2016年 11月 19日
よみがえれ! シーボルトの日本博物館 江戸東京博物館

フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)の名は学校の歴史の教科書にも出てくるし、知らない日本人の方が少ないのではないだろうか。ドイツ人の医師で、長崎の出島に鳴滝塾を開いて蘭学を教えた。日本地図を国外に持ち出そうとして一旦は1828年に国外追放となったが、日本の開国後、1859年に再来日した。その彼は、実は大変な情熱をもって日本をヨーロッパに紹介しようとしていたのである。そのことはそれなりに知られてはいて、私も随分以前に、オランダのライデンの博物館にあるシーボルトが日本から持ち帰った大量の遺品についてのテレビ番組を見たことがある。だがそこでは、多くの収集品が倉庫に眠ったままで、充分な調査もされていないと紹介されていた記憶がある。この展覧会は、千葉の佐倉市にある国立歴史民俗博物館の主導のもと、2010年から2015年に亘って行われたシーボルト父子関係資料の総合的調査の成果を世に問うものである。
まずここで再確認しておきたいのは、シーボルトはバイエルン州ヴュルツブルク(いわゆるロマンティック街道の出発地点で、旧市街は世界遺産に登録されている)出身のドイツ人であるということだ。我々の常識に基づけば、江戸時代に日本が交流を維持したのは中国とオランダだけだ。それなのに、シーボルトがドイツ人とは、これは一体どうしたことか。彼は若い頃から東洋に興味があったのか、ドイツで医師として開業ののち、オランダ国王ウィレム1世の侍医からの斡旋を受け、オランダ領東インド(現在のジャワ島)所属の外科医としてバタヴィアに駐在。そこでオランダ領東インド総督の許可を得て、日本でオランダ商館医の地位を得て来日する運びとなったらしい。来日時に日本の通訳から、彼のオランダ語がおかしいと怪しまれたらしいが、「自分はオランダの山岳地帯の出身で訛りがある」と言って切り抜けたとのことだが、オランダは山岳地帯の全くない国なので、当時の日本人のオランダに対する理解度の低さが伺えて笑ってしまうエピソードである。
さてこの展覧会、シーボルトの肖像から始まっている。これはヴュルツブルクのメナニア学生団という団体に所属していた頃のスケッチ帖(1816年頃)で、右から2人目が、二十歳前後のシーボルトである。これ、なかなかいい雰囲気ではないか。例えば「ファウスト」とか、オペラではオッフェンバックの「ホフマン物語」の冒頭のような、学生たちが酒場で飲んでいる舞台のシーンを彷彿とさせる。あるいは、ブラームスの大学祝典序曲が頭の中に鳴り響くというべきか。ドイツの青春だ。










さて、展覧会は、シーボルトが収集した日本に関する膨大な資料の一部の里帰りと、彼がヨーロッパでいかに日本を紹介するために懸命な努力をしたかについての情報が満載である。彼の二度目の来日は、日本が開国した後、1859年である。前年に締結された日蘭修好通商条約に基づき、彼に対する追放令は解除されていたらしい。すなわち、かつて追放された大好きな日本に、30年を経て還って来たことになる。この二度目の来日には、当時12歳の長男、アレクサンダーを随行していたとのこと。これは自身が創設した出島オランダ印刷所で製作された、「日本からの公開状」という小冊子。









展覧会では、彼が日本をヨーロッパに紹介する意義を主張して、コレクションの購入を施政者に訴えかけたことが説明されている。これは、あのワーグナーのパトロンとして名高いバイエルン王国のルートヴィヒ2世にあてた1864年の書簡。シーボルトはなかなかに逞しい人であったようなので、ヨーロッパ以外にも優れた文化があるという学術上の意義はもちろん、教育機関での利用や、貿易による経済振興も言及されているようだ。少なくとも、「侵略の価値がある」と書いてある気配は、なさそうですよ(笑)。


