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ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 2017年 7月16日 ミューザ川崎シンフォニーホール

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マーラーの大作、交響曲第 2番「復活」は、大変ポピュラーな名曲ではあるものの、演奏には一筋縄では行かないエネルギーを必要とするため、そう滅多に演奏されるものではない・・・東京を除いては。というのも、今週から来週にかけて、世界最高クラスの指揮者が 2人、別々の東京のオーケストラを指揮してこの曲を演奏するからだ。ひとつはここでご紹介するジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団 (通称「東響」)。もうひとつは、チョン・ミョンフン指揮の東京フィルである。そしてそこに加えて、この「復活」の第 1楽章の原型となった交響詩「葬礼」もこの時期に演奏されるという賑やかさ。その演奏は現代におけるマーラー演奏の権威であるエリアフ・インバル指揮の東京都交響楽団によるものだ。最近の東京は 7月半ばにして既に 35度を超える猛暑日になっていて、必ずしもこのような熱い大曲を聴くには適当な気象状況とは思えないが、逆に言うと、外気の暑さも吹っ飛ぶような熱演に触れたいものである。まずは期待のジョナサン・ノット指揮の東響の演奏会をここでご紹介しよう。ノットは東響の音楽監督で、現在 54歳の世界的指揮者である。
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普段とは趣向を変えて、まずはコンサート終了時の光景の描写から始めよう。若きマーラーが描き出した、とてつもない高揚感を持つ音絵巻を指揮し終えたノットは、しばし指揮台に立ち尽くしていた。その背中は、両端が肩の線を外れて、まるで無造作に脱ぎかかっているかのようなシワシワの燕尾服に、汗がびっしょり。そうして起こった爆発的な拍手に、放心状態のノットがようやく反応する。2人のソリストの歌手たちもノットの渾身の演奏に賛辞を捧げ、挨拶に登場した合唱指揮者も心なしか目が赤くなっている。そしてノットは、普段しないことを始めた。オケの中に入って行って、木管や金管の奏者を個別に立たせて拍手を受けさせたのである。世界最高クラスの指揮者が本気になって凄まじい音響を統率した、素晴らしいクライマックスであった。

ではここで曲目を紹介しよう。
 細川俊夫 : 嘆き
 マーラー : 交響曲第 2番ハ短調「復活」

なるほど、ノットが「復活」の前に演奏することを選んだのは、現代日本を代表する作曲家、細川俊夫の最近の作品である。現代音楽を得意とするノットらしい選曲だ。細川についてはこのブログでも何度も触れてきているが、静謐で、時に暗い情念を感じさせる音楽を書く人で、管弦楽曲を多く作曲している。この「嘆き」という作品は、ザルツブルク音楽祭の委嘱で作曲され、2013年 8月、シャルル・デュトワ指揮 NHK 交響楽団のザルツブルクでの演奏会で世界初演された。だがその時はソプラノとオーケストラのための作品。その後音域を下げてメゾ・ソプラノ独唱用に書き直された版が作成され、2015年 5月に広上淳一指揮京都市交響楽団によって初演された。今回演奏されたのは、そのメゾ・ソプラノ版であり、ここで独唱を受け持ったのは、日本が世界に誇るメゾ、藤村実穂子であったのだ。藤村は上記の京都市交響楽団による初演時にも歌っており、これはその再演ということになる。
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この曲の内容は決して楽しいものではなく、2011年の東日本大震災の津波による犠牲者に捧げられたもの。歌詞はザルツブルク出身の詩人、ゲオルク・トラークル (1887 - 1914) によるドイツ語である。このトラークルについて私は詳しく知るものではないが、解説によると、表現主義に属する詩人。第一次世界大戦に薬剤師官として従軍したものの、戦場で目にした惨状に絶望し、27歳で自ら命を絶った。これがトラークルの肖像。確かに神経が細い人のように見える。
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この「嘆き」で使われているテキストは、トラークル最晩年 (といっても年齢は若かったわけであるが) の作で、手紙と詩からなっている。プログラムに掲載されているその内容は、ひたすら絶望的。まさに未曾有の災害における津波の犠牲者の悲劇を思わせるものである。この曲は 20分強の長さであるが、オケによる前奏、中奏、後奏の間に、2回歌が入る。細川特有の弦楽器のキュルキュルいう音や、金管楽器が音を出さずに息だけ吐くという奏法もあり、音響的には暗いながらも多彩さがある。開始部と終結部では、風鈴のような鐘の音がある種の日本的情緒を思わせる。ここでノットと東響は、非常に分離のよい音で緊張感を持って全曲を演奏したが、やはり圧巻は藤村の歌唱であろう。呟くような静かな箇所から絶叫に至るまで、まるで一本の線を描くような、破綻の全くない歌いぶりで、さすがの貫禄であった。この曲は今後も彼女のオハコになるかもしれない。作曲者細川は、2階客席から熱演に拍手を送っていた。細川さんはこんな人。小柄な人である。
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さて、メインの「復活」である。上で終演時の熱狂をご紹介したが、それに値する熱演であったことは間違いない。だが、正直なところ、前半においてはこのコンビであればもっとできるような気がしたのも事実。冒頭の稲妻のような弦楽器の切り込みに続いて低弦が長い歌を唸るところでは、少しテンポが落ち着かず、オケに乱れが生じていたし、その後も木管の緊密さに若干の課題を残したように思う。なので、私としては第 1楽章はもうひとつだと思ったのである。ところでこの曲は、第 1楽章終了時に最低 5分間、休憩を取れとの作曲者の指示がある。それは、第 1楽章の描き出す壮絶な闘争の世界と、その後の楽章で描かれる音楽的な情景が異なるからであろうが、ここでノットは、合唱団 (東響コーラス) も独唱者 (ソプラノの天羽明惠とメゾの藤村) もステージに入れることなく第 1楽章を演奏し、第 1楽章と第 2楽章の間に、合唱・独唱全員が登場するという段取りを取った。これによって作曲者の指示に忠実な、楽章間の断絶が生まれることとなり、実際、その後演奏された第 2楽章アンダンテ・モデラートは、ユーモアをたたえたなんとも言えないよい味の演奏になったのである。尚、独唱者たちは指揮者の横でも合唱団の前でもなく、指揮者右手に配置された第 2ヴァイオリンの奥に陣取るという珍しい配置。また、終楽章では合唱団は大詰めまで起立することなく座ったまま歌い、最初にソプラノが登場するときにも、天羽は座ったままの歌唱であった。この 2人のソリストはさすがの出来であり、第 4楽章以降の演奏全体にインスピレーションを与えたと言ってもよいと思う。ノットの指揮はテンポを揺らすことはほとんどなかったが、唯一終楽章の盛り上がりで若干テンポを落としたと聴いたが、その時オケは一瞬分解しそうになって踏みとどまり、それから先、大団円では演奏者全員一丸となった炎の演奏を成し遂げることとなったのである。

このように、最初から最後まで完璧な出来というわけではなかったが、この曲ならではの凄まじい高揚感を存分に味わうことのできる演奏であって、私の隣の席の女性などは、メガネを外して涙を拭いていた。聴衆をしてそのような感動を抱かせる演奏は実に素晴らしいし、細部がどうのこうのとあげつらう意味はないだろう。熱演に拍手を送りたい。ノットと東響はこれからも意欲的かつバランスの取れたプログラムを予定していて、本当に目が離せない。彼らの本拠地であるミューザ川崎の音響は実に素晴らしいし、このような音楽体験を続けて行ける我々はなんと恵まれたことか。ニューヨークでもロンドンでもパリでもどこでもよい。マーラーの「復活」を立て続けに、しかも一流の演奏陣で聴くことができる都市が、ほかにあるだろうか。東京を覆う熱波は、もしかして音楽界の熱気によるものか? などとうそぶくのも楽しいではないか。

by yokohama7474 | 2017-07-17 00:21 | 音楽 (Live)