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ユジャ・ワン ピアノ・リサイタル 2016年9月4日 神奈川県立音楽堂 

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9月の日本のクラシック音楽シーンでは、いきなり強烈な爆弾が炸裂する。驚異のピアニストとしか形容しようのない、ユジャ・ワンの来日だ。このブログでは、昨年11月14日と19日の記事において、オランダの名門オケ、王立コンセルトヘボウ管との共演について、興奮さめやらぬ口調で喚き散らしたが(笑)、今回はソロ・リサイタルである。前回の来日リサイタルは2013年であったろうか。そのときが私としては初のユジャ・ワン体験であり、なんとも凄まじい衝撃を受けたのであるが、その後一般の知名度も上がってきている中での今回のリサイタル。一体どのようなことになるのか。
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そもそも今回のリサイタル、極めて異例なことがあった。上のチラシをよくご覧頂きたい。左下に「曲目未定」と書いてある。な、なにー。ピアノ・リサイタルを聴きに行くのに、曲目未定なんて、そんなひどいことがあってもよいものか。これは前代未聞だろう。いや、ある。私の知る限り、ひとりだけ前例が。
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ロシアの誇る人類史上最高のピアニストのひとり、スヴャトスラフ・リヒテルだ。私は幸いにして彼の来日リサイタルに2度行くことができたが、当日その場でしか曲目が発表されないにもかかわらず、当然チケットは争奪戦。客席のみならず舞台の照明まで落として響き出した繊細極まりない音は、今でも耳の底に残っている。だが、当時のリヒテルは、まさにロシアの人間国宝で、生ける歴史的人物であった。それに対してユジャ・ワンは今年未だ29歳。ミニスカートも目に鮮やかな、若手ピアニストなのである。ところが曲目未定で売り出されたチケットは、早々と完売。もちろん、今のポリーニなら同じことができるかもしれない。だが、同じように偉大なアシュケナージやツィメルマンやシフなら、曲目未定で完売まで行くか否か。それを思うと、ユジャ・ワンの人気は恐ろしいほどではないか。

今回、彼女が日本で開くリサイタルは5回。この9/4(日)の横浜の神奈川県立音楽堂を皮切りに、翌9/5(月)は仙台。9/7(水)には東京のサントリーホール。9/9(金)は名古屋。9/11(日)は長野。そして、当初未定とされた曲目は、8月9日、つまりツアー開始1ヶ月前を切った時点でようやく発表された。それは以下のようなもの。
 スクリャービン : ピアノ・ソナタ第4番嬰へ長調作品30
 ショパン : 即興曲第2番嬰へ長調作品36、第3番変ト長調作品51
 グラナドス : 「ゴイェスカス」作品11から ともしびのファンダンゴ / わら人形
 ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」

これはなかなかにすごいプログラムだ。まずメインの「ハンマークラヴィーア」は、ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタの中で最も長大で、演奏には45分を要する作曲者後期の大曲。若手ピアニストが弾くこと自体が珍しい。前半は小曲集の趣だが、かなり性質の違う音楽の連続である。もちろんユジャ・ワンには不可能ということはない。当日会場で販売しているツアーのプログラムには、5回のリサイタルすべてがこの曲目であるとされている。ところがところが。会場には以下のような貼り紙がしてあるのだ。
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な、なんたること。当初曲目未定とされ、その後詳細な曲目発表に至ったのに、まだ変更の可能性ありということか。まあ、それはきっと発表された曲目の演奏順序を変えるくらいだろうと思って、席についた。そして、収容人数1,106名と中ホールの規模ながら、満員の聴衆で満たされた神奈川県立音楽堂で、開演に先立って行われたアナウンスに、びっくり仰天!! 「曲目の変更がございます。まず前半はシューマンの『クライスレリアーナ』、後半はベートーヴェンの『ハンマークラヴィーア』になります」だと。つまり、メイン曲目はそのままに、前半の小曲集を、シューマンの代表作のひとつ、演奏時間30分を要する「クライスレリアーナ」1曲に変更するというのだ!! 客席のざわめきを尻目に、背中の大きく空いた深緑の長いドレスで登場したユジャは、いつものようにそっけないお辞儀をして、演奏を開始したのである。もちろん彼女のことであるから、突然の曲目変更でも全く危なげないどころか、そのシューマンの音色の千変万化は素晴らしい。聴いていると時に、左手が音楽を引っ張っているように思える瞬間もあり、若干偏執狂的なところのあるシューマンの音楽と真摯に向き合いながらも、聴き手に先を読ませない意外性を伴った演奏であった。あ、その意味では、本当に直前の直前における曲目変更自体、意外性そのものであったわけだが(笑)。

面白かったのはそれからである。「クライスレリアーナ」の演奏終了後、さて休憩かと思いきや、少し大きめのタブレット端末を持って現れたユジャは、それを顔が覗き込める位置、ピアノの中(譜面台ではない)に置いて、やおら何かを弾き始めたのである。明らかにジャズ風のこの曲、いかにもアンコール風だが・・・。タブレットには楽譜が表示されているらしく、時折それをめくりながら弾いていた。これは、1937年生まれのウクライナの作曲家、ニコライ・カプースチンの、変奏曲作品41。カプースチンはジャズ風の作風を持ち、私も何枚かCDを持っている。ユジャは彼の作品をよく弾いているのだが、ここで急にこれを弾いたということは、ひょっとすると、シューマンの暗い情熱からの口直しという意味で、即興的に思い立ったのかもしれない。もちろんユジャ・ワンによるこのような曲の演奏は、まさに完璧という言葉そのものだ。
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そして、休憩時に貼り出された表示はこれである。
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なんとこのカプースチンの曲はアンコールではなく、前半の2曲目であったのだ。ところで、この表示において主催者側が「突然の変更となりましたこと、お詫び申し上げます」と書いてあるのには、私は大変に違和感がある。これはあるいは芸術家のわがままと評されるべき事態かもしれないが、ひとつは、全くホール側の責任ではないこと、もうひとつは、ユジャ・ワンが弾けばお客はなんでも喜ぶのだ。よって、ここで謝る必要は全くありません。

さて、こうなると後半の曲目も、「ベートーヴェンの『月光ソナタ』に変更します」とでもアナウンスされるのではないかと、ぎりぎりまでハラハラしたが(笑)、そんなことはなく、いつものように後半用に衣装を着替え、今度はラメ付の白いミニスカート姿で現れたピアニストは、ごく自然な立ち居振る舞いで、気負うことなく大作「ハンマークラヴィーア」に入って行った。この演奏は、よくありがちなドイツの巨匠性の表出とは全く異なるもので、いわば不思議な世界を浮遊するベートーヴェンの眼前に広がるシュールな情景を描いたようなものであったと言えるのではないだろうか。強い部分、弱い部分。速い部分、遅い部分。明るい部分、暗い部分。そのすべてが統制され、重々しさから解放された音たちが自由奔放に宙を舞う。瞠目すべき集中力を伴っているのに、その演奏姿に陶酔はなく、かといって冷徹でもない。もしかすると、彼女が今後演奏活動を続けて行くうちに、もっと音が重みを増して行くこともあるのかもしれないが、アクロバティックなだけではない彼女のパレットは、既にして様々な色で満たされている。
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さて、大曲「ハンマークラヴィーア」終了後は、例によってアンコールの嵐。県立音楽堂のウェブサイトから曲目をコピペしよう。

 プロコフィエフ:ソナタ 第7番より第3楽章

 ラフマニノフ:悲歌 op.3-1

 カプースチン:トッカティーナ

 ショパン:バラード 第1番 op.23

 モーツァルト:トルコ行進曲(ヴォロドス/ファジル・サイ編曲)


いずれも鳥肌立つ演奏であったことは言うまでもないが、特に最初のプロコフィエフは、弾き始めた途端、「あぁ~、戦争ソナタ~」と叫びたくなってしまった。プロコフィエフのピアノ・ソナタ第6・7・8番をまとめてこの名称で呼ぶが、特にこの7番の終楽章で必要とされる鋼鉄のタッチと駆け抜ける勢いは、まさにユジャ・ワンの独壇場。このような機会にこの曲の彼女による演奏を耳にすることができる幸運!! 何度も現れる不気味な音型が、まさにそうあるべき不気味さで繰り返されて圧倒的だったし、気が狂ったようなあのクライマックスでは、聴衆の誰もが目眩を感じたことだろう。そして、あぁ、そうだ。このプロコフィエフの7番のソナタの初演者こそ、冒頭に触れた、あのリヒテルではないか!!若き日のプロコフィエフとリヒテルの写真がこれだ。ピアノの名手として鳴らしたプロコフィエフが、初めてピアノ・ソナタの世界初演を他人に任せたのが、このリヒテルによる第7番だ。1943年、戦争中のこと。
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今回のアンコールのうち、最後のトルコ行進曲は、昨年のコンセルトヘボウ管との演奏会のアンコールでも弾いていたものだ。最初のタララララという音が流れ出したとき、一部の人たちは「え? ユジャがこんな簡単な曲弾くの?」とどよめき、また一部の人たちは、その後すぐに破天荒な展開を見せるこの曲を知っているのだろう、拍手をした。ユジャはステージでは決して喋らないが、聴衆との無言のコミュニケーションを成立させる人である。我々聴衆は、この天才が放つ千変万化の音のシャワーを浴びて、皆忘れられない経験をする。そして彼女は、いつものように多少ぎこちない微笑を浮かべながらせっかちなお辞儀をし、タブレット端末を抱えて去って行ったのである。

このようにして始まった今回のツアーであるが、もしかすると、毎回毎回曲目が変わるのかもしれない。幸いなことにサントリーホールでのリサイタルにも行くことができる予定なので、今回のような中ホールではなく、今度は大ホールでいかなる響きを聴くことができるか、楽しみにしよう。あ、ラストミニッツで曲目変更があっても、主催者の方々、謝らないで下さいね(笑)。

by yokohama7474 | 2016-09-05 01:06 | 音楽 (Live)