2017年 01月 22日
鈴木大拙著 : 日本的霊性

著者鈴木大拙 (すずき だいせつ、1870 - 1966) は日本を代表する仏教学者。96歳近くまでの長い人生を生きた仏教界の碩学であったが、このような猫を抱いた写真を見ると、まさに好々爺という感じに見える。


ここでの鈴木の趣旨は、真に「日本的霊性」と呼びうるものは、万葉集や平安時代の文化には未だ表れておらず、法然・親鸞によって浄土系思想が発達することで、初めて発生したということである。すなわち、師である法然に導かれ、戦乱の鎌倉期に「大地のうえに親しく起臥する」ことによって親鸞が到達した境地、「弥陀の五劫思惟 (ごこうしゆい) の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人 (いちにん) がためなりけり」という発想こそが、日本的霊性の目覚めであるという。この親鸞の言葉は、「歎異抄」の中に弟子によって記録されている言葉であるらしく、要するに、阿弥陀如来が長い長い時間をかけて思考された結果の誓いをよくよく考えてみれば、このわたし一人の救済についてのものであった、という意味なのであるが、これだけ読むと、まだその真意が分からない。これは、自分ひとり救済されればよいと言っているのではなく (もしそうであれば、後世にまで尊敬される宗教人にはなりませんよね! 笑)、多くの罪を重ねてきた凡人である自分には、現在・過去・未来のあらゆる人間たちの命が集約されている、このような私まで救済されるということは、全人類が救済されるのだ、という意味であるらしい。まあ私も別に親鸞の教義をきちんと勉強したことはないので、実感を持って語ることができるわけではないが、宗教人としての親鸞の厳しい姿勢と高い知性ゆえの、逆説的なものの言い方の奥深さを感じることはできる。有名な悪人正機説 (善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや) も、同様の発想によるものであろう。ふと思い立って、2011年に東京国立博物館で開催された、「法然と親鸞 ゆかりの名宝」展の分厚い図録を手元に引っ張り出してきた。2012年は法然没後 800年、そしてその弟子であった親鸞の没後 750年であったので、それを記念して開かれた大展覧会であった。日本の文化史は、汲めども尽きぬ豊かな泉なのである。


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わしのりん十 (臨終)、あなたにとられ。
りん十すんで、葬式すんで、
あとのよろこび、なむあみだぶつ。
りん十まだこの (来ぬ)、このはずよ、すんでをるもの。
りん十すんで、なむあみだぶつ。
今がりん十。わしがりん十、あなたのもので、
これがたのしみ、なむあみだぶつ。
UNQUOTE
これについての鈴木の解説は以下の通り。
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(才市の歌で) 最も特殊と見られる一事は、才市の考えが未だ曾て死後の往生に及ばぬことである。(中略) 普通に念仏宗と言えば、娑婆は苦しみ、極楽はその名の如く楽しいところ、両者は対峙して相容れない。それゆえ此の世では忍順・随順など言う訓練をやって、静かに臨終をまつことにする。弥陀の本願さえ信じておれば、極楽往生疑いなしだから南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言って日々を送る、それにこしたことはないというが普通である。(中略) 然るに才市の歌には、死んでからどうのこうのということがない。親から貰うた六字の名号 (注 : 南無阿弥陀仏のこと) で、その心は一杯になっていて、そのほかの事を容れる余地がないように見える。
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面白いのは、歴史上の偉人の高邁な思考のみならず、このような市井の「詩人」の創作にまで仏教の本質を見ようとした鈴木大拙の視野の広さである。ナントカ大学卒だとか、ナントカ会社勤務だとか、そんな些末なことに拘っていては一生見えないような、幅広く奥深い世界を、鈴木のような人から学びたいと思う。それからもうひとつ興味深い事実をひとつ。鈴木の伴侶は、ベアトリス・レイン (Beatrice Lane) という米国人女性であった。彼女は神智学者であり、禅の研究のために日本に来ていて、鈴木とも若き日に円覚寺で出会ったが、結婚したのは 1911年、鈴木 41歳のとき。これは 1925年頃の写真で、左に見えるのは養子のヴィクターである。尚、二人の間にはポールという実子もいる由。


調べてみると、鈴木大拙も西田幾多郎も、金沢に記念館ができている。できれば近日中に訪れて、今私を包んでいる上記のような「意識の流れ」を、そこにつなげて行きたい。アイルランド文学についても、最近ちょっと思うところあり、また記事を書ければよいなと思っております。

