた。
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だが、今回も音楽の主導権を握っていたのは、明らかに指揮者のパッパーノである。抒情的なシーンでの弦の唸りや、心理劇を引き立てる大きな盛り上がりなど、彼のテンペラメントのよいところが作品に大きな力を与えていたと思う。どんなに旬の歌手が登壇しても、その能力を最大限に引き出すのが指揮者の役目であり、その意味でこのロイヤル・オペラがパッパーノのもとで充実した活動を続けていることは素晴らしい。今後の英国の方向性の中でも、変わらぬ質の音楽を聴かせ続けて欲しい。
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尚、今回の演出家はフランス人のブノア・ジャコ。彼は映画監督でもあるらしい。この作品の心理的な閉鎖性を象徴するように、ほとんどのシーンの設定が狭い屋内であり、余分な前衛性はゼロであった点、音楽の邪魔をしない演出であったと評価しよう。この演出であれば、狂言回しの登場にも意味を感じることができたし、ことさらに悲劇性を強調することなく淡々と情景を移して行く手腕は、実はなかなか侮れないものであると思う。
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上演プログラムには、クノップフがブルージュの風景を描いた「見捨てられた街」とか、デンマークの画家ハンマースホイの静謐な作品の写真が掲載されていて興味深い。ただ、周辺の文章を拾い読みしても、これらの絵画作品の写真を掲載した明確な説明は見当たらない。昨年4月1日にフランス作曲界の大御所ピエール・プーレーズ (その後、今年の初めに死去) の新聞でのインタビュー記事で、「子供の頃最初に親しんだ音楽はマスネだった」とされたのが、実はエイプリル・フールの嘘でしたという面白いネタは見つかるのだが(それにしてもフランスのエイプリル・フールはなんと文化的か!!)・・・。ただ、なるほどこのような静かで神秘的な雰囲気のセットの中で、ひとりの人間が襲われる悲劇がこの演出のテーマだと思うと、よく分かるような気もするのである。
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ロンドンでは既にオーケストラのシーズンは終わっていて、オペラも、この「ウェルテル」と、ジャナンドレア・ノセダ指揮の「トロヴァトーレ」でシーズンを終える。その後の夏のクラシック音楽界は、BBC プロムナードコンサートの一連のシリーズ一色である。世界第一級の音楽家たちが多く集まり、最終日には英国人たちが大騒ぎするラスト・ナイトを迎えるのだが、さてBrexitの今年はどのようなことになるのであろうか。文化面でのロンドンの優位性は、願わくばこの後も残って行ってほしいものなのだが。

by yokohama7474 | 2016-07-16 13:27 | 音楽 (Live)