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山田和樹指揮 日本フィル マーラー・ツィクルス第 9回 2017年 6月25日 Bunkamura オーチャードホール

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足掛け 3年に亘って開催されてきた期待の若手指揮者、山田和樹と日本フィル (通称「日フィル」) によるマーラーの交響曲の全曲演奏も、第 9回である今回が最後。演奏されたのは、以下のような曲目である。
 武満徹 : 弦楽のためのレクイエム
 マーラー : 交響曲第 9番ニ長調

クラシック音楽をよくご存じの方には、この日の曲目には死の影が色濃く浮き立っていることが見て取れよう。マーラー・ツィクルスのフィナーレは華やかなものではなく、暗い死の影と隣り合わせなのである。この日も開演前に山田が登場して (通常はすぐ演奏会に入れるように燕尾服での登場だが、今回はタイなしのスーツ姿である)、プレトークを始めたところによると、8番までは感じることのなかった「これで終わり」という寂しさを今回は感じるという。この武満の曲 (1957年作曲) はこの作曲家の出世作であり、ストラヴィンスキーらに称賛された、という有名な話が披露されたあと、ほぼ専らマーラー 9番について語られることとなった。山田によると、この曲が採用しているニ長調という調性は、音楽史を見渡しても不思議と死と縁があるとのこと。ベートーヴェンがハイリゲンシュタットの遺書を書いた頃に書いていた晴朗な交響曲第 2番がこの調性だし、ハイドンの最後の交響曲、第 104番もしかり。ニ「短」調に視野を広げると、モーツァルトのレクイエムやブルックナー 9番が入ってくると。また山田は、この曲において重要なのは第 2ヴァイオリンであるという。このシリーズにおいて前回までは、指揮者の左手、第 1ヴァイオリンの奥に第 2ヴァイオリンが陣取り、指揮者の右手にはヴィオラがいたところ、今回だけヴィオラと第 2ヴァイオリンを入れ替えて、ヴァイオリンの左右対抗配置とした。それには明確な理由があり、この曲での第 2ヴァイオリンは、モーツァルトやベートーヴェンの曲での役割のように、第 1ヴァイオリンと一緒に演奏してその演奏を支えるという役割を超え、独自の動きをして、その動きが重要だからだという。例えば第 1楽章の冒頭のテーマ (マーラーが既に前作「大地の歌」の最後で「永遠に (ドイツ語で "Ewig")」という歌詞につけた音型を流用) は、通常なら主旋律を担う第 1ヴァイオリンではなく第 2ヴァイオリンが弾くものだし、最終楽章の荘重この上ない終結部も、第 1ヴァイオリンが沈黙したあとも最後まで第 2ヴァイオリンが演奏を続けるということが説明された。もしかすると、第 1ヴァイオリンが現世なら、第 2ヴァイオリンはあの世を表しているのかもしれないとも語られた。そして山田が最後に総括して言うことには、マーラーの楽譜には細かい指示が大変多いが、だからといってどんな指揮者の演奏もそれに忠実に従うあまり、同じような演奏になるかというと、全くそうではなくて、非常に多様である。ある意味でマーラーは、多様な価値を包含する世界性を持っている音楽であり、それこそ、多様な価値観の衝突が起こりがちな現代において必要とされているものではないか、と締めくくり、ともに「戦って来た」日フィルをはじめとする本シリーズの関係者への謝意が述べられた。今回のトークは、一見いつもの通りの飄々とした語り口でありながら、あまり脱線したりジョークを絡めることもなく、この稀代の交響曲に挑む緊張感を感じさせるものであった。
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前半の「弦楽のためのレクイエム」は、文字通り弦楽器 5部からなる 10分弱の曲。当時 27歳の武満が東京交響楽団からの委嘱を受けて書かれたものである。その厳しい音楽は後年の武満の美麗さと通底しながらも反撥しあう。往々にして、暗い絶望の中で揺蕩うように演奏されるが、山田の手にかかるとそれは重苦しい音楽というよりは、様々な線の絡み合いから立ち昇り、どこまでも続いて行く音の連なりのようであり、繊細さの表現に細心の注意を払いながらも時に大胆に聴き手に迫りくる、積極的な音楽であるかのように響いたのではないか。これは小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラによる録音のジャケット。
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そしてメインのマーラー 9番こそ、この畢生の大作に若き指揮者が果敢に挑んだことの結果が大きな説得力とともに鳴り響く、充実の名演となったのである。上記でご紹介した通り、この曲における第 2ヴァイオリン・セクションの重要性は明白である。このブログでも、昨年 11月28日の記事で、マリス・ヤンソンスとバイエルン放送響による同じ曲の演奏を採り上げたが、奇しくもその記事で私は、第 2ヴァイオリンの充実を素晴らしい成果として指摘した。この曲においてマーラーが描き出した、ある意味で単純明白な要素 (死への恐怖、現世への別離) を強調するために、様々に複雑な要素が盛り込まれているというと逆説的だが、今回の山田と日フィルの演奏はその逆説性を仮借なく抉り出した。演奏時間 80分になろうかというこの曲の全体を見通してみると、恐ろしいほどの音響が渦巻く両端楽章と、諧謔味がさく裂する中間 2楽章との間の対比が重要であるところ、今回は中間の第 2・第 3楽章での山田の快刀乱麻ぶりが際立っていたからこそ、もう逃げも隠れもできないほど激しいエモーションを必要とする両端楽章が、強い説得力を持ったのであろう。例えば第 2楽章は三拍子のレントラー舞曲であるが、通常のテンポ、速いテンポ、遅いテンポという切り替えが見事で、快速な場面でのティンパニの強調も決まっていたと思う。第 3楽章ロンド・ブルレスケは、中間部のノスタルジックなトランペット以外は常に動き回る音楽であり、日フィルの技術が大変な冴えを聴かせた。翻って第 1楽章は、私の耳には冒頭が少し硬いかなという気もしたが、丁寧な第 2ヴァイオリンの演奏が陰影を紡ぎ出していたし、終楽章は出色の出来で、中間部で弦楽合奏だけで壮大になる部分では鬼気迫るものを感じた。そして、長い長い時間をかけて「死んで行く」ように終わって行く終結部。このツィクルスを最初から聴いて来た私としては、その最後の最後の音が消えて行く現場に立ち会えたことを、本当にありがたく思ったことである。

東京のマーラー受容には既に充実した歴史があるが、ここに、30代の日本人指揮者として恐らく初めて、9曲の交響曲の全曲演奏を成し遂げた山田和樹は、忙しい海外での活動の傍ら、日本でも意欲的なプログラムが今後目白押しだ。もちろん、年を経ればまた音楽が変わって行くことも充分あるであろうから、同時代に生きる者として、そのような彼の創生・深化・昇華 (今回のマーラー・ツィクルス三期それぞれのテーマ) を是非見て行きたい。ツィクルス完走、まずはお疲れ様でした!!

Commented by 吉村 at 2017-06-26 08:01 x
同感です。山田正樹、期待できますね。真摯な姿勢が感じられます。
Commented by 吉村 at 2017-06-26 23:07 x
今更ですが、昨日の9番の演奏を聴きながら、マーラーの時代には作品の中に世界観を封じ込める事に作曲家がてらいがなかったんだなあ、と思っていました。
最終楽章の冒頭に救済を感じるのは、高校生の頃読んだ解説書に天使の降臨を感じる、とか書かれていた事の影響かもしれませんが、19世紀的な教養の世界ではそれはマーラーもイメージしていたことと考えてもおかしくないと思います(彼が信心深かったとは思えませんが)。
トーマス・マンにも通じることですが、作者が価値観について明確に示すことをためらわない時代だったんだと思います。私自身はこの9番的な世界を周りに気づく事でかなり救われて来たと思っています。
小説でも手法が大事になってくると同じように音楽でも表現手法の意味とか作者の意思の介在が議論されるようになると、通俗的でないかたちでの表現との両立が困難になってきますが。
それは多分に、武満徹的な世界が登場する所以ですが、それでもクラシック音楽のレパートリーが相変わらず20世紀初頭のもので占められるのも、受容するサイドの好みとの相性が強いからかな、と考えていました。
Commented by yokohama7474 at 2017-06-27 22:52
> 吉村さん
おっしゃる通りですね。私が本文に書いた通り、マーラー 9番において支配的な雰囲気は死への恐れと現世への別離であり (もちろん、死への憧れという要素もあって、それが未完成の 10番ではさらに遠い世界に行くはずだったのでしょうが)、それは深い感情ではあっても、ある種単純に表記できるものですよね。ところがマーラー以降の音楽は、どんどんその種の明確な感情表現から遠ざかって行ってしまいます。ただ、昨今はまた情緒回帰の現代音楽も増えて来ているし、東京のように何でも聴くことができる都市に住む我々は、多くの選択肢を楽しむ特権を持っているわけだと思います。なので、いろんな音楽をご一緒に楽しみましょう!!
by yokohama7474 | 2017-06-25 21:55 | 音楽 (Live) | Comments(3)