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沈黙 - サイレンス - (マーティン・スコセッシ監督 / 原題 : Silence)

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自らがキリスト教徒であった遠藤周作の代表作「沈黙」。過去、私の敬愛する篠田正浩によって 1971年に映画化されており、その際の題名は今回と同じ「沈黙 Silence」であった。残念ながら私はその映画を見ていないが、原作はもちろん読んでいるし、1993年に若杉弘によって初演された松村禎三のオペラも、初演時に見ている (ええっと、あまり面白くありませんでした・・・笑)。加えて、以前書いた長崎旅行の記事でも述べた通り、隠れキリシタンは私にとって大変に興味のあるテーマ。従って私には、この映画を見るに当たっての充分な思い入れが既にあったのである。ところが、この映画の鑑賞後のある日に交わされた、私と家人の会話は以下の通り。
 私「うーん、この映画イマイチだったねぇ。」
 家人 (驚いて) 「なに言ってんの。すごい映画だよ。」
 私「まぁ、そういう評価も分からんではないけどね、世界には悲惨な歴史が満ち溢れていて、日本での切支丹迫害だけが痛ましい悲劇じゃないんだよ。」
 家人 (軽蔑の眼差しで) 「心の曇った人にはそう見えるのね。私は感動して涙を流したわ。」
 私 (家の外を見て)「・・・。ええっと、明日の天気はどうだろう。寒いのかなぁ。」

このブログの記事のあれこれで私は、最低限の礼儀は守りながら、面白いものは面白い、面白くないものは面白くないと正直な思いをつづってきている。それゆえ、コメントを頂く方から、時にはネット上でさらし者になるような厳しい評価も浴びせられてきた。だがそれは自ら引き受けた道。匿名の度を越えた卑劣な罵詈雑言でないと私が判断する限り、そのようなコメントは別に隠すことでもなんでもない。というわけで、期待を込めて見たこの映画、私にとっては残念なことにイマイチであったということから始めよう。これは監督のマーティン・スコセッシと、本作に出演している浅野忠信、窪塚洋介の写真。日本でのプロモーション用。
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未だ衰えぬ勢いで新作を発表し続けるスコセッシは、今年 74歳。まだまだこれから深みのある映画を撮って行ってくれるであろう。ただ、作品による出来のむらがある人だと思うので、これから丁寧な映画作りをしてくれることを望みたくなる。なんでもこの作品は、スコセッシが初めて原作を読んで以来、過去 28年に亘って映画化が彼の悲願であったらしい。映画化がなかなか実現せず、製作会社との間で訴訟沙汰にまでなったらしい。その意味では、スコセッシの悲願を達成する記念すべき映画であるということだ。

原作は大変有名であるが、念のためにあらすじを述べておくと、江戸時代初期、キリスト教禁制から未だ日も浅い頃、マカオにあるイエズス会の拠点で 2人の若い神父が意外な話を聞く。それは、自身日本でも活発な布教活動を行ったあのヴァリニャーノが語る話だ。それによると、布教のために日本に渡ったフェレイラ神父という人物が、キリスト教を棄教して、のうのうと日本に住んでいるということである。若い 2人は、自分たちがかつて師事したフェレイラに限ってそんなことがあるわけないと激昂し、真実を確かめようと、果敢にも日本に渡ってくる。だがそこで彼らは、長崎の隠れキリシタンとともに、筆舌に尽くしがたい残酷な弾圧を受ける。敬虔な信者たちがこれほど苦しんでいるのにもかかわらず、救済すべき神の顕現はない。これほどの危急な場面において沈黙を守っている神の意思は、一体いかなるものなのだろうか、という重い重い命題が扱われているのである。

まず印象に残ったシーンを述べると、切支丹であると摘発されたのに、踏み絵を踏まずに処刑された人たちの最期。そのうちのひとりは、あのピーター・ブルックの劇団で長年活躍する笈田ヨシ。彼はもうすぐ小川里美主演のプッチーニ作曲「蝶々夫人」の演奏会形式の演出も手掛けるが、残念ながら私はそれを見ることができない。今年既に 83歳の高齢でありながら、ここでも全身全霊で演技する彼の姿には感動を禁じ得ないのである。
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それから、「シン・ゴジラ」での演技も記憶に新しい、映画監督の塚本晋也。あの田口トモロヲ主演のパンクな「鉄男」から既に 30年近く。時代は移り変わり、人々はその時々で感性に合うものを選ぶ。願わくばこの映画における彼の体を張った熱演が、多くの人に感銘を与えますように。十字架から降ろされる彼の姿は、さながらイエス・キリストのようでしたよ。熱演に拍手!!
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ストーリー自体が感動的であるのはもともと分かっているし、隠れキリシタンがいかなる過酷な目に遭わされたのかも一定の知識はある。従ってポイントは、この映画が映画自体としてどの程度の完成度に達しているかということであろう。その観点から、私が覚えた不満をいくつか挙げてみよう。

・イエズス会の宣教師は、反宗教改革の旗印のもと、異常なまでの情熱で布教に携わったゆえに、日本語を喋るべく死にもの狂いの努力をしたはず。なぜなら、キリスト教の信仰の証は言葉で語られるべきであるからだ。異文化である日本の習慣や日本人の発想に戸惑いは覚えたであろうが、一方で言葉の重要性を実感したはず。この映画にはその観点が欠けている。
・英語。もちろん、米国資本の映画である以上はやむない設定なのであろうが、江戸時代の長崎の農民たちが英語を喋ることなどあり得ない。もしその設定にするなら、片言の英語ではなく、完璧な英語を喋るという設定にした方がまだよかった。もちろん、遥か昔の銀河の彼方の物語である「スター・ウォーズ」で英語が使われていることを思うと、特に目くじらを立てるまでもないのかもしれないが (笑)。
・拷問の描き方はこれで充分か。私は別に残酷趣味があるわけではないが、実際の拷問はもっともっと悲惨なものであったと思う。
・宣教師のひとりは、なぜに溺死するのか。海の中で泳いでいれば助かったのではないか。それとも金槌だったのか (笑)。
・夏のシーンであっても、日本の夏の雰囲気が出ていない。オープニングとエンドタイトルに一切音楽を使わず、蝉の声や波の音に終始したという着眼点を思えば、実際の夏のシーンの出来は若干残念である。

と書きながら思い出すのは、この映画で極めて重要な役割を演じているあと二人の俳優、すなわち、イッセー尾形とリーアム・ニーソンである。まずは前者であるが、当時の領主がこれほど英語がうまかったか否かは別として、さすがに米国でも一人芝居で好評を得ている人だ。その表情や身振りのひとつひとつに、残酷さと温かさが同居する人間の不可思議さを体現する何かがある。
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そしてリーアム・ニーソン。転びのバテレンとは、実は悟りの境地に至っていた人なのかもしれない。これは未だそこに辿り着く前の、苦悩に満ちた神父の表情。
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またもうひとつの発見は、切支丹であっても、日本人である限り、信仰を続けるためには何か目に見える崇敬の対象が欲しいということ。私は先日、東京国立博物館で春日大社の展覧会を見ており、いずれ記事もアップするが、その展覧会で感じたものと同じものがここにはある。フェレイラの語るように、西欧諸国によって植民地化されたアジアのほかの国々と異なり、日本はまるで沼であって、そこに植物が根を張るのは極めて困難であるのだ。そのことをこの映画が皮膚感覚を持って描いているかというと、残念ながら私にはそうは思えない。もっともっと宣教師の内面に迫り、切支丹たちの複雑な思いに迫って欲しかった。いや、もちろんそうは言っても、このようなシーンには私も心動かされたのであるが。
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我々日本人が神仏に期待するのは何であろうか。この国では、自然そのものが信仰の対象となる。そこでは、神はそもそも最初から沈黙しているのではないか。この映画の中で神の沈黙を問いかけるのが、日本人ではなく、ポルトガル人であることに注目しよう。聞こえない声に耳を傾けるのは日本人の習性だ。そして忍耐強く、残酷な境遇にも忍従するのである。イエズス会が危機感に駆られて日本に派遣した宣教師たちは、そのような日本人を見てどのように思ったであろうか。彼我間の隔たりゆえ、理解できないものがある一方で、この国の持つ揺るぎない独自性もきっと理解したに違いない。その衝撃をこそ、この映画では描いて欲しかった。というわけで、私と家人の議論は延々続いて行くのである。

by yokohama7474 | 2017-02-09 23:47 | 映画