2017年 06月 04日
山田和樹指揮 日本フィル マーラー・ツィクルス第 8回 2017年 6月 4日 Bunkamura オーチャードホール
武満徹 : 星・島 (スター・アイル)
マーラー : 交響曲第 8番変ホ長調「千人の交響曲」
このマーラー 8番という曲は、西洋音楽史上でも一、二を争う規模の巨大な作品。私はこのブログのたった 2年の短い歴史の間で既に 2回、この曲の記事を書いたので (2016年 7月 3日のハーディング / 新日本フィルの記事と、2016年 9月 9日のヤルヴィ / NHK 響の記事)、これで 3度目になる。以前も書いたことだが、この曲が平均して年一回は演奏されるようなことは恐らく、世界広しと言えども東京でしか起こらない。さて今回も、演奏前に指揮者である山田和樹のプレトークがあって、それがまた大変面白いものであった。まず冒頭は、前回の 7番のときと同じく、このマーラー・ツィクルスを続けてきたことで自分のマーラー観が変わったという率直な思いの吐露に始まった。そして、今回のツィクルスで唯一、同じ曲目で 2回の演奏会を開く (それゆえ、この記事に掲げたチラシは、ツィクルス本体とは異なり、この演奏会独自のものである) ことについて言及された。それから、前日の演奏会の途中で山田の指揮棒が客席に飛んでしまったことに触れて客席の笑いを取ったのであるが、そもそもこの曲が 2回演奏された理由 (のひとつ) はもちろん、この曲を演奏するために必要とされる資金である。そこで山田は、お金が今回のキーワードのひとつという、芸術家にあるまじき (笑) 発言をしたのだが、その話がつながったのは、この曲の後半のテキストが採られているゲーテの「ファウスト」なのである。山田いわく、今回の演奏を期として、ちょっと「ファウスト」を勉強してみたが、ここには錬金術というテーマがある。もともと金銭は、硬貨というそれ自体が価値のあるものから、紙幣という、集団がその価値を信じないと流通しないものへと発展した。だが人間の欲望は、何もないところから金を生み出すという発想に憑りつかれていたのである。そして山田の話は、ゲーテの戯曲においては錬金術の延長で人間 (ホムンクルス) までも作り出してしまうことに触れられ、その魔術を達成するのが、あろうことか、ワーグナーという名前の男であること、そのようなことは既に科学の発展の結果、現代では AI によって既に現実のものとなりつつあること、等が述べられた。このツィクルスにおける山田の語りは常に熱意のこもったもので、スタッフの人が時間がないことをリマインドしに来るのが通例であるのだが、今回は舞台下から何やら紙が差し入れられた。山田がそれを読んでいわく。「そろそろ武満のことも喋って下さい、ですって」・・・なるほど、それには意味があったのだ。今回マーラー 8番と組み合わされて演奏された武満徹の曲は、「星・島 (スター・アイル)」。これは 8分程度の短い曲で、早稲田大学の創立 100年を記念して作曲され、初演は 1982年10月21日、岩城宏之の指揮による早稲田交響楽団によって行われたのであるが、そのとき後半で演奏されたのが、ほかならぬマーラー 8番であった由。山田自身はそのことを全く知らずにこの 2曲の組み合わせを考えたらしい。うーん、芸術においては時折そのような奇妙な偶然が起こるものなのである。あ、それからもうひとつの素晴らしい偶然。この曲の冒頭はよく知られる通り、ラテン語で「ヴェニ・クレアトール」、つまり「来たれ聖霊よ」なのであるが、西洋には聖霊降臨祭 (ペンテコステ) というものがあり、毎年年に 1日だけなのであるが、今年はなんとなんと、今日なのである!! 芸術における偶然と言えば、こんな話がある。マーラーがこの曲を書いたとき、声楽が入らないオーケストラだけのパートを短くしようとしたが、どうしてもできない。そのように呻吟していると、なんとその箇所は印刷のミスで歌詞が抜け落ちており、本来は声楽のテキストが入るべき箇所であったらしい。その抜けていたテキストは、マーラーが削ろうとしてどうしても削れなかった場所にピッタリはまったという。何やら身の毛もよだつような不思議な話である。これは 15世紀に描かれた聖霊降臨祭の様子。
武満の「星・島 (スター・アイル)」は、冒頭の金管がメシアンを思わせるもの。その後打楽器を含んだ強い音響も現れるが、全体的には弦楽器を中心とした美しい曲調なのである。今回の山田と日フィルの演奏は例によって丁寧なもので、武満ワールドを見事に現出した。大曲の前座の短い曲ではあったが、洗練された美しい演奏。未だ 30代の山田の世代は、このような日本の現代音楽をこれからも演奏し続けて行くことで、貴重な日本の文化遺産を後世につないで行ってくれることだろう。実は今回、私の手元にある武満徹全集の解説を見てみると、1987年に秋山和慶がチューリヒ・トーンハレ管弦楽団を指揮したこの曲の演奏について、興味深い批評が掲載されている。
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気持ちのいい不協和音で耳をくすぐり、多少苦味のある音響世界がまれに爆発しても、ご機嫌をとるような弦の和音に包み込まれてしまう。武満にはこれよりももっとオリジナルなものがあるはずである。
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なるほど、この頃から武満は曲の個性よりも自らの感性を重視し始めたような気がする。1980年代の世界は、もう少し苦いものを武満に求めていたのか。なんとなく分かる気もする。山田の柔軟な感性はしかし、21世紀の我々には、このような武満の美しい曲が必要であることを明確に示すのである。
そして今回のメインであるマーラー 8番。私は以前から山田のマーラーを、その音響の奇抜さに驚くのではなく、ごく当たり前に違和感なく受け入れ、また表現できる世代の演奏だと考えているのだが、今回もそのような鮮やかさを持つ、実に素晴らしい演奏であった。会場のオーチャードホールは、例えばサントリーホールと異なり、舞台の後ろと左右は閉ざされた空間。ゆえに、そこに陣取った 300人以上の合唱は、恐るべき力を伴ってまっすぐに客席を襲うのである。これは歌っている人たち自身も、クラクラと眩暈を覚えるほどの音響ではなかっただろうか。冒頭からして聴き手を驚かせるこの曲の大合唱は、今回の演奏では悠揚迫らざるテンポで始まったのであるが、そこで聴かれた様々な音たちのぶつかりあいを、なんとたとえよう。聖霊の降臨とはこのようなものであったのか。驚くべきは、前半がラテン語、後半がドイツ語で歌われるこの曲を、合唱団 (武蔵野合唱団と栗友会合唱団) 全員が暗譜で歌ったことである。これはすごいことなのであるが、この大規模な合唱を自在に操る山田の指揮を見ていると、彼の持つ多くの肩書のひとつが、東京混声合唱団の音楽監督兼理事長であることに思い至るのである。いわば、曲の最初から最後まで、もちろん第 2部前半のオケだけのパートを含め、人間の声が彩る宇宙の音 (マーラー自身が夢想したもの) が壮大に鳴り響いたと言ってしまいたい。今回は指揮棒を飛ばすこともなく (笑) 全曲を振り終えた山田は、客席から既にブラヴォーの声がかかっているにもかかわらず、終演後しばらくは指揮台で立ち尽くしていた。そうだ、後半に使われたゲーテの「ファウスト」の言葉を借りれば、「時よとどまれ、おまえは実に美しい」(私の手元にある池内紀の訳から)。もちろん、東京少年少女合唱隊 (楽譜を見ながらの歌唱) や、上記でご紹介した以外の歌手、ソプラノの田崎尚美と小林沙羅、アルトの高橋華子、バリトンの小森輝彦、バスの妻屋秀和、いずれも熱演であり、中でも「おいしい役」である栄光の聖母を歌った小林沙羅の声が天から降り注ぐことで、会場全体がマーラーの理想郷を具現したのである。ただ唯一惜しむらくは、合唱団の前に位置したソリストたちの声が合唱に埋もれがちであったことであろうか。ともあれ、この童顔の指揮者の今後が本当に楽しみである。