人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ピーター・ゼルキン ピアノ・リサイタル 2017年 8月 1日 すみだトリフォニーホール

ピーター・ゼルキン ピアノ・リサイタル 2017年 8月 1日 すみだトリフォニーホール_e0345320_22185828.jpg
ピーター・ゼルキンは 1947年生まれ、今年 70歳になる米国のピアニスト。一般的な知名度はもしかしたらさほど高くないかもしれないが、クラシックの世界では、あるビッグネームとの関連で、非常に有名である。そもそも米国人で Serkin と綴る名前を、日本ではなぜに「ザーキン」または「サーキン」と呼ばすに「ゼルキン」とドイツ語風に発音するのか。しかも、ファーストネームはドイツ語風の「ペーター」ではなく英語の「ピーター」なのである。つまり、苗字のみドイツ語風なのであるが、それはつまり、「ゼルキン」とはこの人の苗字であるからだろう。
ピーター・ゼルキン ピアノ・リサイタル 2017年 8月 1日 すみだトリフォニーホール_e0345320_23082548.jpg
ここで若き日の小澤征爾と映っているお爺さんは、20世紀を代表する大ピアニストの一人で、ピーター・ゼルキンの父、ルドルフ・ゼルキン (1903 - 1991) だ。私はこの人の実演を聴くことはついに能わなかったが、録音では素晴らしいモーツァルトやベートーヴェンやシューベルトを聴いて、大変な感動を何度も受けている。つまり父ゼルキンは正統的なドイツ音楽を得意とする巨匠ピアニストとして、88歳の生涯をまっとうしたわけである。それゆえであろうか、息子ピーターは、父とはまるで対照的な、70年代のヒッピー文化の中で名を上げるというキャリアを築いたのである。特によく知られているのは、ヴァイオリンのアイダ・カヴァフィアン、チェロのフレッド・シェリー、そしてクラリネットの天才リチャード・ストルツマンとともに、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」を演奏するために結成されたグループ、タッシであろう。当時の写真に見るそのタッシの面々は、このような人たち。前列右側が、当時未だ 20代であったはずのピーターである。尚、ピーターを日本に紹介したのは武満徹である。
ピーター・ゼルキン ピアノ・リサイタル 2017年 8月 1日 すみだトリフォニーホール_e0345320_23294970.jpg
このように、もともとピーター・ゼルキンが音楽の世界でその存在感を知らしめたのは、「あの巨匠の息子」というレッテルに反抗するかのような 70年代のヒッピー風のいでたちであり、現代音楽への取り組みであったわけである。かく言う私自身も、ピーター・ゼルキンというピアニストについて、この時代の活動以降、それほどに注意を払ってきたわけではないことは白状しよう。もちろん、小澤征爾がボストン響で武満の「カトレーン」を演奏・録音したときにタッシと共演したことや、さらに後年ベルリン・フィルを指揮して珍しいマックス・レーガーのピアノ協奏曲でピーターと共演したのは、私の記憶が正しければ、父ルドルフの生前の小澤への依頼であったことを知っているし、その小澤とピーターとの共演は、東京でのベートーヴェンの合唱幻想曲で、生で体験した。そんな流れであるから、2011年のサイトウ・キネン・フェスティバル松本 (当時) で、このような写真が撮られていても驚かない。そう、ピーターの左右にいるのは、小澤征良と武満真樹である。
ピーター・ゼルキン ピアノ・リサイタル 2017年 8月 1日 すみだトリフォニーホール_e0345320_23515770.jpg
私は今、ピーター・ゼルキンというピアニストについて語る中で、演奏の紹介に入る前にかなり寄り道をしているのだが、その理由は、私がもともとピーター・ゼルキンに対して持っていたイメージが、彼独特の個性を明確に示しながらも、今や既に過去のものであることを言いたいからなのである。上に書いた小澤とのベートーヴェン (ちなみにそれを聴いたのは、小澤の生誕 60年記念演奏会だったから、既に 20年以上前) で既に、ドイツの古典を正統的かつ真摯に弾きこなすピーターを目撃していた。そして今回、初めて彼のリサイタルに足を運びたいと思ったのは、その曲目である。
 モーツァルト : アダージョ ロ短調K.540
 モーツァルト : ピアノ・ソナタ第 17 (16) 番変ロ長調K.570
 バッハ : ゴルトベルク変奏曲BWV.988

ここには武満もメシアンもない。父ゼルキンが得意としたようなドイツ・オーストリア系の音楽の、しかも深い内容を持つ曲ばかり。ここに今のピーターの真骨頂が発揮されるだろうと期待された。そしてその期待は、実に見事なかたちで満たされたのである。正直なところ、このようなコンサートについては、あまり詳細を語る気がしない。たったひとりで舞台に立ち、ただ鍵盤を見ながら黙々と演奏を続けるピアニストの孤独を強く感じさせると同時に、背筋がピンと伸びるような、生きる勇気を与えてくれるような、そんな音楽の創造の現場に立ち会えることは、そうそうあるものではない、という感慨を持った。メガネに、きれいに分けられた髪、茶色の三つ揃いに白いワイシャツ、赤いネクタイにポケットチーフという、オシャレな銀行マンのようないでたちの彼、巨匠のかつての放蕩息子は、今や淡々と繰り広げられる彼自身の世界の表現によって、多くの人々を感動させることのできる素晴らしい芸術家なのである。いや、そんなことは既に何年も前からの状況であって、それに実感を持って接する機会のなかった私の方が無知なだけなのだ。
ピーター・ゼルキン ピアノ・リサイタル 2017年 8月 1日 すみだトリフォニーホール_e0345320_00241253.jpg
前半のモーツァルトはいずれも晩年の作 (なお、ソナタのナンバリングは旧モーツァルト全集によるとこの曲は 16番だが、新全集では 17番である)。なんという深い孤独感。なんという透明な抒情。ピーターのタッチに父ルドルフを思い出すところはないこともないが、やはりもっと現代的に洗練されている。また、例えばブレンデルのような極限の粒立ちのよさとも違うし、内田光子の底光りのする輝きとも違い、もちろんバリバリの若手の勢いとも違う。それは、過去半世紀に亘って演奏活動を続け、世界の変動を目撃し、世界を変える試みに参加して来た芸術家の、高い境地を感じさせるものだ。

後半のバッハの「ゴルトベルク変奏曲」は、言わずとしれた鍵盤楽曲の最大の傑作のひとつだが、誰もが知るグレン・グールドの最初の録音と最後の録音があまりにも異彩を放っているため、私などは、ほかのどのピアニスト / チェンバリストで聴いても、どうももう一歩のめり込めない感がある。だが今日のピーターの演奏は、やはり淡々としながらも、曲の無類の面白さを改めて味わうことのできる名演であった。もちろん技術的に破綻はないが、かといって超絶技巧と思わせるところもない。ただ、今ここで目まぐるしく曲想の変わる音楽が鳴り響いていることの感動を覚える、そんな演奏であった。ピーターは、グールドばりのとは言わないが (笑)、時折低い唸りを上げながら、着実な足取りの音楽的な旅を続けたと表現すればよいだろうか。最後のアリアの演奏を終えたピーターは数十秒間静止をし、永遠のように思われた沈黙を破って会場に拍手が沸き起こり始めたときには、ホールを埋めた聴衆たちの心に、間違いなく温かいものが流れていたはず。それゆえ、ブラヴォーの声は出ないが、いかにも静かな感動が場内を伝わって行ったのである。こんなコンサートには当然ながらアンコールなどない。素晴らしいコンサートであった。

実はプログラムで初めて知ったことには、ピーター・ゼルキンの録音デビューは、現代音楽でもなんでもなく、なんと 1965年、18歳のときの「ゴルトベルク変奏曲」で、それはその年のグラミー賞最優秀新人賞を受賞したとのこと。その後彼は、1986年、1994年とこの曲を録音し、4度目の録音も最近済ませたらしい。つまりこのピアニストは、キャリアの最初からヒッピー姿による前衛の闘士ではなく、もともとバッハの稀代の名作で世に出て、それを非常に大事にしてきたということだ。ここでもそれを知らなかった自らの無知を恥じるのみだが、それでも、今回の演奏会を経験した私には、物事を新たに見る目がひとつ増えたと思う。そうそう、プログラムに記載されているもうひとつの面白い情報は、父ルドルフ・ゼルキンの「ゴルトベルク変奏曲」とのかかわりだ。そういえば、ルドルフのバッハとは、聴いた記憶がない。だが彼は、録音こそ残さなかったものの、この「ゴルトベルク」を愛奏し、1921年 (ということはルドルフ 18歳。ちょうど息子ピーターがこの曲でレコードデビューした年だ) にベルリンで、なんとこの曲を全曲アンコールとして弾いたというのだ!! この「ゴルトベルク」は、反復指示をどの程度実行するかにもよるが、グールドの超快速演奏でも 45分、普通は 1時間ほどかかる曲。それをアンコールで弾いたとは、なんとも恐れ入る話なのだが、狂乱の 20年代ベルリンでは、そんなこともあったのだ。

ところで、せっかくなのでこの素晴らしいピアニスト 2代が一緒に映っている写真はないものか探してみると、ありましたありました。ピーター坊や、ちょっと微妙に陰のある表情ですなぁ。
ピーター・ゼルキン ピアノ・リサイタル 2017年 8月 1日 すみだトリフォニーホール_e0345320_00452758.jpg
また YouTube には、1988年に親子でシューベルトの行進曲ト長調作品52-2 を連弾した映像もある。あまり面白い曲ではないが、貴重な映像であることは間違いない。
偉大な音楽家の息子が必ずしも偉大な音楽家になると決まったわけではない。むしろ、父が偉大であればあるほど、息子にかかるプレッシャーは大きいだろう。今 70歳になった息子ピーターの音楽を聴いて、偉大なる系譜に敬意を表するとともに、現代を生きる我々としては、このような現生の優れたアーティストからもらえる恩恵を、心から楽しみたいものだと思う。

by yokohama7474 | 2017-08-02 00:52 | 音楽 (Live)