2016年 12月 22日
没後20年 武満徹の映画音楽 渡辺香津美/coba/鈴木大介/ヤヒロトモヒロ 2016年12月21日 オーチャードホール
よく知られている通り、武満は大の映画好きであった。武満作品の熱心な紹介者でもあった指揮者の岩城宏之が何かのインタビューで、「武満さんに『最近映画はご覧になっていますか』と訊くと、『最近減っちゃってねー。年に100本くらいしか見てないよ』と答えたんですよ」と笑って語っていたのを覚えている。私は武満が亡くなったとき、作曲界というよりも、日本の文化シーンにおける大きな存在がなくなってしまったという空虚感を味わったものだが、彼のように自由な感性であらゆる文化から影響を受け、またあらゆる文化に影響を与えた芸術家は、日本にはそう多くないのである。そんな武満の創作活動にとって、映画音楽はひとつの柱になるものであった。生涯で100本ほどの映画音楽を手掛けたらしい。いわゆる現代音楽の作曲家でこれほど映画音楽を作曲した人は珍しい。私の知るところでは、もちろん日本の伊福部昭は特殊な例であろうが、例えばギリシャのミキス・テオドラキスとか、変わったところではポーランドのヴィトルド・ルトスワフスキなども別名で映画音楽を書いている。だが、誰も武満ほどの多様性と積極性をもって映画音楽を作曲してはいないだろう。ひとつの証拠を挙げよう。小学館による武満徹全集は、断片のみ残された舞台音楽などもすべて網羅した、まさにこの作曲家の全業績を音で辿ることのできる文字通り空前絶後の内容なのであるが、作曲分野によってセットが5つに分かれている。実にそのうちの2セットが映画音楽なのである。CDの枚数でいうと、全55枚中21枚!!我が家のCD棚のカオスの中からこの2セットを引っ張り出してみた。上に乗っている絵はなぜかマティス(笑)。
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最初の公演は2008年2月、米国ケネディ・センターで開催された「日本」がテーマの音楽祭で。この音楽祭のプロデューサーから連絡をもらい“タケミツの映画音楽を紹介したい。ただし日本から呼べるミュージシャンは4人くらい”と言われた。アコーディオン、パーカッション、ギター×2の4人というのは編成としてどうなのか、なんてことは深く考えず、私は即この4人に連絡をした。彼らが父の敬愛する音楽家だったから、そして父の音楽で自由に遊んでくれそうだったから。何より彼らの素晴らしさをワシントンDCの人々に知ってほしかったから。4人とも快諾してくれて、それから何度かプログラム選びのミーティング、編曲の割り当て、そして香津美さん宅でのリハーサルを経て、ワシントンDCでの本番。タケミツのことも4人のアーティストのことも殆ど知らなかった聴衆が、コンサートが進むにつれ、手拍子を打ったり、身体でリズムをとったり、歓声を上げたり。最後には全員がスタンディング・オベーション。遠い異国から来た4人の素晴らしい音楽家たちに惜しみない拍手を送っていた。作曲家の肉体は滅びても、その音楽は生き続ける、それどころか新しく生まれ変わることができる、ということを改めて感じた夜だった。
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会場には武満が音楽を手掛けた映画のポスターや、この演奏会のポスターに奏者たちがサインしたものが展示されている。いかにもこの特別な演奏会の雰囲気が感じられて楽しい。
「フォリオス」より第1曲*
不良少年
伊豆の踊子
どですかでん
日本の青春
太平洋ひとりぼっち
= 休憩 =
Tribute to Toru (渡辺とヤヒロによる武満徹に捧げる即興)*
死んだ男の残したものは (ゲストヴォーカル : カルメン・マキ)*
ホゼー・トレス
狂った果実
最後の審判 (三月のうた)
他人の顔
写楽
アンコール : 小さな空*
原曲をよく知っているものとそうでないものがあったし、原曲からはかなり違った雰囲気になっている曲もあったので、武満ファンにとってすべてが驚愕の演奏ということではなかったかもしれないが、だがここに集まったミュージシャンたちの熱意と技術とカリスマによって、何か本当に大切なものを思い出させてもらったような気がする。この編成では、アコースティックな音だけで広いオーチャードホールを満たすわけにはいかないため、PAを使用していたが、そこでスピーカーを通して聴かれる渡辺や鈴木のギター、cobaのアコーディオン、ヤヒロのパーカッション(ロックバンドのようなドラムではなく、ダブラのような太鼓を手で叩いたり、鈴やあるいは鳥の鳴き声のような音のする楽器を駆使していた)、それぞれが素晴らしい表現力で、なんとも惚れ惚れするものであった。それから、特別ゲストとして登場したカルメン・マキのヴォーカルはなんとも情念溢れるもので、ここだけエレキギターで伴奏した渡辺も、「リハーサルを重ねたけれど、本番がいちばんすごくて、身震いした」と絶賛であった。もちろん私も初めてのカルメン・マキ体験であったが、彼女の長い舞台経験から来る凄みに圧倒された。これが1969年の彼女のデビュー作。おぉそうだ、作詞はあの寺山修司なのである。