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大阪 四天王寺

前の記事で採り上げた通り、ある週末、大阪市立美術館で仏像の展覧会を見たのだが、その前に久しぶりに四天王寺に行ってみようと思い立った。言うまでもなく、天王寺という駅のいわれとなった寺であるが、その由来は大変に古い。西暦 593年、聖徳太子によって建立されたと伝えられる日本最初の仏教寺院のひとつ。蘇我馬子と組んで仏教導入に積極的であった太子が、反仏教派であった物部守屋との戦いにおいて、自ら四天王像を刻み、勝利させてくれたら寺を造ってお祀りしますと念じたところ、戦いに勝利し、そうして建立されたのが四天王を祀るこの寺であると伝わっている。だが、例えば法隆寺とは異なり、その長い歴史の中で堂塔はことごとく灰燼に帰し、現在の伽藍は昭和の時代のもので、鉄筋コンクリート製。その点、幼少の頃から寺回りに情熱を傾ける妙なガキだった私としても、この寺に対する思いは複雑で、古いものこそを見たいという思いが強かった若い頃には、必ずしも頻繁に訪れたい場所ではなかったというのが正直なところだ。だが、私も既に苦み走った 50代。歴史の見方や場所の持っている特性、それを生み出す人間の様々な思いというものに少しは理解が及ぶようになり、必ずしも古い建物が残っていない場合でも、文化的な何かを感じることができることがあると、今は知っている。だから、何かに突き動かされるようにして、久しぶりの四天王寺訪問となった。天王寺駅からは歩いて 10分少々だが、参道にはこのような鮮やかな表示が。
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やがて辿り着いた四天王寺には、重要文化財に指定されている江戸時代の石鳥居が立っていて意表をつくが、そこには堂々と「大日本仏教最初四天王寺」という石碑もあって、ここが本当に、日本に仏教がもたらされた頃から連綿と続いている場所であることを実感するのである。神仏混淆は日本人の自然な信仰のかたちであり、現在でも鳥居が立っていることから、このお寺が多くの人たちの信仰を長くに亘って集めてきたことが分かろうというものだ。
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本来寺院というものは南側が正面で、そちらから入るのが正式なのであるが (従ってメインの入り口は南大門なのであるが)、まぁどうしても人や交通の流れというものがあり、ここでは西側から入ることをお許し頂こう。西門は松下幸之助の寄進になるもので、中には仁王像はなく、壁画が描かれている。このあたりも、若い頃は新しいものに文化財的価値はないと紋切型で考えていた私にとって、今見ると新たな思いを抱く点なのだ。連綿と続いてきた四天王寺の信仰を、大阪出身の成功した財界人が支えたことは、将来また違った価値を生むことだろう。西という方角は極楽浄土のある方角であり、この西門は、浄土に続く門として信仰されてきたのである。
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そして見えてきた伽藍。空が青くて気持ちいいですなぁ。
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よく高校の日本史で、○○寺式伽藍という図が載っていて、その中で四天王寺式は、門、塔、金堂、講堂が南北に一直線に並ぶものであると習った。実際のところ、そんなことを知っていようがいまいが、日常生活には関係ないのであるが (笑)、日本の寺院に興味のある向きには、もともと釈迦の骨を祀る役割を担った塔の重要度よりも、仏事を執り行う中心的な場所である金堂の重要度が増して行ったことは覚えておいた方がよい。但し、○○寺式と言って古代の寺の名前をつけられていても、現存する古代の伽藍は法隆寺だけだし、あとは薬師寺がかろうじて、東塔以外の建物の再建によって伽藍の様相を維持しているくらいだ。その点、すべて再建であるが、ここ四天王寺では、古代の伽藍が維持されているのだ。それこそ、連綿と続く信仰の力でなくて何であろう。これが現在の四天王寺の境内図だが、下の方に主要建物が南北一直線に並んでいるのが分かる。因みに上の写真は、上述の通り西からのアプローチによるもので、右に五重塔、左に金堂という配置になる。
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ところが残念なことに、現在金堂は改修中。なんでも、2022年の聖徳太子没後 1400年に向けて耐震工事中とのこと。尊い法灯を未来につないで行くため、必要なことであるので、ここは残念などとは言わず、またの機会を楽しみにしよう。
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この金堂の本尊は、巨大な救世観音 (ぐぜかんのん) 半跏像であるが、今回は拝観できず、やはり正直なところ(笑)残念だ。飛鳥仏に似せて作られているが、今回調べて分かったことには、昭和の大彫刻家、平櫛田中 (ひらぐし でんちゅう、1872 - 1979) の指導によって作られたらしい。そして壁画は著名な日本画家、中村岳陵 (1890 - 1969) の手になるもの。建物自体は鉄筋コンクリートであっても、永続性を考えればそのような現在の工法には意味があるし、仏像や壁画は、再建された当時の代表的な芸術家たちが動員されているという点、子供の頃には分からなかった価値なのである。またの再会の機会を期して、次は五重塔へ。この塔は靴を脱いでらせん階段を上層まで登っていけるが、展望台としての機能はない。だがせっかくなので、窓ガラス越しに、自分が歩いてきた西門を見下ろす光景を写真に収めた。
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日本の社寺建築は、戦乱や災害によって多くが失われ、再建されたりされなかったりという歴史を繰り返してきたが、この塔は創建以来実に 8代目。経済に貼ってある表記がなかなか貴重なので、以下にご紹介する。ここからはっきりと分かるのは、この寺の由緒正しい歴史が、歴代の権力者にも敬われ、また一般庶民からも慕われていたということである。そのような寺はなかなかないだろう。
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そして、回廊に面白いもの発見。回廊の天井が反射して分かりにくいが、下の説明板にある通り、これは創建当初のものかと思われる排水溝である。驚くべきことに、この寺の中心伽藍の位置は、1400年間変わっていないということになる!! 聖なる場所は、いかなる時代の変転があろうと、聖なる場所であり続けるのである。
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寺の正面に当たる南側に回ってみると、中門の仁王像も現在修復中。この仁王像も、現代日本を代表する仏師である松久宗林、朋林父子によるもの。ここでも再建時の最高の芸術家が動員されていたのである。
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中門の前に面白いもの発見。これだ。
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これは熊野権現礼拝石。熊野詣では現在でも人気だが、中世から盛んであり、京の宇治から船で淀川を下り、天満で上陸してからこの四天王寺、住吉大社というルートが熊野街道として利用された。人々はここで道中の無事を祈ったという。なるほどこの寺は、聖徳太子信仰、極楽浄土信仰に熊野信仰まで加わった、なんとも多重的な性格を持っていたことになる。そして私が次に向かった場所は、開祖聖徳太子を祀るエリア。まずは聖霊院 (しょうりょういん)。古い建築ではないが、ここは中心伽藍と異なり、鉄筋コンクリートではなく昔ながらの木造なのである。連綿と続いてきた太子信仰が息づいている、なんとも敬虔な気持ちになる場所だ。
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その奥には法隆寺の夢殿を思わせる建物があって、奥殿と名付けられている。堂そのものは夢殿のような八角円堂ではなく、完全な円形をしているが、これもよい雰囲気だ。
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その奥にある絵堂というお堂は、通常は毎月 22日にしか開けないが、ちょうど今特別開扉中である (あっ、期限は今日、4月30日までだ!!) 内部には、これも署名な画家、杉本健吉 (1905 - 2004) の手になる聖徳太子の生涯を描いた壁画がある。私のもらって来たチラシの写真を掲載しておく。狭い空間だが、杉本の自由な筆致がなかなかに詩的である。
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ここ四天王寺には江戸時代に七不思議というものがあったらしく、そのひとつは、境内にかかっていたこの小さな石造りの橋を渡ると安産になるというもの。この石、今は宝物館 (残念ながら今回は入館する時間なし) の前に置かれているが、これは実は古墳の石棺なのである。この近辺には茶臼山古墳 (昨年の大河ドラマで脚光を浴びた真田幸村が、大坂夏の陣において本陣を置いた場所) というものもあるし、四天王寺の山号 (寺院を山に見立て、必ずどの寺にも○○山という山号をつける) である荒陵山という言葉は、この寺が、もともとあった古墳を壊してできたのだと解釈する説もあるようである。なるほど、新たな聖なる場所を作るために、もともとあった聖なる場所を使用したということか。例えばパリでも同様な例があり、街の発祥である現在の聖ノートルダム寺院の場所は、キリスト教以前に存在した宗教の聖地であったそうだ。人間の聖なるものへの思いには、万国共通のものがあるということか。
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帰る前にもう一度是非立ち寄ってみたかった場所がある。それは、重要文化財に指定されている石舞台。この場所は、聖徳太子の命日である 4月22日に、太子の霊を慰めるために行われる聖霊会 (しょうりょうえ) という有名な行事の舞台となる場所。私が訪れたのは 4月23日であったので、ちょうど会の翌日ということになり、舞台上には何やらブルーシートにくるまれたものが未だ置かれている。惜しいことをした。いつかは見てみたいものである。ところで私はこの池にいる亀たちを見ると、いつも何やらほっとするのである。
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せっかくなので、重要無形民俗文化財に指定されている聖霊会の写真を拝借しよう。悠久の時を超えた深い神秘性を感じることができる。
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神秘性と言えば、日本の歴史において聖徳太子ほど神秘的で謎めいた人物もいないであろう。最近では、日本に仏教を導入し、遣隋使や十七条憲法や冠位十二階という画期的な業績をたった一人の人間が挙げたということは考えにくいとして、複数の人間の業績を合わせて単一の人格にしたのだろうという説も有力になってきていると聞く。学界における定説が今どうなっているか知らないが、最近の日本史の教科書から太子の名前が消えたという話も聞いたことがある (確認していないので本当か否か知らないが)。私自身、古代史には大変興味があっていろんな本を読んでいるが、聖徳太子に関するものは、もちろん梅原猛の「隠された十字架」に始まり、今、書棚を眺めながら題名だけ挙げると、「<聖徳太子>の誕生」「聖徳太子の正体」「聖徳太子は蘇我入鹿である」「聖徳太子はいなかった」「聖徳太子虚構説を排す」といった具合。また、太子が未来記という予言の書を著したという説に関する本では、「聖徳太子 四天王寺の暗号」というものも面白く読んだ。ここで様々な説に深入りするのはやめるが、人間の歴史に思いを馳せるとき、勝者による歴史記述は、敗者を貶め勝者自身を正当化するものであり、いついかなる時代にも、権力者は自己の正当化に忙しい。その一方で、純粋な信仰心や神秘的なものに対する畏敬の念 (ある場合には恐怖) は、庶民から社会の上層部まで、なんらかのかたちで存在していることも事実。従い、今でもこの四天王寺のような古い歴史のある場所では、積み重なってきた人々の思いが未だに何かを感じさせるのであろう。聖徳太子が実在の人物であろうとなかろうと、文化に興味のある人であれば、この寺の歴史から感性が刺激されることにはなんの疑いも持つ必要はない。それこそが大事なことなのだろうと思う。

と、様々なことを考えながら天王寺駅方向に歩いていると、大通り沿いにこんな小さな石碑を見つけた。
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なるほど、これも大阪の重要な歴史のひとつ。歩いていて歴史のかけらに遭遇することほど楽しいことはない。めっちゃおもろい、大阪の歴史。

by yokohama7474 | 2017-04-30 14:24 | 美術・旅行