2016年 10月 13日
ズービン・メータ指揮 ウィーン・フィル 2016年10月12日 サントリーホール

今回のウィーン・フィルの来日公演に関しては、10月2日(日)のガラ・コンサートと、10月9日(日)の川崎でのコンサートを既に採り上げた。そして今回は、一連の日本ツァーの最後の演奏会である。曲目は以下の通り。
モーツァルト : 交響曲第36番ハ長調K.425「リンツ」
ベートーヴェン : 交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」
実はこのプログラムは特別なのである。前半の「リンツ」は、上のポスターにもある通り、メータ得意のブルックナー7番と合わせて既に同じサントリーホールで演奏されているし、大阪でも同じ曲目が演奏された。だが、メインの曲目である「第九」は、今回のツァーで演奏されるのはこの日だけだったのである。それには理由がある。小さくて見えにくいかもしれないが、上のポスターの右端の曲目紹介の上に、「開館記念日コンサート」とある。サントリーホールの開館記念日はこのコンサートのちょうど30年前、つまり1986年10月12日。そのこけら落としに選ばれたのが、この祝典的な「第九」だったのである。これが同ホールに展示されているそのときの写真。


そのような様々な要素を知っていることは、このコンサートの意義を知るための多少の助けにはなるかもしれないが、決してそれ以上のものではない。その場で鳴り渡る音楽にこそ、虚心坦懐に耳を傾けてみよう。まず最初のモーツァルトは、もう既によく知っているウィーン・フィルの音としか言いようがない。コントラバス2本の小編成にもかかわらず、音量に不足することは一切なく、テンポが弛緩することもない。弦も管も微妙なニュアンス満載で、荘重な部分、緩やかでたおやかな部分、楽し気に疾走する部分、いずれも自発性に富んでいる。このオケを知り尽くしているメータは、オケを自由に走らせる名手であり、その身振りには、余分なものは何もない。惚れ惚れするようなウィーン・フィルのモーツァルトである。
そしてメインの第九であるが、冒頭からして既に、ヴァイオリンの左右対称配置が鮮やかに功を奏し、空に浮かぶ雲のようなホルンに乗ってトレモロを弾く第2ヴァイオリンと、稲妻のような第1ヴァイオリンの音をはっきり聴き分けることができ、音楽の立体感は誠に素晴らしい。メータは全曲を通して中庸、あるいはむしろ若干速めのテンポ設定を行い、それぞれのパートが実に美しく響き合う素晴らしい演奏を成し遂げたのだ。既に80歳のメータであるが、そのスタミナには瞠目すべきものがある。だが一方で、若い頃にはもっとダイナミックな指揮ぶりだったような気もするので、年とともに効率的な指揮になって来ているとも言えるかもしれない。第九の過激さはまさに永遠のアヴァンギャルドと呼ぶにふさわしく、年末に頻繁にこの曲が演奏される日本では、演奏者が作曲者の前衛性について行けないような事態も時折発生するが、さすがにメータとウィーン・フィルのコンビは見事なもの。過激さを過激さとして不必要に強調するよりは、作曲者の創造意欲の骨太さを、不自然さなく大きなラインで描き出したと言えようか。特別なことは何もしていないようでいて、ちょっとほかでは聴けないような充実のサウンドが鳴り響くのを聴くのは、まさに至福の時間であった。最後の大団円に至るその高揚感は素晴らしく、アンコールが演奏されなかったのは好ましいことと思われた。
歌手陣は、4人中ひとりだけドイツ人。バスのフランツ=ヨーゼフ・ゼーリッヒ(バイロイトでダーラントやフンディングを歌っている歌手)だ。ほかは日本人で、ソプラノが吉田珠代、メゾ・ソプラノが藤村実穂子、テノールが福井敬。面白いのは、合唱、独唱を含めた歌手たちの中で、暗譜で歌っていないのはバスのゼーリヒだけで、その他すべての日本人は暗譜であった。それから、多少ユニークであったのは、ソリストたちが第1楽章と第2楽章の間にステージに入場したこと。そのタイミングだと、少し歌手の待機時間が長すぎるようにも思うし、通常は第2楽章と第3楽章の間の入場が多いのであるが、よく考えてみると、嵐のような緊張感溢れる第1楽章の後は、聴衆もその緊張感を維持した状態であるのに対し、シニカルなスケルツォである第2楽章の後は、もう少しリラックスしてしまうので、今回のタイミングにも一理あるかもしれない。つまり、歌手たちの入場によって曲の流れが妨げられないというメリットがあるように思う。また合唱団は、今回の演奏のために特別に編成されたもので、東京混声合唱団や国立音楽大学のメンバーに加え、サントリーホール・オペラ・アカデミーという、このホールが推進するホール・オペラで歌う合唱団の混成部隊になっている。合唱指揮は村上寿昭(としあき)。

今回聴いた複数のコンサートを通じて改めてメータの芸術を考えてみると、ひとつ言えるのは、老齢に至っても感傷性は微塵もないことだ。それゆえ、その音楽に感動してよよと泣き崩れることはないと思うが(笑)、でもやはり、特にこのウィーン・フィルのような特別なオーケストラとの組み合わせで聴くと、感動を覚える音楽ではあるのだ。音楽家の持ち味には様々なタイプがあり、孤高の存在もあれば、庶民にアピールするタイプもいる。メータの持ち味は、大衆性を持ち合わせた力強さであり、80を超えてもその持ち味が衰えずに存在していることに大いなる価値がある。そうだ、これまでも見てきたように、彼は人々に勇気を与えることができる人。それこそが彼の音楽の本質であり、これからも機会あれば彼の音楽を聴いて行きたいと私が思う理由である。日本では好んで巨匠という言葉を使いたがるが、私にとってのメータは、そのような大仰な肩書は必要なく、ただズービン・メータという名で充分だ。今後のますますの活躍をお祈りする。





それはキュッヒルについてです。
キュッヒルは1年間の定年延長を経て今年8月のザルツブルク音楽祭において完全に定年退職となりました。
ウィーンを引退したことについてはセレモニーもあったので、それなりの報道もされていたのに貴方様がご存知なかったようで驚きました。
キュッヒルは今後ウィーンへエキストラで出ることはしないと宣言したようなので、今後はもうウィーンフィルでもウィーン国立歌劇場でもキュッヒルの雄姿を見る事は出来ないようです。
ですから今年のウィーンフィルとウィーン国立歌劇場の日本公演にキュッヒルが出ることは無いのです。
日本でのウィーンのコンマスとしてのキュッヒル最後の雄姿は昨年10/8のウィーンフィル東京公演のモーツァルト3大交響曲の日になってしまったようです。
私はそのコンサートを聴きに行ったので結果的に最後の雄姿を見ることが出来ました。
今年のウィーンフィル日本公演もガラコンサートを含め5回聴きに行きましたがキュッヒルがいないウィーンフィルは明らかに変質していたのを実感しました。
個人的にはガラコンサートには小澤征爾が出たのでこれ限定のスペシャルで特別コンマスとしてキュッヒルの登場を密かに期待していたのですがやっぱり出ませんでしたね。
今年のウィーン国立歌劇場日本公演はキュッヒルがいないので今までとは何かが違うと感じることがあるかもしれませんね。

あ、いらしていたのですね。次の40年間における第九鑑賞で、また違う素晴らしい演奏に出会うことを期待しましょう(笑)。
今晩、改めてプロフィールを拝見しましたら、ニックネームにCrop Stock様と御座いました。どちらの方が、お呼びするのに宜しいでしょうか?
ライナー・キュッヒル氏が、東京・春・音楽祭「神々の黄昏」にてコンサートマスターを努めて下さるのなら嬉しいのですが。随分前のインタビューにて、氏は『オペラも1シーズンに90から95回ほど演奏するので、40数年掛け合わせると約4000回。どの作品を一番弾いたのかも分かりません。500回くらい演奏したオペラもありそうですね。これまでの演奏会の記録は全て自宅にあるので、退職して時間ができたら整理してみるつもりです』と仰りました。本当に、お疲れ様で御座います。
でも、これからソリストとして、弦楽四重奏団の1stヴァイオリン演奏者として、まだまだ輝き続けて下さるのではないかと私は心待ちにしています。数え切れない程の共演を果たした多くの指揮者達との思い出話も御著書に記録されることになれば・・・凄い秘話が垣間見れそうです(笑)話は全く変わりますが、もし11月「ラインの黄金」をご鑑賞されるご予定でしたら、バイロイト音楽祭「トリスタンとイゾルデ」最前列との違いを是非お聞かせ下さい。これからも貴殿の素敵なクラシック音楽トーク、楽しみにしています。
ニックネームの件、恐縮です。本当は Crop Stock にしたかったのですが、ふとした手違いで(?) ID を yokohama7474 にしてしまったので、もはやどちらでも結構です(笑)。キュッヒルについては、奥様の書いた本を手元に置いていて未だ読めていませんが、読了した暁には、また感想をアップ致します。ティーレマンの「ラインの黄金」は、(急な出張でも入らない限り)もちろん参りますので、「トリスタン」との比較はするつもりでおります。いつもとりとめのないことを書いているブログですが、引き続きよろしくお願い申し上げます。