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連祷 井上道義指揮 新日本フィル (歌 : 大竹しのぶ / ピアノ : 木村かをり) 2017年 1月26日 サントリーホール

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このコンサートに全くイメージのない方は、上のポスターを見てどのような印象を抱くことであろうか。「連祷 (れんとう)」とは、日常的にはあまり使わない言葉であるが、その字の通り、連続した祈りのこと。厳しい表情をした男性が二人写っているが、何やら侍のようにも僧侶のようにも見える。これは映画のポスターであろうか。答えは否。これはオーケストラコンサートのポスターだ。新日本フィルハーモニー交響楽団 (通称「新日フィル」) の定期演奏会シリーズ、「ジェイド」シリーズの一環である。ポスターに写っている右側の男性が今回の指揮者、井上道義。左側が名実ともに日本を代表する作曲家、武満徹 (たけみつ とおる)。そう、このコンサートは、昨年の武満没後 20周年の余韻を楽しむというには豊かすぎる内容の、井上によるオール武満プログラムなのである。なかなか秀逸なポスターである。なによりこの銀色の装飾がよいではないか。確かに私の思うところ、武満の音楽は、北山文化的というよりは明らかに東山文化的。この言葉の意味するところは以下で触れたいと思う。

さて、武満についてよく知っている人と知らない人とで、このコンサートへの面白みが変わってくるものと思う。まず題名だが、私はこれを見た瞬間、「なるほど、『れんとう』とは、『二つのレント』とかけているのだな」と思ったものである。果たしてポスターをよく見ると、"Rent" (賃料という意味ですな 笑) ではなく、"Lento" と書いてある。これは音楽用語で「緩やかに」の意。正規の音楽教育を受けなかった武満の 20歳の処女作が、「二つのレント」というピアノ作品であることは、武満ファンは先刻承知のはず。従ってこのコンサートの名前は、その記念すべき作品の題名「レント」と、没後 20年の祈り「連祷」をかけていると解釈した。しかも指揮は最近好調の井上道義で、彼はこのコンサートで「お話し」も担当するという。これはなんとしても出かけなくてはいけないコンサートである。
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この演奏会の内容を一口に言うと、武満の創作の原点を探るものと言えようか。大変ユニークなことに、まず冒頭に、フランスのシャンソン「聞かせてよ、愛の言葉を」の SP レコードが古い蓄音機で演奏されるという構成だ。武満は、終戦間近の 1945年、彼が 15歳のときに、勤労動員として陸軍の食料基地づくりに駆り出された埼玉県飯能市で、見習い士官がこのレコードをかけたときに衝撃を受け、作曲家になる決意を固めたのだという。リュシェンヌ・ボワイエという歌手による録音で、今回は以下のような特別な蓄音機で演奏され、所有者であるというマック杉崎も舞台に登場、蓄音機に関する井上の質問に答えていた。
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武満ファンなら、「僕は一生そのシャンソンみたいな音楽を書いてきたつもり」という作曲者の発言をここで思い出すであろう。私もそれは知識として知っており、またこのような古い SP レコードに対するノスタルジックな憧憬はあるので (以前所有していた SP は、スペースの関係ですべて処分してしまったし)、この試みはなんとも味わい深いものであった。まさに武満の原点。上の写真のような巨大なラッパを本当に機械 (ネジ巻式なので電気は使用しない) に取り付け、井上が自分でそのラッパの向きをぐるっと一周させて、会場の聴衆に聴かせたのであった。

さて、このあと演奏された武満の作品は以下の通り。
 死んだ男の残したものは (山下康介編曲、歌 : 大竹しのぶ)
 二つのレント冒頭部分 (ピアノ : 木村かをり)
 リタニ マイケル・ヴァイナーの追憶に (ピアノ : 木村かをり)
 弦楽のためのレクイエム
 グリーン
 = 休憩 =
 カトレーン
 鳥は星型の庭に降りる
 3つの映画音楽から 「ホゼー・トレス」から訓練と休憩の音楽 / 「他人の顔」からワルツ

これらはいずれも武満の初期から中期にかけての曲であり、しかも編成も様々。舞台上で楽器配置の転換をする間を利用して、口元にマイクをつけた井上があれこれの話をするという趣向で、これは実に興味深いものであった。井上独特の砕けた調子の、それでいながら真実味のこもったコメントの数々は、ちょっとほかでは聴けないもので、大変面白い。思い返してみると彼は、昨年このブログでもタン・ドゥンと三ツ橋敬子による再演をご紹介した「ジェモー」の世界初演を、尾高忠明とともに担当した指揮者であり、それ以外にも武満作品を採り上げるごとに作曲者との会話を経験しているわけで、その意味でも生前の武満の生の声を知る存在として貴重である。また井上も紹介していたが、武満の盟友であった小澤征爾が創設したこの新日本フィルというオケでは、1975年の「カトレーン」の世界初演をはじめ、小澤とともに積極的に武満作品を演奏してきたという歴史があり、実は井上自身も以前このオケの音楽監督であったという縁もあって、改めてこの演奏会の価値を認識するのである。

加えて面白いのは、大竹しのぶの登場だ。
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もちろん、私も大変尊敬する、現代を代表する大女優であるが、ここでは歌手として登場。彼女は最近では音楽活動を活発に行っていて、録音もしていれば、中島みゆきのコンサートにも出演しているらしい。ここで彼女が歌った「死んだ男が残したものは」は、1965年に谷川俊太郎の詩に作曲された曲で、ヴェトナム戦争反対集会で初演されているもの。その時代の空気をよく持っている曲であるが、なんでも今回披露されたのは、昨年 6月に、井上が音楽監督を務めるオーケストラ・アンサンブル金沢との共演用に編曲されたものらしい。まあその、クラシックの歌手を聴きなれていると、微妙な音程のコントロールには、歌の厳しい研鑽を積んだプロとの違いは当然感じるのであるが、大竹の歌唱はさすが女優によるもの。トータルな表現力では胸に迫るものがあった (昨年末に聴いたカルメン・マキの同じ曲の歌唱とはまた違った持ち味であった)。また、歌い終えたあとに井上と話す彼女が、平静ながらもしきりと目じりの涙を拭う様子は印象的であった。ちなみに、井上はその会話の中で、大竹がつい前日、「後妻業の女」でブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、かつて受賞した新人賞、助演女優賞と合わせて 3つのブルーリボン賞を達成した史上初の女優であることに触れていた。おめでとうございます!!

そしてコンサートには、日本を代表するピアニストのひとりで、現代音楽を得意とする木村かをりが登場、武満の一度は失われた (そして最近楽譜が発見された) 20歳の処女作、「二つのレント」の冒頭部分と、その曲を 1989年に作曲者が記憶で再現し、亡き友人のマイケル・ヴァイナー (現代音楽演奏楽団としての先駆けであるロンドン・シンフォニエッタの創設者) に捧げた「リタニ」が演奏された。この「リタニ」はまさに「連祷」という意味であるらしく、武満自身が「レント」からの連想で思いついた題名である由。痛々しい抒情性に満ちた曲である。木村は、やはり武満作品をはじめとする同時代の音楽を極めて精力的に紹介した指揮者、故・岩城宏之の妻であり、既にかなりのヴェテランであるが、大変に美しい音色で、初期の武満作品の持ち味をしっかりと聴かせてくれた。
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ここで木村にもインタビューされるかと思いきや、井上によるとご本人が「私喋るのイヤよ」とおっしゃったとのことで、その代わりに (?)、作曲者の娘である武満真樹が登場、井上の面白可笑しい突っ込みに答えて、亡き父の思い出について語った。初期の頃には陰鬱で深刻な作品が多く、後年も非常に繊細な曲を書いた武満であるが、実は大の冗談好きで、始終ふざけていたとのこと。いわば両極端の言動を取ることで、精神の竿の均衡を保っていたのではないかと。うーん、生き方として参考になります (笑)。

さてその後は武満の初期から中期の代表的な作品が 4曲、休憩を挟んで演奏されたわけだが、井上いわく、この頃の武満作品には、後期の曲のような比較的平明な美しさよりも、深い情緒があり、また必ず最後の方に聴衆の心をグッとつかむ印象的な箇所があって、好きだとのこと。なるほど分かるような気がするし、今回の新日本フィルのような精度の高い演奏で聴くと、その個性が実に雄弁に鳴っているのを聴き取ることができる。また井上は、武満の音楽には、伝統的な西洋音楽にはよく出てくる二項間の対立、例えば明と暗、善と悪、長と短といったものがほとんどないと指摘。それはあたかも、ヨーロッパの庭園が自然を切り拓いてきっちりとした展望を作り出すのに比べて、日本の庭園がどこから歩き始めてどこに向かってもよいようなものだと説明した。この指摘自体は目新しいものではないが、武満作品の上質な演奏に触れてみると、なるほどそれはわび・さびの世界に近いものがあり、改めて日本文化のひとつの精華であるその枯れた感覚との共通性を、まざまざと感じることができるのである。なので、武満の音楽は、きらびやかな金に彩られた北山文化ではなく、渋い色合いの東山文化に近い。もちろん、前者の代表は金閣寺。後者の代表は銀閣寺。なのでこの演奏会のポスターは銀色なのである。銀色の武満の肖像。
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だが井上は武満の音楽における、しんねりむっつりした要素以外の重要性を認識しており、演奏会の最後に、アンコール代わりと説明した上で、「3つの映画音楽」から 2曲 (弦楽合奏によるもの) を演奏した。除かれた 1曲は、「黒い雨」の葬送の音楽。ここで井上は、退廃性を秘めながらも活発な動きを示す音楽だけを選び出し、竿の両端でバランスを取る稀代の作曲家の姿の、ある一面を描き出した。終演後の拍手の中、「浅香さん、いるー? マダム・タケミツ?」と客席に呼びかけ、武満の未亡人を起立させていた。そしていわく、「武満さんの生前に曲を演奏して、ボクが拍手を受けていたら、『いいなぁ指揮者はいつも喝采を受けて。作曲家なんて日の当たらない存在だよ』とおっしゃるので、『作品はずっと長く残るじゃないですか』と言うと、『死んだあとのことなんてどうでもいいんだよ!!』と言われました」とのこと。会場は爆笑に包まれた。今日我々は、亡き武満を偲んでその偉業を振り返る機会を多く持つが、当のご本人は天国での生活を楽しむのに忙しくて、現世を振り返る感傷に浸る暇などないのかもしれない。そうして優れた芸術は、創造した人物個人を超えて、歴史の中で普遍性を獲得して行く。そうであるからこそまた、ときには武満徹という個人の人となりについて、ヴィヴィッドに感じる機会が重要なのであろう。私も、講演やコンサート会場、あるいは映画のプログラムや数々の著作などに接することで、同時代に受けた彼からの感化を、一生忘れないようにしたい。そしてまた、日本の文化シーンに、武満に匹敵するような巨大な存在が現れることを心待ちにしているのである。

by yokohama7474 | 2017-01-27 00:50 | 音楽 (Live)