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藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画 生誕130年 府中市美術館

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近代以降の日本人画家で、世界的に最も知られた名前は誰であろうか。この問いに対し、ほとんどの人は、エコール・ド・パリの中心的な画家であった藤田嗣治(ふじた つぐはる 1886-1968)と答えるであろう。1955年にフランスに帰化してからは、レオナール・フジタ = Leonard Foujita という名前で呼ばれ、多分世界的にはその名前で知られているはずである。今年はその藤田の生誕130年。このブログでも既に、昨年公開された小栗康平の映画「Foujita」や、東京国立近代美術館が保管する彼の戦争画の展覧会などを採り上げた。この記事で採り上げる展覧会は、この記念の年に彼の様々な作品を一堂に集め、このよく知られていながら実はよく知られていない画家の全貌に迫ろうという意欲的な企画なのである。会期は来週末、12/11(日)まで。日本の洋画、または東洋と西洋の文化の邂逅に興味があるという方にとっては、必見の展覧会なのである。
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この展覧会の会場は、東京の中心部ではなく、府中市美術館なのである。私は普段府中を訪れることはなく、ただ一度、10年以上前に、具象画家 遠藤彰子の展覧会を見にこの美術館に来たことがあるのみだ。久しぶりに訪れてみると、府中市民の憩いの場である広大な敷地の中の、気持ちよい場所なのだ。「知っているようで知らなかったフジタのすべて」というコピーが興味深い。
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展覧会は藤田の若い頃の作品から始まる。彼は軍医であった父の上官にあたる森鴎外の推薦で、東京美術学校、今の東京藝術大学に学んでいるが、在学中の成績は決してよくなかったらしい。これはその藝大が所蔵する1910年、24歳の頃の自画像。トレードマークのおかっぱ頭ではなく、画風もよく知られる彼のスタイルとは違っているが、清新の気風に満ちた勢いのある絵ではないか。
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その藤田が単身でパリに渡航したのは1913年。芸術家の創作活動の展開や、それが世に入れられる過程には、様々な宿命的なめぐり合わせが往々にしてあるものだが(先般記事にした速水御舟の場合もそうであった)、藤田の場合も、モンパルナスの安アパートの隣にモディリアニやスーチンという画家たちが住んでいたというから驚きだ。これが渡仏の年に描かれた「スーチンのアトリエ」。ハイム・スーチンはロシア系のユダヤ人で、やはりエコール・ド・パリの中心人物のひとり。この絵にもまだ藤田の個性を見出すことはできないが、新天地で決意をもって絵を描く若い芸術家の息吹が伝わってくる。
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当時美術の最先端であったパリ。その地で藤田は様々な刺激を受けて、当然のことながら、スタイルの模索が始まる。1914年の「キュビスム風景」は、文字通りキュビズムを追求したもの。キュビズムの歴史上最初の作品は、1907年に描かれたピカソの「アヴィニョンの娘たち」だと言われているので、それからほんの7年しか経っていない。だがここには、やはり藤田の心の奥からの共感はないように見受けられる。
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これは1917年の「収穫」。ルーヴルで学んだ古代ギリシャの壺の絵に影響されているとのことだが、私にはそれよりもむしろ、モディリアニのスタイルへの追随かと思われる。やはりこれも、藤田独自のスタイルとして完成されたものには見えない。
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この後もやはり試行錯誤が続いていたようで、少し寂し気な作品がいくつか並んでいる。これは1917年の「ル・アーヴルの港」。この荒涼とした画面は、画家の内面の心象風景であると思いたくなる。
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第一次大戦中、1918年の「風景」。南仏のカーニュというところにモディリアニやスーチンとともに疎開した際のもの。このゆがんだ光景にはやはり屈折した感情が満ちているように思われてならない。そして、この骨太の構図や単純な色合いに、私は北川民次(メキシコで活躍した画家)を連想するのであるが、藤田と北川は極めて対照的なスタイルの画家であるだけに、大変興味深い。実は藤田と北川の縁については後述するが、ここで認識しておくべきは、1894年生まれの北川がメキシコに渡ったのは1921年。この絵の制作よりも後なのである!!うーん、面白い。
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1920年代に入ってパリにおける藤田の評価は急上昇。例の乳白色の裸婦というスタイルを確立して行く。これはその頃、1922年の「バラ」。下地は乳白色に近いものがあるが、この不思議な存在感を持った、そしてあちこちに向いた何本かのバラの意味するところは何であろう。私には、真ん中にすっくと伸びた一本が、藤田の高揚する気持ちを表しているように思われる。
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こんな面白いものも描いている。1923年の「アントワープ港の眺め」。これはまるで都市を描いた中世の絵画のようではないか。アントワープの銀行家の自宅を飾る装飾画として依頼されたもののひとつであるとのことだ。スタイル確立の過程にありながら、未だ模索を続ける画家の姿を見ることができる。
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同じ年の暮れ、藤田はついに素晴らしい傑作を生みだすことになる。現在では東京国立近代美術館が所蔵する「五人の裸婦」である。彼が初めて群像表現に挑んだこの作品は、サロン・ドートンヌに出品され、25,000フランという当時のサロン出品作の最高額がつけられた。
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ここで描かれている五人の女性は人間の五感を表しており、左から触覚(布を持つ)、聴覚(耳をつまむ)、視覚(見て見てという感じ?)、味覚(口を指差す)、嗅覚(犬を連れている)。五感と言えば、(諸説あるものの)藤田の暮らしたパリのクリュニー美術館にある一角獣のタペストリーを思い起こすし、西洋絵画における寓意としてはなかなかに気の利いたもの。その一方で、この女性たちのたたずまいはどう見ても西洋的ではなく、東洋の女性のイメージをうまく作り上げている。まさに試行錯誤を経て花開いた藤田の芸術である。こうして人気画家になった藤田のもとには、肖像画の依頼が相次ぐ。これは1924年の「ギターを持つ少年と少女」。二人とも黒目で、東洋的なものを感じさせる。東洋への憧れを持つ依頼主であれば、大変喜んだことであろう。
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これも1924年の作、「動物群」。室内装飾のために描かれたものと推測されているとのことだが、写実と様式化、西洋と東洋が不思議に融合した面白い絵であると思う。
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これは1927年頃の「猫のいる自画像」。猫好きであったと見える藤田は、似たような構図での自画像をいくつも描いているが、この繊細な線と白く透明感ある背景、そして妙に生々しい表情の猫の組み合わせが、ほかにない藤田独特の世界を表している。
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これは1929年の「立てる裸婦」。非常にモダンな感覚であるが、この画家が裸婦を描く必然性のようなものまで感じさせてくれる作品だ。
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同じく裸婦を描いた1931年の「仰臥裸婦」。西洋美術の伝統を感じさせつつ、布の陰影や、全体に見える線の細さは、同時に日本的でもある。有名なフュースリの「夢魔」と同じ女性のポーズでありながら、これほど雰囲気の異なる絵画はあるまい(笑)。
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藤田はこの1931年に、個展開催のために南北アメリカへ行く。アルゼンチンのブエノスアイレスでは、6万人が個展に足を運び、1万人がサインを求めて列をなしたという。い、1万人!!クラシックコンサート終演後のサイン会が、吹っ飛んでしまうような規模である(笑)。そこで藤田はまた画家としての変貌を模索する。1932年の「カーナバルの後」は、リオのカーニヴァルの後の様子を描いているが、大騒ぎのあとの倦怠感は、これまでの藤田芸術になかったものであろう。また、「室内の女二人」は、どう見ても娼婦だろう。藤田らしからぬ卑俗な生々しさが画面全体を覆っている。
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かと思うと、一風変わった宗教画も描いている。日本に帰国した翌年、1934年の「殉教者」。キリストの恰好だが、顔は明らかに東洋人。いかなる意図で描かれたものであるか分からないが、不思議な東西融合の感覚は、やはり藤田ならでは。
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藤田はその後中国に向かい、ここでもこのような独特の絵を描いた。1934年の「力士と病児」。この生命力の塊のような男の肖像は、これまでの藤田にはなかったパターンだ。どこかマンガ風というか、現代の中国アートのようにも見えて面白い。
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西洋を体験して来たせいか、日本人を描いてもどことなくエキゾチックだ。これは「ちんどんや 職人と女中」。なんともキッチュである。
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1930年代に藤田は多くの壁画を手掛けたという。1935年には、銀座コロンバンの壁画を描いている。当時の人々が夢見た「本場ヨーロッパの光景」ということだろうか。
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これは1937年作の「北川民次の肖像」。藤田と北川は1932年にメキシコで出会い、意外なことに、親しい親交があったようだ。藤田らしからぬラフなタッチでひとなつっこく微笑む北川の顔が印象的だ。上に触れた通り、これほど違うタイプの藤田と北川が、何かの不思議な縁によってお互いに影響しあっていた可能性を知り、興奮したのであった。
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これは1938年の「客人(糸満)」。沖縄の光景を描いている。ここにもキッチュな感覚が溢れている。まさに「知られざる藤田」の顔である。
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あれ、これはゴッホの作品か? 違います。1939年に藤田が描いた「モンマルトルのアトリエ」。1920年代のパリでの栄光は、日本に帰国してからどのように思い出されたのであろうか。明るい色彩の中に複雑な心理状態が投影されているように思う。
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これは有名な「猫」。1940年の作で、東京国立近代美術館の所蔵。争い合う猫の群れが、戦争に突き進む闘争的な時代の雰囲気を表しているという説があるようだが、さて、どうだろう。繊細でいてダイナミックな動きを持つ藤田の猫をじっくり鑑賞しよう。
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そして、問題の戦争画が3点、展示されている。藤田の戦争画については昨年11月22日の近代美術館での展覧会の記事で詳しく採り上げたので、ここでは繰り返さないが、この1943年作の「アッツ島玉砕」は、凄まじい群像画として鬼気迫るものがある。ドラクロワ、ジェリコーといったロマン派絵画を思わせる面もあって、興味は尽きない。
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従軍までして熱心に戦争画を描いた藤田には戦後、激しい非難(もちろんそれ以前にもやっかみ半分の非難はあったのだろうが)を受けることとなる。それに嫌気をさした藤田は、1949年に日本を離れ、ニューヨークに向かう。これはその年に制作された「猫を抱く少女」。展覧会のポスターにもなっている作品で、その乳白色の背景といい少女の人形さながらの表情といい、藤田の個性が再度花開いたように思われるが、内心にいかなる思いを抱えていたものであろうか。
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1955年にはフランスに帰化。子供たちを描いた絵など、自由な境地で創作活動を続けたように見える。これは1958年の「パリ、カスタニャ通り」。
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この作品、なぜか私の琴線に触れるものである。硬質な線と繊細なリアリズムであるが、しかし人物は描く対象にはなっていない。これは屋外で描いた壮大な静物画のようなものではないか。題名がスペイン風であることもあり、私にはどうしてもスペイン・リアリズムの巨匠、アントニオ・ロペス・ガルシアの作品が想起されるのである。もちろんそんなことはどこの解説にも書いておらず、私の勝手な思いなのであるが、試みにそのロペス・ガルシアの作品をここに掲げておこう。うーん、ちょっと違うか(笑)。
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さて展覧会は、藤田が後年多く手掛けた宗教画の数々で締めくくられる。これは1952年の「二人の祈り」。藤田自身と妻君代が祈りを捧げている。この絵には藤田のある一面であるキッチュな味が出ていて、あまり敬虔な気持ちにはならないものの(笑)、ちょっとほかでは見ることのできないユニークな個性が出ていて、私は好きである。また、藤田夫妻が実際に祈っている写真も残されている。
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一方、これはヨーロッパの伝統的な図像にある程度準拠した、1959年作の「聖母子」。この華やかな色彩の裏に潜む画家の複雑な思いを感じようではないか。
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これは、私が見に行ったときには展示されていなかったが、図録で私の大きな関心を惹いた、1960年の「黙示録」のなかの「四人の騎士」。これはもうほとんどアウトサイダーアートではないか。
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こうして画業を振り返ってみると、実に様々な顔を持った画家であると思うが、一方でその創作態度は実は非常に一貫しているとも思われる。ここではあまり触れなかったが、彼が日本の画壇でいかなる中傷を受けたのか、それに対してどのように反応したのか、そのような経緯にも、この画家の秘密を考えるヒントが沢山隠れているように思う。ともあれ、彼の芸術はこれからも末永く人々を魅了するものであろうから、この機会にその全貌に迫る試みをしてみる価値は充分にある。府中市美術館に走れ!!

by yokohama7474 | 2016-12-03 00:10 | 美術・旅行